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2020年10月

2020年10月27日 (火)

コンターサークル地図の旅-石の里 大谷

朝10時、JR宇都宮駅西口のペデストリアンデッキからバスターミナルの乗り場へ降りると、すでに20人以上が列を作っていた。それも若者が多い。まさかそれほどの人気スポットとは知らなかったから、日曜なのに学校で授業か試験でもあるのか、と勘繰ったほどだ。聞くと、最近またメディアで取り上げられたらしい。私たちが行こうとしている場所は、PVその他の映像作品のロケ地としてもしばしば使われている。

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大谷資料館の地下採掘場跡
 

2020年10月4日、コンターサークルSの旅2日目は、その宇都宮市大谷町(おおやまち)を訪ねた。宇都宮駅の北西約8kmにある、建築用石材として名高い大谷石の産地だ。

大谷石とは、今から約1500万年前に火山灰や軽石などの火山噴出物が海底に堆積して凝固した角礫凝灰岩のことだ。気泡が多く含まれるため、比較的軽くて加工しやすく、建材として重宝されてきた。とりわけ大正期、関東大震災に見舞われた東京で、これを使った帝国ホテル本館(下注)が無事だったことから耐火性が評価され、復興需要で一躍その名が広まった。

*注 そのエントランス部分は、愛知県の博物館明治村で移築公開されている。

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大谷寺と大谷公園をつなぐ切通し
 

大谷石はこの地域の東西約5km、南北約10kmにわたって分布しており、露天掘りだけでなく、坑内掘りも盛んに行われてきた。現地には、こうした地下の広大な採掘場跡を公開している資料館があり、切り出した石材を運搬していた軌道跡なども残っている。きょうは一日、このユニークな石の里を巡るつもりだ。

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大谷資料館の位置
(1:200,000 平成22年修正図)
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と東武大谷線の位置(緑の破線)等を加筆

集合したのは中西、大出、森さんと私の4名。並んでいた若者たちとともに、10時05分発の大谷・立岩行きに乗り込んだ。バスは中心街を東西に貫く大通りから、大谷街道へと進んでいく。車内はほぼ満席で、ほぼ全員が大谷まで乗り通した。

資料館入口というバス停で下車。姿川が流れる谷間で、両側を屏風のように切り立つ灰色の崖に挟まれている。これも大谷石の露頭だ。バスは空っぽになるし、屋台も出ていて、すっかり著名観光地の様相だが、関東圏に住むメンバーでも、「何かきっかけがないと、ここまで足を延ばすことはないですね」という。ともかく案内標識に従って、山手へ歩いていく。

広い駐車場を通り抜け、急な坂道を上り、谷の奥まったところに、大谷資料館と付属のカフェ・売店があった。ここも昔は露天掘りされていたのだろう。周囲の岩山は直線的かつ複雑な形状に切り出されていて、眺めるだけでも面白い。鉱山の跡というよりもはやアートだ。

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(左)資料館入口バス停
  バスは宇都宮LRTのラッピング車だった
(右)大谷資料館正面(2017年撮影)
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資料館の周りのアートな岩山
 

資料館1階には、大谷石に関する資料が展示されている。メンバーがめざとく見つけたのが、石材を運搬していた手押しトロッコの復元模型。レールに載せた木枠の車台に、直方体に切り揃えられた本物の大谷石がぎっしりと積まれている。このようなトロッコで採掘場から荷捌きの駅まで移送していたのだ。ふと岐阜県岩村の酒屋で見た横丁鉄道(下注)を思い出した。

*注 酒屋の横丁鉄道については、本ブログ「城下町岩村に鉄路の縁」の末尾で記述。

トロッコ展示の上には、この一帯に張り巡らされていた石材軌道の路線図が掲げてある。実現はしなかったが、滞貨を解消するために、宇都宮駅を起点とする大谷石材鉄道という新線計画もあったという。旺盛な石材需要に乗って、この地域が栄えていたようすが想像できる。

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大谷石を運んだ手押しトロッコ
(大谷資料館の展示)
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石材軌道の路線図(大谷資料館の展示パネル)
左は開通年、中は廃線年を記載、
右は未成に終わった大谷石材鉄道を解説
 

資料はそれぞれに興味深いのだが、この施設の神髄はまだ別のところにある。右手の入口から降りていく石の階段の先に、にわかに開ける巨大な地下空間だ。それは四角い断面の筒を横倒しにした形で、奥に向かって沈み込むように傾斜している。さらに左右にも同じような筒状空間が延びている。歩き回るにつれ、全体が大谷石の地層の中に掘られたホール状の空洞で、一部を柱として残してあるのだということがわかってくる。

