コンターサークル地図の旅-琵琶湖疏水分線
琵琶湖疏水(びわこそすい、下注)は、滋賀県の大津で取水された琵琶湖の水を京都の市街地に運ぶ水路だ。2本が並行しており、そのうち第一疏水は1890(明治23)年に完成している。琵琶湖と大阪を結ぶ水運に利用されるとともに、落差を利用した水力発電で、京都の産業や交通の近代化を推進する原動力となった。
*注 「疎」水と書かれることもあるが、これは当用漢字表にない「疏」を代用字で書き換えたもの。
南禅寺水路閣 掲載写真は特記したものを除き、2020年11月のコンター旅当日のほか、2020年4月~12月の間に撮影 |
年々増大する需要を賄うために、1912(明治45)年に第二疏水が全線トンネル仕様で造られた。水運はやがて鉄道や道路に取って代わられるのだが、上水道の水源は今なお多くを依存しており、京都の町にとって琵琶湖疏水は必要不可欠のインフラであり続けている。
東海道本線の電車が大津~京都間で2本の長いトンネルをくぐり抜けるように、疏水もまた、間を隔てる二つの山を貫いた後、東山山腹の蹴上(けあげ)に顔を出す。ここで市内に分配されるのだが、本線は、複数の経路(下注)を通って山麓の南禅寺船溜(ふなだまり)に集まる。そして岡崎公園の縁をなぞった後、鴨川の左岸(東岸)を伏見へ向かって流れ下る。
*注 蹴上水力発電所の導水管、インクライン沿いの放水路(一部暗渠)、扇ダム放水路など。
蹴上船溜、インクラインの起点 |
琵琶湖疏水および分線の位置図 (琵琶湖疏水記念館の展示パネルを撮影) |
第一疏水の一部を成すこのルートに対して、蹴上から北に分岐する水路もある。第一疏水と同時に完成した疏水分線だ。京都盆地は北が高く、南が低い。分線はそれに逆行するように北流した後、徐々に西へ向きを変え、最後は堀川の源流である小川(下注)に注いでいた。
*注 現在は「おがわ」と読ませているが、かつては「こかわ」と読んだ。
桜の名所「哲学の道」 |
明治のころ、一帯はまだ田園で、分線建設は農地の灌漑や、伸銅、精米、紡績など産業利用を主な目的としていた。昭和に入ると沿線に松ヶ崎浄水場が造られ、水道水への活用が始まった。しかしその後、市街地化による農地の消滅や、交差する河川の改修などの影響を受けて、本来の機能は失われてしまう。
現在、この疏水分線はどのような姿で残されているのだろうか。コンターサークル-S の旅関西編2日目は、それを歩いて確かめようと思う。蹴上から鴨川との交差地点まで、水路伝いに約9kmのコースだ。
1:25,000地形図と陰影起伏図に 歩いたルート(赤)と水路跡の位置(青の破線)等を加筆 |
5m間隔の等高線が記載された図に疏水分線を加筆 ルートが等高線に沿っていることがわかる (基図は1:25,000土地条件図 京都、1975(昭和50)年調査・編集) |
◆
2020年11月3日、朝10時の集合時刻までの間、私は近くの琵琶湖疏水記念館に立ち寄って、最近リニューアルされた展示物をチェックした。構想時の地図図面など貴重な資料のほか、鉄道ファンには大正4年ごろの岡崎周辺を再現したレイアウトが必見だ。船を上下させるインクライン(斜行鉄道)とともに、京電蹴上線や京津電気鉄道(後の京阪電鉄大津線)の旧線ルートも手に取るようにわかる。
(左)琵琶湖疏水記念館 (右)内部展示 |
岡崎周辺を再現したレイアウト 中央左の直線路がインクライン、 右側を並行する複線の線路は京電(後の市電)蹴上線、 左奥の山から降りてくる複線は京津電気軌道(後の京阪電鉄大津線) |
資料館で森さんと落ち合って、集合場所の地下鉄東西線蹴上駅に向かう。本日の参加者はメンバーの今尾、大出、森さん、私、そして初参加の小森さんの5名。疏水関連の研究をしている小森さんには、案内役としていろいろ教えてもらおうと思っている。
