2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしておられた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですよ」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

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消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

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鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
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旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
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拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた
 

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

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(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

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御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

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(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
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富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

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竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

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八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

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(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
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大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

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大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

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(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
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橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

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(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

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初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

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初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
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初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

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上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

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2019年5月 9日 (木)

コンターサークル地図の旅-鬼怒川瀬替え跡と利根運河

取手(とりで)駅から、関東鉄道常総線のディーゼルカーに乗って北上した。列車は最高時速80kmで疾走する。全線非電化にもかかわらず、途中の水海道(みつかいどう)までは堂々たる複線で、まっすぐ延びる線路の上に、遮るもののない大空が広がっている。都市近郊路線としては他に得難い風景だ。

2019年5月2日、コンターサークルS春の旅1日目は、常総線の小絹(こきぬ)駅が集合場所だった。小さな駅舎の改札前に集ったのは、中西さん、丹羽さんと私の3人。初めに、鬼怒川(きぬがわ)の瀬替え、すなわち流路付け替えの跡を見に行く。

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寺畑北方の小貝川分流跡
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常総線小絹駅
(左)ユニークな妻面をもつ駅舎
(右)乗ってきた列車を見送る
 

鬼怒川は、日光国立公園の一帯を水源とする主要河川だ。栃木県と茨城県西部を貫流し、守谷(もりや)の西で利根川に合流している。しかしこれは、江戸幕府による利根川東遷事業で瀬替えされた結果で、以前はつくばみらい市(旧 谷和原(やわら)村)寺畑で、小貝川(こかいがわ)と合流していた(下図参照)。そこから下流では、今の小貝川が鬼怒川の河道だったのだ。

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鬼怒川旧河道(瀬替え跡)と利根運河周辺の河川の位置関係
基図に1:200,000地勢図(2010~12年)を使用
 

17世紀、新田開発と水運の改良を目的として、鬼怒川を常陸川(ひたちがわ、下注)に短絡させる新たな流路の開削が計画された。両者の間には比高10mほどの猿島(さしま)台地が横たわっている。約8kmの新流路の東半は台地に入り込む支谷の一つを利用し、サミットの板戸井(いたとい、現 守谷市)で台地を深く切り通した。1629(寛永6)年に工事は完成し、翌年、旧流路が締切られて、鬼怒川は小貝川と完全に分離された。

*注 1654年の赤堀川通水の成功と、その後の拡幅により最終的に利根川本流となる。

この瀬替えによって、鬼怒川と小貝川の間には約1kmの廃河道が残されることになった。その現状を確かめようというのが今回の目的だ。

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鬼怒川旧河道周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちは、かつて鬼怒川が小貝川と合流していた伊奈橋をめざした。地形図を手に、駅から最短経路となる里道をたどる。空は曇りがちながら、暑くも寒くもなく、歩くには申し分ない日だ。このあたりは台地と谷地(低地)が入り組んでいて、道も少なからず上り下りがある。20分ほどで小貝川の堤に出た。

橋の南側が、かつての合流地点になる。堤防に面して水門があり、「四ヶ字(しかあざ)排水樋管」と記した立札が付いていた。堤の内側に目を移すと、水門に通じる水路が見え、住宅地の中の四角い池につながっている。これらはみな河道の名残と考えていいのではないか。水路のそばに矩形の石碑が立っているが、碑文は残念ながら摩滅寸前で、「治水?生」(3文字目は不明)という題字以外、判読できなかった。

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(左)小貝川と伊奈橋
(右)四ヶ字排水樋管
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(左)住宅地の四角い池を東望
(右)水路のそばの石碑
 

中西さんが地形図を指差しながら、「この蛇行水路が気になります」という。寺畑の北方にある、常総市とつくばみらい市の境界に沿った水路のことだ。南側に、連続する崖の記号を伴っている。「鬼怒川と小貝川をつないでいた水路でしょうか」「流水方向が手がかりになるかもしれない」と、寄り道することにした。

代掻きを済ませた田んぼの間の、ぬかるむ農道を歩いていくと、地図のとおり、攻撃斜面に相当する高さ2~3mの崖の連なりが現れた。崖下は、一部が湿田になっているほか、一面芦原に覆われて、残念ながら水流はまったく見えなかった。「蛇行のカーブがきついところを見ると、本流ではなく、小貝川の分流かもしれませんね」と丹羽さん。おそらく、下妻から水海道にかけて多く見つかる乱流跡の一つなのだろう。

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小貝川分流を縁取る農道にて
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小貝川分流に沿う低い崖の連なり
 

鬼怒川の河道跡に戻る。先ほどの四角い池から西側は盛り土されて、西ノ台の住宅街の一部になり、緩やかにカーブする道路だけが、流路の中心線を保存している。約300m西で住宅街が途切れた後は畑地となり、それが常総線の低い築堤まで続く。

国道294号線の両側では、河道跡のほとんどが埋め立てられ、ロードサイド店の駐車場になっていた。間に残された水路がさきほどの中心線の延長上にあるようだが、今や水たまり同然で、顧みる人もない。とはいえ、これが400年前の川の痕跡だとすれば、よくぞ残ったという感慨も湧いてくる。

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(左)河道跡をなぞる街路のカーブ
(右)駐車場に挟まれた水たまりのような水路
 

その西には、旧道が載る高さ4~5mの築堤が延びている。河道跡と直交する形状から見て、鬼怒川を瀬替えしたときの締切堤防に違いない。鬼怒川は河川敷の一段低いところを流れているはずだと、河畔林まで分け入ってみた。しかし、藪が鬱蒼と生い茂って、見通しがほとんど利かない。カメラに一脚を取り付けても、藪の背のほうがはるかに勝る。隙間からかろうじて水面を透かし見ただけで、現場を引き揚げざるを得なかった。

河川敷の畑の木陰で、昼食休憩にする。ちょうどそこに、畑の持ち主の方が農具を持って現れた。聞けば、この河川敷は私有地で、昔は毎年水に浸かった。今でも数年に一度は、冠水するのだという。広い堤外地は、遊水地の役割を果たしているのだろう。同時に、洪水は新しい土を置いていくから、作物の育ちはいいに違いない。

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(左)旧道が載る締切堤防
(右)藪から透かし見る鬼怒川の川面
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木陰のある河川敷の畑、背景は締切堤防
 

午後は、利根川の対岸に導水口がある利根運河(とねうんが)へ移動する。丹羽さんが早引けついでにと、車で送ってくれた。

利根運河は、利根川と江戸川を接続している約8kmの運河で、1890(明治23)年に開通した。その目的は、海の難所である犬吠埼沖を避けるために、東北地方と江戸(東京)を結ぶ東廻り航路で利用されていた内陸水運ルートの改良だ。銚子から関宿(せきやど)まで利根川を遡上した後、江戸川を下るのが従来ルートだが、距離が長く、一部に浅瀬もあって、輸送効率が悪かった。そこで、これをショートカットする運河の掘削が計画された。

オランダ人の土木技師ムルデルの監督のもと、民間会社が建設し、通行料を取って運営した。しかし、栄えた時期は短く、近隣で相次いで開通した鉄道(下注)に貨客を奪われ、内陸航路はじりじりと衰退していく。そして1941(昭和16)年、台風に伴う増水で堰や堤が壊れて経営が行き詰まり、施設は国有化された。交通路の役目を終えた運河は、一時、首都圏の水需要を賄う導水路に活用されたものの、その機能もすでになく、今は産業遺産として保存されている。

*注 1896年に日本鉄道土浦線(後の常磐線)田端~土浦間が開通、1897年には総武鉄道(同 総武本線)が錦糸町から銚子まで通じた。

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利根運河周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちが着いたのは、利根川の取水口から1km西にある運河水門だ。空を覆っていた雲はすっかり消え去り、初夏の眩しい日差しが降り注いでいる。朝から着ていたジャケットも、もう必要ない。帰る丹羽さんにお礼を言って、運河の北岸を江戸川のほうへ歩き始めた。

高堤防の上に、細い道が緩いカーブを描きながら、延々と続いている。あずまやの前で、春日部から自転車で来たという人に声を掛けられた。ここまで20数kmあるが、車道を走らなくて済むので、よくサイクリングするのだという。「運河駅まで歩くの? まあ5kmだね」とよくご存じだ。

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利根運河
(左)運河水門 (右)細々とした水量
 

運河は戦後、利根川の洪水を江戸川へ逃がす分派機能を託され(下注)、それに伴い、堤防の拡幅と嵩上げが行われた。このため、運河の幅は80~90m(天端間)、堤高は約5mと、見た目にもかなりのスケール感がある。ところが底の水路は細々としたもので、葦の茂みの間に水質が悪化しない程度の量が流されているに過ぎない。下流では周辺からの流入があり、さすがに水かさが増すが、それでも子どもの膝まで届かない深さだ。汽船が通っていたとは信じられないが、もちろん昔はもっと水位が高かった。利根運河碑の説明板によれば、開通当時は河底幅が18mしかない代わり、平均水深は1.6mあったそうだ。

歩き始めのうちは、堤の下が田んぼの広がる谷津(やつ)、すなわち谷間の低地だったのだが、進むにつれて地盤が上がり、いつのまにか堤よりもまだ上に斜面が続いている。鬼怒川の新河道と同じように、運河は、下総(しもうさ)台地を深く掘り割って造られたからだ。しかし、人工水路でありながら、水辺には低木も茂り、その部分だけフレームに切り取れば自然河川と変わらない。

*注 正式名称は「派川利根川」だったが、地形図では常に利根運河と注記されている。

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堤防上から見た風景
(左)三ヶ尾の谷津
(右)周囲からの流入で少しずつ水かさは増す
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自然河川のように低木が茂る
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堤の上は東京理科大キャンパス
野田線の鉄橋が見えてきた(アーチのあるのは歩道橋)
 

5kmの距離は長そうに思えたが、二人で鉄道のよもやま話をしながら歩いたら、もう運河を渡る東武野田線(アーバンパークライン)の鉄橋が近い。流山街道の西側は親水公園に開放されていて、子どもたちが水遊びをしていた。運河の上空には、色とりどりの鯉のぼりが五月の風を受けて泳いでいる。たなびく姿が水面に映って、その数以上に賑やかに見えるのがおもしろい。

時代の要請に次々と応じたあげく、実用的役割を失ってしまった運河だが、今はこうして、人々が憩うやすらぎの水辺として余生を送っている。水路の生涯もさまざまだ。背景の鉄橋を電車が通過するのを記念写真に収めて、ささやかな水路巡りの旅を終えた。

