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2014年11月

2014年11月26日 (水)

コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地

舞鶴を歩いた翌日5月4日は、滋賀県北西部の高島市へ出かけた。吹く風は爽やかだが、初夏の日差しがまぶしく、ちょっと汗ばむほどの陽気になった。

コンターサークル-s「地図の旅」本日の目的地は、百瀬川(ももせがわ)扇状地。百瀬川というのは、滋賀・福井県境の野坂山地から流れ出て、琵琶湖の北端近くに注ぐ小河川だ。後で述べる理由で山から大量の土砂を運び出し、山麓に扇を開いた形の堆積地、いわゆる扇状地を造りあげた。模式的な形状から、甲府盆地の京戸川(きょうどがわ)などと並び、地理の教科書に取り上げられることも多い。

加えて扇端では、河床が周囲より高い天井川になっている。横切る道路は橋ならぬトンネルで川底をくぐり抜け、しかも、車道用と歩道用が親子のように並んでいるそうだ。地図の旅には、かなり魅力的なエリアであることは間違いない。

堀さんのおしらせには、湖西線近江今津駅に11時18分集合、車で百瀬川扇状地に移動して、扇頂から扇端に向かって歩く、と書かれていた。持参する地形図は、1:25,000「海津」図幅だ。

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百瀬川扇状地付近の地形図(原図は1:25,000)に
歩いたルートを加筆
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同じ範囲の旧図
1975(昭和50)年修正測量

車窓に映える湖の風景を愛でながら、京都から普通電車で約1時間、近江今津に降り立つ。改札前に集まったのは全部で6人。堀さんのほか、地図研究家の今尾さん、30年来の会員である相澤さん、廃道・隧道愛好家(!)の石井さん、廃道と火の見櫓マニア(!)の外山さん、そして私。いずれ劣らぬユニークでパワフルなメンバーだ。

相澤さんと外山さんの車に分乗して、さっそく扇状地へ向けて出発する。今津駅から現地まで6kmほどの距離がある。旧街道から左に折れて、水田の中の一本道を上っていく。山林との境に張り巡らされた獣避けのものものしいフェンスを抜け、百瀬川の河原に突き当たったところで、車を降りた。

若葉萌える季節で、山肌を覆う緑のグラデーションが目に優しい。川の上流に目をやると、何段にも組まれた堰堤から、かなりの幅をもって水が流れ落ちているのが確認できる。「ここは水量がたっぷりありますね」。誰からともなくこの言葉が出たのは、水量が本日観察すべきお題の一つだからだ。

扇状地は砂礫の堆積なので、扇頂では水量が豊富でも、流下する間にどんどん地中に浸透していく。しまいに地表から水流が消失して、涸れ川になってしまう。1975年の旧版地形図(上の地形図参照)では、扇端から約800m下流で涸れ川を表す破線記号に変わっているが、実際にどのあたりで水が消えるのかを、この目で確かめたいと思っている。

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扇頂にて
(左)緑の山肌と水量たっぷりの堰堤
(右)本日のメンバー
 

右岸の砂利道を、下流へ向かって歩き始めた。林道のようだが、右側(川の反対側)を見ると、数mの落差がある。道は堤防上に載っているのだ。昔はおそらく、大水のたびに濁流が、旧河道を通って扇端の集落を襲っていたのだろう。それで、被害を防ぐために堤防を築いて、集落がない北東方向へ流路を固定させたのだと思われる。地形図で等高線を読み取ると、河床も周囲より高い。絶え間ない砂礫の堆積で、扇状地上ですら天井川と同じ状態になっているようだ。

ところで、この1:25,000「海津」図幅の新刊は、見慣れた図式とはかなり趣きが違う。昨年(2013年)11月から、デジタルデータ(電子国土基本図)からの出力イメージを使用した新図式に切り替わったからだ。多色化やぼかし(陰影)の付加など、相当手が加えられているが、今尾さんは、「地名の階層が無視されているし、新図式には、まだいろいろと改善すべき点があるんですよ」と指摘する。1:25,000の改革は、A1判の折図(1998年~)といい、世界測地系移行に伴う図郭拡大版(2003年~)といい、どれも全国を一巡しないうちに頓挫している。今回の企画は果たして長続きするのだろうか。

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少し歩いたところで、草むらに腰を下ろして昼食にした。コンビニで軽食を買ってきている人が多いなか、崎陽軒のシウマイ弁当を開ける今尾さんに、羨望の視線が注がれる。私は、堀さんの著書『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)をリュックから取り出した。実は百瀬川には、ほかにも地形ファンにとって興味深い場所がある。それが、隣の石田川の上流を奪った河川争奪の跡だ。この本には堀さんが、地形の変化で山上の湿原と化した石田川源流域を見に行かれたときのことが記されている。

争奪後、百瀬川は旧 石田川の上流部を激しく侵食していき、谷の出口に土砂をうず高く積み上げた。これが扇状地発達の原因だ。地形図では、山中に多数の砂防堰堤が描かれているが、これも侵食に伴う山腹の崩壊を食い止めるための対策に他ならない。

百瀬川の不思議はまだある。地形図(下の1:50,000地形図参照)で、最上流部に注目していただきたい。通常なら谷が狭まり急傾斜になるところだが、この川は遡るにつれ、等高線の間隔が開いていき、福井県との県境は広い谷間が別の谷で断ち切られた、いわゆる風隙(ふうげき)になっている。どうやら百瀬川自体(あるいは争奪以前の石田川)も、ここで河川争奪に遭ったらしい。

