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2010年10月 7日 (木)

フィンランド カレリアの歴史と鉄道

Blog_karelia_map1

シベリウスの「カレリア組曲」の中にある「行進曲風に Alla Marcia」という小曲を好んで聴いてきた。スキップする反復リズムの上に、弦楽と次いで木管が明るく軽快なメロディを紡いでいく。途中で金管が士気を鼓舞するファンファーレを吹き鳴らし、冒頭の主題と何度かの交錯を経て、堂々たる終止を遂げる。

ジャン・シベリウス Jean Sibelius はいうまでもなくフィンランドの代表的作曲家だが、調べてみると、この曲のオリジナルは、1893年、カレリアの出身者で構成するヴィープリ学生協会 Wiipurilainen Osakunta(英:Viipuri Students’ Association)という学生団体の依頼で、カレリアの歴史劇のために創作された伴奏音楽だった。

■参考サイト
ヘルシンキ・スオミ人クラブ Helsingin Suomalainen Klubi によるシベリウス紹介サイト
http://www.sibelius.fi/

筆者はそのヴィープリ Viipuri という地名に聞き覚えがあった。以前、フィンランドの地図店から取り寄せた旧版地形図の復刻版が、まさにその都市を描いたものだったからだ。しかし現在、世界地図でフィンランドのヴィープリを探そうとしても、見つけることは叶わない。この稿では、激動の近代史に翻弄されて消えたヴィープリ、そしてカレリア地方を、鉄道の変遷とともにたどろうと思う。

Karelian Railway Network 1917 and Present
カレリアの鉄道網の変遷
(左)1917年 (右)現在
 

シベリウスが曲を書いた当時、フィンランド湾の港町であるヴィープリは、ヘルシンキに次ぐフィンランド大公国第二の重要な商工業都市として栄えていた。町はカレリア地峡 Karjalankannas(英:Karelian Isthmus)の西の喉元に位置していた(上図参照)。カレリア Karelia(フィンランド語ではカリヤラ Karjala)とは、現在のフィンランドとロシアにまたがる地域の名称で、そのうち大公国には、北カレリア Pohjois-Karjala、南カレリア Etelä-Karjala、ラドガ・カレリア Laatokan Karjala(英:Ladoga Karelia)、それに、ラドガ湖とフィンランド湾の間のカレリア地峡が含まれた。

ヴィープリはまた、交通の要衝でもあった。1856年、西のサイマー湖 Saimaa との間にサイマー運河 Saimaan kanava が開かれ、湖水地方との航行が可能になった。鉄道も、1870年にヘルシンキ~サンクトペテルブルク間の東西幹線(下注)、続いて北進するカレリア鉄道が完成し、支線の建設も順次進められていった。

*注 先に開通していたヘルシンキ~タンペレ Tampere 線のリーヒマキ Riihimäki 駅に接続したので、正式にはリーヒマキ~サンクトペテルブルク鉄道 Riihimäki-Pietari-rata。また、単にピエタリ鉄道 Pietarin rata とも言った。ピエタリ Pietari は、フィンランド語の聖ペテロで、サンクトペテルブルク(聖ペテロの都市)を指す。

しかし、20世紀前半はカレリアとヴィープリに厳しい運命を強いた。1809年以来、フィンランドはロシア帝国領の大公国とされていたのだが、自治権の扱いは皇帝が代わるごとに違った。とりわけニコライ2世は、1899年に前帝の融和政策を撤回する自治剥奪の宣言を出したため、国内の強い反露感情を引き起こした。そのような国民主義の高揚期に、カレリアの民間説話を編んだ叙事詩「カレワラ(カレヴァラ)Kalevala」は、フィンランド人の精神的な支えとなった。

彼らの悲願は1917年になって実る。この年の12月、ロシア革命に乗じて、フィンランドは独立を宣言した。しかし、東は社会主義政権となり、西ではやがてヒトラーが台頭してくる。1939年、第二次世界大戦のきっかけとなる独ソ相互不可侵条約が調印されたが、裏で交わされた秘密議定書で、フィンランドはバルト三国とともにソ連の勢力圏とされた。まもなくソ連のフィンランド侵攻が始まった。このいわゆる冬戦争で、フィンランドは果敢に抵抗した。しかし、スウェーデンが協力を拒否したために連合国の援軍が望めず、ヴィープリ陥落が必至の情勢となって、ついに講和を決断する。

