« ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II | トップページ | メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って »

2016年12月11日 (日)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

見る者を圧倒するような大峡谷といえば、アメリカのグランド・キャニオンがまず思い浮かぶだろう。ところが、お隣のメキシコには、それさえ凌ぐほど広大で深く刻まれた谷があるという。スペイン語でバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(下注)、英語でコッパー・キャニオン Copper Canyon と呼ばれるその地形は、同国北西部、西シエラマドレ山脈 Sierra Madre Occidental がカリフォルニア湾岸の低地に臨む一帯に広がっている。

*注 バランカ・デル・コブレは複数の峡谷(エル・コブレ El Cobre、ウリケ Urique、シンフォローザ Sinforosa、バトピラス Batopilas、オテロス Oteros など)の総称でもある。原語が複数形(バランカス Barrancas)なのはそのため。

Blog_elchepe1
バランカ・デル・コブレの展望
ディビサデロにて
 

今回取り上げるチワワ太平洋鉄道(チワワ・パシフィック鉄道)は、その峡谷を一望できる展望台が第一のセールスポイントだ。しかしそれだけでない。鉄道自体が、中央高原と太平洋を直結する使命を背負い、険し過ぎてまともな道さえなかったコッパー・キャニオンの横断に挑んでいる。その結果、標準軌としては世界屈指の山岳鉄道が出現した。これから2回にわたって、驚異の路線の来歴と変化に富んだルートを紹介したい。

Blog_elchepe2
奇岩が空を限るセプテントリオン谷
Blog_elchepe3
路線最長のフエルテ川橋梁

チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)は、メキシコ高原北部のチワワ Chihuahua(下注)とカリフォルニア湾に臨む天然港トポロバンポ Topolobampo を連絡する673.0kmの路線だ。名前が長いので、現地では、チワワとパシフィコの頭文字(ChとP)を取って「エル・チェペ El Chepe」と呼ばれる。

*注 チワワは州名でもあるので、区別するときはチワワ市 Ciudad de Chihuahua(英訳 Chihuahua City)と書かれる。ちなみに犬種のチワワは当地方が原産。

今でこそ国内で完結しているが、本来の構想ははるかに壮大だった。1880年にメキシコ政府の承認を受けた計画は、アメリカ中央部から太平洋岸を目指す大陸横断鉄道だったのだ。それを引き継いだのが、鉄道経営者のアーサー・エドワード・スティルウェル Arthur Edward Stilwell で、1900年にカンザスシティを起点に、プレシディオ Presidio(オヒナガ Ojinaga)で米墨国境を越えてトポロバンポを終点とする総延長2,670kmの鉄道建設を開始した。

当時、スティルウェルは経営していた別の鉄道が破産して失意の底にあったのだが、励ましのために誘われたパーティーで、集まった人々を前にこの計画を打ち明けた。北米大陸の地図に紐を当てながら、彼は、このルートこそ太平洋への最短距離であることを人々に納得させたという(下図参照)。

Blog_elchepe_map1
スティルウェルの大陸横断鉄道構想を赤のルートで示す
黒のルートは競合する大陸横断鉄道(の一部)
 

設立されたカンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道 Kansas City, Mexico and Orient Railway が、線路の建設を進めていった。メキシコ国内では、1907年に峡谷の東の入口クリル Creel に達した。しかし、その先は険しい地形に阻まれて着工の見通しが立たなかった。アメリカ国内でも、サザン・パシフィック Southern Pacific など他の大陸横断鉄道が、競合を懸念して陰で妨害していたと言われる。さらに1910年にメキシコで政変が起きると、沿線で破壊行為が頻発して、不通個所が拡大していく。運賃収入が急減した会社は、結局、計画未完のまま、1912年に倒産してしまった。

その後、経営体はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway を含めて何度か交替するものの、クリル以西の延伸については長らく手付かずのままだった(下注)。1940年に鉄道が国有化されたことで、ようやく翌年から国営事業として工事が再開されることになる。

*注 アメリカとメキシコ区間の接続も遅れ、最後の空隙だったアルパイン Alpine から国境のプレシディオ Presidio の間は1930年に完成している。

海側では、線路がすでにエル・フエルテ El Fuerte の先まで延びていたので、クリルとの間に残されていたのは約280kmに過ぎなかった。ただし、一方は海岸低地、一方は山脈の肩に位置しており、標高差は2,300m以上もある。そのため、後で見る通り、2点をつなぐルートは非常に複雑で、足掛け20年にわたる長期の工事となった。ルイス・コルティネス Ruíz Cortines 大統領臨席のもと、国民待望の開通式が挙行されたのは1961年11月24日で、最初の構想から実に80年の長い時を経て、峡谷を越える新たな交通路が日の目を見たのだ。

地下鉄とライトレールを除くと、今やメキシコで定期旅客列車を運行しているのは、この鉄道が唯一だそうだ。それで「チェペトレイン(スペイン語でトレン・チェペ Tren Chepe)」は、峡谷を訪れる観光客はもとより、地元住民にとっても大切な交通手段になっているらしい。2015年のダイヤによれば、旅客列車はチワワ~ロス・モチス Los Mochis 間653.1kmで、プリメラ・エクスプレス Primera Express(1等急行) が毎日1往復、クラセ・エコノミカ Clase Económica(普通列車)が週3往復設定されている。

