2020年10月19日 (月)

コンターサークル地図の旅-東武矢板線跡

2020年は新型コロナウイルスに翻弄された一年として長く記憶されることだろう。不要不急の旅行自粛が要請され始めたため、春の旅本州編は中止にせざるをえなかった。それから半年、政府の景気刺激策に便乗したわけではないが、予防の方法が知れ渡ったことも考え、「三密」になりにくい外歩きの企画を再開することにした。

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花壇になった芦場駅のホーム跡
 

再開一日目の2020年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23.5kmの非電化路線だ。

鬼怒川線の前身、下野(しもつけ)電気鉄道によって1924(大正13)年に、まず高徳(のちの新高徳)~天頂間が762mm軌間で開業した。1929(昭和4)年には矢板まで延伸を遂げ、同年、1067mmへの改軌も実施された(下注)。

*注 改軌は藤原線(現 鬼怒川線)と同時に実施されたが、藤原線とは異なり、電化はついに行われなかった。

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矢板線現役時代の1:200,000帝国図(1937(昭和12)年修正図)
 

敷設の目的は、主として沿線の鉱産物や木材の輸送だった。天頂、芦場(よしば)両駅の近隣で銅鉱山が操業し、鉱石は省線(国鉄)を経由して日立の精錬所まで運ばれたという。しかし、昭和恐慌の影響や路線バスとの競合により、下野電気鉄道の経営は常に苦しかった。1943(昭和18)年の陸上交通事業調整法施行で東武鉄道に合併されたものの、矢板線は不振を挽回できず、1959(昭和34)年6月30日限りであっけなく廃止されてしまった。

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矢板線は最後まで蒸気運転だった
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

このように比較的早期に姿を消した路線だが、幸いにも跡地は林道や農道などに転用され、歩いて楽しめる区間が多く残されている。距離が長いので、公共交通機関も適宜利用しながら、廃止から60年を経過した現状を見に行こうと思う。今回は、路線終点の東北本線(宇都宮線)矢板駅から旅を始める。

朝10時20分、商店もなくがらんとした矢板駅前に立ったのは、大出さんと私の2名。向かいはタクシー営業所で、軒上のSHARPと書かれた巨大なネオンサインが異彩を放っている。「矢板にはシャープの工場があるんです」と大出さん。矢板線の駅は、JR駅舎の南側にあったはずだ。JR線をまたぐ跨線橋に上ってその方を見下ろしてみたが、屋根つきの駐輪場が広がるばかりだった。

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矢板駅
(左)正面
(右)駅舎南側を望む。駐輪場が矢板線駅跡?
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1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆
矢板~合会集落間
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矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
矢板~玉生間
 

矢板駅から約4kmは、クルマ道を行かなければならない。それで、時間の節約も兼ねて、駅前からタクシーで跡を追うことにした。東北本線沿いに南下する部分はセンターラインのない道路だったが、右へ緩やかに曲がっていくと2車線道になった。

「運転手さん、途中で見たいものがあるので、いったんそこで停めてください」。見たいものとは、ケーズデンキ矢板店の向かい側に残っている、高さのある2対のコンクリート塊だ。矢板線は、旧 国道4号(現 県道30号矢板那須線、いわゆる「横断道路」)をオーバークロスするため、この辺りでは築堤上を走っていた。コンクリート塊の正体は水路をまたぐ橋台で、築堤の一部だったため背が高いのだ。以前は広告塔の土台として使われており、それで残ったらしい。

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水路をまたいでいた橋台が道路脇に
 

さらに、これが道路脇にあるということは、タクシーが走ってきた2車線道は正確には廃線跡でないことを意味する。旧版の空中写真を参照すると、線路は、「横断道路」の東側で現 2車線道の北縁に沿い、西側ではやや南を通っていたようだ。しかし、その跡は圃場整備などでほぼ消失している。

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実は現地ではそのことを知らず、旅を終えて、堀淳一さんの廃線跡紀行(「消えた鉄道を歩く-廃線跡の楽しみ」講談社文庫、1986年)を読み返したときに初めて気づいた。堀さんは書いている。

「内川の広い谷をひろびろと埋める田を一直線につっきり、宮川に架かる橋にさしかかった時、ハッと気がついた。何と、約五〇メートル下流に、鉄橋の橋台が一対残っているではないか! 今歩いてきた道は道床跡ではなく、その北側にわずかに離れて新設された道路だったのだ」(同書p.205)。

当時堀さんが目撃した宮川の橋台が現在どうなっているのか、確かめなかったのは悔やまれる。グーグルマップの空中写真には、道路橋から約30m下流の両岸に、白色の残骸のようなものが写っているので、これが橋台の撤去跡かもしれない。

東北自動車道の高架をくぐるあたりで、ようやく道路が線路のあった位置に一致する。谷が狭まると、まもなく上り列車にとって最初の駅、幸岡(こうおか)だ。道端に、ホーム側壁の一部と思われるコンクリートの構築物が残っていた。その後ろは丸太の積まれた製材所で、矢板線の日々のなりわいを思い起させる。

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(左)宮川の道路橋矢板線の鉄橋は左(画面外)にあったはず
(右)幸岡駅跡ホーム跡(?)が露出
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1:25,000 合会集落~玉生間
 

タクシーを、矢板高校の手前500mの、廃業した商店の前で降りた。10時50分、ここからは自分たちの足が頼りだ。北上し続ける2車線道を横目に、旧線跡は西へそれていく。小さな森を出ると、稲田が埋める浅い谷間を、見事に一直線の小道が延びていた。簡易舗装はされているものの、荒れて地道に戻りつつある。途中から上り勾配がつき始めたが、勾配が一定のところも線路跡らしい。

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(左)タクシーを降りた場所左の店舗は廃線跡に建っている
(右)最初に小さな森を抜ける
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(左)谷間を一直線に延びる廃線跡
(右)一定勾配で上っていく
 

小さな切通しを抜けて、坂道がいったん収まるところに、「林道弥五郎坂線」と記された標識が立っていた。当時、弥五郎坂は矢板線きっての難所だった。明治生まれの蒸機は今にも止まるほど速度が落ち、乗客は降りて後ろから列車を押したという話が伝わる。その跡を伝う林道の舗装はまだ新しく、ゆっくり左にカーブした後、急勾配でサミットの切通しへ向かっている。

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(左)林道弥五郎坂線の標識
(右)林道は急勾配でサミットの切通しへ
 

「もとはここにトンネルがあって、堀さんはそれを歩いてます。でもその後封鎖されたようですね」と大出さん。この柄堀隧道(別名 弥五郎坂隧道)について、上記著書にはこうある。

「谷の奥に近づくと、道はふたたび杉林と残雪の間をぬうようになる。さっきカーブを切り終わったことからはじまった簡易舗装はいつか切れて、砂利道にもどっていた。そして、やがて行く手にトンネルが見えてくる。約一五〇メートル、とちょっと長いけれども、直線なので、あちらの出口が、突き当りの山肌の桜鼠を闇の中にポッカリとあけていた」(同書pp.206~207)。

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(上)通行に供されていた柄堀隧道
(下)閉鎖後のようす
(道の駅「湧水の郷しおや」交流館の展示)
 

トンネルの中で郵便配達のスクーターとすれ違ったとも書かれているので、当時(下注)は廃線跡がそのまま生活道路に利用されていたことがわかる。「封鎖されたトンネルはどこにあるのかな」と私。きょろきょろと辺りを見回すうち、濃い藪に覆われているものの、林道の左側が深い掘割になっていることに気づいた。そのどん詰まりに、ポータルの壁の断片らしきものもちらと見える。どうやらこの区間は使われなくなった後、自然に還ってしまったようだ。

*注 堀さんがここを訪れたのは1983(昭和58)年4月2日。

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林道の左に沿う深い掘割がトンネルに向かう廃線跡
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(上)柄堀隧道が通行可能だった時代(1:25,000 1978年図)
(下)現在はルートを北側にややずらして切通しに
 

藪と格闘すればポータルまでたどり着けるのかもしれないが、路面のぬかるみもひどいだろう。まだ先は長いので探検は諦め、素直に林道を歩いてサミットを越えた。反対側は、ポータルどころか同じような掘割の痕跡すら見当たらなかった。林道の片側がやけに広いから、掘割を埋め戻してその上に道路を造成したように思われる。

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(左)反対側は掘割を埋め戻したため、道路脇に幅広の空地が続く
(右)柄堀集落へ
 

サミットから少し下ったところに柄掘(からほり)集落があり、矢板線の駅も置かれていた。家並みのそばで駅の痕跡を探していると、すぐ近くの家の縁側で休んでいたおばあさんから声がかかった。「駅はあっちの桜並木のほうだよ。この前も探している人がいて言ったんだけれども、ここは駅の跡じゃあないよ」「跡は残ってないんですか」「ああ、道になっちまったからね」。集落の間では道路が2車線に広げられており、その工事でか、ホームなどはすべて撤去されてしまったようだ。

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立派な桜並木の中にある柄堀駅跡
 

しかし廃線跡はすぐに2車線道から右に分かれて、再び林道の風情を取り戻す。堀さんも言及しているラブホテルの前を通り、浅い切通しを抜けていく。上空を交差する林道の跨線橋がまたいでいたはずだが、これも撤去されたらしく、石垣しか見当たらない。

バブル期に別荘地として開発の手が入ったものの放置されたコマが原を抜け、梍(さいかち)橋集落へと降りていく。築堤の周りで、アケビが紫の実をつけ、キンモクセイの大木が芳香を放っている。この道は緩いカーブを切りながら荒川の手前まで進むが、川は護岸改修が施されたようで、もはや橋脚橋台の影もなかった。

正午を回ったので、昼食休憩にしようと思う。ヒガンバナの群生する木階段を延々上って、少年野球の掛け声が響く高台のグラウンドへ出た。

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(左)右に分かれて、再び林道の風情に
(右)梍橋集落へと降りていく築堤道
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荒川渡河地点、橋脚橋台は残っていない
(左)西を望む
(右)対岸から東を望む
 

大出さんが持ってきた上記の文庫本を読ませてもらう。堀さんは矢板駅から玉生(たまにゅう)まで歩き、その後バスで新高徳へ向かったようだ。しかし、そのバス路線も、今は自治体の委託によるマイクロバスが平日と土曜に5往復運行されるだけになっている(日曜は運休)。

というのも、この地域の主たる旅客需要は、南に位置する県都宇都宮に向かっているからだ。矢板線沿線の玉生や船生(ふにゅう)から宇都宮へ路線バスが直行している。たとえば玉生~宇都宮間は平日上り10便、下り8便あり、住民1人1台のクルマ社会のなかでは、まずますの本数だ(休日は減便。ただしこれも自治体が費用支援している)。

それに対して矢板線は東西方向に延びており、矢板で東北線に接続するとはいえ、遠回りのルートになってしまう。もともと沿線人口は少なく、旅客輸送に多くは望めない。頼みの貨物が縮小していけば、もはや存続の方法はなかっただろう。

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高台への階段道にヒガンバナの群生
 

12時40分、高台を降りて再び歩き始めた。荒川を渡るために、南の旧国道の橋を迂回する。対岸にも廃線跡を引き継ぐ農道が続いているが、当時の線路はすぐに左にそれ、玉生の町なかに入っていたはずだ。残念ながらこの区間は圃場整備によって消失し、塩谷町役場の東側では駐車場に取り込まれている。旧国道を横断した後も同様で、明瞭な痕跡として追うことは難しい。

町裏で玉生駅跡を探していると、近くで道路工事の監督をしていた年配の男性が、「ここにあったんだ」と教えてくれた。そこにはJA(農協)の建物が建ち、現在はしおや土地改良区事務所の看板があがっている。南側の旧駅敷地では、盛り土の上に広い庭をもつ住宅が何軒か並んでいた。「何も残ってないよ。南へ行くと鉄橋とトンネルがあるがね」。しかし、駅跡の向かいには製材所が残っていて、例に漏れずこの駅も木材搬出の拠点だったことを窺わせる。

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玉生駅跡
(左)駅舎跡には土地改良区事務所
(右)南側の旧駅敷地には住宅の列
 

地形図には、このあと右(北が上の地図では左)へカーブしていく築堤が描かれているが、これも圃場整備ですでに消失している。ダイユー塩谷店の西側に建つ家の裏手に回ると、国道461号(日光北街道)の玉生交差点との間で、短距離の築堤とともに、小さな水路を渡る鉄橋の桁が残っていた。男性が話していた鉄橋とはこのことだろう。

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(左)短距離ながら築堤が残る
(右)水路を渡る鉄橋の桁
 

この先は国道と薄い角度で交差するため、完全に上書きされているが、地蔵坂隧道の東口だけは奇跡的に残り、建物の下でぽっかり口を開けていた。アーチは角石積みで巻かれ、外壁はコンクリートを張った簡素な造りだ。だが、建設会社の私有地になっているらしく、手前に鉄扉があって、近づくことはできない。

隧道の西口とそれに続く切通しは、弥五郎坂のそれと同じく、国道の改良工事で埋め戻されてしまったようだ。車道と左側の歩道との間に十分すぎる幅の植え込みがあり、線路跡が取り込まれたことを推測させる。

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地蔵坂隧道東口
(左)原形を残すポータル
(右)建物の下で口を開ける
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地蔵坂西側
(左)車道と歩道との間の広い植え込み
(右)国道と一体化された廃線跡
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1:25,000 玉生~船生間
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矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
玉生~西船生間
*注 本文に記したとおり、図中の「ふにふしんでん(船生新田)」は駅の位置、駅名とともに誤り
 

次に廃線跡が単独の道として現れるのは、地形図の251m標高点の南からだ。三叉路に「芦場駅跡」を指し示す小さな道標も立っているので、見落とすことはない。色づいた稲穂が風に揺れるその農道を歩いていくと、芦場(よしば)駅跡に着いた。

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芦場駅へ向かう廃線跡の農道
 

ここは全線で唯一、島式ホームがほとんど原形で残されている。地元の人々によって花壇に活用され、今は赤いサルビアが咲いていた。看板には「芦場新田駅跡 やすらぎのお花ばたけ」の記載がある。駅名は芦場だったはずだが、地名の芦場新田(よしばしんでん)で呼ばれていたのかもしれない。

車を停めて写真を撮っている人がいる。矢板線は廃線跡としては古株に属するから、興味のある人はたいてい訪問済みかと思っていたが、そうでもないらしい。柄掘のおばあさんも言っていたように、私たちのような訪問客がときどき来ているのだ。

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芦場駅の残されたホームにサルビアの花が咲く
 

旧版地形図では、南の山中に鉱山の記号があり、「日光礦山」と注記されている。鉱石輸送を収益の柱に据えていた鉄道にとって、ここは重要な駅だったはずだ。もちろん鉱山は廃されて久しいが、その一方で、用水路を隔てて建つ倉庫のような建物は、現役の製材所だ。貨物輸送のもう一つの柱が、今も地域産業の一端を担っているというのは興味深いことだ。

一般車両進入禁止とされた森の中の一本道を通り抜けると、天頂(てんちょう)駅跡がある。芦場から1.2kmと距離が短いのは、北側にある天頂鉱山の積み出し駅として開設されたからだ。しかし芦場と違って、ホームの低い断片が顔を覗かせているだけで、駅の風情は残っていない。

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芦場~天頂駅間
(左)廃線跡の道は車両通行禁止
(右)枯木立がトドワラを思わせる一角
 

この先で、廃線跡は国道を斜めに横切って、北側に移る。その手前にクルマがたくさん駐車してあった。何か行事でもしているのかと不思議に思って歩いていたら、森の陰から2階建ての和風建築が現れた。「船生かぶき村」の看板が見え、田舎歌舞伎を上演しているらしい。クルマの数からしても、けっこう人気の高い娯楽のようだ。

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(左)天頂駅跡はホームの断片のみ
(右)道沿いに船生かぶき村の建物
 

鬼怒川の北に広がる田園地帯を、廃線跡を踏襲する道はまっすぐ伸びている。しかし、2車線幅に拡幅され、ただの車道にしか見えない。北の山地へ向かう林用手押し軌道に接続していた長峰(ながみね)荷扱所は、跡形もなかった。

