2020年2月22日 (土)

イギリスの地形図略史 II-1インチ図の展開

230年に及ぶ歴史の中で、オードナンス・サーヴェイ Ordnance Survey (OS) の看板商品である1マイル1インチ図(以下、1マイル図という)とその後継である1:50,000図の仕様にはさまざまな変遷があった。下表はその一覧だが、印刷技術の進歩や利用者のニーズの動向を反映して、特に20世紀前半に様式の頻繁な変更が試みられている。また、イングランドおよびウェールズと、スコットランドは第二次世界大戦まで別の体系で作成されていた。それぞれシリーズやエディションの名で呼ばれているので、時代順にその背景や特徴を見ていこう。

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OS 1インチ図および1:50,000のシリーズ一覧

オールドシリーズ Old Series

「オールドシリーズ」は、前回紹介したとおり、OS最初の1インチ図群だ。初めてOS名で刊行された1805年のエセックス州図(図番1、2、47、48)を皮切りに、1870年代まで約70年の間作り続けられた。銅版刷、墨1色の地形図で、地勢はケバで表されている。

おりしも産業革命で都市化が進む時期に当たるが、特に初期の図にはまだ多くの山野が残り、昔ながらの村里が点在している。カッシーニ出版社の復刻図の解説者は、このシリーズについて「数世紀前の農耕期から20世紀の劇的な都市化に向かう重要な推移の前夜に関するイギリスの記録である」と言っている。

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1インチ「オールド・シリーズ」
93 NE York 1858年(部分)
This work is based on data provided through www.VisionofBritain.org.uk and uses historical material which is copyright of the Great Britain Historical GIS Project and the University of Portsmouth
 

「オールドシリーズ」は、イングランドとウェールズを網羅するが、図郭や図番は、途中で方針が変更されたため、不揃いなものとなった。まず図郭は、最初に作業が行われた南東部でグリニッジ0度を基準に配置されたが、後の南西部では西経3度を基準に整列された。そのため中央部の図郭にしわ寄せが来て、東西方向が他よりかなり狭くなっている。

また、これを北に延長していくと極端に細長い図郭が生じてしまうため、北部(図番91~94より北側の図郭)は、新たな基線プレストン~ハル線 Preston to Hull line を用いて測量することになった。オールドシリーズの索引図はこの3者の接合体だ。さらに、1面が大きく扱いにくかったので、中期以降は、本来の図郭を4等分した縦12×横18マイル(約19×29km、下注)の範囲の小型図郭で刊行された。

*注 実長1マイルが図上1インチで表されるので、図面の寸法は12×18インチ(30.5×45.7cm)になる。

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イングランドおよびウェールズの
1インチ「オールドシリーズ」索引図
image from www.charlesclosesociety.org, © Chris Higley, 2013
 

図番は1から110まで通しで振られているが、初期の南部が南北方向の千鳥式付番、その後手掛けた中部と北部は東西方向の千鳥式と、まるでパズルのようだ。4等分図郭はこれにNE(北東部)、SE(南東部)、NW(北西部)、SW(南西部)の区別がつく。

なお、スコットランドの1インチ図整備は1856年からで、「オールド」に対応するグループはない。

ニューシリーズ New Series

イングランドとウェールズの混沌とした旧体系を整理したのが、1872年に刊行が始まった「ニューシリーズ」だ。その図郭は、もともとプレストン~ハル線の北側で設定されていた既存の4等分図郭を南へ延長した形になっている。小図郭が全面的に採用されたのは、石版から亜鉛版への移行で単位部数あたりの印刷コストが低下したことが背景にある。図番は北西端を1として、東へそして南へと通しで振られた。

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イングランドおよびウェールズの
1インチ「ニューシリーズ」~「第4エディション」の索引図
image from www.charlesclosesociety.org, © Chris Higley, 2013
 

この頃には1マイル6インチ図(1:10,560)や同25インチ図(1:2,500)などの大縮尺測量がかなり進行しており、1インチ図はその成果を用いて編集されている。地勢表現には等高線(下注)が用いられ、これを「アウトライン版 Outline edition」と呼ぶ。さらにケバを茶色で加刷したいわゆる「ヒルズ(山または丘陵)版 Hills edition」も刊行されたが、予算不足のため、一部の図葉にとどまった。

*注 等高線は標高50フィート(約15m)に1本引かれた後、1000フィートまで100フィート(約30m)間隔、その後は250フィート(約76m)間隔で引かれた。

一方、スコットランドでは、このニューシリーズに対応する形で、「第1エディション First Edition」の刊行が1856年から開始されている。1面で縦18×横24マイル(約29×39km)の範囲を表し、イングランドの小型図郭より一回り大きい。等高線で地勢を表現したアウトライン版と、等高線の代わりにケバで起伏を描いたヒルズ版の2種の形式で刊行された。

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スコットランドの
1インチ図「第1エディション」~「第3エディション」索引図
image from www.charlesclosesociety.org, © Chris Higley, 2013
 

改訂ニューシリーズ Revised New Series

OSの現状を調査し報告するために1892年に設置されたジョン・ドリントン卿 Sir John Dorington を長とする委員会は、OSの測量業務に関していくつかの重要な提案をした。その一つが、それまで大縮尺図の整備に合わせて行っていた1インチ図の改訂を、専任の測量隊により独立して実施させることだった。交通網の発達や市街地の急速な拡張で、既存図の内容は時代遅れになっており、更新サイクルを15年以内にして、できるだけ現況を反映させようとした。

翌年から改訂作業が始まり、1895年からその成果が続々と刊行されていった。これが「改訂ニューシリーズ」で、1899年までにアウトライン版がイングランドとウェールズをカバーした。ケバを黒または茶色で加刷したヒルズ版も、ほとんどの地域で作成された。

図郭はニューシリーズと同じだが、地図記号には異同がある。たとえば、鉄道記号は複線以上と単線が区別されている。従来の梯子型は単線に用いられ、1つおきにコマを黒塗りした旗竿型を複線の記号とした。

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1インチ「改訂ニューシリーズ」234 Gloucester
(上)アウトライン版
(下)ヒルズ版
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改訂ニューシリーズでは、1897年から刊行されたカラー版が特筆される。初期は5色刷りで、地物・注記には黒、等高線に赤、地勢を表すケバに茶色、水系に青、道路の塗りに黄褐色か赤茶色を配した。1901年からは、さらに森林の範囲に緑色のアミを掛けて、6色刷りとした。なお、複線鉄道の記号が旗竿から黒い太線に変えられたのは、このカラー版からだ。

地図を折り畳んで、厚紙のカバーをつけるという今日のOS地図の方式も、このシリーズで始まった。もともとこれはスイスで1870年に開発されたもの(下注)で、色分けにより地形や地物の可読性が高まり、カバーつき折図で野外への携帯が容易になるとして、陸軍省が早期の実現を求めていた。だが実際に刊行されると、軍以上に一般市民に好評で、販売の重点もそちらに置かれるようになる。

*注 スイス最初の多色刷地形図、ジークフリート図については、「スイスの地形図略史 II-ジークフリート図」で詳述。

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改訂ニューシリーズの表紙
(左)イングランド版
(右)スコットランド版
photo from www.charlesclosesociety.org
 

スコットランドでは、1896年から「第1」と同じ図郭で「第2エディション Second Edition」が刊行され始めた。等高線で地勢を表現するアウトライン版と、暗褐色のケバを加刷したケバ版の2種類がある。

第3エディション Third Edition

イングランドとウェールズでは、2度目の全国改訂が1901~12年に行われ、その成果が1903年から刊行された。地図自体はニューシリーズとほとんど変化がないが、見出しに「Third Edition」と記されていることから、第3エディションの名で呼ばれる。これもカラー版があるが、従来の縦12×横18マイルを範囲とする小型図郭は途中で放棄され、1906年から縦18×横27マイル(約29×43km)の大型図郭に移行した。

スコットランドにも「第3エディション」があり、1905年から7色刷のカラー版が登場している。オークニー Orkney やシェトランド Shetland などの島嶼部は、図郭を結合した集成版で刊行された。

第4エディション Fourth Edition

同じく3度目の改訂を反映したものを「第4エディション」と呼ぶが、後述する1911年の方針変更で放棄されたため、一部の図葉が刊行されただけに終わっている。

ポピュラーエディション Popular Edition

次の第4次改訂では、等高線とケバにぼかし(陰影)も加えて、12色刷りの精巧な地図にする予定だった。しかし、1914年の第一次世界大戦勃発で計画は中止を余儀なくされた。戦後再開された作業では、製作費や時間を節約するために、等高線のみのシンプルな地勢表現で改訂を進めることになり、1919年から刊行が始まった。イングランドとウェールズ全146面で、戦間期のイギリスを記録する図像資料だ。

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ポピュラーエディションの表紙
(左)イングランド版
(右)スコットランド版
photo from www.charlesclosesociety.org
 

地図カバー(上の写真参照)にも記されているとおり、内容は「等高線を描いた道路地図 Contoured Road Map」になっている。開発の背景には、戦後の旅行ブームがある。戦争の緊張が去り、一方で自動車の量産も始まったことで、個人で気軽に遠出できる環境が整いつつあった。19世紀の地形図は主として軍事上の必要性から製作されており、市販品はあくまで軍用図の払い下げの位置づけだった。ところが、旅行のための地図の需要が高まったことで、民間市場に特化した製品への方向転換が始まったのだ。敢えて「第5エディション」(下注)と言わず「ポピュラーエディション Popular Edition(大衆版の意)」と名付けられた理由も、そこにある。

*注 後述のように、「第5エディション」は次の第6次改訂を指す用語になる。

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1インチ「ポピュラーエディション」
107 N. E. London 1914年
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同 107 N. E. London 1914年
 

「ポピュラーエディション」の特徴を一言でいうと、わかりやすさだ。図郭は、第3エディションの大型(18×27マイル)が踏襲されたが、内陸部は図郭の重複が排除され、歴史的に最も整った索引図となった。等高線は50フィート間隔で描かれ、ケバを伴わない分、地物や注記が明瞭に読み取れ、すっきりした図面に仕上がっている。

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イングランドおよびウェールズの
1インチ「ポピュラーエディション」索引図
image from www.charlesclosesociety.org, © Chris Higley, 2013
 

道路地図としては、高速走行に適した道路に赤、通常の道路に黄色、それ以外の道は黄色の縞と塗分けることで、利用者の経路選択を手助けしている。また、遠出に欠かせない鉄道駅については専用の記号も登場した。以前は線路記号に沿わせた黒抹家屋に Station ないし Sta. と注記するだけだったが、ターミナルには矩形、それ以外には円の記号を付し、目立たせるために後の版では赤で塗られた(下図参照)。

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「ポピュラーエディション」の凡例
 

カバーに、エリス・マーティン Ellis Martin が描くイラストを配置したことも特筆される。木の茂る谷を見下ろし、穏やかにパイプをくゆらせながら一休みしているサイクリスト(傍らに自転車が描かれている)の絵柄は、大衆向けの製品であることをアピールするとともに、人々をまだ見ぬ土地への旅に誘った。

野外での酷使に耐えられるように、地図にはリネン(亜麻布)で裏打ちされた紙が使われており、その他、耐水紙を使用したもの、地図を別々のパネルに切り分けたうえでリネンに張り付けたもの(下注)も見られる。

*注 いずれも地図カバーに記載があり、裏打ち紙は Mounted on Cloth、耐水紙は on Place's Waterproof Paper、切り分け式は Dissected などと書かれている。

スコットランドでも、同時期に「ポピュラーエディション」が作成されている。全92面で、図番はスコットランド内で完結する。ただし、「国」境に位置するイングランドの図番3と5はスコットランドの図番86と89を兼ねているので、グレートブリテン島全体で見た場合は2面少なくなる。また、各図葉に1マイル程度の重複を持たせているのはスコットランド独自の仕様だ。

カバーは、イラストではなく、スコットランド王室の紋章をあしらった独自のデザインが用いられた。

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スコットランドの
1インチ「ポピュラーエディション」索引図
image from www.charlesclosesociety.org, © Chris Higley, 2013
 

第5エディション Fifth Edition

イングランドとウェールズでは1928年から1インチ図の全国改訂が行われ、1931年から「第5エディション」の刊行が始まった。特徴の一つは、図法(投影法)の変更で、従来のカッシーニ図法に代わり、今も続く横メルカトル図法 Transverse Mercator projection が採用されたことだ。

「第5」では、第一次大戦前に計画されながら中断していたぼかし(陰影)つきのバージョン(地図カバーに Fifth (Relief) Edition と表記)が実際に刊行された。1インチ図としては例外的に美しい図面ではあったが、価格が高くなったため、利用者の評判は良くなかった。それで1934年から、ぼかしのない廉価版も刊行されることになった。

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1インチ「第5エディション」ぼかし版
144 Plymouth 1928~29年
 

2種の異版が容易に識別できるように、カバーの背景は、前者の赤に対して、後者は青色になっている(下の画像参照)。予算不足で刊行が遅れたため、1937年から大型図郭を導入して、早期の完成を目指した。しかし、第二次世界大戦の勃発で計画が中断され、結局完成したのは30面強と、イングランドの1/5をカバーするにとどまった。

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第5エディションの表紙
(左)ぼかし(陰影)Relief 版は赤表紙
(右)アウトライン Outline 版は青表紙
photo from www.charlesclosesociety.org
 

第二次大戦後の動向については、次回詳述する。

本稿は、Tim Owen and Elaine Pilbeam, 'Ordnance Survey: map makers to Britain since 1791', Ordnance Survey, 1992; Chris Higley, "Old Series to Explorer - A Field Guide to the Ordnance Map" The Charles Close Society, 2011; Richard Oliver, 'Ordnance Survey maps: a concise guide for historians' Third Edition, The Charles Close Society, 2013 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
Ordnance Survey http://www.ordnancesurvey.co.uk/
The Charles Close Society https://www.charlesclosesociety.org/
National Library of Scotland - Maps https://maps.nls.uk/
Stanfords http://www.stanfords.co.uk/
Cassini publishing http://www.cassinimaps.co.uk/

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2020年2月14日 (金)

イギリスの地形図略史 I-黎明期

まずは下の絵葉書をご覧いただきたい。中央に配置されているのは、イギリスの測量機関オードナンス・サーヴェイ Ordnance Survey(略してOS)の創設200年を記念して1991年に発行された切手(4種セットのうちの1枚)の拡大図だ。オリジナルの24ペンス切手は右側に貼られ、初日印が押されている。

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OS創設200年記念切手の初日印はがき
 

地図は、イングランド南東部、ケント州にあるハムストリート Hamstreet という小村の18世紀末ごろの姿を描いている。これは、OSが創設後初めて刊行した1マイル1インチ地形図(以下、1インチ図という。下注)の一部分だ。

