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2020年8月

2020年8月31日 (月)

ブダペスト子供鉄道 I-概要

ブダペスト子供鉄道 Budapesti Gyermekvasút (Budapest Children's Railway)
(正式名:ハンガリー国有鉄道セーチェニ・ヘジ子供鉄道 MÁV Zrt. Széchenyi-hegyi Gyermekvasút)

セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy ~ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 間 11.2km
軌間760mm、非電化
1948~1950年開通

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到着する列車を迎える子供鉄道員
セーチェニ・ヘジ駅にて
 

「世界最長の子供鉄道線」。ヒューヴェシュヴェルジ駅のホームにある駅舎の壁に、2015年にギネス世界記録に認定されたことを示すプレートが掲げてある。いわく、「最長の子供鉄道線は、ハンガリー、ブダペストのヒューヴェシュヴェルジ駅とセーチェニ・ヘジ駅の間を走っている長さ11.7018km(7.27マイル)の狭軌子供鉄道である。鉄道は、最初の3.2km(2マイル)区間が1948年7月31日に開通して以来、運行を続けてきた。」

*注 11.7018kmは車両基地終端までの路線長で、営業区間は11.2km。

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ギネス世界記録認定のプレート
 

子供鉄道と聞くと、遊園地で子どもたちを楽しませている遊具のミニ列車を想像してしまう。確かに狭軌線で公園などに敷かれていることが多いため、どちらも見た目は似ている。しかし、ここでいう子供鉄道は、ソ連を中心とした旧社会主義諸国で社会教育組織として運営されていた鉄道のことだ。ピオネール(少年団)活動の一翼を担っており、ピオネール鉄道とも呼ばれていた(下注)。

*注 ロシア語のピオネール пионе́р は英語の Pioneer に相当する。ソ連圏の子供鉄道については、ウィキペディア日本語版「子供鉄道」が詳しい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/子供鉄道

社会主義政権の終焉後、こうした小鉄道は廃止されたり、遊園地の乗り物に転換されたりしたが、子どもを構成員とする組織体により運行されている鉄道路線も、いまだに存在する。その中でおそらく最大のものが、ブダペスト西郊の山中を走るこの子供鉄道だ。

ここでは、線路が公園内を周回するのではなく、公共路線(登山鉄道とトラム)の2つの終点を連絡する形で延びている。使用されている車両も一般の狭軌鉄道と何ら変わらない。ところが駅や車内では、大人に代わって制服制帽姿の子どもたちの、きびきびと鉄道員の作業をこなす姿がある。微笑ましくも、物見遊山気分で乗った者としては襟を正したくなる光景だ。

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発車準備完了

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この種の鉄道は、旧 ソ連で1932年または1933年に登場したという。第二次世界大戦後、東欧諸国でも、それに倣ったものが各地に設立されていった。鉄道としてはいずれも狭軌で、普通鉄道網とは切り離され、環状線であることが多い。ブダペストでは、1947年に建設計画がスタートしている。当時、政治体制はまだ議員内閣制だったが、第一党となった共産党の主導で政策が遂行されていた(下注)。

*注 ハンガリーは1946年に王政廃止、議院内閣制に移行。1949年に一党独裁の社会主義体制が始まる。

ソ連の軽便軌間は750mmが標準だが、ブダペストでは760mmのいわゆるボスニア軌間とされた。これは旧 ハプスブルク帝国の領内で普及した軌間で、ハンガリーでも当時はまだ地方の軽便線や森林鉄道に多数残っており、車両の融通が可能だった。

建設地についてはいくつかの案があった。帝国時代の離宮がある東郊のゲデレー Gödöllő や、ドナウの中州マルギット島 Margit-sziget なども候補に挙がる中で、最終的に西郊のブダ山地 Buda-hegység が選ばれた。既存の登山鉄道でアクセスできることと、沿線にピオネールのキャンプ地を設ける計画があったからだ。

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子供鉄道(緑)と隣接する路線の位置関係
 

建設工事は1948年4月に、セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy のゴルフ場跡地で始まった。資材や車両が登山鉄道で運び上げられ、専門の建設業者とともに、市民や学生もボランティアで作業に加わった。また、ハンガリー国鉄 MÁV の鉄道員が、運行に備えて技術指導に当たった。

こうして同年7月には早くも最初の3km区間が完成している。終点は現在のヴィラーグヴェルジ Virágvölgy 駅だが、当初はエレーレ Előre と命名された。これは「前進」を意味し、ピオネールたちが交わす挨拶言葉だった。

駅名どおりに線路の前進は続き、1949年6月にセープユハースネー Szépjuhászné(当初の名はシャーグヴァーリリゲト Ságváriliget)までの第2区間、そして1950年8月20日にヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy までの最終区間が完成して、全通の記念式典が盛大に催された。

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ヒューベシュヴェルジ駅での全線開通(引渡し)式
(1950年)
Photo by FORTEPAN / UVATERV at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

初期に使用された車両の一つが、ミシュコルツ Miskolc 近郊のリラフュレド森林鉄道 Lillafüredi Állami Erdei Vasút (LÁEV) から運ばれてきたアバモト ABamot と呼ばれる1929年製の気動車連接車両2編成(1号、2号)だ。後にリラフュレドに戻され、1号は廃車になったが、残る2号は1991年に改修を受けて子供鉄道に復帰し、今もノスタルジック・トレイン(懐古列車)として登場する。

1949年の第2区間開通に際しては、蒸気機関車も狭軌用の490形が3両導入された。森林地帯を走るため、2両は火の粉を出さない油焚きに改修されていたが、しばしば技術的な不具合が発生し、運用はごく短期間で終了した。

残る1両、1942年製の490.039は、長い静態保存を経て全面改修を受け、2007年6月から特別列車として復活している。もとバラトンフェニヴェシュ軽便線 Balatonfenyvesi Gazdasági Vasút の490.056(下写真右)も2000年から子供鉄道に在籍しているが、現在は運用から外れている。

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(左)連接式気動車アバモト(2014年)
Photo by Petranyigergo88 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)490形蒸気機関車(2008年) 
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この鉄道の線路条件は、案外過酷だ。起終点間の標高差が235mあり、平均勾配25~30‰、最大勾配は32‰にもなる(下注)。そのため不調をきたす動力車も少なくなかったが、1973年にルーマニア製のディーゼル機関車Mk45形6両(2001~2006号)が導入されて、ようやく運用体制が安定した。この機関車群は2010年代に改修を受けて、今も主力車両として稼働している。

*注 起点から3.0kmのヴィラーグヴェルジまではほぼ平坦で、勾配は後の区間(8.1km)に集中している。

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現在の主力機関車 Mk45形
 

鉄道で働くのは、10歳(4年生)から14歳(8年生、下注)の子どもたちだ。学業優秀かつ健康な子どもだけが応募できたが、それでも入団は狭き門で、例えば1970年代には採用数の10倍の応募者があったという。

*注 ハンガリーの一般的な教育制度では、初等教育8年、中等教育4年。

彼らは交通や沿線地域や会計の知識を学び、実技指導を受け、試験に合格して現場に出る。年齢の違う子どもや大人たちに混じって鉄道員の業務を実践し、その中で責任感やコミュニケーション能力や日々起きるさまざまな課題を解決する力を身につける。こうして精神的にも成長を遂げ、卒団後はエリートへの階段を上っていった。

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セーチェニ・ヘジ駅のホールに残る
ピオネール活動のモザイク画
 

しかし、40年間続いたハンガリーの社会主義体制は、1989年に終焉を迎える。これにより、ピオネール活動の実践の場であった鉄道は存立基盤を失った。所管はピオネール協会 Úttörőszövetség から、運行を担っていた国鉄 MÁV に移されることになり、それに伴い、「ピオネール鉄道 Úttörővasút(ウーテレーヴァシュート)」の呼称も、「子供鉄道 Gyermekvasút(ジェルメクヴァシュート)」に変更された。

鉄道名だけにとどまらない。子どもたちが首に巻いていたピオネールの象徴の赤いタイは青色に代わり、機関車の正面に掲げられていた赤い星は撤去された。駅名も、ピオネールに関連するものは改められた(下注)。さらに抜本的な改革として、民営化や商業路線化も検討されたが、これは実現しなかった。

