2017年12月19日 (火)

コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月5日、札幌は最低気温が4度まで下がった。昨日は曇り空に木枯らしが吹いて、道庁の庭に散り敷いた黄葉の絨毯を舞い上がらせていたが、今朝はもはや初冬の風情だ。札幌駅8時43分発の小樽行き普通列車に乗る。車内は混んでいて、途中駅での動きも少なく、結局ほとんどの人が小樽まで乗り通した。出口へ向かう人の波を見送って、私はさらに気動車に乗り継ぐ。

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初冬の積丹海岸、泊村茂岩にて

集合場所の余市(よいち)駅前には、堀さん、ミドリさん、河村さん、片岡さんがすでに到着していた。列車で来た真尾さんと私を加えて総勢6人。3台の車に分乗して、国道229号線を積丹(しゃこたん)半島西岸へ向かう。精力的に実施されてきたコンターサークルS道内の旅も、今年はこれが最終回になる。神恵内(かもえない)村の大森山道と泊(とまり)村の海のモイワが、本日の目的地だ。

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余市駅 (左)改築された駅舎 (右)駅前に集合した面々

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積丹半島の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

私は片岡さんの車に乗せてもらった。古平(ふるびら)からは、近道になる道道998号でトーマル峠を越える。半島を横断するこの峠道は標高が600m以上あり、周囲は早くも雪景色だ。神恵内(かもえない)で国道に復帰して海岸線を北上し、山際に道の駅が見えたところで、目指す大森トンネルに入った。2007(平成19)年に開通した新しいトンネルで、長さは2,509mある。

半島の海岸線をぐるりと回る国道229号は、夕陽のきれいな海景ルートとして人気が高い。反面、地形的には非常に厳しく、険しい断崖がどこまでも連なり、日本海の荒波に洗われている。そのため、1982(昭和57)年にトーマル峠越えのルートから指定替えされて以降も、国道はしばらく未完のままだった。最後まで残った積丹町沼前(下注)~神恵内村川白(かわしら)間が開通したのはわずか20年前、1996(平成8)年のことだ。

*注 沼前は、旧図に「のなまい」の読み仮名が振られているが、地理院地図によれば現在は「ぬままえ」と読むようだ。

大森トンネルを含む大森~珊内(さんない)間はそれ以前に道路が通じていたが、ルートには変遷がある。現ルートは3代目に当たり、その前は、南から順に旧 大森トンネル、大森大橋、とようみトンネル、ウエンチクナイトンネルとつなぐ旧道があった(下図の第2段参照)。旧道といっても、1985(昭和60)年開通の立派な二車線道だ。

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大森トンネル前後のルート変遷

ところが不幸なことにこの2代目は、2004(平成16)年9月に襲来した台風18号の波浪で途中の大森大橋が損壊し、通行不能になってしまう。12月に仮復旧した(上図第3段)が、最終的に、別途山側に掘ったトンネルを既存のウエンチクナイトンネルとつなげる形で、2007(平成19)年3月に現在の大森トンネルが完成して(同 第4段)、2代目ルートはあえなく廃道となった。

この新道、旧道に対して、初代の自動車道路は海際を避けて、標高約150mの高みを通っていた(同 第1段)。ルートはまず、大森集落の北のはずれで大森山の斜面をゆっくり上るところから始まる。断崖より上の山襞を4本の短いトンネルで貫いた後、キナウシ川の谷に沿って降下する。しかし、降りきる手前でキナウシ岬をトンネルで抜け、それからおもむろに海岸線に達する。それが、これから歩こうとしている大森山道だ。なお、旧版地形図には、それより古い山越えの徒歩道が描かれており、こちらを山道と呼ぶべきかもしれないが、それは別の課題として…。

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現行の地理院地図(1:25,000、2017年12月取得)に、歩いたルートを加筆
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上記と同範囲の1:25,000地形図、2005(平成17)年および2006(平成18)年更新
大森大橋が仮復旧していた時期のもの。図には、ウエンチクナイトンネルの延長によって廃止された2代目ルートの痕跡が残っている。

私たちは、大森トンネルを出てすぐの空き地に車を停めた。山を下ってきたキナウシ川が海に注ぐ場所だが、高い防波堤に遮られて、道路から海はまったく見えない。向いには次のキナウシトンネル(長さ1,008m)が口を開けている。

面白いことにキナウシトンネルは、先代、先々代と3代のポータルが斜面に仲良く並ぶ。大森トンネルの北口が旧 ウエンチクナイトンネルのそれをそのまま利用しているのに対して、キナウシトンネルは、ルートが変わるたびに新たに掘られたからだ。供用中の3代目(2002(平成14)年竣工、2003(平成15)年開通)に対して、その海側で完全封鎖されているのが2代目、上方の、バリケードがあるものの本体は無傷なのが初代のトンネルだ。

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3代のキナウシトンネルが並ぶ光景
現 3代目トンネルの左に封鎖された2代目、上方に初代が残る

時刻は12時少し前。このとき神恵内の気温は6.8度だったのだが、海辺は強い風が吹き付けていて、体感温度はもっと低い。「寒いのは苦手です」という堀さんはミドリさんの車に残り、あとの5人で旧道のようすを探りに出かけた。

現行の地理院地図には描かれていないが、2010(平成22)年3月完成の大きな砂防ダムが谷をまたいでいる(下注)。そのため、山道の新道接続部は完全に消失していた。ミドリさんがさっさとダムの脇の法面をよじ登っていったので、私たちも草をかき分けながら後を追う。幸いにもダムの上流ではもとの山道が残っていた。轍の跡以外はススキその他の丈高い草が茂っているが、冬枯れしていて歩くのに支障はなさそうだ。

*注 上図では、3か所のダムの概略位置を加筆した。

いったん車のところまで下りて、作戦会議を開く。日の短い時期で、全線踏破するには時間が足りないことから、目標を山道のトンネルの現況確認に絞ることになった。

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(左)砂防ダムで付近の山道は消失 (右)ダム側からの眺め
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(左)砂防ダム上方、海岸へ降りる道と初代キナウシトンネル方面への分岐点
(右)冬枯れの山道をたどる

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堀さんは、過去に二度、サークルのメンバーとここを訪れている。最初は1989年5月と8月で、『忘れられた道-北の旧道・廃道を行く』(北海道新聞社、1992年)の冒頭にそのレポートがある。新道への切り替えから4年後だが、掲載写真で見る限り、足元に雑草は生えているものの、路面はいたって明瞭だ。

二度目は12年後の2001年5月で、自費出版の『北海道の交通遺跡を歩く』(コンターサークル、2003年、p.60~)に出てくる。堀さんの記憶では、このときもまだ普通に通れたそうだ。

山道が寸断されたのは、主に砂防ダム工事が原因だろう。歩いていくと、キナウシ川を渡る最初の橋は問題がなかったが、上流にある砂防ダムの手前で道は途切れてしまい、少しの間、藪をかき分けながら、あるかなしかの踏み分け道をたどらなければならなかった。

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上流の砂防ダム。左は帰路写す

さらにその先、第二の橋のあるところでは川筋が移動していた。橋の下を流れていたはずのキナウシ川が、橋の手前を横切り、そのために山道がまるごと流失していたのだ。「昭和35年10月竣工」の銘板をもつ親柱が残っているとはいえ、橋はもはや何の役割も果たしていない。川にはそれなりの水量があったが、山歩きに慣れている片岡さんが、川幅が最も狭まるところを見極めて、ひょいと渡った。私たちも後に続き、足を濡らしながらもどうにか難所を通過した。

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第二の橋
(左)川筋の移動で山道が流失。奥に見えるのが山道の続き
(右)沢渡りの場所にあったハクション大魔王の壺?

そのあとは再び歩ける道になった。枯草と落ち葉に覆われているものの、もとの道幅がわかる程度に空いている。第三の橋は欄干こそ壊れていたが、路面は無事で、「キナウシ」と川の名を記した看板が道の脇に埋もれていた。ここで谷を折り返して、今度は左岸の斜面を上っていく。川際と沢の横断で2か所流されていたのを除けば、道は谷沿いよりはるかに原形をとどめていた。崖に張られた防護ネット、ガードレール、カーブミラー、道路標識、砂箱と、置き去りにされた現役時代の証人が次々と現れて、私たちを喜ばせる。

いくつか切通しを抜けたところで、枯れ枝越しに白くかすむ海原が俯瞰できた。ずっと上り続けてきて、標高はすでに130~140mある。

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道のない斜面を横渡り(第三の橋の直後)
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切通しは当時のまま残る
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現役時代の証人 (左)防護ネットとガードレール (右)曇りなきカーブミラー

やがて、目指していたウエンチクナイ4号トンネルが視界に入ってきた。近づくと、コンクリート製のしっかりしたポータルで、内部も荒れておらず、30年以上も放置されていたとは思えない。河村さんがトンネル名称を記した看板が落ちているのを見つけて、撮影用にセットする。最も長い4号がこれだけしっかり残っているのなら、残り3本の状況も期待できそうだ。しかし、復路に必要な時間も考えて、今回は4号の南口を確かめただけで引き返した。

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ウエンチクナイ4号トンネル北口

戻りがてら、初代キナウシトンネルの様子を見に行った。ポータルの仕様は4号トンネルと同じなので、同時期に一連の工事で造られたものだろう。北口はオーバーハングした断崖の真下で、頼まれても長居はしたくないような場所だった。崖下に沿って草に覆われた狭い段丘のような地形が続いていたが、山道の跡なのか、それとも2代目道路の覆道の屋根なのか、判然としない。

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(左)海に臨むキナウシの断崖 (右)初代キナウシトンネル北口

車に戻ったのは15時に近かった。堀さんを残して2時間半も出かけていたことになる。ミドリさんが「長い間、車に閉じ込めてしまって」と謝ると、堀さんは笑って「いや、かえってその間、開放してもらったようなもんです」。

持参した軽食でとりあえず空腹を満たしてから、次の目的地、泊村の茂岩(もいわ)へと車を進めた。それは長いトンネルを出た先にある小さな浜集落で、正面の海岸に兜をかぶったような形の大きな岩山が鎮座している。弁天島と呼ばれるが、「茂岩の名はここから来ていると思います」と真尾さん。アイヌ語でモ・イワは小さい山を指し、さらにイワには神聖な山という含みがある。今は弁天様(弁財天)にすり替わってしまったが、アイヌの人々もこの孤高の岩山に神が宿ると考えたのだ。

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茂岩周辺の1:25,000地形図、2006(平成18)年更新。青円内が弁天島

おりしも低く垂れこめた雲の間から太陽が顔をのぞかせ、鉛色の海原を朱く照らし出した。傍らに立つ神の岩が、そのシルエットをひときわ濃くする。夕陽のきれいな積丹半島が見せてくれた最後の挨拶だ。目の前に広がる荘厳なメッセージに、私たちは寒さも忘れて、しばらくその場に立ち尽くした。

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海原を照らす夕陽と神の岩のシルエット

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図珊内(昭和51年修正測量、平成17年更新)、ポンネアンチシ山(昭和51年修正測量)、神恵内(昭和51年修正測量、平成18年更新)、20万分の1地勢図岩内(平成18年編集)を使用したものである。

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 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点

2017年12月10日 (日)

コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点

本日のテーマは3つの都府県が境を接する地点、いわゆる3県境会合点だ。こうした会合点は全国で48か所(和歌山県の飛び地に関する4か所を含む)を数えるが、ほとんどが山中か、そうでなければ水面上にある。行政界は稜線や川など自然の境界に設定されることが多いから、当然だろう。一昨年訪れた京都・大阪・奈良の会合点などはまだ到達が容易なほうだったが、それでも藪蚊の猛攻撃をかわしながら、雑木の茂る里山に分け入る必要があった(下注)。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点」参照。

ところが全国で唯一、平地の会合点も存在する。栃木・群馬・埼玉3県境のそれだ。渡良瀬(わたらせ)遊水地近くの田んぼの中に、その旨を示す標識杭が打たれているという。本日10月9日はまずここを目指し、周辺を歩く予定だ。ついでに近辺にある茨城・栃木・埼玉の会合点、さらに茨城・埼玉・千葉の会合点(どちらも川の中)にも足を延ばそうと思う。

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三県境界に設置された測量標。中央の+の位置が会合点

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古河周辺の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

東北本線(宇都宮線)の古河(こが)駅西口で、真尾さんのレンタカーに拾ってもらった。参加者はこの二人だけだ。古河の旧市街を抜け、渡良瀬川に架かる三国橋を渡って右へ。見通しのいい渡良瀬遊水地の堤防道路を北上する。昨日から続く好天で、青空がまぶしい。

この道は県道9号佐野古河線(下注)だが、県境を次々と越えていくことで知られている。三国橋の上で茨城県から埼玉県に入るが、約3kmで栃木県に移り、さらに群馬、埼玉、群馬、栃木と目まぐるしく変わる。ご丁寧にも、境界をまたぐたびに県名と市町村名を掲げた道路標識(白看)が立っている。道路は気持ちよく伸びているので、県境のほうが複雑に入り組んでいることがわかるが、なぜこんなことになったのだろうか。

*注 加須市柏戸~古河市街(本町二丁目交差点)間は国道354号線と重複している。

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県道9号佐野古河線を北上
遠方に「道の駅きたかわべ」の特徴的な建物が見える区間で県名標識が林立する
(左)栃木県栃木市 (中)群馬県板倉町 (右)道の駅の入口で再び埼玉県加須市
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道の駅施設の屋上から望む渡良瀬遊水池(谷中池)

