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2015年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

秋のコンターサークル-S「地図の旅」最終日9月23日は、昨日の続きで旧中山道を番場(ばんば)宿から南へ歩き、摺針峠(すりはりとうげ)を越える。

「此嶺の茶店より直下(みおろ)せば、(中略)湖水洋々たる中にゆきかふ舩(ふね)見へて、風色の美観なり」(木曽路名所図会 一坤より)。摺針峠は、中山道で江戸を発って以来、初めて琵琶湖と対面できる展望台だ。景勝の地としてつとに知られ、広重の作「木曾街道六拾九次、鳥居本」(下図参照)にも、望湖堂なる茶屋本陣の前で、帆掛け舟の浮かぶ内湖や琵琶湖の眺望を愛でる様子が描かれた。私たちもにわか旅人となって、「風色の美観」を体験してみたいと思っている。

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歌川広重「木曾街道六拾九次 鳥居本」
画像はWikimediaから取得
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kisokaido63_Toriimoto.jpg
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番場~鳥居本間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)
 

米原駅10時25分の集合時刻には、昨日も参加した堀さん、相澤さん、外山さん、私に加えて、出山さんが遠路駆けつけた。米原駅東口のタクシー乗り場に行くと、1台しか停まっていない。総勢5人なのでもう1台呼ぼうとしたら、運転手氏が「前に2人乗れますからどうぞ」。なんと前部座席にも3人掛けられるクルマだった。

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番場宿でタクシー下車
堀さん、出山さんはそのまま先回り
 

出山さんが堀さんをエスコートして車で摺針峠に先回りし、残りの3人は番場の四つ角で降ろしてもらった。きょうもいい天気で、陽射しは暑いくらいだ。中山道62番目の宿場町だった番場は、鉄道が通らなかったため、明治以降衰退してしまった。本陣や脇本陣の位置は民家の庭先に立つ小さな石碑が教えるだけで、もはや宿場の面影は残っていない。広めにとられた道幅だけが、往時の隆盛をしのばせる。

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中山道分間延絵図に描かれた番場宿
(番場宿碑のパネルの一部を撮影、原図は東京国立博物館所蔵)
 

左手に、史蹟蓮華寺(れんげじ)と彫られた石塔があった。「瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場」と、看板の宣伝文句もにぎにぎしい。タクシーの運転手さんがしきりに勧めていたのを思い出し、私たちも立ち寄ることにした。寺は左に入った道のどん詰まりにあるのだが、街道からはよく見えない。というのも、名神高速道路の高架と防音壁が寺のすぐ前を横切り、眺めを遮断しているのだ。これでは情緒も風情もあったものではない。昨日の醒井でもそう思ったが、無茶なことをしたものだ。

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(左)道幅の広い東番場
  左端に本陣跡の碑、遠方の信号が四つ角
(右)蓮華寺入口、寺は名神の高架に遮られて見えない
 

名神をくぐると、ようやくモミジの古木にかしずかれた立派な勅使門が視界に飛び込んできた。相澤さんいわく「表塀の筋壁は格式を表していて、黄色の地に白筋5本というのは位が高いんです」。なるほど案内板の記す由緒には、聖徳太子の開基と伝え、花園天皇より菊の紋を下された、とある。横口から境内に回ると、気配を察して受付役の男性が出てきた。足もとの溝を指して、「この線から内側は有料ですので」。先を急ぐ私たちは一線を踏み越える余裕を持たなかったが、それでも何かと質問に答えてくれたこの方には感謝しなくてはいけない。

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蓮華寺勅使門
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(左)蓮華寺境内で話を聞く
(右)小川を渡ると西番場(もとの番場宿)、道幅が狭くなる
 

街道が小川を渡っても、まだ家並みは続いている。実は今通ってきたのは、米原湊が開かれてから造られた集落、東番場で、橋より上手の西番場と呼ばれる一帯が、それ以前の古い宿場があったところだ。道幅が心持ち狭くなり、どことなく鄙びた雰囲気が漂い始める。

右手に、北野神社の額を掲げた鳥居と参道が現れた。「地形図に載っている130.0mの水準点は、たぶん境内のどこかにあるはずです」。昨日の要領で探すまでもなく、それは本殿の脇に見つかった。マンホールで隠されるどころか、標石は剥き出しで、その前に一等水準點と彫られた平たい石板まで埋めてある。「これは収穫ですね」と3人で頷き合う。本殿の反対側には、大人二抱えもあるような切株が残されていた。今はあっけらかんとした境内だが、かつては大木が陰をつくるお社だったのかもしれない。

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(左)西番場の北野神社
(右)剥き出しの水準点標石
 

家並みが途切れたところで、名神の築堤が広くもない谷の真ん中に進出してきて、中山道は隅に追いやられる。高速道路建設のために移設されたのだ。谷が深まり、田んぼが消えたところで、また水準点の標識があった。獣避けのフェンスを隔てた丈の高い草むらの中だったが、藪漕ぎには慣れている外山さんが果敢に飛び込んだ。道をつけてもらって近づくと、建設省国土地理院の樹脂製プレートが埋め込まれた現代風の標石だ。四方を自然石で固めている。「これも名神建設のときに移転させられたのじゃないかな」と相澤さん。

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(左)名神築堤下の草むらに埋もれた水準点
(右)樹脂製プレートが埋め込まれた標石
 

