2017年6月11日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)

まだ雪のベールのかかる鳥海山の荘厳な姿に感嘆しながら、羽越本線で秋田へ移動してきた。コンターサークルS 春の旅も、きょう5月5日が最終日だ。用意した地形図は1:25,000「岩見三内(いわみさんない)」。雄物川の支流の一つで、秋田市東部を流れる岩見川の中流域を描いている。

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羽越本線の車窓から見た鳥海山

日本の1:25,000地形図は、全部で4,400面以上もある。それで、鉄道、主要道路、あるいは著名な山や湖などが図郭に入っていないと、見てもすぐに印象が薄れてしまう。率直なところ、「岩見三内」もそうした括りの図幅だった(下注)。ところが、お題に挙がったのを機にじっくり眺めてみると、興味深い題材がいくつも見つかる。他のメンバーも各々関心のあるテーマを持ち寄ったので、思いがけなく盛りだくさんの地図の旅になった。

*注 ただし、現在の「岩見三内」図幅は、図郭が拡大されたので、大張野駅前後の奥羽本線が顔を覗かせている。

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秋田市周辺の1:200,000地勢図(平成5年編集)に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

朝10時、秋田駅の東西連絡通路の一角に集まったのは、堀さん、真尾さん、丹羽さん、私の4人。駅前から2台の車で出発した。秋田市街を抜けて、県道28号秋田岩見船岡線を東へ。太平山の南斜面を水源とする太平川(たいへいがわ)に沿って、緩やかな谷を遡る。

まず、私のリクエストで、地主(じぬし)という集落で車を止めてもらった。ここに謎の地形があるからだ。現行地形図(下の左図)を見ると、地主の南を、太平川がまっすぐ西へ流れている。それと同時に、集落の西から北にかけて弧を描く土の崖と、一つ北の谷につながる鞍部(=風隙)も読みとれる。これは、かつて太平川が北へ蛇行していたことを示す証拠のようだ。それが、何らかのきっかけで西の谷へ流れ込むように変わったとすれば、西の谷による河川争奪があった、ということになる。

ところが、大正元年の旧版図(下の右図)を取寄せてみたら、驚いたことに、旧流路が実際に細々と残っているばかりか、太平川の本流には、長さ150mほどの隧道が描かれているではないか。石灰岩地形でもない限り、川が器用に地中を抜けていくとは考えにくい。どうやら自然の力による河川争奪ではなく、人間が水路を掘って流路を付け替える、房総半島で言う「川廻し」が行われたようだ。

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地主の「川廻し」
(左)平成18年更新図 (右)大正元年図、太平川の隧道と北行する旧流路が描かれる

しかし、謎はまだ残る。大正時代は隧道だったのに、なぜ今は青天井の谷になっているのか。地図の間違いでなければ、何か理由があるに違いない。

さっそく川岸の農道に出てみた。太平川は水制から先で早瀬となって、勢いよく正面の小渓谷へ落ちていく。雪解け水が混じる今は、思った以上に水量が豊かだ。一方、右手の水田の向こうでは、砥の粉色の地肌をところどころに覗かせた崖が緩い曲線を描く。もとは川の外縁、いわゆる攻撃斜面だったことをしのばせる。

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地主の「川廻し」 (左)太平川の堰 (右)隧道崩壊によって生じた小渓谷

60代とおぼしき男性が、近くの畑で作業をしていた。「あの川は昔、トンネルでしたか」と尋ねると、一瞬驚いた顔を見せながら頷いた。「確かに、子供のころはトンネルだった記憶がある。この地区は建設業をやっている人が多かったので、田を拡げるために自分たちで掘ったと聞いている。だが、山が脆いんで、崩れてしまったんだ」。

普段でもこの水量なら、大雨が降った後はきっと破壊的な水のパワーが生じるに違いない。柔らかい粘土層に掘られたトンネルは、早晩崩壊する運命にあったのだろう。謎解きをしてくれた男性に丁重に礼を言って、私たちは現場を後にした。

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旧流路は正面の土の崖沿いに右へ旋回していた。遠方に太平山を望む

地主のそれは、人の手による河川「争奪」だったが、次は、堀さんがめざしていた自然の争奪跡だ。野田集落の東、野田牧場へ上がる道で車を停めた。太平川は北から流れてきて、この付近で西へ向きを変えている。しかし、浅い谷が南へも続いている。つまり、ここでは野田集落を交点として、T字を寝かせた形で谷が広がっているのだ。そこで、昔は太平川が南流しており、後に河川争奪が生じて西へ流れるようになったという仮説が成り立つ。

典型的な争奪地形の場合、流路が変わると、水量が増した谷(野田のケースでは西の谷)では下刻が激しくなり、上流に向かって深い谷が形成されていく。ところが、野田の地形にはそうした展開が見られず、太平川は、ダイナミックな地形のドラマなど知らぬがごとく、終始ゆったりと谷を蛇行している。どうしてだろうか。

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野田の河川争奪
「風隙」~「繋沢」間が争奪前の谷筋

「地図の風景 東北編II 山形・秋田・青森」(そしえて、1981年、pp.115-117)で、籠瀬良明氏が成立過程を解説している。それによれば、その昔、太平川は南流していた(下図1)。しかし、野田の北東方からの崩壊、土石流、小扇状地といった土砂の押出しによって流れが遮られがちになり、一部が西の谷へ流れ込んだ(下図2)。この状況が続いて南側が閉ざされ、ついに全量が西へ流れるようになった(下図3)。つまり西の谷が力尽くで水流を奪ったのではなく、流路を塞がれた川が「自ら」西へ向きを変えた、というのだ。

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河川争奪の過程(解説は本文参照)
図1~3は「地図の風景 東北編II」p.117の図を参考にした

一段高い野田牧場へ上がれば、一帯を俯瞰できるのではないかと思ったが、斜面の植林が育ちすぎて視界がきかない。「南の谷頭がどうなっているか見たいんです」と堀さんが言うので、南の農道へ廻ることにした。谷頭(こくとう)は谷の最上流部のことで、そこでは水の力や風化作用によって、上流へ向けて谷が常に前進している。

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野田付近の180度パノラマ
右奥(北方向)に見える太平山から流れてきた太平川は、かつて左奥(南方向)へ流れていたが、河川争奪により現在は、正面の野田集落から奥(西方向)へ流れ去る

田んぼの先に、まだ冬の装いから目覚めていない雑木に囲まれて、深さが10m近くある窪地が姿を現した。これが谷頭だ。太平川に去られた南の谷(下注)では、下流の岩見川の基準面低下によって、谷頭の浸蝕力が強まっている。集水域がごく狭いのに、これだけの高低差を造る力があるとすると、将来、土砂の押出しとの闘いに打ち勝って、上流に谷を延ばしていき、最終的に太平川を奪い返すこともありうるのではないか(上図4)。そんな想像が脳裏をよぎった。

*注 無名の川だが、掲載の図では下流の地名を借りて「繋沢」としている。

上記「地図の風景」では、堀さんも共著者に名を連ねているが、「野田の河川争奪は籠瀬さんの担当だったので、私は来ていないんです。ようやく現地を見ることができてよかったです。」

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繋沢の谷頭
(左)旧流路(北方向)を望む、奥に太平山 (右)谷頭の上から南を望む
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谷頭を観察するメンバー

その南の谷に沿って県道を下りていくと、岩見川に三内川が合流するこの一帯の中心地、岩見三内だ。秋田駅西口からここまで、私たちが通ってきたルートでバス路線も維持されている。野崎の駐在所前の交差点にあるバス停は「貯木場前」。すでに新しい住宅が建ち始めているが、以前、道路の北側は、岩見川水系で産する木材を集積する岩見貯木場があった。貯木場には、奥羽本線の和田駅から森林鉄道(正式名「岩見林道」)が通じ、さらにここで三内支線が分岐して、北に広がる山林の中へ延びていた(下注、全体のルートは下図参照)。

*注 岩見林道(本線)29.4km、1923年開設、1967年廃止。三内支線24.9km、1921年開設、1967年廃止。大又支線13.4km、1933年開設、1967年廃止。その他延長線、分線がある。出典:林野庁「国有林森林鉄道路線データ」

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岩見三内の貯木場前バス停。正面奥の貯木場跡は払い下げられて宅地に

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秋田市東部の森林鉄道路線網、赤の矢印が岩見三内
1:200,000地勢図「秋田」(昭和35年編集)に加筆。原図は今尾恵介氏所蔵

私のもう一つのリクエストは、林鉄遺構の現状確認だった。三内支線は、貯木場から先で河岸段丘の崖際を走った後、上三内集落の北で三内川を渡っていた。その鉄橋は、平成18年更新図までは描かれているのに(下図参照)、2017年5月現在の地理院地図では消されている(下記サイト参照)。水害か何かで流失してしまったのだろうか。実態を自分の目で確かめたいと思った。

■参考サイト
上三内付近の1:25 000地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.728630/140.305000

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森林鉄道跡
1:25,000地形図(平成18年更新)に林鉄のルートを加筆
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1:25,000地形図(昭和13年修正測図)に描かれた林鉄のルート

私たちは一つ上流の小橋を渡って、廃線跡である農道からアプローチしたのだが、小橋の上から、遠くに朱色のガーダー橋が架かっているのが見えて、ホッとする。農道は、急曲線の築堤で鉄橋につながっていた。「トロッコは小回りが利くから、これぐらいのカーブは何ともないでしょう」「勾配はきつすぎるので、後で切り崩したのかもしれないですね」などと話しながら、軽便のレールを土留めに使った築堤を上る。

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上三内に残る三内支線の鉄橋

橋脚と橋桁(ガーダー)は、鉄道橋そのものだ。2連のガーダーの縦寸法が異なるのが気になるが、橋脚がそれに合わせて造られているので、もともと他からの転用品なのだろう。路面は一人分の幅しかないが、歩けるようにセメントを流し、簡易な欄干が取り付けてある。だが、橋の手前で、秋田市道路維持課のバリケードが通路を塞いでいた。通りかかった農作業帰りの女性に聞くと、「畑へ行くのに、車道は遠回りだからここを通ります。手すりが壊れて、通行止めになってますけど。直すのは来年になるらしいですよ。」

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縦寸法が異なるガーダー
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(左)鉄橋に向かう上流側の築堤 (右)築堤の土留めに古レールが使われていた

橋が地理院地図から消された理由は、それかもしれない。しかし、歩くには支障がなさそうなので、私たちも通らせてもらう。鉄橋の下を、緑味を帯びた水が川幅いっぱいに滔々と流れている。じっと見つめていると吸い込まれていきそうだ。対岸の築堤も切り崩されていたが、線路跡は明瞭で、集落から下りてくる小道と交差した後、緩いカーブを切りながら段丘崖の陰に消えていく。

