2018年6月 6日 (水)

コンターサークル地図の旅-淡河疏水

兵庫県東播磨地方のいなみ野(印南野)台地は、日本で最も灌漑用ため池が密集する地域だ。水田に対するため池の面積は、地区によって3割にも達するという。瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、台地は周囲を流れる河川より数十m高く、また表土が山砂利層であることから、もともと水が得にくい土地だった。

Blog_contour3101
御坂サイフォン橋
手前が1891年築の石造橋、奥は1953年築の鉄筋コンクリート橋

江戸時代の新田開発で、周辺や台地内の河川から水路が引かれたが、既存の水利権との調整で、取水できるのは秋から春に限られた。そこで、堤を築いて池を造り、水をいったんそこに引き込んでおき、必要なときに使えるようにした。ため池が多いのはそれが理由だ。しかし、農業生産が拡大するにつれ、水不足は再び顕著になっていく。

より遠い六甲山地(六甲山系および丹生(たんじょう)山系)に水源を求める案は、すでに18世紀後半から唱えられていたというが、流路が藩をまたぐため、利害調整が難しく、話は容易に進まなかった。明治に入り、最終的に兵庫県に統合されたことで、計画がようやく動き出す。

当初、取水地は山田川中流と目されていたが、調査の結果、水路予定地の地質が悪いことが判明し、一本北の川筋である淡河川(おうごがわ)に変更された。導水路は最初、川の右岸の山中を伝う。そして御坂(みさか)で志染川(しじみがわ、下注)の谷を横断した後、芥子山(けしやま)を隧道で貫き、いなみ野台地に出る。この淡河疏水(おうごそすい、下注)は1888(明治21)年1月に着工され、難工事を克服して1891(明治24)年に完成を見た。

*注 御坂で淡河川と山田川が合流して、志染川と名を変える。
*注 正式名は淡河川疏水。なお、「疏」は当用漢字外のため、地形図では淡河「疎」水と表記される。

Blog_contour31_map1
淡河疏水、山田川疏水の概略ルート

御坂で横断する谷の比高は60m以上ある。このため、横浜水道の設計者である英国人土木技師ヘンリー・S・パーマーの提案により、逆サイフォン構造が採用された(下注)。管路延長は749.32m(水平距離735.30m)で、谷底を流れる志染川は、全長56.95mのアーチ橋を架けて通過する。管路の吐口は呑口より2.45m低いだけだが、管路を満たした水は、連通管の原理で谷を隔てたこの位置まで上昇してくる。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来のサイフォンとは構造が異なるが、以下ではこの名物区間のことをサイフォンと記す。

Blog_contour3102
御坂サイフォンの見取図。現地の案内板を撮影

前置きが長くなったが、2018年5月28日のコンターサークルSの旅は、この淡河疏水の探索がテーマだ。まずはお目当てのアーチ橋、御坂サイフォン橋に行き、その後時間が許す範囲で、疏水の名物スポットを巡りたいと思っている。

JR三ノ宮駅の高架下にある神姫(しんき)バスのターミナルから、9時10分発の西脇営業所行きに乗車した。三木や小野を経由する便だが、御坂にも停まるので、現場へのアプローチとしては理想的だ。

朝の郊外方面なので、乗客は数えるほどだった。三宮を出ると、長い新神戸トンネルで六甲山系を一気に越え、箕谷(みのたに)ICから志染川沿いに下っていく。御坂バス停前に集合したのは、バスに乗ってきた今尾さん、浅倉さん、私と、自家用車で到着していた相澤夫妻の計5人だ。

サイフォンのありかは、すぐそばの山腹に黒い鉄管が横たわっているので、探すまでもない。斜面を降りた鉄管は地中に潜ってしまうが、跡を目で追うと、県道を越え、御坂神社の脇を通り、集落内の道に出る。そしてそのままサイフォン橋に接続する。橋は本来、車一台優に通れる幅があるのだが、上流側はチェーン柵を張って通行できなくしている。「明治の橋が老朽化したので、戦後(1953(昭和28)年)、下流側に新しい橋が造られ、水路もこちらを通っているそうです」と私。

Blog_contour3103
御坂サイフォン橋の路面。この下に管路が通っている
(左)北側から写す。上流側は通行不可になっている (右)南側から写す

Blog_contour31_map2
御坂サイフォン周辺の地形図(等高線は10m間隔)

橋のたもとから右に分かれる小道をたどると、川原に降りることができる。流れに架かる沈下橋の上に立って、眼鏡橋の通称をもつ軽やかな2連アーチを眺めた。ただ、前面に来るのは鉄筋コンクリート製の昭和の橋なので、隠れている明治橋が見える位置まで、川原の草藪を漕いでいった。

明治のサイフォン橋は、アーチ部も橋台も石造りだ(冒頭写真)。表面にモルタルを吹き付けて補強した跡があるが、下部ほどその剥離が目立つのは、大水のときに受けた被害だろうか。昭和橋は、明治橋のプロポーションを踏襲している。開腹と充腹というデザイン上の違いはあるものの、並んでもあまり違和感がない。下から仰ぐと、まるでお爺さんに若者が寄り添い、支えている構図だ。

Blog_contour3104
(左)並ぶアーチを川原から見上げる。左が明治橋 (右)昭和橋の側面
Blog_contour3105
斜面に横たわるサイフォンの管路 (左)橋の南側から写す (右)北斜面に接近

橋を後にサイフォンの南側まで行ってみたが、管路が再び地表に出たところで通行止めの柵がしてあった。それで逆の北側に回る。急坂の小道を上り、老人ホームの手前で折れて、疏水べりに出た。幅2~3mの水路にまだほとんど水は来ていない。この上流には石積みのポータルをもつ隧道があるはずだが、周囲の草丈が高すぎて、踏み込むのは躊躇された。

一方、下流側は水路に蓋がされ、その上が通路になっている。おりしも土地改良区の人が水路のゲートの調整に来ていたので、一言お断りしたうえで、その道を先へ進んだ。地形図では庭園路の記号で書かれている林の中の道は、枝葉が積もっているものの歩きやすい。少し行くと、急に視界が開けて、サイフォンの吞口にある枡が現れた。

そこは格好の展望台で、谷を降りていく管路とサイフォン橋を通る道、向かいの谷を上る管路が直列に並ぶさまが一望になる。下から見上げるのとは違う、スケールの大きな眺めだ。「サイフォン全体がわかる。ここはいいですね」。今日は曇りがちで日差しこそ少ないが、谷間はやや蒸し暑かった。それに比べて、山の上は心地よい風が通う。一行はしばらく風に吹かれながら、130年前の偉業を成し遂げた地元の人々の熱意に思いを馳せた。

Blog_contour3106
呑口(北側の山上)からの眺望
背景は三木総合防災公園内の施設、その後ろは芥子山

「さっきの神社の付近に三角点がありますね」と地形図を眺めていた今尾さんが言う。山を下りた後、神社の境内に狙いを定めて探してみた。案の定、社の奥の竹林の中に「基本測量」と記された杭があった。相澤さんが慣れた手つきで落ち葉の下を掘り返すうち、目印となる自然石とその中心に測量標の頭が現れた。「三角点にしては見通しの悪い場所ですね」「設置したときは竹林もなく、開けていたんでしょう」。

Blog_contour3107
(左)御坂神社正面 (右)三角点の探索

相澤さんの車に同乗させてもらい、移動を開始した。東播用水土地改良区の事務所でもらった疏水の資料と地形図を見比べながら、私がナビをする。まず車を停めたのは、練部屋(ねりべや)分水所だ。淡河疏水は、後にできた山田川疏水(下注)と合わさり、いなみ野台地の比較的高い位置にあるこの分水所に達する。そしてここで5方向に分けられる。

*注:1915(大正4)年竣工。かつては坂本で山田川から取水していたが、1991(平成3)年以降、呑吐(どんど)ダムから導水している。呑吐ダムには、さらに北部の大川瀬ダムから水が送られてくる。

最初は方形に煉瓦を積み上げたものだったそうだが、後に六角形に改修され、1959(昭和34)年に現在の直径10mある円筒分水工に置き換えられた。ここでは、送られてきた水を円筒の中心部から湧出させ、円筒外周部に分配比に応じた仕切りを造って、越流させている。分水を可視化して公平性を担保しているわけで、賢い仕掛けだ。

Blog_contour3108
(左)練部屋分水所の円筒分水工 (右)分水工の構造図。現地の案内板を撮影

Blog_contour31_map3
練部屋分水所周辺の地形図

ここで昼食。水音を間近に聞きながら、こどもの頃のサイフォン遊びの思い出から、水車で搗いたそばが美味い理由や、水力で動くケーブルカーに乗った話まで、水にまつわる話題に花が咲いた。

東京へ帰る今尾さんをJR土山駅へ送って行った後、来た道を戻って、淡山疏水・東播用水博物館を訪ねた。淡山(たんざん)疏水とは、淡河川疏水と山田川疏水の総称だ。前庭に、サイフォンで使われた鉄管の断片が置いてあった。初代のそれは英国から輸入した軟鉄製で、後年の漏水対策として分厚いコンクリートが周囲に巻かれた状態で保存されている。今、現地で使われているのは1992年に交換された3代目だそうだ。

館内には水路のルートをランプで示す地図や、明治期の疏水施設の写真展示もある。案内人さんの、「水路管を清掃すると魚がいっぱい、ときには亀まで出てくることがあります。小さいときに入ったやつがパイプライン暮らしで育ってしまって」という話には笑った。

Blog_contour3109
博物館の前庭にあるサイフォン管の展示

この近くに、疏水の石造橋が残されている。掌中橋(てなかばし)といい、小川をまたぐ長さ7.6mの小さな水路橋だ。1914(大正3)年竣工と時代が下るが、堅牢そうな花崗岩のアーチと側面の煉瓦張りで、見栄えがする。すでに水路の用はなしていないが、元の場所に手を加えることなく残されており、疏水関連の貴重な遺産だ(下注)。相澤夫人に臨時のモデルをお願いして、写真を撮った。

*注 西方にある、より規模の大きな平木橋(長さ16.2m)は、道路工事に支障したため、移築保存された。

Blog_contour3110
掌中橋。欄干には橋の名とともに請負人、石工の名が刻まれる

水路トンネルのポータルを見ておきたかったので、相澤さんにまた車を走らせてもらった。目星をつけたのは、雌岡山(めっこさん)の西麓、古神(こがみ)地内の田んぼの中にある幹線水路の隧道だ。ところが、法面をすっかり草むらが覆っていて近づけない。やむをえず道路から遠望したのが下の写真だ。几帳面な石積のポータルの下に、煉瓦を巻いた楕円形の吐口が見える。「流量が少なくても泥などが溜まりにくいように、底を丸めてあるんでしょう」と浅倉さん。

御坂で会った土地改良区の人が、来週、再来週には田植えが始まる、と言っていたのを思い出した。もう6月だ。あの画期的なサイフォンで谷を渡って、この水路にたっぷりと水が送られてくる日も近い。

Blog_contour3111
(左)雌岡山 (右)その西麓にある隧道吐口

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、和歌山(昭和59年編集)、姫路(昭和59年編集)、徳島(昭和53年編集)、および地理院地図を使用したものである。

淡河疏水、山田川疏水の概略ルートは、農林水産省近畿農政局東播用水二期農業水利事業所 製作の「いなみ野台地を潤す水の路 ”淡河川山田川疏水”」所載の図面を参考にした。

御坂サイフォンの写真は別途、晴天時に撮影したものを使用している。

■参考サイト
いなみ野ため池ミュージアム http://www.inamino-tameike-museum.com/
 トップページ > ため池資料館 >「淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"」に詳しい資料がある。

農林水産省「御坂サイフォンを設計したパーマー」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/hyogo_02/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-丹那断層
 コンターサークル地図の旅-富士山麓の湧水群
 コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年6月 2日 (土)

コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年のコンターサークルS 春の旅本州編の後半は、関西地方が舞台だ。5月27日は、昔の風情を残す旧 高野(こうや)街道と、サイクリングロードになっている南海高野線旧線跡を通して歩いた。駅でいうと、河内長野(かわちながの)と天見(あまみ)の間、8kmほどの距離だ。

Blog_contour3001
吉年邸の大クスノキ

10時30分、河内長野駅の改札前に集合したのは、今尾さんと私と、飛び入りで参加してくれた海外鉄道研究会のTさんの計3人。駅前広場の一角にある高野街道の碑のところから、今日の歩きをスタートさせた。

高野街道というのは、古来、京や大坂と真言密教の聖地高野山との往来に使われたルートの総称だ。京都方面から生駒山地の西麓を南下してくる東高野街道、堺から南東へ進む西高野街道など、道筋はいくつかあるが、それらが最終的に河内長野で一本にまとまり、紀見峠(きみとうげ)を越えていく。

Blog_contour3002
河内長野駅前の高野街道碑

Blog_contour30_map1
河内長野~三日市町周辺の1:25,000地形図

なかでも河内長野から三日市宿にかけては沿道に見どころが点在している。駅前から南に向かうと、立派な旧家、吉年(よどし)邸がある。だが屋敷より目を引くのが、庭に生える樹高20m、枝張り30mもあるという大クスノキだ。家の裏手から噴き出すように枝葉を広げ、白壁の土蔵を今にも呑み込んでしまいそうな勢いだ(冒頭写真)。

その脇で道は二手に分かれる。「右のほうが古い道なので、そっちを通ろうと思います」と案内役の私。今尾さんが持参した明治期の地形図では、三日市宿へショートカットする道がすでに描かれているので、右は旧々道ということになる。

段丘崖を降りて道が直角に曲がる所に、天野酒の醸造元、西條合資会社の風情のある建物が軒を連ねていた。道の左側(南側)が登録有形文化財の旧店舗「さかみせ」で、幕末から明治初期の建築だそうだ。修復工事が終わったばかりなので、軒に渡された銅の雨樋がまだ艶々としている。最近の景観整備事業で路面が石畳に置き換えられたこともあり、ここだけ昔にタイムスリップしたような一角だった。

Blog_contour3003
(左)銅の雨樋が光る西條合資会社の旧店舗
(右)旧西條橋を渡ると別久坂(2018年3月撮影)

旧西條橋で石川を渡った後は、また坂を駆け上がる。別久(びっく)坂と呼ばれるこの急坂で、道は烏帽子山の山裾にぴったりと張り付く。中世、山頂には城が築かれており、「防衛戦略上や経済的な理由から、高野街道を山裾に取り込んだものと考えられます」と案内板は語る。確かにここは上位段丘面で、宅地がなかった頃は遠くまで見通しが利いただろう。烏帽子形八幡神社の門前には休憩用のベンチがこしらえてあった。鬱蒼と茂る森の中から、鶯のさえずりが聞こえてくる。

