ウィスキー・ウォッカ線-国境を動かした鉄道
国境が移動したため、鉄道の敷地だけが他国の領土になった事例を、以前紹介したことがある(下注)。今回は、大砲鉄道探求の番外編として、その近所で生じた別の史実を取り上げよう。すなわち、他国に占領されてしまった鉄道の敷地を取り戻すために、互いの占領地を交換したという話だ。土地の交換によって境界線が引き直され、その後、各占領地の上に西ドイツ、東ドイツという2つの国家が樹立された。結果として、鉄道の存在が国境を移動させたことになる。
人々は鉄道のことを「ウィスキー・ウォッカ線」と呼んだが、ドイツだというのに、ビールでもワインでもなく、他国産の酒の名が使われたのはなぜなのか。ドイツ中部の現場に視点を移そう。
*注 本ブログ「ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I」参照
アイヘンベルク(図左上)付近の1:200,000地形図 © Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2012 |
カッセルの東30~40kmにあるヴェラ川 Werra 沿いでは、現在、ニーダーザクセン、ヘッセン、テューリンゲンの各州が接している。時代を遡ると、この境界線は、1815年のウィーン会議で確定したハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、プロイセン王国の国境だった。三者は1866年、他の諸邦とともに北ドイツ連邦 Norddeutscher Bund を結成し、さらに1871年の普仏戦争で連邦国家ドイツ帝国に統一された。その時点で国境としての重要性は薄れたといってよい。
地域に鉄道が敷かれたのも、ちょうどこの時期だ。ハレ=カッセル鉄道 Halle-Kasseler Eisenbahn が1867年、ライネ川 Leine 沿いに東方から延長されてきて、北方のゲッティンゲン Göttingen につながった。続いて1869年には、同線のアーレンスハウゼン Arenshausen で分岐して、アイヘンベルク Eichenberg を通り、ハン・ミュンデン Hann. Münden からカッセル Kassel 方面への連絡線が開通した。
これを横糸とすると、少し遅れて1876年に、縦糸となるゲッティンゲン=ベブラ線 Bahnstrecke Göttingen–Bebra が南から延びてくる。ドイツ統一で増加することが確実視された南北間の交通需要に応えるために、路線は構想されていた。横糸と縦糸はアイヘンベルクで交差し、同駅が連絡駅となった(下注)。かつての国境は建設の障害でなくなったと見え、鉄道のルートは駅の南で、入り組んだ境界線を堂々と横断している。
*注 連絡駅設置によって、アーレンスハウゼン Arenshausen からゲッティンゲン方面へ北上するもとのハレ=カッセル鉄道本線は、1884年に廃止された。
連合軍による占領地域 |
第二次大戦前の時点では、境界線は帝国内の行政区分により、ハノーファー州 Provinz Hannover、ヘッセン・ナッサウ州 Provinz Hessen-Nassau、ザクセン州 Provinz Sachsen(下注)の州境となっていた。1945年、戦争が終結すると、ドイツはポツダム条約に基づき、連合国による分割占領下に入った。ハノーファー州はイギリスの、ヘッセン・ナッサウ州はアメリカの、そしてザクセン州はソ連の占領地域(ゾーン Zone)に属するとされた。
*注 1938年から帝国大管区 Reichsgau に再編され、区域・名称が変更されたが、ここでは便宜上、それ以前の行政区分で記述する。なお、ここでいうザクセン州は、1815年にザクセン王国からプロイセンに割譲された地域(現在はテューリンゲン州の一部)であり、残された王国領を引き継いだ形の現ザクセン州とは別。
そのことが俄然、ゲッティンゲン=ベブラ線の存在を際立たせることになった。なぜなら、南ドイツを占領したアメリカが、北海に通じるブレーマーハーフェン Bremerhaven を陸揚げ港に確保して、南部まで物資を輸送しようとしたからだ。さらに、従来南北交通の主流だった東回りのルートが、ソ連ゾーンに組み込まれたため、利用が難しくなっていたという事情もあった。
