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2011年2月17日 (木)

カナダ ケトルバレー鉄道 I-歴史

鉄道の誕生にはさまざまな必然性が絡んでいる。地形に逆らって直線的に引かれた国境線がなければ、ケトルバレー鉄道はおそらく現れなかったに違いない。

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ケトルバレー・レールトレール(廃線跡トレール)のトレッスル橋
Photo from English Wikipedia.
 

ケトルバレー鉄道 Kettle Valley Railway(KVR、下注)とは、カナダ、ブリティッシュコロンビア州の南部で路線網を巡らせていた鉄道会社だ。本線と呼ぶべきものは、カナディアン・パシフィック鉄道 Canadian Pacific Railway (CPR) のホープ Hope とスペンシズブリッジ Spences Bridge で分岐して東へ進み、ミッドウェーまでの約530kmで、1915~16年に全通した。後にCPRが運営を引き継ぎ、クローズネスト峠 Crowsnest Pass を経由する南部本線 Southern Mainline の一部を構成したが、1989年に全廃されてしまった。

*注 本記事内では、表記をケトル「ヴァ」レーではなく「バ」レーに統一した。

私がKVRに注目したのは、そのルートが常識では考えられないような山あり谷ありの連続だったからだ。下の地図をご覧いただきたい。KVRのルートを赤の実線で示してある。

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図中1~6の詳細図は次回掲載
 

図の左下にフレーザー川に面したホープ Hope の町(標高41m)がある。ここを発した鉄道は、険しい山肌を縫いながらコキーハラ峠 Coquihalla Pass(地形図による付近の標高点1104m)に上り詰める。北方のスペンシズブリッジ Spences Bridge からやってきた線路(下注)に合流し、その直後のブルックミア Brookmere でも別の分水界(同961m)を横断する。いったんプリンストン(同638m)まで降りるものの、川の流れに逆らって再び山へと向かっている(サミットは同1098m)。

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オカナガン湖畔のペンティクトン Penticton(同343m)は沿線の中心都市だが、線路は湖岸に沿いもせず、ヘアピンカーブを繰り返しながら、またも山腹を上っていく。ケローナ Kelowna 南方に居座る山塊を、巻くようにして通過するあたりに、全線の最高地点(1274m)がある。ここで針路を南に変え、社名の由来であるケトル川の谷(ケトルバレー Kettle Valley)に入って、ようやく終点ミッドウェー Midway(同584m)に達する。

このようにKVRは、蒸気機関車の時代に4回の大きな峠越えをこなし、高度差も1200mに及ぶ名うての山岳路線だった。完成した時に、それまでで最も費用のかかった鉄道と評されたのも道理だ。これほど険しいルートを採用してまで、何のために鉄道を建設する必要があったのだろうか。その経緯を探ってみたい。

KVR計画はそもそも、西海岸の港バンクーバーへ通じるカナディアン・パシフィック鉄道(CPR)が州の南部を経由しなかったという事実に端を発する。1885年に開通したCPRは、経路をより南に寄せるため、予定のイエローヘッド峠を退けキッキングホース峠を選んだのだが、それでも国境に近い地方からはかなり遠かった。

一帯は、鉱山開発のブームに沸いていた。両国国境の西半分は北緯49度線上で人為的に定められたもので、自然地形は一切考慮されていない。鉱脈は国境に関係なく広がっていたし、州南部は合衆国ワシントン州と同じコロンビア川 Columbia River の流域で、地勢はむしろ合衆国側へ開けていた。ノーザン・パシフィック鉄道 Northern Pacific Railroad(NP)やグレート・ノーザン鉄道 Great Northern Railway(GN)といった合衆国の鉄道会社は、当然のように自社の線路を越境させ、資源や生産物を南へ運び出していた。KVRに向けられた期待は、内陸部と海港を短絡する輸送路を整備して、こうした外資による蚕食から自国の利益を保護しようという動向を反映したものだった。

KVRの路線で最初に開通したのは、西側のスペンシズブリッジ~メリット Merritt ~ニコラ Nicola 間で、1907年のことだ。ニコラ・カムループス・アンド・シミルカメーン鉄道 Nicola, Kamloops and Similkameen Railway の免許(1891年認可)を利用して、ニコラで産する石炭を運搬する目的で造られたが、建設資金を提供したのはCPRで、実質的にその支線だった。一方、東側では、CPRの子会社となったコロンビア・ウェスタン鉄道 Columbia and Western Railway が、1900年にミッドウェーまで路線を延ばしていた。コロンビア・ウェスタンは、プレーリー(大草原)へ延びるCPRのクローズネスト峠線に連絡している。

CPRは、離れた2点をつないで南部本線を形成することを構想した。CPRが焦る理由はほかでもない。すでに合衆国側からグレート・ノーザンの子会社が、カナダ西海岸を目指して線路をじわじわと延ばしつつあったからだ。その名に意図があからさまなバンクーバー・ヴィクトリア・アンド・イースタン鉄道 Vancouver, Victoria and Eastern Railway(VV&E)は、1909年にプリンストンまで達している。対して、2点間すなわちメリット~ミッドウェーを連結するケトルバレー鉄道(KVR)の工事は、1910年に始まった。

ここでもう一度地図(上図)をご覧いただきたい。赤の実線がKVRのルート、その南に黒い旗竿線で描いたのがライバルのVV&Eだ。両者ともプリンストン Princeton とミッドウェー Midway を経由地にしていて、熾烈な競合関係を演じていたことが想像できる。国境を無視して合理的な経路を採用したVV&Eに比べて、後発のKVRはルートの大回りが目立ち、特にミッドウェーからペンティクトン Penticton までのいわゆるカーミ区間 Carmi Division は極端だ。

