2023年12月 8日 (金)

コンターサークル地図の旅-宇佐川の河川争奪

侵食力の差によって、ある川が隣接する川の流域に進出し、水流を奪ってしまう。分水界の移動を引き起こすこうした河川争奪地形の読み解きは、オセロゲームを観るような興味を呼び起こす。

2023年コンター旅の最終日に訪ねたのは、そのような地形の変化が実際に生じた場所だ。中国山地、山口・島根の県境付近にあり、当事者である川の名から「宇佐川・高津川の河川争奪」、あるいは地名から「宇佐郷(うさごう)の河川争奪」などと呼ばれている。

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河川争奪で生じた向峠(こうたお)の風隙
正面奥に「争奪の肘」がある
 

後述するように、ここでは日本海に流れる高津川(たかつがわ)の流域に、瀬戸内海に注ぐ錦川の支流、宇佐川(うさがわ)が進出して次々と陣地を奪っていった。そのたびに奪った方の水量が増して侵食力が高まるため、奪われた川床との高低差は今や100m以上にもなる。

さらに、上流を失った空谷を切り裂くようにして、V字谷が横断しているのも珍しい。成立過程の複雑さと規模の大きさにおいて、ここは国内最大級の類例と言っても過言ではない。

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図1 宇佐川周辺の1:200,000地勢図
(左)1986(昭和61)年編集(右)1987(昭和62)年編集
 

中国地方では上根峠(かみねとうげ、下注)と並んで有名な典型地形だが、山中につき公共交通機関で行くのは難しいと思い込んでいた。ところがグーグルマップを見ていて、付近を通過する中国自動車道のパーキングエリア(PA)に、広島~益田(ますだ)間を走る高速バスの停留所があることに気づいた。

他方、宇佐川の谷底には、本数は少ないものの岩国市のコミュニティバスが運行されていて、以前、岩日北線(未成線)の「とことこトレイン」に乗った帰りに実際に乗車している。

*注 上根峠については「コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪」参照。

そこで、この二者を徒歩でつなごうというのが、今回の企画だ。歩く距離は約10km。ルート上には壮大な河川争奪跡だけでなく、繞谷(じょうこく)丘陵、水源池、さらには未成線跡とコンター流の見どころがてんこ盛りで、どんな景色が見られるのか期待に胸が躍る。

10月28日朝8時05分、広島駅新幹線口の高速バス乗り場に集合したのは、大出さんと私の2名。石見(いわみ)交通が運行する清流ライン「高津川号」益田行きは、駅前を発車すると、広島バスセンターでさらに客を拾った。それから長大な西風(せいふう)トンネルを抜け、広島道から中国道へと進む。

バスは太田川流域の山間部における交通機関の役割も果たしているようで、加計(かけ)、筒賀、吉和とSA・PAごとにこまめに停車していく。冠山トンネルを抜けて山口県に入った後の深谷(ふかたに)PAもその一つだ。

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(左)益田行高速バス、広島駅新幹線口にて
(右)深谷PAに到着
 

9時50分に到着。私たちは下車するが、バスもここで10分間休憩する。リュック姿で降りる客は珍しいのだろうか。運転手さんに「どこかへお出かけですか」と聞かれたので、慌てて「河川争奪の地形を見に来ました」と答えたものの、伝わったかどうかは自信がない。

このあたりは向峠(こうたお)という地名(下注)で、北側の山裾にその集落があり、前面に水田が広がっている。標高は390m前後。穏やかな山里に見えるが、東は宇佐川、西ではその名も深谷川(ふかたにがわ)の深い谷で切り取られているため、周囲から隔絶された天空の村だ(冒頭写真も参照)。

*注 行政的には、岩国市錦町宇佐郷の一部。

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山裾に広がる向峠の集落
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図2 1:25,000地形図にに歩いたルート(赤)等を加筆
深谷PA~水源公園
 

せっかく河川争奪地形を訪れるのだから、まずはそれが発生した地点、いわゆる争奪の肘(ひじ)を観察したいところだ。高津川と宇佐川の場合、それは向峠東(こうたおひがし)を横切る中国道の東側に、差し渡し1kmにわたって露出している。

しかし空中写真で見る限り、崖縁は森で覆われ、谷底を俯瞰するのは難しそうだ。何より歩く距離が2km追加になると、帰りのバスの時刻が迫ってくる。それで今回は、高速バスの車窓からざっと眺めることしかできなかった。

PAを出て北側に回ると、道の下に細い水路が走っていた。周りの谷が深く水が乏しいため、ここの水田を潤す水は、深谷川を4~5km遡った金山谷にある取水堰から用水路で引かれている。それがここに排水されているようだ。

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PAの北側を走る細い水路
(左)東(上流)方向(右)西方向
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集落から前面の水田を望む
中景の森の後ろに深谷川のV字谷がある
 

