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2012年6月11日 (月)

ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史

ザルツカンマーグート地方鉄道 Salzkammergut-Lokalbahn (SKGLB)

本線:バート・イシュル Bad Ischl ~ザルツブルガー・ロカールバーンホーフ(ザルツブルク地方鉄道駅)Salzburger Lokalbahnhof 間 63.2km
支線:ザンクト・ローレンツ St. Lorenz ~モントゼー Mondsee 間 3.5km
軌間760mm、非電化
1890~94年開通、1957年廃止

もし存続していたなら、きっと観光路線として人気を博していたに違いない。先のことなど見通せないと言ってしまえばそれまでだが、廃止された鉄道の中にはこう思わせるケースがいくつかある。オーストリア中部の湖水地方を東西に貫いていた「ザルツカンマーグート地方鉄道 Salzkammergut-Lokalbahn」、略称SKGLB もその一つだ。

SKGLBは軌間760mmの蒸気鉄道で、本線は、皇帝の夏の離宮が置かれた保養地バート・イシュル Bad Ischl を発して、ヴォルフガング湖 Wolfgangsee とモント湖 Montsee の南岸を通り、フラッハガウ Flachgau と呼ばれる台地を越えて、国際観光都市ザルツブルク Salzburg に達する63.2kmの路線だった。中間部のザンクト・ローレンツ St. Lorenz では、モントゼー Mondsee 市街に向かう3.5kmの支線が分岐していた。また、前回紹介した登山鉄道、シャーフベルク鉄道 Schafbergbahn やヴォルフガング湖上の航路も、かつてはSKGLBの経営だった。

起点、終点、経由地のいずれも著名な観光地という非常に恵まれた条件を有しながら、鉄道は1950年代に蒸気運転のままあっさりと廃止されてしまった。あまりに早すぎた終焉の背景には何があったのだろうか。その歴史から振り返ってみよう。

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ザルツカンマーグート地方鉄道 全体図
 

ザルツカンマーグート地域は貴重な岩塩が採れることから、ハプスブルク帝国の直轄領だった。その中心に位置するイシュル(バート・イシュル)は塩分の多い鉱泉が湧く土地で、効能が知られるようになった19世紀に貴族の保養地として発展した。19世紀後半に入ると、ここでも鉄道敷設の機運が高まり、1877年、トラウン川 Traun に沿って標準軌の路線(下注)が開通した。

*注 シュタイナッハ=イルトニング Stainach-Irdning ~アットナング=プフハイム Attnang-Puchheim 間 106.9km。現在もÖBB(オーストリア連邦鉄道)の路線網の一部を成す。さらに北のシェルディング Schärding までの区間を含めてザルツカンマーグート線 Salzkammergutbahn と称されることがあるが、これらは今回のテーマであるザルツカンマーグート「地方」鉄道とは全く別の路線だ。

この新線が地域を南北に貫いたのに対して、東西方向の鉄道を整備しようという動きも早くからあった。すでに1860年代に最初の計画ができていたのだが、1873年の株価暴落をきっかけとした大不況のために、いったん無に帰した。

政府の地方振興策に刺激されて新たな建設構想が生まれたのは、イシュルへ鉄道が通じてから10年後の1887年だ。それは、交通企業シュテルン・ウント・ハッフェルル社 Stern & Hafferl の創業者ヨーゼフ・シュテルン Josef Stern に引継がれたことにより、実現に向かった。シュテルンらが出資してザルツカンマーグート地方鉄道会社が設立され、1890年に路線の認可を受けた。

路線は、資金的な理由で線路規格を狭軌にせざるをえなかった。沿線には木材以外に目ぼしい貨物需要がなく、旅客輸送なら狭軌で賄えるという判断もあったと思われる。しかし、これが後に運命の分かれ目になる。