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(左)鉄橋は対岸の農地へ行く歩道橋に (右)欄干の一部が破損
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三内川の上をそろりと渡る
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(左)築堤脇の神社。左奥に見えるバリケードの先が鉄橋
(右)反対側を望む。舗装道の右が廃線跡で、段丘崖の下へ続いている

築堤の脇に、八幡神社という小さな社があった。今日も天気に恵まれて、日なたはけっこう暑いのだが、見事な杉木立の下は、涼風が吹き通って心地よい。鳥居前の大きな石に腰を下ろして、昼食休憩にした。

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「ぼだっこ」おにぎり

朝、秋田駅のコンビニで見つけた「ぼだっこ」おにぎりを取り出す。中身を知らないまま買ったので、「これ何が入ってるんでしょうね」と皆も興味津々だ。私は漬物を想像していたのだが、かじってみたら、塩鮭の切り身が出てきた。後で調べると、ぼだっこの「ぼだ」は牡丹のことで、ベニザケの身の色から来ているそうだ。塩がよく効いているものの、梅干しや塩昆布と同じで、ご飯に添えればおいしく食べられた。「北海道で甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのを思い出しました」と私が言うので、真尾さんが丹羽さんにそのことを説明する(下注)。たとえコンビニであろうと、ご当地ものを探すのは楽しい。

*注 甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのは、夕張での話。「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

真尾さんは、アイヌ語地名の痕跡を探している。このすぐ上流に岩谷山(いわやさん)という、おにぎり形の山がある。地元では三内富士とも呼ばれているようだが、「モイワと同じように、神聖な山を意味する「イワ」と関係があるんではないでしょうか」と真尾さん。麓の砂子渕集落まで車を走らせた。実際、太平山との関わりで「お山かけ」(山岳信仰)の対象になっているためか、自然の植生が残されている。ヤマザクラや芽吹いたばかりの木々が、パステル調のグラデーションで山肌を彩り、ことのほか美しい。

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パステル調のグラデーションが美しい岩谷山

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岩谷山周辺の1:25,000地形図

その後、大又川流域へ移った。岨谷峡(そうやきょう)を越え、山間の小盆地にある鵜養(うやしない)集落へ。ナイはアイヌ語で沢の意で、漢字で「内」と書かれて、北海道の地名には頻出する。さっき通ってきた三内などもおそらくそうだが、「養の字を当てたのは珍しいです」。地名を記したものはないかと探したら、バス停の標識が見つかった。バス会社が撤退してしまい、ジャンボタクシーが巡回しているようだが、小さな集落に、鵜養下丁、鵜養中丁、鵜養上丁と3か所もある。

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鵜養 (左)鵜養下丁のバス停標識 (右)陽光を跳ね返す用水

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鵜養周辺の1:25,000地形図

静かな山里で動いているものと言えば、そよ風のほかに足もとを勢いよく流れる用水路の水ぐらいだ。堰板のところで流れが膨らんで、初夏の陽光をちらちらと跳ね返している。目覚ましい光景に出会ったわけでもないのに、きょう一日の行程が脳裏に蘇り、満ち足りた気分になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩見三内(大正元年測図、昭和13年修正測図、平成18年更新)、20万分の1地勢図秋田(昭和35年編集、平成5年編集)を使用したものである。

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2017年6月 5日 (月)

コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

コンターサークルS 2017年春の旅、本日5月3日は、山形県上山(かみのやま)周辺にある古い石橋群を訪ねる。

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吉田橋のたもとにて

イギリスの旅行家イザベラ・バード Isabella L. Bird が、山形の印象を故国の妹に書き送っている。「この地方は見るからに繁栄していますが、その繁栄はひとつにはこの立派な幹線道路から生まれているとわたしは思います」(「イザベラ・バードの日本紀行(上)」時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.330)。彼女が当地を旅したのは明治初期、1878(明治11)年だ。ちょうどその頃、初代山形県令に任じられた三島通庸(みしまみちつね)が、当地の殖産興業を図るために交通路の整備を強力に推し進めていた。

イザベラはこうも記す。「坂巻川ではうれしいことに、わたしが唯一目にした、完璧に堅牢な近代日本の建造物に出会いました。完成直前のすばらしく立派な石橋で、これははじめて見ました」(同 p.329)。木橋に代わる石造アーチ橋もまた、三島の土木事業の成果だった。彼女が絶賛した山形南方の常盤橋(ときわばし)はその後流失してしまうが、周辺では幸いにも、同じ時代に造られた石橋がいくつか残っている。

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かみのやま温泉駅に到着

山形駅から奥羽本線の普通列車で14分、かみのやま温泉駅で下車した。改札前に集まったのは、堀さん、石井さん、外山さん、真尾さん、私の5人。訪ねるべき石橋は6か所あり、場所は地図上でチェックしてある。「連休に入って道が混むかもしれないので、先に国道沿いを回りましょう」と順路を確認して、2台の車に乗り込んだ。

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上山周辺の1:200,000地勢図に、石橋の位置を加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

堅磐橋(かきわばし)

目標の一つ目は、上山市川口にある堅磐橋。国道13号上山バイパスに合流してまもなく、左の脇道へ折れたところで車を停めた。白い花が満開のさくらんぼ畑をかすめる農道の先に、その石橋がある。もとは羽州街道旧道を通していた橋だが、前後をバイパス建設で塞がれてしまい、かろうじてこの農道で公道につながっている状態だ。

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堅磐橋は2連アーチの眼鏡橋

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上山市川口、中山周辺の1:25,000地形図に、堅磐橋と中山橋の位置を加筆

しかし橋自体は、2連アーチのいわゆる眼鏡橋(下注)で見応えがある。アーチを形成する迫石(せりいし)はもとより、壁石にも緩みがなく、現役に復帰しても十分通用しそうだ。下流側の勾欄(欄干)はコンクリートで更新されているが、上流側は切り石で、とりわけ控柱には迫力ある筆致で橋の名が彫り込まれている。

*注 二重アーチが川面に映って眼鏡橋に見えるのだが、一重アーチでも眼鏡橋と呼ばれるようだ。

傍らに上山市教育委員会が立てた案内板があった。「山形県令三島通庸の道路開さくと整備の積極的政策により、山形から米沢に通ずる国道の川口部落南端の前川に架橋された、当時としては珍しい石の橋である。石材は同橋上流山手の採石場と、同河川からも採取された凝灰岩で、明治11年1月着工、同3月竣功している。橋長14.30m、幅員6.60m、アーチの高さ約3.1m、河床部での径は約5.6m(後略)」(下注)

*注 日付と計測値は英数字に改めた。以下の石橋に関するデータも、地元の教育委員会が立てた案内板を引用している。

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堅磐橋 (左)赤湯方向を望む (右)橋の名が陰刻された控柱

三島に請われて洋画家高橋由一が描いた堅磐橋の石版画が残っている(下図参照)。山中としては不相応に幅広の橋の真ん中に、ぽつんと二人の通行人。画風が違うとはいえ、アンリ・ルソー  Henri Rousseau を連想させるような不思議な構図だ。イザベラ・バードが赤湯から山形へ抜けたのは竣功の年の7月で、彼女も画中の人物のように、できたばかりのこの橋を渡ったはずだ。

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高橋由一「南村山郡川口村新道ノ内大川ニ架スル堅磐橋ノ図」 山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/

タンポポの咲く川岸から、めいめい橋のほうへカメラを向ける。蜂が何匹か忙しそうに飛び回っているが、さくらんぼの花が目当てらしく、私たちにはまったく関心を示さない。いつのまにか石井さんと堀さんの姿が見えないと思ったら、石橋の上に車で現れた。堀さんが窓からにこやかに手を振る。シャッターチャンスを逃すまいと、皆またカメラを構え直した。

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石橋の上でフォトチャンス

吉田橋

想定どおり、中山の手前から国道が渋滞し始めた。「この先で車線が減るんですよ」と、このルートを通ってきた外山さんが言う。しかし、のろのろ運転に付き合ったのは少しの間で、南陽市に入るとすぐに左の旧国道へ。さらに小岩沢の集落へ通じる旧道へ折れたところに、1880年(明治13)年築の吉田橋がある。

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吉田橋

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南陽市小岩沢周辺の1:25,000地形図に、吉田橋と小巌橋の位置を加筆

橋は、県道238号原中川停車場線の一部で、地元の車が往き来する。130歳を超えてなお現役なのも、部材が劣化しにくい石橋ならではだ。最上流部で川幅が狭いので、単アーチで済ませているが、石の積み方は堅磐橋によく似ている。ユニークなのは、勾欄(欄干)の親柱と控柱に尖形の自然石が使われていることだ。上流側に刻まれた文字は、変体がなで「よした者(は)し」、下流側は漢字で「吉田橋」と読める。高橋由一もまったく同じように描いているから(下図参照)、オリジナルであるのは疑いない。

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吉田橋 (左)上山方向を望む (右)橋のたもとに立つ土木学会選奨土木遺産の碑
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高橋由一「東置賜郡小岩澤村新道ノ内前川ニ架スル吉田橋ノ図」 山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/
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自然石を使った控柱の陰刻
(左)上流側「よした者(は)し」 (右)下流側「吉田橋」(橋の字は半ば埋没)

案内板によれば、「長さ約12.6m(7間)、高さ約8.8m(下注)、幅は約7.2m(4間)。下部はアーチ型(眼鏡型)、上部は両端に飾り石を配した欄干と、和洋折衷様式である」。吉田橋の名は、これを造った地元の石工、吉田善之助にちなむものだそうだ。発案者でも設計者でもなく、施工業者の名を遺すとは、粋な計らいではないか。

*注 上山市の橋の説明板では「アーチの」高さを示しているが、南陽市の説明板の「高さ」が何を指すかは不明。少なくともアーチはそれほど高くない。

すぐ隣を、奥羽本線(山形新幹線)の線路が通っている。平成のE3系つばさ号と明治の石橋を一つの構図に収めてから、次の目的地へ向かった。

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つばさ号と明治の石橋が一つの構図に

小厳橋(こいわばし)

踏切を渡って小岩沢集落の中へ入ると、三つ目の橋がある。といっても、前川に注ぐ支流(下注)をまたぐ小さな橋で、うっかり通過してしまいそうだ。1881(明治14)年完成。名称は小厳橋だが、地元では蛇橋(じゃばし)または蛇ヶ橋(じゃがばし)というらしい。アーチと勾欄でかなりの部材が後補されているため、色合いの違いが不自然に際立つ。「大水で壊れたんでしょうか」と石井さん。

*注 確かめるのを怠ったが、この支流が「小岩沢」なのかもしれない。

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小厳橋は小岩沢集落の中に。上山方向を望む
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石材の補修跡が目立つ (左)下流側 (右)上流側

