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2018年4月

2018年4月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

朝、JR御殿場線の上り電車に乗った。雲一つない秋晴れのもと、裾野の急坂を上っていくと、岩波駅あたりから、左前方の車窓にすっかり雪化粧を終えた富士山が顔を覗かせる。次の富士岡から南御殿場駅にかけてがハイライトだ。山体がいよいよ左正面に移動してきて、朝陽に照らされた優美な姿が窓枠いっぱいに展開する。

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御殿場線の車窓から見る朝の富士
(富士岡~南御殿場間)
 

2017年11月25日のコンターサークルSの旅は、この御殿場線沿線に残る昔の複線跡がテーマだ。今でこそ地元密着型のローカル線だが、よく知られているようにこの路線は、1889(明治22)年の開通から丹那トンネルが完成するまでの45年間、東海道本線の一部だった。「燕」や「富士」「櫻」のような戦前を代表する長距離特急が疾駆し、主要幹線として全線が複線化されていたのだ。しかし、熱海回りのルートが1934(昭和9)年に開通すると、その地位から降ろされ、さらに太平洋戦争中にレール供出のために単線に戻されてしまった。

線路は撤収できても、トンネル、橋脚、橋台などおいそれとは移動できない構築物がある。堀さんは、著書『地図のたのしみ』(1972年)の中で、そうした複線時代の遺構が数多く存在することを書き留めている(下注)。元の記事は1964年に雑誌「鉄道ファン」で発表されたものだから、現地取材は50年以上前のはずだ。果たして今はどうなっているのだろう。私たちは堀さんに案内してもらったつもりで、沿線を旅することにした。

*注 『地図のたのしみ』p.146~(2012年新装新版ではp.153~)「四 地図に見る鉄道今昔 2 小田原付近と御殿場線」

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御殿場線(国府津~沼津間)のルート
1:200,000地勢図に本稿関連の駅名を加筆

電車は酒匂川(さかわがわ)の深い渓谷を通り抜けて、山北駅に9時50分に着いた。ここは東海道線時代に、箱根越えの前線基地として列車運行を支えた駅だ。駅前広場には、大出さんと石井さんが車で来ていた。

今日の行程を相談しているとき、石井さんが「古い地形図に、山北駅から南へ曲がっていく線路が描いてあるんですけど、これは何ですか」と聞く。明治中期の地形図(下図左参照)では確かに、駅から出た線路が南へ鋭くカーブし、山に突き当たって途切れている。「鉄分の濃いお二人ならご存じじゃないかと思って…」。しかし悔しいかな、私たちは線路の正体を知らなかった。

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山北駅周辺の地形図
(左)1896(明治29)年の1:50,000地形図
(右)現行1:25,000地形図(2014(平成26)年)
  加筆した赤枠が線路跡地で、今も宅地がこの形に並ぶ
 

手がかりを求めて、山北町の鉄道資料館へ行ってみることにした。広場の東に建つふるさと交流センターの2階で、今年(2017年)8月にオープンしたばかりだ。開館時間前だったが、係の方が開けてくださった。山北が鉄道の町だったことを物語る貴重な資料や写真を見ていくうちに、まさに疑問に答えてくれるパネルがあった。

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山北駅
(左)構内で静態保存されているD52 70
(右) 山北町鉄道資料館の展示
 

そこには「緊急避難線(キャッチサイディング)」と書いてある。坂を下りてくる列車がブレーキ故障などで暴走した場合に、本線から逸らせて停止させるための設備で、昔は勾配区間にしばしば設けられていた。「でもどうしてこんなにカーブしてるんでしょうね。停まる前に脱線してしまいませんか」と石井さんが畳みかける。そこで資料館を辞した後、現地を見に行った。

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山北駅扇形庫の左上から延びる切妻屋根の縦列がキャッチサイディング跡
(山北町鉄道資料館の展示を撮影)
 

駅の東南の、町役場や生涯学習センターが建っている敷地には、かつて補助機関車を格納する扇形機関庫があった。その一角から南向きに右カーブしている宅地の列が、キャッチサイディングの跡らしい。宅地に沿って狭い道路が、国道246号線をアンダークロスした後も続いている。敷地は室生神社の境内をかすめて、なおも山手へ進み、斜面に阻まれる形で終わっていた。歩いてみると、末端に向かってかなりの上り勾配であることが実感される。「これなら脱線する前に、列車は失速しますね」。

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キャッチサイディング跡をたどる
(左)国道の南側から駅方向を望む。道路と右の宅地が跡地
(右)山際付近。左手前から左奥にかけての住宅の列が跡地
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トンネルと橋梁が連続する山北~駿河小山間
1:50,000地形図に加筆
 

