コンターサークル地図の旅-福知山線生瀬~武田尾間旧線跡
2020年秋コンターサークル-S の旅関西編1日目は、福知山線(JR宝塚線)生瀬(なまぜ)~武田尾(たけだお)間の旧線跡(下注)を歩く。武庫川(むこがわ)の渓谷に沿ってトンネルと鉄橋が連続していた区間で、大半はハイキングルートとして開放されているが、その前後に残された廃トンネルの現状も観察したいと思っている。
*注 地元兵庫県や西宮市の公式観光サイトでは「福知山線廃線敷」の名称が使われている。
トンネル、鉄橋、またトンネル 第二武庫川橋梁にて |
福知山線は、東海道本線の尼崎駅と山陰本線の福知山駅を結ぶJR西日本の電化路線だ。大阪市内から直通の快速電車(下注)が走り、都市近郊線網の一部を成している。しかし、市街地が続くのは宝塚までで、その先は北摂(ほくせつ)山地を横断していかなければならない。にわかに谷が深まり、列車は2本の名塩(なじお)トンネルをはじめとする長いトンネルをいくつもくぐり抜けていく。
*注 ただし、三田(さんだ)以北は実質各駅停車。
新線は長大トンネルで渓谷を串刺しに 武田尾駅付近 |
1898(明治31)年から翌99年にかけて開通したこの区間が現在のトンネル主体の新線(下注)に切り替えられたのは、1986(昭和61)年8月だ。それまで90年近くも使われた旧線のルートは、渓谷の底を流れ下る武庫川の流路に忠実に従っていた。
*注 新線への切り替えは、生瀬駅付近から武田尾を経て、道場(どうじょう)駅付近まで。これに伴い、武田尾駅は約350m西へ移設された。
渓谷沿いの旧線を行く特急列車 奥のトンネルは長尾山第一隧道 写真はT氏提供 |
廃線後の跡地は立入禁止となったが、生瀬と武田尾の間はとりわけみごとな渓谷美で知られており、無断で歩く人が絶えなかった。対策として入口の柵が撤去される代わりに、事故等が発生しても責任は負わない旨の看板が立てられた。
現在のようなハイキングルートとして全線が正式に開放されたのは、2016(平成28)年のことだ。それに先立ち、西宮市域では2016年5月から半年間、ルートを閉鎖して整備工事が行われた。入口に案内板やトイレが設置され、橋梁には板張りの通路が造られ、最寄り駅(下注1)ではルートを案内する「廃線敷マップ」も配布されるようになった(下注2)。
*注1 生瀬駅の駅前広場が狭く、また国道の狭い歩道を通らなければならないため、多人数での利用では西宮名塩駅からのスタートが推奨されている。
*注2 「廃線敷マップ」のPDFファイルが下記参考サイトでダウンロードできる。
1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆 |
旧線時代の1:25,000地形図 (1972(昭和47)年修正および1977(昭和52)年改測) |
◆
11月1日10時、生瀬駅に集まったのは中西、大出、木下さん親子、下津井の回にも来てくれた海外鉄道研究会のTさん、それに私の6名。朝方は少し冷えたが、暖かい日差しが降り注ぎ、歩きには申し分ない日だ。
ハイキングルートの起点は、駅から歩いて15分ほどの場所にある。しかし、旧線跡は駅の東方(宝塚方)からすでに始まっており、この駅自体、新線上に移転している。すぐ北側(川側)にあった旧駅跡をさっき上りホームから観察したのだが、空地で残されているものの、金網で周囲が覆われ、立ち入れそうになかった。
駅前の道路を西へ進み、新線をアンダーパスして、クルマが激しく行きかう国道176号線(名塩道路)に合流した。南側(山側)には、沢をまたいでいた旧線の小さな橋が顔をのぞかせている。
生瀬駅 (左)新駅舎 (右)下り普通列車が入線 |
(左)現 生瀬駅の北側にある旧駅跡 (右)沢をまたぐ旧線(手前)と新線(奥)の溝橋 * キャプション末尾に*印があるものは2018年4月撮影。以下同じ |
