2019年8月17日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 III

ヴァルトフィアテル鉄道 南線 Waldviertelbahn Südast

ヴァルトフィアテルの山中には、大陸ヨーロッパを南北に分ける中央分水界が通っている。南線はこれを越えていくので、寄り添う谷は見るからに深く、線路にも急勾配と急曲線が連続する。景色の穏やかな北線に比べて、全般的にダイナミックで乗りごたえのあるルートと言えるだろう。

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ブルーデルンドルフの給水作業
(帰路撮影)
 

南線の蒸機列車は、北線の前日に当たる第1、第3土曜が運行日だ。距離が43.3kmと長いことから、1日1往復しかない。グミュント Gmünd を昼下がりの13時15分に出発し、終点グロース・ゲールングス Groß Gerungs に15時10分に到着する。復路は17時発で、グミュント帰着が18時45分になる。ニブロク蒸機の奮闘ぶりをたっぷりと楽しめる往復約4時間の長旅だ。

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南線路線図

発車の1時間前にグミュントのターミナル駅に戻ってきたら、ちょうど客車がホーム兼車庫の屋内から引き出され、隣の屋外ホームに据え付けられるところだった。蒸気機関車 Mh.4 にとっては、2週間ぶりの出番になる。6両ある客車(下注)は、窓のそこかしこに予約の貼り紙がしてあるものの、まだまるごと空席の車両も見られる。

*注 列車編成は北線と同じで、2軸古典客車6両、中間部にビュッフェ改造車、最後尾に緩急車がついた。

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グミュント駅
(左)客車の引き出し作業
(右)屋外ホームに据え付け完了
 

定刻を少し過ぎて発車した。北線を右に分けてすぐ、チェコ国境の手前に遺された三角線(前々回の記述参照)を通過する。それから ÖBB線をアンダーパスし、グミュント新市街をかすめ、後はしばらくのどかな耕作地の中を進む。車掌が巡回してきたので、乗車券を買うついでに空席のことを聞くと、次の駅で満席になります、とのこと。

川沿いの林の中を通り抜け、アルト・ヴァイトラ Alt Weitra(旧ヴァイトラの意)の停留所を見送ると、風景は緩やかな起伏を伴った丘陵のそれになる。左手には池があり、岸に点々と植わる木々が、水辺にほのかな影を落としている。

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(左)アルト・ヴァイトラは通過
(右)岸辺の木々が水面に影を落とす
 

ここから線路は、蛇行しながらその丘陵をじりじりと上り始める。60~70mの高低差がある、通称ヴァイトラ坂 Weitraer Berg だ。途中にある右回りのオメガループでは、最もくびれた部分で今通ってきた線路が間近になる。グミュントを出て初めての連続勾配だが、マリアツェル鉄道向けに造られた強力な蒸機にとっては、小手調べのたぐいかもしれない。

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ヴァイトラ坂を上る
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オメガループでは上ってきた線路が見える
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ヴァイトラ周辺の地形図
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

坂を上り切ると、ヴァイトラ Weitra に停車した。13世紀初めに築かれた城下町で、駅の西500m、ラインジッツ川の渓谷に臨む要害の地に城と市街地がある。コーラルレッドのあでやかな塗り壁の保存駅舎も、グミュントを別とすれば、沿線のどの駅よりも堂々としている。車掌の言葉どおり、ここでざっと40~50人の団体客が乗車して、予約席は一気に埋まった。

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ヴァイトラ駅
(左)駅舎はコーラルレッドの塗り壁
(右)大口団体客が乗車
 

駅を出ると、車窓から丘の上にすっくと建つ白壁の城がよく見える。それとともに、このあと渡る2本の石造アーチ橋にも注目したい。一つ目はファイツグラーベン高架橋 Veitsgraben-Viadukt(長さ70m、高さ15m)、二つ目がヴォルフスグラーベン高架橋 Wolfsgraben-Viadukt(長さ72m、高さ14m)という。サイズだけでなく、どちらも7径間で線路がカーブしていて、まるで双子のようだ。列車のデッキからでは全貌を捉えるのは無理だが、アーチの一部を見届けることはできる。

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ファイツグラーベン高架橋を渡る
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(左)丘の上に建つヴァイトラ城
(右)ザンクト・マルティンの教会
 

ヴァイトラから上流で、川は丘陵地を30~40mの深さに刻んで流れているが、ザンクト・マルティン・バイ・ヴァイトラ St. Martin bei Weitra でようやく平たい谷に戻る。少し進むと、シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ Steinbach-Bad Großpertholz だ。ここは周りに小さな集落しかないようなところだが、鉄道の運行にとっては昔から重要な中継地だった。駅に設置されたパネルの説明文を引用させてもらおう(ドイツ語原文を和訳)。

シュタインバッハとラングシュラーク Langschlag の間(下注)にあるヴァルトフィアテル鉄道の山線は、ユネスコ世界遺産ゼメリング鉄道になぞらえ、愛情を込めて「ヴァルトフィアテルのゼメリング Waldviertler Semmering」あるいは「小ゼメリング Kleiner Semmering」と呼ばれている。

*注 両駅間の距離は11.9km。

最急勾配28‰の狭軌鉄道は、本物のゼメリング鉄道に匹敵する。最小半径86mの数あるカーブで、線路は曲がりくねりながら標高806mまで上る(下注)。その際、大小のブルーデルンドルフトンネルを通り抜け、ヨーロッパの分水界を乗り越える。

*注 当駅の標高は626mで、最高地点との標高差は180mある。

この急勾配線では、重量列車が山を越えるのに、今日でも機関車と機関士に特別な力が要求される。特に重い列車は、昔も今も同じように、いわゆる補機と呼ばれる補助機関車の連結を必要とした。しかし、2000年まで維持されていた貨物輸送で2台目の機関車がないときは、列車はシュタインバッハ駅で分割され、2本の列車でヴァルトフィアテルのゼメリングを越えたのである。

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シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ駅
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「ヴァルトフィアテルのゼメリング」の説明パネル
(上記和訳の原文)
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「ヴァルトフィアテルのゼメリング」周辺の地形図
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

乗ってきた列車もここで20分ほど停車し、頼みの機関車に対して給水と点検が行われた。その間、乗客はみな車外に出て、思い思いに休憩する。作業の撮影にいそしむ人もいれば、駅舎の横の倉庫で展示しているユニークな木彫りの作品を鑑賞する人もいる。狭い車内ですでに1時間揺られてきたので、手足を伸ばすいい機会だ。

乗車を促す車掌の声が響いて、出発の時刻になった。上り勾配は駅構内の出口からすでに始まっているので、機関車は早くも出力全開だ。その様子を撮影するために線路脇で待ち構える人たちを見送って、列車は深い森に突入していく。

谷間に力強いドラフト音がこだまする中、二つめの支谷を渡るところで、アプシュラーク Abschlag 停留所に停車。森のハイキングに出かけるのだろうか、子ども連れで降りた人がいた。