所用のために戻る石井さんを見送って、大出さんと私は、予定の複線跡を探しに西へ向けて出発した。まず、国道から右に折れ、旧道(現 県道76号山北藤野線)に入ってすぐ、箱根第一号と第二号、2本のトンネルの間の橋梁が見える場所に、車を停める。フェンスがあって中に立ち入れないものの、トンネルは塞がれておらず、橋桁(ガーダー)もしっかり残っている。

現在、山北~谷峨(やが)間は、北側の旧 上り線が現役だ。しかし、さっきの資料館の展示によれば、1943(昭和18)年の単線化では、南側の旧 下り線に列車を通したのだそうだ。ところが、1968(昭和43)年の電化に際して、使われていなかった旧 上り線でトンネル断面の拡張工事を実施し、架線を設置した。このため、旧 上り線が現役に復帰し、代わりに旧 下り線が廃線になった。堀さんが訪れたのは電化前なので、ディーゼルカーは、今はなき南側の線路を走っていたはずだ。

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(左)左のトンネルポータルが箱根第二号の旧下り線
(右)箱根第一号、第二号トンネルの間に残る旧線ガーダー
 

第一酒匂川橋梁の脇にも、橋台が残っているのを確認してから、同 第二橋梁のほうへ回った。旧道は、線路を俯瞰するような高い位置を通っているので、集落に通じる細道を降りる。ここは複線仕様の橋脚が残っていた。石積みの橋脚を煉瓦で現在の線路面近くまでかさ上げしているから、昔は下路ガーダーが架かっていたのだろうか。

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第二酒匂川橋梁を俯瞰
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複線仕様の橋脚が残る第二酒匂川橋梁
 

昼食の後、谷峨駅を経て、今は無き第一相沢川橋梁(下注)の近くに車を置いた。1889年の開通時は単線だったので、第一相沢川橋梁で川の左岸、つまり北側に渡り、(旧)箱根第六号トンネルを経て、第二相沢川橋梁で右岸に戻っていた(下図上参照)。1901(明治34)年の複線化では、この1km足らずの区間だけ腹付け(隣接して敷設)ではなく、対岸を2本のトンネルで通過する別ルートとされた(下図中)。つまり、ここでは上下線が川を挟んで走っていたのだ。戦時中の単線化では旧 下り線(南側)が生かされたが、戦後の電化でも、山北~谷峨間のように旧 上り線が復活することはなかった(下図下)。

*注 川の名は現在、鮎沢川だが、鉄橋名は相沢(相澤)川とされている。

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谷峨駅西方の線路の変遷
(上)初期の単線時代 1896(明治29)年 1:50,000地形図
(中)複線時代 1921(大正10)年 1:25,000地形図
(下)単線化後 2014(平成26)年 1:25,000地形図
 

堀さんは、谷峨駅で下車して付近を歩いている。「(旧 第五号トンネルの西口から)川の方を見ると、大きな橋脚が一本河原に立ち、その向こうに対岸の橋台とそれに続く築堤があって、さらにその向こうに短いトンネルが望見された」(『地図のたのしみ』p.156)。

谷峨駅に通じる旧 第五号トンネル西口は今も確認できるが、川の中に橋脚は見当たらず、短いトンネル(旧 第六号)もすでに跡形すらない。おそらく国道の拡幅改良工事で、痕跡はほぼ完全に道路の下に埋もれてしまったようだ。

「北側の切通しを抜けると、左側の高みに登っていく細い道(中略)が分れている。それを入ってゆくと、左に鮎沢川を見下ろし、対岸に山腹をゆく御殿場線を望み、右に旧上り線の切り取りの跡を見下ろす、眺めのよい場所(中略)に出た」(同書p.156)。少しは期待していたのだが、この無名の展望地も道路工事の犠牲になったとおぼしい。

「もう少し先で対岸に渡る橋があるので、そこまで行ってみましょう」。大出さんと相談して、徒歩で向かう。それは、川沿いの小さな工業団地へ行く橋だったのだが、そこから右手に、第二相沢川橋梁の橋台が確認できた。両岸の取付け部分はすっかり工場の敷地に取り込まれたが、石積みの橋台だけが両岸から、まるで昔話を交わすかのように向かい合っているのだ。午前中からいくつか見てきた遺構の中で、この光景は特別印象的だった。

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第二相沢川橋梁
(左)両岸に残る橋台(矢印の位置)
(右)左岸(北側)の橋台。背後は工場敷地に埋もれている
 

車に戻って、再び西へ走り出す。駿河小山(するがおやま)駅へ通じる第一小山踏切から、箱根第七号トンネル西口の石積みポータルが間近に見えた。トンネルが連続する渓谷区間はこれが最後だ。線路はまだしばらく鮎沢川の谷間をくねっているが、谷は次第に浅くなり、やがて空の広い富士の裾野に出ていく。

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(左)箱根第七号トンネル西口
  左側に旧上り線のポータルが見える
(右)足柄駅北方にある第五相沢川橋梁
  ここも橋脚は複線仕様
 