暖かい朝の日ざしが降り注ぐ中、集落を貫く県道16号六日市錦線を歩いた。道はいったん深谷川の上流方向に進むが、やがて左に回り込み、深谷大橋で谷を跨いでいく。橋の長さは99.5mだが、高さが約80mもあり、谷底をのぞき込むと思わず足がすくんだ。欄干に重ねるように高いネットが張られているのは、飛び降りを防ぐためらしい。橋のたもとには、いのちの電話の看板もあった。

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(左)深谷大橋
(右)案内板に河川争奪の説明が
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橋上から深谷川を見下ろす
 

深谷川は県境になっていて、橋を渡り終えれば島根県吉賀町(よしかちょう)だ。まもなく平地にとりつき、初見(はつみ)の集落に入る。左手遠方に、さっき通った向峠の家の屋根が、深谷の木立越しに望める。V字谷が形成される前は平面で地続きだったことがわかる。

道端に、年季の入ったバス停標識が立っていた。「六日市交通 上初見」(下注)とあるが、その下にうっすらと「国鉄バス 新田(しんた)」の文字が読み取れる。かつて国道187号経由で岩国と津和野・益田を結ぶ岩益線というバス路線があったから、その支線のようだ。

*注 吉賀町が六日市交通に委託しているコミュニティバス。

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深谷川は県境
(左)大橋東詰(右)西詰
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(左)上初見バス停標識には「国鉄バス 新田」の文字がうっすらと
(右)左手には深谷川の森が続く
 

しばらくのどかな村里を歩いていくと、左から中国道が近づいてきた。それをくぐった先にある水源公園のあずまやで、昼食休憩にする。手入れされていないうらぶれた園地だが、現在、高津川の水源とされているのが、ここにある大蛇ヶ池だ(下注)。湧水の池は大蛇が棲むには窮屈そうだったが、ほとりに生えている一本杉が樹高20m、根回り5mの巨木で、複雑な枝ぶりが神秘のオーラを放っている。

*注 地形図にあるとおり、池の上手にある星坂集落からも小川が流れており、池は水源の一つに過ぎない。

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高津川の水源、大蛇ヶ池
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風格のある一本杉、根元に大蛇ヶ池
 

公園を見下ろしている水源会館(郷土資料館)の前庭で、「河川争奪の復元図」を描いた説明板を見つけた。太古の高津川(以下、古高津川)がはるかに上流から流れてきていたことを明解に説明している。旧流路を示す砂礫の層があることも記されているが、欲を言えば、争奪を促した要因についても触れてほしいところだ。

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水源公園にある河川争奪の復元図
 

下記研究論文によると、それにはこの地域で北東~南西方向に走っている複数の断層が関係している。断層の継続的な活動によって、山地の北西側が隆起した。これにより、古高津川の中流部が持ち上げられるとともに、上流部では河川勾配が緩くなり、砂礫が堆積して河床が上昇した。

このことはまた、断層の反対側(南東側)にある宇佐川~錦川流域との高度差がより開くことを意味する。さらに、一帯の地層は風化した花崗岩であり、後に宇佐川の谷となるラインには、断層に伴う破砕帯が走っていた。

*注 山内一彦・白石健一郎「中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪」立命館地理学第22号, 2010, pp.39-5

こうした要因に促された河川争奪は、時代的にもエリア的にも復元図の絵解きよりはるかに広範囲に及ぶものだったようだ。その鍵となるのは同 公園の上手、星坂集落の南に見られる風隙だ。これも争奪の肘の一つだが、なぜか南に開いている。これはもとの川(被争奪河川)が、現在の宇佐川とは反対に南から北に向けて流れていたことを示唆する。

争奪過程の全体像は、以下の通り。なお下図は、同論文の添付図(p.53 第11図)をもとに描いたものだ。

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宇佐川の河川争奪過程 1~3
矢印は流路の方向を表す
 

かつて現 宇佐川の流域のほとんどは、古高津川の上流域だった。そして今とは逆方向に、深川南方から須川や星坂を通り、現 水源公園付近で古高津川に合流する川(以下、古南宇佐川)があった【上図1】。

8~4万年前に、錦川支流(=現 宇佐川)が南から浸食して、まずこの古南宇佐川の上流を奪った【上図2】。

新たな水流を得て侵食力を高めた宇佐川は、断層破砕帯に沿って谷頭浸食を進めていく。そして古南宇佐川の全流域を手中に収め、星坂南方に達した。星坂の今ある風隙が生じたのは、この時点だ【上図3】。

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宇佐川の河川争奪過程 4~6
 

一方、現在、東から宇佐川に注いでいる道立野川(みちだちのがわ)、後川(うしろがわ)、相波川(あいなみがわ)などの支流は、かつて宇佐郷で一本の川(以下、古宇佐郷川)となり、現 深谷川が流下しているルートを逆流して古高津川に合流していた。4万5千~3万5千年前ごろ、宇佐川は宇佐郷でこれを奪った【上図4】。