有馬温泉へ向かう街道が分かれる太多田川(おおただがわ)橋付近は目下、国道の改良工事中で、雑然としていた。旧線には、太多田川橋梁をはさんで2本のトンネル(下注)があったが、東側の城山隧道西口とその真下の太多田川橋梁東側橋台は、樹木の陰になってよくわからない。「道路工事の影響を受けていないので、残っているとは思うんですが…」と私。
*注 城山隧道(第2号隧道)は長さ63m、当田隧道(同 3号)は同 209m。
一方、西側橋台は、旧 有馬街道の脇に無傷で残っていた。それに接続していた当田隧道東口も、森の踏み分け道を上った先にあった。しかし、国道の新トンネル工事に支障するためか、坑口が完全に塞がれている。廃線跡はここから中国道の高架下まで、この改良国道によって「上書き」される予定で、西口付近は工事現場になり、すでに原形をとどめていない。
太多田川橋梁跡 (左)左岸の橋台 (右)右岸を望むも、橋台とトンネルは樹木の陰 |
車道の脇の、人一人通れるだけの狭い歩道を進んで、木之元(このもと)集落へ。本来、国道は旧線を跨線橋で乗り越えていたのだが、今は高い盛り土に替えられ、廃線跡はその下に埋まっている。
横断歩道を渡り、川のほうへ降りていくと、国道の土留めの下から廃線敷が湧き出すように現れた。ハイキングルートの始まりだ。休日とあって、中高年のグループ、家族連れ、若いカップルとさまざまなハイカーが歩いている。「こんなに人の多い廃線跡は珍しいですね」と中西さん。
このルートのいいところは、渓谷内に並行する道路が造られていないことだ。そのため聞こえるのは、歩く人の話し声を除くと、渓流の絶え間ない水音と頭上でこだまする鳥のさえずりのみ。自動車の騒音とは無縁の、落ち着いた自然環境が保たれている。
武庫川渓谷(右奥)に入っていく廃線敷ルートを遠望 |
すぐに一つ目の橋、名塩川橋梁を渡る。板張りの歩道が整備されているが、橋桁はオリジナルのガーダーだ。また少し行くと、二つめの橋梁。こちらは石積みの橋脚がいい味を出している。歩を進めるにつれ、枕木が埋まったままの路面、路側に立つ通信線の電柱や保線作業の見張り台、そして塗装の間から錆が浮き出た鉄柵と、鉄道時代の小道具が次々と現れ、目を楽しませてくれる。
名塩川橋梁 (左)整備された板張りの歩道 (右)橋桁はオリジナル |
二つめの橋梁(姥ヶ懐川橋梁)と石積みの橋脚 |
鉄道時代の小道具が次々と (左)枕木とレンガの擁壁 (右)通信線の電柱 |
(左)速度制限標識 * (右)距離標 * |
(左)錆が浮き出た鉄柵 (右)保線作業の見張り台 * |
対岸は、岩がむき出しの崖だ。河原にも大小さまざまな岩が無数に転がり、水流はその間を縫うようにして早瀬と淵を繰り返す。岩はみな白っぽい色をしている。これは流紋岩溶結凝灰岩(凝灰岩等を主体とする流紋岩)で、白亜期に火山からの噴出物が堆積し、自らの熱と重量で溶融して圧縮されたものだ。
中でも目を引く巨岩が高座岩(たかくらいわ)で、差し渡し7~8間(13~14m)、高さが4~5間(7~9m)。竜宮につながっているとされ、昔は平たい上面で雨乞いの儀式が行われていたそうだ(下注)。なお、地形図では対岸の張り出し尾根に高座岩の注記が見えるが、実際は右岸の河原にある。
*注 この段は「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」p.17による。原典は有馬郡誌(1929年)。現地の案内板には「こうざいわ」とルビが振ってあったが、意味からして「たかくらいわ」が正しいと思われる。
河原でひときわ目を引く高座岩 * |