*注 エレーレ Előre(前進)→ヴィラーグヴェルジ Virágvölgy(花の谷)、
 ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市)→チレベールツ Csillebérc(地名)、
 シャーグヴァーリリゲト Ságváriliget(戦前の共産主義活動家エンドレ・シャーグヴァーリ Endre Ságvári を記念する公園)→セープユハースネー Szépjuhászné(美しき羊飼い、近傍の旧 修道院の名)

設立背景はともかく、子供鉄道の教育的意義は市民に広く共有されており、廃止という選択肢はなかった。とはいえ、MÁVは今や一鉄道会社であり、こうした社会教育活動に資金を投じ続けることは難しい。そこで活動の財政的安定を図るために、1995年にMÁVとブダペスト市により、子供鉄道員財団 Gyermekvasutasokért Alapítvány が設立された。

その後数年間は、MÁVが鉄道を所有・運行し、財団が社会教育活動の部分を運営するという分担体制がとられた。しかし2002年からはMÁVの一元体制に戻り、財団の役割は資金面の支援に特化されている。ブダペスト子供鉄道は、正式名を「(国鉄)セーチェニ・ヘジ子供鉄道 Széchenyi-hegyi Gyermekvasút」というが、これは子供鉄道を運営するMÁVの部門名でもある。

思想的な拠りどころをなくした今、子どもたちはどのようにしてここに集められ、どんな活動をしているのだろうか。

子供鉄道のサイトには、団員の応募資格や業務内容についての詳しい案内が記されている(下注)。それによると、500人近くの子どもたちが加入し、15のグループに分かれて活動している。グループのメンバーは常に同じスケジュールで行動し、共通の任務を引き受け、さまざまな余暇プログラムにも一緒に参加する。

*注 現行サイトでは鉄道の歴史や履修課程などの詳細が省かれているため、以下は旧サイトの記述に拠った。

グループを率いるのは、子供鉄道のOB、OGである中等学校生(高校生)や大学生の指導員たちだ。さらに現場では、大人の鉄道従業員が子どもたちの仕事を監督している。彼らもまたOB、OGであることが多く、活動のよき理解者、支援者になっていることだろう。

団員の応募資格があるのは4年生から6年生までで、評定平均が4.0以上なければならない。応募書類には、保護者とともに、通学している学校の校長と担任の同意書、さらにかかりつけの医師による検査結果を添付する必要がある。

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セーチェニ・ヘジ駅の壁面には
子供鉄道員コース Gyermekvasutas Tanfolyam の記念写真が並ぶ
 

コースは2月と10月の第1土曜から始まる。まず彼らは、鉄道業務に関する基礎知識を学ぶ。運行と安全にかかわるもののほか、乗客に案内する沿線の知識、運賃出納のために商業的な知識も必要だ。授業は、金曜午後と土曜午前に理論、土曜の午後に実技がある。そして4か月のコースの最後に試験を受ける。

現場では、リーダーシップ訓練を受けた年長者がトレーナーとなって新入団員を指導する。業務は細分化されていて、駅では、
・ポイント(転轍機)を扱う信号係 váltókezelő
・出札で乗車券を売り日計を行う出納係 pénztáros
・ホームの案内放送を担う放送係 Hangosbemondó など。
列車内では、
・検札、乗車券の発行、乗客への案内を行う検札係 Jegyvizsgáló、
・最後尾の車両でハンドブレーキを扱い、後進時の安全走行を監視する制動係 zárfékező 
などがある。

さらに上級職として、駅で列車の受け取りと送り出しを行い、運行日誌を管理する助役相当の記録主任 Naplózó forgalmi szolgálattevő(赤い帽子が目印)、その上に業務を統括する駅長相当の運行主任 Rendelkező forgalmi szolgálattevő が置かれている(下注)。

*注 日本語の職名は意訳であり、正確さを欠く可能性がある。

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子供鉄道員の仕事ぶり
(左)接客の最前線、検札係は各車両に一人
(右)列車を送り出す記録主任
 

もちろん大人の鉄道職員もいる。駅長、助役(乗車券検査役 vezető jegyvizsgálók)、それから列車の車掌、機関士、機関助士(蒸機の場合)などで、彼らはMÁVの運行規則に則り、路線の安全運行を担っている。

子どもたちには鉄道の実務だけでなく、遠足、運動会、そして2週間のヒューヴェシュヴェルジ・キャンプなどさまざまな行事が用意されており、その中で学年を超えた相互交流を深めていく。

8年生が終わると同時に、子供鉄道の活動も修了となる。8月の卒団式当日、彼らはいつものように制服を着て、すべての着任場所を回る。送別行事を共にし、最後に、世話になった鉄道職員や指導員たちに別れを告げる。

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ヒューヴェシュヴェルジ駅の通路に描かれた壁画

同種の鉄道は夏だけ運行するものが多い中、ブダペスト子供鉄道は9月~4月の月曜を除き、年間を通して運行されており、活動規模の大きさがわかる。ダイヤは季節や平日/休日によって変わるが、日中おおむね1時間に1~2本の設定だ。許容速度が20km/hとスローペースのため、全線を乗り通すには40~45分程度かかる。

起点のセーチェニ・ヘジ駅へは、登山鉄道(コグ鉄道)の駅から歩いて数分、終点のヒューヴェシュヴェルジ駅も、トラム(路面電車)のターミナルが至近距離にある。そのため、登山鉄道→子供鉄道→トラム、またはその逆の三角コースで、ブダ山地の半日遠足を楽しむ旅行者も多い。子供鉄道は、子どもたちの社会教育の場であるとともに、こうした形でブダペストの観光振興にも貢献している。

次回は、その子どもたちが運行する列車に乗って、ルートをたどってみよう。

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

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 ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ
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2020年8月23日 (日)

ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

ブダペスト登山鉄道(ブダペスト・コグ鉄道)
Budapesti Fogaskerekű Vasút (Budapest Cog-wheel Railway)

ヴァーロシュマヨル Városmajor ~セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(下注)間 3.7km
軌間1435mm、直流1500V電化、シュトループ式ラック鉄道、最急勾配110‰

1874年 ヴァーロシュマヨル~シュヴァーブへジ Svábhegy 間、リッゲンバッハ式蒸気鉄道として開通
1890年 シュヴァーブへジ~セーチェニ・へジ間延伸
1929年 直流550V電化
1973年 直流1500Vに昇圧、シュトループ式に置換

*注 正式駅名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút。

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シュヴァーブへジ駅に到着する登山鉄道の電車
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 
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ハンガリーの首都ブダペストは、ドナウ川をはさんで西側のブダ Buda、オーブダ Óbuda と、東側のペスト(ぺシュト)Pest が1873年11月に合併して誕生した都市だ。その旧体制最後の年に、ブダ市と、ニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が代表を務めるスイスの国際山岳鉄道会社 Internationale Gesellschaft für Bergbahnen (BGfB) との間で、鉄道建設と運行に関する契約が結ばれた。

それはラックレールにピニオン(コグ、歯車)を噛ませて急勾配を上下する鉄道で、ヨーロッパでは、2年前の1871年5月にスイスのリギ山 Rigi で実用化されたばかりだった。敷設の目的は、ブダ市街からシュヴァーブへジ Svábhegy への新たな交通手段の確立だ。町の西に横たわるこの丘陵地は、当時、富裕層の別荘地や行楽地として人気が高まっていた。

シュヴァーブへジは、ドイツ語でシュヴァーベンベルク Schwabenberg(シュヴァーベン山)と呼ばれる。1686年のオスマントルコからブダを奪還した戦いで、神聖同盟の一員としてドイツのシュヴァーベン Schwaben 地方から遠征してきた軍隊が、ここに砲台を築いた(下注)ことに由来するという。

