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2007年6月22日 (金)

ベトナム ダラットのラック式鉄道

ダラット=タップチャム鉄道 Da Lat - Thap Cham Railway (Đường sắt Tháp Chàm-Đà Lạt)

タップチャム Tháp Chàm ~ダラット Đà Lạt 間 84km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配120‰
1913~1932年開通、1968年頃廃止

【現在の運行区間】
ダラット~チャイマット(チャイマート)Trại Mát 間 7km
軌間1000mm、非電化、粘着式区間のみ
1997年開通

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個性的なファサードをもつダラット駅舎
 
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ベトナム中南部、標高1500m前後の高地に、同国の代表的なリゾート都市ダラット Đà Lạt(Da Lat, Dalat)がある。フランス植民地時代に開かれた避暑地で、ヨーロピアンスタイルの別荘が建ち並び、当時はインドシナの夏の都と呼ばれていた。

下界から高原都市への足として建設されたのが、ダラット=タップチャム鉄道 Da Lat - Thap Cham Railway(ベトナム語 Đường sắt Tháp Chàm - Đà Lạt、下注)だ。全長84kmのメーターゲージ(軌間1000mm)で、1932年に全線開通した。ベトナム戦争で被災して廃線となり、後に観光用として復活した一部区間を除いて列車の姿が消えて久しいが、かつて鉄道は、3か所のラックレール区間をもつアジア有数の「登山」鉄道だった。いったいどんな場所を走っていたのだろうか。旧米国陸軍地図局 U.S. Army Map Service(AMS)が残した地形図と現地写真で追ってみよう。

*注 鉄道は、始点の近くの町の名を採ってダラット=ファンザン鉄道 Da Lat - Phan Rang Railway、あるいはフランス語でラック(歯竿)を意味するクレマイエール鉄道 Crémaillère Railway とも呼ばれる。

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全体図
AMS 1:250,000地形図 NC49-1 Da Lat(1955年編集)
 

まずは鉄道の建設史を押えておこう。フランスがインドシナでの植民地経営を本格化させたのは、19世紀の終わりのことだ。1897年に総督として赴任したポール・ドゥメ Paul Doumer は、夏特有の酷暑から逃れられる土地を探していた。調査隊が提案したのが、現在のダラットだった。ベトナム中央高原のこの一角は地勢が比較的緩やかで、平均気温も18~25度と涼しく、滞在するには理想的な立地と考えられた。さっそく都市計画が実行に移され、ホテルをはじめ、並木の大通りの周囲に、別荘やスポーツ施設、公園、寄宿学校などが次々に配置されていった。

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(左)スアンフオン湖の堤と旧市街
(右)ダラット大聖堂
 

ドゥメはまた、植民地全体の鉄道整備構想を持っており、その中に保養地への交通手段となるこの路線も含まれていた。調査は1898年に着手されていたのだが、工事が始まったのは1908年になってからだ。最初の開通区間は1913年、タップチャム Tháp Chàm からタンミー Tân Mỹ まで、続いて1919年にソンファー Sông Pha(同 クロンファ Krongpha)まで延ばされて、前半41kmの事業が完了した。

ここから先は本格的な山岳地帯に入るため、アプト式ラックレールの助けが必要になる。第一ラック区間をはさんだソンファー~エウゾー Eo Gió が開通したのは、9年後の1928年のことで、以後、エウゾー~ドンジュオン Ðơn Dương が1929年、第二ラック区間を含むドンジュオン~チャムハン Tram Hanh が1930年と順次延伸され、1932年、線路はついに目的地ダラットに達した。

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【図1】山岳地帯のルート
AMS 1:250,000地形図 NC49-1 Da Lat(1955年編集)

ダラット=タップチャム鉄道の始点となるタップチャム駅は、標高26m、ハノイとサイゴン(現ホーチミン)を結ぶ南北幹線上にある【図2】。地図上で Ga Tháp Chàm と注記されているのが駅の位置だ。ちなみに、ガー Ga は駅のことで、フランス語の gare(ガール、駅の意)に由来する。また、タップチャムとは周辺にある遺跡、チャム族の塔のことだ。駅はフランス語の駅名(以下、仏名と記す)も持っていて、ここはトゥルシャン Tourcham(チャムの塔の意)と言った。

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【図2】起点タップチャム
AMS 1:50,000地形図 6732-II Phan Rang(1965年)
グリッド1km間隔、標高データはm単位、以下同じ

 