*注 実長1マイル(1609.344m)を図上1インチ(25.4mm)で表す地形図。分数表示では 1:63,360になる。

OSは、政府の一機関であった軍需局 Board of Ordnance(下注)の測量部門を発祥とする。Ordnance Survey という組織名もこれに由来しており、日本語に訳すときは旧 陸軍の「陸地測量部」を当てるのが慣わしだ。組織の成立過程は、イギリスにおける地形測量と地図作成がたどった歴史に他ならない。

*注 ordnance は、兵器などの軍需品を意味する言葉。軍需局はもともとロンドン塔にある王室の兵器庫の管理部局だったが、やがて陸軍や海軍に軍需品その他の装備を供給し、国内外の兵器庫や要塞を所管する大規模な政府組織に発展した。

話の発端は1745年、スコットランドで起きたジャコバイト軍の蜂起(下注)だ。そのとき、軍需局副局長であったデイヴィッド・ワトソン David Watson は、作戦用の詳細な地図の必要性を痛感していた。この地方を表す地図は1680年代の測量に基づくものしかなく、縮尺もまちまちで非常に不完全だったからだ。ワトソンは、カンバーランド公爵ウィリアムにそのことを進言した。

*注 1688~89年の名誉革命で追放されたカトリック勢力であるジャコバイト軍が、王位回復を狙って起こした内乱。

最後の戦い(カロデンの戦い Battle of Culloden、1746年)でイギリス軍が勝利した後、国王からの裁可が下り、カンバーランド公爵の命で1747年からスコットランドで軍用測量が始まった。実務の進行を委ねられたのは、ワトソンの有能な民間人助手であったウィリアム・ロイ William Roy だ。彼が率いた6個の測量隊による精力的な作業の結果、1752年にハイランドの大半が、1755年までにスコットランド南部の地図が完成する。図上1インチが実長100ヤードになる縮尺1:36,000で描かれたこの地図群は、後に「カンバーランド公爵図 Duke of Cumberland's Map」と呼ばれるようになる。

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カンバーランド公爵図 インヴァネス周辺
(c) The British Library Board
 

その後、ロイは英国陸軍工兵隊 Royal Engineers に籍を置き、イングランド南部その他の測量などに従事するが、とりわけ彼の名を高らしめたのは、晩年に指揮したグリニッジとパリの両天文台間の相対位置の測定、いわゆる英仏測量 Anglo-French Survey だ。1784年から1790年にかけて実施され、その結果、英仏海峡をまたぐ広域の三角測量網が構築された。

三角測量を始めるには、まず地上の見通しの利く土地に基線 Base Line を設定し、その正確な長さを測定する必要がある(下注)。最初の基線は、ロンドン西郊ハウンズロー・ヒース Hounslow Heath に設けられた。

*注 基線は測量の基準となる三角形の一辺。基線の長さが決まれば、その両端から見通せる任意の一地点への角度を測定して、地点の座標値(経緯度)を求める。

下図は、時代が下がって1945年の1インチ図だが、基線がまだ「General Roy's Base(ロイ将軍の基線)」の注記とともに破線の記号で描かれている。図にはまた、基線西側のヒースロー Heathrow 集落周辺に「Aerodrome(飛行場)」という注記が見つかる。第二次世界大戦後これが拡張されてイギリス最大の国際空港になり、今ではその敷地が基線を横断してしまっている。

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General Roy's Base の注記がある1インチ図
170 London SW 1945年
(c) The British Library Board
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上図と同じ範囲の現在図
基線の北端をヒースロー空港の用地が横断
Image from OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ロイは1790年に亡くなるが、1年後の1791年、軍需局は、彼が確立した三角測量網に基づき、イングランド南部の地図作成に着手した。作業に用いるラムズデン経緯儀が新たに購入され、OSの沿革年表はこのことをもって組織創設の承認としている。

イングランド南部を最初に手掛けた理由は、ほかでもない。海を隔てたフランスでその頃、封建制を崩壊させた市民革命、いわゆるフランス革命(1789~99年)の嵐が吹き荒れていたからだ。とどまるところを知らない勢いに周辺諸国は深刻な脅威を感じ、対仏同盟を結成して牽制した。1793年、イギリスはフランスから宣戦布告を受ける。南東海岸は、フランスが侵攻してきたときに防衛の最前線となるため、地図作成は急務だった。

1795年に、リッチモンド公爵 Duke of Richmond の資金により、進行中の測量成果を使ってサセックス州 Sussex の1インチ図が刊行されている。続くケント州 Kent の実測は1マイル6インチ(1:10,560)の精度で始めたものの、作業を加速させるために途中から1マイル3インチ(1:31,680)に落とされた。こうして描かれた原図は、1マイル1インチ(1:63,360)に縮小編集のうえ、銅版印刷に付された。

OS最初の1インチ図とされるケント州図4面は1801年に完成した。ただし、この図の刊行者名はOSではなく、サセックス州図と同じく宮廷地理学者W・H・フェイドン W. H. Faden だ(下注)。また、地図には隣接州域が描かれず、空白にされている。こうした仕様の違いから、後世の分類では、作業を指揮したOS長官ウィリアム・マッジ William Mudge の名にちなみ、「マッジ図 Mudge map」と呼ばれ、1インチ図の初期シリーズ「オールドシリーズ Old Series」には含まれない。

*注 OS自体が刊行するのは下掲のエセックス州図からだが、名義は「三角測量部 Trigonometrical Survey」だった。OSの名が初めて記載されるのは、1810年刊行のワイト島 Isle of Wight 図(オールドシリーズ第10面)。

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ケント州全図
マッジ図を1/2に縮小(=1インチ2マイル)し、原図4面を1面にまとめた集成図
1807年刊行のため、隣接する州のエリアも描かれている。

Image from http://www.mernick.org.uk/cc/kentmap/
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上図の部分拡大
 

テムズ河口の南側に位置するケント州の次は、河口北側のエセックス州 Essex が作成対象とされ、1805年に完成した。続いて1809年にはデヴォン州 Devon の図ができあがった。こうして1820年ごろには、イングランドとウェールズの1/3で図化が終了した。すでに1795年ごろには測量事業をイングランド全域、可能ならイギリス全土に拡大するという遠大な構想が立てられており、各図にはそれを踏まえた全国規模の図番が振られた。

その1820年、急逝したマッジの跡を継いで2代目のOS長官 Director General に就任したのが、トーマス・コルビー Thomas Colby だ。彼はマッジの助手として、以前から測量作業に携わっていた。

次の対象地域は、1801年にイギリスに併合されていたアイルランド島だった。測量は1824年から始まり、コルビーは現地に滞在して、直接指揮に当たった。新しい計測器具(下注)を導入し、地名の系統的な収集法を確立するなど、地図作成技術の進歩にも貢献した。長官職にありながらも、彼は相変わらず測量隊と、山野を渡り歩く長旅を共にする。そして作業が終わりに近づくと、巨大なプラムプディングを用意して山頂で慰労会を催すのを信条としていたという。

*注 コルビーの補正棒 Colby's compensation bars として知られる。

アイルランド島の計画は、全域を1マイル6インチの縮尺(以下、6インチ図)でカバーするという壮大な規模で、1846年までかかった。

冒頭で述べたように、地形図の作成は当初、軍事目的だったが、しだいに国内の民生需要も高まった。その背景の一つは、鉄道の建設ブームだ。知られているように、ジョージ・スティーブンソン George Stephenson が自作の蒸気機関車ロコモーション号で、ストックトン~ダーリントン間に鉄道を開業したのは1825年だ。続くリヴァプール=マンチェスター鉄道の成功で、1830年代半ばには最初の鉄道ブームが起き、1840年代には支線網の建設が熱を帯びる。こうした鉄道路線のプランニングに、OSの正確な測量図が活用された。

別の背景としては、1836年に成立した十分の一税転換法がある。これは古代からタイズ Tithe、すなわち十分の一税と呼ばれ継承されてきた物納制(下注)を、金銭での支払いに置き換える税制改革だが、実行には、課税対象となる土地の境界を示す地図の整備が不可欠だった。

*注 十分の一税は本来、土地の農作物や漁獲物の1割を教区牧師に寄進していたのが由来。修道院の解散等により、世俗地主がこれに代わった。

しかしそれには、1インチでは精度が足りず、アイルランドと同様に、グレートブリテン島でもより詳細な地図の必要性が叫ばれるようになる。1840年からOSは、6インチ図作成に着手する。翌1841年には陸地測量部法 Ordnance Survey Act が制定され、測量目的であれば測量士が私有地に立ち入ることができる法的権利が与えられた。

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6インチ図
Gloucestershire XXVIII.NE 1882~83年
This work is based on data provided through www.VisionofBritain.org.uk and uses historical material which is copyright of the Great Britain Historical GIS Project and the University of Portsmouth 

1854年からは農村部でさらに詳細な1:2,500(実長1マイルが図上25.344インチになるため、25インチ図と呼ばれた)の整備も始まった。この頃、どの縮尺を基本図とすべきかについては、6インチ派と1インチ派の間で長い論争があったものの、比較的広域を1面に表せる1インチ図は、これら大縮尺図からの編集で存続することになる。最終的にイングランドとウェールズで1インチ図刊行が完了するのは1870年、スコットランドでは1895年のことだ。

その後の1インチ図の展開については、次回に。

本稿は、Tim Owen and Elaine Pilbeam, 'Ordnance Survey: map makers to Britain since 1791', Ordnance Survey, 1992; Chris Higley, "Old Series to Explorer - A Field Guide to the Ordnance Map" The Charles Close Society, 2011; Richard Oliver, 'Ordnance Survey maps: a concise guide for historians' Third Edition, The Charles Close Society, 2013 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
Ordnance Survey http://www.ordnancesurvey.co.uk/
The Charles Close Society https://www.charlesclosesociety.org/
National Library of Scotland - Maps https://maps.nls.uk/
Stanfords http://www.stanfords.co.uk/
Cassini publishing http://www.cassinimaps.co.uk/

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2020年2月 4日 (火)

半額カードで鉄道旅行-オーストリアの場合

個人で行く海外旅行では、交通機関の乗車券をどう調達するかがいつも思案のしどころだ。駅で逐一買い求めるのは時間もかかって面倒なので、おなじみのユーレイルパスや国別パスについ頼ってしまう。

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オーストリアの半額カード「フォアタイルスカード66」
 

ユーレイルのグローバルパス(フレキシータイプ)の場合、Eurail.com(販売サイト)では3日用が 217ユーロだ(下表参照)。1日当たり 72ユーロ(1ユーロ120円として8,640円)になる。7日用でも1日 48ユーロ(5,760円)かかる。1か国パスはそれより割安だが、たとえばオーストリアの3日用は 146ユーロで、1日 49ユーロ(5,880円)だ。

ちなみに、首都ウィーンからの2等運賃は、リンツまで 37.40ユーロ、ザルツブルクまで 55.60ユーロで、オーストリアの3日用(1日 49ユーロ)ではザルツブルクまで片道300km以上乗らないと元が取れない計算だ。拠点の宿に荷物を置いて、軽装で周辺を回るという旅のスタイルなので、いくら楽でも、毎日5000円以上も交通費にかけるのはどうかと思う。

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ユーレイルパスと通常運賃の比較
 

もっと安く行ける方法はないのだろうか。それで思い出したのが半額カードだ。これは、事前にそのカードを購入しておき、出札窓口で提示すれば運賃が半額になるというものだ。ドイツやスイスの例は知っていたので、オーストリアにもないかと調べたところ、「フォアタイルスカード Vorteilscard」という名称で売られていた。ドイツ語の Vorteil は英語の advantage、merit に相当することばで、要するに「お得カード」という意味だ。

参考までに、ドイツ語圏3か国の旧 国鉄が発行している半額カードの内容をまとめてみた。

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ドイツ語圏3か国の「半額カード」比較
 

ドイツ「バーンカード BahnCard」

Bahnはここでは鉄道を意味する。代表的なものは25%引になる「25」、50%引の「50」、フリーパスの「100」の3種(下注)で、有効期間は1年だ。さらに期間を3か月に縮めた「プローベ・バーンカード Probe Bahncard」もある。Probeとはお試しという意味で、1年カードがけっこう高額なため、最初は3か月カードでお試しください、というシステムだ。したがって、継続する場合は自動的に1年カードが送られてくる。

*注 記載の通り割引率はさまざまだが、以下では「半額」カードの呼称で記述する。

■参考サイト
DB (in English) https://www.bahn.com/en/view/index.shtml
> Offers > BahnCard

スイス「ハルプタックス Halbtax」

英語では Half Fare Card、まさに半額カードだ。本来1年有効だが、インバウンドの旅行者向けに1か月有効のカードが用意されている。自国民は購入できないので、SBB公式サイトでは、説明書きが外国人向けページにのみある(下記参考サイト参照)。そこでネット購入が可能だ。

■参考サイト
SBB (in English) https://www.sbb.ch/en/
> Leisure & Holidays > Travel in Switzerland > International guests > Swiss Half Fare Card

オーストリア「フォアタイルスカード Vorteilscard」

「クラシック Classsic」と「66」の2種類があるが、後者はネット専用で、前者に比べて価格を2/3に設定した新商品だ。

ネット専用とは何を意味するのだろうか。一つには、このカード自体がネット経由でしか購入できないということだ。二つには、このカードを使っての乗車券の購入も、駅の窓口ではできず、スマホのアプリ、ウェブサイトまたは駅の券売機(アウトマート Automat)で行わなければならない(下注)。つまりこれは鉄道会社の窓口応対を減らすための企画商品だ。

*注 券売機では、購入手続の途中でカード所持の有無を問う画面が出てくるので、半額カードを所持していると答えればよい。この段階では自主申告になるが、列車内の検札で通常、乗車券とともに半額カードの提示を求められる。

こうしたカードは、(旧)国鉄路線の運賃が割引かれるだけでなく、私鉄、路線バス、市内交通でも何らかの割引が効くことが多い。また、国際列車の乗車券では、国外区間についても、各国の国鉄が締結している RAILPLUS協定により、一律15%引になる(下注)。

*注 従来25%引だったが、2016年から割引率が見直された。

なお、カードの解約(自動継続の解除)については、注意が必要だ。表の欄外に各国のルールを記したが、ドイツと、スイスの1年用は解約手続きをとらないと自動継続となり、登録したクレジットカードから料金が引き落とされ続ける。一方、スイスの外国人向け1か月用は1回限り(解約手続不要)。オーストリアも継続する旨の書面を提出しなければ、1回限りだ。

比較表で明らかなように、オーストリアの半額カードはかなりお得だ。ドイツのプローベ50は3か月有効で80ユーロ(9,600円)、スイスの外国人向けは1か月で109ユーロ(120スイスフラン、13,080円)するが、オーストリアは「クラシック」でも年間99ユーロ、「66」ならわずか66ユーロ(7,920円)で済む。

これで乗車券がすべて半額になるのなら、使わない手はないだろう。さっそくÖBB(オーストリア連邦鉄道)のサイトで「66」を申し込むことにした。

■参考サイト
ÖBB (in English) https://www.oebb.at/en/
> Tickets & Customer Cards > ÖBB Customer Cards > ÖBB Vorteilscard