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運河の上空で鯉のぼりが泳ぐ
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水面に映る鯉のぼり、背景は野田線の電車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図守谷(平成17年更新)および20万分の1地勢図千葉(平成22年修正)、東京(平成24年要部修正)、水戸(平成22年修正)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

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2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝
 

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4人だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎
(右)1日4往復の滝本行き路線バス
 

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着
後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口
(右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影
 

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台
滝の最下段が正面に来る
 

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む
 

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋
(右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がる
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吊橋から見た滝と背後の断崖
 

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段
(右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた
 

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望
 

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い
 

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂
(右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人
 

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道
(右)旧道が通る水根橋
 

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口
(左)切通しで隧道へ
(右)水路橋が道をまたぐ
 

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み
 

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2019年1月 8日 (火)

コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

コンターサークル2018年秋の旅の舞台は関東に移る。11月24日の集合場所は都内、中央線と武蔵野線が十字に交わる西国分寺駅だ。この駅の構造はちょっとおもしろい。後からできた武蔵野線(1973年開通)が地表付近を突っ切り、歴史的にずっと先輩の中央線(1889年開業、下注)は、それを避けるかのように掘割の底を通っている。なぜこのような配置になっているのだろうか。

*注 路線の正式名称は「中央本線」だが、本稿の記述は列車系統で使われる「中央線」に統一する。

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国分寺崖線に沿って歩く
 

それは、中央線が通過する地形に関係がある。武蔵野台地の地盤が、西隣の国立駅の手前で一段低くなっているのだ。その差は10m強。加えて東側にも、野川(のがわ)が削った谷がある。この高低差を緩和するために、中央線はここで地面を深く切り通し、線路の位置を下げて建設された。対する武蔵野線はそれをまたぎ越せればいいので、結果的に地表を通れることになる(下注)。

*注 ただし、武蔵野線の西国分寺駅以南は、地表を走っていた通称 下河原線の一部を転用したという事情も影響していよう。

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(左)西国分寺駅改札内コンコース
 武蔵野線下りホームから撮影
 中央線のホームへはさらに左右の階段を降りていく
(右)国分寺の花沢橋から西望
 中央線は切通しを抜け、
 野川の谷を築堤で横断、再び切通しへ
 

本日のテーマは、この地盤の段差によって生じた斜面、すなわち段丘崖だ。中央線が突破している崖のラインは、立川市北部で顕著になり、およそ南東方向に大田区まで30km以上続いていて、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれる。

武蔵野台地は、もともと多摩川により関東山地から運び出された砂礫が堆積してできた扇状地だ。その後、多摩川の流路が南遷する過程で側面が削られ、段丘が形成された。西国分寺駅が載る上位段丘の武蔵野面に対し、国立の市街地は一段低い立川面にある。その境目が国分寺崖線だ。ちなみに立川面と、多摩川の沖積低地との境にも段丘崖が存在し、こちらは立川崖線と呼ばれている(下図参照)。

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国分寺崖線と立川崖線の概略位置
ベースは1:200,000地勢図(2012(平成24)年要部修正図)

この日の午前10時、西国分寺駅の改札内コンコースに集合したのは、今尾さん、大出さん、中西さんと私の4人。午後に予定が入っている人が多いので、短時間で行けるところまで行くことにして、ルートを熟知している今尾さんの案内でスタートした。

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西国分寺~新小金井間の1:25,000地形図と陰影起伏図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)
 

まず、崖線に沿って流れ下る野川の源流に足を向けた。武蔵野線のガードをくぐって、府中街道を横断し、階段を降りて恋ヶ窪の谷底へ。旧道を北へ少し歩くと、恋ヶ窪用水の由来を記した案内板が立っていた。玉川上水(後に砂川用水)からこの低地を経て、崖線沿いの旧村へ引かれていた水路だ。住宅街にはさまれて右へ、その流れと小道が寄り添うように延びている。

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姿見の池に向かう恋ヶ窪用水
 

たどっていくと、まもなくこんもりとした林地が現れた。中央にカルガモが泳ぐ池があり、木橋の上から園児の一団が楽しそうにそれに見入っている。これは姿見の池といい、昭和40年代にいったん埋められたものを復元整備したものだ。水は、地下水位上昇に伴う浸水対策を兼ねて、武蔵野線のトンネルで湧く地下水を引き込んでいるという。谷戸(やと、下注)と呼ばれるこうした谷間の湿地は、宅地に向かないため、まさに日陰の存在だった。時代が変わり、それが市民の憩いの場として見直されているのだ。

*注 地域によって、谷津(やつ)、谷地(やち)などとも呼ばれる。

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姿見の池も蘇り、市民の憩いの場に
 

池から続く谷間を下流へ歩いた。黄色い電車が颯爽と走る西武国分寺線のガードをくぐり、日立中央研究所の森を限る高い塀に沿って進む。そこをねぐらにしているのか、烏が太い声で鳴き交わしている。姿見の池から来た水は研究所内の大池に注ぎ、再び流れ出て野川となる。その先を追うには築堤上を走る中央線を横断しなければならないが、「築堤を突っ切る道がないので、陸橋まで迂回します」と今尾さん。

マンション脇の坂を上って、中央線を乗り越える花沢橋を渡った。東隣の国分寺駅がもう目の前だが、この駅のホームも掘割の中にあり、複雑な地形の起伏が実感される。それから住宅街の中の階段を降り、崖をなぞる形で蛇行する道をたどった。「泉町という町名ですね」「昔はここにも湧水があったんでしょうね」。しかし、今は斜面までびっしりと宅地化され、道に面して車庫、その上に住居という構造の住宅が並んでいる。泉どころか緑も乏しい。

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(左)野川沿いの小道、斜面もびっしり住宅で埋まる
(右)野川は深い溝の中
 

国分寺街道と交差する一里塚橋の手前まで来ると、野川は自らの狭い谷を離れ、広い下位段丘面(立川面)に出る。私たちは崖線沿いに東へ進んだが、反対側、西約1kmにある武蔵国分寺跡も必見だ(下注)。後日一人で訪れたが、古代人が崖線を意識してこの地を選んだことがわかった。

*注 府中街道と武蔵野線をはさんで東側には、国分尼寺跡もある。

それは、ちょうど国府から北へ延びる官道(東山道)が崖線を越えようとする位置にある。現場の案内板によると、伽藍は崖線を背にして、その南面一帯に配置されていたようだ。崖線の下からは今も清水が湧き出し、中の島に祠を祀る真姿の池を潤していた。昔はもっと多くの湧水があったそうで、寺の財源である水田経営にとっても有利な場所だっただろう。崖線周辺は雑木林が保存されていて、都市化以前の風景を想像させてくれるのもうれしい。

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武蔵国分寺跡
奥に見える林が国分寺崖線
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国分寺・国分尼寺の伽藍と崖線の位置関係図
現地案内板を撮影
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(左)中の島に祠のある真姿の池
(右)崖線沿いに残る雑木林は都立公園として保護されている
 

話を戻そう。

国分寺街道を横断して、さらに東へ進む。崖に沿うこの一車線道は「ハケの道」と呼ばれている。崖のことを、古語で「ハケ」というからだ。しかし、鉄道駅に近いので、泉町同様、斜面もすべて家やマンションの用地にされ、段丘の上下を長い階段が結んでいる。年配の女性が手すりにつかまりながら、それを上っていく。高低差がせいぜい15mとはいえ、「毎日これで駅へ通うとしたら、どうでしょうね」。地形的にはここも「ハケ」に違いないが、植生を剥がしてコンクリート張りにしてしまってはイメージが合わない。

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(左)国分寺駅へ向かう道が急坂で崖線を上っていく
(右)住宅街にも崖線の上下を結ぶ階段が
 

もちろん、国分寺跡にあったような崖線の雑木林と、湧水地いわゆるハケの水が見られる場所もまだいくつか残されている。一つは、今回訪問しなかったが、国分寺駅近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だ。もとは岩崎家の別邸で、現在は都立公園になっている。湧水が注ぐ池が深い谷底にあり、段丘上に設けられた休憩所(紅葉亭)から見下ろすことができる。崖の落差を視覚的にも利用した劇場風の回遊式庭園で、コンパクトながら見応え十分だ。

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殿ヶ谷戸庭園
紅葉亭から崖下の次郎弁天池を俯瞰
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(左)崖を流れ落ちる滝
(右)崖を斜めに下る竹の小道
 

私たちは、その800mほど東にある新次郎池を見た。東京経済大学の敷地内で、林に囲まれた薄暗い窪地に小さな池があり、周囲の崖下5か所から湧水が流れ込んでいる。傍らの銘板によれば、かつてここにはわさび田があったといい、新次郎というのは、それを池を整備した時の東経大の学長の名だそうだ。湧水に手を浸してみる。「おっ、暖かいですね」。今日の最高気温は13度、もはや地下水のほうが暖かく感じる季節になっているのだ。

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林に囲まれた薄暗い窪地にある新次郎池
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(左)一つ一つの湧水は少量だが
(右)池の堰を落ちるときはまとまった水量に
 

さらに200mほど進み、貫井(ぬくい)神社の前まで来た。石の鳥居をくぐると、色づき始めたモミジを映す大きな池がある。その上に架かる朱塗りの橋を渡り、水神様(市杵嶋姫命)を祀る本堂の前に出た。建物を囲むように水路が造られ、清水が流れている。湧出口があちこちにあるらしく、奥から手前へと見る見る水量が増えていくのには驚いた。

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水神様を祀る貫井神社
朱塗りの橋で池を渡る
 

新次郎池も貫井神社も、同じように段丘に食い込んだ形の窪地(下図参照)だ。かつては崖を侵食するほど豊かな湧水があったことを想像させる。都市開発が進み、地表がコンクリートやアスファルトに覆われると、降った雨は雨水管に直行してしまい、地中に浸透しなくなる。減少する地下水に連動して湧き出す水量も減り、すでに枯渇したものも少なくないそうだ。

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新次郎池と貫井神社附近の1:10,000地形図
 

最後に訪れたのは、新小金井街道の脇にある滄浪(そうろう)庭園。大正時代に実業家の別荘の庭として造られたもので、現在は小金井市が管理している。同じように段丘上に入口があり、崖下の湧水を引いた池まで降りていける。池の周りには針葉樹やモミジが鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い森を作っていた。ハケと呼ぶにふさわしい空間だ。「お屋敷の庭といっても相当広いですね」「市街地が拡大する前のものでしょうからね。残っていてよかったと思いますよ」。

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滄浪庭園入口
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崖を降りて池のほとりへ
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鬱蒼と茂る森に差し込む光
 

