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2021年4月

2021年4月28日 (水)

コンターサークル地図の旅-上田丸子電鉄西丸子線跡

長野県内でも上田周辺は、私鉄路線網の密度が特に高かった地域といっていいだろう。後掲の地図は1959(昭和34)年修正の20万分の1地勢図「長野」の一部だが、中央にある上田市街地から、四方八方に一条線の鉄道記号が延びているのが見て取れる(下注)。

*注 これに加えて、戦前には松本街道の上を青木村(図左端)まで行く青木線もあった。

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城下駅から上り列車が出発
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上田周辺の私鉄網が描かれた1:200,000地勢図
(1959(昭和34)年修正図)
 

この中に、経由地は異なるものの、終点は同じ町という2本の路線がある。国鉄信越本線(現 しなの鉄道)に沿って大屋駅から南下する上田丸子電鉄丸子線(旧 丸子鉄道)と、別所線の下之郷から峠を越えていく同 西丸子線(旧 上田温泉電軌依田窪線、下注)だ。前者は1918~25(大正7~14)年に、後者は1926(大正15)年に開通している。

*注 依田窪(よだくぼ)は、丸子をはじめ依田川(よだがわ)の流域を指す広域地名。

丸子(まるこ)は輸出用生糸の生産で栄えた町で、ちょうど明治末から昭和初期にかけて全盛期を迎えていた。競合関係になるのが明らかな路線が建設されたのも、それだけの需要が見込めたからに相違ない。両線は戦時中の陸運統制令により、1943(昭和18)年、上田丸子電鉄の名のもとに統合された(下注)。

*注 その後1969年の丸子線廃止に伴い、上田交通に改称。2005年に鉄道部門が分社化され、現在は上田電鉄を名乗る。

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下之郷駅にある西丸子線の説明板
地図は南を上にして描かれている
 

しかし戦後、道路交通が発達する過程では、地方の町に2本の鉄道はいかにも過剰だ。廃止されたのは、遅れてきた西丸子線のほうが早かった。貨物扱いがなく、旅客輸送も不振だったため、設備投資が行われず老朽化が進行していたことが一因だろう。1961(昭和36)年の豪雨で鉄橋やトンネルが被災したのを機に休止、バス代行となり、1963年に正式に廃止された。丸子線の廃止はその6年後、1969年のことだ。

2021年4月4日、コンターサークルS春の旅2日目は、不遇の存在だった上田丸子電鉄西丸子線の廃線跡をたどる。半世紀の時を経て消失した区間が多いものの、車窓の眺めが評判だった二ツ木峠西側では、奇跡的に線路敷が残り、在りし日をしのぶことができるという。

集合場所は、かつて西丸子線の起点だった上田電鉄別所線の下之郷(しものごう)駅。上田電鉄は2019年10月の台風災害で千曲川を渡る鉄橋が損壊し、つい1週間前に復旧再開されたばかりだ。

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復旧なった千曲川橋梁
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復旧を喜ぶ吊り広告
 

せっかくの機会なので、私は先に終点の別所温泉まで行き、風情のあるレトロ駅舎や静かな朝の温泉街を駆け足で巡ってから、上り電車で下之郷に戻ってきた。同じ電車に乗っていた大出さんと、交換する下り電車でやってきた中西さんの計3名が本日の参加メンバーだ。

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レトロな風情の別所温泉駅
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下之郷駅
(左)朱塗りのホーム駅舎
(右)上下列車が交換
 

下之郷駅の島式ホームにある駅舎は、最寄りの生島足島(いくしまたるしま)神社にちなんだ朱塗りで、やけに目立つ。そのホームの斜め向かいに、西丸子線の発着ホームが残っていた。上に載る建物はもともと、ホームの上屋を利用した倉庫だったそうだが、保存改修されて今は鉄道資料館だ。壁面に「上田丸子電鉄」という旧社名と、右横書きの駅名標が架かり、床に転轍てこや標識が並んでいる。しかし残念ながら、内部はふだん公開されていない。

この駅は別所線の運行拠点で、車庫や整備場が併設され、なかでも検査ピットのある側線は西丸子線の跡だ。ちょうどそこに、オリジナル色をまとい、疑似丸窓つきの1004編成が入っていた。「西丸子からの電車が入線してくるように見えますね」と、廃線跡歩きの気分が盛り上がる。

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旧西丸子線ホームと鉄道資料館
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検査ピットの電車は西丸子線を彷彿とさせる
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
下之郷~二ツ木隧道間
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西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
(1937(昭和12)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