「あと、どこか見るところありますか」と、大出さんが聞く。私は朝の上り電車の車窓を思い出していた。「複線跡じゃないんですが、富士岡駅のスイッチバックの築堤はどうでしょう」。富士岡駅は、1911(明治44)年に信号場として開設されたが、25‰の急勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックが採用された。坂道発進が困難な蒸気機関車のために、本線に並行して堤を築き、発進用の水平な線路を造ったのだ。電化に伴い、線路は撤去されてしまったが、高堤防と呼ばれた築堤だけはそのまま残されている。これも、主要幹線だった時代の貴重な遺構だ(下注)。

*注 同様の築堤が次の岩波駅にもある。

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富士岡駅で交換するJR東海313系
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富士岡駅のスイッチバック線跡、通称 高堤防
(左)駅のある北方向を望む
(右)南方向。築堤末端ではかなりの高低差がつく
 

駅の南の住宅街を縫う小道をたどり、踏切を渡ってこの築堤に上がった。傾きかけた陽が雪の山襞に隈取のような影を加えて、富士が朝とはまた別の美しさを放っている。入口の案内板には、「富士見台(高堤防)」の名とともに、「富士見台という地名は数あれど最高の眺めを得られるのはここです」と誇らしげに記してあった。容赦なく視界を横切る新東名の巨大な高架がいささか目障りだが、それも現代的な小道具と思えば、確かにここは絶景だ。

堀さんは、谷峨で旧線跡を訪ねた後、再び下り列車を捕まえて、そのまま沼津まで乗り通したようだ。富士はそのとき、ディーゼルカーの車窓にどんな姿を映していたのだろうか。

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高堤防から望む富士
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図山北(大正10年測図および平成26年12月調製)、5万分の1地形図松田惣領(明治29年第1回修正)、秦野(昭和47年編集)、山中湖(平成2年修正)、20万分の1地勢図東京(平成3年要部修正)、横須賀(昭和55年編集)、甲府(昭和55年編集)、静岡(昭和55年編集)を使用したものである。

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2018年4月12日 (木)

プロヴァンス鉄道 II-ルートを追って

コート・ダジュール Côte d'Azur の中心都市ニース Nice、その山手の一角からプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence の列車は出発する。ターミナルの名はニースCP(セペ)駅、CPはもちろんプロヴァンス鉄道の頭文字だ。やや無機質な雰囲気を放つ近代的駅舎の奥に、トラス屋根を架けた2面3線の頭端式ホームが延びている。

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ニースCP駅
発着ホーム
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正面玄関
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(左)エントランスの床で路線図がエスコート
(右)出札ホール
 

CP駅が開業したのは1991年12月のことだ。SNCF(フランス国鉄)の中央駅であるニース・ヴィル Nice-Ville とは距離があり、直線距離で約500m、道なりに歩けば10分以上かかる。かつては今より東の、マロッセナ大通り Avenue Malausséna に面して開通時からのターミナルがあり、南駅 Gare du Sud と称していた。中央駅より北に位置するのに南(シュド)駅と呼ぶのは、前回述べたように、この鉄道の最初の運営会社の名がシュド・フランス Sud France、正式名フランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France だったからだ。

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(左)ニース南駅があった時代の1:25,000地形図
  (3743 ouest 1982年版に加筆)
(右)現在の同じエリア。南駅跡は更地でファサードだけが描かれている。
© 2018 IGN
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トラムのリベラシオン Libération 停留所に隣接する旧 南駅(写真左奥)
 

南駅には、テラコッタ色でアクセントを施した壮麗な石造りのファサード部に続いて、1889年パリ万国博のパビリオンを移設したという幅23m、高さ18m、長さ87mの鉄骨ドームで覆われたプラットホームがあった。現在CP駅がある辺りは側線が何本も並ぶ広いヤードで、ニース・ヴィルの貨物駅に通じる線路も延びていた。

しかし、施設の老朽化に加えて経営立て直しのために資産処分することが決まり、1991年にターミナルは、141m後退した現在の位置に移転した。南駅跡地はその後2000年に、国からニース市に売却された。市は更地にしたうえで再開発を目論んでいたのだが、それに対して市民や専門家から強い抗議の声が湧き上がった。国も反対の意思を示したため、原案は撤回に追い込まれた。

2002年にファサード部が、2005年にはドームが国の文化財に登録されたことを受け、市はこれらの建築遺産を保存しながら活用する再開発案を発表した。ファサード部は全面修復のうえ、すでに2014年1月から図書館(名称はラウル・ミル図書館 Bibliothèque Raoul Mille)として使われている。ドームや周囲のヤードも、近々商業施設やスポーツ施設に生まれ変わる予定だ(一部は供用済み)。

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壮麗な旧 南駅ファサード
改修で図書館として再生された
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(左)トップにはめ込まれたパネルには「フランス南部鉄道」の文字
(右)ホームを収容していた鉄骨ドームはまだ修復中

