カナディアンロッキーを越えた鉄道-序章
アメリカ大陸の西側を限って南北に連なるロッキー山脈、そのカナダ領部分がカナディアンロッキーCanadian Rockiesと呼ばれる。大陸の中央に広がる乾いた大草原、カナディアンプレーリー Canadian Prairie から太平洋岸に出ようとするなら、この万年雪を戴く険しい山の連なりをどこかで乗り越えて行かなければならない。
19世紀以来、山脈を横断して敷設された鉄道は全部で4本ある(北部の産業鉄道を除く)。歴史の古い順に、1885年全通のカナディアン・パシフィック鉄道 Canadian Pacific Railway(略称CPR、日本語の正式社名は「カナダ太平洋鉄道」)、続いて1899年に開通した同じCPRの南部本線 Southern Mainline、1914年全通のグランド・トランク・パシフィック鉄道 Grand Trunk Pacific Railway (GTPR)、そして翌1915年全通のカナディアン・ノーザン鉄道 Canadian Northern Railway (CNoR) だ。
ちなみに、アメリカ合衆国で鉄道が大陸の東西を結んだのは1869年、そして世紀の変わり目までに、さらに4本の大陸横断ルートが確立され、数々の中小鉄道もロッキーの分水嶺を克服していた(下注)。それに比べれば、カナダの出足はかなり遅い。これから数回にわたって鉄道が山越えする現場を地図上で訪れようと思うが、その前に、これらの鉄道が開設されるに至った当時の国内事情を振り返るとともに、路線網の全体像を確認しておきたい。
*注 コロラド州の大陸分水嶺を越えた鉄道については、本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道-序章」以下を参照。
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イギリスの自治領としてカナダ連邦が成立したのは1867年だ。しかし、その範囲は大西洋岸とセントローレンス川からスペリオル湖北岸にかけての地域(現在のノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州とケベック州南部、オンタリオ州南部)に過ぎず、緯度の高い北部はもとより、中央に横たわるプレーリーも、ヨーロッパ系の人々にとってはほとんど未知の土地だった。ただ、ロッキーを越えた太平洋側の山中では1858年と1861年に金鉱の発見があり、ゴールドラッシュを経験していた。西部がもつ将来的な価値は、常に東部の人々の関心を集めていたのだ。ちなみに、この地域は現在のブリティッシュコロンビア州に当たるが、当時は英領ブリティッシュコロンビア Colony of British Columbia で、カナダ連邦には含まれていない。
一方、アメリカでは1865年に南北戦争が終結したばかりだった。南部連合国を支援したイギリスに対して、合衆国は巨額の損害賠償を求めていた。アラバマ・クレーム Alabama Claims と呼ばれるこの提訴の傍らで、賠償金に代えてブリティッシュコロンビアを含む英領カナダを併合しようとする計画も進行していた。この動きに対して、英領カナダの世論は賛否沸騰し、カナダ連邦はアメリカの拡張主義を警戒して、巻き返しを画策した。当時、ブリティッシュコロンビアはゴールドラッシュの後遺症である負債の処理に悩んでいた。そこでカナダ連邦は、自分たちの連邦への参加を促し、その見返りに負債を引受けるだけでなく、東西間の連絡鉄道を10年以内に整備することをも約したのだ。
こうしてブリティッシュコロンビアは1871年に連邦の一員となり、公約通り大陸横断鉄道の建設計画がスタートした。しかし、保守党と自由党の政争に巻き込まれ、そのうえ資金不足も手伝って、事業はなかなか捗らなかった。約束の1881年になって、ようやくカナディアン・パシフィック鉄道会社が設立され、実行体制が整った。政府は、公債発行による多額の融資に加えて、鉄道周辺の土地2500万エーカー(約10万平方キロ、北海道の1.3倍)を無償提供するなど破格の条件を揃えて、会社を支援した。
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ここで、各路線がどの峠道を選択したか、地図で確かめてみよう。現在、アルバータAlbertaとブリティッシュコロンビアの州境になっているカナディアンロッキーは、標高3000m前後の大山脈であり、急勾配に弱い鉄道が横断できる場所は限られている。
カナディアンロッキーを越えた鉄道 路線図 |
カナディアン・パシフィック鉄道(以下CPR)は、最終的にキッキングホース峠 Kicking Horse Pass とロジャーズ峠 Rogers Pass を抜けるコースを選択した。しかし、当初の計画ではもう一つ北のイエローヘッド峠 Yellowhead Pass を通ることになっていた。こちらのほうが、高度が200mあまり低く、峠の前後の坂道も勾配が比較的緩やかで、路線設計には理想的な地形だからだ。だが、目的地のバンクーバー(開業当初は、20kmほど湾奥のポートムーディ Port Moody 止まり)を目指すには遠回りになるうえ、ルートから離れた国境近くの最南部地域をアメリカの鉄道会社に侵食される懸念があった。ビッグヒル Big Hill と称された急勾配や、雪崩が常襲する急斜面に沿う悪条件のルートは、こうした政策上の理由で敢えて選ばれたのだ。