2車線幅は、船生(ふにゅう)駅の手前で終わっていた。道が南へ少したわんで、駅があったことは明瞭だ。路線廃止後、何かの建物が建てられたようだが、それも今は基礎が残るのみ。脇にホームの一部とみられるコンクリート片が顔を出している。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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1:25,000 船生~西船生間
 

「国道沿いに道の駅があって、矢板線の資料が展示されているはずです」という大出さんの案内で、廃線跡から寄り道した。道の駅「湧水の郷しおや」に併設されている交流館に入ると、当時の蒸気列車の写真や今も土地に残る痕跡について丁寧に解説したパネルが掲げてあった。

2本の廃トンネルの写真(上記 柄堀隧道の段にその一部を掲出)は1986年に撮影されたもので、堀さんが歩いて間もないころだ。先刻沿線で出会った地元の人もよく知っておられたのを思い出し、60年も前に消えた鉄道が郷土史の一ページとして大切に語り継がれていることを実感する。

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船生駅跡
(左)道路のふくらみがそれを示す
(右)ガードレールと丸石積みの間にわずかに残されたホーム跡
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道の駅に併設の交流館
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交流館の展示
(左)矢板線の蒸気列車
(右)柄堀(弥五郎坂)隧道完成時の写真
 

16時すぎ、道の駅を出発。歩きのゴールは、西船生(にしふにゅう)駅のつもりだ。旧版地形図(1:50,000地形図、1:200,000帝国図とも)には「ふにふしんでん(船生新田)」という駅名で、新田集落の西の旧道と交差する付近に描かれている。しかし大出さんによると、実際はそれよりさらに西、船場集落の北にあったそうだ。

行ってみると、確かにそこは道幅が広く取られ、駅前通りの雰囲気をもつ道が南へ伸びている。それが日光北街道(現 国道)に行き当たる地点に、「西船生」のバス停があるのも有力な傍証になるだろう。

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船生~西船生間は一本道の農道が続く
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(左)西船生駅跡
(右)マイクロバスで新高徳へ
 

線路はなおも西をめざし、白石川を横断していたのだが、廃線跡の道路は河岸林の手前で途切れ、薮に没している。きょうは一日曇り空で、もう薄暗い。予定どおり探訪はここまでとして、新高徳へ行く17時12分発のバスに乗るべく、停留所へ足を向けた。

【付記】

今回訪れなかった西船生~新高徳間はみごとに直線ルートで、遅沢川の前後を除いて廃線跡をなぞる道路がある。また、交流館の展示パネルによれば、遅沢川を渡っていた橋梁の石積みの橋台が今も残っているという。

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1:25,000 西船生~新高徳駅間
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矢板線現役時代の1:50,000地形図(1929(昭和4)年修正図)
西船生~高徳間
 

掲載の地図は、陸地測量部発行の5万分の1地形図矢板(昭和4年修正測図)、日光(昭和4年修正測図)、20万分の1帝国図日光(昭和12年修正改版)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図矢板(昭和43年修正測量)、玉生(昭和51年修正測量および令和2年調製)、鬼怒川温泉(平成28年調製)ならびに地理院地図を使用したものである。

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2020年9月26日 (土)

フルカ基底トンネルとベドレットの窓

前回取り上げたレッチュベルクトンネルの他に、スイスにはもう一つ、迂回ルートをとる長大鉄道トンネルがある。それが、フルカ基底トンネル(ベーストンネル)Furka Basistunnel だ。

トンネルは、フルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn (FO) (現 マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB))の路線の一部として、1982年に開通した。長さは15.4km(下注)あり、当時、狭軌線用としては世界最長だった。

*注 トンネルの正確な長さについては15,442m(H. G. Wägli "Bahnprofil Schweiz" 2010)、15,384.67m("Der Furka Basis-tunnel" Schweizer Ingenieur und Architekt 1982)など、文献により異同がある。

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開通当日のフルカ基底トンネル
Photo from matterhorngotthardbahn.ch
 

トンネルが位置するのは、ヴァレー州のオーバーヴァルト Oberwald 駅とウーリ州のレアルプ Realp 駅の間だ。この間を結んでいた旧線は、ローヌ氷河 Rhonegletscher を間近で見られる景勝路線として知られたが、反面、アプト式ラックレールを使う険しい山越えルートでもあった。

さらに、豪雪地帯を通るため、冬が来る前に被害を受ける可能性がある鉄橋や架線を撤去する。そうして半年以上も運休し、雪が融けるのを待って設備を復元するという作業を毎年繰り返していた。基底ルートの開通で、鉄道は初めて通年運行が可能になり、ラック鉄道に比べて所要時間の画期的な短縮も実現された(下注)。

*注 旧線はいったん廃止となったが、1992年以降、順次保存鉄道として復活していった。本ブログ「フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり」参照。

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フルカ基底トンネルと周辺の鉄道路線
赤線が MGB線
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フルカ基底トンネル東口(2013年撮影)
 

フルカ基底トンネルは、その名にもかかわらず、フルカ峠の下を通っていない。両ポータル(坑口)間の直線距離は12.6kmだが、南へのふくらみのせいで2割以上冗長な旅をしている。トンネルを長くすれば、その分ふつうは工期が延び、工費も増える。敢えてその選択をしたのはどんな理由があるのだろうか。

最大の理由は、沿線の不安定な地質だ。MGB が通過するローヌ谷 Rhonetal、アンデルマット Andermatt のあるロイス川 Reuss 上流、そしてフォルダーライン谷 Vorderrheintal は、西南西~東北東方向の明瞭なリニアメント(地形の直線的走向)を形成している。これはローヌ=ライン溝 Rhone-Rhein-Furche と呼ばれる地質構造線だ。地下には多数の断層破砕帯が走っていることが想定され、それと並行にトンネルを掘れば、技術的に著しい困難を伴っただろう。

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ローヌ=ライン溝(図中の破線)とフルカ峠の位置
Base map by Markusp74 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

二つ目の理由は、線路勾配の問題だ。トンネルの東口に対して西口は低く、高度差が160mもある。直線ルートで中間点をサミットにした場合、西側は勾配が25‰以上になる計算だ。電気運転とはいえ、貨物列車の運行を考えれば、急勾配は望ましいものではない。ルートを延長することは、勾配の緩和につながる。

*注 建設されたトンネルの勾配は、サミットの西側が上り16.540~17.496‰、東側が下り2~3.106‰となった。

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フルカ基底トンネルの縦断面図
from Brochure "Der Furka-Basistunnel" Schweizer Ingenieur und Architekt Sonderdruck aus Heft 24/1982
 

そしてもう一つ、迂回の原因として誤解(?)されてきたのが「ベドレットの窓 Bedretto-Fenster(下注)」の存在だ。フルカ基底トンネルには、内部で南に分岐する支線トンネルがあり、ティチーノ州のベドレット谷 Val Bedretto に抜けている。それでベドレットの窓と呼ばれるのだが、地図でルートを確かめると、あたかもこれを造るために本線トンネルが曲げられたように見える。

*注 ここでは直訳で「窓」としたが、より正確には開口部を意味する。

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フルカ基底トンネルの平面図
赤の破線が「ベドレットの窓」
Photo from matterhorngotthardbahn.ch
 

しかし、ベドレットの窓の実態は、本線トンネル工事のための作業坑だ。トンネル工事では、両端から掘り進めるほかに、作業坑経由で中間部からも同時に掘削を行って、工期の短縮を図ることがある。フルカ基底トンネルの場合も、工区が三つに分割され、「窓」は中央工区(ベドレット工区)へのアクセスルートだった(上図参照)。

その断面は幅、高さとも2.7mで、本線トンネルの寸法のおよそ1/3しかなく、本線列車を通すことはできない。長さは5221mで、ほぼ直線のルートだが、坑口から4080mの地点に悪い地質を避けた迂回箇所がある。

本線の工事中は、坑内に600mm軌間(下注)の簡易軌道が敷設された。バッテリー駆動の小型機関車がトロッコを連ね、掘削土砂の搬出や建設資材の搬入に従事していた。単線のため、途中に長さ100mの側線を備えた列車交換所が5か所設けられていた。工事が終盤に入ると、列車の往来は頻度を増したが、単に掘削土砂を固めただけの路盤のために、しばしば脱線を引き起こしたという。

*注 760mm説もある。

ベドレット谷のポータルは、ヌフェネン街道 Nufenenstraße からロンコ Ronco の村へ通じる道が分岐する地点に置かれた。隣接して資材置場やコンクリート工場をもつ作業基地が造成され、簡易軌道がそこに接続していた。

1982年の本線トンネル完成に伴い、「窓」は託された役目を終えた。緊急時の避難路や保守作業の通路として活用されることもなかった。ポータルはコンクリートで封鎖する計画だったが、実際には鉄格子の門で閉じられた。

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「ベドレットの窓」ポータル
(左)頂部にトンネル完成の年を刻む
(右)砂利工場の奥で草むらに埋もれていた
(2010年撮影)
Photo by Markusp74 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

ベドレットの窓の存在により、難工事のため遅延を重ねていた本線トンネルの工期が、1年から1年半節約できたという評価がある(下注)。しかしそれは、「窓」が最初から作業坑として計画されたことを意味するものではない。むしろ、その建設の是非については、特に費用対効果の面で計画段階からさまざまな議論があった。なぜなら、それが単なる作業坑とはみなされていなかったからだ。

*注 "Der Furka-Basistunnel" Schweizer Ingenieur und Architekt Sonderdruck aus Heft 24/1982 p. 2

この山塊に長大トンネルを建設する構想は1950年代からあるのだが、地元ヴァレー州選出の連邦議会議員ローガー・ボンフィン Roger Bonvin は、それをさらに膨らませた形で、現 基底トンネルの西口にあるオーバーヴァルトを「アルプスの回り木戸 Alpendrehkreuz」にすることを夢見ていた。

オーバーヴァルトはヴァレー州の東端に位置し、北はグリムゼル峠でベルン州に、東はフルカ峠でウーリ州に、南はヌフェネン峠でティチーノ州につながっている。これをすべて鉄道トンネルで実現させるというのが彼の夢の最終像だった。

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オーバーヴァルト駅に停車中のレアルプ方面行き列車
(2013年撮影)
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DFB車窓から望むフルカ基底トンネル西口
(2013年撮影)
 

1970年に連邦議会に提出されたフルカ基底トンネルの計画案に、作業坑という位置づけながらベドレットの窓が明記されたのは、彼ら推進派の活動のたまものだっただろう。案には、「窓」の建設により結果的に200万フランの建設費が削減できると記されていたが、逆にその分建設費がかさむという反論も出されて、議論は紛糾した。1971年6月に建設が決定した後も、1973年6月の着工まで反対意見は根強く残った。

予算の制約を受け、「窓」は小断面で建設された。ルート上の地層は主として固いロトンド花崗岩のため、壁面は素掘りのままだ。断層帯を通過する区間も、鋼材と木組みによる補強にとどめられている。しかし、別の見方をすれば、断面の拡張が容易で、将来的な活用の可能性が排除されていないことになる。推進派もおそらくそう考えていたに違いない。

しかし、ここをアイロロ Airolo 行きの列車が走ることはついぞなかった。作業基地を転用した砂利工場の奥で長年放置されている間に、「窓」の内部では3か所で崩落が起きていた。ようやく改修の手が入り、再び通行できるようになったのは2015年のことだ。それは、本線トンネルに新しい換気システムが導入され、火災発生時に新鮮な空気を送り込むダクトを「窓」に通すことになったからだ。

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素掘りのままの「ベドレットの窓」内部
左上は換気システム用のダクト
(2019年撮影)
Photo by Pierre Granite at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

さらに2017年、ポータルから1.5kmの列車交換所だったところで、チューリヒ工科大学 ETH Zürich が研究施設を整備し始めた。このベドレット地熱エネルギー地下研究所 Bedretto Underground Laboratory for Geoenergies、略称 ベドレットラボ Bedrettolab は、地熱の安全で効率的な利用技術を研究するための施設で、2019年5月に正式にオープンした。

こうして、文字通り無用の「長物」だったベドレットの窓に、近年ようやく新たな役割が付されるようになった。推進派の当初の構想からは遠ざかってしまったが、これはこれでアルプスの地下を貫くトンネルとしての存在価値と言えるのかもしれない。

本稿は、"Dieser gebürtige Oltner gilt als Mister Furka Basistunnel" Oltner Tagblatt, 8 August 2019、"Der Furka Basistunnel" Schweizer Ingenieur und Architekt Sonderdruck aus Heft 24/1982 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
マッターホルン・ゴットハルト鉄道 https://www.matterhorngotthardbahn.ch/
ベドレット地熱エネルギー地下研究所 http://www.bedrettolab.ethz.ch/

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 フルカ山岳蒸気鉄道 III-ルートを追って
 レッチュベルクトンネルの謎のカーブ

2020年9月18日 (金)

レッチュベルクトンネルの謎のカーブ

スイスアルプスを南北に貫く鉄道軸の一つが、首都ベルンから南下するベルン=レッチュベルク=シンプロン鉄道 Bern-Lötschberg-Simplon-Bahn(以下 BLS と略す、下注)だ。これは、ベルンアルプス(ベルナーアルペン)Berner Alpen を長大なトンネルで貫いてローヌ谷のブリーク Brig に至るルートで、ブリークからは、シンプロントンネルを介してイタリアに通じている。

*注 本来のBLS線は、トゥーン Thun ~ブリーク間と、シュピーツ Spiez ~インターラーケン・オスト Interlaken-Ost 間だが、1997年に周辺の小鉄道3社を統合し、路線網が拡張された。

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レッチュベルクトンネル南口(2012年)
Photo by Adrian Michael at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

BLS線にとって要の位置を占めるのが、レッチュベルクトンネル Lötschbergtunnel だ。1906年に着工され、6年の工期を経て、1912年に竣工した(開業は1913年)。14.6kmの長さがあり、当時、シンプロン Simplon の第1および第2、ゴットハルト(ゴッタルド)Gotthard/Gottardo に次いで4番目に長いアルプス横断鉄道トンネルだった。

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レッチュベルクトンネルと周辺の鉄道路線
赤線が BLSの旧 本線区間
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カンダーシュテーク駅
Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

トンネルの北口はカンダー谷のカンダーシュテーク Kandersteg に、南口はレッチェン谷のゴッペンシュタイン Goppenstein に置かれている。大規模な山岳トンネルのルートは直線が望ましい。距離が最短になるだけでなく、当時の技術では導坑掘進の際に生じがちな測量誤差を、最小限に抑えることができるからだ。

ところが地形図を見ると、トンネルの平面線形は直線どころか、途中で妙なカーブを描いている。試しに北口と南口に定規を当ててみると、両端の区間は同一直線上にあることがわかる。そこで、本来トンネル全体が直線で計画されていたにもかかわらず、何らかの理由で中間部を曲げざるを得なかったという推測が成り立つ。

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1:100,000地形図に描かれたレッチュベルクトンネル
41 Col du Pillon 1992年
42 Oberwallis 1993年
© 2020 swisstopo
 

と、ここまで来れば、鉄道に詳しい方なら、上越新幹線の高崎~上毛高原間にある中山トンネルを想起されることだろう。建設中に大量の出水に見舞われ、ルート変更を余儀なくされた事例だ。現場に半径1500mのカーブが設けられたため、通過する列車に今も速度制限が課せられている。

掘削技術が進歩した1970~80年代でもそれほどの難工事があったのだから、さらに70年も前のレッチュベルクでの苦難は推して知るべしだ。いったい何が起こったのだろうか。スイス土木工学学会の刊行書籍「スイスにおけるアルプス開鑿史」(下注1)のレッチュベルクトンネルの章に、その顛末を記した技師ロートプレッツ Rothpletz 博士の手記(下注2、原文はドイツ語)が抜粋引用されている。それによると…

*注1 "Historische Alpendurchstiche in der Schweiz" Gesellschaft für Ingenieurbaukunst, 1996.
*注2 F. Rothpletz "Erinnerung an die schwersten Tage meines Lebens und deren Folgen(わが人生で最も困難な日々の記憶とその結末)" 1944.

