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2016年6月 5日 (日)

コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産

5月5日は舞台を静岡県西部に移し、今は浜松市に含まれる天竜の交通土木遺産を訪ねる。風は終日強かったが、今日も好天に恵まれた。集合場所が西鹿島(にしかじま)駅だったので、私は東海道線の新所原(しんじょはら)駅から、天竜浜名湖鉄道(以下、天浜(てんはま)線)の単行気動車に乗って出かけた。この路線は、浜名湖の北側を回っていく。朝の光をきらきら撥ね返す湖面といい、線路際の木々がつくる濃緑のトンネルといい、車窓に展開する瑞々しい光景に心が洗われる。

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天浜線の気動車、二俣本町にて
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天浜線の車窓
(左)三ヶ日駅付近の湖面(猪鼻湖)
(右)都築駅に停車
 

西鹿島は、この天浜線と、新浜松から来る遠州鉄道(遠鉄)の連絡駅だ。堀さん、今尾さん、石井さん、相澤さん、外山さんがすでに到着して、道順を打合せている最中だった。後で木下さん親子も合流したので、私を含めて総勢8人。本日も堀さんの私的小旅行の位置づけなのだが、コンターサークル-S の公式行事となんら変わらない賑やかな旅になった。

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本日の集合場所、西鹿島駅
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1:200,000地勢図浜松(1981(昭和56)年編集)の一部に加筆
市町村名等は現在とは異なる
 

もともと堀さんが行くおつもりだったのは、都田川を渡る枕瀬橋(まくらせばし)だ。渓谷の中に素朴な木組みの橋が架かっているという。3台のクルマに分乗して、まずはそちらに向かった。

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枕瀬橋周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

西鹿島駅からは西へ10kmもない。車内で世間話をしているうちに、早や橋の入口、大平(おいだいら)地区まで来てしまった。この辺は河岸段丘上に人家と耕地が点在し、川は比高約30mの谷底を流れている。柿畑の脇に車を停めさせてもらい、クルマ1台がやっと通れる細い道を川の方へ降りていった。まもなく雑木が頭上にかぶさってきて、道はヘアピンカーブで向きを北に変える。段丘崖を刻んだ急な下り坂だ。木漏れ日が路面でちらちらと踊り、すでに水音が木立を通して耳に届いている。100mほど進んだところにその橋があった。

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枕瀬橋、西側から撮影
 

長さは40mほどだろうか。川面からコンクリートの橋脚がすっくと立ち、そのうえに木組みの桁が架かっている。見るからに安定感があるのは、おそらく各橋脚から斜めに延びて、桁をしっかり支えている頬杖(ほおづえ)材のせいだ。それが3つ並んで、緑の谷間に心地よいリズムを刻んでいる。

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(左)枕瀬橋側面
(右)橋桁を支える頬杖材
 

「床板に比べて欄干がやけに新しいですね」と私が言うと、堀さんも「写真ではこんな欄干はなかったと思いますが」。どうやらこれは最近の改修らしい。以前は流れ橋のように、足を踏み外さない程度のごく低い欄干だけだった。「ここは小学生のマラソンコースになっているらしいです」と石井さん。危険防止の目的としても、橋が醸し出していたはずの風情は半ば損なわれてしまった気がする。

吹き越す強風に帽子を飛ばされそうになりながら向こう岸に渡ると、橋のたもとに銘板が取付けてあった。意外にも建造は1986(昭和61)年3月と新しい。古い地形図にも描かれているから、もちろん架け直されたのだろう。「昔からあったとすると、こういう木組みの技術者はどこから来たんでしょうか」。今尾さんが答えて、「森林鉄道の橋梁にもこういう構造があります。ここから木曽にかけては林鉄の宝庫ですからね」。

谷間から段丘上の人家は全く見えない。都田川の豊かな流れとうっそうと茂る斜面林に囲まれて、深山の気配さえ漂う不思議な場所だった。

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(左)橋上から北望、うっそうと茂る斜面林
(右)同 南望
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橋のたもとで記念写真(左写真は外山さん撮影)

昼食を新東名の浜松SAでとり、午後は天竜区(旧 天竜市)へ移動して、付近の交通土木遺産をいくつか巡ることにした。

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二俣周辺の1:25,000地形図(2015(平成27)年3月調製)に、
訪れた地点を加筆
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上記地形図を2倍拡大
左円内:鳥羽山を穿った4本のトンネル
  (左から国道、歩道、鉄道、旧道=鳥羽山洞門)
右円内:周囲と異なる光明電気鉄道跡の斜め地割
  (道路と宅地の列)
 

一つ目は、国道152号線の鹿島橋(かじまばし)だ。浜松市のサイト「浜松情報Book」にはこう紹介されている。「1937(昭和12)年に完成した全長216.6m、幅員6mの当時としてはモダンなトラス橋。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス橋であり、全国的にも貴重な例」。カンチレバートラスというのは、橋脚から両側にトラスを延ばし(=カンチレバー、片持ち梁)、それで中央部の桁を吊る構造だ。これによって、スパンを長く取ることが可能になる。

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優美な姿が印象的な鹿島橋
 

場所は西鹿島駅のすぐ北で、山中を流れてきた天竜川が浜松平野にまさに飛び出そうとする位置に架かっている。「下流側には歩道橋があるので、本来の姿が見えにくくなっています」という外山さんのアドバイスで、私たちは上流側左岸に移動した。午後はこちらが順光になる。橋を渡っているときは気がつかなかったが、トラス橋なのに吊橋のような、クラシックで優美な姿に目を奪われる。堤防の上から全貌を、川べりから仰角で、とみな思い思いにカメラを向けた。

