ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線
貸切運行のモ161で阪堺線の終点、浜寺駅前に降り立った一行は、20分の休憩の間、車内を撮影したり、近くにある南海本線の駅舎を覗いたりして過ごした。
浜寺駅前に停車中のモ161 (以下、特記ないものは2014年4月撮影) |
浜寺は、古くから白砂清松の海岸として知られた場所だ。沖合に埋立地が造成される以前は、海水浴場にさまざまなレジャー施設が併設された行楽の人気スポットだった。戦前、大阪市内からここまで、南海本線、阪堺線(阪堺電気軌道、1915年から南海鉄道阪堺線)、新阪堺(正式名称は阪堺電鉄、下注)と3本の鉄道が通じていたことからも、その賑わいぶりが想像できる。
*注 新阪堺は阪堺電軌とは別会社で、1944年に大阪市電に吸収されたが、その際に、堺市街から浜寺までの末端区間は廃止された。
南海本線の駅名は浜寺公園といい、1907(明治40)年に建てられた私鉄最古級の木造駅舎が最近まで使われていた。惜しいことに、鉄道の高架化工事に伴って2016年1月に駅舎としての役割を終え、現在は、曳家により高架工事に支障しない位置に移設保存されている。一方の阪堺線の電停名は浜寺駅前、つまり南海の駅前という意味だ。控えめな名称に合わせるように、駅舎も切妻屋根のささやかなものだ。たいていホームに次の電車が停まっているから、待合室を設ける必要もないのだろう。
瀟洒なデザインが特徴的な南海本線浜寺公園駅の旧駅舎 (2010年4月撮影) |
浜寺駅前電停は南海の駅(右奥)から公園へ通じる通り沿いにある (2010年4月撮影) |
そろそろ折返しの出発時刻になる。13時20分に出た定期列車の後を追って、モ161もホームを離れた。復路では、我孫子道車庫に寄り道した後、上町線の起点、天王寺駅前まで行くことになっている。
先行車が各電停で客を拾っていくので、こちらは徐行したり、ときには停止したり、車間距離を見計らいながらの運行だ。その間、車内ではサイレントタイムの指示があった。おしゃべりは控えて、吊り掛け駆動の懐かしいうなり音を鑑賞する。意識はおのずと車外の動く景色に向くから、数分おきにすれ違う対向列車が気になる。
モ161の復路 (左)大道筋で先行車の後を追う (右)まもなく我孫子道電停 |
大和川を渡り、大阪市域に入って最初の停留場が、我孫子道(あびこみち)だ。南側のホームの前まで進んだ後、バックでゆっくりと車庫の構内に入っていった。東端の側線で停車、ここでも20分間の休憩がある。業務の支障にならないよう行動範囲を限定した上で、車庫見学が許された。
ここは阪堺電車の運行拠点なので、街路で見かけるさまざまな車両が休んでいる。堺トラム第2編成の紫おんがいるかと思えば、目立つ塗色のモ601形、その陰に隠れるように橙帯の旧 京都市電の姿も確認できた。モ161の前で全員が記念写真に収まった後、再び車内へ戻る。
我孫子道車庫のモ161 |
我孫子道車庫に憩う車両群 堺トラム、モ601形、旧 京都市電 |
我孫子道を14時07分に出発した。少し進めば、住吉大社前の併用軌道だ。住吉電停の先で、右へ分岐する渡り線を経由して、いよいよ上町線の専用軌道に進入する。
専用軌道上にある住吉電停の下りホーム 浜寺駅前直通運転開始直後の2009年9月撮影 |
阪堺電気軌道のサイト等によれば、上町線のルーツは軌間1067mmの馬車鉄道だ。1900(明治33)年に、まず天王寺西門前~東天下茶屋間が開通している。1909年に会社が南海鉄道に合併された後、1910年に住吉神社前(現 住吉)への延伸と電化・改軌工事が完成した。南海線の駅に隣接する住吉公園(下注)まで全通したのは1913(大正2)年のことだ。その後1921年に、天王寺駅前以北の区間が大阪市電に譲渡されて、上町線の営業区間が固まった。
*注 当時は南海線の駅名も住吉公園(1912年開業)で、上町線の駅名はそれに合わせたもの。
出自が異なる阪堺線と上町線だが、旧 阪堺電気軌道が南海と合併した1915年以来、もう100年以上も姉妹線のように扱われている。南海時代には、1980年に廃止された平野線(今池~平野)とともに、大阪軌道線と総称されていた。
旅客流動は、恵美須町よりも交通の結節点であり商業の中心地である天王寺/阿倍野に向いているため、上町線と阪堺線をつなぐ系統の利用者が多い。2009年に上町線天王寺駅前と阪堺線浜寺駅前を結ぶ直通運転が復活した(下注)。代わりに阪堺線恵美須町発の電車が我孫子道止まりになり、堺市域からも天王寺へ直結させるという会社の戦略意図が明確になっている。
