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2012年10月16日 (火)

オーストリアのラック鉄道-アッヘンゼー鉄道 I

アッヘンゼー鉄道 Achenseebahn

イェンバッハ Jenbach ~ゼーシュピッツ・アム・アッヘンゼー Seespitz am Achensee 間 6.76km
軌間1000mm、非電化、リッゲンバッハ式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配160‰
1889年開通

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アッヘンゼー鉄道の蒸機列車
イェンバッハ駅にて
 

アルプスに囲まれたチロル州 Tirol(下注1)に、開通当時のスタイルのまま、蒸気機関車がラックレールを上るアッヘンゼー鉄道 Achenseebahn(下注2)がある。蒸機を残す同種の鉄道はほかにもあるが、どこもイベント用に限定したり、油焚きの新型に入れ替えたりして、旧型機の負担をできるだけ減らそうと努めている。機関車の延命もさることながら、運行コストの圧縮、あるいは多客時の機動性を考えてのことだ。

ところがアッヘンゼー鉄道は、全便をオリジナルの蒸機で運行するという方針を決して崩そうとしない。しかも1889年開業という経歴は、現役のラック式蒸気鉄道ではヨーロッパ最古だ。今や動く重要文化財ともいうべきこの頑固一徹の鉄道を紹介しよう。

*注1 Tirol(ティロール)の日本語表記は慣用の「チロル」を使用する。
*注2 鉄道名は「アッヘンゼー鉄道」とするが、地名は「アッヘンゼー湖」と重ねず「アッヘン湖」と記す。

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アッヘンゼー鉄道は、標高530mのイェンバッハ Jenbach から、サミットとなる標高970mのエーベン Eben を経てアッヘン湖畔にある標高931mのゼーシュピッツ Seespitz に至る、軌間1000mmのラック式・粘着式併用の鉄道だ。延長6.76km(うちラック式区間3.43km)、最急勾配はラック式160‰、粘着式25‰。ラックレールは梯子形の平面形をもつリッゲンバッハ式を使っている。ラック式鉄道というと、見晴しのいい山頂に上るか、険しい峠を越えるものというイメージが強いが、この路線は高台にある湖が目的地だ。そのため、終点では連絡船が、列車の到着を待っている。

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それではなぜここに鉄道が敷設され、そして現在まで生き残ることができたのか。生い立ちに遡ると、もともとこの鉄道は、大規模な南北縦断線の一部を構成するはずだった(下図参照)。1886年に発表された構想では、ドイツ、バイエルン州のテーゲルン湖 Tegernsee を起点にして南下し、アッヘン峠 Achenpass を越える。オーストリアに入り、アッヘン湖からイェンバッハへ(この区間が現路線)、さらにツィラー川に沿ってマイヤーホーフェン Mayrhofen まで延伸するとされた。ミュンヘンからテーゲルン湖沿岸のグムント Gmund までは、すでに1883年に鉄道が通じていた(下注)ので、これとの連絡を目論んでいたのだろう。

*注 この路線は1902年に現在のテーゲルンゼー Tegernsee 駅まで延長されて、現存する。

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広域図
 

資金調達の目途がつき、急勾配区間でのラックレールの採用も決まり、計画の予備認可が下りたのは1888年。ところが、地元自治体が反対したため、湖の地主であり、汽船の運航もしていたフィーヒト Fiecht の修道院長のとりなしで、ようやく正式認可に漕ぎつけたという。認可期間は90年間とされた。さっそく秋から工事が始まり、その冬の穏やかな気候も与って、6.36kmの路線がわずか8か月の工期で竣工した。1889年6月に盛大な開通式が執り行われている。

引き続き、北方への延伸が検討された。しかし、あらゆる働きかけにもかかわらず、バイエルン州は関心を示さなかった。それと対照的に、南方への延伸計画は具体化し、1902年にツィラータール鉄道として実現するのだが、経営体は別で、かつ軌間は760mmが採用された。そのため、メーターゲージ(1000mm)のアッヘンゼー鉄道は、直通の不可能な短い支線として残ることになった。それでも第一次世界大戦までは、旅客輸送のほかに湖の周辺から伐り出された木材の輸送もあり、電化が検討されたほど経営は堅調だった。

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ゼーシュピッツ駅で接続する湖上連絡船
 

ところで、開通時の終点は現在の場所と異なる。船の桟橋の400m手前、線路がちょうど湖岸に達したところがもとの駅の位置だ(下図で、Former Terminusと注記した星印)。遠浅のため、この付近に桟橋を設けることはできず、別に600mm軌間のトロッコ用レールが桟橋まで敷かれていた。貨物は手押しトロッコに載せられ、列車と船の間を往復した。これは例の修道院の意図によるもので、ささやかな連絡運輸から上がる収益を狙ったらしい。

しかし、第一次大戦中の1916年、軍部は輸送力増強のために、トロッコ線を撤去し、本線を桟橋横まで延ばした。この改造は戦時措置だったが、1929年、正式に認可され、アッヘンゼー鉄道の延長は6.76kmとなった。