約3万年前、宇佐川は向峠東方に達し、ついに古高津川本流を奪う【上図5】。

これにより古高津川は向峠で水流を失い(無能河川)、深谷川が運んできた砂礫が堆積して扇状地を形成した。1万~3千年前、古高津川の谷が大雨で湛水した際、深谷川から古宇佐郷川の旧流路を通って宇佐川へ溢流が発生した。これが繰り返され、深谷川から宇佐川への流れが定着した。

両者には相当な落差があるため、初期は滝で宇佐川の谷に落ちていたと思われるが、下刻作用により次第にV字谷が発達していく【上図6】。こうして現在の水系が完成した。

午後は水源公園のある高津川の谷を出て、宇佐川の谷へ降りる。その前に、近くにある繞谷丘陵を見に行った。東西150m×南北120m、高さ30mほどの小山だが、コンパクトなだけにかえって谷をめぐらした形状がよくわかる。地質図によると、山体は東側の山と同じタイプの花崗岩なので、地形的にそちらから切り離されたものだろう。

山上に祀られている妙見神社まで、鳥居の立つ南麓から急な石段がついていた。蜘蛛の巣を払いながらなんとか上りきったが、終盤の参道が地すべりで崩壊していて、残念ながら社にはたどり着けなかった。

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妙見神社の繞谷丘陵
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図3 同 水源公園~上須川
 

星坂の集落へ通じている道は、県道120号須川吉賀線だ。しかし普通車がやっとの狭い道幅で、舗装されてはいるものの、雰囲気は林道に近い。左の谷間は水田だったのだろうが、もはや背の高い雑草が生い茂っている。

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(左)林道のような県道120号
(右)星坂の集落を抜ける
 

集落を抜けると道はいっとき上り坂になり、まもなく島根・山口県境の峠に達した。大蛇ヶ池のほとりで見た「従是西(これよりにし)津和野領」の境界石は、もともとここに立っていたものだ。

この星坂峠を境に、風景は一変する。それまで山に囲まれた穏やかな平地だったのが、突然宇佐川の深い谷間を見下ろす山腹に躍り出るのだ。谷底との高度差は180mにもなる。先述の通りこの風隙は争奪の肘で、勢いを得た川の途方もない浸食力に圧倒される。

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(左)星坂峠への上り坂
(右)峠から再び山口県に
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もと星坂峠にあった境界石
現在は大蛇ヶ池のほとりに立つ
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景色は一変、宇佐川の深い谷間に
 

急斜面を覆う木々の間から、下の谷を走る国道434号がちらちら覗いている。県道はくねくね曲がりながら約2.5kmかけてそこまで降りていくのだが、下り坂なので、二人でよもやま話をしているうちに、早や国道が近づいてきた。

国道に出て宇佐川を渡ると、上須川(かみすがわ)の集落がある。立派なコンクリートの高架橋が集落のある谷間を斜めに横切っているのが見える。未成線、岩日北(がんにちきた)線の第4宇佐川橋梁だ。

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谷壁を降りていくか細い県道
(左)星坂峠を振り返る(右)下流方向
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上須川集落
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谷を横切る第4宇佐川橋梁
 

岩日というのは、山陽本線の岩国と山口線の日原(にちはら)のことで、岩日線はこの間を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたものだ。このうち、錦町(にしきちょう)までの南部区間が旧 国鉄岩日線(下注)で、1960~63年に開業し、その後、第三セクターの錦川鉄道になっている。一方、北部区間は岩日北線と呼ばれ、島根県吉賀町の六日市(むいかいち)まで建設が進められていた。路盤はほぼ完成していたが、国鉄再建法の施行により工事は凍結され、惜しくも未成線となってしまった。

*注 旧国鉄岩日線は、正式には岩徳線川西~錦町間32.7kmだが、列車は岩国から直通していた。錦川鉄道の列車も同じ運行形態をとっている。

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現在の錦町駅
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未成線跡を走る「とことこトレイン」
雙津峡温泉駅にて(別の日に撮影)
 

錦町駅と雙津峡(そうづきょう)温泉の間では、2002年からこの路盤を活用して遊覧車両「とことこトレイン」が運行されているが、区間外のこのあたりは遊休施設の状態だ。集落の南で敷地に上ってみると、とことこトレインの走行路と同じように、路盤はきちんと舗装されていた。

高根口駅予定地から宇佐川を跨ぐ第4橋梁までは歩いていけたが、対岸で濃い藪に行く手を遮られてしまう。岩日北線はここから長さ4679mの六日市トンネルで針路を西に変え、高津川流域の六日市に出ていくはすだった。空中写真を見る限り、向こう側の出口でも立派な未成線跡が1kmほど残されているようだ(下注)。