*注 実際に砲台が築かれたのは、山腹の、現在キシュ・シュヴァーブ・ヘジ Kis-Sváb-hegy(小シュヴァーベン山)と呼ばれている小山。

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セーチェニ・へジに向かう急坂
 

すでに1868年以来、ドナウ河畔のラーンヒード Lánchíd(鎖橋)からヤーノシュ山麓ズグリゲト Zugliget まで、ブダ路面鉄道会社 Budai Közúti Vaspálya Társaság が馬車軌道を運行していた。新しい鉄道はそのルート上の、当時エッケ・ホモ広場 Ecce homo tér と呼ばれていた現 ヴァーロシュマヨル Városmajor を起点に選んだ。列車はそこから、浅い谷に沿って斜面を2.9km上り、張り出し尾根の肩になった標高394mの地点まで行く。契約では、夏の間1日2回、旅客輸送を提供するという条件が付されていた。

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登山鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

1873年7月に認可が下り、すぐに工事が始まった。線路は単線で、中間点(現 エルデイ・イシュコラ Erdei iskola 停留所)に列車交換のための待避線が設けられた。線路の分岐部には遷車台(トラバーサー)が設置された。

ターミナル駅には、スイス風の装飾を施した2階建、ハーフティンバーの駅舎が建てられて、登山鉄道の雰囲気を醸し出した。運行車両として当初、スイスSLM社から120馬力の2軸蒸気機関車3両と、オーストリアのヘルナルス車両製造所 Hernalser Waggonfabrik からスラムドアのオープン客車10両、無蓋貨車3両が納入された(下注)。

*注 翌年、機関車1両と客車2両を増備。

「ブダペスト登山鉄道 Budapesti Fogaskerekű Vasút」は、こうして統合ブダペスト市誕生後の1874年6月24日に無事、開通式を迎えることができた。ちなみにリッゲンバッハは、ウィーン北郊のカーレンベルク Kahlenberg(下注)でも同じ方式の鉄道を手掛けており、こちらは同年3月7日の開業だ。そのため、タッチの差でブダペストは、旅客用としてヨーロッパで3番目のラック鉄道になった。

*注 リッゲンバッハとリギ鉄道については「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」、カーレンベルク鉄道は「ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要」で詳述。

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開業初期のヴァーロシュマヨル駅
正面奥が駅舎
手前に入換用のトラバーサーが見える(1880年代)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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開業初期の登山列車
ミューヴェース・ウート Művész út 付近(1900年ごろ)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

シュヴァーブへジ一帯には、低山地によく見られる適度な傾斜地が広がっている。かつては森に覆われていたが、18世紀になると開墾され、ワインの原料となるブドウの栽培が盛んになった。ところが1870年ごろからヨーロッパに蔓延した害虫フィロキセラによって、ブドウ畑は壊滅的な打撃を受ける。

耕作が放棄された土地を別荘などに転用する動きは、鉄道の開通によって拍車がかかったに違いない。居住地の拡大を受けて、鉄道をさらに上方へ延ばす計画が立てられた。そして1890年5月に、現在の終点である標高457mのセーチェニ・へジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)山上まで0.85kmが延伸開業した。

登山鉄道は、開通後長らく4月15日から10月15日のいわゆる夏のシーズンにのみ運行されていた。そのため客車も、側壁のないオープンタイプだった。しかし、定住者が増加したため、1910年から通年運行が始まった。冬の寒さに備えて客車も改造され、側面はガラス張りになり、乗降扉は端部に集約された。そり滑りやスキーなど、山でのウィンタースポーツを楽しむ人も多く利用したという。

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再現されたオープン客車
制動手が屋根上で、前方監視とともに客車のブレーキ操作を行った
Photo by Albert Lugosi at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

認可期間の満了に伴い、鉄道は1926年に市の所有となり、ブダペスト首都交通公社 Budapest Székesfővárosi Közlekedési Részvénytársaság (BSzKRt) が運行を引き継いだ。それまで路線は赤字続きで、更新費用が工面できず、設備の老朽化が進行していた。公営化を機に、市は、鉄道の抜本的な近代化に取り組んだ。その最大の方策が、蒸気から電気運転への転換だ。

電化方式は市内トラムと同じ直流550Vとされ、SLM社とブダペストのガンツ社による8編成の新車が納入された。これはローワン列車 Rowan Zug と呼ばれるもので、坂下側から電気機関車、客車(付随車)の2両セットだが、客車は自前の車軸を1本しか持たず、坂下側は機関車の車台に載りかかる形になっている。

さらに、運行間隔を短縮できるよう待避線が2か所増設され、山麓駅の末端には電車を収容する車庫と修理工場が新設される。一連の対応工事を終えた鉄道は、1929年7月に運行を再開した。

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ローワン列車
手前が電気機関車、後方が付随車の客車
Photo from www.bkv.hu
 

第二次世界大戦からしばらく、登山鉄道には不遇の時期があった。戦災で開業時の駅舎が破壊されたのに続き、戦後は、南駅 Déli pályaudvar 経由でシュヴァーブヘジ方面へ直行するバス路線(21番)が開通して、鉄道不要の議論を煽った。

市内交通の運営主体が現在のブダペスト交通公社 BKV になったのは、1968年のことだ。ブダペスト統合100周年が近づくにつれ、廃止論は終息していき、代わって存続のための再改修が検討された。

それは結局、1929年の電化に匹敵する大規模な内容になった。陳腐化したローワン列車が新しい2両連接の車両(1M1T)7編成に置き換えられる。ブラウン・ボヴェリ社 Brown, Boveri & Cie (BBC) の電気機器を積んだウィーンのジンメリング・グラーツ・パウカー Simmering-Graz-Pauker (SGP) 製の車両だ。それに伴い、電圧が直流1500Vに、ラックレールは保守の容易なシュトループ式になる。旧方式での運行は1973年3月15日が最後で、工事期間をはさんで、8月20日に新方式による運行が始まった。

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今も運行を担う1973年製の連接車両
 

それから早や50年近くが経つ。その色と形から「赤い牝牛 piros tehén」の異名を与えられた電車は、機器や内装の改修を受けながら、今なお日常運行を担う存在だ。朝5時台から夜23時台までフル運行され、平日日中は20分間隔、休日日中は12分間隔で走る。全線の所要時間は14~15分だ。登山鉄道は、2008年からブダペストの都市交通網にトラム系列の「60番」として組み込まれ、ブダの山手地区に延びる生活路線の一つになっている。

登山鉄道が出発するヴァーロシュマヨル Városmajor は、ブダの主要な交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér を2011年に改称)から西へ900mほどの場所にある。広場でトラム(路面電車)の56番、61番ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 行きか、59番セント・ヤーノシュ・コールハーズ Szent János Kórház 行きに乗って、二つ目の停留所だ。

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ブダの交通結節点セール・カールマーン広場
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(左)ヴァーロシュマヨル方面へ行くトラム
(右)その車内
 

ヴァーロシュマヨル、略してマヨル Major は、市民には都市公園の名と認識されている。トラムはそのへりに沿う濃緑の並木の下の専用軌道を走っていく。ヴァーロシュマヨル停留所で下車すると、左側に鉄格子の扉がついた門が見える。登山鉄道のターミナルは、この中だ。

門の脇に、リッゲンバッハ式のラックレールとピニオンホイールのセットが置かれていた。線路の向こうには、シュトループ式のセットもある。傍らの石碑に「登山鉄道はペスト、ブダ、オーブダ統合100年を記念して再建された。ブダペスト交通公社」と刻まれていて、1973年に行われた全面改修の記念碑のようだ。

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トラムのヴァーロシュマヨル停留所
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登山鉄道のヴァーロシュマヨル駅
(左)駅の門扉
(右)現在使われているシュトループ式の車軸とレール
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(左)1973年の鉄道再建記念碑(右奥)
(右)リッゲンバッハ式の車軸とレール
 

平屋の駅舎があるものの開いてはおらず、ましてや案内窓口や売店などはない。乗車券は市内交通と共通なので、24時間券などを持っているならそのまま使える。車庫へ通じている線路を渡ってホームへ上がり、停車中の山上方面行きに乗り込んだ。