下図で、この周辺の今昔を比較してみよう。左は今から110年前、1907(明治40)年の5万分の1地形図を拡大したもの、右は現行1:25,000地形図だ。左図では北西から流れてきた渡良瀬川に、西から谷田川(やたがわ)が合流している。渡良瀬川はこのあたりで大きく蛇行しており、「海老瀬(えびせ)の七曲り」の呼び名があった。3県の境界は川の流路上に設定されていたので、川の合流地点がすなわち3県境会合点だった。

1910(明治43)年から、洪水制御の名目で渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり、1918(大正7)年に現在の東寄りの流路に付け替えられた。蛇行していた旧流路は、後に遊水地の造成工事で出た土砂を盛って、耕作地に整備された。しかし、県境は変更されなかったので、結果的に、県境を堤防道路が串刺しするような状況が出現したのだ。3県境会合点が田んぼの真ん中に残されたのも、同じ理由だ。

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栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大
(右)1:25,000地形図(平成29年)。いずれも県境を赤のマーカーで強調。現在の県境が旧河道をなぞっていることがわかる

車の行く手に、「道の駅きたかわべ」の建物が見えてきた。きたかわべ(北川辺)は、加須(かぞ)市に合併する前の旧町名だ。目的地に近いので、車を停めさせてもらう。連休中とあって、お昼前でも駐車場は満車寸前で、特産品売り場もよく賑わっている。建物の屋上に出て、広々と明るい遊水池(谷中池)の展望を楽しんだ後、いよいよ県境探索に出発した。

実は真尾さんは、すでに二度ここを訪れている。初回は個人で、二回目は2014年10月11日に堀さんを含むコンターサークルのメンバー5名とともに。「あのときも会合点には行ったんですが、周りの入り組んだ県境は歩いてないんです」。再々訪の目的はそれを貫徹することだ。私は私で、前回の旅を仕事の都合で欠席したので、初の踏査を楽しみにしている。

■参考サイト
コンターサークルS前回の訪問記「関東内陸の3県境を訪ねる」
https://ameblo.jp/chizumania/entry-12006028049.html

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道の駅から3県境会合点を望む。県境を白線で加筆

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栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の1:2,500都市計画基本図に加筆
画像は105dpi相当。加須市刊行図のため、空白となる他市町域は1:25,000地形図で補った。図中のA~Iは以下の写真の撮影位置

「境界を歩くために、秘密兵器を用意してきました」と、私は加須市の1:2,500都市計画基本図(上図)を広げた。これなら、1:25,000地形図で描ききれない田んぼの畦道や細かい水路もしっかり載っている。地図に従って、道の駅の南側の法面を降りた。小道の脇に県境が走っているはずだ。しかも、北西に埼玉、南東に群馬という地理感覚を混乱させる配置なので、二人で交互に2県を股にかける記念写真を撮った。このユニークな県境は、畦道にはさまれた溝となってさらに南へ250m続く。途中、溝の北西側に「北川辺町」の標石を見つけた。

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サイクリストが県境を越える(背景は渡良瀬遊水池(谷中池)、上図のA地点)
北西に埼玉県、南東に群馬県(!)
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埼玉・群馬県境
(左)右足は群馬、左足は埼玉に(B地点) (右)県境の北西側に旧 北川辺町の標石

車道に接近する一歩手前、コスモスが風に揺れる草道と出会う地点で、県境は東へ向きを変える。さっきよりはやや深い水路に沿って200m弱進むと、県境は、東西に延びる新設の街路と二度クロスする。この街路の南側にはみ出した部分は、三角形の公園に整えてあるのがおもしろい(下注)。さらに草をかき分けながら住宅裏の畦道をたどっていくと、目標の地点が見えてきた。

*注 1:25,000地形図ではこのはみ出し部分を長く描きすぎている。会合点の位置もあいまいだ。

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埼玉・群馬県境
(左)南北に延びる農道の右側が県境(C地点)
(右)群馬県域に含まれる三角公園(D地点)

変哲のない田園地帯というのに、何人か先客の影がある。それもそのはず、今やこの3県境会合点は、にわか観光スポットになっているのだ。道の駅には案内パンフレットが置いてあったし、私たちがここに滞在した短い間だけでもグループが2組現れて、順番に写真に収まっていた。自撮り用にと、スマホやカメラを置く台まで作ってある。

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(左)県境の水路の先の会合点には先客が(E地点)
(右)道の駅にある3県境のPRコーナー

当の会合点は、小さな水路がT字状に交わる地点で、水路の中に「三県境界」と刻まれた測量標が設置されている(冒頭写真)。水準点に使われるのと同様の、金色に光る立派なものだ。「地元の方が作った立札は3年前もありましたが、測量標はなかったですよ」と驚く真尾さん。パンフレットには、昨年(2016年)1月から3月にかけて県境の改測が実施され、その際に、ここで以前入れられたと思われる杭が発見されたとある。この測量標はそれに代わるものらしい。しかし見物客にとっては、溝に隠れた測量標より、目立つ手製の立札のほうがむしろいいようだった。

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栃木・群馬・埼玉3県境会合点

私たちは会合点から延びる小水路、すなわち栃木・埼玉の県境を東へたどることにした。渡良瀬川の旧流路をなぞっているから、緩く左にカーブするのはわかるが、なぜか栃木側がやや高い。住宅の裏を縫うようにして進むと、堤防の手前で資材置き場のフェンスに阻まれた。この平行四辺形の造成地は2県にまたがっている。

次に堤防下の側道を遡上し、栃木・群馬県境となった旧流路跡の小水路に沿って、会合点に戻った。さっきいた人たちとは別のグループが来ている。なかなかの人気だ。通りがかりの人の話では、3県境がマスコミにも取り上げられた去年はもっと多かったらしい。

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栃木・埼玉県境
(左)こちらも小さな水路が県境(F地点) (右)集落入口、堤防際に建つ祠(G地点)
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栃木・群馬県境
(左)カーブミラーには藤岡町(現 栃木県栃木市)と記載。道路標識は群馬県板倉町(H地点)
(右)栃木・群馬県境の小水路をたどって会合点に戻る(I地点)

一つ目の会合点と県境探索を完遂した私たちは、道の駅に戻って、次の目的地である茨城・栃木・埼玉3県境会合点へ車で移動した。県道9号を古河のほうへ戻り、遊水地と渡良瀬川を区切る堤防の水門脇に出る。会合点があるのは渡良瀬川の水面上だ。河川改修以前は、ここで渡良瀬川に思川が合流していた。旧版地形図(下図左)に描かれたとおり、三国橋はこの場所に架かり、文字通り下総(下注)、下野、武蔵の三国を渡っていたのだ。堤防の天端に立つと、対岸のゴルフ場と古河市街が望めるが、その手前にあるはずの肝心の水面は、ススキその他背の高い草の陰に隠れて、ほとんど見えなかった。

*注 古河(旧 猿島郡古河町)は茨城県だが、下総国に属する。

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遊水地堤防から茨城・栃木・埼玉3県会合点を望む
しかし会合点のある水面はほとんど見えない

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茨城・栃木・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

三つ目の会合点へ赴く途中、加須市伊賀袋(いがぶくろ)に残された河跡湖(三日月湖)に寄り道した。渡良瀬川の旧河道で、ふれあい公園の名で周囲と併せて整備されている。湖といっても泥に覆われてまるで干潟のようだが、申し訳程度に流れる水でも、逆光で眺めると、悠然たる大河の気配を漂わせるから不思議だ。「渡良瀬川本流だったときは、ここに県境が通ってたんです」と真尾さん。確かに、遊水地周辺とは違って、県境が新しい渡良瀬川に沿っている。かつて茨城県(猿島郡新郷村)だった伊賀袋は、河川改修後の1930(昭和5)年、地続きになった埼玉県(北埼玉郡川邊村)に編入されたのだ。

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公園に整備された伊賀袋の河跡湖

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伊賀袋周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

国道354号線を東へ進み、境大橋で利根川を渡って、かつて水運で栄えた関宿(せきやど、現 千葉県野田市)へ。江戸川沿いに建つ関宿城博物館で、河川改修の歴史展示を見た後、茨城県五霞(ごか)町へ回って、江戸川の堤防の上に立つ。茨城・埼玉・千葉の会合点はかつて権現堂川、逆川、江戸川の合流・分流点だったところで、今も江戸川の水面上だ。最高気温26度と10月にしては暑い一日だったが、さすがに堤の上は心地よい風が吹き通っている。合流点の向こうに顔をのぞかせる関宿城の模擬天守、そのちょっと意外な構図をカメラに収めて、本日の全行程を終了した。

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江戸川の中の茨城・埼玉・千葉3県会合点。正面奥に関宿城博物館の模擬天守

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茨城・埼玉・千葉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成11年)

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図古河(平成29年8月調製)、下総境(平成11年修正測量)、宝珠花(平成11年修正測量)、5万分の1地形図古河(明治40年測図)、水海道(明治40年測図)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)および加須市都市計画基本図No.2(縮尺1:2,500)を使用したものである。

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2017年12月 4日 (月)

堀淳一氏を偲ぶ

物理学者、地図エッセイストであり、コンターサークルSの創始者でもある堀淳一さんが、2017年11月15日、冥界へと旅立っていった。

実は堀さんには、11月初旬に北海道でお目にかかったばかりで、5日はコンターサークルSの旅で積丹半島に出かけ、翌6日はご自宅に伺って地図談議に花を咲かせた。1926年生まれの御年91歳だが、頭脳は常に明晰で、収集した膨大な数の地図を肴に、四方山話はいつまでも尽きなかった。

それだけに、亡くなったと聞いても俄かに信じることができなかったのだが、先日サークルのメンバーと最後のお別れに参列したことで気持ちに区切りがついた。私が堀さんの面識を得てからまだ4年足らずだが、『地図のたのしみ』(下注)以来の読者だったこともあり、敬愛する著者の最晩年に接した思い出を少し語ろうと思う。

*注 『地図のたのしみ』は1972年初版で、日本エッセイストクラブ賞受賞作。私の手元にあるのは1973年1月発行の9版。

初めて生身の堀さんに会おうという気になったのは、私が所属していた海外鉄道研究会の席で、先輩会員のNさんが「今度、堀さんが関西に来ますよ」と声をかけてくれたのがきっかけだ。NさんはコンターサークルSの会員でもあり、私が堀さんの本を読んでいることを知っていた。

ずっと後で堀さんに、なぜもっと早く現れなかったのか、と問われたことがある。コンターサークルSの活動のことは知識があったものの、北海道が活動拠点で、メンバーも道内の人たちなのだろうと、漠然と考えていたというのが唯一の理由だ。実際には本州在住のメンバーも多数いて、本州を巡る旅では主に堀さんとその人たちが動いている。

Nさんからもらった旅程表は、堀さんの自筆だった。このときはまだ堀さん自身で旅のテーマを決め、列車でアプローチする場合の集合場所と時刻を書いたものを、メンバーに送っていたのだ。その記述に従って、2014年のゴールデンウィークのさなか、京都北部の東舞鶴駅へ一人で出かけた。

サークルの旅に参加するのに事前連絡は不要で、誰が来るかは当日その場でないとわからない。私にとっては著書にある小さな顔写真の記憶だけが頼りだが、白い顎鬚を伸ばした仙人のようないでたちで改札を出てこられたので、難なくわかった。その後のことはブログ(下注)に書いたとおりで、この日はたまたま他に同行者がなく、堀さんと二人行という、長年のファンにとっては夢のような旅になった。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」に記述。

舞鶴へ行った翌日の旅は、滋賀の百瀬川扇状地が舞台だった(下注)。ここで以前からのサークルメンバーとも初めて会うのだが、私はこの川の上流の河川争奪について書かれている『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)を持参して、ちゃっかりサインをもらったのを思い出す。帰りは、堀さんが宿をとっている近江八幡まで電車でご一緒した。現地へ車で来るメンバーも多い中で、堀さんと私は基本的に列車移動なので、以降の旅でも行き帰りの車内で話をする時間がたっぷりあった。

*注 「コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地」に記述。

そうした機会に、ずっと疑問に思っていたことを聞いたことがある。「文章の中に色の名前がたくさん出てきますが、あれは現地でメモしておられるんですか」と。堀さんが言うには「いや、撮ってきた写真を後で色名事典で照合しながら書いてるんです。赤、黄、緑だけではおもしろくない。緑色と言ってもいろんな緑がありますからね。それを書き分けたいので」。その答えに、目にした情景を正確に表現するという信念を見た気がしたものだ。

堀さんの文章は、地元北海道を題材にしたものが圧倒的に多い。その雰囲気を味わいたくて、道内の旅にも何回か参加した。昨年5月に行ったときは、旅の前日に二人で、環状線化された札幌市電に乗り(下注)、行きつけのレストランで昼食をとった。食後に紅茶を注文した堀さんは、飲む前に砂糖をスプーン3杯注いだ。驚いている私に、「『先生、入れ過ぎでは?』とウェイターが言うんで、『市販のジュースはもっと砂糖が入ってるよ』と言い返したことがあるんです」と笑った。

*注 「新線試乗記-札幌市電ループ化」に記述。

渡道のもう一つの目的は、堀さんの地図コレクションを拝見することだった。堀さんは北大で教鞭をとっていた時代から幾度もヨーロッパを訪れ、その都度気に入った地形図や市街図を買い集めている。日本でも輸入地図を扱う専門店(東京・広尾にあった内外交易など)へよく通ったそうで、「行くと、店の人が私のためにいろいろとおもしろい地図を取り置いてくれてました」と語っていた。

『地図のたのしみ』(p.51~)によれば、堀さんが外国地図の魅力に捕えられたのは、イギリスの1マイル1インチ地形図を手に入れた1961年のことだ。その後、国際学会で初めて海外出張する1963年前後から、収集に本腰を入れるようになった。私が堀さんの本に影響を受けて外国地図に熱中し始めたのは1990年ごろなので、その1世代前の旧版図が揃っている。

