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2019年5月29日 (水)

グムンデンのトラム延伸 I-概要

グムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden

グムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof ~ グムンデン・ゼーバーンホーフ Gmunden Seebahnhof 間 4.2km
軌間1000mm、直流600V電化、最急勾配100‰
1894年開通、2018年ゼーバーンホーフへ延伸、トラウンゼー鉄道と直通化

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湖岸への急坂を下るグムンデンのトラム

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グムンデン Gmunden は、オーストリアの湖水地方であるザルツカンマーグート Salzkammergut の入口に位置する町だ。トラウン湖 Traunsee の水運を操り、古くは上流のハルシュタット Hallstadt などから産出する岩塩の取引で栄えた。19世紀に入ると、イシュル Ischl(バート・イシュル Bad Ischl)に次ぐ帝国の避暑地となり、湖を見下ろす斜面には上流階級のヴィラ(別荘)が建ち並んだ。町は今も湖畔リゾートの雰囲気を漂わせていて、夏には、白地に緑縞を描いた名産の陶器を並べる市が立つ。

その市街地を、昨年(2018年)9月からグムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden の連節トラム(下注)がさっそうと走り抜けるようになった。

*注 2016~17年にフォスロー・キーペ  Vossloh Kiepe(現 キーペ・エレクトリック Kiepe Electric)製の低床連節車トラムリンク Tramlink V3 形 8編成が導入された。

かつてトラムは、旧市街の手前のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ Franz-Josef-Platz(フランツ・ヨーゼフ広場)を終点にしていた。ÖBB駅との間わずか 2.3kmの区間を細々と往復する、自称 世界最小の路面軌道だった。19年前に初めてこの町を訪れた時、標識が1本立つだけの停留所に、デュヴァーク Duewag 製の古ぼけたボギー単車がぽつんと客待ちしていたのを思い出す。

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フランツ・ヨーゼフ・プラッツに停車中の旧車 GM 10
系統幕の「G」はグムンデンを意味する
(左)オリジナル色(1999年撮影)
(右)グムンデン・ミルクのラッピング(2014年撮影)
   海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

それが今や、湖の対岸に終点のあったトラウンゼー鉄道 Traunseebahn(下注1、正式名:グムンデン=フォルヒドルフ地方鉄道 Lokalbahn Gmunden - Vorchdorf)と線路がつながり、町をはさんで東西約19kmを乗り換えなしで結ぶ。時刻表番号も、従来の174からトラウンゼー鉄道の番号である161に統一され、全体を「トラウンゼートラム Traunseetram」と呼ぶようになった。直通化だけではない。定員90名の旧型単車は、定員175名の低床5車体連節車に完全に置き換えられ、1時間2本きりだったダイヤは4本に倍増された(下注2)。主要な停留所もバリアフリー仕様に改造されている。

*注1 鉄道名は「トラウンゼー鉄道」とするが、地名は「トラウン湖」と記すことにする。
*注2 うち2本はグムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof ~エンゲルホーフ Engelhof 間の運行。

トラウンゼートラムの開通(直通運行)を祝う行事は、9月1日に町を挙げて行われた。その日から2週間は無料の試乗期間とされ、多くの市民が直通トラムの初乗りを楽しんだ。

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低床連節車トラムリンクV3
 

2014年に先行開通していた区間を含めても、新たに建設された軌道は1kmにも満たない距離だ。しかし、州道120号線になっているトラウン橋の前後は代替路が少ないため、かねてから交通のボトルネックになっていた。そこに輸送力のある鉄軌道が出現する効果は大きく、実際に利用してみても快適さ、便利さを体感する。たかが1kmでも、町にとっては画期的な交通ルートの誕生なのだ。

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グムンデン周辺の地形図に鉄軌道ルートを加筆
赤色の線がグムンデン路面軌道で、
列車は橙色のトラウンゼー鉄道に直通する
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

グムンデン路面軌道が、グムンデン電気地方鉄道 Elektrische Lokalbahn Gmunden (ELGB)  として開業したのは今から125年前、1894年8月のことだ。市民が蒸気機関車の走行に伴う騒音や臭気を嫌ったため、名称が示すとおり、最初から電車が導入された。オーストリアでは3番目の電気鉄道だった(下注)。大都市のウィーンやリンツでも、市内線に電車が登場するのは1897年以降だから、いかに時代を先取りしていたかが想像できる。

*注 オーストリア初の電化鉄道はメードリング=ヒンターブリュール地方鉄道 Lokalbahn Mödling–Hinterbrühl で、1883年開業(最初から電化されており、架線集電では世界初)、1932年廃止。2番目のバーデン路面軌道 Straßenbahn Baden は1873年に馬車軌道で開業、1894年7月から順次電化されたが、現存しているのはウィーン地方鉄道 Wiener Lokalbahn が走る短区間のみ(本ブログ「ウィーン地方鉄道(バーデン線)I-概要」で詳述)。

このように歴史はきわめて古いが、規模は最初からささやかなものだった。国鉄のグムンデン駅前(グムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof)と市庁舎広場(ラートハウスプラッツ Rathausplatz)の間、路線延長はわずか2.54kmに過ぎない。1877年に開通した国鉄ザルツカンマーグート線 Salzkammergutbahn(下注)のグムンデン駅が、湖岸の市街地から2km離れた丘の上に設けられており、その連絡が目的だったからだ。