時刻を見たら、もう12時を回っている。どこかに食べる所があるだろうと手ぶらで来たので、崖線を巡る旅をここで切り上げ、武蔵小金井駅前に出た。昼食を共にして解散する。

改札で3人を見送った後、私はハケの道をさらに下流へ歩いてみた。中央線の駅勢圏から遠ざかるにつれ、風景は郊外色を帯びてくる。国分寺界隈とは違って、住宅地の間に少なからぬ面積の緑地が点在している。地形図に示した、はけの森緑地や美術の森がそうだ。小金井第二中学校の向かいには、個人宅の表札を掲げた大きなキウイ農園(はけの森果樹園)もあった。

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(左)美術の森
(右)はけの森果樹園のキウイ畑
 

やがて道は、はるかに広大な緑地、武蔵野公園に入っていく。土曜日とあって、子どもたちの歓声が広い谷間にこだましている。園地を貫く野川の流れは潤いというにはささやかだが、人工物が少ない風景は自然と心が落ち着く。晩秋の日は短い。午後3時を過ぎるともう、地面に落ちる林の影が長くなってくる。野川公園は北門をカメラに収めただけで、帰途に就くべく、私は新小金井駅に通じる崖線の坂を上っていった。

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武蔵野公園
(左)遠くから子どもたちの歓声が聞こえる
(右)紅葉する公園の樹々
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(左)西武多摩川線の電車が野川を渡る
(右)野川公園北門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図国分寺(昭和61年編集)、2万5千分の1地形図立川(平成30年調製)、吉祥寺(平成30年調製)および20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)を使用したものである。起伏陰影図は地理院地図ウェブサイトより取得した。

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2018年10月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-曽爾高原

2018年秋の本州旅2日目の舞台は、奈良・三重県境に位置する曽爾(そに)高原とその周辺の、東海自然歩道にも含まれているトレッキングルートをたどる。曽爾高原は、すり鉢状の斜面にススキが群生して、秋になると臨時バスが運行されるほど関西の人気スポットの一つなのだが、それを取り囲むように連なる、柱状節理の断崖を剥き出しにした室生火山群の山々もまた人を引き付ける。その風景をゆっくり楽しもうと、敢えて高原へ直行せず、麓の谷間の集落から歩き始めることにした。

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ススキ揺れる曽爾高原
右下の湿原はお亀池
 

10月15日朝、雨上がりの近鉄大阪線の名張(なばり)駅前から、曽爾高原行きの路線バスに乗り込んだ。平日というのに、車内はハイキング装備の人たちで満席だ。参加者は今尾さんと私の2名。地形図話に花を咲かせながら、青蓮寺川(しょうれんじがわ)の渓谷を遡るバスに揺られた。ダム湖が尽きるあたりから、道路は見上げる高さの断崖と川とに挟まれ、大型車1台分の道幅しかない区間が断続する。30分ほど走ったところで、ようやく谷が開けてきた。

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(左)近鉄名張駅西口、レトロな木造駅舎が残る
(右)太良路バス停で下車
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名張市、曽爾村周辺の1:200,000地勢図(1988(昭和63)年修正図)
茶色の枠が下掲1:25,000詳細図の範囲
 

下車したのは、太良路(たろうじ、下注)というところ。杉の巨木が立つ神社の前、村のよろず屋の軒先に停留所の標識が立っている。走り去るバスを見送って歩き始めると、社森の陰から特異な風貌の鎧岳(よろいだけ)が姿を現した。のどかな村里の背後に急角度でそそり立ち、まるで守護神のように谷を見下している。中腹に露出した断崖の連なりは、なるほど鎧のようだ。

*注 太良路は、山一つ越えた太郎生(たろう)地区へ通じる道を意味する地名。バス停のふりがなは「たろうじ」だが、地理院地図の地名情報には「たろじ」とある。

上空は朝から雲に覆われたままだが、幸い雨の予報は出ていない。「ちぎれた雲が流れていくのも、神秘的でいいですよ」と私。橋を渡って、太良路の集落に入り、勾配のきつい沢沿いの旧道を上っていく。林がとぎれたところで振り向いたら、集落の向こうにまた鎧岳が見えた。今度は後ろに兜岳(かぶとだけ)を伴っている。

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太良路集落を見下す鎧岳(右)と兜岳
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別の角度から見た鎧岳(新嶽見橋にて別の日に撮影)
柱状節理の断崖がより顕わになる
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曽爾高原周辺の1:25,000地形図
赤線が歩いたルート
 

クルマ道と合流して少し進み、曽爾高原ファームガーデンの前を通り過ぎる。道路が勾配緩和のループを繰り返す間、徒歩道は森の中をほぼ直登している。胸突き八丁というべき、きつい上り坂だ。1:25,000地形図の倶留尊山(くろそやま)図幅によれば、太良路が標高390m、ファームガーデンが約470mに対して、ススキの原の広がるあたりはもう700mを超えている。

今尾さんが持ってきた地形図には、これから歩くルートが赤でなぞってあった。ただ、行く予定のないところまで延びているので聞けば、「古書店で買ったときから赤線が入っていたんです」。もとの持ち主は、何日もかけて山地を縦走する相当の健脚家だったようだ。

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徒歩道は車道からそれて杉林の中を直登する
 

森の中では風が止むため、じわりと汗がにじんでくる。こんな天気で湿度が高いらしい。落ち葉の積もる薄暗い杉林を登り続けて、国立曽爾青少年自然の家の前に出た。有名なススキの原はこの南側に広がっているはずだ。その全景を確かめようと、さっそく地形図で728m標高点がある高まりのほうに足を向けた。

一帯は、例えるなら半円の客席が舞台を囲む劇場のような地形だ。客席に相当する後ろの山は左右にピークがあり、左のそれは二本ボソ(標高996m)、右端は亀山(標高849m)という。間の鞍部は亀山峠と呼ばれ、太郎生へ抜ける徒歩道が通っている。一方、手前の舞台に当たる部分は凹地で、一部が湿原化して、お亀池の名がある。

この凹地には水の吐け口がなく、一見古い火口のようだ。しかし成因はそうではなく、後ろの山が大規模な崩壊を起こしたときに、その山と押し出された土砂(今立っている728m標高点から南へ延びる高まり)との間にできた窪みだ。風化によりすっかり均され、穏やかな表情を見せているので、過去にすさまじい地滑りが起きた現場とはとても思えない。

国立曽爾青少年自然の家の資料(下記参考サイト)によると、一帯は昔から麓の太良路地区の茅場だったそうだ。毎年春、地区の共同作業で山焼きが行われ、ススキが生育する環境が保たれてきた。刈り取ったススキ、すなわち茅で地区の屋根を葺いていたのだが、瓦やトタン屋根の普及で需要が減少したため、現在は専門業者が引き取り、全国の古民家の葺き替えに使われているという。

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ススキの原が広がる曽爾高原(別の日に撮影)
左端が二本ボソの稜線、中央の鞍部が亀山峠、右端のピークが亀山
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遊歩道が廻るお亀池(別の日に撮影)
 

池のそばのピクニックベンチで昼食を取った後、再び歩き出す。亀山峠までは、ススキが揺れる斜面を斜めに上る丸太階段の遊歩道だ。高度が上がるにつれ、曽爾の谷を隔てた西側の山並みも立ち上がってくる。太良路で確認できたのは鎧と兜だけだったが、今やその左奥にある国見山や住塚山(すみつかやま)、ナイフで片側を切り落としたような形の屏風岩まで一望になる。

室生火山群として括られている山々だが、どれも火山そのものではない。この地域は約1500万年前、南方で活動した火山からの噴出物で埋め尽くされた。火山灰は熱と自重によって溶融し、場所によって厚さが400mにもなる溶結凝灰岩の層を形成した。現在の山地は、これらの地層が水流の侵食を受けた後に残ったもので、ピークが1000m前後で揃っている。山地を特徴づける柱状節理の断崖は、凝灰岩の露頭なのだ。

標高約820mの峠から遠くの山並みにカメラを向けるが、あいにく雲の動きが早すぎて、峰が次々と覆い隠されてしまう。そのうち、亀山の尾根の裏からも霧が湧いてきて、ススキの原をすべり降り始めた。「風伝(ふうでん)峠みたいですね」と今尾さんが言う。風伝峠といえば熊野古道の山越えの一つで、冬場に朝霧が里へ吹き下りる風伝おろしが見られる。偶然にも私も、最近そこを歩いたばかりだ。

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(左)亀山峠へ上る長い階段道
(右)霧に包まれる亀山峠
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曽爾高原から室生火山群を望む
中央が兜岳、その右が鎧岳
 

しばらくそんな旅の四方山話をしながら視界が晴れるのを待ってみたが、かえって霧がこちらへ回ってきて、周りを白一色に塗り込めてしまった。帰りのバスの時刻も気になってきたので、時計の針が1時を指したところで諦め、山を降りることにした。

峠には県境が走っている。西側が奈良県宇陀(うだ)郡曽爾村、東側は三重県津市だが、かつては一志(いちし)郡美杉村といった。その名にたがわず、道はすぐに、すらりと伸びた杉の美林の下へ潜り込んでいく。

ジグザグの山道には、曽爾側と同じように丸太で土留めした階段が組まれているのだが、極端に急斜面のため、谷側の詰めた土がすでに抜け落ちた個所さえある。加えて先月の台風で倒れたと見え、太い木が何本も道を塞いでいる。私たちはそれを一つずつ跨ぎ越しながら、慎重に歩を進めた。谷の傾斜が少し緩むと、それこそ熊野古道のような苔むした石畳が現れた。観光用とは思われず、このルートがかつて主要な往来に供されていたことを示すものだ。

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(左)亀山峠からの下り
(右)急斜面を杉の美林が覆う
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(左)台風による倒木が道を塞ぐ
(右)石畳の山道
 

632m標高点の付近で山道は杉林を抜け出し、軽自動車が通れる幅の舗装道に合流する。そしてしばらく、池の平高原と呼ばれる緩い起伏の、棚状の土地を縦断していく。ここも地滑り地形のようだが、地形図で見る限り、曽爾高原よりはるかに大規模だ。しかし、放棄された茅場に植林が実施されたことで、景観は大きく変わってしまったらしい。同じような湿原もあるはずなのに、荒れ地か耕作放棄地としか見えないのだ。高原で出会ったのは放し飼いにされた2頭の山羊のみで、人のいる気配はなかった。

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池の平高原
(左)倶留尊山は雲がかかったまま
(右)放し飼いの山羊しかいない
 