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急坂での発車は出力全開
アプシュラーク停留所にて
 

短いトンネル(小ブルーデルンドルフトンネル Kleiner Bruderndorfer Tunnel、長さ44m)を抜け、谷の奥へ回り込んだ地点に、ブルーデルンドルフ Bruderndorf の給水所がある。ここはかつて停留所だったが、1986年にそれが2.4km先の集落により近い場所に移転した後、乗降を扱わない給水所になった。谷筋で水源には事欠かないとみえ、給水クレーンの先から、機関車のタンクに入るのと同じくらいの水量が漏れ落ち、大きな水音を立てている。

右側の横取りしたレールの上に大きな木のやぐらが置かれているのは、すぐ先にあるトンネルの検査用足場だという。再び走り出すと、急な右カーブの先に、その大ブルーデルンドルフトンネル Großer Bruderndorfer Tunnel が現れた。長さ262mあり、中は真っ暗で一寸先も見えなくなった。

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ブルーデルンドルフ給水所
(左)給水と同じくらいの量が漏れ落ちる(帰路撮影)
(右)木のやぐらはトンネルの検査用足場
 

最後の山脚を曲がり切れば、機関車の力闘も終わりが近い。切通しを抜けるとにわかに空が開け、列車の行く手に牧草地が広がった。このあたりが最高地点で、同時にヨーロッパ中央分水界でもある。北側斜面はエルベ川 Elbe 水系で、チェコとドイツを通って北海に注ぎ、南側はドナウ川 Donau 水系で、東へ流れて黒海に出る。想像すれば壮大な話で、この鉄道が世界遺産の向こうを張るのもわからないではない。

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最高地点付近を通過
(帰路撮影)
 

列車の歩みは重しが取れたように軽やかになり、ツヴェットル川 Zwettl の谷に沿って降りていく。小ぎれいな集落のあるラングシュラーク Langschlag で、また10分ほど停車した。

駅の側線に、1902年製の複式機関車 Uv.2(ÖBB 298.206)が静態保存されている。案内板によれば、最初この路線で走った後、イプスタール鉄道 Ybbstalbahn へ移籍し、1963年の引退後、ラングシュラークの自治体が保存のために買い戻したのだという。Uv.2は貨車を1両連れていて、その中は備品や歴史資料を集めたささやかな鉄道博物館になっている。給水も乗降もない駅に停車するのは、これらを見学するための時間をとっているのだ。

ヴァルトフィアテル鉄道の施設設備が2010年に州に移管された後、主要な駅建物や敷地などの固定資産は順次、沿線自治体が取得して保存と同時に活用し始めた。南線ではここラングシュラークをはじめ、ヴァイトラ、ザンクト・マルティン、グロース・ゲールングスなど、駅は公共施設として管理され、列車運行時のほか、地元のイベントやコミュニティ活動などにも利用されている。

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ラングシュラーク駅
(左)静態保存の Uv.2、後ろの貨車は鉄道博物館
(右)鉄道博物館内部
 

長い蒸気列車の旅も、いよいよ最後の一区間を残すのみだ。列車はヴァイトラ坂を思わせるようなオメガループを通り、なおも浅い谷を降りていく。そして、集落のへりを回り込むようにして、終点グロース・ゲールングスの構内に滑り込んだ。定刻15時30分のところ、着いたのは20分遅れの15時50分だった。

到着早々、機回し作業が始まる。駅は無人で、鉄道の要員は機関士と助士と車掌の3人しかいない。それで、ポイントの切替えも、機関車の誘導も、客車との連結も、みな車掌の仕事だ。一連の作業が終わると、構内の動きが止まった。乗客は、貨物倉庫を利用した小さな博物館に立ち寄ったり、駅舎で営業している軽食堂の客になる。

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グロース・ゲールングスに到着
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機回しを待つ Mh.4
背景の建物はシアターに改造された旧 車庫
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(左)グロース・ゲールングス駅舎は軽食堂に
(右)貨物倉庫の中は博物館に
 

空いた時間に、町の中央広場 Hauptplatz まで出かけてみた。グロース・ゲールングスは、高原の街道筋に成立した宿場町だ。広場を囲んで端正な建物が建ち並んでいるが、車が頻繁に通過することもあって、リッチャウのような心潤う情景には乏しい。

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グロース・ゲールングスの中央広場
 

ヴァイトラからの大勢の団体客は、さっき駅前に迎えに来たバスで去っていった。観光列車でよく見かける、ハイライト区間だけを体験するツアーだったようだ。それで復路の車内は空席だらけになる。機関車はバック運転だ。途中、ブルーデルンドルフの給水所でたっぷり水を補給した以外、乗客が車外に出られる休憩停車はなく、グミュントまで列車は淡々と走り抜けた。

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帰り道、列車の長い影が畑に落ちる
 

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト) https://www.waldviertelbahn.at/

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2019年8月10日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 II

ヴァルトフィアテル鉄道 北線 Waldviertelbahn Nordast

北線(下注)の舞台は、チェコとの国境に横たわる緩やかな起伏の高原地帯だ。深緑の針葉樹林とそれを切り開いた耕作地が交互に現れ、線路は浅い谷間の小川や池に沿って敷かれている。今回は、毎月第1・第3日曜に運行されている蒸機列車で、グミュント Gmünd から北上しようと思う。

*注 北線、南線は両者を区別するために用いる便宜的呼称であり、正式な路線名ではない。

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気品漂うニブロク蒸機 Mh.4
リッチャウ駅にて
 

列車はグミュント発が10時と14時30分の2本あり、終点リッチャウ Litschau で折り返し13時と16時発になる単純なダイヤだ。1本目の列車に乗るべく、市街地の宿を出てÖBB駅前のターミナルへ向かった。開放的な雰囲気の待合ホールには、すでに多くの客が集まっている。

やがて外側ホームに通じる扉が開いたらしく、ぞろぞろと移動が始まった。オープンデッキつき2軸客車6両、中間部にビュッフェ改造車、最後尾に自転車が積載できる貨車(緩急車?)という編成だが、よく見ると、たいていの客車の窓には予約済みを示す紙がペタペタと貼られている。これなら待合ホールが賑わうはずだ。もちろん、予約していなくても乗車は可能なので、慌てる必要はない。

ニブロク蒸機(下注)を撮ろうと前へ行くと、正面に "Western Express" と書かれた円いプレートを付けていた。観光鉄道らしく、さまざまな催し列車が年に十数回運行されていて、今日はたまたまその日だった。「ウェスタン・エクスプレス」というのが何を意味するのかは、後で知ることになる。

*注 ニブロクは2フィート6インチ(762mm)軌間の日本での俗称。メートル法を用いる大陸系(とりわけオーストリア=ハンガリー)の鉄道では、この軌間を760mmと定義した。

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Western Express のプレートをつけて走る
アルト・ナーゲルベルク駅にて
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(左)2軸客車内部
(右)ビュッフェ車
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北線路線図
 

