コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
胡麻駅、223系の後ろは丸山 |
山陰本線二条発9時09分の電車で一路、山陰路へ。園部駅で2両編成の223系に乗換えると、後ろの車両に、堀さんと丹羽さんの姿があった。9月21日、コンターサークル-S「地図の旅」2日目は、京都府の胡麻(ごま)高原に、繞谷(じょうこく)丘陵と谷中分水界を見に行く。車窓はすっかり山里の風景になり、刈入れ時の近づいた稲穂が谷を淡い黄金色に染めている。
「クロスシートは旅の気分が出ますね。東日本ではロングシートばかりなので」。関西では、私鉄との競争もあって、枕木方向に座席を配置するクロスシート車が伝統的に優勢だ。223系は東海道・山陽線の新快速にも運用される花形車両で、背もたれを前後に動かせる転換式シートだから、乗り心地が悪いはずはない。しかし、ローカル線の宿命で園部以遠は単線になり、そこへ特急列車が割り込んでくる。途中の船岡駅ではそれに道を譲るために、長い停車時間があった。
一行、駅に到着 |
無人の胡麻駅に10時13分到着。山が低まり、谷が開けて、どことなく明るい雰囲気のある土地だ。駅舎の反対側は一面の田んぼで、その向こうに形の整った小山が見えている。一つ目の目標地形である繞谷丘陵、標高259mの丸山だ。地形図では、平たい谷に囲まれて周辺の山から隔離された文字どおりの丸い山だが、どうしてこのような地形ができるのだろうか。
曲流している川があるとする。流域の土地が隆起したり侵食基準面が低下して、川の侵食力が復活(=回春)すると、次第に曲流を反映した谷が形成されていく。これを穿入(せんにゅう)蛇行というのだが、蛇行が進むと、くびれた個所で川が短絡してしまうことがある。このとき、蛇行していた谷は干上がり、空谷と短絡した川の間に、切断され孤立した山脚が残される。この地形を、谷をめぐらす丘という意味で繞谷丘陵、あるいは還流丘陵と呼ぶのだ。もとは山脚だから不定形が普通で、丸山のようなきれいな形をしたものはむしろ珍しい。
ホーム跨線橋から見た丸山北面 |
胡麻駅周辺の1:25,000地形図に、 3人で歩いたルートと、中央分水界を加筆 |
ホームから優美な山容を愛でたあと、次の目標に向けて歩を進めることにした。胡麻の町筋は駅から線路沿いに西へ延びているが、私たちは一本山手にある村の中の道をとった。少し歩くと学校らしき建物群が見えてくる。車道に面しているのはもと保育所の建物で、その後ろが胡麻郷(ごまごう)小学校の校舎だ。公園林と見紛う広い前庭があり、奥の正門まで、まるで神社の参道のように通学路が延びている。都会の新設校には真似のできない風格が漂っていて、「こんな路を毎日通えるのは羨ましいですね」と、丹羽さんと一緒にカメラを向けた。
前庭の奥にある胡麻郷小学校正門 |
道は緩やかな上りに差し掛かる。地形が、河岸段丘のへりから、畑郷川が造った扇状地に移行する徴しだ。地名も「駅前」から「新町」に変わる。さらに、家の造りにも特徴が表れてきた。茅葺の上に瓦の箱棟を載せた母屋はともかく、屋根を外壁から浮かせた土蔵など、あまり見たことのない造りだ。
栗の木が植わった畑の脇を通り過ぎた。落ちたいがが道まではみ出し、はじけた栗の実が転がっている。小道の向こうではソバの花が霞のように広がり、道端のコスモスが風に揺れる。のどかな村の秋景色だ。丹羽さんはグループで農園を造っているそうで、畑に植わっている作物に関心を寄せる。柿や栗だけでなく、太い蔓と葉で盛り上がった一角には、よく見るとキウイの実が生っていた。「ニュージーランドの特産と思っていましたが」と言うと、「ニュージーランドの気候は日本と変わりませんから」と堀さん。