目の前にハイキングルート一つ目のトンネル、長さ318mの北山第一隧道が口を開けている。ポータルは美しい石積みだが、他のトンネルと異なり、これだけアーチがレンガ巻きではなくコンクリート製だ。というのもこのトンネルは、落石事故を防ぐために1922(大正11)年に追加で造られたもので、もとは川沿いをトンネルなしで通過していたのだ。ポータルの右側にある金網の先がその跡で、以前は歩いて通ることもできたらしい。
トンネルはどれも内部に照明設備がなく、ちょっとした探検気分が味わえる。しかし、漏水によるぬかるみを防ぐためか、路面にはバラストが敷かれており、場所によっては枕木も残る。足を取られやすく、ライトが必携だ。
北山第一隧道南口 右の金網の先が旧線跡 |
(左)内部はコンクリート巻き * (右)北口、左が旧線跡 |
緩やかな左カーブを追っていくと、二つ目の北山第二隧道(第4号隧道、下注)が見えてくる。長さ413mとルート最長で、かつ出入口付近がカーブしているため、内部に外光が全く届かない。漆黒の闇の中、手持ちのライトを頼りに黙々と歩く。最後のカーブでほのかに明かりが見えてくると、思わずほっとした。ところがふと気がつくと、木下さんちのキリ君の姿が見えない。トンネルの中で迷子になったのか、と一瞬心配したが、「先のほうで待ってますよ」と誰かが言う。単に私たちの足が遅いだけだった。
*注 隧道の号数は開通当時のもののため、後に造られた北山第一隧道は数えない。
北山第二隧道 (左)南口はコンクリート製だが… (右)内部に延長された跡がある 奥が初期のレンガ巻きのトンネル |
(左)北山第二隧道。北口はもとのレンガ巻き (右)上部に沢を通す構築物 * |
明かり区間では、武庫川の渓谷美が相変わらず冴えている。次の溝滝尾隧道の手前には、岩のはざまを水流が滝のように滑り落ちている場所がある。その名も溝滝(みぞたき)で、2段に分かれているので雄滝と雌滝と呼ばれているらしい。
溝滝の眺め * 手前の早瀬は雄滝、雌滝は左奥 |
(左)溝滝尾隧道南口 (右)トンネルの手前に枕木の山 * |
溝滝尾隧道は長さ150mと比較的短いにもかかわらず、全線のハイライトと言っていい。渓谷を跨ぐ橋梁に接続しており、出口が近づくと、坑口のアーチの先に日差しを受けた朱いトラスの骨組みが重なって見えてくる(冒頭写真参照)。この印象的な構図には、誰しもカメラを向けずにいられない。
その第二武庫川橋梁を渡って左岸に移る。以前、ハイカーは保線用の側道を渡っていたのだが、線路があった中央部に板張りの通路が通され、より安全に通過できるようになった。通路の白木の欄干(柵)がまだ新しく、廃線跡にしてはちょっと違和感があるが…。
橋梁に続いて、長さ307mの長尾山第一隧道に入る。さすがに暗闇の行軍にも慣れてきた。路面に枕木がないのは、武庫川の増水の折に流されたからだそうだ。それを回収したのが、さっきの溝滝尾隧道の手前に積み重ねてあった枕木の山だろう。
堂々たるトラスの第二武庫川橋梁 |
(左)溝滝尾隧道北口に直結 (右)渓谷を斜めに横断 * |
このトンネルを抜けると、川床は平たく、流れも目に見えて穏やかになる。廃線跡は、なおも緩い左カーブを描いて延びている。前方遠くの河原で、ハイカーたちが散開しているのが見える。親水広場と名付けられた休憩地で、線路脇にも小さな広場がある。ずっと歩いてきたので、足を休めたいと思うのはみな同じだ。席を譲ってくれたグループに礼を言って、私たちもここで昼食にした。元気が有り余っているキリ君は、食べ終わるやいなや、水切りをしに河原に降りていった。
長尾山第一隧道北口を南望 * 右奥に見えるのは神戸水道の水道橋 (旧線を走る特急列車の写真はこの付近) |
親水広場で休憩 |