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上流にある2か所の河川争奪跡
(1:50,000地形図)
 

奪った相手は、若狭湾に注ぐ耳川だ。さらに地形図を追うと、この争奪跡の北の尾根筋に、緩傾斜の鞍部が2か所見いだせる(下の1:25,000地形図の円で囲んだ場所)。百瀬川の谷頭よりいくらか標高が高いので、少なくとも近接している1か所は、耳川の侵食を辛うじて免れた百瀬川か、その支流の旧河道ではないだろうか。

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旧河道(?)の残る最上流部
(1:25,000地形図)
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(左)堤防道路を下流へ向かう
(右)流れが消失した堰堤
 

再び歩き出してまもなく、流れはほとんど見えなくなり、扇端から約700mの堰堤(冒頭の新版地形図に位置を記載)で早くも消失してしまった。山から送り出される水量によって消失地点が移動するとはいえ、旧版地形図の描写がほぼ正確であることがこれでわかった。それに比べて新図では、河口まで水が流れているように描かれている。過去の現地調査の成果がきちんと継承されていないのは残念だ。

問題が一つ解決したので、次のお題、「120.0mの三角点を探せ」に移る。地形図には、百瀬川の堤防道路の上に120.0の数値を添えた三角点が描かれている。それを実地で探そうというわけだ。堰堤の横なのでわけなく発見できるはずだったが、意外にも見当たらない。あちこち探し回った末、あったのは草むらに隠れていた県の基準点のみ。結局それが、地形図の三角点に代わるものかどうかはわからなかった。

とはいえ、基準点を置くだけあって、このあたりは見晴らしがいい。南東方向は、田園地帯ごしに琵琶湖と竹生島、北は、近辺の観光名所になったマキノのメタセコイヤ並木が望める。展望台でもなんでもない場所だけに、少し得をしたような気分になった。

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(左)メタセコイヤ並木を遠望
(右)琵琶湖に浮かぶ竹生島
 

右手に国道161号線(湖北バイパス)が近づいてきたところで、道路は堤防から降りていく。本格的な天井川の始まりだ。「水が流れているかどうか見てきます」。廃道探索よろしく、石井さんと外山さんは、生い茂る背丈の高い草をものともせず川の堤を上っていった。

突き当りが県道で、本日の旅の終点、百瀬川隧道がある。トンネルの暗闇というのは、不安や畏怖の念と同時に、冒険心、探究心を掻き立てずにはおかない。このトンネルは長さこそ36mと短いが、河底を潜るという特殊な形態が人を惹きつける。昨日の北吸トンネルより時代が下って、竣工は1925(大正14)年。そのため、ポータルはそっけないコンクリート製だ。隧道名を書いた扁額も、北口は面目を保っているが、南口のそれは雑草に覆われてよく見えない。天井高は3.3m、横幅も十分でなく、内部で車どうし離合するのは困難だ。

これが親トンネルだとすると、子トンネル(歩道トンネル)はどこにあるのだろうか? 見回すとそれは、親から少し間隔を置いた東側に掘られていた。こちらは思い切り小型だ。天井の高さはわずか2m程度、背の高い人なら自然と頭を屈めたくなる。内部は蛍光灯が点っているとはいえ、昼間でも薄暗く、ましてや夜に一人で通るのは勇気が要るだろう。

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百瀬川隧道
(左)親トンネル南口
(右)右側にあるのが子トンネル
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(左)天井高は大人の背丈ぎりぎり
(右)薄暗い内部
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(左)子トンネルを示す標識
(右)親トンネル北口
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(左)トンネルの脇で、
  つがいの(?)ミヤマカワトンボが見送ってくれた
(右)帰りにメタセコイヤ並木をドライブ
 

百瀬川では今、大規模な改修事業が進行している。1975年の地形図(冒頭の地形図参照)では、北隣の生来川と並行しながら単独で湖に注いでいるが、その後、バイパス建設の際、バイパスの手前に仮の落差工を組んで、生来川へ合流するように流路が変更された。合流した後の川幅も拡張された。現在は、河底トンネルよりさらに上流に落差工を設けて、水を生来川に落とす工事が行われており、それに伴い、トンネルの上はすでに廃河川になっている模様だ。

機能しなくなった天井川は、やがて取崩される運命にある。それと同時に、通行のネックになっている百瀬川隧道も、子トンネルもろとも撤去されてしまうに違いない。車を回すために戻ってくださった相澤さんと外山さんを待つ間、私たちは湖北に残った天井川トンネルの最後の姿を、しっかりと目に焼き付けた。

■参考サイト
百瀬川扇状地&マキノ夢の森 http://www.eonet.ne.jp/~otto/
 地元の方が書かれた百瀬川と扇状地に関する情報サイト
地理B問題解答解説
http://blog.goo.ne.jp/morinoizumi22/
 「百瀬川の天井川」「百瀬川の扇状地」と題するページに地理的な解説がある
旧道倶楽部-百瀬川隧道
http://www.kyudou.org/KDC/kokoku/momosegawa_00.html

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図海津(平成25年11月調製および昭和50年修正測量)、駄口(昭和51年修正測量)、熊川(昭和50年修正測量)、三方(昭和53年修正測量)、5万分の1地形図竹生島(昭和47年編集)、熊川(昭和47年編集)、西津(昭和50年編集)、敦賀(昭和50年編集)を使用したものである。

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2014年11月25日 (火)

コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡

コンターサークル-s は、地図エッセイスト堀淳一さんが提唱する「地図の旅」を実践してきた会だ。「ありきたりの観光地をまわる『旅行』ではなく、一般には見向きもされないけれどもそれを味わう感性の持主には心が躍り足も踊る、スリル・サスペンス・発見・感動に満ちた場所を、地図で探し、地図を見ながら足で歩く旅」(規約第1条より)。その趣旨に共感する人たちが長年、活動を支えている。

北海道での行事が中心だが、本州編も企画されていて、私は今年、そこへ参加させていただく機会を得た。新米会員なりに見聞きし、感じたことをわずかながらここに記しておきたい。

2014年5月3日、ゴールデンウィーク後半初日にあたるこの日、私は朝から山陰線(嵯峨野線)の普通列車に揺られていた。目的地は、京都府の日本海側にある舞鶴(まいづる)だ。堀さんが書かれたサークルのおしらせによると、東舞鶴駅12時01分に集合して、中舞鶴線(なかまいづるせん)跡のサイクリングロードを歩くことになっている。参加者の持ち物は、歩くルートが図郭に含まれる1:25,000地形図、今回は「東舞鶴」図幅だ。

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東舞鶴駅
 

12時01分というのは、京都始発の特急「まいづる1号」が東舞鶴駅に到着する時刻なのだが、連休中とあって、指定席はすでに満席だった。きっと自由席も混むに違いない。それならのんびりと各駅停車の旅もよかろうと、二条駅から普通列車に乗込んだのだった。

園部からわずか2両のローカル列車に乗継ぎとなるが、ワンマン改造とはいえ221系、かつて新快速で運用されていた転換クロスシート車だから、乗り心地は悪くない。綾部でもう一度乗換えて、東舞鶴には11時47分に着いた。一行よりほんの少し先回りした形だ。

特急が着く時刻、改札から出てきた人波の中に、堀さんの姿があった。事前連絡なしに飛び入り参加したので、まず自己紹介する。「高校時代に『地図のたのしみ』を読んで以来、多大な影響を受けています」と告白したら、堀さんは苦笑しながら一言、「それは悪影響でしたな」。

地図の旅には、参加申込みといった手続きはなく、指定時刻、指定場所に来た人だけで出かける流儀だ。結局、舞鶴に来たのはこの二人だけだった。同行を快諾いただいて、タクシーに乗り込む。行先は、路線の終点だった中舞鶴駅跡だ。

中舞鶴線というのは通称で、正式には舞鶴線の一部を成していた3.4kmの支線だ。かつて海軍の拠点、鎮守府が置かれた舞鶴には、1904(明治37)年に福知山から鉄道が到達した。舞鶴市のサイト(下記)によれば、このとき、内陸にある新舞鶴(現 東舞鶴)駅から余部(あまるべ、後の中舞鶴)にある海軍施設まで、軍港引込線と呼ばれる専用線が敷かれた。大正年間に入ると軍港域での一般通行が制限され、陸路では道芝隧道への迂回を強いられることから、この線路を利用して旅客輸送を行うことになった。これが開設の経緯だ。

路線は1919(大正8)年に開通し、東舞鶴~中舞鶴間で列車が走り始めた。太平洋戦争までは軍事関連の貨客輸送で活況を呈したが、戦後は利用が激減し、ついに1972(昭和47)年10月31日限りで廃止となった。

■参考サイト
舞鶴市公式サイト-舞鶴の活力を支えた中舞鶴線
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/modules/kyoikup/index.php?content_id=76

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中舞鶴線跡周辺図(原図は1:25,000)に
歩いたルートを加筆
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中舞鶴線現役時代最後の1:25,000地形図
1972(昭和47)年改測
 

タクシーが停まった中舞鶴駅跡は、車が行き交う国道27号線の南に面したグラウンドの一角だった。静態保存のC58形蒸気機関車が目印になっている。裏側へ回ると、テンダーに来歴が貼ってあった。

113号機として舞鶴線でも活躍した機関車だが、1970(昭和45)年に廃車となり、翌71年に小中学生の生きた教材として国鉄から貸与されたのだそうだ。ナンバープレートはさすがに後付けだが、大きな切妻の屋根に守られて、廃車後40年以上経つとは思えないほど保存状態はいい。運転台やボイラーに上る通路があるので、子どもたちはもとより大人も、遠慮なく近くから観察できる。

駅の遺構は見当たらなかった。あるのは、機関車の前に立てられた駅名標風の案内板だけだ。駅に在籍した職員有志一同の寄贈によるもので、当時の構内配線図や俯瞰写真も刻まれ、在りし日のターミナルの姿を伝えていた。

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中舞鶴駅跡にて
(左)C58形113号機
(右)案内板
 

ひととき感傷に浸った後、東舞鶴駅をめざして二人で歩き出す。しばらくは国道の山側(南側)に張り付いたサイクリングロード兼用の歩道が、線路跡のようだ。旧版地形図でも、線路は北吸(きたすい)駅付近まで国道に並行するように書かれているので、跡地整備で国道と一体化されたとしても不思議はない。片や、道路の海側(北側)は海上自衛隊の基地だ。護衛艦が満艦飾で停泊しているのがもの珍しい。きょうは一般公開の日らしく、見学に訪れた人たちが入口で列を作っていた。

この先で、道路と線路跡は小さな岬を3つショートカットする。岬と岬に挟まれた入江には、舞鶴名物になった煉瓦造りの倉庫が林立している。その一角、舞鶴赤れんがパークに中舞鶴線の記念展示があると聞いていたので、堀さんをお誘いして行ってみた。

