イギリスの地形図略史 IV-旅行地図の系譜
第一次世界大戦後の1920年代、1インチ図は軍用地図から脱皮して、戸外に繰り出し始めた市民に受け入れられていく。前々回紹介したように、この「ポピュラーエディション Popular Edition(大衆版の意)」は、エリス・マーティンが描くイラスト入りの表紙が評判となって、売上げを急激に伸ばした。
既定の図郭で区切られた汎用図のポピュラーエディションと並行して、主要都市や旅行適地がうまく収まるように図郭を調整・拡大した集成図が製作された。これらは「地域図 District map」、「旅行地図 Tourist map」と呼ばれ、1920年刊行の「スノードン山 Snowdon」を皮切りに40種以上が製作された。
ポピュラーエディションの旅行地図表紙 (左)Snowdon 1920年 (中)The Chilterns 1932年 (右)汎用図柄(Forest of Bowland) photos from www.charlesclosesociety.org |
表紙には、同じように旅心を誘うカラーの風景画が配されており、そのほとんどが彼の筆によるものだった。1991年のOS創設100年の際、これらの表紙を絵葉書にして10種×4セットが製作されたので、今でも当時の人々を魅了した牧歌的画風を振り返ることができる。
手もとに、1925年に刊行された「湖水地方 Lake District」の旅行地図がある。リネンで裏打ちした丈夫な紙が使われ、図郭は汎用図のそれを縦に約1.5倍した大きさだ(横幅は若干短い)。地図は汎用図のアウトラインを用い、緑、ベージュ、カーキー、オレンジなど色版の絶妙な組み合わせで、等高線に段彩を施している。地形の起伏が強調される代わり、汎用図では緑に塗られる森や公園のエリアは無着色だ。
同 旅行地図の例 Lake District 1925年 |
現代の旅行地図とは違い、情報の追加は、ナショナルトラストの管理区域とユースホステルの位置にとどまる。しかも後者は、教会や郵便局と同じ小型の記号で、容易には見つけ出せない。その点でまだ道路地図の域を出ないのだが、当時の旅行者にとっては、図郭が大きく(通常図を複数買うより経済的)、色の効果で地形が見えるというだけでも十分な価値があっただろう。
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旅行地図は、第二次大戦後の「第7シリーズ Seventh Series」でも引き続き刊行された。1960年代の索引図ではすでに点数が絞られ、スコットランドのケアンゴームズ Cairngorms からイングランド南岸のニューフォレスト New Forest までの計9点になっている。
第7エディションの旅行地図表紙 (左)New Forest 1965年 (中)Dartmoor 1972年 (右)Ben Nevis & Glen Coe 1975年 |
1965年の索引図 |
下図はその一つ、「ダートムーア Dartmoor」図葉だ。地勢表現では段彩にぼかし(陰影)が加わり、地勢がより実感できる。ぼかしは、初め汎用図の「第5エディション Fifth Edition」で試みられたものの、利用者の評判が芳しくなく定着しなかった。それ以来1インチ図では使われず、旅行地図にのみ見られる。
段彩は一般的な茶系の濃淡ではなく、1000フィート以上では藤色や灰青という斬新な配色が特徴だ。「バスカヴィル家の犬 The Hound of Baskervilles」の舞台でもある寒風吹きすさぶ高地の寂寥感を表現しようとしているようで興味深い。
同 旅行地図の例 Dartmoor 1972年 © Crown copyright 2020 |
旅行地図がみなこの仕様かというと、そうではない。「ニューフォレスト New Forest」図葉では、等高線を省き、地勢はぼかし(陰影)のみで表現する。緩やかな丘陵地で、等高線を描くまでもないという判断だろうか。その代わり、色を植生分布に割り当てているのだが、ミントグリーンの森以外は境界を明示せず、水彩画のようにグラデーション処理する。オレンジはヒース Heath(灌木の茂る荒野)、黄緑はダウンランド Downland(草に覆われた丘陵)を表しているが、なかなか冒険的な試みだ。
New Forest 1965年 |
スコットランドの「ベン・ネヴィス及びグレン・コー Ben Nevis & Glen Coe」図葉は、また趣が異なる。低地はシャトルーズグリーンだが、100フィート以上は段彩ではなく、ハイライトにクリームイエロー、シャドーにグレーの精妙なアミを置く2色法を用いている。スイスの地形図を思わせる美しい地勢表現だ。森林に掛けられたアップルグリーンとの相性も良く、OSの過去の製品の中でも出色の出来栄えといえる。
Ben Nevis & Glen Coe 1975年 © Crown copyright 2020 |
しかし1インチ図は、クルマや自転車での移動ならともかく、トレッキングのような徒歩旅行に使うには必ずしも十分な縮尺ではない。細部が描ききれていないため、現地では想像で補わなければならない場面に遭遇しがちだ。それで1972年からは、より縮尺の大きい1:25,000の旅行地図も刊行され始めた。国立公園その他の旅行適地を対象にした集成図で、「アウトドアレジャー図 Outdoor Leisure map」と命名された。