定刻10時、短い汽笛とともに列車はホームを後にした。ディーゼル機関車も憩う構内を通り抜ければ、まもなく南線を見送って北へ大きくカーブする。1950年に開通したチェコ領を通らない新線区間だが、もう70年近く経つから、風景に完全に溶け込んでいる。市街裏手の草原に沿って進んだ後は、森の中に入り、いつのまにかラインジッツ川 Lainsitz を渡った。

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新線区間を行く蒸機列車
(動画からのキャプチャー)
 

チェコとの国境にある旧 オーストリア税関前を通るも、一瞬のことだ。シェンゲン協定により国境検査が廃止された今は、車も無停車で行き交っている。住宅街の中にあったはずのグミュント・ベームツァイル Gmünd Böhmzeil 停留所もしかり。ここは、旧市街の最寄り駅として設けられ、国境が確定した1920年から2年間は北線の臨時ターミナルを受け持ったほどだが(前回の記述参照)、現在、列車がここで徐行し汽笛を鳴らすのは、単に踏切の手前だからだ。

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国境の旧税関前を通る線路
 

ベームツァイルの住宅街をくねくねと抜けると、もう人家の密集地はない。再びラインジッツ川を渡り、畑地の中をゆっくり上がっていき、まもなく線路は針葉樹の森に埋もれてしまう。車掌が巡回してきたので、さっそく往復の乗車券を求めた。昨日もそうだったが、くれるのはポータブルプリンタから出てくる薄紙のレシートだ。

観光鉄道化されたときに中間の停留所が廃止されたため、最初の停車駅は 8.4km先のノイ・ナーゲルベルク Neu Nagelberg になる。ここもチェコ国境が間近で、何人かのグループが乗り込んで発車した。

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(左)ラインジッツ川のほとりから山手へ
(右)森を切り開いた畑地を上る
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(左)ノイ・ナーゲルベルクに停車
(右)ガムスバッハ川を堰き止めた池が連なる
 

ガムスバッハ川 Gamsbach を堰き止めた池が、谷間に長く連なる。それを見ているうちに、アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg に到着した。17世紀から、地元産の石英を原料にしたガラス製造の伝統をもつ町で、駅の向かいに、グミュントのターミナルの前庭で見たのと同じ色ガラスのオブジェが並んでいる。北線にとってガラス製品は、かつて木材と並ぶ貨物輸送の主要産品だった。

機関車への給水が始まる。乗客もみな車外に出て、作業を見学しながら思い思いにくつろいでいる。時刻表上の停車時間は7分なのだが、機関車の点検作業も含めて倍の15分は停車しただろう。ようやく「Alle Fahrgäste, aufsteigen!(乗客のみなさん、ご乗車ください!)」と車掌の大声が響いた。全員客車に戻ったのを見計らって、車掌がオープンデッキの閂を下ろしに回る。それから円い標識を掲げて、発車合図の笛を吹く。列車は再びゆっくりと動き出した。

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アルト・ナーゲルベルクで長い給水停車
0kmポストはハイデンライヒシュタイン支線の起点を示す
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(左)停車中もメンテナンスを欠かさない
(右)円い標識を掲げて発車の合図(ブラントにて撮影)
 

駅を出て2km弱の間、右側にもう1本の線路が複線のように並行する。これはハイデンライヒシュタインに至る支線で、非営利団体のヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会 Waldviertler Schmalspurbahnverein (WSV) が、夏のハイシーズンに、旧型ディーゼル機関車による「ヴァッケルシュタイン急行 Wackelstein-Express」を走らせている。

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ハイデンライヒシュタイン支線
(左)本線との並走区間(復路撮影)
(右)分岐地点には支線のみ停留所(アルト・ナーゲルベルク・エルゴ Alt Nagelberg Ergo)がある
 

支線の運行日は、この並行区間を利用した両線列車のレースが呼び物になっている。駅を同時に発車して、途中抜きつ抜かれつした後、分岐地点で汽笛の挨拶を交わしながら分かれていく(下記参考サイトの動画参照)。定期運行時代から行われていた余興で、観光列車でも再現されているのだが、残念ながら今は6月初旬、支線はまだ休眠中だ。

■参考サイト
YouTube - アルト・ナーゲルベルクでの同時発車 Doppelausfahrten in Alt Nagelberg
https://www.youtube.com/watch?v=KdpER-j0D_M

その支線が右手に去ると、すぐにまた森が開けて、ブラント Brand 駅に停車した。ドイツ語でブラントは火事、火災のことだが、この地名は山火事によって開けた土地(入植地)という意味だ。

何やら列車の前方が騒がしい。デッキから覗くと、カウボーイハットに覆面の、西部劇に出て来るような格好の男女が乗り込もうとしている。どうやら列車強盗団の襲撃らしい。彼らはおもちゃのピストルをかざしながら各車内を回り、乗客を巻き込んで緊迫の(?)寸劇を繰り広げた。ところが仕事を終えたとたん、客車の前に全員整列し、車掌が構えるカメラにおとなしく収まったのには笑える。

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ブラント駅の西部劇
(左)列車の前方が騒がしい
(右)列車強盗団の襲撃
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(左)ピストルをかざして車内を回る
(右)最後はキャスト一同で記念写真
 

ウェスタン・エクスプレスのこのメインイベントのために、また15分ほど停車した。所定ダイヤからかなり遅れたが、誰一人気に留める乗客はいないだろう。列車は、ライスバッハ川 Reißbach が自然のままに流れる小さな谷を遡っていく。リクエストストップ扱いのシェーナウ・ドルフヴィルト Schönau Dorfwirt と、製材所への引込線跡が残る旧 シェーナウ・バイ・リッチャウ Schönau bei Litschau 停留所(廃止)は、続けて通過した。最後に短い坂道を上り、右に大きくカーブすると、終点リッチャウの駅舎が見えてくる。10時55分定刻のところ、到着は11時20分だった。

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ライスバッハ川の谷を遡る
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(左)シェーナウ・ドルフヴィルトを通過
(右)シェーナウ・バイ・リッチャウには製材所への引込線の痕跡が
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(左)リッチャウ城の望楼が顔を覗かせる
(右)終点リッチャウ到着
 

青空に綿菓子のような雲がいくつも浮かんでいる。きょうは絶好の行楽日和だ。駅舎では、町の人たちが食卓をこしらえて待っていた。シチューとヴュルステル(小ソーセージ)が大鍋で煮えている。列車から降りてきた客で、たちまち受付に行列ができた。豆やサラミをたっぷり煮込んだ酸味のあるシチュー(ボーネンアイントプフ Bohneneintopf)は、素朴ながら食欲を満たすには十分だ。その後、留置してある客車の中の小さな博物館をのぞいて、路線の諸元や歴史のデータを仕入れる。

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(左)帰路に備えて給水作業
(右)給水元は消防署のタンク車
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豆のシチューとヴュルステルが乗客たちを待つ
 

