プロヴァンス鉄道 II-ルートを追って
前回紹介した路線の歴史を踏まえて、プロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence のルートを追っていこう。
コート・ダジュール Côte d'Azur の中心都市ニース Nice、その山手の一角から、列車は出発する。ターミナルの名はニースCP(セペ)駅、CPはもちろんプロヴァンス鉄道の頭文字だ。やや無機質な雰囲気を放つ近代的駅舎の奥に、トラス屋根を架けた2面3線の頭端式ホームが延びている。
ニースCP駅の発着ホーム |
同 正面玄関 |
(左)同 エントランスの床で路線図がエスコート (右)同 出札ホール |
CP駅が開業したのは1991年12月のことだ。SNCF(フランス国鉄)の中央駅であるニース・ヴィル Nice-Ville とは距離があり、直線距離で約500m、道なりに歩けば10分以上かかる。かつては今より東の、マロッセナ大通り Avenue Malausséna に面して開通時からのターミナルがあり、南駅 Gare du Sud と称していた。中央駅より北に位置するのに南(シュド)駅と呼ぶのは、前回述べたように、この鉄道の最初の運営会社の名がシュド・フランス Sud France、正式名フランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France だったからだ。
(左)ニース南駅があった時代の1:25,000地形図 (3743 ouest 1982年版に加筆) (右)現在の同じエリア。南駅跡は更地でファサードだけが描かれている。 © 2018 IGN |
トラムのリベラシオン Libération 停留所に隣接する旧 南駅(写真左奥) |
南駅には、テラコッタ色でアクセントを施した壮麗な石造りのファサード部に続いて、1889年パリ万国博のパビリオンを移設したという幅23m、高さ18m、長さ87mの鉄骨ドームで覆われたプラットホームがあった。現在CP駅がある辺りは側線が何本も並ぶ広いヤードで、ニース・ヴィルの貨物駅に通じる線路も延びていた。
しかし、施設の老朽化に加えて経営立て直しのために資産処分することが決まり、1991年にターミナルは、141m後退した現在の位置に移転した。南駅跡地はその後2000年に、国からニース市に売却されている。市は更地にしたうえで再開発を目論んでいたのだが、それに対して市民や専門家から強い抗議の声が湧き上がった。国も反対の意思を示したため、原案は撤回に追い込まれた。
2002年にファサード部が、2005年にはドームが国の文化財に登録されたことを受けて、市はこれらの建築遺産を保存しながら活用する再開発案を発表した。ファサード部は全面修復され、すでに2014年1月から図書館(名称はラウル・ミル図書館 Bibliothèque Raoul Mille)として使われている。ドームや周囲のヤードも、近々商業施設やスポーツ施設に生まれ変わる予定だ(一部は供用済み)。
壮麗な旧 南駅ファサード 改修で図書館として再生された |
(左)トップにはめ込まれたパネルには「フランス南部鉄道」の文字 (右)ホームを収容していた鉄骨ドームはまだ修復中 |
◆
プロヴァンス鉄道周辺の地形図にルートを加筆 Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA |
では、現在のターミナルに話を戻そう。
列車はCP駅を出ると、少しの間、市街地を曲がりくねりながら進んでいく。停留所は短い間隔で設置されているが、多くはリクエストストップ(乗降客があるときのみ停車)だ。最初のトンネルを抜け、緑に囲まれた住宅地の間を上り、北から張り出す尾根をさらに2本のトンネルで通過する。市内にありながら谷間の鄙びた駅ラ・マドレーヌ La Madeleine は列車交換が可能で、古い駅舎も残っている。
長さ950mのベレートンネル Tunnel de Bellet を抜けると坂を下り、ヴァール川 Var が流れる谷底平野に出る。ランゴスティエール Lingostière 駅は、ニース南駅の廃止に伴って車庫や整備工場が移設され、今や同線の運行拠点になっている。
ニースCP駅を出発すると、市街地を縫って西へ |
(左)尾根を次々とトンネルで抜ける サン・フィリップ Saint-Philippe 停留所 (右)運行拠点のランゴスティエール駅、背後は整備工場 |