鉄道が最南部にこだわったのは、一帯に有望な地下鉱脈が存在したためだ。事実これ以降、国境をまたいで銀、銅、亜鉛、石炭などの鉱山が次々と開発されていった。1893年にアメリカ側で国境至近のルートを採るグレート・ノーザン鉄道 Great Northern Railway が開業すると、CPRも対抗上、カナダ側の鉱業地帯をダイレクトに結ぶ鉄道を敷かないわけにはいかなくなった。それがクローズネスト峠 Crowsnest Pass を越える第2の山越えルートとなる。後にケトルバレー鉄道 Kettle Valley Railway などの地方鉄道を介して、ホープ Hope でCPR本線に合流し、バンクーバーとアルバータ州メディシンハット Medicine Hat との間に直通の旅客列車も走った。
世紀の変わり目から20世紀の最初の10年は、大草原の各地で人口増加が進み、カナダ全体が空前の好況に沸いた時代だ。北西部では、ゴールドラッシュも再燃していた。国を覆う熱気は、CPRに次ぐ第2の大陸横断鉄道実現の期待をいやがうえにも煽った。CPRが選ばなかったイエローヘッド峠に、2本の鉄道が同時並行で建設されたのは、こうした理由による。先行したのは、連邦の意向を受けて設立されたグランド・トランク・パシフィック鉄道だ。この鉄道だけは分水嶺を後にして北西へ向かい、アラスカとの境界に近いプリンスルパート Prince Rupert で、太平洋岸に達する。CPRの恩恵にあずからない北部の振興と、アジアにより近い貿易港の開発が意図されていた。
ラストランナーとなったカナディアン・ノーザン鉄道は、CPRの独占に対抗しながら、連邦とは手を組まず、州の補助金を受けて分水嶺に挑んだ。結果として、ルート設定は多分に挑発的なものになった。アルバータ州の州都エドモントン Edmonton から峠へは、グランド・トランク・パシフィックと至近距離で絡み合う。峠を抜けると南へ針路を変え、カムループス Kamloops から今度はCPRと並行し、同じ谷の反対側を下る。フレーザー川 Fraser の峡谷では、通しやすい側にすでにCPRの線路が走っているため、わざわざ工事の難しい反対側を使わなければならず、工費がかさむ原因となった。
しかし、遅れてきた2つの鉄道にとって不運だったのは、完成と前後して第一次世界大戦が始まったことだ。入植活動が中止され、戦時輸送はCPRに集中したため、たちまち破産の危機に陥った。1918~19年には、政府が設立したカナディアン・ナショナル鉄道 Canadian National Railways (CNR、のちCN) に統合され(国有化)、会社は早々と消えてしまった。
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では、山脈横断路線の現状はどうなっているだろうか。キッキングホース峠経由のCPR本線は今も変わらずメインルートとして残っている。ここを走っていた長距離旅客列車カナディアン号 The Canadian は、VIAレールの事業整理に伴い、北のイエローヘッド峠(CN線)に移されてしまったが、景色の良さで優ることから、ツアー列車のロッキーマウンテニア号 Rocky Mountaineer が後を継ぎ、人気を博している。
CPRの南部本線は、クローズネスト峠を越えてコロンビア川の本流と出会うトレール Trail まで貨物営業しているものの、以西は廃止された。一部が保存鉄道に使われているほかは、自然歩道(ケトルバレー・レールトレール Kettle Valley Rail Trail)に姿を変えた。
一方、イエローヘッド峠越えは、プリンスルパート方面、バンクーバー方面ともに、CNによって運行され続けている。ただし、重複していたエドモントン~峠間は、区間によっていずれか片方が廃止され、一本化されてしまった。
これが、カナディアンロッキーを越えた鉄道の概要だ。では次回から、路線上のハイライトである峠越えを地図上で一つずつ見ていこう。
■参考サイト
Canadian Encyclopedia http://www.thecanadianencyclopedia.com/
Railway History, Canadian Pacific Railwayその他の項
Wikipedia in English http://en.wikipedia.org/
History of British Columbia, Canadian Pacific Railwayその他の項
Canadian Pacific Railway http://www.cpr.ca/
General Public > Our History
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