中山橋

来た道を、上山市中山まで戻った。私が先行車でナビをしていたのだが、迷うことなくたどり着けたのは、あるウェブサイトで、マピオンに位置情報が示してあったからだ。しかし、中山橋だけは例外で、プロットされた地点に実際に架かっていたのは、何の変哲もないコンクリート橋だった。近くで農作業をしていた人に「架け直されたんですか」と尋ねると、「石橋ならここじゃなくて、村のパーマ屋の先だ」と、親切にも略図を描いて教えてくれた。

中山の集落に入り、道が下り気味になったところで、この人の言っていた「すとう美容室」が見つかった。その先で旧道が、西の山から流れ出るカラジュク川(下注)を渡っている。低い石の勾欄と教育委員会の立て札が目印だ。上山方面から来る人には、中山郵便局の100m南を目指していただきたい(地図は堅磐橋の項参照)。

*注 川の名は現地の案内板で知った。地形図にはこの川が描かれていないので注意。

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中山橋の側面。二重の迫石が特徴

谷はこれまで見たものより深く、かつ広いのだが、支流のため水量は多くなさそうだ。それで、石垣で固めた築堤を両岸から谷に張り出させて、流路を単アーチでまたいだ。路面の高さを得るためか、アーチの迫石は二重に組まれ、その上に壁石が厚く積まれている。

上流側に回ると、太い松の木が石垣に根を張っていた。石積みに沿って這い降りるかと思いきや、やおら起き上がって空に枝を広げている。「盆栽みたいな松ですね」と感心する。真尾さんは、脇道の土留めに古いレールが使われているのを見つけた。一方、下流側は崖が迫っていて写真が撮りにくいのだが、「こういう時のために最新兵器を持ってきてます」と、外山さんは大きな魚眼レンズを取り出した。

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中山橋 (左)赤湯方向を望む (右)盆栽のような松が趣を添える

使われている石材は、中山石と呼ばれる地元の凝灰岩だ。勾欄の親柱には変体仮名で、もう片側の控柱には漢字で、橋の名が刻まれている。堅磐橋と同じ1878(明治11)年の竣工、橋の長さ11.3m、全幅6.7m、アーチの高さ4.35m、川床部での径は5.85m。こうしてみると、羽州街道の石橋はいずれも幅7m前後で、現代の2車線道路に匹敵する広さを誇っている。明治初期の地方道としては確かに破格の存在で、イザベラ・バードが感心したのももっともだ。

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親柱・控柱の陰刻 (左)上流側「奈可やま者(は)し」 (右)下流側「中山橋」

新橋

1881(明治14)年に福島と米沢を結ぶ萬世大路が開通する以前、羽州街道は、福島県桑折(こおり)から七ヶ宿(しちかしゅく)経由で上山に出るルートを取っていた。その旧街道が金山峠を越えて山形盆地に降りたところに、楢下宿(ならげじゅく)がある。今では時が止まったように静かな村だが、かつては奥州13藩の参勤交代の折の宿場として賑わいを極めていた。村を通る街道は当時コの字形に曲がっていて、須川の支流である金山川を二度渡る必要があった。その橋が2本とも石造りで残っている。

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上山市楢下周辺の1:25,000地形図に、新橋と覗橋の位置を加筆

まず上流側にある新橋へ。楢下宿は、地形的に川の左岸(西岸)のほうが高いので、そちらから来ると、下り坂の途中で川を渡ることになる。橋面にもいくらか勾配がつけられているようだ。長さ14.7m、幅4.4m、アーチの高さ約4.4m、川床部の径約12m。道幅は中山橋などより狭く、一見、小橋の印象だ。しかし側面に回ると、広い径間で谷川を一気に跨いでいて、6つの橋の中では最もスケール感がある。

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緑に包まれた新橋

竣工は1880(明治13)年8月で、羽州街道が米沢回りに付け替えられる直前だ。しかし、主要道を外れることがわかっていたからか、建設費1000円余のうち、県から下りた補助金は300円のみだった。残りは地元で立替え、通行人や荷車から橋銭を徴収して回収したという。

村はひっそりとしていて、聞こえるのは金山川のせせらぎの音だけだ。古びた石橋に、欅の若葉が柔らかい影を落とし、見ごろを迎えたしだれ桜が淡い彩りを添えている。いつまでも眺めていたいと思わせる光景がそこにあった。

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新橋を渡る旧 羽州街道
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広い径間で谷川を一跨ぎ (左)上流側 (右)下流側

覗橋(のぞきばし)

すぐ下手、街道が金山川を渡り直す位置に覗橋がある。名称は眼鏡橋と同じく、外観からの着想だ。前後でまっすぐに伸びる道路のせいで、こちらは開放的な風景の中に架かっている。橋の竣工は1882(明治15)年。パリのポン・ヌフのように、名前に似合わず新橋のほうが古い。橋長10.8m、全幅3.5m、アーチの高さ約3.83m、川床部の径約8.44m。

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覗橋と、上手に建つ古民家山田屋

壁石には、自然石に近いものが使われている。工費は全額地元負担だったというから、費用節約の結果かもしれない。立て札には、橋脚がないため村民たちは不安がってなかなか渡らなかったというエピソードが記されているが、アーチの橋は、新橋で経験済みのはずだ。それとも、覗橋の造りがやや雑に見えるのが不安だったのだろうか。

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覗橋 (左)新橋に比べると多少無骨な造り (右)街道はこの橋を経て上山方面へ向かう

橋の上手で、山田屋という屋号で呼ばれる古民家が公開されている。石橋群の風情を堪能した私たちは、その軒下を借りて遅い昼食をとった。「「地図中心」(下注)にコンターサークルSの記事を書きました」と真尾さんが報告する。なんでも今号は、地図関係のサークルの特集らしい。オンライン地図で何でも済ませられる時代だが、紙地図で調べ、紙地図を手にフィールドに出る人々が各地で活動しているのは頼もしい。

*注 一般財団法人日本地図センター発行の月刊誌。言及しているのは2017年5月号(通算536号)の特集「地図に集う人達」。

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山田屋の軒下で昼食休憩

石橋のことに集中していたせいか、結局私たちは、楢下宿の保存建物も名物を売る店も、ほとんど見ないまま帰ってしまった。一般的な景勝地や観光施設に何ら執着がないのもコンターサークルSの旅らしい、と言えばそうなのだが。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上山(平成28年7月調製)、同 羽前中山(平成26年7月調製)、20万分の1地勢図仙台(平成元年編集)を使用したものである。

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2017年5月27日 (土)

コンターサークル地図の旅-石井閘門と北上運河

集合時刻の10時16分、石巻駅に到着した列車から降りてくる人波を見回したが、堀さんの姿はなかった。改札で待っていた外山さんに告げる。「乗っておられないですね。この電車は仙石東北ラインなので、塩釜では停まる駅が違うんです」。

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石巻駅
(左)仙石東北ラインの特別快速が到着
(右)駅のあちこちに石ノ森章太郎作品のキャラクター像が

コンターサークルS 地図の旅2日目の舞台は宮城県石巻市。北上運河の石井閘門(いしいこうもん)を訪ねることになっている。北上運河というのは、石巻を流れる北上川(下注)と、鳴瀬川河口に計画された野蒜(のびる)港を結ぶ目的で、1881(明治14)年に開通した長さ12.8kmの運河だ。今も使える状態で残されていて、その東端に石井閘門がある。

*注 1934年(昭和9年)完成の治水事業により、北上川本流は東の追波(おっぱ)湾へ注ぐようになったため、運河が接続する川は現在、旧北上川と呼ばれる。

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石井閘門から北上運河を西望

堀さんは塩釜市内に宿をとっているのだが、仙石東北ラインの列車は仙台から東北本線を走り、宿の最寄りの仙石線本塩釜駅を通らない。「次の10時56分着が仙石線の各駅停車なので、それかもしれません」「少し時間があるから、下見がてら運河へ行ってみますか」ということで、外山さんの車に乗せてもらって、とりあえず石巻駅を後にした。目的地まで車なら10分もかからない。

駅前から街路を北西に進んでいくと、初めて渡る橋が、その運河をまたぐ蛇田新橋だ。右折して運河沿いに走れば、突き当たりに閘門が見えてくる。脇の空地に車を停めた。ドアを開けると、思いのほか風が強い。曇り空で日差しがないため、じっとしていると肌寒いほどだ。

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石巻駅から石井閘門にかけての1:25,000地形図に加筆

運河の閘門は、水位の異なる水路間に船を通すための施設で、いわば船用のエレベーターだ。それは主として、2基のゲート(門扉)とその間のプール(閘室)から成る。仕掛けの要は、プール内の水位調節だ。水位を船が入る側の水面に合わせ、入口のゲートを開ける。船がプールに入るとゲートを閉め、プールに水を注入(または排水)して、水位を船が出て行く側と同じにする。そして出口のゲートを開けるのだ。

石井閘門は、北上川と北上運河の間を往来する船の出入口であるとともに、運河の水量調節や農業用水の取水も兼ねる施設だった。名称の由来は地名ではなく、当時の土木局長の名だという。日本で最初の煉瓦造による西洋式閘門として、2002年には重要文化財の指定を受けた。

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(左)ゲートを支える頑丈な門柱部
(右)鋼製ゲートの背後は北上川だが、目下、新しい堤防と水門の工事中

ちょうど閘門のプールの上を、道路橋がまたいでいる。せっかくの景観を分断するのはどうかと思うが、橋上に立てば、閘門を正面から観察できる。閘門の全長は50.35m、プールは幅7.15m、高さの平均4.65m(現地の説明パネルによる)。ゲートを支える門柱は煉瓦造りで、プールの側壁は石積みになっている。側壁のところどころに十字の鉄製金具が埋め込んであるのが見えるが、「船をつなぐためのものでしょうね」と外山さん。

一方、ゲートには、もともと欅の木が使われていたが、1966(昭和41)年に耐久性のある鋼製に更新された。それもあって閘門には、130年を超える歴史から想像されるような古色感はなく、現役で動いている装置が放つ生気が感じられる。

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(左)ロープを巻取る装置のようだが… (右)側壁の十字金具

一通り観察したところで、石巻駅に戻った。次に着いた列車から堀さんが降りてきたので、一行3名で再度、石井閘門へ向かった。同じように橋の上から施設全体を眺めた後、プール際に設置された説明板のほうへ案内する。表面は施設の沿革、裏側には当時の設計図面や運河の見取り図が刻まれている。

写真に収めたいところだが、堀さんが、カメラの調子が悪いと言う。フィルムカメラなのに、「昨日からフィルムの回る音がしないんですよ」。外山さんが手に取って確かめた。「Eの表示が出ていますね。エラーではないでしょうか」。何枚かすでに撮ったのなら、ここでカバーを開けるわけにはいかない。それで撮影は諦めざるを得なかった。「皆さん撮ってられますから、必要な時には提供してもらいますよ」。