3号棟まいづる智恵蔵の1階奥がそれだった。中央に、入換に使われていたという小型ディーゼル機関車の実物がでんと置かれて目を引く。だが、それより注目すべきは、昭和20年代の北吸地区を模したというジオラマだ。かつての軍港の広がりを示しているのだが、中舞鶴線にはかわいい列車も走っている。壁面には、沿線の定点比較写真、路線の縦断面図、中舞鶴駅の配線図など、興味深い資料が数々。廃線跡ハイクにはうってつけの展示で楽しめた。

■参考サイト
舞鶴赤れんがパーク http://www.akarenga-park.com/

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(左)自転車道が廃線跡
(右)赤れんがパークに寄り道
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(左)中舞鶴線の記念展示
(右)北吸地区のジオラマ
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記念展示の一部
(左)定点比較写真
(右)縦断面図
 

歩き旅に戻る。線路跡は、市役所の前で右にカーブしながら国道と離れ、インターロッキングで整備された専用道になった。このあたりに北吸駅があったはずだ。線路敷にしては道幅が広いので、「駅の敷地も専用道に取り込んだんでしょうか」と話しながら歩いていく。しかし、駅を過ぎても同じように広いから、かなり余裕をもって敷地が確保されていたのだろう。

行く手を、うっそうと茂る竹藪を載せた小山が遮っている。左カーブを進んでいくと、トンネルが姿を現した。中舞鶴線最大の遺構である北吸トンネルだ。美しいイギリス積みの煉瓦ポータルが、懐古気分をいやがうえにも誘う。ただし、上部の扁額はデザインから言っても、明らかに後世の作だ。「北吸トンネルでなく、~隧道と書いてほしかったですね」と私。内部にはガス灯を模した照明が灯され、登録有形文化財のプレートもある。これほど大事にされるとは、建設当時、誰が想像しただろうか。

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(左)北吸駅跡から歩きを再開
(右)カーブを曲がりきると北吸トンネル
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歴史を秘める北吸トンネル
(左)西口 (右)東口
 

トンネルを抜けると、再び右へ大きくカーブしていく。つつじの花に彩られた専用道は、舞鶴共済病院の前でぷつりと途切れた。この先は、できたばかりに見える幅広の都市計画道路に吸収されてしまっている。跡形もなく、という形容がぴったりの消え方だ。

地形図に描かれているとおり、中舞鶴線は、ここから直接東舞鶴駅には向かわず、西向きに本線へ合流していた。もとは貨物線なので、京阪神へ直通できる配線が選ばれたのだろう。そのため、東舞鶴駅へ向かう旅客列車は、スイッチバックで駅構内に進入していた。舞鶴線の高架化工事により接続部の痕跡は消失してしまい、今は街路のカーブに跡を残すのみとなっている。

「私はこれで駅へ戻りますが、廃線跡を最後まで見極めたいとお思いならどうぞ」。堀さんのお心遣いはうれしかったが、「地図の旅」を堪能したという思いは私も同じだった。

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(左)舞鶴共済病院前がサイクリングロードの終点
(右)その先、線路跡は道路敷地に
  左端のカーブする歩道が舞鶴線への合流跡
  (舞鶴線車窓から撮影)
 

この記事は、宮脇俊三編著「鉄道廃線跡を歩くIV」JTBキャンブックス, 1997, pp.101-103、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図東舞鶴、西舞鶴(いずれも昭和47年改測)を使用したものである。

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2014年11月16日 (日)

ブリエンツ・ロートホルン鉄道 II-ルートを追って

湖に面したブリューニック線ブリエンツ Brienz 駅から道路をはさんで山側に、伝統的なデザインが目を引くもう一つの駅舎が建っている。ブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz Rothorn Bahn (BRB) の起点駅だ。公式時刻表では、ブリューニック線の駅と区別するために、ブリエンツBRB と記されている。

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山頂ホテル付近から見たロートホルン・クルム駅
 

インターラーケンの宿を朝7時過ぎに出て、ブリューニック線の電車に乗ってここまでやってきた。夜が明ける頃は、まだ周りの山は雲のべールに閉ざされていたが、湖畔を走る間に、天気は予報のとおり見る見る回復していく。波穏やかな湖面に反射する朝の光がとてもまぶしい。

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(左)朝日が湖面に反射する
(右)ブリエンツ駅に到着
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(左)開通当時の概観を残すブリエンツBRB 駅舎
(右)同 出札窓口
 

早い便で到着したので、出札窓口では並ぶどころか、切符を購入したのは私たちたちだけだった。スイスパスを提示すれば運賃は半額になり、往復で大人42フラン(2013年現在、下注)、同伴する15歳未満の子どもは2人まで無料だ。大人用の乗車券は、味気ないプリンタ出力のカードだが、子どもには赤地に蒸機のイラストが入った硬券(運賃無料なので整理券?)をくれる。

*注 私たちが乗った8時36分発(平日の1番列車)にはさらにディスカウントがあり、大人往復31フラン(復路はどの便にも乗れる)だった。

発車20分前には改札が始まった。ホームにはすでに、丸屋根の架かった客車2両と小ぶりの蒸気機関車が入線している。急坂を上るので、セオリーどおり機関車の位置は常に山麓側だ。1本後のブリューニック線列車が着くと、ぞろぞろとこちらの駅に客が流れてきたが、結果的に2両に全員が納まったので、続行便は出なかった。

