ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
商業鉄道だった旧ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway がすべての運行を停止したのは、第二次世界大戦前の1937年だった。それから74年の歳月を経て、2011年に保存鉄道として全線再開されるまでのいきさつは、ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建 Welsh Highland Railway restoration」の項(下記参考サイト)に詳しい。約13,000語に及ぶ長文の資料から、関係する諸集団の思惑が複雑に絡み合った鉄道再建の険しい道のりが明らかになる。以下、その骨子を書き出してみた。
■参考サイト ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建」
https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Highland_Railway_restoration
ベンチの脚を飾るレッド・ドラゴン (ベズゲレルト駅にて) |
◆
旧線路用地の帰趨
旧WHRの運営企業は、正式名をウェルシュ・ハイランド鉄道(軽便鉄道)会社 The Welsh Highland Railway (Light Railway) Company(以下、旧WHR社)といった。同社は、1896年軽便鉄道法に基づく軽便鉄道令 Light Railway Order (LRO) によって、1922年に設立が認可されている。会社は、社債を発行して鉄道の建設資金を調達したが、その3/4を引き受けたのは国と地元自治体だった。ところが開通後まもなく経営不振に陥り、利子払いが滞ったため、会社に対して1944年に清算令が下された。ここまでは前回述べたとおりだ。
指名を受けた清算人は、債権者に債務弁済するにあたって、線路用地は入札にかけ、最高額の札を入れた者に売却することで資金を回収しようとしていた。ただし軽便鉄道令によって、線路用地の所有権は旧WHR社のみにあり、かつ鉄道目的にしか使えない。そこで、用地を縛りから解き放つには法的な手続きが必要となり、それには2つの選択肢があった。
一つは、旧WHR社を廃止する「廃止令 Abandonment Order」を得ることだ。ただしこれを申請する者に法律上の費用負担が生じる。二つ目は「譲渡令 Transfer Order」で、これを得た者は旧WHR社から譲渡を受けられるが、その土地の使用は引き続き鉄道目的に限定される。
清算人としては土地の換金が可能になる廃止令が望ましいが、その前提となる費用を工面する当てがなかった。旧WHR社の残余資産はすでに債権者に分配済みで、使い勝手の悪い線状の土地を取得するために気前よく資金を差し出す者が現れるとは思えなかったからだ。
1961年7月に、保存鉄道に関心のあるシュルーズベリーの実業家の声掛けで、鉄道再開の可能性を議論する会合が開かれた。その場に招かれた清算人は、交渉次第ではあるが土地は750ポンドで売却する用意があると述べた。そこで、話をさらに具体化するために同年10月、ウェルシュ・ハイランド鉄道協会 Welsh Highland Railway Society(以下、WHR協会)が設立された。
協会の創設者に名を連ねたうちの数名は、近隣の保存鉄道フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)にも関与していた。フェスティニオグ鉄道も1946年に運行を休止したが、復活を望む人々によって1951年に鉄道協会が設立され、協会が過半数の株式を取得する形で、休眠状態の鉄道会社が再建された。そして1950年代の終わりまでに、ポースマドッグ Porthmadog(下注)から全線のほぼ中間地点にあたるタン・ア・ブルフ Tan-y-Bwlch まで運行が再開されていた。
*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から現在の Porthmadog に変更されたが、本稿では表記をポースマドッグに統一している。
鉄道再建の実績を持つ人々の参加はWHR協会の大きな支えになった。その一方で、FRの支持者の間ではWHRの再建に対して複雑な反応があり、歓迎する者もいれば、公然と敵意を示す者もいた。理由はおいおい明らかになるが、このことが、後日のFRの行動に少なからぬ影響を及ぼすことになる。