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説明板には設計図面と運河の見取り図も

隣接して設けられた運河交流館は、震災で損傷を受けて今も閉鎖中だ。目の前をゆったりと流れているはずの旧北上川も、白い工事用バリケードで閉ざされて見えない。今後の高水位に備えて、現在、堤防を嵩上げする工事が行われているのだ。堤高を標高約4.5mに揃える計画だが、閘門は3.5mしかない。それで、外側に別の高堤防を築き、運河に入るための水門を新たに設けるという。川に開かれた閘門の景観は変わってしまうが、文化財保存と水害防止を両立させるには、他に策がないのだろう。

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工事用バリケードに掲げられた堤防工事完成予想図

これで訪問の目的は果たしたが、後の予定は何も決まっていない。「どっちみち塩釜方面へ戻るので」と、外山さんの好意で、北上運河の流れを追って西へ走ってもらうことになった。

北上運河は、野蒜築港計画の関連工事として建設されている。明治の初め、東北地方の産業振興を図るために水運の整備が進められたとき、まず決定すべきは、内陸水路である北上川と外洋を接続する拠点港をどこに置くかだった。地元の人々は、河口の石巻が選定されることを望んだ。しかし、調査の依頼を受けたオランダ人技師ファン・ドールンは、川から流入する土砂の堆積を理由にその案を斥け、鳴瀬川河口の野蒜を最適地と結論付けた。そこで、石巻から野蒜港まで、船が、砂の溜まる港や波高い外洋を経由しなくて済むように、運河の開削が必要になったのだ。

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北上運河周辺の1:200,000地勢図に加筆

閘門付近では、運河の周りは今やすっかり市街地化している。左岸に遊歩道があるものの、なんとなく味気ない印象の風景が続く。仙石線を乗り越すあたりから、ようやく松林が見え始めた。国道45号線と分かれた後の道沿いにも、背の高い木立が残っている。しかし、潤いの感じられる水辺の景色は、定川との合流点までだった(下注)。

*注 北上運河のうち、定川以東を北北上運河、定川以西を南北上運河という。

この後、運河はなおも西へ延びているが、一帯は浸水被害を受けて、目下復旧工事の真っ最中だ。鳴瀬川の河口では、まっさらの堤防が立ち上がり、築港跡の記念碑はその上に移設されていた。煉瓦の橋台は見つけたが、周辺の市街地跡だったところは更地のままだ。釣り人で賑わったという突堤跡が、砂浜から切り離されて波に洗われている。

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野蒜築港跡の現状
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(左)新堤防に移設された築港跡碑 (右)波に洗われる突堤跡

明治の築港事業では、最重要工事であった港口の突堤が1882(明治15)年に完成した。ところがわずか2年後に、台風の直撃に遭う。襲う大波が東突堤の一部を押し流し、残骸で港も塞がれて使用できなくなった。当時、浚渫の技術は未熟だったし、緊縮財政の中で修復予算がつく目途も立たない。結局、事業は翌1885(明治18)年にあえなく放棄されてしまったのだ。

堀さんが言う。「オランダから来たファン・ドールンは、日本の自然がどういうものかわかっていなかったようです」。昨日訪れた花渕浜の外港はこの30年後に計画されたが、同じように台風で被災し、頓挫した。そして今回の地震と大津波だ。海から絶え間なく吹きつける強風の中で、私たちは、想像を超える自然の威力との果て無き闘いに、思いを馳せた。

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野蒜築港周辺の1:25,000地形図
(左)震災以前のようす(2007年更新)
(右)同じエリアの最新図(2017年5月画像取得)

本稿は、現地の説明パネルおよび宮城県教育委員会「宮城県の近代化遺産-宮城県近代化遺産総合調査報告書」平成14年3月を参考にして記述した。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図石巻(平成22年更新)、同 小野(平成19年更新)、20万分の1地勢図石巻(平成元年編集)および地理院地図(2017年5月27日閲覧)を使用したものである。

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 新線試乗記-仙石東北ライン

2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6人になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが適切で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
破線が、米軍撮影空中写真を参考にして描いた軌道のルート
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆
軌道関係の痕跡は、韮山の崖記号と花渕浜西方の直線路のみ

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。昭和8年図にはこの道はないものの、同じ位置に田んぼの中を一直線に延びる小道(地図記号としては、道幅1m以上の町村道)が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図、右図参照)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

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【追記 2017.5.28】
先日発売された、今尾恵介 責任編集「地図と鉄道」(洋泉社、2017年6月)の114ページ以下で、石井さんがこの築港軌道について的確な記事を書いている。軌道跡が明瞭に写る米軍撮影の空中写真や、高山の西の切通し(記事では小豆浜公園近くの切通し)の撤去前の写真なども見られる。ご参考までに。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。
参考にした米軍撮影空中写真は、国土地理院所蔵のUSA-M201-56(1947年4月12日撮影)、USA-M174-228, 232(1952年10月31日撮影)。

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2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

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鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

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夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

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1971~72年修正の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

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(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

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(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
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がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさんほか総勢8人。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

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夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

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廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

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夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。Oさん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書「続 北海道 鉄道跡を紀行する」(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、「北海道 地図を紀行する 道南・道央編」北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

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旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

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オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
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(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
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(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

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志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

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(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

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(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」とKさんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

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(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

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道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

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夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

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 開拓の村の馬車鉄道

2016年10月14日 (金)

コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス

長州、萩の町で朝を迎えた。あの蒸し暑い空気は雨と共に去り、10月らしい青空が広がっている。山から差す朝陽がことのほかまぶしい。萩には自然と歴史の見どころが多いので、到着した昨日は自転車を借りて越ヶ浜の笠山まで遠征し、ホットケーキのように扁平な島が点々と浮かぶ沖合の奇景を堪能した。今朝(10月10日)も早起きして、松蔭神社の境内ですがすがしい空気を浴びてきた。

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(左)笠山から沖合の扁平な島々(萩六島)を望む (右)雲間から光のシャワーが
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(左)静かな朝の川べり(松本川) (右)松蔭神社境内に遺された松下村塾の建物

これを前哨戦だとするとこの後は本番で、コンターサークルS 地図の旅2日目に参加する。舞台は、萩から30kmほど北東の須佐(すさ)周辺。山陰本線の名橋に数えられる「惣郷川(そうごうがわ)橋梁」と、海岸のホルンフェルスの露頭を回る予定だ。

JR山陰本線で須佐は、東萩(ひがしはぎ)から数えて6駅目になる。列車で向かうつもりで8時半に東萩駅(下注)の待合室へ行くと、すでに堀さんと、愛車で到着した相澤さんの姿があった。

*注 阿武川(あぶがわ)のデルタに立地する萩市街に対して、鉄道は外側を大回りしていて、代表駅は、萩駅ではなく東萩駅。

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(右)人影少ない東萩駅 (右)待合室で道順を打合せ

「橋は須佐より手前ですからね」というお言葉に甘えて、車で出発した。まず走る国道191号線は、日本海の海岸線をなぞっていく絶景ルートだ。昨日眺めた沖合の島々も、順光のもとでより鮮やかに見えた。宇田郷(うたごう)駅前で山へ分け入る国道から離れ、海辺の狭い旧道に入る。弁天崎の短いトンネル(尾無隧道)を抜けると、道がやや海側に膨らんで、お目当ての惣郷川橋梁が現れる。旧道は橋梁の南端でアンダークロスしているので、手前で車を停めた。

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惣郷川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆

ここは、東から流れてきた惣郷川が海に注ぐ場所だ。両岸に山が迫り、線路は長さ2215mの大刈(おおがり)隧道へ向けて、上り坂(11‰)の途中にある。そのため、橋は取付け位置を高くし、かつ半径600mの曲線上に設けられた。全長は189.14m、高さは11.6m(下注1)だ。強い潮風に晒され続ける過酷な環境のため、防錆が課題となるトラス橋ではなく、鉄筋コンクリート(RC)の柱と梁で組んだラーメン構造(下注2)が採用された。しかも鉄筋の被り厚を標準の2倍にし、塩害に強いシリカセメントを使用して、万全を期したという。

*注1 高さは、井筒天端からレール面までの最大値。出典:小野田滋「土木紀行-山陰本線・惣郷川橋梁 屹立するコンクリートラーメン」土木学会誌87-1, 2002年1月, p54-55。
*注2 ラーメン Rahmen はドイツ語で枠、骨組みを意味する。

橋は1932(昭和7)年に竣工した。橋や大刈隧道を含む須佐~宇田郷間8.8kmが翌年開通し、これをもって山陰海岸を走る鉄道が全通した。つまり、この区間は現 山陰本線に残された最後のミッシングリンクだったのだ。

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(左)緩やかなカーブが優美さを醸し出す (右)裾が開いた橋脚、中央部は工事中

「立派な橋ですね」「築80年には見えない」。足元に潮騒を聞きながら、相澤さんと私がひとしきり感心していると、そばで堀さんが解説してくれた。「橋脚の脚の裾が平行ではなく、開いているでしょう。あれで安定感が出ます。橋全体がカーブしているのも変化があっていい」「柱3本ごとに黒い縦の継ぎ目が見えますか。構造的に一体ではなく、分割してあるんです。当時の技術的な事情があるのかもしれません」。

写真を撮ろうとするのだが、中央部では工事の足場が組まれ、人が動いている。鉄筋コンクリートは、経年によるひび割れが避けられず、侵入した水や空気が中の鉄筋まで届くと、腐食して強度が落ちる。それを防ぐために、表面に樹脂コーティングが施されているから、その塗り直しか何かの作業だろう。

と突然、ゴーッという音とともに、日に数本しかない列車が頭上を通過していった。私たちが須佐まで乗る予定だった上り列車だ。時刻表をチェックしていたわけではないので、偶然のタイミングだった。「線路のそばにいると、不思議と列車が通るんです」と私。「天浜線の天竜川橋梁でも、河原へ出たら来ましたよね」そのときもお二人と一緒だった。「好かれてるんでしょうね」と相澤さんがまじめな顔で応じてくれた。

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惣郷川橋梁を渡る上りのキハ40形
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惣郷川橋梁、北側からの眺め

旧道は、惣郷の小さな集落を通り抜けて坂を上り、北側で再び線路に接近する。そこからもう一度橋を眺めた。朝なので光の加減はいいのだが、角度が浅いため、海側の橋脚はあまり見えなかった。「旧道をこのまま行ってくれますか」という堀さんのリクエストで、大刈垰を越える旧道を行く。大刈トンネル経由の国道は1977(昭和52)年に開通したので、果てしなく曲がりくねるこの道が幹線でなくなってから40年近く経過している。さっき車が1台私たちを追い越していったから、通り抜けはできるはずだ。

