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2019年12月16日 (月)

コンターサークル地図の旅-三田用水跡

東京はその日一日、雨模様だった。ひどくはないものの、上着のフードだけでは濡れ鼠になるような降り方だ。加えて時おり強い風が街路を吹き抜けて、広げた傘を大きくゆさぶった。

2019年11月23日、コンターサークル秋の旅の3回目は、京王線の笹塚(ささづか)駅改札前に集合する。参加したのは、今尾、中西、大出、木下さん親子、木下さんの友人のKさん、そして私の大6、小1、計7名。こんな日でも厭わず集まるのは、雨なら雨のおもむきがある(下注)というサークルの創始者、堀淳一さんの考え方、いわば「堀イズム」がメンバーに浸透している証しだろう。

*注 「私の「地図歩き」は全天候型の旅で、雨が降っても風が吹いても濃霧がかかっていても、かまわずに歩きます(中略)。雨なら雨の、風なら風の、霧なら霧の、晴れた日には味わえないそれぞれの味わい--晴れた日よりもむしろ深い、陰翳に富んだおもむき--があるからです。」(堀淳一「消えた街道・鉄道を歩く地図の旅」講談社+α新書、2003年、p.21)

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(左)雨をついて笹塚駅に入る京王線の電車
(右)笹塚駅10時集合
 

本日のテーマは、江戸の六上水、すなわち6本の上水道の一つであった三田(みた)用水だ。下北沢村(現在の世田谷区北沢五丁目)で玉川上水から分水され、およそ南東方向に三田方面まで延びていたので、その名がある。

1664(寛文4)年に飲用水を取るために開かれたが、1722(享保7)年に廃止、2年後に灌漑用水として再開された。明治に入ると、火薬やビール製造など工業用水としても利用され始め、次第にその比重が増していった。しかし、都市化の進行で農地が縮小し、工場も上水道に切り替えたことから、1974(昭和49)年に取水が中止され、300年の幕を閉じた。

用水が通っていたのは武蔵野台地の末端、目黒川の谷と渋谷川(および支流の宇田川)の谷を隔てる台地(淀橋台南部)の上だ。分水口から南下した水路は、駒場東大の北側を通り、山手通り、旧山手通り、防衛省用地を経て、目黒駅前に至る。ここで東へ転じて、目黒通りから桜田通りのほうへ進み、後は暗渠となって、旧道(二本榎通り)の下を三田へ流れ下っていた。

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1:25,000地形図と陰影起伏図に歩いたルート(赤)と水路の位置(青の破線)等を加筆
笹塚~代官山間
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代官山~高輪台間
図中の水路の位置は、旧版1万分1地形図中野、世田谷、三田、品川の各図幅を参照した
 

機能停止の後、跡地は宅地や道路に転用されてしまったので、もはや水路の形では残っていない。しかし、ルートに沿って街路をたどれば、住宅や空地が線状に並んでいる個所がある。用水の記念碑や、かろうじて撤去を免れた道端の遺構も見つかる。そうした痕跡を訪ね歩くうちに、なみなみと水を運んでいた水路のさまが見えるような気がするから不思議だ。

私たちは、用水が桜田通りと出会う都営浅草線高輪台駅をゴールに見据えて、笹塚駅を出発した。今尾さんの案内で進む。玉川上水に沿って南へ200m、笹塚橋のすぐ下手に、三田用水の分水口があった。もちろん水路の分岐は現存せず、上水の西側の用地が三角形に膨らんでいるので、それとわかるだけだ。

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三田用水分水口
(左)右奥の三角形の敷地がその跡
(右)分水口から上流を望む
 

「ここからしばらく玉川上水と並走していたんですが、宅地に取り込まれてしまってます」と今尾さん。早くも目標喪失だが、玉川上水の緑道をそのまま歩いて、都道420号(中野通り)と井の頭通りが交わる大山交差点に出た。

そこから南は道路の拡幅工事中で、とぎれとぎれの歩道を伝っていかねばならない。進行方向右側に細長い宅地の列が沿っているから、おそらくこれが用水跡なのだろう。小田急の地下化された東北沢駅を左に見て、少し行くと三角橋交差点だ。川のない台地上にも橋のつく地名があるのは、用水が通っていたからに他ならない。

