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2017年1月 7日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)の旅を続けよう。

機関車リンダ Linda が牽く列車は、リウ・ゴッホ Rhiw Goch 信号所を後にすると、高い石垣で谷を渡り、苔むした森に入っていく。この辺りは、かなりの急斜面だ。1830年代という早い時期に、起伏の多い山地で20kmもの勾配線路を築いていくのは、大変な工事だったに違いない。

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フェスティニオグへ向けて列車は上り続ける
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タン・ア・ブルフ~ブライナイ・フェスティニオグ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆
 

プラース・ホールト Plas Halt(ホールトは停留所の意)の手前に、「タイラーのカーブ Tyler's Curve」と呼ばれる半径2チェーン半(50.3m)の最小カーブが控えている。線路横に立つ「W」と書いた標識は、「警笛鳴らせ」の意味だ。車輪をきしませながら回り込む間、ドゥアリド川 Afon Dwyryd が流れるフェスティニオグ谷 Vale of Ffestiniog と、それを隔てて向かいに大きな山塊が見晴らせた。谷底で軒を寄せ合うマイントゥログ Maentwrog の村のたたずまいも美しい。

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(左)リウ・ゴッホ信号所を通過
(右)マイントゥログの村を遠望
 

列車は、続いてマイル湖 Llyn Mair のある支谷を巡り始める。その途中に、タン・ア・ブルフ Tan-y-bwlch (下注)の駅がある。森に囲まれたS字状の島式ホームに軽やかな跨線橋が架かり、FRでは一番絵になる中間駅だ。ミンフォルズから20分奮闘し続けてきた機関車は、しばらく停車して水の補給を受ける。帰りはここで列車交換も行われて、眠ったようなホームがいっとき生気を取り戻した。

*注 タン・ア・ブルフ(峠下の意)は、ふつう続けてタナブルフと読まれるが、分かち書きの地名は中黒でつないで表記した。

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タン・ア・ブルフ駅
(左)森の中の島式ホームと跨線橋
(右)列車交換(帰路写す)
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坂を上る列車はここで給水を受ける(帰路写す)
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眼下にマイル湖
線路は対岸の山を回ってきた
 

ガルネズトンネル Garnedd Tunnel(55m)の短い闇を経て、しばらくはカンブリア山地を見渡す高みを走っていく。すでに谷底との標高差は160m以上あり、開いた窓から強めの風が入ってくる。タン・ア・ブルフから10分、そろそろ次の見どころ、ジアスト Dduallt のオープンスパイラル(ループ線)だ。ジアストの駅を過ぎると、線路は右へぐんぐん回り込み、今通った線路の上を乗り越える。そしてモイルウィントンネル Moelwyn Tunnel(262m)を介して、北側のアストラダイ Ystradau の谷へ抜けていく。

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フェスティニオグ谷を隔ててカンブリア山地の眺望が開ける
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ジアストのオープンスパイラル
(左)ジアスト駅
(右)駅を出ると右へぐんぐん回り込む
 

あたかも鉄道模型を実地で再現したような構造だが、これはオリジナルのルートではない(下図参照)。1836年の開通当初は、インクライン(勾配鉄道)でこの山を越えていた。1842年に、山を貫く長さ668mの(旧)モイルウィントンネルが完成して、産業鉄道の時代はこのトンネルを行き来した。スパイラルになったのは、意外にも保存鉄道になってからで、正確にいうなら、鉄道を復元するためにわざわざ建設されたのだ。その理由を知るには、少し20世紀のFRの歩みを振り返る必要があるだろう。

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ジアスト~タナグリシャイ間の路線の変遷
(左)開通当初はインクラインで山越え("Old Tramway" と注記)
   旧モイルウィントンネルの完成で全線重力運行が可能に
    1:25,000地形図 SH64 1953年版に加筆
(右)現在は、貯水池の水位を超えるまでスパイラルで高度を稼ぐ
    1:25,000地形図 OL18 2015年版に加筆 © Crown copyright 2017
 

ウェールズのスレート産業が絶頂期を迎えたのは1880年代だ。世紀が変わると、タイルのような新素材の普及や、世界大戦に起因する労働力不足と販路の途絶、経済不況など、いくつも悪条件が重なって、凋落の傾向がはっきりしてくる。フェスティニオグでも採石場の閉山が相次いだため、ついにFRは1939年9月に旅客輸送を中止、1946年8月にはスレート輸送も断念せざるを得なくなった。鉄道施設が撤去を免れたのは、路線の建設を許可した19世紀の法律に、休廃止に関する規定がなかったからに過ぎない。