さて、路線を復元するには、まず再測量のために線路用地への立入り許可が必要だ。清算人はWHR協会に好意的で、ほどなく協会を実行力のある想定売却先と認めるようになった。協会は、清算人との間で用地購入に関して、行政当局とは計画認可に関して、それぞれ交渉に着手した。ポースマドッグが属するメリオネスシャー州 Merionethshire からは、ルート南端の計画に対して認可が下りた。しかし、カーナーヴォンのあるカーナーヴォンシャー州 Caernarfonshire の議会は、鉄道より並行道路の改良に関心が向いており、協会の計画には非協力的だった。
鉄道の運営責任を引き受けるには法人格が必要なため、WHR協会は1964年初めに、ウェルシュ・ハイランド軽便鉄道(1964)有限会社 Welsh Highland Light Railway (1964) Limited を設立した。巷では「64年会社 The 64 Company」と呼ばれたので、以下ではそれに倣おう。
運の悪いことに、行政との認可交渉をしている間に清算人が体調を壊し、用地の売却交渉をまとめることなく亡くなった。清算業務は管財人が自ら引き継いだが、彼は64年会社への売却を良しとせず、土地を競売に出すという当初の方針を貫いた。協会側は、積み上げてきた交渉を突然打ち切られ、同時に用地への立入り権も失ってしまった。
管財人は、競売への参加者に対し、旧WHR社の債務を引き受けるに足る資産の証明と、廃止令への出資を条件に加えた。64年会社も参加した競売で最高額を投じたのは、カンブリア州 Cumbria の資産家J・R・グリーン J. R. Green という男だった。グリーンは他の保存鉄道を支援している理解者であり、信頼のおける保存団体に管理を委ねるつもりだった。64年会社は彼にWHR復元と運行の支援を要請され、同意した。
ところがその後グリーンは、一時的に資金難に陥った。先行きを不安視した管財人は1969年に売却を撤回してしまい、64年会社は再び挫折を経験することになった。
その後、64年会社は1973年後半に、ポースマドッグでベズゲレルト側線 Beddgelert Siding と近接の土地を購入している。側線は、クロイソル軌道 Croesor Tramway が山から運び下ろしたスレート貨物をカンブリア鉄道 Cambrian Railways(後の国鉄カンブリア線)に受け渡すために造られたもので、戦後は使われていなかった。この廃線跡の上にポースマドッグからペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction まで短距離の狭軌線が敷かれ、1980年に保存鉄道として開業することになる。
64年会社と全線派
1974年に自治体の再編が実施された。メリオネスシャー州とカーナーヴォンシャー州は統合されて、グウィネズ Gwynedd 州になった。それに伴い、かつて保存鉄道に無関心だったカーナーヴォンでも、鉄道への風向きが変わり始めた。観光客の減少を食い止めるために、新たな観光資源に結び付ける動きが出てきたのだ。このとき、1972年に廃止されて以来、州の所有になっていた標準軌線跡を使って、狭軌保存鉄道を町まで引き込む構想が初めて提案された。一時は64年会社の拠点を、ポースマドッグからカーナーヴォンに移す話さえあったほどだ。
1970年代の半ばに、グウィネズ州は旧WHRの線路用地の取得に乗り出した。線路用地の査定価格は州に対して旧WHR社が負う債務と相殺されるので、名目の金額だけで用地を取得できるはずだ、と州は主張した。しかし、これでは最高額の入札者に売却したことにならないと、管財人は売却を貫徹するための承認を法廷の裁定に求めた。
1980年代の初めには、州と64年会社が用地を共同管理し、カーナーヴォンから「ベズゲレルト Beddgelert とリード・ジー Rhyd Ddu の間の手ごろな地点」まで鉄道再建を段階的に進めるという計画案ができていた。そのために、州はとりあえず費用を支払って、旧WHRの廃止令を得るつもりだった。
しかしこれが、その後巻き起こった激しい意見対立の、まさに引き金となった。すなわち廃止令によって線路用地の法的保護がなくなれば、再建の対象にならなかった区間は、鉄道以外のフットパス(自然歩道)や道路の新設・改修に使われてしまうのではないか。64年会社の内部に、そうした懸念をもつグループ、いわゆる「全線派」がいた。彼らはあくまで全線再開を目標にするべきで、それにはフェスティニオグ鉄道のように、旧WHR社の過半数の株式を取得して線路用地の管理権を得なければならないと考えた。
全線派は、自前の資金で旧WHRの株式と債券を探し当てて、購入し始めた。1983年初めに取締役会で彼らが表明したこの方針は、他の取締役を大いに驚かせた。州との取引を推進するという従来の会社の方針に逆行するように見えたからだ。ともかくも4月の取締役会では、取得済みの株式と債券を所有する財団の設立が合意された。全線派は調査を続けてよいが、その結果は取締役会に定期的に報告することとされた。