*注 当初は帝国勅許ルードルフ皇太子鉄道 k.k. privilegierte Kronprinz Rudolf-Bahn (KRB) が建設し運行した。それで、駅もルードルフスバーンホーフ(ルードルフ駅)Rudolfsbahnhofと呼ばれていた。鉄道は経営不振のため、1880年代に国有化。

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(左)現在のグムンデン・バーンホーフ電停
(右)現在のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ電停
 左端の"CAFE"前が旧来の電停で、現在はグムンデン駅方面の乗り場
 

すでにグムンデンでは、対岸のトラウンドルフ Traundorf に、岩塩を運ぶ馬車軌道から転換された蒸気鉄道(下注)があり、1871年には航路に接続するゼーバーンホーフ(湖岸駅)Seebahnhof も開設されていた。とはいえ、これはあくまでローカル支線だ。方や、ザルツカンマーグート線は亜幹線の位置づけで、ウィーンからの直通列車も走っていた。保養客の取り込みをバート・イシュルと競っていたグムンデンとしては、市街地と結ぶ交通手段の確立が喫緊の課題だった。

*注 ランバッハ=グムンデン地方鉄道 Lokalbahn Lambach–Gmunden、後にトラウンタール鉄道 Trauntalbahn とも呼ばれた。1859年までに開業、1988年に旅客輸送を廃止。現在は一部区間で貨物輸送のみ行われている。

都市の近代化に熱心だった市長のもとで建設が計画され、事業の遂行はシュテルン・ウント・ハッフェルル Stern und Hafferl 社に委ねられた。同社はすでに近隣で、760mm狭軌のザルツカンマーグート地方鉄道 Salzkammergut-Lokalbahn(ザルツブルク~バート・イシュル、1890~94年開通)や、ラック式登山鉄道のシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn(1893年開通、下注)を手掛け、交通企業としての実績を挙げていた。

*注 この2本の鉄道については、本ブログ「ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史」「オーストリアのラック鉄道-シャーフベルク鉄道」で詳述。

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トラウン門をくぐって旧市街に入るトラム
 

半年の工期を終えて、鉄道は開通式の日を迎えた。朝の試運転を行っている間、町では、電車の通行に慣れさせるために、乗馬や馬車牽きに使われる馬が通りに沿って多数繋がれていたという。鉄道に電気を供給するため、沿線に石炭火力発電所が建設されたが、電力の一部は市内にも送られ、ガス灯を電灯に置き換えていった。

先述のように、路線は地方鉄道 Lokalbahn として開通している。しかし、オーストリアがナチスドイツに併合された1938年からドイツ国内の建設・運行規程が適用されたことで、路面軌道 Straßenbahn に分類されることになった。実際、併用軌道は全長の2割弱で、他は車道と分離されたいわゆる道端軌道だが、戦後も路面軌道として扱われ(下注)、名称もそれに準じている。

*注 旧車の前面の系統幕に、グムンデンを意味する「G」の文字を掲げていたのはその名残。

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エスプラナーデに立つグムンデン鉄道史の展示パネル
「1894年 グムンデン路面軌道の開通」
 

二度の大戦でも、路面軌道は大きな被害を受けずに走り続けてきたが、その運営が順風満帆だったわけではない。とりわけ1960~80年代は衰退に向かう時代だった。1961年に新聞輸送が廃止された。1975年には自動車交通を優先させるために、旧市街のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ~ラートハウスプラッツ間0.2kmが休止となり、運行区間が短縮された。1978年には車掌が乗務しないワンマン運行に切り替えられ、1989年にはついにバス転換案が表面化している。

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同 展示パネル
上2枚はラートハウスプラッツ電停、
下1枚はフランツ・ヨーゼフ・プラッツ電停
 

退勢が反転したのは、軌道の将来に危機感を抱いた人々の熱意が行政を動かした結果で、それがなければ軌道はとうに過去帳入りしていたかもしれない。この年、路面軌道存続を求める請願に6000人以上の市民が名を連ねた。それに応える形で、市によってグムンデン路面軌道支援者協会 Verein Pro Gmundner Straßenbahn という名の推進団体が設立されたのだ。

協会はまず、路面軌道に対する市民の関心を呼び覚ますことに努めた。車庫まつりや古典電車運行など、次々と市民参加のイベントを仕掛けた。各電停にある古風な駅名標も、昔の様式にならって協会が1994年に新たに設置したものだ。

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古風な駅名標も支援策の一つ
 

2000年代に入ると、協会が中心となって、軌道を延長しトラウンゼー鉄道と直通させるための計画が具体化されていった。その間に、フライブルクやインスブルックから低床車を借りて、既存区間で試験走行も実施された。周到にまとめられた計画案は2003年、市議会に上程され、全会一致で可決された。

協会はその後も広報活動や資金調達など、さまざまな分野で計画の遂行を支援していて、こうした足かけ30年に及ぶ熱心な活動が、路面軌道を復調に導いたのは疑いのないところだ。これまでに実施されたさまざまな更新と新設の内容については、次回、グムンデントラムの走行ルートを追いながら見ていくこととしよう。

■参考サイト
シュテルン・ウント・ハッフェルル  https://www.stern-verkehr.at/
トラウンゼートラム  https://www.stadtregiotram-gmunden.at/
グムンデン路面軌道支持者協会  https://www.gmundner-strassenbahn.at/

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