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直線の中に混じる曲線が建築美のポイント
 

東隣には、天浜線の鉄橋(天竜川橋梁、長さ403m)が並行している。こちらはよくある下路ワーレントラスなので、被写体としては平凡だ。「列車があれば絵になるんだがなあ」と念じたら、本当に列車が渡ってきた。

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天浜線の天竜川橋梁を列車が渡る
 

国道は鹿島橋を渡った後、直線で鳥羽山隧道に突っ込んでいく。しかしこれは1942(昭和17)年に開通したルートで、それまで街道は右にそれて、旧トンネルを通っていた。鳥羽山洞門という古めかしい名がついている。実は私は今朝、天浜線を二俣本町まで乗り越し、徒歩でこのトンネルを経由して西鹿島へ戻っていた。「クルマでも抜けられますよ」と伝えたものの、念には念を入れて、一番車幅の広い相澤号が先頭に立つ。内部は狭い歩道が切ってあるが、まったく問題なく通過できた。

反対側に出た後、クルマから降りて改めて観察する。トンネルは、1899(明治32)年の開通から120年近い歳月を耐えてきた。煉瓦造のポータルは表面が黒ずみ、一部は草生していて、扁額の文字ももはや読み取りがたい。内部もアーチの補強材が当てられて痛々しいが、中央部だけはオリジナルの煉瓦積みが露出していた。「雰囲気ありますね」「この煉瓦、今にも落ちてきそう」と、はしゃぐ声が洞内にこだまする。

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鳥羽山洞門
(左)北口ポータル、入口付近は補強材が入る
(右)中央部は煉瓦積みが露出
 

続いて、今尾さんの案内で天浜線天竜二俣駅へ向かった。駅の近くに、光明(こうみょう)電気鉄道の痕跡があるというのだ。天浜線(旧 国鉄二俣線)ができるより前に存在した私鉄で、東海道線の中泉(現 磐田)駅から天竜川左岸を北上し、光明村船明(ふなぎら)を当面の終点に見据えていた。1928(昭和3)年に田川、2年後に二俣町まで開通し、そのとき手前のこの位置に、阿蔵(あくら)駅を設けた(後、二俣口に改称)。しかし、投資に見合うだけの需要がなく、1935(昭和10)年にあっけなく廃止されてしまった。

下の地形図は、その光明電鉄の記載がある貴重な版だ。阿蔵駅以南では現在の天浜線と同じルートを通っているが、これは電鉄廃止後、2本のトンネルを含めて用地がそっくり転用されたからだ。ちなみに、鳥羽山をくぐるトンネルは鳥羽山洞門、その南の「天龍橋」は後に鹿島橋に代を譲ることになる1911(明治44)年開通の吊橋だ。また、遠鉄のかつての終点、遠州二俣駅は、現在の西鹿島駅より少し北に位置している。その東側は、分流していた天竜川の広い河原だったこともわかる。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図
(1930(昭和5)年鉄道補入)
 

昼下がりの天竜二俣駅構内は、がらんとして人気がなかった。西端には、そこだけ斜めの地割があり、数軒の住宅が建っている。南側からは宅地の土留め程度にしか見えないが、北側に回ると階段が続いているではないか。明らかにプラットホームの跡だ。光明電鉄の名は皆さん初耳だったようで、今尾さんが概要を説明する。「なんとか開通したものの、電気代が払えなくて送電を停められてしまったんです」。「短命の鉄道だったんですね。でも後世まで、電気代滞納って言われるのはかわいそう」と石井さん。

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がらんとした天竜二俣駅構内
左のキハ20と後ろのナハネ20(寝台車)は保存車両
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光明電鉄阿蔵駅の遺構
(左)舗装道が線路跡。左は一見、宅地の土留めのようだが…
(右)反対側(北)から見ると階段が残り、ホーム跡とわかる
 

この先で山の端を抜けていた短い阿蔵トンネルは民有地内で、見ることが難しいというので、別の路線、佐久間(さくま)線の跡へ回ることにした。こちらは一度も列車が走らなかった、いわゆる未成線だ。国鉄二俣線遠江二俣(現 天浜線天竜二俣)から飯田線中部天竜に向けて計画された路線だが、1980(昭和55)年の国鉄再建法で工事が中止され、開通は夢物語になってしまった。下の地形図は、まだ佐久間線が工事中だったころの版だ。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図
(1975(昭和50)年修正測量)
 

阿蔵川に沿って住宅街の道を遡ると、玖延寺の手前で、上空を佐久間線の立派な高架橋が横切っていた。光明電鉄に比べてこちらは比較的新しい遺跡だ。放置されて35年以上になるとはいえ、トンネルも築堤もしっかり残っている。草を踏み分けて南側の白山トンネルの入口まで行ってみると、フェンスで閉ざされているものの、微妙な空隙があった。廃トンネル探索の達人である石井さんと外山さんは、血が騒ぐらしい。「でも、きょうはコンターサークルなのでやめておきます」と二人で笑った。

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(左)佐久間線の築堤
(右)フェンスで閉鎖された白山トンネル北口
 

盛りだくさんの見学を終えて、朝出発した西鹿島駅に戻る。ここで解散。堀さんと私は遠鉄で新浜松へ、今尾さんは天浜線で掛川へ、あとの5人はそれぞれの車で帰宅の途に就いた。遠鉄の電車に乗るのは久しぶりだ。改札を入りながら、「遠鉄って名前は、遠いところへ行く感じがしますね」と私が言うと、「近鉄のほうが、よっぽど遠くへ行ってますよ」と、すかさず堀さんが混ぜ返した。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図二俣(昭和5年鉄道補入、昭和50年修正測量、平成27年3月調製)、伊平(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
浜松情報Book(鹿島橋) http://www.hamamatsu-books.jp/
ふじのくに文化資源データベース(鳥羽山洞門)
http://www.fujinokunibunkashigen.net/

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