舗装は特段荒れておらず、路肩に黄色いガードレールも残っている。ただ、路面には枯葉や小枝が積もっていて、それを右に左に避けながらの運転になった。堀さんとしては、歩いてみたい道候補の一つだったようだが、あいにく木が生い茂って、眺望のきくところはほとんどなかった。峠の掘割を越えると、金井という2~3軒しかない集落で稲刈りをしている。その後はまた同じような羊腸の下り坂になった。

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(左)大刈垰サミットの長い堀割 (右)羊腸の大刈垰旧道

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須佐周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

続いて、二つ目の訪問地ホルンフェルスの露頭へ向かう。須佐駅を通過して海岸へ出る道へ折れ、4kmほど進んだところに、レストハウスと無料駐車場がある。海を見下ろすちょっとした海岸段丘の上だ。そこからさほど遠くない海辺に、それが見えた。道路の脇から小道が延びて、近くまで行けるようになっている。海沿いの棚田に沿って歩いていくと、道はだんだん細くなり、断崖の真上で終わった。堀さんの手を取って来たものの、「戻れなくなるからここで待っています」とおっしゃるので、相澤さんと二人で先へ進む。

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須佐のホルンフェルス露頭を遠望。右下が畳岩、奥の赤い崖がより典型的な例

濡れて滑りやすい波蝕棚の上を慎重に降りていくと、さっき遠望していた白黒ストライプの海蝕崖が目の前に現れた。地元では畳岩と呼ばれ、北へ向かって傾斜している。周辺の崖にも同じような横縞(=互層)があるのに、この一角だけコントラストが明瞭なため、特に目を引く。白く見える層は砂岩、黒っぽいのは頁岩だという。

垂直約12mの畳岩は思ったほど大きくはない。「でも、この広い岩場も上の層が剥がれたものですね」と私が言うと、相澤さんも「ずっと広がっていたのが、波で削られていったんでしょう」。間隔を置いてやってくる大波は、岩に激しくぶつかって砕け散る。縦にも節理が入っているため、裂け目が広がり、やがて剥離していくのだろう。

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縞模様が目を引く「畳岩」

ホルンフェルス Hornfels というのは、高熱による変成岩のことだ。ドイツ語で角岩(つのいわ)を意味し、動物の角を思わせる硬さと模様からそう呼ばれる(下注)。レストハウスのパネルで、当地のホルンフェルスの成因が説明されていた。すなわち、約2500万年前から1500万年前の間に、砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積した。約1400万年前にこれを突き破って高温の火成岩体が噴出し、そのときの高圧と高熱で周囲の須佐層群の性質が変わった(=熱変性)。互層を形成する岩石もその作用を受けているのだが、もっと典型的なものはその後ろにある赤い色の崖なのだそうだ。

*注 名称の由来は、ウィキペディア英語版による。

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(左)熱変成を受けた砂岩と頁岩の互層 (右)縦の大きな裂け目も見つかる

レストハウスへ戻って休憩する間、相澤さんが持参の焼き栗を割ってくれた。秋の味覚が口の中に広がる。店の人から、行列のできるイカ尽くしの食堂が駅前にあると聞いて、また車を走らせた。「梅の葉」という小さな店で、12時前に入ったのにすでに40分待ちだった。名物の活イカづくりはすでに品切れていたので、イカ天丼に舌鼓を打つ。粗食も辞さないコンターサークルの旅では珍しいことだ。車で帰る相澤さんに見送られて、堀さんと私は、須佐駅から14時発の下り列車に乗った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図須佐、宇田(いずれも平成13年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
一般社団法人中国建設弘済会-アーカイブス(土木遺産一覧)
http://www.ccba.or.jp/archives/heritage.htm

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 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年10月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

最近、映画やテレビで時代劇を見かけなくなったとはいえ、京都にはお寺や神社の境内をはじめ定番のロケ地が数多くある。コンターサークルS 2016年秋の旅の初日10月8日は、郊外のそうした場所の一つ、木津川流れ橋を訪れた。

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北東から眺めた流れ橋の全貌

木津川(きづがわ)というのは、宇治川や桂川と並ぶ淀川の主要な支流の一つだ。三重県伊賀地方を源流域に、京都府南部を流れ下り、大山崎で他の二つと合流する。流れ橋は地形図にもそう書かれているが、本名は「上津屋橋(こうづやばし)」という、全長356.5mの木橋だ。行政区画でいうと、京都府久御山(くみやま)町と八幡(やわた)市の境界に位置している。

おもしろいことに、上津屋という集落名は流れ橋をはさんだ木津川の両岸にある。川の流路が変わったわけでもなく、昔から両岸に村があり、交流が盛んだったようだ。渡し舟では不便という地元の強い要望を受けて、1953(昭和28)年に橋が架けられた。1959(昭和34)年には府道八幡城陽線に認定され、以来、京都府が管理している。

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木津川流橋周辺の1:25,000地形図に
歩いたルートを加筆

本日の集合場所は、JR奈良線の宇治駅。奈良へ行く多数の外国人客に挟まれて快速列車(みやこ路快速)でやってきた。改札で落ち合ったのは堀さん、真尾さんと私の3人。さっそく駅前からタクシーで、木津川右岸(東岸)の堤防上の車止めまで行ってもらった。

10月に入ったというのにまだ暑い。台風が次々に来襲して雨がよく降るのだが、ついでに南から温かい空気を呼び込んでいるようだ。京都のきょうの最高気温は31度、空気は重たく湿っぽい。雲間から日差しが降り注ぐと7月に逆戻りしたのかと思うほどだ。「川べりならもう少し風があると思いましたが」と思わず口にすると、「ないですね」と堀さんがつぶやく。お二人は、すでに最低気温が10度を割った北海道から来ている。

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(左)JR宇治駅に到着 (右)堤防上を歩いて橋の袂へ

茶畑の載る堤防上を数百m歩いたところに、流れ橋へ降りる小道があった。まずは、堤防の上から俯瞰してみる。素朴な風情の木橋だ。両岸を縁取る緑にしっくり溶け込んでいる。一直線に伸びる薄い橋桁といい、それを等間隔で支える華奢な橋脚といい、ちょっと心細げな構造物だ。戦後の架橋とはいえ、手甲脚絆に草鞋を履いた旅の者が渡っていたとしても違和感はないだろう。

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平水時の水流は右岸寄りに

私たちも渡ってみる。路面は板を流水方向に並べてあり、縁には転落防止を兼ねた挟み木が置かれているだけだ。高欄はないので、普通の橋とは開放感がまるで違う。平水時の水路は右岸寄りを流れている。そこでは水面から5.5mの高さがあるそうだが、路面の横幅が3.3m取られているので怖いと感じるほどではなかった。

橋の上は、結構人通りがある。地元の子供たちが自転車で通ったりもするが、休日の場合、多くは見物客だ。カップルや小グループはもとより、旗を手に持つツアーガイドに率いられた集団ともすれ違った。「今ではちょっとした観光地になっているらしいです」と私。

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(左)橋脚には大水の跡が残る (右)橋の上は開放感全開

流れ橋というから勘違いしていたのだが、水をかぶっても大阪湾まで流れていってしまうわけではない。水位が橋桁まで達すると、確かに橋板は橋脚から浮き上がる。しかし、ブロック単位で橋脚にワイヤでつながれているので、筏流しのように川の流れに身を任せながら、その場所にとどまっているのだ。水が引いたら、これを手繰り寄せて、橋脚の上に載せるともとの橋に戻る。

なるほど昔の人はうまいことを考えたものだと思うが、河原に残った筏を高さのある橋脚に載せ直すのは、それほど簡単な作業ではない。昔のことはいざしらず、今は重機を投入しての大工事になる。実際、復旧費用は1回の被災につき3500万から5000万円にも上っているという。

橋は、架設以来60年の間に21回被災している。特に最近は豪雨に見舞われることが多く、2011年から4年連続で流された。復旧工事は渇水期を待って行われるので、秋に壊れて翌年春に復旧完了したと思ったら、その秋に再び被災という繰り返しだった。その都度数千万を費やすのでは、府道を預かる行政としても「ええかげんにしてくれ」となったようだ。それで2014年から専門委員会で設計の抜本的な見直しが行われた。

京都府の資料(下記参考サイト)によると、観光資源であることも踏まえて、木造で流出可能という構造は堅持するものの、流出頻度を減らすための工夫をいくつか取り入れたという。一つには、流木等が引っ掛かりにくくなるように、橋脚間を約2倍に広げた。二つに、橋脚の杭木にコンクリートパイルを使用して、耐久性を高めた。三つに、水没をできるだけ回避するために、橋面を75cm嵩上げした。誤って転落したときの人体への衝撃を考えると、これがぎりぎりの高さだそうだ。

こうして昨年、改めて復旧工事に着手し、今年(2016年)3月27日に開通式が挙行された。古そうに見えるが、実は出来立てほやほやで、以前の橋と比べても姿がかなり変わっているのだ。

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(左)地元の子から見物客まで通行人は多い (右)橋脚の主要部はコンクリートパイルに

橋を渡り終えた後、左岸の堤防の上で振り返ってみた。手前に葉の緑が瑞々しい茶畑、その先の広い河原を、時代劇の一シーンを切り取ったかのように木橋が横切っている。疑似的とはいえ、なんとはなしに心が安らぐ原風景だ。しかし、下流に目を移すと、第二京阪道路の無粋な高架橋が視界を遮り、その周りにかさ高い建物も建ち始めている。迫りつつある都市化の波を、木橋が体を張って食い止めているようにも見える。

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宇治茶の畑と流れ橋

堤防の下の小さなあずまやで、持参した昼食を広げながら、よもやま話に花を咲かせた。後で堀さんに感想を聞いたら、「暑さには参りましたが、見たいと思っていたので満足です」とのこと。まだ昼過ぎだったが、明日から遠出なので(お二人はすでに遠出中だが)、近くの四季彩館という公共スペースでタクシーを呼んで、現場を後にした。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図宇治、淀(いずれも平成17年更新)を使用したものである。

■参考サイト
上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会(京都府建設交通部道路建設課 公式サイト)
http://www.pref.kyoto.jp/doroke/nagarebashi/

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 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

2016年6月13日 (月)

コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

5月22日朝、札幌駅8時ちょうど発の特急「スーパーカムイ3号」に乗り込んだ。江別を過ぎ、夕張川の鉄橋を渡れば、車窓はすっかり田園地帯だ。遠くに浮かぶ雪の山並みを背景に、田植えの時期を迎えた石狩平野を列車は北へ向かってひた走る。

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(左)特急「スーパーカムイ」の車窓から見る田園地帯 (右)滝川駅に到着

