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2019年2月 4日 (月)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要

カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn

ヌスドルフ Nussdorf ~カーレンベルク Kahlenberg 間5.5km
軌間1435mm(標準軌)、複線(下注)・非電化
リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配100‰、高度差314m
1874年開通、1922年廃止

*注 カーレンベルク旧駅~カーレンベルク新駅間0.6km(1876年の延長区間)のみ単線

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グリンツィング駅から、ヌスドルフへ下るルートを望む
(1910年ごろ)
Photo at de.wikipedia
 
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今回は、オーストリアの首都ウィーン(下注1)の郊外に昔あった登山鉄道、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の話をしたい。それは、19世紀後半に各地に出現した同種の観光鉄道のなかでも、草分け的存在だったという点で特筆される。ヨーロッパで初めてラック式の登山列車が走り出したのは、1871年5月、スイス中部のリギ山に上るフィッツナウ・リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn(下注2)だが、その3年後、1874年3月にこの鉄道は開業している。現存するブダペスト登山鉄道(1874年6月開業)よりわずかに早く、ハプスブルクの帝都が呼び込んだ斬新なアトラクションは、好奇心旺盛な市民の耳目を引いたに違いない。

*注1 本稿ではドイツ語のWの日本語表記をヴとしているが、Wien, Wiener のみ、慣例に従いウィーン、ウィーナーとした。
*注2 リギ鉄道については本ブログ「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」以下、ブダペスト登山鉄道については「ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ」参照。

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ウィーン市街とその周辺図
茶色の枠は下図の範囲を示す
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

まず、鉄道があった場所を確認しておこう。上図はウィーン市周辺を描いた地図だ。市街の西から北にかけてウィーンの森(ウィーナーヴァルト)Wienerwald と呼ばれる山地(下注)が広がっている。それがドナウ川 Donau に落ち込むところに、肩を並べる二つのピークがある。東側がレオポルツベルク Leopoldsberg、西側がカーレンベルク Kahlenberg で、いずれもウィーン市街やドナウの流れを展望する景勝地として知られたところだ。鉄道はそのカーレンベルクの山頂へ上っていた。

*注 「ウィーンの森」という語の響きから、森林公園のようなものをつい想像してしまうが、実際は長さ45km、幅20~30kmの広がりがある山地の名称。

鉄道の起点は、南麓のヌスドルフ Nussdorf(下注)にあった。ルートはまず西へ進み、シュライバーバッハ川 Schreiberbach とネッセルバッハ川 Nesselbach の間の葡萄畑が広がる山脚にとりつく。少しずつ北へ針路を修正しながら上り続け、グリンツィング Grinzing、クラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl を経て、森の尾根筋に接近する。その後、ズルツヴィーゼ Sulzwiese 付近で180度向きを転じて、尾根伝いにカーレンベルクに至った。

*注 ヌスドルフは1999年まで Nußdorf と綴った(小文字の場合)が、新正書法に従い、現在は Nussdorf が正式表記。

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カーレンベルク鉄道と斜路リフトのルート
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ではなぜ、ここにいち早く登山鉄道が造られたのだろうか。歴史をひも解くと、きっかけは1873年に開催されたウィーン万国博覧会だ。来客向けの呼び物にするために、当時スイスで実用化されたばかりのラック鉄道に白羽の矢が立った。1872年3月に、発明者のニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が加わったコンソーシアムから帝国商務省に、事業計画が提出されている。同年8月に認可が下り、着工に向けて準備が始まった。

しかし通常の鉄道とは認可条件が異なり、観光用の鉄道は政府の優遇措置、とりわけ土地収用の特権が受けられなかった。そのため、地主に売却を渋られたり、土地転がしに遭うなど、買収交渉は難航した。事業資金が不足して、再調達さえ必要になった。結局、着工は1873年5月までずれ込み、工事を急いだものの、万博の会期中には間に合わなかった。開業できたのは1874年3月7日で、博覧会が終了して5か月後だった。

*注 ちなみにこの1873年ウィーン万博(和暦では明治6年)は、明治維新後の日本が初めて公式参加した国際博覧会で、岩倉使節団が見学に訪れている。

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旧ヌスドルフ駅前のラック鉄道記念の木彫りレリーフ
ただし実物ではなく写真パネルが嵌めてあった
 

さらに、山上には一足早く到達したライバルがいた。ドナウ河岸からレオポルツベルクの北斜面を上ってくる斜路リフト Schrägaufzug、すなわちケーブルカー(下注)で、ラック鉄道の工事がもたもたしている間に、1873年7月、オーストリア登山鉄道会社 Österreichische Bergbahngesellschaft がさっさと開通させたものだ。同社はさらにカーレンベルクの眺めのいい一等地も買い占め、万博の客を当て込んでホテルを建てた。そのため、遅れてきたラック鉄道は山頂まで入ることができず、駅をその手前600mの位置に設けなければならなかった。