最初に、インクラインの途中にある粟田口隧道、俗称「ねじりまんぽ」に寄り道した。築堤の横腹に開けられたまんぽ(トンネル)で、やや斜めに横断するため、内部の煉瓦巻きがねじれているのが名の由来だ。ポータルは付け柱を立てた立派な造りで、頂部には、当時の京都府知事が揮毫した陶製の扁額まで嵌っている。通しているのは南禅寺境内に向かう小道に過ぎないのだが、天下の大道、東海道に面していたから、設計者も特に力を込めたのだろう。
ねじりまんぽ西口 上をインクラインが走る |
内壁の煉瓦がねじるように巻かれている |
それからインクラインを上って、蹴上船溜へ。船を乗せた車台が復元されている。すぐ上流に架かる橋から、第一疏水が出てくる第三トンネルのポータル(洞門)が見渡せる。トンネル手前右側の立派な洋館は旧 御所水道ポンプ室で、ちょうど大津から下ってきた疏水船が前の護岸に到着したところだった。
インクラインの坂道を上って蹴上船溜へ |
蹴上船溜 (左)復元台車、左後ろはケーブルの滑車 (右)第三トンネル洞門 |
旧 御所水道ポンプ室、手前に疏水船が待機 |
船溜の周辺は小さな公園になっている。市街を見下ろして立つ銅像は、疏水を設計し工事も指揮した田邉朔郎(たなべさくろう)だ。設計図は工部大学校の卒業論文として作成され、卒業後すぐに京都府から主任技師に任じられたというから驚く。「はたちそこそこでいきなり大工事を任された超エリートです」と小森さんが解説する。
公園に建つ田邉朔郎像 |
疏水の分配方法は様々だ。船溜の北隣にあるのは放水路に水を落とす洗堰で、その形状からついたあだ名が「京都のナイアガラ」。大きな水音が絶えず辺りにこだましている。
洗堰「京都のナイアガラ」 |
洗堰を落ちた水は中央に集まる |
続いては錆止めを塗った鉄のやぐら。関西電力蹴上発電所の取水口で、谷側に目をやると極太の導水管が2本、急斜面を這い降りている。付随するベルトコンベアのようなものは、取水口に溜まった落ち葉やごみを排出する装置だそうだ。
さらに北側でも枡状の小水路が分岐しているが、聞くと、こうした水路で庭園などに分配しているのだという。明治から昭和初期にかけて、岡崎一帯では政財界の大物たちが競うように別荘を構えた。それらの庭園を潤す水も、疏水から供給されているのだ。「それから、ゾウさんやカバさんも飲んでます。疏水のおかげで、京都市動物園は自然水には困りません」。
(左)蹴上発電所取水口 (右)ごみの排出装置 |
(左)発電所への導水管 (右)庭園等に分水する小水路 |
この10月に利用が再開されたばかりの、南禅寺に通じる疏水側道を行く。山際の狭い通路で、石川五右衛門が「絶景かな」の名せりふを放った三門が木の間越しに見える。突き当りが南禅寺水路閣で、長さ93m、豪壮な煉瓦のアーチが疏水を載せて境内を横切っている。界隈を歩く観光客が必ず立ち寄る人気のスポットだ。
疏水分線 (左)南禅寺裏の水路に側道が沿う (右)水路閣の上部水路に続く |
小道を下って、その足元に出た。今でこそ古色を帯びて周囲の景観に溶け込んでいるが、できた当時は、古い町並みに高速道路を割り込ませるような違和感に満ちた眺めだったに違いない。明治新政府は仏教寺院を改革に抵抗する旧来勢力とみなし、廃仏毀釈や上地令で弱体化を図った。大寺といえども、府の方針を拒否できるような政治力はなかっただろうと思う。
とはいえ、橋を架けることの必然性にはいささか疑問が残る。地形図で見る限り、横断しているのは奥行きのない谷だ。背後をトンネルないし開削工法で通すことができそうだし、そうしたとしても距離はさほど延びない。実際、寺の方丈や北隣の永観堂の裏では、トンネルで通過している。敢えて橋にしたのは、地質、水源あるいは予算の問題、はたまた近代化を象徴する構造物が必要だったのか…。
南禅寺水路閣 |
(左)寺の境内を横断 (右)支柱が整列する構図は人気の撮影スポット |
洋風と和風が共存する空間 |
