2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

Blog_contour1801
築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6名になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

Blog_contour1802
仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが的確で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

Blog_contour1803
(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

Blog_contour18_map1
花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
なお、軌道の正確なルートは不明のため図示していない
Blog_contour18_map2
花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

Blog_contour1804
(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

Blog_contour1805
正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
Blog_contour1806
(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。しかし、昭和8年図にはこの道はなく、代わりにそれより南に振れた形の直線路が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。残念ながら後の圃場整備によって、廃線跡の道は消失してしまった。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

Blog_contour1807
花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

Blog_contour1808
(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
Blog_contour1809
東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

Blog_contour1810
第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
Blog_contour1811
軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

Blog_contour18_map3
花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

Blog_contour1701
鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

Blog_contour1702
夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

Blog_contour17_map1
1971~72年の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

Blog_contour1703
(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

Blog_contour1704
(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
Blog_contour1705
がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさんほか総勢8名。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

Blog_contour17_map2
夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

Blog_contour1706
廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

Blog_contour17_map3
夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。Oさん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書「続 北海道 鉄道跡を紀行する」(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、「北海道 地図を紀行する 道南・道央編」北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

Blog_contour1707
旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

Blog_contour1708
オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
Blog_contour1709
(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
Blog_contour1710
(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

Blog_contour1711
志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

Blog_contour1712
(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

Blog_contour1713
(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」とKさんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

Blog_contour1714
(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

Blog_contour1715
道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

Blog_contour17_map4
夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群
 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋
 コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス
 コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

 開拓の村の馬車鉄道

2016年10月14日 (金)

コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス

長州、萩の町で朝を迎えた。あの蒸し暑い空気は雨と共に去り、10月らしい青空が広がっている。山から差す朝陽がことのほかまぶしい。萩には自然と歴史の見どころが多いので、到着した昨日は自転車を借りて越ヶ浜の笠山まで遠征し、ホットケーキのように扁平な島が点々と浮かぶ沖合の奇景を堪能した。今朝(10月10日)も早起きして、松蔭神社の境内ですがすがしい空気を浴びてきた。

Blog_contour1601
(左)笠山から沖合の扁平な島々(萩六島)を望む (右)雲間から光のシャワーが
Blog_contour1602
(左)静かな朝の川べり(松本川) (右)松蔭神社境内に遺された松下村塾の建物

これを前哨戦だとするとこの後は本番で、コンターサークルS 地図の旅2日目に参加する。舞台は、萩から30kmほど北東の須佐(すさ)周辺。山陰本線の名橋に数えられる「惣郷川(そうごうがわ)橋梁」と、海岸のホルンフェルスの露頭を回る予定だ。

JR山陰本線で須佐は、東萩(ひがしはぎ)から数えて6駅目になる。列車で向かうつもりで8時半に東萩駅(下注)の待合室へ行くと、すでに堀さんと、愛車で到着した相澤さんの姿があった。

*注 阿武川(あぶがわ)のデルタに立地する萩市街に対して、鉄道は外側を大回りしていて、代表駅は、萩駅ではなく東萩駅。

Blog_contour1603
(右)人影少ない東萩駅 (右)待合室で道順を打合せ

「橋は須佐より手前ですからね」というお言葉に甘えて、車で出発した。まず走る国道191号線は、日本海の海岸線をなぞっていく絶景ルートだ。昨日眺めた沖合の島々も、順光のもとでより鮮やかに見えた。宇田郷(うたごう)駅前で山へ分け入る国道から離れ、海辺の狭い旧道に入る。弁天崎の短いトンネル(尾無隧道)を抜けると、道がやや海側に膨らんで、お目当ての惣郷川橋梁が現れる。旧道は橋梁の南端でアンダークロスしているので、手前で車を停めた。

Blog_contour16_map1
惣郷川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆

ここは、東から流れてきた惣郷川が海に注ぐ場所だ。両岸に山が迫り、線路は長さ2215mの大刈(おおがり)隧道へ向けて、上り坂(11‰)の途中にある。そのため、橋は取付け位置を高くし、かつ半径600mの曲線上に設けられた。全長は189.14m、高さは11.6m(下注1)だ。強い潮風に晒され続ける過酷な環境のため、防錆が課題となるトラス橋ではなく、鉄筋コンクリート(RC)の柱と梁で組んだラーメン構造(下注2)が採用された。しかも鉄筋の被り厚を標準の2倍にし、塩害に強いシリカセメントを使用して、万全を期したという。

*注1 高さは、井筒天端からレール面までの最大値。出典:小野田滋「土木紀行-山陰本線・惣郷川橋梁 屹立するコンクリートラーメン」土木学会誌87-1, 2002年1月, p54-55。
*注2 ラーメン Rahmen はドイツ語で枠、骨組みを意味する。

橋は1932(昭和7)年に竣工した。橋や大刈隧道を含む須佐~宇田郷間8.8kmが翌年開通し、これをもって山陰海岸を走る鉄道が全通した。つまり、この区間は現 山陰本線に残された最後のミッシングリンクだったのだ。

Blog_contour1604
(左)緩やかなカーブが優美さを醸し出す (右)裾が開いた橋脚、中央部は工事中

「立派な橋ですね」「築80年には見えない」。足元に潮騒を聞きながら、相澤さんと私がひとしきり感心していると、そばで堀さんが解説してくれた。「橋脚の脚の裾が平行ではなく、開いているでしょう。あれで安定感が出ます。橋全体がカーブしているのも変化があっていい」「柱3本ごとに黒い縦の継ぎ目が見えますか。構造的に一体ではなく、分割してあるんです。当時の技術的な事情があるのかもしれません」。

写真を撮ろうとするのだが、中央部では工事の足場が組まれ、人が動いている。鉄筋コンクリートは、経年によるひび割れが避けられず、侵入した水や空気が中の鉄筋まで届くと、腐食して強度が落ちる。それを防ぐために、表面に樹脂コーティングが施されているから、その塗り直しか何かの作業だろう。

と突然、ゴーッという音とともに、日に数本しかない列車が頭上を通過していった。私たちが須佐まで乗る予定だった上り列車だ。時刻表をチェックしていたわけではないので、偶然のタイミングだった。「線路のそばにいると、不思議と列車が通るんです」と私。「天浜線の天竜川橋梁でも、河原へ出たら来ましたよね」そのときもお二人と一緒だった。「好かれてるんでしょうね」と相澤さんがまじめな顔で応じてくれた。

Blog_contour1605
惣郷川橋梁を渡る上りのキハ40形
Blog_contour1606
惣郷川橋梁、北側からの眺め

旧道は、惣郷の小さな集落を通り抜けて坂を上り、北側で再び線路に接近する。そこからもう一度橋を眺めた。朝なので光の加減はいいのだが、角度が浅いため、海側の橋脚はあまり見えなかった。「旧道をこのまま行ってくれますか」という堀さんのリクエストで、大刈垰を越える旧道を行く。大刈トンネル経由の国道は1977(昭和52)年に開通したので、果てしなく曲がりくねるこの道が幹線でなくなってから40年近く経過している。さっき車が1台私たちを追い越していったから、通り抜けはできるはずだ。

舗装は特段荒れておらず、路肩に黄色いガードレールも残っている。ただ、路面には枯葉や小枝が積もっていて、それを右に左に避けながらの運転になった。堀さんとしては、歩いてみたい道候補の一つだったようだが、あいにく木が生い茂って、眺望のきくところはほとんどなかった。峠の掘割を越えると、金井という2~3軒しかない集落で稲刈りをしている。その後はまた同じような羊腸の下り坂になった。

Blog_contour1607
(左)大刈垰サミットの長い堀割 (右)羊腸の大刈垰旧道

Blog_contour16_map2
須佐周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

続いて、二つ目の訪問地ホルンフェルスの露頭へ向かう。須佐駅を通過して海岸へ出る道へ折れ、4kmほど進んだところに、レストハウスと無料駐車場がある。海を見下ろすちょっとした海岸段丘の上だ。そこからさほど遠くない海辺に、それが見えた。道路の脇から小道が延びて、近くまで行けるようになっている。海沿いの棚田に沿って歩いていくと、道はだんだん細くなり、断崖の真上で終わった。堀さんの手を取って来たものの、「戻れなくなるからここで待っています」とおっしゃるので、相澤さんと二人で先へ進む。

Blog_contour1608
須佐のホルンフェルス露頭を遠望。右下が畳岩、奥の赤い崖がより典型的な例

濡れて滑りやすい波蝕棚の上を慎重に降りていくと、さっき遠望していた白黒ストライプの海蝕崖が目の前に現れた。地元では畳岩と呼ばれ、北へ向かって傾斜している。周辺の崖にも同じような横縞(=互層)があるのに、この一角だけコントラストが明瞭なため、特に目を引く。白く見える層は砂岩、黒っぽいのは頁岩だという。

垂直約12mの畳岩は思ったほど大きくはない。「でも、この広い岩場も上の層が剥がれたものですね」と私が言うと、相澤さんも「ずっと広がっていたのが、波で削られていったんでしょう」。間隔を置いてやってくる大波は、岩に激しくぶつかって砕け散る。縦にも節理が入っているため、裂け目が広がり、やがて剥離していくのだろう。

Blog_contour1609
縞模様が目を引く「畳岩」

ホルンフェルス Hornfels というのは、高熱による変成岩のことだ。ドイツ語で角岩(つのいわ)を意味し、動物の角を思わせる硬さと模様からそう呼ばれる(下注)。レストハウスのパネルで、当地のホルンフェルスの成因が説明されていた。すなわち、約2500万年前から1500万年前の間に、砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積した。約1400万年前にこれを突き破って高温の火成岩体が噴出し、そのときの高圧と高熱で周囲の須佐層群の性質が変わった(=熱変性)。互層を形成する岩石もその作用を受けているのだが、もっと典型的なものはその後ろにある赤い色の崖なのだそうだ。

*注 名称の由来は、ウィキペディア英語版による。

Blog_contour1610
(左)熱変成を受けた砂岩と頁岩の互層 (右)縦の大きな裂け目も見つかる

レストハウスへ戻って休憩する間、相澤さんが持参の焼き栗を割ってくれた。秋の味覚が口の中に広がる。店の人から、行列のできるイカ尽くしの食堂が駅前にあると聞いて、また車を走らせた。「梅の葉」という小さな店で、12時前に入ったのにすでに40分待ちだった。名物の活イカづくりはすでに品切れていたので、イカ天丼に舌鼓を打つ。粗食も辞さないコンターサークルの旅では珍しいことだ。車で帰る相澤さんに見送られて、堀さんと私は、須佐駅から14時発の下り列車に乗った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図須佐、宇田(いずれも平成13年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
一般社団法人中国建設弘済会-アーカイブス(土木遺産一覧)
http://www.ccba.or.jp/archives/heritage.htm

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋
 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年10月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