ところがその後、全線派はさらに踏み込み、資金集めの発起書を刷って社員や一般会員に配布した。これは取締役会の決議内容を越えるものだったため、9月の取締役会は紛糾した。会社の方針に従わなかったとして、全線派は買い集めた株式と債券を無償で会社に引き渡すよう求められた。彼らが拒否すると、業を煮やした取締役会は、全線派の取締役辞任を勧告した。
内部騒動の間も64年会社は、州との交渉を継続していた。州議会の小委員会は1983年4月に、管財人からペン・ア・モイント~ポント・クロイソル Pont Croesor 間の用地を取得して、64年会社にリースするよう勧告することを決定した。1980年に開業した区間の延長に道筋をつけるものだった。会社は同年11月に臨時総会を開き、そこで州との取引を進めることが承認された。
片や全線派も活動を進めていた。線路用地の買収を目的にした「線路用地統合会社 Trackbed Consolidation Ltd(以下、TCL)」を密かに立ち上げて、管財人に用地売却を働きかけた。これはすぐに取締役会の知るところとなり、1983年12月に、TCLに関係している全線派社員5名に対する会員活動の停止が決議された。彼らは年次総会への出席すら拒まれたため、双方ともに深い遺恨を抱くもととなった。
全線派はTCLを使って、株式と社債の買収を進めた。社債の75%の所有者による賛成票が、旧WHR社の財政再建計画に同意を与える法律的要件だったからだ。64年会社には全線派のほかにも同様の考えを持つグループがあり、彼らは西部借款団 West Consortium の名で、1985年1月に国が保有していた社債を購入した。
TCLと新たな盟友となった西部借款団の確保した社債を合わせると、全体の65%に達した。残りは3つの地方自治体が所有していた。その一つ、ドゥイヴォル Dwyfor 郡(下注)は当初全線派の考えを支持しており、それを足せば78%になる見通しだった。ところが1986年1月に再招集された債権者会議で、ドゥイヴォル郡は州議会などの説得に応じ、反対側に立った。全線派のめざす財政再建の試みは、土壇場で中断を余儀なくされた。そして管財人は、引き続き土地を州に売却する意思を持ち続けたのだ。
*注 ドゥイヴォル郡は1974~1996年に存在した自治体で、ポースマドッグやベズゲレルトを郡域に含む。
フェスティニオグ鉄道の思惑
64年会社が州と組もうとしたのは、弱い資金力をカバーするため、建設に際して公的な財政支援を期待したからだ。一方、州政府にとってWHRは、あくまでカーナーヴォン周辺の観光開発のためのツールでしかない。ポースマドッグまで線路が延伸される見込みは薄く、使われなかった用地は処分されるか転用され、全線再開は永遠に不可能になるだろう。全線派はそう考えて、あくまで自力でWHRを復興させようと考えた。
管財人が所与の権限で用地を州政府に売り渡そうとしているのに対抗して、彼らは旧WHR社を再興することで、本来会社にある用地の所有権を掌握しようとした。64年会社と州政府、それと対立する全線派(TCL)や西部借款団、いずれもWHRの再開という目指す方向は一致しており、最終目標とそのために取るべき手段が異なっただけだ。
ところが、ここでもう一者、まったく別の思惑でこの問題に介入しようとした集団があった。フェスティニオグ鉄道(FR)だ。FRはすでに1982年に自社全線の再開を完了していたが、ジアスト Dduallt からの水没区間で迂回線を建設するために、資金の借入れを行っていた(下注)。そのうえ再開後の乗客数が伸び悩み、収益性に問題を抱えていた。
*注 揚水式発電所建設に伴う調整池の建設で、旧線が水没したため、復活にあたってはスパイラルを含む迂回線の建設が必要となった(本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照)。
そのようなFRにとって、64年会社と州政府が進めているWHR復活計画は、決して他人事ではなかった。というのも、同じポースマドッグの町から出る潜在的な競争相手は、州の財政支援を受け、沿線にブライナイ・フェスティニオグよりも魅力的な観光地ベズゲレルトを擁している。ポースマドッグからベズゲレルトまでは平坦なルートで、運行経費が安価なため運賃を低く設定することも可能だ。FRは、現在の利用者の半数近くがWHRに流れると見積もり、借金の返済計画にも影響が及ぶことを懸念した。
WHRの再建は阻止しなければならない。そのための最良の方法は、自らWHRの線路用地を取得することだと、FRは考えた。これは後に「買って封じる Buy to Shut」政策と呼ばれることになる。
