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2016年5月18日 (水)

コンターサークル地図の旅-寒川支線跡

2016年ゴールデンウィークの「地図の旅」は、いつもと違う形で始まった。本日5月3日は、コンターサークル-S の行事ではなく、堀さんの私的小旅行という位置づけになっている。「興味と意志のおありの方はどうか御同道下さい」というのが、主宰を退いた堀さんの、メンバーに対する気遣いであることは百も承知しているが、ここではサークルの旅と同じ流儀で書くことをお許しいただきたい。

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寒川支線の線路が残る公園で

JR相模線寒川(さむかわ)駅11時42分集合、旧寒川支線(下注)の跡を歩く、というのが本日の行程だ。茅ヶ崎駅で東海道線から1番線の小ぢんまりしたホームに回ると、ブルー2色の帯を巻いた205系が停まっていた。

*注 正式には国鉄相模線(当時)の一部だが、「寒川支線」あるいは「西寒川支線」の通称で呼ばれていた。

相模線にはほとんど乗ったことがない。メモを繰ると1981年7月が最初で最後、もはや大昔の話だ。この路線の電化はかなり遅くて1991年だから、まだキハ35系あたりがガーッと轟音を振りまいて走っていた時代だ。茅ヶ崎までの間、何を思っていたかは覚えていないが、ユーミンの「天気雨」を口ずさみながら、ディーゼルカーに揺られてきた淡い記憶がある。

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(左)茅ヶ崎駅1番線で発車を待つ
(右)寒川駅到着
 

今や往時をしのばせるものすらない電車の車内に、堀さんの姿を見つけた。「廃線跡の旅なので、来ないわけにはいきませんでした」と、まずご挨拶する。寒川まではほんの8分、車窓をゆっくり眺める間もなく到着だ。ここも立派な橋上駅に改築されている。改札を出たところで、石井さんが待っていてくれた。

コンコースの腰壁には、タイミングのいいことに、「茅ヶ崎-寒川間開通95周年の歴史」と題した写真パネルが展示されている。寒川の木造駅舎や懐かしいディーゼルカーの交換風景の傍らに、これから行く西寒川駅が現役だった頃の写真もあった。

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寒川支線の現役時代をしのばせる写真パネル
 

現在のJR相模線は、相模鉄道が1921(大正10)年に開業した茅ヶ崎~川寒川間6.4kmがルーツだ。翌1922年に、相模川から採取する砂利の運搬を目的に、寒川~四之宮間で1.9kmの支線が開業した。これがいわゆる寒川支線となる。本線の方は1926(大正15)年から順次延伸され、1931(昭和6)年に橋本まで全通している。

以来、支線では貨物だけを扱っていたが、沿線の軍需工場へ作業人員を輸送するために1940(昭和15)年から旅客営業を開始した。1944(昭和19)年には、四之宮駅の廃止統合に伴って、西寒川が終点になる。旅客輸送は戦後いったん中断したものの、1960(昭和35)年に再開され、国鉄末期の合理化策で1984(昭和59)年3月末限りで廃止されるまで、細々と続けられたのだ。

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寒川駅構内の支線跡
(左)西側は更地化
(右)東側は側線と車輪が残る
 

高架駅舎の窓から見下ろすと、相模線の線路の南側に、草生した細長い空き地が延びている。東半分は草に埋もれているが、使われていない側線も見え、これが寒川支線の痕跡なのは疑いない。地上へ降りてみると、一部アスファルトで固められたレールの上に、ぽつんと1対の車輪が置いてあった。片付けるのを忘れるはずはないから、何かの記念物だろうか。

一行3人で、西へ歩き出す。今日はやや強い風が吹いている。湿度も高めで、歩くと汗ばんでくるが、足を止めるとちょっと寒い。駅構内の終端は大山踏切で、ここでも線路の南側に空地が残っていることを確認した。せっかくなら線路跡を歩きたいが、鉄道用地だし、片方向20分間隔で電車が来るからそうもいかない。踏切の先でも、立ち並ぶ民家が線路の眺めを遮っていて、堀さんはもどかしそうだ。

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寒川~西寒川間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
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寒川支線現役時代の1:25,000地形図
1976(昭和51)年改測
 

産業道路(県道46号相模原茅ヶ崎線)と立体交差するところで、ようやく線路に出会えた。寒川支線はここで本線と分かれる。支線自体、左へカーブしているけれども、地図の上では、本線のほうが反向曲線で無理やり離れていくようだ。「寒川支線の方が本線に見えますね」と私が言うと、「もともと砂利を運ぶために造ったようなものですから」と堀さん。

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(左)支線分岐点。本線は右へ、支線は左へ
(右)大門踏切を隔てて寒川神社の社森と鳥居が
 

大門踏切の向こうに寒川神社に続くこんもりとした社森と、それに半分隠れるようにして一の鳥居が見える。相模国の一之宮まではまだ1kmもあるのだが、早やここから参道が延びているとは知らなかった。残念ながら寒川支線はそれに背を向けるように、南西へ向かう。

大門踏切前交差点の南側は、どの地形図でも廃線跡が消失したように描かれている。しかし、現地には「ゲート広場」と記されたミニ公園があった。二方を道路に挟まれた三角形の小区画だ。ゲートというのは大門にあやかったか、あるいは緑道の門という意味なのだろうか。