Blog_contour3004
烏帽子形八幡神社の門前

上田の高札場跡で直角に曲がると、今度は松屋坂の急な下り道だ。吉年邸から直進してきた旧道と合流してすぐ、旧 三日市交番が公開されていた。木造2階の小さな建物だが、築年は古く1921(大正10)年とされる。「駅前に新しい交番ができるまで、駐在さんがここに詰めていたんです」とボランティアの案内人さん。かつてはすぐ隣に町役場もあったというから、辺りは行政の中心だったのだ。

Blog_contour3005
(左)旧 三日市交番が公開中 (右)風情を漂わせる三日市宿の家並み

加賀田川を渡る。私たちが注目したのは左に見える高野線鉄橋、ではなくその手前(西側)に残された煉瓦の旧橋台だ。おそらく1914(大正3)年開通時のもので、イギリス積みのどっしりとした外観が頼もしいが、観光パンフレットには何ら言及がない。「これも文化財なんで、説明板の一つぐらいほしいですね」とTさんが残念がる。「街道の風物じゃないと関心がないんでしょうか」と私。

Blog_contour3006
(左)高野線単線時代の煉瓦積み橋台 (右)現在線の脇に残る

それに対して宿場の歴史に関わるものは、本陣格の旅籠だった油屋跡、19世紀後半に造られ現存する八木家住宅と、どれも丁寧に解説されている。背景にショッピングセンターの無粋な建物が見え隠れするものの、蛇行する街路沿いに懐かしい瓦屋根の町屋が続いて、写真の一つも撮りたくなる界隈だ。

三日市町駅前まで来たので、少し早いが、そのショッピングセンター、フォレスト三日市の空調の効いたベンチを借りて、昼食にした。今日は気温が30度に近く、空気の重たさが梅雨の季節が近いことを知らせている。

駅を後に、直線状の旧道をなおも進む。石見川を渡る新高野橋の北のたもとに、八里石を見つけた。高さ178cmの立派な石碑で、おもてに「西是(これ)ヨリ高野山女人堂江(へ)八里」、側面に安政四(1857)丁巳年二月の日付が刻まれている。傍らの案内板によれば、これは堺から高野山まで13里ある西高野街道に沿って一里ごとに建てられた標石の一つで、すべてが今も残っているという。「日本のマイルストーンですね」と今尾さんが感心する。

Blog_contour3007
(左)八里石 (右)街道は紀見峠に向けてなおも延びる

史跡などの見どころはおよそこれが最後で、旧街道自体もこの先、断続的に国道に取り込まれてしまう。大阪府が作成したハイキング地図は、「車が多く、歩道がない区間もあるので、国道の脇道をのんびりと歩くこと」を勧めている。この脇道というのが、南海高野線の廃線跡を転用したサイクリングロード(歩行者自転車専用道)だ。一般道路で代用される区間はあるものの、天見川の谷に沿って約5.5kmの間延びている。

南海高野線には急勾配急曲線の連続する山岳区間があり、ズームカーと呼ばれる高性能の専用車両が活躍する舞台となっていた。今でこそ橋本~極楽橋間に短縮されているが、かつては大阪寄りの紀見峠の前後区間もそうだった。

1970年代に入ると、全国的なニュータウン開発の波が山間部まで及んでくる。それに呼応して高野線でも、河内長野~橋本間で輸送力強化を目的とした複線化が進められた(下注)。大型車両の乗り入れが可能となるよう、高架橋やトンネルの新設による線形の抜本的な改良も実施された。そしてその引き換えに、谷間を曲がりくねっていた単線の旧線は任務を解かれ、廃線跡となったのだ。

*注 複線化(多くの区間でルート変更を伴う)の時期は以下のとおり。
河内長野~三日市町 1974(昭和49)年、三日市町~千早口 1984年、千早口~天見 1983年、天見~紀見峠 1979年、紀見峠~御幸辻 1983年、御幸辻~橋本 1995年(ただし新線切替は1994年)
 旧線区間はカーブの最小半径が160mだったが、これを400m(一部240m)に緩和した。反面、ルートをショートカットするため、最大勾配は旧線25‰に対して新線は33‰とされた。

Blog_contour30_map2
三日市町~天見周辺の1:25,000地形図
Blog_contour30_map3
高野線旧線時代の地形図(1977(昭和52)年修正測量)。範囲は上図と同じ

美加の台(みかのだい)駅の500m手前で、線路際から左前方へサイクリングロードが分かれていく。軽自動車なら通れる道幅で、簡易舗装もされている。路側に植え込みや並木が続いているから、一般的な農道でないと知れるが、案内板などは見当たらない。立っているのは歩行者自転車専用の道路標識のみ。旧高野街道のルートマップでもせいぜい「国道の脇道」扱いだから、地元では観光資源とはみなされていないのだろう。人通りもなく、私たちが歩いている間、サイクリストのグループと一、二度すれ違っただけだった(下注)。

*注 自転車旅行者の間では、由来は定かでないが、「トトロ街道」と呼ばれているという。

小道はさっそく、木漏れ日が差し込む谷間に入っていく。少しの間、桜の並木が造られている。周りの林に負けないように育ったと見えて、かなりの丈がある。「線路のそばに咲いていたのかな」「枝ぶりから見て、整備のときに植えたんでしょうね」。廃線からすでに30年以上経つので、桜の木なら十分育つだろう。

Blog_contour3008
(左)サイクリングロードになった旧線跡が分かれていく
(右)谷間を桜並木が彩る(いずれも2018年3月撮影)

右手には現在線の高架に続いて、ニュータウンの玄関口として新設された美加の台駅が見える。丘の上には大規模な住宅地が広がっているはずだが、谷間にいては実感できない。現在線のガード下をくぐった後は、さらに谷が深まった。天見川の清流を二度横切るので、もしやと橋の下を覗いてみたら、頑丈そうなガーダー(橋桁)と煉瓦の橋台が確認できた。旧線の遺構に違いない。

Blog_contour3009
美加の台駅の南側で高野線をくぐる
なお、旧線跡(加賀田信号所があった)は現在線と同一レベルで交差していたので、サイクリングロードはこの区間で旧線跡からそれて迂回している
Blog_contour3010
天見川を渡る個所に旧鉄橋の橋台と橋桁が残る

渓谷を抜けたところで、サイクリングロードはいったん終わり、一般道路に接続している。廃線跡は道路の隣で草むらの農道と化し、その先では民家の庭先や畑の拡張に利用されているようだ。少し進むと、現在線が美加の台トンネルから出てきた。ここから千早口駅まではルートが移設されていない、すなわち廃線跡がないので、私たちは下岩瀬集落の中を抜けていった。

線路をくぐれば、千早口(ちはやぐち)駅だ。駅前の観光案内板には珍しくサイクリングロードも描かれていたが、旧街道のように、鉄道史跡であることも書き添えてほしいところだ。「信号機でも残っているとわかりやすいんでしょうけど」とTさん。実際は、鉄道標識すら保存されておらず、さっきの民家の畑に赤く塗られた境界標らしきものがあっただけだ。

Blog_contour3011
千早口駅前の観光案内板

標高が上がったせいで、頬に当たる風が少し涼しく感じられるようになった。駅横から再びサイクリングロードを進む。こちらはさっきより舗装が新しいので、後で整備されたのだろう。右に左にカーブが連続し、そのつど新しい景色が開けるのが楽しい。対岸には国道が通っていて、トラックの走行音も聞こえてくるのだが、それさえ別にすれば、なかなか趣のある道だ。

谷の中で、少し幅の広い箇所を見つけた。舗装道は1線分だが、柵の隣に同じような幅の空地が並行しているのだ。横断する水路の側壁の幅から、谷側にもう1線あったことが推定できる。そのときは信号所の跡と思ったが、よく考えてみると、旧線の千早口~天見間はわずか1.9km。列車交換のための信号所は必要ない。あるいは天見川の対岸に砂利採取場があるので、積込用の貨物側線だったのだろうか…。

Blog_contour3012
(左)千早口駅南方。側壁は現役時代のオリジナル
(右)柵の隣に側線跡のような空地が並行する

旧線は峠に向けて高度を稼ごうとしていたらしく、谷底との高低差が徐々に広がってくる。家並みが谷底に沈んで見える。鬱蒼とした林の中、天見小学校の裏手を回っていくと、今日の目標にしていた天見駅だった。板張りの山小屋のような無人駅舎だが、中で自動改札機がしっかり通せんぼしている。

すぐ下手に温泉旅館の南天苑があり、建物が登録有形文化財になっているので、見に行った。辰野金吾事務所の設計で、堺の大浜公園に建っていた保養施設の別館を1935(昭和10)年に移築したものだという。元の場所は戦争で空襲に遭い、そこに残っていた本館は焼失してしまった。移設のおかげでこの建物だけは命拾いしたことになる。おかみさんから奨められて、庭から座敷も拝見した。

Blog_contour3013
天見温泉南天苑(2018年3月撮影)

「これから高野山に登ってきます」という元気な今尾さんを天見駅に見送って、Tさんと私はサイクリングロードをもう少し先まで行った。ここでも桜並木が程よいカーブを描いている。次の支谷を横断する地点に架けられているのは、安っぽい擬製のアーチ橋だったが、その下に本物の煉瓦溝渠が顔を覗かせていた。

心地よい歩き道は、しかし蟹井神社の手前の辻で途切れる。例によって、人と自転車を描いた道路標識が立っているだけで、実にそっけない終わり方だ。そこから先、廃線跡は築堤上の空き地に変わり、残存する高いガーダー橋を経て、現在線に合流していく。紀見峠の下を貫く新しいほうのトンネルが、もうすぐそこに見えている。

Blog_contour3014
(左)天見駅舎 (右)サイクリングロードはなおも上流へ
Blog_contour3015
(左)擬製のアーチ橋の左下に煉瓦溝渠
(右)サイクリングロードの終点。廃線跡の築堤はまもなく現在線と合流する

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図富田林(昭和52年修正測量および平成19年更新)、岩湧山(昭和52年修正測量および平成22年更新)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-丹那断層
 コンターサークル地図の旅-富士山麓の湧水群
 コンターサークル地図の旅-淡河疏水

2018年5月10日 (木)

コンターサークル地図の旅-富士山麓の湧水群

レトロな雰囲気を漂わせた岳南(がくなん)電車吉原駅の窓口で、全線1日フリー乗車券を買った。往復すれば元が取れてしまう700円のお得な切符だ。岳南電車は、ここから岳南江尾まで富士山麓の工場地帯を縫っていく9.2kmのミニ路線で、もと京王のステンレス車両が活躍している。終点まで乗り通してから、本日の集合場所、本吉原(ほんよしわら)駅へ戻った。

Blog_contour2901
岳南電車
(左)富士山を正面に見る区間(吉原~ジヤトコ前間) (右)終点の岳南江尾駅

2018年4月29日、コンターサークルSの旅2日目は、富士山南麓の湧水群を訪ね歩くことになっている。というと、有名な三島近郊の柿田川湧水や富士宮の浅間大社をつい思い浮かべてしまうのだが、今回はそれとは違って、富士市内にある湧水群だ。メンバーは誰も行ったことがないので、事前にネット情報を収集してある。

本吉原の駅前に集まったのは、真尾さん、今尾さん、中西さん、木下さん親子、大出さんと私の、大6小1、計7人、昨日にもまして賑やかな道中になるだろう。巡ろうと思う湧水群は、大別して今泉、原田、吉永と3か所ある(下の地形図参照)。まずは、最も西側の「今泉ガマ(下注)」と呼ばれる湧水群へ歩を進めた。

*注 ガマはここでは湧水地帯の意味で使われ、河間の字を当てる。ちなみに沖縄のガマ(洞窟)も地下水が湧いていることが多いそうだ。

Blog_contour29_map1
地理院地図(1:25,000)に、歩いたルートと湧水群の位置を加筆
青の星印が湧水のおよその位置を示す

Blog_contour2902
今泉市街地の水路(田宿川)に映る
逆さ富士

町なかを進み、根方街道(県道22号三島富士線)の古い水門のある橋を渡ったところから、さっそくそれは始まった。曲がりくねる街路の脇に何の変哲もない水路が並行しているのだが、よく見ると、護岸の石垣やブロックの隙間からちょろちょろと水が漏れ出している。川底で泥がむくむくと舞い上がるのも、水が湧いているのに違いない。

左岸の随所に、焦げ茶色の低い崖が露出しているのが見える。ここは溶岩台地の末端部で、崖は裾野を流れ下ってきた溶岩が冷え固まったもの。その下から伏流水が湧き出しているのだ。一つ一つは大した量ではない。しかし、それが集まるとどうなるかは、水門の橋のあたりでほとんど淀んでいた水が、200mほど先で、もうたっぷりとした流れに変わっていることでも明らかだ。

Blog_contour2903
(左)ブロックの水抜きから漏れ出す湧水 (右)小さな湧水にも水神様を祀る

この水路は田宿(たじゅく)川といい、今泉ガマの水はすべてここに流れ込んでくる。主な水源には水神様が祀られていて、地元で大切にされているようだ。川面を覗き込みながら歩いていると、近所の方に声を掛けられた。用向きを説明したら、施錠してある湧水地に案内してくださるという。

そこは川と崖の間にある空き地で、かつては家が建っていたが、今は基礎が残るだけだ。草を分けて崖際まで行くと、こんこんと湧き出す泉があった。「けっこうな水量ですね」と驚くと、その方いわく「屋敷の庭で水車を回していたんですよ。いつもならもっと湧くんだが、今年は異常に少なくてね」。飲めますよと言われて、紙コップに注いでもらった。富士山の天然水は、癖がなく滑らかな飲み心地だった。「年中15度前後です。こどもの頃は、ここにスイカを放り込んであった。冷蔵庫みたいに冷えすぎないからいいんです」

「少し下へ行くとバイカモ(梅花藻)が自生してますから、見てください。きれいな水でないと育たないので、住民が集まって年に6回、川に入って清掃してるんです。5月には咲くんだが、去年はバン(鷭)が飛んで来てみんな食べてしまいましてね」「今はきれいですが、昔は悪水(あくすい)って呼んでました。製紙工場が排水を垂れ流してたので。今でも川底を10cmぐらい掘ると、その時のパルプのかすが溜まってるんですよ」