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ÖBBの半額カード紹介ページ(英語版)
 

新規の場合、まずアカウントを作る画面が現れる。メールアドレスやパスワード、氏名などを登録する。続いて、生年月日や決済用のクレジットカード情報を入力する。

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アカウントの作成
 

こうして購入手続きが完了すると、メールが送られてきた。メールの添付ファイルの中に、「This is your preliminary ÖBB Vorteilscard(これがあなたの暫定フォアタイルスカードです)」と記されたPDF文書があった(下の画像)。半額カードは購入日の翌日から有効なのだが、プラスチック製の生カードはウィーンから郵送されてくるので、届くのに時間を要する(日本へは1週間前後)。それまでは、自分でプリントした暫定カードで代用できるのだ(ただし暫定カードの有効期間は2週間)。

私は、旅行出発の前日に慌てて購入手続をしたので、とうてい間に合わない。それでこれをプリントして旅先に持っていき、車内検札で提示した。生カードも、留守宅にちゃんと届いていた(冒頭写真)。

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暫定カード
 

次の課題は、このカードでどうやって切符を購入するかだ。駅の券売機で紙の乗車券を買ってもいいのだが、今回はスマホでモバイル乗車券を購入する方法を実践してみた。最近注目されている MaaS(マース、下注)の機能を有するシステムだ。

*注 MaaS (Mobility as a Service) は、情報通信技術を活用して移動手段をシームレス化する次世代交通システム。後述するとおり、ÖBBのシステムは、鉄道、バスなど公共交通機関を組み合わせたルート検索や乗車券購入が可能。

ÖBBはユーザサービス用のアプリを提供している。アプリストアで「Oebb(下注)」を検索し【画像1】、これをインストールした。詳細は省略するが、画面の指示どおり、さきほど登録したアカウントを入力すると、アプリに情報がセットされる。半額カードの番号も登録される。

*注 「Oe」は「Ö(オー・ウムラウト)」の代用文字。

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【画像1】専用アプリを検索
【2】初期画面はドイツ語、左上メニューから…
【3】アカウント情報の変更画面へ
 

アプリを起動すると、初期画面【画像2】はドイツ語だ。このままでは心もとないので、画面左上のメニュー > Mein Konto (My Account) 【画像3】から、 Deutsch(ドイツ語)【画像4】を English にした【画像5】。初期画面に戻ると、「Tickets and Services」と、表示が英語に変わっている【画像6】。

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【4】Deutsch(ドイツ語)を…
【5】Englishに変更、左上矢印から…
【6】初期画面に戻ると英語版に
 

では、試しに乗車券を買ってみよう。まず、乗車日とおよその時刻を入力する【画像7】。現在の時刻が表示されているので、これでよければこのまま、別の日時ならそのように修正する【画像8】。入力したら右上の DONE をタップする。

次に、出発駅と到着駅を入力する【画像9】。タイピングしていくと駅名の選択肢が表示される。この例は、ザンクト・ペルテン St. Pölten からキーンベルク・ガーミング Kienberg-Gaming という場所(バス停)まで、保存鉄道(イプスタール鉄道山線 Bergstrecke Ybbsthalbahn)に乗りに行ったときのものだが、このように鉄道だけでなく、路線バスの停留所も検索できる。

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【7】乗車日と時刻を入力
【8】入力したらDONEをタップ
【9】出発駅と到着駅を入力
 
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【10】切符の種類を選択
【11】旅程を選択
【12】切符のオプションを選択(ウィーン~リンツ間の例)
 

駅名を入力し終えると、この画面【画像10】になった。赤が片道乗車券、青は定期券、グレーは乗車券をすでに持っていて、座席指定だけする場合に使う。

片道乗車券をタップすると、候補となる旅程が複数表示される【画像11】。目的地は田舎につき、2時間間隔のローカル便(鉄道から路線バスに乗継)しかないが、主要幹線を経由するときはレールジェット(特急)などの優等列車も複数表示される。今回は、現実的な選択肢が8時05分発しかないから、これを選択しよう。

タップすると、次は切符のオプションを選択する画面になる(下注)。旅程に優等列車が含まれている場合、1等席へのアップグレードや座席指定ができる(座席番号は指定できない)【画像12】。目的地の市内交通乗車券なども一緒に買える。

*注 この時点で乗継時刻など行程の詳細を知りたいときは、画面下の「Journey Preview」をタップすると表示される。

2等の座席指定は本来3ユーロかかるが、半額カードのおかげでなんと1ユーロ(120円)だ。通常満席にはならないから自由席で十分とはいえ、日や時間帯によっては混雑する列車もありうる。その場合、画面に「座席指定を推奨します」と親切な注意書きが表示されるので、1ユーロを惜しまないようにしたい。

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半額カードと正規運賃の比較
【13】ザンクト・ペルテン~キーンベルク間
【14】ウィーン~ザルツブルク間
 

次はいよいよ決済だが、その前に、提示されている8.90ユーロはほんとうに半額なのか、というさもしい疑問がふと脳裏をかすめた。後で確かめてみると、ザンクト・ペルテン~キーンベルク間は、アプリの 8.90ユーロに対して、ÖBBサイトで検索した通常運賃は 14.90ユーロだった【画像13】。1-8.90÷14.90=0.403、約4割引で、半額には届かない。ただし、この旅程はローカル線と田舎のバス路線を乗り継ぐため、割引率が異なる可能性がある。

よりメジャーな区間で試すと、ウィーン~ザルツブルク間はアプリで 27.80ユーロ、ÖBBサイトでは 55.60ユーロだった。まさに半額だ【画像14】。他の区間でも調べてみたが、ローカルルートでは半額に達しないケースがあるものの、幹線系では看板に偽りはなかった。

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【15】乗車券を買う。買物かごに入れて
【16】支払ボタンをタップ
【17】購入完了
 

納得したところで、乗車券を購入しよう。右上の「Add to Basket(買物かごに加える)」をタップし【画像15】、次の画面で、「Pay now(今支払う)」をタップすると【画像16】、「Thanks for buying from us!(ご購入ありがとうございます)」と表示され、これで購入完了だ【画像17】。代金は、登録したクレジットカードから引き落とされる。乗車券は【画像17】の円で囲んだ矢印をタップすると表示されるが、もし間違って買ってしまったというときは、3分以内なら「Undo purchase(購入を取消す)」でキャンセルできる。

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【18】乗車券。下の方にアズテックコード(画像を加工)がある
【19】座席指定した場合の乗車券
【20】指定席券
 

乗車券はドイツ語表記で、英語版はない。下へスワイプしていくと、QRコードのようなもの(名称はアズテックコード AztecCode)が見える【画像18】。車内検札ではこれを見せると、車掌が手持ちのタブレットで読み取ってくれる。

座席指定も選択した場合は、乗車券画面の右上に1/2と表示されており【画像19】、2/2が指定券になっている【画像20】。指定券の列車番号、車両番号、座席番号(Fenster=窓側、Gang=通路側)を確認して、席につこう。

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【21】購入後の初期画面。購入済みの切符の情報が表示される
【22】旅程の詳細表示
 

購入した切符の情報は、アプリを立ち上げたときの初期画面にも表示されている【画像21】。それで「発車まで12分、ホームは6番C-D」という表示を気にしながら、駅へ向かうことになる。これをタップすれば、乗継ぎや発着ホーム、さらには遅延状況など旅程の詳細も確認できる【画像22】。また、万一予定の列車に乗り遅れた場合でも、2時間以内に発車する列車であれば、乗車券は有効だ。

このアプリの長所は、ルート選択と乗車券購入がリンクしており、しかも半額割引が自動で適用されるという点だ。また、レールパスでは対象外の、市内交通(地下鉄・トラム・バス)や地方の路線バスにも対応している。これなら間違った切符を買ってしまうリスクはまずないし、宿にいるうちに購入手続を完了しておけば、列車の発車時刻を見計らって宿を出ればよい。窓口や券売機の前に並ぶ時間を見込まなくていいのは、大きなメリットだ。

ただし、乗車券の情報はすべてスマホに格納されているから、当然のことだがスマホの紛失や破損、そうでなくても電池切れには要注意だ。また、山間部では通信圏外、繁忙期にはÖBBサイトの混雑という可能性もあるので、乗車中は、不意にやってくる検札に備えて、乗車券画面を裏画面で立ち上げたままにしておくのが望ましい。

最後に、半額カード利用の総決算をご報告しておきたい。本当にお得だったのかどうかの検証結果だ。

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半額カード利用の総決算
 

今回、主としてオーストリアと周辺国を正味13日間旅したが、ÖBBに支払った金額は、カード購入費用 66ユーロと運賃 327ユーロで、計 393ユーロだ。正規運賃を計算すると 557.50ユーロになるので、差引 164.50ユーロ、円換算で約2万円節約できたことになる。支払運賃が正規の半額に届かないのは、割引率が異なる国際列車の乗車券や市内交通の乗車券などもこれで購入したからだ。

ちなみにユーレイルの国別パスを使ったとすると、少なくとも10日分、519ユーロ必要になるので、半額カードによる支払額を超える。加えてバス・トラムや国際列車の国外区間などは別途支払うことになるから、正規運賃の 557ユーロをも上回ってしまうことは確実だ。

このように、一括前払い型のレールパスほどの簡便さはないものの、コストパフォーマンスの点で半額カードは圧倒的だ。また、毎回乗車券を購入するという面倒な手続きも、モバイル乗車券というツールを使うことでかなり軽減されることがわかった。旅費の節約をお考えなら、試してみる価値はあると思う。

2020年1月 4日 (土)

新線試乗記-相鉄・JR直通線

JR武蔵小杉駅の3・4番線ホームに立っていると、さまざまな色と形の列車が次々に入ってきて見飽きることがない。青とクリームのストライプを引いた横須賀線電車や、オレンジと緑の湘南新宿ラインは日常風景だが、ときには伊豆へ向かう「スーパービュー踊り子」や、成田空港行きの「成田エクスプレス」といった特急列車も停車して、人目をさらう。

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武蔵小杉駅に入る相鉄12000系電車
 

ここにもう一つ新顔が現れた。相模鉄道、略して相鉄(そうてつ)の12000系だ。朝9時51分発の海老名(えびな)行きを待っていたら、ちょうどそれがやってきた。光沢を帯びた紺色(ネイビーブルー)を全身にまとい、ボンネット車のラジエーターのような異色のフロント装飾をもつ車両で、その色あいから、関西の人間には一瞬、南海電鉄の特急ラピートを連想させる。個性的な外見に対して、車内はごく普通の通勤電車、というイメージの落差もおもしろい。

2019年11月30日、相鉄線とJR線を連絡するルートが開通して、相互乗入れが開始された。相鉄線の西谷(にしや)から東海道貨物線の横浜羽沢駅構内まで長さ2.7kmの新線(下注)が建設され、これにより、相鉄の12000系とJR東日本のE233系が海老名と新宿(一部延長あり)の間を往復する。

*注 相鉄・JR直通線と呼ばれるが、正式には相鉄新横浜線の一部。

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相鉄路線図にJR線(緑)が加わった
 

ずっと横浜駅をターミナルにしてきた相鉄の電車が都心に進出するという画期的な事件だ。最近では副都心線を介した東急と東武のそれのように、相互乗入れが始まると、見慣れていた鉄道風景が変わり、驚きやときには違和感を覚えるのが常だが、特にこれはふだん東京で見かけない電車だ。関西で例えれば、神戸市内で止まっている神戸電鉄がJR線に乗り入れて、大阪や京都まで直通するようなものだろうか。

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相互に乗入れる相鉄12000系(左)とJR東日本E233系(右)
羽沢横浜国大駅にて
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武蔵小杉駅が分岐駅に
 

発表資料によれば、このルートで上下合わせて92本が運行されるという。従来、相鉄沿線から新宿に出るには、横浜でJRか(副都心線直通の)東急に、または大和や海老名で小田急線に、どのみち一度は乗り換える必要があったから、直通列車出現のインパクトは大きいはずだ(下注)。

*注 ただし、沿線西部は引き続き、JR直通線より小田急経由のほうが、時間的にも運賃上も有利だ。

期待に胸を膨らませて乗り込んだら、客は1両につき数人しかいなかった。10両編成はこの辺では「短い」列車なのだが、それでも持て余すほどの閑散さだ。朝の通勤ラッシュが終わった時間帯、郊外方面行きに加えて、開業からまだ5日目(12月4日)で利用者が定着していないという事情もあるのだろうが。

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海老名行き車内は閑散
 

次の停車駅は、新線上に開設された羽沢横浜国大(はざわよこはまこくだい)だが、なんと18分もかかる(下注)。武蔵小杉を出ると、すぐにポイントを渡って貨物線に移ってしまうからだ。鶴見機関区の側線に並んだ機関車や貨車が、車窓のそばをかすめ去る。新川崎と鶴見の両駅は、貨物線に旅客ホームがないので、あっさりと通過した。旅客列車では小田原直行の「湘南ライナー」などにしか使われていない迂回ルートだが、今後は身近になる。

*注 所要時間は、列車によって15~20分と幅がある。

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(左)JR貨物の鶴見機関区が車窓をかすめる
(右)鶴見線の下で上りの12000系とすれ違い(下り列車から後方を撮影)
 

鶴見駅の後、左から接近してきた京急線と並行するが、こちらはまもなく地下に潜っていき、長いトンネル区間に突入した。再び空が見える頃には、横浜羽沢の貨物ターミナルが近い。減速してポイントを右へ渡り、貨物線をアンダークロスすると、前方に、安全柵が完備された真新しいホームが見えてきた。

羽沢横浜国大駅は、相鉄が管理するJR東日本との境界駅だ。発着ホームは掘割の中にあり、コンコースが地上に面している。開業のニュース映像では人が溢れていた駅も今日は静かで、カメラを構える物見客がぽつりぽつりといるばかりだ。

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羽沢横浜国大駅ホーム
東京方を望む
 

下車して、構内を観察してみた。駅のサインボードは、ネイビーブルーの相鉄仕様で、停車駅案内には、相鉄路線網に緑でJR線が描き加えられている。新宿から先も大宮、川越まで記されているのは、朝の時間帯に、埼京線の始発駅を起終点とする列車があるからだ。稠密ダイヤで、新宿折り返しが難しいらしい。

エスカレーターでコンコースに上がる。改札前の列車案内板は、片方が各停新宿行、もう片方が特急海老名行にきれいに分かれていた。この駅を境に列車種別が変わるためだ。相鉄線内ではJRの通勤電車も特急へと、何階級もの特進を遂げるのがおもしろい。

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同 コンコース
 

券売機の上方に、両社の運賃表が掲げられている。JRの運賃表は、実際の停車駅に従い、羽沢横浜国大から武蔵小杉へ線をつなげてあり、運賃は310円だ。ところが、実際の運賃は鶴見経由で計算されるので、鶴見のほうが割安で170円。鶴見線など周辺も軒並み安く、お得感がある。