とはいえ、ゲッティンゲン=ベブラ線自体も輸送路として万全ではなかった。先述のとおり、アイヘンベルクのすぐ南で州境をまたいでいるからだ。そのため、延長にして4kmあまりが、ソ連ゾーンに含まれてしまった。赤軍兵士は、この区間に入ってきた列車を停車させ、積荷を略奪したり、乗客に危害を加えるといった露骨な妨害手段に出た。高まる緊張を解くために、米ソ間で会談が持たれることになった。会場として用意されたのは、現場から南東20数km、ヴァンフリート Wanfried にある貴族の屋敷「カルクホーフ Kalkhof」だった(冒頭地図の右下に位置する)。
米ソ会談の会場となったカルクホーフ Photo by Jürgen Katzer from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0 |
協議の末、1945年9月17日に調印されたいわゆるヴァンフリート協定で、鉄道が通過しているソ連ゾーンのヴェルレスハウゼン Werleshausen 周辺8.45平方kmと、アメリカゾーンにあるアースバッハ・ジッケンベルク Asbach-Sickenberg 他3村の7.61平方kmの交換が決定した。これにより、鉄道は晴れて全線がアメリカゾーンに編入されることになった。調印に立ち会った関係者らは、協議が無事整ったことを祝して会場で杯を交わした。アメリカ人はウイスキー、ロシア人はウォッカの瓶を空けた。こうして土地交換の原因となったゲッティンゲン=ベブラ線のことを、地元の人々は「ウィスキー・ウォッカ線」と呼ぶようになったという。
ヴァンフリート協定による境界変更 |
このときは単なる占領地の線引きと考えられていたかもしれない。しかし、後に東西ドイツが成立したことで固定化され、世界地図に数十年も残る内部国境になってしまった。同じ州の隣村が、協定のために遠い異国となった。アイヘンベルクの東で境界をまたいでいた線路は撤去され、鉄条網と緩衝地帯で閉ざされた。駅も、境界に沿って走る鉄道も、長い間、東ドイツの監視塔の視界に入っていた。「ウィスキー・ウォッカ線」の呼び名には、他国に運命を変えられた土地の人々の複雑な思いが込められているのだ。
連合軍による軍政期には、ほかにもこうした小規模な境界整理が実施されたが、占領国間の協定という形をとったのはヴァンフリート協定だけだ。おそらく南北輸送路としての鉄道の重要性が、ポツダム協定と同じ形式での問題解決を要求したのだろう。
本稿は、参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版の記事(Bahnstrecke Göttingen–Bebra, Halle-Kasseler Eisenbahn, Wanfrieder Abkommen)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:200,000 CC4718 Kassel(1983年版), CC4726 Goslar(1987年版), CC5518 Fulda(1983年版), CC5526 Erfurt(1988年版)を用いた。
■参考サイト
東西冷戦史-ウイスキー・ウォッカ線
http://www.coldwarhistory.us/Cold_War/The_Whisky-Vodka-Line/the_whisky-vodka-line.html
アイヘンベルク付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=51.3762,9.9270&z=14
★本ブログ内の関連記事
ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線
ドイツ 大砲鉄道 II-ルートを追って 前編
ドイツ 大砲鉄道 III-ルートを追って 後編
ロッセタール鉄道-6線軌条を行くトラム
« ドイツの1:200,000地形図ほか | トップページ | ナウムブルク鉄道-トラムと保存蒸機の共存 »
「西ヨーロッパの鉄道」カテゴリの記事
- ゴーサウ=ヴァッサーラウエン線(2025.01.17)
- アルトシュテッテン=ガイス線(2025.01.12)
- ザンクト・ガレン=ガイス=アッペンツェル線(2025.01.04)
- トローゲン鉄道(2024.12.21)
- ロールシャッハ=ハイデン登山鉄道(2024.12.07)
コメント