*注 斜路リフトは長さ725m、勾配34%。レオポルツベルクへのケーブルカー Drahtseilbahn auf den Leopoldsberg とも呼ばれた。

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レオポルツベルクへの斜路リフト全景(1873年)
Photo at wikimedia
 

しかし成功裡に終わった万博の熱気が冷めるとホテルの客足が落ち、オーストリア登山鉄道会社は経営難に陥る。機に乗じて、カーレンベルク鉄道会社は1876年、同社を買収した。そして競合する斜路リフトを廃止し、その代わりにラック鉄道を標高484mの山頂まで延長した。これでようやく5.5km全線が完成し、ラック蒸機が推す登山列車が、上りは30分、下りは25分で山麓との間を結んだのだ。

線路は麓からカーレンベルク旧駅まで複線で敷かれていたが、延長区間は単線とされた。開通当初はまだラック鉄道用の分岐器(ポイント)が開発されておらず、遷車台(トラバーサー)を設置して車両の入換を行った。

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グリンツィング駅に停車中の列車
背景はカーレンベルク山頂(1875年)
Photo at wikimedia
 

機関車は6両在籍していた。同種の多くの鉄道のように、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)から納入された蒸機だった。一方、客車は18両が用意され、一部は革張りシートを設置した1等コンパートメントを備えていた。夏は側窓なしの形で運行され、冬はガラス窓が嵌め込まれた。機関車は客車を最大3両連れて山を上り下りした。ラック式特有の揺れと衝撃が激しく、試乗したウィーンっ子の間で、さっそく「ガックン列車 Ruckerlbahn」とあだ名がついたという。

また、鉄道は水源の乏しい山上へ水の輸送も請け負っており、そのためのタンク車2両が常備されていた。

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ヌスドルフ駅構内(1875年)
Photo at wikimedia
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カーレンベルク山上広場に置かれているラック鉄道客車のレプリカ
 

全線開通後、鉄道会社は積極的な旅客誘致策を講じた。ヌスドルフはウィーン旧市街から北へ5km離れている。そこで、この間に連絡のための路面軌道を造ることにしたのだ。1885年1月に認可を得て、ショッテンリング Schottenring(リング北辺)からヌスドルフまでの路線が開通した。当時、市街地はまだ馬車軌道だったので、ショッテンリングから市境(現 リヒテンヴェルダープラッツ Lichtenwerderplatz)までは馬が牽き、そこで客車は路面用の蒸気機関車に引き継がれて、ヌスドルフまで走破した。ちなみに、このルートは現在もウィーン市電D系統の一部として残っている。

さらに、1887年には山頂に、皇太子妃シュテファニー・フォン・ベルギエンの寄贈により、シュテファニー展望塔 Stephaniewarte が建てられた。駅のすぐ横にそびえる高さ22mの塔の上からは、ウィーン盆地はもとより、晴れた日には南東のライタ山地 Leithagebirge、南西のシュネーベルク Schneeberg も見渡せた。これは話題となり、この年、ラック鉄道は26万人を超える利用者を呼び込むことに成功する。だがその後、記録が破られることは一度もなかった。

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山頂に建つシュテファニー展望塔
 

1911年に鉄道会社は再建計画を練り、鉄道を電化するとともに、資金捻出のために沿線の住宅地開発をもくろんだ。しかし後者は、森に悪影響を与えるとして市の同意を得られず、電化工事の認可も、1914年の第一次世界大戦勃発により実現しないままになった。

戦争中も運行は続けられたが、敗戦により事態は大きく変わった。中欧に君臨した帝国が解体され、オーストリアは人口650万人の小さな内陸国になってしまったのだ。産業基盤が失われ、食糧も自足できず、深刻な不況が国を襲った。蒸機に頼る鉄道は石炭不足で運行すら難しくなった。車両整備もままならず、故障が相次いだ。

軌道資材を他の必要な鉄道に回すことになり、まず複線の片方が撤去された。そして1919年9月をもって、定期運行は休止となった。水の輸送だけは1922年4月まで維持されたが、その時点で、48年間続いたラック鉄道の命運は尽きた。線路は1925年までに撤去され、車両も老朽化していたため、すべて廃車処分された。

さて、カーレンベルクから列車の走る姿が消えて、すでに100年近くが経過している。現在、その跡はどうなっているのだろうか。

起点のヌスドルフ駅舎は鉄道施設の中で唯一現存し、レストランが入居している。また、駅とウィーン市街との連絡のために造られた路面軌道も、市電D系統の一部として健在だ。それに対して、ラック鉄道の廃線跡は、多くが車の通る道路に転換されてしまい、橋台や溝渠が断片的に残存するに過ぎない。中間駅クラプフェンヴァルドルの跡は駐車場と化し、山上駅跡は、シュテファニー展望塔がひとり空しく護り続けている。

昨年(2018年)9月にウィーンを訪れる機会があったので、廃線跡を実際に歩いてみた。次回はその状況をレポートしよう。

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旧ヌスドルフ駅舎の前にさしかかるウィーン市電D系統のトラム
 

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