最近、映画やテレビで時代劇を見かけなくなったとはいえ、京都にはお寺や神社の境内をはじめ定番のロケ地が数多くある。コンターサークルS 2016年秋の旅の初日10月8日は、郊外のそうした場所の一つ、木津川流れ橋を訪れた。

Blog_contour1501
北東から眺めた流れ橋の全貌

木津川(きづがわ)というのは、宇治川や桂川と並ぶ淀川の主要な支流の一つだ。三重県伊賀地方を源流域に、京都府南部を流れ下り、大山崎で他の二つと合流する。地形図にも流橋と書かれているが、本名は「上津屋橋(こうづやばし)」という、全長356.5mの木橋だ。行政区画でいうと、京都府久御山(くみやま)町と八幡(やわた)市の境界に位置している。

おもしろいことに、上津屋という集落名は流れ橋をはさんだ木津川の両岸にある。川の流路が変わったわけでもなく、昔から両岸に村があり、交流が盛んだったようだ。渡し舟では不便という地元の強い要望を受けて、1953(昭和28)年に橋が架けられた。1959(昭和34)年には府道八幡城陽線に認定され、以来、京都府が管理している。

Blog_contour15_map1
木津川流橋周辺の1:25,000地形図に
歩いたルートを加筆

本日の集合場所は、JR奈良線の宇治駅。奈良へ行く多数の外国人客に挟まれて快速列車(みやこ路快速)でやってきた。改札で落ち合ったのは堀さん、真尾さんと私の3人。さっそく駅前からタクシーで、木津川右岸(東岸)の堤防上の車止めまで行ってもらった。

10月に入ったというのにまだ暑い。台風が次々に来襲して雨がよく降るのだが、ついでに南から温かい空気を呼び込んでいるようだ。京都のきょうの最高気温は31度、空気は重たく湿っぽい。雲間から日差しが降り注ぐと7月に逆戻りしたのかと思うほどだ。「川べりならもう少し風があると思いましたが」と思わず口にすると、「ないですね」と堀さんがつぶやく。お二人は、すでに最低気温が10度を割った北海道から来ている。

Blog_contour1502
(左)JR宇治駅に到着 (右)堤防上を歩いて橋の袂へ

茶畑の載る堤防上を数百m歩いたところに、流れ橋へ降りる小道があった。まずは、堤防の上から俯瞰してみる。素朴な風情の木橋だ。両岸を縁取る緑にしっくり溶け込んでいる。一直線に伸びる薄い橋桁といい、それを等間隔で支える華奢な橋脚といい、ちょっと心細げな構造物だ。戦後の架橋とはいえ、手甲脚絆に草鞋を履いた旅の者が渡っていたとしても違和感はないだろう。

Blog_contour1503
平水時の水流は右岸寄りに

私たちも渡ってみる。路面は板を流水方向に並べてあり、縁には転落防止を兼ねた挟み木が置かれているだけだ。高欄はないので、普通の橋とは開放感がまるで違う。平水時の水路は右岸寄りを流れている。そこでは水面から5.5mの高さがあるそうだが、路面の横幅が3.3m取られているので怖いと感じるほどではなかった。

橋の上は、結構人通りがある。地元の子供たちが自転車で通ったりもするが、休日の場合、多くは見物客だ。カップルや小グループはもとより、旗を手に持つツアーガイドに率いられた集団ともすれ違った。「今ではちょっとした観光地になっているらしいです」と私。

Blog_contour1504
(左)橋脚には大水の跡が残る (右)橋の上は開放感全開

流れ橋というから勘違いしていたのだが、水をかぶっても大阪湾まで流れていってしまうわけではない。水位が橋桁まで達すると、確かに橋板は橋脚から浮き上がる。しかし、ブロック単位で橋脚にワイヤでつながれているので、筏流しのように川の流れに身を任せながら、その場所にとどまっているのだ。水が引いたら、これを手繰り寄せて、橋脚の上に載せるともとの橋に戻る。

なるほど昔の人はうまいことを考えたものだと思うが、河原に残った筏を高さのある橋脚に載せ直すのは、それほど簡単な作業ではない。昔のことはいざしらず、今は重機を投入しての大工事になる。実際、復旧費用は1回の被災につき3500万から5000万円にも上っているという。

橋は、架設以来60年の間に21回被災している。特に最近は豪雨に見舞われることが多く、2011年から4年連続で流された。復旧工事は渇水期を待って行われるので、秋に壊れて翌年春に復旧完了したと思ったら、その秋に再び被災という繰り返しだった。その都度数千万を費やすのでは、府道を預かる行政としても「ええかげんにしてくれ」となったようだ。それで2014年から専門委員会で設計の抜本的な見直しが行われた。

京都府の資料(下記参考サイト)によると、観光資源であることも踏まえて、木造で流出可能という構造は堅持するものの、流出頻度を減らすための工夫をいくつか取り入れたという。一つには、流木等が引っ掛かりにくくなるように、橋脚間を約2倍に広げた。二つに、橋脚の杭木にコンクリートパイルを使用して、耐久性を高めた。三つに、水没をできるだけ回避するために、橋面を75cm嵩上げした。誤って転落したときの人体への衝撃を考えると、これがぎりぎりの高さだそうだ。

こうして昨年、改めて復旧工事に着手し、今年(2016年)3月27日に開通式が挙行された。古そうに見えるが、実は出来立てほやほやで、以前の橋と比べても姿がかなり変わっているのだ。

Blog_contour1505
(左)地元の子から見物客まで通行人は多い (右)橋脚の主要部はコンクリートパイルに

橋を渡り終えた後、左岸の堤防の上で振り返ってみた。手前に葉の緑が瑞々しい茶畑、その先の広い河原を、時代劇の一シーンを切り取ったかのように木橋が横切っている。疑似的とはいえ、なんとはなしに心が安らぐ原風景だ。しかし、下流に目を移すと、第二京阪道路の無粋な高架橋が視界を遮り、その周りにかさ高い建物も建ち始めている。迫りつつある都市化の波を、木橋が体を張って食い止めているようにも見える。

Blog_contour1506
宇治茶の畑と流れ橋

堤防の下の小さなあずまやで、持参した昼食を広げながら、よもやま話に花を咲かせた。後で堀さんに感想を聞いたら、「暑さには参りましたが、見たいと思っていたので満足です」とのこと。まだ昼過ぎだったが、明日から遠出なので(お二人はすでに遠出中だが)、近くの四季彩館という公共スペースでタクシーを呼んで、現場を後にした。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図宇治、淀(いずれも平成17年更新)を使用したものである。

■参考サイト
上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会(京都府建設交通部道路建設課 公式サイト)
http://www.pref.kyoto.jp/doroke/nagarebashi/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス
 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡
 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

2016年6月13日 (月)

コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

5月22日朝、札幌駅8時ちょうど発の特急「スーパーカムイ3号」に乗り込んだ。江別を過ぎ、夕張川の鉄橋を渡れば、車窓はすっかり田園地帯だ。遠くに浮かぶ雪の山並みを背景に、田植えの時期を迎えた石狩平野を列車は北へ向かってひた走る。

Blog_contour1401
(左)特急「スーパーカムイ」の車窓から見る田園地帯 (右)滝川駅に到着

コンターサークルSは札幌がホームグラウンドで、この時期は隔週で北海道各地の「地図の旅」を実践している。本日は、石狩川右岸(西岸)に残る三日月湖(下注)を巡ることになっていて、私も初めて参加した。集合場所は、札沼(さっしょう)線の晩生内(おそきない)駅だ。この路線は札幌駅が起点だが、なかなか乗る機会がない。せっかく行くなら全線を乗り通してみようと、函館線で滝川(たきかわ)まで行き、そこから札沼線の終点新十津川(しんとつかわ)へ回ることにした。本題に入る前に、このささやかな終点駅の話題を差し挿ませていただこう。

*注 河跡湖(かせきこ)とも呼ばれ、蛇行する川が氾濫や侵食作用などで流路を変えた後、旧河道に取り残された湖や池を指す。日本語では月に例えるが、英語ではオクスボウレイク oxbow lake(オクスボウは、牛を牛車につなぐU字形の軛(くびき))、フランス語ではブラモール bras-mort(死んだ腕=淀んだ支流)とさまざまだ。

滝川駅から新十津川駅へは、石狩川橋経由で4km強に過ぎない。徳富(とっぷ)川にかかる昔の鉄橋を見たかったので、手前の新十津川橋でタクシーを降りた。橋は、札沼線が新十津川からさらに北の石狩沼田まで走っていたときの遺構だ。今は水路管を渡しているが、南側のガーダー(橋桁)2連と橋脚に鉄道時代のものが残っている。若緑に囲まれた朱色の橋は、背景の青空と雪山に眩しく映えていた。

Blog_contour1402
水路橋に転用された旧札沼線の徳富川橋梁
Blog_contour1403
(左)南側のガーダー2連と橋脚は鉄道時代のもの (右)線路の代わりに水道管

しかし残っていたのは橋だけだ。南に続いているはずの築堤はおろか、用地自体が宅地に整えられ消失している。まだ新しい住宅地の中を、徒歩で新十津川駅へ向かった。

Blog_contour14_map1
新十津川橋の左に旧線跡の水路橋がある(1:25,000「地理院地図」に加筆)

鉄道ファンには周知の話題だが、札沼線の末端、浦臼(うらうす)~新十津川間は、今年(2016年)3月のダイヤ改正で、列車が1往復まで極少化されてしまった。従来朝、昼、夕と3本設定されていたのが、朝の1本だけになったのだ。新十津川駅では、気動車キハ40が1両きりで9時28分に到着し、9時40分に折返していく。それがその日の最終列車になる。

当然、駅は寂れて人影もないように想像してしまいがちだ。ところが、かえって希少性が増したのか、記念乗車がブームになっている。列車がホームに入ると、小さな駅は降りた客で時ならぬ賑わいを見せた。駅舎はもちろん無人だが、きれいな記念スタンプが置いてあるし、役場まで行けば到達証明書ももらえるらしい。多くの人は折返し乗車のようで、上り列車にも15~6人が乗車していた。普段からこの乗車率なら、列車を削減されずに済むのだろうに。

Blog_contour1404
(左)新十津川駅は時ならぬ賑わい (右)駅構内を南望
Blog_contour1405
1日1本の列車を満開のチューリップが迎える
Blog_contour1406
(左)待合室に掲げられた究極の時刻表 (右)駅の記念スタンプ

のどかそのものの田園風景の中を、気動車はトコトコ走る。1時間半かけて列車の終点、石狩当別まで乗って、そこで北上してきた堀さんたちと合流した。

晩生内駅も、簡易な造りということでは新十津川と変わらない。砂利引きの狭いホームに降り立ったのは、もちろんサークルのメンバーだけだ。参加者は堀さん、真尾さん、Oさん、車でやってきたミドリさんほか全部で9名。ここ数日、北海道は高温注意報が出されるくらいの暑さで、今日も札幌の最高気温は28度。雲一つない快晴はありがたいが、朝晩まだ肌寒いだろうと用意してきた上着は、一度も出番がなかった。