*注 六日市駅予定地は、むいかいち温泉ゆ・ら・らの敷地に転用されている。

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(左)上須川の岩日北線跡
(右)国道を越える第4宇佐川橋梁
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(左)橋梁から上須川方向を振り返る
(右)対岸は濃い藪で六日市トンネルは見えず
 

上須川バス停で、13時58分発の路線バスを待つ。時刻通りにやってきたのはマイクロバスで、他に客はいないから、タクシーのようなものだ。とことこトレインに乗るために途中の停留所で降りた大出さんを見送って、私はそのまま錦町駅まで乗り通した。

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(左)錦町駅へ行くコミュニティバス
(右)上須川バス停の待合所
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)、山口(昭和61年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2023年11月25日 (土)

コンターサークル地図の旅-魚梁瀬森林鉄道跡

四国のコンター旅2日目は高知に移って、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道の旧跡を巡る。

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立岡二号桟道
 

魚梁瀬森林鉄道は、県東部の中芸地区で特産の杉などの木材を山から運び出していた762mm軌間の産業鉄道だ。1911(明治44)年から1942(昭和17)年にかけて奈半利川(なはりがわ)と安田川(やすだがわ)の流域に張り巡らされ、当地の林業経営を支えた。最盛期には、総延長が300kmを超え、国内屈指の広範な路線網だった。しかし、魚梁瀬ダムの建設で上流部の線路が水没することになり、1963(昭和38)年までに主要区間が廃止され、トラック輸送に置き換えられた。

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魚梁瀬丸山公園の復元列車
 

その後、水没を免れた廃線跡は道路に転用されるなどしたが、旧態のまま遺されていたトンネルや橋梁などの構造物が、2009年に「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されて現在に至る。森林鉄道の痕跡は全国にあるが、重文指定を受けているのはここだけだ(下注)。

*注 ちなみに、一般鉄道施設では「旧手宮鉄道施設」「碓氷峠鉄道施設」のほか、単体で「東京駅丸ノ内本屋」「旧揖斐川橋梁(東海道本線)」「末広橋梁(四日市港)」「第一大戸川橋梁(信楽高原鐵道)」「梅小路機関車庫」「旧大社駅本屋」「旧筑後川橋梁(昇開橋、旧佐賀線)」「門司港駅本屋」「旧綱ノ瀬橋梁及び第三五ヶ瀬川橋梁(旧高千穂線)」などが重文指定されている。

遺構は往復70kmほどの沿線に散在している。路線バスもほとんどない地域なので、今回は高知市内でレンタカーを調達する予定だ。それでもルートをくまなく見て回るのは時間的に難しく、主な見どころをピックアップするにとどまるだろう。

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図1 魚梁瀬森林鉄道沿線の1:200,000地勢図に
  重文施設の位置と路線網の概略を加筆
1978(昭和53)年編集図

2023年10月8日朝8時、小雨模様の高知駅前に集合したのは、昨日と同じ大出さんと私の2名。そもそも降水量の多い地域だが、今日の天気予報も終日傘マークで、午後ほど雨脚が強まるらしい。借りたトヨタアクアで高知東部自動車道、国道55号を東へ進む。右手に太平洋が見えてくるが、どんよりとした空のもと、白っぽくくすんだ色をしている。

1時間と少しで、安田町まで来た。安田川大橋の東詰で国道をそれ、クルマを停めた。段丘崖の下を通っていた廃線跡が小道で残っている。木材を満載して安田川の谷を下ってきた列車は、ここから田野の貯木場へ向かっていたのだ。

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(左)崖下を行く廃線跡の小道(田野方向を撮影)
(右)安田川左岸を遡る廃線跡
 

森林鉄道(以下、林鉄)で最初に建設されたのがこの路線で、1911(明治44)年に馬路(うまじ)まで開通し、のちに安田川線と呼ばれた。目的地の魚梁瀬は隣の奈半利川の上流だが、流域の山林の所有権が国と地元との間で係争中だったため、やむを得ずルートを迂回させたのだという。

県道12号が川の対岸(右岸)を走るのに対して、林鉄はこちら側(左岸)だったので、その跡と思しき道を北上した。途中からは、車一台がやっとの道幅になる。昭和の映画館の雰囲気を残すという大心劇場の前を通過し、上代(かみだい)集落を上手に進むと、山かげの道の脇に一つ目の遺構、エヤ隧道が口を開けていた。

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道路脇に残るエヤ隧道
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(左)内部はカーブしている
(右)ポータルに刻まれた I の文字
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図2 1:25,000地形図に主な見どころの位置を加筆
エヤ隧道~明神口橋
 