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(左)カード状の大人用割引乗車券
(中)同 裏面
(右)子ども用硬券はイラスト入り
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(左)出発間近のホーム
(右)枕木方向に簡易シートが並ぶ客車
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ブリエンツ・ロートホルン鉄道周辺図
スイス官製1:50,000地形図インターラーケン Interlaken 図葉の一部を使用
 

BRBは、ブリエンツBRB~ロートホルン・クルム(下注)間7.6kmの登山鉄道で、軌間は800 mm。最急勾配250‰、最小半径60mの険しいルートを全線アプト式ラックレールで上っていく。起点の標高566mに対して終点は標高2244mあり、高度差は1678mに及ぶ。所要時間は、山上方面が55~60分、山麓方面が60~70分だ。

*注 終点の駅名は、スイス公式時刻表の1989年版でブリエンツァー・ロートホルン・クルム Brienzer Rothorn Kulm、同 2013年版ではブリエンツァー・ロートホルン Brienzer Rothorn、現在のBRB公式サイトではロートホルン Rothorn とのみ表記され、一定していない。

甲高い汽笛を合図に、列車は山麓駅を定刻に出発した。山際に残っていた雲もほとんど消えて、頭上は一面の青空だ。列車からの眺めは、大きく2幕に分けることができるだろう。第1幕、すなわち前半はブリエンツの背後に迫る山裾を這い上がる区間で、湖面を見下ろしながら進む。後半第2幕はすり鉢状の谷間をひたすら遡るルートで、乗客の目はじりじりと近づいてくる稜線のほうに注がれる。ゲルトリート Geldried とオーバーシュターフェル Oberstafel の両信号所の前後を除けば、山上に向かって左手が谷で、視界が開ける。

ホームを後にした列車は、同僚機が休む車庫の脇をすり抜け、町裏の扇状地をのっけからぐいぐい上っていく。家並みはすぐに途切れ、湖に注ぐ小川を鉄橋(ヴェレンベルク橋梁 Wellenbergbrücke)で渡ると、斜面の牧場越しに湖面が広がった。左に緩くカーブし、山の斜面に取り付くあたりからは森に入っていく。

短いトンネル(シュヴァルツフルートンネル Schwarzfluhtunnel、長さ19m)をくぐり、右に大きくカーブする。森がいったん開けたところに、最初の信号所ゲルトリート(標高1024m、下注)があった。朝早い便なので対向列車はなく、そのまま通過したが、帰りはここでしばらく停車して、上ってくる列車を待ち合わせた。大樹が影を落とす線路際のベンチではハイキングに来たのか、カップルが1組腰を下ろして湖を眺めていた。乗降を扱わないのがもったいないような魅力的なスポットだ。

*注 地形図では、ゲルトリート信号所のある地点に1019mの標高点が打たれているが、本文では公式サイトの路線図記載の標高を採用した。急斜面なので、測定地点がずれれば5m程度の高低差が生じてもおかしくない。

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(左)左手に車庫を見送る
(右)町の裏手を行く
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(左)ゲルトリート信号所へもう一登り
(右)牧場越しに湖面が広がる
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(左)大樹が影を落とすゲルトリート信号所
(右)信号所を後にして
 

この先は、トンネルが断続する難所だ。まず左に向きを変える途中で、ヘルトトンネル Härdtunnel(長さ119 m)に突入する。続いて3本連続のプランアルプフルートンネル Planalpfluhtunnels(I~IV、計290m)で、切り立つ断崖を縫っていく。荒々しい素掘りの壁面にドラフト音がこだまする。トンネルの間で一瞬、下界のパノラマが見えるというので慌ててシャッターを切ったら、湖と集落と、さっき通ったゲルトリート信号所も写っていた。闇を抜けた後は、いよいよ山懐に吸い込まれていき、中間地点のプランアルプ Planalp 駅(標高1341m)が近づく。

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(左)ヘルトトンネルに突入
(右)轟音が耳をつんざく
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トンネルの間から一瞬下界のパノラマが見える
 

駅に着くと、前の客車から楽器のケースや何かを抱えた若者が何人か降りた。周辺にはベルクハウス(山小屋)をはじめ、コテージが点在しているので、乗降客があるのだ。その間に蒸機はたっぷりと給水を受けて、後半の走りに備える。隣の線路には、山頂から下りてきたばかりの1番列車が待避している。

2013年夏のダイヤ(6月1日~10月20日)では、毎日8往復が運行され、そのほかピーク時の日曜早朝に1往復、水曜に山上方面行き1本の設定がある。隣にいるのはこの早朝便に違いない。きょうは土曜日なのだが、登山鉄道の場合、臨時便はよくあることだ。客車の増結ができないので、利用者が集中すると、列車を続行させたり、間に増発して数をさばく。実際、帰りに乗った11時49分発も、時刻表にはない便だった。

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(左)プランアルプ駅へ進入
(右)若者たちが列車を降りた
 

9時3分にプランアルプを発車、第2幕が始まった。線路は、一面青草に覆われた広く深い谷底を上っていく。牧場小屋で作業にいそしんでいる人がいる。彼も、麓との往復にこの列車を使っているのだろう。やがて築堤でミューリバッハ Mülibach の渓流を渡る。開通当時は橋梁で渡っていたのだが、1941~42年冬の雪崩で流失してしまった。その後しばらくは木組みの橋が架けられ、冬は雪害を避けるために撤去し、春に復元していた。現在の形に改修されたのは1963年のことだ。

S字状に斜面を這って高度を稼いだあとは、大きく右にカーブしたクーマートトンネル Kuhmadtunnel(長さ92m+後補のギャラリー部40m、下注)を抜ける。今しがた通ってきた線路を見下ろしながら、最後の信号所オーバーシュターフェル Oberstafel(標高1828m)を通過。