水路閣の続きにある第五トンネルの洞門を見てから、境内を引き返す。トンネル区間では、疏水に並行する道がないのだ。迂回路となる鹿ヶ谷通(ししがたにどおり)の途中で、東山高校の校地を横切って勢いよく流下する水路があった。「これも疏水から落ちてきてます」。斜面の上の取水口は扇ダムと呼ばれるが、残念ながら立入禁止になっている。
扇ダム放水路 (左)斜面を駆け降りる水路 (右)庭園街の境界を貫く |
次に水路が現れるのは、熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社の参道と交差する若王子橋だ。そこから銀閣寺橋まで、緩やかに蛇行する水路に沿って、緑濃い小道が約1.5kmの間続く。西田幾多郎(にしだきたろう)ら京大の哲学者が好んで散策したという「哲学の道」だ。水路を縁取るのは桜並木で、花の季節はことさら美しい。この春は新型コロナの第1波でひっそりとしていたが、最近は客足がいくらか戻ってきているようだ。
小森さんが「遊歩道に市電の敷石が使われてますよ」とメンバーの好奇心をくすぐる。「ついでにレールも敷いてほしかったなあ」と私。しばらくの間、京都市電が廃止されたころの思い出話で盛り上がった。
若王子橋 (左)若王子神社への参道 (右)哲学の道が始まる |
(左)西田幾多郎の歌碑 (右)大豊橋では水路も立体交差 |
苔むした桜の並木が続く |
桜満開のころ |
銀閣寺橋までやってきた。銀閣寺(慈照寺)への参道はぞろぞろと人が行きかっていて、さすが有名観光地だ。大文字山(だいもんじやま)の山麓を北上してきた疏水は、この橋の前後で西に向きを変える。そして白川(しらかわ)が造った扇状地を横断していく。両者が交差する地点では、疏水がサイフォン(下注)で白川の下をくぐっている。
*注 起点の水面より高い位置を越える本来の意味のサイフォンではなく、連通管の原理で川の下を横断するもの。以下も同じ。
白川の名は、上流の山から運ばれ川底にたまった花崗岩の砂礫、いわゆる「まさ(真砂土)」が白っぽい色をしていることに由来すると言われる。白河上皇のおくり名や「白河夜船」の故事にも引かれた歴史ある川だが、市街地を貫くこのあたりでは、今やコンクリートの擁壁に囲まれた味気ない排水路でしかない。
銀閣寺橋 左は銀閣寺(慈照寺)への参道 |
白川との交差 (左)殺風景な白川の水路 (右)直交する疏水は白川(手前)の下をくぐる |
白川通を横断したところで12時になった。食事処を求めて、今出川通に面したタイ料理店「カトーコバーン食堂」へ。生ビールで喉も潤してから、再び歩き出す。
疏水は再び北へ旋回し、志賀越道(しがごえみち)を横切っていく。この道は山中越(やまなかごえ)、白川街道ともいい、京都七口の一つ、荒神口(こうじんぐち)と琵琶湖西岸を結んでいた古い交易路だ。「ここで水路の所管が、市の上下水道局から建設局に変わります」と小森さん。「正式な疏水分線はここが終点で、後は都市河川の扱いなんです」。
志賀越道との交差 (左)交差手前の堰 (右)交差の前後で水路に段差がある クスノキの後ろの塔は浄水場送水管の点検口 |
この先に松ヶ崎浄水場があるが、そこに入る原水は蹴上から別ルートで送られており(下注)、目の前の開渠の水は利用されていないのだそうだ。しかし流路の水量はまだたっぷりあって、疏水としての面目は保たれている。水面をのぞき込んでいた森さんが「けっこう大きい魚がいますよ」と教えてくれた。
*注 正確には、南禅寺トンネルでまず若王子取水池へ。ここでごみや砂を除去した後、導水管で浄水場まで送られる。後述のとおり、疏水の流路は現在、高野川で断たれている。
小森さんいわく「京大農学部のキャンパスに広い農園があるんですが、そこにもこの水が引き込まれてます」。疏水は、沿線の田園を潤す灌漑用水の役割も果たしていた。すっかり市街地化した今では、農学部のそれが唯一の名残なのかもしれない。
北白川、疏水沿いの散歩道 |