単にケトル川の谷筋からオカナガン川流域に出るのなら、既存のVV&Eに並行しながらオソイヨーズ Osoyoos を通る案もあり得たと思う。そうではなくまっすぐ北上したのは、VV&Eの沿線を避けたというより、オカナガン北部をめざしながら途中で倒産した別の鉄道の復活を、同時に夢見ていた可能性がある。それはミッドウェー・アンド・ヴァーノン鉄道 Midway and Vernon Railway といい、名の通り、ミッドウェーとオカナガン湖岸のヴァーノン Vernon を結ぶものだった。KVRのミッドウェー~ロッククリーク Rock Creek 間4kmは、未完となった同鉄道の路盤を利用している。しかし、その夢は実現せずに終わった。

さて、プリンストンへ先回りしたVV&Eは、この先の線路建設にも着手していた。最短経路は狭く険しいコキーハラの峠道しかなく、KVRも追いかけるようにそのルートを申請した。競合問題は法廷までもつれ込んだものの、1911年の総選挙で自由党が敗北したのをきっかけに、案外あっさりと決着した。それは次のようないきさつだ。

当時、ウィルフリッド・ローリエ Wilfrid Laurier 首相率いる自由党は、合衆国との間で自由貿易協定を締結しようとしていた。対立する保守党は、このままではカナダが合衆国に吸収されかねないと主張した。基本政策の賛否を問う選挙で、有権者は後者を支持したのだ。

自由党の下野は、VV&Eとグレートノーザンにとっても敗北を意味するものだった。なぜなら、保護主義回帰で規制が強化されれば、国際輸送で大きな利益は見込めず、投資を回収するめどが立たなくなる。両者は話合いのテーブルに就き、1913年にコキーハラ協定 Coquihalla Agreement が交わされた。協定で、VV&Eが敷設済みの区間はKVRが使用権を獲得し、未着手の区間はKVRが建設して、VV&Eは一定の使用料を払って線路を使うことになった。

懸案が解決したことで、工事のペースは速まった。1915年、ミッドウェー~メリット間が開業して、KVRに最初の旅客列車が走った。翌1916年には、コキーハラ峠を経由するブローディ Brodie ~ホープ Hope 間の短絡線も開通し、CPR本線に連絡を果たした。海岸と内陸を直結するという鉄道の目的からして、以後こちらが主たるルートになったことは言うまでもない。

KVRを介して南部本線が全通したことによる恩恵は、ブリティッシュコロンビア州南部にとどまらず、バンクーバーの港に農産物を送り出すプレーリー諸州も等しく享受した。東西間を結ぶ急行列車が設定され、北回りの本線以上によく利用されたし、本線が自然災害で不通になった折りには有用な代替ルートとなった。ただし、実際にケトルバレー鉄道と名乗った期間は長くなく、1931年初めにCPRが事業を継承して、南部本線の運営は一体化されている。

1949年に、鉄道に並行するクローズネストハイウェー Crowsnest Highway が開通すると、それを境として、地域における鉄道の優位性は自動車交通に奪われていく。しかし路線の運命にとどめを刺したのは、1959年の冬にコキーハラ峠越えの線路を襲った雪崩のほうだった。カスケード山脈 Cascade Mountains は年間積雪量が4mを越える豪雪地帯で、急斜面を削って建設された線路はしばしば雪崩や土砂崩れに見舞われていた。線路の大規模な流失で運行休止を余儀なくされた同区間は、復旧の手が加えられないまま、1961年に廃止の宣告を受けた。

これがある種の引き金になったことは否定できないだろう。スペンシズブリッジ経由の迂回線で運行が続けられたものの、線内の旅客列車は、利用者の減少により1964年に姿を消した。次の撤退は、コキーハラに次ぐ険しい山越えのあるミッドウェー~ペンティクトン間で、1973年に運行休止、1978年に廃止となり、これで東西の連絡が絶たれた。旧KVRで最後まで残されていたのは、1930年に開通した支線上にあるオカナガンフォールズ Okanagan Falls から、ペンティクトン、プリンストンを経てスペンシズブリッジまでの線路だった。しかし、同区間に設定されていた貨物列車も、ついに1989年限りで見納めとなった。

KVRは過去帳入りし、線路もすっかり撤去されてしまった。しかし幸いにも、路床の大部分がハイカーやサイクリストのためのケトルバレー・レールトレール Kettle Valley Rail Trail に転用されたため、今も廃線跡をたどるのは容易だ。また、ペンティクトン近郊の一部区間だけは、蒸機牽引の保存鉄道(ケトルバレー蒸気鉄道 Kettle Valley Steam Railway)として運営され、訪問客に往年の雄姿を伝えている。

CPRのクローズネスト峠越えに劣らず、山中を果敢に切り開いたKVRのルートには、見るべき遺構が点在する。次回、保存鉄道を含めてそうした名所をいくつか訪れることにしたい。

地形図は、カナダ官製1:1,000,000国際図 NM9_10 Vancouver, NM11 Kootenay Lake(いずれもGeoGratis - Scanned Mapsからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

■参考サイト
ケトルバレー鉄道路線図(概略) http://www.kettlevalleyrailway.ca/map.html
ケトルバレー蒸気鉄道 Kettle Valley Steam Railway
http://www.kettlevalleyrail.org/
ケトルバレー鉄道(資料集)
http://www.hectorturner.com/kettlevalley/
BC州における初期のCPR(資料集)The Early Years of the CPR in BC
http://canyon.alanmacek.com/index.php/Canadian_Pacific_Railway_in_British_Columbia
ケトルバレー鉄道のサイクリングCycling the Kettle Valley Railway
http://www.kettlevalleyrailway.ca/

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