北大近くにある堀さんの仕事部屋は、書籍と地図でほとんど埋め尽くされていた。外窓に面して書き物机が置かれ、その周りだけがかろうじて空いている。ここにはあまり来客を入れないという堀さんは「これでも片づけたんですが、半分でいやになっちゃった」と言い訳されたが、私にはその心遣いだけでもありがたかった。

『地図を歩く』(p.24~)でも紹介されているように、日本の地形図はきれいに折り畳んで図名を記し、引き戸のキャビネットに20万分1図、図番(1~16)、作成年の順で並べてある。一方、日本の市街図や外国地図はジャンル別、国別に仕分けして赤茶色のデスクトレーに収め、それをスチール棚に縦重ねしてあった。同じような箱積みが奥にもあるのがちらと見える。「蓋に青いラベルが貼ってあるのが外国図です。緑は北海道関係かな。三層になってるので、奥にあるのはもう取れなくなってます」。

その日は、イギリスとアイスランドの地形図に絞って見せてもらったが、それでさえ相当な数だった。イギリスは主に1インチ図の第7エディションや1/4インチ図の第5シリーズ、アイスランドはデンマーク時代の手描き感溢れる旧図のオンパレードだ。そして、私が「これいいですね」と言うたびに、地図に描かれた土地にまつわる堀さんの思い出話が次々と出てくる。それを伺いながら見ていたら、いつのまにか夕方になっていた。

それからも何度か部屋におじゃましたが、いつもデスクトレーを二、三箱開けるだけで午後の時間が過ぎてしまう。直近の11月6日は、イタリアなど南欧の地図を拝見した。「イタリアの古い地形図は記号が美しいでしょう?」と堀さん。「そうですね、さすが芸術の国だと思います」「ええ、文字も洒落てるんですよ」「この書体ですね、平ペンで書いたような…。イタリアって一見大雑把かなって思うんですけど、結構細かいんですよね」「細かいですよ。果樹の記号なんか、やたら細かく分類されてる」「そういうものに愛着を持っているんでしょうね」。そんなやりとりを日がな一日していたのだ。

「山下さんのお好きなスイスの地形図も結構あるはずです」というので、奥のほうのデスクトレーも確かめてみたが、見つからない。あちこち探し回った挙句、もしやと、椅子の後ろに積まれた段ボール箱の一つを開けてみると、中に目標の品が山盛りになっていた。「ああ、ここでしたか。灯台下暗しだな。見ますか?」 しかし、そろそろ夕食の時間だった。次回来た時にこの続きを見せていただくことにして、いつもの店へ食べに出る。そこでも長話をした後、別れ際に「次来るのはいつです?」と聞かれたので「雪が融けたころに必ず参ります」と答えた。それが、堀さんと交わした最後の言葉になった。

「はじめての土地を、誰にも道を聞かずに、気の向くままのびのびと歩き回るのは、大変気分のよいものである。その土地をよく知っている人間と思われて、人に道を尋ねられたりすれば、なおさらのことである。」「これを可能にしてくれるのが地図である。地図さえ持っていれば、どんな道の土地でも、自由に歩き回ることができ、思うところへ行くことができる。」(『地図から旅へ』p.106)

堀さんにとって、地図は知らない土地への道案内であるとともに、歩いた道の記憶装置でもあった。旅の詳細を忘れていても、そのとき携行した地図をもう一度開けば、情景をありありと脳裏に蘇らせることができる。行き帰りの列車の中で、あるいは仕事部屋で、記憶装置から引き出された話を心行くまで伺うことができたのは本当に幸せだった。しかし、未見の地図はまだまだ棚の間に眠っていて、それと同様、聞き出せなかったこともたくさんあったはずだ。

来年からコンターサークルSの旅に、堀さんの姿はない。でも、きっといつものように地形図を手にしながら、空の上から私たちの旅に参加されるだろう。おあずけになった話の続きはそのときに聞くことができるかもしれない。

2017年11月30日 (木)

コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

今日も宇都宮駅東口で待ち合わせた。中心街とは反対側で、空き地が目立つ東口だが、LRTの着工を来年に控えて、ストラスブールのシタディスをモデルにした大きな看板が立てられている。富山市のようなスマートな都市装置の始動を期待しながら、今の風景を写真に収めた。地図の旅2日目の10月8日は、黒磯の晩翠橋(道路橋)を見るとともに、東北本線(以下 東北線)の旧線跡をたどりながら北上する。

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宇都宮駅東口に立つLRT計画推進の大看板

参加者は堀さん、真尾さん、大出さん、石井さん、中西さん、私の計6人。堀さんはいつものとおり石井さんの車に、他のメンバーは真尾さんのレンタカーに分乗して、国道4号線を北東へ向かった。

最初の目的地は、東北線の鬼怒川(きぬがわ)橋梁だ。上野から順次延伸されてきた日本鉄道、現在の東北線は、1886(明治19)年10月1日に宇都宮~那須(現 西那須野)間が開業している。このときのルートは宇都宮からほぼ北へ直進するもので、氏家(うじいえ)の西方で、東西に分流していた鬼怒川を渡っていた(下の地図参照、下注)。ところがこの川は暴れ川で、大雨のたびに氾濫しては線路に多大な被害を与えた。そのためルートは1897(明治30)年に早くも放棄され、現在の宝積寺(ほうしゃくじ)経由に付け替えられたのだ。

*注 後年、河川改修で東鬼怒川が鬼怒川本流となり、西鬼怒川は川幅縮小の上、水路化された。

水害の教訓から、新しい橋梁は、東の宝積寺台地と西の岡本台地が接近して、鬼怒川低地が最も狭まる地点を選んで架けられている。東西鬼怒川がすぐ上流で合流しているので、橋梁が1本で済むという点でもベストな渡河地だ。現在は上下線がそれぞれ単線橋で渡る。明治の橋梁はとうに姿を消し、現在上り線が使っているのが、跡を継いで1917(大正6)年に完成した2代目だ。

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宇都宮北方の東北本線が描かれた1:200,000図
(左)北へ直進する旧線が描かれた唯一の地図(輯製二十万分一図、1894(明治27)年修正) (右)宝積寺経由の現ルート
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鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆。薄茶色に着色した部分が台地

私たちは国道4号線の新鬼怒川橋を渡り、東北線を乗り越したところで狭い脇道に入った。車を降りて護岸上の踏み分け道を少し行くと、2本並ぶ鉄橋の袂に出られる。上り線橋梁は南側で、頑丈そうな煉瓦積みの橋脚に、ポニーワーレントラスと呼ばれる小型のトラス桁が載っている。下り線の、スマートだが冷たげなコンクリート橋との対比で、リベット打ちのレトロな機能美がひときわ目を引く。

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東北線鬼怒川(きぬがわ)橋梁。左が上り線のワーレントラス橋

橋脚はよく観察できるのだが、浅い角度のため橋桁の眺めは今一つだ。それで引き返して、国道橋の歩道へ回り、側面から鉄橋の全貌を眺めることにした。横構のない小型トラスは古風なスタイルだが、背景に広がる那須の山並みを遮らないのがいい。コンテナを連ねた長い貨物列車が、ジョイント音を高く響かせながら走り去るのを見送る。

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国道橋からの眺め

じっと眺めていた石井さんが「なぜ一番右のトラスだけ白いままなんでしょうね」と聞く。誰も答えないので、「塗り直さないでいつまで持つか実験しているのでは」と私。「持つなら塗らずに済まそうってこと?」「そうかも…」。本当のところは塗装作業の途中だったのかもしれない。

次の目的地は黒磯なので、しばらく4号線をドライブする。市街地をバイパスして、那珂川(なかがわ)のたもとに車を付けた。

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黒磯の晩翠橋のたもとに到着

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晩翠橋周辺の1:25,000地形図に加筆

晩翠橋(ばんすいきょう)は、旧国道4号(現 県道55号西那須野那須線)が那珂川を渡る地点に架けられた道路橋だ。初代の橋は、栃木県令に就任した三島通庸(みしまみちつね)が新陸羽街道整備の一環で1884(明治17)年に造らせたもので、木造だった。今より約70m上流にあり、大水で損壊しては、その都度架け直された。現在の橋は実に5代目で、1932年(昭和7)年に、世界恐慌に伴う失業対策で実施された国道の改良工事に合わせて建設されたものだ。

昭和の晩翠橋は、取付け道路を含めて画期的な設計で水害に対する強度を高めている。三島の旧橋は、扇状地面に載る黒磯の市街地から一段下がった位置(低位段丘面)で対岸に渡されていた。対する新橋は市街地から築堤を延ばし、道路はほとんど勾配なしで橋に達する。そのため橋面は、水面から23mの高さになった。さらに、流路に橋脚を立てずに済むアーチ構造を採用し、全長126.0m、中央径間70m(下注)の、大規模で景観的にも優れた橋梁が誕生したのだ。

*注 数値は、現地の案内板による。

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(左)初代~第4代の写真(現地案内板を撮影) (右)現 晩翠橋を川べりから見上げる

橋の南のたもとに、大きな写真入りの案内板があった。考えてみれば、いくら立派な橋梁を造っても、このように上路アーチの場合、通行人の目に入るのは欄干と路面だけだ。全体像は、側面から見て初めて理解できる。私たちもそうしたいと思ったが、それには下の河原に降りる必要がある。右岸の河原に停車している車や人影が見えるから、行けるのは確かなようだ。

しかし、実際にたどり着くのは一苦労だった。地理院地図に描かれている橋の300m北側の小道は柵で塞がれていて、車を進めることができなかったのだ。方々探し回ったあげく、石井さんがグーグルマップで橋の南側に別の道を見つけて、ようやくたどり着く。せっかくライトアップまでして橋を観光につなげようとしているのに、鑑賞する場所への道案内を欠くのは不備ではないか。

ともかく、水際から勇壮な鋼橋を見上げることができた。この構造はバランスドアーチといって、アーチを連続させることで、中間の2つの支点にかかる力(水平反力)を相殺する。もちろん見た目にも美しく、この角度から眺めると、まるで白鳥が翼を広げて大空に飛び立とうとしているかのようだ。

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翼のように広がるアーチが緑の渓谷を横断

「そろそろお昼にしましょうか」と真尾さんが皆に声をかけた。ベンチや土手の段に思い思いに座って、持参の昼食を開けようとしたら、堀さんが「昼食を買ってくるのを忘れちゃったな」と言う。しかし、心配する必要はなかった。「おにぎりありますよ」「私のアップルパイもどうぞ」と差し出されたもので、たちまち1食分が揃った。みんな優しい。

それから、400mほど下流に架かる東北線の橋梁を見に行った。鬼怒川橋梁と同じで上り線が古く、1920年竣工の上路プラットトラスが架かっている。下り線はコンクリート橋だが、初代のものとおぼしき煉瓦造の橋台が残っていた。カーオーディオのボリュームを全開にしてキャンプもどきを楽しんでいる若者たちの傍らで、新幹線と3本並んだ鉄道橋を写真に収める。

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少し下流に架かる鉄道の那珂川橋梁
手前から東北線上り線、同 下り線、東北新幹線

那珂川河畔を後にして、私たちは東北線の旧線跡をたどりながら北上した。同線の黒磯~郡山間は、1887(明治20)年に開業している。黒磯と白坂の間では、那須火山群からの泥流に覆われた起伏の多い土地を横断するため、曲線とともに随所に25‰の急勾配が必要になった。第一次世界大戦後、輸送力の逼迫から東北線では複線化を含む大規模な改良工事が実施され、1920(大正9)年にこの区間は、勾配を緩和した新線に切り替えられた。それに伴い残されたのが、20km近い旧線跡だ。

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堀さんの著書『地図を歩く』(河出書房新社、1974年、p.232~)にこのことが詳述されている(下注)。今でこそ廃線跡探索は鉄道趣味の一ジャンルとして確立しているが、おそらくその先駆けとなったのが『地図のたのしみ』や本書に収録されたレポートだ。私もこれで、地形図と照合しながらルートの変遷を追うという楽しみ方を知ったので、読み返せば懐かしい。

*注 2012年刊の『地図を歩く』新装新版ではp.220以下。

晩翠橋の少し先の瀬縫交差点を右折して、県道211号豊原高久線へ。国道4号(黒磯バイパス)をくぐった地点から、道路は旧線跡に載り、上瀬縫の台地越えを再現している。車なら何でもないとはいえ、じわじわと上る坂道だ。新幹線を乗り越えて現在の東北線に突き当たると、道は旧線からそれて高久駅に並行する。そして駅の先で右折して、線路の反対側へ出ていた旧線跡に再び合流する。

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東北線 黒磯~大田原間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

まもなく、現在線と並行する気持ちの良い直線路に入った。「撮り鉄がいますね」と話しながら車を走らせていると、余笹川の手前で列車がこちらに向かってくるのが見えた。「あれ、四季島(しきしま)じゃない?」と真尾さんが叫ぶ。なるほど、撮り鉄さんはこれを待っていたのか。私たちも路側のスペースに車を寄せて、今年デビューしたばかりのクルーズ列車がしずしずと通過するのを見届けた。私のコンデジではぶれてしまったので、大出さんにもらった動画のキャプチャーが下の写真。

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黒田原駅南方でクルーズ列車「四季島」と遭遇
(大出さん撮影の動画からのキャプチャー)

黒田原の市街地では町役場などが並ぶ旧駅前の道の直線化が完了していて、ナビを間違えた。ここで旧線は坂を下っていき、泥流原の縁に黒川がつくった浅い谷に通路を求める。堀さんが訪れた1972(昭和47)年当時は、黒川の中に「レンガ造りの背の高い橋脚が、五〇年の風雪に耐えて屹立して」(同書p.239)いたのだが、すでに撤去され、二車線道路に姿を変えている。