さっそく駅を後に、歩き始めた。側線の先は直接たどれないので、生島足島神社の参道から迂回する。きれいに整地された水田の中を、駅付近から延びてくる細道があった。これが線路跡で、いったん途切れた後、南へ一直線に進む農道に合流する。神社の脇には、その名も宮前(みやまえ)という停留所があったはずだが、痕跡すらない。

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(左)駅から延びてくる廃線跡
(右)廃線跡をなぞる一直線の農道
 

緩い上り坂の農道を約1km歩いて古安曽(こあそ)の集落に入ると、旧 石神(いしがみ)駅の位置に東の県道から入ってくる駅前道路が残っている。道の傍らに、古びたコンクリートの残骸を見つけたが、柱か何かの基礎だろうか?

旧版図を見ると、南下してきた線路は、集落の中で東に向きを変えている。並行していた県道上田丸子線を横断したところが、東塩田駅の跡地だ。交換設備を持つ駅だったので、それなりの幅と奥行きがあり、今は建設会社の敷地として使われている。

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(左)石神駅跡
(右)東塩田駅跡
 

その先は畑地に取り込まれてしまうが、少し東の、尾根川(おねがわ)の対岸(右岸)に、やや傾いた形で橋台が残っていた。下之郷を出て初めての本格的遺構だ。下流側は護岸工事が施工済みなだけに、ついでに解体されなかったのは幸運だった。橋台に続く廃線跡も、草むしてはいるものの、バラストが埋もれているのがわかる。畑の中なので、線路の撤去後、手が加えられずに、いわば静態保存されてきたようだ。

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(左)尾根川右岸の橋台
(右)橋台に続く草むした線路跡
 

廃線跡はいったん集落の道と合流するが、富士山(ふじやま)駅跡で2軒の宅地に取り込まれる。ここで過去の探索レポートには、民家の物置に転用された旧駅舎が必ず登場する。ところが今回訪ねると、それは影も形もなかった。隣の母屋が改築拡張されており、どうやらその尊い犠牲となったようだ。「数少ない痕跡がまた一つ消えてしまいました。重要文化財級だったんですが…」と私。

次の馬場(ばっぱ)駅までは、わずか400mだ。こちらはレポートどおり、駅の待合室だった小屋とホーム跡が残っていた。シートで塞がれ、みずぼらしい状態だが、3人とも熱心にカメラを向ける。通りがかりの人が見たら、何事かといぶかしんだことだろう。

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(左)富士山駅跡、旧駅舎は消失
(右)馬場駅跡のホームと旧待合室
 

道は右にカーブしていく。駒瀬川を渡る前後は、雑木林と丈の高い枯草に覆われた築堤が残っていた。中西さんが果敢にも偵察に向かったが、戻ってきて「何も残ってないですね」。今は冬枯れで視界がきくが、夏になれば、藪で堤は覆い尽くされてしまうだろう。

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山に向かう廃線跡の道
 

圃場整備でいったん途切れた跡地は、山際でまた農道となって現れる。二ツ木(ふたつぎ)峠にとりつくために、このあたりは結構な上り勾配がついている。振り返ると、線路跡の道が降りていく方向に、今歩いてきた田園地帯と遠くの山並み(下注)が一望できた。かつて、西丸子からの上り電車が山を抜けると塩田平(しおだだいら)のパノラマが目の前に広がり、車窓の名物になっていたという。私たちもしばし足を止め、当時の情景を想像した。

*注 この角度からは、塩田平の西から北を限る夫神岳(おかみだけ)、大沢山、子檀嶺岳(こまゆみだけ))、大林山、城山(じょうやま)などが見える。

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廃線跡から見る塩田平のパノラマ
 

しかしこの快適な散歩道は、谷が迫ると林に埋もれてしまう。やむをえず、並行する県道別所丸子線に迂回した。峠周辺は大規模な工業団地が造成され、道路も拡幅改修されており、廃線跡は完全に消失している。

下図は、二ツ木峠前後の区間を新旧の1:25,000地形図で比較したものだ。この地域の1:25,000は1972~73(昭和47~48)年図が最初のため、西丸子線の姿はすでにない。しかし、峠の手前(西側)で県道が陸橋で乗り越していた地点や周辺の原地形など、土地開発で改変される以前の状況がよくわかる。さすがに二ツ木トンネルの坑口は描かれていないが、この頃はまだ埋められずに残っていたはずだ。

