2022年4月20日 (水)

コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡

2021年11月14日の朝、バスで西市(にしいち)に着いたその足で、近くの道の駅「蛍街道西ノ市」に展示されている旧 長門(ながと)鉄道の蒸気機関車を見に行った。1915年アメリカ製、動輪3軸の小型機で、鉄道開業に際して配備された101号機関車だ(下注)。

*注 プレートが103になっているのは、後に転籍したときに改番されたもの。

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長門鉄道101号機関車
道の駅「蛍街道西ノ市」にて
 

戦後1947年に滋賀県の繊維工場に転籍し、入換機関車として使われたが、1964年に引退。その後は、宝塚ファミリーランド、続いて加悦(かや)SL広場で静態展示されていた。しかし、後者の閉館によって、ゆかりの土地への引き取りが決まり、去る9月に移送が行われた。公開はほんの1週間前に始まったばかりだ。

里帰りを果たした機関車は、道の駅の建物に囲まれた中庭に鎮座していた。しっかりした屋根が架かり、明らかに施設の中心的モニュメントという位置づけだ。SL広場では数ある機関車コレクションの中の一両に過ぎなかったので、特別に注目を浴びることもなく、雨ざらしになっていた(下写真参照)。それを思えば別格の待遇だから、さぞ本人(?)も晴れがましく思っていることだろう。

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道の駅の中心的モニュメントに
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加悦SL広場時代の101号機(左端、2020年2月撮影)
 

秋のコンター旅西日本編の2日目は、この機関車が走っていた長門鉄道の廃線跡をたどる。鉄道は山陽本線小月(おづき)駅から北上し、ここ西市(現 下関市豊田町西市)に至る18.2km、単線非電化の路線だった。1918(大正7)年に開業し、戦前戦後を通じて地域の交通を担ったが、1956(昭和31)年に廃止となり、バス転換された。

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長門鉄道現役時代の1:200,000地勢図
(1931(昭和6)年部分修正図)
 

朝からいきなり終点の町にやって来たのは、前泊した美祢(みね)市街との間にバス路線があるからに他ならない。小月からも鉄道代替のバスが通っているので、ここで参加者が落ち合い、起点に向かって歩くことにしている。

ちなみに、美祢駅前からブルーライン交通の豊田町西市(とよたちょうにしいち)行きに乗ったのは、大出さんと私。ローカルバスの旅は退屈することがない。この間を結ぶ国道435号にはすでに立派な新道が完成しているが、バスは律儀に旧道を経由するからだ。車窓から美祢線の旧 大嶺駅の現状が観察できたし、平原からの峠越えでは、道に出てきた野生の鹿を目撃した。「次はー、しももものき」という車内アナウンスには、思わず漢字表記(下桃ノ木)を確かめてしまった。

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(左)ブルーライン交通バス、美祢駅前にて
(右)サンデン交通バス、豊田町西市バス停にて
 

本題に戻ろう。道の駅で機関車の現況を見届けた後、サンデン交通のバス停へ引き返し、小月から来る中西さんを待った。本日も参加者はこの3名だ。

まずは、西市駅跡へ向かう。駅は町の西側に置かれていたが、さらなる延伸(下注)を意図したからか、街路の軸とは少しずれている。跡地に建つ豊田梨の選果場の平面形がやや西に傾いているのは、そのためだ。

*注 計画では、陰陽連絡鉄道として、日本海側の仙崎(現 長門市)を最終目的地にしていた。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
西市~西中山間
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同区間 現役時代
1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大
(1927(昭和2)年要部修正および1936(昭和11)年修正測図)
 

選果場の壁面に「にしいち」の駅名標が立っていた。もちろん当時のものではなく、2018年の設置らしい。傍らの説明板には、駅敷地北側にある米の備蓄倉庫が当時をしのばせる、と記述されている。選果場の西隣にあった農業倉庫を指すようだが、建物はもう跡形もなかった。鉄道が来ていたことを示すものは、今や県道の向かいの公民館前庭に置かれているという、レールと動輪のモニュメント(下注)ぐらいではないか。

*注 モニュメントの設置場所のことは後日知ったので、実見はしていない。

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西市駅跡
(左)跡地に建つ選果場、赤の円内に駅名標が立つ
(右)駅名標と案内板
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案内板を拡大
 

線路跡の道を南へ歩き出す。町のはずれで拡幅された県道に吸収されてしまうが、100mほどでまた分かれて一本道になった。直線と緩い曲線を組み合わせた線路跡らしい軌跡を描いていて、通るクルマも意外に少ない。森を抜けた先の小さな集落の中に、一つ目の停留所、阿座上(あざかみ)があった。ここにも同じような駅名標が立っている。

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線路跡らしい軌跡を描く道
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阿座上停留所跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

ゴルフ練習場や古墳群の前を通過し、華山(げさん)が見下ろす田園地帯を横切ると、次は石町(いしまち)駅跡だ。同じ仕様の駅名標と案内板(下注)で、位置が特定できる。ここの案内板も「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロなレンガ造りの建物として残されている」と記すが、やはり取り壊されていた。

*注 「鉄道開通百周年 メモリアル長門ポッポ100実行委員会」によるこの解説標識は旧 豊田町域にだけ立てられたらしく、以南の駅跡では見当たらない。

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(左)本浴川(ほんえきがわ)の田園地帯を横切る(北望)
(右)下関市域の最高峰、華山(げさん)
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石町駅跡
(左)跡地を北望 (右)駅名標と案内板
 

線路はこの後、県道34号下関長門線の東側を走っていたはずだが、圃場整備と県道の拡幅により跡は消失している。まだ先は長いので、時間節約と体力温存のために、サンデン交通のバスが来るのを待った。地方バス路線の縮小が進むなか、うれしいことに小月~西市間では、まだ日中1時間に1本程度の便がある。石町から次の西中山までわずか5分乗っただけだが、これで3kmほど前へ進むことができた。

西中山バス停の1kmほど手前から、県道と木屋川(こやがわ)との間に側道が続いていることに気づいていた。川はすでに下流にある湯の原ダムの湛水域に入っていて、その護岸の役割を果たしているが、位置からして廃線跡のようにも見える。

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バスで石町から西中山へ
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(左)西中山駅跡から北望、側道は廃線跡か?
(右)側道はダム湖沿いの自転車道になる
 

西中山を過ぎると、この側道は県道と分かれ、ダム湖沿いの自転車道となって独立する。湯の原ダムは1990年の竣工だから、鉄道の現役時代は、河岸の崖をうがつ形で線路が敷かれていただろう。道なりに曲がっていくと、やがて行く手に支尾根が迫ってくる。自転車道はこれを階段道で越えていくが、鉄道は全長104mの中山トンネルで貫いていた。

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同 西中山~田部間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

トンネルの西市側のアプローチは藪化していたので、自転車道を通って小月側に回った。踏み分け道を進むと、路線唯一の鉄道トンネルが、ポータルも内壁もきれいなまま残っていた。路面はバラスト混じりの土で、ぬかるみもなく、問題なく歩ける。状態はかなり良好に見えるのに、なぜ自転車道を通さなかったのだろうか。

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中山トンネル南口
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(左)中山トンネル内部
(右)同 北口
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南口の手前に掛かる中山トンネルの案内板
 

トンネルを出た廃線跡は再び自転車道となって、富成橋の手前まで続いている。突然、「シカがいますよ」と大出さんが小声で知らせてくれた。尾根筋の上からこちらを見ている。きょう2頭目だ。カメラを向けると、気配を察したか、さっと森の奥に走り去った。

次の込堂(こみどう)停留所跡は、富成橋の南にある同名のバス停の後ろで、金網で囲われたそれらしい空き地が残っている。ここから鉄道は、旧 菊川町の平野部を横断していく。しかし、圃場整備が行われて、線路跡はほぼ完全に消えてしまっている。一軒家の敷地境界が斜めに切られているのが、ルートを推定できる数少ない手がかりだ。

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(左)廃線跡の自転車道は富成橋手前まで続く
(右)込堂停留所跡を北望
 

菊川温泉の敷地の南側で、ようやく線路跡が現れた。一部で簡易舗装されているものの、家並みの裏手をおおむね草道のまま南へ続いている。県道233号美祢菊川線とぶつかったところで、追跡を中断。近所の「道の駅きくがわ」へ移動して、昼食休憩にした。

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菊川温泉の南方、家並みの裏の草道(北望)
 

県道233号と小川を越えた南側の廃線跡も、手つかずの築堤が残る貴重な区間だ。さらに南へ進むと、中間の主要駅だった岡枝(おかえだ)駅の跡がある。広い構内は定番のJA(農協)用地に転用されていて、西市や石町では見ることが叶わなかった農業倉庫もまだ残っている。駅跡より南は、宅地や畑になっているが、その間に溝をまたぐ石積みの橋台を見つけた。

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岡枝駅跡
(左)JAの施設が建つ
(右)現役時代を偲ばせる旧「四箇村産業組合農業倉庫」
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(左)岡枝駅の南方は宅地や畑に
(右)溝をまたぐ石積みの橋台
 

岡枝駅の南方で、木屋川の支流、田部川(たべがわ)を渡る。ここには鉄道で最も長い橋梁が架かっていたが、護岸の改修が完了しており、遺構は何もない。対岸の築堤では倉庫や宅地が列をなしているが、すぐに自転車道が線路跡の位置に復帰し、田んぼの中を左にカーブしていく。

おそらく沿線で唯一プラットホームが残存するのが、田部停留所だ。切石積みの低いもので、住宅敷地の土台にされている。重要な史跡という意味を込めてか、久しぶりに案内板も立っていた。下関市教育委員会によるもので、ホームの全長は45m、高さ0.65mとある。

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(左)田部川渡河地点、対岸に見える倉庫は廃線跡に建つ
(右)自転車道が跡地に復帰
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切石積みのホームが残る田部停留所跡(北望)
 

枝を大きく広げる桜並木を過ぎると、道は上り坂に転じ、県道265号とともに切通しを抜けていく。雨でのり面が崩壊したらしく、全面通行止の看板が立っていたが、歩いて通るには問題がなかった。

県道と斜めに交差した直後に、上大野停留所があった。県道脇に三角の緑地帯が取られ、立派な桜の木の根元に、小さな駅跡碑が埋まっている。

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(左)桜並木から上り坂に
(右)上大野まで坂道は続く
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上大野停留所跡を北望
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同 田部~小月間
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同区間 現役時代の1:25,000地形図
(1922(大正11)年測図)
 

水路敷設工事による迂回区間の後は、山手を縫う簡易舗装の農道になった。クルマの行きかう道から遠ざかるので静かで、気持ちよく歩ける。途中で、「6」(600mの意?)の数字が刻まれたコンクリート製の距離標を見つけた。鉄道時代の遺物だろうか。

森が覆いかぶさる緑のトンネルをくぐってなおも行くと、県道が左から近づいてきて、合流した。下大野駅のあった場所にも、同名のバス停が設置されている。小月と菊川の間は国道491号を行くのが最短ルートだが、バス便のうち4割ほどは、鉄道と同じく遠回りの大野経由で運行されているのだ。

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(左)山手を縫う簡易舗装の農道
(右)コンクリート製の距離標
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(左)用水路のサイホン
(右)緑のトンネル
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(左)下大野で県道と合流
(右)下大野駅跡のバス停
 

右へ折れ、再び谷あいに入ろうとする地点では、中国自動車道に沿って高く盛った築堤が一部残っている。この後で越える峠のために、かなり手前から高度を上げていたことがわかる。しかし、廃線跡はすぐに高速道の下に取り込まれてしまう。峠といっても標高40mほどに過ぎないが、だらだらと続く長い坂道で、歩き疲れた足にはこたえる。

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(左)峠に向けて盛られた築堤
(右)だらだら坂のサミット
 

次に線路跡が明瞭に現れるのは、峠を降りた上小月で浜田川を渡る地点だ。左にそれる県道に対してまっすぐ延びる道をぼんやり歩いていたら、大出さんが「橋台が残ってますよ」と、隣に並行する道を指差す。確かに切石積みの橋台が見える。今歩いているのは2車線道になる前の旧道で、廃線跡は、並行するこの小道のほうだった。

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(左)浜田川を渡る旧道脇の廃線跡
(右)浜田川の切石積み橋台
 

菊川町からまっすぐ南下してきた国道491号とは、ここで出会う。廃線跡はその下に埋もれてしまったものと思い込んでいたが、観察眼の鋭い大出さんが、小川を通すカルバート(暗渠)の向こうに、また橋台を見つけた。さっきと同じ切石積みだ。この前後では廃線跡と国道が絡み合うように走っており、一部分が国道の西側に残っていたのだ。

中国自動車道をくぐる手前には、川べりを走る小道と廃線跡が一体化されたにもかかわらず、低いコンクリート柵が中央分離帯のように残されている場所があった。クルマにとっては危険な障害物だが、地元の人たちは慣れているのだろう。

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(左)国道491号の西側に残る橋台
(右)中央分離帯のようなコンクリート柵を北望
   左側の道が線路跡
 

小月インターのランプをくぐると、いよいよ小月の市街地に入る。ここでも意外に廃線跡を見つけることができた。新幹線と交差する前後は拡幅済みで、そのうち片側1車線の街路になるのだろう。その先にあった長門上市(ながとかみいち)駅の跡は、すっかり宅地化されたが、中央に細道が通っている。しかし微妙に曲がっていて、かつ狭すぎるから、線路敷をなぞったものではないだろう。浜田川に接近する地点では、護岸改修の影響で不分明になってしまうが、その南側では、街中の地割に廃線跡の名残がある(下図参照)。

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小月市街地の廃線跡
(左)新幹線と交差する前後は拡幅済み
(右)長門上市駅跡は宅地化、中央に細道が通る
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地籍界に残る廃線跡(赤円内の細長い地割)
 

長門鉄道の主要貨物は沿線で生産される米や木材で、起点の小月駅には、こうした貨物を取り扱う広いヤードがあった。また、鉄道廃止後も、駅前に生まれた空地が商業施設や駐車場に再利用され、町の賑わいに貢献しただろう。しかし、そうした歴史を語る説明板一つ立てられていないのは残念なことだ。

今はどちらも下関市域だが、終点の旧 豊田町が鉄道史の保存や紹介に熱心に取り組んでいるのを間近に見た後では、いささか物足りなさを覚える。長門鉄道が外界とつながる生命線だった内陸の西市と、早くから全国幹線が通じていた小月とでは、思い入れに強弱の差があるのは仕方ないのかもしれないが。

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(左)小月駅跡は商業施設や駐車場に
(右)山陽本線小月駅
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田部(大正11年測図)、小月(大正11年測図)、5万分の1地形図西市(昭和2年要部修正)、舩木(昭和11年修正測図)、20万分の1地勢図山口(昭和6年部分修正)および地理院地図(2022年4月10日取得)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-秋吉台西台のウバーレ集落

2022年4月 4日 (月)

コンターサークル地図の旅-秋吉台西台のウバーレ集落

地表の風貌が独特なカルスト台地は、地図好き、地形好きにとって興味の尽きない場所だ。台地は石灰岩やドロマイトなど可溶性の岩石によって形づくられ、表面に川というものがない。代わりに大小無数の窪地が口を開けていて、雨水はそこから地下に浸透してしまう。このすり鉢状の窪地がいわゆるドリーネだ。隣接するドリーネどうしがつながって、より大きな窪地に拡大したものはウバーレと呼ばれる(下注)。

*注 もっと広いものにはポリエという名称がある。

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江原ウバーレ集落
 

2021年11月13日、秋のコンター旅西日本編1日目は、山口県西部にある日本最大のカルスト台地、秋吉台(あきよしだい)を訪ねた。ここには、全国的にも珍しいウバーレ集落がある。ウバーレの底で集落が営まれているのだ。

秋吉台は、北東から南西方向に長さ16~18km、幅6~8kmにわたって広がるが、中央を厚東川(ことうがわ)が南北に貫いていて、その谷によって大きく東台と西台に分けられる(下図参照)。私たちがふつう思い浮かべる秋吉台は、実は東台のことだ。秋芳洞(あきよしどう)など大小の鍾乳洞や、波打つ草原の台地があり、国定公園に指定されている。

対する西台も面積は同規模だが、こちらは産業地区の側面をもつ。東部と南部で、セメントなどの材料となる石灰岩の大規模な採掘場が操業しているほか、一部は牧場として開拓されている。しかし、森も案外多く残されていて、ウバーレ集落があるのは北西部のそうしたエリアだ。

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秋吉台とその周辺
基図は1:200,000地勢図
 

集落は二つあり、南のほうが入見(いりみ)、北が江原(よわら)と呼ばれる(下注)。地形図を見ると、集落が載る場所には、等高線にヒゲのような短線が施されていて、周囲より低い土地であることがわかる。ウバーレの特徴である複数の窪みも明瞭に読み取れる。

*注 このほか、入見の南方にある奥河原(おくがわら)も、南に出口をもつポケット状のウバーレに立地する。

集落はどちらも、周囲から隔絶された土地だ。凹地という地形的な特徴とあいまって、隠れ里の気配さえ漂うが、実際にはどんな場所なのだろうか。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆

朝9時過ぎ、美祢(みね)線の美祢駅前に集合したのは、中西、大出、私の3名。歩いて向かうには遠いので、タクシーで入見集落の入口まで行ってもらった。

重安付近で国道316号から右にそれ、狭い谷の一車線道(県道239号銭屋美祢線)をさかのぼる。この谷が入見まで連続しているのだが、実は地図に記された180m標高点がサミットで、そこから一転、下り坂になる。ウバーレ(のうち南側のドリーネ)の集水域に入ったわけだ。

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美祢駅に朝の下り列車が到着
 

タクシーを降り、三又になった分かれ道のうち、一番右側を下っていく。側溝を勢いよく滑る水の後を追うと、まもなく集落が現れた。多くの家が艶光りする赤茶色の瓦を載せている。タクシーの運転手さんが、「この辺はだいたい石州瓦ですよ」と言っていたのを思い出した。石州瓦は石見国、すなわち島根県が主産地で、西日本の日本海側の家屋でよく見られる。

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石州瓦を載せた入見集落の家並
 

側溝の水は集落を突っ切り、鯉の泳ぐ貯留槽を経て、日陰の平たい谷底へ続いていた。森のきわに沈殿池があり、白濁した水に泡が浮いている。生活排水も当然、ここに合流してくるのだ。コンクリートの覆いに鉄格子が嵌っていて、覗くと深い穴が見えた。ここが吸込口に違いない。

周辺は、畔道で区切られた田んぼが広がる。カルスト地形は一般に保水性が低く、稲作には不向きなのだが、凹地(ドリーネ)の底には例外的に肥えた粘土質の土が堆積し、貴重な耕作の場を提供している。

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(左)側溝を流れる水の後を追う
(右)森のきわの吸込穴
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ドリーネの底に広がる田んぼ
 

集落の小道を北へ向かう。途中、何度か住民の方に出会ったが、挨拶すると「おはようございます」とていねいに返してくれるのがうれしい。ウバーレ集落も今や隠れ里どころか、観光サイトにビュースポットとして紹介される存在だ。よそ者が歩き回るのも珍しいことではないのだろう。

