ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II
第一次世界大戦の戦後処理では、ベルギーが最後まで主権の行使にこだわったフェン鉄道だが、その後どのように使われたのだろうか。
レートゲン(レートヘン)駅、ザンクト・フィート方向(2008年) Photo by Les Meloures at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
まず軍用面では、荷主がベルギー軍に代わったものの、ドイツから接収したエルゼンボルン Elsenborn 演習場に向けて、最寄りのズールブロット Sourbrodt 駅まで、軍用列車が引き続き運行された。ズールブロットから3km離れたキャンプまでは、軌間600mmの道端軌道が延びていた。また、これまでと違って、貨物列車がオイペン Eupen 方面から来るようになったため、ラーレン Raeren 駅での折返しの手間を省く目的で、同駅西方に駅構内をバイパスする連絡線が設けられた。
1919年以降のフェン鉄道と新国境線 |
その一方、産業鉄道としての役割は、大戦後の国内外における情勢の変化のために大きな打撃を受けた。そもそも鉄道が通過する地域はほとんどが山間部で、域内の輸送需要は限られている。主要顧客は、北と南の鉱工業地帯を発着する通過貨物だった。ところが南部では、ロレーヌ(ロートリンゲン)がフランスに返還されてしまい、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱して、フランスへの依存を強めていった。何度も税関を通らなければならない貨物輸送は、とうてい現実的ではなかった。1926年には優良顧客であったアーヘン郊外ローテ・エルデ Rothe Erde の製鉄所も閉鎖された。
1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招くことになった。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のために迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、ラーレン以南の単線化に踏み切った。
1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー再占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行権も同年6月にドイツ国営鉄道 Deutsche Reichsbahn の手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。30年前の事態の再来だった。
ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。しかし結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設が甚大な被害を蒙った。中でも鉄道橋は、1か所を残してすべて通行妨害の目的で壊されたといわれる。
破壊された高架橋(ビュートゲンバッハ付近) Photo from wikimedia |
ドイツ軍の撤退後、順次復旧工事が進められたものの、運行再開は1947年までずれ込んだ。また、トンネル内部が崩壊した南のロンマースヴァイラー Lommersweiler ~ロイラント Reuland 間や、1910年代に軍事目的で建設された一部の支線は放棄され、二度と列車が走ることがなかったのだ。
◆
産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道であるが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。自動車が陸上交通の主流となった1950年代以降、地方の鉄道路線に降りかかった運命はどれも似たようなものだ。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。
飛び地を従えたラーレン~カルターヘルベルク Kalterherberg 間では、定期の旅客列車はついに設定されなかった。貨物列車のほうは、各駅を回る便が週3回のペースで細々と存続した。レートゲン(レートヘン)Roetgen で材木や肥料が、ランマースドルフで調理用ストーブ工場からの製品が積出されるなど、控えめながら安定した物流が残っていたのだ。ベルギー軍もまた、演習場最寄りのズールブロットを発着する軍用列車を走らせていた。
1974年に発効した両国間の新たな協定では、この区間で貨物の取扱いを引き続き実施することが確認される一方で、旅客列車の運行は特別な場合に限定された。すなわち、双方に定期旅客輸送を復活させる意思がないことを前提に、1922年の合意事項を簡素化したのだった。
しかし、この協定の効力も長くは続かなかった。線路状態の劣化がかなり進行しており、ベルギー国鉄SNCBが、今後の運行継続は困難であると表明したからだ。ズールブロットへの軍用列車は南回りで代替することになり、1988年8月限りで運行を終えた。民生用の定期貨物も1989年6月限りで姿を消した。そして1990年、用済みとなったラーレン~ズールブロット間の土地施設は、国鉄から地元自治体に移管されてしまった。
すでにウェーム Waimes(ヴァイスメス Weismes)から南の区間は1982年までに廃止済みで、1986年に線路も撤去されていた。この結果、フェン鉄道「本線」の営業は、後述するラーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポン Trois-Ponts 方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmの断片と化してしまった。
なお、この時点でラーレン以北が廃止を免れた理由は、別の役割が与えられていたためだった。ベルギーのアントヴェルペン Antwerpen 港に陸揚げされ、ドイツに運ばれる大型軍用車両などの例外的な貨物の通路としての役割だ。ベルギーからアーヘンに至る路線は別に2本あるのだが、どちらも両国国境の下をトンネルで抜けており、大型貨物は建築限界に抵触するため通行が不可能だった。そこで、遠回りにはなるがトンネルのないフェン鉄道が利用されていたのだ。