Blog_contour1407
(左)晩生内駅に到着 (右)北へ去る気動車を見送る

駅の小さな待合室で地形図を広げ、これからの道順を確認する。駅の南にある西沼、東沼を経て北上し、後は行けるところまで行こうということになった。地図の上では大小の差はあれ皆同じような三日月形をしているが、それぞれどんな表情を持っているのだろうか。ミドリさんの車で先行する堀さんを見送って、私たちは歩き出した。

Blog_contour14_map2
晩生内周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

踏切を越え、線路と並行する国道275号線の歩道を南へ約600m、左折すると広めの農道(三軒屋農道)が石狩川のほうへ延びている。道がカーブすると同時に、右手に弓なりに横たわる池が見えた。吹き越す強い風が水面を細かく波立たせ、沼を縁取る疎林の枝葉を揺らしている。地形図によれば西沼だが、道の脇の案内板には「三軒屋沼」と書かれている。三軒屋というのは、沼のある旧河道に囲まれた袋状の土地で、確かにそこには今も3軒の農家がある。

Blog_contour1408
(左)「松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む」の案内板
(右)農道の旧河道横断地点。右(画面外)に西沼がある。遠方のアーチは美浦大橋

案内板によれば、「三軒屋沼は、石狩川の屈曲した河道が氾濫時に取り残されて出来た三日月形の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る、自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では昭和7年から15年までで17回を記録し、その都度農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。(中略)人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は、自然形成的な三日月湖が多くあります。」

Blog_contour1409
農道から西沼を見る

石狩川の三日月湖は、河道の直線化工事に伴ってできたとばかり思い込んでいたが、水流の作用によるもののほうが多いのだ。付近の旧版1:50,000地形図を見比べてみよう。西沼・東沼の場合、明治末期の図【図1】ではまだ石狩川の蛇行する分流として描かれる(下注)が、大正期【図2】になると明確に川と切り離されている。しかし、沼はほぼつながって、旧河道そのものだ。三軒屋沼と一括りにされていたとしても不思議ではない。2つの沼に分かれたのは水位が低下したからで、現在の水面は目測する限り、周囲の田んぼの面より10m近く低くなっている。

*注 図1は明治28年式図式と明治42年式図式が混在する仮製図のため、石狩川と三日月湖の位置や面積は、大正期の正式図(基本図)に比べて、必ずしも正確とはいえない。

Blog_contour14_map3
【図1】 明治末期
1:50,000地形図「奈井江」 1909(明治42)年部分修正測量、1911(明治44)年改版
Blog_contour14_map4
【図2】 大正期
1:50,000地形図「砂川」 1916(大正5)年測図
Blog_contour14_map5
【図3】 昭和30年代
1:50,000地形図「砂川」 1959(昭和34)年修正測量

Blog_contour1410
ビニールハウスに出入りする線路(?)

農家の前を通ったら、ビニールハウスに線路のようなものが出入りしているのを見つけた。ハウスで育てたイネの苗床を運び出すための装置らしい。パイプを組み合わせた簡易な軌道のパーツが傍らに積んである。これをつないでハウスの中まで延ばしていくようだ。「鉄道模型と同じですね」と、鉄道ファンでもある真尾さんと私は嬉々としてカメラを向けた。

農道は馬蹄形の旧河道を、東沼の上でもう一度横断する。西沼では築堤だったが、東沼には三軒屋橋が架かっている。西沼と同じ出自ながら、東沼は林に囲まれていないからか、のっぺりとして風情に欠けるのが難だ。休憩場所としてはいま一つだが、時刻はとうに正午を回っている。ベンチ代わりの橋の欄干にもたれて、持参の弁当を広げた。通るのは農作業車ぐらいなので、何ら気にすることはない。

Blog_contour1411
(左)のっぺりとした東沼 (右)東沼に架かる橋(三軒屋橋)の上で昼食

橋を渡りきったところで、農道は二手に分かれる。私たちは北へ向かった。地方道との交差点にさしかかると、道路標識に「美浦渡船(みうらとせん)右へ1.7km」と記されている。聞けば、石狩川に唯一残っていた伝統の渡船で、道内でも最後だったそうだ。黄色の大アーチが遠くからも望める美浦大橋の開通によって、2011年限りで廃止となった。

Blog_contour1412
美浦渡船を指し示す道路標識

前を歩いていたOさんが振り向いて、「ではここで失礼します」と言う。コンターサークルの旅は途中参加も離脱も自由だとは知っているが、ここは平野のど真ん中だ。「どこへ行くんですか」と聞くと、「橋を渡って茶志内駅まで歩きます。なに、8kmぐらいですから」とのこと。

東へ進むOさんの後ろ姿を見送って、残りの面々は北上し続けた。途中で草の小道にそれて、月沼のほうへ降りていく。堀さんとミドリさんも合流した。月沼は、三軒屋で見てきた沼に比べればかなり可愛らしい。「でも小さいから、月の形がよくわかります」とミドリさん。

明治期の図でも本流から離れた場所にぽつんと描かれているから、かなり古い時代の忘れものだろう。逆に言えば、沼としては大先輩ということだ。西端は長年の泥が堆積して湿地のようになり、それを通してみる対岸の飄々とした木立が一幅の絵になっている。おじいさん沼の全体像を確かめたくて、沼際のあぜ道に上ってみたが、かえって眺めは平凡だった。

Blog_contour1413
月沼の眺め (左)岸のカラシナが彩りを添える (右)一部は湿地状に

さらに北へ800mほど進めば、ウツギ沼が右側にある。農道からはよく見えないので、小川に沿う小道を下っていく。これはまさに沼らしい沼だった。明治期には月沼よりよほど堂々と描かれているのに、今はやせ細って見る影もない。ヨシやヤナギが藪状にひしめき合い絡み合って、水辺に張り出している。おまけに小さな虫が多数飛び回って、私たちを悩ませた。

写真を撮ろうとするが、見通しが今一つだ。「逆光だし、反対側から見たほうがよかったんじゃないかな」と真尾さん。下の写真は、藪の切れ目で身を乗り出して、かろうじて撮ったものだ。他の人たちは諦めて先へ行ってしまったが、ここまで来たのだから隣の新沼も見てみようと、有志でそちらに足を向けた。

Blog_contour1414
半分藪化したウツギ沼

新沼は、周辺で一番大きな沼で、名前が示すように誕生も比較的新しい。大正期でさえまだ大きくうねった川の一部で、昭和34年図【図3】でようやく、川の短絡によって取り残された状況が描かれる(下注)。広い空の下、なみなみと水を湛えた若い沼の水面を見つめていると、平野を悠然と曲流していた頃の石狩川の光景が目に浮かぶようだ。できるものなら上空を舞いながら、心ゆくまで眺めていたいと思う。

*注 1:50,000「砂川」図幅は、大正7年図から昭和34年図までの間に、鉄道補入や資料修正版が数回刊行されたが、地形は修正されなかったため、地形図を追うだけでは新沼誕生の時期を絞り込めない。

Blog_contour1415
石狩川の曲流の記憶をとどめる新沼
Blog_contour1416
新沼中央部のパノラマ

とはいえ、そろそろいい時間になってきた。幹事役の真尾さんが地形図で帰りのルートを確かめる。「ここからだと晩生内に戻るより、一つ先の札的(さってき)のほうが近そうです」。札沼線札的駅に着くころには、陽もいくぶん傾いて、真昼の暑さは消え去っていた。無人のホームに立ち、北から降りて来る列車をしばらく待つ。鉄道防風林の隙間を縫って吹く風はことのほか涼しく、紫外線に晒されてほてった肌を優しく冷ましてくれた。

Blog_contour1417
(左)帰り道にカラシナの群落 (右)駅へ向けて歩く
Blog_contour1418
(左)札的駅ホーム (右)歩き旅お疲れ様でした

地図を携えて北海道の大地を歩くのは、堀さんの著書で繰り返し読んできた旅行記そのものだ(下注)。私にはまるで、その中の登場人物になったような一日だった。札幌に戻ってからの打ち上げの席で、道内の旅に参加した感想を聞かれた。実感をこめて、「北海道に移住しようかなと思いました」と話すと、「歓迎しますよ」と皆に真顔で言われた。

*注 堀さんの晩生内周辺の訪問記は、「地図の風景 北海道編 I」そしえて, 1979, pp.105-110、および「北海道 地図を紀行する 道南道央編」北海道新聞社, 1988, p.159以下にある。

掲載の地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図奈井江(明治44年改版)、砂川(大正5年測図、昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図晩生内(平成26年4月調製)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-寒川支線跡
 コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水
 コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産
 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

2016年6月 5日 (日)

コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産

5月5日は舞台を静岡県西部に移し、今は浜松市に含まれる天竜の交通土木遺産を訪ねる。風は終日強かったが、今日も好天に恵まれた。集合場所が西鹿島(にしかじま)駅だったので、私は東海道線の新所原(しんじょはら)駅から、天竜浜名湖鉄道(以下、天浜(てんはま)線)の単行気動車に乗って出かけた。この路線は、浜名湖の北側を回っていく。朝の光をきらきら撥ね返す湖面といい、線路際の木々がつくる濃緑のトンネルといい、車窓に展開する瑞々しい光景に心が洗われる。

Blog_contour1301
天浜線の気動車、二俣本町にて
Blog_contour1302
天浜線の車窓 (左)三ヶ日駅付近の湖面(猪鼻湖) (右)都築駅に停車

西鹿島は、この天浜線と、新浜松から来る遠州鉄道(遠鉄)の連絡駅だ。堀さん、今尾さん、石井さん、相澤さん、外山さんがすでに到着して、道順を打合せている最中だった。後で木下さん親子も合流したので、私を含めて総勢8名。本日も堀さんの私的小旅行の位置づけなのだが、コンターサークルSの公式行事となんら変わらない賑やかな旅になった。

Blog_contour1303
本日の集合場所、西鹿島駅

Blog_contour13_map1
1:200,000地勢図浜松(1981(昭和56)年編集)の一部に加筆
市町村名等は現在とは異なる

もともと堀さんが行くおつもりだったのは、都田川を渡る枕瀬橋(まくらせばし)だ。渓谷の中に素朴な木組みの橋が架かっているという。3台のクルマに分乗して、まずはそちらに向かった。

Blog_contour13_map2
枕瀬橋周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

西鹿島駅からは西へ10kmもない。車内で世間話をしているうちに、早や橋の入口、大平(おいだいら)地区まで来てしまった。この辺は河岸段丘上に人家と耕地が点在し、川は比高約30mの谷底を流れている。柿畑の脇に車を停めさせてもらい、クルマ1台がやっと通れる細い道を川の方へ降りていった。まもなく雑木が頭上にかぶさってきて、道はヘアピンカーブで向きを北に変える。段丘崖を刻んだ急な下り坂だ。木漏れ日が路面でちらちらと踊り、すでに水音が木立を通して耳に届いている。100mほど進んだところにその橋があった。