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二ツ木峠周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(上)1973~78(昭和48~53)年図
(下)2014~16(平成26~28)年図
 

峠に向かう車道はそれなりに勾配があり、運ぶ足が重く感じられた。サミットまで上りきると、行く手に電車が1両置かれているのが見えてくる。かつて別所線を走ったモハ5250形、通称丸窓電車の5253号で、精密機器メーカーの長野計器が、自社工場の前に資料館として保存公開しているのだ。

架線まで再現されているので、写真に切り取れば現役さながらの雰囲気になる。日曜は開館しているはずだが、行ってみると、ステップに鎖が渡されていた。「コロナ禍で臨時休館してるんでしょうか」「これを楽しみに歩いてきたのに残念です」と私。せめて訪ねた記念にと、外観をしっかりカメラに収めた。

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現役の雰囲気を漂わせる丸窓電車資料館
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(左)チャームポイントの丸窓
(右)電車は長野計器工場の門前に
 

峠の東側の県道脇には、事績を伝える「二ツ木隧道開鑿記念碑」が建っている。裏側に回ると、碑文の末尾に東部塩田平耕地整理組合とあった。圃場整備の際、すなわち廃線跡を更地化するに当たって建てられたもののようだ。

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(左)二ツ木隧道開鑿記念碑
(右)記念碑から二ツ木峠を西望
   正面のアパートの裏付近にトンネル東口があった
 
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1:25,000 二ツ木隧道~西丸子間
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西丸子線(依田窪線)現役時代の地形図
下部は1929(昭和4)年図のため鉄道記号が異なる
 

旧 依田(よだ)駅の周囲では、小道や宅地の連なりが廃線跡を示唆している。ここから西丸子線は、目的地に向かって南へ直進していくのだが、途中にあった交換設備をもつ御岳堂(みたけどう)駅、棒線の上組(かみぐみ)駅、ともに正確な位置さえ判然としない。

新旧地形図の比較で明らかなように、南北に走る県道の微妙なS字カーブは鉄道のルートをなぞったものだ。ここで線路は、段丘面から約10m低い依田川の氾濫原に躍り出る。高低差をカバーするため、鉄道は高い築堤の上を通っていた。跡を利用した県道にもこれは踏襲されているが、依田川に接近したところで県道はそれていき、鉄道オリジナルの築堤が現れる。今は建設会社の土地のようで、ダンプカーの陰に川端駅の記念碑がひっそりと建っている。

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(左)線路をなぞるカーブ上組駅南側
(右)段丘崖と県道の高い築堤
 
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御岳堂周辺の1:25,000地形図に西丸子線のルートを加筆
(左)1972~78(昭和47~53)年図
(右)2014~15(平成26~27)年図
 

依田川を渡れば、いよいよ丸子の市街地だ。さすがに橋梁自体は跡形もないが、左岸では上記の築堤の先に橋台が、右岸でも川岸から少し引っ込んだ畑の中にコンクリートの橋脚が一本だけ残り、渡河していた位置を教えてくれる。

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依田川渡河地点
左に築堤と橋台が見える
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(左)左岸の築堤と橋台
(右)右岸の畑に残る橋脚
 

しかし右岸でカーブしながら続く築堤は崩されて、新しい宅地の並びに変わっていた。また、県道横断地点の南側でバス停に再利用されていた寿町(ことぶきちょう)駅の待合所も、すでに造り直されている。

その先300m足らずの間、住宅街に線路跡の小道が延びている。だが、まもなく家並の敷地に取り込まれてしまい、廃線跡歩きは事実上終了する。空中写真では、敷地の裏手のつらが揃っているのが見て取れるが、現地確認は難しく、途中にあった河原町(かわらちょう)駅の跡もよくわからない。

終点の西丸子駅は、現 丸子消防署南側の駐車場付近にあったそうだ。だが、案内板一つ建ってはおらず、すっかり忘れ去られている。町の商工業者の肝煎りで誕生したライバルの丸子線と違い、上田から進出した路線にとって、この町は最後までアウェーの地だったのかもしれない。

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(左)改築された寿町待合室
(右)駐車場になった西丸子駅跡

依田川の岸辺に出ると、桜並木がちょうど見ごろを迎えていた。小雨の予報が出ているからか、人通りもほとんどなく、のんびりと花見を楽しみながら上流へ歩く。400mほど先の公園の一角に電気機関車ED25形の1号機が置かれている。かつて丸子線で貨物列車を率いていた機関車だ。ひな壇の上に据えられ、満開の桜を背にして、堂々たるモニュメントに見えた。やはり丸子線は肩入れのされ方が違う。

