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2019年11月14日 (木)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡

下津井電鉄は、国鉄宇野線の茶屋町(ちゃやまち)駅と下津井(しもつい)との間を連絡していた鉄道だ。762mm(2フィート6インチ)狭軌、いわゆるニブロク軌間の電気軽便鉄道だった。

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下津井駅跡
 

今も瀬戸内の主要漁港の一つである下津井には、かつて四国の丸亀との間に定期航路があり、こんぴらさん(金刀比羅宮)へ参る人々で大いに賑わった。しかし1910年に開設された宇高連絡船に客を奪われたため、地元の有力者によって計画されたのがこの鉄道だ。1913(大正2)年に茶屋町~味野町(後の児島)間、翌14年に下津井までの全線が開業している。

最初は蒸気鉄道だったが、戦争末期から直後にかけての石炭不足を受けて、1949(昭和24)年に直流600Vで電化された。だが道路事情が改善されると、岡山へ直通するバスに対して、茶屋町での乗換えが必要な鉄道は条件的に不利となる。利用者数が落ち込み、1972(昭和47)年、まず茶屋町~児島(こじま)間が廃止された。

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かつての下津井駅(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

このとき、末端の児島~下津井間は、並行道路の未整備を理由に存続した。以来、全国鉄道網から切り離され、孤立線のまま細々と運行されていたのだが、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通を機に今一度、観光路線への飛躍が目論まれた。

1987(昭和62)年に児島駅が移転改築され、新造車両も投入されて、再デビューが華々しく祝われた。しかし、客足は思うように伸びず、一方で新規投資による減価償却費の増加が、会社の収支を圧迫した。皮肉にも、瀬戸大橋の建設工事に伴い、周辺道路の整備が進んだことで、バス転換が可能になっていた。そのため鉄道は、再興からわずか4年足らずの1990年末をもって、あっけなく廃止されてしまったのだ。

2019年11月3日、コンターサークルS秋の旅の初日は、この下津井電鉄(下電(しもでん))の廃線跡を歩く。茶屋町から下津井まで21kmのルートは廃止後、大部分が自転車道・徒歩道となり、今でも容易にたどることができるが、今回は、最後まで運行され、景色にも優れた児島~下津井間6.3kmに焦点を絞った。ついでに沿線の鷲羽山や下津井の町にも寄り道して、瀬戸内ののびやかな風光に浸るつもりだ。

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児島~下津井間の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
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下津井電鉄現役時代の地形図(1974(昭和49)年修正測量)
初代児島駅が描かれている
 

岡山から、高松行きマリンライナー19号で児島駅へ向かう。指定の10時20分に集合したのは、相澤夫妻、浅倉さんと、相澤夫人の歩き仲間のKさん、海外鉄道研究会のTさん、それに私の計6人。あいにくの曇り空だが、日差しがない分、かえって歩くのは楽かもしれない。

「最初に、下電の駅の跡を見に行きましょう」と私が口火を切った。下電は、JR線より700mほど内陸を走っていた。というのもJR線が通る一帯はかつて遠浅の海で、戦前まで塩田が広がっていたからだ。メンバーは地元岡山の人が多いので、下手な案内人を待つまでもなく、自然と誰もが旧駅の方角へ足を向ける。

下電児島駅は二度移転している。「味野町(あじのまち)」と称した初代の駅は、小田川(おだがわ)に近い一角にあった。駅と駅前広場があった場所は現在、駐車場に転用されている。鉄道の記憶としては、北端近くにある大正橋バス停前に、駅名標のレプリカが立つのみだ。記されている「味野」という駅名は1941年に改称されたことを示すが、次の駅名が「こじま」になっているのを誰かが見咎めた。「味野と児島は同じ駅なんですがね」。再改称は1956年に行われている。

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(左)味野駅跡を示す駅名標
(右)小田川護岸に顔を出す下電の橋台
 

小田川に架かる大正橋北側の護岸で、下電の橋台が斜めに飛び出しているのを確かめてから、引き返した。茶屋町~児島間廃止後の1976年、児島駅はバスセンターの改築に合わせて少し南に移転している。私はこの二代目駅の時代(1984年)に一度だけ下電に乗ったことがあるが、今や芝生広場が広がるばかりで、鉄道の痕跡は何もない。