しかし、まもなく改良区間が終わり、一車線の田舎道が現れた。おおかた刈取りを終えた田んぼの中を、左右に緩くカーブしながら続いている。黒川を再び渡ったところで、豊原駅へ寄り道することにした。新線への切替えと同時に、その間にあった黒田原、豊原の両駅も移転したが、なかでも豊原新駅は旧駅から南へ1.6kmも離れた丘の中腹に造られた。小さな無人の駅舎から跨線橋で島式ホームに渡る構造だが、果たして今どれだけの乗降客があるのだろうか。

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ひっそりとした現 豊原駅

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東北線 大田原~豊原間周辺の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

成沢集落を過ぎたところで、旧線跡の道路に戻る。40数年前は、「ススキが両側に伸び放題に伸びているデコボコの砂利道で、ときたま小型自動車が砂埃をまきあげて通るほかは、秋の日ざしをあびて静まりかえった、野趣あふれる道だった」(同書p.242)。さすがに舗装されたものの今も一車線のままで、堀さんが歩いたときと景色はほとんど変わらないだろうと思わせる。だが、対向車の数は確実に増え、それもけっこう飛ばしてくる。「廃線後も幹線のままですね」と真尾さんが笑う。信号のない一本道なので、抜け道に利用されているのかもしれない。

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黒川橋梁南方の旧線跡を転用した一車線道路を進む

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東北線 豊原~白河間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

列車の撮影地として名高い黒川橋梁が見えてきた。丘の高みを伝ってきた現 東北線は、ここで黒川の広い谷を横断して、利根川水系と阿武隈川水系の分水嶺に向かう。橋梁は、上り線が長さ333.7mの堂々とした上路ワーレントラス橋で、下り線はシンプルなプレートガーダー橋になっている。

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堂々たる姿の東北線黒川橋梁

橋の下の空き地に車を停めた。せっかくだから、鉄橋を渡っていく列車を撮ってみたいが、旅客列車はさっき通ったばかりだ。「貨物列車が来るといいんだが。山下さんの神通力は効きませんか」。昨年、山陰本線の惣郷川橋梁へ行って以来、堀さんは、私に列車を呼び寄せる力があるのではと疑っている(下注)。しかし残念ながら、運はさっきの四季島との遭遇で使い果たしてしまったようだ。しばらく待ってみたものの、来ないものは来ない。

*注 惣郷川橋梁でキハ40系が通った話は「コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス」参照。

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(左)車を止めて待つも列車は現れず (右)地形図で経路を確認(大出さん撮影)

今日はよく晴れて、強い日差しが降り注ぐ。「ここにいても暑いので先へ進みましょう」と再び車に乗り込んだ。一車線道に出て、ちょうど鉄橋の真下を通っていたときだ。車内の話し声が突然、耳を聾さんばかりの轟音にかき消された。頭上を貨物列車が通過している。

「直下だと凄い音ですね。てっきり車が何かを引っ掛けて引きずってるのかと思いましたよ」と真尾さん。そのまま車を走らせようとしたら、中西さんが「大出さんを置いてきちゃった」と叫ぶ。私たちが轟音にたじろいでいる間に、列車を撮ろうと飛び出していったらしい。慌てて車を停めた。まもなく何喰わぬ顔で戻ってきた大出さん、うまく走行シーンを捉えることができたそうでよかった。

道はこの後、杉林の中を右にカーブを切りながら坂を上っていく。側面に、黒田原からの下り坂と同じような石垣が続いているので、同時期に整備したのだろう。やがて東北線下り線の踏切、少し離れて上り線の踏切を通過。それから廃線跡は緩やかなカーブで上り線に吸収されていき、本日の探索のゴールと決めた白坂駅に到達する。

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林の中の旧線跡道路

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図黒磯(平成13年修正測量)、宝積寺(平成13年修正測量)、5万分の1地形図大田原(明治42年測図)、同(平成7年修正)、白河(明治42年測図)、同(平成5年修正)、輯製20万分の1図日光(明治27年修正)、宇都宮(明治27年修正)、20万分の1地勢図日光(昭和52年編集)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
栃木県の土木遺産 http://www.doboku.shimotsuke.net/
土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/

★本ブログ内の関連記事
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2017年11月19日 (日)

コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

2017年秋のコンターサークルSの旅は、北関東が舞台だ。1日目10月7日は、かつて東洋一の銅山の町として栄えた足尾(現在は栃木県日光市足尾町)を回る。

集合場所に指定されていたのはJR日光駅だったが、私の泊っている宇都宮駅前まで、真尾さんがレンタカーで迎えに来てくれた。小雨そぼ降る中、杉並木が続く国道119号(日光街道)を走って、日光駅へ。集合時刻の10時21分に到着した電車から外国人を交え大勢の客が降りたけれども、残念ながらサークルのメンバーの姿はなかった。堀さんは明日来るので、本日の参加者は私たちと、足尾へ先回りしているはずの大出さんの3人だけだ。

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足尾本山駅構内風景

再び車に乗り込んで、国道を西へ進んだ。清滝から大谷(だいや)川を渡ると、国道122号は長さ2,765mの日足(にっそく)トンネルで足尾側へ抜ける。トンネルは一直線だが、「この上に細尾峠というつづら折りの旧道があって、霧の中を堀さんと踏破したことがあります」と真尾さん(下注)。雨は上がってきたものの、谷の上空を覆う雲はまだ低い。

*注 このときのレポートは、堀さんの著書『消えた街道・鉄道を歩く地図の旅』(講談社+α新書、2003年、p.182以下)にある。

まずは、わたらせ渓谷鐵道(以下「わ鐵」という)の通洞(つうどう)駅へ向かった。足尾の市街地は、渡良瀬川上流の谷沿いに長く伸びている。そのため町には、わ鐵の前身である旧 国鉄足尾線時代から、足尾本山(あしおほんざん)、間藤(まとう)、足尾、通洞と4つの駅があった。

最奥部に位置する足尾本山は精錬所の前の貨物専用駅で、1987年に貨物輸送が終了して以来、使われていない。次の間藤が旅客列車の終点で、最後まで採鉱が続けられた本山地区の最寄り駅だ。三つ目の足尾はわ鐵の運行拠点で、列車交換ができ、広い構内には貨物側線も残されている。そして最も川下の通洞は、棒線駅ながら足尾の中心部にあり、乗降客も多い。

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足尾(通洞、小滝地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

まずはその通洞駅前に車をつける。破風にハーフティンバーをあしらった山小屋風のデザインの駅舎がなかなかお洒落だ。駅前の小さな広場で大出さんと合流。山の緑が差し掛かるホームに出ると、ちょうど桐生方面の上り列車が入線するところだった。ちょっと褪せてはいるが、阪急電車のマルーン色を連想させる310形気動車だ。せっかくなので発着のようすを見届けてから、3人で足尾探索に出かけた。

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通洞駅 (左)ハーフティンバーの山小屋風駅舎 (右)昔の面影を残す駅舎内部
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桐生行き310形気動車が停車中

大出さんは私たちの到着を待つ間に近辺を歩いていて、「足尾のことがよくわかりますよ」と勧めてくれたのが足尾歴史館だ。足尾銅山と町に関するさまざまな歴史資料を展示している。運営するNPO法人の理事長さんの説明を伺いながら、館内を回った。「明治の足尾は、日本初の科学技術がたくさん導入された近代都市だったんです」と理事長。「電話、水力発電、索道、溶鉱炉など、みなそうです。電気鉄道も京都より早く、鉱石の運搬に使われていました」(下注)。

*注 旅客用の電気鉄道は1895(明治28)年京都で初めて走り始めたが、その4年前(1891年)に足尾では銅鉱石運搬用の電気軌道が開設されたという。

汚染排水や煤煙による渡良瀬川流域の深刻な公害問題は、足尾銅山の負の側面として知られているが、反面、鉱山は採掘・精錬技術の近代化で生産量を拡大させ、そのお膝元で町は栄華を極めた。鉱床のある備前楯山を取り巻く形で本山、通洞、小滝の主要3鉱区が立地し、その周囲に従業員とその家族、関連産業に携わる人々が暮らす市街地が形成されていた。足尾の人口は大正時代に3万8千人を超え、県内で宇都宮に次いで大きな町だったのだ。

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足尾歴史館 (左)鉱山町の歴史を資料で追う (右)トロッコ列車の周回線路

そのとき、「今からガソリンカーが走ります」とアナウンスが聞こえてきた。「外の乗り場へどうぞ」と理事長さんに急かされて建物の裏に回ると、波板屋根の簡易ホームに、黒装束のボンネット型ミニ機関車が停まっている。後ろには、北海道開拓の村で乗ったのとそっくりの小型客車がつけられていた。

*注 北海道開拓の村の馬車軌道の話は、本ブログ「開拓の村の馬車鉄道」参照。

足尾では、1895(明治28)年9月に開業した馬車鉄道が町民の足となり、資材や生活用品の輸送を担っていた。1925(大正15)年、馬に代わってガソリンエンジンの機関車が投入され、昭和30年代まで使われた。停車中の列車はそれを復元したものだ。

走路は当時と同じ610mm(2フィート)軌間で、もとスケートリンクだった場所に、延長174mの周回線が敷かれている。私たちもさっそく豆客車のロングシートに納まった。列車は、バイクのような騒々しいエンジン音とともに動き出すと、超急カーブを小気味よくしのいで走っていく。側線には、立山砂防軌道から譲渡されたというディーゼル機関車や、オープン客車も留置してある。それを横目に見ながら2周回って、ホームに帰着。思いがけない列車体験は楽しかった。「足尾ガソリン軌道歴史館線」と名付けられた軌道は、4~11月の第一土・日曜に運転されている。幸運にも今日はその日だったのだ。

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足尾ガソリン軌道歴史館線のトロッコ列車
(左)ガソリン機関車 (中)豆客車 (右)客車内部

資料館を後にして、主要鉱区の一つ、小滝へ向かった。わ鐵の第二渡良瀬川橋梁の下をくぐってすぐに右折、支流の庚申山川に沿う細道を上っていく。まず見つけたのは、道路橋に隣接して川をまたいでいるダブルワーレントラスの廃橋だ。傍らの案内板に旧 小滝橋、大正15年架設とある。地形図では「小滝坑跡」と注記された地点で、橋の上流側で石積みの坑道が口を開けている。残念ながら鉄パイプのバリケードに阻まれて、中には入れなかった。

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旧 小滝橋
(左)残存するワーレントラスの構造物 (右)橋の左手に旧小滝坑が口を開ける

銀山平の狭い段丘では、道の両側に階段状に均された敷地と土留めの石垣が見られた。公園の案内板によると、かつてここには多くの社宅が整然と並んでいたそうだ。最盛期には小滝だけで1万有余の人が暮らしていて、病院、学校が建ち、料理屋や芸妓屋もあったという。しかし、今は背の高いカラマツの林にすっかり覆われて、面影すら見いだすことができない。

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銀山平社宅跡
(左)階段状の敷地と土留めの石垣 (右)盛時の写真(現地案内板を撮影)

国民宿舎の前で引き返して、本山坑のほうへ向かう途中、足尾駅に立ち寄った。駅舎は平入り切妻造りで、庇が広く張り出しているのが特徴的だ。また、いいタイミングで桐生行きの気動車が入ってきた。今度は510形、2013年に導入された車両で、わ鐡で最も新しい。右手へ回ると、がらんとした敷地の側線に、国鉄色の気動車やタンク車が数両留置されている。真尾さんいわく、「ここにはヤードがあって、昔は貨車の操車をしていました」。

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足尾駅 (左)屋根庇を張り出させた駅舎 (右)桐生行き510形気動車

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足尾(本山地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

次いで、終点間藤駅へ向かった。こちらは線路が1本きりで、駅のすぐ上手に車止めがあり、先は草むらと化している。その中をさまよっている人がいたので、何かと思ったら、線路脇の木から落ちた栗を拾っているのだった。ホームに設置されている展望台は、対岸の山の斜面に現れるカモシカを見るためのものだそうだ。カモシカの姿は見かけなかったが、シカは確かにいて、銅親水公園からの帰り道に車の前を急に横切り、ヒヤッとする。

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間藤駅 (左)花壇になった旧折返し線跡と展望台 (右)駅舎

さらに上流へ。上間藤の道路脇で、地面に斜めに突き刺さる直径1mほどの鉄管を発見した。これは、理事長さんの説明にもあった日本初、1890(明治23)年完成の間藤水力発電所の跡だ。上部に延びていたはずの管路跡を確かめようと小道の階段を上っていく途中、地元の男性がすれ違いざまに「どこへ行かれる」と聞く。目的を話すと、「水路はここを通っていたんだ」と、斜面にかすかに残る正確な位置を教えてくれた。その人が言うには、発電所の跡地は、土盛りされて道路が通ったので、今はもう見ることができない。「だが、川の中に残骸があるよ」と指さす方向に、流れに洗われる煉瓦の塊が見えた。

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間藤水力発電所跡
(左)水を落とす鉄管の一部だけが残る (右)発電所のかつての姿(現地案内板を撮影)
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間藤水力発電所跡
(左)松木川に洗われる煉瓦の塊 (右)地元の男性が案内してくれた