1940年に結ばれたモスクワ講和条約は、ラドガ・カレリアとカレリア地峡、内陸のサッラ Salla など国土の1割をソ連に割譲するという過酷なものだった。その反動で、フィンランドはドイツ軍の駐留を認め、物資の援助を受けるようになる。1941年、ソ連を攻撃したドイツに対して、ソ連はフィンランド国内へ空爆を行ったため、フィンランドの対ソ戦が再開された(継続戦争という)。まもなくカレリア旧領を奪回したものの、その後は膠着状態となり、1944年にモスクワで休戦協定が結ばれた。カレリアの国境線は、これによってモスクワ講和条約で定めた位置に戻された。

1947年のパリ講和条約で最終的に国境が確定し、ヴィープリは、ロシア語でヴィボルグ Выборг / Vyborg と呼ばれるソ連の町となった。カレリアに住んでいたフィンランド人の大部分は本国に避難し、その跡をロシアやベラルーシ、ウクライナからの移住者が埋めた。

フィンランドの独立と第二次大戦による国境移動は、鉄道路線にも大きな影響を及ぼしている。先述のとおり、旧ヴィープリは鉄道の結節点だった。カレリアの大地を東西に貫くリーヒマキ~サンクトペテルブルク鉄道に対して、北カレリアのヨエンスー Joensuu に向けて、カレリア鉄道 Karjalan rata(ヴィープリ~ヨエンスー)311kmが、大公国時代の1894年に全線開通していた(上図左側が1917年独立当時の路線網)。

カレリア鉄道の途中駅アントレア Antrea(現カメンノゴルスク Kamennogorsk)からは、1892~95年に、サイマー湖畔のヴオクセンニスカ Vuoksenniska(現在はイマトラ Imatra 市内)へ支線が敷かれた。ここは古くからヴオクシ川 Vuoksi にあるイマトラの早瀬 Imatrankoski が名所で、裕福なサンクトペテルブルク市民に人気のある保養地だった。しかし、独立後はロシアからの来客が途絶え、代わりに、早瀬の落差を利用する水力発電で立地した工場のための貨物輸送が主となった。

同じく途中駅のエリセンヴァーラ Elisenvaara からはさらに2路線が分岐していた。一つは1908年に完成した、パリッカラ Parikkala 経由でサヴォンリンナ Savonlinna 方面へ行く路線で、サンクトペテルブルク~ヒートラ Hiitola 間の短絡線とともに、はるばるボスニア湾の港町ヴァーサ Vaasa まで通じるフィンランド横断ルートを構成していた。もう一つは独立後の1937年に全通したシンペレ Simpere 経由の支線で、先のヴオクセンニスカへ連絡した。

第二次大戦後、国境がカレリア鉄道の西側に固定されたため、これらの路線上には越境個所が生じてしまった(上図右側)。フィンランド人の一斉退去により新国境をはさむ旅客流動は激減し、鉄道の存在意義は極端に薄れた。

現在、最も北にある(旧)カレリア鉄道本線の越境地点ニーララ Niirala 前後は、貨物線としてのみ残る。エリセンヴァーラ~パリッカラ間は運行休止となり、フィンランド側ではレールも撤去された。エリセンヴァーラ~シンペレも廃線後、道路に転用された。カメンノゴルスク(旧アントレア)からの支線は残っているが、旅客列車は国境手前のスヴェトゴルスク Svetogorsk(旧エンソ Enso)までのようだ。かくして旅客列車が越境しているのは、ヘルシンキ~サンクトペテルブルクの幹線に限られている(下注)。

それに対してフィンランド側では、ヘルシンキ方面から直通できる新たなカレリア鉄道が、既存路線の欠損区間をつなぐ形で計画された。1966年に全通して以降、この地方の幹線機能を果たしている。

*注 2006年にヘルシンキ郊外のケラヴァ Kereva から、リーヒマキ Riihimäki を経由せずにラハティ Lahti へ短絡する高速線が開通した。さらに2010年12月から、現在5時間半かかるヘルシンキ~サンクトペテルブルク間を2時間短縮する高速列車アレグロ Allegro が運行を始める。

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筆者の手元にあるヴィープリの旧版地形図は、1937~38年に作成された1:20,000の復刻版だ。読取りの便を図って、陸部に薄いアップルグリーン、水部に水色の地色をつけているが、原本は等高線が茶色、水部と地物が黒の、簡素な2色刷りだ。ヨーロッパに再び戦争の暗雲が漂い始めていた時期であり、有事に備えて編集が急がれたことだろう。