駅前には市道環状2号線が通っているが、商業施設や宅地は見当たらない。バス停の時刻表にも、新横浜駅と保土ヶ谷駅を結ぶ便が1時間に1本程度あるだけだった。

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同 正面玄関
 

駅の北側には、貨物ターミナルをまたぐ歩道橋が架けられている。ターミナル内の列車の動きが見物できるが、金網のせいで写真は取りづらい。駅名が示すとおり、南方に横浜国立大のキャンパスがあるので、歩道橋は通学路としても使われることになるのだろう。一帯は丘陵地のためアップダウンは避けられないが、相鉄本線の和田町駅から上る坂道ほど険しくはないし、距離も若干短そうだ。

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(左)貨物ターミナルを横断する歩道橋
(右)歩道橋の金網越しに見る荷捌き施設
 

駅に戻り、改めて時刻表を眺める。列車本数は1時間当たり朝夕3~4本、日中は2本で、相鉄の他路線に比べて圧倒的に少ない。地方路線ならいざ知らず、このエリアで次の列車まで30分待ちというのは、頻発ダイヤに慣れた市民には物足りないに違いない。JR側で既存列車との調整を必要とするという事情もあろうが、それより3年後に予定されている東急直通列車のスジを空けてあるというのが本当のところだろう。

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羽沢横浜国大駅の下り時刻表
 

知られているとおり、相鉄の都心直通計画は、今回のJR連絡線と、次にできる東急連絡線との2本立てになっている。後者は、羽沢横浜国大から新横浜を経て、東横線の日吉に至る新線(相鉄新横浜線および東急新横浜線)だ。現在日吉が終点になっている目黒線と相互乗入れを行うので、実質的に目黒線の延伸を意味する。

これが完成すると、新横浜で東海道新幹線と地下鉄ブルーラインに連絡し、目黒線直通の東京メトロ南北線や都営三田線で、永田町や大手町へのルートも開ける。また、日吉~田園調布間で同じホームの東横線に乗り換えれば、JR直通線によって実現した渋谷や、副都心線経由で新宿(三丁目)にも到達できてしまう。

計画では、列車本数が1時間当たり朝ラッシュ時に10~14本、その他時間帯に4~6本とされているから、JR直通よりずっと多い。羽沢横浜国大駅北側にある東急/JRの線路分岐(ポイント)を見ても、前者が直進、後者は速度制限のかかる側方分岐だ。東急方面の運行が主であることを暗に示している。

そして運賃も、より低く設定されることだろう。そもそも距離が短いし、仮に新線に加算運賃が設定されるとしても、東急としては、先行開業したJRに対抗できる水準に抑えるのが営業政策上、必然だからだ。そうなると、相鉄の長年の悲願と言われているJRへの乗入れは、数年後には早くも脇役に後退してしまうのかもしれない。

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(左)羽沢横浜国大駅の東京方分岐
  直進する中央の複線が東急方面、左右の分岐がJR方面
(右)西谷トンネルを行く
 

羽沢横浜国大駅から、今度はE233系に乗って、新線の残り区間を行く。その大半を占める長さ14.5kmの西谷トンネルは、シールド工法による複線トンネルで、かぶりつきで見ていると、けっこう上り下りがある。最後の上りで外の明かりが見えてきて、地上に出るとすぐに西谷だった。

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(左)トンネルの出口で相鉄本線と出会う(下り列車から後方を撮影)
(右)西谷駅に停車中のE233系は海老名行き「特急」
 

JRの電車で相鉄本線の駅に着くということは、いつのまにか横浜より西へ来たわけで、なかなか新鮮な感覚だ。めったに乗らない者でもそうだから、ふだんの利用者にとってはなおさらだろう。西谷は2面4線の駅だが、従来待避線だった外側2線が、直通線に接続された。それで、ホームの進行方向左側が新宿連絡、右側が横浜連絡と明確に分けられている。日中はまだのんびりした空気の漂う左側だが、3年後はどうなるのか今から楽しみだ。

こちらの勝手な夢想をよそに、特急の表示を掲げたE233系は、一路目的地の海老名へ向け、静かに走り去った。

■参考サイト
相鉄・JR直通線、相鉄・東急直通線 http://www.chokutsusen.jp/

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 新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

2019年12月24日 (火)

新線試乗記-ゆいレール、てだこ浦西延伸

飛行機で空港に到着した後、モノレールに乗って市内へ向かう。羽田や伊丹のように、沖縄の那覇空港でもこれがふつうの光景になっている。ただ、実現したのはそれほど古い話ではなく、2003年8月のことだ。その後、国内でこの種の新規開業はない(下注)ので、沖縄都市モノレール、愛称「ゆいレール」は、今なお最新のモノレールということになる。

*注 既存路線の延伸であれば、東京モノレール(2004年)、大阪モノレール彩都線(2007年)の例がある。後者については「新線試乗記-大阪モノレール彩都線」参照。

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那覇空港駅へ向かうゆいレールの列車
 

そのゆいレールが、今年(2019年)10月1日、待望の延伸を果たした。那覇空港~首里(しゅり)間12.9kmの既存区間に、首里~てだこ浦西(うらにし)間4.1kmが加わり、その結果、長さでは多摩都市モノレールを抜いて、大阪、東京に次ぐ全国3番目の規模になった。先日(12月18日)初乗りする機会を得たので、既存区間のようすを含めて見ていこう。

那覇空港駅は、空港ターミナルの出発ロビーがある2階からデッキで直結している。ゆいレール展示館を見学して戻ってきたら、大型のスーツケースを転がしたインバウンドの旅行者が、改札前に集まっているところだった。その集団に混じって、2日乗車券を購入する(下注)。正確に言うと48時間券で、たとえば正午に買えば、翌々日の午前中までフルに使える。時間制のフリー切符は、諸外国では見かけるが、国内では珍しい。

*注 2日券は大人1400円。1日(=24時間)券もあり、こちらは800円。

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那覇空港駅
(左)空港とはデッキで直結
(右)日本最西端の駅の碑
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券売機上の運賃表
 

もう一つ珍しいのは、改札機がQRコードの読み取り方式になっていることだ。空港のチェックインではすでにおなじみだが、鉄道界では先駆者だろう(下注)。ただ、切符を裏返し、表面に印刷されているコードを改札機の読み取り部に当てるという動作は、慣れないと一瞬足が止まる。

*注 JR東日本が、来年(2020年)開業する高輪ゲートウェイ駅で試験的に導入するという報道があったばかり。

もとより、日常的にゆいレールを利用している人は、地元のICカード「OKICA(オキカ)」を持っている。操作に手間取っているのは、主に外から来た旅行者だ。それに、来年(2020年)春にはSuicaなど全国の交通系ICカードも使えるようになるそうだから、改札での当惑は解消に向かうのだろう。

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駅のシーサー、改札付近に必ず1対
上列中から首里駅、那覇空港駅
下列左から浦添前田駅、市立病院前駅、壷川駅、経塚駅
 

その改札の上で睨みを利かすシーサーに見送られて、エスカレーターでホームに上がった。列車は14m級車両が2両の小編成で、スーツケース牽きの客が集中するとたちまち混雑する。車端にあるクロスシートの展望席を狙いたかったので、乗車を1本遅らせた。日中でも8分間隔で出発しているから、大した時間のロスにはならない。

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(左)2両編成
(右)車端は展望席
 

空港駅を後にして、ゆいレールは最初、那覇市街とは反対の南へ向かう。車両基地へ引き込まれるレールが右へ分かれていく。同じ敷地内に、ゆいレール展示館もある。今回の延伸に関するものはなかったが、戦前の鉄道網など沖縄の鉄道全般にわたる資料が貴重だ。

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那覇空港駅から南方を望む
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ゆいレール展示館
 

自衛隊の基地を右に見ながら緩い上り坂を3分ほど走ると、日本最南端の鉄道駅である赤嶺(あかみね)に着いた。駅前南側のロータリー(交通広場)にそのことを示す碑が立っていて、高架ホームに停車中の電車をも画角に入れて記念写真が撮れる。

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日本最南端の駅の碑がある赤嶺駅
 

この後は周囲がすっかり市街地になるため、乗客も増える一方だ。小禄(おろく)、奥武山公園(おうのやまこうえん)を経て、国場川(こくばがわ)の上空で左に急カーブすると、壷川(つぼがわ)駅。少しの間、河岸に沿って走るので、穏やかな水辺と公園の緑が織りなす潤いのある景色が目に優しい。途中下車して、川向うの公園側から、列車が涼しげに通過するようすを眺めるのもいいだろう。

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壷川駅と国場川
 

国場川から右折して久茂地川(くもじがわ)に入り、旭橋(あさひばし)駅に着く。駅の東隣に位置するバスターミナルは、戦前、沖縄県営鉄道の那覇駅があった場所だ。軌間762mmの軽便鉄道で、「ケービン」の名で親しまれたが、沖縄戦で破壊され、戦後も再建されることはなかった。

2015年に始まったバスターミナルの再開発工事中、その駅跡から転車台の遺構が発見された。これが旭橋寄りに移設の上で、今年6月から公開されている。説明パネルとともに復元模型も置かれ、実物を知らない一般市民にもイメージできるよう工夫された展示だ。

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久茂地川上空を行く列車
旭橋駅から撮影
 
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県営鉄道那覇駅の遺構
(左)発掘された転車台
(右)復元模型

街なかのお堀のような久茂地川に沿いながら、ゆいレールは那覇の中心部を通り抜ける。次の県庁前は、県庁や那覇市役所、国際通りなどの最寄りで、乗降客が最も多い駅だ。その手前で、線路が川の流路に合わせてクランク状に曲がっている。前面車窓も変化があるし、駅のホームから眺めるのも楽しい。

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県庁前駅手前のクランク
 

美栄橋(みえばし)を経て、牧志(まきし)では国際通りの上空を横断する。ゆいレールの描くルートは激しいジグザグ形で、まるであみだくじの線をたどるようだ。とりわけ牧志から安里(あさと)駅へは、直角どころか130度も転回する。国道330号、いわゆる「バイパス」の上空を行くと、次はおもろまち。米軍住宅地区の返還後に整備された新都心の玄関駅で、周囲の建物も余裕のある建て方がされ、旧市街とは受ける印象が違う。たくさん下車して、車内はかなり空いた。

古島(ふるじま)の後、直角に曲がって東へ。市民病院前駅の手前からは、首里のある高台へ向けて急勾配を上り始める。首里の町は標高が100m前後あり、戦前、那覇市内から首里に通じた路面電車は、S字ループを繰り返して高度を稼いでいた(下注)。しかし、比較的勾配に強いモノレールは、環状2号線の上空を直線的に上っていく。振り返れば、市街地の向こうに海も覗く。

*注 1911(明治44)年開通、1933(昭和8)年廃止の沖縄電気軌道。ゆいレールとはルートが異なり、古来の街道である坂下通りに沿って上っていた。

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市民病院前から首里駅へは急勾配の連続
(左)市民病院前、橋脚の高さは約20m
(右)儀保駅からも滑り台のようなルート
 

儀保(ぎぼ)駅まで来ると、右の車窓に、去る10月31日の火災で建物の多くを失った首里城の、長く連なる石垣が望める。さらに上って左に曲がれば、これまで終点だった首里駅だ。

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これまでの終点、首里駅
 

ここからいよいよ新規開業区間に入る。車内は今や、ロングシートに5~6人といった状況だ。首里城の北側に広がる市街地をまずは下る。石嶺(いしみね)駅を経て少し行くと、モノレールをまたぐ高い陸橋が見えてくる。ここが市境で、ゆいレールは那覇市を出て、浦添市域に入る。ちなみに陸橋は現時点では未供用で、現地に行ってみたが期待したような眺望でもなかった。

右折して着く経塚(きょうづか)駅は、駅名と合わせたわけでもないだろうが、霊園の前だ。下を走る市道は、組踊の創始者玉城朝薫の墓がある小山を前田トンネルで抜ける。一方のゆいレールは高架のまま、山を避けて右に回り込む。

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(左)高い陸橋が市境の位置
(右)経塚駅、ゆいレールは道路トンネルの上を迂回
 

下りていく長い坂からは、浦添城址のある小高い丘が正面になる。右折すると、浦添前田(うらそえまえだ)駅だ。駅前ロータリー(交通広場)や北側の乗降階段はまだ工事中で、雑然としていた。周辺整備よりも開通を急いだのだろう。

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浦添城址から南方を望む
画面左外に浦添前田駅がある
 

反転して少し上るものの、すぐに道路の間の掘割に潜り込んでいく。沿線唯一のトンネルを抜ければ、終点のてだこ浦西に到着だ。

「てだこ」とは、太陽の子を意味するそうだ。浦添市のサイトによれば、「琉球第二の王統として栄えた英祖王の敬称でもありました。父親は恵祖(伊祖城主)で、その妻は太陽が懐に入る夢を見て、英祖を身籠ったといわれ、その神号が「英祖のてだこ」となりました」。伝承では、その居城が浦添城だ。「てだこ」の名は市の施設や行事の名によく使われていて、駅名もその一環なのだろう。

■参考サイト
てだこ浦西付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/26.241800/127.741900

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(左)トンネルを通過
(右)トンネルを抜けると終点
   てだこ浦西駅から撮影
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てだこ浦西駅
駅手前に渡り線がある
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同 改札

地図を見ると、駅周辺に団地が点在するのだが、駅前は整備工事たけなわで、商店らしきものも見当たらない。唯一営業していたのは、北側に造られた約1000台収容可能という2階建駐車場だ。見に行くと、フロアのほとんどが車で埋まっていた。

ひと気の乏しい場所に終点駅を置いた理由がここにある。那覇市内の道路は渋滞するため、車を置いてゆいレールで市内へ向かうパークアンドライドが推進されているのだ。路線を琉球大学方面へ延伸する構想もあるものの、当分は始発駅なので、着席できる確率が高い。乗換えの手間さえ厭わなければ、賢い選択だ。

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(左)パークアンドライドを知らせるポスター
(右)駅前は整備工事たけなわ
 

また、すぐそばを沖縄自動車道が通っており、スマートICを新設する計画もある。これによって空港から直接レンタカーで北部へ向かっている観光客を、ゆいレールでここまで誘導することが考えられているそうだ。モノレール利用なら、帰りに那覇市内へ立ち寄ってもらいやすい、ということもあるだろう。

最初の開通から16年、ゆいレールは時間の読める交通機関としてすっかり定着し、さらに最近、国外からの旅行者が加わって、朝夕はとりわけ混雑が激しくなっていると聞く。80万人を超える那覇都市圏に、2両で走る鉄道路線が1本だけというのは、交通インフラとして確かに貧弱だ。路線延伸の次は、列車編成の3両化が進められるようだが、さらなる路線網拡充にも取り組んで、都市の魅力をより高めてもらいたいものだ。

■参考サイト
ゆいレール https://www.yui-rail.co.jp/

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2019年12月16日 (月)