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(左)緑道の手前にゲート広場
(右)一之宮緑道入口
 

というのも、ここから長さ900mにわたって、廃線跡を転用した一之宮緑道が始まるからだ。一之宮はこの付近の地名だ。廃線跡を自転車道にする例は多いが、ここは緑道と称するだけあって、カツラの並木とツツジの植栽が施されている。舗装もアスファルトではなく、インターロッキング仕様だ。歩いているのは私たちだけだが、自転車はよく通るし、子どもたちの遊び場にも使われていた。「こういう整備された廃線跡はお好きですか」と堀さんに聞くと、「好きというより、この線には乗ったことがあるので、来てみたかったんですよ」との答。

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(左)クルマの来ない緑道は子どもたちの遊び場
(右)公園入口を限る車輪のオブジェ
 

堀さんは、昔から寒川支線に興味をひかれていたらしい。『地図から旅へ』(毎日新聞社、1975年)に収められた訪問記は、次の文章で始まる。「延長わずか1・5キロで、途中駅もないという超ミニサイズの上、終点の西寒川が一見、相模平野のまっただ中の、こんな短い線をわざわざ建設する必然性を疑わせるような、変哲のない場所であることが、そのゆえにいっそう私の好奇心をさそったのである」(同書p.168)

茅ヶ崎駅から乗った西寒川直通の列車で、車掌のアナウンスが行先をくどいほど繰り返すことに、堀さんは苦笑する。そればかりか寒川駅では車掌が車内に回ってきて、残っていた2人きりの乗客に「西寒川ですか」とわざわざ念を押したそうだ。終点に着くと、折返しまでの間、この親切な車掌と話が弾み、写真のポーズをとってもらうなど、心温まるひとときを過ごした。その記憶が、堀さんの心にひときわ深い印象を残しているに違いない(下注)。

*注 「地図の風景」関東編I 東京・神奈川(そしえて、1980年)にも寒川支線の記事がある(p.148「都市化のなかの超ミニ・過疎レール 西寒川」)。

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本日の記念撮影
 

緑道の中間部は一之宮公園という名で、住宅街の中の憩いのスペースになっている。入口に、レールの断片と一対の車輪がオブジェとして置いてあった。にぶく光る頑丈そうな車軸を「これ、本物かな?」と眺めていると、堀さんがやにわに腰を下ろした。顔を上げてにこりとしたところを、石井さんがすかさず写真に収める。

公園内には、緩くカーブした線路が200mほど残されている。レールの継ぎ目や朽ちかけた枕木からして、もとからあった線路のようだ。「枕木に埋め込んである輪っかは何のためですか」と石井さんが尋ねる。堀さんも私もさんざん線路を見てきたはずだが、妻面に見える鉄製の輪のことは知らなかった。後で石井さん自ら調べたところでは、割れ止めリングといって、枕木が乾燥して割れて、レールを固定した犬釘が浮いたりするのを防ぐためのものだそうだ。

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(左)案内板も駅名標風に
(右)草取り作業お疲れ様です
 

その枕木を文字どおり枕にして、猫が一匹まどろんでいた。カメラを向けると、逃げ出すどころか、撮ってと言わんばかりに起き上がってポーズをとる。そろそろお昼どきだ。「ここらで休憩しましょう」とめいめい持参の昼食を広げた。すると、さっきの猫に続いて数匹の猫が興味深げにこちらへ近づいてくる。近所では見かけない顔ぶれだから、様子を窺いに来たのかもしれない。突然、上空で厚木基地のほうへ向かう軍用機が爆音を轟かせて、昼下がりの静寂を破った。

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朽ちかけた枕木を枕がわりに
 

緑道は、あと500mほど住宅街を走ったあと、小さな公園に突き当たって終わる。八角広場という名称は、中央にある噴水池にちなんだようだが、残念ながら噴水はもう出ておらず、浴場の廃墟のような不思議な雰囲気を醸し出している。ここが西寒川駅の跡だ。線路の断片が同じように残され、その延長線上に、「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の大きな碑があった。駅ができた訳を伝えているのだ。

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(左)緑道後半は住宅が両脇に迫る
(右)終点手前の踏切跡
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(左)八角広場が緑道の終点
(右)西寒川駅跡を示す碑
 

「地図の風景」に、堀さんが撮影した当時の駅の写真が載っている。現実と見比べようとしたが、面影がどこにもなく、同定すらままならない。「ホームはレールの東側に一面あるだけで、西側はレールのすぐわきから雑草が伸び放題に伸び、あちこちに水たまりのある人かげのない空地が、それに続いていた。」(「地図から旅へ」p.172)。あれから40年が経ち、すっかり変貌してしまった西寒川駅跡は、堀さんにどんな思いを残しただろうか。

帰りは、八角公園前の停留所から、寒川駅南口行きのバスに乗った。通勤通学客のいない休日の午後とはいえ、乗客は私たちだけで、こちらもいささか心もとなかった。

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八角広場全景、右奥はバス停
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寒川~西寒川間の1:10,000地形図
緑色に塗られた区間が廃線跡の緑道
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図藤沢(平成18年更新、昭和51年第2回改測)、伊勢原(昭和48年修正測量)及び1万分の1地形図寒川(平成12年編集)を使用したものである。

■参考サイト
さむかわ さわやか ちょこっと ウォーキング http://samukawa-k.jimdo.com/

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