この地図は、フィンランドの国土測量局によってウェブ上でも公開されるようになった。「カレリアの地図 Karjalan Kartat」と題されたサイトがそれだ(下記 参考サイト)。1:20,000地形図 Topographical map は未作成のエリアがあるので、全域をカバーする1:100,000地形図と、縮尺非表示の「一般図 General Map」を併せて提供し、旧フィンランド領カレリアの姿を概観できるようにしている。

1:20,000地形図は、ヴィープリのような2色刷り以外に、水部に薄い青緑を入れた3色刷り、道路に赤の塗りを加えた4色刷りの図葉もあるが、どれも線描主体でドイツの旧1:25,000の雰囲気をもつ。共産主義ソ連と決別してからドイツとの関係が深まったので、実際に技術協力を得ていたのかもしれない。

それに比べて、1:100,000は道路を赤、水部を薄い青緑、そして一部の図では森林をクリームイエローに塗ったカラフルさが印象的だ。文字のデザインなどから見て、ロシア時代の原版(あるいは図式)を継承しているようだ。「一般図」は交通網と水部、主要集落、行政界だけを示した概略図だ。戦後の作成と見えて、変更後の国境線が描かれているが、旧国境も赤で加刷してある。

■参考サイト
カレリアの地図 http://www.karjalankartat.fi/
 説明は英語版あり。画面上部のイギリスの国旗のマークをクリック。

Blog_karelia_map_hp
「カレリアの地図」サイトイメージ
 

また、戦後ソ連が作成した地形図もウェブ上で見ることができる。参考までにヴィボルグ(ヴィープリ)周辺の1:100,000地形図を掲げておこう(下図参照)。

周囲がカットされているため作成時期は不明だが、フィンランドが後にロシアから租借したサイマー運河 Сайменский канал やマリー・ヴィソツキー島 Малый Высоцкий(フィンランド語でラヴァンサーリ Ravansaari、下注)の境界が明示されているので、条約が締結された1963年以降であることは確かだ。ヴィボルグ市街地の範囲は、カレリア地図からほとんど拡大していない。

*注 1856年に開通したサイマー運河は、カレリアを含むフィンランド東部の発展に貢献したが、国境移動で東半分がソ連領となったため、使用できなくなった。1963年に締結された条約で、フィンランドがソ連領の運河地帯とフィンランド湾への出口にあるマリー・ヴィソツキー島を租借することになり、拡張工事を実施したうえで1968年に運用が再開された。

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ヴィボルグ(ヴィープリ)
原図×60%、以下同じ。Map images courtesy of maps.vlasenko.net
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サイマー運河の租借地
Blog_karelia_map5
マリー・ヴィソツキー島 (図左上の網掛け部分)
 

■参考サイト
サイマー運河(「水上交通」Merenkulku.fiのサイト)
http://portal.fma.fi/sivu/www/fma_fi_en/services/fairways_canals/the_saimaa_canal

★本ブログ内の関連記事
 旧ソ連軍作成の地形図 II
ソ連時代の地形図の閲覧サイトを紹介している

カレリア問題に関して、ウィキペディア英語版には次のように記されている。「ロシア、フィンランド双方とも、2国間にはいかなる未解決の領土紛争も存在しないと繰り返し表明してきた。フィンランドの公的立場は、平和的交渉を通して境界を変更することはあるが、ロシアが割譲地域を返還する、あるいは問題を議論する意思を示していない以上、当面表立って会談を持つ必要は全くない、というものである」。

フィンランドの世論調査では、返還を求めないという意見が過半を占める。返還された場合、割譲地域に居住しているロシア系の人々をフィンランド社会に取り込むことになる。そのために生じる社会的コストの多さを懸念しているからだという。

シベリウスに作曲を依頼したヴィープリ学生協会は今も合唱団として存続しているし、フィンランドの人々にとってカレリアが魂の故郷であることに変わりがない。しかし、その地が置かれた現実については、案外冷やかに受け止められているようだ。

■参考サイト
Wikipedia英語版「フィンランドの政治におけるカレリア問題」
http://en.wikipedia.org/wiki/Karelian_question_in_Finnish_politics

カレリアの1917年鉄道網の地図作成にあたっては、
http://www.rhk.fi/in_english/rail_network/statistics/
にある統計資料 "Finnish Railway Statistics 2010" 1.3 Sections of Line According to Date When Opened for Traffic を使用した。

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 フィンランドの鉄道地図

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