牝牛に見えるかどうかは別として、幅広でずんぐりした形の車両は、リギ鉄道の旧型車を思い出させる。車内は、丸みを帯びた天井と扉ごとに立てられた風防が特徴的だ。座席はクロスシートで、端部はスラムドア車を彷彿とさせる5人掛け、反対側の端部は持込み自転車のためのスペースになっている。前面は塞がれて展望がきかないので、おとなしく席につこう。やがて定刻になり、電車は10数人の客を乗せて、駅を後にした。

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(左)乗降ホーム
(右)反対側の線路は車庫へ続く
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車内
(左)クロスシートが並ぶ
(右)持込み自転車用スペース、持込みには自転車券の購入が必要
 

左からの線路を合わせて、電車も左へカーブしていく。地図では一面の市街地のように描かれているが、実態は緑濃い山の手のお屋敷街だ。周りはほとんど森といってよく、点在しているはずのお屋敷を巧妙に隠している。

途中8か所の駅(停留所)がある。待避線はおよそ2駅ごとに設けられているが、平日日中のダイヤで列車が行違うのは、5駅目のアドニス・ウツァ Adonis utca での1回きりだ。帰りは山上からここまで歩いて降りたが、対面式ホームがあるだけの寂しげな駅だった。

片側に道路が沿っているものの、反対側は森に覆われた谷間で、野鳥の盛んに鳴き交わす声が聞こえる。列車交換では、山麓行きが先着して、山上行きの入線を静かに待つ。こんな駅でも下車客はあって、線路際の小道をたどり、森の中へ消えていった。

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アドニス・ウツァ駅の列車交換
山麓方面行きが先着
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少しして山上行きが入線
 

シュヴァーブへジ駅には、ローワン列車が似合いそうな田舎家風の木造駅舎と、木組みのホーム屋根が残る。開業時のものではなく、使われてもいないのだが、終点だった時代をしのばせる空気が漂う。都市機能としても、駅前に路線バスが来るし、すぐ近くにスーパーマーケットもある。中間駅になってはいるが、実質的にはターミナルなのだろう。

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シュヴァーブへジ駅
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(左)田舎家風の駅舎とホーム屋根
(右)かさ上げ前のホームを保存
 

現在の終点までは、あと二駅だ。森の谷間を這いあがる線路の坂道はそれまでよりきつそうで、最急勾配110‰は、おそらくこの区間にある。右にカーブしながら跨線橋をくぐると、終点セーチェニ・へジに到着する。

駅は2面2線の頭端ホームがあり、しっかりした駅舎も建っている。しかし、起点駅と同じようにひと気はない。左側は森の中の公園で、訪れた時は子どもたちの歓声がこだましていたが、そうでもなければ寂寥感に囚われてしまいそうだ。山上とはいえ地形的には突出していないため、木立に遮られて眺望がきかないのだ。イメージとしては住宅街の末端で、その意味ではふだん使いの生活路線にふさわしい終着駅だった。

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終点セーチェニ・へジ駅
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(左)入線する列車
(右)ひと気のないホームで折り返しを待つ
 

ところで駅の正式名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút という。ジェルメクヴァシュートというのは、子どもたちが列車運行に携わる「子供鉄道 Children's Railway」のことだ。左方向200m先にその駅があり、登山鉄道はせめてその最寄りであることをアピールしようとしているようだ。次回はこのユニークな鉄道について紹介しよう。

【鉄道名について】
ハンガリー語(マジャル語)では、ラック・アンド・ピニオン鉄道のことを、fogaskerekű vasút(フォガシュケレキュー・ヴァシュート)と呼ぶ。fogaskerekű は歯車、vasút は鉄道(vas(ヴァシュ)=鉄、út(ウート)=道)を意味し、英語名でも cog-wheel railway、コグ(歯車)鉄道だ。本稿では「ブダペスト登山鉄道」と訳しているが、原語には登山や山地を意味する言葉は含まれておらず、あくまで意訳であることをお断りしておきたい。

■参考サイト
BKV https://www.bkv.hu/

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2020年8月17日 (月)

リッテン鉄道 II-ルートを追って

FS(旧国鉄)ボルツァーノ/ボーツェン Bolzano/Bozen 駅前(下注)から右手へ、線路に沿って歩き始めた。前にリュックを背負ったグループがいたので、ついていく。まだ真新しいバスターミナルを通り抜け、10分もしないうちに、ぶどう畑に覆われた山を背にして、銅色のターバンを巻いたような建物が見えてきた。リッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn/Funivia del Renon の乗り場に違いない。

*注 FSの駅名表記はイタリア語/ドイツ語の順だが、自治県レベルの表記は基本的にドイツ語/イタリア語の順のため、以下ではそれに従う。

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ロープウェー駅(左奥)に向かう道は
かつてリッテン鉄道が走っていたルート
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 

今歩いてきた道路は、かつてリッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon の市内区間が通っていたルートだ。古い市街図によれば、現在のバスターミナル北端までが路面軌道(併用軌道)で、後は道路を離れ、専用軌道としてリッテン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon へ延びていた。その駅跡に今、ロープウェーの山麓駅が建っている。

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ロープウェー山麓駅
 

1階の窓口で乗車券を買った。鉄道の終点クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo まで通しの切符で、片道9ユーロ(下注)。乗車前にヴァリデート(有効化)するように言われたので、通路の刻印機に挿入する。乗り場は上階だ。

*注 リッテン鉄道のみの場合、片道3.50ユーロ。

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南チロル運輸連合のチケット
(左)表面は共通
(右)裏面に区間や日付を印字
 

ロープウェーは全長4560m、高度差950mの大規模な路線だ。高原上のオーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano まで所要12分。1966年に、リッテン鉄道ラック区間の廃止と引き換えに交走式で開業したが、2007年9月に運行をいったん中止し、更新工事が行われた。そして2009年5月に、3S循環式で運行が再開された。

交走式というのは、支索にキャビン(搬器)を2台ぶら下げ、これらを曳索でつなげて釣瓶のように行き来させる古典的な方式だ。運行間隔は、片道の走行と乗降にかかる時間に依存するため、リッテンのような距離のある路線では、待ち時間が長くなってしまう。

対する 3S というのは、3本のザイル Seil(支索2本、曳索1本)を意味している。支索を2本にすることで安定性を高め、キャビンの大型化を可能にした方式だ。かつ自動循環式といって、キャビンを一定間隔で多数循環させる。台数は需要に応じて増減できるので、運行間隔の調整が可能だ。リッテンの場合、1台の定員35名(座席24、立席11)で、同時に10台まで稼働できるという。

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(左)3S循環式のキャビン
(右)左右2本が支索、中央1本が曳索
 

ホームではそのキャビンがちょうど乗車扱い中だったので、待つこともなかった。ドアが閉まり、発車すると、街並みを横断してすぐに上りにかかる。ぶどう畑が広がる南斜面をぐんぐん上昇していくさまは、エレベーターの感覚に近い。

後方の窓からは、線路が敷き詰められたFS駅の構内と、その右側にボーツェンの市街地が一望できる。やがて進行方向右側遠くに、奇怪な風貌で知られるドロミティの岩峰群が現れた。展望の良さはさすがで、山腹を這い上るラック鉄道ではこうはいかなかっただろう。

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ぶどう畑の斜面を上昇
遠方にドロミティの岩峰も見える
 

ロープウェーは、前半だけで標高1000m付近まで一気に上りきる。後は、支尾根を飛び石にしながら、谷をまたいでいく形だ。進行方向左手に主尾根が延びており、マリーア・ヒンメルファールト駅とそれに続く線路が見える。それに気を取られている間に、山上駅に到着した。

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リッテン鉄道の末端区間に並行
 
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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

リッテン鉄道のオーバーボーツェン駅はロープウェーの駅舎に隣接しており、乗継ぎはいたって便利だ。クリーム色のクラシックな駅舎が建っているが、旅客用には使われていない。片面ホームに接して屋根のかかった待合所があり、乗客はそこで待つようになっている。

オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間は所要16~18分で、朝晩を除き30分間隔のパターンダイヤが組まれている。ホームには、11時40分発の電車が停車中だ。前面がカーマインレッド、側面がグレー主体のスタイリッシュな塗装をまとう連接車BDe 4/8形で、新造のように艶光りしている。しかし実際は1975~77年製で、スイス、ザンクト・ガレン St. Gallen のトローゲン鉄道 Trogenerbahn(下注)で走っていた中古車だ。

*注 ザンクト・ガレン~トローゲン Trogen 間の電気鉄道。2006年にアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen に合併、現在は同鉄道の一路線。

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オーバーボーツェン駅に停車中の連接車BDe 4/8形
 

2009年にまず2編成が購入され、古巣のときと同じ車番をつけて2010年(24号)と2011年(21号)にそれぞれ就役した。その後3編成目として23号、4編成目として22号が投入され、今やこれら「トローゲナー Trogener」たちが、日常運行を担う主力車両群だ。

駅のクローベンシュタイン方には、2014年に改築された3線収容の車庫がある。ホームから遠望した限りでは、上記連接車23号、開業以来の古参4軸電車2号、それに旧 エスリンゲン=ネリンゲン=デンケンドルフ路面軌道 Straßenbahn Esslingen–Nellingen–Denkendorf の1957年製TW12号電車(下注)が並んでいた。

*注 1978年に廃止されたドイツ、シュトゥットガルト Stuttgart 南東郊の都市間路面軌道。TW12号車は1982年に中古で購入、1992年から定期運行。現在は予備車で、特別運行に登場する。

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(左)オーバーボーツェン駅の車庫に旧型車の姿が
(右)4軸電車2号
 

このほか、ラック電気機関車L2号(下注1)、2軸電車11号と12号、廃止されたノンスベルク鉄道 Nonsbergbahn から移籍した1910年製電車「アリオート Alioth」(下注2)など、鉄道の歴史を物語る古典車両も保存されているという。

*注1 インスブルックのチロル保存鉄道 Tiroler Museumsbahnen に同僚のL4号が動態保存されている。
*注2 ボーツェン南西にあったデルムーロ=フォンド=メンデル(メンドーラ)地方鉄道 Lokalbahn Dermulo-Fondo-Mendel。最急80‰の勾配路線だったが、1934年廃止。電車は、スイスのアリオート電力会社 Elektrizitätsgesellschaft Alioth の機器を積んでいたことからその名がある。

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(左)チロル保存鉄道のラック電気機関車L4号(2007年)
(右)定期運行していた頃の旧エスリンゲン電車TW12号(2006年)
Photos by DerAdmiral at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1列2+1席のやや手狭な車内に、後で着いたロープウェー客が次々と乗り込んできて、発車までにはほぼ満席になった。扉が閉まり、短いベルの音とともに出発。車庫の横をすり抜けると、右の車窓には、早くも青々とした斜面の牧草地が広がり、谷を隔てて遠くの山々まで見通しがきく。半分降ろした窓からは、心地よい高原の風が入ってくる。

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(左)車内はほぼ満席に
(右)路線図と、製造元 FFA Altenrhein(アルテンライン車両製造所)の銘板
 

車道の踏切に続いて、一つ目の停留所を通過した。この区間には時刻表に掲載された旧来の3駅とは別に、新設の停留所が4か所ある。いずれもリクエストストップで、乗降客がないと停車しないから、感覚的には路線バスだ。今通過したのはリンツバッハ Linzbach だが、新設停留所はドイツ語名のみを名乗っている。

次のリンナー Rinner 停留所(これも新設)の後、小さな沢を渡るために林に入る。再び開放的な斜面に出て、左に大きく回っていくと、ヴォルフスグルーベン/コスタロヴァーラ Wolfsgruben/Costalovara だ。ここは駅なので必ず停車するが、待合小屋がぽつんと置かれているだけで、見た目は停留所と何ら変わらない。

この後は地形的な鞍部を越えるため、周りは次第に林に包まれていく。行く手に、同じカーマインレッドの電車が停車しているのが見えてきた。標高1251mで、全線のサミットとなるリヒテンシュテルン/ステラ Lichtenstern/Stella 駅だ。オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間の中間点でもあり、30分間隔ダイヤの場合、両側から同時に発車した列車がここで行違う。運転士も車両を交換し、それぞれ発駅に戻っていくのがおもしろい。

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(左)リヒテンシュテルンで列車交換
(右)運転士も入れ替わる
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再び車窓が開けてドロミティアルプスが一望に
 

次のラッパースビヒル/コッレ・レノン Rappersbichl/Colle Renon 停留所を過ぎると、左側の車窓が再び開けてくる。エーベンホーフ Ebenhof とヴァイトアッハー Weidacher の両停留所は、気づかないうちに通過したようだ。カーブが和らぎ、右手前方に町が見えてきた。大きなスポーツ施設があり、工事用の大型クレーンも動いていて、オーバーボーツェンより活気が感じられる。緩く右に曲がり、跨線橋をくぐったところが、終点のクローベンシュタインだった。

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(左)クローベンシュタイン到着
(右)折り返しの客が乗り込む
 

ここは高原の中心集落で、リッテン自治体の役場所在地でもある。駅舎は優しいサーモンピンクの色壁で、オーバーボーツェンに比べて大きな建物だ。入口で、ジャコメッティの作風を思わせるユーモラスなヤギの彫像が客を迎えている。しかし、旅客機能としては券売機と刻印機が置いてあるだけで、窓口は見当たらない。電車はこの駅で、折り返しの時刻まで12分停車する。

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(左)駅入口でヤギの彫像が出迎え
(右)駅舎(左奥)とアールヌーボー様式のあずまや(?)
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クローベンシュタイン駅に次の電車が到着
 

戻りは、13時10分発に乗った。駅前にある中等学校から子どもたちがぞろぞろと出てきて、電車に乗り込んでいく。ちょうど下校時間に遭遇したようだ。車内は、通路も荷物室もいっぱいになったが、彼らは慣れていると見え、おしゃべりしたり、教科書やノートに目を落としたり、思い思いに過ごしている。イタリア語らしい言葉で話しながらも、開けている教科書はドイツ語だ。電車は途中の停留所にもこまめに停車し、少しずつ子どもたちを降ろしていった。

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(左)運転台
(右)学校帰りの子どもたちで満員
 

この便にしたのは、オーバーボーツェンからさらに一駅先のマリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta まで足を延ばすからだ。この1.1kmは昔、ラック線を機関車で押し上げてもらった電車が再び自力で走り始める最初の区間だった。しかしロープウェーがオーバーボーツェンで接続するようになったことで、メインルートから外れて支線化してしまった。

列車は1日6往復のみ。時刻表も別建てだが、クローベンシュタイン方面と通しで運行されている。利用するのは、駅付近にある小集落の関係者か、鉄道ファンぐらいのものだから、いまだに動いているのが奇跡のようなローカル線だ。

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オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間の
時刻表(2019年)
ab は発時刻、an は着時刻
 

子どもたちの乗降で、少し遅れていたせいもあるだろう。オーバーボーツェンに到着すると、運転士は降車客を見届け、すぐに扉を閉めて発車の合図をした。あれだけ混雑していた車内に、もう4~5人しか残っていない。走り始めると、結構な下り坂だ。確かに、高原区間の最急勾配45‰はこの区間にある。しかも急曲線が多いので、電車は慎重に降りていく。左手は牧草地の斜面が広がり、相変わらず見晴らしはいい。

時刻表では4分から、便によっては6分もかかっているが、実際の乗車時間は2分そこそこだ。最後のカーブを曲がりきるとほぼ直線で、2線が敷かれたマリーア・ヒンメルファールトの駅に滑り込んだ。

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オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間は
下り勾配と急カーブが連続
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(左)最後の急カーブ
(右)マリーア・ヒンメルファールト駅が見えてきた
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マリーア・ヒンメルファールト駅
待合小屋は開業時のそれを復元
 

扉が開き、降車客と入れ替えにホームで待っていた3人が乗り込む。そしてほとんど休む間もなく、電車はオーバーボーツェンへ引き返していった。

主役が去ってしまうと、駅は静けさに包まれた。片面ホームに、開業時の造りを復元した待合小屋、それに木造の車庫があるだけの簡素な構内だ。ここで毎日、機関車の連解結や、電動車の機回しが行われていたとは信じがたい。その線路の終端に行ってみたが、ラック線が延びていたはずの場所には木々が生い茂り、その先は牧草地に溶け込んでしまっていた。