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「スイスにおけるアルプス開鑿史」表紙
 

「1908年7月23日、… 底設導坑の胸壁は、坑門からの測定で2.675 kmに達していた。…」

「(夜)1時ごろ、私は坑門の外約200mにある家にいた。疲れていたのですぐに深い眠りについたが、3時頃、技師の一人に起こされた。『トンネルで何かあったようです』彼はそう言うと、先に出ていった。」

「坑門に着くと、しんと静まり返っていた。管理事務所では、全員が出払っていて、何が起きたのかほんとうに誰も知らないという答えだった。入坑簿を確かめたところ、掘削現場のほぼ全員が戻ってきていないことがわかった。彼らはまだ坑道内に残されていたのである。私は何が起きたのかを調べるために、すぐに現場監督とともに人けのない坑道に入った。坑門から1200mで、円錐形の岩屑に遭遇した。坑門から約1500mの地点で、坑道が岩屑で満たされ、その堆積から水が流れ出していることが明らかになった。」

「私はすぐに悟った。先進坑で崩壊が起きたこと、そしておそらくガステルン谷の堆積物がその中に流入したことを。全員の消息が不明だった! (後日)ガステルン谷で行われた調査で、(河原に)直径約80m、深さ3mの漏斗状の陥没が発見された。すなわち、最後に仕掛けた発破で岩の壁が破られ、… 坑道にガステルン谷の堆積物が流入したのだ。… 地質調査で推定されていた、坑道の上にはまだ厚さ100mの石灰岩の層が横たわっているというのは、誤りであった。」

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ガステルン谷の陥没現場
Photo from E-Pics Bildarchiv online. License: CC BY-SA 4.0
 

「捜索中、円錐形の岩屑の端からさほど遠くないところで作業員の一人が死亡しているのが見つかった。24名の同僚の代わりにカンダーシュテークの墓地に埋葬されたのは、彼だけだった。」

「自然岩盤がどれほどの深さで、トンネルが横断する可能性のある岩屑の堆積がどれほどの長さになるかを確かめるために、ガステルン谷で探査の手筈が整えられた。… その結果、ガステルン谷は想定以上に深く侵食されたうえ、再び埋め尽くされていたことが判明した。それはトンネルの横断予定地点よりはるかに深く、トンネルの上にあったのは厚さ100mの岩盤ではなく、カンダー川の水が浸透した172mもの堆積物、モレーン、押し出された岩屑であった。」

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オリジナルルートの縦断面図
専門委員会報告書 Rapport de la Commission des Experts、1909年 より
 

「ガステルン谷の堆積物に長さ350mの坑道を通す方法と、この作業を実行するのに必要な時間と費用を決定するために、大規模な調査が必要になった。」

「圧縮空気方式で横断するのは、おそらく10気圧以上の水圧を計算する必要があるため、現実的ではないように思われた。それに3気圧以上になると、人力での作業が可能性の限界にほぼ達してしまう。」

「凍結方式と同様に、セメント固結方式の成功も疑わしかった。水流があると、セメントは高価な冷却材と同じく運び去られてしまうからである。… また、二つの方法とも十分に固結されなければ、172mの堆積物が新たに流入する危険があり、事故再発の可能性があることも懸念された。」

「まもなくパリから現れた(建設コンソーシアムの)7人の企業家たちは2日目に、ガステルン谷の事故現場を迂回することに疑問を呈した。… それに対して私は、これほど危険を伴う工事を作業員に行わせるわけにはいかないと言った。というのも、トンネルの完成というゴールに導いてくれる、より安全な方法が他にあるに違いないし、それを私たちは、危険個所の迂回によって確保できると思っていたからである。最終的に、トンネルを迂回させ、今より800m長くするという決定がなされた。この迂回ルートは、特段の事故や困難に遭うこともなく、無事竣工した。」

「災害で生じた財政的な影響を、鉄道会社と建設コンソーシアムのどちらが負うべきかを巡っては訴訟になったが、後者が全面的に敗訴した。災害は不可抗力によるものではなかったため、契約書の文面により後者の責任とされたのである」。

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現ルートと新ルート周辺の地質図
専門委員会報告書、1909年より

博士が記しているように、トンネルは本来、ガステルン谷(地形図の表記はガステレタール Gasteretal)の基盤を形成している固い石灰岩の層を通過する計画だった。ところが、谷の岩盤が想定以上に深く削られており、上流から運ばれてきた砂礫や泥がその上にうず高く堆積していた。事故は、先進坑がその未固結の層に達したことから起きた。地圧のかかった堆積物が地下水もろとも一気に流入し、坑内を埋め尽くしてしまったのだ。

事故後、埋没した導坑への進入が何度か試みられたが、そのつど岩屑の崩落により阻まれた。24名の作業員の捜索は断念せざるを得なかった。掘削を継続するために、砂礫層の凍結、またはセメントによる固結工法も検討された。しかし、ガステルン谷は、融雪期以外は地表に水流がない涸れ谷で、大量の伏流水が地下に浸透しており、その量と速度から判断して、地盤の安定化は困難だった。

直線ルートの維持が不可能となったことから、改めて詳細な地質調査が行われ、谷を横断する位置を約2.5km上流に移す迂回ルートが計画された。そして、既存の導坑のうち迂回の起点から先の約1.5kmが放棄され、レンガで永遠に封鎖された。

その年(1908年)の12月、連邦議会で計画変更が承認され、建設工事は翌年2月15日にようやく再開される。この結果、当初長さ13,805mになるはずだったレッチュベルクトンネルは、807m延長されて14,612mとなるとともに、地図上にも異様に曲がったルートが描かれることになった。

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1911年5月14日貫通式の来賓用特別列車
ゴッペンシュタインにて
Photo from www.bls.ch
 

こうして苦難の末に完成したレッチュベルクトンネルとBLS線は、1世紀近くもの間、ドイツ、スイス、イタリアを結ぶ国際幹線の一部として重要な役割を果たし続けてきた。

1926年にはトンネルを挟む区間で、無蓋貨車に自動車を載せて運ぶカートレイン Autoverlad のプロトタイプが開始され、1960年には定期運行化されるようになった。また、トンネルは最初から複線で建設されていたが、1992年にはアプローチ区間を含めた全線が複線化されて、輸送力の強化が実現している。

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(左)初期の自動車輸送
 Photo from www.bls.ch
(右)ブリーク駅を通過するイゼッレ Iselle ~カンダーシュテーク間のカートレイン
 Photo by NAC at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

しかし2007年に、長さ34,577mのレッチュベルク基底トンネル Lötschberg-Basistunnel とそれに接続するバイパス新線が開業したことで、レッチュベルクトンネル経由の旧線はメインルートの地位から降ろされた。同じく基底トンネルが開通したゴットハルト旧ルートと同様、現在は、1時間に1本のRE(レギオエクスプレス、快速に相当)が通るだけのローカル線となって、余生を送っている。

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レッチュベルク基底トンネル北口
旧線がその上を交差する
Photo from www.bls.ch
 

■参考サイト
BLS https://www.bls.ch/
AlpenTunnel.de http://www.alpentunnel.de/

★本ブログ内の関連記事
 フルカ基底トンネルとベドレットの窓
 スイスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 スイスの鉄道時刻表

2020年9月 6日 (日)

ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内

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ヴィラーグヴェルジ駅での列車交換
 

登山鉄道(下注)の終点から左のほうへ3~4分も歩くと、いささか無骨な石張りの建物が現れる。壁に箱文字で、GYERMEKVASÚT(ジェルメクヴァシュート、子供鉄道)とハンガリー語で大書してあるものの、他に駅であることを示す手がかりは皆無だ。一人のときは一抹の不安を覚えるが、くたびれたガラス扉から覗けば、出札窓口があるのが見えるだろう。

*注 登山鉄道については「ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ」参照。

子供鉄道の起点駅セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)は、標高465mの高みにある。ただし、地形的にはほぼ平坦で、山上らしさはあまり感じられない。駅前は公園なのだが、レストランとイベント施設が1棟ずつあるだけで、他に商店も住宅もないもの寂しい場所だ。

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セーチェニ・ヘジ駅舎
(左)正面 (右)ホーム側
 

駅舎に入ると、二つの出札口のうち一つが開いていた。子供鉄道では市内交通のチケットが一切使えないから、ここで切符を買っておかなければならない。運賃は全区間同額で、乗車券には1回券、2回券(2回乗車可、但し当日限り有効)、家族向けの1日券などの種類がある。

2020年8月現在の価格は、1回券が800フォリント(1フォリント0.35円として280円)、2回券が1400フォリント(同490円)、家族1日券が4000フォリント(同1400円)だ。支払い方法はフォリントの現金のみで、クレジットカードなどは扱っていない。現金の収受と集計もまた子どもたちの仕事であり、社会教育の一環だからだ。

ホール壁面には、おそらく卒団記念に撮ったのだろう子供鉄道員の集合写真が、年代順にずらりと掲げてある。写真はグループ単位で、まだあどけなさを残す十数人のメンバーの後ろに、中等学校生(高校生)か大学生とおぼしき3人のリーダーたちも写っている。

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駅ホール、がらんとした空間に出札口が二つ
 

駅舎を抜けると青空の下に、ブロックで線路と区切っただけの砂利敷ホームが広がっていた。一応2面2線の格好だが、どちらに降りようと問題なさそうだ。駅舎との間には腰丈の鉄柵があり、列車が到着したときだけ扉が開放される。ホームの端には背の高い腕木信号機が2本立っていて、信号扱所に詰めた子供鉄道員の転轍操作に連動している。

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2本並んだ腕木信号機
 

そのうち駅務室から赤い制帽を被った少女たちが出てきたと思ったら、ヒューヴェシュヴェルジの方向から列車が現れた。Mk45形ディーゼル機関車を先頭に客車3両の編成で、中央の1両は側壁のないオープン客車だ。

右手をかざす少女鉄道員の敬礼に迎えられ、列車は駅舎から遠い側のホームに入線した。停車するや、青帽、青ネクタイの車掌とおぼしき少年(下注)が真っ先に降りてきて、鉄柵の扉を開ける。子犬を連れた乗客の集団がそれに続く。

*注 そのときは車掌だと思ったのだが、正確には彼は検札係だった。子供鉄道員の仕事については前回「ブダペスト子供鉄道 I-概要」で触れている。

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列車の到着
 

まもなく、折返し運転に備えて機関車を逆側に付け替える機回し作業が始まった。もちろんこれは大人の仕事だ。反射チョッキを着た車掌が添乗し、機関車を誘導する。手前の線路を通り、腕木信号機のさらに先まで行き、客車の前に戻ってきた。連結作業も車掌が行う。

ホームでは、次の乗客たちが客車に乗り込んでいく。今日はよく晴れて、まだ6月中旬というのに気温は34度に達している。こんな日は風通しのいいオープン車両の人気が高い。

赤帽の少女が勢いよく笛を吹き、柄の先に円のついた標識を前に差し出した。列車に乗り組んだ少年鉄道員たちが、腕を外に伸ばして異常なしを告げる。それを確認した少女は標識を運転士に向け直し、上げ下げした。これが発車の合図らしく、列車はゆっくりと動き出した。

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(左)機回し作業
(右)出発の合図
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オープン客車
ヒューヴェシュヴェルジにて
 
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子供鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

構内を出てしばらくは直線路だ。ベンチシートで風に吹かれていると、さっそく車掌(検札係)の少年が一人で検札に回ってきた。揺れる車内で切符を受け取り、鋏を入れて返してくれる。切符を所持していない乗客に対しては運賃回収に伴う現金の授受があるし、乗客の中には何やら質問をする人がいて、それにも的確な返事をしなければならない。まさに接客の最前線で、しっかりした子供でないと務まらないだろうなと思う。

最初の停車はノルマファ Normafa mh. だ。駅名の後についている「mh.」は megállóhely(メガーローヘイ、停留所)の略で、棒線かつ無人の簡易な乗降場をいう。ノルマファは山上の公園で、冬はスキーが楽しめる市民の憩いの場所だが、麓から直行のバス路線があるので、子供鉄道の乗降はほとんどない。

このあと、線路は左へカーブしていく。車窓が森に閉ざされたところで、チレベールツ Csillebérc 駅に着く。社会主義時代、ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市の意)と称していた駅だ。隣接地にある休暇・青少年センター Szabadidõ- és Ifjúsági Központ が、当時のピオネールキャンプで、駅舎もそれを意識してか、屋根に時計塔を載せ、妻面にはピオネールの活動が浮き彫りされている。列車は左の線路に入り、ハンガリーでは珍しく左側通行であることに気づいた。

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(左)ノルマファ停留所
(右)チレベールツ駅
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(左)屋根に時計塔、妻面にピオネールの絵
(右)「ピオネールは木を植える」?
 

線路はここから一方的な下り坂になる。花の谷を意味するヴィラーグヴェルジ Virágvölgy は、最初に開通した区間(1948年)の終点だ。ここで、列車交換があった。子供鉄道の駅(アーロマーシュ állomás)には必ず待避線が設けられ、列車交換が可能だ。そして大人の駅長(?)と、何人かの子ども駅員の姿がある。

例の円形標識を持っているのが、赤帽をかぶった年長者で列車を受取り、送り出す役(記録主任)、その横には見習いだろうか、青帽の年少者がついている。さらに構内終端には、転轍てこを操作する別の少年がいる。

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ヴィラーグヴェルジ駅で列車交換
(帰路写す)
 

ヴィラーグヴェルジを出て少し行くと、張り出し尾根を横断する急カーブにさしかかる。下り勾配の途中で、列車はレールをきしませながら、ゆっくりと回っていく。

次のヤーノシュ・ヘジ János-hegy(ヤーノシュ山の意)は、深い森に埋もれた小さな駅だ。セーチェニ・ヘジ方に鉄道員詰所の建物はあるが、旅客施設としては、線路際に並ぶ数脚のベンチがすべてだ。駅名が示すようにヤーノシュ山頂への最寄り駅で、ハイキング客が利用する。

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(左)ヤーノシュ・ヘジ駅、奥に詰所がある
(右)駅からの登山道
 

標高527mのヤーノシュ山は、ブダペスト市域で最も高い地点になる。山頂には、王国時代の1911年に建てられた石造のエルジェーベト展望台 Erzsébet-kilátó(下注)がそびえていて、上層のテラスからは、ドナウ川とともに、ブダペスト市街地の王宮の丘や国会議事堂が遠望できる。

*注 展望台の名は、1882年にこの地を訪れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 Franz Joseph I の妻エリーザベト Elisabeth にちなむ。

後で山頂まで歩いてみたのだが、さほど険しくもなく、森の中を行く気持ちのいい山道だった。所要時間は、駅(標高408m)からチェアリフト Libegő の山上駅前(同 約480m)までが15~20分、そこから山頂まで階段道で5~6分というところだ。帰路は、子供鉄道に戻らなくても、チェアリフトで山麓のズグリゲト Zugliget へ降り、路線バス(下注)に乗継ぐ短絡ルートがある。

*注 バスは291番西駅 Nyugati pályaudvar 行き。セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér 方面へは、途中のブダジェンジェ Budagyöngye でトラムに乗り換え。

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山頂に建つエルジェーベト展望台
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展望台からブダペスト中心部を遠望
左にドナウ川に面した国会議事堂
中央~右に王宮の丘が続く
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山上からズグリゲトへ降りるチェアリフト
(左)山上駅
(右)市街を俯瞰しながら降りる
 

話を鉄道に戻そう。ヤーノシュ・ヘジ駅から下っていくと、ヴァダシュパルク停留所 Vadaspark mh. を通過する。2004年に開設され、2017年までは夏季と週末に停車していたが、現在は事前申請があった場合にのみ停車するリクエストストップだ。

この後、ブダケシ通りをオーバークロスして、線路は山の東側斜面に移る。セープユハースネー Szépjuhászné は、第2区間の終点だったところだ。駅舎はそれらしく規模の大きな造りで、軽食のテイクアウトがある。

セープユハースネーを出ると、線路は大ハールシュ山 Nagy-Hárs-hegy、小ハールシュ山 Kis-Hárs-hegy の山腹を大きく迂回していくが、その間に、ブダペスト市街が見える貴重な場所を通過する。子供鉄道の沿線で、展望が開けるのはほぼここだけだ。時間にすれば何十秒という短さなので、右側の車窓に注目していたい。

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(左)行路は森林鉄道さながら
(右)セープユハースネー駅(帰路写す)
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車窓からブダペスト市街の展望
 

