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2014年3月16日 (日)

フルカ山岳蒸気鉄道 I-前身の時代

フルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke

レアルプ Realp DFB ~オーバーヴァルト Oberwald DFB 間 17.86km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配118‰
1914~26年開通、1942年電化、1981年休止
1992~2010年保存鉄道(非電化)として順次再開

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グレッチュ駅の蒸気列車
 
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スイスアルプスの真っ只中、標高1300~2100mの高地を貫いて、ラック式蒸機が走るメーターゲージ(1000mm軌間)の保存鉄道がある。越える峠の名を採って、フルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke (DFB) というこの鉄道は、かつて「氷河急行 Glacier Express」も通った由緒ある路線を、廃線後、20年かけて全線復活させたものだ。まだ蒸機が主役だった時代の山岳旅行を彷彿とさせる貴重な鉄道のプロフィールを、3回に分けて紹介したい。

今回は、保存鉄道の前身である普通鉄道(BFD、FO)の生い立ちと廃止の経緯について。

万年雪の高峰が連なるアルプス中央部で、ローヌ川 Rhone/Rotten とライン川 Rhein の源流域が東西に伸びる回廊を成している(下注)。ここに鉄道を通そうとする動きは、20世紀に入って本格化した。

*注 回廊を形成するライン川の源流は、正確にはロイス川 Reuss(さらにその支流のフルカロイス Furkareuss、オーバーアルプロイス Oberalpreuss)とフォルダーライン(前ライン)川 Vorderrhein。

回廊の西側にあるヴァレー州 Valais/Wallis は、フランスとイタリアを結ぶ街道筋であり、フランスとの繋がりが強い。1910年に設立されたスイス・フルカ鉄道会社 Compagnie Suisse du Chemin de fer de la Furka、いわゆるブリーク=フルカ=ディゼンティス鉄道 Brig-Furka-Disentis Bahn (BFD) に出資したのも、大半がフランスの資本家だった。

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グレッチュから見た1900年ごろのローヌ氷河
Photo from wikimedia
 

最初の開通区間は、ブリークBrigからローヌの谷を遡り、オーバーヴァルト Oberwald を経てグレッチュ Gletsch までの46.2kmだ(下図参照)。着工から3年後の1914年6月に開通した。グレッチュは、19世紀半ばからローヌ氷河 Rhonegletscher の展望地であるとともに、グリムゼル峠を越えてマイリンゲン Meiringen へ、フルカ峠を越えてアンデルマット Andermatt へ通じる結節点にもなっていた。

開通式は、グレッチュに今も残るローヌ氷河ホテル Grand Hotel Glacier du Rhône で催された。招待された来賓たちは3本の列車に分乗して現地に向かったが、手前のスパイラルトンネルの中で最後の一列車が脱線してしまった。乗客は徒歩で闇の中から脱出し、なんとか式典に間に合わせたという。

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旧 FO(現 MGB)線と周辺の鉄道路線
image from SBB Network map Switzerland, © SBB http://www.sbb.ch/
 

フルカ峠の下をトンネルで貫く工事も並行して行われていたが、標高2100m以上の深い山中での作業は予想以上に過酷だった。イタリアから集められた作業員たちは寒さと資材不足、さらには岩や雪の崩落にも悩まされた。トンネルは1915年9月に貫通したものの、翌年5月に今度は、峠の東側のシュテッフェンバッハ橋梁が雪崩で押し流されてしまう。難工事が続いて資金はすでに底をついており、橋梁再建の見込みは立たなかった。

ブリーク~グレッチュ間の運行は継続されていたが、第一次世界大戦とそれに続く不況で需要は細り、1923年12月、鉄道会社はついに破産手続きに追い込まれた。

最初の企てはこうして潰えてしまったのだが、路線はそのまま放棄されたわけではない。フィスプ=ツェルマット鉄道 Visp-Zermatt-Bahn(VZ、下注)の経営者が主導した新会社が、事業を引き継いだからだ。出資金の大半は連邦政府が拠出し、沿線の各州、自治体、民間人も参加した。これがその後長らく路線の運営者となるフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn(以下、FO)だ。

*注 フィスプ=ツェルマット鉄道は、フィスプ Visp と、マッターホルンの麓にあるツェルマット Zermatt を結ぶ鉄道路線。後のBVZだが、この時点ではフィスプ~ブリーク間は未開通。

公的資本が投入されたのは、このルートが、観光路線であるとともに軍事的な重要性を秘めていたからに他ならない。なぜならアルプス地域は、祖国防衛のための「レデュイ Réduit」計画において、要塞地域と目されていた。南と北の平野部からの侵攻に対して、東西方向の補給線が確保できるかどうかは、死命を制する問題になる。

FOは、未開通区間の修復と仕上げに全力を注いだ。アンデルマット以西はフィスプ=ツェルマット鉄道、以東はレーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn (RhB) の支援を受けた。破壊されたシュテッフェンバッハ橋梁は、冬は分解して格納する組立て式の鉄橋に置換えられた。1925年10月に試運転列車がブリーク~アンデルマット~ディゼンティス Disentis 間を通しで走り、冬の運休期間を経て、1926年7月に開通式が執り行われた(下注)。

*注 ディゼンティス以東は、レーティッシェ鉄道が1912年に開通させ、1922年には電化も完了させていた。

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峠の駅オーバーアルプでの列車交換
 

運行はフィスプ=ツェルマット鉄道に委託され、この関係は1960年まで続いた。初期は一日4本の列車が運行され、全線を4時間半以内で結んだ。また、1930年6月にブリークとフィスプの間にメーターゲージの連絡線が開通(下注)すると、ツェルマットとサン・モリッツを結ぶ「氷河急行」がFO線経由で走り始めた。