620m標高点から先は、また急な下り坂が復活し、整地された棚田の中を太郎生(たろう、下注)の村里へ入っていく。太郎生は、堀さんが名張からバスで名松線の伊勢奥津(いせおきつ)駅へ向かう途中で立ち寄った場所だ。しかも季節は秋だった。著書『地図を歩く』(1974年)には、「とある一隅の畠からの、茶褐色の土のうねと、浅みどりの野菜の葉と、たわわに実る柿とを前景にした倶留尊の見はらしは、なかでも私の忘れ得ぬ旅の印象の一つとなった」(p.178)とある。

*注 この地名のふりがなには、「たろう」「たろお」の二通りの表記がある。

しかし残念ながら、私たちが太郎生に降りてもまだ、倶留尊山は中腹まで雲がかかったままで、堀さんを魅了した険しい峰の連なりを拝むことは叶わずじまい。棚田と小川と、その周囲に散在する農家のたたずまいを眺めることでよしとするしかなかった。

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太郎生へ降りる道から見た倶留尊山(別の日に撮影)
 

太郎生郵便局の前に停留所(南出口バス停、下注)の標識を見つけ、名張駅前へ戻るバスを拾った。往きの曽爾高原行きとは打って変わって、乗客は遠来の私たちだけだ。観光地から外れた地方路線にはありがちな話とはいえ、「駅までこのままかな」と他人事ながら気になる。結局、市街の外縁に当たる上比奈知(かみひなち)でようやく女の子が一人乗ってきて、私たちを少し安堵させたのだった。

*注 南出口バス停から100mほど南西に、中太郎生バス停もある。旧道沿いの民宿たろっと三国屋の右の路地を抜けると到達でき、このほうが距離的には近い。

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(左)山麓の上出集落を抜ける
(右)国道沿いの南出口バス停
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図倶留尊山(平成28年調製)および20万分の1地勢図伊勢(昭和63年修正)を使用したものである。

■参考サイト
国立曽爾青少年の家-曽爾のこともの http://soni.niye.go.jp/kotomono/kotomono.html

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2018年10月25日 (木)

コンターサークル地図の旅-豊橋鉄道田口線跡

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田口線の忘れ形見モハ14
 

廃線跡が遠からずダム湖の底に沈む、という話を聞いたのは、確か2年前、巴川の谷中分水(下注)を見に行ったときだった。鉄道が通っていた渓谷に大規模なダム建設が計画されており、ちょうどルートを横切る形で造られるため、それより上流側が水没して、二度と見られなくなってしまうというのだ。

*注 谷中分水の訪問記は「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」にある。

鉄道は豊橋鉄道田口線といい、現 JR飯田線の本長篠(ほんながしの)から三河田口(みかわたぐち)まで22.6kmを結んでいた。沿線にあった広大な御料林の木材搬出や鳳来寺への観光輸送を目的として、1929(昭和4)~1932(昭和7)年に順次開通した。

当初は田口鉄道が運営していたが、戦後、1956(昭和31)年に名鉄系列の豊橋鉄道に合併されて、上記の名称となった。しかし、木材輸送のトラックへの移行や過疎化による人口減少などの影響で、運輸実績が落ち込み、1964(昭和39)年にバス転換の方針が示される。折悪しくその翌年、台風による土砂災害で、最奥部の清崎(きよさき)~三河田口間が不通となった。さらに1968(昭和43)年に田峯(だみね)~清崎間も同様の被害に見舞われたことで、復旧の願い空しく全線廃止されたのだ。

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田口線現役時代の1:200,000地勢図(1969(昭和44)年修正図)
 

2018年10月14日、コンターサークル秋の本州旅の初日は、この廃線跡を追いかける。用地買収や家屋移転がほぼ終わり、ダムの事業工程がいよいよ本体にかかり始めており、今回がおそらく見納めになるだろう。

ちなみに、ルートを追うことができる地形図は、1:50,000が最大縮尺だ。1:25,000は初刊が1970(昭和45)年編集のため、タッチの差で鉄道は描かれなかった。ただし初刊図の段階では廃線跡の大半がまだ手付かずで、幅員1.5m未満の道路記号を使って明瞭に示されている。1:50,000を補完する意味で、以下では大いに利用している。

豊橋からJR飯田線の普通列車に乗った。のんびりと対向列車待ちもあって、終点の本長篠まで1時間20分かかった。電車で来た浅倉さんと私、そして改札前で待っていてくれた外山さん、この3名が本日の参加者だ。この廃線跡に詳しい外山さんが、クルマで見どころを案内してくださる。

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JR本長篠駅
右写真の、今は使われていない左(駅舎側)のホームに田口線が発着していた
 

朝方の雨で路面はまだ濡れているが、雲間から早や青空も覗き始めた。まずは鉄道の終点だった田口に向かって、車を走らせる。県道長篠東栄線から国道257号線へとつなぐ道路はまさに鉄道の通過ルートに沿っていて、クルマの外を流れる景色が、乗ることの能わなかった列車の車窓とだぶって見える。

田口の町は、周辺を流れる河川の活発な浸食によって孤立した高原の小盆地に立地する。その町並みからさらに高い丘の上にある奥三河郷土館を訪れた。ここには田口線の関連資料も保管されているので、美幸線のときのように(下注)探索の前に目を通しておきたいところだが、あいにく移転準備のために長期休館中だ。

*注 美幸線の廃線跡訪問記は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」参照。

ただ幸いなことに、前庭に展示されている田口線の旧車両モハ14は、観察が可能だった。屋根が架かっているので、保存状態もいい。窓から内部を覗くと、片側のロングシートを外して、資料の展示スペースにしてあるのがわかる。行先標は「清崎(三河田口)」と記され、廃止直前の様子を再現しているようだ(下注)。郷土館とともにこの車両も移設される予定だが、新館の建設地、つまり引越し先がほかならぬ清崎だというのは、話が出来過ぎている。

*注 晩年の3年間、不通となった清崎~三河田口間はバスで代行され、列車は清崎止まりだった。

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奥三河郷土館の前庭に静態保存されているモハ14
 

町を通り抜け、森の中のつづら折りの急坂を下る。旧 三河田口駅が設置された場所は、豊川上流の寒狭川(かんさがわ)が長い時間をかけて刻んだ深い谷底で、町との高低差は100m以上もあった。狭い川岸にダム工事用の仮設道路や転流工と呼ばれる水路トンネルが姿を現すなか、旧駅舎とホームの土台の一部が奇跡的に露出している。

その脇に、田口線の年表をはじめ、駅構内図、昭和35年ごろの町の施設配置図など、興味深い資料を掲げたにわか作りの案内板が立っていた。今年は廃線50周年に当たり、駅跡にもそのことを告げる幟が多数、風にはためいている。「今日はこの廃線跡を全線踏破するイベントをやっているはずです」と外山さんが言う。「田口を8時半出発なので、途中どこかで出会うと思いますよ」。

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(左)三河田口駅跡、下段が線路敷、中段がホーム、上段が駅舎の基礎
(右)現役時代の駅(現地案内板を撮影)
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三河田口駅構内図(現地案内板を撮影)
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清崎~田口間の新旧地形図
(左)田口線現役時代の1:50,000(1957(昭和32)年)を2倍拡大
(右)現在の1:25,000(2014(平成26)年)、廃線跡は幅員3.0m未満の道路記号で描かれる
 

廃線跡は、渓谷に沿う1車線の舗装道に転用され、清流の音を聞きながら歩ける絶好のハイキングコースになっている。しかし、ダムの予定地である最初のトンネル(旧 大久賀多第二隧道)の手前までは、赤のカラーコーンや注意を呼び掛ける立て看板が点々と置かれ、もはや工事現場そのものだ。トンネルは下流側にあるため、水没こそ免れるが、関連工事でやはり崩される運命にあるらしい。

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工事現場と化した廃線跡
(左)駅跡近くに工事用仮設道路が立ち上がる
(右)ダム本体の予定地では転流工を建設中
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渓谷沿いの廃線跡と旧 大久賀多第二隧道
(左)北口 (右)南口
 

道を下っていくと、次の旧 大久賀多第一隧道があった。清崎までの間にこうしたトンネルが計6本あるが、昭和初期の建設なので、ポータルは煉瓦積みではなく、飾り気のないコンクリート製だ。しかし、このトンネルは内部が素掘りのままだった。側壁に電線の碍子も残されていて、出自を彷彿とさせる。

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旧 大久賀多第一隧道
(左)内部は素掘りで、電線の碍子が残る
(右)南口、小さな滝が落ちていた
 

やがて渓谷が大きく蛇行する区間にさしかかった。線路はこれを2本のトンネル(入道島第二隧道、同 第一隧道)とその間をつなぐ1本の鉄橋(第四寒狭川橋梁)でショートカットする。橋は4径間のプレートガーダー橋だが、河原へ降りて仰ぎ見ると橋脚はかなりの高さで、大掛かりな工事であったことが実感される。「帝室林野局が工費の半額近くを負担したので、実現した鉄道なんです」と外山さん。

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旧 第四寒狭川橋梁
(左)奥の明るい部分が橋梁。橋は2本のトンネルにはさまれている
(右)寒狭川を斜めに一跨ぎ
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旧 第四寒狭川橋梁
橋脚はかなりの高さがある
 

トンネルの後は高い築堤を築きながら徐々に下降していき、田内隧道をくぐり、川を斜めに渡る。この第三寒狭川橋梁も、5径間のガーダーがそのまま残り、鉄道の雰囲気が濃厚だ。

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清崎駅手前の旧 第三寒狭川橋梁
(左)現在は箱上橋または辨天橋の名で呼ばれる
(右)プレートガーダーが鉄道の雰囲気を残す
 

所期の目的を果たしたので、橋を眺められる川原で昼食を広げた。私はいつもコンビニおにぎりなのだが、今日は珍しく、豊橋駅で壺屋の稲荷寿しを買ってきている。

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豊橋駅名物、壺屋の稲荷寿しを昼食に
 

この清崎から少しの間、廃線跡は国道257号線に「上書き」されてしまう。次に姿を見せるのは、国道の清嶺トンネルの下流側だ。鉄道としては清崎第三隧道なのだが、南口だけが残っていて、崩れてきた土砂のために、内部は水に浸かっている。蒼く澄んでいるものの、かなり深そうだ。左岸に延びる廃線跡は荒れているので、田峯側からアプローチすると、沢を渡る短い橋梁の鉄桁が残っていた。

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(左)清崎第三隧道南口は蒼い水が溜まる
(右)沢を渡っていた橋梁の鉄桁が残存
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田峯~清崎間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000
(中)廃止直後の1:25,000(1970(昭和45)年)、廃線跡が明瞭に描かれる
(右)現在の1:25,000、廃線跡の大半が図上から消えた
 