Blog_elchepe4
目立つロゴを配したチェペトレイン
Blog_elchepe5
ロス・モチス駅の出札窓口は列車別
 

1等急行でも朝6時の出発で、終点に到着するのは夜の20時半から21時前という所要14~15時間の長旅だ。そのため、ハイライト区間のみを利用するツアー客が多い。一方、普通列車は、地元住民のために主要駅のほか50以上あるフラッグストップでも乗降を扱い、乗り通すなら1時間ほど余計にかかる。どちらも途中のディビサデロ Divisadero で、乗客が峡谷の眺望を楽しめるよう、15~20分の長い停車がある。

1等急行の編成は、定員64人の空調つき客車2~3両と食堂車1両だ。普通列車も同じ収容力の客車を使うが、食堂車は付随せず、代わりに売店がある。1等急行の運賃は普通の2倍近くするのだが、食事代は含まれておらず、普通に対する優位性はあまり高くない。それで普通列車のほうに人気が集まり、選択肢が1等しか残っていないこともしばしばある、と旅行書ロンリー・プラネットは注意を促している。

Blog_elchepe6
1等急行車内
(左)リクライニングシートが並ぶ客車
(右)食堂車は木を使った暖かみのある内装

そのチワワ太平洋鉄道のルートだが、通過する地形を基準にすると、大きく3つに区分できるだろう。チワワ側から言えば、一つ目はチワワ~クリル間、メキシコ高原から西シエラマドレ山脈の東斜面をゆっくり上っていく約300kmだ。乾燥した盆地といくらか潤いのある溪谷が交互に現れ、その間に標高は1,400mから2,400mまで上昇する。

当区間は開通が1907年と早かったので、国営化後に路盤改良やレールの重軌条化が施工されており、線形を良くするために一部でルート変更も行われた。中でも規模の大きなものは、クリルの手前(東方)に造られた長さ1,260mのコンチネンタルトンネル Túnel Continental だ。旧線は、大陸分水嶺でもあるこの峠を25‰勾配と数か所のオメガループで乗り越えていたが、新トンネルの完成により勾配は20‰に緩和、距離も約3km短縮された。

Blog_elchepe7
第一区間は高原に広がる盆地と渓谷が交互に現れる
Blog_elchepe_map2
1:1,000,000(100万分の1)地形図で見る
チワワ太平洋鉄道のルート
第一区間のうち、チワワ~サン・ファニート
太字の駅名は1等急行停車駅
 

二つ目は、最終開通区間とも重なっている。クリルを出発して、山脈の西斜面を滑り降り、路線最長の橋梁でフエルテ川を渡るまでの約220kmだ。ここで鉄道は、スパイラル(日本でいうループ線)やテモリス Témoris にある3段ループ、さらには多数のトンネルと橋梁を連ねて、地形の障壁に立ち向かう。ディビサデロでの眺望チャンスを含めて、全線のハイライト区間であるのは疑いない。

下の地図でわかるとおり、ルート設定は非常に巧妙だ。鉄道を敷くには険しすぎるコッパー・キャニオンの本体には、実は一度も足を踏み入れていない。クリルからは、まず南西へ延びる尾根の上をたどる。それから、比較的浸食度が浅いセプテントリオン川 Río Septentrión の谷にとりつき、この中を終始下りていくのだ。貨物列車の走行を考えると、線路勾配は最大でも25‰に抑える必要がある。そのため、急流部では高度を稼ぐために何度も折り返しているのだが、それでもコッパー・キャニオンの懸崖と格闘することを思えば、はるかに通過は容易だっただろう。

Blog_elchepe8
第二区間、テモリスの大規模ループを見下ろす
Blog_elchepe9
第二区間、峡谷の入口にあるウィテスダムの湖面
Blog_elchepe_map3
第一区間終端~第二区間:
サン・ファニート~フエルテ川橋梁
 

三つ目は、トポロバンポで最終的に海に出会うまで、太平洋岸低地を淡々と走る160kmの道のりだ。エル・フエルテまでは起伏のある灌木林を縫っていくが、その先は一面の平野が広がっている。なお、旅客列車はトポロバンポまでは達せず、20km手前の主要都市ロス・モチスが終点になる。

Blog_elchepe10
第三区間は、丘陵そして平野をひた走る
Blog_elchepe_map4
第三区間:
フエルテ川橋梁~トポロバンポ

以上3図は、米国国防地図局 DMA 発行 ONC H-23(1988年改訂)、H-22(1974年改訂)を使用
images from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

 

折しも海側ロス・モチスからチワワまで、山を上っていく列車の車窓写真を提供いただいた。それをもとに次回、チワワ太平洋鉄道の机上旅行を楽しんでみたい。

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 カナディアンロッキーを越えた鉄道-序章

« ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II | トップページ | メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って »

アメリカの鉄道」カテゴリの記事

典型地形」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II | トップページ | メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って »

2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

ACCESS COUNTER

無料ブログはココログ