幹線から北へ向かって分岐した鉄道はすぐに針路を北西方向に変え、しばらくキンジン川 Kinh Dinh の左岸を遡っていく。タンミーの道路併用橋で川を渡ると、今度は灌木林のゆるやかな丘陵地を直進する。山に近づいたところが、標高186mのソンファー駅 Sông Pha(仏名クロンファ Krongpha)だ【図3】。ソン Sông は川を意味し、駅名はそばを流れる川の名から来ている。構内には側線と三角線が備わり、整備場を兼ねた車庫も置かれた。全線の中間地点であるとともに、難所を控えた運転の要衝であったことが想像できる。

■参考サイト
ソンファー駅付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=11.8247,108.6984&z=17

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【図3】第一ラック区間とその前後
AMS 1:50,000 6732-IV Ðơn Dương(1965年)
 
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旧ソンファー駅の車庫
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ソンファー旧道の橋は、鉄道橋の移設転用か?
 

いよいよ目の前に険しい斜面がたちはだかり、最初のラック式区間にさしかかる。ラックの起終点は地形図上で明瞭に判別できるだろう。鉄道は通常、細線に短線を交差させた日本でいう私鉄記号で表されるが、ラック式鉄道は白黒の旗竿型、つまりJR(国鉄)の記号にしてあるからだ。また、添えてある "ĐƯỜNG SẮT RĂNG CƯA" の注記は、ラック・ピニオン鉄道を意味するベトナム語だ。ラック起点の標高は210mほどと読み取れる。

線路は松林の山襞を何度も回り込みながら、2つのトンネル(長さ163mおよび70m)と、描かれているだけでも11の鉄橋を経て、高度差約780mを攀じ上る。最急勾配は120‰あった。ラック区間は9km近く続くため、途中、支流の沢を渡ったところに、カーブー Cà Bơ(仏名クブー K'Beu)という名の中間駅が設けられた。ちょうど碓氷峠の熊ノ平信号場のような位置関係だ。沢から引いた水が、急坂と格闘してきた機関車にたっぷり補給されたことだろう。北側を行く道路もすさまじいジグザグを繰り返しているが、それを縦に横切る青い線が目を引く。これはこの高度差を最大限に利用する水力発電用の導水管だ。

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ダニム水力発電所の導水管
第一ラック区間はこの高度差を克服する
 

上りきったところがエウゾー Eo Gió 駅で、標高991m。仏名のベルヴュー Bellevue(美しい眺めの意)は、急坂を上る間、遠く南シナ海の海岸まで見渡せる眺望の良さから名付けられた。ここでいったん線路勾配は和らぎ、まもなくダニム川 Sông Đa Nhim が造ったやや広い谷に出る。右手遠方には谷を一直線に横断する大規模な堰堤が見える。実はこのダムと、そこから取水するさきほどのダニム水力発電所 Nhà Máy Phát Điên Đa Nhim は、日本がベトナムに対する戦後賠償の大半を費やして1964年に完成させた施設だ。

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旧エウゾー(ベルヴュー)駅舎は民家(?)に
(左)ダラット側から見る。右の小道は廃線跡
(右)タップチャム側から見る
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がらんどうの旧エウゾー車庫
 

今でこそダニム川は、ダムと発電所に水を取られて勢いがないが、かつてはもっと水量が豊かだった。鉄道はこの川を、3連の優美なボウストリングトラスをもつ鉄橋で渡っていた【図4】。しかし運行休止後、トラスは解体撤去され、橋脚だけが河原に立ち尽くす寂しい姿を晒している。

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【図4】ダニム川鉄橋~第二ラック区間
AMS 1:50,000 6732-IV Ðơn Dương(1965年)
 
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ダニム川鉄橋の3連トラスは解体され、橋脚だけが残る
 

川を渡るとドンジュオン Ðơn Dương(仏名ドラン Dran)駅で、標高は1016m。旧駅舎の壁に残る駅名は、同じく付近にある集落名の「カンラン Cân Răng」と読めるので、どこかの時点で改称されていたのかもしれない。この駅を出るとすぐに、高度差約500mを上る第二のラック区間が始まる。線路は東に張り出した尾根に取り付いた後、最大115‰の急勾配で高度を稼いでいく。しかしそれでも直登することができず、途中で逆S字にルートを曲げることで距離を延ばす必要があった。

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切妻屋根がなくなった旧ドンジュオン駅舎
壁の文字はカンランと読める
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チャムハンへの急坂を上っていくと、ダニム湖と堰堤が望める
 