*注 下図で、Former Terminusと注記した星印の位置が開通当時の終点。遠浅のため、この付近に桟橋を設けることはできなかった。

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アッヘンゼー鉄道周辺図
 

船との接続が改良されたとはいえ、その後の歩みも決して平坦ではなかった。敗戦で帝国が解体されると、国内に不況が蔓延し、鉄道はたちまち運行中止の危機に陥った。なんとか持ちこたえられたのは、新たな発電所の建設に伴って資材運搬という任務が生じたおかげだ。

アッヘン湖の水は南のイン川 Inn へ注いでいるように思うが、実はそうではない。もともと北へ流れ出て山中を通り抜け、ミュンヘン市街を貫くイーザル川 Isar に合流していた。その水を南へ導き、イン谷 Inntal との間に生じる380mの高低差を利用して発電する。この開発計画は1928年に実現した(下注)。発電所を経営したのは、このために設立されたチロル水力発電株式会社 Tiroler Wasserkraft AG、略称TIWAGで、この先、鉄道とも深い関わりをもつことになる。

*注 図2で、湖から発電所(Power Stationと表記)につながる青色の破線が導水路。取水の結果、湖水の北への流出はほぼ止まってしまった。

1930年、小鉄道の将来に希望を見いだせない会社は、バス路線を併営するようになる。1933年からのナチスドイツによる経済制裁、いわゆる1000マルク封鎖は旅行者を激減させ、再び鉄道を危機に追い込んだ。しかし、1938年にオーストリアがドイツ帝国に併合されたことで旅行需要は回復し、さらに第二次大戦中は、労働者や工場の疎開、ガソリン不足などの事情が重なって、年間利用者数が14万人を越えた。

戦後は反動で一時利用者が落ち込むが、1950年にTIWAGが鉄道会社の大株主を引受けたころから再び持ち直した。だが、課題は別のところに潜んでいた。戦中戦後の酷使によって、施設設備の疲弊が進行していたのだ。1970年代になると状況は深刻化し、観光利用は安定的ながら、保守に要する費用はTIWAGが内部補填できる限界に達するようになった。時あたかも路線認可の期限(1889年から90年後)が近づいており、延長申請を行わないという選択肢も検討されていたようだ。

存続の危機に直面したとき、19世紀の建設計画には反対した市民が、今度は良き理解者となって現れた。歴史的価値が高く、地域振興に欠かせない観光資源を救おうと、1978年に市民主導で行動委員会が組織され、行政への働きかけが行われた。その結果、認可は2年間延長されることになり、その間にTIWAGが保有する鉄道会社の株式は、エーベン Eben、アッヘンキルヒ Achenkirch 両村が折半で引き受けることが決まった(1991年からイェンバッハ村も資本参加)。

これに先立ち、バス事業は本体から切り離され、他社に譲渡された。さらに連邦や州政府、TIWAGの財政援助を得て、老朽化した線路の更新工事が開始された。1982年からは、認可期間が10年単位で延長されており、アッヘンゼー鉄道の運営は軌道に乗っているようだ。

一方、老機関車たちも、この間にさまざまな試練を乗り越えてきた。1889年の開通時に配備されたのは4両の蒸気機関車だった。粘着式・ラック式が併用できる仕様で、ウィーン・フローリッツドルフ機関車工場 Wiener Lokomotivfabrik Floridsdorf から納入されたものだ。このうち4号機は早くも1930年に廃車となり、同僚への部品供給の役を果たした後、1954年に最終処分された。残る1~3号機が、傷んだ部品の交換を受けながら現役を続けてきた。

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機回し中の3号機、旧名「ゲオルク」
 

ところが2008年5月に、イェンバッハの機関庫で電気回路のショートによる火災が発生し、建物とともに1号機が丸焼けになるという事態に見舞われる。他の2両は被害を免れたものの、それだけでシーズンを乗り切るのは難しい。幸いなことに、長年空番のままの4号機を復活させる計画が約10年前から進められていた。台車や駆動装置など主要部に1~3号機の改修で生じたお下がりを使うなど、オリジナルに忠実に製作されており、ほとんど完成の状態だった。

そこで、運行に必要な整備が3週間の突貫作業で行われ、4号機はピンチヒッターとして現場に送り出された。また、焼損した1号機も、ボイラーを新調するなどして2009年中に修復が完了した。こうして2010年のシーズンには、80年ぶりに4両の蒸機が揃い踏みを果たすことになった。

機関車は、それぞれ財政支援をしている沿線自治体の名にちなんだ愛称を持っている。1号機は「エーベン・アム・アッヘンゼー Eben am Achensee」、2号機「イェンバッハ Jenbach」、3号機「アッヘンキルヒ Achenkirch」という。

側壁には名称プレートがもう一つついているが、これは開通当時の愛称だ。1号機「テオドーア Theodor」、2号機「ヘルマン Hermann」、3号機「ゲオルク Georg」。そして、復活した4号機は、理解ある主要株主の孫娘の名をとって「ハナー Hannah」と命名されている。

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側面のネームプレート
 

ではさっそく、3号機「アッヘンキルヒ」が推す列車に乗って、アッヘンゼー鉄道のルートを追うことにしよう。続きは次回

本稿は、英語版公式ガイドブック "Achensee Steam Cog Railway" Management of Achenseebahn-AG. 10th revised edition, 2009、Günter Denoth "Drei Spurweiten, Ein Bahnhof" Sutton Verlag, 2011、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
アッヘンゼー鉄道(公式サイト) http://www.achenseebahn.at/

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