親切な人で、「これから古河橋を見に行くんです」と話すと、「案内するよ。なに、散歩ついでだ」。それで車に同乗してもらい、1km上流の橋のたもとまで走った。重要文化財指定の古河(ふるかわ)橋は、松木川に架かる径間48mのボーストリング型ワーレントラス橋で、これも1890年に造られている(下注)。資料館で見た写真(下写真右)によれば、日本初の電気軌道もこの橋を渡っていたようだ。しかし老朽化に伴って、現在は通行禁止になっている。「隣に新しい道路橋ができてからも、歩いて渡れたんだが」とこの人。

向こうに見える大きな構造物は、本山精錬所跡だ。その奥に、支流の出川を渡る貨物線のガーダー橋があり、三態三様の橋が一つの構図に収まる。男性が、同じように橋を見に来た別のグループに捕まってしまったのを機に、私たちはお礼を言って、さらに上流へ車を移動させた。

*注 土木学会(JSCC)のサイトによれば、開通は1891(明治24)年1月1日。

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古河橋
(左)ボーストリング型トラス橋、対岸に本山精錬所跡
(右)橋には貨物を運ぶ電気軌道が併設されていた(足尾資料館の展示を撮影)

谷の奥に、白い簾のような滝がかかる何段もの堰堤が見えてきた。その周囲が整備されて、銅(あかがね)親水公園と呼ばれている。一般車が入れる最奥部なので、駐車場に車を置いて一番大きな砂防堰堤の脇まで上った。ここで北から降りてくる松木川に、東西からの支流が合流する。西側の谷をトラス橋が横断しているのが見えるが、森林鉄道の跡ではなく、発電所へ通じる送水管を通しているのだ。大出さんは以前ここまで来たことがあって、「あの鉄橋には見覚えがあります」。一帯は森林の乱伐と鉱山からの煙害で禿山になり、土砂の流出が激しい。懸命の植林活動が進められているが、堰堤の内側はすでに土砂で満杯だった。

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谷を塞ぐ大規模な砂防ダムと何段もの堰。ダムの手前に銅親水公園がある
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砂防ダムの上流側にて。奥に送水管を通すトラス橋が見える

帰り道、間藤から延びていた貨物線の廃線跡を訪ねてみた。松木川右岸、南橋集落の裏手に、間藤から26~30‰の急勾配で上ってきた線路がある。すっかり錆びが回っているものの、2本のレールはしっかり残っていた。土砂崩れであらかた埋まった難所を抜けると、トンネルの手前に腕木信号機が立っている。最近塗り直したのだろうか、異様にきれいだ。矢羽根が進行表示になっていたので(?)自己責任で進ませてもらうと、線路は短いトンネルを抜けて右に緩くカーブし、さっき古河橋から眺めた出川鉄橋を渡っていく。

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足尾本山への貨物線
(左)休止線にしては美しい腕木信号機 (右)S字カーブのトンネルを反対側から見る

その先が足尾本山駅だが、残念ながら手前に柵が立てられ、「鉱山施設につき立入りお断り」の札が掛っていた。柵越しに覗くと、構内は意外に整然と保たれている。しかし、錆びた側線に沿って破れ窓と朽ち板の建物が並ぶ、まるで時が止まったような光景には哀愁が漂う。じっと眺めていた真尾さんが「夕張を思い出しますね」とぽつりと呟いた(下注)。衰退した鉱山地区は、どこか共通の雰囲気を持っているようだ。谷の底は日暮れが早い。影が濃くなり始めた廃駅の構内を写真に収めて、私たちは車に戻った。

*注 北海道夕張の探訪記は「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

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出川鉄橋の先に足尾本山駅を望む

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図中禅寺湖(平成27年3月調製)、足尾(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
NPO法人 足尾歴史館 http://ashiorekishikan.com/

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2017年11月12日 (日)

コンターサークル地図の旅-美馬牛の谷中分水と尾根を行く水路

2017年6月18日、朝7時台のライラック3号で札幌を発ち、旭川までやってきた。乗り継ぐ富良野線の列車は2番線に停まっている。車内に入るとほぼ座席が埋まるほどの盛況ぶりで、インバウンドの旅行者とおぼしきグループもちらほらいる中に、堀さんの姿を見つけた。

列車は旭川駅を出ると、初夏の光眩しい郊外を一直線に南下する。今朝は雲一つない快晴で、左の車窓から、遠く連なる北海道の脊梁山地がすっきりと見通せる。「あのひときわ高いのが大雪山系ですよ」と、山々の名を堀さんに教えてもらいながら、約50分列車に揺られて目的地の美馬牛(びばうし、下注)に着いた。

*注 駅舎にあった説明板によれば、美馬牛という牧歌的な地名は、「カラスガイの多いところ」という意味のアイヌ語「ピパウシ」から来ているそうだ。カラスガイは湖沼に棲む大型の二枚貝で、本州ではカワシンジュガイと呼ぶとのこと。

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美馬牛南東の丘にて

美馬牛は富良野線のサミットの駅で、美瑛(びえい)町と上富良野(かみふらの)町の境界付近に位置する。美瑛の丘と呼ばれ、道央の人気観光地として必ず名前の挙がるエリアだから、私たちのほかにも、旅支度をした若者たちが何組か、同じホームに降り立った。赤屋根の小さな無人駅舎に集まったのは、堀さん、真尾さん夫妻、ミドリさん、河村さん、草間さん、私の7人。今日の行程を確認し合った後、さっそく2台の車に分乗して出発した。

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美馬牛駅に集合

旭川盆地の周縁部に当たるこの一帯は、十勝岳連峰からもたらされた火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が浸食されて、なだらかな尾根と谷が交互に並ぶ独特の地形が広がっている。河川は基本的に北西へ向かうのだが、断層活動で富良野盆地が沈降した影響で、一部が鞍替えして南の富良野川へ流れ込むようになった。そのため、谷中分水(こくちゅうぶんすい)や、谷筋が途中でUターンするといった珍しい地形が生まれている。谷の途中で川の流れる方向が逆になる谷中分水は、地形図に明確に示されているものでも付近に2か所あり、まずはそれを見に行くつもりだ。

堀さんはすでに1970年代に、この地を訪れている。『地図の風景 北海道編 I 道南・道央』(そしえて、1979年)の134ページ以下にその記述があるが、「あのときは近いほうの分水界を確かめましたが、もう一つのほうは見なかったように思うんです」。それがこの旅を企画した動機だそうだ。

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美瑛・上富良野周辺の1:200,000地勢図
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
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美馬牛周辺の1:25,000地形図に加筆

駅前から北西へ延びる道を、国道237号線を越えて少し進むと、早くも一つ目の谷中分水に到達する。地形図(上図右上の円内)では、道に沿って流れる小川がここで約500mの間、途切れている。流路を図上で追うと、北ではルベシベ三線川となって美瑛川へ注ぎ、南は江幌完別川で他の川と合流して富良野川となる。つまり、川が描かれていないこの間に、流れる方向を変える傾斜転換点があるはずだ。

クルマを降りて周囲を観察してみるが、メンバーから「どこが分水なんですか」という質問が飛んだ。以前訪れた愛知県巴川の谷中分水は稲田に囲まれていたので、灌漑用水路の流水方向が途中で反対になるのが明確だった(下注)。それに比べてこのような畑作地帯では排水溝も見当たらず、分水界を断定する方法がない。

*注 巴川の谷中分水については、本ブログ「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」参照。

谷間の先に目を遣ると、両側ともわずかに下っているから、このあたりが鞍部であることは疑いない。谷を横切る農道(幅員3.0m未満の道路の記号)に沿って町界が走っているのも傍証になる。尾根を行政界に利用するのはよくあることだからだ。しかし、谷を貫く道路には町界標が立っておらず、驚いたことに、道路脇に立ち並ぶスノーポールは、上富良野町域に入ってもなお美瑛町と書かれていたのだ。

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一つ目の谷中分水、東~南方向を望む。画面中央を横切る道が分水界か?

もやもや感が抜けきらないまま、二つ目の谷中分水(上図左上の円内)へ向かった。美馬牛から丘を越えてきた道道70号芦別美瑛線が、谷に沿う二車線道と交差する地点で車を停める。こちらは周りの丘が高く、谷は北側で明らかに下っていて、より鞍部らしい地形だ。道路脇に溝が切ってあったが、水は流れていなかった。ミドリさんが、地形図に水準点が書かれていると言って、俄然張り切る。いっしょに交差点近くの草むらを探してみたが、怪しげなポールが立っているものの標石は見つからない。それどころか道路脇の家の人が出てきて、「ここは私有地ですが」と咎められてしまった。

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二つ目の谷中分水、西方向を望む。画面中央の2車線道路が分水界

次は、Uターンする谷筋だ。「日本の地形図では珍しく、開拓川には北向きに、トラシエホロカンベツ川には南向きに、流れの向きを示す矢印がついている。」と、同書で堀さんが言及した場所で、この分水界のすぐ南にある。286m標高点の三叉路を右(西)へ折れて、小橋を2本渡った。後のほうが、開拓川に架かる第2海老名橋だ。ここまで北向きに調子よく下ってきた開拓川は、急に向きを変えて、南へ流れるトラシエホロカンベツ川に合流する。

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開拓川Uターン地点 (左)第2海老名橋 (右)川は左奥からカーブしながら橋の下へ

トラシエホロカンベツ川と東隣の江幌完別川には、こうした転向支流がいくつもあり、本流がかつて北へ流れていた形跡を残している。一方、上富良野市街の西を流れるエバナマエホロカンベツ川は、上流部に同じような谷中分水地形と転向支流を擁しているのに、本流が北向き、支流が南向きと、前2者とは逆の関係になっているのが面白い。

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「まるごとザンギ」おにぎり

橋の欄干を腰掛け代わりにして、昼食を広げた。先日、秋田の「ぼだっこ」でご当地もののおにぎりに味を占めた私は、旭川駅のコンビニで「まるごとザンギ」と書かれた海苔巻きを買ってきた。もちろん、ザンギが下味を付けた鶏の唐揚げであることを知らなかったのは、道外から来た私だけだったのだが。

*注 「ぼだっこ」については、「コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)」参照。

空腹を満たした後は、ミドリさんのリクエストで、急カーブする前の開拓川を源流へ向かって遡る。しかし、2車線道路はしばらく行くと左(東)へそれてしまい、直進側は細い未舗装道しかなかった。「上流まで道があることはありますが、どっちみち川から逸れて森の中へ入ってしまいます」と、地形図でナビをしていた私。

右手に、丘を一直線に上っていく道が見えたので、「それじゃ、この道の上から森を眺めることでよしとしましょうか」と真尾さんが提案した。比高50mはある急傾斜の丘を、クルマで這うように上っていく。周辺より少し高度があるので、私も「後ろを振り向いたら、きっといい景色ですよ」と予言する。

道が行き止る柵のところで車を降りると、果たして期待通りだった。一直線に遠ざかる野道を軸にして、緑系とベージュ系の色のパッチワークで覆われた丘が、緩やかにうねりながら見渡す限り広がっている。その表面を撫でるように、ゆっくりと雲の影が渡っていくのが見える。パノラマの背後では、十勝岳連峰が山肌にまだ雪渓をとどめたまま、縹色の屏風となって空を限っている。

一同思わず「すごーい」と一言発した後、しばらく言葉が続かない。真尾さんが沈黙を破って「十勝岳がこんなにきれいに見えたのは記憶にないですよ」。それにこの春、道内の旅の日は概して天気がすぐれず、今日は久しぶりの好天だったそうだ。絶景の前で記念写真を撮ったあと、少々お疲れの堀さんを美瑛駅まで送っていった。

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美瑛の丘と十勝岳連峰のパノラマ
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展望地で記念撮影

駅への最短ルートは、西11線農免農道だ。横たわる丘の列を次々と横断していくので、極端なアップダウンが連続する。「ここはジェットコースターの道と呼ばれてるんです」と真尾さん。途中、「かみふらの八景」という標柱が建つ空地に数台の車が停まり、十勝岳の眺望を楽しむ人垣ができていた。この景色も悪くはないが、さっきの無名の展望台のほうが、視点が高い分、ダイナミックな眺めなのは間違いない。

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ジェットコースターの道

ユニークな地形景観を楽しんだ後は、周辺の「青い川」と「不思議な用水」を訪ねることにした。美瑛駅から、美瑛川の谷沿いに走る道道966号十勝岳温泉美瑛線を、白金温泉(しろがねおんせん)方面へ進む。

白金温泉の3kmほど手前に、「青い池」と呼ばれるスポットがある。池といっても砂防用のブロック堰堤に美瑛川の水が滞留しただけだが、青みを帯びた水と立ち枯れした林の組合せが幻想的だと評判が高く、今では美瑛の定番観光地の一つになっている。しかし人気が出過ぎて、駐車場の空き待ちをする車で道路が渋滞するほどだというので、私たちは敬遠し、代わりに、池に青い水を供給している川を見に行った(下注)。

*注 後日(同年8月27日)、真尾さんとミドリさんは青い池の訪問を敢行している。

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白金温泉周辺の1:25,000地形図に青い池その他を加筆

白金温泉の入口に架かるブルーリバー橋の前で車を停める。美瑛川の渓谷(白金小函)を高い位置でまたぐトラス橋は、川と滝と山並みをセットで眺める格好の展望台で、多くの人が歩いていた(下注)。上流側に目を遣ると、右側の断崖に幾筋もの滝が簾のように掛かっている。白ひげの滝だ。約30万年前に堆積した土石流の上に新しい溶岩が被さり、その二つの地層の間を通ってきた水がここで湧き出すのだという。

*注 ブルーリバー橋の本来の用途は、十勝岳の噴火に備えて、白金温泉から対岸に設置されたシェルターへ通じる避難経路。

滝もみごとだが、水の色は、それより上手ですでに美しいターコイズブルーに染まっている。後で調べたところでは、橋からも見える硫黄沢川と美瑛川の合流点あたりから、その現象は強まるらしい。十勝岳の斜面を水源とするこれらの沢の水はアルミニウムを含んでいて、美瑛川の水と混ざるとコロイド状の粒子が生成される。それが波長の短い青色光を散乱させて目に届くのだそうだ。