しかしまもなく、2本の別ルートのうち、モンツェン Montzen ~アーヘン西駅 Aachen West ルートにあるボッツェラールトンネル Botzelaer Tunnel(ドイツではゲンメニッヒトンネル Gemmenich Tunnel と呼ぶ。長さ870m)で改良工事が開始された。もともとトンネル内部は複線だったが、アーヘン方向のみ、天井の高い中心部に寄せて、特殊貨物専用の第3の線路が増設されたのだ。
この4線軌条化により、トンネル内部は6本のレールが並ぶ一種のガントレット(単複線)になった。トンネルの入口に第3の線路への分岐があり、ここから列車が進入すると、通行に支障する対向の線路には停止信号が出る。1991年にこの施設が完成したことで、オイペン~ラーレン~国境間もまた存在理由を失ってしまった。
ボッツェラールトンネルの4線軌条 |
ボッツェラールトンネル (左)ポータルの直前で左の線路から特殊貨物用線路が分岐 (右)内部は6本のレールが並ぶ Photo by Wi1234 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
フェン鉄道廃止年表(北からルート順に記載)
・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ブラント Brand :1984年8月31日
・ラーレン Raeren ~ズールブロット Sourbrodt :1989年6月30日
・ズールブロット Sourbrodt ~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes):2007年1月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1982年9月28日
・ザンクト・フィート~ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~シュタイネブルック Steinebruck :1954年
【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー~ロイラントReuland:1944年
・ロイラント~トロワヴィエルジュTroisvierges:1962年
【支線】
・シュトールベルク=ミューレ Stolberg-Mühle ~ヴァールハイム=シュミットホフ Walheim-Schmithof :1991年6月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :2007年1月1日
なお、日付は最後の営業日、運行廃止日、法的廃止日が混在している可能性がある。
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飛び地を巡るルートは、これによって永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せるシンボルになることだった。国鉄による路線廃止の意向を受けて、ベルギーのドイツ語共同体を包括する地方政府が、保存鉄道への転換を図ろうとしたのだ。
欧州地域開発基金 ERDF からの交付金を得て線路が再整備され、1990年からベルギーのフェン鉄道協会 belgische Vennbahn V.o.E. の手で、観光列車の運行が開始された。5月から10月の日祝日に、国鉄の定期旅客列車が通じているオイペン Eupen を始発駅として、ラーレン、ヴァイヴェルツまで進み、東のビュリンゲン Büllingen もしくは西のマルメディ、トロワ・ポン Trois-Ponts に達するコースだった。ディーゼル機関車のほかに蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。1994年にはドイツ側のフェン鉄道協会 deutsche Vennbahn e.V. によるシュトールベルク Stolberg ~ラーレン~モンシャウ間の運行も始まった。
ところが、沿線にあったプロイセン時代の地下坑道の崩壊で、路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、協会の資金不足も手伝って、2001年をもってこのイベントは幕を閉じる。その後しばらく鉄道施設は放置されていたが、2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク RAVeL, Réseau autonome de voies lentes に組み込むことが発表された。
こうして、時代に翻弄され続けたフェン鉄道の苦難の歩みは、過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。すでにラーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。
一方、カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、現地でレールバイク Railbike と呼ぶ軌道自転車(ドライジーネ Draisine)を使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。
レールバイクが並ぶカルターヘルベルク旧駅 Photo by L.1951a at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。記事では、Bernhard David "Die Vennbahn", Lokrundschau #195, pp.46-51、および参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版、フランス語版の記事(Vennbahn, Vennquerbahn)を参照した。
■参考サイト
Vennbahn Online http://www.vennbahn.de/
The Vennbahn: Belgium’s railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
Eisenbahnen in Aachen und der Euregio Maas-Rhein
http://www.vonderruhren.de/aachenbahn/
Vennbahn.eu http://www.vennbahn.eu/
Rail Bike des Hautes Fagnes http://www.railbike.be/
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