航研通りに入り、しばらく東へ進む。東大生産技術研究所のいかめしい門の前から200mほどで、用水跡は一つ北の小道に引っ込む。そして再び大通りと合流するところに、二ツ橋と記されたバス停標識が立っていた。これも橋の名だ。東大教養学部(駒場地区キャンパス)の裏手で、地震が来たら危なそうな高いブロック塀が続いている。

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(左)三角橋交差点(別の日に撮影)
(右)二ツ橋バス停
 

ほどなく山手通りの広い空間に出た。道路の中央に、巨大な塔が3本突っ立っているのが目につく。首都高速の山手トンネルの換気塔だ。歩道と東大の敷地との間に細長い敷地が延びていて、商業ビルや駐車場に使われている。これも用水跡だなと思って歩いていくうち、歩道より一段高いコンクリートの構造物が露出しているのに気づいた。用水跡歩きのウェブサイトで見た覚えがある。「これって痕跡ですよね」。取っ手付きの点検蓋もあるが、周辺に謂れを記したものとてなく、果たしていつまで残るだろうか。

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山手通り
(左)歩道脇に露出する構造物
(右)点検蓋や分水口も残る
 

間もなく、用水跡はビル裏の路地に入ってしまう。そちらに回ると、同じような帯状の敷地に、建物が窮屈そうに整列していた。山手通りのそれといい、土地がもつ記憶は容易に消えるものではない。京王井の頭線をまたいでまもなく、曲がってきた山手通りにぶつかる。ところが、渡れる横断歩道がなく、松濤二丁目の交差点までかなり迂回を強いられた。

神泉町から代官山にかけては台地の開析が進んでおり、用水跡は稜線、すなわち馬の背のような場所を通っている。そのため、交差する道は左右どちらも下り坂だ。とりわけ西の目黒川の谷壁は急斜面で、坂道は険しく、階段道さえ見られる。また、稜線は、河川と並んでしばしば行政界として用いられるので、用水跡が渋谷区と世田谷区、目黒区との境界に沿っているのも偶然ではない。

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(左)帯状の敷地に建つ建物の列
(右)目黒川の谷に降りていく階段道
 

「ルートから少しそれますが、記念碑がありますよ」と誘われたので、そちらに向かう。山手通りに面したマンションの植え込みの中に、細身の石碑が立っていた。傍らの説明板によれば、渋谷道玄坂から調布へ向かう古道「滝坂道」が用水を渡る場所に、かつて石橋が架かっていた。碑も本来そこにあったもので、近隣十三か村の住民が堅牢な石橋に感謝して建立したものと推測されるという。

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青葉台四丁目の石橋供養塔碑
 

そのうちに正午を回ったので、神泉町交差点の中華料理店に入った。テーブルではいつもの鉄道話で盛り上がる。初参加のKさんが、「みなさん鉄道にお詳しいんですね」と驚く。「地図のサークルなんですが、なぜか鉄道ファンが多いんです」と私が言うと、「地図と鉄道はいろいろと関係してますからね」と今尾さんがフォローしてくれた。

食事後は、再び用水跡の細い裏通りを歩いていく。裏通りといっても場所が場所だから、両側には目を見張るような豪邸の長い塀が続いている。まもなく西郷山公園の緑が見えてきた。西郷隆盛の弟従道(つぐみち)の別邸だったところだ。晴れていれば目黒川の谷を一望できるのだが、今日は雨に煙っている。だが、このしっとりした情景も悪くない。

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西郷山公園、紅葉の広場も雨に煙る
 

西郷橋からは旧山手通りに出た。ご存じの蔦屋書店をはじめ、おしゃれな店が軒を連ねる地区で、お上りさんの私は目を丸くしながら歩くのみだ。考えてみれば、この代官山といい、これから行く白金台といい、三田用水はセレブなエリアを貫いている。工業用水の比率が高まると、汚染を嫌って、水路は昭和の初めにほとんど暗渠化されてしまった(下注)が、そうでなければ、玉川上水のような木陰の散歩道に転換できていたかもしれないと思う。