時間にまだ余裕があるので、駅前の坂を下ってリッチャウの小さな市街地へ出かけることにした。それは、地形図で想像していたとおりの、いい町だった。中心にある広場(シュタットプラッツ Stadtplatz)はそれ自体が急な坂道で、高い側に教会の白い塔がそびえ、谷向うにある城の望楼と対峙している。

町の裏手(北側)にはヘレンタイヒ Herrenteich という大きな溜池があり、波静かな水面に雲を映していた。堤の上は木漏れ日揺れる散歩道で、そのまま池の奥のほうまで延びている。木陰のベンチに腰を降ろして、堰から落ちる涼しげな水音を聞いていると、旅の途中であることを忘れてしまいそうになった。

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坂道に築かれたリッチャウ旧市街
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ヘレンタイヒ Herrenteich
(左)雲を映す水面
(右)堤は木陰の散歩道
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堰を落ちる小川
 

帰りの列車は13時発車だ。間に合うように駅に戻ると、列車の予約席は2両きりになっていた。団体で来た人の多くはまだ町でくつろいでいたから、次の便(16時発)に乗るのかもしれない。復路はおおむね下り坂なので、機関車のドラフト音も心なしか軽やかに聞こえる。途中、アルト・ナーゲルベルクの給水時間も短めで、13時55分、列車はほぼ定刻にグミュントのターミナルに戻ってきた。

次回は、南線を訪ねる。

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グミュントに帰着
 

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト) https://www.waldviertelbahn.at/
ヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会(ヴァッケルシュタイン急行) http://www.wsv.or.at/cms/

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2019年8月 3日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 I

ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn

北線 Nordast:
グミュント Gmünd NÖ(下注)~リッチャウ Litschau 間 25.5km、1900年開通
アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg ~ハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein 間 13.2km、1900年開通
南線 Südast:
グミュント Gmünd NÖ ~グロース・ゲールングス Groß Gerungs 間 43.3km、1902~03年開通

軌間760mm、非電化

*注 NÖ はニーダーエースタライヒ Niederösterreich(州)の略。

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蒸機列車がヴァルトフィアテルの森を行く
 
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オーストリアで今なお稼働している760mm軌間の軽便鉄道の中で、ドナウ川の北にあるのは、ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn だけだ。起点はグミュント Gmünd という田舎町で、首都ウィーンから西北西へ直線で120km(下注)、チェコとの国境がもう目前に迫っている。ÖBB(オーストリア連邦鉄道)の最速列車で行っても約2時間かかるその町から、狭軌のか細い線路が北と南へ分かれていく。

一般輸送はすでに旅客・貨物とも廃止され、今は観光鉄道としての機能しか持っていない。だが、数年前に完成した明るく立派なターミナルからは、嬉しいことに夏のシーズン中、毎日欠かさず列車が運行されている。総延長82kmに及ぶ路線網は、まさしく辺境に残された孤高のナロー王国だ。

*注 鉄道の路線距離は、ウィーン(フランツ・ヨーゼフ駅)~グミュントNÖ 間で162km。

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グミュント周辺の鉄道路線の位置関係

6月最初の土曜日、グミュントを訪ねるために、ウィーンの静かなターミナル、フランツ・ヨーゼフ駅 Franz-Josefs-Bahnhof からチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 行のREX(レギオナルエクスプレス、快速列車)に乗り込んだ。Uバーン(地下鉄)に接続する次のシュピッテラウ Spitterau で多数の客を拾うと、列車はものの数分でウィーン市内を抜け出し、ドナウ右岸の河畔林に沿って走っていく。

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ウィーン・フランツ・ヨーゼフ駅
 

トゥルン Tulln で北を向き、ドナウ川を渡った後は、ヴァインフィアテル Weinviertel の緩やかにうねる丘陵地をじわじわと上る。中でもリンベルク・マイサウ Limberg-Maissau 駅の前後は大きなU字ループで、ちょうど谷向こうの鉄橋を降りてくる対向列車の姿を捉えることができた。

この路線はフランツ・ヨーゼフ線 Franz-Josefs-Bahn といい、プラハとウィーンを最短距離で結んでいる。しかし、山地を横断しなければならず、カーブの多いルートになった。それで国際特急はすべて、距離は長くなるものの高速走行が可能な北部本線 Nordbahn、ブルノ Brno 経由で走っており、こちらは実態としてローカル線だ。

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谷向こうを降りてくる対向列車
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目を和ませる菜の花の絨毯
 

遠望が利くのは、ジクムンツヘルベルク Sigmundsherberg あたりまでだろう。後は、畑や林の交錯する中を延々と走る。今は菜の花の咲く季節で、大地を覆うレモンイエローの絨毯が目を和ませるが、沿線に町らしい町は現れないまま、いつしか車窓は平原の風景に変わっていた。

グミュントNÖ 駅で、乗客のほとんどが降りた。駅舎を出ると、道路を隔てて、大屋根をアーチで支えた正面ガラス張りの建物がひときわ目を引く。「ヴァルトフィアテル鉄道」と書かれたパネルも下がっている。2014年に構内を整理縮小し、新たに造ったターミナルの駅舎兼車庫だ。

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(左)グミュントNÖ 駅到着
(右)ポップに改装された駅正面
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ヴァルトフィアテル鉄道のターミナル
 

建物の中に入ると、案内カウンターもある開放的な待合ホールの奥に、島式ホームを挟んでナローゲージが2線並んでいる。車庫を兼ねているので、線路の出口はシャッターつきだ。これとは別に、建物の外側にも、片側にホームをもつ1本の線路が延びている。後で知ったが、蒸機が牽引する列車はここで乗降するのだった。確かに屋内では、煙がこもってしまうに違いない。

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建物内部
(左)待合ホール
(右)プラットホーム 兼 車庫
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建物の外にある蒸機列車用のホーム
 

乗車券を買おうとカウンターで尋ねると、車内で売ります(下注)、と言われた。客の大半は団体かグループで、席を確保するために予約を入れていて、飛び込み客は少ないらしい。満席になっては困るからと、ウィーンを早めに出てきたが、拍子抜けした。空いた時間に市街へ行って、宿に荷物を預けてくることにしよう。

*注 車掌が手売りするので、現金払いのみ可。

列車に乗る前に、ヴァルトフィアテル鉄道の基礎的知識を仕入れておきたい。

まず、鉄道名になっているヴァルトフィアテルだが、これはこの地方の名称だ。ニーダーエースタライヒ Niederösterreich(下オーストリア)は、歴史的に4つのフィアテル(地方)Viertel に区分され、それぞれ主要産業の名で呼ばれてきた。すなわち、

北西部:ヴァルトフィアテル Waldviertel(森林地方の意=林業、鉱業を指す)
北東部:ヴァインフィアテル Weinviertel(葡萄酒地方の意)
南西部:モストフィアテル Mostviertel(果汁地方の意=リンゴ、ナシなどの果実酒醸造を指す)
南東部:インドゥストリーフィアテル Industrieviertel(工業地方の意)

■参考サイト
Wikimedia - ニーダーエースタライヒのフィアテル(エリア図)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vierteleinteilung_in_Niederösterreich.png

