ノルウェーの旅行地図
ヨーロッパでは、まとまりのあるエリアごとに自由に図郭を設定した地形図をよく見かける。その多くは登山道や山小屋などの情報を付加した山岳地図、ハイキング地図などと呼ばれるシリーズだ。日本ではこうした事業は民間会社が営利目的で行うものという意識があるが、ヨーロッパ各国ではむしろ公的機関である測量局が地域の観光組織などと協力しながら、率先して製作してきた。
ロフォーテン諸島、レイネ Reine の景観 Photo by Petr Šmerkl, Wikipedia. License: CC BY-SA 3.0 |
ノルウェー地図局 Statens Kartverk (Kartverket) もその例にもれない。ノルウェー・トレッキング協会 Den Norske Turistforening (DNT) などから情報の提供を得て、旅行地図 Turkart、ボートスポーツ地図 Båtsportkart の各シリーズを1970年代から、狩猟・魚釣り地図 Jakt- og fiskekart を1990年代から刊行している。
その後の機構改革で印刷図の製作・販売を民間に委ねてしまったため、もはや純粋の官製図とは言えなくなったが、シリーズ自体は存続している。
今回はそのうち、旅行地図に注目しよう。製作しているのは、道路地図と同じユーグランITグループ Ugland IT Group だ。表紙を並べてみると(下写真)、天の帯、文字書体、ロゴが違うものの、見た目は地図局時代とあまり変わらない。しかし、旧製作者の名は「地図局のN50地図データを使用」と小さい文字でクレジットされているだけなので、過去の経緯を知らなければ同社のオリジナル商品と言われてもわからなくなっている。
旅行地図表紙 (左)地図局時代の1:50,000 Geilo 1989年 (中)同じく1:25,000 Bergen 1994年 (右)ユーグランの1:100,000 Romsdalen 2008年 |
同社のウェブサイトによれば、このシリーズは現在185タイトル刊行されているそうだ(セット販売を含む)。縮尺別に見ると、最も多数を占めるのが1:50,000で、約半数が該当する。次に多いのは1:100,000で、広域を見渡せることから、同社は旅行計画を立てるときに使ってほしいと言っている。1:25,000はそれらより少数で、特に人気のある目的地を選んで、詳細かつ有益な情報を提供するものだという。
しかし、どの縮尺図もベースマップは同じN50(1:50,000)地図データ Kartdata で、原寸使用か、縮小・拡大をかけたかの違いがあるに過ぎない。当然のことながら、1:100,000は等高線が込み過ぎて見にくく(下注)、1:25,000はいわゆる「でか字版」になって、いささか間延びする。地図局時代には、写真の1:25,000ベルゲン図葉のように別編集した図が刊行されていたことを思えば、手抜きのそしりを免れないだろう。
*注 参考にした Romsdalen 図葉の場合、地形情報は50K、集落や交通網などの地物は250Kデータを使用しているため、両者のバランスが悪く、スマートとはいいがたい。
旅行地図「ベルゲン」収載の1:25,000図 © 2010 Kartverket |
同 1:100,000周辺図 Regionkart © 2010 Kartverket |
一方、旅行情報の記号は失望感を埋めるもので、洗練された北欧デザインの感覚が反映されているように思う(下写真)。ポイントは、配色をカテゴリーの区別にうまく利用していることだ。
たとえば道の関係では、徒歩で利用するものはオレンジ、スキーで行くものは青、自転車道は赤にしている。その他のレジャー情報はピクトグラム(絵文字)で表しているが、スポーツ系は赤、自然系は緑、交通・宿泊関連は青と色分けしている。ここで使われているピクトグラムは、塗りつぶした正方形に白抜きで、連想される絵柄を配したものだ。オーストリアのコンパス社にも例があるが、ユーグラン版のほうが統一感があって、図上における視認性の点でも優れている。
旅行情報の地図記号 |
このように、シリーズはノルウェーの等高線入り旅行地図の定番だった。ところが、昨年(2009年)、民間地図業界の老舗であるカペレン(カペレン・ダム社 Cappelen Damm)が「山岳地図 Fjellkart」シリーズを発表し、静かだったフィヨルドにさざ波が立ち始めた。
これは、トレッキングやウィンタースポーツで人気のある山岳地域を1:100,000広域図、またはそれと1:50,000拡大図の組合せで描くもので、現在8点が刊行済みだ。実用性に配慮して、耐水紙に印刷されている。