鉄道愛好家のグループが鉄道の復元に取組み始めたのは、それから5年後の1951年のことだ。まず1954年にボストン・ロッジ工場で機関車の修復に着手し、翌55年にはザ・コブ(築堤)の区間で保存走行を開始した。線路は山に向かって段階的に復旧されていき、1968年にはここ、ジアストまで到達した。

しかし、そこからが難関だった。鉄道が休止している間に、線路が通るアストラダイの谷では、揚水式水力発電所の建設計画が進められていたからだ。谷をダムで締め切って調整池にしたため、線路は2km近くにわたって水没してしまった。モイルウィントンネルの北口も使えなくなり、より高い位置にトンネルを掘り直す必要があった。

足掛け18年2か月に及ぶ長い法廷闘争で英国中央電力庁CEGBから補償金を獲得した彼らは、ボランティアを動員して約4kmの新線建設を敢行した。これは1978年に最終的に完成し、保存鉄道は調整池の北端にあるタナグリシャイ Tanygrisiau まで延長されたのだ。

列車がループを回りきって新トンネルに入る直前に、旧線を載せていた築堤が右車窓の下方に見える。オープンループで稼いだ高度はわずか11mに過ぎないが、これがなければFRの復元は尻切れトンボで終わっていたに違いない。

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ジアストのオープンスパイラル
(左)今通って来た線路を乗り越える
  左奥にジアスト駅が見える
(右)石積みが残る旧線の築堤
 

トンネルを出ると、その調整池が右手に姿を見せる。きょうは水位が下がっていたので、旧トンネルに突っ込む廃線跡も確認できた。列車は、発電所の建物の裏をかすめた後、坂を下りてタナグリシャイ駅に入っていく。ここでも列車交換があった。先頭に立っていたのは、同じダブル・フェアリーで赤塗装の12号機「デーヴィッド・ロイド・ジョージ David Lloyd George」だ。

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発電所の調整池の向こうに、スレートの採掘跡が残る山々
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(左)池の底に旧線跡が露出
  旧トンネルの入口(封鎖)も見える
(右)揚水式発電所の裏手をかすめる
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タナグリシャイ駅
(左)駅の手前にあるクーモルシン滝 Cwmorthin Waterfall
(右)最後の列車交換は赤塗装の12号機と
 

いよいよ次が終点になる。最後の区間は、大きく崩された山肌や赤鼠色の巨大なボタ山を眺めながら、ブライナイ・フェスティニオグの町の方へゆるゆると向かう。見ての通り、ここはスレート鉱山の町だ。長い地名はフェスティニオグの上手(かみて)という意味で、本村であるスラン・フェスティニオグ Llan Ffestiniog から約4km北に位置する。

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(左)ボタ山を眺めながら行く
(右)左はディナス Dinas 方面の引込線
  正面はグラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫
 

かつて町がどれだけ栄えていたかは、ここに3方向から鉄道が集中したことからも想像できる。ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷図(下図)をご覧いただきたい。

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ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷
 

一番乗りしたのは、もちろんフェスティニオグ鉄道だ。北を向いているのが本線で、東へ出ているのは支線の扱いだった。客扱いを始めた1865年から数年間、列車は、本線上のディナス Dinas 駅と東支線のディフス Duffws 駅へ交互に通っていた(図左上、1860s の欄)。しかし町から遠いディナスが1870年に休止となった後は、全旅客列車がディフスを終点とするようになった(下注1)。

一方、1868年にFRと同じ軌間でフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道 Festiniog and Blaenau Railway が開通し(下注2)、FRディフス駅の近くに駅が造られた。

*注1 FRの本線もディナス駅も、その後成長したボタ山の下に埋没した。
*注2 ブライナイ・フェスティニオグ~フェスティニオグ Festiniog 間。で、鉄道はフェスティニオグ本村の周辺で採掘されたスレートを輸送する目的で敷かれた。FRと直通し、貨車もFR所有で、実質的にFRの支線だった。なお、当時は "Ffestiniog" ではなく "Festiniog" と綴った。