コンターサークル地図の旅-三田用水跡

東京はその日一日、雨模様だった。ひどくはないものの、上着のフードだけでは濡れ鼠になるような降り方だ。加えて時おり強い風が街路を吹き抜けて、広げた傘を大きくゆさぶった。

2019年11月23日、コンターサークル秋の旅の3回目は、京王線の笹塚(ささづか)駅改札前に集合する。参加したのは、今尾、中西、大出、木下さん親子、木下さんの友人のKさん、そして私の大6、小1、計7名。こんな日でも厭わず集まるのは、雨には雨のおもむきがある(下注)というサークルの創始者、堀淳一さんの考え方、いわば「堀イズム」がメンバーに浸透している証しだろう。

*注 「私の「地図歩き」は全天候型の旅で、雨が降っても風が吹いても濃霧がかかっていても、かまわずに歩きます(中略)。雨なら雨の、風なら風の、霧なら霧の、晴れた日には味わえないそれぞれの味わい--晴れた日よりもむしろ深い、陰翳に富んだおもむき--があるからです。」(堀淳一「消えた街道・鉄道を歩く地図の旅」講談社+α新書、2003年、p.21)

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(左)雨をついて笹塚駅に入る京王線の電車
(右)笹塚駅10時集合
 

本日のテーマは、江戸の六上水、すなわち6本の上水道の一つであった三田(みた)用水だ。下北沢村(現在の世田谷区北沢五丁目)で玉川上水から分水され、およそ南東方向に三田方面まで延びていたので、その名がある。

1664(寛文4)年に飲用水を取るために開かれたが、1722(享保7)年に廃止、2年後に灌漑用水として再開された。明治に入ると、火薬やビール製造など工業用水としても利用され始め、次第にその比重が増していった。しかし、都市化の進行で農地が縮小し、工場も上水道に切り替えたことから、1974(昭和49)年に取水が中止され、300年の幕を閉じた。

用水が通っていたのは武蔵野台地の末端、目黒川の谷と渋谷川(および支流の宇田川)の谷を隔てる台地(淀橋台南部)の上だ。分水口から南下した水路は、駒場東大の北側を通り、山手通り、旧山手通り、防衛省用地を経て、目黒駅前に至る。ここで東へ転じて、目黒通りから桜田通りのほうへ進み、後は暗渠となって、旧道(二本榎通り)の下を三田へ流れ下っていた。

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1:25,000地形図と陰影起伏図に歩いたルート(赤)と水路の位置(青の破線)等を加筆
笹塚~代官山間
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代官山~高輪台間
図中の水路の位置は、旧版1万分1地形図中野、世田谷、三田、品川の各図幅を参照した
 

機能停止の後、跡地は宅地や道路に転用されてしまったので、もはや水路の形では残っていない。しかし、ルートに沿って街路をたどれば、住宅や空地が線状に並んでいる個所がある。用水の記念碑や、かろうじて撤去を免れた道端の遺構も見つかる。そうした痕跡を訪ね歩くうちに、なみなみと水を運んでいた水路のさまが見えるような気がするから不思議だ。

私たちは、用水が桜田通りと出会う都営浅草線高輪台駅をゴールに見据えて、笹塚駅を出発した。今尾さんの案内で進む。玉川上水に沿って南へ200m、笹塚橋のすぐ下手に、三田用水の分水口があった。もちろん水路の分岐は現存せず、上水の西側の用地が三角形に膨らんでいるので、それとわかるだけだ。

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三田用水分水口
(左)右奥の三角形の敷地がその跡
(右)分水口から上流を望む
 

「ここからしばらく玉川上水と並走していたんですが、宅地に取り込まれてしまってます」と今尾さん。早くも目標喪失だが、玉川上水の緑道をそのまま歩いて、都道420号(中野通り)と井の頭通りが交わる大山交差点に出た。

そこから南は道路の拡幅工事中で、とぎれとぎれの歩道を伝っていかねばならない。進行方向右側に細長い宅地の列が沿っているから、おそらくこれが用水跡なのだろう。小田急の地下化された東北沢駅を左に見て、少し行くと三角橋交差点だ。川のない台地上にも橋のつく地名があるのは、用水が通っていたからに他ならない。

航研通りに入り、しばらく東へ進む。東大生産技術研究所のいかめしい門の前から200mほどで、用水跡は一つ北の小道に引っ込む。そして再び大通りと合流するところに、二ツ橋と記されたバス停標識が立っていた。これも橋の名だ。東大教養学部(駒場地区キャンパス)の裏手で、地震が来たら危なそうな高いブロック塀が続いている。

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二ツ橋バス停
 

ほどなく山手通りの広い空間に出た。道路の中央に、巨大な塔が3本突っ立っているのが目につく。首都高速の山手トンネルの換気塔だ。歩道と東大の敷地との間に細長い敷地が延びていて、商業ビルや駐車場に使われている。これも用水跡だなと思って歩いていくうち、歩道より一段高いコンクリートの構造物が露出しているのに気づいた。用水跡歩きのウェブサイトで見た覚えがある。「これって痕跡ですよね」。取っ手付きの点検蓋もあるが、周辺に謂れを記したものとてなく、果たしていつまで残るだろうか。

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山手通り
(左)歩道脇に露出する構造物
(右)点検蓋や分水口も残る
 

間もなく、用水跡はビル裏の路地に入ってしまう。そちらに回ると、同じような帯状の敷地に、建物が窮屈そうに整列していた。山手通りのそれといい、土地がもつ記憶は容易に消えるものではない。京王井の頭線をまたいでまもなく、曲がってきた山手通りにぶつかる。ところが、渡れる横断歩道がなく、松濤二丁目の交差点までかなり迂回を強いられた。

神泉町から代官山にかけては台地の開析が進んでおり、用水跡は稜線、すなわち馬の背のような場所を通っている。そのため、交差する道は左右どちらも下り坂だ。とりわけ西の目黒川の谷壁は急斜面で、坂道は険しく、階段道さえ見られる。また、稜線は、河川と並んでしばしば行政界として用いられるので、用水跡が渋谷区と世田谷区、目黒区との境界に沿っているのも偶然ではない。

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(左)帯状の敷地に建つ建物の列
(右)目黒川の谷に降りていく階段道
 

「ルートから少しそれますが、記念碑がありますよ」と誘われたので、そちらに向かう。山手通りに面したマンションの植え込みの中に、細身の石碑が立っていた。傍らの説明板によれば、渋谷道玄坂から調布へ向かう古道「滝坂道」が用水を渡る場所に、かつて石橋が架かっていた。碑も本来そこにあったもので、近隣十三か村の住民が堅牢な石橋に感謝して建立したものと推測されるという。

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青葉台四丁目の石橋供養塔碑
 

そのうちに正午を回ったので、神泉町交差点の中華料理店に入った。テーブルではいつもの鉄道話で盛り上がる。初参加のKさんが、「みなさん鉄道にお詳しいんですね」と驚く。「地図のサークルなんですが、なぜか鉄道ファンが多いんです」と私が言うと、「地図と鉄道はいろいろと関係してますからね」と今尾さんがフォローしてくれた。

食事後は、再び用水跡の細い裏通りを歩いていく。裏通りといっても場所が場所だから、両側には目を見張るような豪邸の長い塀が続いている。まもなく西郷山公園の緑が見えてきた。西郷隆盛の弟従道(つぐみち)の別邸だったところだ。晴れていれば目黒川の谷を一望できるのだが、今日は雨に煙っている。だが、このしっとりした情景も悪くない。

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西郷山公園、紅葉の広場も雨に煙る
 

西郷橋からは旧山手通りに出た。ご存じの蔦屋書店をはじめ、おしゃれな店が軒を連ねる地区で、お上りさんの私は目を丸くしながら歩くのみだ。考えてみれば、この代官山といい、これから行く白金台といい、三田用水はセレブなエリアを貫いている。工業用水の比率が高まると、汚染を嫌って、水路は昭和の初めにほとんど暗渠化されてしまった(下注)が、そうでなければ、玉川上水のような木陰の散歩道に転換できていたかもしれないと思う。

*注 昭和10年代の1万分1地形図では、恵比寿のビール工場より上流で開渠のまま残されているのは、鎗ヶ崎交差点~火薬製造所間のみ。

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旧山手通り
(左)西郷橋を渡る
(右)用水があればこの歩道も水辺の散歩道になったかも
 

残念なことに、用水の追跡は、駒沢通りと交わる鎗ヶ崎(やりがさき)交差点で中断される。この先は水路に沿う道がなく、さらに防衛装備庁艦艇装備研究所の用地に入っていくためだ。「跡をたどれないので迂回します」と今尾さん。

私も、歩く区間の地理院地図を印刷してきているのだが、インクジェットのため、雨でにじんで、もはや細部が消えつつある。その点、今尾さんはスマホで、何と東京時層地図のアプリを仕込んでいた。にじむ心配がないどころか、旧版地形図を時代ごとに比較できるから、遺跡探索には強力なツールだ。

途中、研究所内の長大水槽を覆う建屋をフェンス外から眺めることで、この区間の探索に代えて、新茶屋坂に出た。道路が、長さ約10mのトンネルで用水の下を抜けていたという場所だ。しかし、道路の拡幅に伴い、トンネルは2003年に撤去され、今は南側の歩道脇に、銘板と記念碑だけが残されている。

新茶屋坂の南側から、再び用水跡の小道が始まった。目黒三田通りとは薄い角度で交差するが、その交差点前にある日の丸自動車教習所の前を通り過ぎようとしたとき、大出さんが次の記念碑を目ざとく見つけた。丸石が2個埋められ、後ろにずばり「三田用水跡」と題した説明板がある。それによれば、この石は用水の木樋を支えていた礎石だそうだ。

「ビール工場の原料水にも用いられたと書いてありますよ」。今はガーデンプレイスになっているサッポロビール(旧 日本麦酒)恵比寿工場のことだ。「それだけ用水の水質が良かったということですね」と感心する。

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日の丸自動車教習所前の記念碑
 

山手貨物線で3か所しかない踏切の一つという長者丸踏切や、切通しに優雅なアーチを架ける白金参道橋で、マニアックな関心を満たした後、目黒駅前の陸橋で山手線を渡った。用水跡は目黒通りの南を走っているのだが、それに沿う道が寸断されているため、私たちは目黒通りを直進した。

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長者丸踏切
(左)山手線と貨物線の交差地点
(右)目黒駅方に白金参道橋のアーチが見える
 

白金台三丁目には、遺構がいくつかある。一つ目は今里橋の跡だ。白金台幼稚園の手前で小道が用水を渡っていた場所で、橋の欄干が片側だけ、道端に半ば埋もれた形で残っている。側面に回ると、水道管もいっしょに水路をまたいでいた。なるほどこれがあるために、欄干は撤去されずに済んだのだ。

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今里橋の欄干
(左)後ろの建物は用水跡に建つ
(右)用水をまたいでいた水道管
 

そこから南へ向かうと、公園沿いの小道で水路跡が歩道代わりとされ、小橋の跡もしっかり残っている。おもしろいのはその先で、鞍部を横断するため、用水は築堤上に通されていた。マンション建設で築堤は取り崩されたものの、付け根部分の水路断面が保存されているのだ。傍らに「三田用水路跡」の案内板も立っている。流路の末端に近いので、断面は側溝ほどのサイズしかないが、水路の現物が見られるのはここが唯一だろう。そしてこれより下流に、もはや遺構はないらしい。

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白金台三丁目に保存された水路断面
 

私たちは今里地蔵のお堂を経て、地下鉄の駅まで最後の区間を歩き通した。笹塚駅からここまでおよそ8.5km、小学生のキリ君も雨合羽姿でついてきた。持っているゲーム機には歩数計の機能が搭載されているらしく、「さっき1万歩だったから、次はもう2万歩になるよ」と大人たちにアピールしながら。

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キリくん、沿道の手押しポンプに挑戦
 

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2019年12月10日 (火)

コンターサークル地図の旅-音戸の瀬戸

2019年11月4日、コンターサークルS秋の旅2日目は、広島県呉市の、音戸の瀬戸(おんどのせと)を訪れた。

音戸の瀬戸(下注)というのは、本土と倉橋島の間にある長さ約1kmの海峡のことだ。瀬戸内東部から呉や広島の港へ向かう最短ルートに当たるため、船の往来が多い。ところが幅が約80mと狭いため潮流が速く、潮の干満に従って方向も周期的に変わる。さらに航路自体も南側で大きく湾曲しており、航行する船にとっては難所になっている。

*注 地形図では「音戸ノ瀬戸」と表記。

今回は、この特徴的な海峡を、まず高台から展望し、その後、今なお残る渡船や、瀬戸を一跨ぎしている橋を使って、立体的に体感してみたいと思っている。

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高烏台から音戸の瀬戸を遠望

曇り空に終始した前日とは一転して、この日は穏やかな秋晴れになった。降り注ぐ朝の日差しが目に眩しい。山陽本線糸崎駅始発の普通列車に乗って、現地へ向かう。列車は三原から呉線に入り、瀬戸内ののどかな海岸線をなぞっていく。車両は、真新しい227系レッドウィングの3両編成。日曜日は通学生がいないから、車内はガラガラだ。

窓に広がる海景は申し分ないのだが、山が海に迫る崖際を通過するたびに、時速25kmの速度制限がかかる。そのためか糸崎~呉間に2時間を要し、中国山地のローカル線と変わらない鈍速ダイヤだ。山陽本線の電車なら、同じ時間で広島どころか宮島口も通過してしまう。これではせっかく投入された新鋭車両も泣いていることだろう。

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(左)227系レッドウィング、呉駅にて撮影
(右)呉線、朝の車窓
 

それはさておき、広(ひろ)駅で同じレッドウィングに乗り換えて、呉駅には10時14分に着いた。改札を出て見回してみたが、案の定メンバーの姿はない。事前に出欠を確かめることはせず、当日指定の場所・時刻に来た人だけで出かけるのが、このサークルの流儀だ。昨日の参加者の反応から、単独行になるだろうと予想していたが、そのとおりだった。

駅前から、一人で鍋桟橋(なべさんばし)行きの広電バスに乗る。長崎や神戸と同様、呉の市街地は狭い平地に収まりきらず、山手に拡大してきた。呉湾の東側、休山(やすみやま)の麓もそうで、住宅地が急斜面を這い上がっている。バスが行くのは、その宮原地内を貫く片側1車線の市道だ。見通しの悪いカーブとアップダウンが連続し、車酔いしそうになる。

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音戸の瀬戸周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

警固屋(けごや)4丁目の停留所でバスを降りた。ここから歩いて、高烏台(たかがらすだい)という展望台へ行くつもりだ。高烏台へは音戸大橋のたもとから車道をたどるのが一般的な道順だが、地図に、的場五丁目の森添神社から上る小道が描かれている。復路は車道にするとして、往路はこの未知のルートに挑戦したい。