コンターサークルSは札幌がホームグラウンドで、この時期は隔週で北海道各地の「地図の旅」を実践している。本日は、石狩川右岸(西岸)に残る三日月湖(下注)を巡ることになっていて、私も初めて参加した。集合場所は、札沼(さっしょう)線の晩生内(おそきない)駅だ。この路線は札幌駅が起点だが、なかなか乗る機会がない。せっかく行くなら全線を乗り通してみようと、函館線で滝川(たきかわ)まで行き、そこから札沼線の終点新十津川(しんとつかわ)へ回ることにした。本題に入る前に、このささやかな終点駅の話題を差し挿ませていただこう。

*注 河跡湖(かせきこ)とも呼ばれ、蛇行する川が氾濫や侵食作用などで流路を変えた後、旧河道に取り残された湖や池を指す。日本語では月に例えるが、英語ではオクスボウレイク oxbow lake(オクスボウは、牛を牛車につなぐU字形の軛(くびき))、フランス語ではブラモール bras-mort(死んだ腕=淀んだ支流)とさまざまだ。

滝川駅から新十津川駅へは、石狩川橋経由で4km強に過ぎない。徳富(とっぷ)川にかかる昔の鉄橋を見たかったので、手前の新十津川橋でタクシーを降りた。橋は、札沼線が新十津川からさらに北の石狩沼田まで走っていたときの遺構だ。今は水路管を渡しているが、南側のガーダー(橋桁)2連と橋脚に鉄道時代のものが残っている。若緑に囲まれた朱色の橋は、背景の青空と雪山に眩しく映えていた。

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水路橋に転用された旧札沼線の徳富川橋梁
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(左)南側のガーダー2連と橋脚は鉄道時代のもの (右)線路の代わりに水道管

しかし残っていたのは橋だけだ。南に続いているはずの築堤はおろか、用地自体が宅地に整えられ消失している。まだ新しい住宅地の中を、徒歩で新十津川駅へ向かった。

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新十津川橋の左に旧線跡の水路橋がある(1:25,000「地理院地図」に加筆)

鉄道ファンには周知の話題だが、札沼線の末端、浦臼(うらうす)~新十津川間は、今年(2016年)3月のダイヤ改正で、列車が1往復まで極少化されてしまった。従来朝、昼、夕と3本設定されていたのが、朝の1本だけになったのだ。新十津川駅では、気動車キハ40が1両きりで9時28分に到着し、9時40分に折返していく。それがその日の最終列車になる。

当然、駅は寂れて人影もないように想像してしまいがちだ。ところが、かえって希少性が増したのか、記念乗車がブームになっている。列車がホームに入ると、小さな駅は降りた客で時ならぬ賑わいを見せた。駅舎はもちろん無人だが、きれいな記念スタンプが置いてあるし、役場まで行けば到達証明書ももらえるらしい。多くの人は折返し乗車のようで、上り列車にも15~6人が乗車していた。普段からこの乗車率なら、列車を削減されずに済むのだろうに。

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(左)新十津川駅は時ならぬ賑わい (右)駅構内を南望
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1日1本の列車を満開のチューリップが迎える
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(左)待合室に掲げられた究極の時刻表 (右)駅の記念スタンプ

のどかそのものの田園風景の中を、気動車はトコトコ走る。1時間半かけて列車の終点、石狩当別まで乗って、そこで北上してきた堀さんたちと合流した。

晩生内駅も、簡易な造りということでは新十津川と変わらない。砂利引きの狭いホームに降り立ったのは、もちろんサークルのメンバーだけだ。参加者は堀さん、真尾さん、Oさん、車でやってきたミドリさんほか全部で9人。ここ数日、北海道は高温注意報が出されるくらいの暑さで、今日も札幌の最高気温は28度。雲一つない快晴はありがたいが、朝晩まだ肌寒いだろうと用意してきた上着は、一度も出番がなかった。

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(左)晩生内駅に到着 (右)北へ去る気動車を見送る

駅の小さな待合室で地形図を広げ、これからの道順を確認する。駅の南にある西沼、東沼を経て北上し、後は行けるところまで行こうということになった。地図の上では大小の差はあれ皆同じような三日月形をしているが、それぞれどんな表情を持っているのだろうか。ミドリさんの車で先行する堀さんを見送って、私たちは歩き出した。

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晩生内周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

踏切を越え、線路と並行する国道275号線の歩道を南へ約600m、左折すると広めの農道(三軒屋農道)が石狩川のほうへ延びている。道がカーブすると同時に、右手に弓なりに横たわる池が見えた。吹き越す強い風が水面を細かく波立たせ、沼を縁取る疎林の枝葉を揺らしている。地形図によれば西沼だが、道の脇の案内板には「三軒屋沼」と書かれている。三軒屋というのは、沼のある旧河道に囲まれた袋状の土地で、確かにそこには今も3軒の農家がある。

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(左)「松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む」の案内板
(右)農道の旧河道横断地点。右(画面外)に西沼がある。遠方のアーチは美浦大橋

案内板によれば、「三軒屋沼は、石狩川の屈曲した河道が氾濫時に取り残されて出来た三日月形の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る、自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では昭和7年から15年までで17回を記録し、その都度農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。(中略)人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は、自然形成的な三日月湖が多くあります。」

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農道から西沼を見る

石狩川の三日月湖は、河道の直線化工事に伴ってできたとばかり思い込んでいたが、水流の作用によるもののほうが多いのだ。付近の旧版1:50,000地形図を見比べてみよう。西沼・東沼の場合、明治末期の図【図1】ではまだ石狩川の蛇行する分流として描かれる(下注)が、大正期【図2】になると明確に川と切り離されている。しかし、沼はほぼつながって、旧河道そのものだ。三軒屋沼と一括りにされていたとしても不思議ではない。2つの沼に分かれたのは水位が低下したからで、現在の水面は目測する限り、周囲の田んぼの面より10m近く低くなっている。

*注 図1は明治28年式図式と明治42年式図式が混在する仮製図のため、石狩川と三日月湖の位置や面積は、大正期の正式図(基本図)に比べて、必ずしも正確とはいえない。

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【図1】 明治末期
1:50,000地形図「奈井江」 1909(明治42)年部分修正測量、1911(明治44)年改版
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【図2】 大正期
1:50,000地形図「砂川」 1916(大正5)年測図
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【図3】 昭和30年代
1:50,000地形図「砂川」 1959(昭和34)年修正測量

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ビニールハウスに出入りする線路(?)

農家の前を通ったら、ビニールハウスに線路のようなものが出入りしているのを見つけた。ハウスで育てたイネの苗床を運び出すための装置らしい。パイプを組み合わせた簡易な軌道のパーツが傍らに積んである。これをつないでハウスの中まで延ばしていくようだ。「鉄道模型と同じですね」と、鉄道ファンでもある真尾さんと私は嬉々としてカメラを向けた。

農道は馬蹄形の旧河道を、東沼の上でもう一度横断する。西沼では築堤だったが、東沼には三軒屋橋が架かっている。西沼と同じ出自ながら、東沼は林に囲まれていないからか、のっぺりとして風情に欠けるのが難だ。休憩場所としてはいま一つだが、時刻はとうに正午を回っている。ベンチ代わりの橋の欄干にもたれて、持参の弁当を広げた。通るのは農作業車ぐらいなので、何ら気にすることはない。

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(左)のっぺりとした東沼 (右)東沼に架かる橋(三軒屋橋)の上で昼食

橋を渡りきったところで、農道は二手に分かれる。私たちは北へ向かった。地方道との交差点にさしかかると、道路標識に「美浦渡船(みうらとせん)右へ1.7km」と記されている。聞けば、石狩川に唯一残っていた伝統の渡船で、道内でも最後だったそうだ。黄色の大アーチが遠くからも望める美浦大橋の開通によって、2011年限りで廃止となった。

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美浦渡船を指し示す道路標識

前を歩いていたOさんが振り向いて、「ではここで失礼します」と言う。コンターサークルの旅は途中参加も離脱も自由だとは知っているが、ここは平野のど真ん中だ。「どこへ行くんですか」と聞くと、「橋を渡って茶志内駅まで歩きます。なに、8kmぐらいですから」とのこと。

東へ進むOさんの後ろ姿を見送って、残りの面々は北上し続けた。途中で草の小道にそれて、月沼のほうへ降りていく。堀さんとミドリさんも合流した。月沼は、三軒屋で見てきた沼に比べればかなり可愛らしい。「でも小さいから、月の形がよくわかります」とミドリさん。

明治期の図でも本流から離れた場所にぽつんと描かれているから、かなり古い時代の忘れものだろう。逆に言えば、沼としては大先輩ということだ。西端は長年の泥が堆積して湿地のようになり、それを通してみる対岸の飄々とした木立が一幅の絵になっている。おじいさん沼の全体像を確かめたくて、沼際のあぜ道に上ってみたが、かえって眺めは平凡だった。

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月沼の眺め (左)岸のカラシナが彩りを添える (右)一部は湿地状に

さらに北へ800mほど進めば、ウツギ沼が右側にある。農道からはよく見えないので、小川に沿う小道を下っていく。これはまさに沼らしい沼だった。明治期には月沼よりよほど堂々と描かれているのに、今はやせ細って見る影もない。ヨシやヤナギが藪状にひしめき合い絡み合って、水辺に張り出している。おまけに小さな虫が多数飛び回って、私たちを悩ませた。

写真を撮ろうとするが、見通しが今一つだ。「逆光だし、反対側から見たほうがよかったんじゃないかな」と真尾さん。下の写真は、藪の切れ目で身を乗り出して、かろうじて撮ったものだ。他の人たちは諦めて先へ行ってしまったが、ここまで来たのだから隣の新沼も見てみようと、有志でそちらに足を向けた。

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半分藪化したウツギ沼

新沼は、周辺で一番大きな沼で、名前が示すように誕生も比較的新しい。大正期でさえまだ大きくうねった川の一部で、昭和34年図【図3】でようやく、川の短絡によって取り残された状況が描かれる(下注)。広い空の下、なみなみと水を湛えた若い沼の水面を見つめていると、平野を悠然と曲流していた頃の石狩川の光景が目に浮かぶようだ。できるものなら上空を舞いながら、心ゆくまで眺めていたいと思う。

*注 1:50,000「砂川」図幅は、大正7年図から昭和34年図までの間に、鉄道補入や資料修正版が数回刊行されたが、地形は修正されなかったため、地形図を追うだけでは新沼誕生の時期を絞り込めない。

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石狩川の曲流の記憶をとどめる新沼
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新沼中央部のパノラマ