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プロヴァンス鉄道路線図
(IGN 1:1,000,000フランス全図に加筆)
© 2018 IGN
 

現在のターミナルに話を戻そう。列車はCP駅を出ると、少しの間、市街地を曲がりくねりながら進む。停留所は短い間隔で設置されているが、多くはリクエストストップ(乗降客があるときのみ停車)だ。最初のトンネルを抜け、緑に囲まれた住宅地の間を上り、北から張り出す尾根をさらに2本のトンネルで通過する。市内にありながら谷間の鄙びた駅ラ・マドレーヌ La Madeleine は列車交換が可能で、古い駅舎も残っている。

長さ950mのベレートンネル Tunnel de Bellet を抜けると坂を下り、ヴァール川 Var が流れる谷底平野に出る。ランゴスティエール Lingostière 駅は、ニース南駅の廃止に伴って車庫や整備工場が移設され、今や同線の運行拠点になっている。

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ニースCP駅を出発すると、市街地を縫って西へ
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(左)尾根を次々とトンネルで抜ける
  サン・フィリップ Saint-Philippe 停留所
(右)運行拠点のランゴスティエール駅
  背後は整備工場
 

ここからはヴァール川を延々と遡る旅だ。列車はしばらく、川と国道N202号線に挟まれて走る。ヴァール川を渡るラ・マンダ橋 Pont de la Manda の手前にコロマール=ラ・マンダ Colomars - La Manda 駅がある。シャトル便の多くがこの駅止まりで、川風が吹き通るホームで折り返していく。現駅は1968年に移転したもので、それ以前は約400m下流にあった。戦前はここで中央ヴァール線が分岐して、ラ・マンダ橋で川を渡っていたのだ。そのため、北線のルートも今とは違い、河岸を離れて山側に迂回していた(下図参照)。

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(左)コロマール旧駅で分岐していた中央ヴァール線と北線
 この図は中央ヴァール線の廃止後に作られているので、廃止線を示す断続的な鉄道記号で描かれている。1:50,000地形図(1950年代)を拡大
(右)現在の図。
 プロヴァンス鉄道(旧 北線)はヴァール川左岸に直線化され、駅も移転。
 旧線跡(北線のトンネルを含む)は道路として残っている。
画像はいずれもGéoportailより取得 © 2018 IGN
 

しばらく車窓に続いた平野が遠ざかり、川岸に山が迫ってくる。プラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var は、渓谷のとっかかりに位置している。起点(旧 ニース南駅)から24.9km、近郊列車はここが終点だ。この先は1日5往復(下注)の列車が走るだけの閑散区間になる。

*注 2018年4月現在、ニース発の長距離列車はディーニュ Digne 行きが4本、途中のアノー Annot 止まりが1本で、いずれも毎日運転。復路ニース着便は、ディーニュ発4本(毎日運転)とアノー発が1本(月~土と日祝日で運転時刻が異なる)。

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プラン・デュ・ヴァール駅に停車中の連接気動車 AMP800形
駅名の前につくラ・ヴェジュビー la Vésubie はここで合流する支流の名
 

山間を走るプロヴァンス鉄道の中でも、おそらくティネー川 Tinée 合流点までの6kmあまりは、谷が最も狭まる通行の難所だ。ヴァール川 Var がヴィアル山 Mt Vial の山腹を激しく侵食し、昼なお暗き険崖を削り出している。デフィレ・ド・ショーダン Défilé de Chaudan(ショーダンの隘路の意)、さらにその上流側で垂直の崖が迫る一帯はメスクラ峡谷 Gorges de la Mescla と呼ばれる(下注)。鉄道はデフィレをすり抜けた後、川を渡り、長さ934mのラ・メスクラトンネルで蛇行する峡谷をショートカットする。

*注 mescla はプロヴァンス方言で川の合流点の意。ヴァール川に北からティネー川が合流する。

ちなみに、アルプ・マリティーム軌道 Tramways des Alpes-Maritimes(シュド・フランスが経営する簡易線)の1本が、メスクラからティネー川の谷をサン・ソヴール・シュル・ティネー Saint-Sauveur-sur-Tinée まで延びていた。トンネルを出てすぐ対岸に渡っている古い下路アーチ橋はその跡だ。

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(左)デフィレ・ド・ショーダン(ショーダンの隘路)を通過
(右)踏切とマロッセーヌトンネル Tunnel de Malaussène
 

谷の両側にはなおも比高数百mの山並みが続くものの、ヴィラール・シュル・ヴァール Villars-sur-Var、トゥエ・シュル・ヴァール Touët-sur-Var(下注)と遡るにしたがって、むしろ谷は明るく開けていくように感じる。起点から58.3kmのピュジェ・テニエ Puget-Théniers は、ニースから延ばされてきた鉄道が最初の終点を置いたところだ。人口1900人ほどの小さな町だが、これでもヴァール中流域では最大規模になる。

