リギ山を巡る鉄道 IV-アルト・リギ鉄道山麓線
今回は、1959年に廃止されてしまったアルト・リギ鉄道 Arth-Rigi-Bahn(以下、ARBという)の山麓線について、建設計画から終焉までの経緯を追ってみよう。ついでに廃線跡探訪も。
山麓線の廃線跡を示す「トラムヴェーク(電車道)」の標識 背景はリギ山 |
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ARBは運行管理上、山麓線(タールバーン Talbahn)と登山線(ベルクバーン Bergbahn)とに分かれていた。山麓線のほうは、勾配が緩やかでラックレールの必要がない、いわゆる粘着式区間を指している。1875年の開通当初、全線11.2kmのうち、山麓線はアルト Arth(アルト・アム・ゼー Arth am See)~オーバーアルト Oberarth 間1.4kmの短区間にすぎなかった(下注)。
*注 アルト・アム・ゼー Arth am See は、湖畔のアルトを意味する。自治体名は今も単に「アルト」、開通当時の駅名もアルトだったが、後述するアルト・ゴルダウ駅設置に伴い、混同を避けるためにこう呼ばれるようになったものと思われる。なお、オーバーアルトは上アルトの意。
わざわざ運行方式を分けたのには理由がある。それは、この地域をゴットハルト鉄道 Gotthardbahn(下注)が通る予定になっていたことだ。ゴットハルト鉄道は1882年に全線開通するスイス初の南北縦貫鉄道だが、ドイツからイタリアまでをつなぐ国際的大事業として熱い期待を集め、アルプスを貫く長さ15kmのゴットハルトトンネル Gotthardtunnel がすでに1872年に着工されていた。
*注 日本ではゴッタルド鉄道とも呼ばれるが、これはイタリア語のゴッタルド Gottardo から来ている。
ゴットハルト鉄道のルートは、まだ幹線鉄道のなかったツーク湖南岸を通過する予定で、オーバーアルトに駅の設置が計画されていた。鉄道が実現すれば、おのずとこの駅が地域交通の中心になる。そこから湖岸へは山麓線、リギ山へは登山線というように、ARBは2本の培養線となって機能すると考えられた。ARB線をオーバーアルトで2つの方式に分けたのは、近い将来を見越しての先行投資でもあったのだ。
ARB線は1875年6月に全線開業した。運行は当面、夏のシーズンに限定された。湖の船着場のすぐ近くに設けられたアルト駅で、山麓線の列車が船から乗継ぐ客を待っていた。SLM社から納入された1両きりの粘着式蒸機は、約8分でオーバーアルトに客車を運んだ。オーバーアルトはARBの運行基地とされ、車庫兼整備場が置かれていた。列車はここでラック式蒸機に付替えられ、登山線を上る準備が整えられた。
リギ山頂から遠望したアルト市街 写真上方を左右に走る小道が廃線跡(トラムヴェーク) 青の円で囲ったあたりにアルト・アム・ゼー駅があった Photo by Andrew Bossi at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5 |
アルト市民もARBも、ゴットハルト鉄道の駅が近くにできるのを心待ちにしていた。ところが予想外のことが起きる。1876年にゴットハルト鉄道会社が資金難に陥り、工費を節約するために、ルートの変更が発表されたのだ。
元の計画でゴットハルト鉄道は、オーバーアルトの駅を出た後、ツーク湖とラウエルツ湖の間に横たわる分水界を長さ2.5kmのトンネルで抜けることになっていた。実際に1875年から、トンネルの導坑と換気立坑の掘削が始まっていたが、その工事も途中で中止となった。見直されたルートは分水界をほとんどトンネル無しに乗り越すもので、サミットとなるゴルダウ Goldau の村に駅が予定された。これが現在のルートだ。
アルト市民にとって、この決定はとうてい飲める話ではない。駅が町から遠のくだけでなく、せっかく接続のために整備したARBのオーバーアルト駅も意味をなさなくなるからだ。町は、ゴットハルト鉄道を相手取って、裁判所に訴えを起こした。しかし、計画が覆ることはなく、代償として新駅の名称は、町の名を加えてアルト・ゴルダウ Arth-Goldau になり、ARBの移設にかかる費用はゴットハルト鉄道の負担とされた。