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石の階段を下りていくと…
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地下採掘場の巨大な空間が開ける
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(左)底部から見た入口の階段
(右)成形作業の展示
 

天井はるか高いところに開いている穴は、深さを測った跡だという。一面鑿や鶴嘴の跡が残された壁は、カメラで切り取るとまるで現代美術のようだ。坑内には七色のライトアップが施され、目を引くために野外彫刻のような造形物が配置されている。しかしそれらは味付けに過ぎず、この大空間が放つ荘厳さそのものが、訪れた者に驚きと感動を呼び起こす。

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ライトアップされた地下採掘場跡
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訪問者がカメラを向けているのは
天井に開いた深度測定用の穴
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鑿や鶴嘴の跡は現代美術のよう
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開口部から地上の光が差し込む
 

説明板によると、ここは大正時代から60年以上にわたって大谷石を採掘した跡で、間口150m、奥行き140m、深さは平均地下約30m、野球場一つ入る大きさがあるそうだ。そして、見て回れるエリアは実は全体の半分にも満たず、未公開の坑道がまだ奥の暗闇に眠っているのだという。

外の気温は22度あったが、坑内の気温計は13度とかなり涼しい。ジャケットの裾をたぐり寄せながら、この途方もない体積を掘り、搬出した時間と労力に思いを馳せた。朝のバスの混みぐあいや駐車場に櫛比する車の数も、この非凡な体験を得るためだとしたら納得がいく。

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(左)坑内気温13度
(右)坑内図
  公開部は薄灰色、
  背後に広大な非公開部(白色、立ち入り禁止と注記)がある

資料館を後にして、さっきのバス停の前にある大谷景観公園で昼食にした。芝生の中に設置された広い木製テーブルが、使ってくださいと言わんばかりに私たちを誘っている。

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大谷景観公園
中央のテーブルで昼食タイム
 

昼食後は、大谷寺の前から、平和観音が立つ大谷公園へ抜けた。ここも露天掘りの跡だが、そこに石の山から彫り出したという観音像がある。高さは約27m、尺貫法では88尺8寸8分で、足元から仰ぐとかなりの迫力だ。頭部はていねいに彫られ、裳裾も優美なフォルムを描いているが、「手はどうなってるんでしょうね」と誰かがつぶやく。あまり注目されない部分なので、ラフに仕上げてあるのだろうか。

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石の山から彫り出した大谷観音
 

資料館で見たとおり、かつて大谷石は鉄道で運び出されていたので、一帯の鉄道密度はかなり高かった。嚆矢となったのは、1897(明治30)年開業の宇都宮軌道運輸による人車軌道で、1903(明治36)年に日光線の鶴田駅に接続されている。この後、点在する産地に向けて2社が争うように路線を延ばしたが、1907(明治40)年に宇都宮石材軌道に一本化され、さらに1931(昭和6)年に、宇都宮に進出した東武鉄道によって買収された(下注)。

*注 それに伴い、鶴田駅西方の分岐点から東武宇都宮線の西川田駅に接続する新線が建設されている。

東武大谷線の路線網には、軌間610mmの「軌道線」と、同 1067mmの「軽便線」の二つのグループがあった。第二次大戦後、トラック輸送の普及により、前者は1952(昭和27)年に全廃されてしまったが、後者は1964(昭和39)年まで運行されていた。そこで採掘場跡を巡った後は、この大谷線の跡を訪ねる。

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石材軌道現役時代の1:25,000地形図
(1929(昭和4)年修正図)
 

森さんが、廃線跡の現状について解説した資料を配ってくれた。それに従って、大谷街道を宇都宮の方向へ少し戻る。この街道上にも併用軌道が敷かれていたはずだが、大谷寺西方の三叉路付近に、軌道線大谷駅跡が空地として残されているだけだ。

県道70号(宇都宮今市線)の大谷交差点からさらに東へ進むと、道路の南側に、軽便線の荒針(あらはり)駅跡である広大な敷地が見えてきた。ロードサイドの商業地区に再生され、奥はパチンコ店の駐車場に使われている。

線路はまもなく大谷街道から離れ、一路南へ向かっていた。だが、鹿沼街道との交差点までは、明保(めいほ)通りとして拡張整備されており、痕跡は消失している。それで、荒針分岐点から北上していた立岩(たていわ)支線跡に足を向けた。