*注 シュル・ヴァール sur-Var は、ヴァール川沿いの、を意味する。他の同名の町と区別するための接尾辞。

この駅には対向設備があり、朝夕、列車交換が設定されている。だが、ふだんは人影もなく、時が止まったようだ。高床の貨物ホームや機関車のための給水タンクが残され、その脇に、廃車になった車両が野ざらしにされて哀れを誘う。年に十数日、こことアノー Annot(一部はル・フュジュレ Le Fugeret)の間で蒸気機関車による観光列車が運行される。そのときだけは駅にも活気が戻るのだろう。

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ピュジェ・テニエ駅
 

久しぶりに谷底平野に出ると、進行方向の岩山の上に、周囲を睥睨するように立つ砦が見えてくる。アントルヴォー Entrevaux は、この比高約150mの城山の麓、曲流する川に面する中世の城塞都市で、県の「特色ある村や街 Villages et cités de caractère」にも指定されている。石橋を渡り、古い城門をくぐると、背の高い家並みの間を石畳の狭い路地が網の目のように縫う。駅は対岸(南側)にあり、川向うに砦と町がよく見える。列車は石橋のたもとの広場(駐車場に使われている)の下をトンネルで抜けていく。

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行く手の岩山の上にアントルヴォーの砦
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アントルヴォーの砦と町
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アントルヴォー
(左)城門
(中)石畳の狭い路地
(右)古い噴水のある広場
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(左)アントルヴォー駅
(右)アントルヴォー第1トンネルで右岸の広場の下を抜ける
 

次の山脚が迫る所では、まるで城門のようなアーチが2か所で道路と鉄道をまたいでいる。これは水路橋 Pont-canal で、山から勢いよく流れ下る沢の水をヴァール川へ逃がすための施設だ。

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2か所の水路橋が線路と道路をまたぐ
 

ポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan でヴァールの本流は右へ去り、線路は支流クーロン川 Coulomp の谷を進む。サン・ブノワ Saint-Benoît の停留所から先では、最急勾配30‰が現れるようになり、谷の斜面をひたすら登り続ける。途中、長さ123mのベイート高架橋 Viaduc de la Beîte でクーロン川の深い谷を渡る。ずっと付き添ってきたN202号線は、南の峠(トゥトゾール峠 Col de Toutes Aures)を越えるために、左の谷へ消えていく。

起点から73.0kmのアノー Annot が、ヴァール水系最後の町になる。ここも中心部に「特色ある村や街」の指定を受けた古い街並みが残されている。背後の山は砂岩の崖を巡らせたレ・グレ・ダノー Les Grés d'Annot で、ロッククライミングの名所だ。列車は町を遠巻きにしながら、険しい坂道をさらに上る。

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クーロン川をまたぐ長さ123mのベイート高架橋
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アノー駅
(左)ディーニュ方向を望む
(右)SY形気動車が坂を降りてきた
 

次のル・フュジュレ Le Fugeret では、高度を稼ぐために同線唯一のS字ループを通過する。大きくカーブした2本のトンネルを経て、村の北斜面に出ると、左車窓にループの軌跡が俯瞰できる。その後はメアイユ Méailles の村が載る緩斜面の直下を、線路は上っていく。ちょうど停留所をはさんで、大規模なギヨーマス高架橋 Viaduc de la Guillaumasse(長さ121 m)とマウーナ高架橋 Viaduc de Maouna(長さ197 m)が架かっている。後者は左にカーブしていて、窓の開く車両ならぜひカメラを向けたいところだ。

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ル・フュジュレ~メアイユ間の1:25,000地形図 
画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN
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ル・フュジュレ駅
(左)今はリクエストストップに
(右)「機関士に合図してください Faire signe au Conducteur」の表示
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ル・フュジュレ駅北側
線路はS字ループで高度を稼ぐ
矢印がループの最上段、左側はトンネル
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ギヨーマス高架橋
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谷の肩に位置するメアイユの村
線路はその下の斜面を行く
右下はギヨーマス高架橋
 

緑の深い谷を少し遡ったところで、左に大きくカーブし、分水嶺を貫くラ・コル・サン・ミシェルトンネル Tunnel de la Colle-Saint-Michel、長さ3,457 mに突入する。長い闇を抜けるとヴェルドン川 Verdon を渡り、路線最高地点(標高1,023m)に達する。川に沿って降りたトラム・オート Thorame Haute の駅はまさに山中の列車交換所で、駅舎の隣に教会がぽつんと建っているほかに集落らしきものは見当たらない。

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(左)コル・ド・サン・ミシェルトンネルの西口ですぐにヴェルドン川を渡る
(右)山中の列車交換所トラム・オート駅
 