森林鉄道が接続していた旧 田峯駅を出た後、鉄道はまた寒狭川を渡る。4度目の渡河だがこれが最後で、もう寒狭川の谷に戻ることはない。惜しいことに鉄橋(第一寒狭川橋梁)も、それに続く路線最長の稲目隧道(1511m)も、県道として拡幅改修されたため、昔の面影は消失している。

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田口線のそれを拡幅改修した県道富栄設楽線の稲目トンネル
 

旧 滝上(たきうえ)駅付近では、例の廃線跡ウォークの参加者と思しき集団を見かけた。三河田口からすでに10kmは来ているが、本長篠までの道のりにすればまだ半ばだ。心の中でエールを送りつつ、先を急ぐ。

ここで廃線跡は国道から分かれて、しばらく海老川の右岸を南下する。旧 海老駅の南側からは1車線の舗装道になるので、寄り道した。少し走ると、山水画にでも出てきそうな切り立った断崖が行く手を遮っているのが見えてきた。鉄道の双瀬隧道がそれを果敢に貫いている。クルマから降りて、「ぜひ見てもらいたかった場所です」という外山さん推薦の絵になる景色をしばし嘆賞した。

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切り立った断崖を貫く旧 双瀬隧道
北口のポータルは斜めに切られた珍しいもの
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三河海老周辺の新旧地形図
 

その後、廃線跡はすんなり海老川の谷を下りきると思わせて、旧 玖老勢(くろぜ)駅からまた山越えにかかる。鳳来寺の参道に近づけるためのルート選択なのだそうだ。鳳来寺小学校の脇から踏み分け道を森の中へたどると、高い築堤が昼なお暗い谷を横切っていた。これが廃線跡で、左カーブで切通しを抜けて、路線第二の長さがあった麹坂隧道(441m)の北口に通じている。50年も経つにしては、藪に埋もれることなく、難なく歩ける明瞭さを保っているのが不思議だ。

これに対して隧道の南口は、巴川の谷中分水を巡検した帰りに立ち寄ったことがある。バリケードで封鎖されていたものの、内部は崩れずにこの北口まで今でも貫通しているらしい。

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昼なお暗い谷を横切る麹坂隧道北側の築堤
(左)旧道が築堤の下をくぐる
(右)線路敷は今も明瞭さを保つ
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(左)麹坂隧道北側の切通し
(右)麹坂隧道北口、坑内の湧水が流れ出る
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鳳来寺~玖老勢間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000(1960(昭和35)年)
(中)廃止直後の1:25,000(1975(昭和50)年)、万寿隧道の前後は描かれていない 
(右)現在の1:25,000(2016(平成28)年)、遊歩道となった区間を除き、図上で廃線跡を追うことはできない
 

次に案内してもらったのは、三河大草駅跡だ。鳳来寺駅から山を越えて、本長篠へ降りていく長い下り坂の途中にある。線路はこの区間で、高度を稼ぐために谷筋を離れて、山手を迂回する。それで、のどかな山田の風景を串刺しにするように、廃線跡のトンネルと高い築堤が横切っているのだ。

そのトンネルの一つ、大草隧道を南へ抜けたところ、薄暗いスギ林に包まれて、苔むした石積みのプラットホームが残っていた。辺りは背筋が寒くなるほどひと気がなく、ここで電車を待つのは勘弁願いたいところだ。ところが、崩れかけたホーム越しにトンネルが明るく透けて見えるのが幻想的だと、今やインスタ映えする景色を求めて、わざわざ写真を撮りに来る人がいるという。

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富保、大草両隧道の間で谷を渡る築堤

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三河大草駅跡
(左)南望
(右)北望、薄暗い森の中でトンネルだけが透けて見える

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本長篠~万寿隧道間の新旧地形図
 

最後に、県道長篠東栄線の脇に立つ石積みの高い橋脚のところで車を停めた。川と道路を一気にまたいでいた大井川橋梁の遺構だが、上空に渡されていたはずの橋桁はとうになく、橋脚だけがひとり谷間から天を仰いでいる。この後、田口線跡は再び1車線の舗装道として復活する。そして短い旧 内金隧道を経て、桜並木の間を緩くカーブしながら、ゴールの本長篠駅へ近づいていく。

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県道脇で天を仰ぐ旧 大井川橋梁の橋脚
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桜並木に続く旧 内金隧道
 

廃線跡ウォークなら7時間はかかる行路を駆け足で巡る旅だったとはいえ、谷を縫い、山をいくつも越えて、ここまで出てくる道のりの険しさ、遠さは想像以上のものがあった。鉄道廃止が取り沙汰された当時、地元では強い抵抗があったそうだ。それは歴史あるものに漠然と抱くノスタルジーを超えて、この難路を45分ほどで走破していた田口線に対する現実的な信頼度の高さを示す証しだったのではないか。路線が有していた存在意義は、今なら理解できる気がする。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田口(平成26年調製)、海老(昭和45年測量および平成25年調製)、三河大野(昭和50年修正測量および平成28年調製)、5万分の1地形図田口(昭和32年要部修正測量)、三河大野(昭和35年資料修正)および20万分の1地勢図豊橋(昭和44年修正)を使用したものである。

■参考サイト
田口線(田口鉄道)、今蘇る http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
設楽ダム工事事務所 http://www.cbr.mlit.go.jp/shitara/

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2018年10月19日 (金)

コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車

2018年9月2日、北の大地はひんやりとした秋の空気に包まれ、見上げればすっきりと青空が広がっている。まだ蒸し暑さが続く関西から来た者にとっては、なんともうらやましい。今朝の旭川の最低気温は10度まで下がったが、昼間は23度という予想なので、行楽に出かけるには最適の季節に違いない。

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仁宇布の美幸線跡を活用した「トロッコ王国美深」
 

旭川駅9時ちょうど発の稚内行き特急「宗谷」に乗り込んだ。本日のコンターサークル道内の旅は、国鉄美幸線の跡をたどることになっている。美幸線というのは、かつて宗谷本線の美深(びふか)から分岐して、仁宇布(にうぷ)まで21.2kmを走っていたローカル線だ。1964(昭和39)年開業という遅咲きの路線で、沿線が人口希薄な山中のため、筑豊の添田線などとともに日本一の赤字路線の座を争っていたことで知られる。

そもそも路線は仁宇布が目的地ではなく、分水界を越えて、オホーツク海岸の北見枝幸(きたみえさし)で興浜北線と接続する計画だった。起終点の駅名からそれぞれ一字を採った美幸線の名はなかなかよくできているが、国鉄再建法の成立で第一次廃止対象線の一つに挙げられ、1985年に廃止されてしまった。運行されたのはわずか21年で、その名にそぐわず、幸薄かった国鉄線だ。

私も美幸線には一度だけ乗ったことがある。メモを繰れば廃止の2年前、1983年8月のことだ。一日4往復、朱色のディーゼルカーが単行で走っていた。このときは同じ道北の天北線や興浜北線・南線なども巡ったのだが、悲しいことにその後すべて路線図から消えてしまった。廃止から33年、美幸線跡は今どうなっているのだろうか。

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美幸線現役時代の1:200,000地勢図(1973(昭和48)年修正図)

名寄駅で宗谷から降りて、レンタカーを運転してきた真尾さんと合流した。参加者はこの二人だけだった。札幌からの距離は200km以上(下注)、高速道路を使っても車で3時間近くかかる場所だから、無理もないことだ。

*注 JR(国鉄)の営業キロは、札幌から名寄まで213.0km。仁宇布までは256.3kmで、ほぼ東京~浜松間に相当する。

まずは、起点の美深駅へ向かうことにする。そこに美幸線の資料館があると聞いていたからだ。駅舎はレンガタイル貼りの2階建てで、美幸の鐘と称する時計塔が中央に立ち、見た印象は名寄駅よりもはるかに立派だ。階段を上がった2階の半分が展示室に充てられていた。開通から廃止に至るまでの写真や資料、駅や乗務員の備品、時刻表、乗車券類のほか、廃止撤回をめざして精力的に行っていた宣伝活動の品々も揃っている。たいへん充実した内容で、33年経ってもなお、消えた鉄道を惜しむ地元の人々の気持ちが伝わってくる。

1階の売店に記念グッズがあったので、サボ(列車の行先標)を象ったキーホルダーを土産に購入した。美幸線の乗り場は、確か向かいの島式ホームの外側、3番線だったはずだ。駅舎の横から覗くと、当時の面影がまだ残っているように見える。

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(左)美幸の鐘のあるJR美深駅舎
(右)美幸線の列車が発着していた美深駅3番ホーム(島式ホームの外側)
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美幸線展示室の展示品から
(左)サヨナラ列車の写真
(右)サボ(列車の行先標)、切符ほか関係資料
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(左)仁宇布駅の発車時刻表
(右)赤字路線を逆手に取った宣伝活動のチラシ
 

美深駅を後にして、道道49号美深雄武線を東へ進んだ。畑の中をまっすぐに山手へ向かう一本道だ。美幸線には中間駅が二つあり、東美深、辺渓(ぺんけ)といった。後者は道道のすぐ横にあったはずなので、車を停めて行ってみた。

十号川に架かるコンクリート橋が残っていたから、線路が通っていたのは確実だが、前後に続いていたはずの築堤は消失し、畑に変わっていた。当然、辺渓駅の跡も見当たらない。真尾さんが、橋台の際の、築堤を崩したと思しき場所に生えていた木を指さす。すでに幹の太さが一抱えもあり、経過した時間の長さを感じさせた。

このあと線路跡と道道は重なり合うように渓谷に入っていく。人家は全くないので、次はもう終点の仁宇布だが、駅間距離は14.9kmもあった。何度か渡るペンケニウプ川には、美幸線のコンクリート橋が、旧 美深町営軌道(下注)のものと思われる橋の遺構と並び残っている。ガーダー橋と違って、橋桁だけ撤去するわけにはいかないからだが、今となっては貴重な史跡だ。それに比べて、道路に並行していたはずの線路跡は、森の中で自然に還ってしまったようだ。

*注 美深町営軌道は、美深~仁宇布間にあった762mm軌間の簡易軌道で、主として木材輸送に用いられたが、美幸線開通に先立ち、1963年に廃止された。

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美幸線廃線跡
(左)辺渓駅手前の十号川に架かるコンクリート橋
(右)道道の第四仁宇布橋から、町営軌道の橋台(手前)、美幸線の橋梁(奥)を望む
 

やがて、高広パーキングと書いた標識が現れた。ここから仁宇布駅跡までの間は、線路が残されている。ディーゼルカーの代わりにレールバイク(軌道自転車)を使って、美幸線乗車を追体験できる観光施設に使われているのだ。当地ではレールバイクではなくトロッコと呼ぶので、以下の説明はそれに倣うことにしよう。