Blog_contour1304
枕瀬橋、西側から撮影

長さは40mほどだろうか。川面からコンクリートの橋脚がすっくと立ち、そのうえに木組みの桁が架かっている。見るからに安定感があるのは、おそらく各橋脚から斜めに延びて、桁をしっかり支えている頬杖(ほおづえ)材のせいだ。それが3つ並んで、緑の谷間に心地よいリズムを刻んでいる。

Blog_contour1305
(左)枕瀬橋側面 (右)橋桁を支える頬杖材

「床板に比べて欄干がやけに新しいですね」と私が言うと、堀さんも「写真ではこんな欄干はなかったと思いますが」。どうやらこれは最近の改修らしい。以前は流れ橋のように、足を踏み外さない程度のごく低い欄干だけだった。「ここは小学生のマラソンコースになっているらしいです」と石井さん。危険防止の目的としても、橋が醸し出していたはずの風情は半ば損なわれてしまった気がする。

吹き越す強風に帽子を飛ばされそうになりながら向こう岸に渡ると、橋のたもとに銘板が取付けてあった。意外にも建造は1986(昭和61)年3月と新しい。古い地形図にも描かれているから、もちろん架け直されたのだろう。「昔からあったとすると、こういう木組みの技術者はどこから来たんでしょうか」。今尾さんが答える。「森林鉄道の橋梁にもこういう構造があります。ここから木曽にかけては林鉄の宝庫ですからね」。

谷間から段丘上の人家は全く見えない。都田川の豊かな流れとうっそうと茂る斜面林に囲まれて、深山の気配さえ漂う不思議な場所だった。

Blog_contour1306
(左)橋上から北望、うっそうと茂る斜面林 (右)同 南望
Blog_contour1307
橋のたもとで記念写真(左写真は外山さん撮影)

昼食を新東名の浜松SAでとり、午後は天竜区(旧 天竜市)へ移動して、付近の交通土木遺産をいくつか巡ることにした。

Blog_contour13_map3
二俣周辺の1:25,000地形図(2015(平成27)年3月調製)に、訪れた地点を加筆
Blog_contour13_map4
上記地形図を2倍拡大
左円内:鳥羽山を穿った4本のトンネル(左から国道、歩道、鉄道、旧道=鳥羽山洞門)
右円内:周囲と異なる光明電気鉄道跡の斜め地割(道路と宅地の列)

一つ目は、国道152号線の鹿島橋(かじまばし)だ。浜松市のサイト「浜松情報Book」にはこう紹介されている。「1937(昭和12)年に完成した全長216.6m、幅員6mの当時としてはモダンなトラス橋。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス橋であり、全国的にも貴重な例」。カンチレバートラスというのは、橋脚から両側にトラスを延ばし(=カンチレバー、片持ち梁)、それで中央部の桁を吊る構造だ。これによって、スパンを長く取ることが可能になる。

Blog_contour1308
優美な姿が印象的な鹿島橋

場所は西鹿島駅のすぐ北で、山中を流れてきた天竜川が浜松平野にまさに飛び出そうとする位置に架かっている。「下流側には歩道橋があるので、本来の姿が見えにくくなっています」という外山さんのアドバイスで、私たちは上流側左岸に移動した。午後はこちらが順光になる。橋を渡っているときは気がつかなかったが、トラス橋なのに吊橋のような、クラシックで優美な姿に目を奪われる。堤防の上から全貌を、川べりから仰角で、とみな思い思いにカメラを向けた。

Blog_contour1309
直線の中に混じる曲線が建築美のポイント

東隣には、天浜線の鉄橋(天竜川橋梁、長さ403m)が並行している。こちらはよくある下路ワーレントラスなので、被写体としては平凡だ。「列車があれば絵になるんだがなあ」と念じたら、本当に列車が渡ってきた。

Blog_contour1310
天浜線の天竜川橋梁を列車が渡る

国道は鹿島橋を渡った後、直線で鳥羽山隧道に突っ込んでいく。しかしこれは1942(昭和17)年に開通したルートで、それまで街道は右にそれて、旧トンネルを通っていた。鳥羽山洞門という古めかしい名がついている。実は私は今朝、天浜線を二俣本町まで乗り越し、徒歩でこのトンネルを経由して西鹿島へ戻っていた。「クルマでも抜けられますよ」と伝えたものの、念には念を入れて、一番車幅の広い相澤号が先頭に立つ。内部は狭い歩道が切ってあるが、まったく問題なく通過できた。

反対側に出た後、クルマから降りて改めて観察する。トンネルは、1899(明治32)年の開通から120年近い歳月を耐えてきた。煉瓦造のポータルは表面が黒ずみ、一部は草生していて、扁額の文字ももはや読み取りがたい。内部もアーチの補強材が当てられて痛々しいが、中央部だけはオリジナルの煉瓦積みが露出していた。「雰囲気ありますね」「この煉瓦、今にも落ちてきそう」と、はしゃぐ声が洞内にこだまする。

Blog_contour1311
鳥羽山洞門
(左)北口ポータル、入口付近は補強材が入る (右)中央部は煉瓦積みが露出

続いて、今尾さんの案内で天浜線天竜二俣駅へ向かった。駅の近くに、光明(こうみょう)電気鉄道の痕跡があるというのだ。天浜線(旧 国鉄二俣線)ができるより前に存在した私鉄で、東海道線の中泉(現 磐田)駅から天竜川左岸を北上し、光明村船明(ふなぎら)を当面の終点に見据えていた。1928(昭和3)年に田川、2年後に二俣町まで開通し、そのとき手前のこの位置に、阿蔵(あくら)駅を設けた(後、二俣口に改称)。しかし、投資に見合うだけの需要がなく、1935(昭和10)年にあっけなく廃止されてしまった。

下の地形図は、その光明電鉄の記載がある貴重な版だ。阿蔵駅以南では現在の天浜線と同じルートを通っているが、これは電鉄廃止後、2本のトンネルを含めて用地がそっくり転用されたからだ。ちなみに、鳥羽山をくぐるトンネルは鳥羽山洞門、その南の「天龍橋」は後に鹿島橋に代を譲ることになる1911(明治44)年開通の吊橋だ。また、遠鉄のかつての終点、遠州二俣駅は、現在の西鹿島駅より少し北に位置している。その東側は、分流していた天竜川の広い河原だったこともわかる。

Blog_contour13_map6
二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1930(昭和5)年鉄道補入)

昼下がりの天竜二俣駅構内は、がらんとして人気がなかった。西端には、そこだけ斜めの地割があり、数軒の住宅が建っている。南側からは宅地の土留め程度にしか見えないが、北側に回ると階段が続いているではないか。明らかにプラットホームの跡だ。光明電鉄の名は皆さん初耳だったようで、今尾さんが概要を説明する。「なんとか開通したものの、電気代が払えなくて送電を停められてしまったんです」。「短命の鉄道だったんですね。でも後世まで、電気代滞納って言われるのはかわいそう」と石井さん。

Blog_contour1312
がらんとした天竜二俣駅構内、左のキハ20と後ろのナハネ20(寝台車)は保存車両
Blog_contour1313
光明電鉄阿蔵駅の遺構
(左)舗装道が線路跡。左は一見、宅地の土留めのようだが…
(右)反対側(北)から見ると階段が残り、ホーム跡とわかる

この先で山の端を抜けていた短い阿蔵トンネルは民有地内で、見ることが難しいというので、別の路線、佐久間(さくま)線の跡へ回ることにした。こちらは一度も列車が走らなかった、いわゆる未成線だ。国鉄二俣線遠江二俣(現 天浜線天竜二俣)から飯田線中部天竜に向けて計画された路線だが、1980(昭和55)年の国鉄再建法で工事が中止され、開通は夢物語になってしまった。下の地形図は、まだ佐久間線が工事中だったころの版だ。

Blog_contour13_map5
二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1975(昭和50)年修正測量)

阿蔵川に沿って住宅街の道を遡ると、玖延寺の手前で、上空を佐久間線の立派な高架橋が横切っていた。光明電鉄に比べてこちらは比較的新しい遺跡だ。放置されて35年以上になるとはいえ、トンネルも築堤もしっかり残っている。草を踏み分けて南側の白山トンネルの入口まで行ってみると、フェンスで閉ざされているものの、微妙な空隙があった。廃トンネル探索の達人である石井さんと外山さんは、血が騒ぐらしい。「でも、きょうはコンターサークルなのでやめておきます」と二人で笑った。

Blog_contour1314
(左)佐久間線の築堤 (右)フェンスで閉鎖された白山トンネル北口

盛りだくさんの見学を終えて、朝出発した西鹿島駅に戻る。ここで解散。堀さんと私は遠鉄で新浜松へ、今尾さんは天浜線で掛川へ、あとの5人はそれぞれの車で帰宅の途に就いた。遠鉄の電車に乗るのは久しぶりだ。改札を入りながら、「遠鉄って名前は、遠いところへ行く感じがしますね」と私が言うと、「近鉄のほうが、よっぽど遠くへ行ってますよ」と、すかさず堀さんが混ぜ返した。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図二俣(昭和5年鉄道補入、昭和50年修正測量、平成27年3月調製)、伊平(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
浜松情報Book(鹿島橋) http://www.hamamatsu-books.jp/
ふじのくに文化資源データベース(鳥羽山洞門)
http://www.fujinokunibunkashigen.net/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-寒川支線跡
 コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水
 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

2016年5月28日 (土)

コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水

数日前の天気予報では、確実に雨具が必要とされた今日5月4日。確かに昨夜はひどい嵐で、大粒の雨が宿の窓ガラスを激しく叩いていた。しかし目が覚めたら、窓の外はもう眩しい青空が広がっている。お天道様も私たちの旅を祝福してくれているようだ。

Blog_contour1201
巴川分水点

コンターサークルSの正式行事で、巴川(ともえがわ)の谷中分水を見に行く。場所は愛知県奥三河地方、今は新城(しんしろ)市に含まれるが、かつては南設楽郡作手(つくで)村だったところだ。標高が500m以上ある高原上の浅い盆地を、巴川が貫いている。面白いことにこの川は、1本の連続した水路にもかかわらず、平たい谷の真ん中で水流だけが二手に分かれているのだ。一方は北進して最後は矢作川(やはぎがわ)に注ぎ、もう一方は南進して豊川(とよがわ、下注)に合流する。その分水する現場をこの目で確かめようというのが、本日の歩き旅の目的だ。

*注 市名は「とよかわ」だが、川の名は「とよがわ」。

Blog_contour12_map1
作手盆地周辺の1:200,000地勢図に、矢作川・豊川の分水界等を加筆

豊橋からJR飯田線の特急「伊那路1号」にのんびり揺られ、10時33分に新城駅に着いた。駅の待合室に集まったのは、堀さんをはじめ、真尾さん、大出さん、相澤さん、石井さん、外山さん、私の7人。さっそく3台の車に分乗して、現地へ向かった。