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依田川沿いの桜並木
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丸子線ゆかりの電気機関車ED25形
 

しばらく休憩してから、その終点だった丸子駅へ向かった。もちろん鉄道は廃止され、バス停に置き換わっているのだが、名称が「丸子駅」なのだ。それどころか、街の通りや郵便局も「駅前」を名乗る。「鉄道がなくなってもバーンホーフシュトラーセ(Bahnhofstraße、ドイツ語で駅前通りの意)というのはよくありますね」と中西さん。町から列車の姿が消えて50年以上経つが、地元市民の記憶の中にまだ丸子線は生き続けているのだろう。

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通りや郵便局も「駅前」を名乗る
 

何本もの標識が静かに整列するバス停で、15時15分発の上田行きを待つ。千曲(ちくま)バスの運行だが、自治体の補助が出ているらしく、終点まで300円と格安だ。しかし待っていたのは私たちのみで、標識の数にも足りない。後でようやく一人増えたものの、結局乗客はそれですべてだった。

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校長先生の指示どおり、
整列して静かにバスを待つ標識たち
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上田(昭和53年修正測量および平成26年調製)、丸子(昭和47年測量および平成27年調製)、別所温泉(昭和48年測量および平成28年調製)、5万分の1地形図上田(昭和12年修正測図)、小諸(昭和4年修正測図)、坂城(昭和12年修正測図)および20万分の1地勢図長野(昭和34年修正)を使用したものである。

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2021年4月21日 (水)

コンターサークル地図の旅-信州・龍岡城と旧中込学校

2021年4月3日、コンターサークルS春の旅の初日は、長野県佐久地方が舞台だ。明治維新前後に造られ、当時の人々の西洋文化に対する強い好奇心が窺える建築物を二つ訪問することにしている。

一つ目は、信州の五稜郭である龍岡城(たつおかじょう)。誰もが知る函館の五稜郭と同じ星形の稜堡(りょうほ、下注)を巡らし、特徴的な輪郭は地形図にもはっきりと描かれている。もう一つは旧中込(なかごみ)学校。松本の旧開智学校とともに、信州に残る代表的な擬洋風の学校建築だ。

*注 稜堡とは、城郭や要塞の外側に突き出した角の部分のこと。これを備えた城郭(堡塁)の形式を稜堡式城郭という。

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龍岡城(画面左)とその周辺を展望台から俯瞰
遠方の山並みは八ヶ岳連峰
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青空に白壁が映える旧中込学校
 
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今回の訪問地周辺の1:200,000地勢図
(昭和56年編集図に新幹線、高速道路を加筆)
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
 

今年は春の訪れがいつになく早い。信州も例外ではなく、朝早起きして見に行った上田城では、桜がもう満開で、深いお濠の上にしなだれかかる薄紅の花霞を心行くまで愛でることができた。その後、しなの鉄道とJR小海線を乗り継いで、集合場所へと向かう。

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上田城址の桜
 

10時48分、気動車キハ110形から最寄りの龍岡城駅に降りたったのは、中西、大出、森さんと私の4名。風が強いものの、柔らかな日差しが降り注ぎ、まずまずの歩き日和だ。

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JR龍岡城駅
待合所はなまこ壁の屋敷風
 

最初は城を高みから見下ろして、日本に2か所しかない珍しい形を確かめたい。函館には展望タワーがあるが、こちらも、近くの山にその代わりになる展望台がある。地形図に注記はないものの、グーグルマップも参照すると、北側の山にある881.5m三角点付近のようだ。「村から直登する徒歩道はいかにもきつそうなので、行きは北斜面をZ字状に上っていく林道にしましょう」と皆を誘った。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

住宅街を抜けて山にとりつき、草生した道を行く。小さな尾根を越えると、いったん舗装道に出るが、まもなく右に分岐する林道が現れた。親切にも「五稜郭展望台」と矢印のついた道標が立てられているので、迷う心配はない。

まだ冬の装いの林が足元に影を落とす中を、しばらく上っていく。主尾根にとりついた辺りで、また分かれ道を示す道標があった。この後は、人ひとり通れるだけの小道で、木立の間を少し降りると展望台に行き着いた。

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展望台への道
(左)整備された道標
(右)最後の一区間は登山道
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五稜郭展望台
 