入見ウバーレには、北側にもう一つドリーネがある。規模は小さいが、深さでは勝り、すり鉢状の地形がよく把握できそうだ。地図には水田の記号が見えるものの、行ってみるとすでに耕作は放棄され、草原化していた。溝の中をちょろちょろと走る水が、草むらの中に消えていく。幽ヶ穴と呼ばれる吸込口に入るはずだが、丈の高い草が茂っていて確かめようがない。

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入見集落北側のドリーネ
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(左)幽ヶ穴に向かう水流
(右)ドリーネの底の休耕田
 

入見集落の探訪を終えて、先刻の三又に戻り、もう一つのウバーレ集落、江原(よわら)をめざした。県道はくねくねと山を上り、小さな峠を越える。降りていくと道端に、集落の一部を見下ろす展望地があった。「丘の空」と呼ばれ、「ミステリーホールの謎に迫る」と興奮気味のコピーを記した案内板が立っている。

江原ウバーレは入見のそれより大きく、南北1km、東西7~800mの楕円形をしている。凹地の底まで、展望台からでも高低差が40mほどあり、まさに大鍋の内側という印象だ。そこに40戸ほどの家が建ち並ぶ。

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「丘の空」から望む江原集落の一部
道端に赤い案内板(内容は下写真参照)
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「丘の空」の案内板
 

急な坂道を小走りに下って、集落の中へ。道からそれる水路を追って、溝蓋の上を歩いていくと、金網のはまった吸込穴とおぼしき場所に行き着いた。資料(下注)によると、1989(平成元)年に新設されたもので、これにより大雨の際に浸水被害に遭うことがなくなったという。周囲の地形を見渡すと、確かにここが一番底ではない。実際、別の小さな溝が北側へ水をちょろちょろと運んでいて、その先で草むらに消えていた。そこに本来の吸込穴があるのだろう。

*注 美祢市地旅の会、堅田地区まちづくり協議会「美祢市別府のお宝さがし-ウバーレの秘密 江原地区」

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(左)溝蓋の下にもぐる水路
(右)1989年新設の吸込穴
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(左)1989年の吸込穴は奥の山際にあるが、溝の水は手前に流れてくる
(右)旧 吸込穴へ消えていく溝の水流
 

集落中央の丘の上にある水神社へ行こうと、モミジの落ち葉を踏んで急な階段を上る。小ぢんまりした境内の一部は、かつての別府小学校江原分校の跡地だ。建物も基礎もすでになく、プールだけが防火水槽に転用されて残っている。この集落では1940(昭和15)年に大火事があり、大半の家屋が焼失した。それを教訓にした備えに違いない。

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(左)水神社への石段
(右)水神社祭殿
  右に分校跡碑、左に旧プールがある
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分校跡から集落を俯瞰
 

ここで昼食休憩。それから、ウバーレ東斜面の宅地に残る「岩屋」を見に行った。カルスト台地の特徴の一つでもある石灰岩の露頭なのだが、ここでは家の塀に代用(?)されたり、庭石に見立てられて(?)いたりする。山水画を実写化したかのようで、とてもおもしろい。その手前には、鉄格子をかぶせた小さな吸込口があった。資料(下注)で言及されている「標高約170mにある吸込み穴」のようだ。

*注 ウォーキングひろめ隊、美祢市健康増進課「秋芳町別府江原 ウォーキングマップ」。

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岩屋
(左)塀の代用(?)
(右)立派な庭石にも(?)
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岩屋近くの吸込穴
左写真の物置小屋の軒下に、右写真の吸込穴がある
 

さて、この後は美祢線の於福(おふく)駅まで歩く予定だが、問題はこの石灰岩の台地をどう越えるかだ。県道は北へ抜けているので、それに従うとかなり遠回りになってしまう。一方、地形図には、ウバーレの西側の「台山」に多数の実線道路(幅員3.0m未満の道路)が描かれていて、近道に見える。

台山は、名のとおり石灰岩の台地だ。そう聞くと、東台のようなススキたなびく草原地帯が頭に浮かぶが、あれは、毎年春先に山焼きをして人為的に維持されているものだ。日本のような高温多湿の気候では、放っておくとやがて森に還る。台山も一面、自然林ないしは人工林で、空中写真では道すら見えない。

県道横の集会所で地元の方に尋ねると、「昔、車のないころはみなこの山を越えて於福駅まで歩いとった。今はもう誰も通らなくなって、道がわからなくなっとると思うよ」とのこと。進むべきか迷うところだが、近年の地形図は大縮尺の国土基本図を資料にしていて、道路情報はかなり詳細だ。藪がひどければ戻ってくればいい、と決行することにした。

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(左)台山へ登る林道
(右)獣除けネットの先はわだち道に
 

県道から分岐する林道にとりつく。台地のへりを上る区間は急勾配だったが、路面はしっかりしていた。「林道をまっすぐ行くと、山の上へ出てしまうから」とさきほど聞いたので、西へ抜けるには、どこかで左に折れなくてはいけない。ところが坂を上り切り、道が平坦になるとまもなく、左側の森を背丈以上もある獣除けのネットが覆い始めた。

地形図と照合しながら、左折点を特定する。幸いなことに、そこはネットの一部が開閉式になっていて、紐で縛ってあった。紐を解いて中へ入り、もとどおりに直しておく。その先は、深い森の中を轍の道が延びていた。降り積もった落ち葉で、踏むたびにふわふわと弾む。と右側に、小さいながらも形のいいドリーネが現れた。杉林に覆われているが、底のほうの木がより大きく育っているのは、養分が豊富な証拠だ。

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杉林のドリーネ
 

車の轍は途中で消えてしまったが、光が届かないので下草は深くなかった。しばらくするとまた左にネットが現れ、それに沿って進むうち、無事に簡易舗装の林道へ出ることができた。地形図に描かれている建物は養鶏場のようだったが廃屋で、点在しているように見える耕作地もすでに雑木林だ。しかし道筋だけは明瞭で、北へ向かっている。周りにはドリーネがいくつもあり、カルスト地形を実見できる。

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笹原のドリーネ
 

台山のへりまで来ると、道はヘアピンを繰り返しながら、比高約170mの急斜面を下降していた。山側は石灰岩剥き出しの崖で、スリットが無数に入り、今にも剥落しそうだ。汽車に乗るためにこの道を往復していたという江原の人たちの苦労に思いを馳せながら歩く。その美祢線が通る谷底平野の眺望には少し期待していたのだが、森に遮られ、ほとんど最後まで見ることができなかった。

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台山のへりを降りる
(左)石灰岩剥き出しの崖
(右)道はヘアピンの繰り返し
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谷底平野から振り返り見た台山
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図山口(昭和61年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

■参考サイト
秋吉台ジオパーク http://mine-geo.com/

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2022年3月26日 (土)

コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道

多古線を歩いた翌日2021年10月17日は、あいにく本降りの雨になった。朝はまだ小雨だったので、外房線の下り列車で出かけた。集合場所は、行川(なめがわ)アイランド駅。ご承知のとおり、フラミンゴやクジャクのショーで有名な一大観光施設の最寄りだったが、それも20年以上前の話、今は小さな待合所があるのみのうら寂しい無人駅に過ぎない。

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雨の行川アイランド駅に入る下り列車
 

2両編成の電車から降りたのは、中西さんと私の二人だけだ。大粒の雨が風に乗って斜めに降ってくるが、「とりあえず『おせんころがし』まで行ってみましょう」と歩き出す。「おせんころがし」というのは、太平洋に落ち込む断崖絶壁の上を通過していく旧街道きっての難所のことだ(下注)。強欲な地主の父親の身代わりとなって、崖から投げ落とされた(別の説では自ら身を投げた)娘お仙の悲話が伝えられている。

*注 伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)の一部で、大正期に建設された大沢第一、第二トンネル経由の道路(以下、旧国道)に取って代わられた。

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おせんころがしに立つ供養塔
 

国道128号線から左にそれ、狭い谷間の通路を伝っていくと、にわかに目の前が開けた。そこは海からの高さが優に50mはある断崖の上で、お仙の供養塔が立っている。道はそこで行き止まりだった。地形図に描かれている大沢との間の破線道(徒歩道)を探そうとしたが、丈の高い草に覆われて入口さえ定かでない。

その間にも雨は降りつのり、西へ延びる険しい海岸線も白く煙ってきた。悪天候を見込んで登山用の装備を整えてきた中西さんに比べ、私はウィンドブレーカーと旅行用の折り畳み傘という軽装だ。すでに足元はずぶぬれで、冷えが伝わってくる。これから歩く距離を考え、弱気になった私は早々とギブアップを宣言、旧国道を進む中西さんを見送って、駅に戻ることにした。

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険しい海岸線が雨に煙る

とはいえ、これでは土産話にもならないので、天気が回復した翌日、単独で同じコースに再挑戦した。今回はそれをもって、コンター旅の報告に代えたいと思う。

この地へ来た目的は二つある。一つは、夷隅川(いすみがわ)源流で河川争奪によって生じた風隙を観察することだ。夷隅川は、太東崎(たいとうざき、下注)の南で太平洋に注ぐ河川だが、その流域を地図で塗り分けて見ると興味深いことがわかる(図1参照)。

*注 太東埼、太東岬(たいとうみさき)とも表記する。

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図1 夷隅川の流域
青の破線が分水界、最南端に上大沢がある
基図は1:200,000地勢図、図中の木原線は現在のいすみ鉄道
 

勝浦から西では、青の破線で示した流域の境界線、すなわち分水界が太平洋岸ぎりぎりまで迫っている。海との距離はせいぜい1~2kmだ。分水界は川の最上流部なので、それが限りなく海に近いというのは常識から外れている。

なぜこのようなことになるのか。謎を解く鍵が、分水界のいたるところで見られる風隙(ふうげき)だ。これは谷の断面が露出したもので、浸食力の強い別の川に流域を奪われる河川争奪現象の結果、しばしば生じる。この地域は南から北に向かって傾斜する傾動地塊で、夷隅川はそれに従い、海に注ぐまで60kmほどもゆったりと流れ下る。一方、分水界の反対側は、海に面して急傾斜だ。この河川勾配の違いが浸食力の差となって、夷隅川の流域は南から削られ続ける運命にある。

もう一度、上の流域図をご覧いただきたい。流域の南端に出っ張った部分が見つかるだろう。図2、図3がその部分の拡大だが、ここにも風隙がいくつかあり、「上大沢」集落が載るのもそうした場所だ。夷隅川の源流域に当たり、標高は約135m。にもかかわらず、海岸との水平距離はわずか300m強しかなく、流域では最も海に近づく。源流の先に太平洋が開ける。この奇跡のような地形に一度立ってみたいと、かねがね思っていた。まずはこの目的を果たすことにしよう。

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図2 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)等を加筆
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図3 大沢周辺を2倍拡大
 

昨日と同じように、行川アイランドで電車を降りた。その足でおせんころがしを再訪する。実はここも風隙だ。夷隅川の流域ではないのだが、太平洋の荒波に削られて、同じように小さな谷の断面が断崖上に露出している。

風隙とは英語の Wind gap(ウィンド・ギャップ)の訳語で、風の通り道になる地形の隙間のことだ。確かに海からの強風が谷間めがけて吹き込んで来るが、景色は、雨の日とは一変してクリアだ。太平洋の大海原から、波打ち際にそそり立つ屏風のような断崖まですっきりと見渡せる。

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(左)おせんころがしへの小道
(右)ここも風隙地形
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おせんころがしから太平洋の眺望
 

国道まで戻り、おせんころがしの険路を避けて山側につけられた旧国道に回った。海に突き出た山脚を、1921(大正10)年開通の2本のトンネルが貫いている。東側の大沢第一トンネルは長さ80m、西側の第二トンネルは同112m、その間の狭い谷間に肩を寄せ合うようにして、下大沢の集落(下注)がある。

*注 地形図には、行政地名の「大沢」と通称地名の「上大沢」のみが記されているが、海沿いの集落は下大沢、山上の集落は上大沢と呼ばれ、その総称が大沢になる。

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大沢第一トンネル
(左)東口
(右)奥に見える第二トンネルの間に下大沢の集落がある
 

目指す風隙はこの谷の上だ。旧国道を離れ、家並みを縫う坂道を進んでいくと、八幡神社の手前から急な階段道に変わった。すれ違った地元の方に「上まで行けますか」と尋ねたら、「どてら坂ですね。登れますよ」との答え。坂に名がある(下注)ということは、よく利用されているに違いない。

*注 後述する研究報告には、急な登りで、どてらを着込んだように汗をかくことから「どてら坂」の名がついたとの説が紹介されている。

細い山道を想像していたのだが、それどころか幅1~2mの、コンクリートで舗装された階段が続く。途中に墓地があり、海を見下ろす墓碑の前に花が供えられていた。道は何度も折返しながら、高度を上げていく。振り返ると集落の屋根は下に沈み、太平洋の水平線が目の高さに上がってきた。

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(左)どてら坂はこの斜面を上る
(右)コンクリート舗装の階段道
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(左)下大沢の集落が眼下に
(右)谷壁を照葉樹林が覆う
 

山上の上大沢集落まで10分ほどだった。十数軒の家が建ち並ぶなか、道が夷隅川の源流を横切る場所まで行ってみる。源流というと森の奥の清流というイメージだが、ここでは住宅裏を通るふつうのU字溝で、水もお湿り程度に流れているだけだ。

この地域を調査した研究報告(高地伸和・関 信夫「源流の先は大海原-千葉県夷隅川源流部の特異性」『地理』52-5, 2007, pp.69-73)によれば、ふだんはこうして夷隅川へ水が流れているが、大雨で増水すると、集落の上手にある仕切り板から海側の沢へ排水されるようになっている(図3参照)。下流がU字溝で足りるのはそのためだろう。

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(左)山上の集落、上大沢
(右)夷隅川源流のU字溝
 

お目当ての風隙のきわへ移動する。この風隙は、谷の横断面ではなく側面が開析されているため、かなり広い。高台のいわば一等地とあって家が建て込んでいたが、住民の方に一言断って、通路の隅から眺めさせてもらった。照葉樹林が形作る額縁の先に、太平洋の青い水平線が一文字に延びる。沖合を一隻の船が進んでいく。これほど見晴らしのいい風隙もなかなかないと思う。

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上大沢の風隙からの眺望
 

念願を果たしたことに満足して、階段道を戻る。下大沢と上大沢という地名、その間を結ぶ整備された階段道、これは両集落に深い関係があることを示すものだ。

上記研究報告によると、漁村の下大沢と農村の上大沢は、生業面や生活面(民俗面)で一つの集落として機能しているという。具体的には、上大沢の住民も大沢漁協の漁業権をもち、漁に出る。また、海の状況を把握する山見の場所「やまんば」は上大沢にある。反対に、下大沢の住民は上大沢に耕地を有している。そして、祭りその他集落の行事は共同で行われる…。

地形の特異性が、ここでは日々の生活に上手に活かされている。以下は私の想像だが、寺や神社が下大沢に集中するところから見て、先に定住地として成立したのは下大沢だろう。そして漁のかたわら、平坦な土地のある山上(上大沢)へ行って農耕をしていた。分家などが進み、下大沢の土地が不足してくると、山上に住居を建てる人も現れた。こうして集落は見かけ上二分されたが、おそらく親戚関係もあって、人々の意識の上では一集落であり続けているのだ。

下大沢では港のようすを眺めようと、旧国道の第二トンネルではなく、線路と国道のガードをくぐって海岸まで降りた。港の端から、おせんころがしへ向かう旧街道の道筋もよく見えるが、藪化がかなり進行しているようだった。

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下大沢のガードをくぐって港へ
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大沢港
背後の断崖がおせんころがし
 

港から旧国道へ上がって、西へ向かって歩き始める。この地へ来た目的の二つ目は、この旧国道だ。山(夷隅川流域)が海に迫るため、下大沢から約1.2kmの間、道は波洗う断崖の中腹をうがって通されている。おせんころがしには及ばないものの、それでも海面から20~30mの高さがある。また、国道の新道ができているので、交通量は少なく歩きやすいと予想した。

期待は裏切られなかった。大海原の開放的な眺めはいうまでもない。もとは国道だから車が通行できる道幅で、ガードレールもある。落石注意の標識が林立するのを気にしなければ、すばらしいハイキングルートだ。

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断崖の中腹に通された旧国道
おせんころがしから遠望
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断崖の旧国道
(左)落石注意の標識が立つ
(右)入道ヶ岬が近づく
 

ところが少し行くと「この先全面通行止」の標識が立っていて、傍らにいた警備員さんが「工事をしているので、途中までしか行けませんよ」と言う。一瞬迷ったが、ここですごすごと引き返すわけにもいかない。「行けるところまで行ってみます」と挨拶して、歩き続ける。当該個所では確かに工事車両が数台停車していたが、人ひとり通るのに何の支障もなかった。むしろ通り抜ける車がない分、気兼ねなく歩くことができた。

雀島という、海中に立つ烏帽子岩に似た岩に見送られて、旧道は小湊トンネルへ入っていく。小湊に向かっては上り坂だ。無照明で100m以上の長さがあるが、直線ルートなので出口の明かりが見えている。

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シルエットの雀島と入道ヶ岬
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小湊トンネル
(左)東口
(右)西口
 

トンネルを出ると一転、薄暗い谷間になり、蔦が絡まる杉林の間を緩やかに降りる。やがて、巨大なお堂の屋根が見えてきた。小湊山誕生寺だ。小湊は日蓮上人の生誕地で、それを記念して建立されたお寺が日蓮宗大本山の一つになっている。裏門から入って祖師堂を覗くと、何かの行事の飾り付けの準備の最中だった。

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蔦が絡まる杉林を降りる
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小湊山誕生寺
(左)仁王門
(右)祖師堂
 

ちなみに、内房線の五井駅から出ている小湊鉄道は、誕生寺への参詣鉄道として計画されたことからその名がある。現在の終点、上総中野駅からかなり遠いように思うが、直線距離では約15km。夷隅川流域から海岸へ急降下する必要があるとはいえ、目標達成までもうひと頑張りだったのだ。

総門を通り抜け、小湊の漁港を眺めながら、残りの道を歩いていく。旧国道が現在の国道と出会う地点には、日蓮交差点の標識が見えた。まだ電車の時刻には早いので、小湊の町を通り越して寄浦のトンネル水族館を見に行こう。

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小湊漁港
 

旧国道に並行して1979年に造られた全長233.5mの実入(みいり)歩道トンネルが、その舞台だ。長いトンネルを楽しく通行してもらえるようにと、美大の学生たちが腕を振るい、2005年に完成した。内壁を水族館の水槽に見立てて、さまざまな海の生き物が描かれている。カラフルで動きもほどよく表現されていて、絵を追っていくうちに、いつのまにか出口まで来てしまった。

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実入トンネル東口
左を歩道トンネルが並行
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歩道トンネルの壁に描かれた海の生き物たち
 

土産話をまた一つ仕入れて、安房小湊駅から上り列車の客となる。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図大多喜(昭和58年編集)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2022年3月15日 (火)

コンターサークル地図の旅-成田鉄道多古線跡

2021年10月16日、コンターサークルS秋の旅1日目は、成田鉄道多古(たこ)線の廃線跡を歩く。

多古線は、千葉県の成田と八日市場(ようかいちば)の間を結んでいた30.2kmの路線だ。千葉県が県営鉄道として1911(明治44)年に開業した成田~多古間がルーツになる。しかし、運営は赤字続きで、1927(昭和2)年に成田電気軌道に売却された。成田電気軌道はもと成宗電気軌道と称し、成田山新勝寺と宗吾霊堂の間の路面軌道を運行していた会社だが、多古線等を譲り受けた後、成田鉄道(下注)に改称している。