Blog_contour2904
屋敷跡の湧水を見せてもらう

時間を割いて話をしてくださったこの方に丁重に礼を言って、再び歩き始めた。今泉で特に湧水量の多いのは、法雲寺という寺の周辺なのだが、そこへ到達する前からすでに豊かな流れとなり、川面にバイカモが広がってゆらゆらと揺れている。住宅や工場の密集地を澄み切った清流が貫くというのは、ちょっと不思議な風景だ。橋の上から眺めながら、この環境を維持するのは並大抵の努力ではないだろうと思った。

Blog_contour2905
(左)住宅密集地を、バイカモが揺れる清流が貫く
(右)湧水が集まりいつしか豊かな流れに

田宿川を後にして、私たちは原田地区のほうへ足を向けた。すでに正午を回っているので、途中、原田公園で昼食をとる。単なる休憩目的で行ったのだが、そこは思いがけない富士山のビュースポットだった。東に張り出した高台(溶岩台地)の上にあり、しかも北側を松原川の浅い谷が走るので、パースペクティブが強調されるらしい。

「この辺はほんと富士見町ですね」「富士見町って名づけ始めたら、そのうち富士見町だらけになりそう」。今尾さんが笑って「富士見町は富士山の近くにあまりないんですよ。見えて当たり前なので」。

今日も抜けるような青空で、降り注ぐ陽光がまぶしい。遊びに興じる子供の歓声がこだまするなか、クスノキの木陰のベンチに腰を下ろす。キリ君の姿が見えないと思ったら、いつのまにか回転ジャンクルジムのところで、地元の人の輪に溶け込んでいた。

Blog_contour2906
原田公園から望む富士

原田の湧水群巡りは、五社神社の前の神戸橋からスタートする。橋のたもと、滝川左岸の石垣の下に湧き口があるのだ。水量は、裾野を下りてくる本流に負けないくらい多い。滝川はその先で溶岩の間を早瀬となって流れ下るので、溶岩台地のかなり高い位置で出ていることがわかる。

Blog_contour2907
原田地区
(左)神戸橋のたもとの湧水(左側からの流れ) (右)溶岩の間を流れ落ちる早瀬

坂を下ると、住宅地の間に原田湧水池公園という回遊式の小さな庭園があった。ここでも澄んだ小川が勢いよく流れている。案内板によれば、この界隈にはかつて水車を利用した搗屋が数軒あり、搗屋町と呼ばれていたそうだ。水車小屋が園内に再現されているものの、水車は回っていなかった。公園から直接水源にたどり着けないのも、惜しい気がする。

滝川沿いの遊歩道を進む。左手は溶岩流の斜面で、深い森に覆われているが、右手は平地で、殺風景な製紙工場の建物が建ち並ぶ。鎧が淵(よろいがぶち)親水公園が見えてきた。護岸が階段状にされ、河原に降りられるので、子供たちが川に入り、脛まで水に浸かって遊んでいる。背後の森は永明寺(ようめいじ)という寺の境内で、青もみじの間から落ちる滝の音が、話し声をかき消さんばかりに響き渡る。

Blog_contour2908
鎧が淵親水公園 (左)川原に降りる石段 (右)永明寺境内から落ちる滝

寺の東側に回ると、滝不動という名の、これも湧水にまつわる祠があった。小さな不動尊像が、大木の根元から流れ落ちる滝に打たれている。この水をかけると疣(いぼ)が取れるとされ、いぼとり不動尊の名があるという。「疣はウイルス感染症ですから、皮膚を清潔に保つといいんです」と、真尾さんが知見を加える。水源はすぐ上手にあり、そこから二手に分かれて一方は寺の境内へ、一方は滝不動へ落ちているらしい。

この辺りはどこにいても水音が聞こえ、潤いのある土地という感を強くする。さっき訪れた今泉の場合、水は台地の下から湧くので、水量がある割には静かだった。それに対して原田では、台地の比較的上面で湧き出している。地上に出た水は、高低差のある斜面を流れ落ちることになり、自然と音が立つのだ。

Blog_contour2909
滝不動 (左)滝に打たれる不動尊像 (右)水源側から境内を見下ろす

札幌に戻る真尾さんを見送った後、かがみ石公園を経て、三つ目の湧水地帯、吉永(比奈)地区へ歩を進めた。玉泉寺の山下にも湧水があるのだが、時間の関係で省略して、医王寺へ向かう。門前の参道を囲むように水をたたえる大きな池が、泉の郷湧水公園という名で整備されている。

親子連れが何組も来ていた。花菖蒲が縁取る池には、まるまると肥えた鯉がたくさん泳いでいて、子供たちは餌やりに夢中だ。池は浅いのだが、近くで湧いた水が流れ込むので澄みきっている。公園化されたところもいくつか通ってきたが、明るく落ち着いた水辺があるという点でここがベストだろう。「溶岩台地の谷間で、いかにも水が湧いてきそうな場所です」「お寺を囲む森もいい雰囲気ですね」。

Blog_contour2910
泉の郷湧水公園 (左)親子連れが何組も (右)餌を求める肥えた鯉
Blog_contour2911
公園と、湧水をはぐくむ背後の森

湧水巡りを終えた私たちは、電車で帰るべく最寄りの岳南富士岡駅へ向かった。さすが日本一の山というべきか、当地の湧水も思った以上の規模だ。観光バスはまず来ないから静かだし、数あるスポットを追っていけば一日楽しめる。小学生のキリ君も、泉守のおじさんにもらった竹の杖をこんこん鳴らしながら、元気に歩き通した。お母さんが予言していたように、帰りの車の中ではよく眠れただろうね。

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-丹那断層
 コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡
 コンターサークル地図の旅-淡河疏水

 コンターサークル地図の旅-静岡・千本松原

2018年5月 4日 (金)

コンターサークル地図の旅-丹那断層

東海道本線函南(かんなみ)駅の瀟洒な駅舎を出ると、真っ青な空から降り注ぐ強い日差しに思わずたじろいだ。今年は4月を待たずに桜が見ごろになり、今や初夏どころか、真夏も間近と思わせるような陽気が続いている。大型連休初日となる2018年4月28日、コンターサークルS 春の旅本州編の初回はここ函南駅に集合して、伊豆半島の付け根を南北に走る丹那(たんな)断層の活動跡を見に行く予定だ。

Blog_contour2801
東海道本線函南駅

参加したのは真尾さん、今尾さん、中西さん、木下さん親子と私の、大5小1、計6人。2台のタクシーで、まず田代にある火雷(からい)神社へ行ってもらった。1930(昭和5)年に発生した北伊豆地震のときに、断層が境内を横断したという場所だ。

タクシーは、平井集落から熱海街道旧道(県道11号熱海函南線)で、丹那山地の前山にあたる尾根筋をぐいぐい上っていく。「乗せたお客さんに丹那断層へ行ってくれと言われることはあるが、たいてい断層公園のことで、火雷神社というのは珍しいね」と運転手さん。「神社からその公園まで歩くつもりなんです。そのほうが下り坂なので」と返すと、妙に感心されてしまった。

Blog_contour28_map1
1:25,000地形図に、歩いたルートと丹那断層の位置を加筆

地形図では、丹那山地と呼ばれる脊梁山脈の西斜面に、小さな凹地が南北に行儀よく並んでいる。いずれも断層によって形成された構造谷(断層線谷)が、火山灰や砂礫の堆積によって平底化したものだ。かつては水をたたえていたが、さらなる堆積と排水で湿地に変化し、人がこれを農地に改良した。一番北の凹地は集落の名をとって田代盆地と呼ばれ、その西の山際に火雷神社がある。

20分ほどで目的地に到着した。集落から延びる道の傍らに、小さなお社がひっそりと鎮座している。枝を広げて道の上に濃い影を作るタブノキの巨木が目を引く。石段十数段で上れるささやかな参道の隣に、断層の活動跡が保存されていた。

Blog_contour2802
火雷神社
(左)現在使われている鳥居と石段。地震後に設置されたもの
(右)ジオパーク案内板を参考に

前面にあるのが、北伊豆地震で崩れ落ちた神社のかつての鳥居だ。貫(ぬき)と呼ばれる横材の断片を付けた石柱が1本、モニュメントのように突っ立っている。対になるべき柱は、上部をへし折られた姿で敷地の端にぽつんとある。あとの部材は、すっかり苔むした状態で地面に散らばっていた。

奥に目をやると、鳥居から続いていた昔の石段がほぼ無傷で残されている。しかし、傍らに立つジオパークの案内板によれば、鳥居との間で1.4mの食い違いが生じているという。確かに石段の正面に立つと、本来、左側にあるべき鳥居の柱が石段に重なって見える。造られたときは鳥居と石段の中心線が揃っていたはずなので、向こうの地面が相対的に左へ動いたことがわかる。実際には断層を境にして、石段側が南(向かって左)へ70cm、鳥居側が北(右)へ70cmずれたのだそうだ。

Blog_contour2803
北伊豆地震でずれた鳥居と石段
(左)正面から写す。右側の石段が地震前からあるもの、左側の石段は地震後の設置 
(右)背面から写す。鳥居の部材が地面に散らばっている
Blog_contour2804
地震直後の状況
(左)火雷神社のずれた鳥居と石段。今もこのまま保存されている
(右)下山道の食い違い
伊豆半島ジオパークの火雷神社解説資料 http://izugeopark.org/geosites/karaijinja/ より

道路や水路の食い違いが横ずれの跡を示す例はほかにもあるが、近接した鳥居と石段という素人目にも明瞭な「基準点」をもつのは奇跡的だ。一同感心し過ぎたせいか、危うく社殿にお参りするのを忘れるところだった。

その後、150m南にある「下山道の食い違い」を見た。案内板には、約2.4mもの食い違いが生じ、現在も名残が認められるとあるが、道が舗装され周囲に家も建っているので、よくわからなかった。道のアップダウンから、横ずれより縦ずれではないか、と思ったくらいだ。

Blog_contour2805
(左)下山道の食い違いの現状。横ずれの跡はわからなかった
(右)鯉のぼりが泳ぐ田代集落の中心部

田代集落を通り抜けて、南へ足を向けた。道端に春の花がつつましげに咲いていて、木下さんに花の名を教わりながら行く。キリ君は、背負ったリュックからお菓子の袋を取り出すたびに、大人たちに一つずつ中身を配ってくれる。

熱海街道旧道に合した後、道は下り坂になった。熱函(ねっかん)道路の開通以後、交通量が激減したとはいえ、途中の軽井沢(かるいさわ)集落では、主要街道だった頃の名残を見ることができる。

バス停(下注)の前に、四方を自然石で固めた343.0mの一等水準点があった。一目見て真尾さんが、「この標石は新しいですね」と指摘する。昔のものなら花崗岩の柱石だが、これは金属製のプレートが埋められている。それに旧版地形図(上図参照)によれば、水準点は泉竜寺という寺の上手にあったはずだ。寺からまっすぐ山を上っていた古い街道が現行地形図では消えているから、山手に墓苑が造成されたのをきっかけに移設されたのではないだろうか。

*注 路線バスはすでに廃止され、現在は、函南中学の通学バスのための停留所になっている。

Blog_contour2806
軽井沢バス停 (左)ポストの後ろに水準点 (右)自然石に護られた一等水準点

水準点のすぐ先で、今尾さんが道端に立つ古い木の電柱を見つけた。「東京電力 堂庭独立電話線二四四」と記されたプレートの底部に「大正7年1月」の文字が読みとれる。1918年だから、まさに100年前の電柱だ。「戦前なのに左から右へ書いてますね」「理工系は英数字を混ぜるので、当時でも左から書いたんです」。三島市に隣接する清水町の役場の所在地が堂庭(どうにわ)なので、熱海街道に沿ってそこまで延びていた電話線の電柱なのかもしれない。

Blog_contour2807
100年前のプレートを付けた電柱は今も現役

軽井沢集落を過ぎ、熱海街道旧道から左へ折れると、道は丹那盆地へ向けて一気に下っていく。坂の途中の牧場では看板に乳牛が描かれていたが、胴の白黒の模様が静岡県の形になっているのが面白い。坂を下り切ったところに、この地方でよく見かける丹那牛乳ブランドの生産工場があった。あの牧場で搾った牛乳もここへ運ばれてくるようだ。私たちも隣のコンビニで直売の瓶入り牛乳を買って、乾いたのどを潤した。

Blog_contour2808
丹那盆地遠望
正面のピークが玄岳(くろたけ、標高798m)で、その右の鞍部は断層によるもの
Blog_contour2809
(左)乳牛のイラストのまだら模様に注目 (右)直売所を兼ねたコンビニでのどを潤す

酪農王国オラッチェで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。丹那盆地は、東西1km、南北1.5kmほどの広さがある。多賀火山という古火山の麓で、およそ円い形をしているので、陥没カルデラを想像させるが、そうではなく、これも断層活動による構造盆地だそうだ。その中央を、丹那断層が南北に横断している。

丹那断層公園は、盆地の南東隅の乙越(おっこし)という集落の中にあった。整備された公園で、断層が動いた痕跡が保存され、北伊豆地震発生当時の写真や地質構造図など、資料パネルも多数設置されている。芝生の上の石組みは小さな水路の跡だ。地盤の横ずれによって、クランク状に曲がった状態で残る。その北側では断層が走る地面を掘り下げてあり、地層の断面を生で観察できた。

Blog_contour2810
丹那断層公園。赤い標識が断層の位置を示す
Blog_contour2811
(左)水路跡が断層でクランク状に (右)地層の断面が観察できる施設

「丹那断層と北伊豆地震」というタイトルのパネルが、両者の関係を要約している。「北伊豆地震の規模はマグニチュード7.3、震源は丹那盆地付近の地下0~5km、震央付近の震度は6という、直下型の大地震でした。この時動いた丹那断層は、箱根芦ノ湖から修善寺町まで続く、長さ30kmの丹那断層帯の代表的な断層です。(中略)丹那断層は、このように約700~1000年の周期で活動が繰り返されてきて、1000年に2mの割合で左横ずれを続け、約50万年前から現在までに左横ずれ1km、西側地塊が100m以上隆起したと推定されています」。(原文の数字と単位を英数字に変換)

断層によって、周辺の地形は大きく姿を変えた。隆起した西の地盤は、盆地を限る低い山稜になり、今、公園から西を望むと、その山稜の上に富士山が頭だけを出している。また、かつて東から西へ直線的に流れ下っていた川は、横ずれのために流路を改めた。隆起した山稜に旧流路の跡が残っていて、東側の流路とは約1km南へずれている。