ハールシュとはセイヨウシナノキ、ドイツ語でリンデンバウム Lindenbaum(菩提樹)のことだ。山の名を戴くハールシュ・ヘジ Hárs-hegy が、最後の中間駅となる。地図を見ると、この後、高度を下げるための極端な折り返しがある。右側にこれから通る線路が俯瞰できそうに思うが、実際は森に隠され、いっさい見ることができなかった。列車は、長さ198m、路線唯一のトンネルで、進む方向を180度変える。

道路をまたぐ高架橋を渡ると、まもなく終点のヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy(下注)だ。ここでも子ども駅員たちが列車を迎えてくれる。

*注 ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy(冷えた谷、涼しい谷の意)という地名は、ドイツ語のキューレンタール Kühlental に由来し、おそらく日陰になる谷地形(したがって耕地には不適)を表している。

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(左)ハールシュ・ヘジ駅
(右)路線唯一のトンネルへ(帰路写す)
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ヒューヴェシュヴェルジ駅で発車を待つ列車
 

ヒューヴェシュヴェルジ駅は、起点セーチェニ・ヘジと比較すると、施設配置がかなり異なる。平面構造は1面2線で、2本の線路が島式ホームをはさむ形だが、そのホーム上に信号扱所があるのだ。駅は山裾の緩斜面に位置しており、線路の片側は盛り土になっている。それで他の駅のように、線路の側面に信号扱所を設置できないのが理由だろう。

さらにその続きに出札窓口、トイレ、そして子供鉄道博物館 Gyermekvasút Múzeum と、旅客関係の機能がホーム上に集約されている。かつての駅舎は、一段低い駅前広場に面して残っているが、もはや単なる通路でしかなく、建物の3/4は「キシュヴァシュート Kisvasút(軽便鉄道)」という名のピザレストランの営業エリアだ。

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(左)元の駅舎にはピザレストランが入居
(右)駅舎内は通路化され、奥にホームへ上がる階段がある
 

子供鉄道博物館というのは、ピオネール時代からの写真や備品などさまざまな資料を保存展示する資料館だ。何分ハンガリー語なので内容を読み取ることは難しいが、乗車券を手作りしていた古い印刷機や、閉塞器、転轍てこ、それに子供鉄道員の制服などの実物も置かれている。鉄道のOB、OGたちには懐かしいものばかりだろう。博物館は週末と5~8月の毎日開館している。入場料100フォリント。

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子供鉄道博物館
(左)入口 (右)内部
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(左)手前は乗車券印刷機
(右)鉄道運行の資料も
 

路線建設の順序から言えば終点に違いないのだが、子供鉄道の運行拠点はこのヒューヴェシュヴェルジだ。なぜなら、ホームの数百m先に車両基地が置かれ、整備はそこで行われる。また、駅前広場の北側に鉄道の本部施設があり、子どもたちはそこで最初のコースを学ぶ。さらに、市街地からトラム1本でアクセスできるため、鉄道の利用者もこの駅が最も多い。それは、駅でレストランが営業しているという事実からもわかるとおりだ。

さて、駅前広場を左に取ると、とんがり屋根を連ねた階段があり、トラム(路面電車)のターミナルに降りられる。ヒューヴェシュヴェルジは市街地から上ってくるトラム路線の終点で、郊外バスとの乗継地になっている。同じような古風なスタイルの木造駅舎や休憩所が残り、おとぎの国に迷い込んだような雰囲気だ。

トラムは数系統来ているが、どれに乗ってもブダの交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér)と南駅 Déli pályaudvar を経由する。

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ヒューヴェシュヴェルジのトラムターミナル
(左)子供鉄道駅へ上がる屋根付き階段
(右)古風な待合所
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バスとトラムを平面で乗継ぎ
 

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

★本ブログ内の関連記事
 ブダペスト子供鉄道 I-概要
 ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

2020年8月31日 (月)

ブダペスト子供鉄道 I-概要

ブダペスト子供鉄道 Budapesti Gyermekvasút (Budapest Children's Railway)
(正式名:ハンガリー国有鉄道セーチェニ・ヘジ子供鉄道 MÁV Zrt. Széchenyi-hegyi Gyermekvasút)

セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy ~ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 間 11.2km
軌間760mm、非電化
1948~1950年開通

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到着する列車を迎える子供鉄道員
セーチェニ・ヘジ駅にて
 

「世界最長の子供鉄道線」。ヒューヴェシュヴェルジ駅のホームにある駅舎の壁に、2015年にギネス世界記録に認定されたことを示すプレートが掲げてある。いわく、「最長の子供鉄道線は、ハンガリー、ブダペストのヒューヴェシュヴェルジ駅とセーチェニ・ヘジ駅の間を走っている長さ11.7018km(7.27マイル)の狭軌子供鉄道である。鉄道は、最初の3.2km(2マイル)区間が1948年7月31日に開通して以来、運行を続けてきた。」

*注 11.7018kmは車両基地終端までの路線長で、営業区間は11.2km。

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ギネス世界記録認定のプレート
 

子供鉄道と聞くと、遊園地で子どもたちを楽しませている遊具のミニ列車を想像してしまう。確かに狭軌線で公園などに敷かれていることが多いため、どちらも見た目は似ている。しかし、ここでいう子供鉄道は、ソ連を中心とした旧社会主義諸国で社会教育組織として運営されていた鉄道のことだ。ピオネール(少年団)活動の一翼を担っており、ピオネール鉄道とも呼ばれていた(下注)。

*注 ロシア語のピオネール пионе́р は英語の Pioneer に相当する。ソ連圏の子供鉄道については、ウィキペディア日本語版「子供鉄道」が詳しい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/子供鉄道

社会主義政権の終焉後、こうした小鉄道は廃止されたり、遊園地の乗り物に転換されたりしたが、子どもを構成員とする組織体により運行されている鉄道路線も、いまだに存在する。その中でおそらく最大のものが、ブダペスト西郊の山中を走るこの子供鉄道だ。

ここでは、線路が公園内を周回するのではなく、公共路線(登山鉄道とトラム)の2つの終点を連絡する形で延びている。使用されている車両も一般の狭軌鉄道と何ら変わらない。ところが駅や車内では、大人に代わって制服制帽姿の子どもたちの、きびきびと鉄道員の作業をこなす姿がある。微笑ましくも、物見遊山気分で乗った者としては襟を正したくなる光景だ。

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発車準備完了

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この種の鉄道は、旧 ソ連で1932年または1933年に登場したという。第二次世界大戦後、東欧諸国でも、それに倣ったものが各地に設立されていった。鉄道としてはいずれも狭軌で、普通鉄道網とは切り離され、環状線であることが多い。ブダペストでは、1947年に建設計画がスタートしている。当時、政治体制はまだ議員内閣制だったが、第一党となった共産党の主導で政策が遂行されていた(下注)。

*注 ハンガリーは1946年に王政廃止、議院内閣制に移行。1949年に一党独裁の社会主義体制が始まる。

ソ連の軽便軌間は750mmが標準だが、ブダペストでは760mmのいわゆるボスニア軌間とされた。これは旧 ハプスブルク帝国の領内で普及した軌間で、ハンガリーでも当時はまだ地方の軽便線や森林鉄道に多数残っており、車両の融通が可能だった。

建設地についてはいくつかの案があった。帝国時代の離宮がある東郊のゲデレー Gödöllő や、ドナウの中州マルギット島 Margit-sziget なども候補に挙がる中で、最終的に西郊のブダ山地 Buda-hegység が選ばれた。既存の登山鉄道でアクセスできることと、沿線にピオネールのキャンプ地を設ける計画があったからだ。

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子供鉄道(緑)と隣接する路線の位置関係
 

建設工事は1948年4月に、セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy のゴルフ場跡地で始まった。資材や車両が登山鉄道で運び上げられ、専門の建設業者とともに、市民や学生もボランティアで作業に加わった。また、ハンガリー国鉄 MÁV の鉄道員が、運行に備えて技術指導に当たった。

こうして同年7月には早くも最初の3km区間が完成している。終点は現在のヴィラーグヴェルジ Virágvölgy 駅だが、当初はエレーレ Előre と命名された。これは「前進」を意味し、ピオネールたちが交わす挨拶言葉だった。

駅名どおりに線路の前進は続き、1949年6月にセープユハースネー Szépjuhászné(当初の名はシャーグヴァーリリゲト Ságváriliget)までの第2区間、そして1950年8月20日にヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy までの最終区間が完成して、全通の記念式典が盛大に催された。

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ヒューベシュヴェルジ駅での全線開通(引渡し)式
(1950年)
Photo by FORTEPAN / UVATERV at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

初期に使用された車両の一つが、ミシュコルツ Miskolc 近郊のリラフュレド森林鉄道 Lillafüredi Állami Erdei Vasút (LÁEV) から運ばれてきたアバモト ABamot と呼ばれる1929年製の気動車連接車両2編成(1号、2号)だ。後にリラフュレドに戻され、1号は廃車になったが、残る2号は1991年に改修を受けて子供鉄道に復帰し、今もノスタルジック・トレイン(懐古列車)として登場する。

1949年の第2区間開通に際しては、蒸気機関車も狭軌用の490形が3両導入された。森林地帯を走るため、2両は火の粉を出さない油焚きに改修されていたが、しばしば技術的な不具合が発生し、運用はごく短期間で終了した。

残る1両、1942年製の490.039は、長い静態保存を経て全面改修を受け、2007年6月から特別列車として復活している。もとバラトンフェニヴェシュ軽便線 Balatonfenyvesi Gazdasági Vasút の490.056(下写真右)も2000年から子供鉄道に在籍しているが、現在は運用から外れている。

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(左)連接式気動車アバモト(2014年)
Photo by Petranyigergo88 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
(右)490形蒸気機関車(2008年) 
Photo by Herbert Ortner at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

この鉄道の線路条件は、案外過酷だ。起終点間の標高差が235mあり、平均勾配25~30‰、最大勾配は32‰にもなる(下注)。そのため不調をきたす動力車も少なくなかったが、1973年にルーマニア製のディーゼル機関車Mk45形6両(2001~2006号)が導入されて、ようやく運用体制が安定した。この機関車群は2010年代に改修を受けて、今も主力車両として稼働している。

*注 起点から3.0kmのヴィラーグヴェルジまではほぼ平坦で、勾配は後の区間(8.1km)に集中している。

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現在の主力機関車 Mk45形
 

鉄道で働くのは、10歳(4年生)から14歳(8年生、下注)の子どもたちだ。学業優秀かつ健康な子どもだけが応募できたが、それでも入団は狭き門で、例えば1970年代には採用数の10倍の応募者があったという。

*注 ハンガリーの一般的な教育制度では、初等教育8年、中等教育4年。

彼らは交通や沿線地域や会計の知識を学び、実技指導を受け、試験に合格して現場に出る。年齢の違う子どもや大人たちに混じって鉄道員の業務を実践し、その中で責任感やコミュニケーション能力や日々起きるさまざまな課題を解決する力を身につける。こうして精神的にも成長を遂げ、卒団後はエリートへの階段を上っていった。

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セーチェニ・ヘジ駅のホールに残る
ピオネール活動のモザイク画
 

しかし、40年間続いたハンガリーの社会主義体制は、1989年に終焉を迎える。これにより、ピオネール活動の実践の場であった鉄道は存立基盤を失った。所管はピオネール協会 Úttörőszövetség から、運行を担っていた国鉄 MÁV に移されることになり、それに伴い、「ピオネール鉄道 Úttörővasút(ウーテレーヴァシュート)」の呼称も、「子供鉄道 Gyermekvasút(ジェルメクヴァシュート)」に変更された。

鉄道名だけにとどまらない。子どもたちが首に巻いていたピオネールの象徴の赤いタイは青色に代わり、機関車の正面に掲げられていた赤い星は撤去された。駅名も、ピオネールに関連するものは改められた(下注)。さらに抜本的な改革として、民営化や商業路線化も検討されたが、これは実現しなかった。

*注 エレーレ Előre(前進)→ヴィラーグヴェルジ Virágvölgy(花の谷)、
 ウーテレーヴァーロシュ Úttörőváros(ピオネール都市)→チレベールツ Csillebérc(地名)、
 シャーグヴァーリリゲト Ságváriliget(戦前の共産主義活動家エンドレ・シャーグヴァーリ Endre Ságvári を記念する公園)→セープユハースネー Szépjuhászné(美しき羊飼い、近傍の旧 修道院の名)

設立背景はともかく、子供鉄道の教育的意義は市民に広く共有されており、廃止という選択肢はなかった。とはいえ、MÁVは今や一鉄道会社であり、こうした社会教育活動に資金を投じ続けることは難しい。そこで活動の財政的安定を図るために、1995年にMÁVとブダペスト市により、子供鉄道員財団 Gyermekvasutasokért Alapítvány が設立された。

その後数年間は、MÁVが鉄道を所有・運行し、財団が社会教育活動の部分を運営するという分担体制がとられた。しかし2002年からはMÁVの一元体制に戻り、財団の役割は資金面の支援に特化されている。ブダペスト子供鉄道は、正式名を「(国鉄)セーチェニ・ヘジ子供鉄道 Széchenyi-hegyi Gyermekvasút」というが、これは子供鉄道を運営するMÁVの部門名でもある。

思想的な拠りどころをなくした今、子どもたちはどのようにしてここに集められ、どんな活動をしているのだろうか。

子供鉄道のサイトには、団員の応募資格や業務内容についての詳しい案内が記されている(下注)。それによると、500人近くの子どもたちが加入し、15のグループに分かれて活動している。グループのメンバーは常に同じスケジュールで行動し、共通の任務を引き受け、さまざまな余暇プログラムにも一緒に参加する。

*注 現行サイトでは鉄道の歴史や履修課程などの詳細が省かれているため、以下は旧サイトの記述に拠った。

グループを率いるのは、子供鉄道のOB、OGである中等学校生(高校生)や大学生の指導員たちだ。さらに現場では、大人の鉄道従業員が子どもたちの仕事を監督している。彼らもまたOB、OGであることが多く、活動のよき理解者、支援者になっていることだろう。

団員の応募資格があるのは4年生から6年生までで、評定平均が4.0以上なければならない。応募書類には、保護者とともに、通学している学校の校長と担任の同意書、さらにかかりつけの医師による検査結果を添付する必要がある。

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セーチェニ・ヘジ駅の壁面には
子供鉄道員コース Gyermekvasutas Tanfolyam の記念写真が並ぶ
 

コースは2月と10月の第1土曜から始まる。まず彼らは、鉄道業務に関する基礎知識を学ぶ。運行と安全にかかわるもののほか、乗客に案内する沿線の知識、運賃出納のために商業的な知識も必要だ。授業は、金曜午後と土曜午前に理論、土曜の午後に実技がある。そして4か月のコースの最後に試験を受ける。

現場では、リーダーシップ訓練を受けた年長者がトレーナーとなって新入団員を指導する。業務は細分化されていて、駅では、
・ポイント(転轍機)を扱う信号係 váltókezelő
・出札で乗車券を売り日計を行う出納係 pénztáros
・ホームの案内放送を担う放送係 Hangosbemondó など。
列車内では、
・検札、乗車券の発行、乗客への案内を行う検札係 Jegyvizsgáló、
・最後尾の車両でハンドブレーキを扱い、後進時の安全走行を監視する制動係 zárfékező 
などがある。

さらに上級職として、駅で列車の受け取りと送り出しを行い、運行日誌を管理する助役相当の記録主任 Naplózó forgalmi szolgálattevő(赤い帽子が目印)、その上に業務を統括する駅長相当の運行主任 Rendelkező forgalmi szolgálattevő が置かれている(下注)。

*注 日本語の職名は意訳であり、正確さを欠く可能性がある。

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子供鉄道員の仕事ぶり
(左)接客の最前線、検札係は各車両に一人
(右)列車を送り出す記録主任
 

もちろん大人の鉄道職員もいる。駅長、助役(乗車券検査役 vezető jegyvizsgálók)、それから列車の車掌、機関士、機関助士(蒸機の場合)などで、彼らはMÁVの運行規則に則り、路線の安全運行を担っている。

子どもたちには鉄道の実務だけでなく、遠足、運動会、そして2週間のヒューヴェシュヴェルジ・キャンプなどさまざまな行事が用意されており、その中で学年を超えた相互交流を深めていく。