列車名は、沿線随一の観光地だったローヌ氷河にあやかったものだが、この企画は予想以上の人気をさらった。峠の前後区間が降雪のない夏場のみの運行だったにもかかわらず、FO所属の10両の蒸機はこの年延べ20万kmを走り、20万4千人以上を輸送したという。

*注 これにより、現在もあるブリーク~ツェルマット間全線が開通したのだが、ブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道 Brig-Visp-Zermatt-Bahn/Chemin de Fer de Brigue-Viège-Zermatt (BVZ) への改称は、ずっと遅れて1962年6月になる。なお、2003年にFOとBVZは合併して、マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB) となった。

FOにとって、運営上解決すべき大きな課題が二つあった。一つは電気運転への転換だ。石炭燃料を国外に依存するスイスは、第一次大戦中、輸入価格の高騰で苦しんだ経験から、自前の水力発電を利用する鉄道電化を推進していた。フルカ越えの路線再建に際しては直流電化も検討されたものの、コストの点から見送られていた。

しかし、ナチスの台頭で国際情勢が再び緊迫の度を深めてくると、軍事利用をも見越して、FOにも電化工事の予算が回るようになる。レーティッシュ鉄道と同じ交流11000V、16 2/3 Hzが採用され、1941年5月にアンデルマット~ディゼンティス間、1942年7月にはブリーク~アンデルマット間の電化が完成した。電気機関車の導入で列車の速度向上も図られた。

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FO線を走る氷河急行
3・4両目にレーティッシュ鉄道の1等車が組み込まれている
フルカ~ティーフェンバッハ間で撮影
Photo by trams aux fils at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そのあおりを食らったのは、蒸気機関車だ。活躍していたHG 3/4形10両のうち、戦時の非常用として8両が残されたものの、第二次大戦が終結すると4両が売却され、1947年にフランス経由でベトナム(当時はフランス領インドシナ)へ送られていった(下注)。

*注 この機関車が1990年にスイスへ帰還する過程については、本ブログ「フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり」で詳述。

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冬季は解体される
シュテッフェンバッハ橋梁
Photo by Albinfo at wikimedia. License: CC0 1.0
 

もう一つの、そして最大の課題は、峠をはさむ区間の通年運行だ。FOは二つの険しい峠を越えていくが、このうちアンデルマットの東にあるオーバーアルプ峠 Oberalppass は、電化と同時に設置されたスノーシェッド(雪覆い)のおかげで、早い段階で冬場も運行できるようになっていた。

一方、西側のフルカ峠 Furkapass はさらに雪が深く、10月中旬から翌年6月中旬まで、なんと半年以上も運休を余儀なくされた。単に列車を止めるだけではない。雪崩や雪の重みによって設備が破壊されるのを避けるために、上記のシュテッフェンバッハ橋梁解体はもとより、ほぼ15kmにわたって架線を巻取り、約300本の架線柱も撤去する。そして雪解けが進むのを待って復元するという手順が、毎年繰り返されたのだ。

フィスプ=ツェルマット鉄道への業務委託が1960年に終了すると、FOは自前ですべての作業を行わなければならなくなった。高地を走る線路の保守費用に加えて、冬期運休に伴う旅客数の季節変動が激しく、路線の収益性は乏しかった。さらに1963年6月、除雪作業中に雪崩に巻き込まれ、数名の犠牲者を出す事故が発生した。FO線を通年運行させることは、鉄道会社だけでなくヴァレー州住民にとっても、もはや悲願となっていた。

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1970年代の氷河急行、グレッチュにて
背後にローヌ氷河が見える
Photo by trams aux fils at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

峠前後のラック式区間を一掃する長さ15.4kmのフルカ基底トンネル Furka-Basistunnel が着工されたのは、1973年のことだ。地質が悪く、予定の4倍もの工費を投じる難工事の末、1981年4月にトンネルは貫通した。

基底トンネルを経由する新線は、次のサマーシーズンに開通すると告知が出された。長年の夢が叶うと同時にそれは、55年間続いた旧線での運行が今年限りとなることを意味した。名残りを惜しむ人々が押し寄せ、峠を越える列車は、例年にない賑わいを見せるようになった。

急増した乗客に対処するために、臨時列車が設定された。峠の勾配区間は牽引定数が小さく、3本の列車を5分間隔で続行させるという、登山鉄道並みの応急策が採られた。珍しいその様子を撮影しようと、中間の各駅ではカメラを構えた人々が列をなした。

山の秋が深まる9月には、ブームが最高潮に達した。車両不足から、ブリーク~オーバーヴァルト間ではブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道の車両を融通してもらい、シェレネン線(ゲシェネン~アンデルマット)はバス代行になった。それでもさばききれず、とうとうスイス国民は、ラジオやテレビを通じて、フルカへの鉄道旅行を見合わせるよう要請されたという。

しかし、世紀の喧噪も終わる日が来る。1981年10月11日、多くの関係者に見送られながら、最終列車が峠を後にした。やがて雪が線路と施設を覆い尽くし、FO旧線は予定どおり永遠の冬籠りに入った。

鉄道の復興の過程については、次回

本稿は、"Reiseabenteuer am Rhonegletscher - Dampfbahn Furka-Bergstrecke" Eisenbahn Kurier Themen 45、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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