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2020年9月18日 (金)

レッチュベルクトンネルの謎のカーブ

スイスアルプスを南北に貫く鉄道軸の一つが、首都ベルンから南下するベルン=レッチュベルク=シンプロン鉄道 Bern-Lötschberg-Simplon-Bahn(以下 BLS と略す、下注)だ。これは、ベルンアルプス(ベルナーアルペン)Berner Alpen を長大なトンネルで貫いてローヌ谷のブリーク Brig に至るルートで、ブリークからは、シンプロントンネルを介してイタリアに通じている。

*注 本来のBLS線は、トゥーン Thun ~ブリーク間と、シュピーツ Spiez ~インターラーケン・オスト Interlaken-Ost 間だが、1997年に周辺の小鉄道3社を統合し、路線網が拡張された。

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レッチュベルクトンネル南口(2012年)
Photo by Adrian Michael at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

BLS線にとって要の位置を占めるのが、レッチュベルクトンネル Lötschbergtunnel だ。1906年に着工され、6年の工期を経て、1912年に竣工した(開業は1913年)。14.6kmの長さがあり、当時、シンプロン Simplon の第1および第2、ゴットハルト(ゴッタルド)Gotthard/Gottardo に次いで4番目に長いアルプス横断鉄道トンネルだった。

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レッチュベルクトンネルと周辺の鉄道路線
赤線が BLSの旧 本線区間
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カンダーシュテーク駅
Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

トンネルの北口はカンダー谷のカンダーシュテーク Kandersteg に、南口はレッチェン谷のゴッペンシュタイン Goppenstein に置かれている。大規模な山岳トンネルのルートは直線が望ましい。距離が最短になるだけでなく、当時の技術では導坑掘進の際に生じがちな測量誤差を、最小限に抑えることができるからだ。

ところが地形図を見ると、トンネルの平面線形は直線どころか、途中で妙なカーブを描いている。試しに北口と南口に定規を当ててみると、両端の区間は同一直線上にあることがわかる。そこで、本来トンネル全体が直線で計画されていたにもかかわらず、何らかの理由で中間部を曲げざるを得なかったという推測が成り立つ。

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1:100,000地形図に描かれたレッチュベルクトンネル
41 Col du Pillon 1992年
42 Oberwallis 1993年
© 2020 swisstopo
 

と、ここまで来れば、鉄道に詳しい方なら、上越新幹線の高崎~上毛高原間にある中山トンネルを想起されることだろう。建設中に大量の出水に見舞われ、ルート変更を余儀なくされた事例だ。現場に半径1500mのカーブが設けられたため、通過する列車に今も速度制限が課せられている。

掘削技術が進歩した1970~80年代でもそれほどの難工事があったのだから、さらに70年も前のレッチュベルクでの苦難は推して知るべしだ。いったい何が起こったのだろうか。スイス土木工学学会の刊行書籍「スイスにおけるアルプス開鑿史」(下注1)のレッチュベルクトンネルの章に、その顛末を記した技師ロートプレッツ Rothpletz 博士の手記(下注2、原文はドイツ語)が抜粋引用されている。それによると…

*注1 "Historische Alpendurchstiche in der Schweiz" Gesellschaft für Ingenieurbaukunst, 1996.
*注2 F. Rothpletz "Erinnerung an die schwersten Tage meines Lebens und deren Folgen(わが人生で最も困難な日々の記憶とその結末)" 1944.

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「スイスにおけるアルプス開鑿史」表紙
 

「1908年7月23日、… 底設導坑の胸壁は、坑門からの測定で2.675 kmに達していた。…」

「(夜)1時ごろ、私は坑門の外約200mにある家にいた。疲れていたのですぐに深い眠りについたが、3時頃、技師の一人に起こされた。『トンネルで何かあったようです』彼はそう言うと、先に出ていった。」

「坑門に着くと、しんと静まり返っていた。管理事務所では、全員が出払っていて、何が起きたのかほんとうに誰も知らないという答えだった。入坑簿を確かめたところ、掘削現場のほぼ全員が戻ってきていないことがわかった。彼らはまだ坑道内に残されていたのである。私は何が起きたのかを調べるために、すぐに現場監督とともに人けのない坑道に入った。坑門から1200mで、円錐形の岩屑に遭遇した。坑門から約1500mの地点で、坑道が岩屑で満たされ、その堆積から水が流れ出していることが明らかになった。」

「私はすぐに悟った。先進坑で崩壊が起きたこと、そしておそらくガステルン谷の堆積物がその中に流入したことを。全員の消息が不明だった! (後日)ガステルン谷で行われた調査で、(河原に)直径約80m、深さ3mの漏斗状の陥没が発見された。すなわち、最後に仕掛けた発破で岩の壁が破られ、… 坑道にガステルン谷の堆積物が流入したのだ。… 地質調査で推定されていた、坑道の上にはまだ厚さ100mの石灰岩の層が横たわっているというのは、誤りであった。」

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ガステルン谷の陥没現場
Photo from E-Pics Bildarchiv online. License: CC BY-SA 4.0
 

「捜索中、円錐形の岩屑の端からさほど遠くないところで作業員の一人が死亡しているのが見つかった。24名の同僚の代わりにカンダーシュテークの墓地に埋葬されたのは、彼だけだった。」

