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2007年8月31日 (金)

スノードン登山鉄道 I-歴史

スノードン登山鉄道 Snowdon Mountain Railway

スランベリス Llanberis ~サミット Summit 間7.53km
軌間2フィート7インチ半(800mm)、非電化、アプト式ラック鉄道、最急勾配1/5.5(182‰)
1896年開業

ウェールズ北部、スノードニアの主峰スノードン山 Snowdon は、標高1,085mでウェールズとイングランドを通じて最も高い山だ(下注)。比較的温暖な冬場でも、山は一面雪で覆われるため、古英語の「雪の山 Snaw dun」が山名として定着した。一方、ウェールズ語では、塚墓を意味するアル・ウィズヴァ Yr Wyddfa という。氷河作用で削られたピラミッド型の山頂を、アーサー王に敗れた伝説の巨人の石塚(ケルン)に見立てたらしい。

*注 もちろんイギリス全土で見れば、スコットランドのハイランド地方にスノードンを超える標高の山はいくつもある。

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雪晴れのスノードン山
Photo by Eifion at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

周辺はスノードニア国立公園に指定され、ハイキングや登山、さらにはロッククライミングを楽しむ人々が引きも切らない。「おそらく英国で最も混雑する山」と評されているほどだ。その主要な登山基地になっているのが、北麓のパダルン湖 Llyn Padarn に面するスランベリス Llanberis の町だ。

スノードン登山鉄道はイギリスで唯一のラック鉄道として、19世紀の終わり以来、この町を起点に、人々を雪の山の頂きへ運び上げてきた。しかしここに登山鉄道が導入される過程では、平地の鉄道とはまた違った紆余曲折を経験している。何があったのか、少し詳しく見ていきたい。

スランベリスは今でこそスノードニアの主要な観光地の一つだが、かつてはスレート(粘板岩)の生産が主産業だった。湖を隔てた対岸には、ディノーウィック鉱山 Dinorwic Quarries の採掘場が広がっている。すでに1842年から、ここにパダルン鉄道 Padarn Railway と呼ばれる貨物鉄道が通じ、作業員輸送も行っていた(下注)。

*注 現在運行されている狭軌保存鉄道のスランベリス・レイク鉄道 Llanberis Lake Railway は、この鉄道用地の一部を利用したもの。

とはいえ、町に一般旅客を対象とする鉄道が通じたのは、ようやく1869年のことだ。西岸のカーナーヴォン Caernarfon から延びてきたロンドン・ノースウェスタン鉄道 London & North Western Railway (L&NW) の標準軌支線で、これ以降、スランベリスの名が旅行地図に掲載され、スノードン山麓の町として広く知られるようになる。

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スノードニアの鉄道網
赤および黒の実線は営業線、黒の梯子線は廃止線
クォーターインチ地図(1:250,000) North Wales and Lancashire 1966年版に加筆
 

そのころ諸外国では、列車を山に上らせる新技術の開発が進められていた。世界で最初にラックレールを使った登山鉄道が実用化されたのは1868年、アメリカ北東部のワシントン山 Mount Washington においてだ。次いでスイスでもフィッツナウ・リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn が1871年に開通した(下注)。

*注 ワシントン山の登山鉄道については、本ブログ「ワシントン山コグ鉄道 I-ルート案内」「ワシントン山コグ鉄道 II-創始者マーシュ」を、リギ鉄道誕生のいきさつについては、「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」を参照。

ところが意外にも、鉄道発祥の国イギリスへの導入は遅かった。もちろん、動きが全くなかったわけではない。リギでの成功に刺激を受けて、早くも翌1872年には、スノードン登山鉄道の建設法案が地方議会に上程されていた。計画は、リギと同じリッゲンバッハ式ラックレールを用いるもので、起点をスランベリス、終点を山頂の500フィート(約150m)下に置いた。しかし、議会では、残念ながら反対多数で棄却されてしまった。1874年にも類似の内容で再提案されたが、これも失敗だった(下注)。

*注 1877年にもフェスティニオグ鉄道の関係者から、スランベリス~スノードン山頂~スノードン(1881年にスノードン・レンジャーに改称)駅の路線構想が出されたことがあるが、それ以上具体化しなかった。