ここからはヴァール川を延々と遡る旅だ。列車はしばらく、川と国道N202号線に挟まれて走る。ヴァール川を渡るラ・マンダ橋 Pont de la Manda の手前にコロマール=ラ・マンダ Colomars - La Manda 駅がある。シャトル便の多くがこの駅止まりで、川風が吹き通るホームで折り返していく。現駅は1968年に移転したもので、それ以前は約400m下流にあった。戦前はここで中央ヴァール線が分岐して、ラ・マンダ橋で川を渡っていたのだ。そのため、北線のルートも今とは違い、河岸を離れて山側に迂回していた(下図参照)。
(左)コロマール旧駅で分岐していた中央ヴァール線と北線 中央ヴァール線廃止後の作成図のため、廃止線を示す断続的な鉄道記号で描かれる 1:50,000地形図(1950年代)を拡大 (右)現在の図 プロヴァンス鉄道(旧 北線)はヴァール川左岸に直線化され、駅も移転 旧線跡(北線のトンネルを含む)は道路として残る 画像はいずれもGéoportailより取得 © 2018 IGN |
しばらく車窓に続いた平野が遠ざかり、川岸に山が迫ってくる。プラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var は、渓谷のとっかかりに位置している。起点(旧 ニース南駅)から24.9km、近郊列車はここが終点だ。この先は1日5往復(下注)の列車が走るだけの閑散区間になる。
*注 2018年4月現在、ニース発の長距離列車はディーニュ Digne 行きが4本、途中のアノー Annot 止まりが1本で、いずれも毎日運転。復路ニース着便は、ディーニュ発4本(毎日運転)とアノー発が1本(月~土と日祝日で運転時刻が異なる)。
プラン・デュ・ヴァール駅に停車中の連節気動車 AMP800形 駅名の前につくラ・ヴェジュビー la Vésubie はここで合流する支流の名 |
山間を走るプロヴァンス鉄道の中でも、おそらくティネー川 Tinée 合流点までの6kmあまりは、谷が最も狭まる通行の難所だ。ヴァール川 Var がヴィアル山 Mt Vial の山腹を激しく侵食し、昼なお暗き険崖を削り出している。デフィレ・ド・ショーダン Défilé de Chaudan(ショーダンの隘路の意)、さらにその上流側で垂直の崖が迫る一帯はメスクラ峡谷 Gorges de la Mescla と呼ばれる(下注)。鉄道はデフィレをすり抜けた後、川を渡り、長さ934mのラ・メスクラトンネルで蛇行する峡谷をショートカットする。
*注 mescla はプロヴァンス方言で川の合流点の意。ヴァール川に北からティネー川が合流する。
ちなみに、アルプ・マリティーム軌道 Tramways des Alpes-Maritimes(シュド・フランスが経営する簡易線)の1本が、メスクラからティネー川の谷をサン・ソヴール・シュル・ティネー Saint-Sauveur-sur-Tinée まで延びていた。トンネルを出てすぐ対岸に渡っている古い下路アーチ橋はその跡だ。
(左)デフィレ・ド・ショーダン(ショーダンの隘路)を通過 (右)踏切とマロッセーヌトンネル Tunnel de Malaussène |
谷の両側にはなおも比高数百mの山並みが続くものの、ヴィラール・シュル・ヴァール Villars-sur-Var、トゥエ・シュル・ヴァール Touët-sur-Var(下注)と遡るにしたがって、むしろ谷は明るく開けていくように感じる。起点から58.3kmのピュジェ・テニエ Puget-Théniers は、ニースから延ばされてきた鉄道が最初の終点を置いたところだ。人口1900人ほどの小さな町だが、これでもヴァール中流域では最大規模になる。
*注 シュル・ヴァール sur-Var は、ヴァール川沿いの、を意味する。他の同名の町と区別するための接尾辞。
この駅には対向設備があり、朝夕、列車交換が設定されている。だが、ふだんは人影もなく、時が止まったようだ。高床の貨物ホームや機関車のための給水タンクが残され、その脇に、廃車になった車両が野ざらしにされて哀愁を誘う。年に十数日、こことアノー Annot(一部はル・フュジュレ Le Fugeret)の間で蒸気機関車による観光列車が運行されている。そのときだけは駅にも活気が戻るのだろう。
ピュジェ・テニエ駅 |
久しぶりに谷底平野に出ると、進行方向の岩山の上に、周囲を睥睨するように立つ砦が見えてくる。アントルヴォー Entrevaux は、この比高約150mの城山の麓、曲流する川に面する中世の城塞都市で、県の「特色ある村や街 Villages et cités de caractère」にも指定されている。石橋を渡り、古い城門をくぐると、背の高い家並みの間を石畳の狭い路地が網の目のように縫う。駅は対岸(南側)にあり、川向うに砦と町がよく見える。列車は石橋のたもとの広場(駐車場に使われている)の下をトンネルで抜けていく。