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仁宇布周辺の1:25,000地形図
トロッコ専用線路の注記がある

仁宇布駅跡を拠点とする「トロッコ王国美深」は、想像以上に設備の整った施設だった。車庫と整備場を兼ねた大きな建物と、その前に3本の側線を備えたヤードもある。整備場に隣接する高床のホームは旧 仁宇布駅のもので、子ども用のトロッコのミニコースが発着している。その後ろには、どういう経緯か知らないが、国鉄時代の581系寝台電車(サハネ581-19)が停めてあり、内部の見学も可能だ。長年の風雨に曝されて、塗装は無残に剥がれているものの、内装はまだきれいだった。

さっそく王国の乗車受付というか、入国審査カウンターへ行く。「広い施設ですね」と話しかけると、係官(?)の女性は「もう20年やっています。その間に拡げていったんです」と言う。トロッコ運行は1998年7月に始まっていて、この種の廃線跡活用では草分け的存在だ。支払いを済ませ、入国旅券の査証欄にスタンプを押してもらって、手続きは完了した。

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「トロッコ王国美深」
(左)現「駅舎」、コタンコロカムイ驛の看板が掛かる
(右)内部の休憩スペース
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(左)正面の高床ホームは美幸線時代の遺構
(右)車庫の奥に置かれた581系寝台電車
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記念スタンプと記念乗車券
 

乗り場に出て、車両を観察する。3人掛けロングシートが前後に並ぶ6人乗りが主だが、グループ用の9人乗りも見かけた。全部で20台あるというから、人気のほどが知れる。車体には農作業などに使われる汎用小型エンジンが搭載されているので、足漕ぎは必要ない。クルマを運転する要領で、床にあるアクセルを踏めば走り、ブレーキを踏めば停止するのだ。サイドブレーキもついていて、停車中はこれを手前に引いておく。こうした操作があるため、運転する人は、普通自動車免許の提示を求められる(下注)。

*注 免許証を持っていない場合は、スタッフが運転する。

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トロッコ車両
(左)汎用小型エンジンを搭載
(右)運転席の床に設置されたアクセルとブレーキのペダル(緑の矢印)
 

トロッコは毎時00分の出発だ。受け付けたグループ数に応じて台数が用意され、少し間をおいて順にスタートする。私たちは12時発で、全部で6台走るうちの4番目だった。発車10分前に全員、乗り場前に集合して、スタッフの方から乗車に際しての注意事項を聞いた。
「コースは片道5kmありますので、往復で30~40分かかります。安全のために、前を行くトロッコとの車間は詰めないでください。100m程度空けて、つかず離れず走るようにお願いします」

「途中踏切が6か所あります。線路は廃線になっていますので、道路のほうが優先です。農道林道で車はめったに通りませんが、十分注意してください。鉄橋も大小合わせて6か所あります。落下防止のガードレールなどはないので、アクセルを緩めて通過してください。それから、ズボンのポケットに車の鍵やスマホなどを入れている方は、バッグか何かにしまったほうがいいです。線路の脇はすぐ草むらで、落とすとまず見つけられません」。

「折り返し点はループになっていて、上りの急カーブです。スピードを出し過ぎると脱線します。逆に緩めすぎると停まってしまいます。もし車輪が空転して再発進できないときは、助手席の人が降りて後ろから押してください…」。

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出発説明はこの看板の前で受ける
 

乗り場に移動し、赤色の17号車に乗り込んだ。真尾さんが運転席に座る。順番が来ると、スタッフの人が後ろのエンジンを始動した。出発だ。汎用エンジンのバタバタという騒音が響き渡り、それにレールの継ぎ目を通るときのゴトンゴトンというジョイント音が加わる。車体は絶えず小刻みに揺れ、乗り心地がいいわけではないが、風を切って本物の線路の上を滑っていくのは特別な感覚だ。

農道を横切り、白樺の並木を抜け、清らかな谷川のせせらぎを渡り、広葉樹の林に包まれる。片道だけでもけっこう乗りがいがある。真尾さん曰く「アクセルの遊びがないので、踏むとすぐ反応しますね。加減が難しい」。

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トロッコは白樺の並木を抜け、緑濃い森の中へ(左写真は帰路写す)
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(左)踏切の線路側に立つ一時停止標識(通る車はめったにないが)
(右)橋はコンクリート製で、バラストが敷かれ、下が透けてはいない
 

ようやく終端まで来た。ループは鉄道としては確かに超急曲線で、上り勾配にしてあるのは、速度を落とさせるためだとわかる。通過にはアクセルとブレーキの微妙な調節が必要だが、「だいぶ感覚がつかめてきました」と、停止することもなく無事クリアした。真尾さんは以前にも一度乗ったことがある。「そのときは係の人が手作業で1台ずつ方向を変えていましたから、ずいぶん省力化されましたね」。

ポイントの手前に係員が立ち、すべての車両がループに入るのを待っている。それからポイントを切り替えて、再び1台ずつ発車し、同じ線路を戻っていく。日曜ということもあって、次の13時発も6~7組並んでいて、なかなかの盛況ぶりだった。

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高広の終端ループにさしかかる
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(左)超急カーブ、速度注意!
(右)ポイントの交差角度も急過ぎて、汗
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ループに全車両が入った後、ポイントが切り替えられ、仁宇布に向けて再発車
 

昼食をとった後は、天竜沼へ寄り道した。仁宇布の南南東約5km、松山の中腹にある森の中の湖沼だ。駐車場の端から始まる遊歩道を少し降りたところに、シナノキやナラ、エゾマツの深い林に囲まれて、ひっそりとたたずむ沼があった。濃淡ない混ざった木々の緑が、水面におぼろげに映り込んでいる。池を半周する木道があり、それを伝っていくと、見る角度と光線の差し加減によって、沼の表情が明から暗へ、また明へと刻々と変化するのがおもしろい。

これは、堀さんが好んで訪れた、無名で多少とも行きにくいところにある小さな沼、「B級湖沼」に該当するだろう。「実は、あの言葉を言い出したのは私なんです」と真尾さん。B級グルメなどに倣ってそう呼んでいたのを、堀さんが著書で取り上げたのだそうだ。

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森に囲まれ静かにたたずむ天竜沼
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木道が沼を半周している
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天竜沼周辺の1:25,000地形図
 

せっかく仁宇布まで来たので、時間の許す限りで、美幸線の未成線、すなわち未開通のまま放棄された線路の跡を追った。1:200,000地勢図に書き込んだルートのとおり、分水界の西尾峠を越えた後も、線路はまったく人家のない山中を縫っていく。これらは路盤工事がかなり進捗していたにもかかわらず、美幸線の営業廃止に伴い、あらかた原野や森に埋もれたか、農地その他に還されてしまった。

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牧場を横断する美幸線の未成線跡
 

その中で例外的に再利用されているのが、仁宇布~北見大曲間に掘られた第2大曲トンネル(長さ1,337m)だ。2車線に拡幅改築されて、道道美深中頓別線の天の川トンネル(1,353m)に生まれ変わり、難所だった大曲峠の山道を置き換えた。形は違えども、鉄道構想に込められた願いを実現したわけだ。私たちはこの道路トンネルを通り抜け、経緯を記す案内板を見届けて、全線が幻と化した美幸線跡を後にしたのだった。

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未成線のトンネルを拡幅改築した道道の天の川トンネル
(左)西口ポータル
(右)経緯を記す西口の案内板
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美幸線未成線のルートと駅予定地
1:200,000地勢図(1972~73(昭和47~48)年修正図)に加筆
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図仁宇布(平成22年更新)、20万分の1地勢図名寄(昭和48年修正)、枝幸(昭和47年修正)を使用したものである。

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2018年6月 6日 (水)

コンターサークル地図の旅-淡河疏水

兵庫県東播磨地方のいなみ野(印南野)台地は、日本で最も灌漑用ため池が密集する地域だ。水田に対するため池の面積は、地区によって3割にも達するという。瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、台地は周囲を流れる河川より数十m高く、また表土が山砂利層であることから、もともと水が得にくい土地だった。

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御坂サイフォン橋
手前が1891年築の石造橋、奥は1953年築の鉄筋コンクリート橋

江戸時代の新田開発で、周辺や台地内の河川から水路が引かれたが、既存の水利権との調整で、取水できるのは秋から春に限られた。そこで、堤を築いて池を造り、水をいったんそこに引き込んでおき、必要なときに使えるようにした。ため池が多いのはそれが理由だ。しかし、農業生産が拡大するにつれ、水不足は再び顕著になっていく。

より遠い六甲山地(六甲山系および丹生(たんじょう)山系)に水源を求める案は、すでに18世紀後半から唱えられていたというが、流路が藩をまたぐため、利害調整が難しく、話は容易に進まなかった。明治に入り、最終的に兵庫県に統合されたことで、計画がようやく動き出す。

当初、取水地は山田川中流と目されていたが、調査の結果、水路予定地の地質が悪いことが判明し、一本北の川筋である淡河川(おうごがわ)に変更された。導水路は最初、川の右岸の山中を伝う。そして御坂(みさか)で志染川(しじみがわ、下注)の谷を横断した後、芥子山(けしやま)を隧道で貫き、いなみ野台地に出る。この淡河疏水(おうごそすい、下注)は1888(明治21)年1月に着工され、難工事を克服して1891(明治24)年に完成を見た。

*注 御坂で淡河川と山田川が合流して、志染川と名を変える。
*注 正式名は淡河川疏水。なお、「疏」は当用漢字外のため、地形図では淡河「疎」水と表記される。

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淡河疏水、山田川疏水の概略ルート

御坂で横断する谷の比高は60m以上ある。このため、横浜水道の設計者である英国人土木技師ヘンリー・S・パーマーの提案により、逆サイフォン構造が採用された(下注)。管路延長は749.32m(水平距離735.30m)で、谷底を流れる志染川は、全長56.95mのアーチ橋を架けて通過する。管路の吐口は呑口より2.45m低いだけだが、管路を満たした水は、連通管の原理で谷を隔てたこの位置まで上昇してくる。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来のサイフォンとは構造が異なるが、以下ではこの名物区間のことをサイフォンと記す。

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御坂サイフォンの見取図。現地の案内板を撮影

前置きが長くなったが、2018年5月28日のコンターサークルSの旅は、この淡河疏水の探索がテーマだ。まずはお目当てのアーチ橋、御坂サイフォン橋に行き、その後時間が許す範囲で、疏水の名物スポットを巡りたいと思っている。