さらに南へ進むと、通りの向こうで、三代目の児島駅が原形をとどめていた(下注)。上述の観光開発の一環で1987年に建てられたもので、トレインシェッドというべきか、かまぼこ型の高屋根のかかった立派な建物だ。線路はもうなかったが、小ぢんまりとした頭端式のプラットホームや、構内を見下ろすウッドデッキなどがしっかり保存されている。ホームは建物の外まで続いていて、役目を終えた駅名標が所在なげに立っていた。「これもレプリカでしょうか」「字もかすれて年季が入ってるから、本物じゃないかな」。

*注 旧駅舎は、金・土・日・祝日(年末年始を除く)の8:30~17:00の間、開放されている。

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三代目児島駅正面
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トレインシェッドで覆われた内部
(左)ウッドデッキは当時のもの
(右)プラットホーム跡も残る
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(左)ホームの先に「風の道」が延びる
(右)オリジナルの駅名標
 

ここから廃線跡は、自転車・歩行者道「風の道」に姿を変えて、南へ延びていた。舗装は砂地に似せた自然色で好ましい。駅からの左カーブが終わると、直線路になった。家並みが絶えない町なかを行くので、徒歩や自転車で地元の人もときどき通る。

見た目はすっかり普段使いの風景だが、他の道と明らかに異なるのは、路側に現役当時さながら、茶色の架線柱が林立していることだ。断面が三角形のトラス鉄柱で、架線を吊るためのビーム(横梁)はもとより、ときには碍子までぶら下がっている。電化路線ならではの大道具で、ここまできれいに残されているのは見事だ。

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架線柱が残る廃線跡
 

旧街道との元踏切を越えて400mほど行くと、一つ目の中間駅、備前赤崎駅があった。石積みのホームは左右の間隔が広いから、線路が2本敷かれた交換駅だったのだろう。鳥居形の駅名標に、「びぜんあかさき(駅跡)」とかっこ書きされているのが正直で、微笑みを誘う。

その200m後で、国道430号線と交差した。ここは横断歩道がなく、迂回を余儀なくされる。ほぼ直線だった廃線跡はこの直後、左に急カーブし、次いで緩やかに右に反転していく。その途中で、阿津(あつ)駅の片面ホームを通過した。

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備前赤崎駅跡
(左)石積みのホーム
(右)「駅跡」と書かれた駅名標
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阿津駅は住宅街の中の片面ホーム
 

倉敷シティ病院の前で、舗装が自然色から黒いアスファルトに変わり、同時に25‰勾配が始まる。海岸沿いではあるものの、鷲羽山との間の鞍部を乗り越えるために、坂を上る必要があるのだ。桜並木の築堤はいい雰囲気だったが、すぐに道路と交差するレベルまで急降下していた。築堤が切り崩されてしまったようだ。そのため、瀬戸大橋線の下をくぐるまでの短区間は、線路跡らしくない急勾配になっている。

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(左)25‰勾配が始まる桜並木の築堤
(右)切り崩された築堤
 

さらに坂を上っていくと、いよいよ左手に海が見えてきた。手前にある競艇場の施設が少々目障りだが、下電名物の車窓風景がこれからしばらく続くのだ。JRの変電所の先で敷地が急に広がり、そこに琴海(きんかい)駅の島式ホームがあった。ベンチも置かれていて、家並み越しに海と島影を見晴らせる。「鷲羽山(わしゅうざん)駅まで行ってもいいんですが、12時を回ったので、ここで昼食にしましょう」と相澤さん。腰を下ろして、皆それぞれ持参した食事を広げた。

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坂を上っていくと左手に海が見えてくる
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琴海駅跡で昼食休憩
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琴海駅跡から見る海景
 