行く手の岩山の上にアントルヴォーの砦 |
アントルヴォーの砦と町 |
アントルヴォー旧市街 (左)城門(右)石畳の狭い路地 |
(左)アントルヴォー駅 (右)アントルヴォー第1トンネルで右岸の広場の下を抜ける |
次の山脚が迫る所では、まるで城門のようなアーチが2か所で道路と鉄道をまたいでいる。これは水路橋 Pont-canal で、山から勢いよく流れ下る沢の水をヴァール川へ逃がすための施設だ。
2か所の水路橋が線路と道路をまたぐ |
ポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan でヴァールの本流は右へ去り、線路は支流クーロン川 Coulomp の谷を進む。サン・ブノワ Saint-Benoît の停留所から先では、最急勾配30‰が現れるようになり、谷の斜面をひたすら登り続ける。途中、長さ123mのベイート高架橋 Viaduc de la Beîte でクーロン川の深い谷を渡る。ずっと付き添ってきたN202号線は、南の峠(トゥトゾール峠 Col de Toutes Aures)を越えるために、左の谷へ消えていく。
起点から73.0kmのアノー Annot が、ヴァール水系最後の町になる。ここも中心部に「特色ある村や街」の指定を受けた古い街並みが残されている。背後の山は砂岩の崖を巡らせたレ・グレ・ダノー Les Grés d'Annot で、ロッククライミングの名所だ。列車は町を遠巻きにしながら、険しい坂道をさらに上る。
クーロン川をまたぐ長さ123mのベイート高架橋 |
アノー駅 (左)ディーニュ方向を望む (右)SY形気動車が坂を降りてきた |
次のル・フュジュレ Le Fugeret では、高度を稼ぐために同線唯一のS字ループを通過する。大きくカーブした2本のトンネルを経て、村の北斜面に出ると、左車窓にループの軌跡が俯瞰できる。その後はメアイユ Méailles の村が載る緩斜面の直下を、線路は上っていく。ちょうど停留所をはさんで、大規模なギヨーマス高架橋 Viaduc de la Guillaumasse(長さ121 m)とマウーナ高架橋 Viaduc de Maouna(長さ197 m)が架かっている。後者は左にカーブしていて、窓の開く車両ならぜひカメラを向けたいところだ。
ル・フュジュレ~メアイユ間の1:25,000地形図 画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN |
ル・フュジュレ駅 (左)今はリクエストストップに (右)「機関士に合図してください Faire signe au Conducteur」の表示 |
ル・フュジュレ駅北側、線路はS字ループで高度を稼ぐ 矢印がループの最上段、左側はトンネル |
ギヨーマス高架橋 |
谷の肩に位置するメアイユの村、線路はその下の斜面を行く 右下はギヨーマス高架橋 |
緑の深い谷を少し遡ったところで、左に大きくカーブし、分水嶺を貫く長さ3,457mのラ・コル・サン・ミシェルトンネル Tunnel de la Colle-Saint-Michel に突入する。長い闇を抜けるとヴェルドン川 Verdon を渡り、路線最高地点(標高1,023m)に達する。川に沿って降りたトラム・オート Thorame Haute の駅はまさに山中の列車交換所で、駅舎の隣に教会がぽつんと建っているほかに集落らしきものは見当たらない。
(左)コル・ド・サン・ミシェルトンネル西口でヴェルドン川を渡る (右)山中の列車交換所トラム・オート駅 |
いつのまにか広くなったヴェルドンの河原を渡って、サンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes に到着する。左の車窓を見ると、卓状のル・セール・グロ Le Serre Gros(標高1,777m)がどっしりと腰を据え、その右にひときわ尖った峰ピク・ド・シャマット Pic de Chamatte(同 1,879m)も見える。いずれもこの一帯に広がる褶曲山地の一部だ。
サンタンドレ・レザルプ駅 (左)左手にル・セール・グロが腰を据える (右)転車台、背景の尖った山がピク・ド・シャマット |
線路に散り敷く松ぼっくり、モリエ Moriez 駅にて |
N202号線と再会した後、列車は長さ1,195mのモリエトンネル Tunnel de Moriez で、コル・デ・ロビーヌ Col des Robines の鞍部を越えて、アス川 Asse の谷に出る。バレーム Barrême では、N85号線、通称ナポレオン街道 Route Napoléon に出会う。ナポレオン・ボナパルトが1815年に幽閉先のエルバ島からパリへ帰還する際に通ったルートだ。