13時34分発を見送ったので、次は18時台まで電車が来ない。牧草地の向こうを行き交っている山麓行きのロープウェーに乗るために、のどかな村の中を抜けて、オーバーボーツェンまで歩いて戻ることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/

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 リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

2020年8月11日 (火)

リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

リッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

ボーツェン・ヴァルタープラッツ Bozen Waltherplatz/Bolzano Piazza Walther ~クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo 間 11.7km
軌間1000mm、直流750V電化、最急勾配255‰、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)
1907年開通
1966年ヴァルタープラッツ~マリーア・ヒンメルファールト間廃止

【現在の運行区間】
マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta ~クローベンシュタイン/コッラルボ間 6.6km
軌間1000mm、直流800V電化(1966年~)、最急勾配45‰

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ヴァイトアッハー Weidacher 付近を行く
現在の主力車両BDw 4/8形
 

アルプス越えの交易路が通過するブレンナー峠 Brennerpass の南側は、イタリアだ。しかし、第一次世界大戦まではオーストリア領で、チロル Tirol の一部だった。今もドイツ語では、南チロル Südtirol と称される(下注)。峠から街道を約80km下ったところに、南チロルの中心都市ボーツェン Bozen があり、愛すべき小鉄道「リッテン鉄道/レノン鉄道」がその郊外を走っている。

*注 行政上はボーツェン/ボルツァーノ自治県 Autonome Provinz Bozen/Provincia autonoma di Bolzano。

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鉄道の名は周辺の広域地名に基づいているのだが、二通りの呼び名があることについては少し注釈が必要だ。南チロルではドイツ語話者が6割強を占めており、ドイツ語とイタリア語が公用語になっている。そのため、公共表示は2言語併記が原則で、例えば既出の固有名詞を両言語(ドイツ語/イタリア語)で記すと、以下の通りだ。

南チロル(ジュートティロール)Südtirol/アルト・アディジェ Alto Adige
ボーツェン Bozen/ボルツァーノ Bolzano
リッテン Ritten/レノン Renon

他の地名も、初出の際に両言語を併記することにするが、これにより鉄道名も、ドイツ語ではリッテン鉄道(リットナー・バーン)Rittner Bahn、イタリア語ではレノン鉄道(フェッロヴィーア・デル・レノン)Ferrovia del Renon になるのだ。

ちなみに、ドイツ語のリットナー Rittner は、地名リッテン Ritten の形容詞形で、「リッテンの」という意味だ。ところが、地名自体があまり知られていないためか、そのまま読んで「リットナー鉄道」と訳している文献も見られる(下注)。

*注 スイスの「レーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn」も同様。

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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道は、標高1200m前後の高原内を行き来している延長わずか6.6kmのローカル線に過ぎない。しかもイタリアの標準軌鉄道網とは接続しない孤立路線だ。なぜこのような場所に鉄道が存在するのだろうか。

短距離にもかかわらず電化されていることからも察せられるように、かつては下界のボーツェン市街と線路がつながっており、小型電車が直通していた。旧市街の広場で乗れば、高原の村まで乗り換えなしで到達できるという、きわめて便利な路線だったのだ。

リッテン鉄道は地方鉄道として認可を得たが、実態は市街地の路面軌道(併用軌道)、山腹を上るラック鉄道、高原上の普通鉄道(専用軌道)という、異なる性格をもつ三つの区間に分けられる。後になって前二者が廃止されたため、最後者だけがぽつんと残された。これが現在の姿だ。

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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

リッテンは地理的に、ザルンタール/ヴァル・サレンティーナ Sarntal/Val Sarentina とアイザックタール/ヴァル・ディザルコ Eisacktal/Val d'Isarco という二つの谷の間に横たわる広い高原地帯だ。標高の違いから、夏場はしばしば猛暑に見舞われる盆地のボーツェンに比べて、はるかに快適な気温が保たれている。

すでに17世紀からボーツェンの名門貴族や上流階級の避暑地として好まれていたが、19世紀になると一般の観光需要も高まっていった。1880年代には鉄道の建設計画が唱えられ始め、一方で静かな環境を維持したいと考える人々によって反対運動も起きた。

20世紀に入って、計画は具体化した。山を上る手段にはラック・アンド・ピニオン方式が採用され、1906年7月に認可、着工。翌1907年8月には、早くもリッテン駅とクローベンシュタインの間で一般輸送が開始されていた。残る市内区間を含めた全線での直通運行は1908年2月末に始まった。

鉄道の起点は、ボーツェン旧市街、ヴァルター広場 Waltherplatz/Piazza Walther の南東隅にあった。電車はそこから国鉄駅前を通って北上し、山麓に設けられたリッテン駅/レノン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon の手前まで、街路上に敷かれた軌道を走った。

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リッテン鉄道のかつての起点 ヴァルター広場
(1907年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
 

リッテン駅と呼ぶのは、規模は違うがパリのリヨン駅のように、市内のターミナルに目的地の名(鉄道名とも解釈できる)を冠したものだ。駅名が示すとおりここは拠点駅で、車庫と整備工場があったほか、標準軌の国鉄ブレンナー線 Brennerbahn から引込み線が来ており、貨物の受け渡しも行っていた。

直通運行の開始から間もない1909年7月には、ボーツェンの市内電車としてボーツェン路面軌道 Straßenbahn Bozen が開業する。西郊(1系統)と南郊(2系統)から市内へ入り、ヴァルター広場からリッテン鉄道の軌道に乗り入れて、一部区間を共用した(下注)。しかし残念なことに、リッテン鉄道よりも早く1948年に廃止され、バスに転換されてしまった。

*注 1系統(シュテファニーシュトラーセ Stephaniestraße ~ブレンナーシュトラーセ Brennerstraße)は、バーンシュトラーセ(鉄道通り)Bahnstraße 電停までが共用区間。2系統(ライファース Leifers ~ボーツェン駅前)は共用区間内のバーンホーフプラッツ(駅前広場) Bahnhofplatz が終点だが、駅正面南側に単独のターミナルを持っていた。

■参考サイト
Wikimedia - 路面軌道が記載されたボーツェン市街図(1914年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geuter's_city_plan_of_Bozen-Bolzano_in_1914.JPG

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ドロミティの山を背景にタルファー橋を渡る
ボーツェン路面軌道の電車(1910年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
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旧 ラック区間が記載された1:25,000地形図
10 I SE Bolzano Nord 1963年
10 II NE Bolzano 1960年
© 2020 Istituto Geografico Militare
 

さて、リッテン駅を出発すると、いよいよラック区間が始まる。ラックレールはシュトループ Strub 式で、4.1kmの間に911mの高度差を克服した。最大勾配は255‰で、ピラトゥスやワシントン山には及ばないにしても、オーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn などと並び、世界で最も急勾配のグループに入るものだった。

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ザンクト・マグダレーナ上方を行く旧型車
背景はボーツェン駅と市街地(当時の絵葉書)
Image from styria-mobile.at
 

ラック区間では、電車は自らの駆動装置は使わず、後部すなわち坂下側に配置されたラック専用の電気機関車で押し上げてもらう。また、電車(=電動車)が動力を持たない客車(=付随車)を牽いて2両で来た場合は、まず電動車が付随車の後ろに回り、その後ろに機関車を付ける。こうして、坂下側から機関車、電動車、付随車の順になり、坂を上っていった。

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ラック区間の車両編成
坂下側(=左)から機関車、電動車、付随車
マリーア・ヒンメルファールト駅の案内板を撮影
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ラック専用の電気機関車(左)と電動車
リッテン駅構内にて(1965年)
Photo by Jean-Henri Manara at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

山裾へのとりつきでは、斜面を覆うぶどう畑の上を長さ160mの高架橋で渡る。赤ワインの銘柄で知られるザンクト・マグダレーナ/サンタ・マッダレーナ St. Magdalena/S. Maddalena の村の前には、ラック区間で唯一乗降を扱う停留所があった。