JR三ノ宮駅の高架下にある神姫(しんき)バスのターミナルから、9時10分発の西脇営業所行きに乗車した。三木や小野を経由する便だが、御坂にも停まるので、現場へのアプローチとしては理想的だ。

朝の郊外方面なので、乗客は数えるほどだった。三宮を出ると、長い新神戸トンネルで六甲山系を一気に越え、箕谷(みのたに)ICから志染川沿いに下っていく。御坂バス停前に集合したのは、バスに乗ってきた今尾さん、浅倉さん、私と、自家用車で到着していた相澤夫妻の計5人だ。

サイフォンのありかは、すぐそばの山腹に黒い鉄管が横たわっているので、探すまでもない。斜面を降りた鉄管は地中に潜ってしまうが、跡を目で追うと、県道を越え、御坂神社の脇を通り、集落内の道に出る。そしてそのままサイフォン橋に接続する。橋は本来、車一台優に通れる幅があるのだが、上流側はチェーン柵を張って通行できなくしている。「明治の橋が老朽化したので、戦後(1953(昭和28)年)、下流側に新しい橋が造られ、水路もこちらを通っているそうです」と私。

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御坂サイフォン橋の路面。この下に管路が通っている
(左)北側から写す。上流側は通行不可になっている (右)南側から写す

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御坂サイフォン周辺の地形図(等高線は10m間隔)

橋のたもとから右に分かれる小道をたどると、川原に降りることができる。流れに架かる沈下橋の上に立って、眼鏡橋の通称をもつ軽やかな2連アーチを眺めた。ただ、前面に来るのは鉄筋コンクリート製の昭和の橋なので、隠れている明治橋が見える位置まで、川原の草藪を漕いでいった。

明治のサイフォン橋は、アーチ部も橋台も石造りだ(冒頭写真)。表面にモルタルを吹き付けて補強した跡があるが、下部ほどその剥離が目立つのは、大水のときに受けた被害だろうか。昭和橋は、明治橋のプロポーションを踏襲している。開腹と充腹というデザイン上の違いはあるものの、並んでもあまり違和感がない。下から仰ぐと、まるでお爺さんに若者が寄り添い、支えている構図だ。

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(左)並ぶアーチを川原から見上げる。左が明治橋 (右)昭和橋の側面
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斜面に横たわるサイフォンの管路 (左)橋の南側から写す (右)北斜面に接近

橋を後にサイフォンの南側まで行ってみたが、管路が再び地表に出たところで通行止めの柵がしてあった。それで逆の北側に回る。急坂の小道を上り、老人ホームの手前で折れて、疏水べりに出た。幅2~3mの水路にまだほとんど水は来ていない。この上流には石積みのポータルをもつ隧道があるはずだが、周囲の草丈が高すぎて、踏み込むのは躊躇された。

一方、下流側は水路に蓋がされ、その上が通路になっている。おりしも土地改良区の人が水路のゲートの調整に来ていたので、一言お断りしたうえで、その道を先へ進んだ。地形図では庭園路の記号で書かれている林の中の道は、枝葉が積もっているものの歩きやすい。少し行くと、急に視界が開けて、サイフォンの吞口にある枡が現れた。

そこは格好の展望台で、谷を降りていく管路とサイフォン橋を通る道、向かいの谷を上る管路が直列に並ぶさまが一望になる。下から見上げるのとは違う、スケールの大きな眺めだ。「サイフォン全体がわかる。ここはいいですね」。今日は曇りがちで日差しこそ少ないが、谷間はやや蒸し暑かった。それに比べて、山の上は心地よい風が通う。一行はしばらく風に吹かれながら、130年前の偉業を成し遂げた地元の人々の熱意に思いを馳せた。

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呑口(北側の山上)からの眺望
背景は三木総合防災公園内の施設、その後ろは芥子山

「さっきの神社の付近に三角点がありますね」と地形図を眺めていた今尾さんが言う。山を下りた後、神社の境内に狙いを定めて探してみた。案の定、社の奥の竹林の中に「基本測量」と記された杭があった。相澤さんが慣れた手つきで落ち葉の下を掘り返すうち、目印となる自然石とその中心に測量標の頭が現れた。「三角点にしては見通しの悪い場所ですね」「設置したときは竹林もなく、開けていたんでしょう」。

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(左)御坂神社正面 (右)三角点の探索

相澤さんの車に同乗させてもらい、移動を開始した。東播用水土地改良区の事務所でもらった疏水の資料と地形図を見比べながら、私がナビをする。まず車を停めたのは、練部屋(ねりべや)分水所だ。淡河疏水は、後にできた山田川疏水(下注)と合わさり、いなみ野台地の比較的高い位置にあるこの分水所に達する。そしてここで5方向に分けられる。

*注:1915(大正4)年竣工。かつては坂本で山田川から取水していたが、1991(平成3)年以降、呑吐(どんど)ダムから導水している。呑吐ダムには、さらに北部の大川瀬ダムから水が送られてくる。

最初は方形に煉瓦を積み上げたものだったそうだが、後に六角形に改修され、1959(昭和34)年に現在の直径10mある円筒分水工に置き換えられた。ここでは、送られてきた水を円筒の中心部から湧出させ、円筒外周部に分配比に応じた仕切りを造って、越流させている。分水を可視化して公平性を担保しているわけで、賢い仕掛けだ。

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(左)練部屋分水所の円筒分水工 (右)分水工の構造図。現地の案内板を撮影

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練部屋分水所周辺の地形図

ここで昼食。水音を間近に聞きながら、こどもの頃のサイフォン遊びの思い出から、水車で搗いたそばが美味い理由や、水力で動くケーブルカーに乗った話まで、水にまつわる話題に花が咲いた。

東京へ帰る今尾さんをJR土山駅へ送って行った後、来た道を戻って、淡山疏水・東播用水博物館を訪ねた。淡山(たんざん)疏水とは、淡河川疏水と山田川疏水の総称だ。前庭に、サイフォンで使われた鉄管の断片が置いてあった。初代のそれは英国から輸入した軟鉄製で、後年の漏水対策として分厚いコンクリートが周囲に巻かれた状態で保存されている。今、現地で使われているのは1992年に交換された3代目だそうだ。

館内には水路のルートをランプで示す地図や、明治期の疏水施設の写真展示もある。案内人さんの、「水路管を清掃すると魚がいっぱい、ときには亀まで出てくることがあります。小さいときに入ったやつがパイプライン暮らしで育ってしまって」という話には笑った。

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博物館の前庭にあるサイフォン管の展示

この近くに、疏水の石造橋が残されている。掌中橋(てなかばし)といい、小川をまたぐ長さ7.6mの小さな水路橋だ。1914(大正3)年竣工と時代が下るが、堅牢そうな花崗岩のアーチと側面の煉瓦張りで、見栄えがする。すでに水路の用はなしていないが、元の場所に手を加えることなく残されており、疏水関連の貴重な遺産だ(下注)。相澤夫人に臨時のモデルをお願いして、写真を撮った。

*注 西方にある、より規模の大きな平木橋(長さ16.2m)は、道路工事に支障したため、移築保存された。

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掌中橋。欄干には橋の名とともに請負人、石工の名が刻まれる

水路トンネルのポータルを見ておきたかったので、相澤さんにまた車を走らせてもらった。目星をつけたのは、雌岡山(めっこさん)の西麓、古神(こがみ)地内の田んぼの中にある幹線水路の隧道だ。ところが、法面をすっかり草むらが覆っていて近づけない。やむをえず道路から遠望したのが下の写真だ。几帳面な石積のポータルの下に、煉瓦を巻いた楕円形の吐口が見える。「流量が少なくても泥などが溜まりにくいように、底を丸めてあるんでしょう」と浅倉さん。

御坂で会った土地改良区の人が、来週、再来週には田植えが始まる、と言っていたのを思い出した。もう6月だ。あの画期的なサイフォンで谷を渡って、この水路にたっぷりと水が送られてくる日も近い。

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(左)雌岡山 (右)その西麓にある隧道吐口

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、和歌山(昭和59年編集)、姫路(昭和59年編集)、徳島(昭和53年編集)、および地理院地図を使用したものである。

淡河疏水、山田川疏水の概略ルートは、農林水産省近畿農政局東播用水二期農業水利事業所 製作の「いなみ野台地を潤す水の路 ”淡河川山田川疏水”」所載の図面を参考にした。

御坂サイフォンの写真は別途、晴天時に撮影したものを使用している。

■参考サイト
いなみ野ため池ミュージアム http://www.inamino-tameike-museum.com/
 トップページ > ため池資料館 >「淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"」に詳しい資料がある。

農林水産省「御坂サイフォンを設計したパーマー」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/hyogo_02/

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2018年6月 2日 (土)

コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年のコンターサークルS 春の旅本州編の後半は、関西地方が舞台だ。5月27日は、昔の風情を残す旧 高野(こうや)街道と、サイクリングロードになっている南海高野線旧線跡を通して歩いた。駅でいうと、河内長野(かわちながの)と天見(あまみ)の間、8kmほどの距離だ。

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吉年邸の大クスノキ

10時30分、河内長野駅の改札前に集合したのは、今尾さんと私と、飛び入りで参加してくれた海外鉄道研究会のTさんの計3人。駅前広場の一角にある高野街道の碑のところから、今日の歩きをスタートさせた。

高野街道というのは、古来、京や大坂と真言密教の聖地高野山との往来に使われたルートの総称だ。京都方面から生駒山地の西麓を南下してくる東高野街道、堺から南東へ進む西高野街道など、道筋はいくつかあるが、それらが最終的に河内長野で一本にまとまり、紀見峠(きみとうげ)を越えていく。

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河内長野駅前の高野街道碑

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河内長野~三日市町周辺の1:25,000地形図

なかでも河内長野から三日市宿にかけては沿道に見どころが点在している。駅前から南に向かうと、立派な旧家、吉年(よどし)邸がある。だが屋敷より目を引くのが、庭に生える樹高20m、枝張り30mもあるという大クスノキだ。家の裏手から噴き出すように枝葉を広げ、白壁の土蔵を今にも呑み込んでしまいそうな勢いだ(冒頭写真)。

その脇で道は二手に分かれる。「右のほうが古い道なので、そっちを通ろうと思います」と案内役の私。今尾さんが持参した明治期の地形図では、三日市宿へショートカットする道がすでに描かれているので、右は旧々道ということになる。

段丘崖を降りて道が直角に曲がる所に、天野酒の醸造元、西條合資会社の風情のある建物が軒を連ねていた。道の左側(南側)が登録有形文化財の旧店舗「さかみせ」で、幕末から明治初期の建築だそうだ。修復工事が終わったばかりなので、軒に渡された銅の雨樋がまだ艶々としている。最近の景観整備事業で路面が石畳に置き換えられたこともあり、ここだけ昔にタイムスリップしたような一角だった。