ヴァルトフィアテルは、ドナウ川 Donau の北側、マンハルツベルク山 Manhartsberg の西側の、文字どおり山がちな一帯を指す。その地方を鉄道が東西に貫いたのは1869年だった。ボヘミアとウィーンを結んで建設された勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道 k.k. priv. Kaiser Franz-Josephs-Bahn (KFLB、下注)、いうまでもなく現在のフランツ・ヨーゼフ線だ。

*注 勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道は、ヘプ Cheb(ドイツ語名:エーガー Eger)~プルゼニ Plzeň(同 ピルゼン Pilsen)~グミュント~ウィーン間およびプラハ Praha ~グミュント間が主要路線で、1884年に国有化された。

鉄道は、グミュントの町の南西でラインジッツ川 Lainsitz を横断し、左岸に駅が設けられたが、それは静かな田舎町を一変させる出来事だった。なぜなら、ただの中間駅ではなく、プルゼニ方面とプラハ方面からの幹線どうしが合流する駅だったからだ。鉄道の運行拠点として機関庫や修理工場が配置され、グミュントはにわかに鉄道の町の様相を呈した(地理的位置は下図1段目参照)。

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ヴァルトフィアテル鉄道のルート変遷
 

経済効果が明らかになるにつれ、周辺の地域でも鉄道建設を求める声が高まるのは、当然の成り行きだった。1895年に公布されたニーダーエースタライヒの鉄道法 Landeseisenbahngesetz で、建設費に対する公的補助制度が確立すると、実際、次々と地方路線が誕生していく。

グミュント周辺では、地元のガラス産業界の要請を受けて、まずグミュントからリッチャウ Litschau とハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein に至る北線の計画が具体化された。これは1900年7月に実現した。次いで1902年に南線のグミュント~シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ Steinbach-Bad Großpertholz 間、1903年にはグロース・ゲールングス Groß Gerungs までの全線が開通した(上図2段目参照)。さらに北と南へ延伸する構想も立てられていた(下注)のだが、第一次世界大戦の勃発で実現せずに終わった。

*注 北線では、ボヘミアのノイビストリッツ Neubistritz(現 ノヴァー・ビストジツェ Nová Bystřice)で既存の狭軌路線への接続、南線では、ドナウ河畔のクレムス Krems やグライン Grein への延伸が構想された。

その戦争中、オーストリア一円の760mm軌間鉄道から機関車や車両が徴発され、バルカン半島の主戦場へ送達された(下注)。しかし、それよりも大きな問題をヴァルトフィアテル鉄道にもたらしたのは、戦後処理だった。

*注 ボスニアには760mm軌間による大規模な路線網が築かれており、そのため、ドイツ語圏ではこの軌間を「ボスニア軌間 Bosnische Spur / Bosnaspur」と呼ぶ。

1919年に結ばれたサン・ジェルマン条約で、ラインジッツ川左岸のグミュント中央駅 Gmünd Hbf(および狭軌線のグミュント地方鉄道駅 Gmünd Lokalbahnhof)とその周辺が、ニーダーエースタライヒから分離され、新生チェコスロバキア共和国(以下、チェコという)に属することが確定したのだ。それに伴い、駅はチェコ語の地名に基づきチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 駅(下注)に改称された。

*注 もとのドイツ語地名であるヴィーランツ Wielands をチェコ語に言い換えたもので、「チェコのヴィーランツ」を意味する。

グミュントが運行拠点のヴァルトフィアテル鉄道にとって、これは頭を抱える裁定だった。1920年7月の条約発効後しばらくの間、チェコ側では列車を空のまま発車させ、国境を越えたオーストリア側の最初の停留所で客を乗せる措置がとられた。しかし、1922年に国鉄が、オーストリア側に以前からあったグミュント・シュタット Gmünd Stadt 停留所を駅に改修するのに合わせ、狭軌の線路も延伸して、ここを列車の起点とした(上図3段目参照)。

ただしこの時点では、機関庫と修理工場はチェコに残されたままで、北線も一部でまだチェコ領を通っていた。そのため、機関車は相変わらず旧駅の機関庫をねぐらにしており、新駅との間を回送で走った。また、北線の列車は、チェコ領を無停車(下注)で通過するコリドーアツーク Korridorzug(回廊列車)の形で、リッチャウ方面へ向かったのだ。

*注 短絡線ができる1947年までは旧駅で折り返していたので、停車はしたが乗降はできなかった。

なお、この間1921年にオーストリア連邦鉄道 Österreichische Bundesbahnen(BBÖ、後にÖBB) 、いわゆる国鉄が成立し、狭軌鉄道も国鉄に引き継がれている。

第二次世界大戦もまた、ヴァルトフィアテル鉄道に多大な影響を及ぼした。第一に、チェスケー・ヴェレニツェの鉄道施設が、空爆に曝されて使用できなくなった。そのため、グミュント・シュタット(1946年に「グミュントNÖ」に改称)に、新たに狭軌用の機関庫と修理工場が整備された。

第二に、回廊列車の運行を嫌ったチェコスロバキアが、オーストリア側における短絡ルートの建設を促した。チェコが費用を負担して新線が造られ、こうして1950年12月から、北線はチェコ領を通らない現行ルートで走るようになったのだ(上図4段目参照)。

なお、新線開通によりグミュントNÖ 駅西方の三角線は不要となったが、車両の方向転換用にまだ残されている。しかし、蒸機は復路でも向きを変えず、バック運転、いわゆる逆機で戻ってくるため、日常運用でこれが使用されることはない。数奇の歴史を秘めた三角線だが、レールはもはや錆びついてしまっている。

三角線とそれに続くチェスケー・ヴェレニツェ駅前までの廃線跡の現状は、下の写真を参照されたい。

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グミュントNÖ 駅西方の三角線(下図①)
気動車が通っているのが三角形の他の一辺
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(左)立体交差するÖBB線の列車から三角線を北望
(右)三角線の西端は国境手前で途切れている
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(左)国境のラインジッツ川を渡る廃線跡遊歩道(②)
右手前にÖと刻まれたオーストリアの国境標が見える。この付近ではラインジッツ川の中心線に国境があるが、鉄橋とその敷地はチェコ領のため、国境線がこうして川の右岸(東側)に張り出している(南にある標準軌線の橋梁も同様)。
(右)チェコ側も遊歩道に(③)
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チェスケー・ヴェレニツェ
(左)街角の路地が遊歩道入口(④)
(右)駅までの廃線跡は公園化され、マロニエの並木が続く(⑤)
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現 チェスケー・ヴェレニツェ駅舎は戦後の再建(⑥)
駅前にあった狭軌線施設も戦災に遭い、解体撤去された
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グミュント周辺の地形図に廃線跡等を加筆
図中の①~⑥は上掲の写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ようやく運行体制を整えたヴァルトフィアテル鉄道だったが、戦後は自動車交通の進展に伴い、緩やかな衰退に向かい始める。蒸気機関車が定期運行を担うオーストリア最後の鉄道(登山鉄道を除く)として、ファンの人気を集めたのもつかの間、1986年にハイデンライヒシュタイン支線を含む北線の一般旅客輸送が、1992年にはハイデンライヒシュタイン支線の貨物輸送が休止となった。2000年には南線の貨物輸送、2001年1月に北線で残っていた貨物輸送の休止と段階的な縮小が実施され、ついに2001年6月9日、南線における一般旅客輸送の終了をもって全線休止となったのだ。