8年生が終わると同時に、子供鉄道の活動も修了となる。8月の卒団式当日、彼らはいつものように制服を着て、すべての着任場所を回る。送別行事を共にし、最後に、世話になった鉄道職員や指導員たちに別れを告げる。

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ヒューヴェシュヴェルジ駅の通路に描かれた壁画

同種の鉄道は夏だけ運行するものが多い中、ブダペスト子供鉄道は9月~4月の月曜を除き、年間を通して運行されており、活動規模の大きさがわかる。ダイヤは季節や平日/休日によって変わるが、日中おおむね1時間に1~2本の設定だ。許容速度が20km/hとスローペースのため、全線を乗り通すには40~45分程度かかる。

起点のセーチェニ・ヘジ駅へは、登山鉄道(コグ鉄道)の駅から歩いて数分、終点のヒューヴェシュヴェルジ駅も、トラム(路面電車)のターミナルが至近距離にある。そのため、登山鉄道→子供鉄道→トラム、またはその逆の三角コースで、ブダ山地の半日遠足を楽しむ旅行者も多い。子供鉄道は、子どもたちの社会教育の場であるとともに、こうした形でブダペストの観光振興にも貢献している。

次回は、その子どもたちが運行する列車に乗って、ルートをたどってみよう。

■参考サイト
ブダペスト子供鉄道 https://gyermekvasut.hu/

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 ブダペスト子供鉄道 II-ルート案内
 ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ
 オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 I

2020年8月23日 (日)

ブダペスト登山鉄道-ふだん使いのコグ

ブダペスト登山鉄道(ブダペスト・コグ鉄道)
Budapesti Fogaskerekű Vasút (Budapest Cog-wheel Railway)

ヴァーロシュマヨル Városmajor ~セーチェニ・ヘジ Széchenyi-hegy(下注)間 3.7km
軌間1435mm、直流1500V電化、シュトループ式ラック鉄道、最急勾配110‰

1874年 ヴァーロシュマヨル~シュヴァーブへジ Svábhegy 間、リッゲンバッハ式蒸気鉄道として開通
1890年 シュヴァーブへジ~セーチェニ・へジ間延伸
1929年 直流550V電化
1973年 直流1500Vに昇圧、シュトループ式に置換

*注 正式駅名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút。

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シュヴァーブへジ駅に到着する登山鉄道の電車
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 
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ハンガリーの首都ブダペストは、ドナウ川をはさんで西側のブダ Buda、オーブダ Óbuda と、東側のペスト(ぺシュト)Pest が1873年11月に合併して誕生した都市だ。その旧体制最後の年に、ブダ市と、ニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が代表を務めるスイスの国際山岳鉄道会社 Internationale Gesellschaft für Bergbahnen (BGfB) との間で、鉄道建設と運行に関する契約が結ばれた。

それはラックレールにピニオン(コグ、歯車)を噛ませて急勾配を上下する鉄道で、ヨーロッパでは、2年前の1871年5月にスイスのリギ山 Rigi で実用化されたばかりだった。敷設の目的は、ブダ市街からシュヴァーブへジ Svábhegy への新たな交通手段の確立だ。町の西に横たわるこの丘陵地は、当時、富裕層の別荘地や行楽地として人気が高まっていた。

シュヴァーブへジは、ドイツ語でシュヴァーベンベルク Schwabenberg(シュヴァーベン山)と呼ばれる。1686年のオスマントルコからブダを奪還した戦いで、神聖同盟の一員としてドイツのシュヴァーベン Schwaben 地方から遠征してきた軍隊が、ここに砲台を築いた(下注)ことに由来するという。

*注 実際に砲台が築かれたのは、山腹の、現在キシュ・シュヴァーブ・ヘジ Kis-Sváb-hegy(小シュヴァーベン山)と呼ばれている小山。

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セーチェニ・へジに向かう急坂
 

すでに1868年以来、ドナウ河畔のラーンヒード Lánchíd(鎖橋)からヤーノシュ山麓ズグリゲト Zugliget まで、ブダ路面鉄道会社 Budai Közúti Vaspálya Társaság が馬車軌道を運行していた。新しい鉄道はそのルート上の、当時エッケ・ホモ広場 Ecce homo tér と呼ばれていた現 ヴァーロシュマヨル Városmajor を起点に選んだ。列車はそこから、浅い谷に沿って斜面を2.9km上り、張り出し尾根の肩になった標高394mの地点まで行く。契約では、夏の間1日2回、旅客輸送を提供するという条件が付されていた。

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登山鉄道沿線の地形図にルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

1873年7月に認可が下り、すぐに工事が始まった。線路は単線で、中間点(現 エルデイ・イシュコラ Erdei iskola 停留所)に列車交換のための待避線が設けられた。線路の分岐部には遷車台(トラバーサー)が設置された。

ターミナル駅には、スイス風の装飾を施した2階建、ハーフティンバーの駅舎が建てられて、登山鉄道の雰囲気を醸し出した。運行車両として当初、スイスSLM社から120馬力の2軸蒸気機関車3両と、オーストリアのヘルナルス車両製造所 Hernalser Waggonfabrik からスラムドアのオープン客車10両、無蓋貨車3両が納入された(下注)。

*注 翌年、機関車1両と客車2両を増備。

「ブダペスト登山鉄道 Budapesti Fogaskerekű Vasút」は、こうして統合ブダペスト市誕生後の1874年6月24日に無事、開通式を迎えることができた。ちなみにリッゲンバッハは、ウィーン北郊のカーレンベルク Kahlenberg(下注)でも同じ方式の鉄道を手掛けており、こちらは同年3月7日の開業だ。そのため、タッチの差でブダペストは、旅客用としてヨーロッパで3番目のラック鉄道になった。

*注 リッゲンバッハとリギ鉄道については「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」、カーレンベルク鉄道は「ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要」で詳述。

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開業初期のヴァーロシュマヨル駅
正面奥が駅舎
手前に入換用のトラバーサーが見える(1880年代)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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開業初期の登山列車
ミューヴェース・ウート Művész út 付近(1900年ごろ)
Photo by FORTEPAN / Budapest Főváros Levéltára at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

シュヴァーブへジ一帯には、低山地によく見られる適度な傾斜地が広がっている。かつては森に覆われていたが、18世紀になると開墾され、ワインの原料となるブドウの栽培が盛んになった。ところが1870年ごろからヨーロッパに蔓延した害虫フィロキセラによって、ブドウ畑は壊滅的な打撃を受ける。

耕作が放棄された土地を別荘などに転用する動きは、鉄道の開通によって拍車がかかったに違いない。居住地の拡大を受けて、鉄道をさらに上方へ延ばす計画が立てられた。そして1890年5月に、現在の終点である標高457mのセーチェニ・へジ Széchenyi-hegy(セーチェニ山の意)山上まで0.85kmが延伸開業した。

登山鉄道は、開通後長らく4月15日から10月15日のいわゆる夏のシーズンにのみ運行されていた。そのため客車も、側壁のないオープンタイプだった。しかし、定住者が増加したため、1910年から通年運行が始まった。冬の寒さに備えて客車も改造され、側面はガラス張りになり、乗降扉は端部に集約された。そり滑りやスキーなど、山でのウィンタースポーツを楽しむ人も多く利用したという。

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再現されたオープン客車
制動手が屋根上で、前方監視とともに客車のブレーキ操作を行った
Photo by Albert Lugosi at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

認可期間の満了に伴い、鉄道は1926年に市の所有となり、ブダペスト首都交通公社 Budapest Székesfővárosi Közlekedési Részvénytársaság (BSzKRt) が運行を引き継いだ。それまで路線は赤字続きで、更新費用が工面できず、設備の老朽化が進行していた。公営化を機に、市は、鉄道の抜本的な近代化に取り組んだ。その最大の方策が、蒸気から電気運転への転換だ。

電化方式は市内トラムと同じ直流550Vとされ、SLM社とブダペストのガンツ社による8編成の新車が納入された。これはローワン列車 Rowan Zug と呼ばれるもので、坂下側から電気機関車、客車(付随車)の2両セットだが、客車は自前の車軸を1本しか持たず、坂下側は機関車の車台に載りかかる形になっている。

さらに、運行間隔を短縮できるよう待避線が2か所増設され、山麓駅の末端には電車を収容する車庫と修理工場が新設される。一連の対応工事を終えた鉄道は、1929年7月に運行を再開した。

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ローワン列車
手前が電気機関車、後方が付随車の客車
Photo from www.bkv.hu
 

第二次世界大戦からしばらく、登山鉄道には不遇の時期があった。戦災で開業時の駅舎が破壊されたのに続き、戦後は、南駅 Déli pályaudvar 経由でシュヴァーブヘジ方面へ直行するバス路線(21番)が開通して、鉄道不要の議論を煽った。

市内交通の運営主体が現在のブダペスト交通公社 BKV になったのは、1968年のことだ。ブダペスト統合100周年が近づくにつれ、廃止論は終息していき、代わって存続のための再改修が検討された。

それは結局、1929年の電化に匹敵する大規模な内容になった。陳腐化したローワン列車が新しい2両連接の車両(1M1T)7編成に置き換えられる。ブラウン・ボヴェリ社 Brown, Boveri & Cie (BBC) の電気機器を積んだウィーンのジンメリング・グラーツ・パウカー Simmering-Graz-Pauker (SGP) 製の車両だ。それに伴い、電圧が直流1500Vに、ラックレールは保守の容易なシュトループ式になる。旧方式での運行は1973年3月15日が最後で、工事期間をはさんで、8月20日に新方式による運行が始まった。

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今も運行を担う1973年製の連接車両
 

それから早や50年近くが経つ。その色と形から「赤い牝牛 piros tehén」の異名を与えられた電車は、機器や内装の改修を受けながら、今なお日常運行を担う存在だ。朝5時台から夜23時台までフル運行され、平日日中は20分間隔、休日日中は12分間隔で走る。全線の所要時間は14~15分だ。登山鉄道は、2008年からブダペストの都市交通網にトラム系列の「60番」として組み込まれ、ブダの山手地区に延びる生活路線の一つになっている。

登山鉄道が出発するヴァーロシュマヨル Városmajor は、ブダの主要な交通結節点セール・カールマーン広場 Széll Kálmán tér(旧 モスクワ広場 Moszkva tér を2011年に改称)から西へ900mほどの場所にある。広場でトラム(路面電車)の56番、61番ヒューヴェシュヴェルジ Hűvösvölgy 行きか、59番セント・ヤーノシュ・コールハーズ Szent János Kórház 行きに乗って、二つ目の停留所だ。

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ブダの交通結節点セール・カールマーン広場
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(左)ヴァーロシュマヨル方面へ行くトラム
(右)その車内
 

ヴァーロシュマヨル、略してマヨル Major は、市民には都市公園の名と認識されている。トラムはそのへりに沿う濃緑の並木の下の専用軌道を走っていく。ヴァーロシュマヨル停留所で下車すると、左側に鉄格子の扉がついた門が見える。登山鉄道のターミナルは、この中だ。

門の脇に、リッゲンバッハ式のラックレールとピニオンホイールのセットが置かれていた。線路の向こうには、シュトループ式のセットもある。傍らの石碑に「登山鉄道はペスト、ブダ、オーブダ統合100年を記念して再建された。ブダペスト交通公社」と刻まれていて、1973年に行われた全面改修の記念碑のようだ。

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トラムのヴァーロシュマヨル停留所
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登山鉄道のヴァーロシュマヨル駅
(左)駅の門扉
(右)現在使われているシュトループ式の車軸とレール
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(左)1973年の鉄道再建記念碑(右奥)
(右)リッゲンバッハ式の車軸とレール
 

平屋の駅舎があるものの開いてはおらず、ましてや案内窓口や売店などはない。乗車券は市内交通と共通なので、24時間券などを持っているならそのまま使える。車庫へ通じている線路を渡ってホームへ上がり、停車中の山上方面行きに乗り込んだ。

牝牛に見えるかどうかは別として、幅広でずんぐりした形の車両は、リギ鉄道の旧型車を思い出させる。車内は、丸みを帯びた天井と扉ごとに立てられた風防が特徴的だ。座席はクロスシートで、端部はスラムドア車を彷彿とさせる5人掛け、反対側の端部は持込み自転車のためのスペースになっている。前面は塞がれて展望がきかないので、おとなしく席につこう。やがて定刻になり、電車は10数人の客を乗せて、駅を後にした。

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(左)乗降ホーム
(右)反対側の線路は車庫へ続く
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車内
(左)クロスシートが並ぶ
(右)持込み自転車用スペース、持込みには自転車券の購入が必要
 

左からの線路を合わせて、電車も左へカーブしていく。地図では一面の市街地のように描かれているが、実態は緑濃い山の手のお屋敷街だ。周りはほとんど森といってよく、点在しているはずのお屋敷を巧妙に隠している。

途中8か所の駅(停留所)がある。待避線はおよそ2駅ごとに設けられているが、平日日中のダイヤで列車が行違うのは、5駅目のアドニス・ウツァ Adonis utca での1回きりだ。帰りは山上からここまで歩いて降りたが、対面式ホームがあるだけの寂しげな駅だった。

片側に道路が沿っているものの、反対側は森に覆われた谷間で、野鳥の盛んに鳴き交わす声が聞こえる。列車交換では、山麓行きが先着して、山上行きの入線を静かに待つ。こんな駅でも下車客はあって、線路際の小道をたどり、森の中へ消えていった。

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アドニス・ウツァ駅の列車交換
山麓方面行きが先着
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少しして山上行きが入線
 

シュヴァーブへジ駅には、ローワン列車が似合いそうな田舎家風の木造駅舎と、木組みのホーム屋根が残る。開業時のものではなく、使われてもいないのだが、終点だった時代をしのばせる空気が漂う。都市機能としても、駅前に路線バスが来るし、すぐ近くにスーパーマーケットもある。中間駅になってはいるが、実質的にはターミナルなのだろう。

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シュヴァーブへジ駅
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(左)田舎家風の駅舎とホーム屋根
(右)かさ上げ前のホームを保存
 

現在の終点までは、あと二駅だ。森の谷間を這いあがる線路の坂道はそれまでよりきつそうで、最急勾配110‰は、おそらくこの区間にある。右にカーブしながら跨線橋をくぐると、終点セーチェニ・へジに到着する。

駅は2面2線の頭端ホームがあり、しっかりした駅舎も建っている。しかし、起点駅と同じようにひと気はない。左側は森の中の公園で、訪れた時は子どもたちの歓声がこだましていたが、そうでもなければ寂寥感に囚われてしまいそうだ。山上とはいえ地形的には突出していないため、木立に遮られて眺望がきかないのだ。イメージとしては住宅街の末端で、その意味ではふだん使いの生活路線にふさわしい終着駅だった。

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終点セーチェニ・へジ駅
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(左)入線する列車
(右)ひと気のないホームで折り返しを待つ
 

ところで駅の正式名は、セーチェニ・ヘジ、ジェルメクヴァシュート Széchenyi-hegy, Gyermekvasút という。ジェルメクヴァシュートというのは、子どもたちが列車運行に携わる「子供鉄道 Children's Railway」のことだ。左方向200m先にその駅があり、登山鉄道はせめてその最寄りであることをアピールしようとしているようだ。次回はこのユニークな鉄道について紹介しよう。

【鉄道名について】
ハンガリー語(マジャル語)では、ラック・アンド・ピニオン鉄道のことを、fogaskerekű vasút(フォガシュケレキュー・ヴァシュート)と呼ぶ。fogaskerekű は歯車、vasút は鉄道(vas(ヴァシュ)=鉄、út(ウート)=道)を意味し、英語名でも cog-wheel railway、コグ(歯車)鉄道だ。本稿では「ブダペスト登山鉄道」と訳しているが、原語には登山や山地を意味する言葉は含まれておらず、あくまで意訳であることをお断りしておきたい。

■参考サイト
BKV https://www.bkv.hu/

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2020年8月17日 (月)

リッテン鉄道 II-ルートを追って

FS(旧国鉄)ボルツァーノ/ボーツェン Bolzano/Bozen 駅前(下注)から右手へ、線路に沿って歩き始めた。前にリュックを背負ったグループがいたので、ついていく。まだ真新しいバスターミナルを通り抜け、10分もしないうちに、ぶどう畑に覆われた山を背にして、銅色のターバンを巻いたような建物が見えてきた。リッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn/Funivia del Renon の乗り場に違いない。