川ばかりではない。「盆地の下を通っている丹那トンネルも、横ずれの影響を受けて微妙にS字に曲がってるんです」と今尾さん。東海道本線の丹那トンネルは北伊豆地震のとき、まだ掘削中だった。本坑はまだ断層の位置まで達していなかったが、水抜き坑が塞がれるなどの被害が出た。断層を境に東西が約2mずれたため、直線で計画されたルートは内部でわずかにS字カーブを描いているそうだ。

Blog_contour2812
盆地の西を限る低い山稜と富士山

火雷神社からここまで、私たちはおおむね断層線に沿って歩いてきたことになる。実距離は4km強に過ぎないが、沿道での思わぬ発見をも楽しみながら、充実した時を過ごすことができた。時刻は早や15時を回っている。まだ陽は高いものの、標高250mほどある盆地は、日陰に入ると思ったより風が涼しい。私たちは静かな公園のベンチに腰を下ろして、函南駅へ戻るために呼んだタクシーが来るのを待った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図熱海(平成20年更新)を使用したものである。

■参考サイト
THE 函南遺産 http://kannami13.sakura.ne.jp/
伊豆半島ジオパーク https://izugeopark.org/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡
 コンターサークル地図の旅-富士山麓の湧水群
 コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡
 コンターサークル地図の旅-淡河疏水

2018年4月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

朝、JR御殿場線の上り電車に乗った。雲一つない秋晴れのもと、裾野の急坂を上っていくと、岩波駅あたりから、左前方の車窓にすっかり雪化粧を終えた富士山が顔を覗かせる。次の富士岡から南御殿場駅にかけてがハイライトだ。山体がいよいよ左正面に移動してきて、朝陽に照らされた優美な姿が窓枠いっぱいに展開する。

Blog_contour2701
御殿場線の車窓から見る朝の富士(富士岡~南御殿場間)

2017年11月25日のコンターサークルSの旅は、この御殿場線沿線に残る昔の複線跡がテーマだ。今でこそ地元密着型のローカル線だが、よく知られているようにこの路線は、1889(明治22)年の開通から丹那トンネルが完成するまでの45年間、東海道本線の一部だった。「燕」や「富士」「櫻」のような戦前を代表する長距離特急が疾駆し、主要幹線として全線が複線化されていたのだ。しかし、熱海回りのルートが1934(昭和9)年に開通すると、その地位から降ろされ、さらに太平洋戦争中にレール供出のために単線に戻されてしまった。

線路は撤収できても、トンネル、橋脚、橋台などおいそれとは移動できない構築物がある。堀さんは、著書『地図のたのしみ』(1972年)の中で、そうした複線時代の遺構が数多く存在することを書き留めている(下注)。元の記事は1964年に雑誌「鉄道ファン」で発表されたものだから、現地取材は50年以上前のはずだ。果たして今はどうなっているのだろう。私たちは堀さんに案内してもらったつもりで、沿線を旅することにした。

*注 『地図のたのしみ』p.146~(2012年新装新版ではp.153~)「四 地図に見る鉄道今昔 2 小田原付近と御殿場線」

Blog_contour27_map1
御殿場線(国府津~沼津間)のルート
1:200,000地勢図に本稿関連の駅名を加筆

電車は酒匂川(さかわがわ)の深い渓谷を通り抜けて、山北駅に9時50分に着いた。ここは東海道線時代に、箱根越えの前線基地として列車運行を支えた駅だ。駅前広場には、大出さんと石井さんが車で来ていた。

今日の行程を相談しているとき、石井さんが「古い地形図に、山北駅から南へ曲がっていく線路が描いてあるんですけど、これは何ですか」と聞く。明治中期の地形図(下図左参照)では確かに、駅から出た線路が南へ鋭くカーブし、山に突き当たって途切れている。「鉄分の濃いお二人ならご存じじゃないかと思って…」。しかし悔しいかな、私たちは線路の正体を知らなかった。

Blog_contour27_map2
山北駅周辺の地形図
(左)1896(明治29)年の1:50,000地形図
(右)現行1:25,000地形図(2014(平成26)年)。加筆した赤枠が線路跡地で、今も宅地がこの形に並ぶ

手がかりを求めて、山北町の鉄道資料館へ行ってみることにした。広場の東に建つふるさと交流センターの2階で、今年(2017年)8月にオープンしたばかりだ。開館時間前だったが、係の方が開けてくださった。山北が鉄道の町だったことを物語る貴重な資料や写真を見ていくうちに、まさに疑問に答えてくれるパネルがあった。

Blog_contour2702
山北駅 (左)構内で静態保存されているD52 70 (右) 山北町鉄道資料館の展示

そこには「緊急避難線(キャッチサイディング)」と書いてある。坂を下りてくる列車がブレーキ故障などで暴走した場合に、本線から逸らせて停止させるための設備で、昔は勾配区間にしばしば設けられていた。「でもどうしてこんなにカーブしてるんでしょうね。停まる前に脱線してしまいませんか」と石井さんが畳みかける。そこで資料館を辞した後、現地を見に行った。

Blog_contour2703
山北駅扇形庫の左上から延びる切妻屋根の縦列がキャッチサイディング跡
(山北町鉄道資料館の展示を撮影)

駅の東南の、町役場や生涯学習センターが建っている敷地には、かつて補助機関車を格納する扇形機関庫があった。その一角から南向きに右カーブしている宅地の列が、キャッチサイディングの跡らしい。宅地に沿って狭い道路が、国道246号線をアンダークロスした後も続いている。敷地は室生神社の境内をかすめて、なおも山手へ進み、斜面に阻まれる形で終わっていた。歩いてみると、末端に向かってかなりの上り勾配であることが実感される。「これなら脱線する前に、列車は失速しますね」。

Blog_contour2704
キャッチサイディング跡をたどる
(左)国道の南側から駅方向を望む。道路と右の宅地が跡地
(右)山際付近。左手前から左奥にかけての住宅の列が跡地

Blog_contour27_map3
トンネルと橋梁が連続する山北~駿河小山間
1:50,000地形図に加筆

所用のために戻る石井さんを見送って、大出さんと私は、予定の複線跡を探しに西へ向けて出発した。まず、国道から右に折れ、旧道(現 県道76号山北藤野線)に入ってすぐ、箱根第一号と第二号、2本のトンネルの間の橋梁が見える場所に、車を停める。フェンスがあって中に立ち入れないものの、トンネルは塞がれておらず、橋桁(ガーダー)もしっかり残っている。

現在、山北~谷峨(やが)間は、北側の旧 上り線が現役だ。しかし、さっきの資料館の展示によれば、1943(昭和18)年の単線化では、南側の旧 下り線に列車を通したのだそうだ。ところが、1968(昭和43)年の電化に際して、使われていなかった旧 上り線でトンネル断面の拡張工事を実施し、架線を設置した。このため、旧 上り線が現役に復帰し、代わりに旧 下り線が廃線になった。堀さんが訪れたのは電化前なので、ディーゼルカーは、今はなき南側の線路を走っていたはずだ。

Blog_contour2705
(左)左のトンネルポータルが箱根第二号の旧下り線
(右)箱根第一号、第二号トンネルの間に残る旧線ガーダー

第一酒匂川橋梁の脇にも、橋台が残っているのを確認してから、同 第二橋梁のほうへ回った。旧道は、線路を俯瞰するような高い位置を通っているので、集落に通じる細道を降りる。ここは複線仕様の橋脚が残っていた。石積みの橋脚を煉瓦で現在の線路面近くまでかさ上げしているから、昔は下路ガーダーが架かっていたのだろうか。

Blog_contour2706
第二酒匂川橋梁を俯瞰
Blog_contour2707
複線仕様の橋脚が残る第二酒匂川橋梁

昼食の後、谷峨駅を経て、今は無き第一相沢川橋梁(下注)の近くに車を置いた。1889年の開通時は単線だったので、第一相沢川橋梁で川の左岸、つまり北側に渡り、(旧)箱根第六号トンネルを経て、第二相沢川橋梁で右岸に戻っていた(下図上参照)。1901(明治34)年の複線化では、この1km足らずの区間だけ腹付け(隣接して敷設)ではなく、対岸を2本のトンネルで通過する別ルートとされた(下図中)。つまり、ここでは上下線が川を挟んで走っていたのだ。戦時中の単線化では旧 下り線(南側)が生かされたが、戦後の電化でも、山北~谷峨間のように旧 上り線が復活することはなかった(下図下)。

*注 川の名は現在、鮎沢川だが、鉄橋名は相沢(相澤)川とされている。

Blog_contour27_map4
谷峨駅西方の線路の変遷
(上)初期の単線時代 1896(明治29)年 1:50,000地形図
(中)複線時代 1921(大正10)年 1:25,000地形図
(下)単線化後 2014(平成26)年 1:25,000地形図

堀さんは、谷峨駅で下車して付近を歩いている。「(旧 第五号トンネルの西口から)川の方を見ると、大きな橋脚が一本河原に立ち、その向こうに対岸の橋台とそれに続く築堤があって、さらにその向こうに短いトンネルが望見された」(『地図のたのしみ』p.156)。

谷峨駅に通じる旧 第五号トンネル西口は今も確認できるが、川の中に橋脚は見当たらず、短いトンネル(旧 第六号)もすでに跡形すらない。おそらく国道の拡幅改良工事で、痕跡はほぼ完全に道路の下に埋もれてしまったようだ。

「北側の切通しを抜けると、左側の高みに登っていく細い道(中略)が分れている。それを入ってゆくと、左に鮎沢川を見下ろし、対岸に山腹をゆく御殿場線を望み、右に旧上り線の切り取りの跡を見下ろす、眺めのよい場所(中略)に出た」(同書p.156)。少しは期待していたのだが、この無名の展望地も道路工事の犠牲になったとおぼしい。

「もう少し先で対岸に渡る橋があるので、そこまで行ってみましょう」。大出さんと相談して、徒歩で向かう。それは、川沿いの小さな工業団地へ行く橋だったのだが、そこから右手に、第二相沢川橋梁の橋台が確認できた。両岸の取付け部分はすっかり工場の敷地に取り込まれたが、石積みの橋台だけが両岸から、まるで昔話を交わすかのように向かい合っているのだ。午前中からいくつか見てきた遺構の中で、この光景は特別印象的だった。

Blog_contour2708
第二相沢川橋梁
(左)両岸に残る橋台(矢印の位置)
(右)左岸(北側)の橋台。背後は工場敷地に埋もれている

車に戻って、再び西へ走り出す。駿河小山(するがおやま)駅へ通じる第一小山踏切から、箱根第七号トンネル西口の石積みポータルが間近に見えた。トンネルが連続する渓谷区間はこれが最後だ。線路はまだしばらく鮎沢川の谷間をくねっているが、谷は次第に浅くなり、やがて空の広い富士の裾野に出ていく。

Blog_contour2709
(左)箱根第七号トンネル西口。左側に旧上り線のポータルが見える
(右)足柄駅北方にある第五相沢川橋梁。ここも橋脚は複線仕様

「あと、どこか見るところありますか」と、大出さんが聞く。私は朝の上り電車の車窓を思い出していた。「複線跡じゃないんですが、富士岡駅のスイッチバックの築堤はどうでしょう」。富士岡駅は、1911(明治44)年に信号場として開設されたが、25‰の急勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックが採用された。坂道発進が困難な蒸気機関車のために、本線に並行して堤を築き、発進用の水平な線路を造ったのだ。電化に伴い、線路は撤去されてしまったが、高堤防と呼ばれた築堤だけはそのまま残されている。これも、主要幹線だった時代の貴重な遺構だ(下注)。

*注 同様の築堤が次の岩波駅にもある。

Blog_contour2710
富士岡駅で交換するJR東海313系
Blog_contour2711
富士岡駅のスイッチバック線跡、通称 高堤防
(左)駅のある北方向を望む (右)南方向。築堤末端ではかなりの高低差がつく

駅の南の住宅街を縫う小道をたどり、踏切を渡ってこの築堤に上がった。傾きかけた陽が雪の山襞に隈取のような影を加えて、富士が朝とはまた別の美しさを放っている。入口の案内板には、「富士見台(高堤防)」の名とともに、「富士見台という地名は数あれど最高の眺めを得られるのはここです」と誇らしげに記してあった。容赦なく視界を横切る新東名の巨大な高架がいささか目障りだが、それも現代的な小道具と思えば、確かにここは絶景だ。

堀さんは、谷峨で旧線跡を訪ねた後、再び下り列車を捕まえて、そのまま沼津まで乗り通したようだ。富士はそのとき、ディーゼルカーの車窓にどんな姿を映していたのだろうか。

Blog_contour2712
高堤防から望む富士

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図山北(大正10年測図および平成26年12月調製)、5万分の1地形図松田惣領(明治29年第1回修正)、秦野(昭和47年編集)、山中湖(平成2年修正)、20万分の1地勢図東京(平成3年要部修正)、横須賀(昭和55年編集)、甲府(昭和55年編集)、静岡(昭和55年編集)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道
 コンターサークル地図の旅-丹那断層
 コンターサークル地図の旅-富士山麓の湧水群

2017年12月19日 (火)

コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月5日、札幌は最低気温が4度まで下がった。昨日は曇り空に木枯らしが吹いて、道庁の庭に散り敷いた黄葉の絨毯を舞い上がらせていたが、今朝はもはや初冬の風情だ。札幌駅8時43分発の小樽行き普通列車に乗る。車内は混んでいて、途中駅での動きも少なく、結局ほとんどの人が小樽まで乗り通した。出口へ向かう人の波を見送って、私はさらに気動車に乗り継ぐ。

Blog_contour2601
初冬の積丹海岸、泊村茂岩にて

集合場所の余市(よいち)駅前には、堀さん、ミドリさん、河村さん、片岡さんがすでに到着していた。列車で来た真尾さんと私を加えて総勢6人。3台の車に分乗して、国道229号線を積丹(しゃこたん)半島西岸へ向かう。精力的に実施されてきたコンターサークルS道内の旅も、今年はこれが最終回になる。神恵内(かもえない)村の大森山道と泊(とまり)村の海のモイワが、本日の目的地だ。

Blog_contour2602
余市駅 (左)改築された駅舎 (右)駅前に集合した面々

Blog_contour26_map1
積丹半島の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

私は片岡さんの車に乗せてもらった。古平(ふるびら)からは、近道になる道道998号でトーマル峠を越える。半島を横断するこの峠道は標高が600m以上あり、周囲は早くも雪景色だ。神恵内(かもえない)で国道に復帰して海岸線を北上し、山際に道の駅が見えたところで、目指す大森トンネルに入った。2007(平成19)年に開通した新しいトンネルで、長さは2,509mある。