Blog_contour1202
(左)特急「伊那路1号」で新城駅へ (右)駅の待合室で本日の行程を打合せ

新城の町がある豊川平野の北側には、本宮山を主峰に、山が屏風のように連なっている。それを攀じ登る国道301号線は、ヘアピンカーブが連続する手ごわい山道だ。見上げる高さにあった新東名の高架橋が、いつのまにか眼下に沈んでしまう。作手盆地は、この山並みの上に載るいわば天空の別天地だ。

籠瀬良明氏の解説(下注)によれば、この場所はもとは海面からそう高くない盆地で、水を湛えた沼が広がっていた。水の出口は二つあり、北と南へ流れ出ていた。その後、地面の隆起か、海面の下降によって、小盆地周辺は海面から500mの高さに変わっていった(=隆起準平原)。しかし、「造物主が水の入った大皿を一方へ傾けないようバランスを保ちながら、慎重に持ち上げた」ので、水が南北に流れる状態は保たれた。やがて沼は湿原になり、人の手が入って水田に整えられたが、この巴川だけは、もとのまま盆地の水を二方に流し続けているのだという。

*注 「地図の風景」中部編II 愛知・岐阜(そしえて、1981年) p.42~43

Blog_contour12_map2
作手盆地の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

峠の後もしばらく山道が続く。2つ目の峠を過ぎてようやく、のどかな農村風景が広がってきた。作手盆地に入ったのだ。連休中とあって、目星をつけていた道の駅は、クルマがひっきりなしに出入りしている。満杯の駐車場に、私たちもなんとか空きを見つけることができた。郷土の名産品を商う売店も大賑わいだ。

売店の裏手を、くだんの巴川が走っている。正確に言えば、豊川水系の巴川だ。雨後の濁り水を集めて、流れに勢いがある。真尾さんが言う。「この川に沿って行けば、1kmほどで分水点のはずです」。私たちは地形図を片手に、農道を北へ向かって歩き始めた。

Blog_contour1203
(左)道の駅を起点に豊川水系巴川を遡る (右)雨の後の濁り水を集めて

田んぼになみなみと水が張られ、初夏の強い日差しを撥ね返している。耕運機を操る人影が動き、エンジン音が山裾にこだまする。岸に植えられた名残りの八重桜を愛で、青草を食むヤギたちを眺めながら行くうちに、足もとの川幅はみるみる細くなっていった。

観察すると、その原因は左右から注ぎ込む用水路にあるようだ。つまり、本流よりも周囲の山から用水路を通じて流れてくる支流のほうが、集水域がはるかに広い。それによって巴川の水量が維持されているのだ。実際、地形図で「市場」の地名注記がある辺りまで来ると、本流も細い溝のようになってしまった。直線化され、水田より2m以上掘り下げてあるので、自然の川ではもちろんない。

Blog_contour1204
(左)岸を彩る名残りの八重桜 (右)やがて巴川は細い溝に

水路が北東から北へ向きを変える地点まで来ると、いよいよ水の量が減ってきた。石井さんの車で先回りしていた堀さんも合流して、じっと目を凝らす。白鳥神社から南東に延びる農道との交点に橋がかかっていて、その南側では、まだ南向きのわずかな水の動きを認めることができた。北側には、水路にコンクリートの枡が切ってある。東側から道の下をくぐって水がたっぷり流れ込んでいるのだが、その大部分はなんと北へ出ていくのだ。というのも南側の水路には砂が堆積していて、枡の水位がある程度高くならないと、そちらに水が流れていかないらしい。「分水点はここということですね」。一同顔を上げて、本日の調査の成果を確かめ合った。

Blog_contour1205
橋の下の枡が現在の分水点
大部分の水は北(手前)へ
残りは南へ

豊川・矢作川分水点と書かれた大きな看板が、100mほど先に立っている。ささやかな公園もこしらえてあった。説明板によると、ここは昔、大野原湿原といって作手村で最も広い湿原だった。泥炭の層が、深いところで4mも堆積している。水の流れが一定しなかったために、すぐそばの祠が祀ってある場所にあった橋は乱橋(みだればし)と呼ばれていたのだそうだ。

せっかくの「分水」公園だが、実際の分水点とは位置がずれてしまっている。しかし、それを言い咎めても意味がない。なぜなら、小さな水路として存在する巴川は、おそらく水田の造成過程で湿原から水を抜くために掘られたもので、分水点もそのとき人工的に生じたはずだからだ。人手が入る前は、湿原全体が境目のあいまいな分水「面」を構成していたと考えていいのではないだろうか。

Blog_contour1206
(左)分水点ではなくなった「分水」公園
(右)遠方の橋が現在の分水点。水は北(手前)へ流れている
Blog_contour1207
白鳥神社東方から北望。矢作川水系巴川が北(奥)へ流れ去る

とそこへ、農道をこちらに向かってきた軽自動車の窓から手を振る人がいる。木下さんと息子のキリ君だ。総勢9人となった一行は、近くの白鳥神社の境内を借りて、持参した昼食を広げた。堀さんは昔、当地を訪れていて、そのことは「誰でも行ける意外な水源・不思議な分水」(東京書籍、1996年、p.197~201)に記されている。久しぶりに再訪しようと思った理由は、「近所にもう1か所、行ったことのない谷中分水があるから」だというので、午後はそちらへ足を向けることになった。

Blog_contour1208
(左)白鳥神社正面 (右)境内で昼食休憩

白鳥神社の前の道をまっすぐ東へ進むと、作手鴨ヶ谷(つくでかもがや)という集落に入る。集落の位置する谷は巴川本谷から延びる支谷のように見えるのだが、実は反対側(東向き)に下っている。ということは、その間に矢作川・豊川を分けるもう一つの分水点があるはずだ。

行ってみたところ、道が南東へ曲がるあたりはまだ上り坂だった。ところが、地形図で538m標高点の打ってあるY字路まで行くと、左に分岐する道は明らかに下っている。田んぼの段差も同様だ。そればかりか、標高点のすぐ西で、宅地と林を載せた高まりが谷を横断していた。ちょうどそこは地形図でも、等高線が最もくびれている場所に当たる(下注)。鴨ヶ谷の谷中分水は、景観上も明瞭な分水「界」を成していたのだ。

*注 ちなみに、分水界周辺の535m補助曲線は、西側では閉じているのに、東側は開いたまま途切れている。明らかに描画ミスだ。

Blog_contour1209
(左)宅地の載る高みが鴨ヶ谷分水界 (右)道端に咲いていたシャガの花

林の裏(西側)の、道路から草の道を少し降りた先に、小さな湿原が残っていた。一面、背の高いヌマガヤで覆われ、ひょろりと立つハンノキの枝が吹き通る風に揺れている。「北海道みたいだなあ」と北海道に住む真尾さんが感心する。案内板によれば、この鴨ヶ谷湿原は、かつて大野原湿原の一部だったのだそうだ。すると、さっきの巴川分水点を含めて、作手盆地を埋め尽くしていた大湿原の貴重な生き残りということになる。

Blog_contour1210
(左)鴨ヶ谷湿原 (右)今も山からの水をたっぷり含む

案内板を見ていた誰かが「湿原植物のクサレダマってありますけど、可愛い花に似合わない名前ですね」とつぶやいた。堀さんが苦笑しながら「腐れ玉じゃないですよ。草レダマです」。なら、レダマって何だろうというので、さっそく木下さんが持参のポケット植物図鑑を広げた。漢字で書くと連玉なのだそうだ。「腐れどころか、優雅な名前じゃないですか」と頷き合う。

人とクルマで溢れかえる道の駅とは違って、ここには私たちのほか誰もいない。旅の最後に、思いがけなく本当の別天地を見つけたような気がした。

Blog_contour1211
湿原を吹き渡る風にハンノキの枝が揺れる

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図高里(平成19年更新)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-寒川支線跡
 コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産
 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群
 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界

2016年5月18日 (水)

コンターサークル地図の旅-寒川支線跡

2016年ゴールデンウィークの「地図の旅」は、いつもと違う形で始まった。本日5月3日は、コンターサークルSの行事ではなく、堀さんの私的小旅行という位置づけになっている。「興味と意志のおありの方はどうか御同道下さい」というのが、主宰を退いた堀さんの、メンバーに対する気遣いであることは百も承知しているが、ここではサークルの旅と同じ流儀で書くことをお許しいただきたい。

Blog_contour1101
寒川支線の線路が残る公園で

JR相模線寒川(さむかわ)駅11時42分集合、旧寒川支線(下注)の跡を歩く、というのが本日の行程だ。茅ヶ崎駅で東海道線から1番線の小ぢんまりしたホームに回ると、ブルー2色の帯を巻いた205系が停まっていた。

*注 正式には国鉄相模線(当時)の一部だが、「寒川支線」あるいは「西寒川支線」の通称で呼ばれていた。

相模線にはほとんど乗ったことがない。メモを繰ると1981年7月が最初で最後、もはや大昔の話だ。この路線の電化はかなり遅くて1991年だから、まだキハ35系あたりがガーッと轟音を振りまいて走っていた時代だ。茅ヶ崎までの間、何を思っていたかは覚えていないが、ユーミンの「天気雨」を口ずさみながら、ディーゼルカーに揺られてきた淡い記憶がある。

Blog_contour1102
(左)茅ヶ崎駅1番線で発車を待つ (右)寒川駅到着

今や往時をしのばせるものすらない電車の車内に、堀さんの姿を見つけた。「廃線跡の旅なので、来ないわけにはいきませんでした」と、まずご挨拶する。寒川まではほんの8分、車窓をゆっくり眺める間もなく到着だ。ここも立派な橋上駅に改築されている。改札を出たところで、石井さんが待っていてくれた。

コンコースの腰壁には、タイミングのいいことに、「茅ヶ崎-寒川間開通95周年の歴史」と題した写真パネルが展示されている。寒川の木造駅舎や懐かしいディーゼルカーの交換風景の傍らに、これから行く西寒川駅が現役だった頃の写真もあった。

Blog_contour1103
寒川支線の現役時代をしのばせる写真パネル

現在のJR相模線は、相模鉄道が1921(大正10)年に開業した茅ヶ崎~川寒川間6.4kmがルーツだ。翌1922年に、相模川から採取する砂利の運搬を目的に、寒川~四之宮間で1.9kmの支線が開業した。これがいわゆる寒川支線となる。本線の方は1926(大正15)年から順次延伸され、1931(昭和6)年に橋本まで全通している。

以来、支線では貨物だけを扱っていたが、沿線の軍需工場へ作業人員を輸送するために1940(昭和15)年から旅客営業を開始した。1944(昭和19)年には、四之宮駅の廃止統合に伴って、西寒川が終点になる。旅客輸送は戦後いったん中断したものの、1960(昭和35)年に再開され、国鉄末期の合理化策で1984(昭和59)年3月末限りで廃止されるまで、細々と続けられたのだ。