いつのまにか広くなったヴェルドンの河原を渡って、サンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes に到着する。左の車窓を見ると、卓状のル・セール・グロ Le Serre Gros(標高1,777m)がどっしりと腰を据え、その右にひときわ尖った峰ピク・ド・シャマット Pic de Chamatte(同 1,879m)も見える。いずれもこの一帯に広がる褶曲山地の一部だ。

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サンタンドレ・レザルプ駅
(左)左手にル・セール・グロがどっしりと腰を据える
(右)転車台、背景の尖った山がピク・ド・シャマット
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線路に散り敷く松ぼっくり
モリエ Moriez 駅にて
 

N202号線と再会した後、列車は長さ1,195mのモリエトンネル Tunnel de Moriez で、コル・デ・ロビーヌ Col des Robines の鞍部を越えて、アス川 Asse の谷に出る。バレーム Barrême では、N85号線、通称ナポレオン街道 Route Napoléon に出会う。ナポレオン・ボナパルトが1815年に幽閉先のエルバ島からパリへ帰還する際に通ったルートだ。

*注 ナポレオン街道はコート・ダジュールのジュアン湾 Golfe Juan(道路としてはカンヌ Canne が起点)から、ディーニュ、ガップ Gap を経てグルノーブル Grenoble へ延びる。ちなみに別のメーターゲージ路線、ラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure も一部でこのルートに沿って走る。「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。

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バレーム駅のAMP800形
 

石灰岩の崖が迫るシャブリエールの隘路 Clue de Chabrières をトンネルでかわすと、アス川の谷は急に広くなる。しかし、鉄道は右へそれて、最後の山越えにかかる。といっても風隙を通り抜けるので、珍しくトンネルがなく、峠の実感がないままに下りになる。山の向こうはのびやかな谷底平野だ。列車はなだらかな斜面をゆっくり降りていき、ブレオーヌ川 Bléone を渡る。左車窓に草むした標準軌の線路が寄り添うのに気が付けば、まもなく終点ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains(起点から150.0km)だ。列車は3時間を超える長旅を終えて、島式2線のささやかなホームに滑り込む。

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ディーニュ・レ・バン駅
停車中の列車の後ろ、木の陰に駅舎がある
背景の尖峰はソメ・ド・クアール Sommet de Couard(1989m)
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ディーニュ・レ・バン駅周辺
SNCF線は廃線として描かれている
画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN
 

ホームの反対側はSNCFのサントーバン=ディーニュ線だが、メーターゲージの列車も入れるように一部3線軌条になった線路は錆びついたままだ。すでに1980年の時点で、定期旅客列車が全廃され、夏季運行のアルプアジュール AlpAzur 連絡便と細々とした貨物列車が発着するだけになっていた。その貨物列車も1987年、季節旅客列車は1989年にそれぞれ休止となり、1991年に正式に路線廃止の手続きが取られた。サントーバン(下注)で接続していたマルセイユ=ブリアンソン線 Ligne Marseille - Briançon へは、シストロン Sisteron 行きの路線バスが代行する形になる。

*注 正式名はシャトー・アルヌー・サントーバン Château-Arnoux-Saint-Auban。

ところが驚いたことにディーニュの駅舎では、プロヴァンス鉄道の窓口の隣にSNCFの窓口が開設され、昔と同じように全国路線網の切符を扱っている。この駅から標準軌列車の姿が消えて30年が経つ。にもかかわらず、そこだけ見れば、扉の向こうのホームへサントーバンからの列車が、「長らくお待たせしました」と言いながら今にも入ってきそうだ。

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ディーニュ・レ・バン駅舎
(左)プロヴァンス鉄道出札窓口
(中)入口は別々
(右)SNCF出札窓口
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同 ホーム
(左)ディーニュ、ニース方を望む
  右の3線軌条がSNCF線
(右)反対側を望む
  SNCF側のホームは駅舎前まで続いている
 

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/

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2018年4月 5日 (木)

プロヴァンス鉄道 I-トラン・デ・ピーニュの来歴

プロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence

ニース Nice ~ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains 間 149.9km
軌間1000mm、非電化
1891~1911年開通

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プロヴァンス鉄道の新型車両
2010年CFD社製のAMP800形気動車
プラン・デュ・ヴァール駅にて
 

「トラン・デ・ピーニュ Train des Pignes」、地中海岸のニース Nice から山中へ分け入るプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence (CP) の列車につけられた愛称だ。ピーニュはプロヴァンス方言で松ぼっくりを意味する。蒸気機関車の時代、列車がのんびりやってくるので、駅で待つ客は落ち着いて松ぼっくりを拾う時間があったとか、石炭が足りなくなると、機関士は集めた松ぼっくりを罐(かま)にくべたなど、名前にまつわる逸話が伝わっている。