とはいえ、そろそろいい時間になってきた。幹事役の真尾さんが地形図で帰りのルートを確かめる。「ここからだと晩生内に戻るより、一つ先の札的(さってき)のほうが近そうです」。札沼線札的駅に着くころには、陽もいくぶん傾いて、真昼の暑さは消え去っていた。無人のホームに立ち、北から降りて来る列車をしばらく待つ。鉄道防風林の隙間を縫って吹く風はことのほか涼しく、紫外線に晒されてほてった肌を優しく冷ましてくれた。

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(左)帰り道にカラシナの群落 (右)駅へ向けて歩く
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(左)札的駅ホーム (右)歩き旅お疲れ様でした

地図を携えて北海道の大地を歩くのは、堀さんの著書で繰り返し読んできた旅行記そのものだ(下注)。私にはまるで、その中の登場人物になったような一日だった。札幌に戻ってからの打ち上げの席で、道内の旅に参加した感想を聞かれた。実感をこめて、「北海道に移住しようかなと思いました」と話すと、「歓迎しますよ」と皆に真顔で言われた。

*注 堀さんの晩生内周辺の訪問記は、「地図の風景 北海道編 I」そしえて, 1979, pp.105-110、および「北海道 地図を紀行する 道南道央編」北海道新聞社, 1988, p.159以下にある。

掲載の地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図奈井江(明治44年改版)、砂川(大正5年測図、昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図晩生内(平成26年4月調製)を使用したものである。

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2016年6月 5日 (日)

コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産

5月5日は舞台を静岡県西部に移し、今は浜松市に含まれる天竜の交通土木遺産を訪ねる。風は終日強かったが、今日も好天に恵まれた。集合場所が西鹿島(にしかじま)駅だったので、私は東海道線の新所原(しんじょはら)駅から、天竜浜名湖鉄道(以下、天浜(てんはま)線)の単行気動車に乗って出かけた。この路線は、浜名湖の北側を回っていく。朝の光をきらきら撥ね返す湖面といい、線路際の木々がつくる濃緑のトンネルといい、車窓に展開する瑞々しい光景に心が洗われる。

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天浜線の気動車、二俣本町にて
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天浜線の車窓 (左)三ヶ日駅付近の湖面(猪鼻湖) (右)都築駅に停車

西鹿島は、この天浜線と、新浜松から来る遠州鉄道(遠鉄)の連絡駅だ。堀さん、今尾さん、石井さん、相澤さん、外山さんがすでに到着して、道順を打合せている最中だった。後で木下さん親子も合流したので、私を含めて総勢8人。本日も堀さんの私的小旅行の位置づけなのだが、コンターサークルSの公式行事となんら変わらない賑やかな旅になった。

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本日の集合場所、西鹿島駅

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1:200,000地勢図浜松(1981(昭和56)年編集)の一部に加筆
市町村名等は現在とは異なる

もともと堀さんが行くおつもりだったのは、都田川を渡る枕瀬橋(まくらせばし)だ。渓谷の中に素朴な木組みの橋が架かっているという。3台のクルマに分乗して、まずはそちらに向かった。

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枕瀬橋周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

西鹿島駅からは西へ10kmもない。車内で世間話をしているうちに、早や橋の入口、大平(おいだいら)地区まで来てしまった。この辺は河岸段丘上に人家と耕地が点在し、川は比高約30mの谷底を流れている。柿畑の脇に車を停めさせてもらい、クルマ1台がやっと通れる細い道を川の方へ降りていった。まもなく雑木が頭上にかぶさってきて、道はヘアピンカーブで向きを北に変える。段丘崖を刻んだ急な下り坂だ。木漏れ日が路面でちらちらと踊り、すでに水音が木立を通して耳に届いている。100mほど進んだところにその橋があった。

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枕瀬橋、西側から撮影

長さは40mほどだろうか。川面からコンクリートの橋脚がすっくと立ち、そのうえに木組みの桁が架かっている。見るからに安定感があるのは、おそらく各橋脚から斜めに延びて、桁をしっかり支えている頬杖(ほおづえ)材のせいだ。それが3つ並んで、緑の谷間に心地よいリズムを刻んでいる。

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(左)枕瀬橋側面 (右)橋桁を支える頬杖材

「床板に比べて欄干がやけに新しいですね」と私が言うと、堀さんも「写真ではこんな欄干はなかったと思いますが」。どうやらこれは最近の改修らしい。以前は流れ橋のように、足を踏み外さない程度のごく低い欄干だけだった。「ここは小学生のマラソンコースになっているらしいです」と石井さん。危険防止の目的としても、橋が醸し出していたはずの風情は半ば損なわれてしまった気がする。

吹き越す強風に帽子を飛ばされそうになりながら向こう岸に渡ると、橋のたもとに銘板が取付けてあった。意外にも建造は1986(昭和61)年3月と新しい。古い地形図にも描かれているから、もちろん架け直されたのだろう。「昔からあったとすると、こういう木組みの技術者はどこから来たんでしょうか」。今尾さんが答える。「森林鉄道の橋梁にもこういう構造があります。ここから木曽にかけては林鉄の宝庫ですからね」。

谷間から段丘上の人家は全く見えない。都田川の豊かな流れとうっそうと茂る斜面林に囲まれて、深山の気配さえ漂う不思議な場所だった。

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(左)橋上から北望、うっそうと茂る斜面林 (右)同 南望
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橋のたもとで記念写真(左写真は外山さん撮影)

昼食を新東名の浜松SAでとり、午後は天竜区(旧 天竜市)へ移動して、付近の交通土木遺産をいくつか巡ることにした。

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二俣周辺の1:25,000地形図(2015(平成27)年3月調製)に、訪れた地点を加筆
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上記地形図を2倍拡大
左円内:鳥羽山を穿った4本のトンネル(左から国道、歩道、鉄道、旧道=鳥羽山洞門)
右円内:周囲と異なる光明電気鉄道跡の斜め地割(道路と宅地の列)

一つ目は、国道152号線の鹿島橋(かじまばし)だ。浜松市のサイト「浜松情報Book」にはこう紹介されている。「1937(昭和12)年に完成した全長216.6m、幅員6mの当時としてはモダンなトラス橋。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス橋であり、全国的にも貴重な例」。カンチレバートラスというのは、橋脚から両側にトラスを延ばし(=カンチレバー、片持ち梁)、それで中央部の桁を吊る構造だ。これによって、スパンを長く取ることが可能になる。

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優美な姿が印象的な鹿島橋

場所は西鹿島駅のすぐ北で、山中を流れてきた天竜川が浜松平野にまさに飛び出そうとする位置に架かっている。「下流側には歩道橋があるので、本来の姿が見えにくくなっています」という外山さんのアドバイスで、私たちは上流側左岸に移動した。午後はこちらが順光になる。橋を渡っているときは気がつかなかったが、トラス橋なのに吊橋のような、クラシックで優美な姿に目を奪われる。堤防の上から全貌を、川べりから仰角で、とみな思い思いにカメラを向けた。

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直線の中に混じる曲線が建築美のポイント

東隣には、天浜線の鉄橋(天竜川橋梁、長さ403m)が並行している。こちらはよくある下路ワーレントラスなので、被写体としては平凡だ。「列車があれば絵になるんだがなあ」と念じたら、本当に列車が渡ってきた。

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天浜線の天竜川橋梁を列車が渡る

国道は鹿島橋を渡った後、直線で鳥羽山隧道に突っ込んでいく。しかしこれは1942(昭和17)年に開通したルートで、それまで街道は右にそれて、旧トンネルを通っていた。鳥羽山洞門という古めかしい名がついている。実は私は今朝、天浜線を二俣本町まで乗り越し、徒歩でこのトンネルを経由して西鹿島へ戻っていた。「クルマでも抜けられますよ」と伝えたものの、念には念を入れて、一番車幅の広い相澤号が先頭に立つ。内部は狭い歩道が切ってあるが、まったく問題なく通過できた。

反対側に出た後、クルマから降りて改めて観察する。トンネルは、1899(明治32)年の開通から120年近い歳月を耐えてきた。煉瓦造のポータルは表面が黒ずみ、一部は草生していて、扁額の文字ももはや読み取りがたい。内部もアーチの補強材が当てられて痛々しいが、中央部だけはオリジナルの煉瓦積みが露出していた。「雰囲気ありますね」「この煉瓦、今にも落ちてきそう」と、はしゃぐ声が洞内にこだまする。

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鳥羽山洞門
(左)北口ポータル、入口付近は補強材が入る (右)中央部は煉瓦積みが露出

続いて、今尾さんの案内で天浜線天竜二俣駅へ向かった。駅の近くに、光明(こうみょう)電気鉄道の痕跡があるというのだ。天浜線(旧 国鉄二俣線)ができるより前に存在した私鉄で、東海道線の中泉(現 磐田)駅から天竜川左岸を北上し、光明村船明(ふなぎら)を当面の終点に見据えていた。1928(昭和3)年に田川、2年後に二俣町まで開通し、そのとき手前のこの位置に、阿蔵(あくら)駅を設けた(後、二俣口に改称)。しかし、投資に見合うだけの需要がなく、1935(昭和10)年にあっけなく廃止されてしまった。

下の地形図は、その光明電鉄の記載がある貴重な版だ。阿蔵駅以南では現在の天浜線と同じルートを通っているが、これは電鉄廃止後、2本のトンネルを含めて用地がそっくり転用されたからだ。ちなみに、鳥羽山をくぐるトンネルは鳥羽山洞門、その南の「天龍橋」は後に鹿島橋に代を譲ることになる1911(明治44)年開通の吊橋だ。また、遠鉄のかつての終点、遠州二俣駅は、現在の西鹿島駅より少し北に位置している。その東側は、分流していた天竜川の広い河原だったこともわかる。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1930(昭和5)年鉄道補入)

昼下がりの天竜二俣駅構内は、がらんとして人気がなかった。西端には、そこだけ斜めの地割があり、数軒の住宅が建っている。南側からは宅地の土留め程度にしか見えないが、北側に回ると階段が続いているではないか。明らかにプラットホームの跡だ。光明電鉄の名は皆さん初耳だったようで、今尾さんが概要を説明する。「なんとか開通したものの、電気代が払えなくて送電を停められてしまったんです」。「短命の鉄道だったんですね。でも後世まで、電気代滞納って言われるのはかわいそう」と石井さん。

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がらんとした天竜二俣駅構内、左のキハ20と後ろのナハネ20(寝台車)は保存車両
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光明電鉄阿蔵駅の遺構
(左)舗装道が線路跡。左は一見、宅地の土留めのようだが…
(右)反対側(北)から見ると階段が残り、ホーム跡とわかる

この先で山の端を抜けていた短い阿蔵トンネルは民有地内で、見ることが難しいというので、別の路線、佐久間(さくま)線の跡へ回ることにした。こちらは一度も列車が走らなかった、いわゆる未成線だ。国鉄二俣線遠江二俣(現 天浜線天竜二俣)から飯田線中部天竜に向けて計画された路線だが、1980(昭和55)年の国鉄再建法で工事が中止され、開通は夢物語になってしまった。下の地形図は、まだ佐久間線が工事中だったころの版だ。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1975(昭和50)年修正測量)