Blog_contour1104
寒川駅構内の支線跡 (左)西側は更地化 (右)東側は側線と車輪が残る

高架駅舎の窓から見下ろすと、相模線の線路の南側に、草生した細長い空き地が延びている。東半分は草に埋もれているが、使われていない側線も見え、これが寒川支線の痕跡なのは疑いない。地上へ降りてみると、一部アスファルトで固められたレールの上に、ぽつんと1対の車輪が置いてあった。片付けるのを忘れるはずはないから、何かの記念物だろうか。

一行3人で、西へ歩き出す。今日はやや強い風が吹いている。湿度も高めで、歩くと汗ばんでくるが、足を止めるとちょっと寒い。駅構内の終端は大山踏切で、ここでも線路の南側に空地が残っていることを確認した。せっかくなら線路跡を歩きたいが、鉄道用地だし、片方向20分間隔で電車が来るからそうもいかない。踏切の先でも、立ち並ぶ民家が線路の眺めを遮っていて、堀さんはもどかしそうだ。

Blog_contour11_map1
寒川~西寒川間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
Blog_contour11_map2
寒川支線現役時代の1:25,000地形図 1976(昭和51)年改測

産業道路(県道46号相模原茅ヶ崎線)と立体交差するところで、ようやく線路に出会えた。寒川支線はここで本線と分かれる。支線自体、左へカーブしているけれども、地図の上では、本線のほうが反向曲線で無理やり離れていくようだ。「寒川支線の方が本線に見えますね」と私が言うと、「もともと砂利を運ぶために造ったようなものですから」と堀さん。

Blog_contour1105
(左)支線が分かれる地点。本線は右へ、支線は左へ
(右)大門踏切を隔てて寒川神社の社森と鳥居が

大門踏切の向こうに寒川神社に続くこんもりとした社森と、それに半分隠れるようにして一の鳥居が見える。相模国の一之宮まではまだ1kmもあるのだが、早やここから参道が延びているとは知らなかった。残念ながら寒川支線はそれに背を向けるように、南西へ向かう。

大門踏切前交差点の南側は、どの地形図でも廃線跡が消失したように描かれている。しかし、現地には「ゲート広場」と記されたミニ公園があった。二方を道路に挟まれた三角形の小区画だ。ゲートというのは大門にあやかったか、あるいは緑道の門という意味なのだろうか。

Blog_contour1106
(左)緑道の手前にゲート広場 (右)一之宮緑道入口

というのも、ここから長さ900mにわたって、廃線跡を転用した一之宮緑道が始まるからだ。一之宮はこの付近の地名だ。廃線跡を自転車道にする例は多いが、ここは緑道と称するだけあって、カツラの並木とツツジの植栽が施されている。舗装もアスファルトではなく、インターロッキング仕様だ。歩いているのは私たちだけだが、自転車はよく通るし、子どもたちの遊び場にも使われていた。「こういう整備された廃線跡はお好きですか」と堀さんに聞くと、「好きというより、この線には乗ったことがあるので、来てみたかったんですよ」との答。

Blog_contour1114

堀さんは、昔から寒川支線に興味をひかれていたらしい。「地図から旅へ」(毎日新聞社、1975年)に収められた訪問記は、次の文章で始まる。「延長わずか1・5キロで、途中駅もないという超ミニサイズの上、終点の西寒川が一見、相模平野のまっただ中の、こんな短い線をわざわざ建設する必然性を疑わせるような、変哲のない場所であることが、そのゆえにいっそう私の好奇心をさそったのである」(同書p.168)

茅ヶ崎駅から乗った西寒川直通の列車で、車掌のアナウンスが行先をくどいほど繰り返すことに、堀さんは苦笑する。そればかりか寒川駅では車掌が車内に回ってきて、残っていた2人きりの乗客に「西寒川ですか」とわざわざ念を押したそうだ。終点に着くと、折返しまでの間、この親切な車掌と話が弾み、写真のポーズをとってもらうなど、心温まるひとときを過ごした。その記憶が、堀さんの心にひときわ深い印象を残しているに違いない(下注)。

*注 「地図の風景」関東編I 東京・神奈川(そしえて、1980年)にも寒川支線の記事がある(p.148「都市化のなかの超ミニ・過疎レール 西寒川」)。

Blog_contour1107
(左)クルマの来ない緑道は子どもたちの遊び場 (右)公園入口を限る車輪のオブジェ
Blog_contour1108
本日の記念撮影

緑道の中間部は一之宮公園という名で、住宅街の中の憩いのスペースになっている。入口に、レールの断片と一対の車輪がオブジェとして置いてあった。にぶく光る頑丈そうな車軸を「これ、本物かな?」と眺めていると、堀さんがやにわに腰を下ろした。顔を上げてにこりとしたところを、石井さんがすかさず写真に収める。

公園内には、緩くカーブした線路が200mほど残されている。レールの継ぎ目や朽ちかけた枕木からして、もとからあった線路のようだ。「枕木に埋め込んである輪っかは何のためですか」と石井さんが尋ねる。堀さんも私もさんざん線路を見てきたはずだが、妻面に見える鉄製の輪のことは知らなかった。後で石井さん自ら調べたところでは、割れ止めリングといって、枕木が乾燥して割れて、レールを固定した犬釘が浮いたりするのを防ぐためのものだそうだ。

Blog_contour1109
(左)案内板も駅名標風に (右)草取り作業お疲れ様です

その枕木を文字どおり枕にして、猫が一匹まどろんでいた。カメラを向けると、逃げ出すどころか、撮ってと言わんばかりに起き上がってポーズをとる。そろそろお昼どきだ。「ここらで休憩しましょう」とめいめい持参の昼食を広げた。すると、さっきの猫に続いて数匹の猫が興味深げにこちらへ近づいてくる。近所では見かけない顔ぶれだから、様子を窺いに来たのかもしれない。突然、上空で厚木基地のほうへ向かう軍用機が爆音を轟かせて、昼下がりの静寂を破った。

Blog_contour1110
朽ちかけた枕木を枕がわりに

緑道は、あと500mほど住宅街を走ったあと、小さな公園に突き当たって終わる。八角広場という名称は、中央にある噴水池にちなんだようだが、残念ながら噴水はもう出ておらず、浴場の廃墟のような不思議な雰囲気を醸し出している。ここが西寒川駅の跡だ。線路の断片が同じように残され、その延長線上に、「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の大きな碑があった。駅ができた訳を伝えているのだ。

Blog_contour1111
(左)緑道後半は住宅が両脇に迫る (右)終点手前の踏切跡
Blog_contour1112
(左)八角広場が緑道の終点 (右)西寒川駅跡を示す碑

「地図の風景」に、堀さんが撮影した当時の駅の写真が載っている。現実と見比べようとしてみるが、面影がどこにもなく、同定すらままならない。「ホームはレールの東側に一面あるだけで、西側はレールのすぐわきから雑草が伸び放題に伸び、あちこちに水たまりのある人かげのない空地が、それに続いていた。」(「地図から旅へ」p.172)。あれから40年が経ち、すっかり変貌してしまった西寒川駅跡は、堀さんにどんな思いを残しただろうか。

帰りは、八角公園前の停留所から、寒川駅南口行きのバスに乗った。通勤通学客のいない休日の午後とはいえ、乗客は私たちだけで、こちらもいささか心もとなかった。

Blog_contour1113
八角広場全景、右奥はバス停

Blog_contour11_map3
寒川~西寒川間の1:10,000地形図。緑色に塗られた区間が廃線跡の緑道

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図藤沢(平成18年更新、昭和51年第2回改測)、伊勢原(昭和48年修正測量)及び1万分の1地形図寒川(平成12年編集)を使用したものである。

■参考サイト
さむかわ さわやか ちょこっと ウォーキング http://samukawa-k.jimdo.com/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠
 コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水
 コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産
 コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡

2015年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

秋の「地図の旅」最終日9月23日は、昨日の続きで旧中山道を番場(ばんば)宿から南へ歩き、摺針峠(すりはりとうげ)を越える。

「此嶺の茶店より直下(みおろ)せば、(中略)湖水洋々たる中にゆきかふ舩(ふね)見へて、風色の美観なり」(木曽路名所図会 一坤より)。摺針峠は、中山道で江戸を発って以来、初めて琵琶湖と対面できる展望台だ。景勝の地としてつとに知られ、広重の作「木曾街道六拾九次、鳥居本」(下図参照)にも、望湖堂なる茶屋本陣の前で、帆掛け舟の浮かぶ内湖や琵琶湖の眺望を愛でる様子が描かれた。私たちもにわか旅人となって、「風色の美観」を体験してみたいと思っている。

Blog_contour1001
歌川広重「木曾街道六拾九次 鳥居本」
画像はWikimediaから取得 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kisokaido63_Toriimoto.jpg

Blog_contour10_map1
番場~鳥居本間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)

米原駅10時25分の集合時刻には、昨日も参加した堀さん、相澤さん、外山さん、私に加えて、出山さんが遠路駆けつけた。米原駅東口のタクシー乗り場に行くと、1台しか停まっていない。総勢5人なのでもう1台呼ぼうとしたら、運転手氏が「前に2人乗れますからどうぞ」。なんと前部座席にも3人掛けられるクルマだった。

Blog_contour1002
番場宿でタクシー下車。堀さん、出山さんはそのまま先回り

出山さんが堀さんをエスコートして車で摺針峠に先回りし、残りの3人は番場の四つ角で降ろしてもらった。きょうもいい天気で、陽射しは暑いくらいだ。中山道62番目の宿場町だった番場は、鉄道が通らなかったため、明治以降衰退してしまった。本陣や脇本陣の位置は民家の庭先に立つ小さな石碑が教えるだけで、もはや宿場の面影は残っていない。広めにとられた道幅だけが、往時の隆盛をしのばせる。

Blog_contour1003
中山道分間延絵図に描かれた番場宿
(番場宿碑のパネルの一部を撮影、原図は東京国立博物館所蔵)

左手に、史蹟蓮華寺(れんげじ)と彫られた石塔があった。「瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場」と、看板の宣伝文句もにぎにぎしい。タクシーの運転手さんがしきりに勧めていたのを思い出し、私たちも立ち寄ることにした。寺は左に入った道のどん詰まりにあるのだが、街道からはよく見えない。というのも、名神高速道路の高架と防音壁が寺のすぐ前を横切り、眺めを遮断しているのだ。これでは情緒も風情もあったものではない。昨日の醒井でもそう思ったが、無茶なことをしたものだ。

Blog_contour1004
(左)道幅の広い東番場、左端に本陣跡の碑、遠方の信号が四つ角
(右)蓮華寺入口、寺は名神の高架に遮られて見えない

名神をくぐると、ようやくモミジの古木にかしずかれた立派な勅使門が視界に飛び込んできた。相澤さんいわく「表塀の筋壁は格式を表していて、黄色の地に白筋5本というのは位が高いんです」。なるほど案内板の記す由緒には、聖徳太子の開基と伝え、花園天皇より菊の紋を下された、とある。横口から境内に回ると、気配を察して受付役の男性が出てきた。足もとの溝を指して、「この線から内側は有料ですので」。先を急ぐ私たちは一線を踏み越える余裕を持たなかったが、それでも何かと質問に答えてくれたこの方には感謝しなくてはいけない。