*注 JR成田線の前身である成田鉄道とは別。

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多古線の起点だったJR成田駅前
 

その後、路線は1926(大正15)年に多古からさらに東へ、総武本線の八日市場駅まで延伸された。これとは別に1914(大正3)年、三里塚で分岐して南下し、総武本線八街(やちまた)駅まで行く八街線も開業しており、最終的に、三方で国鉄線に接続する路線網が形成された。しかし1944(昭和19)年に、戦地への資材供出が求められ、惜しくも全線で運行休止、1946(昭和21)年に正式廃止となった。

最初に開業した成田~多古間は600mm軌間の軽便規格で建設されたが、八日市場延伸を機に、1928(昭和3)年に1067mmへの改軌を完了している。このとき、ショートカットや曲線緩和といったルート改良も各所で行われており、廃線跡の一部には、600mm時代の旧線と1067mm新線の2ルートが存在する。

今回歩いたのは、主として成田空港の東側に残る千代田~多古間約10kmだ。2ルートが並存する区間では、旧線のほうを選んだ。拡幅のうえ道路転用された新線に比べて、もとの用地幅のまま林道や農道に利用されており、廃線跡の雰囲気がより深く味わえると思ったからだ。

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林道になった廃線跡(旧線五辻~飯笹間)
 

参考までに、旧線と新線のルートが描かれた旧版1:200,000および1:50,000図を掲げる。図1、3、5は大正期の刊行で、多古が終点だった旧線時代のものだ。一方、図2、4、6、7は昭和初期の鉄道補入または修正版で、東西に延びる新線と南下する八街線が表されている。ただし、図2の多古線のルートは、旧線のままで修正されていないので注意が必要だ。

これに対し、1:25,000図は大正期から昭和初期に刊行された後、昭和30年前後まで新刊がなかった。前者には旧線が描かれているが、後者の刊行は鉄道廃止後で、成田~多古間の新線ルートが1:25,000に描かれることはついになかった(下注)。

*注 後述するように、多古(多古仮)~八日市場の延伸線については、「多古」図幅の昭和2年鉄道補入版にその一部が描かれている。

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図1 多古線旧線時代の1:200,000地勢図
(1914(大正3)年鉄道補入)
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図2 同 新線時代の1:200,000地勢図
(1930(昭和5)年鉄道補入)
ただし成田~多古間のルートは旧線のまま
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図3 同 旧線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図4 同 新線時代の1:50,000地形図 成田~千代田間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図5 同 旧線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1913(大正2)年鉄道補入)
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図6 同 新線時代の1:50,000地形図 千代田~多古間
(1934(昭和9)年修正測図)
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図7 同 新線時代の1:50,000地形図 多古~八日市場間
(1934(昭和9)年修正測図)

9時21分着の電車で、芝山鉄道の終点、芝山千代田駅前に降り立つ。芝山鉄道は「日本一短い鉄道」を自称するが、京成線の電車が乗り入れているので、アクセスは容易だ。しかし容易なだけに、よそ者は必ずトラップにはまる。改札を出ようとして初めて、手持ちのICカードが使えないことに気づくのだ。かくいう私たちもなんの疑いも抱かずICカードで乗ってきたので、窓口で現金精算するはめになった(下注)。

*注 ちなみに、現金精算できるのは芝山鉄道区間の運賃のみ。京成線東成田までの運賃は、後日ICカードの入場フラグの無効化処理をしてもらうときに引き去られる。

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芝山千代田駅
 

改札前に集合したのは大出さんと私の2名。この日は曇りがちだったが、その分涼しく、歩くのにはちょうどよかった。まずは、空港の二重フェンスに沿って南へ歩いていく。500mほど行くと、多古線の千代田駅があった場所だ。成田空港の敷地に埋もれてしまった廃線跡が、ここで再び地上に現れる。JA倉庫の手前の更地から東側の民地にかけてがそうだと思うが、何ら痕跡はない。

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千代田駅跡
(左)駅跡の裏手にはJA倉庫が
(右)駅前通りを南望
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
千代田~飯笹間
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

だが、そのすぐ東から始まる緩やかな下り坂の車道は、カーブの形状から見て、まぎれもなく廃線跡の転用だ。初めは掘割になっているが、まもなく右手に路面よりも低い谷が現れた。このあたりでは、台地の平坦面と開析谷の底面との標高差が約30mに及ぶ。左の谷底に設けられた釣り堀で、その深さが実感できる。

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(左)緩やかな下り坂の車道
(右)釣り堀との高低差が際立つ
 

高谷川が流れる一つ目の開析谷を、線路は盛り土で横断していた。谷のへりにある架道橋を観察するために、右の小道を降りる。コンクリート製の橋台の下部に、門の形の妙な出っ張りがあるのだ。その部分だけ骨材の質も明らかに粗い。一説によると、これは鉄道時代の橋台だそうだ。人がくぐれる程度の高さしかないが、残りは地下に埋もれたのだろうか。それより、なぜ車道工事の際に撤去してしまわなかったのか。謎は深い。

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(左)架道橋の下道へ降りる
(右)架道橋の上から見る高谷川の谷
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壁に埋め込まれた謎の橋台(?)
 

谷を渡りきると、廃線跡は再び上り坂に転じる。歩く私たちの横を、ツバメのマークのバスが追い越していった。この道路は、成田と八日市場の間を結ぶJRバス関東 多古線の通行ルートになっている。いうまでもなくこれは、成田鉄道の廃止に伴う代行バス路線だ。

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(左)多古線の代行バスが通過
(右)廃線跡は再び上り坂に
 

道路は次の台地のくびれた部分を掘割で横断していくが、そのサミット、ちょうど台地上を南北に通る道路と交差するあたりに、鉄道の新旧ルートの分岐点があった。新線は今や車道(町道0110号染井間倉線)となって、大きく右に曲がっていく。一方、旧線は左カーブで北へ向かっていた。ただし、下の写真に見える左の小道は南北道路への接続路であり、新旧分岐点はそれより北側にあったと思われる。

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新旧ルート分岐点付近にある立体交差
(左)左の道は、上の道への接続路
(右)跨道橋の上から
 

地形図には、大きな工場の西側で県道から北に分かれる「幅3.0m未満の道路」、いわゆる実線道路が描かれている。これが旧線跡への導入路だが、グーグルマップのストリートビューで見る限り、濃い藪だ。それで私たちは、オーバーパスの道路で迂回し、反対側からアプローチすることにした。

北から林の中をまっすぐ降りていく廃線跡の小道は、最近草が刈られたらしく、歩くのに支障はなかった。しかし、林を抜け、工場に近づく手前で、側溝のある新たな盛り土に埋もれて、跡が追えなくなってしまった。

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(左)林の中の旧線跡(南望)
(右)工場の手前で盛り土に埋もれる(南望)
 

引き返して、五辻(いつじ)集落に入る。旧線五辻駅跡は放置され、ぼうぼうの草藪だったが、小道の脇の「多古町」と彫られた境界標に目が止まる。跡地は町の所有なのだろうか。後で見るように、地元でも旧線の存在はあまり顧みられていない。

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(左)左の草むらが旧線五辻駅跡
(右)多古町の境界標を発見
 

廃線跡はいったん県道に合流するが、すぐに離れ、谷を緩やかに降りていく簡易舗装の一本道になった。うっそうとした森に包まれ、おそらく農作業の車しか通らないような静かな小道だ。しかし、下の谷に降りきると、圃場整備で跡が消えてしまう。

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(左)県道から離れて簡易舗装の一本道に
(右)森に包まれた廃線跡
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(左)谷に降りても直線路がしばらく続くが…
(右)やがて圃場整備で山際に付け替えられる
 

椎ノ木集落の北側ではまた県道に吸収されるものの、すぐに南下する小道になって復活した。ここから線路は、多古橋川が流れる二つ目の開析谷を下っていく。旧線の飯笹(いいざさ)駅跡は畑に紛れてしまったが、山裾の、平底より少し高い位置に廃線跡の小道が延びている。

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(左)県道に吸収された区間(北望)
(右)南下する小道で復活
 

そのうちに、新線を転用したさっきの車道が飯笹集落の陰から現れた。道路脇に多古橋川(たこばしがわ)鉄橋跡の看板が建てられているので見に行く。2005(平成17)年の、土地改良事業による川の付け替え(とそれに伴う鉄橋の消失)の略図と説明文だが、この町道の名称や、用地が1974(昭和49)年5月に旧 成田鉄道から買収されたこと(下注)なども記されていて侮れない。

*注 成田鉄道はバス事業で存続し、1956年に千葉交通となって現在に至る。

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新線跡を転用した車道
(左)成田方(赤の円は案内板の位置)
(右)多古方
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多古橋川鉄橋跡地の案内板
 

新旧のルートが再会する地点では、左から県道79号横芝下総線も合流してくる。交通量が増えるのに、歩道がない。やむなく、近くの農道に退避した。県道脇にあったはずの染井(そめい)駅跡に立ち寄ってみたが、資材置き場で痕跡らしきものはなかった。

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新旧ルートの並行区間
(左)南望
(右)北望、新線跡の車道と旧線跡の農道が接近
 
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(左)染井駅構内は資材置き場に
(右)新線跡の国道に対し、旧線は右に大回りしていた
 

染井駅の次は、いよいよ目標の多古駅だ。旧線の駅は町の東側にあり、栗山川べりまで、さらに貨物線(栗山川荷扱所線0.8km)が延びていた。しかし新線建設に伴ってこれらは廃止され、駅は、東へ延伸しやすいように町の南端に移設された。図11は昭和2年鉄道補入版(昭和3年2月28日発行)で、旧駅と新駅(たこかりは「多古仮」で、多古仮駅のこと)がともに描かれた貴重な図だ。

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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
飯笹~多古間
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同 旧線現役時代(1927(昭和2)年鉄道補入)
 

八日市場への延伸線は1926(大正15)年12月に開業したが、この時点では多古から西側はまだ600mm軌間の旧線で運行されていた。西側が改軌新線に切り替えられ、同時に多古仮駅が多古駅に改称されたのは1928(昭和3)年9月のことだ。

改軌工事は、大規模なルート変更を伴った。一つは成田市街の北方を通る成田~東成田間、もう一つが今歩いている五辻の手前から多古までの間だ。後者は鉄道廃止後、拡幅されてさきほどの町道、県道79号、そして一般国道296号になった。旧線もこれと絡み合うように延びていたが、染井駅以東では戦後の圃場整備によりほとんど消失している。

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(左)斜めの水路は旧線跡に沿うものか(?)
(右)奥の信号付近に新線多古駅があった(南望)
 

国道沿いのファミレスで食事休憩の後、旧線多古駅の跡をめざした。駅は現在の町役場の東方にあったはずだが、道路沿いの宅地整備が行われた際に埋もれてしまったようだ。

街路の交差点で、「まちなか歴史散策」という案内板を見つけた。県営軽便鉄道も紹介されている。「(鉄道は)成田、三里塚及び栗山川沿いの農村の中心地多古を結び、農作物輸送のために計画されたものです。陸軍鉄道連隊から軽便材料や車両類の貸与を受けて、明治44年(1909年)10月5日に三里塚~多古間13.8kmと栗山川荷扱所線0.8kmが開業しました。」しかし、機関車の馬力が小さく、成田と多古の間に約2時間もかかるのどかな鉄道だった、とある。

それはともかく、地図に示された「軽便鉄道多古駅跡」が新線の駅の位置なのはどうしたことか。旧駅のすぐそばに立つ案内板というのに、灯台下暗しとはこのことだ。

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「多古まちなか歴史散策」案内板で県営軽便鉄道に言及
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地図に示された多古駅跡は新線のもの
 

帰りは役場前から、町の補助で1時間ごとに出ている(成田)空港第2ターミナル行きのシャトルバスに乗った。10kmほど走って、運賃は300円と割安だ。旅の趣旨からいえば、多古線の後継であるJRバスに乗るべきところだが、本数が少なくて使えなかった。このシャトルバスは千代田で空港構内に入り、空港ビルのバス乗り場まで行く。あたかもリムジンのようで、海外旅行に出かけるときの高揚感を思い出してしまった。

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空港行きシャトルバス
 

京成線で京成成田へ。まだ少し時間があるので、旧 西成田駅の手前にあった橋台の遺構を訪ねようと思う。成宗電気軌道跡の、いわゆる「電車道」を北へ歩いていく。「電車道」は右手の急坂を下り、高い築堤を経て、土木遺産にも認定されている2本の煉瓦造トンネル(成宗電車第一および第二トンネル)を抜ける。さらに急カーブで谷底まで降りていき、土産物屋が立ち並ぶ参道の手前が終点だ。

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京成成田駅前のバス乗り場が成宗電気軌道の駅跡
(朝写す)
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「電車道」
(左)京成駅前から北上
(右)第一トンネル前の大築堤
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(左)新勝寺側から見た第一トンネル
(右)成田駅側から見た第二トンネル
 
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
成田市街周辺
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同区間の旧線現役時代(1921(大正10)年測図)
 

新勝寺の境内は台地の侵食を免れた細尾根の上にある。本堂にお参りした後、裏手の急斜面を降りた。狭いバス道路の右脇に、どっしりとしたコンクリートの橋台があった。道路をまたいでいた桁橋を支えていたものだ。ここを通っていたのは新線のほうだが、さらに北側を回っていた旧線を含め、この界隈の多古線跡では唯一の遺構だろう。

橋台は個人宅の敷地に取り込まれているように見えた。その前後も少し歩いてみたが、西(成田側)は住宅が立ち並ぶ。東(多古側)は森と一体化したような宅地や畑地で、その先に開設された西成田駅の跡地は住宅の列に置き換わっていた。

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成田山新勝寺
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新線の橋台遺構
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北側は築堤で、一段高い宅地に続く
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図成田(大正10年測図)、五辻(大正10年測図)、多古(昭和2年鉄道補入)、5万分の1地形図成田(大正2年鉄道補入および昭和9年修正測図)、八日市場(昭和9年修正測図)、20万分の1地勢図佐倉(大正3年鉄道補入および昭和5年鉄道補入)および地理院地図(2022年3月15日取得)を使用したものである。

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2022年3月 2日 (水)

新線試乗記-阿佐海岸鉄道DMV

2月の晴れた朝早く、JR牟岐(むぎ)線の列車で、南へ向かう。徳島へ来た目的は、昨年(2021年)12月25日に走り始めたDMVの初乗りだ。

DMVは Dual Mode Vehicle(デュアル・モード・ヴィークル)、すなわち複方式で走る車両のことで、道路上ではバス、レールの上では鉄道車両として機能する。客を乗せたままで、一般道路から線路へと乗り入れ、線路からまた道路へ出ていく。駅でバスと列車を乗り継ぐ手間と時間を省いてくれる次世代の乗り物という触れ込みだ。

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鉄輪を出して線路を走行するDMV
(動画からのキャプチャー)
 

DMVを運行している阿佐(あさ)海岸鉄道は、第三セクター、いわゆる三セクの鉄道だ。四国の南東岸を南下する牟岐線を延伸する形で、1992年に海部(かいふ)~甲浦(かんのうら)間8.5kmが開業した。しかし、DMVのモードインターチェンジ(方式の切替え場所)を海部のひと駅手前の阿波海南(あわかいなん)に設置する関係で(下注)、2020年11月から、牟岐線は阿波海南が終点、そこから甲浦までの10.0kmが阿佐海岸鉄道になった。

*注 海部は高架駅で、鉄道から道路に降りるランプ(傾斜路)が大がかりになることが理由。阿波海南は地上(盛り土)駅で、モードインターチェンジの用地も確保しやすかった。

DMVの運行経路は、阿波海南文化村から、この阿波海南~甲浦間の鉄道路線を経由して、道の駅宍喰(ししくい)温泉に至る約16kmだ(下図参照)。また、土休日は1便が、室戸岬を回った先にある「海の駅とろむ」まで遠征する。

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DMV開業を知らせる幟がはためく

鉄道の公式サイトは、この車両を「世界初」とうたっている(下注)。せっかくユニークなシステムに初乗りするからには、三つの命題を満たしたいと思う。

1.モードチェンジの現場を観察すること
2.鉄道区間の全駅を訪問すること
3.DMV海南~宍喰線の全線を乗ること

運行ダイヤと地図をにらみながら編んだスケジュールと当日の実行内容を、以下に記そう。

*注 実際には欧米で過去に開発例があり、とりわけドイツでは「線路・道路バス Schienen-Straßen-Omnibus、略称シストラブス Schi-Stra-Bus」の名で実用化されていた。ただし、これは(ロールボックのように)バスにそのつど線路走行用の台車を穿かせるもので、台車内蔵式のDMVとは方式が異なる。

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DMV運行ルート(開業時点)

牟岐線の徳島~阿波海南間は、普通列車で2時間強というところだ。しかし、阿南から先は閑散区間で、朝ちょうどいい時間帯に着ける便がない。それで牟岐止まりの列車に乗り、残る区間は徳島バス南部の路線バスでつなぐことにした。

列車の牟岐到着が8時42分、バスは9時30分に出るので、その間は港をぶらぶらと歩いて過ごす。下調べもせずに行ったが、浜から突堤の間を通して出羽島が見える構図には目を奪われた。

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(左)JR牟岐線牟岐駅
(右)上下列車の交換
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牟岐港の突堤の間から出羽島が望める
 

駅から300mほど離れた営業所の玄関先から、海の駅東洋町行きのマイクロバスに乗り込んだ(下注)。客は私一人だ。運転手さんには、海南病院で降ります、としか言わなかったのだが、「DMVですね」と図星を突かれた。一般に浸透しているとはいえない新語が、ふつうに口の端に上るのに感心する。

*注 このバスは牟岐(=営業所前)が起点で、牟岐駅前には停留所がないので注意。

バスは国道をスムーズに走って、海南病院に9時50分に到着した。DMVの起点、阿波海南文化村はすぐ隣だ。海陽町が造った町おこしの施設で、広い敷地に博物館や多目的ホールなど複数の建物が配置されている。DMVの乗降場はその門前にあった。サーフボードの形をした停留所標識が木造の待合室の傍らに立っている(下注)。

*注 車で訪れた場合は、文化村の広い駐車場が利用できる。また、主要停留所や観光施設にはスマホで手続きできるレンタサイクルもある。なお、この路線バスで阿波海南駅に直接行く場合は、「海部高校前」バス停下車、国道を南へ200m。

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DMVの起点、阿波海南文化村停留所
標識はサーフボードの形
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阿波海南文化村
(左)複数の施設を配置
(右)船形だんじり「関船」の展示館
 

しかし、肝心のDMVはわずか8分前に出たばかりだ。本数が少ないにもかかわらず、各交通機関が独立的に運行され、相互接続があまり考慮されていないのには驚くばかりだ。とはいえ、スケジュールにはそれも織り込み済みで、次の下り便までの間に、徒歩で先回りすることにしている。阿波海南駅まで約1km、10分ほどで歩ける。ついでに、途中のコンビニで昼食を仕入れよう。