砂岩切石積みのポータルに、川下側から最初のトンネルを意味する I の文字が刻まれている。長さは33.2mと短く、徒歩で通り抜けが可能だ。入ってみると、アーチの天井部がレンガの長手積み、側面の垂直壁は切石で美しく仕上げられていた。車道に転用されなかったことで、改修の手が加わらず、原状が保たれているようだ。

この先、左岸に沿う廃線跡の林道は、じりじりと道幅を狭めていく。乗用車は後述する明神口橋を渡れないと聞いていたので、与床(よどこ)集落から右岸の県道に迂回した。そのため、途中にある長さ37.5mのバンダ島隧道は、対岸から眺めるにとどめた。

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バンダ島隧道を対岸から遠望
 

次の遺構は、明神口集落の上手に連続している。県道のバイパストンネルの手前で右折して旧道を行くと、川を斜めに渡っている赤いトラス橋が見えてきた。長さ43.2mの明神口(みょうじんぐち)橋だ。1912(大正元)年の建設で、最初は木橋だったが、機関車の導入に伴い、1929(昭和4)年に架け替えられたものだという。今は線路の代わりに、路面に金網が張られている。

これを渡るとすぐ下手に、長さ36.7mのオオムカエ隧道がある。東口(上流側)はコンクリートポータルに改修されているが、西口はオリジナルの切石積みで、III の刻字があった。堀淳一氏も1997年にNHKの番組ロケでここに来ている(下注)が、映像で見る限り、東口は本来素掘りのままだったようだ。

*注 1997年放送の「消えた鉄道を歩く-巨木の森の小さな鉄路」。

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明神口橋、金網が張られた路面
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オオムカエ隧道
(左)もとは素掘りだった東口
(右)原状をとどめる西口
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隧道西口のスギ林
 

次のスポットでも、釜ヶ谷(かまがや)桟道釜ヶ谷橋が連続している。島石ピクニック広場の駐車場から対岸に渡る吊り橋の上に出ると、前者の側面が遠望できた。桟道といっても木製ではなく石積みで、あたかも崖に半分埋まったアーチ橋といった趣きだ。一方、長さ12.3mの釜ヶ谷橋は県道に転用されたため、路面は拡張されている。しかし側面から覗くと、林鉄時代の橋桁と橋台を転用したことが見て取れる。

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釜ヶ谷桟道
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釜ヶ谷橋
(左)県道に転用
(右)林鉄時代の橋桁と橋台
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図3 同 釜ヶ谷桟道~馬路~河口隧道
 

長さ70.6m、平瀬(ひらせ)隧道の西口では、なんとキャンパーがクルマを付けて、テントを張っていた。雨の日だし、誰も通らないトンネルなので、こんな利用法もあるのだと感心する。通り抜けが可能なようだが、お邪魔するのも気が引けるので、反対側の、こちらも県道に面した東口に回った。ポータルの刻字はV、すなわち5番目だから、先ほどのオオムカエ隧道との間にかつてはもう1本トンネルが存在したのだろう。

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平瀬隧道
(左)臨時のキャンプサイトにされた西口
(右)県道脇の東口
 

引き続き一本道の県道を遡り、いよいよ馬路村の中心部にさしかかる。馬路大橋の手前を左折してすぐの川べりにあるのが、遺構群の中でもよく知られた長さ36.5mの五味(ごみ)隧道だ。旧道の馬路橋のたもとに北口が開いていて、線路を載せた短い桟道が続いている。道路から見下ろす構図が定番だが、勢いよく育った笹薮に視界を遮られてしまう。

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五味隧道、笹薮に視界を遮られる
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線路が復元された桟道
(左)五味隧道の真上から
(右)馬路橋から
 

ところで、「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重文指定を受けた施設は14か所あるが、意外にも、五味隧道をはじめ、後述する立岡二号桟道、法恩寺跨線橋、八幡山跨線橋という写真映えする4つの遺構は含まれていない。これらは重文本体ではなく、附(つけたり)指定になっているのだ。

附というのは、たとえば重文建造物の設計図や、来歴、用途を記した文書といった関連資料を、本体とあわせて指定するものだが、同じ類いの構造物でも附指定にすることがあるようだ。産業遺産としては一体的に考えるべきものながら、相対的な重要度の点で及ばないということか。

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五味隧道案内板
 

対岸に、観光案内所「まかいちょって家」がある。後で立ち寄って、2階にある森林鉄道の写真展示を見学した。売店では土産物のほか、林鉄関連の既刊書籍も扱っていて、ちょっとしたミュージアムショップだ。私も新刊の林鉄写真集を購入した。

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(左)まかいちょって家
(右)2階の林鉄展示
 

県道をはずれて、右岸(西岸)の町道を行く。馬路村は特産のゆずを使った商品開発で知られるが、製品加工施設の敷地はもと林鉄の運行拠点で、機関庫や修理工場を伴っていたヤードの跡だ。その北側はかつて商店街で、林鉄が路面軌道の形で貫いていた。いったん集落が途切れるが、その先は現在、村の観光拠点になっている。