眼下に、雨川(あまかわ)の流れる平たい谷が横たわる。村の家並に囲まれて、五角形をした城址が見える。その奥の平地は千曲川本流の谷筋で、背景には霞がかっているが、蓼科山から八ヶ岳にかけての山並みが延びる。想像していた以上の眺めだ(冒頭写真参照)。「写真では小さく写ってましたが、実物の城はけっこう大きいですね」と森さん。確かに周囲の民家と比べることで、そのスケールが実感できる。

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展望台から望む龍岡城
特徴的な稜堡が見える
 

五つある稜堡のうち、ここから確認できるのは四つまでだ。南側の一つは、前後二列に並んだ長い建物の陰に隠れている。城内は佐久市立田口小学校の校地になっていて、建物はその校舎だ。校庭の周りに濠が巡っているとは、なんと豪勢な学校だろう。お濠端には桜の木が植わっているが、見渡しても咲いているのは1、2本しかない。標高450m前後の上田城に対して、龍岡城は720mほどあるから、春はまだこれからだ。

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城内から展望台方向の眺め
山稜中央の針葉樹林の隙間に展望台がある
 

パノラマを満喫したところで、下界へ降りる。標識に従って、さっきの林道から左に折れた。地形図上の等高線の込み具合から覚悟はしていたが、ほんとうに転げ落ちそうな急斜面だった。しかも落ち葉が厚く散り敷いて、滑りやすい。慎重に足を運びながら、村里に到達した。

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急斜面を下りて村里へ
 

城跡の手前にある資料館「五稜郭であいの館」に立ち寄り、城の予備知識を仕入れる。

城主は、松平乗謨(まつだいら のりかた)という人物だ。三河国額田(ぬかた)郡奥殿(現 愛知県岡崎市)に本領を構えていたが、山あいで手狭なため、より広い領地のあった信濃国佐久郡の当地に移転を願い出て許された。幼少のころから聡明で、洋学を志し、蘭学やフランス語を学んでいた彼は、攘夷の機運高まる中、洋式の築城技術に基づく居城の造営に踏み出す。城と言っても、家格からして実際には陣屋で、天守閣のような防備施設は持っていない。1867(慶応3)年に竣工祝いを執り行ったが、建物の多くはまだ瓦が載らず板葺きのままだったらしい。そして、早くも1873(明治6)年には取り壊しに遭っている。

展示を見ていた中西さんがつぶやく。「竣工が明治維新の前年では、城の役割を果たす時間はなかったことになりますね」「防御用というよりむしろ、洋風の邸宅を造りたかったんじゃないかな」と私。

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空から見た龍岡城
(五稜郭であいの館の展示パネルを撮影)
 

ヨーロッパでヴォーバン式と呼ばれるこうした多角形の要塞は、防御の際の死角をなくす巧妙な構造だが、それは広い平地にあってこそ効果を発揮するものだ。さっき展望台で気づいたが、山上からは城内がまる見えで、射程距離の長い大砲で攻撃されたら、ひとたまりもなかっただろう。

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龍岡城(左)と函館・五稜郭を1:25,000地形図で比較
前者は後者に比べ差し渡しで1/2、面積では1/5ほどのサイズ
また、山に挟まれ、防御には向いていない
 

であいの館を出て、濠に架かる木橋を渡る。ここは、かつて大手門があった場所だ。現役の小学校なのでふだんは立ち入れないらしいが、今日は春休みの土曜日、校庭には風が吹き通るばかりで人影もない。正面に、グラウンドを隔てて本校舎が建つ。その右にある大きな切妻造の建物は、資料館でもらった資料によると御殿の一部で、御台所の遺構だそうだ。校舎に再利用されたことで、唯一城内に残ったという(ただし場所は移されている)。

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大手門への木橋
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城内の小学校
右は御台所の遺構
 

昼食をとった後は、城の周囲を歩いた。土塁を載せる石垣は、場所によって積み方に粗密の差がある。緻密に組まれた部分は見た目にも美しく、従事した職人の技術力を感じさせる。一方、7.3~9.1mの幅があるという周濠は、西側と南側を欠いている。工期や資金面の問題もあっただろうが、地形的に見れば、西側は下流で高低差が生じるし、南側は雨川の氾濫原に接している。それらを天然の要害と見なすなら、整備の優先度はおのずと低かったはずだ。

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複雑に屈曲する濠
石積みには粗密の差がある
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濠のない部分
(左)西側は自然の高低差
(右)南側は氾濫原に接する
 