不首尾に終わった原因は何か。スノードン山を含む地所の大地主だったジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith や借地人たちが関心を示さず、むしろ計画に非協力的だったのだ。アシュトン=スミスは、パダルン湖対岸の鉱山のオーナーでもあった。1860~70年代はスレート採鉱の最盛期で、良質のウェールズ産スレートの販路は海外にも拡大していた。それに伴い、鉱山では周辺住民が多数雇用され、地域経済は十分な潤いを得ていた。

加えて、スランベリス支線が開通して以降、町を訪れる夏の観光客が着実に増加していた。登山鉄道ができれば、山の自然美を破壊するだけでなく、山の案内人やポニーの仕事が奪われ、客は日帰りするようになって宿も廃れるに違いない。アシュトン=スミスや町の人々はそう考えて、鉄道の建設を認めようとしなかったのだ。

しかし1880年代に入ると、スレートに代わる建築材料が普及し、安価な輸入品も流入してくる。ウェールズの景気は急速に冷え込んでいき、町に深刻な影響が現れ始めた。追い打ちをかけるように1877~81年、西隣のグウィルヴァイ谷 Cwm Gwyrfai に、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways(NWNGR)が開通した。山麓にスノードン駅が設置され、駅から山頂へ通じる登山道が新たに整備された。こちらのほうが歩く距離が短かったので、将来的にはスランベリスルートを凌駕する可能性もあった(下注)。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道については「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III」で詳述。その後、鉄道は廃止されたが、2003年にウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway として復活している。

この苦境を脱出するために改めて注目されたのが、登山鉄道による観光開発だ。大陸での実例が調査され、訪問者の増加により山麓の町は、衰退するどころか活性化することが確かめられた。度重なる説得で、アシュトン=スミスもようやく計画に同意した。1894年初めに資金調達のめどが立ち、同年11月にはスノードン登山軌道・ホテル株式会社 Snowdon Mountain Tramroad & Hotels Co Ltd が設立された。社名からもわかるとおり、山麓と山頂でホテルを経営し、両者を鉄道で結ぼうという目論見だった。

1894年12月に、アシュトン=スミスのわずか5歳の娘エニッド Enid が鍬入れをして(下注1)、工事が開始された。採用された800m軌間とアプト式は、スイスで供用の実績を積んだ当時の汎用システムだ(下注2)。着工までに、ヴィンタートゥールのSLM社に車両の発注も終えていた。線路工事は山麓から順次線路を延長しながら行われ、わずか1年1か月の工期で山頂に達した。こうして、1896年4月6日、イースターの翌月曜日に、待望の開通式が行われる運びとなった。

*注1 エニッドは病気の母(アシュトン=スミスの妻)の代役だった。ちなみに Enid の標準発音はイーニッドだが、ウェールズではエニッドになる。
*注2 同じシステムを採用した登山鉄道には、ブリエンツ・ロートホルン Brienz Rothorn(「ブリエンツ・ロートホルン鉄道 I-歴史」で詳述)、モンテ・ジェネローゾ Monte Generoso、グリオン=ロシェ・ド・ネー Glion-Rochers de Naye(いずれもスイス、1892年開業)などがある。

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山頂を望む(1890~1900年ごろの撮影)
image from http://hdl.loc.gov/loc.pnp/ppmsc.07489
 

長い構想期間に比べておおむね順調に進んだ工事だったが、祝賀の日に意外な落とし穴が待っていた。開通式で2本の列車が山頂に上っていたが、先に山を下りたほうがおそらくその重量のために、途中でラックレールから外れてしまったのだ。速度が制御できなくなった機関車(1号機ラダス L.A.D.A.S.)は脱線転覆して、大破した。機関士と火手は直前に飛び降りたため、辛うじて難を逃れた。一方、招待客を乗せていた2両の客車は自動ブレーキが効いて、線路上で停止したまではよかったが、狼狽して飛び降りた乗客のうちの一人が頭を強打して、その後亡くなった。

悪いことに事故の情報は、後続で山頂を出発する列車には伝わらなかった。当日は濃霧で、視界はまったく効かない。第2列車は何も知らずに、1号機関車が線路を壊した地点まで降りてしまい、同じようにラックレールから外れて暴走した。そして、線路上に残ったままの第1列車の客車に追突し、自らはそこで止まったが、押された客車はクログウィン駅まで線路を転がっていって脱線した。乗客はすでに全員客車を離れていたので、追加の犠牲者が出なかったのが不幸中の幸いだった。