阿波海南では、JR駅のホームの横にある駅前交流館の奥に、乗降場(阿波海南駅停留所)とモードインターチェンジ(阿波海南信号所)が設置されていた。もとは牟岐線の線路がまっすぐ南へ続いていたのだが、今は切断され、左側のインターチェンジから出た線路に置き換えられている。阿波海南文化村から道路を走ってきたDMVは、この線路を伝って甲浦方面へ向かう。

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牟岐線の終点 阿波海南駅
(左)片面ホームの無人駅
(右)線路は切断、DMVは左へそれてモードインターチェンジへ
 

JR線との線路分断は、三セク転換されたローカル線にしばしば見られるものだ。しかし、ここは少し事情が異なる。マイクロバスの車体をベースとするDMV車両は軽量のため、軌道回路で列車を検知する既存の信号システムが使えない。そのため、車速信号やGPS情報を利用して車両の位置を測定するなど独自の保安装置が開発されており、従来方式の線路とは物理的に切り離す必要があったのだという。

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DMV阿波海南駅停留所
客は緑のゾーンで待つ
 

さっそくモードチェンジのようすを観察しようと、撮影スポットと書かれた位置で、10時43分に来る上り便を待った。やがて山陰から現れたのは、どう見ても小型のボンネットバスだ。それが前輪を浮かせたまま、レールの上をつーっと走ってくる。外装は明るい緑色で、ヘッドライトから窓枠にかけて黒のアクセントがつく。DMVは、塗色が異なる3台が在籍している。緑は2号車で、車両番号が DMV932。ナンバープレートもそれに合わせる凝りようだ。

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2号車(DMV932)は緑の塗装
 

本線上に立つ場内信号機(?)の前で一時停止した後、DMVはゆっくりとインターチェンジに入ってきた。足回りに注目すると、フランジのついた前後の鉄輪がレールに載っていて、その点では間違いなく鉄道車両だ。一方、ゴムタイヤはというと、前輪は宙に浮いている。後輪のダブルタイヤのうち、内側がレールに接していて、これが車両を駆動させる。鉄輪には駆動力はなく、あくまで案内と荷重分担の役割だ。

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(左)前輪
(右)後輪
 

停車するとまもなく、前の鉄輪の格納が始まった。特徴的なボンネットがそのためのスペースだ。同時に車体が下がって、浮いていたゴムタイヤが地上につく。その間に後ろの鉄輪も格納されるが、こちらはトランクルームに入るらしい。モードチェンジは15秒ほどで完了し、バスモードになったDMVは乗降場まで路面を移動する。客扱いを終えると、遮断機が上がった出入口から、駅前の国道へ出て行った。

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(左)前の鉄輪格納前、ゴムタイヤは宙に浮く
(右)格納後
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(左)バスモードになって停留所へ
(右)遮断機のある出入口から一般道へ
 

日中は12分後に後続便が設定されている。再びインターチェンジの前に張り付いて、やってきた赤の3号車を、今度は動画で撮った。

命題1を堪能したので、再び国道を南へ進む。1.4km先、歩いて15分の海部川橋梁に、次の撮影スポットがある。順光になる南詰めで待機していると、ほどなく下り便となった3号車が現れた。立派な桁橋を小さなバスがトコトコと渡っていく姿はどこか微笑ましい。

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海部川橋梁をトコトコと渡る
 

ここから5分も歩けば、海部駅だ。高架下に待合室があり、階段を上ると、JR時代の1番ホームに出た。ただし、DMVの乗り場はそこではなく、北側(阿波海南方)に新設された簡易な低床ホームだ。高床と低床のホームが直列するようすは、かつての広電宮島線を思い起こさせる。

旧2番線側の線路とホームももとのままで、用済みになった気動車ASA-101が、回送の幕をつけたまま留置されていた。前後のポイントが撤去されたため、残念だが、もうどこへも出ていくことはできない(下注)。

*注 これは保有していた2両の気動車のうちの1両。もう1両(ASA-300)は宍喰駅南方の車庫前の留置線にいる。

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海部駅
(左)高架ホームへは階段しかない
(右)開通記念碑が、阿佐海岸鉄道のもと起点の証し
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(左)DMV用の低床ホーム
(右)旧鉄道ホーム
  2番線には気動車ASA-101を留置
 

ここで下りの後続便11時31分発を待った。海部駅の北側には、周辺の土地開発で土被りが剝ぎ取られ、躯体だけ残った町内(まちうち)トンネル、通称「トマソントンネル」がある。そこから顔を出すDMVをねらってから、いよいよ初乗りを試みた。

ホームとバスとの間には隙間があるため、扉が開くと同時にステップがせり出てくる。それを踏んで乗り込むと、運転士さんから「予約されていますか」と聞かれた。もちろん定員内なら予約なしでも乗車できる。その場合は整理券を取り、降車時に運賃を支払えばよい。ふつうの乗合バスと同じ手順だ。

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町内トンネルから現れた2号車
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(左)扉が開くとステップが出る
(右)車内はマイクロバスそのもの
 

鉄道の公式サイトでは、席数が少ないという理由で予約が推奨されているが、なんのことはない。先客は一人だけで、それも後でメディアの取材記者だとわかった。予約サイトで座席指定しようとすると、2Dと3Dの優先席とともに、このときは最前列の1A、1Bも予約不可になっていたが、取材用のリザーブだったようだ。車内はマイクロバスそのもので、1列が1席+2席の並びだ。最後尾は4席分のロングシートなので、そこを占有させていただく。

走り出すと、エンジン音とともに、タンタン、タンタンという2軸車ならではの走行音が繰り返される。鉄道車両に比べて高い音で、骨に響く感もあるが、走りはスムーズだ。海部駅と宍喰駅の間は、短いトンネルが連続し、トンネルがいくつも重なって見える。左手には那佐湾という入江が延びているが、木々に遮られて見通しはあまりきかない。

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(左)海部~宍喰間は短いトンネルが連続
(右)海景は断続的
 

海部から15分。甲浦に近づくと信号で一時停止し、再発車とともに「間もなく甲浦、甲浦に停まります」という案内が流れた。次に停まったのが旧 鉄道ホームの前だったので、てっきり駅だと思い、立ち上がりかけたら、「甲浦モードインターチェンジに到着しました」と、またアナウンス。さっき阿波海南で観察したように、停留所の手前にこれがあるのだ。

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甲浦駅信号所
(左)立入禁止の旧鉄道ホーム
(右)モードインターチェンジも高架上に
 

「ただいまからバスモードに、モードチェンジを行います」「モードチェンジ、スタート」。トント、トントと軽快な海南太鼓のお囃子が聞こえ、前方の景色で車体が下降していくのがわかる。作業が終わると「フィニッシュ」と明るい声で締めが入り、DMVはすぐに動き始めた。

線路は高架上にあるため、地上に置かれた乗降場(甲浦停留所)へは急坂、急カーブのランプで一気に降りる。私はここで下車した。駅の改造に合わせて建て替えられた待合室の中では売店も開いていたが、この利用状況では売上の伸びは期待できそうにない。

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地上の甲浦駅停留所
 

乗り場は移設されたが、もとの高架ホームに通じていた階段は残されている。ホーム自体には立入れないものの、手前でモードチェンジを観察できるようにしているのだ。ここで12時02分の上りを待つ。急なスロープを上ってきたDMVは、観察場所より少し先に停車した。後輪は目の前だが、前輪は遠くて動きがよくわからない。ここでの観察は、下り便が望ましい。

それはともかく、バスから鉄道モードへの切り替えでは、鉄輪が出た後、運転士が車外を一周して、鉄輪が実際にレールに載っているかを目視点検するという作業が一つ加わることがわかった。

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(左)ランプを上がってきたDMV
(右)ガイドウェイに沿って進入する
 

続行の上り12時14分発に乗り、今度は宍喰駅へ移動した。この駅も高架上で、旧鉄道ホームの南側(甲浦方)にDMVの乗降場が造られている。乗降客はやはり私だけだ。宍喰には阿佐海岸鉄道の本社があるため、唯一の有人駅で、ホームと地上を結ぶエレベーターも備わっている。改札で整理券と運賃を渡して外へ出た。

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宍喰駅
(左)南方の車庫前に留置されたASA-300
(右)旧鉄道ホームの甲浦方に低床ホームが
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(左)高架下に設けられた駅舎
(右)改札口
 

宍喰で降りたのは、命題2(全駅訪問)を達成するとともに、DMVの終点に行きたかったからだ。最後に残った命題3の全線乗車を終点から実行して、この旅を締めくくる。

海に臨む終点停留所「道の駅宍喰温泉」へは約900m、歩いて10分強だ。地元の特産品を売る店のほか、温泉も隣接するリゾート施設だが、とりあえず昼食にしないといけない。前を通る国道を横断して、防波堤の階段を下りると、そこは太平洋の波が打ち寄せる砂浜だった。防波堤のおかげで風が遮られ、日差しのぬくもりが眠気を誘う。

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DMVの終点、道の駅宍喰温泉停留所
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防波堤の外側には波打ち寄せる砂浜が
 

時間が来たので、13時18分発の上りに乗り込んだ。ネットのシステムを試そうと、この便だけは事前予約してある。高速バスの流儀で、さっそく運転手さんに名前を確認された。モバイル乗車券の画面を提示することになっているが、ちらと目を落としただけ。もっとも予約者は私一人なので、点呼で事足りる。あと一人、予約なしで乗ってきた人がいて、かろうじて乗合バスの面目は保たれた。

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赤の3号車(DMV933)で全線を乗り通す
 

DMVは国道をいったん南へ走る。路面の状態にもよるのだろうが、ガタガタとよく揺れ、ジープにでも乗っているような体感だ。宍喰大橋を渡って水床トンネルへ入る。その出口付近が徳島と高知の県境だ。宍喰までは徳島県海陽町、甲浦は高知県東洋町になるので、阿波と土佐をつなぐ「阿佐」の名に偽りはない。

続いて甲浦大橋を渡る。右は入江の漁港、左は外海の景勝スポットなのだが、路側にネットが張られていて、視界は今一つだ。道の駅東洋町に停車。DMV開業を機に、室戸岬方面のバス(高知東部交通)は甲浦駅まで入らなくなり、ここが乗継地になった。

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(左)道路走行時はバスそのもの
(右)まもなく阿波海南駅
 

この後、DMVは内陸へ入っていき、甲浦停留所で停まる。さっき見た高架へのランプをぐいぐい上り、モードチェンジの後、北へ向かう。阿波海南で再びバスモードになって道路へ。終点の阿波海南文化村には13時53分定刻に到着した。相客も同じように乗り通したので、DMVを画角に入れて到達写真のシャッターを押して差し上げた。

帰りの牟岐線、阿波海南駅の発車は14時08分だ。実質10分強で1kmを歩かなければならないが、朝、一度通って予習してあるから、心には余裕がある。

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阿波海南文化村に到着

DMVの初乗りは、興味深い体験だった。線路も走れるクルマといえば、保線作業などに用いる軌陸車が思い浮かぶが、その機能の一般化、発展形ということになろうか。乗換えが必要という常識を覆す未来の乗り物という評価はなるほどそうだ。

知られている通り、DMVは、JR北海道がローカル線の活性化のために長らく研究開発を続けていたシステムだ。しかし、本格的な導入に至らないうちに、経営状況の悪化により計画は中止されてしまった。それを受け継ぎ、営業運転にまで漕ぎつけた決断と行動力には敬意を表する。

確かに、アトラクションとして見るなら斬新で、話題性がある。しかし、公共交通機関としてはどうだろうか。まず感じたのは、他の交通機関との連携不足だ。牟岐線の列車との連絡が十分考慮されていない。下りは最大62分待ち(牟岐線11:38着/DMV 12:40発)、上りは72分待ち(DMV 10:56着/牟岐線12:08発)がある。鉄道区間に待避線がなく、ダイヤ編成に制約があるのは理解するが、乗継ぎに1時間もかかるようでは用をなさない。

路線バスとの間もしかり。運行する徳島バス南部にとっては競合路線なのかもしれないが、接続時刻はもとより、すぐ近くなのに停留所名さえ異なるのはいかがなものか(海南病院/阿波海南文化村、海部高校前/阿波海南駅)。

もう一つは高額な運賃だ。定員22名(座席18+立席4)に乗務員1名が必要なので、運行コストが高くなるのは宿命だ。それを反映して、全線通しの運賃は800円、鉄道区間だけでも500円で、路線バスと同等かそれ以上になる。列車時代に比べればかなりの値上げで、私のような一見客でも抵抗があった。他の観光施設や交通機関と共通で使えるフリー切符などの企画で、割高感を和らげる工夫が望まれる(下注)。

*注 2022年度は、徳島から室戸岬を経て高知に至る鉄道・バスのフリー切符「四国みぎした55フリーきっぷ」の発売が発表されている。

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DMV沿線ガイドブック表紙
 

地方ではマイカー移動が定着し、路線バスの利用者すら激減している。DMVの運行を持続させるには、地域外から訪れる観光客や用務客に利用してもらうしか方法がない。待合室には周辺の観光地を紹介するパンフレットが置かれていた。停留所にはレンタサイクル基地も整備されていた。残る対策は、自治体と各公共交通機関が連携して、遠来の者でもストレスや抵抗感なく使いこなせる交通網と運賃体系を構築することではないだろうか。

■参考サイト
阿佐海岸鉄道 https://asatetu.com/

2022年2月24日 (木)

ザクセンの狭軌鉄道-キルニッチュタール鉄道

キルニッチュタール鉄道 Kirnitzschtalbahn

バート・シャンダウ・クーアパルク Bad Schandau Kurpark ~リヒテンハイナー・ヴァッサーファル Lichtenhainer Wasserfall 間 7.9km
軌間1000mm、直流600V電化
1898年開通

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谷間の併用軌道を行く2軸トラム

ザクセンの狭軌鉄道の旅の最後は趣向を変えて、メーターゲージの路面電気鉄道、キルニッチュタール鉄道 Kirnitzschtalbahn を訪ねよう。

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鉄道が走るバート・シャンダウ Bad Schandau は、ドレスデンからエルベ川を45km遡ったところにある優雅な保養地だ。一帯はザクセンのスイス(ゼクシッシェ・シュヴァイツ)Sächsische Schweiz と称される景勝地で、突出する奇岩・断崖の列とその足許をゆったりと流れるエルベ川 Elbe の景観が好まれ、ザクセンは言うに及ばずドイツでも有数の観光地になっている(下注)。町は、国立公園に指定されたこの地域の観光拠点でもある。

*注 「スイス(シュヴァイツ)Schweiz」は風光明媚な土地の代名詞になっていて、ドイツではほかに、フランケン・スイス Fränkische Schweiz、マルク・スイス Märkische Schweiz などの例がある。

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バート・シャンダウとその周辺を
リーリエンシュタイン Lilienstein 山頂から東望(2012年)
Photo by Gottfried Hoffmann -… at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

キルニッチュタール鉄道の2軸トラムは、その町の一角を起点に、名のとおりキルニッチュ川 Kirnitzsch の流れる深く狭い谷(タール Tal)に沿って奥地へ向かう。ほぼ全線が、谷間を通る道の片側に敷かれた併用軌道だ。終点は、支流に掛かるリヒテンハイン滝 Lichtenhainer Wasserfall という小さな滝の前にある。

トラムというと都会の街路を走るイメージが強いが、なぜこのような人里離れた山中で今も生き残っているのだろうか。

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バート・シャンダウ周辺の地形図に
鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

1870年に出されたキルニッチュタールの最初の構想では、馬車鉄道が想定されていた。しかし、具体化の機運が高まった1890年代には、すでにドイツの主要都市で電気動力の導入が始まっており、この鉄道も1893年に電気路面鉄道として認可を得ている。

計画では、川向うにあるバート・シャンダウ鉄道駅から橋を渡り、市街を貫き、リヒテンハイン滝を経て、ボヘミア(現 チェコ)国境の手前まで行くことになっていた。しかし、宿屋や船主が仕事を奪われると反対したため、駅と市街地の間を造ることができなかった。そのため、今あるような幹線鉄道網との接続がない孤立線となったのだ。

1898年に開業を迎えたものの、鉄道駅から離れているため貨物輸送を諦め、観光客を相手に夏のシーズン(5~10月)だけ走る路線としてスタートした(下注)。それでも運行が続けられたのは、著名な観光地内の輸送手段であったからに他ならない。

*注 1938年から通年運行になる。

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リヒテンハイン滝の絵葉書(1900~10年代)
Image by Kunstanstalt Hermann Poy, Dresden at wikimedia. License: Public domain
 

しかし、120余年の歴史の中で、鉄道は存廃の危機に何度か直面している。

1927年に車庫で火災が発生し、所有する全車両を焼失したのが、その最初だった。このときはレースニッツ鉄道 Lößnitzbahn(現 ドレスデン市電4号線)から車両を借りて急場をしのぎ、翌年、MAN社(アウクスブルク・ニュルンベルク機械製造所 Maschinenfabrik Augsburg-Nürnberg)製を新たに購入して、体制を立て直した。その1両が今も特別運行に供されている5号車だ。

1939年にはトロリーバスに転換する案が検討されたが、第二次世界大戦の勃発で沙汰止みになった。東ドイツ時代にも、事故や設備の老朽化で何度か運行が中断し、運行事業者は廃止の意向を示していたが、住民の強い抗議で実行できなかった。

その後は、観光資源として見直しが図られ、保存の動きが強まる。設備の大規模な更新が1986年から1990年にかけて実施され、ドイツ再統一後には車両も更新された。東ドイツ時代はエアフルト Erfurt から来た中古車両がもっぱら使われていたが、1992年以降、ゴータ車両製造人民公社 VEB Gotha 製の両運転台車、いわゆるゴータカー Gothawagen が再整備のうえ投入された。これが現在の1~4および6号車だ。また、道を譲った「エアフルター Erfurter」のうち、8号は今も車庫に保存されている。

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(左)1928年MAN製の古参車 5号(2018年撮影)
Photo by Joakim wahlberg at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)もとロックヴィッツタール鉄道 Lockwitztalbahn の
  トラムも動態保存(2018年撮影)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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(左)唯一残るエアフルター 8号(2018年撮影)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)現在の主力、ゴータカー 3号
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(左)3号側面
(右)車内

キルニッチュタール鉄道が出発する停留所は、バート・シャンダウ・クーアパルク Bad Schandau Kurpark を名乗る。町の中心マルクト広場 Marktplatz からは少し距離があり、キルニッチュ川が流れる同名の公園(下注)でも奥のほうだ。

*注 クーアパルクは保養地公園の意。かつてはシュタットパルク(市立公園)Stadtparkと呼ばれており、停留所名も同じ名称だった。

やや不便な場所に位置しているのには理由がある。かつて線路は、町のほうへあと350m延びていた。地図に示したように、今も営業しているホテル・リンデンホーフ Hotel Lindenhof の前に起点があった。しかし、道路交通量の増加により、1969年6月23日に現在地までルートが短縮されるとともに、車道通行の妨げにならない公園の中に発着設備が移されたのだ。

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クーアパルクの一角(2018年)
Photo by SchiDD at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

起点といっても、ホームとそれに面した長い発着線、そして機回し線があるのみだ。駅舎どころか、ホームの上屋すらない。川上側から、白とレモンのツートンに塗られた細面のトラムが入線してきた。電動車と付随車の2両編成だ。列車構成は一定ではなく、電動車単行から3両編成(電動車+付随車2両)まで、需要に応じて変わる。停車して客を降ろすと、先頭の電動車はすぐに切り離され、機回し線を通って、最後尾に再び連結された。