アルト・ゴルダウの初代駅舎は、現在の位置とは違い、ゴルダウの村に面した線路の南側に設けられた。それに合わせたARBのルート変更(下の変遷図右上1882年の欄参照)は、大規模な内容となった。
すなわち、新駅に乗入れるために、アルト方からはリギアー川橋梁の上手で左へ分岐する線路を、リギ山方からは旧ゴルダウ駅付近で右へ分岐する線路を、それぞれ新設する(両者はアルト・ゴルダウ駅の手前で合流)。その結果、不要となる従来線の部分は撤去され、旧ゴルダウ駅も廃止する。
さらに、山麓線と登山線の切替えをオーバーアルトからこの新駅に移すことにしたので、代わりとなる車庫兼整備場を沿線に新築する。アルト・ゴルダウの駅舎は、ゴットハルト鉄道との共同使用とする。これにより、山麓線は延長され2.8kmに、登山線は短縮され8.7kmになった。
アルト・ゴルダウ付近のルート変遷図 |
これを第一次のルート変更とすると、第二次は、1897年のツーク~アルト・ゴルダウ間の標準軌新線(下注1)開業に伴って必要となった。新線は、チューリッヒ湖周辺からゴットハルト鉄道への短絡ルートとして建設されたもので、これによって、アルト・ゴルダウ駅は四方から路線が集まる一大ジャンクションに格上げされた(下注2)。
*注1 スイス北東鉄道 Schweizerischen Nordostbahn, NOB が建設して同時開通したタールヴィール~ツーク間と併せ、タールヴィール=アルト・ゴルダウ線 Bahnstrecke Thalwil – Arth-Goldau と呼ばれる。
*注2 もう1本の分岐線であるプフェフィコン(シュヴィーツ州)=アルト・ゴルダウ線 Bahnstrecke Pfäffikon SZ - Arth-Goldau は、1891年に開通済み。
駅構内の拡張に伴って、アルトの町により近い東側に、新たな駅舎と駅前広場が造られた。街道から広場に通じる道路、駅前通り Bahnhofstrasse も新設された。
ARBの線路配置については、ゴットハルト鉄道と何度も交渉が行われた結果、最終的に山麓線は駅前広場での発着、登山線は構内西寄りの上空に架かる高架ホーム Hochperron の発着となり、乗り場が初めて分離された(変遷図左下1897年の欄参照)。旧アルト・ゴルダウ駅の南側へ通じていた旧線は、山麓線から車庫へ通じる引込線として残された。線路延長は、山麓線2.7km、登山線8.7kmとなった。
この移設により同一ホームでの両線乗継ぎはできなくなったが、鉄道開通以来、船で来る登山客はほぼ途絶えてしまい、相互連携をとる必要性は失われていた。むしろ山麓線の客にとっては、駅舎の正面にできた新しい乗り場のほうがずっと便利に思われたはずだ。
参考文献(下記)の表紙 |
80年以上にわたって、アルト市民の身近な交通機関だった山麓線だが、第二次大戦後は、モータリゼーションの進展で利用者数は漸減していった。線路や車両の老朽化が進行し、1956年に連邦交通局から、状況は深刻だとして施設設備の全面更新を勧告された。しかし、経営の立直しをしたばかりのARBには、もはやそのための追加投資をする意思も余力もなかった。
翌年、株主総会が1年後の山麓線廃止を承認すると、アルトでは反対の声が沸き起こった。自治体から運行に対して補助金支給の提案、あるいは州政府に宛てた廃止阻止の陳情など、さまざまな対策が立てられた。しかし、最大の課題は巨額の更新費用をどうするかであり、小さな町がその負担に耐えられないのは明白だった。予定より1年延期されたものの、1959年8月31日、山麓線はついに廃止となり、翌日からバス運行に切替えられた(変遷図右下1959年の欄参照)。
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昨年8月、リギ山を訪れた帰りに、私も山麓線跡を途中まで歩いてみた。まず、アルト・ゴルダウ駅の西方、SBB線のリギアー川高架橋の下に、鉄橋の橋桁が残されている。残骸というわけではなく、中に水道管が通されている。ここは山麓線から分岐した車庫への引込線の跡で、ルーツをたどれば1875年開通当時の登山線の一部だ。
アルト・アム・ゼー方向へ進むと、自動車道路が左へそれていき、線路跡は狭い里道になって残っている。その名もトラムヴェーク Tramweg(電車道の意)だ。民家と牧草地の間を縫って緩い下り坂が続いていて、再びリギアー川を渡る地点では、護岸に古い橋台らしきものが見えた。