Blog_contour1005
蓮華寺勅使門
Blog_contour1006
(左)蓮華寺境内で話を聞く
(右)小川を渡ると西番場(もとの番場宿)、道幅が狭くなる

街道が小川を渡っても、まだ家並みは続いている。実は今通ってきたのは、米原湊が開かれてから造られた集落、東番場で、橋より上手の西番場と呼ばれる一帯が、それ以前の古い宿場があったところだ。道幅が心持ち狭くなり、どことなく鄙びた雰囲気が漂い始める。

右手に、北野神社の額を掲げた鳥居と参道が現れた。「地形図に載っている130.0mの水準点は、たぶん境内のどこかにあるはずです」。昨日の要領で探すまでもなく、それは本殿の脇に見つかった。マンホールで隠されるどころか、標石は剥き出しで、その前に一等水準點と彫られた平たい石板まで埋めてある。「これは収穫ですね」と3人で頷き合う。本殿の反対側には、大人二抱えもあるような切株が残されていた。今はあっけらかんとした境内だが、かつては大木が陰をつくるお社だったのかもしれない。

Blog_contour1007
(左)西番場の北野神社 (右)剥き出しの水準点標石

家並みが途切れたところで、名神の築堤が広くもない谷の真ん中に進出してきて、中山道は隅に追いやられる。高速道路建設のために移設されたのだ。谷が深まり、田んぼが消えたところで、また水準点の標識があった。獣避けのフェンスを隔てた丈の高い草むらの中だったが、藪漕ぎには慣れている外山さんが果敢に飛び込んだ。道をつけてもらって近づくと、建設省国土地理院の樹脂製プレートが埋め込まれた現代風の標石だ。四方を自然石で固めている。「これも名神建設のときに移転させられたのじゃないかな」と相澤さん。

Blog_contour1008
(左)名神築堤下の草むらに埋もれた水準点 (右)樹脂製プレートが埋め込まれた標石

街道はこれから小摺針峠(こすりはりとうげ)にかかる。築堤の際をずんずん上り始め、まもなくクルマがひっきりなしに行き交う高速道路の路面レベルを越えた。名神はこの鞍部をざっくり切通したうえで覆道化している。名称も、小摺針などという風流さとは程遠い「米原トンネル」だ。中山道の付替え道路はその直上を越えていく。谷底を上る間は風もなく暑かったが、峠の上には涼やかな風が吹き通っていた。クルマの走行音が響いてさえなければ、気持ちのいいハイキングコースなのだが。

Blog_contour1009
小摺針峠 (左)峠への上り坂 (右)車が行き交う谷間を下っていく

坂を下り、名神が左カーブで次第に遠ざかるところに、道標の立つ三叉路がある。中山道は右に折れ、すぐにまた摺針峠の急坂にさしかかる。坂下の小集落の入口で、磨針(すりはり)一里塚跡のささやかな石碑を見つけた。用字の異なる磨針の地名には、由来譚が伝わる。或る書生がいた。京都で学問が成就せず、失意のまま帰郷しようとこの地まで来たとき、斧を磨いている老婆を見かけた。聞けば、大事な針を折ってしまったので、磨いて針にするとの答え。書生は大いに感じ入り、京に引返して苦学を続け、ついに学問を究めたというのだ(下注)。

*注 この説は、今井金吾「今昔中山道独案内」(日本交通公社出版事業局, 1976年, p.332)に、日本名勝地誌の引用として記されている。同書によれば「地元ではこの書生を弘法大師とし、この老媼を神として祀ったのが摺針明神であったという」。

Blog_contour1010
(左)磨針一里塚跡碑 (右)摺針峠の集落

十数軒の集落の先に、サミットがある。現在の車道は峠を掘り割って勾配を緩めているが、その左側、一段の高みへ上っていく細道が旧道だ。元の峠の位置に、神明宮の扁額を掲げた石の鳥居が立っている。お社はささやかなものに過ぎないが、小高い境内に立つと確かに琵琶湖が見える。手前に広がる水田地帯も入江内湖を干拓したものだから、往時ははるかに眺めがよかったに違いない。

ここはぜひ展望写真を撮っておきたいところだが、あいにくフジテック社の背の高いエレベータ試験塔が、否応なしに視界に入ってくる。名神と言い、この高塔と言い、どうも旧街道の景観を壊す構築物が多すぎる。何とか写り込まないようにズームで撮影したのが下の1枚だ。それから、先客の夫婦に倣って境内のベンチに腰をおろし、少し遅めの昼食をとった。

Blog_contour1011
(左)摺針明神(神明宮)の鳥居と境内 (右)摺針峠の今。右の鳥居前を通る小道が旧道
Blog_contour1012
摺針明神から琵琶湖を望む。手前の田園はかつての入江内湖

先行している堀・出山ペアから、相澤さんの携帯に、峠下で休んでいる旨の連絡が入った。「わかりました。今からそちらへ向かいます」。摺針峠から麓へは、高度差約80mを一気に下らなければならない。現在の車道は北西に突き出す尾根を回って勾配を緩和しているが、昔はほぼ直降していた。その跡とみられる小道が残っている。上るのは大変そうだが、私たちは降りるほうだし、急斜面には親切にも手すりが付けられている。

Blog_contour10_map2
地形図で見る摺針峠
(左)並木を伴う旧道が描かれる(1893(明治26)年測図)
(右)現行図に旧道のルートを加筆(2011(平成23)年更新)

Blog_contour1013
(左)摺針峠のすぐ先で旧道は左の踏分け道へ (右)標石亡失(?)の水準点
Blog_contour1014
摺針峠下の旧道を行く

下山の途中でまた水準点の標識に出会ったが、肝心の標石が見当たらない。昨日からさまざまな設置スタイルを観察してきたが、本体の亡失は予想外だった。探している時間はないので、通過。旧道は尾根を折り返してきた車道には合流せず、右側の谷底へまっすぐ降りていく。麓の旧道と新道が交差する地点で、ようやくお二人の姿を発見した。車道を下ってきたと聞いて、外山さんがカメラのモニターで旧道の状況を報告する。

Blog_contour1015
堀・出山ペアとようやく合流

摺針峠の実見で目的を果たした一行は、米原駅に戻るべく、最寄の近江鉄道フジテック前駅に向かうが、私だけ単独行を許していただき、一つ彦根方の鳥居本(とりいもと)駅をめざした。旧道はいったん国道8号に合流し、矢倉川を渡った後、また左へ分かれる。この道が大曲りする角にあるのが、赤玉神教丸本舗を名乗る有川家の豪壮な邸宅だ。往還の旅人が争って買い求めたという健胃薬は、今も商われているらしく、大きな暖簾が風にはためいている。京都方から来れば街並みの突き当りに見え、広告効果は抜群だ。

Blog_contour1016
鳥居本宿、豪壮な構えの赤玉神教丸本舗有川家

わざわざ鳥居本へ足を延ばしたのは、赤い三角屋根のファサードが愛らしい鳥居本駅舎を見たかったからだ。無人化されて久しく、施設も老朽化が進むが、駅としてはいまだに現役だ。新幹線電車が高架線を高速で行き交う傍らで、古色を帯びた駅舎はひとり悠久の時を刻んでいるように見えた。

Blog_contour1017
近江鉄道鳥居本駅舎 (左)正面 (右)玄関と待合室
Blog_contour1018
鳥居本駅 (左)南望。新幹線電車が通過 (右)米原行き電車がやってきた

緩くカーブしたホームでしばらく待つうちに、線路を覆う雑草をかき分けるようにして、青い塗装の米原行電車がやってきた。がらがらのロングシートに腰を下ろす。次の停車はフジテック前駅、堀さんたち一行がこの電車の到着を待っているはずだ。天気に恵まれ、メンバーにも恵まれた4日間の歩き旅に、そろそろ終わりの時が近づいている。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根(明治26年測図)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点
 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
 コンターサークル地図の旅-中山道醒井宿
 コンターサークル地図の旅-寒川支線跡

2015年12月 5日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道醒井宿

コンターサークルSによる2015年秋「地図の旅」も3日目になる。9月22日は滋賀県に転じて、旧中山道の番場(ばんば)宿~醒井(さめがい)宿の間を歩く。醒井は昔訪れたことがあって、清らかな小川が街道に寄り添うように流れていたのを覚えている。あの潤いと落ち着きのある風情は今も残っているだろうか。歩きのゴールで待ち受けている光景を楽しみに、集合場所の米原駅までやってきた。

Blog_contour0901
醒井宿を貫いて流れる地蔵川

参加者は、堀さん、相澤さん、外山さん、私、それに飛び入り参加した相澤さんの友人Mさん。旧道を歩いている途中で木下さん親子も合流したので、最終的に大6小1、計7名のにぎやかな旅になった。番場までタクシーで行き、そこから醒井へ歩いていく予定だったが、堀さんは昨日もかなり歩いてお疲れのご様子。「醒井で町歩きしながら、みなさんの到着を待つことにします」とおっしゃるので、それならと、私たちはタクシーに頼らず、全行程を歩き通すことにした。

Blog_contour0902
(左)米原駅に到着 (右)堀さんとはいっときの別れ

Blog_contour09_map1
米原~醒井間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

整備されたばかりの駅東口を出て、国道8号線を横断すると、そこは米原(まいはら)の旧市街だ。北国街道筋だった古い町並みのなかに、地蔵を祀る立派な祠が目につく。米原が栄え始めたのは、入江内湖から大葭(おおよし)堀を開削して、1603(慶長8)年に湊が開かれてからだそうだ。美濃や尾張から来た物資はここで船に積み込まれ、琵琶湖経由で大津方面へ運ばれるようになった。1611(慶長16)年には、町の北口に深坂越えの新道(深坂道)が開通し、中山道番場宿からのルートが確立した。

*注 米原の集落名は「まいはら」で、旧町名も「まいはら」だったが、市制にあたって駅名と同じ「まいばら」の読みに変更された。

下に掲げた2万分の1地形図は1893(明治26)年測図で、鉄道が舟運に取って代わろうとする時代を描いた貴重な図だ。鉄道の開業は1889年、測図のわずか4年前に登場したばかりだから、米原停車場の周りに集落は張り付いていない。鉄道の西側に広がる湖面は、琵琶湖本体から砂州で隔てられた内湖で、か細い水路が鉄道の下をくぐって町のほうへ延びている。これが開削された大葭堀だ。櫛形の荷揚げ場をもつ米原湊には、船と煙を象った汽舩渡の記号が見つかるから、船便もまだ盛んに利用されていたのだろう。

Blog_contour09_map2
鉄道開通間もない頃の米原周辺
(1:20,000地形図「彦根」「醒井村」図幅、いずれも1893(明治26)年測図)
Blog_contour09_map3
上図の米原集落を拡大、青の円内に「汽舩渡」の記号がある