*注 トンネル名称は現地の標識に従ったが、公式サイトの路線図ではキューマットトンネル Kühmatttunnel、地形図の地名は Chüemad とある。

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(左)急坂でも力強い足取り
(右)今しがた上ってきた線路
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オーバーシュターフェル信号所
(山上から遠望)
 

目の前にロートホルン直下の広い圏谷が立ちはだかっていて、線路は、大きく巻きながらじりじりと上り詰めていく。左手の山腹にこれから通る線路が見え、青空との接線には山頂の建物群を捉えることができる。あそこまで行くのか、と山を登っていることを実感する光景だ。進行方向が北西に変わるころ、竜の背びれを思わせるディレングリント山 Dirrengrind の後ろから、ブリエンツ湖が再び姿を見せ始めた。背後には白銀の山脈がくっきりと浮かび、乗客の興奮は最高潮に達する。

張り出す小尾根にうがたれた2連のショーネックトンネル Schoneggtunnel(37mと133m)で向きを戻すと、間もなく目的地だ。列車は9時31分、約1時間の旅を終えて、標高2244mの山上駅ロートホルン・クルムに到着した。周りにはシェルターのような駅舎と簡易な車庫しかなく、休憩できる山頂ホテルまでは少し距離がある。

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(左)いよいよ山頂が視界に
(右)圏谷を大きく巻いていく
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(左)竜の背びれのような山の向こうに湖が
(右)最後のトンネルで半回転
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(左)ロートホルン・クルムに到着
(右)シェルターのような駅舎
 

いささか殺風景な待合室に入ってみたら、わが国の大井川鉄道と結んだ姉妹鉄道の銘板が掲げてあった。1992年、BRB開通100周年を記念して作られたもののようだ。頭上には両国の国旗も並ぶ。前回記したブリエンツ村と(旧)金谷町の提携も、2つの鉄道が取り持つ縁で実現したものだ。日本人観光客が大挙してスイスを訪れた時代はほぼ過去のものになったが、今でもこうしてアルプスの一角に両国の深い関係が刻まれているのは喜ばしい。

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(左)山上駅にある姉妹鉄道の記念プレート
(右)スイスと日本の国旗も
 

乗車中から気づいていたのだが、駅のすぐ西にある尾根の先に、シュタインボック Steinbock(英語ではアイベックス Ibex)の群れがいた。ヤギの仲間だが、アルペンホルンのような立派な2本の角をもっている。自治体の紋章のモチーフにも用いられるアルプスのシンボル的動物だ。餌付けされているのではなく、野生の群れがときどきこうして現れるのだという。列車を降りた人たちがカメラを構えて見守る間も、彼らは悠然と草をはみ続け、少し目を離しているうちに姿を消した。

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(左)人々が見つめる尾根の先に...
(右)野生のシュタインボックの群れ
 

空はみごとに晴れ渡り、雨上がりのため視界も良好だ。足もとには緑のアルプ、その奥にブリエンツ湖の水面、目を上げればユングフラウ三山をはじめ、アルプス本体の山並みが広がる。道草しなければ、15分で山頂に到達するところ、立ち止まって写真を撮らずにはいられない。標高2350mの山頂に上りきると、それまで隠れていた東側を含め、遮るもののない360度の展望が開けた。この景色を多くの人に見てもらおうと、登山鉄道を守り続けた地域の人々のことをふと思い出した。

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(左)ロートホルン山頂
(右)ユングフラウ三山の眺め
  左からアイガー、メンヒ、ユングフラウ
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山頂ホテル前からのパノラマ
圏谷の先にブリエンツ湖、雪を戴くアルプス連峰
 

この記事は、Florian Inäbnit "Schweizer Bahnen, Berner Oberland" Prellbock Druck & Verlag, 2012、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

■参考サイト
BRB公式サイト http://www.brienz-rothorn-bahn.ch/
ブリエンツ自治体公式サイト http://www.brienz.ch/
狭軌鉄道ヨーロッパ(ファンサイト)http://www.schmalspur-europa.at/

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2014年11月11日 (火)

ブリエンツ・ロートホルン鉄道 I-歴史

ブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz Rothorn Bahn

ブリエンツ Brienz BRB ~ロートホルン・クルム Rothorn Kulm 間 7.60km
軌間800mm、非電化、アプト式ラック鉄道、最急勾配250‰
1892年開通、1914年運行休止、1931年運行再開

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ゲルトリート信号所での列車交換
 

旅行者を見晴らしのいい山頂へ案内してくれる登山鉄道は、スイスアルプスの観光シーンに欠かせない存在だ。先駆けとなったリギ鉄道をはじめ、この種の鉄道の多くは蒸機運転でスタートしたが、20世紀前半までにほとんどが電化工事の洗礼を受けた。今や蒸気機関車が定期運行を担っているのは、ベルン州のブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz Rothorn Bahn (BRB) だけになってしまった(下注)。

*注 ラック式蒸機による定期運行ということなら、ほかにフルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke(本ブログ「フルカ山岳蒸気鉄道 I-前身の時代」ほか2編で詳述)があるが、これは峠を乗り越えていく「山越え鉄道」に類する。