軍当局は、軌間(線路幅)を760mmのいわゆるボスニア軌間 Bosnische Spurweite(下注)にするよう圧力をかけてきた。この基準は、オーストリア(当時はハンガリーとの二重帝国)が1878年に事実上占領したボスニア=ヘルツェゴヴィナの鉄道で採用されていたものだ。ロシアやトルコが絡むバルカン半島情勢の行方はなお不透明で、軍は国内の狭軌線をこの軌間に統一させ、半島有事の際に徴発することを目論んでいた。

*注 ほぼ同じ軌間だが、イギリスとその影響を受けた諸国では2フィート6インチ(762mm)と定義されている。

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参考文献(下記)の表紙
 

建設工事は3段階に分けて実施された。最初の開通区間は、東側のイシュル地方鉄道駅 Ischl Localbahnhof ~シュトロープル Strobl 間 9.0kmで、1890年8月のことだ。この区間は平坦な地形が広がるため、工事は比較的容易だった。なお、起点となった地方鉄道駅は、標準軌線のイシュル国鉄駅とは場所が異なり、市街をはさんで反対の北西郊にあった。国鉄駅へ接続するには市街を迂回するトンネルの掘削が必要だったため、本開通までの間、暫定駅が造られたのだ。一方、終点シュトロープルはヴォルフガング湖岸に近く、旅客は湖上を行く船に乗換えて先へ進むことができた。

2番目は、西側のザルツブルクからザンクト・ローレンツ St. Lorenz までの28.1kmと、支線のザンクト・ローレンツ~モントゼー Mondsee 間3.5kmだ。ザルツブルクでは、標準軌線の築堤をくぐって中央駅の裏側に、他のローカル線と共同使用の地方鉄道駅 Lokalbahnhof(時刻表ではザルツブルク・イシュル駅 Salzburg Ischler Bahnhofと表記)が設けられた。

最後の工事となる中間部、シュトロープル~ザンクト・ローレンツ間22.5kmは、断崖の迫る湖岸に発破をかけ、2つの湖を隔てる分水界にトンネルを穿つ難工事で、1893年6月の開通までに2年を要した。その2か月後にはシャーフベルクへ上る登山鉄道や山上ホテルも整備され、この地域に鉄道旅行の時代が訪れた。また、懸案だったバート・イシュル国鉄駅への乗入れは翌年、1894年7月に実現し、全国鉄道網と接続されている。行き止まりの旧 地方鉄道駅は廃止となり、ささやかながら車両基地に転用された。

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表紙絵の拡大、J.Varrone 画
1891年、SKGLBの依頼で壁貼り時刻表の挿図として発表
右がヴォルフガング湖、左手前がモント湖、左奥はアッター湖。中央奥の高い山がシャーフベルク山、中央手前の岩山はドラッヘンヴァント Drachenwand。よく見ると、左手前に煙を高々と噴き上げる地方鉄道の蒸機列車が描かれている。
壁貼り時刻表のオリジナルは次の写真参照
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:SKGLB_Mondsee_-_Fahrplan_1.jpg

 

全通によって、客足は会社が予想した以上の伸びを示した。ふだん、旅客列車は客車3~5両に手荷物車1両から成っていたが、夏のシーズンには押し寄せる旅行者をさばくために、しばしば機関車を重連にして長い編成で走った。好調な業績を受けて1907年には電化計画が持ち上がったが、軍部は、電気機関車ではボスニアへの投入が不可能になると考えて反対した。シュテルンは5年後にも再挑戦したが、結局実現はしていない。

順風満帆に見えたSKGLBの経営状況に大きな転換をもたらしたのは、戦争の勃発だった。1914~18年の第一次世界大戦では、軍部の目論見どおり、蒸気機関車6両が徴発に遭い、戦場に送られた。国内でも石炭や運行要員が不足したため、終盤になると減便や運休が相次いだ。さらに戦争終了後も、帝国解体に伴う不況の影響が大きく、会社は深刻な資金難に陥った。

1920年代、鉄道の運営は、オーストリア国鉄、シュテルン社その他の間を転々とする。乗客数が上向いてきたのも束の間、1929年に発生した世界恐慌で、再び打撃を蒙った。1932年にはついに、シャーフベルク鉄道と山上ホテル、湖上航路を売却することになり、40年近く続いた一体的関係に終止符が打たれた。