1:25,000アウトドアレジャーシリーズ表紙 Brecon Beacons National Park Eastern area 1976年 |
地図は、汎用の1:25,000図をベースに使用しているが、段彩やぼかしは入らず、レジャー情報の記号を青色で付加しただけのいたってシンプルなものだ。最初は1インチを補完する役割だったと思われるが、次第に刊行点数が増え、1990年のカタログでは30面を数える。そのうちに汎用1:25,000も、同じような旅行情報を加えたエクスプローラーシリーズ Explorer Series に転換されたことで、最終的に両者は一体化してしまった(下注)。
*注 詳しくは「イギリスの1:25,000地形図 II」のエクスプローラーシリーズ Explorer Series の項参照。
同 旅行地図の例 Brecon Beacons National Park Eastern area 1976年 © Crown copyright 2020 |
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さて、1インチの旅行地図はその後どうなったのだろうか。
前回述べたとおり、汎用図のほうは1974~76年に1:50,000に後を譲って、絶版とされた。ところが、旅行地図は運命を共にしなかったのだ。1990年時点でも流通していて、カタログに8点が上がっている(下注)。シリーズの名称は「ツアリングマップ・アンド・ガイド Touring Map and Guide」に改称されたが、これは地図の裏面に詳細な旅行ガイドを盛り込んだ仕様になっているからだ。
*注 この時点でツアリングマップ・アンド・ガイドの総数は14点あるが、残り6点はハーフインチ以下の小縮尺図。
1:50,000縮小による旅行地図表紙 (左)Peak District 1992年 (中)Lake District 1994年 (右)The Cotswolds 1997年 |
1994年の索引図 |
驚くことに、ベースマップの多くはもはやオリジナルの1インチ図ではない。1:50,000の第2シリーズをわざわざ1マイル1インチ(1:63,360)に縮小したものに置き換えられている。初期の1:50,000(第1シリーズ)が1インチ図の拡大版だったことを思えば、先祖返りのような話で、そうした手数をかけてまで、20年以上も1インチ図を維持していたのだ。1インチ図の需要の底深さを知る思いがする。
下図はその一つである「ピーク・ディストリクト Peak District」図葉だ。注記のフォントがユニヴァース Universe で揃っているので、原版が1:50,000図であることがわかる。1インチ図時代と同じように、段彩とぼかしが施されて美しく、その点では旧図と比べて遜色がない。惜しむらくは印刷のプロセスカラー化で等高線がシャープに出なくなったために、やや締まりのない図面になってしまったことだ。
同 旅行地図の例 Peak District 1992年 © Crown copyright 2020 |
凡例では、レジャー情報が増強されている。通年開設かシーズン中かの区別があるインフォメーションセンターをはじめ、駐車場、ピクニックサイト、キャンプサイト、展望地、キャラバンサイト、ゴルフ場、トレール、ユースホステルなどが赤色の記号で示され、旅行者の関心が高い場所には赤のマーカーも引かれている。
同 旅行地図の凡例(一部) |
ツアリングマップ・アンド・ガイドシリーズは、図葉によって1999年まで改訂が行われたが、2001~02年ごろ、ついに絶版になってしまった。しかし、旅行地図で培われた編集のコンセプトは、より充実した形で、1:50,000のランドレンジャーシリーズ Landranger Series や、1:100,000以下のトラベルマップシリーズ Travel Map Series の図面に継承されていく。
メートル尺に切り替えられた地形図体系は、その後どのような構成になったのだろうか。次回からその概要を紹介しよう。
本稿は、Tim Owen and Elaine Pilbeam, 'Ordnance Survey: map makers to Britain since 1791', Ordnance Survey, 1992; Chris Higley, "Old Series to Explorer - A Field Guide to the Ordnance Map" The Charles Close Society, 2011; Richard Oliver, 'Ordnance Survey maps: a concise guide for historians' Third Edition, The Charles Close Society, 2013 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
■参考サイト
Ordnance Survey http://www.ordnancesurvey.co.uk/
The Charles Close Society https://www.charlesclosesociety.org/
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