電化が進んだのは、輸入に依存する石炭燃料に対して、自給可能な水力を利用した電源開発が、国策として奨励されたことと関係する。電気運転への切替えで輸送力が高まり、無煙化に伴って旅の快適度も向上した。アルプスの展望台はあちこちにあり、それぞれ集客上はライバル同士なので、旧来の運行方式では明らかに不利な戦いを強いられるはずだ。それでもBRBが蒸機を温存してきた理由はどこにあるのだろうか。いつものように歴史を紐解くことで、その疑問に答えていこうと思う。

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1871年に開通したリギ鉄道の商業的成功によって、スイス国内では登山鉄道ブームに火が付いた。さまざまなプランが雨後の筍のように提案された中に、ブリエンツァー・ロートホルン Brienzer Rothorn へ上るラック式鉄道の構想があった。ブリエンツァー・ロートホルン(下注。以下、ロートホルンと記す)は、インターラーケン Interlaken の北東20kmにある山だ。標高2350m、エメンタールアルプス Emmentaler Alpen の最高峰で、眼下のブリエンツ湖と雄大なアルプスを一望にできる場所として人気があった。

*注 ブリエンツァー・ロートホルンは、ブリエンツの赤い尖峰という意味。ロートホルンと呼ばれる山が他にもあるため、地名を冠して区別したもの。

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ブリエンツ・ロートホルン鉄道周辺図
スイス官製1:50,000地形図インターラーケン Interlaken 図葉の一部を使用
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ブリューニック線がブリエンツ止りの時代の地形図
スイス官製1:50,000地形図ブリエンツ Brienz 図葉(1905年版)の一部を使用
 

路線は、湖畔の村ブリエンツ Brienz を起点に、アプト式ラックレールを使って山を上り、山頂直下のロートホルン・クルム Rothorn Kulm に達するというものだった。出だしは順調で、1889年12月に建設及び運行の認可が下り、翌90年5月には鉄道会社が設立された。社債の募集に対して予定の3倍、株式には87倍もの申込みがあったという。

工事は同年8月初めに着手され、気候の厳しい冬場も続けられて、91年末までにほぼ完了した。1892年6月の開通式には、SLM社製のH 2/3形蒸気機関車4両と、開放式客車と箱型客車各2両が勢揃いして、遠来の招待客を迎えた。会社では、年間少なくとも12,000人の利用者を期待していたが、思いのほか現実は厳しく、1年目は6000人に届かなかった。そのため翌年、早くも資金繰りに行き詰り、あえなく会社は倒産してしまう。

*注 SLM社の正式名称は、ヴィンタートゥール・スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiven und Maschinenfabrik Winterthur。蒸機製造部門は2000年に分社化され、現在DLM蒸気機関車機械工場 Dampflokomotiv- und Maschinenfabrik DLM を名乗る。

経営権が工事を請負った建設会社の手に移った後も、利用者数は伸び悩んだ。なぜ、当初の見込みが外れてしまったのか。理由の一つはアクセスの悪さだ。ブリエンツには、登山鉄道が開通する4年前の1888年に、ルツェルン方面から鉄道が到達していた。現在のツェントラル鉄道ブリューニック線 Brünigbahnだ(下注)。しかし、ブリエンツ以西へ延長されたのは28年も後の1916年で、それまでインターラーケンとの間は蒸気船による湖上連絡に頼っていた(右図参照)。

*注 ブリューニック線は、1888年 6月にジュラ・ベルン・ルツェルン鉄道 Jura-Bern-Luzern-Bahn がアルプナッハシュタート Alpnachstad ~ブリエンツ間を開業したのが始まり。翌89年、ルツェルンまで延長。

理由のもう一つは、アルプスにより近い展望台が次々と開発されたことだ。1895年にはインターラーケンの近くにシーニゲ・プラッテ鉄道 Schynige Platte-Bahn が開通し、1898年には、ユングフラウ鉄道 Jungfraubahn も一部区間で運行が始まった(下注)。ベルン方面からの観光客は主としてそちらに流れ、湖を渡ってまでして訪れる人は少なかったのだ。

*注 ユングフラウ鉄道は1898年に、クライネ・シャイデック Kleine Scheidegg からトンネルに入る直前のアイガーグレッチャー Eigergletscher までの区間で暫定開業した。ユングフラウヨッホ Jungfraujoch まで延びたのは1912年。

それでも1900年に新会社が設立された頃から、利用者の増加傾向が定着する。年によっては5万人を超えるほどになった。しかし、山岳鉄道の宿命で線路や施設の改修費がかさみ、さらに悪天候による運行不能が相次ぐなどで、収益は容易に改善しなかった。1911年、BRBは再び経営難に陥り、その後、経営者が転々とする。さらに1914年に第一次大戦が勃発すると、観光需要が激減してしまい、その年の運行は8月初旬で早々と中止になった。結局鉄道は、そのまま長い休止期間、ドイツ語の慣用句で言う「いばら姫の眠り Dornröschenschlaf」についてしまう。

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ブリューニック線ブリエンツ駅の今昔
(左)開通当時(125周年記念掲示より)
(右)2014年8月
 

1918年に木材搬出のために、中間駅のプランアルプ Planalp まで貨物輸送が復活したものの、戦争が終結しても全線再開の見通しは一向に立たなかった。それどころか、屑鉄価格の高騰を背景に、施設の売却を求める株主もいて、廃止の決断は時間の問題と思われた。

しかし、地元ブリエンツ村は、あくまで再開を求める姿勢を崩してはいなかった。1920年代後半になって、チューリッヒの資本家たちが山頂ホテルの再興を企てたことから、事態はにわかに動き出す。村からの拠出金で、荒廃した路盤の修復工事が開始された。傷んだ駅舎の改修、古くなった整備工場や車庫の設備更新も行われた。さいわい、休止中も最低限の保守作業が続けられたおかげで、車庫に留められていた車両の状態は比較的良好だった。こうして1931年6月、ついに鉄道は16年間の深い眠りから目覚めることができたのだ。