1987年9~10月に、他のいかなる入札者にも勝る16,000ポンドの入札が匿名でなされた。しかし、管財人が州に売却する方針を曲げなかったため、この策は成功しなかった。そこでFRは1988年9月に、州への直接の説得を試みた。州政府に線路用地の入札を辞退することを勧め、代わりに自分たちが入札に成功したら、鉄道目的「以外」に使うという条件で州に用地を寄託する用意があると伝えたのだ。
1989年に64年会社と州は協力関係を再確認し、管財人から線路用地を購入するために高等裁判所で売却の認可を受ける準備を始めた。裁判所の尋問ではすべての利害関係者を宣言するので、匿名の入札者の正体も明らかにされることになる。
FRは先手を打って、州政府と再協議の機会を持った。そこでは態度を180度転換して、「自分たちは鉄道保存の事業者であり、維持発展が可能ないかなる鉄道の休止も求めない」ことを表明した。そして、FRが用地を取得して、64年会社にリースすると提案した。そこで州は、両者の話し合いによる解決を促すことにした。
1989年のクリスマスに両者の代表が会合を持ち、FRは入札者の正体を開示したうえで、自らの考えを話した。しかし64年会社は、先に州から1988年9月にFRと行った会合のメモを入手していた。WHRの再開を望んでいなかった会社が、わずか1年後に再建を手助けしたいと申し出ている。64年会社は、FRの動機を非常に怪しんだ。
すでにこのとき、64年会社はペン・ア・モイントからポント・クロイソルまでの延長計画に認可を得て、州と共同で軽便鉄道令の案を提出していた。会合の後、64年会社はこの件に干渉するFRを非難する声明を発表し、FRに入札から撤退するよう求めた。秘密の入札者の正体も、一般会員の知るところとなった。
このニュースはすぐに広まり、イギリスの鉄道保存団体に属する多くの人々に衝撃を与えた。FRは、64年会社の地主となって彼らを援助したかった、64年会社と州の協力関係のもとでは全線復元の機会が失われたはずだと弁明したが、世間は納得しなかった。鉄道専門誌も反発し、「これは保存の精神ではない」という論説を掲載した。FRの支援者さえも非難の声を上げた。
連携と逆転劇
このときまで別の方法で線路用地へのアクセスを試みていた全線派は、それが取得できれば64年会社にリースするか寄贈する意思を持っていた。しかし、64年会社の顧問弁護士は、1922年軽便鉄道令は再使用できないとアドバイスしていたため、同社は彼らとの協力を拒否し続けた。厳しい批判に晒されるFRと、交渉の糸口がつかめない全線派と西部借款団、ともに全線復活を目標にする三者が接近するのは当然のなりゆきだった。
全線派(TCL)と西部借款団は、FRが全線の開通と運行に最善の努力を払うことを条件に、集めた株式と債券をFRに引き渡すことで合意した。その受け皿として、子会社フェスティニオグ鉄道ホールディングズ有限会社 Festiniog Railway Holdings Ltd が設立された。
こうしてFRは、全線派たちが描いていた戦略を用いて、高等裁判所の聴聞で管財人の申請に異議を唱えることができる立場に立った。理事が交替したFRは、今や復元の当事者になろうとしており、膨大な資料作成のための資金も準備していた。
聴聞の場でFRは、旧WHRの財政再建を試みる時間を稼ぐために、州への売却時期の延期を申請した。しかし、裁判所は、旧WHRにもはや存命の取締役がおらず、会社はいわば瀕死の状態であるとして、認めなかった。64年会社の顧問弁護士が指摘していたとおりだった。FRの再建のケースでは、1946年の休止後まもなく保存運動が始まっており、取締役会の再招集が可能だったが、WHRには同じ手法が通用しなかったのだ。
裁判所はそのうえで、この問題の解決策は、両当事者のどちらかが1896年軽便鉄道法第24条にもとづき譲渡令を申請することであると裁定した。譲渡令を得れば、(管財人との間で)売却の合意が整った後、鉄道建設と運行の権限の譲渡を受けられる。裁判所は管財人の売却申請には裁定を下さず、譲渡令申請の時間を見込んで猶予を与えた。
両者はそれぞれ譲渡令を申請した。内容が競合するため、1993年11月に公聴会が開かれることになった。1988年9月のメモが証拠として提出されたこともあって、FRは本当に再建に取り組む気があるのかどうか、まだ疑念を抱かれていた。そこで公聴会の進行中にFRは、州政府との間で、譲渡令を得たら5年以内に工事を開始する、実行できなかったときは線路用地を州に明け渡すという趣旨の協定を結んで、自らの姿勢を明確にした。
しかし、独立検査官が調査の結果下した判断は、64年会社の申請を支持するというものだった。その理由として検査官は、州の関与によって高水準の公的支援が期待できること、64年会社がポースマドッグに既存設備を有していること、64年会社が目的をWHR再建に特化しているのに対し、FRは他にも多数のプロジェクトを手がけており、そちらが優先される可能性があること、商業組織であるFRより64年会社のほうが、再建に必要なボランティアの動員が容易であること、などを列挙した。
