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2012年2月 2日 (木)

ドイツの地形図概説 I-略史

中小国の分立状態から統一国家へ、2度の敗戦を経て東西に分割、そして再統一と、19~20世紀のドイツ史は波乱に満ちている。地形図製作の歴史もその動きを反映して、実に多彩だ。さらに現代ドイツは、広い自治権を有する16の州から成る連邦制をとっている。土地測量は州の権限とされ、地形図データベースの整備も各州と連邦の分担方式だ。

いつものように地形図体系を紹介する前に、歴史の縦軸と地域性の横軸、この2つの特徴を押さえておくことが、この国の地形図を理解する上で助けになるだろう。今回は、そのうち縦軸に焦点を当てて、同国地形図の歴史を概観してみよう。

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1:25,000平板測量図の例
シュテティーン Stettin
(現ポーランド シュチェチン Szczecin)1938年版
 

ドイツの地に近代測量が広まるのは18世紀後半からだが、それから約1世紀の間は領邦国家と呼ばれる中小の独立国が、各々独自の体系で領内の地図を作成していた。初期の例として、北部のハノーファー王国では1764~1786年に作られた縮尺1:21,333相当のクーアハノーファー測量図 Kurhannoversche Landesaufnahme 165面(下記参考サイト)、南西部の各邦では1797年に完成した縮尺1:57,600相当のシュミット図 Schmitt'sche Karte 198面などがある。いずれも地勢をケバ式で表し、都市・集落や水部、耕作地などを彩色した美麗な手描き地図だ。

■参考サイト
クーアハノーファー測量図の画像(2点)
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Syke_Kurhannoversche_Landesaufnahme_1773.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Weyhe_Kurhannoversche_Landesaufnahme_1773.jpg
シュミット図のインタラクティブマップ
http://mapire.eu/en/map/schmittsche-karte/

1815年のウィーン議定書によって領土を拡張したプロイセン王国は、1822年から全土の測量事業に着手し、1850年までに縮尺1:25,000の手描き彩色図(初期平板測量図 Urmeßtischblatt)を完成させた。この地図は1868年に公開制限が解除されるまで、長い間機密の扱いだった。また、1:25,000を基礎資料にしてより広範囲を収録した1:100,000地形図の編集も行われている。

1:100,000は1847年に完成したが、西部地域については、既存のフォン・ルコック図 Karte von v. Lecoq などを利用したため、フランス系の1:86,400という縮尺が採用された(下注1)。なお、初期平板測量図で定められた経度10分、緯度6分の図郭は、その後ドイツの地形図体系の骨格となり、今日まで引き継がれている(下注2)。

*注1 1:86,400はカッシーニ図由来の縮尺で、図上1リーニュ ligne が実地100トワーズ Toises を表す。リーニュ、トワーズはメートル法以前のフランスの計測単位。
*注2 ただし、初期の図番は連番方式だった。現行の4桁図番は1937年に使われ始めた。

■参考サイト
1:25,000彩色平板測量図の画像
ベルリン北部 Berllin Nord
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Urmesstischblatt_3446_(Berlin_Nord)_um_1840.jpg

1866年、1871年と対外戦争(普墺戦争、普仏戦争)に勝利したプロイセンは、領邦国家と連合してついにドイツ統一を成し遂げた。そして、1875年から国土の再測量を開始し、改めて全国規模で1:25,000図の整備を進めていった。北ドイツではプロイセンが測量を主導したが、南ドイツ諸邦(ヘッセン大公国、バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンおよびザクセン)では、既存の地形図の編集や改測によっている。

この地図は、測量方式から「メスティッシュブラット Meßtischblatt(平板測量図)」と呼ばれ、1:25,000地形図の同義語にもなった。図郭や投影法は旧図に倣っているが、高度の単位は、その年に締結されたメートル条約に基づいてメートルとされた。また、高度の統一基準に初めて平均海面(ノルマールヌル Normalnull)を採用し、地勢表現にはケバに代えて等高線を使う(下注)など、現代地形図のスタイルが確立されたのが、このシリーズだ。

*注 等高線は、1846年の初期平板測量図で初めて適用され、このシリーズに引き継がれた。

■参考サイト
1:25,000平板測量図の画像
ボン Bonn 1906年追補版
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bonn1906.jpg
ドレスデン Dresden 1904年版(ザクセン王国による刊行図)
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Messtischblatt_Dresden_1904.jpg
シュヴィーブス Schwiebus、現ポーランド シフィエボジン Świebodzin 1933年修正版
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Messtischblatt_nr_3759_(Schwiebus)_z_1933.jpg

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1:100,000ドイツ帝国図の例
ツヴィッカウ Zwickau 1937年版の単色復刻
(原図を2倍拡大)
 

並行して1878年から1:100,000図の再整備が、バイエルン、プロイセン、ザクセンおよびヴュルテンベルク各諸邦の協定により始まり、1909年に銅版1色刷で全675面が完成した。こちらは「ドイツ帝国図 Karte des Deutschen Reiches」、あるいはプロイセンの旧図時代から使われてきた「参謀本部地図 Generalstabskarte」の名称で知られる。図郭が小ぶりなため、4面を貼り合せた大判図 Großblatt も作られた。

ドイツ帝国図は、地勢表現がケバ式のままだったが、それは当時、等高線に比べて精密で立体的な地形描写ができると考えられていたからだという。1899年からの改訂版(B版)は黒、茶、青の3色刷とされたが、世界恐慌のあおりですべての改訂を終えることなく製作中止となった。

ちなみに、わが国でも1889~95年にかけて、これを模範にした1色刷1:100,000帝国図が製作されたことがある。東海地方8面を製作しただけに終わったが、内容はドイツのお手本に引けを取らない精妙なケバで描かれた地図だった。

