ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III
前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。
この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。
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カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas
![]() 擁壁と道路に挟まれて 狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅 |
現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。
鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。
1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。
カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。
その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。
*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。
しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。
*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。
![]() カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置 1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆 |
![]() カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル |
ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu
ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。
この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。
ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。
![]() ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していた ディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅 |
本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。
*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。
鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。
*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。
主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。
しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。
![]() サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る) |
リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction
リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。
それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。
*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。
工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。
この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。
まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。
また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。
*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。
![]() ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置 1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆 |
![]() S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台 (上図中央左の unused abutments) |
![]() ベズゲレルトの牧草地に残された橋台 (上図中央右の unused abutments) Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/
クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour
グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。
ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。
![]() クロイソル軌道がインクラインで上っていた クロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左) |
1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。
*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。
さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。
この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。
*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。
クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。
![]() ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係 1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆 |
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旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折
さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。
第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。
しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。
*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。
その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。
翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。
第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。
幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。
次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。
![]() (左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断 (中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通 (右)2011年に新WHRが全通 |
★本ブログ内の関連記事
ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II
ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
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