*注 昭和10年代の1万分1地形図では、恵比寿のビール工場より上流で開渠のまま残されているのは、鎗ヶ崎交差点~火薬製造所間のみ。

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旧山手通り
(左)西郷橋を渡る
(右)用水があればこの歩道も水辺の散歩道になったかも
 

残念なことに、用水の追跡は、駒沢通りと交わる鎗ヶ崎(やりがさき)交差点で中断される。この先は水路に沿う道がなく、さらに防衛装備庁艦艇装備研究所の用地に入っていくためだ。「跡をたどれないので迂回します」と今尾さん。

私も、歩く区間の地理院地図を印刷してきているのだが、インクジェットのため、雨でにじんで、もはや細部が消えつつある。その点、今尾さんはスマホで、何と東京時層地図のアプリを仕込んでいた。にじむ心配がないどころか、旧版地形図を時代ごとに比較できるから、遺跡探索には強力なツールだ。

途中、研究所内の長大水槽を覆う建屋をフェンス外から眺めることで、この区間の探索に代えて、新茶屋坂に出た。道路が、長さ約10mのトンネルで用水の下を抜けていたという場所だ。しかし、道路の拡幅に伴い、トンネルは2003年に撤去され、今は南側の歩道脇に、銘板と記念碑だけが残されている。

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隧道があった新茶屋坂通りの掘割
右端に記念碑がある(別の日に撮影)
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茶屋坂隧道記念碑、右はその拡大
 

新茶屋坂の南側から、再び用水跡の小道が始まった。目黒三田通りとは薄い角度で交差するが、その交差点前にある日の丸自動車教習所の前を通り過ぎようとしたとき、大出さんが次の記念碑を目ざとく見つけた。丸石が2個埋められ、後ろにずばり「三田用水跡」と題した説明板がある。それによれば、この石は用水の木樋を支えていた礎石だそうだ。

「ビール工場の原料水にも用いられたと書いてありますよ」。今はガーデンプレイスになっているサッポロビール(旧 日本麦酒)恵比寿工場のことだ。「それだけ用水の水質が良かったということですね」と感心する。

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日の丸自動車教習所前の記念碑
 

山手貨物線で3か所しかない踏切の一つという長者丸踏切や、切通しに優雅なアーチを架ける白金参道橋で、マニアックな関心を満たした後、目黒駅前の陸橋で山手線を渡った。用水跡は目黒通りの南を走っているのだが、それに沿う道が寸断されているため、私たちは目黒通りを直進した。

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長者丸踏切
(左)山手線と貨物線の交差地点
(右)目黒駅方に白金参道橋のアーチが見える
 

白金台三丁目には、遺構がいくつかある。一つ目は今里橋の跡だ。白金台幼稚園の手前で小道が用水を渡っていた場所で、橋の欄干が片側だけ、道端に半ば埋もれた形で残っている。側面に回ると、水道管もいっしょに水路をまたいでいた。なるほどこれがあるために、欄干は撤去されずに済んだのだ。

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今里橋の欄干
(左)後ろの建物は用水跡に建つ
(右)用水をまたいでいた水道管
 

そこから南へ向かうと、公園沿いの小道で水路跡が歩道代わりとされ、小橋の跡もしっかり残っている。おもしろいのはその先で、鞍部を横断するため、用水は築堤上に通されていた。マンション建設で築堤は取り崩されたものの、付け根部分の水路断面が保存されているのだ。傍らに「三田用水路跡」の案内板も立っている。流路の末端に近いので、断面は側溝ほどのサイズしかないが、水路の現物が見られるのはここが唯一だろう。そしてこれより下流に、もはや遺構はないらしい。

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白金台三丁目に保存された水路断面
 

私たちは今里地蔵のお堂を経て、地下鉄の駅まで最後の区間を歩き通した。笹塚駅からここまでおよそ8.5km、小学生のキリ君も雨合羽姿でついてきた。持っているゲーム機には歩数計の機能が搭載されているらしく、「さっき1万歩だったから、次はもう2万歩になるよ」と大人たちにアピールしながら。

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キリくん、沿道の手押しポンプに挑戦
 

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