1時間ほど休憩した後、腰を上げる。残り2本の短いトンネルをくぐれば、まもなくハイキングルートの終点だ。僧川(そうかわ)に架けられた小さなガーダー橋を渡るが、このあたりは土地が再造成され、ひなびた渓谷の風情は一変している。2014年の洪水で被災し、土地のかさ上げや堤防の強化工事が実施されたからだ(下注)。
*注 ガーダー橋も土地造成に伴い掛け直されている。僧川の流路自体、やや東に移設された。
上流部で進められた大規模な住宅開発の影響で、洪水調節機能が失われ、近年は大雨が降るたびに渓谷の水位が急上昇するのだという。旧 武田尾駅の跡を探してみたが、かろうじて道路脇にコンクリートの低い擁壁(?)が見つかる程度で、面影はほとんどなくなってしまった。
ハイキングルートも終わりが近づく |
ハイキングルート終点 (左)架け直された僧川橋梁 (右)土地造成で景観は一変 |
武田尾温泉に向かう温泉橋を通り過ぎ、神戸水道のクランク状の管路をくぐったところに、武庫川渓谷を横断する福知山線の鉄橋と、現在の武田尾駅がある。平地がないので、ホームが半分、鉄橋上にはみ出した形だ。あとの半分はトンネル内で、複線に対面式ホームの幅を加えた、ローカル駅とは思えない大空間が広がる。「モンテカルロ駅みたいでしょう」と、地元在住のTさんが笑う。
神戸水道の水道橋 (左)武庫川をトラスで渡る (右)線路跡をオーバークロス |
橋梁とトンネルにまたがる現 武田尾駅 * |
ゆっくり歩いてきたつもりだが、まだ14時になっていない。私たちはさらに足を延ばして、次の草山隧道を見に行った。これは道路として使われているのだが、東口から数十m入ったところに通行止めの柵があり、左に開けられた出口へ迂回させられる。なぜなら、柵に「観光バス専用道」の表示板がぶら下がっているとおり、残りは川沿いの旅館「別庭あざれ」の専用道になっているのだ。
それで、川岸の迂回路を歩いて西口のある河原へ。こちらにも同じように専用道の表示板とともに、バーが1本渡してあった。「川岸の道が狭いから、バスの抜け道に利用しているのでしょうね」と私。とはいえ、封鎖されずに残っているだけでもよしとすべきか。
道路に転用された草山隧道 * |
(左)南口 * (右)「草山T(9)(第9号隧道の意)」のプレート * |
草山隧道を抜けた列車は、すぐに第三武庫川橋梁を渡り、対岸でまた次のトンネルに入っていたはずだ。しかし、両岸に残された橋台が場所を示しているだけで、橋そのものは跡形もない。対岸も森にすっかり覆われ、トンネルのありかを見分けることさえ難しかった。
第三武庫川橋梁の橋台 * 次のトンネルはよく見えない |
【付記】
新線に切り替えられた武田尾~道場間のうち、残り区間の新旧地形図を掲げておこう。橋梁が撤去され、道路転用もされていないため、旧線跡探索のハードルはかなり高そうだ。
武田尾~道場間の現行1:25,000地形図 (2019(令和元)年修正) |
同 旧線時代の1:25,000地形図 (1972(昭和47)年修正) |
本稿は、21世紀の武庫川を考える会 編「武庫川渓谷廃線跡ハイキングガイド」日本機関紙出版センター、2017年 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図武田尾(昭和47年修正および令和元年調製)、宝塚(昭和52年改測および平成29年調製)を使用したものである。
■参考サイト
にしのみや観光協会 https://nishinomiya-kanko.jp/
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はじめまして、鉄道が好きです。
膨大な鉄道の資料ですね、三重県にあった、津市と久居を結ぶ軽便鉄道 「中勢鉄道」はご存じですか?明治生れの祖父が勤めてました。昔の廃線跡が少しだけ、今も残ってます。
投稿: マレーネ | 2020年11月23日 (月) 12時23分