半島の海岸線をぐるりと回る国道229号は、夕陽のきれいな海景ルートとして人気が高い。反面、地形的には非常に厳しく、険しい断崖がどこまでも連なり、日本海の荒波に洗われている。そのため、1982(昭和57)年にトーマル峠越えのルートから指定替えされて以降も、国道はしばらく未完のままだった。最後まで残った積丹町沼前(下注)~神恵内村川白(かわしら)間が開通したのはわずか20年前、1996(平成8)年のことだ。

*注 沼前は、旧図に「のなまい」の読み仮名が振られているが、地理院地図によれば現在は「ぬままえ」と読むようだ。

大森トンネルを含む大森~珊内(さんない)間はそれ以前に道路が通じていたが、ルートには変遷がある。現ルートは3代目に当たり、その前は、南から順に旧 大森トンネル、大森大橋、とようみトンネル、ウエンチクナイトンネルとつなぐ旧道があった(下図の第2段参照)。旧道といっても、1985(昭和60)年開通の立派な二車線道だ。

Blog_contour26_map2
大森トンネル前後のルート変遷

ところが不幸なことにこの2代目は、2004(平成16)年9月に襲来した台風18号の波浪で途中の大森大橋が損壊し、通行不能になってしまう。12月に仮復旧した(上図第3段)が、最終的に、別途山側に掘ったトンネルを既存のウエンチクナイトンネルとつなげる形で、2007(平成19)年3月に現在の大森トンネルが完成して(同 第4段)、2代目ルートはあえなく廃道となった。

この新道、旧道に対して、初代の自動車道路は海際を避けて、標高約150mの高みを通っていた(同 第1段)。ルートはまず、大森集落の北のはずれで大森山の斜面をゆっくり上るところから始まる。断崖より上の山襞を4本の短いトンネルで貫いた後、キナウシ川の谷に沿って降下する。しかし、降りきる手前でキナウシ岬をトンネルで抜け、それからおもむろに海岸線に達する。それが、これから歩こうとしている大森山道だ。なお、旧版地形図には、それより古い山越えの徒歩道が描かれており、こちらを山道と呼ぶべきかもしれないが、それは別の課題として…。

Blog_contour26_map3
現行の地理院地図(1:25,000、2017年12月取得)に、歩いたルートを加筆
Blog_contour26_map4
上記と同範囲の1:25,000地形図、2005(平成17)年および2006(平成18)年更新
大森大橋が仮復旧していた時期のもの。図には、ウエンチクナイトンネルの延長によって廃止された2代目ルートの痕跡が残っている。

私たちは、大森トンネルを出てすぐの空き地に車を停めた。山を下ってきたキナウシ川が海に注ぐ場所だが、高い防波堤に遮られて、道路から海はまったく見えない。向いには次のキナウシトンネル(長さ1,008m)が口を開けている。

面白いことにキナウシトンネルは、先代、先々代と3代のポータルが斜面に仲良く並ぶ。大森トンネルの北口が旧 ウエンチクナイトンネルのそれをそのまま利用しているのに対して、キナウシトンネルは、ルートが変わるたびに新たに掘られたからだ。供用中の3代目(2002(平成14)年竣工、2003(平成15)年開通)に対して、その海側で完全封鎖されているのが2代目、上方の、バリケードがあるものの本体は無傷なのが初代のトンネルだ。

Blog_contour2603
3代のキナウシトンネルが並ぶ光景
現 3代目トンネルの左に封鎖された2代目、上方に初代が残る

時刻は12時少し前。このとき神恵内の気温は6.8度だったのだが、海辺は強い風が吹き付けていて、体感温度はもっと低い。「寒いのは苦手です」という堀さんはミドリさんの車に残り、あとの5人で旧道のようすを探りに出かけた。

現行の地理院地図には描かれていないが、2010(平成22)年3月完成の大きな砂防ダムが谷をまたいでいる(下注)。そのため、山道の新道接続部は完全に消失していた。ミドリさんがさっさとダムの脇の法面をよじ登っていったので、私たちも草をかき分けながら後を追う。幸いにもダムの上流ではもとの山道が残っていた。轍の跡以外はススキその他の丈高い草が茂っているが、冬枯れしていて歩くのに支障はなさそうだ。

*注 上図では、3か所のダムの概略位置を加筆した。

いったん車のところまで下りて、作戦会議を開く。日の短い時期で、全線踏破するには時間が足りないことから、目標を山道のトンネルの現況確認に絞ることになった。

Blog_contour2604
(左)砂防ダムで付近の山道は消失 (右)ダム側からの眺め
Blog_contour2605
(左)砂防ダム上方、海岸へ降りる道と初代キナウシトンネル方面への分岐点
(右)冬枯れの山道をたどる

Blog_contour2606

堀さんは、過去に二度、サークルのメンバーとここを訪れている。最初は1989年5月と8月で、『忘れられた道-北の旧道・廃道を行く』(北海道新聞社、1992年)の冒頭にそのレポートがある。新道への切り替えから4年後だが、掲載写真で見る限り、足元に雑草は生えているものの、路面はいたって明瞭だ。

二度目は12年後の2001年5月で、自費出版の『北海道の交通遺跡を歩く』(コンターサークル、2003年、p.60~)に出てくる。堀さんの記憶では、このときもまだ普通に通れたそうだ。

山道が寸断されたのは、主に砂防ダム工事が原因だろう。歩いていくと、キナウシ川を渡る最初の橋は問題がなかったが、上流にある砂防ダムの手前で道は途切れてしまい、少しの間、藪をかき分けながら、あるかなしかの踏み分け道をたどらなければならなかった。

Blog_contour2607
上流の砂防ダム。左は帰路写す

さらにその先、第二の橋のあるところでは川筋が移動していた。橋の下を流れていたはずのキナウシ川が、橋の手前を横切り、そのために山道がまるごと流失していたのだ。「昭和35年10月竣工」の銘板をもつ親柱が残っているとはいえ、橋はもはや何の役割も果たしていない。川にはそれなりの水量があったが、山歩きに慣れている片岡さんが、川幅が最も狭まるところを見極めて、ひょいと渡った。私たちも後に続き、足を濡らしながらもどうにか難所を通過した。

Blog_contour2608
第二の橋
(左)川筋の移動で山道が流失。奥に見えるのが山道の続き
(右)沢渡りの場所にあったハクション大魔王の壺?

そのあとは再び歩ける道になった。枯草と落ち葉に覆われているものの、もとの道幅がわかる程度に空いている。第三の橋は欄干こそ壊れていたが、路面は無事で、「キナウシ」と川の名を記した看板が道の脇に埋もれていた。ここで谷を折り返して、今度は左岸の斜面を上っていく。川際と沢の横断で2か所流されていたのを除けば、道は谷沿いよりはるかに原形をとどめていた。崖に張られた防護ネット、ガードレール、カーブミラー、道路標識、砂箱と、置き去りにされた現役時代の証人が次々と現れて、私たちを喜ばせる。

いくつか切通しを抜けたところで、枯れ枝越しに白くかすむ海原が俯瞰できた。ずっと上り続けてきて、標高はすでに130~140mある。

Blog_contour2609
道のない斜面を横渡り(第三の橋の直後)
Blog_contour2610
切通しは当時のまま残る
Blog_contour2611
現役時代の証人 (左)防護ネットとガードレール (右)曇りなきカーブミラー

やがて、目指していたウエンチクナイ4号トンネルが視界に入ってきた。近づくと、コンクリート製のしっかりしたポータルで、内部も荒れておらず、30年以上も放置されていたとは思えない。河村さんがトンネル名称を記した看板が落ちているのを見つけて、撮影用にセットする。最も長い4号がこれだけしっかり残っているのなら、残り3本の状況も期待できそうだ。しかし、復路に必要な時間も考えて、今回は4号の南口を確かめただけで引き返した。

Blog_contour2612
ウエンチクナイ4号トンネル北口

戻りがてら、初代キナウシトンネルの様子を見に行った。ポータルの仕様は4号トンネルと同じなので、同時期に一連の工事で造られたものだろう。北口はオーバーハングした断崖の真下で、頼まれても長居はしたくないような場所だった。崖下に沿って草に覆われた狭い段丘のような地形が続いていたが、山道の跡なのか、それとも2代目道路の覆道の屋根なのか、判然としない。

Blog_contour2613
(左)海に臨むキナウシの断崖 (右)初代キナウシトンネル北口

車に戻ったのは15時に近かった。堀さんを残して2時間半も出かけていたことになる。ミドリさんが「長い間、車に閉じ込めてしまって」と謝ると、堀さんは笑って「いや、かえってその間、開放してもらったようなもんです」。

持参した軽食でとりあえず空腹を満たしてから、次の目的地、泊村の茂岩(もいわ)へと車を進めた。それは長いトンネルを出た先にある小さな浜集落で、正面の海岸に兜をかぶったような形の大きな岩山が鎮座している。弁天島と呼ばれるが、「茂岩の名はここから来ていると思います」と真尾さん。アイヌ語でモ・イワは小さい山を指し、さらにイワには神聖な山という含みがある。今は弁天様(弁財天)にすり替わってしまったが、アイヌの人々もこの孤高の岩山に神が宿ると考えたのだ。

Blog_contour26_map5
茂岩周辺の1:25,000地形図、2006(平成18)年更新。青円内が弁天島

おりしも低く垂れこめた雲の間から太陽が顔をのぞかせ、鉛色の海原を朱く照らし出した。傍らに立つ神の岩が、そのシルエットをひときわ濃くする。夕陽のきれいな積丹半島が見せてくれた最後の挨拶。目の前に広がる荘厳なメッセージに、私たちは寒さも忘れて、しばらくその場に立ち尽くした。

Blog_contour2614
海原を照らす夕陽と神の岩のシルエット

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図珊内(昭和51年修正測量、平成17年更新)、ポンネアンチシ山(昭和51年修正測量)、神恵内(昭和51年修正測量、平成18年更新)、20万分の1地勢図岩内(平成18年編集)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

2017年12月10日 (日)

コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点

本日のテーマは3つの都府県が境を接する地点、いわゆる3県境会合点だ。こうした会合点は全国で48か所(和歌山県の飛び地に関する4か所を含む)を数えるが、ほとんどが山中か、そうでなければ水面上にある。行政界は稜線や川など自然の境界に設定されることが多いから、当然だろう。一昨年訪れた京都・大阪・奈良の会合点などはまだ到達が容易なほうだったが、それでも藪蚊の猛攻撃をかわしながら、雑木の茂る里山に分け入る必要があった(下注)。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点」参照。

ところが全国で唯一、平地の会合点も存在する。栃木・群馬・埼玉3県境のそれだ。渡良瀬(わたらせ)遊水地近くの田んぼの中に、その旨を示す標識杭が打たれているという。本日10月9日はまずここを目指し、周辺を歩く予定だ。ついでに近辺にある茨城・栃木・埼玉の会合点、さらに茨城・埼玉・千葉の会合点(どちらも川の中)にも足を延ばそうと思う。

Blog_contour2501
三県境界に設置された測量標。中央の+の位置が会合点

Blog_contour25_map1
古河周辺の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

東北本線(宇都宮線)の古河(こが)駅西口で、真尾さんのレンタカーに拾ってもらった。参加者はこの二人だけだ。古河の旧市街を抜け、渡良瀬川に架かる三国橋を渡って右へ。見通しのいい渡良瀬遊水地の堤防道路を北上する。昨日から続く好天で、青空がまぶしい。

この道は県道9号佐野古河線(下注)だが、県境を次々と越えていくことで知られている。三国橋の上で茨城県から埼玉県に入るが、約3kmで栃木県に移り、さらに群馬、埼玉、群馬、栃木と目まぐるしく変わる。ご丁寧にも、境界をまたぐたびに県名と市町村名を掲げた道路標識(白看)が立っている。道路は気持ちよく伸びているので、県境のほうが複雑に入り組んでいることがわかるが、なぜこんなことになったのだろうか。

*注 加須市柏戸~古河市街(本町二丁目交差点)間は国道354号線と重複している。

Blog_contour2502
県道9号佐野古河線を北上
遠方に「道の駅きたかわべ」の特徴的な建物が見える区間で県名標識が林立する
(左)栃木県栃木市 (中)群馬県板倉町 (右)道の駅の入口で再び埼玉県加須市
Blog_contour2503
道の駅施設の屋上から望む渡良瀬遊水池(谷中池)

下図で、この周辺の今昔を比較してみよう。左は今から110年前、1907(明治40)年の5万分の1地形図を拡大したもの、右は現行1:25,000地形図だ。左図では北西から流れてきた渡良瀬川に、西から谷田川(やたがわ)が合流している。渡良瀬川はこのあたりで大きく蛇行しており、「海老瀬(えびせ)の七曲り」の呼び名があった。3県の境界は川の流路上に設定されていたので、川の合流地点がすなわち3県境会合点だった。

1910(明治43)年から、洪水制御の名目で渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり、1918(大正7)年に現在の東寄りの流路に付け替えられた。蛇行していた旧流路は、後に遊水地の造成工事で出た土砂を盛って、耕作地に整備された。しかし、県境は変更されなかったので、結果的に、県境を堤防道路が串刺しするような状況が出現したのだ。3県境会合点が田んぼの真ん中に残されたのも、同じ理由だ。

Blog_contour25_map2
栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大
(右)1:25,000地形図(平成29年)。いずれも県境を赤のマーカーで強調。現在の県境が旧河道をなぞっていることがわかる

車の行く手に、「道の駅きたかわべ」の建物が見えてきた。きたかわべ(北川辺)は、加須(かぞ)市に合併する前の旧町名だ。目的地に近いので、車を停めさせてもらう。連休中とあって、お昼前でも駐車場は満車寸前で、特産品売り場もよく賑わっている。建物の屋上に出て、広々と明るい遊水池(谷中池)の展望を楽しんだ後、いよいよ県境探索に出発した。

実は真尾さんは、すでに二度ここを訪れている。初回は個人で、二回目は2014年10月11日に堀さんを含むコンターサークルのメンバー5名とともに。「あのときも会合点には行ったんですが、周りの入り組んだ県境は歩いてないんです」。再々訪の目的はそれを貫徹することだ。私は私で、前回の旅を仕事の都合で欠席したので、初の踏査を楽しみにしている。

■参考サイト
コンターサークルS前回の訪問記「関東内陸の3県境を訪ねる」
https://ameblo.jp/chizumania/entry-12006028049.html