バスと同じで、運賃は乗り込むときに支払う。ふだんはワンマン運転だが、多客時は車掌が乗務して、乗客をさばく。また、すべての停留所でホームは、終点に向かって右側だ。そのため、付随車は扉が右側にしかなく、両扉の電動車も左扉をふさいである。

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起点クーアパルク停留所
 

クーアパルクを後にすると、トラムはすぐ道路上に出ていく。センターラインは引かれていないものの、道幅はおおむね2車線分だ。その右半分に単線の軌道が通されている。谷を遡るトラムは車と同じ方向に進むのでまだしも、下っていくトラムは車と正面から向き合うことになる。しかも、狭くくねった谷の中、見通しの悪いカーブの連続だ。運転士も気を抜く暇がないだろう。

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道路の片側に敷かれた併用軌道
 

最初の停留所は、ボターニッシャー・ガルテン Botanischer Garten、すなわち植物園前だ。川を隔てた斜面に、地元の山野草を集めた小さな植物園がある。

最初の急な左カーブを曲がり終え、次の右カーブにさしかかると、右に線路が分かれてトラムの基地が見えてくる。車庫は主屋に4線、傍らの付属屋にもう1線を収容する。川端の森に包まれて趣のあるたたずまいだが、2010年8月の豪雨では、キルニッチュ川が増水して、車庫と電動車3両が浸水し、使用不能になるという深刻な被害を受けた。

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車庫が見えてくる
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(左)車庫
(右)その内部、8号車の姿も
 

列車交換のための信号所が、ルート途中に2か所設けられている。その一つが、車庫の横にある通称、車庫信号所 Depotweiche(ヴァイヒェ Weiche はポイント、転轍機の意)だ。ここを過ぎると、それまで道の両側に並んでいた屋敷が姿を消すとともに、谷壁に、ザクセン・スイスの特色である剥き出しの砂岩の層が姿を現わし始める。

ハーフティンバーの瀟洒な宿屋(ガストシュテッテ)が見下ろすヴァルトホイズル Waldhäus'l、キャンプ場最寄りのオストラウアー・ミューレ/ツェルトプラッツ Ostrauer Mühle/Zeltplatz、農場風の気さくなペンションに通じるミッテルンドルファー・ミューレ Mittelndorfer Mühle、その名にふさわしい質実剛健な造りの宿屋を前にしたフォルストハウス Forsthaus(山番小屋の意)と、トラムは谷に点在する要所にこまめに停車しながら、奥へと進む。

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ヴァルトホイズルの瀟洒な宿屋
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停留所標識
駅名は古風なフラクトゥール文字で
 

二つ目の信号所、シュナイダー信号所 Schneiderweiche でシャンダウ方面の列車と行違った後は、いよいよ最後の閉塞区間だ。次のナッサー・グルント Nasser Grund(湿った谷底の意)停留所は、エルベ川右岸にそびえる奇岩列の一つ、シュラムシュタイネ Schrammsteine への登山口だ。ボイテンファル Beuthenfall(ボイテン滝)では、ホテルの廃墟の後ろに同じ名の小さな滝が落ちている。

左へ急カーブした後、少し行くと、ハーフティンバーの大きな建物の前を通過する。170年もの間、滝見の客を迎えてきた宿屋だ。そしてトラムは、機回し線を備えたリヒテンハイナー・ヴァッサーファル Lichtenhainer Wasserfall(リヒテンハイン滝)の停留所に滑り込む。

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リヒテンハイン滝の宿屋の前を通過(2014年)
Photo by Dr. Bernd Gross at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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終点リヒテンハイナー・ヴァッサーファル(2013年)
Photo by Steffenmaq at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

停留所の名になったリヒテンハイン滝は、建物の横の小道を入った奥にある。鉄道の目的地になるくらいだから、さぞ立派なものだろう、と期待しないほうがいい。落差は10mに届かず、しかも人工の滝だからだ。造られたのは1830年、ザクセン・スイスの景観がロマン主義の芸術を通して市民にもてはやされていた時代のことだ。

滝の水源である支流リヒテンハイナー・ドルフバッハ Lichtenhainer Dorfbach は、集水域が狭く、したがって流量も少ない。そこでこの年、上流に堰を造って水を溜めておき、堰を開けることで水を一気に流すという観光客向けの演出が始まった。音楽を流し、その最後の和音に合わせて、滝がよみがえる。現代人から見ればたわいのないショーだが、これが人気を博し、滝は一躍名所になった。トラムが(暫定的な)終点を置いたのも、それが理由だ。

なお、現地メディアによれば、昨年(2021年)7月の大雨で導水路が壊れ、貯水池も泥で埋まってしまった。そのため、再開の見通しは今のところ立っていない。

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リヒテンハイン滝
(左)入口(2004年)
Photo by Andreas Steinhoff at wikimedia.
(右)上流の堰を開くとこの状態に(2011年)
Photo by Franzfoto at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

鉄道は、この地域の公共輸送を担うザクセン・スイス=オストエールツゲビルゲ地域交通有限会社 Regionalverkehr Sächsische Schweiz-Osterzgebirge GmbH (RVSOE) が運行している。RVSOE はオーバーエルベ運輸連合 Verkehrsverbund Oberelbe (VVO) に参加しているが、他の観光鉄道と同様、キルニッチュタール鉄道には特別運賃が設定され、片道6ユーロ、1日券 Tageskarte は9ユーロだ。

平日休日を問わず毎日運行されており、2021年現在、夏のシーズン(4~10月)が30分間隔、冬(11~3月)は70分間隔だ。所要時間は、夏ダイヤの場合、朝晩を除き途中で2回列車交換を行うために片道32~34分、冬ダイヤではそれがないので25分で走破する。

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バート・シャンダウ駅舎と桟橋
 

ドレスデン方面からバート・シャンダウへは、Sバーン(近郊列車)が30分間隔で走っている。しかし、DBの線路はエルベ川の対岸に敷かれているため、駅も当然、向こう岸だ。町へ行くには、川を横断するフェリーか路線バスに乗り換える必要がある。

フェリーの場合、DB駅舎を出て正面の階段を降りたところが桟橋だ。船は30分間隔で出ていて、少し上流にある町の船着場エルプカイ Elbkai(エルベ桟橋の意)との間を、行きは10分、帰りはわずか5分で結んでいる(下注)。エルプカイに上陸した後、トラムの起点クーアパルクまでは約800m、徒歩10分というところだ。

*注 行きは上流に向かうため、時間を要する。

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(左)フェリーで川を渡る
(右)町の船着場「エルプカイ」
 

路線バスの場合は、DB駅前のバスターミナル(バス停名はバート・シャンダウ・ナツィオナールパルクバーンホーフ(国立公園駅)Bad Schandau, Nationalparkbf)から RVSOE が運行する241系統のキルニッチュタール方面行きに乗る。

平日はおよそ60分間隔、休日は30分間隔で運行していて、乗車時間は9分。トラムの起点と同じ名のバス停で降りれば、最短距離で乗り換えができる。バスはこの後、トラムと同じ道を走っていくので、トラムの代替手段にもなりうる。時刻表は http://www.ovps.de/ の Fahrpläne(時刻表)> Regionalverkehr Sächsische Schweiz(ザクセン・スイス地域交通)を参照されたい。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2013年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
RVSOE http://www.ovps.de/
Dampfbahn-Route Sachsen https://www.dampfbahn-route.de/

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 ザクセンの狭軌鉄道-シェーンハイデ保存鉄道

2022年1月31日 (月)

ザクセンの狭軌鉄道-シェーンハイデ保存鉄道

シェーンハイデ保存鉄道 Museumsbahn Schönheide

ヴィルカウ・ハスラウ Wilkau-Haßlau ~カールスフェルト Carlsfeld 間 41.634km
軌間750mm、非電化
1881~97年開通、1967~79年廃止
1993年保存鉄道運行開始、2001年現行区間再開

【現在の運行区間】
保存鉄道:シェーンハイデ・ミッテ Schönheide Mitte ~シュテュッツェングリュン・ノイレーン Stützengrün-Neulehn 間 3.9km

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シェーンハイデ・ミッテ駅へ向けて走る蒸気列車

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全国鉄道網から遠く離れた山中で、廃止済みの路線を一から再建し、自治体の支援を受けてボランティア団体が運営している(下注)。前回紹介したプレスニッツタール鉄道 Preßnitztalbahn が持つプロフィールは、この鉄道にも当てはまる。

*注 両鉄道とも、地元自治体が一般鉄道法 Allgemeines Eisenbahngesetz 上のEIU(鉄道インフラ事業者)およびEVU(鉄道輸送事業者)になっている。

シェーンハイデ保存鉄道 Museumsbahn Schönheide は、エルツ山地西部の高原地帯で運行されている750mm軌間の蒸気保存鉄道だ。ツヴィッカウ Zwickau の南20kmに位置するシェーンハイデ Schönheide、その田舎町にある波打つ丘を渡る3.9kmのささやかなルートが、活動場所になっている。

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まだ冬の装いの林を抜けて
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シェーンハイデ周辺の地形図に
狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

もちろんこの路線も、かつては全国鉄道路線網に2か所で接続された地域の交通軸だった。ツヴィッカウ近郊の標準軌線の駅ヴィルカウ・ハスラウ Wilkau-Haßlau を起点に、シェーンハイデを経由し、シェーンハイデ・ジュート(東駅)Schönheide Süd(旧名ヴィルチュハウス Wilzschhaus)で再び標準軌線と接続した後、エルツ山地の奥深く、標高816mのカールスフェルト Carlsfeld という村まで達していた。路線長42kmの、ザクセンで最も長大な狭軌線だった。

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往路は下り坂で、機関車は後退運転
 

それだけでなく、このヴィルカウ・ハスラウ=カールスフェルト狭軌鉄道は、ザクセンで最初に開通した750mm狭軌線という、記念すべきタイトルも有していた。

南部の山がちな地域に鉄道の恩恵を行き渡らせるには、導入費用が安価で、ルート設計に小回りの利く狭軌が最良の選択肢になる。ザクセン王国政府はそう考えて、1876年から狭軌鉄道の建設法案を議会に提出していたが、1880年にようやく可決されて、路線の着工に至る。その一つが、ヴィルカウ・ハスラウ=カールスフェルト狭軌鉄道の根元区間に相当する、ヴィルカウ・ハスラウ~キルヒベルク Kirchberg 間6.3kmだった。

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シェーンハイデ保存鉄道とその周辺の路線図
破線は廃線または休止線
 

ルートの大半が街道に横付けする形にされたので、工事は容易で、早くも1881年10月に開通式が行われている。ちなみに、同じ法案に盛り込まれていたヴァイセリッツタール鉄道 Weißeritztalbahn は、通過する地形に手こずったため、開通は1882年10月と、「同期生」に1年の遅れを取った。

先んじた方は、キルヒベルクまで列車が走り始めた時点で、すでに隣村のザウパースドルフ Saupersdorf(後の上駅 ob Bf)まで3.6kmの延伸にも着手しており、1883年に開通を果たしている。

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旧ヴィルカウ・ハスラウ=カールスフェルト狭軌鉄道の子供用車内乗車券
シェーンハイデ・ジュート以遠廃止後の発行
Photo by Klaaschwotzer at wikimedia. License: CC0 1.0
 

ここまでを第1区間とすると、第2区間は、周辺自治体から誘致の要望が百出し、ルート決定までに長い時間を要した。最終的にシェーンハイデ経由で、ヴィルチュハウスで標準軌のケムニッツ=アウエ=アードルフ線 Bahnstrecke Chemnitz–Aue–Adorf と接続することが決まり、開通したのは、第1区間から10年も後の1893年になった。

長さ24.3kmのこの区間は、地勢がより複雑で、高低差も大きい。そのため、道路から独立し、勾配緩和のために迂回路をとり、深い谷をトレッスル橋で渡るなど、山岳鉄道らしいルート設計が施されている。後で見るように、シェーンハイデ保存鉄道の列車が走るのも、そうした特徴を備えたルートだ。

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ヴィルチュハウス(後のシェーンハイデ・ジュート)駅付近の狭軌鉄道
2本の高架橋の間で標準軌線をまたいでいる
画面奥に駅がある(1905年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia. License: Public domain
 

最後の第3区間は、ヴィルチュハウスからカールスフェルトまでの7.3kmだったが、エルツ山地の最奥部で、採算が疑問視されたこともあって着工が遅れ、開通は1897年までずれ込んだ。工費節約のために、線路の多くが再び道路に横づけされた。谷を遡るルートは勾配が最大50‰にもなり、貨物も運ぶ蒸気鉄道としては限界に近いものだった。

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カールスフェルトの市街地と駅
(1897~1910年の間の絵葉書)
Image from wikimedia. License: Public domain
 

貨物輸送では、標準軌貨車を直通させるロールワーゲン方式が1907年以降、順次導入されていったが、キルヒベルクの市街地では車両限界の拡充が難しかった。ようやく1960年代初めに、この区間で線路移設を含む提案がなされたが、時すでに遅く、1964年に政府は、国内の狭軌鉄道を全廃する方針を決定した。

これはすぐに実行に移された。1966年に、末端のヴィルチュハウス~カールスフェルト間で旅客輸送が休止されたのを手始めに、数年の間にほとんどの区間で列車が消えた。最後まで残ったのは、中間部のローテンキルヘン Rothenkirchen ~シェーンハイデ・ジュート間で行われていたブラシ製造会社の貨物輸送だが、これが1977年に休止となった(廃止は1979年1月1日)ことで、路線の歴史にいったん幕が下ろされた。

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シェーンハイデ・ノルト~シュテュッツェングリュン間開業初日
シェーンハイデ・ミッテ駅車庫前にて(1997年12月5日)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

廃線跡で保存鉄道の活動が始まったのは、ドイツ再統一後のことだ。1991年にシェーンハイデ/カールスフェルト保存鉄道協会(現 シェーンハイデ保存鉄道協会 Museumsbahn Schönheide e. V.)が設立されて、線路の再建作業が始まった。シェーンハイデ・ミッテ~ノイハイデ Neuheide(現 シェーンハイデ・ノルト)間が1993年に再開され、その後1997年と2001年の段階的延伸を経て、現在の終点シュテュッツェングリュン・ノイレーン Stützengrün-Neulehn まで列車が走れるようになった。

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シュテュッツェングリュン・ノイレーン停留所と
線路終端(2011年)
Photo by Knergy at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

なお、南にあるシェーンハイデ・ジュートとカールスフェルトの駅跡でも、1999年に設立された西部ザクセン保存鉄道振興協会 Förderverein Historische Westsächsische Eisenbahnen e.V. という別の組織が、駅構内の線路を復元し、保存列車の公開走行を随時行っている。協会は、シェーンハイデ・ジュートで接続していた標準軌のアウエ=アードルフ線 Bahnstrecke Aue–Adorf の廃線跡も所有し、管理している。

シェーンハイデ保存鉄道が拠点としているのは、シェーンハイデ・ミッテ Schönheide Mitte 駅(下注)だ。確かに町を貫く中央通り(ハウプトシュトラーセ Hauptstraße)に同名のバス停もあるものの、そこから駅らしきものは見えない。かつて駅構内はもっと広がり、通りからも見渡せたのだが、廃止後、飲料販売会社の倉庫用地に転用されてしまった。

*注 1950年にシェーンハイデから改称。

それで保存鉄道の駅は、倉庫の前の道を北へ200mばかり入った機関庫周辺に設けられている。小さな保存鉄道を象徴するような、小ぢんまりとしたスペースだ。ホームが不自然に急カーブしているのも、倉庫を避けて入換用側線を延ばす必要があったからだ。

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シェーンハイデ・ミッテ駅
カーブした狭い構内
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同 倉庫を避けて延びる入換用側線
 

鉄道の運行は不定期で月2回程度しかなく、乗車の機会は限られる。しかし、運行当日はルートの短さを逆に生かして6往復走るので、沿線での撮影チャンスが増えていいだろう。片道の所要時間は往路27分に対して、復路は21分。往路のほうが長い理由はあとでわかる。

機関車は、1992年に当時のDR(ドイツ国営鉄道)から調達された2両のザクセンIV K形蒸機(下注)のどちらか、または製紙工場からもらわれてきたV 10 Cディーゼル機関車が出動するはずだ。無蓋貨車を改造した展望車も連結されるので、外の景色を存分に楽しむことができる。

*注 協会は全部で3両のIV K機を所有しているが、1両はザクセン・スイス Sächsische Schweiz 地方の保存鉄道シュヴァルツバッハ鉄道 Schwarzbachbahn に貸し出されている。

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IV K形蒸機 99 582、1912年製
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機関庫にはVI K形があと2両いた(2013年撮影)
99 585はその後、他の保存鉄道に貸出された
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展望車
側面の広告ヴェルネスグリューナー Wernengrüner は地元の銘柄ビール
 

切符は走行中に車掌から買えばいいので、さっそく乗り込むことにしよう。汽笛一声、列車はゆるゆると駅を離れる。駅横の踏切を越え、主信号機の前を通過する頃、目の前に、広く深い谷間となだらかな丘が連なる高原の風景が展開する。正面遠方に見えるレンガ色の大きな工場が、これから向かうシュテュッツェングリュン駅のある場所だ。始発駅が標高678mとルートで最も高いこともあり、ここが最も見晴らしがいい。

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(左)出発するとすぐ高原の風景が広がる
(右)落葉樹の林を行く
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ミッテ駅北方から望む高原風景
手前はノイハイデの集落
丘の上のレンガ色の建物の前に列車の目的地がある
 

列車は、谷を巻くために左へカーブしていく。線路は下り勾配になっている。クーベルク Kuhberg の山裾にある大きなS字カーブを回った先に、一つ目の停留所シェーンハイデ・ノルト Schönheide Nord(北駅、旧名はノイハイデ Neuheide)がある。ここも廃線後、跡地がガレージに転用されたため、現在の通過線と待避線は駅構内から少しずらして設けられた。

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ノルト停留所
右のガレージを避けてカーブする線路
 

この後はまた林の中の大きな右カーブで、先ほど見えていた向いの丘にとりつく。そのままレベル(水平)で進んでいくと見えてくるレンガ色の大きな建物が、旧線時代に貨物輸送の最後の顧客だったブラシ製造工場のビュルステンマン Bürstenmann だ。建物に隣接して、シュテュッツェングリュン駅(下注)がある。

*注 旧線時代、正式なシュテュッツェングリュン駅がここから2km北にあり、現駅は工場の通勤客が使う同名の停留所だった。

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(左)このカーブを曲がるとシュテュッツェングリュン駅
(右)ブラシ製造工場の前の駅名標
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ミッテ駅北方から見た同 工場建物
蒸気列車の煙が上がる
 

ここでは7分停車する。早くも機関車が切り離され、側線を通って列車の後方に走っていく。機回しは、終点で列車を方向転換するための作業のはずだが、なぜ中間駅で行うのだろうか。

実は、終点シュテュッツェングリュン・ノイレーンが行き止まりの棒線停留所(下注)で、機回しに使う側線がない。それで、シュテュッツェングリュンでの機回しの後、列車はバックする形で走り、終点では単純に折り返す。両駅の距離は約500mに過ぎず、引上げ線を往復しているようなものだ。