「河川」に名目を変えた後も、疏水分線は変わることなく木陰の散歩道を伴って流れる。右側には北白川の閑静な住宅街が続いている。左は京大農学部のグラウンドだが、疏水道からは見下ろす形になる。この高低差は、花折(はなおれ)断層の活動により生じたものだ(下注)。いわゆる断層崖で、それを斜めに横切るために、疏水のルートはここで緩いS字を描いている。
*注 花折断層は、滋賀県高島市の水坂(みさか)峠付近から朽木(くつき)谷、高野川の谷を通り、京都市左京区の吉田山に至る北北東~南南西方向の断層。花折峠より南は、東側が乗り掛かる逆断層になっている。
花折断層 (左)グラウンドは疏水道から見下ろす位置に (右)御蔭通への下り坂で断層崖を通過 |
御蔭通(みかげどおり)を横断すると再び直線で、右側の樹木が生い茂る敷地に、登録有形文化財の駒井家住宅が建っている。明治末から昭和にかけて数々の洋館を設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品の一つだが、私もまだ入ったことがない。
(左)駒井邸 (右)穏やかな光注ぐ水路 |
北大路通(きたおおじどおり)に出ると、叡山電鉄(叡電)の線路が間近だ。短い鉄橋が疏水に架かっている。ちょうど警報器が鳴り始めたので、一同慌てて線路際に走り寄る。駅と駅の中間とあって、電車はかなりのスピードで通過した。「速すぎましたね」「間に合わなかった…」などとぼやいていると、小森さんが「撮り鉄さんが群がる絵が撮れました」とほやほやの特ダネを見せてくれた。
叡山線疏水橋梁、右はその銘板 |
撮り鉄、被写体になる (小森さん提供) |
住宅街の中の直線路をなおも進んでいけば、やがて鴨川の支流、高野川にぶつかる。もともと疏水はこの川を伏樋(ふせひ)で通していたのだが、治水工事で河道の拡張・掘削が行われた際に撤去されてしまった。それ以来、疏水の水は対岸に届かず、ここで高野川に放流されているそうだ。
道路橋もないので、少し下手に架かる北大路通の高野橋まで迂回した。対岸に渡ると、疏水道に面して松ヶ崎浄水場の門がある。傍らに建つ現代建築風の塔が目を引くが、濾過池にたまった砂などを洗い流すために水を貯めておく洗浄水槽だ。「ウルトラ警備隊の基地みたいですねえ」と森さんが感心したように言う。
高野川北望、左奥の山は比叡山 |
(左)松ヶ崎浄水場、左の塔は洗浄水槽 (右)浄水場前の水路はわずかな水量しかない |
この先は、水路が緩やかに左カーブしながら、下鴨の住宅街を貫いている。両岸に植えられた桜や楓の木がその上に枝を伸ばし、青草の堤に濃淡の影を落とす。のどかな田園風景の名残が感じられる場所だ。「観光地じゃないので、サクラの時期でもしずかです。夏の初めにはゲンジボタルも舞いますよ」。しかし、上流が断ち切られているため、水量はわずかしかない。これでも干上がらないように、浄水場からおこぼれが落とされているそうだ。
下鴨の疏水分線 |
北から流れてくる泉川とは平面で交差している。泉川は、高野川で取水され、街中を通って糺の森(ただすのもり、下鴨神社境内)に入る小さな川だが、交差地点を観察すると、川幅の4割ほどが疏水の下流側に導かれている。一方、疏水は泉川と完全に混じり合い、平水時はほぼ全量が泉川の下流側へ向かう。つまり疏水分線は、ここで琵琶湖水系から高野川水系に入れ替わってしまうのだ。
西へ進むうちに、何か所かで旧 農業用水の水が加わり、水量が徐々に増えていくのがわかる。だが残念ながら、開渠区間は下鴨本通(しもがもほんどおり)の手前で終わりとなる。水は暗渠に潜り込んでいき(下注)、後は、水路跡をなぞる緑道が続いているばかりだ。
*注 暗渠の水は全量が鴨川に放流されていたが、付記で述べるように、近年の整備事業で、一部が堀川に導水されるようになった。
(左)泉川との交差 手前→奥が疏水分線、右→左が泉川の水路 泉川の約4割が疏水側に誘導されている (右)開渠区間の終点 |