訪問を終えて駅へ戻る間、城のお膝元だった痕跡をいくつか見かけた。山際に立派な伽藍を構えたお寺(大梁山蕃松院)があり、街道筋には入口を固める桝形が保存されていた。鄙びた中にもどこかしらゆかしさが漂う山里だった。

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展望台の山裾に伽藍を構える大梁山蕃松院
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桝形跡
 

再び小海線の列車に乗り、3駅目の滑津(なめづ)駅で降りる。次の目的地の旧中込学校へは、住宅街を歩いてものの5分ほどだ。建物は県道小諸中込線に面した公園の一角にあり、管理事務所で観覧料(260円)を払って、自由に見学できる。

建物は2階建て、寄棟造りの擬洋風木造建築で、1969(昭和44)年に重要文化財に指定されている。正面に車寄せ風のポーチ、2階にバルコニーを備えた瀟洒な外観が印象的だ。

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旧中込学校正面
 

観音開きの扉を押して中に入ると玄関土間で、ざら板、げた箱と、子どものころに見覚えのある小道具が揃っている。ところが、中央廊下の突き当りに、扉の欄間に嵌る虹色のステンドグラスが見えて、くすんだ校舎の印象は一変するのだ。ガラス窓を通して入ってくる原色の外光に、当時の村人たちもさぞ驚いたことだろう。

間取りは珍しく縦長だ。1階は講堂と大教室(教場)を広く取り、2階は壁で小教室や校長室、教員室に区切られている。2階廊下の奥にも、意表を突くステンドグラスの丸窓がある。塔内部の太鼓楼やバルコニーも見どころだが、残念ながら扉が閉ざされ、立ち入れない。

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1階
(左)中央廊下から見る玄関
(右)講堂と足踏みオルガン
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2階は壁で小部屋に区切る
突き当りにはステンドグラスの丸窓
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
 

旧中込学校が竣工したのは1875(明治8)年、旧体制の徒花(あだばな)のような龍岡城からわずか8年後のことだ。封建時代の記憶がまだ残る一寒村に、このような「ハイカラ」な学校が突如出現したのには、特別な理由があったに違いない。

その解説が、管理棟に隣接する資料館の展示パネルに記されていた。それによると、一つには、新時代の方向性を理解する地元の有力者が発議して、村民を啓蒙したこと。二つには、洋行帰りの設計者を迎えたこと。三つには、当地は内山峠で官営製糸場のあった群馬県富岡に通じており、派遣された女工などから最新事情が伝わっていたことが挙げられるという。さらに、佐久平は米作地帯で、経済的な余裕から向学心が強く、国や県も洋風学校の設立を奨励するなど、構想を後押しする土壌があったようだ。

館を辞した後、公園に静態保存されている小海線ゆかりの旧車2両を見学した。戦前戦後にわたり活躍し、「高原のポニー」と呼ばれたC56形の101号機と、佐久鉄道時代の1930(昭和5)年に投入され、その後三岐鉄道、別府(べふ)鉄道に転籍したガソリンカー キホハニ56だ。

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小海線ゆかりの旧車両
(左)高原のポニー C56 101
(右)佐久鉄道時代のガソリンカー
 

展示場所はフェンスが廻らされ、施錠されているが、管理事務所に申し出ると開けてくれる。とりわけガソリンカーは貴重だ。外観は塗装の褪色が目立つが、内部は座席や運転台を含めて美しく保たれていて、そのままローカル線の旅に出かけられそうだった。

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ガソリンカーの車内
(左)簡素な運転台
(右)美しく保たれたロングシート
 

勢いを駆って駅北方の鉄橋へ行き、現代の小海線のプチ撮り鉄も敢行した。青空のもと、浅間山と桜を背にして、2両編成のキハ110形がさっそうと川を渡っていく。しかし省みれば、歴史旅行で完結させるつもりが、結局鉄道趣味が勝ってしまったような…。

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滑津川を渡るキハ110形
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図長野(昭和56年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2021年4月12日 (月)

アッヘンゼー鉄道の危機と今後

オーストリアのラック登山鉄道の一つ、アッヘンゼー鉄道 Achenseebahn は1889年に開通し、130年もの長きにわたり蒸気運転を守り続けてきた。

この間、帝国解体に伴う恐慌、ナチスドイツの経済制裁による観光不況、第二次大戦末期の戦火、戦後の道路交通との競合、そして最近では2008年の機関庫焼失と、小さなローカル線は幾度も存廃の危機に直面した。しかしその都度不死鳥のようによみがえり、今やチロル Tirol の貴重な文化財、重要な観光資源として、存在価値は誰もが認めるところだ(下注)。