Blog_contour2504
道の駅から3県境会合点を望む。県境を白線で加筆

Blog_contour25_map3
栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の1:2,500都市計画基本図に加筆
画像は105dpi相当。加須市刊行図のため、空白となる他市町域は1:25,000地形図で補った。図中のA~Iは以下の写真の撮影位置

「境界を歩くために、秘密兵器を用意してきました」と、私は加須市の1:2,500都市計画基本図(上図)を広げた。これなら、1:25,000地形図で描ききれない田んぼの畦道や細かい水路もしっかり載っている。地図に従って、道の駅の南側の法面を降りた。小道の脇に県境が走っているはずだ。しかも、北西に埼玉、南東に群馬という地理感覚を混乱させる配置なので、二人で交互に2県を股にかける記念写真を撮った。このユニークな県境は、畦道にはさまれた溝となってさらに南へ250m続く。途中、溝の北西側に「北川辺町」の標石を見つけた。

Blog_contour2505
サイクリストが県境を越える(背景は渡良瀬遊水池(谷中池)、上図のA地点)
北西に埼玉県、南東に群馬県(!)
Blog_contour2506
埼玉・群馬県境
(左)右足は群馬、左足は埼玉に(B地点) (右)県境の北西側に旧 北川辺町の標石

車道に接近する一歩手前、コスモスが風に揺れる草道と出会う地点で、県境は東へ向きを変える。さっきよりはやや深い水路に沿って200m弱進むと、県境は、東西に延びる新設の街路と二度クロスする。この街路の南側にはみ出した部分は、三角形の公園に整えてあるのがおもしろい(下注)。さらに草をかき分けながら住宅裏の畦道をたどっていくと、目標の地点が見えてきた。

*注 1:25,000地形図ではこのはみ出し部分を長く描きすぎている。会合点の位置もあいまいだ。

Blog_contour2507
埼玉・群馬県境
(左)南北に延びる農道の右側が県境(C地点)
(右)群馬県域に含まれる三角公園(D地点)

変哲のない田園地帯というのに、何人か先客の影がある。それもそのはず、今やこの3県境会合点は、にわか観光スポットになっているのだ。道の駅には案内パンフレットが置いてあったし、私たちがここに滞在した短い間だけでもグループが2組現れて、順番に写真に収まっていた。自撮り用にと、スマホやカメラを置く台まで作ってある。

Blog_contour2508
(左)県境の水路の先の会合点には先客が(E地点)
(右)道の駅にある3県境のPRコーナー

当の会合点は、小さな水路がT字状に交わる地点で、水路の中に「三県境界」と刻まれた測量標が設置されている(冒頭写真)。水準点に使われるのと同様の、金色に光る立派なものだ。「地元の方が作った立札は3年前もありましたが、測量標はなかったですよ」と驚く真尾さん。パンフレットには、昨年(2016年)1月から3月にかけて県境の改測が実施され、その際に、ここで以前入れられたと思われる杭が発見されたとある。この測量標はそれに代わるものらしい。しかし見物客にとっては、溝に隠れた測量標より、目立つ手製の立札のほうがむしろいいようだった。

Blog_contour2509
栃木・群馬・埼玉3県境会合点

私たちは会合点から延びる小水路、すなわち栃木・埼玉の県境を東へたどることにした。渡良瀬川の旧流路をなぞっているから、緩く左にカーブするのはわかるが、なぜか栃木側がやや高い。住宅の裏を縫うようにして進むと、堤防の手前で資材置き場のフェンスに阻まれた。この平行四辺形の造成地は2県にまたがっている。

次に堤防下の側道を遡上し、栃木・群馬県境となった旧流路跡の小水路に沿って、会合点に戻った。さっきいた人たちとは別のグループが来ている。なかなかの人気だ。通りがかりの人の話では、3県境がマスコミにも取り上げられた去年はもっと多かったらしい。

Blog_contour2510
栃木・埼玉県境
(左)こちらも小さな水路が県境(F地点) (右)集落入口、堤防際に建つ祠(G地点)
Blog_contour2511
栃木・群馬県境
(左)カーブミラーには藤岡町(現 栃木県栃木市)と記載。道路標識は群馬県板倉町(H地点)
(右)栃木・群馬県境の小水路をたどって会合点に戻る(I地点)

一つ目の会合点と県境探索を完遂した私たちは、道の駅に戻って、次の目的地である茨城・栃木・埼玉3県境会合点へ車で移動した。県道9号を古河のほうへ戻り、遊水地と渡良瀬川を区切る堤防の水門脇に出る。会合点があるのは渡良瀬川の水面上だ。河川改修以前は、ここで渡良瀬川に思川が合流していた。旧版地形図(下図左)に描かれたとおり、三国橋はこの場所に架かり、文字通り下総(下注)、下野、武蔵の三国を渡っていたのだ。堤防の天端に立つと、対岸のゴルフ場と古河市街が望めるが、その手前にあるはずの肝心の水面は、ススキその他背の高い草の陰に隠れて、ほとんど見えなかった。

*注 古河(旧 猿島郡古河町)は茨城県だが、下総国に属する。

Blog_contour2512
遊水地堤防から茨城・栃木・埼玉3県会合点を望む
しかし会合点のある水面はほとんど見えない

Blog_contour25_map4
茨城・栃木・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

三つ目の会合点へ赴く途中、加須市伊賀袋(いがぶくろ)に残された河跡湖(三日月湖)に寄り道した。渡良瀬川の旧河道で、ふれあい公園の名で周囲と併せて整備されている。湖といっても泥に覆われてまるで干潟のようだが、申し訳程度に流れる水でも、逆光で眺めると、悠然たる大河の気配を漂わせるから不思議だ。「渡良瀬川本流だったときは、ここに県境が通ってたんです」と真尾さん。確かに、遊水地周辺とは違って、県境が新しい渡良瀬川に沿っている。かつて茨城県(猿島郡新郷村)だった伊賀袋は、河川改修後の1930(昭和5)年、地続きになった埼玉県(北埼玉郡川邊村)に編入されたのだ。

Blog_contour2513
公園に整備された伊賀袋の河跡湖

Blog_contour25_map5
伊賀袋周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

国道354号線を東へ進み、境大橋で利根川を渡って、かつて水運で栄えた関宿(せきやど、現 千葉県野田市)へ。江戸川沿いに建つ関宿城博物館で、河川改修の歴史展示を見た後、茨城県五霞(ごか)町へ回って、江戸川の堤防の上に立つ。茨城・埼玉・千葉の会合点はかつて権現堂川、逆川、江戸川の合流・分流点だったところで、今も江戸川の水面上だ。最高気温26度と10月にしては暑い一日だったが、さすがに堤の上は心地よい風が吹き通っている。合流点の向こうに顔をのぞかせる関宿城の模擬天守、そのちょっと意外な構図をカメラに収めて、本日の全行程を終了した。

Blog_contour2514
江戸川の中の茨城・埼玉・千葉3県会合点。正面奥に関宿城博物館の模擬天守

Blog_contour25_map6
茨城・埼玉・千葉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成11年)

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図古河(平成29年8月調製)、下総境(平成11年修正測量)、宝珠花(平成11年修正測量)、5万分の1地形図古河(明治40年測図)、水海道(明治40年測図)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)および加須市都市計画基本図No.2(縮尺1:2,500)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

2017年12月 4日 (月)

堀淳一氏を偲ぶ

物理学者、地図エッセイストであり、コンターサークルSの創始者でもある堀淳一さんが、2017年11月15日、冥界へと旅立っていった。

実は堀さんには、11月初旬に北海道でお目にかかったばかりで、5日はコンターサークルSの旅で積丹半島に出かけ、翌6日はご自宅に伺って地図談議に花を咲かせた。1926年生まれの御年91歳だが、頭脳は常に明晰で、収集した膨大な数の地図を肴に、四方山話はいつまでも尽きなかった。

それだけに、亡くなったと聞いても俄かに信じることができなかったのだが、先日サークルのメンバーと最後のお別れに参列したことで気持ちに区切りがついた。私が堀さんの面識を得てからまだ4年足らずだが、『地図のたのしみ』(下注)以来の読者だったこともあり、敬愛する著者の最晩年に接した思い出を少し語ろうと思う。

*注 『地図のたのしみ』は1972年初版で、日本エッセイストクラブ賞受賞作。私の手元にあるのは1973年1月発行の9版。

初めて生身の堀さんに会おうという気になったのは、私が所属していた海外鉄道研究会の席で、先輩会員のNさんが「今度、堀さんが関西に来ますよ」と声をかけてくれたのがきっかけだ。NさんはコンターサークルSの会員でもあり、私が堀さんの本を読んでいることを知っていた。

ずっと後で堀さんに、なぜもっと早く現れなかったのか、と問われたことがある。コンターサークルSの活動のことは知識があったものの、北海道が活動拠点で、メンバーも道内の人たちなのだろうと、漠然と考えていたというのが唯一の理由だ。実際には本州在住のメンバーも多数いて、本州を巡る旅では主に堀さんとその人たちが動いている。

Nさんからもらった旅程表は、堀さんの自筆だった。このときはまだ堀さん自身で旅のテーマを決め、列車でアプローチする場合の集合場所と時刻を書いたものを、メンバーに送っていたのだ。その記述に従って、2014年のゴールデンウィークのさなか、京都北部の東舞鶴駅へ一人で出かけた。

サークルの旅に参加するのに事前連絡は不要で、誰が来るかは当日その場でないとわからない。私にとっては著書にある小さな顔写真の記憶だけが頼りだが、白い顎鬚を伸ばした仙人のようないでたちで改札を出てこられたので、難なくわかった。その後のことはブログ(下注)に書いたとおりで、この日はたまたま他に同行者がなく、堀さんと二人行という、長年のファンにとっては夢のような旅になった。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」に記述。

舞鶴へ行った翌日の旅は、滋賀の百瀬川扇状地が舞台だった(下注)。ここで以前からのサークルメンバーとも初めて会うのだが、私はこの川の上流の河川争奪について書かれている『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)を持参して、ちゃっかりサインをもらったのを思い出す。帰りは、堀さんが宿をとっている近江八幡まで電車でご一緒した。現地へ車で来るメンバーも多い中で、堀さんと私は基本的に列車移動なので、以降の旅でも行き帰りの車内で話をする時間がたっぷりあった。

*注 「コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地」に記述。

そうした機会に、ずっと疑問に思っていたことを聞いたことがある。「文章の中に色の名前がたくさん出てきますが、あれは現地でメモしておられるんですか」と。堀さんが言うには「いや、撮ってきた写真を後で色名事典で照合しながら書いてるんです。赤、黄、緑だけではおもしろくない。緑色と言ってもいろんな緑がありますからね。それを書き分けたいので」。その答えに、目にした情景を正確に表現するという信念を見た気がしたものだ。

堀さんの文章は、地元北海道を題材にしたものが圧倒的に多い。その雰囲気を味わいたくて、道内の旅にも何回か参加した。昨年5月に行ったときは、旅の前日に二人で、環状線化された札幌市電に乗り(下注)、行きつけのレストランで昼食をとった。食後に紅茶を注文した堀さんは、飲む前に砂糖をスプーン3杯注いだ。驚いている私に、「『先生、入れ過ぎでは?』とウェイターが言うんで、『市販のジュースはもっと砂糖が入ってるよ』と言い返したことがあるんです」と笑った。

*注 「新線試乗記-札幌市電ループ化」に記述。

渡道のもう一つの目的は、堀さんの地図コレクションを拝見することだった。堀さんは北大で教鞭をとっていた時代から幾度もヨーロッパを訪れ、その都度気に入った地形図や市街図を買い集めている。日本でも輸入地図を扱う専門店(東京・広尾にあった内外交易など)へよく通ったそうで、「行くと、店の人が私のためにいろいろとおもしろい地図を取り置いてくれてました」と語っていた。

『地図のたのしみ』(p.51~)によれば、堀さんが外国地図の魅力に捕えられたのは、イギリスの1マイル1インチ地形図を手に入れた1961年のことだ。その後、国際学会で初めて海外出張する1963年前後から、収集に本腰を入れるようになった。私が堀さんの本に影響を受けて外国地図に熱中し始めたのは1990年ごろなので、その1世代前の旧版図が揃っている。

北大近くにある堀さんの仕事部屋は、書籍と地図でほとんど埋め尽くされていた。外窓に面して書き物机が置かれ、その周りだけがかろうじて空いている。ここにはあまり来客を入れないという堀さんは「これでも片づけたんですが、半分でいやになっちゃった」と言い訳されたが、私にはその心遣いだけでもありがたかった。

『地図を歩く』(p.24~)でも紹介されているように、日本の地形図はきれいに折り畳んで図名を記し、引き戸のキャビネットに20万分1図、図番(1~16)、作成年の順で並べてある。一方、日本の市街図や外国地図はジャンル別、国別に仕分けして赤茶色のデスクトレーに収め、それをスチール棚に縦重ねしてあった。同じような箱積みが奥にもあるのがちらと見える。「蓋に青いラベルが貼ってあるのが外国図です。緑は北海道関係かな。三層になってるので、奥にあるのはもう取れなくなってます」。

その日は、イギリスとアイスランドの地形図に絞って見せてもらったが、それでさえ相当な数だった。イギリスは主に1インチ図の第7エディションや1/4インチ図の第5シリーズ、アイスランドはデンマーク時代の手描き感溢れる旧図のオンパレードだ。そして、私が「これいいですね」と言うたびに、地図に描かれた土地にまつわる堀さんの思い出話が次々と出てくる。それを伺いながら見ていたら、いつのまにか夕方になっていた。

それからも何度か部屋におじゃましたが、いつもデスクトレーを二、三箱開けるだけで午後の時間が過ぎてしまう。直近の11月6日は、イタリアなど南欧の地図を拝見した。「イタリアの古い地形図は記号が美しいでしょう?」と堀さん。「そうですね、さすが芸術の国だと思います」「ええ、文字も洒落てるんですよ」「この書体ですね、平ペンで書いたような…。イタリアって一見大雑把かなって思うんですけど、結構細かいんですよね」「細かいですよ。果樹の記号なんか、やたら細かく分類されてる」「そういうものに愛着を持っているんでしょうね」。そんなやりとりを日がな一日していたのだ。

「山下さんのお好きなスイスの地形図も結構あるはずです」というので、奥のほうのデスクトレーも確かめてみたが、見つからない。あちこち探し回った挙句、もしやと、椅子の後ろに積まれた段ボール箱の一つを開けてみると、中に目標の品が山盛りになっていた。「ああ、ここでしたか。灯台下暗しだな。見ますか?」 しかし、そろそろ夕食の時間だった。次回来た時にこの続きを見せていただくことにして、いつもの店へ食べに出る。そこでも長話をした後、別れ際に「次来るのはいつです?」と聞かれたので「雪が融けたころに必ず参ります」と答えた。それが、堀さんと交わした最後の言葉になった。