*注 旧線時代、ここに乗降施設はなかった。現停留所は保存鉄道の終点として設置されたもの。

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シュテュッツェングリュン駅での機回し作業
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ギャラリーが見守る中、再連結
 

シュテュッツェングリュンを出た列車は右カーブでゆっくりと森の切通しに入っていき、片側ホームのノイレーンに到着する。線路はかつて踏切だった道路の手前で途切れていて、以遠の線路跡は草むらに埋もれている。

ここで線路が終端となる理由は、この先で旧線が渡っていた大小2本のトレッスル橋が、すでに撤去されてしまっているからだ。廃線後、自治体は鉄道記念物として保存する計画だったが、財政上の理由で断念した。一方、起点のシェーンハイデ・ミッテの南側も用地の転用が進んでいる。そのため、シェーンハイデ保存鉄道がこれ以上ルートを拡張するのは難しいのが実情だ。

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シュテュッツェングリュン・ノイレーン停留所に到着

では最後に、公共交通機関によるアクセスについて記しておこう。

保存鉄道駅の最寄りバス停は、先述の通り、中央通りにあるシェーンハイデ・ミッテ Schönheide Mitte だ。ここへは、東からアウエ Aue 発の、西からアウエルバッハ Auerbach 発のバス路線が通じている。

まず、DBアウエ駅前からは、平日の場合、351系統の直行便がある。休日は、373系統でアイベンシュトック・自由広場 Eibenstock, Platz des Friedens まで行き、そこで351系統に乗り換えてシェーンハイデに向かうことになる。所要時間は50分前後。時刻表はエルツ山地地域交通 Regionalverkehr Erzgebirge, RVE https://www.rve.de/ を参照されたい。

また、DBアウエルバッハ下駅 Auerbach unt Bf の駅前からは、61系統(RVE管内のバス停では V61 と表記)が直行する。こちらは所要27分と近いが、休日は電話による事前予約制になっているので注意。時刻表はフォークトラント運輸連合 Verkehrsverbund Vogtland, VVV https://vogtlandauskunft.de/ にある。

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ミッテ駅に戻っていく蒸気列車
 

次回は、キルニッチュタール鉄道を訪ねる。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2013年4月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
シェーンハイデ保存鉄道協会 https://www.museumsbahn-schoenheide.de/
西部ザクセン保存鉄道振興協会 https://www.fhwe.de/

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2022年1月22日 (土)

ザクセンの狭軌鉄道-プレスニッツタール鉄道

プレスニッツタール鉄道 Preßnitztalbahn

ヴォルケンシュタイン Wolkenstein ~イェーシュタット貨物駅 Jöhstadt Ldst. 間 24.328km
軌間750mm、非電化
1892年開通、1982~86年廃止
1993年保存鉄道運行開始、2000年現行区間再開

【現在の運行区間】
保存鉄道:シュタインバッハ Steinbach (bei Jöhstadt) ~イェーシュタット Jöhstadt 間 7.994km

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シュレッセル駅に停車中の蒸気列車

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エルツ山地で鉱山集落を起源とする町や村は、傾斜地に作られていることが多い。チェコとの国境に接するイェーシュタット Jöhstadt もその一つだ。

町の上手のマルクト広場 Marktplatz から駅に至る道は急な下り坂で、距離こそ1km程度だが、高低差は100mもある。750mm軌間の蒸気保存鉄道の一つ、プレスニッツタール鉄道 Preßnitztalbahn はこの谷底の駅を拠点にして、約8kmの区間で運行されている。

これまで紹介してきたものとは違い、この狭軌鉄道は、DB(ドイツ鉄道)の全国路線網に接続されていない。そのため、公共交通機関で向かうなら、近隣のアンナベルク・ブーフホルツ Annaberg-Buchholz まで列車に乗った後、バスに約30分揺られ、さらにこの坂道を歩いて降りる必要がある(アクセスの詳細は後述)。

どうして、このような山中に孤立した鉄道が存在し、今も動いているのだろうか。その訳を知るために、まずは路線の歴史をひも解いていきたい。

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シュタインバッハ駅から帰りの途へ
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イェーシュタット周辺の地形図に
狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

鉄道名になっているプレスニッツタール Preßnitztal というのは、プレスニッツ川 Preßnitz が流れる谷(タール Tal)のことだ。鉄道は、エルツ山地に刻まれたこの谷(下注)の中を終始走っていく。

*注 ただし、路線の終盤は、支流であるイェーシュテッター・シュヴァルツヴァッサー川 Jöhstädter Schwarzwasser の谷を行く。

狭軌鉄道の建設前から、谷には水力を利用した製粉、製材、製紙などの小規模な工場が多数稼動していた。しかし、製品を運び出すには、谷の険しい徒歩道をたどるしか手段がなかった。1866年にアンナベルクまで標準軌線が延びた(下注)のをはじめ、周辺の交通事情はしだいに改善されていったが、プレスニッツタールに列車が現れるまでには、さらに20年以上の歳月を必要とした。

*注 アンナベルク=ケムニッツ線 Bahnstrecke Annaberg–Chemnitz(現 アンナベルク・ブーフホルツ下駅=フレーア線 Bahnstrecke Annaberg-Buchholz unt Bf–Flöha)。

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新緑の森に囲まれた谷間を行く
 

エルツ山地は地形が険しく、従来の標準軌での建設は技術的にも財政的にも課題が多すぎた。そこで政府は、こうした周辺地域の支線(二級鉄道 Sekundärbahnen)を比較的低コストで済む狭軌で設計することにし、1878年から750mm軌間による路線建設を開始する。

プレスニッツタール鉄道もまた、その枠組みで整備された路線だった。ルートは、アンナベルクへの標準軌線の途中駅ヴォルケンシュタイン Wolkenstein を起点に、イェーシュタットを終点とする23.0kmとされた。ただし、ヴォルケンシュタイン駅から実際の分岐点までの約1.5kmは3線軌条で、標準軌と狭軌が線路を共有していた。

正式名称は、ヴォルケンシュタイン=イェーシュタット狭軌鉄道 Schmalspurbahn Wolkenstein–Jöhstadt といった。もとはこのように、標準軌の路線網に接続された路線だったのだ。

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ヴォルケンシュタイン駅の眺望
左が狭軌線、右が標準軌線
(1909年の絵葉書)
Image by Brück & Sohn Kunstverlag Meißen at wikimedia. License: CC0 1.0
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プレスニッツタール鉄道とその周辺の路線図
破線は廃止線または休止線
 

鉄道は1892年6月に開通し、1日3往復の列車が走った。1年後の1893年5月には、貨物輸送のために、国境直前のイェーシュタット貨物駅 Jöhstadt Ladestelle まで延伸され、全長24.3kmの路線になった。

当時はボヘミア(現 チェコ共和国)からの石炭輸送ルートが求められており、プレスニッツタール鉄道にも山地を越えての延伸構想がいくつか現れている。しかし、建設費や採算見通しなどの問題から、どれも実現に至らないまま、第一次世界大戦の開戦ですべて沙汰止みになってしまった。

一方、現存線では、特に貨物輸送が好調に推移していた。ニーダーシュミーデベルク Niederschmiedeberg の製紙工場とともに、イェーシュタット貨物駅から消火設備を出荷するフラーダー Frader 社が主要な顧客で、1911年には、標準軌貨車を狭軌の台車に載せて運ぶロールワーゲン方式が導入されている。

第二次大戦後の東ドイツ時代に入ると、製紙工場を転換して開設された冷蔵庫工場が、製品の搬出に鉄道を利用した。1964年に国が打ち出した狭軌路線全廃計画は、もちろんこの鉄道にとっても目前の危機だったが、貨物の代替輸送手段が整うまでの間、執行は先送りとされた。

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(左)イェーシュタット駅旧景
  ザクセン蒸気ルートの案内板の一部を撮影
(右)ロールワーゲン
  シュタインバッハ駅の静態展示
 

ところが、廃止を見越して保守経費が削減された影響で、線路や設備の摩耗がしだいに顕わになっていく。オイルショックを受けて1981年にトラックから鉄道へ輸送手段の転換が検討されたときには、もはやプレスニッツタール鉄道は担い手とみなされなかった。それどころか、鉄道より道路整備のほうがコスト的に有利だとされて、廃止方針が確定してしまった。

運行休止は、1982年から1986年にかけて段階的に実施されている。旅客列車は、1984年の1月に上流区間のニーダーシュミーデベルク~イェーシュタット間で、9月に下流区間のヴォルケンシュタイン~ニーダーシュミーデベルク間で、それぞれ運行を終えた。

貨物列車は先行して1982年から順次休止の措置が取られ、最後に残ったニーダーシュミーデベルクからの冷蔵庫輸送も1986年11月にトラックに切り替えられた。これにより同年12月31日をもって、鉄道は法的に全線廃止とされた。

使われなくなった線路の撤去がまもなく始まり、橋梁も数にして約2/3が解体された。プレスニッツタール鉄道は、東ドイツ時代に廃止され、撤去された最後の狭軌路線だった。

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シュタインバッハ駅北方の線路終端(2011年)
Photo by Aagnverglaser at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

現在の保存鉄道から見れば、ここまでがプレヒストリー(前史)になる。線路跡は更地に還され、まもなく雑草に覆われた。その一方で、鉄道の喪失を惜しむ人も多く、彼らは1988年に「プレスニッツタール鉄道利益共同体 Interessengemeinschaft Preßnitztalbahn」の名称で、記念物を保存するボランティア活動を開始する。

ドイツ再統一の過程にあった1990年夏、団体は協会格を得て、新たな組織目標を、イェーシュタットを拠点にした鉄道の再建と定めた。当初の目標はイェーシュタットからシュマルツグルーベ Schmalzgrube まで約4kmのルートの復元だった。

作業はまず、廃線跡に埋まる枕木を掘り起こし、整地し直すことから始まる。所によっては線路跡に建つ建物の撤去や、橋桁の再架設も必要となった。そのうえで軌道を敷設し、完成した区間から順に列車を走らせる。その距離は毎年着実に延びていき、1995年には目標のシュマルツグルーベに達した。

その後も工事は続けられ、2000年8月には、起点から約8kmのシュタインバッハ Steinbach まで再開された。これが、現在の運行区間になっている。

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シュタインバッハ駅で出発を待つ蒸気列車

では、ルートに沿ってイェーシュタット駅から見ていこう。

保存鉄道の起点になっているイェーシュタットでは、長らく北側(シュタインバッハ方)の、駅舎から150mほど離れた機関庫のあるエリアで発着が行われていた。一般輸送廃止後に、機関庫と駅舎の間にアパートが建てられたため、線路を再建できなかったのだ。

アパートの裏庭を一部後退させることで、用地が確保され、2021年9月に待望の駅舎前に線路が延長された。駅の南側(貨物駅方)では、すでに2018年に約250mの線路が敷かれており、これと接続して、駅構内を昔のように列車で往来することが可能になった。

■参考サイト
プレスニッツタール鉄道-新しいイェーシュタット駅
https://www.pressnitztalbahn.de/museumsbahn/projekte/neuer-bahnhof-joehstadt-ba-km-2

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(左)イェーシュタット駅舎
(右)イェーシュタット駅機関庫
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同 機関庫のあるエリア
 

イェーシュタットは標高684mで、路線で最も高い場所にある。標高543mの終点シュタインバッハまで、線路は川に沿って下り一方だ。そのため往路は、蒸機も惰行で走る区間が長い。また、機関車は後退運転(逆機)になる。その分、復路は最大25‰の坂道を力強く上っていくし、機関車も正面が前になり、写真映えがする。

イェーシュタット駅を出た列車は、機関庫の前を通過し、続いて倉庫のような大きな建物を左手に見る。これは、2005年に建てられた鉄道の展示・車両ホール Ausstellungs- und Fahrzeughalle だ。南側に停留所が併設されているので、リクエストがあれば停車してくれる。

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展示・車両ホール
(左)停留所から見た外観(2016年)
Photo by Aagnverglaser at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)内部の車両展示(2018年)
Photo by Aagnverglaser at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この後、シュレッセル Schlössel 駅まではすぐだ。ここは島式ホームがあり、待避線や留置側線が並んでいる。写真の撮影時(2014年)はイェーシュタット駅が工事中で、ここが列車の起点になっていた。

シュレッセルを後にすると、列車は針葉樹に覆われた谷間に吸い込まれていく。左手では、イェーシュテッター・シュヴァルツヴァッサー川が、早瀬と淵を繰り返しながら流れ下っている。

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シュレッセル駅
 

保存鉄道化に際して、旧線にはなかった停留所がいくつか新設された。リクエストストップのローレライフェルゼン(ローレライ岩) Loreleifelsen もその一つで、少し上流側にライン川の名所にあやかった大岩がある。もっとも、クライネ・ローレライ(小さなローレライ) Kleine Lorelei という控えめな実名が示すとおり、期待するほどのものでもないようだが…。

森が開けると、大きな左カーブを回って、シュマルツグルーベ駅に停車する。ここは旧線時代からある村の駅だ。レンガ建ての小さな駅舎とともに待避線も備わっていて、1時間間隔のダイヤの日は、実際に列車交換が行われる。

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シュマルツグルーベ駅とレンガ建ての小駅舎
 

フォレレンホーフ Forellenhof は、同名のガストホーフ(食堂兼旅館)の前にある停留所だ。フォレレ Forelle とはカワマスのことで、隣接してその養魚池がある。線路脇に設けられたテラスで出される川魚料理は、とりわけ人気が高いらしい。列車は、プレスニッツ川の本流とともに再び森に包まれていく。

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フォレレンホーフ停留所
(左)奥の建物がテラスのあるガストホーフ
(右)手作り感のあるホーム
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カワマスが泳ぐ(?)養魚池
 

森の中で、A・ゲーゲントルム・シュトルン A.-Gegentrum-Stolln と記された駅名標が立つ砂利敷のホームを通過する。鉱山跡を公開している同名の観光スポットのために開設されたリクエストストップだ。森を抜けたところにあるヴィルトバッハ Wildbach も同様で、近くにレストハウスがある。

こうして列車は、終点シュタインバッハに到着する。旧線時代から、ここは中間の主要駅の一つだったが、当時のレイアウトに従って4本の線路が復元され、ターミナルにふさわしい姿に蘇った。シュマルツグルーベと同じような平屋の駅舎も、ホームの傍らにある。

列車から切り離された機関車は、駅舎と反対側にある給水処 Wasserhaus の前に移動する。童話から抜け出てきたかのようなこの愛らしい2層のレンガ建は、旧線の遺構の中でもとりわけ印象的なものだ。

*注 正式駅名はシュタインバッハ(バイ・イェーシュタット)Steinbach (b Jöhstadt)。イェーシュタット近傍のシュタインバッハを意味する。

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シュタインバッハ駅に入線
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駅到着後、機関車は給水処(左の建物)へ移動
 

線路はホームの端からさらに続いているように見えるが、カーブを曲がってプレスニッツ川を渡った先に終端がある。そこから下流の廃線跡は、大半がプレスニッツタール自転車道 Preßnitztalradweg に転用されてしまった。

2021年の時刻表によれば、イェーシュタット~シュタインバッハ間の所要時間は、往路が37分、復路が45分になっている。復路が長いのは、中間のシュマルツグルーベで9分間の停車があるからだ。

鉄道は、夏のシーズンの週末と年間の祝日を中心に運行されている。ダイヤには、2時間間隔で走る日(1日9往復)Fahrtage im Zwei-Stundentakt と、1時間間隔の日(1日4往復)Fahrtage im Ein-Stundentakt の別があり、前者の場合、シュマルツグルーベで列車交換が行われる。

保存列車を牽くのは、特別な事情がない限り蒸気機関車だ。鉄道の公式サイトによれば、協会が所有する蒸機は7両にも上る(2021年現在)。主力のザクセンIV K形が4両揃っているほか、1927年製のVI K形、I K形の2009年製レプリカ、1966年製の動輪3軸の蒸機と、実に多彩な顔ぶれだ。しかもすべて運行できる状態にあるという。

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HF 210 E形機関車
1939年製の軍用軌道機関車で、「アクヴァーリウス・ツェー AQUARIUS C」の愛称をもつ
終戦後も各地で稼働し、2009~16年にプレスニッツタール鉄道で在籍、
現在(2022年)はオーストリアのタウラッハ鉄道 Taurachbahn で供用中
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左から、IV K形99 1594(1914年製)、
1966年製3軸機99 4511(1966年製)、
最古参のIV K形99 1542(1899年製)
イェーシュタット駅機関庫にて(2019年)
Photo by NearEMPTiness at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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I K形レプリカ54号(2010年撮影)
Photo by Liesel at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

最後に、公共交通機関でのアクセス方法について。

冒頭でも触れたとおり、イェーシュタットへは、DBチョーパウタール線 Zschopautalbahn のアンナベルク・ブーフホルツ Annaberg-Buchholz(下注)駅前から、路線バス 430系統で約30分だ。

*注 正式駅名には unt Bf(unterer Bahnhof の略、下駅の意)が付く。かつて町の上手にあった「上駅 ob Bf (oberer Bahnhof)」と区別していた名残。

残念ながら、バスはイェーシュタット駅前には立ち寄らない。そのため、イェーシュタット・マルクト(マルクト広場)Jöhstadt, Markt か、その次のイェーシュタット・アインカウフスマルクト Jöhstadt, Einkaufsmarkt バス停で下車する必要がある。前者から駅までは急な下り坂で約1km、後者はより近くて約500mだ(下図参照)。バス時刻表は エルツ山地地域交通 Regionalverkehr Erzgebirge, RVE の公式サイト https://www.rve.de/ にある。

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イェーシュタット・マルクトのバス停
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イェーシュタット周辺の駅、バス停の位置を
1:25,000地形図(1999年)に加筆
© 2021 Staatsbetrieb Geobasisinformation und Vermessung Sachsen
 

これとは別に、訪問者の多い特別運行日限定だが、「プレスニッツタール行楽ルート Ausflugslinie Preßnitztal」の名で、DBヴォルケンシュタイン駅前からシュタインバッハ駅まで連絡バスのサービスもある。詳細は、保存鉄道の公式サイトに掲載されている。

次回は、シェーンハイデ保存鉄道を訪ねる。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2014年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プレスニッツタール鉄道 https://www.pressnitztalbahn.de/

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2022年1月 8日 (土)

ザクセンの狭軌鉄道-デルニッツ鉄道

デルニッツ鉄道 Döllnitzbahn

オーシャッツ Oschatz ~ミューゲルン Mügeln (b. Oschatz) ~グロッセン Glossen (b. Oschatz) 間 15.973km
ネビッチェン Nebitzschen ~ケムリッツ Kemmlitz (b. Oschatz) 間2.66km
軌間750mm、非電化
1885~1903年開通

*注 正式駅名につく b. Oschatz は bei Oschatz の略記。「オーシャッツ近傍の」を意味し、同名の他の駅と区別するために付けられる。

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デルニッツ鉄道の蒸機運行日
ミューゲルン駅に列車が到着

ライプツィヒ Leipzig とドレスデン Dresden、このザクセン2大都市を結ぶ標準軌幹線の途中に、オーシャッツ Oschatz 駅がある。デルニッツ鉄道 Döllnitzbahn の列車は、ここを起点にしている。鉄道は750mm軌間で、運行にはディーゼル機関車のほか、蒸気機関車も使われる、と来れば、同じような狭軌鉄道をいくつか見てきたので、中身はおよそ想像がつくというものだ。