右手の大きな建物は、日帰り温泉施設のうまじ温泉だ。左には1994年に開業した「馬路森林鉄道」という観光鉄道があり、支流の西谷川に沿って508mm軌間(下注)、1周300mのささやかな周回軌道が設けられている。その乗車も楽しみにしていたのだが、駅の窓口へ行くと、係員さんが申し訳なさそうに「機関車の故障で当面運休なんです」という。アメリカ・ポーター社製の旧機を2/3サイズで再現したという機関車がホームに停まっているが、「エンジントラブルの為、運休中!!」と張り紙がしてある。

*注 オリジナルは762mm(2フィート6インチ)軌間で、508mmはその2/3になる。

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馬路森林鉄道
(左)機関車は故障中
(右)谷沿いを走る軌道
 

では、隣のインクラインに乗ろう、と思って聞くと、「雨でシートが濡れて使えないので、きょうは中止にしました」。インクラインというのは、林鉄で使われていた傾斜鉄道(貨物用ケーブルカー)を再現した斜長92mの施設で、車両に積んだ水の重りで動くという珍しいものだ(下注)。山際の乗り場では、雨に濡れそぼった走行線に、オープンタイプの小型車両が所在なげに停まっていた。シートベルトを締めて乗るので、雨が吹き込む状況では運行できない。

*注 ウォーターバラスト方式といい、日本で唯一。海外の実例については「ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル」参照。

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馬路インクライン
(左)車両と急勾配の軌道
(右)水抜き用の管路
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インクライン軌道全景
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インクライン案内板
 

雨に降られたばかりか、お目当ての乗り物にも振られてしまったので、うまじ温泉のレストランで早めの昼食にした。ゆず果汁入りの「ごっくん馬路村」も試して元気を取り戻したところで、林鉄遺跡の探索を再開する。

馬路から魚梁瀬までの区間は、少し遅れて1915(大正4)年の開通だ。温泉のすぐ上手に、町道を通している落合橋がある。長さ37.0mで、釜ヶ谷橋と同じく、プレートガーダーと橋台が林鉄の遺物だ。

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落合橋
 

次は河口(こうぐち)隧道。県道から少し引っ込んだ位置にあり、長さは89.9m、ポータルに8番目を示す VIII の刻字がある。徒歩で入ろうとしたら、エンジン音がこだまし、中から軽トラックが飛び出してきた。内部は小さな明かりも灯っていて、椀田(わんだ)集落から中ノ川方面へ行くのに、近道として使われているようだ。カーブしたトンネルを出ると切通しで、上を旧道(?)が通過している。

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河口隧道東口
切通しを旧道がオーバークロス
 

山はさらに深まり、サミットとなる2車線の新久木(くき)トンネルが現れた。林鉄時代の久木隧道は、長さが333mと魚梁瀬林鉄では最長で、1977(昭和52)年の新トンネル完成までの間は、道路としても使われた。上記堀氏の著書『地図で歩く古代から現代まで』(JTB、2002年)によると、西口のポータルはまだ残っているようだが、この天気では探す気力が湧いてこない。

奈半利川斜面を降りていく途中に、支谷をまたぐ犬吠(いぬぼう)橋が架かっている。長さ41mの立派な上路トラス橋で、廃線後も県道の橋として使われていた。しかし、鋼材の一部が破断して通行できなくなり、現在、県道は上流側の迂回路を通っている。下流側で建設中の新しい橋が完成すれば、県道はそちらに移される予定だ。

林鉄の鉄橋は今や形が崩れ、仮設の支持台でかろうじて支えられていて、なんとも痛々しい。修復して自転車・歩行者専用にする計画だそうだが、いったん解体して組み立て直す必要があるから大工事だ。重要文化財とはいえ、そんな予算がぽんとつくのだろうか。

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痛々しい姿の犬吠橋
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図4 同 犬吠橋~魚梁瀬
 

久木ダムの少し上流にも、同じような構造の井ノ谷(いのや)橋が残っているので、県道をそれて寄り道した。道路に転用されていて、長さは54.5m。両端がカーブしているので、たもとからトラス構造を覗くことができる。

林鉄安田川線は、この先の釈迦ヶ生(しゃかがうえ)集落で奈半利川線と合流するが、魚梁瀬ダムの完成によって、上流の線路は湖底に沈んでしまった。クルマ道も行き止まりなので、引き返すしかない。