線路は途中で、同じように上ってくる道路と二度交差する。どちらも道路が上をまたぐ立体交差だが、1回目のそれは鉄道と道路が上下たすきがけに交差する構造で、絵葉書の題材にも取り上げられる名所だった。線路が剥がされた今でも、陸橋や切通しは姿をとどめており、列車が走っていた光景を彷彿とさせる(下の写真参照)。約6kmのラックレールで上りきった山上のチャムハン Trạm Hành(仏名アルブル・ブロワイエ Arbre Broyé)は、すでに標高1514mに達している。

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第二ラック区間にある鉄道と道路の立体交差付近
線路は正面左に見える切通しを上っていた
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同じ地点
(左)道路の下をくぐる急勾配の廃線跡
(右)道路陸橋の上から廃線跡を見る
  この先は上の写真の切通しに続く
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旧チャムハン駅の車庫
屋根は落ち、物干し場に転用(?)
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チャムハン駅からダラット方向に延びる廃線跡の小道
 

行く手を遮る大きな尾根を路線最長630mのトンネルで抜けた後は、細尾根の上を選ぶようにして線路は北へ進む【図5】。カウダット Cầu Đất(仏名アントルレー Entrerays)の周辺は見晴らしのいい茶畑が広がっている。98mと129mの短い2本のトンネルで、高みをしのいで行くと、ダートー駅 Ða Thọ(仏名ル・ボスケ Le Bosquet)の先に、最後のラック区間がある。こちらは60‰の勾配で100mばかりの高度を上るだけの小規模なものだ。

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【図5】第三ラック区間の前後
AMS 1:50,000 6732-IV Ðơn Dương(1965年)
 
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カウダット駅手前の道路からダラット方向を遠望
左奥にランビアン山が見える
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原形をとどめる旧カウダット駅舎
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旧カウダット駅舎
(左)裏側(線路側)
(右)駅名も明瞭に読める
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旧ダートー駅舎
(左)ダラット側は比較的健全、右の小道が廃線跡
(右)タップチャム側の屋根は崩落
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(左)カウダット~ダートー間で道路をくぐる廃線跡
  (タップチャム方向を望む)
(右)ダートー~チャイマット間で道路に並行する廃線跡の築堤
 

ラックが外れる直前で線路は再び西へと向きを変える。路線で最も高い地点は、チャイマット(チャイマート)Trại Mát の町の前後にある。駅の標高は1550mだ。なだらかな丘を越え、緩い坂道を下って高原らしい空の開けた土地に出れば、列車は間もなく標高1488mの終点ダラットに到着する。

*注 チャイマットは、地形図に地名が記載されていない。図6の右端(図5では左端)で、線路と国道が近接するあたりに駅がある。

■参考サイト
ダラット駅付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=11.9414,108.4547&z=18

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【図6】チャイマット~ダラット間
AMS 1:50,000 6632-I Đà Lạt(1965年), 6732-IV Ðơn Dương(1965年)
 

地形図には線路の途切れた先に sta(station の略号)の文字が見える。ダラットの現存駅舎は、開通から少し後の1938年に建て直されたものだ。アールデコと現地の少数民族建築の折衷様式が珍しく、2001年に国から建築遺産の指定を受けている。正面の特徴的な3つの尖った屋根は、中央高地のランビアン(ラムヴィアン)山 Lâm Viên の3つの頂きを模したとも、フランス西海岸のトルヴィル・ドーヴィル Trouville-Deauville 駅(1931年築)をモデルにしたとも言われる。玄関に突き出す大きな車寄せポルト・コシェール Porte-cochère が、避暑客が行き交った昔を今に伝えている。

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【図7】ダラット市街図
1:10,000ダラット市街図(1967年現在、1991年出版)
 
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ダラット駅前広場に入る門
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(左)駅舎玄関の大きな車寄せ(ポルト・コシェール)
(右)建築遺産指定の銘板
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駅舎内部
(左)多色のガラス窓から外光が漏れる
(右)出札
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頭端式ホームは1面2線だが、現在、発着は片側のみで行われる
 

鉄道を運営していたインドシナ鉄道会社 Compagnie des chemins de fer de l'Indochine (CFI) は、山岳地帯の開業にあたって、9両のHG 4/4形蒸気機関車をヨーロッパから輸入した(下注1)。1947年にもスイスのフルカ=オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-bahn (FO) から電化で用済みとなった4両のHG 3/4形が、ベトナムに渡った。これらは鉄道廃止後、所在不明になっていたが、1985年に再発見され、一部の車両が1990年にスイスに戻されて現役に復した(下注2)。