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(左)銅の雨樋が光る西條合資会社の旧店舗
(右)旧西條橋を渡ると別久坂(2018年3月撮影)

旧西條橋で石川を渡った後は、また坂を駆け上がる。別久(びっく)坂と呼ばれるこの急坂で、道は烏帽子山の山裾にぴったりと張り付く。中世、山頂には城が築かれており、「防衛戦略上や経済的な理由から、高野街道を山裾に取り込んだものと考えられます」と案内板は語る。確かにここは上位段丘面で、宅地がなかった頃は遠くまで見通しが利いただろう。烏帽子形八幡神社の門前には休憩用のベンチがこしらえてあった。鬱蒼と茂る森の中から、鶯のさえずりが聞こえてくる。

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烏帽子形八幡神社の門前

上田の高札場跡で直角に曲がると、今度は松屋坂の急な下り道だ。吉年邸から直進してきた旧道と合流してすぐ、旧 三日市交番が公開されていた。木造2階の小さな建物だが、築年は古く1921(大正10)年とされる。「駅前に新しい交番ができるまで、駐在さんがここに詰めていたんです」とボランティアの案内人さん。かつてはすぐ隣に町役場もあったというから、辺りは行政の中心だったのだ。

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(左)旧 三日市交番が公開中 (右)風情を漂わせる三日市宿の家並み

加賀田川を渡る。私たちが注目したのは左に見える高野線鉄橋、ではなくその手前(西側)に残された煉瓦の旧橋台だ。おそらく1914(大正3)年開通時のもので、イギリス積みのどっしりとした外観が頼もしいが、観光パンフレットには何ら言及がない。「これも文化財なんで、説明板の一つぐらいほしいですね」とTさんが残念がる。「街道の風物じゃないと関心がないんでしょうか」と私。

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(左)高野線単線時代の煉瓦積み橋台 (右)現在線の脇に残る

それに対して宿場の歴史に関わるものは、本陣格の旅籠だった油屋跡、19世紀後半に造られ現存する八木家住宅と、どれも丁寧に解説されている。背景にショッピングセンターの無粋な建物が見え隠れするものの、蛇行する街路沿いに懐かしい瓦屋根の町屋が続いて、写真の一つも撮りたくなる界隈だ。

三日市町駅前まで来たので、少し早いが、そのショッピングセンター、フォレスト三日市の空調の効いたベンチを借りて、昼食にした。今日は気温が30度に近く、空気の重たさが梅雨の季節が近いことを知らせている。

駅を後に、直線状の旧道をなおも進む。石見川を渡る新高野橋の北のたもとに、八里石を見つけた。高さ178cmの立派な石碑で、おもてに「西是(これ)ヨリ高野山女人堂江(へ)八里」、側面に安政四(1857)丁巳年二月の日付が刻まれている。傍らの案内板によれば、これは堺から高野山まで13里ある西高野街道に沿って一里ごとに建てられた標石の一つで、すべてが今も残っているという。「日本のマイルストーンですね」と今尾さんが感心する。

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(左)八里石 (右)街道は紀見峠に向けてなおも延びる

史跡などの見どころはおよそこれが最後で、旧街道自体もこの先、断続的に国道に取り込まれてしまう。大阪府が作成したハイキング地図は、「車が多く、歩道がない区間もあるので、国道の脇道をのんびりと歩くこと」を勧めている。この脇道というのが、南海高野線の廃線跡を転用したサイクリングロード(歩行者自転車専用道)だ。一般道路で代用される区間はあるものの、天見川の谷に沿って約5.5kmの間延びている。

南海高野線には急勾配急曲線の連続する山岳区間があり、ズームカーと呼ばれる高性能の専用車両が活躍する舞台となっていた。今でこそ橋本~極楽橋間に短縮されているが、かつては大阪寄りの紀見峠の前後区間もそうだった。

1970年代に入ると、全国的なニュータウン開発の波が山間部まで及んでくる。それに呼応して高野線でも、河内長野~橋本間で輸送力強化を目的とした複線化が進められた(下注)。大型車両の乗り入れが可能となるよう、高架橋やトンネルの新設による線形の抜本的な改良も実施された。そしてその引き換えに、谷間を曲がりくねっていた単線の旧線は任務を解かれ、廃線跡となったのだ。

*注 複線化(多くの区間でルート変更を伴う)の時期は以下のとおり。
河内長野~三日市町 1974(昭和49)年、三日市町~千早口 1984年、千早口~天見 1983年、天見~紀見峠 1979年、紀見峠~御幸辻 1983年、御幸辻~橋本 1995年(ただし新線切替は1994年)
 旧線区間はカーブの最小半径が160mだったが、これを400m(一部240m)に緩和した。反面、ルートをショートカットするため、最大勾配は旧線25‰に対して新線は33‰とされた。

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三日市町~天見周辺の1:25,000地形図
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高野線旧線時代の地形図(1977(昭和52)年修正測量)。範囲は上図と同じ

美加の台(みかのだい)駅の500m手前で、線路際から左前方へサイクリングロードが分かれていく。軽自動車なら通れる道幅で、簡易舗装もされている。路側に植え込みや並木が続いているから、一般的な農道でないと知れるが、案内板などは見当たらない。立っているのは歩行者自転車専用の道路標識のみ。旧高野街道のルートマップでもせいぜい「国道の脇道」扱いだから、地元では観光資源とはみなされていないのだろう。人通りもなく、私たちが歩いている間、サイクリストのグループと一、二度すれ違っただけだった(下注)。

*注 自転車旅行者の間では、由来は定かでないが、「トトロ街道」と呼ばれているという。

小道はさっそく、木漏れ日が差し込む谷間に入っていく。少しの間、桜の並木が造られている。周りの林に負けないように育ったと見えて、かなりの丈がある。「線路のそばに咲いていたのかな」「枝ぶりから見て、整備のときに植えたんでしょうね」。廃線からすでに30年以上経つので、桜の木なら十分育つだろう。

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(左)サイクリングロードになった旧線跡が分かれていく
(右)谷間を桜並木が彩る(いずれも2018年3月撮影)

右手には現在線の高架に続いて、ニュータウンの玄関口として新設された美加の台駅が見える。丘の上には大規模な住宅地が広がっているはずだが、谷間にいては実感できない。現在線のガード下をくぐった後は、さらに谷が深まった。天見川の清流を二度横切るので、もしやと橋の下を覗いてみたら、頑丈そうなガーダー(橋桁)と煉瓦の橋台が確認できた。旧線の遺構に違いない。

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美加の台駅の南側で高野線をくぐる
なお、旧線跡(加賀田信号所があった)は現在線と同一レベルで交差していたので、サイクリングロードはこの区間で旧線跡からそれて迂回している
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天見川を渡る個所に旧鉄橋の橋台と橋桁が残る

渓谷を抜けたところで、サイクリングロードはいったん終わり、一般道路に接続している。廃線跡は道路の隣で草むらの農道と化し、その先では民家の庭先や畑の拡張に利用されているようだ。少し進むと、現在線が美加の台トンネルから出てきた。ここから千早口駅まではルートが移設されていない、すなわち廃線跡がないので、私たちは下岩瀬集落の中を抜けていった。

線路をくぐれば、千早口(ちはやぐち)駅だ。駅前の観光案内板には珍しくサイクリングロードも描かれていたが、旧街道のように、鉄道史跡であることも書き添えてほしいところだ。「信号機でも残っているとわかりやすいんでしょうけど」とTさん。実際は、鉄道標識すら保存されておらず、さっきの民家の畑に赤く塗られた境界標らしきものがあっただけだ。

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千早口駅前の観光案内板

標高が上がったせいで、頬に当たる風が少し涼しく感じられるようになった。駅横から再びサイクリングロードを進む。こちらはさっきより舗装が新しいので、後で整備されたのだろう。右に左にカーブが連続し、そのつど新しい景色が開けるのが楽しい。対岸には国道が通っていて、トラックの走行音も聞こえてくるのだが、それさえ別にすれば、なかなか趣のある道だ。

谷の中で、少し幅の広い箇所を見つけた。舗装道は1線分だが、柵の隣に同じような幅の空地が並行しているのだ。横断する水路の側壁の幅から、谷側にもう1線あったことが推定できる。そのときは信号所の跡と思ったが、よく考えてみると、旧線の千早口~天見間はわずか1.9km。列車交換のための信号所は必要ない。あるいは天見川の対岸に砂利採取場があるので、積込用の貨物側線だったのだろうか…。

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(左)千早口駅南方。側壁は現役時代のオリジナル
(右)柵の隣に側線跡のような空地が並行する

旧線は峠に向けて高度を稼ごうとしていたらしく、谷底との高低差が徐々に広がってくる。家並みが谷底に沈んで見える。鬱蒼とした林の中、天見小学校の裏手を回っていくと、今日の目標にしていた天見駅だった。板張りの山小屋のような無人駅舎だが、中で自動改札機がしっかり通せんぼしている。

すぐ下手に温泉旅館の南天苑があり、建物が登録有形文化財になっているので、見に行った。辰野金吾事務所の設計で、堺の大浜公園に建っていた保養施設の別館を1935(昭和10)年に移築したものだという。元の場所は戦争で空襲に遭い、そこに残っていた本館は焼失してしまった。移設のおかげでこの建物だけは命拾いしたことになる。おかみさんから奨められて、庭から座敷も拝見した。

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天見温泉南天苑(2018年3月撮影)

「これから高野山に登ってきます」という元気な今尾さんを天見駅に見送って、Tさんと私はサイクリングロードをもう少し先まで行った。ここでも桜並木が程よいカーブを描いている。次の支谷を横断する地点に架けられているのは、安っぽい擬製のアーチ橋だったが、その下に本物の煉瓦溝渠が顔を覗かせていた。

心地よい歩き道は、しかし蟹井神社の手前の辻で途切れる。例によって、人と自転車を描いた道路標識が立っているだけで、実にそっけない終わり方だ。そこから先、廃線跡は築堤上の空き地に変わり、残存する高いガーダー橋を経て、現在線に合流していく。紀見峠の下を貫く新しいほうのトンネルが、もうすぐそこに見えている。

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(左)天見駅舎 (右)サイクリングロードはなおも上流へ
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(左)擬製のアーチ橋の左下に煉瓦溝渠
(右)サイクリングロードの終点。廃線跡の築堤はまもなく現在線と合流する

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図富田林(昭和52年修正測量および平成19年更新)、岩湧山(昭和52年修正測量および平成22年更新)を使用したものである。

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