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2021年4月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校

2021年4月3日、コンターサークルS春の旅の初日は、長野県佐久地方が舞台だ。明治維新前後に造られ、当時の人々の西洋文化に対する強い好奇心が窺える建築物を二つ訪問することにしている。

一つ目は、信州の五稜郭である龍岡城(たつおかじょう)。誰もが知る函館の五稜郭と同じ星形の稜堡(りょうほ、下注)を巡らし、特徴的な輪郭は地形図にもはっきりと描かれている。もう一つは旧中込(なかごみ)学校。松本の旧開智学校とともに、信州に残る代表的な擬洋風の学校建築だ。

*注 稜堡とは、城郭や要塞の外側に突き出した角の部分のこと。これを備えた城郭(堡塁)の形式を稜堡式城郭という。

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龍岡城(画面左)とその周辺を展望台から俯瞰
遠方の山並みは八ヶ岳連峰
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青空に白壁が映える旧中込学校
 
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今回の訪問地周辺の1:200,000地勢図
(昭和56年編集図に新幹線、高速道路を加筆)
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
 

今年は春の訪れがいつになく早い。信州も例外ではなく、朝早起きして見に行った上田城では、桜がもう満開で、深いお濠の上にしなだれかかる薄紅の花霞を心行くまで愛でることができた。その後、しなの鉄道とJR小海線を乗り継いで、集合場所へと向かう。

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上田城址の桜
 

10時48分、気動車キハ110形から最寄りの龍岡城駅に降りたったのは、中西、大出、森さんと私の4名。風が強いものの、柔らかな日差しが降り注ぎ、まずまずの歩き日和だ。

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JR龍岡城駅
待合所はなまこ壁の屋敷風
 

最初は城を高みから見下ろして、日本に2か所しかない珍しい形を確かめたい。函館には展望タワーがあるが、こちらも、近くの山にその代わりになる展望台がある。地形図に注記はないものの、グーグルマップも参照すると、北側の山にある881.5m三角点付近のようだ。「村から直登する徒歩道はいかにもきつそうなので、行きは北斜面をZ字状に上っていく林道にしましょう」と皆を誘った。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

住宅街を抜けて山にとりつき、草生した道を行く。小さな尾根を越えると、いったん舗装道に出るが、まもなく右に分岐する林道が現れた。親切にも「五稜郭展望台」と矢印のついた道標が立てられているので、迷う心配はない。

まだ冬の装いの林が足元に影を落とす中を、しばらく上っていく。主尾根にとりついた辺りで、また分かれ道を示す道標があった。この後は、人ひとり通れるだけの小道で、木立の間を少し降りると展望台に行き着いた。

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展望台への道
(左)整備された道標
(右)最後の一区間は登山道
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五稜郭展望台
 

眼下に、雨川(あまかわ)の流れる平たい谷が横たわる。村の家並に囲まれて、五角形をした城址が見える。その奥の平地は千曲川本流の谷筋で、背景には霞がかっているが、蓼科山から八ヶ岳にかけての山並みが延びる。想像していた以上の眺めだ(冒頭写真参照)。「写真では小さく写ってましたが、実物の城はけっこう大きいですね」と森さん。確かに周囲の民家と比べることで、そのスケールが実感できる。

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展望台から望む龍岡城
特徴的な稜堡が見える
 

五つある稜堡のうち、ここから確認できるのは四つまでだ。南側の一つは、前後二列に並んだ長い建物の陰に隠れている。城内は佐久市立田口小学校の校地になっていて、建物はその校舎だ。校庭の周りに濠が巡っているとは、なんと豪勢な学校だろう。お濠端には桜の木が植わっているが、見渡しても咲いているのは1、2本しかない。標高450m前後の上田城に対して、龍岡城は720mほどあるから、春はまだこれからだ。

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城内から展望台方向の眺め
山稜中央の針葉樹林の隙間に展望台がある
 

パノラマを満喫したところで、下界へ降りる。標識に従って、さっきの林道から左に折れた。地形図上の等高線の込み具合から覚悟はしていたが、ほんとうに転げ落ちそうな急斜面だった。しかも落ち葉が厚く散り敷いて、滑りやすい。慎重に足を運びながら、村里に到達した。

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急斜面を下りて村里へ
 

城跡の手前にある資料館「五稜郭であいの館」に立ち寄り、城の予備知識を仕入れる。

城主は、松平乗謨(まつだいら のりかた)という人物だ。三河国額田(ぬかた)郡奥殿(現 愛知県岡崎市)に本領を構えていたが、山あいで手狭なため、より広い領地のあった信濃国佐久郡の当地に移転を願い出て許された。幼少のころから聡明で、洋学を志し、蘭学やフランス語を学んでいた彼は、攘夷の機運高まる中、洋式の築城技術に基づく居城の造営に踏み出す。城と言っても、家格からして実際には陣屋で、天守閣のような防備施設は持っていない。1867(慶応3)年に竣工祝いを執り行ったが、建物の多くはまだ瓦が載らず板葺きのままだったらしい。そして、早くも1873(明治6)年には取り壊しに遭っている。

展示を見ていた中西さんがつぶやく。「竣工が明治維新の前年では、城の役割を果たす時間はなかったことになりますね」「防御用というよりむしろ、洋風の邸宅を造りたかったんじゃないかな」と私。

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空から見た龍岡城
(五稜郭であいの館の展示パネルを撮影)
 

ヨーロッパでヴォーバン式と呼ばれるこうした多角形の要塞は、防御の際の死角をなくす巧妙な構造だが、それは広い平地にあってこそ効果を発揮するものだ。さっき展望台で気づいたが、山上からは城内がまる見えで、射程距離の長い大砲で攻撃されたら、ひとたまりもなかっただろう。