*注 FSの駅名表記はイタリア語/ドイツ語の順だが、自治県レベルの表記は基本的にドイツ語/イタリア語の順のため、以下ではそれに従う。

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ロープウェー駅(左奥)に向かう道は
かつてリッテン鉄道が走っていたルート
(写真は別途付記したものを除き2019年6月撮影)
 

今歩いてきた道路は、かつてリッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon の市内区間が通っていたルートだ。古い市街図によれば、現在のバスターミナル北端までが路面軌道(併用軌道)で、後は道路を離れ、専用軌道としてリッテン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon へ延びていた。その駅跡に今、ロープウェーの山麓駅が建っている。

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ロープウェー山麓駅
 

1階の窓口で乗車券を買った。鉄道の終点クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo まで通しの切符で、片道9ユーロ(下注)。乗車前にヴァリデート(有効化)するように言われたので、通路の刻印機に挿入する。乗り場は上階だ。

*注 リッテン鉄道のみの場合、片道3.50ユーロ。

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南チロル運輸連合のチケット
(左)表面は共通
(右)裏面に区間や日付を印字
 

ロープウェーは全長4560m、高度差950mの大規模な路線だ。高原上のオーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano まで所要12分。1966年に、リッテン鉄道ラック区間の廃止と引き換えに交走式で開業したが、2007年9月に運行をいったん中止し、更新工事が行われた。そして2009年5月に、3S循環式で運行が再開された。

交走式というのは、支索にキャビン(搬器)を2台ぶら下げ、これらを曳索でつなげて釣瓶のように行き来させる古典的な方式だ。運行間隔は、片道の走行と乗降にかかる時間に依存するため、リッテンのような距離のある路線では、待ち時間が長くなってしまう。

対する 3S というのは、3本のザイル Seil(支索2本、曳索1本)を意味している。支索を2本にすることで安定性を高め、キャビンの大型化を可能にした方式だ。かつ自動循環式といって、キャビンを一定間隔で多数循環させる。台数は需要に応じて増減できるので、運行間隔の調整が可能だ。リッテンの場合、1台の定員35名(座席24、立席11)で、同時に10台まで稼働できるという。

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(左)3S循環式のキャビン
(右)左右2本が支索、中央1本が曳索
 

ホームではそのキャビンがちょうど乗車扱い中だったので、待つこともなかった。ドアが閉まり、発車すると、街並みを横断してすぐに上りにかかる。ぶどう畑が広がる南斜面をぐんぐん上昇していくさまは、エレベーターの感覚に近い。

後方の窓からは、線路が敷き詰められたFS駅の構内と、その右側にボーツェンの市街地が一望できる。やがて進行方向右側遠くに、奇怪な風貌で知られるドロミティの岩峰群が現れた。展望の良さはさすがで、山腹を這い上るラック鉄道ではこうはいかなかっただろう。

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ぶどう畑の斜面を上昇
遠方にドロミティの岩峰も見える
 

ロープウェーは、前半だけで標高1000m付近まで一気に上りきる。後は、支尾根を飛び石にしながら、谷をまたいでいく形だ。進行方向左手に主尾根が延びており、マリーア・ヒンメルファールト駅とそれに続く線路が見える。それに気を取られている間に、山上駅に到着した。

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リッテン鉄道の末端区間に並行
 
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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

リッテン鉄道のオーバーボーツェン駅はロープウェーの駅舎に隣接しており、乗継ぎはいたって便利だ。クリーム色のクラシックな駅舎が建っているが、旅客用には使われていない。片面ホームに接して屋根のかかった待合所があり、乗客はそこで待つようになっている。

オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間は所要16~18分で、朝晩を除き30分間隔のパターンダイヤが組まれている。ホームには、11時40分発の電車が停車中だ。前面がカーマインレッド、側面がグレー主体のスタイリッシュな塗装をまとう連接車BDe 4/8形で、新造のように艶光りしている。しかし実際は1975~77年製で、スイス、ザンクト・ガレン St. Gallen のトローゲン鉄道 Trogenerbahn(下注)で走っていた中古車だ。

*注 ザンクト・ガレン~トローゲン Trogen 間の電気鉄道。2006年にアッペンツェル鉄道 Appenzeller Bahnen に合併、現在は同鉄道の一路線。

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オーバーボーツェン駅に停車中の連接車BDe 4/8形
 

2009年にまず2編成が購入され、古巣のときと同じ車番をつけて2010年(24号)と2011年(21号)にそれぞれ就役した。その後3編成目として23号、4編成目として22号が投入され、今やこれら「トローゲナー Trogener」たちが、日常運行を担う主力車両群だ。

駅のクローベンシュタイン方には、2014年に改築された3線収容の車庫がある。ホームから遠望した限りでは、上記連接車23号、開業以来の古参4軸電車2号、それに旧 エスリンゲン=ネリンゲン=デンケンドルフ路面軌道 Straßenbahn Esslingen–Nellingen–Denkendorf の1957年製TW12号電車(下注)が並んでいた。

*注 1978年に廃止されたドイツ、シュトゥットガルト Stuttgart 南東郊の都市間路面軌道。TW12号車は1982年に中古で購入、1992年から定期運行。現在は予備車で、特別運行に登場する。

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(左)オーバーボーツェン駅の車庫に旧型車の姿が
(右)4軸電車2号
 

このほか、ラック電気機関車L2号(下注1)、2軸電車11号と12号、廃止されたノンスベルク鉄道 Nonsbergbahn から移籍した1910年製電車「アリオート Alioth」(下注2)など、鉄道の歴史を物語る古典車両も保存されているという。

*注1 インスブルックのチロル保存鉄道 Tiroler Museumsbahnen に同僚のL4号が動態保存されている。
*注2 ボーツェン南西にあったデルムーロ=フォンド=メンデル(メンドーラ)地方鉄道 Lokalbahn Dermulo-Fondo-Mendel。最急80‰の勾配路線だったが、1934年廃止。電車は、スイスのアリオート電力会社 Elektrizitätsgesellschaft Alioth の機器を積んでいたことからその名がある。

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(左)チロル保存鉄道のラック電気機関車L4号(2007年)
(右)定期運行していた頃の旧エスリンゲン電車TW12号(2006年)
Photos by DerAdmiral at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

1列2+1席のやや手狭な車内に、後で着いたロープウェー客が次々と乗り込んできて、発車までにはほぼ満席になった。扉が閉まり、短いベルの音とともに出発。車庫の横をすり抜けると、右の車窓には、早くも青々とした斜面の牧草地が広がり、谷を隔てて遠くの山々まで見通しがきく。半分降ろした窓からは、心地よい高原の風が入ってくる。

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(左)車内はほぼ満席に
(右)路線図と、製造元 FFA Altenrhein(アルテンライン車両製造所)の銘板
 

車道の踏切に続いて、一つ目の停留所を通過した。この区間には時刻表に掲載された旧来の3駅とは別に、新設の停留所が4か所ある。いずれもリクエストストップで、乗降客がないと停車しないから、感覚的には路線バスだ。今通過したのはリンツバッハ Linzbach だが、新設停留所はドイツ語名のみを名乗っている。

次のリンナー Rinner 停留所(これも新設)の後、小さな沢を渡るために林に入る。再び開放的な斜面に出て、左に大きく回っていくと、ヴォルフスグルーベン/コスタロヴァーラ Wolfsgruben/Costalovara だ。ここは駅なので必ず停車するが、待合小屋がぽつんと置かれているだけで、見た目は停留所と何ら変わらない。

この後は地形的な鞍部を越えるため、周りは次第に林に包まれていく。行く手に、同じカーマインレッドの電車が停車しているのが見えてきた。標高1251mで、全線のサミットとなるリヒテンシュテルン/ステラ Lichtenstern/Stella 駅だ。オーバーボーツェン~クローベンシュタイン間の中間点でもあり、30分間隔ダイヤの場合、両側から同時に発車した列車がここで行違う。運転士も車両を交換し、それぞれ発駅に戻っていくのがおもしろい。

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(左)リヒテンシュテルンで列車交換
(右)運転士も入れ替わる
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再び車窓が開けてドロミティアルプスが一望に
 

次のラッパースビヒル/コッレ・レノン Rappersbichl/Colle Renon 停留所を過ぎると、左側の車窓が再び開けてくる。エーベンホーフ Ebenhof とヴァイトアッハー Weidacher の両停留所は、気づかないうちに通過したようだ。カーブが和らぎ、右手前方に町が見えてきた。大きなスポーツ施設があり、工事用の大型クレーンも動いていて、オーバーボーツェンより活気が感じられる。緩く右に曲がり、跨線橋をくぐったところが、終点のクローベンシュタインだった。

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(左)クローベンシュタイン到着
(右)折り返しの客が乗り込む
 

ここは高原の中心集落で、リッテン自治体の役場所在地でもある。駅舎は優しいサーモンピンクの色壁で、オーバーボーツェンに比べて大きな建物だ。入口で、ジャコメッティの作風を思わせるユーモラスなヤギの彫像が客を迎えている。しかし、旅客機能としては券売機と刻印機が置いてあるだけで、窓口は見当たらない。電車はこの駅で、折り返しの時刻まで12分停車する。

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(左)駅入口でヤギの彫像が出迎え
(右)駅舎(左奥)とアールヌーボー様式のあずまや(?)
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クローベンシュタイン駅に次の電車が到着
 

戻りは、13時10分発に乗った。駅前にある中等学校から子どもたちがぞろぞろと出てきて、電車に乗り込んでいく。ちょうど下校時間に遭遇したようだ。車内は、通路も荷物室もいっぱいになったが、彼らは慣れていると見え、おしゃべりしたり、教科書やノートに目を落としたり、思い思いに過ごしている。イタリア語らしい言葉で話しながらも、開けている教科書はドイツ語だ。電車は途中の停留所にもこまめに停車し、少しずつ子どもたちを降ろしていった。

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(左)運転台
(右)学校帰りの子どもたちで満員
 

この便にしたのは、オーバーボーツェンからさらに一駅先のマリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta まで足を延ばすからだ。この1.1kmは昔、ラック線を機関車で押し上げてもらった電車が再び自力で走り始める最初の区間だった。しかしロープウェーがオーバーボーツェンで接続するようになったことで、メインルートから外れて支線化してしまった。

列車は1日6往復のみ。時刻表も別建てだが、クローベンシュタイン方面と通しで運行されている。利用するのは、駅付近にある小集落の関係者か、鉄道ファンぐらいのものだから、いまだに動いているのが奇跡のようなローカル線だ。

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オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間の
時刻表(2019年)
ab は発時刻、an は着時刻
 

子どもたちの乗降で、少し遅れていたせいもあるだろう。オーバーボーツェンに到着すると、運転士は降車客を見届け、すぐに扉を閉めて発車の合図をした。あれだけ混雑していた車内に、もう4~5人しか残っていない。走り始めると、結構な下り坂だ。確かに、高原区間の最急勾配45‰はこの区間にある。しかも急曲線が多いので、電車は慎重に降りていく。左手は牧草地の斜面が広がり、相変わらず見晴らしはいい。

時刻表では4分から、便によっては6分もかかっているが、実際の乗車時間は2分そこそこだ。最後のカーブを曲がりきるとほぼ直線で、2線が敷かれたマリーア・ヒンメルファールトの駅に滑り込んだ。

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オーバーボーツェン~マリーア・ヒンメルファールト間は
下り勾配と急カーブが連続
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(左)最後の急カーブ
(右)マリーア・ヒンメルファールト駅が見えてきた
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マリーア・ヒンメルファールト駅
待合小屋は開業時のそれを復元
 

扉が開き、降車客と入れ替えにホームで待っていた3人が乗り込む。そしてほとんど休む間もなく、電車はオーバーボーツェンへ引き返していった。

主役が去ってしまうと、駅は静けさに包まれた。片面ホームに、開業時の造りを復元した待合小屋、それに木造の車庫があるだけの簡素な構内だ。ここで毎日、機関車の連解結や、電動車の機回しが行われていたとは信じがたい。その線路の終端に行ってみたが、ラック線が延びていたはずの場所には木々が生い茂り、その先は牧草地に溶け込んでしまっていた。

13時34分発を見送ったので、次は18時台まで電車が来ない。牧草地の向こうを行き交っている山麓行きのロープウェーに乗るために、のどかな村の中を抜けて、オーバーボーツェンまで歩いて戻ることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/

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 リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

2020年8月11日 (火)

リッテン鉄道 I-ラック線を含む歴史

リッテン鉄道/レノン鉄道 Rittner Bahn/Ferrovia del Renon

ボーツェン・ヴァルタープラッツ Bozen Waltherplatz/Bolzano Piazza Walther ~クローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo 間 11.7km
軌間1000mm、直流750V電化、最急勾配255‰、シュトループ式ラック鉄道(一部区間)
1907年開通
1966年ヴァルタープラッツ~マリーア・ヒンメルファールト間廃止

【現在の運行区間】
マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta ~クローベンシュタイン/コッラルボ間 6.6km
軌間1000mm、直流800V電化(1966年~)、最急勾配45‰

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ヴァイトアッハー Weidacher 付近を行く
現在の主力車両BDw 4/8形
 

アルプス越えの交易路が通過するブレンナー峠 Brennerpass の南側は、イタリアだ。しかし、第一次世界大戦まではオーストリア領で、チロル Tirol の一部だった。今もドイツ語では、南チロル Südtirol と称される(下注)。峠から街道を約80km下ったところに、南チロルの中心都市ボーツェン Bozen があり、愛すべき小鉄道「リッテン鉄道/レノン鉄道」がその郊外を走っている。

*注 行政上はボーツェン/ボルツァーノ自治県 Autonome Provinz Bozen/Provincia autonoma di Bolzano。

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鉄道の名は周辺の広域地名に基づいているのだが、二通りの呼び名があることについては少し注釈が必要だ。南チロルではドイツ語話者が6割強を占めており、ドイツ語とイタリア語が公用語になっている。そのため、公共表示は2言語併記が原則で、例えば既出の固有名詞を両言語(ドイツ語/イタリア語)で記すと、以下の通りだ。

南チロル(ジュートティロール)Südtirol/アルト・アディジェ Alto Adige
ボーツェン Bozen/ボルツァーノ Bolzano
リッテン Ritten/レノン Renon

他の地名も、初出の際に両言語を併記することにするが、これにより鉄道名も、ドイツ語ではリッテン鉄道(リットナー・バーン)Rittner Bahn、イタリア語ではレノン鉄道(フェッロヴィーア・デル・レノン)Ferrovia del Renon になるのだ。

ちなみに、ドイツ語のリットナー Rittner は、地名リッテン Ritten の形容詞形で、「リッテンの」という意味だ。ところが、地名自体があまり知られていないためか、そのまま読んで「リットナー鉄道」と訳している文献も見られる(下注)。

*注 スイスの「レーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn」も同様。

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リッテン鉄道沿線の地形図にルート(廃線を含む)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

鉄道は、標高1200m前後の高原内を行き来している延長わずか6.6kmのローカル線に過ぎない。しかもイタリアの標準軌鉄道網とは接続しない孤立路線だ。なぜこのような場所に鉄道が存在するのだろうか。

短距離にもかかわらず電化されていることからも察せられるように、かつては下界のボーツェン市街と線路がつながっており、小型電車が直通していた。旧市街の広場で乗れば、高原の村まで乗り換えなしで到達できるという、きわめて便利な路線だったのだ。

リッテン鉄道は地方鉄道として認可を得たが、実態は市街地の路面軌道(併用軌道)、山腹を上るラック鉄道、高原上の普通鉄道(専用軌道)という、異なる性格をもつ三つの区間に分けられる。後になって前二者が廃止されたため、最後者だけがぽつんと残された。これが現在の姿だ。

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ラッパースビヒル Rappersbichl 付近を行く
アリオート105号(2016年) 
Photo by Michael Heussler at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

リッテンは地理的に、ザルンタール/ヴァル・サレンティーナ Sarntal/Val Sarentina とアイザックタール/ヴァル・ディザルコ Eisacktal/Val d'Isarco という二つの谷の間に横たわる広い高原地帯だ。標高の違いから、夏場はしばしば猛暑に見舞われる盆地のボーツェンに比べて、はるかに快適な気温が保たれている。