阿蔵川に沿って住宅街の道を遡ると、玖延寺の手前で、上空を佐久間線の立派な高架橋が横切っていた。光明電鉄に比べてこちらは比較的新しい遺跡だ。放置されて35年以上になるとはいえ、トンネルも築堤もしっかり残っている。草を踏み分けて南側の白山トンネルの入口まで行ってみると、フェンスで閉ざされているものの、微妙な空隙があった。廃トンネル探索の達人である石井さんと外山さんは、血が騒ぐらしい。「でも、きょうはコンターサークルなのでやめておきます」と二人で笑った。

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(左)佐久間線の築堤 (右)フェンスで閉鎖された白山トンネル北口

盛りだくさんの見学を終えて、朝出発した西鹿島駅に戻る。ここで解散。堀さんと私は遠鉄で新浜松へ、今尾さんは天浜線で掛川へ、あとの5人はそれぞれの車で帰宅の途に就いた。遠鉄の電車に乗るのは久しぶりだ。改札を入りながら、「遠鉄って名前は、遠いところへ行く感じがしますね」と私が言うと、「近鉄のほうが、よっぽど遠くへ行ってますよ」と、すかさず堀さんが混ぜ返した。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図二俣(昭和5年鉄道補入、昭和50年修正測量、平成27年3月調製)、伊平(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
浜松情報Book(鹿島橋) http://www.hamamatsu-books.jp/
ふじのくに文化資源データベース(鳥羽山洞門)
http://www.fujinokunibunkashigen.net/

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2016年5月28日 (土)

コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水

数日前の天気予報では、確実に雨具が必要とされた今日5月4日。確かに昨夜はひどい嵐で、大粒の雨が宿の窓ガラスを激しく叩いていた。しかし目が覚めたら、窓の外はもう眩しい青空が広がっている。お天道様も私たちの旅を祝福してくれているようだ。

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巴川分水点

コンターサークルSの正式行事で、巴川(ともえがわ)の谷中分水を見に行く。場所は愛知県奥三河地方、今は新城(しんしろ)市に含まれるが、かつては南設楽郡作手(つくで)村だったところだ。標高が500m以上ある高原上の浅い盆地を、巴川が貫いている。面白いことにこの川は、1本の連続した水路にもかかわらず、平たい谷の真ん中で水流だけが二手に分かれているのだ。一方は北進して最後は矢作川(やはぎがわ)に注ぎ、もう一方は南進して豊川(とよがわ、下注)に合流する。その分水する現場をこの目で確かめようというのが、本日の歩き旅の目的だ。

*注 市名は「とよかわ」だが、川の名は「とよがわ」。

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作手盆地周辺の1:200,000地勢図に、矢作川・豊川の分水界等を加筆

豊橋からJR飯田線の特急「伊那路1号」にのんびり揺られ、10時33分に新城駅に着いた。駅の待合室に集まったのは、堀さんをはじめ、真尾さん、大出さん、相澤さん、石井さん、外山さん、私の7人。さっそく3台の車に分乗して、現地へ向かった。

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(左)特急「伊那路1号」で新城駅へ (右)駅の待合室で本日の行程を打合せ

新城の町がある豊川平野の北側には、本宮山を主峰に、山が屏風のように連なっている。それを攀じ登る国道301号線は、ヘアピンカーブが連続する手ごわい山道だ。見上げる高さにあった新東名の高架橋が、いつのまにか眼下に沈んでしまう。作手盆地は、この山並みの上に載るいわば天空の別天地だ。

籠瀬良明氏の解説(下注)によれば、この場所はもとは海面からそう高くない盆地で、水を湛えた沼が広がっていた。水の出口は二つあり、北と南へ流れ出ていた。その後、地面の隆起か、海面の下降によって、小盆地周辺は海面から500mの高さに変わっていった(=隆起準平原)。しかし、「造物主が水の入った大皿を一方へ傾けないようバランスを保ちながら、慎重に持ち上げた」ので、水が南北に流れる状態は保たれた。やがて沼は湿原になり、人の手が入って水田に整えられたが、この巴川だけは、もとのまま盆地の水を二方に流し続けているのだという。

*注 「地図の風景」中部編II 愛知・岐阜(そしえて、1981年) p.42~43

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作手盆地の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

峠の後もしばらく山道が続く。2つ目の峠を過ぎてようやく、のどかな農村風景が広がってきた。作手盆地に入ったのだ。連休中とあって、目星をつけていた道の駅は、クルマがひっきりなしに出入りしている。満杯の駐車場に、私たちもなんとか空きを見つけることができた。郷土の名産品を商う売店も大賑わいだ。

売店の裏手を、くだんの巴川が走っている。正確に言えば、豊川水系の巴川だ。雨後の濁り水を集めて、流れに勢いがある。真尾さんが言う。「この川に沿って行けば、1kmほどで分水点のはずです」。私たちは地形図を片手に、農道を北へ向かって歩き始めた。

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(左)道の駅を起点に豊川水系巴川を遡る (右)雨の後の濁り水を集めて

田んぼになみなみと水が張られ、初夏の強い日差しを撥ね返している。耕運機を操る人影が動き、エンジン音が山裾にこだまする。岸に植えられた名残りの八重桜を愛で、青草を食むヤギたちを眺めながら行くうちに、足もとの川幅はみるみる細くなっていった。

観察すると、その原因は左右から注ぎ込む用水路にあるようだ。つまり、本流よりも周囲の山から用水路を通じて流れてくる支流のほうが、集水域がはるかに広い。それによって巴川の水量が維持されているのだ。実際、地形図で「市場」の地名注記がある辺りまで来ると、本流も細い溝のようになってしまった。直線化され、水田より2m以上掘り下げてあるので、自然の川ではもちろんない。

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(左)岸を彩る名残りの八重桜 (右)やがて巴川は細い溝に

水路が北東から北へ向きを変える地点まで来ると、いよいよ水の量が減ってきた。石井さんの車で先回りしていた堀さんも合流して、じっと目を凝らす。白鳥神社から南東に延びる農道との交点に橋がかかっていて、その南側では、まだ南向きのわずかな水の動きを認めることができた。北側には、水路にコンクリートの枡が切ってある。東側から道の下をくぐって水がたっぷり流れ込んでいるのだが、その大部分はなんと北へ出ていくのだ。というのも南側の水路には砂が堆積していて、枡の水位がある程度高くならないと、そちらに水が流れていかないらしい。「分水点はここということですね」。一同顔を上げて、本日の調査の成果を確かめ合った。

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橋の下の枡が現在の分水点
大部分の水は北(手前)へ
残りは南へ

豊川・矢作川分水点と書かれた大きな看板が、100mほど先に立っている。ささやかな公園もこしらえてあった。説明板によると、ここは昔、大野原湿原といって作手村で最も広い湿原だった。泥炭の層が、深いところで4mも堆積している。水の流れが一定しなかったために、すぐそばの祠が祀ってある場所にあった橋は乱橋(みだればし)と呼ばれていたのだそうだ。

せっかくの「分水」公園だが、実際の分水点とは位置がずれてしまっている。しかし、それを言い咎めても意味がない。なぜなら、小さな水路として存在する巴川は、おそらく水田の造成過程で湿原から水を抜くために掘られたもので、分水点もそのとき人工的に生じたはずだからだ。人手が入る前は、湿原全体が境目のあいまいな分水「面」を構成していたと考えていいのではないだろうか。

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(左)分水点ではなくなった「分水」公園
(右)遠方の橋が現在の分水点。水は北(手前)へ流れている
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白鳥神社東方から北望。矢作川水系巴川が北(奥)へ流れ去る

とそこへ、農道をこちらに向かってきた軽自動車の窓から手を振る人がいる。木下さんと息子のキリ君だ。総勢9人となった一行は、近くの白鳥神社の境内を借りて、持参した昼食を広げた。堀さんは昔、当地を訪れていて、そのことは「誰でも行ける意外な水源・不思議な分水」(東京書籍、1996年、p.197~201)に記されている。久しぶりに再訪しようと思った理由は、「近所にもう1か所、行ったことのない谷中分水があるから」だというので、午後はそちらへ足を向けることになった。

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(左)白鳥神社正面 (右)境内で昼食休憩

白鳥神社の前の道をまっすぐ東へ進むと、作手鴨ヶ谷(つくでかもがや)という集落に入る。集落の位置する谷は巴川本谷から延びる支谷のように見えるのだが、実は反対側(東向き)に下っている。ということは、その間に矢作川・豊川を分けるもう一つの分水点があるはずだ。

行ってみたところ、道が南東へ曲がるあたりはまだ上り坂だった。ところが、地形図で538m標高点の打ってあるY字路まで行くと、左に分岐する道は明らかに下っている。田んぼの段差も同様だ。そればかりか、標高点のすぐ西で、宅地と林を載せた高まりが谷を横断していた。ちょうどそこは地形図でも、等高線が最もくびれている場所に当たる(下注)。鴨ヶ谷の谷中分水は、景観上も明瞭な分水「界」を成していたのだ。

*注 ちなみに、分水界周辺の535m補助曲線は、西側では閉じているのに、東側は開いたまま途切れている。明らかに描画ミスだ。

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(左)宅地の載る高みが鴨ヶ谷分水界 (右)道端に咲いていたシャガの花

林の裏(西側)の、道路から草の道を少し降りた先に、小さな湿原が残っていた。一面、背の高いヌマガヤで覆われ、ひょろりと立つハンノキの枝が吹き通る風に揺れている。「北海道みたいだなあ」と北海道に住む真尾さんが感心する。案内板によれば、この鴨ヶ谷湿原は、かつて大野原湿原の一部だったのだそうだ。すると、さっきの巴川分水点を含めて、作手盆地を埋め尽くしていた大湿原の貴重な生き残りということになる。

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(左)鴨ヶ谷湿原 (右)今も山からの水をたっぷり含む

案内板を見ていた誰かが「湿原植物のクサレダマってありますけど、可愛い花に似合わない名前ですね」とつぶやいた。堀さんが苦笑しながら「腐れ玉じゃないですよ。草レダマです」。なら、レダマって何だろうというので、さっそく木下さんが持参のポケット植物図鑑を広げた。漢字で書くと連玉なのだそうだ。「腐れどころか、優雅な名前じゃないですか」と頷き合う。

人とクルマで溢れかえる道の駅とは違って、ここには私たちのほか誰もいない。旅の最後に、思いがけなく本当の別天地を見つけたような気がした。

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湿原を吹き渡る風にハンノキの枝が揺れる

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図高里(平成19年更新)を使用したものである。

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