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(左)呉駅前から広電バスに乗る
(右)警固屋4丁目下車
 

実際に行ってみると、かなり急な坂道だったが、家並みが続く間は問題なく歩けた。しかし神社を過ぎたとたん、落ち葉散り敷く山道に変わり、まもなく丈の高い雑草や枯れ枝に埋もれて、道の体をなさなくなった。5年前の広島豪雨の爪痕だろうか、路面が完全に崩落し、崖っぷちを恐る恐る渡らなければならない個所さえある。

路面はコンクリート舗装で整備されていたことがわかるのだが、誰も通らなくなり、時間の経過とともにすっかり荒廃してしまったようだ。まとわりつく蜘蛛の巣を払い、藪漕ぎでひっつき虫だらけになりながら、なんとか車道までたどり着いた。

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(左)集落を縫う坂道
(右)路面崩落個所
 

しかし苦闘の甲斐あって、標高216mの高烏台からの景色は文句なしにすばらしかった。西側では音戸の瀬戸をまたぐ2本の赤いアーチ橋を点景に、倉橋島から江田島にかけての島並みが一望になる。方や東には安芸灘が広がり、海原のかなたに四国の山々が浮かんでいる。

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瀬戸をまたぐ2本のアーチ橋
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高烏台から安芸灘方面の眺望
 

音戸の瀬戸には、平清盛が開削したという伝説がある。完成を前にして日暮れてきたため、沈む夕日を金の扇で招き返して、工事を続行させたのだそうだ。高烏台には音戸の瀬戸のほうを向き、右手で扇を差す清盛の立像、いわゆる日招き像が据えられている。その足跡と杖の跡が残るという日招き岩も近くにあるのだが、道が通行止めになっていた。豪雨災害の影響かもしれない。

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(左)清盛の日招き像
(右)展望台は砲台跡にある
 

昼食休憩の後、今度は車道を降りていった。歩道はないが、車はたまにしか通らないから、安心して歩ける。途中から見晴集落の中の細道を経由した。中腹の急な斜面に張りつく集落で、海の眺めは地名どおりだ。その入口に見晴町というバス停もあった(下注)。

*注 バス停の下段にも展望公園があるが、高烏台と同方向、かつ低位置の展望になるので今回は立ち寄っていない。

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(左)見晴町バス停
(右)音戸の瀬戸公園、吉川英治文学碑
 

さらに下り、音戸の瀬戸公園の展望ポイントへ向かう。正式な「音戸の瀬戸公園」の範囲は広く、高烏台も含むようだが、目指したのは、つつじの名所として知られる、音戸大橋近くの「公園」だ。突端にある吉川英治文学碑が立つ地点から、際立つ朱色の2本の橋が左右に望める。距離が近いので、そのスケールが、家並みや瀬戸を通る船などとの比較でよくわかる。

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音戸の瀬戸公園全体図
 

ここで、改めて橋の諸元を記しておこう。左側の音戸大橋(以下、第一大橋という)は、1961(昭和36)年に供用されたアーチ橋(構造的にはランガー橋)だ。全長172m、主径間長115m、桁下高23.5m。本土と瀬戸内の島を結んだ最初の橋で、開通当時は夢のかけ橋と呼ばれ、観光名所になった。アプローチに必要な土地が狭いため、本土側は山を削り複雑な形のループで、また倉橋島側は2回転半の高架ループで、それぞれ高度を稼いでいるのが特徴だ。

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音戸大橋と高架ループ
 

これに対して、右側の第二音戸大橋は、国道487号警固屋音戸バイパスの一部として、2013(平成25)年に開通したアーチ橋(同 ニールセン・ローゼ橋)だ。瀬戸の幅が広いところに架橋されているため、全長492m、主径間長280m、桁下高39mの規模をもつ。設計4車線のところ、暫定2車線。第一大橋にはない歩道が設置されているので、自転車や徒歩でも安全に渡ることができる。

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一回り大きい第二音戸大橋
 

さて、2本の橋の下を船が通過するのどかな景色を眺めた後は、楽しみにしていた音戸の瀬戸の横断に出かけた。まずは船で対岸の倉橋島に渡ろう。橋を経由すると極端な迂回になるため、市の補助により昔ながらの渡し船が残されているのだ。公園のある高台から急な階段道を降りていくと、道路の向こうに「音戸渡船」と妻面に記した渡し場の小屋が見つかる。

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音戸渡船の本土側渡し場
 

この渡船がユニークなのは、オンデマンド運航であることだ。乗り場の立札にこう書いてある。「時刻表はありません。桟橋に出て渡船に乗ってください。一人でも運航します。渡船が向こう側にいるときは桟橋に出ていれば、すぐに迎えに来てくれます」。

距離約90m(立札では120m)、所要3分の日本一短いと言われる定期航路で、運賃は大人100円、小人50円、自転車込みで150円だ。ほかに客はおらず、小屋にも人影がないので、遠慮なく桟橋を渡っていく。すると、停船していた小型船の操舵室から船頭さんが出てきて、運賃を回収し、すぐに艫綱を解き始めた。

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渡し場前の立札

船はまず第二大橋のほうへ出ていく。そこで半回転し、次に第一大橋を前方左に見ながら瀬戸を横断し、再び半回転した。こうしてS字形に進んで、対岸に到達する。その間にも旅客船や漁船が通過するので、それらを避けながらの操船なのだが、手慣れたものだ。航路は2本の橋の中間にあるので、高台からの俯瞰とは異なり、橋のアーチを下から仰ぎ見る形になる。高さや広がりが強調されて、譬えてみれば空に架かる虹のイメージだ。船上ならではの体験だろう。

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待合小屋を抜けて桟橋へ
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艫綱を解いて出航
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(左)音戸大橋を仰ぎ見る
(右)対岸の桟橋に到着(下船後撮影)
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倉橋島(音戸町)側渡し場
 

船頭さんにお礼を言って、陸に上がった。護岸に沿って音戸町(現在は呉市音戸町)の集落が延びている。まずは第一大橋のたもとにある清盛塚を見に行く。海中の岩礁に築かれているので中には入れないが、南側に見学用の突堤が造られていた。若い松が潮風に耐えて勢いよく枝を伸ばしている。ここから見える、第一大橋の下に第二大橋が覗く構図もおもしろい。

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(左)音戸大橋入口には、2回転半の注意標識が
(右)清盛塚
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第一大橋の下に第二大橋が覗く
 

渡し場から家並みを縫う旧道沿いに入ると、虫籠窓をもつ豪壮な商家が3軒連なっていた。普通車がやっとの狭い道に不釣り合いな大きさなので、余計に目を引く。カフェを開いている呉服屋のほかは廃業して久しいようだが、本土との往来を渡船に頼っていた時代、この細道はどんなにか賑わったことだろう。

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(左)旧道沿いに商家が連なる
 

家並みが途切れる第二大橋の直下から、急坂の小道を上る。黒権現という小さな祠を経て、なおも行くと、第二大橋のたもとに造られた展望台に出た。日招き広場という名のとおり、ここは北から西にかけての展望が開ける。右手前にかつての海軍工廠、今は日新製鋼製鉄所の赤茶けた建物や煙突群、その後ろは呉市街だ。左の江田島との間、湾の最奥部には、山並みを背にして広島の市街地も遠望できる。

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(左)日招き広場
(右)国道をまたぐ「第三音戸大橋」
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日招き広場からの眺望
湾の最奥部に広島市街が見える
 

第一大橋がある南側も見ようと、国道を横断する歩道橋を渡った。アーチの飾りがついた歩道橋は、「第三音戸大橋」のあだ名があるそうだ。第二大橋の下り車線(倉橋島方面行き)に併設された歩道の途中からは、第一大橋の側面形を、あたかもカタログ写真のように鑑賞できる。午前中から音戸大橋をさんざん見てきたが、その締めくくりにふさわしい眺めだ。

ちなみに、第二大橋は片側2車線が未完成で、そのためか下り車線の歩道は橋の真ん中で行き止まりになっている。本土へ渡るには、上り車線(本土方面行き)の歩道に迂回しなければならず、少々面倒だ。しかし、足もとに潜り込んでいく船を見下ろしながら、潮風に吹かれての空中散歩は特別な感覚だった。

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(左)暫定2車線供用の第二音戸大橋
(右)海峡の上を空中散歩
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第二音戸大橋から音戸大橋を眺望
 

秋の陽は早や傾きかけている。警固屋中学校前まで降りたところで、呉駅に戻るべく、ちょうどやってきた鍋桟橋行きのバスに乗った(下注)。

*注 2019年10月1日からこのエリアでは、広電バスから呉市のコミュニティバス(呉市生活バス)へ路線移管が行われた。広電バスの時刻表では鍋桟橋以遠の運行本数が極端に少なく見えるが、代わりに上記の生活バスが走っており、例えば呉駅前~音戸渡船口間は、鍋桟橋乗継ぎにより1時間に1~2本程度が確保されている。
時刻表は、呉市-公共交通機関 https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/28/koutu.html にある。音戸渡船口のバス停を通るのは、広島電鉄「呉倉橋島線」および 生活バス「阿賀音戸の瀬戸線」

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図呉(平成28年5月調製)を使用したものである。

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2019年11月14日 (木)

コンターサークル地図の旅-下津井電鉄跡

下津井電鉄は、国鉄宇野線の茶屋町(ちゃやまち)駅と下津井(しもつい)との間を連絡していた鉄道だ。762mm(2フィート6インチ)狭軌、いわゆるニブロク軌間の電気軽便鉄道だった。

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下津井駅跡
 

今も瀬戸内の主要漁港の一つである下津井には、かつて四国の丸亀との間に定期航路があり、こんぴらさん(金刀比羅宮)へ参る人々で大いに賑わった。しかし1910年に開設された宇高連絡船に客を奪われたため、地元の有力者によって計画されたのがこの鉄道だ。1913(大正2)年に茶屋町~味野町(後の児島)間、翌14年に下津井までの全線が開業している。

最初は蒸気鉄道だったが、戦争末期から直後にかけての石炭不足を受けて、1949(昭和24)年に直流600Vで電化された。だが道路事情が改善されると、岡山へ直通するバスに対して、茶屋町での乗換えが必要な鉄道は条件的に不利となる。利用者数が落ち込み、1972(昭和47)年、まず茶屋町~児島(こじま)間が廃止された。

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かつての下津井駅(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

このとき、末端の児島~下津井間は、並行道路の未整備を理由に存続した。以来、全国鉄道網から切り離され、孤立線のまま細々と運行されていたのだが、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通を機に今一度、観光路線への飛躍が目論まれた。

1987(昭和62)年に児島駅が移転改築され、新造車両も投入されて、再デビューが華々しく祝われた。しかし、客足は思うように伸びず、一方で新規投資による減価償却費の増加が、会社の収支を圧迫した。皮肉にも、瀬戸大橋の建設工事に伴い、周辺道路の整備が進んだことで、バス転換が可能になっていた。そのため鉄道は、再興からわずか4年足らずの1990年末をもって、あっけなく廃止されてしまったのだ。

2019年11月3日、コンターサークルS秋の旅の初日は、この下津井電鉄(下電(しもでん))の廃線跡を歩く。茶屋町から下津井まで21kmのルートは廃止後、大部分が自転車道・徒歩道となり、今でも容易にたどることができるが、今回は、最後まで運行され、景色にも優れた児島~下津井間6.3kmに焦点を絞った。ついでに沿線の鷲羽山や下津井の町にも寄り道して、瀬戸内ののびやかな風光に浸るつもりだ。

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児島~下津井間の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
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下津井電鉄現役時代の地形図(1974(昭和49)年修正測量)
初代児島駅が描かれている
 

岡山から、高松行きマリンライナー19号で児島駅へ向かう。指定の10時20分に集合したのは、相澤夫妻、浅倉さんと、相澤夫人の歩き仲間のKさん、海外鉄道研究会のTさん、それに私の計6人。あいにくの曇り空だが、日差しがない分、かえって歩くのは楽かもしれない。

「最初に、下電の駅の跡を見に行きましょう」と私が口火を切った。下電は、JR線より700mほど内陸を走っていた。というのもJR線が通る一帯はかつて遠浅の海で、戦前まで塩田が広がっていたからだ。メンバーは地元岡山の人が多いので、下手な案内人を待つまでもなく、自然と誰もが旧駅の方角へ足を向ける。

下電児島駅は二度移転している。「味野町(あじのまち)」と称した初代の駅は、小田川(おだがわ)に近い一角にあった。駅と駅前広場があった場所は現在、駐車場に転用されている。鉄道の記憶としては、北端近くにある大正橋バス停前に、駅名標のレプリカが立つのみだ。記されている「味野」という駅名は1941年に改称されたことを示すが、次の駅名が「こじま」になっているのを誰かが見咎めた。「味野と児島は同じ駅なんですがね」。再改称は1956年に行われている。

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(左)味野駅跡を示す駅名標
(右)小田川護岸に顔を出す下電の橋台
 

小田川に架かる大正橋北側の護岸で、下電の橋台が斜めに飛び出しているのを確かめてから、引き返した。茶屋町~児島間廃止後の1976年、児島駅はバスセンターの改築に合わせて少し南に移転している。私はこの二代目駅の時代(1984年)に一度だけ下電に乗ったことがあるが、今や芝生広場が広がるばかりで、鉄道の痕跡は何もない。

さらに南へ進むと、通りの向こうで、三代目の児島駅が原形をとどめていた(下注)。上述の観光開発の一環で1987年に建てられたもので、トレインシェッドというべきか、かまぼこ型の高屋根のかかった立派な建物だ。線路はもうなかったが、小ぢんまりとした頭端式のプラットホームや、構内を見下ろすウッドデッキなどがしっかり保存されている。ホームは建物の外まで続いていて、役目を終えた駅名標が所在なげに立っていた。「これもレプリカでしょうか」「字もかすれて年季が入ってるから、本物じゃないかな」。

*注 旧駅舎は、金・土・日・祝日(年末年始を除く)の8:30~17:00の間、開放されている。

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三代目児島駅正面
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トレインシェッドで覆われた内部
(左)ウッドデッキは当時のもの
(右)プラットホーム跡も残る
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(左)ホームの先に「風の道」が延びる
(右)オリジナルの駅名標
 

ここから廃線跡は、自転車・歩行者道「風の道」に姿を変えて、南へ延びていた。舗装は砂地に似せた自然色で好ましい。駅からの左カーブが終わると、直線路になった。家並みが絶えない町なかを行くので、徒歩や自転車で地元の人もときどき通る。

見た目はすっかり普段使いの風景だが、他の道と明らかに異なるのは、路側に現役当時さながら、茶色の架線柱が林立していることだ。断面が三角形のトラス鉄柱で、架線を吊るためのビーム(横梁)はもとより、ときには碍子までぶら下がっている。電化路線ならではの大道具で、ここまできれいに残されているのは見事だ。