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ブルーリバー橋から眺める白ひげの滝と青い川(美瑛川)
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(左)ブルーリバー橋 (右)左が美瑛富士、右が美瑛岳

十勝岳は今も噴煙を上げていて、沢の水には硫黄分も多く含まれる。そのため、美瑛の丘を潤す用水は沢より少し上流で取水されている。道内各地の水路を追いかけている河村さんは取水口を見たかったのだが、地形図を読む限り、谷底にあって近づけそうにない。それで下流に目を転じた。水路の水は美瑛川を横断した後、道道に並行する林道に沿って下り、いったん、しろがねダムの貯水池(四季彩湖)に溜まる。その後、一部がオヤウンナイ川を経由して美瑛川に戻り、下流で再び取水されて、別の水路に入っていく。

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(左)砂防ダムの流木捕捉工は、ラピュタのロボット兵を連想させる (右)この水が青い池をつくる

この水路は大規模な土地改良以前の古い用水で、地形図(下図)にも明瞭に描かれている。不思議な用水と言ったのは、水路が丘陵地の尾根を伝っているからだ。もちろん高台に水を万遍なく行き渡らせるためだが、地図では川の記号が使われるので、本来、谷底に描かれるはずの川が周囲より高いところにあるという不思議なことになるのだ。

目を付けたのは、美瑛町御牧(みまき)で、道道824号美沢美馬牛線から右へ分かれる道が、丘のサミットに達する地点だ。水路が鞍部を横断しようとして、この道と交差している。車を停めて雑木林の中を探すと、すぐに水路が見つかった。まだ根元に近い区間なので、けっこうな水量を保って勢いよく流れている。地形図を見ていたミドリさんが、「この水路は、熊見川というそうです」と報告する(下注)。「自然の川みたいだな」「開拓時代はこのあたりにも熊が姿を見せたんでしょうね」。不思議な川に値する新しい発見だ。

*注 現行の地理院地図では、この注記は消されている。

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尾根筋を流れる用水路(熊見川)

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熊見川の注記がある用水路(1:25,000地形図置杵牛(平成13年修正測量)に加筆)

これを最後の探索にする予定だったが、美馬牛駅の方へ戻る途中で誰かが、谷を隔てた緑の丘の上に水路橋が延びているのを見つけた。背丈は低いものの、傾きかけた陽の光を浴びて、まるでローマの水道橋か何かのように堂々と見える。「行ってみたいですね」と河村さん。「行ってみましょう」と衆議一決して、たもとまで道が描かれている東側の谷へ回った。トラクターが動いている畑の中の道を突っ切る前に、午前中の教訓で、真尾夫人がトラクターを操っていた人に声をかける。許可をもらって車を入れ、水路の手前につけた。

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向かいの丘の上に水路橋を発見
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反対側からの水路橋の眺め

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水路橋周辺(1:25,000地形図に加筆)

水路は熊見川の続きだ。たどってきた尾根筋がここで細まり、少し痩せてもいる。それで、用地幅が必要な土盛りを避けて、高架橋を渡したようだ。両側が畑になった尾根の上だから、眺めがいいのは当然だが、吹きつける風の強さも半端ではない。風圧にたじろぎながら水路の来た方を振り返ると、緑とベージュのパッチワークのかなたに、十勝岳連峰や幌内山地が西日を受けて、輪郭を際立たせている。美瑛の旅を締めくくるのにふさわしい景色だった。

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丘の上に水路橋を追う
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振り返れば十勝岳連峰の眺望

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図美馬牛(平成29年6月調製)、白金温泉(平成26年4月調製)、置杵牛(平成13年修正測量)、20万分の1地勢図旭川(昭和54年要部修正)を使用したものである。

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2017年6月11日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)

まだ雪のベールのかかる鳥海山の荘厳な姿に感嘆しながら、羽越本線で秋田へ移動してきた。コンターサークルS 春の旅も、きょう5月5日が最終日だ。用意した地形図は1:25,000「岩見三内(いわみさんない)」。雄物川の支流の一つで、秋田市東部を流れる岩見川の中流域を描いている。

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羽越本線の車窓から見た鳥海山

日本の1:25,000地形図は、全部で4,400面以上もある。それで、鉄道、主要道路、あるいは著名な山や湖などが図郭に入っていないと、見てもすぐに印象が薄れてしまう。率直なところ、「岩見三内」もそうした括りの図幅だった(下注)。ところが、お題に挙がったのを機にじっくり眺めてみると、興味深い題材がいくつも見つかる。他のメンバーも各々関心のあるテーマを持ち寄ったので、思いがけなく盛りだくさんの地図の旅になった。

*注 ただし、現在の「岩見三内」図幅は、図郭が拡大されたので、大張野駅前後の奥羽本線が顔を覗かせている。

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秋田市周辺の1:200,000地勢図(平成5年編集)に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

朝10時、秋田駅の東西連絡通路の一角に集まったのは、堀さん、真尾さん、丹羽さん、私の4人。駅前から2台の車で出発した。秋田市街を抜けて、県道28号秋田岩見船岡線を東へ。太平山の南斜面を水源とする太平川(たいへいがわ)に沿って、緩やかな谷を遡る。

まず、私のリクエストで、地主(じぬし)という集落で車を止めてもらった。ここに謎の地形があるからだ。現行地形図(下の左図)を見ると、地主の南を、太平川がまっすぐ西へ流れている。それと同時に、集落の西から北にかけて弧を描く土の崖と、一つ北の谷につながる鞍部(=風隙)も読みとれる。これは、かつて太平川が北へ蛇行していたことを示す証拠のようだ。それが、何らかのきっかけで西の谷へ流れ込むように変わったとすれば、西の谷による河川争奪があった、ということになる。

ところが、大正元年の旧版図(下の右図)を取寄せてみたら、驚いたことに、旧流路が実際に細々と残っているばかりか、太平川の本流には、長さ150mほどの隧道が描かれているではないか。石灰岩地形でもない限り、川が器用に地中を抜けていくとは考えにくい。どうやら自然の力による河川争奪ではなく、人間が水路を掘って流路を付け替える、房総半島で言う「川廻し」が行われたようだ。

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地主の「川廻し」
(左)平成18年更新図 (右)大正元年図、太平川の隧道と北行する旧流路が描かれる

しかし、謎はまだ残る。大正時代は隧道だったのに、なぜ今は青天井の谷になっているのか。地図の間違いでなければ、何か理由があるに違いない。

さっそく川岸の農道に出てみた。太平川は水制から先で早瀬となって、勢いよく正面の小渓谷へ落ちていく。雪解け水が混じる今は、思った以上に水量が豊かだ。一方、右手の水田の向こうでは、砥の粉色の地肌をところどころに覗かせた崖が緩い曲線を描く。もとは川の外縁、いわゆる攻撃斜面だったことをしのばせる。

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地主の「川廻し」 (左)太平川の堰 (右)隧道崩壊によって生じた小渓谷

60代とおぼしき男性が、近くの畑で作業をしていた。「あの川は昔、トンネルでしたか」と尋ねると、一瞬驚いた顔を見せながら頷いた。「確かに、子供のころはトンネルだった記憶がある。この地区は建設業をやっている人が多かったので、田を拡げるために自分たちで掘ったと聞いている。だが、山が脆いんで、崩れてしまったんだ」。

普段でもこの水量なら、大雨が降った後はきっと破壊的な水のパワーが生じるに違いない。柔らかい粘土層に掘られたトンネルは、早晩崩壊する運命にあったのだろう。謎解きをしてくれた男性に丁重に礼を言って、私たちは現場を後にした。

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旧流路は正面の土の崖沿いに右へ旋回していた。遠方に太平山を望む

地主のそれは、人の手による河川「争奪」だったが、次は、堀さんがめざしていた自然の争奪跡だ。野田集落の東、野田牧場へ上がる道で車を停めた。太平川は北から流れてきて、この付近で西へ向きを変えている。しかし、浅い谷が南へも続いている。つまり、ここでは野田集落を交点として、T字を寝かせた形で谷が広がっているのだ。そこで、昔は太平川が南流しており、後に河川争奪が生じて西へ流れるようになったという仮説が成り立つ。

典型的な争奪地形の場合、流路が変わると、水量が増した谷(野田のケースでは西の谷)では下刻が激しくなり、上流に向かって深い谷が形成されていく。ところが、野田の地形にはそうした展開が見られず、太平川は、ダイナミックな地形のドラマなど知らぬがごとく、終始ゆったりと谷を蛇行している。どうしてだろうか。

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野田の河川争奪
「風隙」~「繋沢」間が争奪前の谷筋

『地図の風景 東北編II 山形・秋田・青森』(そしえて、1981年、pp.115-117)で、籠瀬良明氏が成立過程を解説している。それによれば、その昔、太平川は南流していた(下図1)。しかし、野田の北東方からの崩壊、土石流、小扇状地といった土砂の押出しによって流れが遮られがちになり、一部が西の谷へ流れ込んだ(下図2)。この状況が続いて南側が閉ざされ、ついに全量が西へ流れるようになった(下図3)。つまり西の谷が力尽くで水流を奪ったのではなく、流路を塞がれた川が「自ら」西へ向きを変えた、というのだ。

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河川争奪の過程(解説は本文参照)
図1~3は「地図の風景 東北編II」p.117の図を参考にした

一段高い野田牧場へ上がれば、一帯を俯瞰できるのではないかと思ったが、斜面の植林が育ちすぎて視界がきかない。「南の谷頭がどうなっているか見たいんです」と堀さんが言うので、南の農道へ廻ることにした。谷頭(こくとう)は谷の最上流部のことで、そこでは水の力や風化作用によって、上流へ向けて谷が常に前進している。

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野田付近の180度パノラマ
右奥(北方向)に見える太平山から流れてきた太平川は、かつて左奥(南方向)へ流れていたが、河川争奪により現在は、正面の野田集落から奥(西方向)へ流れ去る

田んぼの先に、まだ冬の装いから目覚めていない雑木に囲まれて、深さが10m近くある窪地が姿を現した。これが谷頭だ。太平川に去られた南の谷(下注)では、下流の岩見川の基準面低下によって、谷頭の浸蝕力が強まっている。集水域がごく狭いのに、これだけの高低差を造る力があるとすると、将来、土砂の押出しとの闘いに打ち勝って、上流に谷を延ばしていき、最終的に太平川を奪い返すこともありうるのではないか(上図4)。そんな想像が脳裏をよぎった。

*注 無名の川だが、掲載の図では下流の地名を借りて「繋沢」としている。

上記『地図の風景』では、堀さんも共著者に名を連ねているが、「野田の河川争奪は籠瀬さんの担当だったので、私は来ていないんです。ようやく現地を見ることができてよかったです。」

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繋沢の谷頭
(左)旧流路(北方向)を望む、奥に太平山 (右)谷頭の上から南を望む
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谷頭を観察するメンバー

その南の谷に沿って県道を下りていくと、岩見川に三内川が合流するこの一帯の中心地、岩見三内だ。秋田駅西口からここまで、私たちが通ってきたルートでバス路線も維持されている。野崎の駐在所前の交差点にあるバス停は「貯木場前」。すでに新しい住宅が建ち始めているが、以前、道路の北側は、岩見川水系で産する木材を集積する岩見貯木場があった。貯木場には、奥羽本線の和田駅から森林鉄道(正式名「岩見林道」)が通じ、さらにここで三内支線が分岐して、北に広がる山林の中へ延びていた(下注、全体のルートは下図参照)。

*注 岩見林道(本線)29.4km、1923年開設、1967年廃止。三内支線24.9km、1921年開設、1967年廃止。大又支線13.4km、1933年開設、1967年廃止。その他延長線、分線がある。出典:林野庁「国有林森林鉄道路線データ」

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岩見三内の貯木場前バス停。正面奥の貯木場跡は払い下げられて宅地に

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秋田市東部の森林鉄道路線網、赤の矢印が岩見三内
1:200,000地勢図「秋田」(昭和35年編集)に加筆。原図は今尾恵介氏所蔵

私のもう一つのリクエストは、林鉄遺構の現状確認だった。三内支線は、貯木場から先で河岸段丘の崖際を走った後、上三内集落の北で三内川を渡っていた。その鉄橋は、平成18年更新図までは描かれているのに(下図参照)、2017年5月現在の地理院地図では消されている(下記サイト参照)。水害か何かで流失してしまったのだろうか。実態を自分の目で確かめたいと思った。

■参考サイト
上三内付近の1:25 000地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.728630/140.305000

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森林鉄道跡
1:25,000地形図(平成18年更新)に林鉄のルートを加筆
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1:25,000地形図(昭和13年修正測図)に描かれた林鉄のルート

私たちは一つ上流の小橋を渡って、廃線跡である農道からアプローチしたのだが、小橋の上から、遠くに朱色のガーダー橋が架かっているのが見えて、ホッとする。農道は、急曲線の築堤で鉄橋につながっていた。「トロッコは小回りが利くから、これぐらいのカーブは何ともないでしょう」「勾配はきつすぎるので、後で切り崩したのかもしれないですね」などと話しながら、軽便のレールを土留めに使った築堤を上る。