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東武大谷線跡
(左)荒針分岐点から南は明保通りに転換
(右)北は小道になって続く
 

こちらは車1台通れる程度の小道のままで、まだしも鉄道の雰囲気を残している。右手から近づいてくる2車線道と接する地点に、「東武鉄道株式会社社有地」と記された杭が2本立っていた。簡易舗装された歩道に見えるので、社有地とは意外だった。処分しない理由があるのか、あるいはどこも引き取ってくれなかったのか。いずれにしても廃線跡を示す決定的証拠には違いない。

すぐに瓦作(かわらさく)駅の跡がある。片側が森に接したやや幅広の敷地に、大谷石のベンチらしきものが置かれている。その先は通学路に使われていたようで、車道との交差点に「止まれ」の標識やロードサインが見られた。しかしかなり古びていて、もう利用されていないのかもしれない。

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(左)道端に立つ東武社有地標
(右)瓦作駅跡
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(左)瓦作駅北方の、枕木を再利用した柵
(右)田んぼの中を延びる廃線跡
 

車道と分かれ、線路跡の道は田んぼの中を心細げに延びる。終点の立岩駅跡は児童公園に変貌していたが、ここでも同じ社有地標を発見した。

立岩支線は、先ほどの荒針分岐点からここまで2.1kmの短い貨物専用線だった。レールこそ取り払われてしまったが、それを除けば、ここにゴトゴトと無蓋貨車を牽いて列車がやってきてもおかしくない。そう思わせる、時が止まったような廃線跡だ。

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(左)終点立岩駅跡は児童公園に
(右)ここにも社有地標が
 

立岩には、朝乗ってきた路線バスの終点がある。帰りのバスも混むだろうから、始発から乗るにこしたことはない。運転手は「折り返しまでまだ時間があるので、乗って待っていてください」と私たちに言って、休憩に出ていった。村はずれの、ベンチもない停留所だったので、疲れた足にはありがたかった。

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帰りは立岩バス停から
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の2万5千分の1地形図大谷(昭和4年修正測図)、宇都宮西部(昭和4年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大谷(平成29年調製)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
Oya, Stone City https://oya-official.jp/

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2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年あまり、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことと、「三密」になりにくい外歩きであることも考慮して、企画の再開に踏み切った。

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花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身の下野(しもつけ)電気鉄道によって、1924(大正13)年にまず高徳(のちの新高徳)~天頂間が、762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸され、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

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矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
「下野電鐵」の注記がある
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

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矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

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矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
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矢板線現役時代の地形図(1929(昭和4)年修正図)
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大、以下同じ
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

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水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

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実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

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(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左の画面外にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
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1:25,000 合会集落~玉生間
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矢板線現役時代
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

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(左)タクシーを降りた場所
  左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
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(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡をなぞる林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

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(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

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(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

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林道の左の深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
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(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年修正図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

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(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

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立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りる。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

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(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
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荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし今やそのバス路線も、自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずまずの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

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高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。とは言え、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

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玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

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(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

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地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
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地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
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1:25,000 玉生~船生間
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矢板線現役時代
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

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芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

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芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

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芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

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(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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1:25,000 船生~西船生間
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矢板線現役時代
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

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道の駅に併設の交流館
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交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう(下注)。

*注 読者の方から、矢板線の高徳~天頂間開業時には「船生新田」駅が存在しており、当時の資料から1929年10月22日の矢板延伸開業および1067mm改軌の際に廃止されたと考えられる、というご指摘をいただいた(下のコメント欄参照)。使用した1:50,000地形図は矢板延伸開業と同じ1929年の修正図だが、同時に存在しないはずの矢板延伸線と船生新田駅がともに描かれており、時間関係があいまいだ。
また、西船生駅が表示されていないのは、開設が修正年より後の1930年6月10日だからだと思われる(地形図の発行日は1932年6月30日なので追加修正は可能だっただろうが…)。

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船生~西船生間は一本道の農道が続く
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(左)西船生駅跡
(右)園バスと間違えそうな新高徳行き路線バス
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

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1:25,000 西船生~新高徳駅間
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矢板線現役時代
(1933(昭和8)鉄道補入図、右側は1929(昭和4)年修正図)
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(左)新高徳駅手前の廃線跡の道路(東望)
(右)現在の新高徳駅舎
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

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