やはりFRの挑戦は無謀だったと、誰しも感じたことだろう。ところが公聴会を踏まえて1994年7月に運輸大臣ジョン・マグレガー John MacGregor が発表した報告書を読んだ人は、自分の目を疑った。決定内容が64年会社ではなく、FRの申請を是認していたからだ。
FRの構想には公共団体や公的支援が関係していないため、結果的に公的部門に対するリスクが削減されるというのが、付された理由だった。当時の保守党政府の政治観に適合する結論とはいえ、予想外の展開に対して、地元では激しい反発が巻き起こった。FRは国務大臣を買収したと非難された。最後の蹴りを入れられた形の64年会社は控訴を検討したが、それは成功の保証がない高価な選択肢だった。
WHRの再建過程 |
対立を超えて
この後、FR財団は鉄道再建のための子会社を設立し、ついにカーナーヴォンを起点に再建のための工事が開始された。復活WHRの最初の区間となるカーナーヴォン~ディナス Dinas 間4.3kmは、1997年10月に開通した。
とはいえ、64年会社も大人しく引き下がったわけではない。FRに対抗して1996年に社名を「ウェルシュ・ハイランド鉄道有限会社 Welsh Highland Railway Ltd(名称が紛らわしいので以下、WHR(旧64年)社とする)」に変更し、「ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway」を名称登録した。自分たちがWHRの正当な後継者であると、会社はなおも主張していた。
区間開通に先立つ1997年3月に、FRはディナス以遠、ポースマドッグまでの工事令 Works Order(工事認可)を出願した。提案ルートに対するパブリックコメント(意見公募)で多数の反対意見が提出されたため、同年6月に公聴会が開かれた。
中でも焦点となったのは、ポースマドッグの町を通過する「クロス・タウン・リンク Cross Town Link」と呼ばれる区間だった。これには道路橋であるブリタニア橋の併用軌道が含まれており、ウェールズ政府道路局は、道路横断がハイストリート High Street(本通り)に交通渋滞をもたらすと異議を申し立てた(下注)。
*注 これは、町を迂回する道路バイパスの開通(2011年)によって最終的に解決が図られた。
WHR(旧64年)社も、反対意見を提出した。提案ルートの一部に自社所有地が含まれており、工事令が出れば強制的に買上げられてしまうからだ。
WHR(旧64年)社は、新路線を自社のペン・ア・モイント駅に接続させるという反対提案も用意していた。上述のように同社は1980年からペン・ア・モイント~ポースマドッグ間で保存列車を走らせており、ポースマドッグの駅は、FRのハーバー駅とは町をはさんで反対側、国鉄駅の向かいにある。このルートを使えばクロス・タウン・リンクが不要になって、本通りが渋滞する心配がない。両駅間を行き来する人が増えて、町の商店街への経済的効果も期待できるだろう。
しかし、FRにとればこの提案は、新路線と既存FR線を連絡させる機会が失われることを意味する。また、WHR(旧64年)社が南端区間の所有者になることで、通行保証のための協議が必要になり、両者間で争いが起これば通行妨害が起きるかもしれない。FRは、何とかしてWHR(旧64年)社が反対意見を撤回するよう説得すべきだと考えた。1997年8月に両者は交渉のテーブルについたが、9月後半に早くも決裂する。しかし公聴会が迫ってきたため、11月に交渉が再開され、ついに基本合意に達した。
合意内容は次のようなものだった。WHR(旧64年)社は、クロス・タウン・リンクに対する反対意見を取り下げる。その代わりにWHR(旧64年)社は、(新線と重なる)自社所有地のペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間で路線を建設できるものとし、FRもそれを全面支援する。つまり、FRは北から線路を延ばし、WHR(旧64年)社は南から線路を延ばす。合流地点をポント・クロイソルとするということだ。
加えて、北から来る新線の先端がポント・クロイソルに到達するまで、WHR(旧64年)社がペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間を自社で運行できる。また、WHR(旧64年)社の列車に対して新線全線の通行権を保証するとされた。