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架線柱が残る廃線跡
 

旧街道との元踏切を越えて400mほど行くと、一つ目の中間駅、備前赤崎駅があった。石積みのホームは左右の間隔が広いから、線路が2本敷かれた交換駅だったのだろう。鳥居形の駅名標に、「びぜんあかさき(駅跡)」とかっこ書きされているのが正直で、微笑みを誘う。

その200m後で、国道430号線と交差した。ここは横断歩道がなく、迂回を余儀なくされる。ほぼ直線だった廃線跡はこの直後、左に急カーブし、次いで緩やかに右に反転していく。その途中で、阿津(あつ)駅の片面ホームを通過した。

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備前赤崎駅跡
(左)石積みのホーム
(右)「駅跡」と書かれた駅名標
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阿津駅は住宅街の中の片面ホーム
 

倉敷シティ病院の前で、舗装が自然色から黒いアスファルトに変わり、同時に25‰勾配が始まる。海岸沿いではあるものの、鷲羽山との間の鞍部を乗り越えるために、坂を上る必要があるのだ。桜並木の築堤はいい雰囲気だったが、すぐに道路と交差するレベルまで急降下していた。築堤が切り崩されてしまったようだ。そのため、瀬戸大橋線の下をくぐるまでの短区間は、線路跡らしくない急勾配になっている。

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(左)25‰勾配が始まる桜並木の築堤
(右)切り崩された築堤
 

さらに坂を上っていくと、いよいよ左手に海が見えてきた。手前にある競艇場の施設が少々目障りだが、下電名物の車窓風景がこれからしばらく続くのだ。JRの変電所の先で敷地が急に広がり、そこに琴海(きんかい)駅の島式ホームがあった。ベンチも置かれていて、家並み越しに海と島影を見晴らせる。「鷲羽山(わしゅうざん)駅まで行ってもいいんですが、12時を回ったので、ここで昼食にしましょう」と相澤さん。腰を下ろして、皆それぞれ持参した食事を広げた。

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坂を上っていくと左手に海が見えてくる
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琴海駅跡で昼食休憩
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琴海駅跡から見る海景
 

琴海駅の先もまだ25‰の坂道で、神道山(しんとうざん)からせり出した山脚を、築堤と切通しを連ねて縫っていく。大畠(おおばたけ)集落の上で右へ回り込み、瀬戸大橋線と瀬戸中央道の下のカルバートを斜めにくぐった。カーブして見通しの悪い切通しをもう一つ抜ければ、鷲羽山駅に到達だ。標高43m、「風の道」のサミットに当たり、休憩所として瀬戸大橋を望むテラスと公衆トイレが設置されている。

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築堤と切通しで山脚を縫う
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サミットの鷲羽山駅
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駅のテラスから見る下津井の家並と瀬戸大橋
 

下津井まであと2.5kmだ。「余裕で着けると思うので、その前に鷲羽山へ寄り道しませんか」と提案したら、異論はなかった。鷲羽山は南東に突き出した半島で、備讃瀬戸の海景をほしいままにする、古来知られた展望地だ。

駅から南へ遊歩道が延びていて、松林の中の急な階段を上がっていく。まもなく東屋(あずまや)展望台という最初の見晴らしスポットがあった。瀬戸中央道のトンネルの真上に位置しているので、下津井瀬戸大橋まで一直線、あたかも足下から車が飛び出すような迫力のある眺めだ。

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東屋展望台からの迫力ある眺め
 

さらにしばらく上ると、山頂に着いた。表土が剥ぎ取られ大岩が露出していて、石舞台のように見える。標高113mと大した高さでないにもかかわらず、岩の上に立てば、北の児島市街地から、島影浮かぶ内海、長い吊橋の列、そして西の下津井港まで、文句なしに360度の眺望が得られる。

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鷲羽山山頂
(左)石舞台のような頂上
(右)瀬戸大橋が間近に
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鷲羽山山頂からのパノラマ
 

今日は遠くがかすんでいたが、それでも一同満足して、もときた道を戻った。鷲羽山駅からしばらく廃線跡は、海岸沿いに続く下津井の町を避けて、山手を迂回している。500mで東下津井駅だった。1931(昭和6)年開設の鷲羽山駅に対して、東下津井は開通当時からあった駅だ(もとは下津井東と称した)。残されたホームが異様に低いので、歩道部分が嵩上げされているようだ。

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東下津井駅跡
 

城山の裏手からは最終コースで、25‰の下り勾配で谷間に突っ込んでいく。鞍部を切通しで通過しているのだが、長い年月のうちに草木が覆いかぶさり、まるでトンネルだ。切通しを抜けた後は、オメガカーブで南に向きを変え、浅い谷を降下する。Tさんが、列車が走っていた当時撮った写真を見せてくれた。「あの頃はこのカーブを見通すことができたんです。」今は谷いっぱいに住宅が立ち並んでしまい、撮影名所の面影は消失している。

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鞍部を切通しでやり過ごす
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オメガカーブを描いて降下
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現役時代のオメガカーブ(1983年2月撮影)
写真はT氏提供
 

石積みが残る道路のアンダーパスをくぐると、もう下津井駅跡だった。老朽化が進み、駅舎や周りの建物はすべて撤去されてしまったが、カーブする相対式のプラットホームとその間に敷かれた線路が、在りし日の記憶を呼び覚ます。隣接する側線群には、「赤いクレパス号」だったモハ1001や、1988年新造の観光電車「メリーベル号」など、保存会が管理する旧車が何両も休んでいた。フェンスがあり、普段は立ち入れないが、毎月第2日曜と第4日曜に開放されているそうだ。

時刻は14時30分、終点まで無事歩き通して、ここで解散となった。Tさんと私は、狭い通りに古い民家や土蔵が並ぶ下津井の旧市街まで足を延ばし、郵便局前で下電バス「とこはい号」を捕まえて、児島駅に戻った。

*注 とこはい号は児島市街、下津井、鷲羽山第二展望台などを通る循環バス路線。反時計回りの一方通行で、1時間毎に運行。なお、下津井から児島駅に向かう場合、「児島駅南」バス停が最寄りとなる。

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ホームと線路が残る下津井駅跡
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(左)保存車両モハ1001
(右)奥に観光電車「メリーベル号」の姿も
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図下津井(昭和49年修正測量、平成30年10月調製)を使用したものである。

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2019年11月 7日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 II

ツェル・アム・ゼー Zell am See の名は「湖畔のツェル」を意味する。ツェル湖 Zeller See に突き出した小さな扇状地の上に、リゾートらしい小ざっぱりした市街地が広がっている。線路(下注)がその市街地と湖岸にはさまれた狭い空間を通っていて、駅の地下道を抜ければ、目の前はもう、さざ波立つ蒼い湖面だ。

*注 ÖBBザルツブルク=チロル線 Salzburg-Tiroler-Bahn。

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湖に面するツェル・アム・ゼー市街
線路は湖岸の並木の陰にある
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(左)市街の中心シュタットプラッツ Stadtplatz(都市広場)
(右)ホテルやレストランが軒を連ねるドライファルティヒカイツガッセ Dreifaltigkeitsgasse(三位一体小路)
 

駅舎の南に接する頭端式の11、12番線が、ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn の専用ホームになっている。しかし、かつて同じÖBBの支線だった時代は1番線の南端に発着しており、そのため線路は標準軌と狭軌が片側のレールを共用する3線軌条だった。本線の列車は通常2、3番線を使うので、これでも支障はなかったのだ。1987年に完成した駅の改修で、両者は完全に分離され、狭軌列車は現在のホームに発着するようになった。

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(左)ツェル・アム・ゼー駅舎
(右)11、12番線がピンツガウ地方鉄道の発着ホーム
 

ところで、先に断っておかなければならないが、2019年6月のこの日、ピンツガウ地方鉄道に乗ったのは、中間のミッタージル Mittersill 駅からだ(理由は後述)。蒸気列車で終点クリムル Krimml まで行き、復路、プッシュプル列車で起点ツェル・アム・ゼーへ戻ってきた。つまり実際は、往路の前半をパスしたのだが、本稿では起点から順に話を進めていきたい。

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ピンツガウ地方鉄道と周辺路線図
 

さて、駅を後にすると、狭軌の線路は、ÖBBの標準軌複線と並走しながら南へ進む。左手にはプロムナードの並木越しに、ツェル湖の湖面が見えている。先述のとおり駅構内では撤去されてしまった3線軌条だが、並走区間の途中からまだ存在していて、標準軌の渡り線が狭軌の線路に合流する。標準軌線は電化路線なので、上空に架線も伴っている。

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(左)ツェル湖沿いを並走する狭軌線とÖBB標準軌線
(右)3線軌条区間
   Photo at wikimedia. © Robert Kropf (CC BY-SA 4.0)
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ツェル湖と雪を戴くホーエ・タウエルンの山並み
 

3線軌条の区間は1kmもない。これはティシュラーホイズル Tischlerhäusl 貨物駅に通じていて、狭軌線でロールワーゲンに載せられてきた標準軌貨車が、機関車に牽かれて本線に出ていく(およびその逆の)ための設備だ。ちなみに貨物駅の、公道をはさんで南隣は、地方鉄道の車庫・整備工場で、ツェル・アム・ゼー方の運行拠点になっている。

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ティシュラーホイズル車庫・整備工場
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

直進する標準軌線を見送って、こちらは右へ曲がる。そしてザルツァッハ川が流れるU字谷を遡り始める。このあたりは谷幅がまだ2kmもあり、左の車窓は一面の牧草地だ。昔はツェル湖が今より南まで広がっていて、ザルツァッハ川は自由に蛇行しながらそこに注ぎ、周りは湿地だった。

1852年に、谷の東の出口にあったブルックの岩棚 Brucker Schwelle を開削して、水位を約1m下げる工事が行われた。これにより湖面は北に後退し、湿地は乾燥して、農牧が可能な土地になったのだ。それでも19世紀末はまだ、川の蛇行跡が明瞭に残っており、前回も触れたように、地方鉄道はそれを避けてくねくねと迂回しなければならなかった。

線路は終始、川の左岸(北岸)を通るので、進行方向左側(南側)の眺望がより開ける。牧草地の向こうに、雪を戴くホーエ・タウエルン Hohe Tauern の山並みが奥まで続いている。カプルーン Kaprun の谷の後方で、グローセス・ヴィースバッハホルン Großes Wiesbachhorn(標高3564m)の尖ったピークがひときわ目を引いた。

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車窓から見るカプルーン市街(河畔林の左後方)と
グローセス・ヴィースバッハホルン(中央右奥の尖峰)
 

ツェルから40分で、中間の主要駅ミッタージル Mittersill(下注)に到着だ。係員が常駐する唯一の駅で、カスタマーセンター Kundencenter と称して、乗車券、鉄道グッズの販売や案内業務を行っている。蒸気列車もここで給水のために長い停車時間をとる。

*注 慣用に従い、ミッタージルと表記するが、現地の発音はミッタシルで、「ミ」にアクセントがある。

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ミッタージル駅
(左)唯一の有人駅舎
(右)普通列車が到着
 

冒頭で記したように、今回のピンツガウ地方鉄道の旅は、実際にはここからスタートした。インスブルック近郊の宿に荷物を置いていたので、往復ツェル・アム・ゼー経由では時間がかかる、と考えたからだ。

地図で見る限り、チロル地方からは、ツィラータール Zillertal を南下、ゲルロース峠 Gerlospass を越えてクリムルに出る、というのが最短ルートだ。しかし、州境をまたぐためか、直通のバス路線はない。さらに調べたところ、ÖBB線のキッツビュール Kitzbühel とミッタージルの間にバス路線が見つかった(上図の BUS と記したルート)。東チロルのリーエンツ Lienz へ向かうポストバスで、チロル運輸連合 Verkehrsverbund Tirol (VVT) が運行している(下注)。

*注 時刻表は、チロル運輸連合 https://www.vvt.at/ 路線番号950x。

朝9時40分キッツビュール発のバスがあり、ミッタージル着は10時18分だ。これなら11時08分発の下り蒸気列車に悠々間に合う。トゥルン峠 Pass Thurn から、緑のザルツァッハ谷と雪のホーエ・タウエルンが織りなす目の覚めるようなパノラマ(前回冒頭写真)を堪能して、ミッタージルに降りてきた。

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(左)キッツビュール駅前からポストバスに乗車
(右)ミッタージル市街が眼下に
 

蒸気列車には予約が必要なのは知っていた。しかし、他の保存鉄道でも当日、駅や車内で切符が買えたので、そのつもりで駅のカウンターへ行く。スティームトレインに乗りたいと言うと、ここには座席表がないので予約できない、しばしば満席になるから、先行する10時48分発の気動車をお勧めする、との返事だ。

1日1往復なので、オンライン管理をしていないのはわかるが、これでは目的が果たせない。「もし満席なら、デッキに立つので」と食い下がると、苦笑しながら「座席は車掌に聞いてください」と切符を売ってくれた。蒸気列車は特別運賃だが、渡されたのはヴァルトフィアテルのときと同様、薄紙のレシートだ。クリムルまでの所要時間は54分(下注)、どうせデッキに張り付くから、席はなくても構わない。

*注 蒸気列車に対して普通列車は、ミッタージル~クリムル間を35分で走破する。

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ミッタージルに蒸気列車が到着
 

蒸気列車は10時38分、時刻表どおりに入線してきた。牽いているのは、旧ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄シュタインバイス線169号機(BHStB 169、下注1)だ。1913年ブダペスト製で、1982年にクラブ760(下注2)が取得した。改修を受けた後、長期リース契約により、ピンツガウで稼働している。列車は、その後に荷物車(緩急車?)、2軸客車7両という編成だが、うち1両は「Pinzga Schenke(ピンツガウの居酒屋)」と書かれた深紅のビュッフェ車だった。

*注1 後にユーゴスラビア国鉄で73形19号機(JŽ 73-019)に改番。
*注2 クラブ760は、主にタウラッハ鉄道 Taurachbahn(ムールタール鉄道 Murtalbahn 最奥部の保存鉄道)を拠点に保存鉄道活動を行っている組織。

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本日の牽引機 BHStB 169
 

さっそく消火栓のような水栓につないだ消防用のホースで、機関車に給水が始まった。ここでは30分停車するので、乗客も皆、ホームに降りて休憩している。その間に、後を追ってきた3両編成のクリムル行き気動車が到着し、すぐに出ていった。これが先刻、乗車を勧められた列車だ。

しばらくのんびりした時間が流れ、発車の準備が整ったところで、西からツェル・アム・ゼー行きの各停プッシュプル列車が入線、それを待って蒸気列車は出発した。

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ミッタージルで30分の給水停車
 

ミッタージルから上流では、線路はおおむね川岸を伝っていく。視界を遮るような高い堤防はないから、氷河由来の白濁した速い水流がよく見える。方や、右側はおおかた緑の牧草地だ。その後ろには、ホーエ・タウエルンほど険しくはないものの、2000mを超えるキッツビュール・アルプス Kitzbüheler Alpen の、やはり雪を戴く山並みが見え隠れする。