それはともかく、第二次大戦以前のドイツの地形図体系では、上記1:25,000と1:100,000の2種が全国をカバーする代表的なシリーズだった。

■参考サイト
ドイツ1:100,000帝国図の画像
コッヘム Cochem 1914年追補版
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cochem_(Karte_des_Deutschen_Reiches,_504._Cochem)_-_urn-nbn-de-0128-1-12751.jpg

戦後、英米仏ソ4か国による分割占領を経て、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した。西ドイツでは、1950年代に1:25,000から編集した1:50,000図が初めて登場している。続いて1:100,000も多色刷の編集図に変わり、面目を一新したが、1:25,000のほうは3~4色化された以外あまり手が加えられず、近年まで戦前の図式が引き継がれていた。

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東ドイツ1:25,000地形市街図の例
ベルリン中心部 Berlin-Mitte 1989年版の1993年復刻
 

一方、東ドイツはこの系譜から切り離され、東欧共産圏(ワルシャワ条約機構加盟国)に共通する新基準で、地形図の整備が進められた。基本図 Grundkarte と位置づけられた1:10 000で全土をカバーしており、1:25,000、1:50,000、1:100,000、1:200,000など、より小縮尺の地形図はこれをもとに編集された。これらはすべて軍事機密として扱われたが、軍用情報を省いた業務用地形図も作成されていた。前者は国家版 Ausgabe Staat(略称 AS)、後者は国民経済版 Ausgabe Volkswirtschaft(同 AV)と呼んで区別された(下注)。

*注 東ドイツが作成した地形図については本ブログ「旧 東ドイツの地形図 I-国家版」「旧 東ドイツの地形図 II-国民経済版」で詳述している。

1990年のドイツ再統一後、旧東側の各州(新連邦州)ではこうした地形図の機密が解除され、国家版を含めて膨大な数の地形図が一般の用に供された。右上図はその1枚で、東側に属していたベルリン中心部の1:25,000地形市街図 Topographischer Stadtplan だ。しかし、数年のうちに、旧西側の図郭に合わせて(すなわち戦前の図郭を踏襲して)、編集し直された暫定版 Vorläufige Ausgabe が刊行されるようになった。この時期、地形図の表紙は同じデザインであっても、地形図の図式は東西でほとんど共通性がなかった。

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1:50,000地形図表紙
ミュンヘン 2011年版
 

1990年はまた、ドイツの地形図データの管理システムが新たな方向に動き出した記念すべき年でもある。連邦と各州の測量局が構築した公式地形・地図情報システム(アトキス)Amtliches Topographisch-Kartographisches Informationssystem (ATKIS) と呼ばれるデータベースがこの年、稼働し始めたからだ。もちろん、国家再統一を受けて、対象範囲は旧東側にも拡張された。

ここで管理された地形図データは、ウェブ上の地図閲覧システムで提供されるだけでなく、印刷物としての地形図にも反映されていった。版が古かった1:25,000が優先されたが、現在ではすでに他の縮尺の地形図も多くがここからの出力イメージに拠っている。地形図の表紙に、地球を模したATKISのマークが入っていれば、その製品だ(右図はその例、下注)。

*注 地形図の近年の動向は、1:25,000、1:50,000など縮尺別の記事(下記「本ブログの関連記事」からリンク)で詳述している。

ドイツの地形図は長らく精巧な銅版画の持ち味を継承していたが、デジタル化に際して図式が抜本的に見直された結果、同じ国の地形図とは思えないほどの変貌を遂げた。過去との連続性がない東欧図式が消えたのはやむを得ないこととしても、同時にプロイセン以来の伝統が見捨てられてしまったのは惜しい気がする。

次回は横軸の側面、すなわち連邦内の協調と独自性のバランスが地形図の世界にどう現れているかを見てみたい。

使用した地形図の著作権表示 (c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

★本ブログ内の関連記事
 ドイツの地形図概説 II-連邦と州の分業
 ドイツの地形図概説 III-カタログおよび購入方法
 ドイツの1:25,000地形図
 ドイツの1:50,000地形図
 ドイツの1:100,000地形図
 ドイツの1:200,000地形図ほか
 旧 東ドイツの地形図 I-国家版
 旧 東ドイツの地形図 II-国民経済版

 スイスの地形図略史 I-デュフール図
 オーストリアの地形図略史-帝国時代
 デンマークの地形図
 フランスの1:25,000地形図

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コメント

ありがとうございました。

ネット上で閲覧しましたドイツの地図は日本の地図に比べて各縮尺レベルでしっかりした地図を作っている様で、デジタル地図になっても内容が充実しているのには感心しました。

日本の様に植生界や送電線などの省略がなく、あまり地図が劣化していないのが救いですね!

これからも各国の地図事情を教えていただければと思っております。

いつも訪問していただきありがとうございます。

ご質問の件ですが、
ドイツでの紙地図は、デジタルデータベース(アトキス)からの出力イメージを利用するようになって図式規程が一新されてしまいましたが、刊行は一部を除いて、まだ継続されています。ただ、一部の州ではオフセット印刷をやめ、デジタルプリンターに移行しました。

また、ノルトライン・ヴェストファーレン州については、注文に応じて印刷するいわゆるオンデマンド方式になり、市中の地図店では扱いを停止した模様です。上で「一部を除いて」と書いたのはこのことです。州測量局に注文すればプリントしてくれますので、手に入らないわけではありません。

他州は、HPなどを参照する限りまだこれに追随する動きはありませんが、今後はこの傾向が強まっていくかもしれません。

現在、日本の地形図(紙地図)が危機に瀕している状態ですが、ドイツでは紙地図とデータ地図は両立されているのでしょうか?教えていただければ幸いです。

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