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上三内に残る三内支線の鉄橋

橋脚と橋桁(ガーダー)は、鉄道橋そのものだ。2連のガーダーの縦寸法が異なるのが気になるが、橋脚がそれに合わせて造られているので、もともと他からの転用品なのだろう。路面は一人分の幅しかないが、歩けるようにセメントを流し、簡易な欄干が取り付けてある。だが、橋の手前で、秋田市道路維持課のバリケードが通路を塞いでいた。通りかかった農作業帰りの女性に聞くと、「畑へ行くのに、車道は遠回りだからここを通ります。手すりが壊れて、通行止めになってますけど。直すのは来年になるらしいですよ。」

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縦寸法が異なるガーダー
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(左)鉄橋に向かう上流側の築堤 (右)築堤の土留めに古レールが使われていた

橋が地理院地図から消された理由は、それかもしれない。しかし、歩くには支障がなさそうなので、私たちも通らせてもらう。鉄橋の下を、緑味を帯びた水が川幅いっぱいに滔々と流れている。じっと見つめていると吸い込まれていきそうだ。対岸の築堤も切り崩されていたが、線路跡は明瞭で、集落から下りてくる小道と交差した後、緩いカーブを切りながら段丘崖の陰に消えていく。

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(左)鉄橋は対岸の農地へ行く歩道橋に (右)欄干の一部が破損
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三内川の上をそろりと渡る
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(左)築堤脇の神社。左奥に見えるバリケードの先が鉄橋
(右)反対側を望む。舗装道の右が廃線跡で、段丘崖の下へ続いている

築堤の脇に、八幡神社という小さな社があった。今日も天気に恵まれて、日なたはけっこう暑いのだが、見事な杉木立の下は、涼風が吹き通って心地よい。鳥居前の大きな石に腰を下ろして、昼食休憩にした。

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「ぼだっこ」おにぎり

朝、秋田駅のコンビニで見つけた「ぼだっこ」おにぎりを取り出す。中身を知らないまま買ったので、「これ何が入ってるんでしょうね」と皆も興味津々だ。私は漬物を想像していたのだが、かじってみたら、塩鮭の切り身が出てきた。後で調べると、ぼだっこの「ぼだ」は牡丹のことで、ベニザケの身の色から来ているそうだ。塩がよく効いているものの、梅干しや塩昆布と同じで、ご飯に添えればおいしく食べられた。「北海道で甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのを思い出しました」と私が言うので、真尾さんが丹羽さんにそのことを説明する(下注)。たとえコンビニであろうと、ご当地ものを探すのは楽しい。

*注 甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのは、夕張での話。「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

真尾さんは、アイヌ語地名の痕跡を探している。このすぐ上流に岩谷山(いわやさん)という、おにぎり形の山がある。地元では三内富士とも呼ばれているようだが、「モイワと同じように、神聖な山を意味する「イワ」と関係があるんではないでしょうか」と真尾さん。麓の砂子渕集落まで車を走らせた。実際、太平山との関わりで「お山かけ」(山岳信仰)の対象になっているためか、自然の植生が残されている。ヤマザクラや芽吹いたばかりの木々が、パステル調のグラデーションで山肌を彩り、ことのほか美しい。

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パステル調のグラデーションが美しい岩谷山

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岩谷山周辺の1:25,000地形図

その後、大又川流域へ移った。岨谷峡(そうやきょう)を越え、山間の小盆地にある鵜養(うやしない)集落へ。ナイはアイヌ語で沢の意で、漢字で「内」と書かれて、北海道の地名には頻出する。さっき通ってきた三内などもおそらくそうだが、「養の字を当てたのは珍しいです」。地名を記したものはないかと探したら、バス停の標識が見つかった。バス会社が撤退してしまい、ジャンボタクシーが巡回しているようだが、小さな集落に、鵜養下丁、鵜養中丁、鵜養上丁と3か所もある。

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鵜養 (左)鵜養下丁のバス停標識 (右)陽光を跳ね返す用水

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鵜養周辺の1:25,000地形図

静かな山里で動いているものと言えば、そよ風のほかに足もとを勢いよく流れる用水路の水ぐらいだ。堰板のところで流れが膨らんで、初夏の陽光をちらちらと跳ね返している。目覚ましい光景に出会ったわけでもないのに、きょう一日の行程が脳裏に蘇り、満ち足りた気分になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩見三内(大正元年測図、昭和13年修正測図、平成18年更新)、20万分の1地勢図秋田(昭和35年編集、平成5年編集)を使用したものである。

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2017年6月 5日 (月)

コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

コンターサークルS 2017年春の旅、本日5月3日は、山形県上山(かみのやま)周辺にある古い石橋群を訪ねる。

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吉田橋のたもとにて

イギリスの旅行家イザベラ・バード Isabella L. Bird が、山形の印象を故国の妹に書き送っている。「この地方は見るからに繁栄していますが、その繁栄はひとつにはこの立派な幹線道路から生まれているとわたしは思います」(『イザベラ・バードの日本紀行(上)』時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.330)。彼女が当地を旅したのは明治初期、1878(明治11)年だ。ちょうどその頃、初代山形県令に任じられた三島通庸(みしまみちつね)が、当地の殖産興業を図るために交通路の整備を強力に推し進めていた。

イザベラはこうも記す。「坂巻川ではうれしいことに、わたしが唯一目にした、完璧に堅牢な近代日本の建造物に出会いました。完成直前のすばらしく立派な石橋で、これははじめて見ました」(同 p.329)。木橋に代わる石造アーチ橋もまた、三島の土木事業の成果だった。彼女が絶賛した山形南方の常盤橋(ときわばし)はその後流失してしまうが、周辺では幸いにも、同じ時代に造られた石橋がいくつか残っている。

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かみのやま温泉駅に到着

山形駅から奥羽本線の普通列車で14分、かみのやま温泉駅で下車した。改札前に集まったのは、堀さん、石井さん、外山さん、真尾さん、私の5人。訪ねるべき石橋は6か所あり、場所は地図上でチェックしてある。「連休に入って道が混むかもしれないので、先に国道沿いを回りましょう」と順路を確認して、2台の車に乗り込んだ。

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上山周辺の1:200,000地勢図に、石橋の位置を加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

堅磐橋(かきわばし)

目標の一つ目は、上山市川口にある堅磐橋。国道13号上山バイパスに合流してまもなく、左の脇道へ折れたところで車を停めた。白い花が満開のさくらんぼ畑をかすめる農道の先に、その石橋がある。もとは羽州街道旧道を通していた橋だが、前後をバイパス建設で塞がれてしまい、かろうじてこの農道で公道につながっている状態だ。

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堅磐橋は2連アーチの眼鏡橋

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上山市川口、中山周辺の1:25,000地形図に、堅磐橋と中山橋の位置を加筆

しかし橋自体は、2連アーチのいわゆる眼鏡橋(下注)で見応えがある。アーチを形成する迫石(せりいし)はもとより、壁石にも緩みがなく、現役に復帰しても十分通用しそうだ。下流側の勾欄(欄干)はコンクリートで更新されているが、上流側は切り石で、とりわけ控柱には迫力ある筆致で橋の名が彫り込まれている。

*注 二重アーチが川面に映って眼鏡橋に見えるのだが、一重アーチでも眼鏡橋と呼ばれるようだ。

傍らに上山市教育委員会が立てた案内板があった。「山形県令三島通庸の道路開さくと整備の積極的政策により、山形から米沢に通ずる国道の川口部落南端の前川に架橋された、当時としては珍しい石の橋である。石材は同橋上流山手の採石場と、同河川からも採取された凝灰岩で、明治11年1月着工、同3月竣功している。橋長14.30m、幅員6.60m、アーチの高さ約3.1m、河床部での径は約5.6m(後略)」(下注)

*注 日付と計測値は英数字に改めた。以下の石橋に関するデータも、地元の教育委員会が立てた案内板を引用している。

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堅磐橋 (左)赤湯方向を望む (右)橋の名が陰刻された控柱

三島に請われて洋画家高橋由一が描いた堅磐橋の石版画が残っている(下図参照)。山中としては不相応に幅広の橋の真ん中に、ぽつんと二人の通行人。画風が違うとはいえ、アンリ・ルソー  Henri Rousseau を連想させるような不思議な構図だ。イザベラ・バードが赤湯から山形へ抜けたのは竣功の年の7月で、彼女も画中の人物のように、できたばかりのこの橋を渡ったはずだ。

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高橋由一「南村山郡川口村新道ノ内大川ニ架スル堅磐橋ノ図」 山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/

タンポポの咲く川岸から、めいめい橋のほうへカメラを向ける。蜂が何匹か忙しそうに飛び回っているが、さくらんぼの花が目当てらしく、私たちにはまったく関心を示さない。いつのまにか石井さんと堀さんの姿が見えないと思ったら、石橋の上に車で現れた。堀さんが窓からにこやかに手を振る。シャッターチャンスを逃すまいと、皆またカメラを構え直した。

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石橋の上でフォトチャンス

吉田橋

想定どおり、中山の手前から国道が渋滞し始めた。「この先で車線が減るんですよ」と、このルートを通ってきた外山さんが言う。しかし、のろのろ運転に付き合ったのは少しの間で、南陽市に入るとすぐに左の旧国道へ。さらに小岩沢の集落へ通じる旧道へ折れたところに、1880年(明治13)年築の吉田橋がある。

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吉田橋

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南陽市小岩沢周辺の1:25,000地形図に、吉田橋と小巌橋の位置を加筆

橋は、県道238号原中川停車場線の一部で、地元の車が往き来する。130歳を超えてなお現役なのも、部材が劣化しにくい石橋ならではだ。最上流部で川幅が狭いので、単アーチで済ませているが、石の積み方は堅磐橋によく似ている。ユニークなのは、勾欄(欄干)の親柱と控柱に尖形の自然石が使われていることだ。上流側に刻まれた文字は、変体がなで「よした者(は)し」、下流側は漢字で「吉田橋」と読める。高橋由一もまったく同じように描いているから(下図参照)、オリジナルであるのは疑いない。

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吉田橋 (左)上山方向を望む (右)橋のたもとに立つ土木学会選奨土木遺産の碑
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高橋由一「東置賜郡小岩澤村新道ノ内前川ニ架スル吉田橋ノ図」 山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/
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自然石を使った控柱の陰刻
(左)上流側「よした者(は)し」 (右)下流側「吉田橋」(橋の字は半ば埋没)

案内板によれば、「長さ約12.6m(7間)、高さ約8.8m(下注)、幅は約7.2m(4間)。下部はアーチ型(眼鏡型)、上部は両端に飾り石を配した欄干と、和洋折衷様式である」。吉田橋の名は、これを造った地元の石工、吉田善之助にちなむものだそうだ。発案者でも設計者でもなく、施工業者の名を遺すとは、粋な計らいではないか。

*注 上山市の橋の説明板では「アーチの」高さを示しているが、南陽市の説明板の「高さ」が何を指すかは不明。少なくともアーチはそれほど高くない。

すぐ隣を、奥羽本線(山形新幹線)の線路が通っている。平成のE3系つばさ号と明治の石橋を一つの構図に収めてから、次の目的地へ向かった。

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つばさ号と明治の石橋が一つの構図に

小厳橋(こいわばし)

踏切を渡って小岩沢集落の中へ入ると、三つ目の橋がある。といっても、前川に注ぐ支流(下注)をまたぐ小さな橋で、うっかり通過してしまいそうだ。1881(明治14)年完成。名称は小厳橋だが、地元では蛇橋(じゃばし)または蛇ヶ橋(じゃがばし)というらしい。アーチと勾欄でかなりの部材が後補されているため、色合いの違いが不自然に際立つ。「大水で壊れたんでしょうか」と石井さん。

*注 確かめるのを怠ったが、この支流が「小岩沢」なのかもしれない。

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小厳橋は小岩沢集落の中に。上山方向を望む
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石材の補修跡が目立つ (左)下流側 (右)上流側

中山橋

来た道を、上山市中山まで戻った。私が先行車でナビをしていたのだが、迷うことなくたどり着けたのは、あるウェブサイトで、マピオンに位置情報が示してあったからだ。しかし、中山橋だけは例外で、プロットされた地点に実際に架かっていたのは、何の変哲もないコンクリート橋だった。近くで農作業をしていた人に「架け直されたんですか」と尋ねると、「石橋ならここじゃなくて、村のパーマ屋の先だ」と、親切にも略図を描いて教えてくれた。

中山の集落に入り、道が下り気味になったところで、この人の言っていた「すとう美容室」が見つかった。その先で旧道が、西の山から流れ出るカラジュク川(下注)を渡っている。低い石の勾欄と教育委員会の立て札が目印だ。上山方面から来る人には、中山郵便局の100m南を目指していただきたい(地図は堅磐橋の項参照)。

*注 川の名は現地の案内板で知った。地形図にはこの川が描かれていないので注意。

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中山橋の側面。二重の迫石が特徴

谷はこれまで見たものより深く、かつ広いのだが、支流のため水量は多くなさそうだ。それで、石垣で固めた築堤を両岸から谷に張り出させて、流路を単アーチでまたいだ。路面の高さを得るためか、アーチの迫石は二重に組まれ、その上に壁石が厚く積まれている。

上流側に回ると、太い松の木が石垣に根を張っていた。石積みに沿って這い降りるかと思いきや、やおら起き上がって空に枝を広げている。「盆栽みたいな松ですね」と感心する。真尾さんは、脇道の土留めに古いレールが使われているのを見つけた。一方、下流側は崖が迫っていて写真が撮りにくいのだが、「こういう時のために最新兵器を持ってきてます」と、外山さんは大きな魚眼レンズを取り出した。

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中山橋 (左)赤湯方向を望む (右)盆栽のような松が趣を添える