「はじめての土地を、誰にも道を聞かずに、気の向くままのびのびと歩き回るのは、大変気分のよいものである。その土地をよく知っている人間と思われて、人に道を尋ねられたりすれば、なおさらのことである。」「これを可能にしてくれるのが地図である。地図さえ持っていれば、どんな道の土地でも、自由に歩き回ることができ、思うところへ行くことができる。」(『地図から旅へ』p.106)

堀さんにとって、地図は知らない土地への道案内であるとともに、歩いた道の記憶装置でもあった。旅の詳細を忘れていても、そのとき携行した地図をもう一度開けば、情景をありありと脳裏に蘇らせることができる。行き帰りの列車の中で、あるいは仕事部屋で、記憶装置から引き出された話を心行くまで伺うことができたのは本当に幸せだった。しかし、未見の地図はまだまだ棚の間に眠っていて、それと同様、聞き出せなかったこともたくさんあったはずだ。

来年からコンターサークルSの旅に、堀さんの姿はない。でも、きっといつものように地形図を手にしながら、空の上から私たちの旅に参加されるだろう。おあずけになった話の続きはそのときに聞くことができるかもしれない。

2017年11月30日 (木)

コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

今日も宇都宮駅東口で待ち合わせた。中心街とは反対側で、空き地が目立つ東口だが、LRTの着工を来年に控えて、ストラスブールのシタディスをモデルにした大きな看板が立てられている。富山市のようなスマートな都市装置の始動を期待しながら、今の風景を写真に収めた。地図の旅2日目の10月8日は、黒磯の晩翠橋(道路橋)を見るとともに、東北本線(以下 東北線)の旧線跡をたどりながら北上する。

Blog_contour2401
宇都宮駅東口に立つLRT計画推進の大看板

参加者は堀さん、真尾さん、大出さん、石井さん、中西さん、私の計6人。堀さんはいつものとおり石井さんの車に、他のメンバーは真尾さんのレンタカーに分乗して、国道4号線を北東へ向かった。

最初の目的地は、東北線の鬼怒川(きぬがわ)橋梁だ。上野から順次延伸されてきた日本鉄道、現在の東北線は、1886(明治19)年10月1日に宇都宮~那須(現 西那須野)間が開業している。このときのルートは宇都宮からほぼ北へ直進するもので、氏家(うじいえ)の西方で、東西に分流していた鬼怒川を渡っていた(下の地図参照、下注)。ところがこの川は暴れ川で、大雨のたびに氾濫しては線路に多大な被害を与えた。そのためルートは1897(明治30)年に早くも放棄され、現在の宝積寺(ほうしゃくじ)経由に付け替えられたのだ。

*注 後年、河川改修で東鬼怒川が鬼怒川本流となり、西鬼怒川は川幅縮小の上、水路化された。

水害の教訓から、新しい橋梁は、東の宝積寺台地と西の岡本台地が接近して、鬼怒川低地が最も狭まる地点を選んで架けられている。東西鬼怒川がすぐ上流で合流しているので、橋梁が1本で済むという点でもベストな渡河地だ。現在は上下線がそれぞれ単線橋で渡る。明治の橋梁はとうに姿を消し、現在上り線が使っているのが、跡を継いで1917(大正6)年に完成した2代目だ。

Blog_contour24_map1
宇都宮北方の東北本線が描かれた1:200,000図
(左)北へ直進する旧線が描かれた唯一の地図(輯製二十万分一図、1894(明治27)年修正) (右)宝積寺経由の現ルート
Blog_contour24_map2
鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆。薄茶色に着色した部分が台地

私たちは国道4号線の新鬼怒川橋を渡り、東北線を乗り越したところで狭い脇道に入った。車を降りて護岸上の踏み分け道を少し行くと、2本並ぶ鉄橋の袂に出られる。上り線橋梁は南側で、頑丈そうな煉瓦積みの橋脚に、ポニーワーレントラスと呼ばれる小型のトラス桁が載っている。下り線の、スマートだが冷たげなコンクリート橋との対比で、リベット打ちのレトロな機能美がひときわ目を引く。

Blog_contour2402
東北線鬼怒川(きぬがわ)橋梁。左が上り線のワーレントラス橋

橋脚はよく観察できるのだが、浅い角度のため橋桁の眺めは今一つだ。それで引き返して、国道橋の歩道へ回り、側面から鉄橋の全貌を眺めることにした。横構のない小型トラスは古風なスタイルだが、背景に広がる那須の山並みを遮らないのがいい。コンテナを連ねた長い貨物列車が、ジョイント音を高く響かせながら走り去るのを見送る。

Blog_contour2403
国道橋からの眺め

じっと眺めていた石井さんが「なぜ一番右のトラスだけ白いままなんでしょうね」と聞く。誰も答えないので、「塗り直さないでいつまで持つか実験しているのでは」と私。「持つなら塗らずに済まそうってこと?」「そうかも…」。本当のところは塗装作業の途中だったのかもしれない。

次の目的地は黒磯なので、しばらく4号線をドライブする。市街地をバイパスして、那珂川(なかがわ)のたもとに車を付けた。

Blog_contour2404
黒磯の晩翠橋のたもとに到着

Blog_contour24_map3
晩翠橋周辺の1:25,000地形図に加筆

晩翠橋(ばんすいきょう)は、旧国道4号(現 県道55号西那須野那須線)が那珂川を渡る地点に架けられた道路橋だ。初代の橋は、栃木県令に就任した三島通庸(みしまみちつね)が新陸羽街道整備の一環で1884(明治17)年に造らせたもので、木造だった。今より約70m上流にあり、大水で損壊しては、その都度架け直された。現在の橋は実に5代目で、1932年(昭和7)年に、世界恐慌に伴う失業対策で実施された国道の改良工事に合わせて建設されたものだ。

昭和の晩翠橋は、取付け道路を含めて画期的な設計で水害に対する強度を高めている。三島の旧橋は、扇状地面に載る黒磯の市街地から一段下がった位置(低位段丘面)で対岸に渡されていた。対する新橋は市街地から築堤を延ばし、道路はほとんど勾配なしで橋に達する。そのため橋面は、水面から23mの高さになった。さらに、流路に橋脚を立てずに済むアーチ構造を採用し、全長126.0m、中央径間70m(下注)の、大規模で景観的にも優れた橋梁が誕生したのだ。

*注 数値は、現地の案内板による。

Blog_contour2405
(左)初代~第4代の写真(現地案内板を撮影) (右)現 晩翠橋を川べりから見上げる

橋の南のたもとに、大きな写真入りの案内板があった。考えてみれば、いくら立派な橋梁を造っても、このように上路アーチの場合、通行人の目に入るのは欄干と路面だけだ。全体像は、側面から見て初めて理解できる。私たちもそうしたいと思ったが、それには下の河原に降りる必要がある。右岸の河原に停車している車や人影が見えるから、行けるのは確かなようだ。

しかし、実際にたどり着くのは一苦労だった。地理院地図に描かれている橋の300m北側の小道は柵で塞がれていて、車を進めることができなかったのだ。方々探し回ったあげく、石井さんがグーグルマップで橋の南側に別の道を見つけて、ようやくたどり着く。せっかくライトアップまでして橋を観光につなげようとしているのに、鑑賞する場所への道案内を欠くのは不備ではないか。

ともかく、水際から勇壮な鋼橋を見上げることができた。この構造はバランスドアーチといって、アーチを連続させることで、中間の2つの支点にかかる力(水平反力)を相殺する。もちろん見た目にも美しく、この角度から眺めると、まるで白鳥が翼を広げて大空に飛び立とうとしているかのようだ。

Blog_contour2406
翼のように広がるアーチが緑の渓谷を横断

「そろそろお昼にしましょうか」と真尾さんが皆に声をかけた。ベンチや土手の段に思い思いに座って、持参の昼食を開けようとしたら、堀さんが「昼食を買ってくるのを忘れちゃったな」と言う。しかし、心配する必要はなかった。「おにぎりありますよ」「私のアップルパイもどうぞ」と差し出されたもので、たちまち1食分が揃った。みんな優しい。

それから、400mほど下流に架かる東北線の橋梁を見に行った。鬼怒川橋梁と同じで上り線が古く、1920年竣工の上路プラットトラスが架かっている。下り線はコンクリート橋だが、初代のものとおぼしき煉瓦造の橋台が残っていた。カーオーディオのボリュームを全開にしてキャンプもどきを楽しんでいる若者たちの傍らで、新幹線と3本並んだ鉄道橋を写真に収める。

Blog_contour2407
少し下流に架かる鉄道の那珂川橋梁
手前から東北線上り線、同 下り線、東北新幹線

那珂川河畔を後にして、私たちは東北線の旧線跡をたどりながら北上した。同線の黒磯~郡山間は、1887(明治20)年に開業している。黒磯と白坂の間では、那須火山群からの泥流に覆われた起伏の多い土地を横断するため、曲線とともに随所に25‰の急勾配が必要になった。第一次世界大戦後、輸送力の逼迫から東北線では複線化を含む大規模な改良工事が実施され、1920(大正9)年にこの区間は、勾配を緩和した新線に切り替えられた。それに伴い残されたのが、20km近い旧線跡だ。

Blog_contour2408

堀さんの著書『地図を歩く』(河出書房新社、1974年、p.232~)にこのことが詳述されている(下注)。今でこそ廃線跡探索は鉄道趣味の一ジャンルとして確立しているが、おそらくその先駆けとなったのが『地図のたのしみ』や本書に収録されたレポートだ。私もこれで、地形図と照合しながらルートの変遷を追うという楽しみ方を知ったので、読み返せば懐かしい。

*注 2012年刊の『地図を歩く』新装新版ではp.220以下。

晩翠橋の少し先の瀬縫交差点を右折して、県道211号豊原高久線へ。国道4号(黒磯バイパス)をくぐった地点から、道路は旧線跡に載り、上瀬縫の台地越えを再現している。車なら何でもないとはいえ、じわじわと上る坂道だ。新幹線を乗り越えて現在の東北線に突き当たると、道は旧線からそれて高久駅に並行する。そして駅の先で右折して、線路の反対側へ出ていた旧線跡に再び合流する。

Blog_contour24_map4
東北線 黒磯~大田原間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
Blog_contour24_map5
旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

まもなく、現在線と並行する気持ちの良い直線路に入った。「撮り鉄がいますね」と話しながら車を走らせていると、余笹川の手前で列車がこちらに向かってくるのが見えた。「あれ、四季島(しきしま)じゃない?」と真尾さんが叫ぶ。なるほど、撮り鉄さんはこれを待っていたのか。私たちも路側のスペースに車を寄せて、今年デビューしたばかりのクルーズ列車がしずしずと通過するのを見届けた。私のコンデジではぶれてしまったので、大出さんにもらった動画のキャプチャーが下の写真。

Blog_contour2409
黒田原駅南方でクルーズ列車「四季島」と遭遇
(大出さん撮影の動画からのキャプチャー)

黒田原の市街地では町役場などが並ぶ旧駅前の道の直線化が完了していて、ナビを間違えた。ここで旧線は坂を下っていき、泥流原の縁に黒川がつくった浅い谷に通路を求める。堀さんが訪れた1972(昭和47)年当時は、黒川の中に「レンガ造りの背の高い橋脚が、五〇年の風雪に耐えて屹立して」(同書p.239)いたのだが、すでに撤去され、二車線道路に姿を変えている。

しかし、まもなく改良区間が終わり、一車線の田舎道が現れた。おおかた刈取りを終えた田んぼの中を、左右に緩くカーブしながら続いている。黒川を再び渡ったところで、豊原駅へ寄り道することにした。新線への切替えと同時に、その間にあった黒田原、豊原の両駅も移転したが、なかでも豊原新駅は旧駅から南へ1.6kmも離れた丘の中腹に造られた。小さな無人の駅舎から跨線橋で島式ホームに渡る構造だが、果たして今どれだけの乗降客があるのだろうか。

Blog_contour2410
ひっそりとした現 豊原駅

Blog_contour24_map6
東北線 大田原~豊原間周辺の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
Blog_contour24_map7
旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

成沢集落を過ぎたところで、旧線跡の道路に戻る。40数年前は、「ススキが両側に伸び放題に伸びているデコボコの砂利道で、ときたま小型自動車が砂埃をまきあげて通るほかは、秋の日ざしをあびて静まりかえった、野趣あふれる道だった」(同書p.242)。さすがに舗装されたものの今も一車線のままで、堀さんが歩いたときと景色はほとんど変わらないだろうと思わせる。だが、対向車の数は確実に増え、それもけっこう飛ばしてくる。「廃線後も幹線のままですね」と真尾さんが笑う。信号のない一本道なので、抜け道に利用されているのかもしれない。

Blog_contour2411
黒川橋梁南方の旧線跡を転用した一車線道路を進む

Blog_contour24_map8
東北線 豊原~白河間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
Blog_contour24_map9
旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

列車の撮影地として名高い黒川橋梁が見えてきた。丘の高みを伝ってきた現 東北線は、ここで黒川の広い谷を横断して、利根川水系と阿武隈川水系の分水嶺に向かう。橋梁は、上り線が長さ333.7mの堂々とした上路ワーレントラス橋で、下り線はシンプルなプレートガーダー橋になっている。

Blog_contour2412
堂々たる姿の東北線黒川橋梁

橋の下の空き地に車を停めた。せっかくだから、鉄橋を渡っていく列車を撮ってみたいが、旅客列車はさっき通ったばかりだ。「貨物列車が来るといいんだが。山下さんの神通力は効きませんか」。昨年、山陰本線の惣郷川橋梁へ行って以来、堀さんは、私に列車を呼び寄せる力があるのではと疑っている(下注)。しかし残念ながら、運はさっきの四季島との遭遇で使い果たしてしまったようだ。しばらく待ってみたものの、来ないものは来ない。

*注 惣郷川橋梁でキハ40系が通った話は「コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス」参照。

Blog_contour2413
(左)車を止めて待つも列車は現れず (右)地形図で経路を確認(大出さん撮影)

今日はよく晴れて、強い日差しが降り注ぐ。「ここにいても暑いので先へ進みましょう」と再び車に乗り込んだ。一車線道に出て、ちょうど鉄橋の真下を通っていたときだ。車内の話し声が突然、耳を聾さんばかりの轟音にかき消された。頭上を貨物列車が通過している。