実は、同社の企画はこれが初めてではない。筆者がはるか昔に購入した山岳地図「ヨートゥンハイメン Jotunheimen」(1985年編集、1993年第5版)は、地図局と当時のカペレン出版社が共同制作したものだったからだ。官民提携のその後は知らないが、この図葉自体はユーグラン版旅行地図として引き継がれているので、20年近い時を経て今度は二者がライバル関係に立ったことになる。
新旧の表紙を並べてみると(下写真)、新版はまだ8点しか出ていないのに図番が「45」になっている理由がわかる。カペレンとすれば伝統復活の意味を込めたつもりなのだろう。
カペレン地図表紙 (左)旧「山岳地図」Jotunheimen 1993年 (右)新「山岳地図」Jotunheimen 2009年 |
新しい山岳地図も地図局のN50地図データをベースにしているので、ユーグラン版と同じように1:100,000になると等高線が込み過ぎる。さらにぼかし(陰影)がつけられているから、地勢表現はかなり濃厚だ。
一方、自動車道路や登山道は自社編集による。アクティブな雰囲気を出そうとしているのか、幹線道路の塗りなどに蛍光色と見まがうルビー色が使われ、土地利用を表す塗りも彩度を高めにしてある。1:100,000は少々くどいが、表現に余裕が出る1:50,000は同じデザインでもずいぶん美しく感じられる。
両者を比較すると、地図局が築いた膨大な成果を今ひとつ生かしきれないユーグランITグループと、独自性を前面に押し出そうとしているカペレンの違いが見えてくる。ノルウェーの場合、陰影つきのすばらしいデジタル地形図をウェブサイトで閲覧できるどころか、ダウンロードすることもできるので、有料の紙地図はたえず品質を磨いていないと、お客にそっぽを向かれかねない。両者が刺激し合って、紙地図の世界が今以上に活性化することを期待したいものだ。
【追記2020.6.25】
2020年現在の状況を追記する。
ユーグランITグループ Ugland IT Group は、2011年2月に社名をノルデカ Nordeca AS に改めた。事業の主軸はデジタル地理データの販売だが、印刷図の製作・販売も継続している。
印刷図のラインナップには、地図局の1:50,000 地形図(M711シリーズ)を引き継いだ「ノルウェーシリーズ Norge-serien」(赤表紙)、本稿で紹介したDNT旅行地図 Turkart(紫表紙)、その海域版というべきボートスポーツ地図 Båtsportkart(藍表紙)などがある。
また、人気の高い旅行エリアには、1面で300平方km以上をカバーする「Topo 3000」(緑表紙)という新たなシリーズも投入された。旅行地図と同じ用紙サイズにもかかわらず、旅行地図が片面に地図、片面に旅行情報(文字と写真)という形式なのに対して、両面に地図を配することで収載範囲を拡大したものだ。
ノルデカ旅行地図表紙 (左)旅行地図 Turkart (右)Topo 3000 |
一方、2010年当時、強力なライバル登場かと思えたカペレン・ダムは、今も「山岳地図 Fjellkart」シリーズをカタログに挙げているものの、点数はほとんど変わらず、全部で9点にとどまっている。うち6点は2009~12年の初版の状態で、一度も改訂されていない。印刷図全体の需要が縮小傾向にあるなか、先行するノルデカの充実した品揃えに対抗するのは難しかったようだ。
この2社に対して近年、北欧諸国の旅行地図を精力的に送り出しているストックホルムのカラソ社 Calazo にも、ノルウェーの人気旅行地をカバーする製品が10点以上ある。同社の特色は、一部地区で独自の空中写真測量を実施していることだ。そのため、測量局のラスタデータに依存する他社にはまねのできない1:20,000や1:30,000といった大縮尺の旅行地図が存在する。
カラソ旅行地図表紙 (左)高山地図 Høyfjellskart 1:20,000 (右)旅行地図 1:50,000 |
これらは各社の直販サイト(下記参考サイト)や、一部はスタンフォーズなどの主要地図商で日本からも購入できる。
次回はノルウェーの道路地図について。
■参考サイト
カルトブティッケン http://www.kartbutikken.no/
カペレン・ダム社-地図 https://www.cappelendamm.no/_kart
カラソ社-ノルウェーの地図 https://www.calazo.se/kartor/norge/
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