一方、観光列車の運行が1979年に開始されており、一般輸送廃止後は、もっぱら観光による地域開発のために鉄道が維持されている。運行事業者は、州の公営企業であるニーダーエースタライヒ運輸機構有限会社 Niederösterreichische Verkehrsorganisations-Ges.m.b.H (NÖVOG) だが、2010年にはインフラもÖBBから移管されて、鉄道運営の一元化が図られた。

なお、北線のハイデンライヒシュタイン支線(アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg~ハイデンライヒシュタイン間)については、非営利法人のヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会 Waldviertler Schmalspurbahnverein (WSV) が「ヴァッケルシュタイン急行 Wackelstein-Express」の名で走らせている。

狭軌鉄道の車両群は、基本的にグミュントが拠点だ。日常的に使われるのは、1986年ノッツ Knotz 社製5090形気動車3両(VT08、VT11、VT13)で、その塗色から「金色のディーゼルカー Goldener Dieseltriebwagen」と呼ばれる。オーストリアの多くの760mm軌間で運行の主力を担っているものと同形式の車両だ。

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5090形気動車
 

北線で日祝日、南線で水・土曜に走る古典列車編成は、蒸気機関車またはディーゼル機関車が牽引する。前者はクラウス社 Krauss & Co による1906年製のテンダー蒸機で、Mh.1 および Mh.4 の2両が在籍している。もともと山岳路線のマリアツェル鉄道 Mariazellerbahn 向けに造られており、連続勾配・急曲線に適応した性能をもつ。南線の「ヴァルトフィアテルのゼメリング Waldviertler Semmering」と呼ばれる山登り区間が、一番の見せ場だ。後者は1950~60年代製の機械式ディーゼル機関車で、V5とV12の2両が就役している。

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蒸機 Mh.4 が2軸客車を牽く
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ディーゼル機関車 V5 と V12
 

観光輸送に特化されたヴァルトフィアテル鉄道は、シーズン限定の運行だ。2019年の場合、北線は5月1日~9月29日、ハイデンライヒシュタイン支線は7月13日~9月1日、南線は4月27日~10月27日で、しかも7月~9月第1週のハイシーズン以外は平日(水曜を除く)運休になる。また、1日の運行本数も1本から多くて3本までなので、訪問する際は、運行日と時刻表をよく確かめておく必要がある。

では次回、まず北線から、路線の特色や車窓風景について紹介しよう。

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト)  https://www.waldviertelbahn.at/
ヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会(ヴァッケルシュタイン急行) http://www.wsv.or.at/cms/

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2019年5月 1日 (水)

紀州鉱山軌道の楽しみ方

紀伊半島の山中を、ささやかなトロッコ列車が走っている。軌間2フィート(610mm)、走行距離は約1kmに過ぎないが、1日6往復の設定がある。しかし、鉄道事業法に基づくものではないため、市販の時刻表や鉄道路線図には一切載っておらず、知る人ぞ知るという存在だ。

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山あいの湯ノ口温泉駅にトロッコ列車が到着
 

三重県南端に近い熊野市の内陸部(旧 南牟婁(みなみむろ)郡紀和町)、熊野川支流の、瀞峡(どろきょう)で知られる北山川の左岸に、それはある。今は観光用に運行されているが、もとは鉱山軌道だった。

この地区では古くから小規模な採鉱が行われていて、1930年代に、石原産業が本格的な鉱山を開いた。採掘場は北山川の支谷に沿って点在し、鉱石から銅などの有用鉱物を選別する選鉱場が、紀和町中心部の板屋(いたや)に置かれた。軌道はこの間を結ぶもので、鉱石と作業員・資材の輸送を担っていた。鉱山の名から「紀州鉱山軌道」と呼ばれているが、メインルートの板屋~惣房間だけでも5.5kmあり、険しい山中のため、大半がトンネルだった(下図参照)。

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紀州鉱山軌道周辺の1:25,000地形図(1976年)に
軌道関連事項と新国道のルートを加筆
 

1940~50年代、紀州鉱山(石原産業紀州事業所)は、銅の生産量で国内有数の規模を誇った。しかし、1963年の貿易自由化後は、海外産に押されて採算が悪化していき、1978年、約40年の歴史に幕を降ろした。軌道もまた、それと運命を共にした。

鉱山は地域の基幹産業だ。その撤退という大きな試練に直面して、町は、観光開発に将来を託そうとした。鉱区の中心、湯ノ口地区は地名が示すとおり、昔は温泉が湧く土地だった。鉱山開発の影響で長らく枯渇していたが、閉山1年後に行ったボーリングで地中の源泉が発見され、温泉として再興された。

ただそこは鉱山軌道がなければ秘境同然の場所で、アクセスに難がある。それで、軌道の一部を利用して、利用客を温泉の前まで送り届ける計画が練られた。起点は、国道311号線からほど近い小口谷(こぐちだに)とされた。そこには鉱山のズリ捨て場があり、再開発用の空地には事欠かなかったからだ。

1987年に小口谷~湯ノ口間でトロッコ列車の試験運行が始まり、1989年からは通年で運行されるようになった。さらにその翌年、小口谷に、瀞流荘(せいりゅうそう)という新たな宿泊施設がオープンした。設備の整ったその施設に宿泊し、トロッコで湯ノ口温泉に通うというユニークなオプションが可能になった。

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瀞流荘駅に停車中のトロッコ列車
 

それから早や30年が経つ。温泉施設は近年改築され、装いを新たにしたが、トロッコ列車は当時のまま健在だ。マッチ箱のような小さな2軸木造客車がトンネルの中をゴトゴトと走り、湯浴みの客を運ぶとともに、鉱山軌道ありし日の面影を今に伝えている。

昨年(2018年)夏、この軌道に乗る機会があった。前夜、瀞流荘に泊り、ゆっくり朝食をとって、9時55分発二番列車の客となった。乗り場は宿の山側にあり、地名の小口谷ではなく、「瀞流荘」駅を名乗っている(下注)。ここはかつて操車場や修理工場がある鉱山軌道の拠点だったので、谷間に広い跡地が残されている。線路の手前は駐車場に使われ、奥は特産品の加工場になっているようだ。

*注 グーグルマップでは「トロッコ電車 小川口駅」と注記されている。

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瀞流荘駅
(左)駅舎 (右)出札窓口
 

木造平屋の駅舎で切符を売っている。運賃は、大人片道270円、往復540円、また、湯ノ口温泉の入浴券つき往復券が860円だ。さらに、トロッコと瀞流荘・湯ノ口温泉入浴が1日フリーパスになる「熊野湯めぐり手形」もある(下注)。これは、宿泊客の場合、往復運賃と同額の540円(宿泊しない場合は1080円)で買え、実質的に入湯が無料になる。瀞流荘に泊るなら、これ以上の選択肢はない。