「自然岩盤がどれほどの深さで、トンネルが横断する可能性のある岩屑の堆積がどれほどの長さになるかを確かめるために、ガステルン谷で探査の手筈が整えられた。… その結果、ガステルン谷は想定以上に深く侵食されたうえ、再び埋め尽くされていたことが判明した。それはトンネルの横断予定地点よりはるかに深く、トンネルの上にあったのは厚さ100mの岩盤ではなく、カンダー川の水が浸透した172mもの堆積物、モレーン、押し出された岩屑であった。」

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オリジナルルートの縦断面図
専門委員会報告書 Rapport de la Commission des Experts、1909年 より
 

「ガステルン谷の堆積物に長さ350mの坑道を通す方法と、この作業を実行するのに必要な時間と費用を決定するために、大規模な調査が必要になった。」

「圧縮空気方式で横断するのは、おそらく10気圧以上の水圧を計算する必要があるため、現実的ではないように思われた。それに3気圧以上になると、人力での作業が可能性の限界にほぼ達してしまう。」

「凍結方式と同様に、セメント固結方式の成功も疑わしかった。水流があると、セメントは高価な冷却材と同じく運び去られてしまうからである。… また、二つの方法とも十分に固結されなければ、172mの堆積物が新たに流入する危険があり、事故再発の可能性があることも懸念された。」

「まもなくパリから現れた(建設コンソーシアムの)7人の企業家たちは2日目に、ガステルン谷の事故現場を迂回することに疑問を呈した。… それに対して私は、これほど危険を伴う工事を作業員に行わせるわけにはいかないと言った。というのも、トンネルの完成というゴールに導いてくれる、より安全な方法が他にあるに違いないし、それを私たちは、危険個所の迂回によって確保できると思っていたからである。最終的に、トンネルを迂回させ、今より800m長くするという決定がなされた。この迂回ルートは、特段の事故や困難に遭うこともなく、無事竣工した。」

「災害で生じた財政的な影響を、鉄道会社と建設コンソーシアムのどちらが負うべきかを巡っては訴訟になったが、後者が全面的に敗訴した。災害は不可抗力によるものではなかったため、契約書の文面により後者の責任とされたのである」。

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現ルートと新ルート周辺の地質図
専門委員会報告書、1909年より

博士が記しているように、トンネルは本来、ガステルン谷(地形図の表記はガステレタール Gasteretal)の基盤を形成している固い石灰岩の層を通過する計画だった。ところが、谷の岩盤が想定以上に深く削られており、上流から運ばれてきた砂礫や泥がその上にうず高く堆積していた。事故は、先進坑がその未固結の層に達したことから起きた。地圧のかかった堆積物が地下水もろとも一気に流入し、坑内を埋め尽くしてしまったのだ。

事故後、埋没した導坑への進入が何度か試みられたが、そのつど岩屑の崩落により阻まれた。24名の作業員の捜索は断念せざるを得なかった。掘削を継続するために、砂礫層の凍結、またはセメントによる固結工法も検討された。しかし、ガステルン谷は、融雪期以外は地表に水流がない涸れ谷で、大量の伏流水が地下に浸透しており、その量と速度から判断して、地盤の安定化は困難だった。

直線ルートの維持が不可能となったことから、改めて詳細な地質調査が行われ、谷を横断する位置を約2.5km上流に移す迂回ルートが計画された。そして、既存の導坑のうち迂回の起点から先の約1.5kmが放棄され、レンガで永遠に封鎖された。

その年(1908年)の12月、連邦議会で計画変更が承認され、建設工事は翌年2月15日にようやく再開される。この結果、当初長さ13,805mになるはずだったレッチュベルクトンネルは、807m延長されて14,612mとなるとともに、地図上にも異様に曲がったルートが描かれることになった。

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1911年5月14日貫通式の来賓用特別列車
ゴッペンシュタインにて
Photo from www.bls.ch
 

こうして苦難の末に完成したレッチュベルクトンネルとBLS線は、1世紀近くもの間、ドイツ、スイス、イタリアを結ぶ国際幹線の一部として重要な役割を果たし続けてきた。

1926年にはトンネルを挟む区間で、無蓋貨車に自動車を載せて運ぶカートレイン Autoverlad のプロトタイプが開始され、1960年には定期運行化されるようになった。また、トンネルは最初から複線で建設されていたが、1992年にはアプローチ区間を含めた全線が複線化されて、輸送力の強化が実現している。

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(左)初期の自動車輸送
 Photo from www.bls.ch
(右)ブリーク駅を通過するイゼッレ Iselle ~カンダーシュテーク間のカートレイン
 Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし2007年に、長さ34,577mのレッチュベルク基底トンネル Lötschberg-Basistunnel とそれに接続するバイパス新線が開業したことで、レッチュベルクトンネル経由の旧線はメインルートの地位から降ろされた。同じく基底トンネルが開通したゴットハルト旧ルートと同様、現在は、1時間に1本のRE(レギオエクスプレス、快速に相当)が通るだけのローカル線となって、余生を送っている。

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レッチュベルク基底トンネル北口
旧線がその上を交差する
Photo from www.bls.ch
 

■参考サイト
BLS https://www.bls.ch/
AlpenTunnel.de http://www.alpentunnel.de/

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