「直下だと凄い音ですね。てっきり車が何かを引っ掛けて引きずってるのかと思いましたよ」と真尾さん。そのまま車を走らせようとしたら、中西さんが「大出さんを置いてきちゃった」と叫ぶ。私たちが轟音にたじろいでいる間に、列車を撮ろうと飛び出していったらしい。慌てて車を停めた。まもなく何喰わぬ顔で戻ってきた大出さん、うまく走行シーンを捉えることができたそうでよかった。

道はこの後、杉林の中を右にカーブを切りながら坂を上っていく。側面に、黒田原からの下り坂と同じような石垣が続いているので、同時期に整備したのだろう。やがて東北線下り線の踏切、少し離れて上り線の踏切を通過。それから廃線跡は緩やかなカーブで上り線に吸収されていき、本日の探索のゴールと決めた白坂駅に到達する。

Blog_contour2414
林の中の旧線跡道路

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図黒磯(平成13年修正測量)、宝積寺(平成13年修正測量)、5万分の1地形図大田原(明治42年測図)、同(平成7年修正)、白河(明治42年測図)、同(平成5年修正)、輯製20万分の1図日光(明治27年修正)、宇都宮(明治27年修正)、20万分の1地勢図日光(昭和52年編集)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
栃木県の土木遺産 http://www.doboku.shimotsuke.net/
土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

2017年11月19日 (日)

コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

2017年秋のコンターサークルSの旅は、北関東が舞台だ。1日目10月7日は、かつて東洋一の銅山の町として栄えた足尾(現在は栃木県日光市足尾町)を回る。

集合場所に指定されていたのはJR日光駅だったが、私の泊っている宇都宮駅前まで、真尾さんがレンタカーで迎えに来てくれた。小雨そぼ降る中、杉並木が続く国道119号(日光街道)を走って、日光駅へ。集合時刻の10時21分に到着した電車から外国人を交え大勢の客が降りたけれども、残念ながらサークルのメンバーの姿はなかった。堀さんは明日来るので、本日の参加者は私たちと、足尾へ先回りしているはずの大出さんの3人だけだ。

Blog_contour2301
足尾本山駅構内風景

再び車に乗り込んで、国道を西へ進んだ。清滝から大谷(だいや)川を渡ると、国道122号は長さ2,765mの日足(にっそく)トンネルで足尾側へ抜ける。トンネルは一直線だが、「この上に細尾峠というつづら折りの旧道があって、霧の中を堀さんと踏破したことがあります」と真尾さん(下注)。雨は上がってきたものの、谷の上空を覆う雲はまだ低い。

*注 このときのレポートは、堀さんの著書『消えた街道・鉄道を歩く地図の旅』(講談社+α新書、2003年、p.182以下)にある。

まずは、わたらせ渓谷鐵道(以下「わ鐵」という)の通洞(つうどう)駅へ向かった。足尾の市街地は、渡良瀬川上流の谷沿いに長く伸びている。そのため町には、わ鐵の前身である旧 国鉄足尾線時代から、足尾本山(あしおほんざん)、間藤(まとう)、足尾、通洞と4つの駅があった。

最奥部に位置する足尾本山は精錬所の前の貨物専用駅で、1987年に貨物輸送が終了して以来、使われていない。次の間藤が旅客列車の終点で、最後まで採鉱が続けられた本山地区の最寄り駅だ。三つ目の足尾はわ鐵の運行拠点で、列車交換ができ、広い構内には貨物側線も残されている。そして最も川下の通洞は、棒線駅ながら足尾の中心部にあり、乗降客も多い。

Blog_contour23_map1
足尾(通洞、小滝地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

まずはその通洞駅前に車をつける。破風にハーフティンバーをあしらった山小屋風のデザインの駅舎がなかなかお洒落だ。駅前の小さな広場で大出さんと合流。山の緑が差し掛かるホームに出ると、ちょうど桐生方面の上り列車が入線するところだった。ちょっと褪せてはいるが、阪急電車のマルーン色を連想させる310形気動車だ。せっかくなので発着のようすを見届けてから、3人で足尾探索に出かけた。

Blog_contour2302
通洞駅 (左)ハーフティンバーの山小屋風駅舎 (右)昔の面影を残す駅舎内部
Blog_contour2303
桐生行き310形気動車が停車中

大出さんは私たちの到着を待つ間に近辺を歩いていて、「足尾のことがよくわかりますよ」と勧めてくれたのが足尾歴史館だ。足尾銅山と町に関するさまざまな歴史資料を展示している。運営するNPO法人の理事長さんの説明を伺いながら、館内を回った。「明治の足尾は、日本初の科学技術がたくさん導入された近代都市だったんです」と理事長。「電話、水力発電、索道、溶鉱炉など、みなそうです。電気鉄道も京都より早く、鉱石の運搬に使われていました」(下注)。

*注 旅客用の電気鉄道は1895(明治28)年京都で初めて走り始めたが、その4年前(1891年)に足尾では銅鉱石運搬用の電気軌道が開設されたという。

汚染排水や煤煙による渡良瀬川流域の深刻な公害問題は、足尾銅山の負の側面として知られているが、反面、鉱山は採掘・精錬技術の近代化で生産量を拡大させ、そのお膝元で町は栄華を極めた。鉱床のある備前楯山を取り巻く形で本山、通洞、小滝の主要3鉱区が立地し、その周囲に従業員とその家族、関連産業に携わる人々が暮らす市街地が形成されていた。足尾の人口は大正時代に3万8千人を超え、県内で宇都宮に次いで大きな町だったのだ。

Blog_contour2304
足尾歴史館 (左)鉱山町の歴史を資料で追う (右)トロッコ列車の周回線路

そのとき、「今からガソリンカーが走ります」とアナウンスが聞こえてきた。「外の乗り場へどうぞ」と理事長さんに急かされて建物の裏に回ると、波板屋根の簡易ホームに、黒装束のボンネット型ミニ機関車が停まっている。後ろには、北海道開拓の村で乗ったのとそっくりの小型客車がつけられていた。

*注 北海道開拓の村の馬車軌道の話は、本ブログ「開拓の村の馬車鉄道」参照。

足尾では、1895(明治28)年9月に開業した馬車鉄道が町民の足となり、資材や生活用品の輸送を担っていた。1925(大正15)年、馬に代わってガソリンエンジンの機関車が投入され、昭和30年代まで使われた。停車中の列車はそれを復元したものだ。

走路は当時と同じ610mm(2フィート)軌間で、もとスケートリンクだった場所に、延長174mの周回線が敷かれている。私たちもさっそく豆客車のロングシートに納まった。列車は、バイクのような騒々しいエンジン音とともに動き出すと、超急カーブを小気味よくしのいで走っていく。側線には、立山砂防軌道から譲渡されたというディーゼル機関車や、オープン客車も留置してある。それを横目に見ながら2周回って、ホームに帰着。思いがけない列車体験は楽しかった。「足尾ガソリン軌道歴史館線」と名付けられた軌道は、4~11月の第一土・日曜に運転されている。幸運にも今日はその日だったのだ。

Blog_contour2305
足尾ガソリン軌道歴史館線のトロッコ列車
(左)ガソリン機関車 (中)豆客車 (右)客車内部

資料館を後にして、主要鉱区の一つ、小滝へ向かった。わ鐵の第二渡良瀬川橋梁の下をくぐってすぐに右折、支流の庚申山川に沿う細道を上っていく。まず見つけたのは、道路橋に隣接して川をまたいでいるダブルワーレントラスの廃橋だ。傍らの案内板に旧 小滝橋、大正15年架設とある。地形図では「小滝坑跡」と注記された地点で、橋の上流側で石積みの坑道が口を開けている。残念ながら鉄パイプのバリケードに阻まれて、中には入れなかった。

Blog_contour2306
旧 小滝橋
(左)残存するワーレントラスの構造物 (右)橋の左手に旧小滝坑が口を開ける

銀山平の狭い段丘では、道の両側に階段状に均された敷地と土留めの石垣が見られた。公園の案内板によると、かつてここには多くの社宅が整然と並んでいたそうだ。最盛期には小滝だけで1万有余の人が暮らしていて、病院、学校が建ち、料理屋や芸妓屋もあったという。しかし、今は背の高いカラマツの林にすっかり覆われて、面影すら見いだすことができない。

Blog_contour2307
銀山平社宅跡
(左)階段状の敷地と土留めの石垣 (右)盛時の写真(現地案内板を撮影)

国民宿舎の前で引き返して、本山坑のほうへ向かう途中、足尾駅に立ち寄った。駅舎は平入り切妻造りで、庇が広く張り出しているのが特徴的だ。また、いいタイミングで桐生行きの気動車が入ってきた。今度は510形、2013年に導入された車両で、わ鐡で最も新しい。右手へ回ると、がらんとした敷地の側線に、国鉄色の気動車やタンク車が数両留置されている。真尾さんいわく、「ここにはヤードがあって、昔は貨車の操車をしていました」。

Blog_contour2308
足尾駅 (左)屋根庇を張り出させた駅舎 (右)桐生行き510形気動車

Blog_contour23_map2
足尾(本山地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

次いで、終点間藤駅へ向かった。こちらは線路が1本きりで、駅のすぐ上手に車止めがあり、先は草むらと化している。その中をさまよっている人がいたので、何かと思ったら、線路脇の木から落ちた栗を拾っているのだった。ホームに設置されている展望台は、対岸の山の斜面に現れるカモシカを見るためのものだそうだ。カモシカの姿は見かけなかったが、シカは確かにいて、銅親水公園からの帰り道に車の前を急に横切り、ヒヤッとする。

Blog_contour2309
間藤駅 (左)花壇になった旧折返し線跡と展望台 (右)駅舎

さらに上流へ。上間藤の道路脇で、地面に斜めに突き刺さる直径1mほどの鉄管を発見した。これは、理事長さんの説明にもあった日本初、1890(明治23)年完成の間藤水力発電所の跡だ。上部に延びていたはずの管路跡を確かめようと小道の階段を上っていく途中、地元の男性がすれ違いざまに「どこへ行かれる」と聞く。目的を話すと、「水路はここを通っていたんだ」と、斜面にかすかに残る正確な位置を教えてくれた。その人が言うには、発電所の跡地は、土盛りされて道路が通ったので、今はもう見ることができない。「だが、川の中に残骸があるよ」と指さす方向に、流れに洗われる煉瓦の塊が見えた。

Blog_contour2310
間藤水力発電所跡
(左)水を落とす鉄管の一部だけが残る (右)発電所のかつての姿(現地案内板を撮影)
Blog_contour2311
間藤水力発電所跡
(左)松木川に洗われる煉瓦の塊 (右)地元の男性が案内してくれた

親切な人で、「これから古河橋を見に行くんです」と話すと、「案内するよ。なに、散歩ついでだ」。それで車に同乗してもらい、1km上流の橋のたもとまで走った。重要文化財指定の古河(ふるかわ)橋は、松木川に架かる径間48mのボーストリング型ワーレントラス橋で、これも1890年に造られている(下注)。資料館で見た写真(下写真右)によれば、日本初の電気軌道もこの橋を渡っていたようだ。しかし老朽化に伴って、現在は通行禁止になっている。「隣に新しい道路橋ができてからも、歩いて渡れたんだが」とこの人。

向こうに見える大きな構造物は、本山精錬所跡だ。その奥に、支流の出川を渡る貨物線のガーダー橋があり、三態三様の橋が一つの構図に収まる。男性が、同じように橋を見に来た別のグループに捕まってしまったのを機に、私たちはお礼を言って、さらに上流へ車を移動させた。

*注 土木学会(JSCC)のサイトによれば、開通は1891(明治24)年1月1日。

Blog_contour2312
古河橋
(左)ボーストリング型トラス橋、対岸に本山精錬所跡
(右)橋には貨物を運ぶ電気軌道が併設されていた(足尾資料館の展示を撮影)

谷の奥に、白い簾のような滝がかかる何段もの堰堤が見えてきた。その周囲が整備されて、銅(あかがね)親水公園と呼ばれている。一般車が入れる最奥部なので、駐車場に車を置いて一番大きな砂防堰堤の脇まで上った。ここで北から降りてくる松木川に、東西からの支流が合流する。西側の谷をトラス橋が横断しているのが見えるが、森林鉄道の跡ではなく、発電所へ通じる送水管を通しているのだ。大出さんは以前ここまで来たことがあって、「あの鉄橋には見覚えがあります」。一帯は森林の乱伐と鉱山からの煙害で禿山になり、土砂の流出が激しい。懸命の植林活動が進められているが、堰堤の内側はすでに土砂で満杯だった。

Blog_contour2313
谷を塞ぐ大規模な砂防ダムと何段もの堰。ダムの手前に銅親水公園がある
Blog_contour2314
砂防ダムの上流側にて。奥に送水管を通すトラス橋が見える

帰り道、間藤から延びていた貨物線の廃線跡を訪ねてみた。松木川右岸、南橋集落の裏手に、間藤から26~30‰の急勾配で上ってきた線路がある。すっかり錆びが回っているものの、2本のレールはしっかり残っていた。土砂崩れであらかた埋まった難所を抜けると、トンネルの手前に腕木信号機が立っている。最近塗り直したのだろうか、異様にきれいだ。矢羽根が進行表示になっていたので(?)自己責任で進ませてもらうと、線路は短いトンネルを抜けて右に緩くカーブし、さっき古河橋から眺めた出川鉄橋を渡っていく。

Blog_contour2315
足尾本山への貨物線
(左)休止線にしては美しい腕木信号機 (右)S字カーブのトンネルを反対側から見る

その先が足尾本山駅だが、残念ながら手前に柵が立てられ、「鉱山施設につき立入りお断り」の札が掛っていた。柵越しに覗くと、構内は意外に整然と保たれている。しかし、錆びた側線に沿って破れ窓と朽ち板の建物が並ぶ、まるで時が止まったような光景には哀愁が漂う。じっと眺めていた真尾さんが「夕張を思い出しますね」とぽつりと呟いた(下注)。衰退した鉱山地区は、どこか共通の雰囲気を持っているようだ。谷の底は日暮れが早い。影が濃くなり始めた廃駅の構内を写真に収めて、私たちは車に戻った。

*注 北海道夕張の探訪記は「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

Blog_contour2316
出川鉄橋の先に足尾本山駅を望む

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図中禅寺湖(平成27年3月調製)、足尾(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
NPO法人 足尾歴史館 http://ashiorekishikan.com/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-美馬牛の谷中分水と尾根を行く水路
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

より以前の記事一覧

2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

BLOG PARTS


無料ブログはココログ