*注 「熊野湯めぐり手形」は、瀞流荘のフロントでも購入できる。

駅舎を出ると、線路を2本はさんだ、屋根付きの相対式ホームがあった。右も左も山の斜面で、線路はトンネルに潜っている。天井が低いかまぼこ形をした、しかし複線仕様のトンネルだ。左の板屋側のトンネル(二号隧道)の中を覗くと、鉄格子の奥に車両らしきものが見え、車庫として使われているようだ。列車が進む右側は、加工場へ行く道路と交差し、谷川を渡ってすぐ三号隧道に入る。

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瀞流荘駅前後のトンネル
(左)板屋側の二号隧道は車庫代わりに
(右)湯ノ口側の三号隧道入口
 

乗るべき客車は、すでにホームに据え付けられていた。江ノ電色に塗られた2軸車の5両編成だ。茶室のにじり口並みの小さな引き戸を開け、腰をかがめて入る。内部は狭いながらも四方にベンチがあり、座布団が敷いてある。窓にはガラスが嵌っているが、鉱山軌道時代は、隙間を空けて板を貼っただけの、いわゆる無双窓だったそうだ。夏場はともかく、さすがにそれでは温泉帰りの客は乗せられまい。

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(左)機関車が機回しされてきた
(右)客車内部
 

機回しされてきた機関車が前に付けられた。台車の上に大きな平箱を載せた車両で、箱の中を見せてもらうと、多数のバッテリーが配置されている。これは実際に鉱山軌道で使われていた蓄電池式電気機関車で、いわば貴重な動態保存機だ。

かつて鉱山軌道の本線系統は、架空線が張られ、直流600V、パンタグラフ集電の電気機関車が活躍していた。一方、坑道内では、スパークによるガス爆発を避けるため、蓄電池式が使われていた。軌道復活に当たっては、架線設備の再建を要さない後者で、客車を牽引することになった。広告媒体などで「トロッコ電車」という表現を目にするが、実態はこういうことだ。

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蓄電池式電気機関車
(左)後部に運転台、直接制御器がある
(右)前部の蓋を開けると蓄電池の列が
 

私たちのほかにもう1~2組の同乗者を載せて、列車はほぼ定刻に出発した。走行する全線で複線の線路が残されているものの、1編成が往復するだけなので、単線で足りる。このときは隣の線路が途中で外されて、何か工事をしているようすだった。

ルートはみごとに直線で、微かな上り坂だ。三号隧道は長さが300mある。天井に照明があり、にじみ出る地下水で、側壁が鈍く光っている。トンネルを抜けると、大嶝(おおさこ)と呼ばれた明かり区間を、少しの間走る。地形図で見ると、北山川が接近しているが、木々に隠され、車窓からは見えない。次の五号隧道は730mと長く、途中で下り坂に転じる。

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走行区間の大半を占めるトンネル
(左)かまぼこ形の断面、全線複線
(右)中間部の短い明かり区間
 

10分ほどで湯ノ口温泉駅に到着した。ホームは沢をまたぐ鉄橋の上にあり、線路は左に急カーブしながら、閉鎖された六号隧道へ向かっている。駅舎の代わりに、片流れ屋根のかかった待合ベンチがある。ここも鉱山軌道のジャンクションの一つで、かつては機関庫その他の施設が建ち並び、三角線をはじめ多数の側線が谷を埋めていた。その後跡地は転用され、温泉施設と滞在用のコテージやバンガローの敷地になった。

折り返し列車の発車は10時55分で、50分ほど間がある。源泉かけ流しの湯ノ口温泉で、露天風呂に浸かる時間を確保しているのだ。もっとゆっくり過ごしたいなら、1本見送って次の列車(12時35分発)にすることもできる。1日6往復は、ほどよい列車本数だろう。

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湯ノ口温泉駅
(南端から瀞流荘駅方を望む)
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(左)湯ノ口温泉
(右)軌道構内の跡地に並ぶ温泉のバンガロー
 

鉱山軌道の楽しみはこれにとどまらない。トロッコと同じ軌道上を、レールバイク(軌道自転車)でも走ることができるのだ。レールバイクは2人で漕ぐが、電動アシストなので大して力は要らない。また、後ろに2人乗りの付随車(ベンチシートと呼んでいる)をつければ、計4人まで同時に移動できる。

アクティビティの要素もあって、実のところ、狭いトロッコ客車に揺られるよりはるかに開放的で爽快だ。料金は湯ノ口1往復で2,600円、ベンチシートはプラス640円だが、試してみる価値は十分ある。ただし、1台しかないので、瀞流荘への事前予約が必須だ。また、一人だけでは乗れない。

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レールバイク
(左)後ろに2人乗りのベンチシートを付けることができる
(右)電動アシストのマウンテンバイク2台を固定接続
 

出発時刻は決まっていて、行きはトロッコ発車の15分前、帰りは10分前だ。ということは、もたもたしていると、後ろからトロッコが追ってくるわけで、漕ぎだす前に、「もしトンネル内で立ち往生したら、後から来る列車にライトで合図してください」と注意を受けた。もちろん、ふつうに漕げば心配は無用で、トロッコが発車する頃には終点に到着している。

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鉱山軌道を自転車で疾走
 

鉱山軌道の楽しみの延長として、場所を少し移動すれば、当時の珍しい車両や鉱山施設跡を目にすることも可能だ。

瀞流荘から2kmほどの板屋地区に、1995年開館した紀和鉱山資料館がある。ここには、各種車両が静態保存されている。まず前庭にあるのが、パンタグラフ集電の電気機関車610号機が有蓋人車(客車)、鉱車(貨車)各1両を牽く形の「列車」だ。鉱車の上に索道搬器も吊ってある。隣の、簡易転車台から延びる軌道には、蓄電池式機関車230号機と軌道自転車が据え付けられている。屋根が架けられているものの、戸外のため、表面に錆が回り始めているのが痛々しい。その中で人車だけは美しく塗り直され、中に入って、例の無双窓からの景色を追体験できる。

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紀和鉱山資料館前庭の展示車両
(左)鉱車と有蓋人車、上空に索道搬器
(右)架空線式電気機関車610号機
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(左)「列車」には立派な屋根が架けられている
(右)簡易転車台に接続された蓄電池式機関車と軌道自転車
 

館内には、蓄電池式機関車229号機、同415号機、鉱車、作業員を運んだ無蓋人車などの展示がある。人形を使って当時の鉱山作業の様子が再現されており、そのセットの一部という扱いだ。そのほか、紀州鉱山の動静が記録された社内紙「石原紀州」の貴重なコレクションも閲覧に供されている。

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資料館内部の展示車両
(左)蓄電池式機関車と鉱車
(右)坑夫を乗せた無蓋人車
 