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井ノ谷橋
 

県道に戻って、くねくねと山腹を上っていくと、ダムを見下ろす展望台があった。見るからにどっしりとした大堰堤が眼下の谷を埋めている。魚梁瀬ダムは1970(昭和45)年に完成したロックフィルダムで、高さが115mで四国一、貯水量も「四国の水がめ」早明浦(さめうら)ダムに次ぐ規模だ。展望台の側壁パネルには、ダムの写真とともに林鉄の現役当時の写真も収められていた。

県道を少し上手に進んだところには別の展望台があり、貯水池(ダム湖)が奥まで見通せる。ここばかりは「雨には雨の風情あり」で、入り組んだ湖の周りの山並みに低い雲がたなびいて、一幅の絵のようだった。

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ロックフィルの魚梁瀬ダム
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ダム湖のパノラマ
正面奥に魚梁瀬大橋と、魚梁瀬(丸山台地)の一部が見える
 

林業で栄えた魚梁瀬地区は水没するのに伴い、湖畔の造成地(丸山台地)に集団移転した。旧版地形図と照合すると、旧集落の山手にあった昔の川の蛇行跡を嵩上げして造ったようだ。その一角が丸山公園と呼ばれる広い園地になっていて、762mm軌間、一周406mの周回軌道が敷かれている。

魚梁瀬大橋でダム湖を横断して、その乗り場である森の駅やなせの前にクルマを停めた。馬路での失意の記憶がよみがえり、窓口でおそるおそる「乗れますか」と聞くと、「ええ、何名さんですか」と返ってきてほっとする。一応、10時から15時30分まで15分間隔の時刻表が掲げてあるが、客が来しだい、随時運行しているようだ。

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森の駅やなせ
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スギ材製の乗車券、裏面に日付が入る
 

高床のホームに、谷村式と記された小型ディーゼル機関車が客車を従え、待機していた。谷村というのは戦前、地元高知で林鉄向けの装置を製造していた谷村鉄工所のことで、そのロッド駆動車をモデルに新造されたのがこの機関車だ。客車(連絡車)の車体にも地元産の木材が使われている。無蓋のトロッコと密閉型のボギー車の組み合わせなので、雨でも問題なく乗れるのがうれしい。

運賃は大人400円。杉板に印刷した乗車券をもらって乗車する。走り出すと最初、湖に近づき、次いで車庫前を通過して、警報機が鳴る踏切を横断した。この軌道を2周して、約7分のミニ列車旅だった。その後、大出さんが機関車の運転体験を申し込んだ。正規の運転士に横で指導してもらいながら、これも2周する。

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谷村式機関車が牽く復元列車
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(左)機関車の運転台
(右)ボギー客車
  朝ドラ「らんまん」のモデル牧野富太郎の人形が同乗
 

北隅にある車庫も開いていて、自主見学が許された。野村式と書かれた茶色の機関車は、1948年野村組工作所製のL-69で、魚梁瀬林鉄のオリジナル機だ。廃線後、静態保存されていたものを1991年に動態復元したのだという(下注)。急曲線に対応する運材台車を引き連れたさまも絵になる。

*注 重量があり軌道が傷むため、「本線」を走行するのは特別行事のときだけのようだ。ちなみに先述のNHKの番組ではこれが走るシーンが出てくる。

隣にいる黄と緑と白帯の機関車は、静岡の水窪(みさくぼ)森林鉄道から来た酒井工作所製C16形、また岩手富士と書かれた箱型機は、鳥取から来た岩手富士産業製の特殊軽量機関車で、唯一の残存例だそうだ。

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車庫に保存車両を留置
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運材台車を引き連れた野村式L-69
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(左)酒井工作所製C16形
(右)岩手富士産業製特殊軽量機関車
 

林鉄ワールドを堪能して、帰路に就く。往路は安田川経由だったが、復路は奈半利川に沿って下る。旧来の安田川線には、釈迦ヶ生~久木隧道間に逆勾配、すなわち荷を積んだ列車にとって不利な上り坂が存在し、運行のボトルネックになっていた。これを解消するために計画されたのが奈半利川線で、1931(昭和6)年から1942(昭和17)年にかけて建設された。

クルマはしばらく県道12号を南下するが、安田川沿いより道幅が広めだ。ダム建設に際して、工事車両を通すために拡幅されたのだろう。林鉄由来と思われるトンネルもあるが、改修を受けているためか、重文のリストには含まれていない。

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図5 同 堀ヶ生橋~小島橋
 

そのため、奈半利川線の重文物件はすべて橋梁で占められる。最も上流の堀ヶ生橋(下注)は長さ46.9m、シングルスパンの鉄筋コンクリートアーチ橋だ。この材質で43mものスパンは国内最大級だそうで、県道に転用されていることもあって、もと鉄道橋には見えない。河原に降りて真下から仰ぐアーチはいっそう迫力があった。

*注 国指定文化財等データベースでは、堀ヶ生橋に「ほりがをばし」という異例の読みが付けられている(通常「を」は用いない)。なお、地理院地図では、堀ヶ生の地名の読みを「ほりがうえ」としている。