かつての電車通りである北大路通を斜めに横断する。少し進めばもう主要河川の鴨川(賀茂川とも書く、下注)だ。かつての疏水分線はここも伏樋で横断し、対岸に続いていた。しかし右岸(西)側は戦後暗渠化されて、紫明通(しめいどおり)の一部となり、地上に痕跡をとどめない。それで分線をたどってきた私たちの歩きもここが終点だ。
*注 河川法上は鴨川の本流だが、地元では、高野川との合流点より上流を「賀茂川」と表記する。
(左)疏水跡の緑地帯、後方は比叡山 鴨川堤から東望 (右)鴨川を隔てて疏水跡(紫明通)の並木が見える |
建設から120年、長い歳月の間に疏水分線は託された役割を果たし終えた。水流は細り、寸断され、もはや厳密には1本の水路と言えなくなっている。しかし、その存在価値まで摩滅したわけではないようだ。沿線に立地する寺社や庭園や閑静な住宅街に今もさまざまな形で潤いをもたらし、趣のある散策路として市民や観光客に愛され続けているからだ。
川の堤に上ると、広々とした河原に薄日が差し、心地よい風が吹き抜けていた。「お疲れさまでした」「ガイドしてもらったおかげで、疏水のことがよくわかりましたよ」。ねぎらいの言葉を交わしながら、私たちは北大路橋を渡り、地下鉄の駅に向かった。
出雲路橋から鴨川(賀茂川)を北望 奥に架かる橋は北大路橋 |
【付記】
疏水分線の残り区間(鴨川~小川頭)の状況についても記しておこう。
1:10,000地形図で見る鴨川右岸の疏水分線 (上)1951(昭和26)年修正測量図 疏水の南側に疎開空地が残る (下)2003(平成15)年修正図 跡地は紫明通に |
この区間は旧市街の外縁に当たり、かつては田園地帯だったが、1923(大正12)年の市電烏丸線開通に伴い、市街地化が進行した。第二次大戦末期、防火帯を設けるべく疏水南側で建物疎開が実施され、戦後、その空地が紫明通として整備された。紫明通が京都の大通りとしては珍しく蛇行ルートで、かつ広い中央分離帯を有するのは、これが理由だ。分離帯の一部は街路樹の苗圃として利用された時期があり、その名残で大木が多く育っている。
紫明通、左は中央分離帯の林 疏水は通りの右寄りを走っていた |
紫明通の北縁を通っていた疏水は1956(昭和31)年に暗渠化され、下水道に転用されてしまったが、最近まで、鴨川堤から西80mの紫明通北側では、植え込みに半ば埋まる形で水門跡が残っていた(2014年2月に撤去)。また、烏丸紫明交差点の西300mの紫明通北側歩道脇(京都教育大学付属中学校南側)には、「疏」の字を刻んだ境界標が今も数本残されている。
紫明通にあった水門跡 (2012年4月撮影、小森さん提供) |
紫明通に残る境界標 |
分線終点の小川頭は、現在の堀川紫明交差点(バス停名は堀川鞍馬口)付近だが、疏水跡はおろか合流先の小川自体もすでに地上から消失してしまった。
なお現在、紫明通の中央分離帯(せせらぎ公園)に小さな水路が通っているが、これは疏水跡ではなく、堀川水辺環境整備事業により2009(平成21)年3月に完成した新しい水路だ。しかし水源は鴨川左岸の疏水分線で、鴨川の下をサイフォンで通し、右岸側で地表面までポンプアップしている。
小川頭、現在の堀川紫明交差点 |
堀川水辺整備事業 (左)疏水分線からポンプアップした人工滝 (右)中央分離帯に造られた小水路 |
掲載の地図は、地理院地図および国土地理院発行の2万5千分の1土地条件図京都(昭和50年調査・編集)、地理調査所発行の1万分の1地形図上賀茂(昭和26年修正測量)、国土地理院発行の1万分の1地形図京都御所(平成15年修正)を使用したものである。
■参考サイト
琵琶湖疏水記念館 https://biwakososui-museum.city.kyoto.lg.jp/
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