すでに17世紀からボーツェンの名門貴族や上流階級の避暑地として好まれていたが、19世紀になると一般の観光需要も高まっていった。1880年代には鉄道の建設計画が唱えられ始め、一方で静かな環境を維持したいと考える人々によって反対運動も起きた。

20世紀に入って、計画は具体化した。山を上る手段にはラック・アンド・ピニオン方式が採用され、1906年7月に認可、着工。翌1907年8月には、早くもリッテン駅とクローベンシュタインの間で一般輸送が開始されていた。残る市内区間を含めた全線での直通運行は1908年2月末に始まった。

鉄道の起点は、ボーツェン旧市街、ヴァルター広場 Waltherplatz/Piazza Walther の南東隅にあった。電車はそこから国鉄駅前を通って北上し、山麓に設けられたリッテン駅/レノン駅 Rittnerbahnhof/Stazione di Renon の手前まで、街路上に敷かれた軌道を走った。

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リッテン鉄道のかつての起点 ヴァルター広場
(1907年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
 

リッテン駅と呼ぶのは、規模は違うがパリのリヨン駅のように、市内のターミナルに目的地の名(鉄道名とも解釈できる)を冠したものだ。駅名が示すとおりここは拠点駅で、車庫と整備工場があったほか、標準軌の国鉄ブレンナー線 Brennerbahn から引込み線が来ており、貨物の受け渡しも行っていた。

直通運行の開始から間もない1909年7月には、ボーツェンの市内電車としてボーツェン路面軌道 Straßenbahn Bozen が開業する。西郊(1系統)と南郊(2系統)から市内へ入り、ヴァルター広場からリッテン鉄道の軌道に乗り入れて、一部区間を共用した(下注)。しかし残念なことに、リッテン鉄道よりも早く1948年に廃止され、バスに転換されてしまった。

*注 1系統(シュテファニーシュトラーセ Stephaniestraße ~ブレンナーシュトラーセ Brennerstraße)は、バーンシュトラーセ(鉄道通り)Bahnstraße 電停までが共用区間。2系統(ライファース Leifers ~ボーツェン駅前)は共用区間内のバーンホーフプラッツ(駅前広場) Bahnhofplatz が終点だが、駅正面南側に単独のターミナルを持っていた。

■参考サイト
Wikimedia - 路面軌道が記載されたボーツェン市街図(1914年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geuter's_city_plan_of_Bozen-Bolzano_in_1914.JPG

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ドロミティの山を背景にタルファー橋を渡る
ボーツェン路面軌道の電車(1910年ごろの絵葉書)
Image from wikimedia.
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旧 ラック区間が記載された1:25,000地形図
10 I SE Bolzano Nord 1963年
10 II NE Bolzano 1960年
© 2020 Istituto Geografico Militare
 

さて、リッテン駅を出発すると、いよいよラック区間が始まる。ラックレールはシュトループ Strub 式で、4.1kmの間に911mの高度差を克服した。最大勾配は255‰で、ピラトゥスやワシントン山には及ばないにしても、オーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn などと並び、世界で最も急勾配のグループに入るものだった。

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ザンクト・マグダレーナ上方を行く旧型車
背景はボーツェン駅と市街地(当時の絵葉書)
Image from styria-mobile.at
 

ラック区間では、電車は自らの駆動装置は使わず、後部すなわち坂下側に配置されたラック専用の電気機関車で押し上げてもらう。また、電車(=電動車)が動力を持たない客車(=付随車)を牽いて2両で来た場合は、まず電動車が付随車の後ろに回り、その後ろに機関車を付ける。こうして、坂下側から機関車、電動車、付随車の順になり、坂を上っていった。

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ラック区間の車両編成
坂下側(=左)から機関車、電動車、付随車
マリーア・ヒンメルファールト駅の案内板を撮影
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ラック専用の電気機関車(左)と電動車
リッテン駅構内にて(1965年)
Photo by Jean-Henri Manara at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
 

山裾へのとりつきでは、斜面を覆うぶどう畑の上を長さ160mの高架橋で渡る。赤ワインの銘柄で知られるザンクト・マグダレーナ/サンタ・マッダレーナ St. Magdalena/S. Maddalena の村の前には、ラック区間で唯一乗降を扱う停留所があった。

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リッテン駅上手の廃線跡現況(2019年)
(左)高架橋の橋面はぶどう畑に、アーチ下は倉庫に再活用
(右)リッテン駅出口(ラック区間始点付近)に残る橋台
 

さらに上ると、変電所を併設した信号所にさしかかる。ここはラック区間の中間地点に当たり、山上と山麓から同時に発車した列車が行違いを行った。機関車は回生ブレーキを備えているので、このダイヤにより、坂を下る機関車で発生した電力を、上りの機関車に効率良く供給することができた。

やがて車窓は森に包まれ、長さ60mのトンネルを通過する。再び視界が開けて、緑の牧草地に出れば、まもなくラック区間の終点マリーア・ヒンメルファールト/マリーア・アッスンタ Maria Himmelfahrt/Maria Assunta(下注)だった。この駅でラック機関車から解放された電車は、残りの、現在も運行中の区間を再び自力で走り抜けた。

*注 以前のイタリア語駅名はラッスンタ L'Assunta。いずれも聖母被昇天教会にちなむ地名。

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マリーア・ヒンメルファールト駅の現況(2019年)
(左)駅舎は1985年に開通当時の状態に復元
(右)終端の先は牧草地に
 

20世紀前半、高原上にまだまともな自動車道路はなく、鉄道が文字通り「リッテンの生命線 Lebensnerv des Ritten」だった。しかし、第二次世界大戦後は、車両や施設設備の老朽化が顕著になる。鉄道の更新に投資するより、到達時間が短縮できるロープウェーの建設を求める声が大勢を占めた。また、山麓から高原に通じる新しい自動車道路の計画も進行していた。

ロープウェーの起工式は1964年8月に行われた。その矢先の同年12月3日、恐れていた事故が起きる。ザンクト・マグダレーナの上方で、山麓に向かっていた列車が脱線し、ラック機関車とともに落下したのだ。運転士と乗客3名が死亡し、30名が負傷した。

事故区間はいったん復旧されたものの、市内線は1966年7月9日、ラック線は同年7月13日が最後の運行となった。翌14日に山麓との間を結ぶロープウェーが開業し、オーバーボーツェン/ソープラボルツァーノ Oberbozen/Soprabolzano で鉄道に連絡する現在の方式がスタートした。ただし、これはあくまで暫定形で、自動車道路が全通した暁には、高原区間も廃止してバスに転換することになっていた。

ところが道路の完成が遅れ、その間に、観光資源として鉄道を再評価する機運が高まった。このいわば偶然のおかげで、リッテン鉄道は全廃の危機から救われたのだった。

1980年代には、施設設備の全面改修が実施された。また、車齢のより新しい中古車が導入され、名物だった古典電車の運行は今や、年数日の特定便に限定されている。

ラック区間を代替したリッテン・ロープウェー Rittner Seilbahn もすでに2代目だ。初代は50名収容のキャビン(搬器)を使った交走式だったが、2009年に3Sと呼ばれる循環式に交換され、輸送能力が倍増した。これにより、リッテン鉄道も30分間隔での運行が可能になり、利用者の増加につながった。

鉄道は現在、南チロル運輸機構 Südtiroler Transportstrukturen/Strutture Trasporto Alto Adige (STA) が所有し、SAD近郊輸送会社 SAD Nahverkehr AG/SAD Trasporto locale が運行している。SADは南チロル一帯の路線バス、地方鉄道、索道の運行事業者で、リッテン鉄道もその路線網に組み込まれている。

*注 SADの名称は、旧社名 南チロル自動車サービス Südtiroler Automobildienst/ドロミティ・バスサービス Servizio Autobus Dolomiti の頭文字に基づく。

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急斜面を行くリッテン・ロープウェー
背景はボーツェン駅と市街地
 

ボーツェン市内から、鉄道の終点でリッテンの中心地区であるクローベンシュタイン/コッラルボ Klobenstein/Collalbo へは、山道を上るSADのバス路線(165系統)もある。所要時間は30分ほどで鉄道経由と大差はないが、運行は平日日中60分間隔、休日は120分間隔とかなり開いている。輸送力や利便性の点で、やはりリッテン鉄道の交通軸としての位置づけは揺るぎないものになっているようだ。

次回は、ロープウェーと鉄道を使って、そのリッテン高原に出かけることにしよう。

■参考サイト
Ritten.com http://www.ritten.com/
Tiroler MuseumsBahnen http://www.tmb.at/
schweizer-schmalspurbahn.de - Die Rittnerbahn
http://www.alpenbahnen.net/html/rittnerbahn.html

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 リッテン鉄道 II-ルートを追って

 スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

2020年8月 3日 (月)

モンセラット登山鉄道 II-新線開通

1957年の旧 登山鉄道の廃止によって、モンセラット修道院に到達するルートは、既存のロープウェーに乗るか、つづら折りの山岳道路を車で上るかの二択になった。とはいえ、ロープウェーの輸送能力は1時間当たり350人にとどまり、方や車道も、修道院前で行き止まりとなる片側1車線の一本道だ。

案の定、山上の沿道に設けられた駐車場は満車になりがちで、出入りと空き探しの車により、しばしば渋滞した。登山鉄道を代行する路線バスもそれに否応なく巻き込まれて、運行に支障をきたすことになる。さらに、道路や駐車場は自然公園区域内にあるため、環境保護の観点からも問題視された。

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モンセラットの山腹を上るラック電車
 

カタルーニャ州政府は、公共交通機関を再建する必要性を認識していた。2本目のロープウェーやケーブルカーの新設案もあったが、それと比較してラック式鉄道は、輸送能力の高さや旧線跡が利用できるという点で有利だ。整備計画が1989年に公表され、細部を見直しのうえ、1999年10月に最終決定を見た。

そして2001年7月に着工、2年弱の工期を経て、2003年6月11日に新しいモンセラット登山鉄道はめでたく開業したのだ。実に46年ぶりの復活だった。では、21世紀生まれの新路線は、旧路線と何が同じで、何が違うのだろうか。

旧線は非電化で、小型の蒸気機関車が客車2両を押していたが、新線は電車で運行される。この点は大きく異なる。しかし、軌間1000mm、アプト式ラックという線路の仕様は同じだ。

ちなみに新線はFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)により運行され、接続するFGCの狭軌線(下注)と軌間、電圧を共通化してある。このため登山鉄道の電車をFGC線のマルトレイ・エンリャス Martorell Enllaç にある車庫・整備工場へ回送したり、FGC線の電車を登山鉄道の粘着式区間に(モニストロル・ビラ Monistrol-Vila 駅まで)乗り入れることが可能になっている。

*注 リョブレガト=アノイア線 Línia Llobregat-Anoia。

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(左)新線を走るシュタッドラー GTW 2/6形
(右)部分低床の車内
 

次に路線の起終点はどうか。起点は変更されたが、終点は同じ位置だ(下図参照)。前回紹介したように旧線は、この地域で初めて開通した広軌線の駅と修道院を結ぶのが目的だったので、起点はそこに置かれた。現在モンセラットへの主なアクセス路線となっているFGCの狭軌線は、後になってできた路線だ。

新線は広軌線とは接続せず、対FGC線でも、かつての接続駅(後に廃止)ではなく、一駅バルセロナ寄りのモニストロル・デ・モンセラット Monistrol de Montserrat(旧駅名 モニストロル・セントラル Monistrol Central)に起点を定めた。このため、当駅からモニストロル・ビラ駅までの区間はまったくの新設になった。

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旧線と新線のルート
 

その先はほぼ旧線跡をたどるが、一か所だけ、モンセラットへ上る車道と交わる地点の前後は移設された。旧線は踏切だったが、新線では立体交差させる必要があったためだ。また、終点モンセラット駅は、旧線廃止後、駅用地が契約に基づき修道院に返還されていたので、再使用に当たってホームを地下式とし、広場の直下に建設した。

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モンセラット駅地下ホームへの入線
 

開業新線の主な目的は、モンセラット訪問者の経路を分散させて、道路の混雑を緩和することだ。これを実現するには、ふだん車で旅行する人にも電車を使ってもらわなければならない。そこで、モニストロル・ビラ駅の周りに、幹線道からすぐに入れて、乗用車1000台、大型バス70台を収容できる無料の大駐車場が造成された。

修道院一帯が自動車通行禁止になったわけではないが、山上の駐車場は有料で、収容台数も限られている。麓を通る幹線道には、各駐車場の空き状況を示す電光掲示板が設置され、山上まで車で行くか、麓でパーク・アンド・ライドするかをドライバーが判断できるようにしている。

では、モンセラットに向けて列車で旅に出るとしよう。出発地は、バルセロナ市内、プラサ・エスパーニャ(スペイン広場)Plaça Espanya の地下にあるFGCの狭軌線ターミナルだ。登山鉄道の乗換駅まで、R5 または R50系統マンレザ Manresa 行きの電車で65分。朱色のアクセントカラーをまとう213系が、平日は1時間に1~2本、休日は毎時1本(朝は2本)走っている。

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(左)プラサ・エスパーニャ駅の213系
(右)券売機でモンセラット連絡切符を買う
 

乗車券は個別に買ってもいいが、狭軌線+登山鉄道のモンセラット連絡切符 combined ticket(片道または往復)が便利だ。同じように、狭軌線+ロープウェー(英語では cable car)の連絡切符、さらに山上のケーブルカー(英語では funicular)や博物館でも使えるオールインワンの切符も売られている。

いずれも券売機やホーム前の窓口で入手できるが、注意すべきは、購入後のルート変更(登山鉄道をロープウェーに、またはその逆)ができないことだ。これは、ロープウェーがFGCの運営でないためだ。登山鉄道とロープウェーは狭軌線の降車駅も違うので、よく確かめてから購入したい。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

電車は地上に出ると、リョブレガト川 el Llobregat の谷筋を遡っていく。といっても、渓谷らしくなるのは最後の10分ほどに過ぎない。左の車窓、進行方向に観光写真で見覚えのある突兀とした岩山が現れると、まもなくアエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat の急カーブしたホームに停車する。駅名が示すとおり、モンセラット修道院に上るロープウェー「アエリ・デ・モンセラット」の乗換駅だ。このほうが速く着けるので(ロープウェーの待ち行列の長さにもよるが)、降車客が多い。

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リョブレガト川の渓谷を行く
左奥にモンセラットが姿を現す
 

再び走り出し、トンネルを一つくぐると、目的のモニストロル・デ・モンセラットに到着だ。狭軌線は2面3線で、ホームは駅舎側から2、1、3番と付番されている。一方、登山鉄道の駅名はモニストロル・エンリャス(ジャンクションの意)Monistrol Enllaç で、電車は、2番ホームの駅舎寄りにある切り欠きの4番ホームに入る。

駅舎は、切妻白壁2階建ての小ぶりな建物だが、タイルの帯模様の間に「MONISTROL CENTRAL(モニストロル中央)」と旧称が残されているのが目を引く。駅名が二つあるだけでも紛らわしいのに、そのどちらでもない昔の名前が出ているわけで、土地不案内な者にはとまどいのもとだ。

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モニストロル・デ・モンセラット駅
(左)FGC線発着ホーム
(右)旧駅名が残る駅舎
 

モンセラット行きは8時台が始発だ。山から下りてきた列車が35分に入線し、40分ごろ(上下とも)到着のFGC線列車との間で乗客を交換し、48分に山へ向けて出発する。このパターンが1時間毎に繰り返される。山上までの所要時間は20分だ。

使われている車両は、スイス シュタッドラー・レール Stadler Rail 社のGTW 2/6形。部分低床の客車2両の間に短い駆動ユニット車が挟まった関節式と呼ばれるタイプで、新規開業時に5編成(AM1~5)が投入された。このときヌリア(下注)にも同形式の2編成(AM10~11)が入ったが、モンセラットの乗客増に対応するため、移籍されることになった。すでに1編成が塗色を緑に改めて、車列に加わったという。