*注 アッヘンゼー鉄道の概要については「オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 I」「オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 II」で詳述している。

ところが、その古典鉄道が昨年(2020年)以来、運行を休止している。鉄道の公式サイトには「当分の間、アッヘンゼー鉄道、イェンバッハ~マウラッハ・ゼーシュピッツ間に旅客列車は走りません」という断り書きが記されている。いったい何が起きたのだろうか。

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長期運休を知らせる公式サイトの記事(2021年4月12日現在)

運休の直接の原因は、鉄道を運行していたアッヘンゼー鉄道株式会社 Achenseebahn AG の倒産だ。州政府によるインフラ整備支援のための補助金「民営鉄道中期投資プログラム Mittelfristiges Investitionsprogramm für Privatbahnen (MIP)」の交付が2015年から凍結されたため、とうとう運営資金が枯渇した。2020年3月25日にインスブルック地裁で破産手続が開始されている。

凍結の根拠は、アッヘンゼー鉄道が(公共交通機関ではなく)純粋な観光施設であると、連邦当局が評価したことにあるという(下注)。連邦鉄道 ÖBB の公式時刻表で311(旧 31a)の時刻表番号が与えられていたように、アッヘンゼー鉄道はもともと地方公共交通機関、いわゆる ÖPNV の扱いを受けていた。しかし、評価替えを反映してか、最近は公式路線図からも抹消されている。

*注 補助金は民営鉄道法に基づくもので、財源の50%までを連邦が拠出している。

現行投資プログラムは2019年に期限を迎え、2020年から次のサイクルに入る。そのため、ÖPNV への復帰が認められない限り、今後も交付対象にならず、資金不足が一段と深刻化するのは明らかだった。

もとより、この鉄道の乗客は観光目的が大半だ。というのも、起点イェンバッハ Jenbach からアッヘン湖 Achensee 方面へは、バスが1時間間隔で走っている。主邑マウラッハ Maurach までの所要時間は、鉄道の33~35分に対して、バスは24分だ。運賃差も大きいため、鉄道は日常利用には向いていない。純粋な観光鉄道という指摘は一面で正しい。

しかし、それは今に始まったことではなく、戦後、並行道路が整備され、バス路線が開業した後、ずっとこの状態だ。にもかかわらず、アッヘンゼー鉄道は ÖPNV だったので、1980年代から上記制度による支援を受けてきた。

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外の渡り板を伝って検札に回る車掌
(2012年8月撮影)
 

では、なぜ急に評価が変更されたのか。真相は判然としないが、2013年に表面化した鉄道会社の運営上の混乱が影響しているという見方がある。

この年の10月初め、鉄道会社の社長が、監査役会 Aufsichtsrat の決議により予告なしに解雇された。主な理由は、運営管理のミスにより会社に150万ユーロを超える損害を与えたというものだったが、元社長は受け入れず、決着は法廷に持ち込まれることになった。翌年9月には、決議を主導した監査役会会長を信任できないとして、監査役4名が辞任を表明する事態も起きた。

長年、鉄道に奉職し、蒸気運転の維持に努めてきた元社長に対して、監査役会会長は近代化による一般旅客輸送路線への転換論者で、内紛の根底にはその意見対立があったようだ。事態が表沙汰になったことで、連邦当局も慣例を見直し、利用実態に即して判断することを迫られたのではないか。

確かに、このままでは所要時間や運賃水準の点でバスに劣り、一般利用の回復は永遠に見込めない。袋小路を脱するために、新たに任命された会社執行部は、輸送効率を向上させる構想を具体化していった。驚くことに、それは路線の電化を前提としたものだった。

2018年6月11日から翌日にかけて、スイスのアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen でラック区間解消により不要となったBDeh 4/4形電車2両が、イェンバッハに運ばれてきた。秋には同形車3両と、ペアになるABt形制御車5両が続いた。

しかし財政の悪化で電化工事のめどがまったく立たないため、これらは構内および仮設線に留め置かれた。電化が実現しない場合、代わりにハイブリッド駆動への換装が想定されていたというが、そもそもこの電車でアッペンツェルよりはるかに険しい勾配(下注)を問題なく走れるという確証はどこにもなく、実用化の道のりは遠かっただろう。