*注 浜寺駅前への直通運転は1955(昭和30)年に始まったが、1973年から我孫子道止まりに短縮されていた。
前回も触れたが、貸切乗車のときはまだ上町線の末端区間、住吉~住吉公園間200mが残っていた。ただ、ひと月ほど前(2014年3月)のダイヤ改正で、住吉公園の発着が大幅に減便され、朝の7~8時台の5往復(土休日4往復)だけになっていた。乗り合わせた人たちと、きっとこれは廃止の前触れに違いないと話していたのを覚えている。
予測は、わずか2年後に現実となった。2016年1月31日付でこの区間が廃止され、利用者は近くの住吉鳥居前電停に回らざるを得なくなった。屋根があり風雨をしのげる住吉公園に比べて、鳥居前は道路上で、吹きさらしの狭い安全地帯だ。快適度にはかなりの落差があるが、運用効率のほうが優先されてしまった。
住吉公園電停ありし頃(4点とも2009年9月撮影) (左)住吉電停前の平面交差 (右)住吉公園駅にさしかかるモ602 |
(左)2線3面のささやかなホーム (右)駅舎正面。左の高架は南海本線 |
住吉大社周辺の1:10,000地形図 (1985(昭和60)年編集) 南海本線、阪堺電軌阪堺線、上町線と各駅・停留場の位置関係がわかる |
住吉を出ると、電車は住宅街の中をくねりながら上っていき、サミットで南海高野線とオーバークロスする。坂道は30.3‰という異例の急勾配で、舞台は、低平な海岸平野から高燥な洪積台地に移る。以後、上町線はその名のとおり、終始この上町台地を伝っていく。
帝塚山四丁目電停の北側で併用軌道が始まるが、通るのは軌道の両側に1車線とれるかどうかの狭い道だ。それにもかかわらず路上駐車は日常茶飯事で、電停では朝夕その1車線が客の待ち合わせ場所にされる。それで車は、軌道の上を電車と前後しながら走らざるを得ない。
また、別のあるとき、姫松だったか、電停前の商店のガラス戸越しに、店の人と話している女性客が見えた。到着した電車に気づくと挨拶を交わし、悠々と表に出て、その足で乗り込んできた。生活密着型の鉄道ならではの光景がここにはある。
(左)上町台地に上り、南海高野線を越える急勾配区間 (右)生活道路の併用軌道、姫松電停にて (いずれも2009年9月撮影) |
北畠電停の先で左にそれて、いったん専用軌道に戻る。しかしそれは少しの間に過ぎない。松虫電停を出た後、電車は体をくねらせながら、車が溢れるあべの(阿倍野)筋の大通りに割り込んでいく。阿倍野交差点から北側は、再開発事業に伴う道路の拡幅工事の最中で、軌道の周りは雑然としている。ビルの谷間にこもる都会の喧噪を掻き分けるようにして、14時28分、モ161は終点、天王寺駅前に到着した。
専用軌道からあべの筋に割り込む (車内から後方を撮影) |
天王寺駅前の旧ターミナル (2009年9月撮影) |
◆
あべの筋の併用軌道は、その後2016年12月3日に、拡幅が完了した道路の中央に切り替えられた。新線では、センターポールの架線柱が建ち並び、芝生を植え込んだ緑化軌道が延びる。阿倍野電停は拡幅されて上屋がつき、天王寺駅前電停も、2面1線の窮屈な構造はそのままながら、改築されて面目を一新した。ここに堺トラムが現れたら、LRTの新設路線と何ら変わらない。
切り替えられた併用軌道 (左)阿倍野交差点から北望 (右)阿倍野電停 (いずれも2017年9月撮影) |
改築された天王寺駅前電停 (2017年9月撮影) |
今改めて周囲を見渡せば、天を突くあべのハルカスをはじめ、キューズモール、新しい駅前歩道橋と、いつのまにか阿倍野一帯が近未来的な風景に転換されている。阪堺電車もとうとうその進化に追いついたわけだ。とはいえ、屋外広告物条例などなんのその、質屋やパチンコ屋のド派手な広告を付けた車両もまだ素知らぬ顔で走ってくる。これもまた阪堺らしい姿だ。
掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図住之江(昭和60年編集)を使用したものである。
■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/
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