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龍岡城(左)と函館・五稜郭を1:25,000地形図で比較
前者は後者に比べ差し渡しで1/2、面積では1/5ほどのサイズ
また、山に挟まれ、防御には向いていない
 

であいの館を出て、濠に架かる木橋を渡る。ここは、かつて大手門があった場所だ。現役の小学校なのでふだんは立ち入れないらしいが、今日は春休みの土曜日、校庭には風が吹き通るばかりで人影もない。正面に、グラウンドを隔てて本校舎が建つ。その右にある大きな切妻造の建物は、資料館でもらった資料によると御殿の一部で、御台所の遺構だそうだ。校舎に再利用されたことで、唯一城内に残ったという(ただし場所は移されている)。

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大手門への木橋
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城内の小学校
右は御台所の遺構
 

昼食をとった後は、城の周囲を歩いた。土塁を載せる石垣は、場所によって積み方に粗密の差がある。緻密に組まれた部分は見た目にも美しく、従事した職人の技術力を感じさせる。一方、7.3~9.1mの幅があるという周濠は、西側と南側を欠いている。工期や資金面の問題もあっただろうが、地形的に見れば、西側は下流で高低差が生じるし、南側は雨川の氾濫原に接している。それらを天然の要害と見なすなら、整備の優先度はおのずと低かったはずだ。

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複雑に屈曲する濠
石積みには粗密の差がある
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濠のない部分
(左)西側は自然の高低差
(右)南側は氾濫原に接する
 

訪問を終えて駅へ戻る間、城のお膝元だった痕跡をいくつか見かけた。山際に立派な伽藍を構えたお寺(大梁山蕃松院)があり、街道筋には入口を固める桝形が保存されていた。鄙びた中にもどこかしらゆかしさが漂う山里だった。

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展望台の山裾に伽藍を構える大梁山蕃松院
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桝形跡
 

再び小海線の列車に乗り、3駅目の滑津(なめづ)駅で降りる。次の目的地の旧中込学校へは、住宅街を歩いてものの5分ほどだ。建物は県道小諸中込線に面した公園の一角にあり、管理事務所で観覧料(260円)を払って、自由に見学できる。

建物は2階建て、寄棟造りの擬洋風木造建築で、1969(昭和44)年に重要文化財に指定されている。正面に車寄せ風のポーチ、2階にバルコニーを備えた瀟洒な外観が印象的だ。

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旧中込学校正面
 

観音開きの扉を押して中に入ると玄関土間で、ざら板、げた箱と、子どものころに見覚えのある小道具が揃っている。ところが、中央廊下の突き当りに、扉の欄間に嵌る虹色のステンドグラスが見えて、くすんだ校舎の印象は一変するのだ。ガラス窓を通して入ってくる原色の外光に、当時の村人たちもさぞ驚いたことだろう。

間取りは珍しく縦長だ。1階は講堂と大教室(教場)を広く取り、2階は壁で小教室や校長室、教員室に区切られている。2階廊下の奥にも、意表を突くステンドグラスの丸窓がある。塔内部の太鼓楼やバルコニーも見どころだが、残念ながら扉が閉ざされ、立ち入れない。

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1階
(左)中央廊下から見る玄関
(右)講堂と足踏みオルガン
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2階は壁で小部屋に区切る
突き当りにはステンドグラスの丸窓
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

旧中込学校が竣工したのは1875(明治8)年、旧体制の徒花(あだばな)のような龍岡城からわずか8年後のことだ。封建時代の記憶がまだ残る一寒村に、このような「ハイカラ」な学校が突如出現したのには、特別な理由があったに違いない。

その解説が、管理棟に隣接する資料館の展示パネルに記されていた。それによると、一つには、新時代の方向性を理解する地元の有力者が発議して、村民を啓蒙したこと。二つには、洋行帰りの設計者を迎えたこと。三つには、当地は内山峠で官営製糸場のあった群馬県富岡に通じており、派遣された女工などから最新事情が伝わっていたことが挙げられるという。さらに、佐久平は米作地帯で、経済的な余裕から向学心が強く、国や県も洋風学校の設立を奨励するなど、構想を後押しする土壌があったようだ。

館を辞した後、公園に静態保存されている小海線ゆかりの旧車2両を見学した。戦前戦後にわたり活躍し、「高原のポニー」と呼ばれたC56形の101号機と、佐久鉄道時代の1930(昭和5)年に投入され、その後三岐鉄道、別府(べふ)鉄道に転籍したガソリンカー キホハニ56だ。

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小海線ゆかりの旧車両
(左)高原のポニー C56 101
(右)佐久鉄道時代のガソリンカー
 

展示場所はフェンスが廻らされ、施錠されているが、管理事務所に申し出ると開けてくれる。とりわけガソリンカーは貴重だ。外観は塗装の褪色が目立つが、内部は座席や運転台を含めて美しく保たれていて、そのままローカル線の旅に出かけられそうだった。

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ガソリンカーの車内
(左)簡素な運転台
(右)美しく保たれたロングシート
 

勢いを駆って駅北方の鉄橋へ行き、現代の小海線のプチ撮り鉄も敢行した。青空のもと、浅間山と桜を背にして、2両編成のキハ110形がさっそうと川を渡っていく。しかし省みれば、歴史旅行で完結させるつもりが、結局鉄道趣味が勝ってしまったような…。

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滑津川を渡るキハ110形
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和56年編集)および地理院地図を使用したものである。

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