使われている石材は、中山石と呼ばれる地元の凝灰岩だ。勾欄の親柱には変体仮名で、もう片側の控柱には漢字で、橋の名が刻まれている。堅磐橋と同じ1878(明治11)年の竣工、橋の長さ11.3m、全幅6.7m、アーチの高さ4.35m、川床部での径は5.85m。こうしてみると、羽州街道の石橋はいずれも幅7m前後で、現代の2車線道路に匹敵する広さを誇っている。明治初期の地方道としては確かに破格の存在で、イザベラ・バードが感心したのももっともだ。

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親柱・控柱の陰刻 (左)上流側「奈可やま者(は)し」 (右)下流側「中山橋」

新橋

1881(明治14)年に福島と米沢を結ぶ萬世大路が開通する以前、羽州街道は、福島県桑折(こおり)から七ヶ宿(しちかしゅく)経由で上山に出るルートを取っていた。その旧街道が金山峠を越えて山形盆地に降りたところに、楢下宿(ならげじゅく)がある。今では時が止まったように静かな村だが、かつては奥州13藩の参勤交代の折の宿場として賑わいを極めていた。村を通る街道は当時コの字形に曲がっていて、須川の支流である金山川を二度渡る必要があった。その橋が2本とも石造りで残っている。

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上山市楢下周辺の1:25,000地形図に、新橋と覗橋の位置を加筆

まず上流側にある新橋へ。楢下宿は、地形的に川の左岸(西岸)のほうが高いので、そちらから来ると、下り坂の途中で川を渡ることになる。橋面にもいくらか勾配がつけられているようだ。長さ14.7m、幅4.4m、アーチの高さ約4.4m、川床部の径約12m。道幅は中山橋などより狭く、一見、小橋の印象だ。しかし側面に回ると、広い径間で谷川を一気に跨いでいて、6つの橋の中では最もスケール感がある。

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緑に包まれた新橋

竣工は1880(明治13)年8月で、羽州街道が米沢回りに付け替えられる直前だ。しかし、主要道を外れることがわかっていたからか、建設費1000円余のうち、県から下りた補助金は300円のみだった。残りは地元で立替え、通行人や荷車から橋銭を徴収して回収したという。

村はひっそりとしていて、聞こえるのは金山川のせせらぎの音だけだ。古びた石橋に、欅の若葉が柔らかい影を落とし、見ごろを迎えたしだれ桜が淡い彩りを添えている。いつまでも眺めていたいと思わせる光景がそこにあった。

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新橋を渡る旧 羽州街道
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広い径間で谷川を一跨ぎ (左)上流側 (右)下流側

覗橋(のぞきばし)

すぐ下手、街道が金山川を渡り直す位置に覗橋がある。名称は眼鏡橋と同じく、外観からの着想だ。前後でまっすぐに伸びる道路のせいで、こちらは開放的な風景の中に架かっている。橋の竣工は1882(明治15)年。パリのポン・ヌフのように、名前に似合わず新橋のほうが古い。橋長10.8m、全幅3.5m、アーチの高さ約3.83m、川床部の径約8.44m。

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覗橋と、上手に建つ古民家山田屋

壁石には、自然石に近いものが使われている。工費は全額地元負担だったというから、費用節約の結果かもしれない。立て札には、橋脚がないため村民たちは不安がってなかなか渡らなかったというエピソードが記されているが、アーチの橋は、新橋で経験済みのはずだ。それとも、覗橋の造りがやや雑に見えるのが不安だったのだろうか。

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覗橋 (左)新橋に比べると多少無骨な造り (右)街道はこの橋を経て上山方面へ向かう

橋の上手で、山田屋という屋号で呼ばれる古民家が公開されている。石橋群の風情を堪能した私たちは、その軒下を借りて遅い昼食をとった。「『地図中心』(下注)にコンターサークルSの記事を書きました」と真尾さんが報告する。なんでも今号は、地図関係のサークルの特集らしい。オンライン地図で何でも済ませられる時代だが、紙地図で調べ、紙地図を手にフィールドに出る人々が各地で活動しているのは頼もしい。

*注 一般財団法人日本地図センター発行の月刊誌。言及しているのは2017年5月号(通算536号)の特集「地図に集う人達」。

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山田屋の軒下で昼食休憩

石橋のことに集中していたせいか、結局私たちは、楢下宿の保存建物も名物を売る店も、ほとんど見ないまま帰ってしまった。一般的な景勝地や観光施設に何ら執着がないのもコンターサークルSの旅らしい、と言えばそうなのだが。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上山(平成28年7月調製)、同 羽前中山(平成26年7月調製)、20万分の1地勢図仙台(平成元年編集)を使用したものである。

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2017年5月27日 (土)

コンターサークル地図の旅-石井閘門と北上運河

集合時刻の10時16分、石巻駅に到着した列車から降りてくる人波を見回したが、堀さんの姿はなかった。改札で待っていた外山さんに告げる。「乗っておられないですね。この電車は仙石東北ラインなので、塩釜では停まる駅が違うんです」。

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石巻駅
(左)仙石東北ラインの特別快速が到着
(右)駅のあちこちに石ノ森章太郎作品のキャラクター像が

コンターサークルS 地図の旅2日目の舞台は宮城県石巻市。北上運河の石井閘門(いしいこうもん)を訪ねることになっている。北上運河というのは、石巻を流れる北上川(下注)と、鳴瀬川河口に計画された野蒜(のびる)港を結ぶ目的で、1881(明治14)年に開通した長さ12.8kmの運河だ。今も使える状態で残されていて、その東端に石井閘門がある。

*注 1934年(昭和9年)完成の治水事業により、北上川本流は東の追波(おっぱ)湾へ注ぐようになったため、運河が接続する川は現在、旧北上川と呼ばれる。

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石井閘門から北上運河を西望

堀さんは塩釜市内に宿をとっているのだが、仙石東北ラインの列車は仙台から東北本線を走り、宿の最寄りの仙石線本塩釜駅を通らない。「次の10時56分着が仙石線の各駅停車なので、それかもしれません」「少し時間があるから、下見がてら運河へ行ってみますか」ということで、外山さんの車に乗せてもらって、とりあえず石巻駅を後にした。目的地まで車なら10分もかからない。

駅前から街路を北西に進んでいくと、初めて渡る橋が、その運河をまたぐ蛇田新橋だ。右折して運河沿いに走れば、突き当たりに閘門が見えてくる。脇の空地に車を停めた。ドアを開けると、思いのほか風が強い。曇り空で日差しがないため、じっとしていると肌寒いほどだ。

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石巻駅から石井閘門にかけての1:25,000地形図に加筆

運河の閘門は、水位の異なる水路間に船を通すための施設で、いわば船用のエレベーターだ。それは主として、2基のゲート(門扉)とその間のプール(閘室)から成る。仕掛けの要は、プール内の水位調節だ。水位を船が入る側の水面に合わせ、入口のゲートを開ける。船がプールに入るとゲートを閉め、プールに水を注入(または排水)して、水位を船が出て行く側と同じにする。そして出口のゲートを開けるのだ。

石井閘門は、北上川と北上運河の間を往来する船の出入口であるとともに、運河の水量調節や農業用水の取水も兼ねる施設だった。名称の由来は地名ではなく、当時の土木局長の名だという。日本で最初の煉瓦造による西洋式閘門として、2002年には重要文化財の指定を受けた。

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(左)ゲートを支える頑丈な門柱部
(右)鋼製ゲートの背後は北上川だが、目下、新しい堤防と水門の工事中

ちょうど閘門のプールの上を、道路橋がまたいでいる。せっかくの景観を分断するのはどうかと思うが、橋上に立てば、閘門を正面から観察できる。閘門の全長は50.35m、プールは幅7.15m、高さの平均4.65m(現地の説明パネルによる)。ゲートを支える門柱は煉瓦造りで、プールの側壁は石積みになっている。側壁のところどころに十字の鉄製金具が埋め込んであるのが見えるが、「船をつなぐためのものでしょうね」と外山さん。

一方、ゲートには、もともと欅の木が使われていたが、1966(昭和41)年に耐久性のある鋼製に更新された。それもあって閘門には、130年を超える歴史から想像されるような古色感はなく、現役で動いている装置が放つ生気が感じられる。

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(左)ロープを巻取る装置のようだが… (右)側壁の十字金具

一通り観察したところで、石巻駅に戻った。次に着いた列車から堀さんが降りてきたので、一行3名で再度、石井閘門へ向かった。同じように橋の上から施設全体を眺めた後、プール際に設置された説明板のほうへ案内する。表面は施設の沿革、裏側には当時の設計図面や運河の見取り図が刻まれている。

写真に収めたいところだが、堀さんが、カメラの調子が悪いと言う。フィルムカメラなのに、「昨日からフィルムの回る音がしないんですよ」。外山さんが手に取って確かめた。「Eの表示が出ていますね。エラーではないでしょうか」。何枚かすでに撮ったのなら、ここでカバーを開けるわけにはいかない。それで撮影は諦めざるを得なかった。「皆さん撮ってられますから、必要な時には提供してもらいますよ」。

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説明板には設計図面と運河の見取り図も

隣接して設けられた運河交流館は、震災で損傷を受けて今も閉鎖中だ。目の前をゆったりと流れているはずの旧北上川も、白い工事用バリケードで閉ざされて見えない。今後の高水位に備えて、現在、堤防を嵩上げする工事が行われているのだ。堤高を標高約4.5mに揃える計画だが、閘門は3.5mしかない。それで、外側に別の高堤防を築き、運河に入るための水門を新たに設けるという。川に開かれた閘門の景観は変わってしまうが、文化財保存と水害防止を両立させるには、他に策がないのだろう。

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工事用バリケードに掲げられた堤防工事完成予想図

これで訪問の目的は果たしたが、後の予定は何も決まっていない。「どっちみち塩釜方面へ戻るので」と、外山さんの好意で、北上運河の流れを追って西へ走ってもらうことになった。

北上運河は、野蒜築港計画の関連工事として建設されている。明治の初め、東北地方の産業振興を図るために水運の整備が進められたとき、まず決定すべきは、内陸水路である北上川と外洋を接続する拠点港をどこに置くかだった。地元の人々は、河口の石巻が選定されることを望んだ。しかし、調査の依頼を受けたオランダ人技師ファン・ドールンは、川から流入する土砂の堆積を理由にその案を斥け、鳴瀬川河口の野蒜を最適地と結論付けた。そこで、石巻から野蒜港まで、船が、砂の溜まる港や波高い外洋を経由しなくて済むように、運河の開削が必要になったのだ。

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北上運河周辺の1:200,000地勢図に加筆

閘門付近では、運河の周りは今やすっかり市街地化している。左岸に遊歩道があるものの、なんとなく味気ない印象の風景が続く。仙石線を乗り越すあたりから、ようやく松林が見え始めた。国道45号線と分かれた後の道沿いにも、背の高い木立が残っている。しかし、潤いの感じられる水辺の景色は、定川との合流点までだった(下注)。

*注 北上運河のうち、定川以東を北北上運河、定川以西を南北上運河という。

この後、運河はなおも西へ延びているが、一帯は浸水被害を受けて、目下復旧工事の真っ最中だ。鳴瀬川の河口では、まっさらの堤防が立ち上がり、築港跡の記念碑はその上に移設されていた。煉瓦の橋台は見つけたが、周辺の市街地跡だったところは更地のままだ。釣り人で賑わったという突堤跡が、砂浜から切り離されて波に洗われている。

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野蒜築港跡の現状
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(左)新堤防に移設された築港跡碑 (右)波に洗われる突堤跡

明治の築港事業では、最重要工事であった港口の突堤が1882(明治15)年に完成した。ところがわずか2年後に、台風の直撃に遭う。襲う大波が東突堤の一部を押し流し、残骸で港も塞がれて使用できなくなった。当時、浚渫の技術は未熟だったし、緊縮財政の中で修復予算がつく目途も立たない。結局、事業は翌1885(明治18)年にあえなく放棄されてしまったのだ。

堀さんが言う。「オランダから来たファン・ドールンは、日本の自然がどういうものかわかっていなかったようです」。昨日訪れた花渕浜の外港はこの30年後に計画されたが、同じように台風で被災し、頓挫した。そして今回の地震と大津波だ。海から絶え間なく吹きつける強風の中で、私たちは、想像を超える自然の威力との果て無き闘いに、思いを馳せた。

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野蒜築港周辺の1:25,000地形図
(左)震災以前のようす(2007年更新)
(右)同じエリアの最新図(2017年5月画像取得)

本稿は、現地の説明パネルおよび宮城県教育委員会『宮城県の近代化遺産-宮城県近代化遺産総合調査報告書』平成14年3月を参考にして記述した。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図石巻(平成22年更新)、同 小野(平成19年更新)、20万分の1地勢図石巻(平成元年編集)および地理院地図(2017年5月27日閲覧)を使用したものである。

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2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6人になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが適切で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
破線が、米軍撮影空中写真を参考にして描いた軌道のルート
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆
軌道関係の痕跡は、韮山の崖記号と花渕浜西方の直線路のみ

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。昭和8年図にはこの道はないものの、同じ位置に田んぼの中を一直線に延びる小道(地図記号としては、道幅1m以上の町村道)が描かれている。この軌道を取材した『廃線跡の記録3』(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記『廃線跡の記録3』には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図、右図参照)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

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【追記 2017.5.28】
先日発売された、今尾恵介 責任編集『地図と鉄道』(洋泉社、2017年6月)の114ページ以下で、石井さんがこの築港軌道について的確な記事を書いている。軌道跡が明瞭に写る米軍撮影の空中写真や、高山の西の切通し(記事では小豆浜公園近くの切通し)の撤去前の写真なども見られる。ご参考までに。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。
参考にした米軍撮影空中写真は、国土地理院所蔵のUSA-M201-56(1947年4月12日撮影)、USA-M174-228, 232(1952年10月31日撮影)。

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