アルト・ゴルダウ駅正面 撮影者の位置がほぼ山麓線の駅跡 |
(左)アルト・ゴルダウ駅南側に残る側線 手前から奥へ直進するのが旧山麓線(現在、車庫に改修) 左に分岐するのが旧登山線 (右)左写真の反対側 SBB線に並行して旧山麓線が側線で残る |
(左)リギアー川鉄橋の遺構 (右)アルトへ向けて、トラムヴェークが下っていく 遠方はツーク湖 |
まもなく最大の遺構であるミューレフルートンネルに達する。長さ39mの短い素掘りのトンネルだが、下の写真をご覧いただくと、横幅に比べて天井が異様に高いのに気づくだろう。初めは普通の高さだったのだが、後に拡張されたのだ。トンネル横の案内板が経緯を伝えている。「1882年 ゴットハルト鉄道のルート設定が原因で、ゴルダウの停留所とともに粘着線がゴルダウまで延長された。このためにミューレフリューエリトンネル Mühleflüelitunnel(原文ママ)では勾配を緩和する必要が生じた。路盤は約1.5m掘り下げられ、現在の異常な高さをもたらした。」
開通当時、トンネルはラック式の登山線区間で、80‰の急勾配がつけられていた。しかし、1882年の第一次ルート変更で、ラックレールを撤去して粘着式に変更するにあたり、機関車が上れる程度まで勾配を緩和する必要が生じた。それでトンネル内の路盤を下げる工事が実施され、その結果、天井が異常に高くなってしまったというわけだ。
トンネルを出て、三たびリギアー川を渡ったところが、最初の山麓線・登山線の接続駅だったオーバーアルトの駅跡だが、痕跡は何も残っていない。
(左)ミューレフルートンネル東口 (右)異様な天井高のトンネル内部 |
(左)トンネル西口では普通のサイズに (右)橋の向こうがオーバーアルト駅跡 |
この後は、しだいに道幅が狭くなり、ゴットハルト街道 Gotthardstrasse に最接近する前後では、人のすれ違いがやっとの路地になってしまう。さすがに自転車は通行不可らしく、入口に歩行者専用道の標識が立っていた。大人が幼児の手を引く絵柄だが、この道幅ではそれすらためらわれる。
少し行くと、緑の牧草地が開けた。細道は右に、次いで左にと緩いカーブを切りながら、アルトの町に吸い込まれていく。終点アルト駅の構内は、山側が一定の幅をもつ子ども公園に、湖側の駅舎跡はスーパーマーケットと小公園になっている。しかし、トラムヴェークとバーンホーフシュトラーセ(駅通り)Bahnhofstrasse の街路名を記した標識以外、記念碑はおろか案内板も見当たらなかった。
(左)ゴットハルト街道に接近、右の路地がトラムヴェーク(以下は2024年7月撮影) (右)牧草地に緩いカーブを切る |
(左)トラムヴェーク起点の標識 (右)アルト駅跡の小公園 |
旧駅前からツーク街道 Zugerstrasse を横切ると、湖の船着き場に突き当たる。ちょうど桟橋から、観光船が出航しようとするところだった。船は、150年前と同じように北岸のツークの町を結んでいる。しかし、桟橋には見送る人もなく、リギ山への乗継ぎ客が駅との間を行き交った時代を想像するのは難しい。
(左)出航準備中の観光船 (右)旋回してツークへ |
山麓線を代行する路線バス アルト・アム・ゼーにて |
(一部改稿2024.9.30)
次回は、リギ山の尾根筋を走っていた山上鉄道を紹介する。
■参考サイト
スイスの廃止路線-アルト・アム・ゼー~アルト・ゴルダウ
Eingestellte Bahnen der Schweiz - Arth am See – Arth-Goldau
https://eingestellte-bahnen.ch/arth-rigi-bahn-arb/
本稿は、Sandro Sigrist "Talbahn Arth-Goldau" Prellbock, 1998、Florian Inäbnit "Rigi-Bahnen, Zahnradbahn Arth-Rigi" Prellbock, 2000、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
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