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デルニッツ鉄道の列車
アルトミューゲルン Altmügeln 駅にて
 

しかし調べてみると、他の路線とは少し様子が違うことに気づく。第一に、現在のルートがいくつかの路線の継ぎはぎにより成立している点だ。「デルニッツ鉄道」は路線を運営する会社の名称であって、そのような名の1本の路線が最初から存在したわけではなかった。

第二に、廃止の危機を潜り抜けてきた理由だ。東ドイツでは1964年に、今後10年間で狭軌路線を全廃するという決定が下されたが、その後、一部の路線が、観光に活用するとして廃止を免れた。しかし、「デルニッツ鉄道(を構成する路線)」はそのリストに含まれていない。

第三に、使われる蒸気機関車がザクセンIV K形(DR 99.51~60形、下注)であることだ。より新しい5軸の機関車を使う路線も多い中で、デルニッツ鉄道では、1900~10年代生まれのこの旧型機(ただし1960年代に全面更新されている)が定期的に運用されている。

*注 IV K形は、マイヤー式 Meyer-Lokomotive と呼ばれる関節式機関車の一種で、ボイラーの下に2軸ボギーの台枠を前後2個設置し、急曲線での走行を可能にしている。王立ザクセン邦有鉄道向けに、ケムニッツのザクセン機械製造所 Sächsischen Maschinenfabrik で製造された。ちなみに、IV は「第4」の意で開発順を示し、Kは「クラインシュプーア Kleinspur」すなわち小軌間(狭軌)を意味する。IV K でフィーア カーと読む。

こうした他線との違いが生じた理由は何なのだろうか。路線の成立経緯から探っていきたい。

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ザクセンIV K形蒸機99 574
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オーシャッツ周辺の地形図に狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

この地域は、かなり早くから近代的な交通手段の恩恵に浴していた。というのも、ドイツ最初の長距離鉄道と言われるライプツィヒ=ドレスデン鉄道 Leipzig-Dresdner Eisenbahn が、オーシャッツを経由したからだ。ライプツィヒから東へ順次延伸されてきた鉄道は、1838年11月にオーシャッツに達し、町の北方に駅が設置された。

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現在のDBオーシャッツ駅
 

しかし、その後の数十年はまだ全国幹線網の発達段階であり、後背地にあるミューゲルン Mügeln やヴェルムスドルフ Wermsdorf などの町との間は、馬車連絡の時代が長く続いた。地方路線建設の可能性は、軽便鉄道に関する法制が整備された1878年以降に、ようやく現実味を帯びてくる。

この地域で最初の狭軌鉄道は、1884~85年に開通したオーシャッツからミューゲルンを経てデーベルン Döbeln に至る延長30.9kmの路線だ。南北に走るこの路線は、両端で幹線駅に接続しており、中間のミューゲルンが事実上の目的地だった。そのため、ミューゲルン駅は頭端駅 Kopfbahnhof の形状で設計された。

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ザクセン邦有鉄道の路線図(1902年)
薄いマーカーが「ミューゲルン路線網」
赤は現 デルニッツ鉄道のルート
Base map from wikimedia. License: Public domain
 

次に実現したのは、ミューゲルン~ナイヘン Neichen(旧称 ネルハウ・トレプセン Nerchau-Trebsen)間の23.9kmで、1888年に開通した。上記の南北路線に対して、こちらは、ヴェルムスドルフを主要な経由地とする東西ルートだ。ミューゲルンに西側から接続したため、駅は通過構造に変わった。

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ミューゲルン駅(1910年の絵葉書)
Image by Brück & Sohn Kunstverlag Meißen at wikimedia. License: CC0 1.0
 

同じ頃、ミューゲルンの西方、ケムリッツ Kemmlitz とクロプテヴィッツ Kroptewitz の周辺で、磁器の原料になるカオリン(白陶土)の採掘が開始される。搬出の手段として、1903年にミューゲルン=ナイヘン線の途中にあるネビッチェン Nebitzschen から貨物線が延ばされた。これが、長さ6.3kmのネビッチェン=クロプテヴィッツ線だ。専ら貨物列車が行き交う路線だったが、1945年から1964年まで、混合列車による旅客輸送も実施されている。

これらは周辺の路線群と合わせて「ミューゲルン路線網 Mügelner Netz」と総称された(上図参照)。運行の中核となったミューゲルン駅は段階的に拡張され、1927年には35本の線路と約70か所のポイント(分岐)を有する規模になる。ヨーロッパ最大の狭軌駅という表現もあながち誇張ではなかった。

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1938年のミューゲルン駅構内配線図(和訳を付記)
Image by Rainerhaufe at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし第二次世界大戦後は、鉄道離れが徐々に進行する。そのため、冒頭でも触れたとおり、1964年に国によって狭軌路線全廃の方針が示され、それを境に路線網は縮小に向かう。

1967年から翌68年にかけて、成績の振るわなかった西部および南部の区間が廃止され(下注)、幹線と接続するのはオーシャッツ駅だけになった。旅客列車はオーシャッツ~ミューゲルン間に最後まで残っていたが、これも1975年9月に休止されてしまう。他線のような観光輸送の対象にはならなかったのだ。

*注 ミューゲルン路線群の廃止年表
 1967年11月30日 ケムリッツ~クロプテヴィッツ
 1968年1月1日 ミューゲルン~デーベルン
 1968年7月1日 ムッチェン Mutzschen ~ナイヘン
 1970年1月1日 ヴェルムスドルフ~ムッチェン
 1972年2月1日 オーシャッツ~シュトレーラ Strehla
 1972年10月1日 ネビッチェン~ヴェルムスドルフ

一方、カオリン製品の搬出を筆頭に、貨物輸送にはまだ需要があった。さらにオイルショックの影響で、ソ連からの原油供給が不足したため、東ドイツでは1981年から、輸送手段をトラックから鉄道に転換する政策が取られた。これに応じて、貨物列車は1日に最大6往復設定された。

列車は、カオリン鉱山のあるケムリッツを出発し、ミューゲルン経由でオーシャッツへ向かう。戦前のミューゲルン路線網を利用した輸送路だが、路線廃止が進んで、今や列車が走行できるのはこのルートだけになっていた。

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デルニッツ川橋梁を渡るミューゲルン方面の貨物列車(1991年)
Photo by Rainerhaufe at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

ドイツ再統一後の1993年、ドイツ鉄道顧客連盟 Deutsche Bahnkunden-Verband e. V. (DBV) がデルニッツ鉄道有限会社 Döllnitzbahn GmbH を設立し、DB(ドイツ鉄道)から鉄道施設と車両を引き継いだ。設立の目的はカオリンの輸送体制を維持することだった。ちなみにデルニッツ Döllnitz は、路線に沿って流れる川の名に由来する。

ザクセンの狭軌線の中で唯一続けられた貨物輸送だが、結局、効率の点でトラックに及ばず、2001年に休止となってしまう。ところがこの時すでに、放棄されて久しい旅客輸送の分野で、別の動きが始まっていた。

一つは、蒸気機関車による観光列車の運行だ。1994年にDBVのもとで、「ヴィルダー・ローベルト」振興協会 Förderverein "Wilder Robert"(下注)が設立されている。ミューゲルン駅に本拠を置いた協会によって、残存するIV K形機関車を使った特別運行が開始された。それと並行して、ミューゲルン駅構内の鉄道施設や車両群の復元や改修も進められた。

*注 ヴィルダー・ローベルト(荒くれローベルトの意)は、IV K形蒸機につけられたあだ名。

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蒸気運行の案内板、次回は4月14日とある
 

もう一つは、1995年にオーシャッツ~アルトミューゲルン間で再開された通学輸送だ。これは主にオーシャッツのギュムナージウム(文科高等中学校)に通う生徒たちが利用するもので、バスに比べて輸送力が大きい点が評価された。2006年には現在の終点グロッセン Glossen まで線路が復元され、通学列車の運行区間も延長されている。

一方、支線のネビッチェン~ケムリッツ間は、2006年に線路の損傷が発見されて以来、通行できなくなっていた。だが、カオリン鉱山の観光開発を目ざして2017~18年に復旧工事が実施され、再び運行が可能になった。

こうして2021年現在、列車が走れる区間は、オーシャッツ~ミューゲルン~グロッセン間の「本線」16.0kmと、ネビッチェン~ケムリッツ間の「支線」2.7kmの、計18.7kmにまで延びている。なお、運行業務は2013年から、ツィッタウ狭軌鉄道 Zittauer Schmalspurbahn の事業者であるザクセン・オーバーラウジッツ鉄道会社 Sächsisch-Oberlausitzer Eisenbahngesellschaft (SOEG) に委託されており、2本の鉄道は車両の運用などを通して密接な関係にある。

デルニッツ鉄道の起点オーシャッツへは、ライプツィヒ中央駅から1時間ごとに走る「サクソニア Saxonia」のRE(レギオエクスプレス、快速列車)で36分だ。ドレスデンからも1時間少しで着く。

オーシャッツのDB駅舎は、無人化された後、長らく荒廃していたが、2018年に自治体の手で全面改修され、見違えるようにきれいになった。内部に設置されたインフォメーションオフィスの運営はデルニッツ鉄道が受託しており、乗車券もここで購入することができる。

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(左)REでオーシャッツ駅に到着
(右)改修前(2013年)のオーシャッツ駅舎
  当時、内部は閉鎖されていた
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オーシャッツ駅改修後の開所式(2018年)
© 2018 www.doellnitzbahn.de
 

小ぢんまりした駅前広場の斜め向かいに、デルニッツ鉄道の乗り場がある。カーブした島式ホームにクラシックな木組みの屋根がかかり、地方鉄道らしい風情を感じる始発駅だ。狭軌鉄道の駅舎はないので、用があるならDB駅舎で済ませておく必要がある。

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オーシャッツの狭軌駅に列車が入線
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木組みの屋根がかかる島式ホーム
機関車は折返し運転に備えて機回し中
 

では、さっそく列車に乗り込むとしよう。発車すると、まずは駅前通りに沿って南下していく。線路に目をやると、狭軌線の左側にもう1本、レールが並走している。これは、駅から近くの工場群へ通じていた標準軌の引込線の痕跡だ。引込線はもう使われていないが、約500m続く3線軌条はまだ残されている。

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(左)オーシャッツ駅南方に残る3線軌条
(右)オーシャッツ駅方を望む(1982年)
  標準軌線は狭軌駅の南側で合流していた  
   Photo by Falk2 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

列車はこの後、小さなガーダー橋を渡り、右を流れる小川と左の道路に挟まれる形で進む。この小川が鉄道名になったデルニッツ川で、かつてはその西側にオーシャッツ旧市街を囲む市壁が築かれていた。中間の停留所はすべてリクエストストップなので、乗降がなければ通過する。

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(左)デルニッツ川橋梁
(右)旧市街の東で川と道路に挟まれて走る
 

次に停車するオーシャッツ・ジュート(南)Oschatz Süd 駅は、列車交換ができる待避線をもっている。旧市街の南縁に接しているため、1950年代には毎日2000人の利用者で賑わったという主要駅だ。今も、通学列車でトーマス・マン・ギュムナージウム Thomas Mann Gymnasium に通う生徒たちが乗り降りする。

構内北側にある旧 鉄道員宿舎は、「ヴィルダー・ローベルト」振興協会によってすっかり改装された。デルニッツ鉄道をテーマにしたHOゲージの鉄道模型や、鉄道絵はがきコレクションの展示館になっていて、蒸機運行日に公開される。

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オーシャッツ・ジュート駅の旧宿舎
現在は展示施設に(2017年)
Photo by Radler59 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この先は、デルニッツ川が静かに流れる浅い谷の中を行く。谷を堰き止めたローゼン湖 Rosensee を左手に眺めた後は、雑木林と畑地が交錯する車窓が続く。次の停車はナウンドルフ Naundorf (b. Oschatz) だ。錆びついてはいるものの、ここにも待避線がある。周りは丘陵の広々とした景色が開け、列車は道路に沿った長いストレッチを淡々と走っていく。

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ナウンドルフの前後では丘陵の景観が広がる
 

急なS字を曲がり終えれば、狭軌鉄道網の中心だったミューゲルン Mügeln (b. Oschatz) 駅の構内だ。最盛期から見れば縮小されているのだろうが、今でも10本近い側線が並んでいて、狭軌の駅としてはかなりの規模に見える。

ここの駅舎も自治体によって改装され、「ジオポータル・ミューゲルン駅 Geoportal Bahnhof Mügeln」という名でインフォメーションオフィスが入居している。構内のオーシャッツ方(東側)には、振興協会が拠点にしているレンガ造りの機関庫が見え、周りの側線には客車や貨車がずらりと留置されている。

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拠点駅の面影を残すミューゲルン駅構内(2015年)
Photo by Bybbisch94-Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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改修後のミューゲルン駅舎(2020年)
Photo by Radler59 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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(左)ミューゲルン駅の機関庫
(右)内部ではイベントに使う蒸気駆動のドライジーネを整備中
 

駅を後にした列車は、右カーブで駅前通りを横断し、町の北側をかすめていく。右手に、円塔のあるルーエタール城 Schloss Ruhethal が見えてくる。アルトミューゲルン Altmügeln に停まった後は、また道路とともに畑の中を行く。一帯の肥沃な丘陵地はテンサイ(砂糖大根)の産地で、昔は秋の収穫期になると、専用の運搬列車が狭軌線を行き交ったという。

そのうちに、長くまっすぐな側線のあるネビッチェン駅に停車する。駅と言っても周りに集落はなく、信号所というほうが正確だろう。というのも、ここはケムリッツ方面の支線の分岐点だからだ。

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ルーエタール城の前を行く
右写真はミューゲルン方を望む(東望)
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(左)ネビッチェン駅はさながら信号所
(右)ケムリッツ方面の線路
  撮影当時(2013年)は復活工事前で、行き止まりだった
 

ケムリッツ Kemmlitz (b. Oschatz) へは支流ケムリッツ川の浅い谷を遡っていくが、勾配は最大20‰と、本線よりも険しい。ケムリッツの集落の中で大きく左カーブすれば、カオリン工場の大きな建物群が見えてくる。終点は、工場敷地のすぐ横だ。

これに対して本線は、ネビッチェンから直進し、ほどなく着くグロッセン Glossen (b. Oschatz) が終点になる。村の前に3本の線路が並ぶ静かな駅だが、ホームに並行するレンガ橋脚の高架橋が目を引く。これは「グロッセン簡易軌道展示施設 Feldbahnschauanlage Glossen」と称する保存鉄道の構造物だ。

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終点グロッセン駅を西望
 

高架橋には600mm軌間の線路が敷かれている。復元展示に見られるとおり、かつて近くにある石英鉱山から鉱石を積んだトロッコ列車がここへ上り、750mm軌間のロールワーゲンに載せられた標準軌貨車に積荷を移していた。つまり、600mm→750mm→1435mm の順に貨物をリレーしていたのだ。

石英鉱はとうに閉山してしまったが、自治体によって一帯の施設が保存され、1995年に初めて公開された。600mmの簡易軌道は、グロッセン駅の北方にある鉱山跡から1.2kmの間続いていて、デルニッツ鉄道の蒸気運行日に合わせてトロッコ列車が運行されている。

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グロッセン簡易軌道展示施設の
600mmトロッコから1435mm貨車への積替え設備
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(左)狭軌ホームに並行する高架橋
(右)高架橋の端部、橋上は立入禁止に
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石英鉱山跡
(左)各種機関車が待機中
(右)車庫横の荷役クレーン
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訪問時は軌道の保線作業が行われていた
 

ところで、グロッセンが終点になっている750mm狭軌線だが、以前はさらに西のヴェルムスドルフ方面へ延びていた。ヴェルムスドルフの町は、アウグスト強健王 August der Starke の豪壮なロココ式城館で、「ザクセンのヴェルサイユ」と称されるフーベルトゥスブルク Schloss Hubertusburg があることで有名だ。

デルニッツ鉄道は2014年に、ヴェルムスドルフまでの路線再建を検討すると発表している。旧 ヴェルムスドルフ駅付近の線路はダム湖(デルニッツ湖 Döllnitzsee)の底に沈んでしまったので、ダムの手前に新しい終着駅を造るのだという。延伸区間の長さは4.6kmになる。計画が実行に移されたとはまだ伝わってこないが、夢の膨らむ話ではある。

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フーベルトゥスブルク宮殿(2013年)
Photo by Dr. Bernd Gross at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

最後に、乗車券と2021年現在の運行状況について。

デルニッツ鉄道は、ライプツィヒを中心とする中央ドイツ運輸連合 Mitteldeutscher Verkehrsverbund (MDV) に加盟しているので、MDV所定のゾーン運賃が適用される。そのため、MDV圏内ならDB線や路線バスなどと、通しの切符で乗車可能になっている。また、MDVのゾーン別1日乗車券など、MDVの各種企画券も有効だ。いずれも蒸気列車では追加料金がかかる。

ちなみに2021年現在、オーシャッツ~グロッセン間(2ゾーン)の大人片道運賃は3.70ユーロ、蒸機の場合は追加料金を含め6.70ユーロだ。

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グロッセン駅に到着した蒸気列車
 

運行は、平日適用の通学ダイヤ Fahrplan Schulzeit と、週末の休日ダイヤ Fahrplan Ferienzeit に区別される。

通学ダイヤでは、2018年に導入された気動車により、オーシャッツ~ミューゲルン間に1日4往復が走る。一部の便はグロッセンまで足を延ばすが、支線のケムリッツ方面はオンデマンドタクシーによる代行だ。また、学休期間は全面運休になる。

休日ダイヤでは、夏のシーズンやクリスマス期間を中心に観光列車が運行される。1日2~3往復設定されているが、蒸気列車 Dampfzüge の日とディーゼル列車 Dieselzüge の日があるので、運行カレンダーで確かめておく必要がある。

なお、路線バスの803系統(オーシャッツ駅~ミューゲルン)と、816系統(ミューゲルン~グロッセン~ヴェルムスドルフ~ダーレン Dahlen)が、デルニッツ鉄道のルートをカバーしている。両者はミューゲルン駅の西1.2km(町の反対側)にあるミューゲルン・バスターミナル Mügeln Busbahnhof で接続する。時刻表、路線図は MDV の公式サイト https://www.mdv.de/ を参照されたい。

次回はプレスニッツタール鉄道を訪ねる。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2013年4月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
デルニッツ鉄道 https://www.doellnitzbahn.de/
DBV「ヴィルダー・ローベルト」振興協会 https://www.wilder-robert.de/
グロッセン簡易軌道展示施設協会 http://www.feldbahn-glossen.de/

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2021年12月23日 (木)

ザクセンの狭軌鉄道-ヴァイセリッツタール鉄道

ヴァイセリッツタール鉄道 Weißeritztalbahn

フライタール・ハインスベルク Freital-Hainsberg ~クーアオルト・キプスドルフ Kurort Kipsdorf 間 26.335km
軌間750mm、非電化
1882~83年開通

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マルター駅を出発する蒸気列車

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フライタール・ハインスベルク=クーアオルト・キプスドルフ狭軌鉄道、通称「ヴァイセリッツタール鉄道 Weißeritztalbahn」は、現存するザクセンの狭軌鉄道の中では最長の路線だ。延長26.3kmあり、終点クーアオルト・キプスドルフ Kurort Kipsdorf まで、蒸気列車で1時間20分以上かかる。