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リッテン駅上手の廃線跡現況(2019年)
(左)高架橋の橋面はぶどう畑に、アーチ下は倉庫に再活用
(右)リッテン駅出口(ラック区間始点付近)に残る橋台
 

さらに上ると、変電所を併設した信号所にさしかかる。ここはラック区間の中間地点に当たり、山上と山麓から同時に発車した列車が行違いを行った。機関車は回生ブレーキを備えているので、このダイヤにより、坂を下る機関車で発生した電力を、上りの機関車に効率良く供給することができた。

やがて車窓は森に包まれ、長さ60mのトンネルを通過する。再び視界が開けて、緑の牧草地に出れば、まもなくラック区間の終点マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta(下注)だった。この駅でラック機関車から解放された電車は、残りの、現在も運行中の区間を再び自力で走り抜けた。

*注 以前のイタリア語駅名はラッスンタ L'Assunta。いずれも聖母被昇天教会にちなむ地名。

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マリーア・ヒンメルファールト駅の現況(2019年)
(左)駅舎は1985年に開通当時の状態に復元
(右)終端の先は牧草地に
 

20世紀前半、高原上にまだまともな自動車道路はなく、鉄道が文字通り「リッテンの生命線 Lebensnerv des Ritten」だった。しかし、第二次世界大戦後は、車両や施設設備の老朽化が顕著になる。鉄道の更新に投資するより、到達時間が短縮できるロープウェーの建設を求める声が大勢を占めた。また、山麓から高原に通じる新しい自動車道路の計画も進行していた。

ロープウェーの起工式は1964年8月に行われた。その矢先の同年12月3日、恐れていた事故が起きる。ザンクト・マグダレーナの上方で、山麓に向かっていた列車が脱線し、ラック機関車とともに落下したのだ。運転士と乗客3名が死亡し、30名が負傷した。

事故区間はいったん復旧されたものの、市内線は1966年7月9日、ラック線は同年7月13日が最後の運行となった。翌14日に山麓との間を結ぶロープウェーが開業し、オーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano で鉄道に連絡する現在の方式がスタートした。ただし、これはあくまで暫定形で、自動車道路が全通した暁には、高原区間も廃止してバスに転換することになっていた。

ところが道路の完成が遅れ、その間に、観光資源として鉄道を再評価する機運が高まった。このいわば偶然のおかげで、リッテン鉄道は全廃の危機から救われたのだった。

1980年代には、施設設備の全面改修が実施された。また、車齢のより新しい中古車が導入され、名物だった古典電車の運行は今や、年数日の特定便に限定されている。

ラック区間を代替したリッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn もすでに2代目だ。初代は50名収容のキャビン(搬器)を使った交走式だったが、2009年に3Sと呼ばれる循環式に交換され、輸送能力が倍増した。これにより、リッテン鉄道も30分間隔での運行が可能になり、利用者の増加につながった。

鉄道は現在、南チロル運輸機構 Südtiroler Transportstrukturen/Strutture Trasporto Alto Adige (STA) が所有し、SAD近郊輸送会社 SAD Nahverkehr AG/SAD Trasporto locale が運行している。SADは南チロル一帯の路線バス、地方鉄道、索道の運行事業者で、リッテン鉄道もその路線網に組み込まれている。

*注 SADの名称は、旧社名 南チロル自動車サービス Südtiroler Automobildienst/ドロミティ・バスサービス Servizio Autobus Dolomiti の頭文字に基づく。

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急斜面を行くリッテン・ロープウェー
背景はボーツェン駅と市街地
 

ボーツェン市内から、鉄道の終点でリッテンの中心地区であるクローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo へは、山道を上るSADのバス路線(165系統)もある。所要時間は30分ほどで鉄道経由と大差はないが、運行は平日日中60分間隔、休日は120分間隔とかなり開いている。輸送力や利便性の点で、やはりリッテン鉄道の交通軸としての位置づけは揺るぎないものになっているようだ。

次回は、ロープウェーと鉄道を使って、そのリッテン高原に出かけることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/
Tiroler MuseumsBahnen http://www.tmb.at/
schweizer-schmalspurbahn.de - Die Rittnerbahn
http://www.alpenbahnen.net/html/rittnerbahn.html

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 リッテン鉄道 II-ルートを追って

 スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

2020年8月 3日 (月)

モンセラット登山鉄道 II-新線開通

1957年の旧 登山鉄道の廃止によって、モンセラット修道院に到達するルートは、既存のロープウェーに乗るか、つづら折りの山岳道路を車で上るかの二択になった。とはいえ、ロープウェーの輸送能力は1時間当たり350人にとどまり、方や車道も、修道院前で行き止まりとなる片側1車線の一本道だ。

案の定、山上の沿道に設けられた駐車場は満車になりがちで、出入りと空き探しの車により、しばしば渋滞した。登山鉄道を代行する路線バスもそれに否応なく巻き込まれて、運行に支障をきたすことになる。さらに、道路や駐車場は自然公園区域内にあるため、環境保護の観点からも問題視された。

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モンセラットの山腹を上るラック電車
 

カタルーニャ州政府は、公共交通機関を再建する必要性を認識していた。2本目のロープウェーやケーブルカーの新設案もあったが、それと比較してラック式鉄道は、輸送能力の高さや旧線跡が利用できるという点で有利だ。整備計画が1989年に公表され、細部を見直しのうえ、1999年10月に最終決定を見た。

そして2001年7月に着工、2年弱の工期を経て、2003年6月11日に新しいモンセラット登山鉄道はめでたく開業したのだ。実に46年ぶりの復活だった。では、21世紀生まれの新路線は、旧路線と何が同じで、何が違うのだろうか。

旧線は非電化で、小型の蒸気機関車が客車2両を押していたが、新線は電車で運行される。この点は大きく異なる。しかし、軌間1000mm、アプト式ラックという線路の仕様は同じだ。

ちなみに新線はFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)により運行され、接続するFGCの狭軌線(下注)と軌間、電圧を共通化してある。このため登山鉄道の電車をFGC線のマルトレイ・エンリャス Martorell Enllaç にある車庫・整備工場へ回送したり、FGC線の電車を登山鉄道の粘着式区間に(モニストロル・ビラ Monistrol-Vila 駅まで)乗り入れることが可能になっている。

*注 リョブレガト=アノイア線 Línia Llobregat-Anoia。

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(左)新線を走るシュタッドラー GTW 2/6形
(右)部分低床の車内
 

次に路線の起終点はどうか。起点は変更されたが、終点は同じ位置だ(下図参照)。前回紹介したように旧線は、この地域で初めて開通した広軌線の駅と修道院を結ぶのが目的だったので、起点はそこに置かれた。現在モンセラットへの主なアクセス路線となっているFGCの狭軌線は、後になってできた路線だ。

新線は広軌線とは接続せず、対FGC線でも、かつての接続駅(後に廃止)ではなく、一駅バルセロナ寄りのモニストロル・デ・モンセラット Monistrol de Montserrat(旧駅名 モニストロル・セントラル Monistrol Central)に起点を定めた。このため、当駅からモニストロル・ビラ駅までの区間はまったくの新設になった。

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旧線と新線のルート
 

その先はほぼ旧線跡をたどるが、一か所だけ、モンセラットへ上る車道と交わる地点の前後は移設された。旧線は踏切だったが、新線では立体交差させる必要があったためだ。また、終点モンセラット駅は、旧線廃止後、駅用地が契約に基づき修道院に返還されていたので、再使用に当たってホームを地下式とし、広場の直下に建設した。

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モンセラット駅地下ホームへの入線
 

開業新線の主な目的は、モンセラット訪問者の経路を分散させて、道路の混雑を緩和することだ。これを実現するには、ふだん車で旅行する人にも電車を使ってもらわなければならない。そこで、モニストロル・ビラ駅の周りに、幹線道からすぐに入れて、乗用車1000台、大型バス70台を収容できる無料の大駐車場が造成された。