狭軌の路線網しかなかったこの町に、1879年、標準軌のロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 London and North Western Railway が北から到達した(図左中)。現在のコンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line だ。こちらもスレート輸送が目的で、わざわざコンウィ川の河口デガヌイ Deganwy に自前の積出し港を築いての進出だった。1881年に町の北西に本駅が完成し、FRも自社線上に乗換駅を設けた。

間を置かずして1883年には、ライバルたるグレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway も進出を果たす。バラ=フェスティニオグ鉄道 Bala Festiniog Railway という別会社を立てて、既存のフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道を買収し、改軌の上で接続したのだ。駅の位置は狭軌時代を踏襲したので、FRはここにも乗換え用のホームを用意した。

FRのディフス駅は1931年に休止となり(図左下)、グレート・ウェスタンとの乗換駅がその代替とされた。スレート輸送の衰退で1939年にFRの旅客輸送は途絶してしまうが、大手2社の路線はこの地に残った。

*注 ディフス駅の旧駅舎は当時の位置に残っている。

第二次世界大戦後、鉄道の国有化が実施され、標準軌線は英国国鉄 British Railways となる。それに伴い、旧ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン(当時はロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ鉄道 London, Midland and Scottish Railway)の駅は北駅 Blaenau Ffestiniog North、旧グレート・ウェスタンは中央駅 Blaenau Ffestiniog Central と改称された(図右上)。

後者は1960年に休止となったものの、1963年にフェスティニオグ本村の南に建設が決まった原子力発電所への物資輸送用として一部が復活し、北駅から接続線が造られた(図右中)。もとよりこれは貨物専用であり、旅客輸送は従来どおり、北駅を終点としていた。

復元されたフェスティニオグ鉄道が、数次の延長を経て、鉱山町に帰ってきたのは1982年だ(図右下)。これに合わせて旧 中央駅の位置に、新たに国鉄とFRの共同使用駅が設けられ、開業式が華々しく催された。これが、現在のブライナイ・フェスティニオグ駅だ。ジアストのオープンスパイラルと同様、終点駅もまた保存鉄道のために造られた施設なのだ。

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ブライナイ・フェスティニオグにあった旧駅の位置
1:25,000地形図 SH64 1953年版、SH74 1953年版 に加筆
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終点ブライナイ・フェスティニオグ駅に到着
 

小柄なリンダが1時間10分かけて牽いてきた列車は、グラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫を見ながら右に大きくカーブした後、その新駅に進入する。到着は定刻の15時40分。やはり遅れていたのではなく、途中駅の時刻表がおおまかだったようだ。

国鉄(現 ナショナル・レール)コンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line(下注)のホームは片側1線、対するFRは島式ホームの両側を使っている。線路幅は並ぶと大人と子供ほども違うが、FRのホームにはしっかり屋根がかかり、簡素ながら切符売り場兼売店の入った建物もある。先駆者のプライドを示しているのかもしれない。

*注 コンウィ・ヴァレー線は、この路線の観光開発にあたり、運行会社のアリーヴァ・トレインズ・ウェールズや沿線自治体が用いている線路名称。

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跨線橋から見た終着駅
右の線路は標準軌のコンウィ・ヴァレー線
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(左)線路幅は倍以上違う(597mmと1435mm)
(右)構内踏切を渡れば町の中心部へ
 

ただ、利用実態は、コンウィ・ヴァレー線が地元の一般客、FRはほとんど観光客で、まったく異なっている。そのため、時刻表上も相互連絡しているとはいいがたく、この日もFRの列車が滞在中、隣のホームに標準軌の気動車は現れなかった。

実はFRに並行するポースマドッグとの間には路線バス(1B系統、下注)が1時間ごとに走っており、コンウィ・ヴァレー線に接続しているのはそちらのほうなのだ。一時は狭軌の伝統が途絶した鉱山町に、今は再びナロー蒸機の鋭い汽笛がこだまするようになった。せっかく便利な乗車券もできているのだから、うまく周遊旅行が組めるように、鉄道各社も協調してくれるといいのだが。

*注 Express Motors http://www.expressmotors.co.uk/ が運行。

次回は、コンウィ・ヴァレー線を北上して、スランディドノへ向かう。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Ffestiniog Railway, A Traveller's Guide" Ffestiniog Railway Company, 2016および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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