琴海駅の先もまだ25‰の坂道で、神道山(しんとうざん)からせり出した山脚を、築堤と切通しを連ねて縫っていく。大畠(おおばたけ)集落の上で右へ回り込み、瀬戸大橋線と瀬戸中央道の下のカルバートを斜めにくぐった。カーブして見通しの悪い切通しをもう一つ抜ければ、鷲羽山駅に到達だ。標高43m、「風の道」のサミットに当たり、休憩所として瀬戸大橋を望むテラスと公衆トイレが設置されている。

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築堤と切通しで山脚を縫う
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サミットの鷲羽山駅
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駅のテラスから見る下津井の家並と瀬戸大橋
 

下津井まであと2.5kmだ。「余裕で着けると思うので、その前に鷲羽山へ寄り道しませんか」と提案したら、異論はなかった。鷲羽山は南東に突き出した半島で、備讃瀬戸の海景をほしいままにする、古来知られた展望地だ。

駅から南へ遊歩道が延びていて、松林の中の急な階段を上がっていく。まもなく東屋(あずまや)展望台という最初の見晴らしスポットがあった。瀬戸中央道のトンネルの真上に位置しているので、下津井瀬戸大橋まで一直線、あたかも足下から車が飛び出すような迫力のある眺めだ。

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東屋展望台からの迫力ある眺め
 

さらにしばらく上ると、山頂に着いた。表土が剥ぎ取られ大岩が露出していて、石舞台のように見える。標高113mと大した高さでないにもかかわらず、岩の上に立てば、北の児島市街地から、島影浮かぶ内海、長い吊橋の列、そして西の下津井港まで、文句なしに360度の眺望が得られる。

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鷲羽山山頂
(左)石舞台のような頂上
(右)瀬戸大橋が間近に
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鷲羽山山頂からのパノラマ
 

今日は遠くがかすんでいたが、それでも一同満足して、もときた道を戻った。鷲羽山駅からしばらく廃線跡は、海岸沿いに続く下津井の町を避けて、山手を迂回している。500mで東下津井駅だった。1931(昭和6)年開設の鷲羽山駅に対して、東下津井は開通当時からあった駅だ(もとは下津井東と称した)。残されたホームが異様に低いので、歩道部分が嵩上げされているようだ。

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東下津井駅跡
 

城山の裏手からは最終コースで、25‰の下り勾配で谷間に突っ込んでいく。鞍部を切通しで通過しているのだが、長い年月のうちに草木が覆いかぶさり、まるでトンネルだ。切通しを抜けた後は、オメガカーブで南に向きを変え、浅い谷を降下する。Tさんが、列車が走っていた当時撮った写真を見せてくれた。「あの頃はこのカーブを見通すことができたんです。」今は谷いっぱいに住宅が立ち並んでしまい、撮影名所の面影は消失している。

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鞍部を切通しでやり過ごす
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オメガカーブを描いて降下
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現役時代のオメガカーブ(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

石積みが残る道路のアンダーパスをくぐると、もう下津井駅跡だった。老朽化が進み、駅舎や周りの建物はすべて撤去されてしまったが、カーブする相対式のプラットホームとその間に敷かれた線路が、在りし日の記憶を呼び覚ます。隣接する側線群には、「赤いクレパス号」だったモハ1001や、1988年新造の観光電車「メリーベル号」など、保存会が管理する旧車が何両も休んでいた。フェンスがあり、普段は立ち入れないが、毎月第2日曜と第4日曜に開放されているそうだ。

時刻は14時30分、終点まで無事歩き通して、ここで解散となった。Tさんと私は、狭い通りに古い民家や土蔵が並ぶ下津井の旧市街まで足を延ばし、郵便局前で下電バス「とこはい号」を捕まえて、児島駅に戻った。

*注 とこはい号は児島市街、下津井、鷲羽山第二展望台などを通る循環バス路線。反時計回りの一方通行で、1時間毎に運行。なお、下津井から児島駅に向かう場合、「児島駅南」バス停が最寄りとなる。

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ホームと線路が残る下津井駅跡
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(左)保存車両モハ1001
(右)奥に観光電車「メリーベル号」の姿も
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図下津井(昭和49年修正測量、平成30年10月調製)を使用したものである。

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