(左)扇状地の緩い勾配 (右)屋根を外壁から浮かせた土蔵 |
(左)栗畑も収穫の季節 (右)道端にコスモスが揺れる |
今から見に行く谷中分水界というのは、連続する谷の中で水流の方向が変わる場所のことだ。谷が形成される時点では一方向に流れていたはずの水流が、地盤の隆起や傾動などを原因として、ある場所から先で逆方向に流れるようになることがある。また、或る川が、隣接する川の侵食などによって上流を奪われたとき(=河川争奪)も、下流とは流れの方向が一変してしまう。このように、川が自ら造った谷を素直に流下しないのは、地形として変則的だ。それで谷中分水界は、ファンの探究心をそそる主題の一つになっている。
胡麻高原の西端では、隣を流れる畑郷川との間に比高30~40mの急斜面が読み取れる。見たところこれは、いわゆる争奪の肱(ひじ、下注)のようだ。そして普通なら、奪われた川が胡麻川、奪った川が畑郷川で、争奪前にはその上流部が胡麻川へ流れ込んでいたと考えたいところだ。しかし、話はそれほど単純ではない。というのも、胡麻高原の幅は広いところで700~800m、例の繞谷丘陵の丸山も200mほどの幅がある谷を巡らせている。流域の狭い畑郷川ではいかにも力不足で、規模に見合うもっと大きな川が流れていなければならない。それはいったいどこへ消えたのだろうか。
*注 河川争奪により上流を奪った川は、その地点であたかも肱を曲げたように向きを変える。そのため、このような場所を争奪の肱と呼び、谷中分水界もその付近にできる。
丹波高地西部の河川流路の変遷 |
京丹波町を流れる質美川が、高屋川上流や畑郷川などを合わせ、胡麻を経由して南へ流れていたという説も唱えられたが、今ではそれとは違う、大規模な流路の変遷があったと考えられている(上図参照)。
研究論文(下注)によれば、その推定にあたって、胡麻川谷の河岸段丘に見られるいくつかの興味深い事実が手掛かりとなった。一つに、最上位の段丘面が、大堰(おおい)川上流から胡麻川沿いへ断続し、かつ胡麻川沿いでは南から北に向かって高度を減じること。二つ目に、この段丘面から採取された礫の傾き(=インブリケーション)が、すべて北を向いていること。三つ目に、当地域では園部川上流にしかない流紋岩の礫がこの段丘面で共通して発見され、しかもその径が北へ行くほど小さくなることだ。
*注 山内一彦「丹波高地西部、大堰川・由良川上流部における河川争奪とその原因」立命館地理学第14号, 2002, pp.17-35。上図は本論文の第9図(p.29)をもとに描いた。
これらの事実は、その昔、胡麻川谷で川が北流していたことを示している(上図1)。胡麻の幅広い谷も、大堰川の上流部や園部川の水を併せた大きな川(論文では古大堰川と呼ぶ)が造ったのだと考えれば、納得できる。では、なぜそれが今のような南向きに変わったのだろうか。
原因は、亀岡断層や殿田断層の活動が活発化して、南西側が沈降したことにあるという。現 大堰川の侵食力が増して北に進み(=谷頭侵食)、船岡で河川争奪を起こして園部川の流路を南に変えた。次いで、堆積が進んで湛水しがちだった古大堰川から溢れた水が、北進してきた大堰川へ流れ込むようになった。こうして40万年前頃、古大堰川は殿田付近で南(=太平洋側)に向きを変え、そのため東胡麻付近にいったん分水界が移った(上図2)。
分水界に隣接する胡麻高原では、南からの豊かな水流が途絶えた。すると、畑郷川が山から押し出す土砂が排出されなくなって扇状地化し、北への流れを塞いでしまう。胡麻高原は湖になり、丸山は湖上に浮かぶ島になった。この状態が進むと、やがて相対的に低くなった東胡麻側から水が溢れ出す。こうして16万年前頃に、胡麻高原全体が大堰川の流域となり、分水界はその西縁に移った(上図3)。その後、亀岡盆地の沈降の影響を受けて、園部川も南東に流路を変え、最終的に今の流路が定まったのだそうだ(上図4)。