*注 ナポレオン街道はコート・ダジュールのジュアン湾 Golfe Juan(道路としてはカンヌ Canne が起点)から、ディーニュ、ガップ Gap を経てグルノーブル Grenoble へ延びる。ちなみに別のメーターゲージ路線、ラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure も一部でこのルートに沿って走る。「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。
バレーム駅のAMP800形 |
石灰岩の崖が迫るシャブリエールの隘路 Clue de Chabrières をトンネルでかわすと、アス川の谷は急に広くなる。しかし、鉄道は右へそれて、最後の山越えにかかる。といっても風隙を通り抜けるので、珍しくトンネルがなく、峠の実感がないままに下りになる。山の向こうはのびやかな谷底平野だ。列車はなだらかな斜面をゆっくり降りていき、ブレオーヌ川 Bléone を渡る。左車窓に草むした標準軌の線路が寄り添うのに気が付けば、まもなく終点ディーニュ Digne(起点から150.0km)だ。列車は3時間を超える長旅を終えて、島式2線のささやかなホームに滑り込む。
*注 市名はディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains(レ・バン les bains は温泉、湯治場の意味) だが、駅名はディーニュ。
ディーニュ駅 停車中の列車の後ろ、木の陰に駅舎がある 背景の尖峰はソメ・ド・クアール Sommet de Couard(1989m) |
ディーニュ駅周辺、SNCF線は廃線として描かれる 画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN |
ホームの反対側はSNCFのサントーバン=ディーニュ線だが、メーターゲージの列車も入れるように一部3線軌条になった線路は錆びついたままだ。すでに1980年の時点で、定期旅客列車が全廃され、夏季運行のアルプアジュール AlpAzur 連絡便と細々とした貨物列車が発着するだけになっていた。その貨物列車も1987年、季節旅客列車は1989年にそれぞれ休止となり、1991年に正式に路線廃止の手続きが取られた。サントーバン(下注)で接続していたマルセイユ=ブリアンソン線 Ligne Marseille - Briançon へは、シストロン Sisteron 行きの路線バスが代行する形になる。
*注 正式名はシャトー・アルヌー・サントーバン Château-Arnoux-Saint-Auban。
ところで、プロヴァンス鉄道にはかつて独立したディーニュ駅があった。駅前広場の向かいにあるレンガ建てがそれで、裏にホームと線路も残っている。1891年、シュド・フランスによる区間開業時に遡る歴史的建造物だが、放棄され廃屋となって久しい。方や現 ディーニュ駅は、旧PLM社(パリ=リヨン=地中海鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée)が開設した標準軌線の駅で、SNCFが引き継いで使用していた。しかし、庇(ひさし)を貸して何とやらで、今は実質的にプロヴァンス鉄道のための駅だ。
とはいえ、駅舎の中では、プロヴァンス鉄道の窓口の隣にSNCFの窓口が開設され、以前と変わらず全国路線網の切符を扱っている。この駅から標準軌列車の姿が消えて30年が経つが、そこだけ見れば、扉の向こうのホームへサントーバンからの列車が、「長らくお待たせしました」と言いながら今にも入ってきそうだ。
ディーニュ駅 (左)プロヴァンス鉄道の旧駅舎 (右)プロヴァンス鉄道とフランス南部鉄道(シュド・フランス)の綴りが重なって見える |
(左)もとSNCFのディーニュ駅舎 (右)入口は会社別 |
(左)プロヴァンス鉄道出札窓口 (右)SNCF出札窓口 |
同 ホーム (左)ニース方を望む、右の3線軌条がSNCF線 (右)反対側、SNCF側のホームは駅舎前まで続く |
写真は、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。
■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/
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