*注 ピレネー山中を走るラック式登山鉄道。本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」参照。

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モニストロル・ビラ駅に入る登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山電車はマンレザ方向に発車する。最初の1.1kmはごく緩い勾配で、ラックは使わない(=粘着式 adhesion)。すぐにトンネルを2本くぐる。1本目のモニストロルトンネル Túnel de Monistrol は狭軌線と共用で、もともと複線仕様で造られていたものを、片側だけラック線に転用した。2本目との間の短い明かり区間で、狭軌線は右へ去っていく。

2本目のラ・フォルダダトンネル Túnel de la Fordada(164m)は新たに掘られたものだ。その直後、列車はリョブレガト川のはるか上空に躍り出る。渡っていくセンテナリ(百年)橋梁 Pont del Centenari は長さ480m、高さも37mあり、新線最大の構造物だ。橋は対岸に渡りきってからも続き、旧線跡と幹線道路を一気にまたいで、モニストロル・ビラ Monistrol Vila 駅の高架ホームに接続している。

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センテナリ橋梁とラ・フォルダダトンネル
(モニストロル・ビラ側から撮影)
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センテナリ橋梁からの眺め
モニストロルの町とモンセラットの山並み
 

モニストロル・ビラでは4分ほど停車する。ここは路線で唯一の中間駅であるとともに、拠点駅の性格も併せ持っている。というのも、パーク・アンド・ライドの利用客のために、当駅始発の列車が1時間当たり閑散期に1本、繁忙期は2本挿入されるからだ。結果、繁忙期には山上駅との間が20分間隔の運行になる。通常は中央の島式ホームで乗降をさばくが、混雑時は、進行方向左にある片側ホームが降車専用に使われる。

なお、駅前の緑地には、旧線時代の駅舎と線路の断片が残されており、駅舎は鉄道の展示館として内部公開されている。また、駅前広場には、旧線を走ったラック蒸機4号機(1892年製)が、復元客車とともに置かれている。

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モニストロル・ビラ駅前広場の4号機と復元客車
 

これ以降、車窓はずっと進行方向左側に開ける。駅構内を出るとさっそく、最急勾配156‰のラック区間の始まりだ。右カーブしながら、切通しに続くごく短いトンネルを抜け、モンセラットに上る車道を、下路トラスの鉄橋でオーバークロスする。この辺りでは左前方の山上に、モンセラットの奇岩カヴァイ・ベルナト Cavall Bernat(1111m)が天空を刺す姿を捉えることができる。

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天空を刺すカヴァイ・ベルナト(中央の細長い岩山)
 

石造アーチのギリェウメス橋梁 Pont de les Guilleumes の手前から、延長420mの複線区間が始まる。下りてくる列車とは走りながら交換する。振り返れば、今通ってきた山腹の上に、聖ベネト修道院 Monestir de Sant Benet の塔が覗くだろう。

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複線区間で走りながらの列車交換
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山上に建つ聖ベネト修道院
 

左手には、リョブレガト川が流れる谷の壮大なパノラマが展開している。朱屋根に埋め尽くされたモニストロルの町が見え、ラック線のルートも起点駅からの一部始終を追うことができる。わずか数分でずいぶん高くまで上ってきたものだ。一方、右の山側は落石除けのネットが張り巡らされ、ものものしい雰囲気がある。礫岩の地層が風雨による侵食に抵抗して、急峻な崖を成しているからだ。

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車窓からのパノラマ
右が起点駅と駅前集落、
中央がモニストロルの町、その奥にセンテナリ橋梁
 

剥き出しの岩肌をうがったアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols が、路線最長かつ最後のトンネルになる。これを抜けると、あと少しの上りだ。ロープウェーの山上駅の前を通って、列車はモンセラット駅の地下ホームに滑り込む。

駅は、線路を両側からホームが挟む2面3線の構造だ。天井が低くやや圧迫感を覚えるが、ホームは70mの長さがあり、2編成を縦列に収容できる。奥のエスカレーターまたは階段を伝って表の広場に出れば、修道院の荘厳な建物群が目の前だ。

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モンセラット駅
(左)駅上の広場から山麓方向を見る
  奥の建物はロープウェーの山上駅
(右)列車が駅に到着
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モンセラット駅の地上入口
後ろの建物はケーブルカー乗り場
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モンセラット修道院
 

写真は別途クレジットを付したものを除き、2019年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けた。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

★本ブログ内の関連記事
 モンセラット登山鉄道 I-旧線時代
 ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ

2020年7月29日 (水)

モンセラット登山鉄道 I-旧線時代

モンセラット登山鉄道 Cremallera de Montserrat

【旧線】
モニストロル・ノルド Monistrol-Nord ~モンセラット・モネスティル Montserrat-Monestir 間 8.6km
軌間1000mm、非電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
1892年開通、1957年廃止

【新線】
モニストロル・エンリャス Monistrol-Enllaç ~モンセラット Montserrat 間 5.2km
軌間1000mm、直流1500V電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配156‰
2003年開通

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R5系統の車窓から仰ぐモンセラットの山塊と修道院
海外鉄道研究会 田村公一氏 提供
 
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モニュメンタルな岩の柱が林立し、異形の山容が目を引くモンセラット Montserrat(下注)。スペイン、カタルーニャ州の州都バルセロナの北西50kmにあるこの山は、全体が自然公園に指定されている。その一角を占めるベネディクト派の修道院は古来、人々の崇敬を集めてきたカトリックの聖地だ。

*注 カタルーニャ語の発音は「ムンサラト」に近いが、慣用に従い、モンセラットと表記する。

山の中腹、狭い谷壁に張り付くように建てられた修道院付属大聖堂 Monasterio には、モンセラットの聖母 Mare de Déu de Montserrat(下注)と呼ばれる黒い聖母子像が祀られている。山麓を走る近郊線の駅から標高700m台のその大聖堂の前まで、現代の巡礼者を連れて行くのが登山鉄道「クレマリェラ・デ・モンセラット(モンセラット登山鉄道)Cremallera de Montserrat」(下注)だ。

*注 Cremallera(クレマリェラ、クレマイェラ)は、フランス語の Crémaillère と同じく、歯竿(ラックレール)を意味する。

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緑をまとうモンセラットの登山電車
Photo by The STB at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0
 

登山鉄道は、カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya (FGC) が運行している。メーターゲージ(1000mm軌間)で、アプト式のラックレールを使う。同じFGCで、州内にもう一つある同種の路線、ヌリア登山鉄道 Cremallera de Núria(下注)と共通の仕様だが、車両の塗色はヌリアの青に対して、こちらは緑色になっている。

*注 スペイン全体でも、ラック式鉄道はこの2本しかない。ヌリア登山鉄道については、本ブログ「ヌリア登山鉄道-ピレネーの聖地へ」で詳述。

現代風の車両や地上設備を一見すればわかるように、運行開始は2003年で、まだ20年も経っていない若い路線だ。ただし、まったくの新設ではない。1950年代に廃止された旧線跡を多くの区間で利用しており、事実上の復活と言うべきものだ。新線の紹介に入る前にまず、前身となるこの旧 モンセラット登山鉄道の歴史から繙いてみたい。話は19世紀に遡る。

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モンセラット登山鉄道と関係路線のルートを1:50,000地形図に加筆
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0

バルセロナ方面からモンセラットへ向かう本来の巡礼路は、南麓に位置するコイバト Collbató の村から続く山道だ。その伝統を一変させたのが、1859年に当時の北部鉄道会社 Ferrocarrils del Nord が開通させた鉄道だった。これは、マンレザ Manresa 経由でバルセロナとリェイダ Lleida 以遠を結んだ広軌路線(下注)で、現在、カタルーニャ近郊線 Rodalies de Catalunya のR4系統が通っている。

*注 当時は1672mm。19世紀以来、軌間はスペインで1672mm、ポルトガルで1664mmと微妙な差があったが、1955年に基準が統一され、現在の1668mm(イベリア軌間 Iberian gauge)になった。

モンセラットの最寄り駅として、北東約5kmの地点にモニストロル・ノルド Monistrol-Nord(現 カステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット Castellbell i el Vilar - Monistrol de Montserrat)が開設された。そこから山へは、つづら折りの坂道を駅馬車がつないだ(下図左上)。

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旧 ラック鉄道と関連路線の変遷
 

しかし訪問者の増加につれ、馬車の輸送力に限界が見えてくる。当時、スイスのリギ鉄道 Rigibahn 開業(1871年)をきっかけに、ヨーロッパ各地でラック式登山鉄道に対する関心が高まっていた。機運に乗じてモンセラットでも、1878年に、スイスの事情に明るい鉄道技師と地元の実業家が組んで建設計画を発表した。リギで標準化されたリッゲンバッハ式、1435mm軌間の蒸気鉄道で、広軌線の駅と修道院とを結ぶというものだった。

認可が下り、建設と運行に当たる会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツ(大勾配登山)鉄道 Ferrocarriles de Montaña a Grandes Pendientes(スペイン語表記)が設立されたが、期待に反して事業は一向に進まなかった。10年近い時間を浪費した後、仕様が見直され、1891年に改めて認可を得た。新しい計画では、同じラック蒸機ながら、新開発でより安価なアプト式を採用している。軌間もコンパクトな1000mm(メーターゲージ)だ。線形を厳しくできるので、橋梁の短縮やトンネルの回避が可能になり、建設費はかなり圧縮された。

今回は順調だった。その年の9月に工事が始まり、13か月後の1892年10月6日、モンセラット登山鉄道は開業の日を迎えた(上図右上)。所要時間は片道1時間5分で、3時間半もかかっていた馬車に比べて格段に速く、バルセロナから日帰りが可能になったのは画期的だった。物珍しさも手伝って、のこぎり山(=モンセラット)へ鋸歯(=ラック)を使って上る登山鉄道は、たちまちカタルーニャで最も人気のある乗り物になった。

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旧線が記載された1:50,000地形図
(スペイン陸軍地理局 Servicio Geográfico del Ejército 刊行)
391 Iguarada 1950年
392 Sabadell 1952年
Map derived from Atles topogràfic de Catalunya 1:50 000 of the Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC), License: CC BY-SA 4.0
 

次の節目は1922年10月だ。リョブレガト川 el Llobregat の谷を通って、メーターゲージ(1000mm軌間、以下、狭軌線という)の新線が開通したのだ。カタルーニャ鉄道 Ferrocarrils Catalans(下注)が建設したマルトレイ Martorell ~マンレザ間の路線で、マルトレイではバルセロナ方面に接続し、実質的にバルセロナとマンレザを結ぶ第2の鉄道になった。現在のFGC(カタルーニャ公営鉄道 Ferrocarrils de la Generalitat de Catalunya)R5系統が通るルートだ。

*注 正式名 Companyia General dels Ferrocarrils Catalans (CGFC)。

新線と登山鉄道が交差する地点に乗換駅が設けられることになり、狭軌線に近づけるため、登山鉄道のルートは長さ973mにわたり移設された。

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狭軌線を行く現在の213系電車
モニストロル北方のリョブレガト川鉄橋にて
Photo by The Luis Zamora at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

ここで、旧線のルートをモンセラット方向にたどってみよう。

起点駅は、初め広軌線の駅から長い階段を下りたところに置かれ、モニストロル・パルティダ(出発の意)Monistrol Partida と称していた。しかし、1905年にスイッチバックを介した737mの延長線が造られ、列車は広軌線と同じレベルで発着できるようになった。それに伴い、パルティダ駅は閉鎖された。

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広軌線のカステイベイ・イ・エル・ビラル=モニストロル・デ・モンセラット駅
右側の空地が登山鉄道の起点駅跡
(2009年撮影)
Photo by eldelinux at wikimedia. License: CC BY 2.0
 

そこから路線は、いったんリョブレガト川の左岸を下る。支流をまたいだところに、バウマ停留所 baixador de la Bauma があった。またしばらく下流へ進むと、狭軌線に接続する(旧)モニストロル・エンリャス(ジャンクション)Monistrol-Enllaç 駅がある。その後、リョブレガト川を長さ118m、3連上路トラスの鉄橋で横断して、山へ向かう。54‰勾配の切通しを抜けると、中間駅のモニストロル・ビラ Monistrol Vila だ。鉄道の運行拠点とされ、車庫と整備工場もここに置かれていた。

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リョブレガト川を渡る登山列車
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
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今もレンガの橋脚・橋台が残存
from street view on Google map, © 2020 Google
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モニストロル・ビラ旧駅舎は鉄道の展示館に
Photo by Enric at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

駅の出口で、いよいよラック区間が始まる。現在の新線も、ここから旧線跡を利用している。短いトンネルを抜けた先に、モンセラットに上る車道と交差する踏切がある(下注)。そこは後に、踏切番の服を着て列車を見送る「踏切小屋の犬 Gos de la Casilla」で有名になり、乗客はそれにコインを投げるのが習わしだった。

*注 復活した新線では、この区間が谷寄りに移設され、立体交差化された。

ラック区間の中間部に設けられた複線は1.3kmあり(下注)、繁忙期に3列車が続行運転しても、走行しながら列車交換が可能な長さだった。路線最長のアポストルス(使徒)トンネル Túnel dels Apòstols を抜け、ほどなく終点のモンセラット・モネスティル(修道院)Montserrat-Monestir 駅に到着する。構内は今と違って屋外にあり、3線が敷かれたターミナルだった。

*注 新線では複線が420mに短縮。

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終点モンセラット・モネスティル駅
© 2020 Institut Cartogràfic i Geològic de Catalunya (ICGC)
 

1920年代には、この終点駅でホームが拡張され、最大4編成の列車の留置が可能になった。並行して電化も検討されたが、財務上の理由とともに、修道院との合意が整わず、実現しなかった。

ここまでの約30年間は、登山鉄道にとって華やかなりし時代だ。かつての馬車道が自動車道に整備されたとはいえ、まだ大多数の訪問客は鉄道を利用して山に上っていたからだ。ところが、1930年代に入ると、風向きが変わっていく。

まず、別のライバルが登場した。1930年に開業した「アエリ・デ・モンセラット Aeri de Montserrat」、すなわちモンセラットに上るロープウェーだ。起点はリョブレガト川沿いの狭軌線のすぐそばで、狭軌線に乗換用の駅が新設された。それは、登山鉄道の接続駅より二駅バルセロナ寄りになる。しかもロープウェーはそこからわずか5分で、修道院の直下まで上りきる。輸送能力は登山鉄道に及ばないものの、時間の短縮効果は圧倒的だった。

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モンセラット・ロープウェーのゴンドラから
起点駅を見下ろす
Photo by The Bernard Gagnon at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0
 

1936~39年の内戦(スペイン市民戦争)中も登山鉄道は走ったが、一般輸送は中止され、機関車はもっぱら、戦争の負傷者をモンセラットに置かれた陸軍病院に運び込む仕事に携わった。内戦が終結しても数年間は財政難で、設備更新に対する投資が滞った。その後は修道院の祝賀行事に伴い、旅客数が回復したものの、長年の酷使により設備の劣化が進行していたのは間違いない。

1953年7月25日、予想外の惨事が起きる。山上行きの列車がラック区間で突然下降し始め、後続の列車を巻き添えにして、その数百m下を走っていた第3の列車に衝突したのだ。この事故で8名が死亡、16名が重傷、116名が軽傷を負った。蒸機も3号機と5号機が大破して、廃車処分となった。

これを境に、会社の運命は暗転した。老朽化した鉄道に対する市民の不信が高まり、モンセラットの訪問客は、ロープウェーや自動車道を上るバス、自家用車に移っていった。もと8両あった蒸機は事故で6両に減り、1956年になると、部品不足で2号機と7号機が離脱、4号機は客車1両に制限された。悪循環の中で万策尽き、1957年5月12日、旧 モンセラット登山鉄道は65年間の運行の幕を閉じた。

登山鉄道の運行会社ムンターニャ・ダ・グランス・ペンデンツは、モンセラット山中に造られた2本のケーブルカーやヌリア登山鉄道の事業者でもあったため、その後も存続している。しかし、1982年にカタルーニャ州により買収され、1984年、残された鉄道の公営化の手続きが完了した。

復活した登山鉄道については、次回

■参考サイト
モンセラット登山鉄道 https://www.cremallerademontserrat.cat/
モンセラット(訪問者向け公式) https://www.montserratvisita.com/
モンセラット・ロープウェー https://aeridemontserrat.com/
Trens de Catalunya - Cremallera i Funiculars de Montserrat
http://www.trenscat.com/montserrat/

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