ダラット駅には別に、中国を経てもたらされたベトナム国鉄131形蒸機が静態保存されていて、これは日本で1936年に製造されたC12形を改造したものだそうだ(下注3)。

*注1 1924年、スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik (SLM) 製5両、エスリンゲン機械工場 Maschinenfabrik Esslingen (MFE) 製2両、1930年にSLM製2両を追加。701~709号機とされた。
*注2 この機関車が里帰りしたフルカ山岳蒸気鉄道については、本ブログ「フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり」参照。
*注3 小牟田哲彦「ダラット高原のミニ列車」『鉄道ジャーナル』2005年9月号 p.124による。

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(左)静態保存の131形蒸機
(右)1930年エスリンゲン機械工場製の有蓋貨車は喫茶室に

しかし、植民地鉄道の華やかな時代は長く続かなかった。1940年、日本軍による仏印進駐が始まる。1945年の日本撤退後は、対仏インドシナ戦争と南北分断、そして泥沼化したベトナム戦争と、1976年の国土統一に至るまで、この国は苦難の30年を経験した。

植民地の解体過程で、鉄道の運行はベトナム側に引き継がれていた。しかし、ベトナム戦争中、爆撃と破壊活動の標的にされて次第に使用できなくなり、同線の定期運行は1968年に終了したとされる(1972年説もある)。統一後の復興に際して、象徴となる南北鉄道の再開を優先するために、同線をはじめとする休止線からレール等の資材を転用する方針が示された。現地に残されていた線路は順次撤去され、転用されなかったものもくず鉄として売られてしまった。

現在、路線西端のダラット~チャイマット間7kmでは、列車運行が復活している。1997年に始まった観光企画だ。2004年に取材された上記「鉄道ジャーナル」の記事によると、運行は2~6往復で、ディーゼル機関車牽引の観光列車が片道30分かけて走っている。定員20名の小型車両はオープンデッキが付き、車内には涼やかな木製ベンチと強い日差しを遮るカーテンが備わる。標識に記された「ダラット高原鉄道 Dalat Plateau Rail Road」というアメリカ風の名称には違和感があるとはいえ、由緒ある鉄道の一部が再び避暑地のアトラクションとして定着したのは嬉しいことだ。

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(左)DL牽引の観光列車が到着
(右)機回し作業が始まった
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古典風に改造されたデッキ付き客車
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(左)客車内部
(右)観光列車乗車券
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沿線風景
(左)ビニールハウスでは高原野菜を栽培
(右)野の花咲く鞍部を越える
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女性車掌が大活躍
(左)出発直後の検札
(右)機回しでは転轍と誘導も
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チャイマット到着
(左)二輪車行き交う駅前の踏切
(右)ささやかな駅舎の横で復路に備える
 

報道によれば、ベトナム政府は幻の鉄道を全線復活させて、世界遺産の登録をめざすという壮大な計画を持っているようだ(下注)。しかし、ラックレールのみならず、ダニム川を渡る鉄橋もすでにない現状では、実現は夢のまた夢だろう。せめて廃線跡を徒歩や自転車でたどれるような整備ができるといいのだが。

*注 ベトジョー 日本語ベトナムニュース 「ダラット:蒸気機関車けん引の観光列車運行」 http://www.viet-jo.com/news/tourism/091207030215.html 「チャム遺跡~ダラット間の鉄道再建案が承認」 http://www.viet-jo.com/news/tourism/071011061528.html 参照

(2011年3月4日、2016年1月3日改稿)

Map images courtesy of University of Texas Libraries and The Vietnam Center & Archive at Texas Tech University.
写真はすべて、2015年11月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
失楽園への忘れられた小道を捜して(資料集)
TRACING THE FORGOTTEN PATH TO THE LOST SHANGRI-LA
http://vnafmamn.com/tracing_shangrila.html
同サイトにあるルートマップ(略図)
http://www.vnafmamn.com/photos/railmap.jpg
鉄道の写真集
Mary and Chris Go East - Crémaillère Railway
http://www.highway57.co.uk/seasia/index?sec=94

★本ブログ内の関連記事
 米軍のベトナム1:50,000地形図
 米軍のアジア1:250,000地形図

 インドの登山鉄道-ニルギリ山岳鉄道
 フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり

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コメント

わたくしの父は終戦時ダラットにいたそうですが、その当時日本軍はダラットのどの場所にあったかご存知の方お教えください。

See this webpage for better known on Dalat cog railway

http://vnafmamn.com/tracing_shangrila.html

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