1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると、翌年、会社は資産没収を受け、鉄道の所有権は帝国大管区 Reichsgau(下注)に移された。時流は再び世界戦争へと突き進んでいく。

*注 併合によって設けられた行政区分。路線はザルツブルク帝国大管区 Reichsgau Salzburg と上ドナウ帝国大管区 Reichsgau Oberdonau にまたがるため、両大管区の所有となった。

すでに自動車交通が台頭して鉄道の旅客部門を蚕食し始めていたが、第二次大戦中はガソリン不足のため、乗客数は減るどころか、かえって激増した。戦前、最多時でも年間60万人程度だった旅客輸送量が、戦後まもない1946年には3倍以上の210万人を記録している。

しかしそれがピークだった。復興が軌道に乗り始めると、利用者はバスや自家用車へ戻っていった。鉄道車両は、戦時中の過重な運行によって線路ともども疲弊しきっていた。それに主力はまだ蒸機が牽引する列車で、狭軌のため時速は40kmに制限されていた。道路の整備もまだ十分ではなかったが、全線60数kmに3時間近くを要する列車に比べれば、バスのほうが速く便利だった。「そいつは実にそろりそろりとやってくる Sie kommt gar langsam und bedächtig」。その頭文字がSKGLBだと揶揄されたのは、狭軌の蒸気鉄道が時代遅れの乗り物とみなされていた証拠だろう。

鉄道の所有権を引き継いでいたザルツブルク州とオーバーエースタライヒ州は早くから、路線を近代化できなければ存続はないと考えていたようだ。そのため、最悪の事態を回避しようとする努力が繰り返された。両州は、電化のためにアメリカによる復興援助、いわゆるマーシャルプランの資金を獲得しようと連邦政府に働きかけた。続いて、国鉄ÖBBが運営を引継いで、ディーゼル機関車を導入するという案が報じられた。シュテルン社もまた独自の救済計画を提出した。

しかし、結果的にどの策も日の目を見ることはなかったのだ。このころになると列車ダイヤが切詰められ、本線といえども1日5往復の閑散路線に落ちぶれていた。ついに1957年9月30日、名残りを惜しむ1万人の人々に見送られて最後の旅客列車が出て行き、10月10日限りで貨物列車も運行を停めた。SKGLBはこうして全線廃止となった。

オーストリアの狭軌路線は、先述のように軍部の要求があったため、760mm軌間で建設されたものが多い。その中でSKGLBは、延長50kmを越え、州境をまたぐような規模の路線として最初の廃止例だったという。沿線は、比較的開けた土地で人の往来が多く、観光資源も豊富だった。それだけに、戦後の高度成長期、速さや快適さや新しさがもて囃された時代に、逆風をまともに受けてしまったのだろう。廃止後まもなく線路がすべて撤去されたため、保存鉄道での存続や復活も叶わなかった。

その一方で、ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn、ツィラータール鉄道 Zillertalbahn(下注)のように、もっと辺鄙な山中の狭軌路線が生き長らえ、活用されている。当時、時代遅れと思われていた蒸気機関車が、今ではノスタルジアを醸し出す誘客の道具になっているのは皮肉なことだ。

*注 両鉄道については、「オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 I」「オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道」で詳述。

次回は、SKGLBが走っていたルートを追ってみたい。

本稿は、J.O.Slazak "Von Salzburg nach Bad Ischl" Verlag Josef Otto Slazak, 1995 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ザルツカンマーグート地方鉄道クラブ Club Salzkammergut Lokalbahn
http://www.skglb.org/
モントゼー交通・イシュル鉄道博物館
https://www.museum-mondsee.at/museen/verkehrs-und-ischlerbahn-museum/
同鉄道の車両データ
http://de.wikipedia.org/wiki/Fahrzeuge_der_Salzkammergut-Lokalbahn
同鉄道の写真、図面
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Salzkammergut-Lokalbahn

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