結果は、関係者の予想以上だった。全通済みのブリューニック線を通じて観光客が押し寄せ、戦前の記録はたちまち塗り替えられた。まもなく輸送力不足が指摘され、対策を立てる必要に迫られた。この頃までに近隣の登山鉄道は続々と電化に踏み切っていたが(下注)、復活に資金を費やしたBRBには追加の大規模投資を行う余裕がない。当面、運用車両の増強でしのぐことにして、1933年と36年に、計2両の新造蒸機(6、7号機)と客車が発注された。既存の旧形機4両(2~5号機)は、高出力の過熱式に改造された。

*注 1907年にアルト=リギ鉄道が電化、その後、1909~10年にヴェンゲルンアルプ鉄道、少し間を置いて、1937年にフィッツナウ=リギ鉄道とピラトゥス鉄道も電化を完了した。

戦後、ようやくBRBでも動力近代化の検討作業が始まった。沿線で雪崩が頻発するため、地上設備の必要な電化案は退けられ、ディーゼル化をめざすことになった(下注)。スイス南部のモンテ・ジェネローゾ鉄道 Ferrovia Monte Generoso と前後して、1950年代に初めて気動車5両が導入されている。

*注 電化されたフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn(現 マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn)の旧フルカ峠区間では、雪崩対策として、冬は運行を休止して架線と架線柱を撤去し、春に復元する作業を毎年繰り返していた。

それと並行して、鉄道の将来を左右する議論も巻き起こった。旧式の蒸気鉄道を一掃して、最新のロープウェーに転換するというものだ。1958年の年次株主総会では全会一致で、運行効率の良いロープウェーの建設計画をまとめるよう決議がなされている。しかし、途中のプランアルプへの交通手段がなくなるとして地元は反対に回り、蒸機運転への人気の高まりを察知して、会社も積極的には動かなかった。1970年、最終的にロープウェー案は撤回された。

ロープウェーに関しては、別の論争もあった。現在、BRBとは反対側(北側)の斜面をロートホルン山頂まで上ってくるロープウェーがある。これは1971年に開通したゼーレンベルク=ロートホルン ロープウェー Luftseilbahn Sörenberg-Rothorn だが、建設計画が発表されると、BRBは真っ向から反対を唱えた。なぜなら、北側には鉄道アクセスこそないが、車で来る客にとってはむしろ近道で、営業上、深刻な脅威になると考えたからだ。連邦当局はいったん申請を却下したものの、今度は推進する立場のゼーレンベルク村から強い抗議を受ける。結局、輸送損害が立証された場合は補償するという条件を付して、計画は逆転認可されることになった。BRBは、ここでは新たな現実との妥協を余儀なくされた。

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(左)湖に面するブリエンツの町
  (BRB車窓から撮影)
(右)山脈の北側ゼーレンベルク村
  左下をロープウェーが上ってくる
 

ロープウェー問題が決着すると、次に浮上してきたのは、車両の老朽化という課題だ。古い蒸気機関車を延命させるためにも、代替機の導入が必要だった。1970~80年代にディーゼル機関車計3両(Hm 2/2形9~11号機)が調達され、仕業準備の時間が短縮できる利点を生かして、早朝・夜間の定期運行や臨時の資材輸送に使われてきた。

さらに、90年代に入ると、油焚きの新型ラック式蒸機が登場する。これもSLM社が開発したもので、外見は旧来機と変わらないが、客車2両を推し上げる能力をもち、缶(かま)焚き役の機関助士を不要とする画期的なものだった。

開通100周年である1992年にH2/3形試作機1両(12号機)が納入され、高評価を得たことから96年に2両(14、15号機、下注)が追加された。各機関車にはそれぞれ記念のプレートが掲げられている。12号機は地元ベルン州 Kanton Bern の、14号機はブリエンツ村 Gemeinde Brienz の、そして15号機はこの年にブリエンツと姉妹都市になった静岡県金谷町(広域合併で現在は島田市)の紋章だ。

*注 13号は欠番になっている。

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(旧)金谷町の町章を掲げる15号機
 

1992年の試作機は、BRBのほか、モントルー=グリオン=ロシェ・ド・ネー鉄道 Chemin de fer Montreux–Glion–Rochers-de-Naye (MGN) とオーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn にも各1両が納入されていたが、MGN機はその後2005年にBRBが買取り、16号機になった。現在、定期運行の主役はこれら新型蒸機が担っている。

ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、長い休止期間があったために電化の潮流から取り残された。しかし、逆に蒸気運転の希少価値を看板に掲げることで、単なる山頂への輸送手段にとどまらず、観光アトラクションとしての地位を獲得することに成功した。昨年、この鉄道に乗車してその魅力を体感する機会があったので、次回それを詳しく見ていきたい。

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BRBの広告ポスター
 

この記事は、Florian Inäbnit "Schweizer Bahnen, Berner Oberland" Prellbock Druck & Verlag, 2012、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

■参考サイト
BRB公式サイト http://www.brienz-rothorn-bahn.ch/
DLM AG(機関車製造会社) http://www.dlm-ag.ch/
ブリエンツ自治体公式サイト http://www.brienz.ch/
狭軌鉄道ヨーロッパ(ファンサイト)http://www.schmalspur-europa.at/

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