11月30日に取り交わされた覚書に基づき、1998年1月12日に協定が成立した。このいわゆる「1998年協定 The 1998 Agreement」で、新路線の北側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(カーナーヴォン)Welsh Highland Railway (Caernarfon)」、南側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(ポースマドッグ)Welsh Highland Railway (Porthmadog)」の名称で区別することも取り決められた。
ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係 1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆 |
その後、北側では、2000年8月にディナスからワインヴァウル Waunfawr まで、2003年にリード・ジー Rhyd Ddu まで線路が完成した。南側は、2006年にペン・ア・モイントからトライス・マウル Traeth Mawr の暫定ループ(信号所)まで700mが延長され、列車も走ったが、WHR(旧64年)社にはそれ以上延長工事を進める資金がなかった。
結局、北から来た線路は2010年4月にポント・クロイソルに到達し、WHR(旧64年)社が造れなかった区間を含めて、FRの手でポースマドッグまでの全線が建設され、2011年4月20日に晴れて開通の日を迎えた。それと同時に、1998年協定に従ってWHR(旧64年)社のトライス・マウルへの延長運転は中止され、ペン・ア・モイントで折り返す運行に戻った。名称も「ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR)」に変更されて今に至る(上図参照)。対立していたWHR(旧64年)社とFRの関係も、その後、共同行事の開催などを通じて、はるかに誠意のあるものに変わってきているという。
★本ブログ内の関連記事
ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II
ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III
ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
« ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III | トップページ | オーストラリアの地形図-クイーンズランド州 »
「西ヨーロッパの鉄道」カテゴリの記事
- ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道(2024.12.07)
- ライネック=ヴァルツェンハウゼン登山鉄道(2024.11.29)
- アルトゥスト湖観光鉄道-ピレネーの展望ツアー(2024.11.23)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-南部編 II(2024.09.28)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-南部編 I(2024.09.24)
「保存鉄道」カテゴリの記事
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-南部編 II(2024.09.28)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-南部編 I(2024.09.24)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-西部編(2024.09.06)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-東部編 II(2024.08.20)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-東部編 I(2024.08.16)
「軽便鉄道」カテゴリの記事
- アルトゥスト湖観光鉄道-ピレネーの展望ツアー(2024.11.23)
- コンターサークル地図の旅-花巻電鉄花巻温泉線跡(2024.11.08)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-南部編 I(2024.09.24)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-西部編(2024.09.06)
- ドイツの保存鉄道・観光鉄道リスト-東部編 II(2024.08.20)
« ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III | トップページ | オーストラリアの地形図-クイーンズランド州 »
コメント