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長大スパンの堀ヶ生橋
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(左)堀ヶ生橋、中央部に退避場所がある
(右)橋に続く堀ヶ生隧道、側壁は石積み
 

県道12号が徳島県から来た国道493号と出会う位置に、二股(ふたまた)橋が架かっている。奈半利川と支流の小川川(おがわがわ)の合流地点だ。橋は長さ46.5mで同じくコンクリート製だが、こちらは無筋のため2スパンで、めがね橋の別称がある。釜石線や旧彦山線(現 日田彦山線BRT区間)、旧宮原線などに見られる高架橋を彷彿とさせるが、二股橋も、鋼材の使用制限が始まっていた1941(昭和16)年の建設だ。

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川の合流地点に架かる二股橋、通称めがね橋
奥に見えるのは二又発電所
 

奈半利川鉄橋なき今、長さ143.0mの小島(こじま)橋は、魚梁瀬林鉄で最大の遺構だ。2連のプラットトラスで、ゆったりと流れる奈半利川の中流部を渡っている。本体の威容もさることながら、対岸(左岸)にあるカーブしたガーダー橋と築堤の取り付け部が、廃線跡の雰囲気をよく残している。奈半利川線のうち二股以南は、後に支線となった竹屋敷線などとともに1932(昭和7)年までに完成していた。上述の2橋と違って鋼製なのはそれが理由だ。

*注 国指定文化財等データベースでは「こじまばし」だが、地理院地図では小島の地名の読みを「こしま」としている。

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2連プラットトラスの小島橋
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(左)右岸のたもとから
(右)ガーダー橋と築堤が左岸に続く
 

この後は、国道493号と北川奈半利道路で一気に奈半利を目指した(下注)。

*注 重文指定ではないため訪れなかったが、奈半利川右岸に加茂隧道(長さ28.1m)が原形のまま残っている。

右岸の田野町側には立岡(たちおか)二号桟道という印象的な遺構がある。3連プラットトラスで長さ167.49mと最長だった旧奈半利鉄橋の、西側の取り付け部に相当する構造物だ。避溢橋の役割を果たすコンクリートの高架と長い築堤が、カーブしながら川べりまで続いている。大出さんは以前来たことがあるというし、私も土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線に乗った際、見に行ったので、今回は対岸から遠望するにとどめた。

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立岡二号桟道と築堤(別の日に撮影)
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(左)カーブする桟道
(右)丸石が積まれた築堤の法面
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図6 同 安田、田野、奈半利
 

廃線跡の町道をたどって、法恩寺跨線橋(下注)へ。段丘上の三光寺へ行く参道が林鉄を跨いでいた橋で、石造アーチの構造をしている。立体交差にしたのは安全でいいことだが、参道の石段はけっこう段差があり、何度も上り下りするのは大変そうだ。

*注 法恩寺の地名の読みについて、現地の案内板には「ほうおんじ」とあるが、地理院地図では「ほおじ」としている。

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法恩寺跨線橋(別の日に撮影)
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多くの重文施設に同様の案内板がある
 

国道55号を戻り、最後に、田野の町はずれにある八幡山(はちまんやま)跨線橋を見に行った。ここでも神社に通じる参道が、林鉄の廃線跡を跨いでいる。コンクリートの桁橋なので、法恩寺のようなデザイン性には欠けるが、参道の階段が上に行くほどラッパ状にすぼまっていて、遠近感が強調されるのが面白い。

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八幡山跨線橋
(左)コンクリートの桁橋
(右)ラッパ状にすぼまる階段
 

時刻は早や17時、駆け足の旅だったとはいえ、貴重な遺構群や展示資料を実見し、再現鉄道の乗車も叶った。運行廃止から60年が経過した魚梁瀬森林鉄道だが、思ったより身近なものに感じられたのは、郷土史を飾る重要なページとして地域の人々に大切に扱われてきたからだろう。産業振興の推進力であり、交通の動脈でもあった鉄道の遺産が、これからも末永く維持されることを願いたいものだ。私も、雨にたたられた馬路の軽便鉄道とインクラインにいつか再挑戦しなければ…。

最後に、魚梁瀬森林鉄道の路線網が記載されている旧版1:50,000地形図を掲げておこう。

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図7 索引図
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図8 安田、田野、奈半利周辺
1953(昭和28)年応急修正、以下同
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図9 馬路周辺
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図10 魚梁瀬周辺
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図11 北川村北部
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図剣山、高知(いずれも昭和53年編集)、5万分の1地形図馬路、奈半利、安藝(いずれも昭和28年応急修正)および地理院地図(2023年10月25日取得)を使用したものである。

■参考サイト
魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム https://rintetu.com/
Facebook-中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会 https://www.facebook.com/yanaserintetu

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