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ザルツァッハの川岸を伝う
 

ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガー Neukirchen am Großvenediger 駅で、列車交換のためにやや長く停車した。ミッタージルで追い抜いていった気動車が折り返してきたのだ。同じような風景が続くので、日常的なイベントも気分転換になる。

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ノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガーで
上り列車と交換
 

ふと気がつくと、山がかなり近づいてきている。列車は最後に大きく左へカーブして、終点のクリムル駅に入っていった。低いホームに接した本線2本と側線1本をもつターミナルだ。すぐに機関車が切り離され、機回し作業が始まったが、ゆっくり見ている時間はない。というのも、駅前に、ゾンダーファールト Sonderfahrt(特別運行の意)と表示した大型バスが来ていて、列車を降りた客がぞろぞろと乗り込んでいくからだ。乗り遅れると、せっかくの名所を見損なう。

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最後の大きな左カーブを回る
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終点クリムル駅に到着
 

駅がある場所は、正確にはフォルダークリムル Vorderkrimml(前方のクリムルの意)という集落(下注)のはずれで、滝入口までまだ3kmほどある。この間は高度差が約180mと大きく、粘着式の蒸気鉄道では到達が難しかったはずだ。バスは駅前を出るとその坂道を上っていき、本来のクリムル集落をかすめてから、連邦道沿いのインフォメーションセンター前で停まった。

*注 フォルダークリムルもクリムルも、自治体としてはヴァルト・イム・ピンツガウ Wald im Pinzgau の一部。

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(左)クリムル駅舎
(右)特別運行のバス
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(左)森の道を滝へ向かう
(右)正面奥の小屋が入場券窓口
 

現地の人々に混じって、歩いて滝へ向かう。途中、窓口で4ユーロの遊歩道利用料 Wegbenützungsgebühr を支払うのだが、解説や注意事項を記したパンフレットどころか、ここでも渡されたのはレシートのみ。

滝は3段に分かれていて、下の滝(下アッヘン滝 Unterer Achenfall)だけで、高さが140mある。驚くのはその膨大な水量だ。6~7月は融雪が進むため、水量が一年で最も多いらしい。その水が岩肌を勢いよく滑り降り、最後に滝壺へジャンプしていく。大地を揺るがすような轟音が森にこだまし、風に舞う水煙が絶えずカメラのレンズを濡らす。

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下の滝を真横から望む
 

急な山道が、山腹をジグザグに上っている。それをたどると、途中にいくつか展望台があり、滝を真横から、上方からと、さまざまな角度で見ることができた。山道はその先、中の滝(落差100m)、上の滝(同 145m)へ延びているが、また蒸気列車で帰るつもりなら、許される滞在時間は70~80分だ。残念だが、せいぜい下の滝の滝口付近で引き返さなくてはならない。

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滝口の展望台から下の滝を見下ろす
背景はキッツビュール・アルプス
 

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Pinzgauer Lokalbahn", The Austrian Railway Group, 2017 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ピンツガウ地方鉄道(公式サイト) https://www.pinzgauerlokalbahn.at/
クリムル滝(アルペン協会支部による公式サイト) https://www.wasserfaelle-krimml.at/

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2019年10月31日 (木)

オーストリアの狭軌鉄道-ピンツガウ地方鉄道 I

ピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn

ツェル・アム・ゼー Zell am See ~クリムル Krimml 52.6km
軌間760mm、非電化
1898年開通

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トゥルン峠から望むザルツァッハタール
谷底をピンツガウ地方鉄道が走る
 

ザルツブルク Salzburg の南西に、ピンツガウ Pinzgau と呼ばれる地方がある。北には荒々しい石灰岩の山塊シュタイネルネス・メーア Steinernes Meer、中央は片岩アルプス Schieferalpen の2000m級の山並み、南縁には標高3000mを優に越えるタウエルン Tauern の雪山が群れをなす、アルプスの真っ只中だ。

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その山また山の間を、東西に長くザルツァッハ川 Salzach の流れる谷が延びている。北側のザールフェルデン盆地 Saalfeldener Becken などとともに、この平底の谷間は人々に暮らしの場所を提供してきた。地域の足として19世紀末に造られたのが、760mm狭軌のピンツガウ地方鉄道 Pinzgauer Lokalbahn だ。

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ピンツガウ地方鉄道と周辺路線図
 

歴史を紐解けば、ピンツガウの中心都市ツェル・アム・ゼー Zell am See には、すでに1875年から標準軌のザルツブルク=チロル鉄道 Salzburg-Tiroler-Bahn が通じていた。地方鉄道は、そのツェル・アム・ゼー駅を起点に、谷を遡り、最奥部のクリムル Krimml に至る路線で、2年の工期を経て1898年1月に開業している。

当時、クリムルからさらに、観光地のクリムル滝へ行く電気鉄道や、西方のゲルロース峠 Gerlospass を越えてチロルのツィラータール Zillertal に連絡する路線も構想されていた。しかし、どちらも建設資金のめどが立たず、実現しなかった。

開通に先立ち、リンツのクラウス Klauss 社から蒸気機関車4両が納入された。ツェル・アム・ゼー Zell am See の頭文字をとって、それはZ形(下注)と呼ばれるようになる。当時、沿線はまだ貧しい地域で、列車は初め、1日2往復しか設定されず、その1本は貨車を併結した混合列車だったという。

*注 Z形はすべて解体されてしまったが、テルル鉄道 Thörlerbahn に納入された同系統の機関車 StLB 6号機がタウラッハ鉄道 Taurachbahn(ムールタール鉄道 Murtalbahn 最奥部の保存鉄道)で動態保存されている。

その後、開通効果で観光開発が進み、木材や農産物の輸送もしだいに増加する。標準軌貨車への積替え作業を省くために、1926年にロールワーゲン方式(下注)が導入されたが、Z形では出力不足のため、1928年以降、新しいUh形(後のÖBB 498形)に置き換えられた。

*注 ロールワーゲン Rollwagen は、狭軌台車に標準軌貨車を載せて走る方式(逆の場合もある)。なお、これは英語読みで、標準ドイツ語ではロルヴァーグンが近い。

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ツェル・アム・ゼー地方鉄道駅の線路終端(11、12番線)
 

一方1936年からは、ディーゼル機関車も導入された。とりわけ戦後、道路事情の改良と自動車の普及で鉄道の利用が減退すると、経費削減策として積極的に使われるようになる。蒸機は1962年に定期運行を退き、1966年には路線から完全に姿を消した。

1980年代に断行された赤字路線の整理では生き残ったピンツガウ地方鉄道だが、1998年に貨物輸送が中止され、2000年にはÖBBが全面廃止に言及し始めた。ヴァルトフィアテル鉄道やマリアツェル鉄道などと同様、連邦と州の関与が求められ、結果的にザルツブルク州がÖBBに運行を委託する形で存続が決まった。

その後2008年に、地方鉄道の所有権は州へ完全に移された。以来、運行は長年ザルツブルクの市内バス・郊外鉄道を運営してきたザルツブルク公社 Salzburg AG(下注)が担い、インフラと車両も同社の所有となっている。

*注 ザルツブルク州およびザルツブルク市が過半を出資している公営企業。

なお、ÖBB時代に廃止された貨物輸送は、モーダルシフトの機運から2008年に復活し、沿線の工場や製材所が工業製品や木材の運搬に使うようになった。ツェル・アム・ゼーの1.5km南にあるティシュラーホイズル Tischlerhäusl 貨物駅には、異軌間の貨車をロールワーゲンに載せるための側線とランプ(斜路)がある。

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ザルツァッハ川に沿って
 

ところで、ピンツガウ地方鉄道のルートを地形に照らして見ると、前半ではザルツァッハ川の氾濫原のきわに、後半では川岸に、それぞれ沿うように通されていることがわかる。山裾の緩斜面や扇状地など高燥な土地は、傾斜していたり、すでに集落があったりしたからだが、このことは後に、鉄道が繰り返し洪水に悩まされる主因となった。

開通5年目の1903年9月に、早くも最初の洪水に襲われ、ブラムベルク Bramberg 付近の線路の流出で、運休を余儀なくされている。近年では、1987年8月に100年来の高水位により被災し、全線が再開されるまでに10か月を要した。

さらに2005年7月にも記録的な増水により、各所で線路が破壊された。一時はピーゼンドルフ Piesendorf から先、全線の8割が運行できなくなっていた。10月中にミッタージル Mittersill まで再開されたものの、以遠区間は、河川の防災改修とのかかわりで復旧が遅れた。結局、終点のクリムルまで列車が到達できるようになったのは2010年で、実に5年もの間、バスによる代行輸送が続いたのだ。

復旧工事では、速度制限のある線路の改築や路盤の強化も併せて実行された。ルート変更は3か所で行われている。一つ目は、フュルト・カプルーン Fürth-Kaprun(起点から6.7km)の直前で、旧ルートは川の蛇行跡を大きく迂回していたため、35km/hの速度制限がかけられていた。1997年に曲線を緩和した新線がオープンし、これにより距離が240m短縮され、通過速度も最高70km/hに引き上げられた(下図参照)。

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地形図にみるフュルト・カプルーン駅周辺のルート変遷
(上)建設前の図、支流が北へ蛇行(19世紀)
   image at mapire.eu
(中)従来ルート(1981年)
   © BEV, 2019
(下)1997年の改良ルート(赤の破線は従来の位置)
   © BEV, bergfex at 2008, 2015
 

二つ目は、ウッテンドルフ・マンリッツブリュッケ Uttendorf-Manlitzbrücke(起点から22.0km)で、北側の支谷から突き出す小扇状地を急カーブで乗り越えていた個所だ。ここは2011年に改修され、それと併せて新線上に新たに上記の停留所が開設された。

三つ目はノイキルヘン・アム・グロースヴェネディガー Neukirchen am Großvenediger(起点から44.9km)の前後で、旧ルートは町寄りを通っていたが、2005年水害からの復旧に際して、町の外縁に移され、住宅地内の踏切も解消された。この区間は2010年9月の全線再開に合わせてオープンしている(下図参照)。

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ノイキルヘン駅周辺のルート変遷
(上)従来ルート(1986年)
   © BEV, 2019
(下)2010年の改良ルート(赤の破線は従来の位置)
   Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

現在、旅客列車の主力になっているのは、760mm狭軌の標準的な気動車である5090形だ。1986~91年製の計6両が、VTs 12~17の車番をつけて走る。それとともに、グマインダー Gmeinder 社製のディーゼル機関車Vs 81~83が、部分低床の付随車と制御車を連ねたプッシュプル列車 Wendezug で運用されている。いずれも塗装は、ザルツブルク公社のコーポレートカラーであるルビーレッドとホワイトの統一仕様だ。

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気動車5090形
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プッシュプル列車の編成
(左)ディーゼル機関車Vs 82
(右)自転車を載せる荷物車
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(左)最後尾は制御車 VSs 102
(右)部分低床の車内
 

ピンツガウ地方鉄道の旅客輸送における役割は、主として二つある。

一つは近郊のコミューター輸送だ。今では信じられないことだが、1980年代、この路線の旅客列車は1日わずか5往復しかなかった。クリムルからの上り列車はなんと15時30分発が最終だったのだ。

しかし、1989年にツェル・アム・ゼー市内交通 Stadtverkehr Zell am See の路線網に組み込まれたことで、ツェル・アム・ゼー~ブルックベルク・ゴルフプラッツ Bruckberg Golfplatz(起点から3.8km)間が、平日30分間隔に増便された。バスでも12分で到着できる場所とはいえ、鉄道はこれを8分に短縮した。

その後、市内交通区間は2008年にフュルト・カプルーンまで延長され、現在は、日中午後の時間帯でニーデルンジル Niedernsill(起点から15.3km)まで30分毎だ。以遠区間でも1時間の等間隔ダイヤが組まれており、クリムルまで平日15~16往復ある(別に、市内交通区間便が12往復)。山向こうのツィラータール鉄道(下注)と並んで、最も利用されている760mm狭軌の一つと言えるだろう。

*注 ツィラータール鉄道については「オーストリアの狭軌鉄道-ツィラータール鉄道」で詳述。

これに伴い、ツェル・アム・ゼー市内では停留所が3か所増設されて、バス並みの区間距離になった。もとよりミッタージルのような拠点駅を含めて、すべての中間駅・停留所がリクエストストップなので、乗降客がないときは通過してしまう。

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ブルックベルク・ゴルフプラッツ駅での列車交換
(2008年撮影)
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

もう一つの役割は、観光輸送だ。日本では必ずしも知名度が高いとは言えないが、ツェル・アム・ゼーは、南隣のカプルーン Kaprun とともに、オーストリアでも最も重要な国際ウィンターリゾートの一つだ。また、国内最高峰のグロースグロックナー Großglockner(標高3,798m)を擁するホーエ・タウエルン国立公園 Nationalpark Hohe Tauern 観光の足場でもある。

鉄道はこの観光都市からクリムルに向かう。そこには、国内最大の落差をもつクリムル滝 Krimmler Wasserfälle があり、終点が設定された理由も、この名所への誘客に尽きる。

ザルツブルク公社は、路線のさらなる魅力向上を図って、他の狭軌鉄道と同じように夏のシーズンに蒸気列車 Sommerdampfzug を運行している(下注)。現在の牽引機は、もとマリアツェル鉄道のために開発されたMh形の3号機と、ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄(後にユーゴスラビア国鉄となる)で使われていた73形機関車だ。

*注 冬のシーズンには、ディーゼル機関車による特別運行がある。

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蒸気機関車73形(JŽ 73-019)
 

2019年の場合、運行は5月20日から9月24日の間の水曜と木曜に各1往復で、ツェル・アム・ゼーを9時18分に出発し、クリムルには12時02分に到着するダイヤだ。折り返しは13時55分発で、ツェル・アム・ゼーに16時36分に戻ってくる。

全区間を乗れば1日がかりだが、それだけかける意味はある。クリムル駅前に、時刻表に載っていない臨時バスが待機していて(下注)、滝の入口まで運んでくれるのだ。帰りもこのバスに乗れば、蒸機の発車に間に合う。やはりクリムルを訪れることは、滝を見に行くことと半ば同義になっているようだ。

*注 蒸気列車の客専用のバスで、運賃は特別列車の料金に含まれている。なお、クリムル滝へは路線バスもあり、平日日中は定期列車に接続している。時刻表は、ザルツブルク交通局 https://salzburg-verkehr.at/ 路線番号670。

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水煙上がるクリムル滝
(下アッヘン滝 Unterer-Achenfall)
 

では次回、蒸機列車の旅を含めて、ピンツガウ地方鉄道のルートを具体的に追っていこう。

本稿は、Stephen Ford "Railway Routes in Austria - The Pinzgauer Lokalbahn", The Austrian Railway Group, 2017 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ピンツガウ地方鉄道(公式サイト) https://www.pinzgauerlokalbahn.at/
Club 399 (Freunde der Pinzgaubahn) http://club-399.at/

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