街道はこれから小摺針峠(こすりはりとうげ)にかかる。築堤の際をずんずん上り始め、まもなくクルマがひっきりなしに行き交う高速道路の路面レベルを越えた。名神はこの鞍部をざっくり切通したうえで覆道化している。名称も、小摺針などという風流さとは程遠い「米原トンネル」だ。中山道の付替え道路はその直上を越えていく。谷底を上る間は風もなく暑かったが、峠の上には涼やかな風が吹き通っていた。クルマの走行音が響いてさえなければ、気持ちのいいハイキングコースなのだが。

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小摺針峠
(左)峠への上り坂
(右)車が行き交う谷間を下っていく
 

坂を下り、名神が左カーブで次第に遠ざかるところに、道標の立つ三叉路がある。中山道は右に折れ、すぐにまた摺針峠の急坂にさしかかる。坂下の小集落の入口で、磨針(すりはり)一里塚跡のささやかな石碑を見つけた。用字の異なる磨針の地名には、由来譚が伝わる。或る書生がいた。京都で学問が成就せず、失意のまま帰郷しようとこの地まで来たとき、斧を磨いている老婆を見かけた。聞けば、大事な針を折ってしまったので、磨いて針にするとの答え。書生は大いに感じ入り、京に引返して苦学を続け、ついに学問を究めたというのだ(下注)。

*注 この説は、今井金吾「今昔中山道独案内」(日本交通公社出版事業局, 1976年, p.332)に、日本名勝地誌の引用として記されている。同書によれば「地元ではこの書生を弘法大師とし、この老媼を神として祀ったのが摺針明神であったという」。

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(左)磨針一里塚跡碑
(右)摺針峠の集落
 

十数軒の集落の先に、サミットがある。現在の車道は峠を掘り割って勾配を緩めているが、その左側、一段の高みへ上っていく細道が旧道だ。元の峠の位置に、神明宮の扁額を掲げた石の鳥居が立っている。お社はささやかなものに過ぎないが、小高い境内に立つと確かに琵琶湖が見える。手前に広がる水田地帯も入江内湖を干拓したものだから、往時ははるかに眺めがよかったに違いない。

ここはぜひ展望写真を撮っておきたいところだが、あいにくフジテック社の背の高いエレベータ試験塔が、否応なしに視界に入ってくる。名神と言い、この高塔と言い、どうも旧街道の景観を壊す構築物が多すぎる。何とか写り込まないようにズームで撮影したのが下の1枚だ。それから、先客の夫婦に倣って境内のベンチに腰をおろし、少し遅めの昼食をとった。

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(左)摺針明神(神明宮)の鳥居と境内
(右)摺針峠の今。右の鳥居前を通る小道が旧道
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摺針明神から琵琶湖を望む
手前の田園はかつての入江内湖
 

先行している堀・出山ペアから、相澤さんの携帯に、峠下で休んでいる旨の連絡が入った。「わかりました。今からそちらへ向かいます」。摺針峠から麓へは、高度差約80mを一気に下らなければならない。現在の車道は北西に突き出す尾根を回って勾配を緩和しているが、昔はほぼ直降していた。その跡とみられる小道が残っている。上るのは大変そうだが、私たちは降りるほうだし、急斜面には親切にも手すりが付けられている。

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地形図で見る摺針峠
(左)並木を伴う旧道が描かれる(1893(明治26)年測図)
(右)現行図に旧道のルートを加筆(2011(平成23)年更新)
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(左)摺針峠のすぐ先で旧道は左の踏分け道へ
(右)標石亡失(?)の水準点
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摺針峠下の旧道を行く
 

下山の途中でまた水準点の標識に出会ったが、肝心の標石が見当たらない。昨日からさまざまな設置スタイルを観察してきたが、本体の亡失は予想外だった。探している時間はないので、通過。旧道は尾根を折り返してきた車道には合流せず、右側の谷底へまっすぐ降りていく。麓の旧道と新道が交差する地点で、ようやくお二人の姿を発見した。車道を下ってきたと聞いて、外山さんがカメラのモニターで旧道の状況を報告する。

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堀・出山ペアとようやく合流
 

摺針峠の実見で目的を果たした一行は、米原駅に戻るべく、最寄の近江鉄道フジテック前駅に向かうが、私だけ単独行を許していただき、一つ彦根方の鳥居本(とりいもと)駅をめざした。旧道はいったん国道8号に合流し、矢倉川を渡った後、また左へ分かれる。この道が大曲りする角にあるのが、赤玉神教丸本舗を名乗る有川家の豪壮な邸宅だ。往還の旅人が争って買い求めたという健胃薬は、今も商われているらしく、大きな暖簾が風にはためいている。京都方から来れば街並みの突き当りに見え、広告効果は抜群だ。

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鳥居本宿
豪壮な構えの赤玉神教丸本舗有川家
 

わざわざ鳥居本へ足を延ばしたのは、赤い三角屋根のファサードが愛らしい鳥居本駅舎を見たかったからだ。無人化されて久しく、施設も老朽化が進むが、駅としてはいまだに現役だ。新幹線電車が高架線を高速で行き交う傍らで、古色を帯びた駅舎はひとり悠久の時を刻んでいるように見えた。

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近江鉄道鳥居本駅舎
(左)正面
(右)玄関と待合室
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鳥居本駅
(左)南望、新幹線電車が通過
(右)米原行き電車が入線
 

緩くカーブしたホームでしばらく待つうちに、線路を覆う雑草をかき分けるようにして、青い塗装の米原行電車がやってきた。がらがらのロングシートに腰を下ろす。次の停車はフジテック前駅、堀さんたち一行がこの電車の到着を待っているはずだ。天気に恵まれ、メンバーにも恵まれた4日間の歩き旅に、そろそろ終わりの時が近づいている。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根(明治26年測図)を使用したものである。

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