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2017年11月19日 (日)

コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

2017年秋のコンターサークル-S の旅は、北関東が舞台だ。1日目10月7日は、かつて東洋一の銅山の町として栄えた足尾(現在は栃木県日光市足尾町)を回る。

集合場所に指定されていたのはJR日光駅だったが、私の泊っている宇都宮駅前まで、真尾さんがレンタカーで迎えに来てくれた。小雨そぼ降る中、杉並木が続く国道119号(日光街道)を走って、日光駅へ。集合時刻の10時21分に到着した電車から外国人を交え大勢の客が降りたけれども、残念ながらサークルのメンバーの姿はなかった。堀さんは明日来るので、本日の参加者は私たちと、足尾へ先回りしているはずの大出さんの3人だけだ。

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足尾本山駅構内風景
 

再び車に乗り込んで、国道を西へ進んだ。清滝から大谷(だいや)川を渡ると、国道122号は長さ2,765mの日足(にっそく)トンネルで足尾側へ抜ける。トンネルは一直線だが、「この上に細尾峠というつづら折りの旧道があって、霧の中を堀さんと踏破したことがあります」と真尾さん(下注)。雨は上がってきたものの、谷の上空を覆う雲はまだ低い。

*注 このときのレポートは、堀さんの著書『消えた街道・鉄道を歩く地図の旅』(講談社+α新書、2003年、p.182以下)にある。

まずは、わたらせ渓谷鐵道(以下「わ鐵」という)の通洞(つうどう)駅へ向かった。足尾の市街地は、渡良瀬川上流の谷沿いに長く伸びている。そのため町には、わ鐵の前身である旧 国鉄足尾線時代から、足尾本山(あしおほんざん)、間藤(まとう)、足尾、通洞と4つの駅があった。

最奥部に位置する足尾本山は精錬所の前の貨物専用駅で、1987年に貨物輸送が終了して以来、使われていない。次の間藤が旅客列車の終点で、最後まで採鉱が続けられた本山地区の最寄り駅だ。三つ目の足尾はわ鐵の運行拠点で、列車交換ができ、広い構内には貨物側線も残されている。そして最も川下の通洞は、棒線駅ながら足尾の中心部にあり、乗降客も多い。

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足尾(通洞、小滝地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆
 

まずはその通洞駅前に車をつける。破風にハーフティンバーをあしらった山小屋風のデザインの駅舎がなかなかお洒落だ。駅前の小さな広場で大出さんと合流。山の緑が差し掛かるホームに出ると、ちょうど桐生方面の上り列車が入線するところだった。ちょっと褪せてはいるが、阪急電車のマルーン色を連想させる310形気動車だ。せっかくなので発着のようすを見届けてから、3人で足尾探索に出かけた。

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通洞駅
(左)ハーフティンバーの山小屋風駅舎
(右)昔の面影を残す駅舎内部
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桐生行き310形気動車が停車中
 

大出さんは私たちの到着を待つ間に近辺を歩いていて、「足尾のことがよくわかりますよ」と勧めてくれたのが足尾歴史館だ。足尾銅山と町に関するさまざまな歴史資料を展示している。運営するNPO法人の理事長さんの説明を伺いながら、館内を回った。「明治の足尾は、日本初の科学技術がたくさん導入された近代都市だったんです」と理事長。「電話、水力発電、索道、溶鉱炉など、みなそうです。電気鉄道も京都より早く、鉱石の運搬に使われていました」(下注)。

*注 旅客用の電気鉄道は1895(明治28)年京都で初めて走り始めたが、その4年前(1891年)に足尾では銅鉱石運搬用の電気軌道が開設されたという。

汚染排水や煤煙による渡良瀬川流域の深刻な公害問題は、足尾銅山の負の側面として知られているが、反面、鉱山は採掘・精錬技術の近代化で生産量を拡大させ、そのお膝元で町は栄華を極めた。鉱床のある備前楯山を取り巻く形で本山、通洞、小滝の主要3鉱区が立地し、その周囲に従業員とその家族、関連産業に携わる人々が暮らす市街地が形成されていた。足尾の人口は大正時代に3万8千人を超え、県内で宇都宮に次いで大きな町だったのだ。

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足尾歴史館
(左)鉱山町の歴史を資料で追う
(右)トロッコ列車の周回線路
 