私たちは米原の町を北に進む。まもなく、右中山道、左北陸道と豪快な字で刻まれた、石の道標が待ち構える三叉路にさしかかった。江戸末期の建立という道標の後ろには、弁柄格子の窓が残る旅館「かめや」が建ち、向いの軒先には昔懐かしい丸形ポストもある。「なかなか役者の揃った一角ですね」と、一同感心しながらひとしきり眺める。米原駅から歩き出したのは正解だった。

Blog_contour0903
(左)米原三叉路、旧 北陸道を望む (右)同 深坂道を望む
Blog_contour0904
三叉路に立つ分岐点道標

道標の指し示しているとおり、右手は番場宿に通じる深坂道で、急な坂道が切通しになり続いている。上りきると二車線道路(県道240号樋口岩脇線)に突き当たり、左に米原高校の校舎を見ながら、今度は谷を下っていく。残念ながら趣があったのは、深坂の上までだった。後は、この単調なクルマ道の端っこを、残暑の強い陽射しを浴びながら延々と歩かなければならなかったからだ。

ようやく番場の家並みが近づいてきた。四つ角にまた石の道標がある。指差しの絵の下に「米原 汽車汽船 道」と読めるから、先述の地形図の頃に造られたものだろう。その向いにも中山道番場宿と彫られた、おにぎり形の石碑が置かれているが、これはいかにも近年の作らしい。信号のある四つ角の右が宿場の中心になるのだが、その散策は明日のお楽しみとして(下注)、私たちはここで左に折れた。

*注 番場宿以南の歩き旅については、「コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠」参照

Blog_contour0905
(左)深坂道の切通し (右)番場四つ角の道標「米原 汽車汽船 道」

集落の出口で個人宅の庭先に、「大切にしましょう水準点」と標識が立っている。地形図で115.5mの数値が記されている水準点だが、測量士と日本列島を描いた特製マンホールでしっかり蓋されていた。開けて標石を確かめたいところだが、外山さんが言うには「ねじで止まっているから、無理ですね」。大切にしたいのはわかるが、管理がちと厳重すぎはしないか。

家並みが途切れた後、山際に沿う道にモミジの古木が並び、いっとき旧街道の風情が辺りに漂う。しかし、すぐに北陸自動車道の高架が現れて、のどかな旅景色を遮った。高架をくぐっていく手前に、一里塚の跡を示すモニュメントがあった。薄れかかった銘板によれば、久禮(くれ)の一里塚、江戸へ約百十七里、京三条へ約十九里。ただし、塚そのものは西100mの集会所付近にあったらしい。「距離を示すものを好きに動かしちゃだめでしょう」と私。

Blog_contour0906
(左)番場東口の水準点 (右)モミジの古木の並木道を行く
Blog_contour0907
(左)久礼一里塚碑 (右)旧街道には立派な構えの家も散見

三吉、樋口、河南(かわなみ)と地名は移るが、家並みはほぼ切れ目なく続いている。道幅は広めで、立派な構えの家も散見され、天下の大道だった昔をしのばせる。国道21号線の北側に出ると、家並みに開いた隙間から列車が走り去るのが見えた。米原以東の東海道線はJR東海のエリアなので、行き交う車両はみなオレンジの帯を巻いている。

畦道を鮮やかに彩る彼岸花を愛で、道路脇を静かに流れる用水路を追ううちに、青空に「恋はみずいろ」のミュージックチャイムが響き渡った。正午を知らせる合図のようだ。そろそろお昼にしましょうとは言うものの、街道筋では腰を下ろす場所もない。地形図を見ていた誰かが、「先の路地を右に入ったところに、お寺があるようです」。

Blog_contour0908
畦道を彩る彼岸花の群落

百寶山徳法寺と名乗るその寺は、予想に反して境内が狭かったが、本堂への上がり口をいっとき借用して、昼食を広げた。そこへ、クルマを近所に停めてきたという、木下さん親子も登場。元気なお母さんはもとより、息子のキリ君とも5月に伊豆長岡の歩き旅で会っている。彼は今、迷路にはまっているそうで、お絵かき帳に書いた自作の迷路で、私たちに果敢に挑戦してきた。

110.8mの水準点がこの附近にあるはずだと皆で探すと、何のことはない境内の片隅に、例の標識が立っている。番場東口と同じマンホール仕様で、やはり標石を拝むことはできない。ともあれ、ブロック塀に囲われて外の道からは見えないから、巡り会えたのは仏様のお導きかも。そう思い地形図を見ると確かに、水準点の記号はしばしば寺や神社のそばにある。理由は知らないが、おもしろい発見だった。

Blog_contour0909
(左)百寶山徳法寺 (右)境内の片隅にある水準点

おなかの虫をなだめたところで、再び中山道を歩き出す。やがて丹生川を渡る橋に出た。白い小石で埋め尽くされた河原に、透き通った水が流れている。丹生川の源流域は、霊仙山(りょうぜんざん)をはじめとする石灰岩の山々だ。濁りは石灰とともに沈殿して、上澄みがこうして流れ出るのだろう。

ただ、橋の前後の約400mは旧道を国道に整備した区間で、橋上を除いて歩道も脇道もない。通行量が多いうえ、信号が近くにないのかクルマの流れがなかなか途切れない。単に車道を横断するだけで、思いのほか時間がかかってしまった。キリ君は途中でつまずいて手を傷めたらしく、もう歩けないとぐずり始めた。やむをえずお母さんは、彼をクルマに乗せて、醒ヶ井駅へ直行することに。

*注 地名は醒井だが、JRの駅は「醒ヶ井」と表記する。

Blog_contour0910
(左)丹生川橋 (右)透き通った水の流れる河原

まもなく、左に分かれる旧道が現れた。養鱒場へ通じる県道(17号多賀醒井線)との交差点に、中山道醒井宿と書かれた碑が立っていた。ここからいよいよ中山道61番目の宿場町だ。まず右手に西行水という名の湧水があった。西行法師の伝説を秘めた冷たい清水が、岩の割れ目からこんこんと湧き出ている。水の中へ入らないでください、との立札を横目に、魚捕り網片手に子どもたちが走り回っていた。

Blog_contour0911
西行水 (左)岩の隙間から湧き出る (右)子どもたちは水遊びに夢中

駅前から来た道と合流するところで、小さな川を石橋で渡る。私の記憶に残っていた地蔵川だ。醒井宿が他の宿場町と違うのは、街道と地蔵川が並走し、その両側に家並みが連なっていることだ。石垣を組んだ川べりに並木代わりの古木が育ち、道の上に柔らかな木陰をつくっている。川の水源は裏山からの湧水で、丹生川に劣らず透明度が高い。涼やかに流れる水面には、白梅に似た小さな花をつけたバイカモ(梅花藻)がそよぐ。それをねぐらに、清流を好むハリヨという小魚が生息していると聞いた。

Blog_contour0912
中山道が地蔵川を渡る
Blog_contour0913
澄んだ水にバイカモそよぐ地蔵川
Blog_contour0914
(左)バイカモの花 (右)小魚はいるがハリヨではなさそう

了徳寺の御葉附銀杏(おはつきいちょう)は、街道筋からもひときわ目立つ大木なので、寄り道した。高さ12m、樹齢150年、扇の葉面に実が生る珍種だそうで、天然記念物に指定されている。道の右手、地蔵川の小橋を渡ったところには、旧 問屋場を復元した醒井宿資料館がある。案内板の説明によると問屋場とは、「宿場を通行する大名や役人に、人足・馬を提供する事務を行っていたところ」。醒井には全部で7~10軒あったそうだ。さっきから探していたハリヨを、とうとう見つけた。小魚は、資料館の小さな水槽の中で泳いでいた。

Blog_contour0915
(左)了徳寺、左奥に御葉附銀杏の木が見える (右)銀杏の樹陰で
Blog_contour0916
(左)問屋場を復元した資料館 (右)内部

最後の見どころは居醒(いさめ)の清水、地蔵川が生まれる場所だ。樹陰に覆われた小暗い池に石橋が渡してあって、その奥、下草が覆う石と石の間から、水がむくむく湧き出しているのがわかる。「これだけで水路が常時いっぱいになるというのは驚きですね」。なにしろ1日の湧水量は1万5千トンに上る。手を入れると思った通りの冷たさ。水温は年間を通じて12~15度だそうだ。居醒の謂れは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山の荒ぶる神の毒気にあたったとき、この水で高熱を癒したという故事から来ている。街道を歩き疲れて宿場に入った旅人たちも、清水でどんなにか癒されたことだろう。

とても趣のある場所というのに、あろうことか頭上に名神高速の無粋な擁壁が見える。高速道路は宿場町のすぐ裏手をかすめていて、かつて山の中腹にあった隣の加茂神社も、工事に支障するため、現在地に移転させられたのだそうだ。走行音はそれほど気にならなかったが、現代の感覚ではどう見ても無謀なルート設定だ。名神が建設された1960年代は開発事業優先で、こうした小さな自然にはあまり注意が払われなかったのだろう。大切な湧水が涸れなくてよかった。

Blog_contour0917
居醒の清水 (左)湧きだす現場 (右)水源の静かな池
Blog_contour0918
宿場の東端にある加茂神社

宿場の東端まで来たので、そろそろ駅へ引き返そうと思う。駅前へ通じる道筋には、ヴォーリズ建築の旧醒井郵便局が残され、観光案内所として活用されていた。開設は1915(大正4)年。列柱が支えるギリシャ神殿をモチーフにした外観で、宿場町の建物にしてはかなり大胆だ。玄関前には重要な小道具となる赤い丸形ポストも置かれているが、こちらは現役ではないらしい。

Blog_contour0919
(左)旧醒井郵便局 (右)丸形ポストがよく似合う

醒ヶ井駅の待合室で堀さん、木下さん親子と再び合流した。「だいぶお待たせしましたか」と聞くと、にこりとした堀さん。時間を気にしないまま歩いていたが、米原で別れてからもう3時間半が経過している。歩いた距離も約9kmまで延びた。

駅舎の隣で、醒井水の宿駅という地域振興施設が開いている。中の喫茶店の小さなテーブルに、本日の参加者全員が初めて揃った。居醒の清水を使って入れたというコーヒーで一息つく。堀さんからは「長い距離が歩けなくなってきたので」と、今回限りで歩き旅から引退する旨の宣言があり、これまで長い間旅を共にしてきたメンバーから、感謝と労いの言葉が発せられた。

Blog_contour0920
(左)JR醒ヶ井駅 (右)本日のメンバーが再び勢揃い

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根、醒井村(いずれも明治26年測図)を使用したものである。

■参考サイト
滋賀県公式サイト-近江歴史探訪マップ
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/katei/bunkazai/ohmirekishitanboumap/tanboumap4/
環境省-平成の名水百選
https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点
 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
 コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

BLOG PARTS


無料ブログはココログ