しかしこの愛称、もとは別の線区を走る列車のものだった。現在、プロヴァンス鉄道と呼ばれるのは、ニース~ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains 間149.9kmの単一路線だが、過去には、同じメーターゲージ(1m軌間)で他に2本の主要路線とそれに接続する支線群があった(下の路線図参照)。主要路線の一つが、アルプス前面の丘陵地帯を貫く「中央ヴァール線 Ligne Central-Var」(ニース~メラルグ Meyrargues 間210km)で、沿線には数十kmにわたり松林が続く。冬になれば線路の周辺に、おびただしい数の松ぼっくりが転がっていたに違いない。

もう一つはトゥーロン Toulon ~サン・ラファエル Saint-Raphaël (Var) 間110kmの「ヴァール沿岸線 Ligne du littoral varois」で、地中海岸の町や村を結んでいた。これらの狭軌列車を総称してトラン・デ・ピーニュと言ったのだが、今やそれを受け継ぐのは、当時「北線 Ligne du nord」であったニース~ディーニュ間のみとなった。

北線は人口の少ない山間部を通り、3線区中輸送量が最も少なかった。にもかかわらず、なぜ生き残ったのだろうか。今回は、プロヴァンス鉄道の来歴をたどってみたい。

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ニースを中心とする旧ニース伯爵領 Comté de Nice/ Contea di Nizza は、1860年にイタリアからフランスに帰属替えされた土地だ。パリ、リヨンからマルセイユに至る路線を造っていたパリ=リヨン=地中海鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée (PLM) は、さっそく地中海岸を東進する延長線の建設を開始し、1864年にニースに到達した。

「帝国の動脈 artère impériale」とされた幹線網が確立すると、次の目標は、支線の建設による地方の開発だった。1879年の公共事業計画、いわゆるフレシネ計画 Plan Freycinet(下注)には、この地方で「137号 ディーニュよりカステラーヌ Castellane を経てまたは近傍を通りドラギニャン Draguignan に至る路線」、「141号 ニースよりピュジェ・テニエ Puget-Théniers に至る路線」が挙げられた。

*注 公共事業大臣シャルル・ド・フレシネ Charles de Freycinet が手掛けた野心的な国土開発計画。特に鉄道の整備に重点が置かれ、181の地方線(地方利益路線 voies ferrées d'intérêt local と呼ばれる)が指定された。日本の鉄道敷設法と同様の趣旨。

PLM社は、137号に含まれるディーニュ~サンタンドレ Saint-André 間の認可を得たが、山間部の路線のためメーターゲージの導入を迫られると、あっさり撤退してしまう。代わって名乗りを上げたのは、マルセイユ資本で設立されたフランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France いわゆるシュド・フランス Sud France だった。1885年に、141号を延長して137号のサンタンドレに接続する新たな路線の認可を取得した。これが北線の原型になる。

両端から工事が進められ、まず西側のディーニュ~メゼル Mézel 間が1891年8月に開通した。次いで1892年には、東側でニース~ピュジェ・テニエ間、西側でメゼル~サンタンドレ(下注)間が開通した。当時、イタリアとの間で政治的な緊張が高まっていたため、ニースから途中のサン・マルタン・デュ・ヴァール Saint-Martin-du-Var までは標準軌の軍用列車が通過できるよう3線軌条とされ、トンネル等の構造物も標準軌の建築限界が適用されている。

*注 開通当時の正式駅名はサンタンドレ・ド・メウイーユ Saint-André-de-Méouilles だったが、現在はサンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes と称する。

残るピュジェ・テニエとサンタンドレの間には、ヴァール Var、ヴェルドン Verdon 両水系の分水嶺が立ちはだかり、長大トンネルの掘削が必要だった。資金不足の同社は早々と建設を諦め、この区間の工事は国が肩代わりする形で進められた。

シュド・フランスは20世紀初めに延長600kmに及ぶ路線網を有した大規模な地方鉄道だったが、信用上の醜聞に振り回されて資金繰りに難渋し、北線は後回しにされた。15年後の1907年にようやくピュジェ・テニエからポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan、1908年にさらにアノー Annot まで延伸され、1911年8月、最後の峠越え区間(アノー~サンタンドレ間)の完成で、全線が開業した。

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プロヴァンス鉄道と周辺の路線網
(破線は廃線を示す)
 

初めこそ祝福を受けたものの、自動車の普及に加えて、洪水による線路の流失など、地方路線の経営は順調にはいかなかった。1925年、会社は国の支援を受けることになり、名称もプロヴァンス鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de la Provence に改められた。これが現在使われている名称の起こりだ。

状況はその後も改善しなかったため、同社は1933年に北部線と中央ヴァール線の運営を断念した。両路線は国の管理に移され、県土木局(ポンゼ・ショセー)Ponts et Chaussées が運行を引き継いだ。1935年からは蒸気機関車に換えてルノー社製の気動車が導入され、コストとともに所要時間の削減効果をもたらした。第二次世界大戦にかけて業績は好転する。