*注 最大勾配は、この車両が走っていたアッペンツェル鉄道のザンクト・ガレン St. Gallen ~トイフェン Teufen 間の100‰に対して、アッヘンゼー鉄道は160‰。

同年11月29日の朝、留置していた車両の外壁がスプレーでひどく汚されているのが見つかった。被害額はユーロ6桁レベル(千万円単位)とも言われたが、会社にはそれをカバーする資金がない。筆者が翌年6月にイェンバッハ駅を通りかかったときも、電車は構内の目立つ場所で無残な姿を晒していた。鉄道が陥っている苦境を象徴する光景だった。

それでも2019年のシーズン中、アッヘンゼー鉄道の運行は何とか続けられた。しかし、冬ごもりの後、次のシーズンを無事に迎えることはできなかったのだ。

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汚されたアッペンツェルの連節車
イェンバッハ駅にて(2019年6月撮影)

補助金を凍結したとはいえ、チロル州政府は鉄道を見捨ててしまったわけではない。ただ、州域で最初となる世界遺産への推薦を、かねて連邦政府に働きかけていたことから、真正性を損なうような電化案を進める現体制に対しては、積極的な支持を示してこなかったように思われる。

破産宣告を受けて、州議会は休止中に発生するランニングコストの支援予算を承認した。そして副知事のもとで関係先と協議を重ね、早くも2020年12月に、アッヘンゼー鉄道の再開に向けての基本案を閣議決定している。

それによれば、州が60%、ツィラータール交通事業株式会社 Zillertaler Verkehrsbetriebe AG (ZVB) が20%、沿線各自治体が残り20%を出資して、受け皿となる新会社が設立される。ツィラータール交通事業というのは、同じイェンバッハが拠点のツィラータール鉄道 Zillertalbahn(下注)や沿線の路線バスを運行している事業者だ。同社が経営に参画することで、スタッフ、保守作業、資材購入など運営の効率化やマーケティングの共同実施といった相乗効果が期待されている。

*注 ツィラータール鉄道の概要については「オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道」参照。

投資プログラムの申請期限に間に合わなかったため、インフラ整備に必要な資金については、州が独自に保証する。これを充当することで、線路設備にも改良が加えられる。公式サイトによれば、イェンバッハ駅とエーベン駅の配線を一部変更するとともに、フィシュル Fischl 付近のラック区間に列車交換設備を新設し、マウラッハ駅でも交換設備も復活させる。これにより運行を60分間隔にして、終点でアッヘン湖の連絡船に必ず接続できるようにするという。

物議をかもした電化案は撤回され、蒸気運転が継続されることになった。ただし、4両在籍する蒸気機関車のうち、まず2両を油焚きに転換する。油焚きの場合、石炭をくべる機関助士の乗務が不要になるなど、運行コストの圧縮に効果がある。一方、石炭焚きで残すのは1両のみとされているので、後の1両もやがては油焚きになるのだろう。

その陰で、はるばるアッペンツェルからやって来た電車は将来への展望を失った。一度も走らせてもらえないまま、制御車2両を残して、2021年2月にあえなく廃車解体されてしまった。

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ゼーシュピッツ駅を出発する蒸気列車
(2012年8月撮影)
 

2021年3月2日は、新会社「アッヘンゼー鉄道施設管理・運行有限会社 Achenseebahn Infrastruktur- und Betriebs-GmbH」の設立総会の開催日だった。州副知事ヨーゼフ・ガイスラー LHStv Josef Geisler は定款に署名した後、次のように挨拶した。

「関係するすべてのパートナーによる無数の転轍操作 Weichenstellungen(選択、決定の含意)を経て、アッヘンゼー鉄道の存続に今や青信号が灯りました。明確な施設管理と運行のコンセプトに基づき、文化財としても保護された鉄道が、2022年夏のシーズンに運行を再開するでしょう。時刻表 Fahrplan(行程表の含意)が整ったのです」。

夏のシーズンは5月に始まる。行程と目標は明確になったが、開業以来の規模となる模様替えがこれから1年余りでどこまで整うのか、アッヘンゼー鉄道の今後が注目される。

■参考サイト
アッヘンゼー鉄道(公式サイト) http://www.achenseebahn.at/
チロル州政府(公式サイト) https://www.tirol.gv.at/
オーストリア放送協会(ORF)チロル支局 https://tirol.orf.at/

★本ブログ内の関連記事
 オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 I
 オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 II

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