修道院一帯が自動車通行禁止になったわけではないが、山上の駐車場は有料で、収容台数も限られている。麓を通る幹線道には、各駐車場の空き状況を示す電光掲示板が設置され、山上まで車で行くか、麓でパーク・アンド・ライドするかをドライバーが判断できるようにしている。

では、モンセラットに向けて列車で旅に出るとしよう。出発地は、バルセロナ市内、プラサ・エスパーニャ(スペイン広場)Plaça Espanya の地下にあるFGCの狭軌線ターミナルだ。登山鉄道の乗換駅まで、R5 または R50系統マンレザ Manresa 行きの電車で65分。朱色のアクセントカラーをまとう213系が、平日は1時間に1~2本、休日は毎時1本(朝は2本)走っている。

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(左)プラサ・エスパーニャ駅の213系
(右)券売機でモンセラット連絡切符を買う
 

乗車券は個別に買ってもいいが、狭軌線+登山鉄道のモンセラット連絡切符 combined ticket(片道または往復)が便利だ。同じように、狭軌線+ロープウェー(英語では cable car)の連絡切符、さらに山上のケーブルカー(英語では funicular)や博物館でも使えるオールインワンの切符も売られている。

いずれも券売機やホーム前の窓口で入手できるが、注意すべきは、購入後のルート変更(登山鉄道をロープウェーに、またはその逆)ができないことだ。これは、ロープウェーがFGCの運営でないためだ。登山鉄道とロープウェーは狭軌線の降車駅も違うので、よく確かめてから購入したい。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

電車は地上に出ると、リョブレガト川 el Llobregat の谷筋を遡っていく。といっても、渓谷らしくなるのは最後の10分ほどに過ぎない。左の車窓、進行方向に観光写真で見覚えのある突兀とした岩山が現れると、まもなくアエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat の急カーブしたホームに停車する。駅名が示すとおり、モンセラット修道院に上るロープウェー「アエリ・デ・モンセラット」の乗換駅だ。このほうが速く着けるので(ロープウェーの待ち行列の長さにもよるが)、降車客が多い。

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リョブレガト川の渓谷を行く
左奥にモンセラットが姿を現す
 

再び走り出し、トンネルを一つくぐると、目的のモニストロル・デ・モンセラットに到着だ。狭軌線は2面3線で、ホームは駅舎側から2、1、3番と付番されている。一方、登山鉄道の駅名はモニストロル・エンリャス(ジャンクションの意)Monistrol Enllaç で、電車は、2番ホームの駅舎寄りにある切り欠きの4番ホームに入る。

駅舎は、切妻白壁2階建ての小ぶりな建物だが、タイルの帯模様の間に「MONISTROL CENTRAL(モニストロル中央)」と旧称が残されているのが目を引く。駅名が二つあるだけでも紛らわしいのに、そのどちらでもない昔の名前が出ているわけで、土地不案内な者にはとまどいのもとだ。

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モニストロル・デ・モンセラット駅
(左)FGC線発着ホーム
(右)旧駅名が残る駅舎
 

モンセラット行きは8時台が始発だ。山から下りてきた列車が35分に入線し、40分ごろ(上下とも)到着のFGC線列車との間で乗客を交換し、48分に山へ向けて出発する。このパターンが1時間毎に繰り返される。山上までの所要時間は20分だ。

使われている車両は、スイス シュタッドラー・レール Stadler Rail 社のGTW 2/6形。部分低床の客車2両の間に短い駆動ユニット車が挟まった関節式と呼ばれるタイプで、新規開業時に5編成(AM1~5)が投入された。このときヌリア(下注)にも同形式の2編成(AM10~11)が入ったが、モンセラットの乗客増に対応するため、移籍されることになった。すでに1編成が塗色を緑に改めて、車列に加わったという。

*注 ピレネー山中を走るラック式登山鉄道。本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」参照。

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モニストロル・ビラ駅に入る登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山電車はマンレザ方向に発車する。最初の1.1kmはごく緩い勾配で、ラックは使わない(=粘着式 adhesion)。すぐにトンネルを2本くぐる。1本目のモニストロルトンネル Túnel de Monistrol は狭軌線と共用で、もともと複線仕様で造られていたものを、片側だけラック線に転用した。2本目との間の短い明かり区間で、狭軌線は右へ去っていく。

2本目のラ・フォルダダトンネル Túnel de la Fordada(164m)は新たに掘られたものだ。その直後、列車はリョブレガト川のはるか上空に躍り出る。渡っていくセンテナリ(百年)橋梁 Pont del Centenari は長さ480m、高さも37mあり、新線最大の構造物だ。橋は対岸に渡りきってからも続き、旧線跡と幹線道路を一気にまたいで、モニストロル・ビラ Monistrol Vila 駅の高架ホームに接続している。

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センテナリ橋梁とラ・フォルダダトンネル
(モニストロル・ビラ側から撮影)
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センテナリ橋梁からの眺め
モニストロルの町とモンセラットの山並み
 

モニストロル・ビラでは4分ほど停車する。ここは路線で唯一の中間駅であるとともに、拠点駅の性格も併せ持っている。というのも、パーク・アンド・ライドの利用客のために、当駅始発の列車が1時間当たり閑散期に1本、繁忙期は2本挿入されるからだ。結果、繁忙期には山上駅との間が20分間隔の運行になる。通常は中央の島式ホームで乗降をさばくが、混雑時は、進行方向左にある片側ホームが降車専用に使われる。

なお、駅前の緑地には、旧線時代の駅舎と線路の断片が残されており、駅舎は鉄道の展示館として内部公開されている。また、駅前広場には、旧線を走ったラック蒸機4号機(1892年製)が、復元客車とともに置かれている。

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モニストロル・ビラ駅前広場の4号機と復元客車
 

これ以降、車窓はずっと進行方向左側に開ける。駅構内を出るとさっそく、最急勾配156‰のラック区間の始まりだ。右カーブしながら、切通しに続くごく短いトンネルを抜け、モンセラットに上る車道を、下路トラスの鉄橋でオーバークロスする。この辺りでは左前方の山上に、モンセラットの奇岩カヴァイ・ベルナト Cavall Bernat(1111m)が天空を刺す姿を捉えることができる。

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天空を刺すカヴァイ・ベルナト(中央の細長い岩山)
 

石造アーチのギリェウメス橋梁 Pont de les Guilleumes の手前から、延長420mの複線区間が始まる。下りてくる列車とは走りながら交換する。振り返れば、今通ってきた山腹の上に、聖ベネト修道院 Monestir de Sant Benet の塔が覗くだろう。

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複線区間で走りながらの列車交換
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山上に建つ聖ベネト修道院
 

左手には、リョブレガト川が流れる谷の壮大なパノラマが展開している。朱屋根に埋め尽くされたモニストロルの町が見え、ラック線のルートも起点駅からの一部始終を追うことができる。わずか数分でずいぶん高くまで上ってきたものだ。一方、右の山側は落石除けのネットが張り巡らされ、ものものしい雰囲気がある。礫岩の地層が風雨による侵食に抵抗して、急峻な崖を成しているからだ。

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車窓からのパノラマ
右が起点駅と駅前集落、
中央がモニストロルの町、その奥にセンテナリ橋梁
 

剥き出しの岩肌をうがったアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols が、路線最長かつ最後のトンネルになる。これを抜けると、あと少しの上りだ。ロープウェーの山上駅の前を通って、列車はモンセラット駅の地下ホームに滑り込む。

駅は、線路を両側からホームが挟む2面3線の構造だ。天井が低くやや圧迫感を覚えるが、ホームは70mの長さがあり、2編成を縦列に収容できる。奥のエスカレーターまたは階段を伝って表の広場に出れば、修道院の荘厳な建物群が目の前だ。

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モンセラット駅
(左)駅上の広場から山麓方向を見る
  奥の建物はロープウェーの山上駅
(右)列車が駅に到着
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モンセラット駅の地上入口
後ろの建物はケーブルカー乗り場
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モンセラット修道院
 

写真は別途クレジットを付したものを除き、2019年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

★本ブログ内の関連記事
 モンセラット登山鉄道 I-旧線時代
 ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

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