結局のところ、畑郷川は河川争奪の当事者ではなかったらしい。その現象はもっと南の殿田や船岡で起きたことであって、畑郷川は、自ら造った扇状地を自らの手でせっせと削っているに過ぎない。早い話が河岸段丘だったのだ。しかし、成因はどうであれ、この場所に谷中分水界が通っていることには変わりはない。しかも太平洋側と日本海側を分ける中央分水界だ。それだけでも訪ねてみる値打ちがあるだろう。
扇状地上の集落を3人で歩いていると、どこへ行きなさる、と村の人たちが声をかけてくれる。地形用語で説明してもと思い、水分の路(みずわかれのみち)を見に来ましたと話すと、通じた。兵庫県石生(いそう)の水分かれ公園のような、水流が二手に分かれる仕掛けこそないが、村おこしの一環で分水界に沿う新道にそういう名がつけられ、立派な標識も立てられているのだ。
水分の路の標識 |
畑郷川が胡麻高原をえぐっている現場に近づいたところで、昼食タイムにした。うまいぐあいに上空の雲が日ざしを遮り、暑さを和らげてくれる。堀さんがこの地を訪れるのは二度目だ。前回の訪問記が、『地図の風景 近畿編I 京都・滋賀』(そしえて、1980年)にある。「早春のころ、標高点二〇六付近の分水界に立って、はろばろとした野と、春の気配を漂わせる四囲の山肌を見渡すのは快い」(p.46、下注)。
*注 標高点二〇六(206mの標高点)は現行地形図にはないが、205.3m三角点の北西で2車線道路が直角に曲がる地点。
丹羽さんや私にとって堀さんの著書は、地形学のおもしろさに開眼するきっかけとなった。「添えられていたイラストで、地形の成り立ちがよくわかりました」「川と川が土地を奪い合うとか、ありえないようなことが解き明かされるのがすごく新鮮でした」などと、感想を述べあう生徒たち。「あのころ地形学をやっている人は少なくて、分かりやすい本もなかったんですよ」と堀さん。
谷中分水界はこの付近を通っている。高原のへりから畑郷川の谷が見渡せたはずだ、という記憶に従って、丹羽さんと手分けしてしばらく付近を探してみたが、あれから35年が経過して斜面の杉林が大きく成長したためか、結局思うような見晴らしは得られなかった。
帰りは、行きとは別の直線路をたどった。胡麻駅に到着したのは15時過ぎ。列車を待つ間、駅舎に併設された休憩所で、ソフトクリームをなめた。店番の女性に「ここはゴマの産地なんでしょうか」と聞くと、「胡麻は食べ物のゴマじゃなくて、駒から来たんです。でも地名を知った油会社の社長さんがここに本当にゴマ油の工場を建ててしまいました」。工場は今も操業しているそうだ。
畑郷川の谷は杉林の向こう |
胡麻駅に帰りの電車が入線 |
「夜行バスまで時間がたっぷりあるので、その辺を散歩してきます」という丹羽さんをホームに残して、堀さんと私は15時45分発の園部行き電車に乗った。丹羽さんは、全国の繞谷丘陵を訪ね回っている。湖中の島という数奇な来歴を秘めた丸山を、じっくり観察しないまま帰るわけにはいかなかったに違いない。後で送ってくださった、駅から見えない丸山の裏側や忠魂碑の立つ山頂広場の貴重な写真をもって、胡麻高原の固有地形を訪ねる旅の記を締めくくるとしよう。
(左)丸山登り口 (右)丸山山頂広場の忠魂碑 |
丸山南東面(3枚とも丹羽さん提供) |
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図胡麻(平成19年更新)及び20万分の1地勢図京都及大阪(平成元年要部修正)を使用したものである。
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