ところが、その戦争が事態を一変させた。大戦末期の1944年、ドイツ軍と連合軍の戦闘で、中央ヴァール線とヴァール沿岸線の主要な高架橋が破壊され、通行できなくなってしまったのだ。不通区間はバスで代行され、1948~50年に全線が正式に廃止された。こうして、旧 プロヴァンス鉄道の路線網で唯一残ったのが、皮肉にも重要性が低いとみなされていた北線だった(以下の記述では、北線を「プロヴァンス鉄道」と呼ぶ)。

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蒸気列車の旅に誘う
トラン・デ・ピーニュのポスター
撮影地はベイート高架橋
Viaduc de la Beîte
(アノー~ル・フュジュレ間)
 

戦後、国はこうした地方路線の直営体制を見直すべく、沿線自治体に抜本的な対策の策定を促した。廃止を求める意見もあった中で、関係地方自治体による組合組織(下注1)が設立され、1972年に運営の移管が完了した。列車運行はCGEAグループ(後のヴェオリア・トランスポール Veolia Transport、現在はトランスデヴ Transdev)の子会社CFTA(下注2)に委託されてきたが、期間満了に伴い、2014年からこの地域の広域行政を担うプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 Région Provence-Alpes-Côte d'Azur の直営となっている(下注3)。

*注1 地中海・アルプス協同組合 Le Syndicat Mixte Méditerranée-Alpes (SYMA)。
*注2 CFTAは2005年に、歴史的な名称であるフランス南部鉄道会社 Compagnie ferroviaire du Sud de la France (CFSF) に改称され、その名のもとに2013年まで路線の運行を担っていた。
*注3 路線の所有権は依然国にあり、管理運営を州に相当する地域圏 Région が行う。

細々と続けられてきた貨物輸送が1977年に終了する一方、1980年からは、旅行者誘致のために蒸気列車の運行が開始された。これは保存団体のプロヴァンス鉄道研究グループ Groupe d’Étude pour les Chemins de fer de Provence によってピュジェ・テニエ~アノー(およびル・フュジュレ Le Fugeret)間で現在も続けられている。

■参考サイト
トラン・デ・ピーニュ・ア・ヴァプール(蒸気による松ぼっくり列車の意)Train des Pignes à vapeur
http://www.traindespignes.fr/

プロヴァンス鉄道はニース~ジュネーヴ Genève 間の最短ルートに当たるため、1959 年から季節限定で連絡輸送が実施されていた。1970年代には、グルノーブルとディーニュの2回乗換えで両都市間を移動することができた(下注)。1983年からはSNCFと連携して「アルプアジュール(アルパジュール) AlpAzur」の統一名称で改装車両が運行され、一時注目を浴びた。

*注 ルートは、ジュネーヴからSNCFでキュロズ Culoz、シャンベリー Chambéry、モンメリアン Montmélian、グルノーブル、ヴェーヌ Veynes、サントーバン Saint-Auban を経てディーニュ・レ・バンへ、そしてプロヴァンス鉄道でニース南駅に至る。

残念ながら、1989年にSNCFが幹線網に接続するサントーバン=ディーニュ線 Ligne de Saint-Auban à Digne の休止に踏み切ったことに伴い、ユニークな企画も終了した。同線は1991年5月に正式に廃止され、線路は残っているもの朽ちるままにされている。この時から、プロヴァンス鉄道は他に接続する鉄道を持たない孤立線となった。

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ディーニュ・レ・バン駅
ホームの左側が廃線となったSNCF線
車両は1970年代CFD社製のSY形気動車(車両番号X301~)
 

同じころ、ニース市もまたプロヴァンス鉄道の山中を走る区間(全線の9割)を廃止して、近郊区間だけを存続させる再構築案の検討を始めていたが、後に撤回された。その代わりに、鉄道は1991年12月に歴史あるニース南駅を明け渡し、西へ140m後退した位置に新しいターミナルとしてニースCP駅を置くことになった。

現在、このCP駅から平日毎時2~3本の列車(下注)が出発していくが、多くは13km先のコロマール(ラ・マンダ)Colomars–La Manda を終点にしている。時間にして25分ほどのミニトリップだ。その先、ヴァール渓谷の入口に位置するプラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var(ニースから24.7km、40分)まで行くのが、平日11本。時刻表ではこの近郊区間をラ・ナヴェット la Navette(シャトル運転の意)と称して区別している。

*注 頻発区間でも、土・日・祝日は運休する便が多いので要注意。

さらに全線を完走して、ディーニュ・レ・バンに到達するのは1日わずか4本だ。所要3時間20分あまりの長旅で、こんなところによく鉄道を敷いたものだと感心するような山中をメーターゲージのか細いレールが延びている。いったいどのような景色の中を列車は走っていくのか、次回はそのルートを追ってみよう。

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/
 公式サイトは近郊区間(通勤者向け)urbain と旅行者向け tourisme に分かれている

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