起点はドレスデン Dresden 南西郊のフライタール・ハインスベルク Freital-Hainsberg で、ドレスデン中央駅からフライベルク Freiberg 方面のSバーン(近郊列車)でわずか15分。ここから毎日、本格的な蒸気機関車が古典客車を連れて、エルツ山地の山懐に向けて出発していく。大都市の間近で、こうしたノスタルジックな列車の旅をいつでも楽しめるというのは貴重なことだ。

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フライタール・ハインスベルク駅
ザクセンIV K形蒸機の特別運行(2018年)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

とはいえ、列車がクーアオルト・キプスドルフまで到達できるようになって、今年(2021年)でまだ4年しか経っていない。2002年8月の豪雨により、各所で線路や橋梁の流失など壊滅的な被害を受けて以来、鉄道は長期にわたり、復旧途上にあった。

2008年12月に第1段階として、起点からディッポルディスヴァルデ Dippoldiswalde まで15.0kmが通行できるようになったが、全線が再開されたのは2017年6月、災害発生から実に15年後のことだ。並行してバス路線があるため、列車がなくても日常の用は満たせていたというものの、沿線自治体にとって蒸気鉄道は、旅行者を呼び込むための重要な観光資源だ。復活は悲願だったに違いない。

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路盤が流失した線路
シュペヒトリッツ停留所下流200m(2002年)
Photo by Jörg Blobelt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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全線再開を祝う人々
クーアオルト・キプスドルフ駅にて(2017年6月17日)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

軌道や施設の多くが再建されたため、新線と見違えそうな見栄えだが、鉄道自体はザクセンで最初に計画された狭軌の二級鉄道(地方鉄道)Sekundärbahn の一つで、140年近い歴史をもっている(下注)。今回は、この古くて新しい狭軌鉄道を訪ねてみることにしよう。

*注 開通時期は、1881年のヴィルカウ=キルヒベルク線 Strecke Wilkau–Kirchberg(ツヴィッカウ南郊、後にヴィルカウ・ハスラウ=カールスフェルト狭軌鉄道 Schmalspurbahn Wilkau-Haßlau–Carlsfeld の一部となった)に次ぐが、同線は1973年に廃止されたため、現存路線では最古になる。

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フライタール・ハインスベルク~ディッポルディスヴァルデ間の地形図に
狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
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ディッポルディスヴァルデ~クーアオルト・キプスドルフ間の地形図に
狭軌鉄道のルートを加筆
Base map from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

ヴァイセリッツタール鉄道は、1882年にシュミーデベルク Schmiedeberg まで、翌83年にキプスドルフまで、段階的に開業した。もとは標準軌を敷く計画だったが、通過する谷が狭隘で、建設費圧縮のために規格を落として設計したのだという。シュミーデベルクが最初の目的地になったのは、地名が示すとおり鉱山町で(下注)、貨客ともに相応の需要が見込まれていたからだ。

*注 地名シュミーデベルクは、Schmiede(鍛冶屋、鍛造の意。英語のsmith, smithyに相当)+Berg(山の意)に由来する。キプスドルフも、かつては Kyppsdorf と綴り、銅の村 Kupferdorf を意味する地名だった。

開通後の輸送実績は想定以上だった。急ぎ、一部の駅では荷役側線を延長し、貨物列車は機関車を2両にする重連運転でさばいた。しかしこの好況に、文字通り水を差す事態が発生する。1897年7月の豪雨と、それに伴う大規模な川の氾濫だ。

鉄道の通る谷は、ローテ・ヴァイセリッツ川 Rote Weißeritz(下注)の流路になっている。ふだんの川は穏やかな流れで、川床は浅く、ささやかな堤しかない。ところが、ここを100年に一度と言われた大水が襲来し、谷中の村や交通路はことごとく流されるか、水に浸かった。鉄道の復旧は、1年がかりの大事業となった。2002年のそれより1世紀以上も前に、同じような経験をしていたことになる。

*注 この川はフライタール Freital で西から来たヴィルデ・ヴァイセリッツ川 Wilde Weißeritz と合流し、ドレスデンでエルベ川 Elbe に注ぐ。鉄分を含んでやや赤く見えたことから、ローテ(赤いの意)の名がある。

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ローテ・ヴァイセリッツ川
後方はラーベナウ駅
 

小規模な冠水にはその後も見舞われるが、地形上の弱点にもめげず、鉄道は順調に業績を伸ばしていく。20世紀に入ると、他の狭軌線と同様、貨物輸送の効率化が進められた。標準軌貨車を狭軌の台車に載せて運ぶロールボック Rollbock や、その改良形であるロールワーゲン Rollwagen が導入がそれだ。車両限界を拡張するために、駅施設や渓谷区間を改修する必要があり、その一環で1か所だけあった短いトンネルが撤去されて、切通しにされた。

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標準軌貨車を載せたロールワーゲン
フライタール・ハインスベルク駅にて
 

後に、より大規模なルート変更が2か所で行われている。一つは、下流域の洪水制御のために計画されたマルター・ダム Talsperre Malter の建設に伴うものだ。川を堰き止めるダムの出現で、鉄道はザイファースドルフ Seifersdorf の手前からディッポルディスヴァルデの町の入口まで、約5kmにわたって移設された。

1912年4月に完成したこの新ルートは、堰堤の高さまで20‰勾配で上り、そのあとダム湖に沿って水平に進む。ダムは1913年に完成し、湛水を開始した。旧ルートのうち水没を免れた下流区間は、後にハイキングトレールに転用されている。

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マルター・ダムと列車(1914年の絵葉書)
Image by Brück & Sohn Kunstverlag Meißen at wikimedia. License: CC0 1.0
 

もう一つは、1924年に移転したシュミーデベルク駅の前後区間だ。旧ルートはもともと川の右岸(東側)の街道沿いを通っていたが、鋳造所からの貨物の増加で手狭になった駅とともに、前後約3kmの区間が左岸に移された。ペーベル川の谷(ペーベルタール Pöbeltal)を横断する高架橋を含む今のルートは、このときに造られたものだ。

なお、ペーベルタールには、当時チェコ国境に通じる狭軌支線(下注)が計画されており、シュミーデベルクには分岐駅として必要な用地が確保されていたが、一部の路盤が造成されただけで未完に終わった。

*注 ペーベルタール鉄道 Pöbeltalbahn は、シュミーデベルク~モルダウ Moldau(現 チェコ領モルダヴァ Moldava)間17.3km。モルダウでエルツ山地を越える標準軌線と接続する予定だった。

当時、鉄道の旅客輸送は、冬のほうが多忙だった。都会からウィンタースポーツに繰り出す人々で、列車は週末ごとに混雑した。それに対応すべく、1933年には終点キプスドルフ駅の構内が拡張されて、客車13両と手荷物車1両というピーク時の長大列車も扱えるようになった。

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キプスドルフ駅にウィンタースポーツ列車が到着
(1920年の絵葉書)
Image by Brück & Sohn Kunstverlag Meißen at wikimedia. License: CC0 1.0
 

ザクセンが東ドイツに属した第二次世界大戦後は、近隣の狭軌鉄道と同じような経過をたどっている。1948年から沿線で始まったウラン鉱の採掘で、貨物輸送が活気を取り戻し、1950年代に入ると、冬場の行楽輸送も復調した。

しかし1964年の、今後10年間で国内の狭軌鉄道を全廃するという国の方針で、路線は転機を迎える。運行要員が削減された駅では、転轍器の操作が列車乗務員の仕事になった。保守経費の切り詰めで線路の不良個所が放置されたため、速度制限区間が拡大していった。利用者の路線バスへの流出が加速するのも、やむを得ない流れだった。

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東ドイツ時代のディッポルディスヴァルデ駅(1986年)
Photo by Bärtschi, Hans-Peter at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1973年に、維持すべき観光路線の一つに選ばれたことで、鉄道はかろうじて廃止を免れたが、それもドイツ再統一で環境が一変する。民営化されたDB(ドイツ鉄道)は、引き継いだ路線網の整理縮小を急いだ。1994年末限りで貨物輸送が中止され、1998年には旅客輸送の廃止も予告されていた。

この危機は、地域の公共交通を一元的に管理するオーバーエルベ運輸連合 Verkehrsverbund Oberelbe (VVO) が設立され、DBとの運輸委託契約が結ばれたことで、ひとまず収まる。その後、鉄道の管理は2001年からDBの子会社に引き継がれ、最終的に2004年、BVO鉄道有限会社 BVO Bahn GmbH(現 ザクセン蒸気鉄道会社 Sächsische Dampfeisenbahngesellschaft (SDG))に移管された。

ただし、この間に冒頭で述べた豪雨災害に見舞われており、むしろこのほうが存続の脅威だったと言えるだろう。全線の復旧にかかる費用は約2000万ユーロと見積もられ、連邦の洪水救済基金からの拠出がなければ、実現は不可能だった。最終的にはその2倍の約4000万ユーロが投入され、2017年6月17日に待望の再開通式が挙行されている。

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ラーベナウ駅に入る蒸気列車

起点フライタール・ハインスベルク駅は、興味深い構造をしている。Sバーンが停車する標準軌ドレスデン=ヴェルダウ幹線 Hauptbahn Dresden–Werdau の旅客ホームが一段高い築堤上にあり、その西側の地平に、狭軌鉄道の駅とヤードが展開する。ところが、その西隣にまた標準軌の線路が数本並んでいるのだ。

これは、単線の貨物線とその側線だ。昔はこちらが本線だったのだが、狭軌線との間で貨物をやり取りする列車の転線を支障しないように、東側に、旅客線が別途設けられた。そのため、狭軌線の構内は旅客と貨物の標準軌線に挟まれる形になっている。

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(左)フライタール・ハインスベルク駅の標準軌ホーム
  右の狭軌ヤードより一段高い(2015年)
Photo by Rainerhaufe at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)狭軌線のヤードの左端に乗降ホームがある
 

狭軌線のヤードもけっこう広く、貨物輸送が盛んだった往時をしのばせる。しかし今は、使われなくなった貨車や客車の留置場所だ。一方、機関庫と整備工場は、キプスドルフ方の末端に集約されていて、給水や給炭作業もその一角で行われる。

標準軌線の築堤に接する屋根付きの狭軌ホームでは、蒸気列車が発車待ちをしている。さっそく乗り込むことにしよう。

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狭軌線の整備工場
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フライタール・ハインスベルク駅で
蒸気列車が発車を待つ(2018年)
Photo by Bybbisch94, Christian Gebhardt at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

列車はホームを離れると、機関庫のそばで標準軌線の下をくぐって左側に出る。なおも並走する間に、ヴァイセリッツ川が左手から接近するが、まもなく列車は左カーブで標準軌線から離れ、川を続けざまに渡る(下注)。最初の停留所はフライタール・コースマンスドルフ Freital-Coßmannsdorf だ。

*注 ヴァイセリッツ川に合流する前の、ヴィルデ・ヴァイセリッツ川 Wilde Weißeritz およびローテ・ヴァイセリッツ川。

三角屋根が連なる大きなショッピングセンターの横を通過すると、いよいよ谷が狭まってくる。ここからしばらくは、ローテ・ヴァイセリッツ川が刻んだ狭い谷底を這うように進んでいく。このラーベナウアー・グルント Rabenauer Grund(ラーベナウ渓谷の意、下注)は細かく曲がりくねっていて、鉄道も急カーブと橋梁の連続だ。次の駅までの間に、橋梁の数は12もあるという。この区間は2002年の豪雨による異常水位で甚大な被害を受け、線路をはじめ施設設備の多くが造り直されている。

*注 グルント Grund は英語の ground に相当し、ここでは谷底を意味する。

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(左)ヴィルデ・ヴァイセリッツ川を渡る
(右)ラーベナウアー・グルントの曲線だらけの線路
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(左)ラーベナウアー・グルント
  ハイキングトレールが線路と絡む
(右)写真奥に見える橋梁は、水害の後、
  橋脚のないタイドアーチで架け直された(ラーベナウ駅南方)
 
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ラーベナウアー・グルント周辺の1:25,000地形図(1989年)
© 2021 Staatsbetrieb Geobasisinformation und Vermessung Sachsen
 

ラーベナウ Rabenau 駅は谷の途中にあり、貨物列車の交換も可能な長い待避線を備える。同名の町は渓谷の上の台地に立地するのだが、列車からは全く見えない。ちなみに、町へ向かう道路から右に分かれる小道を上っていくと、渓谷と鉄道駅を俯瞰するシャンツェンフェルゼン Schanzenfelsen(砦岩の意)の展望台がある。下の写真は、駅に入線する列車をそこから眺めたものだ。

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ラーベナウ駅に入る蒸気列車を
シャンツェンフェルゼンから俯瞰
 

さて、渓谷はシュペヒトリッツグルント Spechtritzgrund と名を変えながら、なおも続く。列車は、最も狭隘な区間にさしかかっている。車輪をきしませて通過する急カーブは、路線最小の半径50mだ。次のシュペヒトリッツ Spechtritz 停留所もまだ谷の中だが、少し空が広がってきたようだ。

しばらく行くと、ダム建設で1912年に付け替えられた区間に入る。トレールになった旧線と川とを斜めに横断し、25‰の上り勾配で谷の斜面を上り詰めていく。やがて右手に弧を描くマルター・ダムが現れる。高さ26.8m、堤長193m、ダム湖は谷を埋め尽くし、周辺の景色を一変させた。

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マルター・ダムの堰堤(2007年)
Photo by ProfessorX at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

その穏やかな湖面を眺めながら左にカーブするところに、待避線をもつマルター駅がある。ダム湖へ行く行楽客の下車駅だ。列車は駅を出た直後に、支谷に架かる長さ66mのボルマンスグルント橋梁 Brücke Bormannsgrund を渡る。湖水に脚を浸した5径間のアーチ橋は、列車の好撮影地になっている。

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ボルマンスグルント橋梁を渡る
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ボルマンスグルント橋梁をダム湖対岸から遠望
 

しばらく車窓にはダム湖が続くが、左手に建物が目立ち始めれば、次のディッポルディスヴァルデ駅が近い。ここは沿線最大の町だ。水害からの復旧過程では、9年間、列車の終点になっていた。拠点駅らしく、島式ホームには木組みの大屋根が架かり、両側に貨物側線が何本も並んでいる。

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(左)ディッポルディスヴァルデ駅に到着(2021年)
Photo by MOs810 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)ディッポルディスヴァルデ駅の島式ホーム(2017年)
Photo by SchiDD at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この後は連邦道170号線と絡みながら、なだらかな谷間を進んでいく。オーバーカルスドルフ Obercarsdorf からは、再び新線区間に入る。1924年に切り替えられた線路は、集落を避けて川の左岸(西側)を伝っている。

右から合流するペーベルタールを横断する地点には、8つのアーチをもち、長さ191mと路線最長のシュミーデベルク高架橋 Schmiedeberger Viadukt が築かれた。S字カーブを描く高架橋の上で、列車は、谷間を埋める家々の屋根を見下ろすように走る。渡り終えれば、シュミーデベルク駅がある。

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(左)家々の屋根を見下ろすシュミーデベルク高架橋(2021年)
Photo by MOs810 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
(右)町中に築かれたアーチ(2013年)
Photo by Geri-oc at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

新線区間は、駅を越えて左手に鋳造所が見えるまで続く。再び谷が狭まってきた。ブッシュミューレ Buschmühle 停留所を見送ると、いよいよ路線最後の急坂が待ち構えている。勾配値は最大で34.7‰(1:28.8)に達し、上りきったところが終点クーアオルト・キプスドルフ駅の構内だ。標高は534mで、起点とは350mの高度差がある。

ここも長いホームを有している。駅舎は車止めの先にあり、階段を上がると、吹き抜けに壁画の描かれた立派な1階ホールに出られる。建物はビュルガーハウス Bürgerhaus(村の公共施設)として機能していて、インフォメーションオフィスや鉄道資料の展示室もある。

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クーアオルト・キプスドルフ駅に入る
蒸気列車(2017年)
Photo by R.D. - Rolf-Dresden at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
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クーアオルト・キプスドルフ駅
(左)駅舎正面(2009年)
Photo by R.D. --Rolf-Dresden at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)1階ホール、右奥にホームへ降りる階段がある(2021年)
Photo by MOs810 at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

クーアオルト・キプスドルフは、人口300人ほどの小さな村だ。保養地(クーアオルト Kurort)の冠はついているものの、特に見どころがあるわけでもない。終点まで乗ってきた客の多くは、機回し作業を見学した後、折返しの列車に再び乗り込んでいく。

ヴァイセリッツタール鉄道の蒸気機関車は、フライタール・ハインスベルクを拠点にしている。ザクセン蒸気鉄道SDGのリストによれば、2021年現在、稼働できるのは1933年製の「標準機関車 Einheitslokomotive」99.73~76形と、1957年製の「新造機関車 Neubaulokomotive」99.77~79形が1両ずつだ。

通常ダイヤでは後者が使われ、前者は後述する特別運行日にのみ登場する。このほか、同形式の蒸機が複数両、フライタール・ハインスベルクとキプスドルフに分散して保管されている。

客車はオープンデッキをもつ古典車タイプだが、DR時代に車体を更新したいわゆるレコ・ヴァーゲン Reko-Wagen(Reko は再建 Rekonstruktion の意)が使われている。また、夏のシーズンには、無蓋貨車を改造した展望車 Aussichtswagen が連結される。

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(左)戦前製の「標準機関車」99 1746機
(右)戦後製の「新造機関車」99 1771機
 いずれもフライタール・ハインスベルク駅にて
 

運賃は区間制だ。1日乗車券 Tageskarte もあるが、片道および往復乗車券でも当日の途中下車 Unterbrechung が1回限り有効になっている。

最後に運行状況だが、SDGが運営する3路線の中では、最も閑散としている。2021年のダイヤによると、通年運行しているものの、全線通しで走るのは2往復、それにディッポルディスヴァルデ折返しが夕方1往復あるだけだ。沿線に著名な観光地がなく、利用者数も限られることから、1編成で賄えるダイヤにしてあるのだろう(下注)。これとは別に、年に2日間だけ、特別ダイヤ Sonderfahrplan で通し4往復と区間便2往復が走る。

*注 ディッポルディスヴァルデまで部分復旧していた期間は、1日6往復運行されていた。短距離のため、これでも1編成で対応可能だった。

ちなみに、ドレスデン市内とディッポルディスヴァルデ~キプスドルフ沿線間には、路線バスが30~60分間隔で運行されている(360系統、RVSOE による運行)。また、Sバーンのフライタール・ドイベン Freital-Deuben 駅前からもラーベナウ市街地(駅前は通らない)経由でディッポルディスヴァルデまで、バスが1時間ごとにある(348系統、同上)。現地訪問の際、片道をバス移動にすれば、旅程の可能性がより広がるかもしれない。時刻表、路線図は https://www.vvo-online.de/ を参照されたい。

次回はデルニッツ鉄道を訪ねる。

写真は別途クレジットを付したものを除き、2013年4月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T.氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
ヴァイセリッツタール鉄道(SDG公式サイト)
https://www.weisseritztalbahn.com/
ヴァイセリッツタール鉄道利益共同体協会 IG Weißeritztalbahn e.V.
http://www.weisseritztalbahn.de/

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