事故調査では、地盤の沈下によって線路に狂いが生じたのが直接の原因とされた。加えて、列車の重量オーバーも指摘されたため、後に客車の小型化が進められた。また、ラックレールからの逸脱を防ぐ対策として、ポイントや緩勾配部を除き、全線にわたってグリッパーレールが設置された。アプト式でグリッパーレールのあるのはスノードンだけで、これは悲劇の教訓に他ならない。のっけから運休を余儀なくされた登山鉄道は、1年後の1897年4月にようやく運行を再開したのだった。

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尾根道をたどる列車
正面奥のピークがスノードン(1890~1900年ごろの撮影)
image from http://hdl.loc.gov/loc.pnp/ppmsc.07487
 

さて、20世紀に入ると鉄道の全盛期が終わり、スノードン山の周辺から列車の走る姿が消えていく。隣の谷のノース・ウェールズ狭軌鉄道は、1916年に旅客輸送を中断、その後別会社で再開されたが、1937年には完全に廃止となって、設備の大部分が撤去された。湖の対岸のパダルン鉄道は、1961年に休止となった。第二次大戦後、国有化されたスランベリス支線も、ビーチングの斧 Beeching Axe と呼ばれる合理化政策の犠牲となり、1964年に廃止された。

以来、スノードン登山鉄道は、全国鉄道網と連絡のない孤立路線として運行されている。登山鉄道自体の人気は相変わらず高いが、スランベリスへ公共交通機関で行こうとすれば、バンガー(バンゴル)Bangor とカーナーヴォン Caernarfon から出ている路線バスを利用するしかない(下注)。

*注 バンガー(バンゴル)からは85および86系統の路線バスが1時間毎、カーナーヴォンからは88系統が30分毎にある。どちらも日祝日は減便される。また、コンウィ・ヴァレー線のベトゥス・ア・コイド Betws-y-Coed からSnowdon Sherpa S2系統が1日5往復運行されている。(追記 2017.1.28)

この夏(2007年)、スノードン登山鉄道に乗る機会があった。山頂駅舎が改築工事中で、列車はクログウィン止まりだったのだが、次回はその車窓の様子を綴りたい。

(2017年1月28日改稿)

本稿は、Keith Turner "The Way to the Stars - The Story of the Snowdon Mountain Railway" Gwasg Carreg Gwalch, 2005および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
スノードン登山鉄道(公式サイト)http://www.snowdonrailway.co.uk/
Snowdon and Snowdonia Guide http://www.snowdon.com/

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コメント

コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり1号機は1896年4月6日、営業運転の一番列車に使われましたが、頂上からの帰りに急坂で逸走し、驚いて飛び降りた乗客が死亡し、機関車も大破しました。本文で引用した文献には、地盤の凍結で線路が沈下したために、機関車の歯車とラックレールが噛み合わなくなったのが原因と書かれています(Wikipediaにも詳しく説明されていますね)。その後、グリッパーレールを使う改良工事を施して、翌年4月、本格的に営業が再開されました。

疑問は自己解決しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:SMR_2_at_Llanberis_05-07-19_43.jpeg
↑はこの鉄道の2号機Enid号、1895年製。
http://farm2.static.flickr.com/1056/1289692733_25c0675604_o.jpg
↑は図面。9%の傾斜で描かれてます。
レールに乗ってる車輪直径が同じ軸にセットされたピニオン直径より小さいので、
一瞬、ラックレールはブレーキ専用かな?と錯覚しました。
マン島の電車はブレーキ専用中央レールを装備してるので。

正解はレール用車輪と車軸の関係は空回りで、固定されてない。
外側のサイドロッドで駆動する車軸は、Abt用歯車とのみ固定されている。
レール用車輪直径、653mmφ
歯車車輪ピッチ円直径、573mmφ です。

この鉄道の最急勾配は1 / 5½ です。換算すると、18.18% になります。
古い英国式の勾配表記は分数ですね。碓氷峠のAbt表記66.7‰は 1/15 が由来です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Snowdon_Mountain_Railway
上ページで下よりのRolling stock表に
「1 L.A.D.A.S. 1895 Steam locomotive Destroyed in accident on opening day 」
があり、1号機は初日に崖下に脱線転落大破してます。

この鉄道は、建設時スイスの技術に依存したため、
ゲージがフィート法でなく、メートル法の800mmになったと思いました。
メートル法ゲージは英国には、この鉄道以外知りません。

この鉄道のラック装置に疑問点があり、ミニ調査中です。

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