そのとき、「今からガソリンカーが走ります」とアナウンスが聞こえてきた。「外の乗り場へどうぞ」と理事長さんに急かされて建物の裏に回ると、波板屋根の簡易ホームに、黒装束のボンネット型ミニ機関車が停まっている。後ろには、北海道開拓の村で乗ったのとそっくりの小型客車がつけられていた。

*注 北海道開拓の村の馬車軌道の話は、本ブログ「開拓の村の馬車鉄道」参照。

足尾では、1895(明治28)年9月に開業した馬車鉄道が町民の足となり、資材や生活用品の輸送を担っていた。1925(大正15)年、馬に代わってガソリンエンジンの機関車が投入され、昭和30年代まで使われた。停車中の列車はそれを復元したものだ。

走路は当時と同じ610mm(2フィート)軌間で、もとスケートリンクだった場所に、延長174mの周回線が敷かれている。私たちもさっそく豆客車のロングシートに納まった。列車は、バイクのような騒々しいエンジン音とともに動き出すと、超急カーブを小気味よくしのいで走っていく。側線には、立山砂防軌道から譲渡されたというディーゼル機関車や、オープン客車も留置してある。それを横目に見ながら2周回って、ホームに帰着。思いがけない列車体験は楽しかった。「足尾ガソリン軌道歴史館線」と名付けられた軌道は、4~11月の第一土・日曜に運転されている。幸運にも今日はその日だったのだ。

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足尾ガソリン軌道歴史館線のトロッコ列車
(左)ガソリン機関車 (中)豆客車 (右)客車内部
 

資料館を後にして、主要鉱区の一つ、小滝へ向かった。わ鐵の第二渡良瀬川橋梁の下をくぐってすぐに右折、支流の庚申山川に沿う細道を上っていく。まず見つけたのは、道路橋に隣接して川をまたいでいるダブルワーレントラスの廃橋だ。傍らの案内板に旧 小滝橋、大正15年架設とある。地形図では「小滝坑跡」と注記された地点で、橋の上流側で石積みの坑道が口を開けている。残念ながら鉄パイプのバリケードに阻まれて、中には入れなかった。

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旧 小滝橋
(左)残存するワーレントラスの構造物
(右)橋の左手に旧小滝坑が口を開ける
 

銀山平の狭い段丘では、道の両側に階段状に均された敷地と土留めの石垣が見られた。公園の案内板によると、かつてここには多くの社宅が整然と並んでいたそうだ。最盛期には小滝だけで1万有余の人が暮らしていて、病院、学校が建ち、料理屋や芸妓屋もあったという。しかし、今は背の高いカラマツの林にすっかり覆われて、面影すら見いだすことができない。

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銀山平社宅跡
(左)階段状の敷地と土留めの石垣
(右)盛時の写真(現地案内板を撮影)
 

国民宿舎の前で引き返して、本山坑のほうへ向かう途中、足尾駅に立ち寄った。駅舎は平入り切妻造りで、庇が広く張り出しているのが特徴的だ。また、いいタイミングで桐生行きの気動車が入ってきた。今度は510形、2013年に導入された車両で、わ鐡で最も新しい。右手へ回ると、がらんとした敷地の側線に、国鉄色の気動車やタンク車が数両留置されている。真尾さんいわく、「ここにはヤードがあって、昔は貨車の操車をしていました」。

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足尾駅
(左)屋根庇を張り出させた駅舎
(右)桐生行き510形気動車
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足尾(本山地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆
 

次いで、終点間藤駅へ向かった。こちらは線路が1本きりで、駅のすぐ上手に車止めがあり、先は草むらと化している。その中をさまよっている人がいたので、何かと思ったら、線路脇の木から落ちた栗を拾っているのだった。ホームに設置されている展望台は、対岸の山の斜面に現れるカモシカを見るためのものだそうだ。カモシカの姿は見かけなかったが、シカは確かにいて、銅親水公園からの帰り道に車の前を急に横切り、ヒヤッとする。

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間藤駅
(左)花壇になった旧折返し線跡と展望台
(右)駅舎
 

さらに上流へ。上間藤の道路脇で、地面に斜めに突き刺さる直径1mほどの鉄管を発見した。これは、理事長さんの説明にもあった日本初、1890(明治23)年完成の間藤水力発電所の跡だ。上部に延びていたはずの管路跡を確かめようと小道の階段を上っていく途中、地元の男性がすれ違いざまに「どこへ行かれる」と聞く。目的を話すと、「水路はここを通っていたんだ」と、斜面にかすかに残る正確な位置を教えてくれた。その人が言うには、発電所の跡地は、土盛りされて道路が通ったので、今はもう見ることができない。「だが、川の中に残骸があるよ」と指さす方向に、流れに洗われる煉瓦の塊が見えた。

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間藤水力発電所跡
(左)水を落とす鉄管の一部だけが残る
(右)発電所のかつての姿(現地案内板を撮影)
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間藤水力発電所跡
(左)松木川に洗われる煉瓦の塊
(右)地元の男性が案内してくれた
 

親切な人で、「これから古河橋を見に行くんです」と話すと、「案内するよ。なに、散歩ついでだ」。それで車に同乗してもらい、1km上流の橋のたもとまで走った。重要文化財指定の古河(ふるかわ)橋は、松木川に架かる径間48mのボーストリング型ワーレントラス橋で、これも1890年に造られている(下注)。資料館で見た写真(下写真右)によれば、日本初の電気軌道もこの橋を渡っていたようだ。しかし老朽化に伴って、現在は通行禁止になっている。「隣に新しい道路橋ができてからも、歩いて渡れたんだが」とこの人。

向こうに見える大きな構造物は、本山精錬所跡だ。その奥に、支流の出川を渡る貨物線のプレートガーダー橋があり、三態三様の橋が一つの構図に収まる。男性が、同じように橋を見に来た別のグループに捕まってしまったのを機に、私たちはお礼を言って、さらに上流へ車を移動させた。

*注 土木学会(JSCC)のサイトによれば、開通は1891(明治24)年1月1日。

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古河橋
(左)ボーストリング型トラス橋、対岸に本山精錬所跡
(右)橋には貨物を運ぶ電気軌道が併設されていた
  (足尾資料館の展示を撮影)
 

谷の奥に、白い簾のような滝がかかる何段もの堰堤が見えてきた。その周囲が整備されて、銅(あかがね)親水公園と呼ばれている。一般車が入れる最奥部なので、駐車場に車を置いて一番大きな砂防堰堤の脇まで上った。ここで北から降りてくる松木川に、東西からの支流が合流する。西側の谷をトラス橋が横断しているのが見えるが、森林鉄道の跡ではなく、発電所へ通じる送水管を通しているのだ。大出さんは以前ここまで来たことがあって、「あの鉄橋には見覚えがあります」。一帯は森林の乱伐と鉱山からの煙害で禿山になり、土砂の流出が激しい。懸命の植林活動が進められているが、堰堤の内側はすでに土砂で満杯だった。

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谷を塞ぐ大規模な砂防ダムと何段もの堰
ダムの手前に銅親水公園がある
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砂防ダムの上流側にて
奥に送水管を通すトラス橋が見える
 

帰り道、間藤から延びていた貨物線の廃線跡を訪ねてみた。松木川右岸、南橋集落の裏手に、間藤から26~30‰の急勾配で上ってきた線路がある。すっかり錆びが回っているものの、2本のレールはしっかり残っていた。土砂崩れであらかた埋まった難所を抜けると、トンネルの手前に腕木信号機が立っている。最近塗り直したのだろうか、異様にきれいだ。矢羽根が進行表示になっていたので(?)自己責任で進ませてもらうと、線路は短いトンネルを抜けて右に緩くカーブし、さっき古河橋から眺めた出川鉄橋を渡っていく。

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足尾本山への貨物線
(左)休止線にしては美しい腕木信号機
(右)S字カーブのトンネルを反対側から見る
 

その先が足尾本山駅だが、残念ながら手前に柵が立てられ、「鉱山施設につき立入りお断り」の札が掛っていた。柵越しに覗くと、構内は意外に整然と保たれている。しかし、錆びた側線に沿って破れ窓と朽ち板の建物が並ぶ、まるで時が止まったような光景には哀愁が漂う。じっと眺めていた真尾さんが「夕張を思い出しますね」とぽつりと呟いた(下注)。衰退した鉱山地区は、どこか共通の雰囲気を持っているようだ。谷の底は日暮れが早い。影が濃くなり始めた廃駅の構内を写真に収めて、私たちは車に戻った。

*注 北海道夕張の探訪記は「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

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出川鉄橋の先に足尾本山駅を望む
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図中禅寺湖(平成27年3月調製)、足尾(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
NPO法人 足尾歴史館 http://ashiorekishikan.com/

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