板屋には選鉱場があり、鉱山軌道で運ばれてきた鉱石を処理していた。案内板によれば、総面積2200坪、高さ75mで日本第二の規模、完成当時の処理量は1日1000トンで東洋一だったという(下注)。その跡は、資料館から山手へ歩いて数分のところにある。倉庫や修理工場が建っていた平地は、公共施設用地に転用されてしまったが、山の斜面を利用した選鉱場跡が、建物を撤去した状態で朽ちるがままにされている。

*注 ちなみに、選鉱場で純度を高めた精鉱は、全長14.7kmの索道で山を越え、紀勢本線阿田和駅で貨物列車に積まれた。

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板屋選鉱場跡の廃墟
 

敷地内は通常立入禁止で、麓からの観察になる(下注)が、斜面にそびえるコンクリートの梁と柱、這い上がるインクラインのレールや階段など、見上げる廃墟の景観は、巨大なだけにかえって寂寥感を誘う。

*注 熊野市観光公社が年1回開催しているツアーに参加すれば、立入禁止区域の選鉱場上部や坑道を探索できる。

傍らには、鉱山軌道の一号隧道が口を開けている。複線の線路も残されているが、鉄格子の扉が閉まっている。このトンネル(一号・二号隧道)の反対側の出口は、「瀞流荘」駅のある小口谷だ。

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(左)インクライン跡
(右)一号隧道入口、内部には鉄格子扉が
 

最後に、この地への交通手段を書いておこう。

瀞流荘に泊る場合は、JR紀勢本線の熊野市駅まで送迎バスを出してくれるので、宿泊予約の際に確認するとよい。

公共交通機関で行く場合は、熊野市駅前から、熊野市バス「熊野古道瀞流荘線」(三重交通に運行委託)に乗る。資料館および選鉱場跡は「板屋(鉱山資料館前)」下車、トロッコ乗り場は終点「瀞流荘」下車だ。所要時間は約50分、1日4往復(2019年4月現在)しかないので、発車時刻には要注意だ。下記サイトに路線図と時刻表がある。

熊野市バス http://www.city.kumano.mie.jp/kurasi/kumanosi_bus/

本稿は、名取紀之「紀州鉱山専用軌道-その最後の日々」RM LIBRARY 212, ネコ・パブリッシング, 2017年、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図瀞八丁、大里、伏拝、本宮(いずれも昭和51年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
熊野市観光公社 http://kumano-kankou.com/
瀞流荘 https://www.ztv.ne.jp/irukaspa/
紀和鉱山資料館 https://kiwa.is-mine.net/

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2018年11月30日 (金)

ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル

ネロベルク鉄道 Nerobergbahn

延長438m(及び中間部待避線70m)、高度差83m、軌間1000mm
ウォーターバラスト方式で運行、リッゲンバッハ式ラックレールをブレーキに使用
最急勾配260‰、平均勾配195‰
1888年開通

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高架橋を上るネロベルク鉄道のケーブルカー
 
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ドイツ中西部ヘッセン州の州都ヴィースバーデン Wiesbaden は、ローマ時代から続く典雅な温泉保養都市だ。その市街の北郊に、長さ500m足らずのささやかな鋼索鉄道(ケーブルカー)がある。

上る山の名から「ネロベルク鉄道 Nerobergbahn」と呼ばれるこの路線は、ウォーターバラスト(水の重り)を積み、重力を利用して動く古典ケーブルだ。電気での運行制御が可能になる以前、どこのケーブルカーもこうした素朴な仕掛けで坂を上り下りしていた。しかし、今やドイツではここにしか残っておらず、19世紀の先進技術を伝える貴重な存在になっている。

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ヴィースバーデン市街周辺の1:50,000地形図に加筆
(L5914 Wiesbaden 1990年版)
© Hessisches Landesamt für Bodenmanagement und Geoinformation, 2018

5月の晴れた日の朝、ヴィースバーデン中央駅前のB乗り場から、1系統ネロタール Nerotal 行きのバスに乗った。この系統は終点がケーブルカーの駅前なので、土地不案内な者にはありがたい。中心街を経由した後、バスは、緑の中に石造りの瀟洒なヴィラが列をなす静かな通りを進み、ロータリーを回って停まった。

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(左)ヴィースバーデン中央駅
(右)市内バス1系統の終点、ネロタール停留所が鉄道の最寄り
 

目の前に、ネロタールをまたぐケーブルカーの高架橋が架かっている。長さ97.3m、5個のアーチを連ねたルネサンス風の優美な造りで、鉄道のもつ雰囲気によく似合う。高架橋が降りていく先に、山麓駅の駅舎があった。高架橋と同じ煉瓦素材を使い、木組みの装飾を施した、小ぶりながら趣のある建物だ。

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(左)山麓駅の入口
(右)駅舎は小ぶりながら趣のある建物
 

鉄道は夏のシーズン中(4月~10月)、毎日9時から20時まで15分おきに運行している(下注1)。バスと同じく、市が出資するESWE交通(下注2)の路線だが、市内の運賃ゾーンには含まれない。窓口で乗車券(大人片道4ユーロ、往復5ユーロ)とともに、絵葉書や解説書を買い込んで、ホームに出た。まだ朝早いので、客は私一人だ。

*注1 冬季(11月~3月)は、需要が少なく、水が凍結する可能性もあるため、全面運休になる。
*注2 ESWE(エスヴェー、SWと同じ発音)の名は、Stadt Wiesbaden(ヴィースバーデン市)の頭文字を採ったもの。

切妻屋根の下、鮮やかな黄色の地に青で模様を描いた車両が据え付けられている。片側4扉、内部はコンパートメントで、木製ベンチが枕木方向に並ぶ。車端のデッキにも乗車できるが、収容人数は全部で上り(山上方向)40名、下り50名限りで、定員を満たした時点で、次の便を待たなければならない。

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山麓駅ホームで客待ちする古典車両
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(左)山側の車端デッキは広め
(右)内部は木製ベンチのコンパートメント
 

上限が定められているのは、駆動機構に関係がある。実際、ウォーターバラスト方式とは、どのようなものだろうか。

2台の車両はちょうど井戸の釣瓶のように、山上駅にある固定滑車を介してケーブルで接続されている。車両の床下、車軸と車軸の間に水タンクが備わっている。運行にあたって、山上駅にいる車両のタンクに水を注ぎ、山麓駅の車両からは水を抜く。この状態でブレーキを解除すると、質量差から重力が作用し、山上駅の車両は勾配線路を下り始める。同時に、ケーブルでつながれた山麓駅の車両は引き上げられる。これが基本的な原理だ。

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鉄道の模式図、左上には焼失して現存しない山上ホテルも
これは駅舎の案内板を撮影したものだが、原図は山麓駅の鉄道博物館(後述)に展示
 

しかし、実際の運行では様々な条件が加わる。たとえば、必要なバラスト水は、車両とケーブルの自重に加えて、乗客数にも依存するので、山麓駅からも人数の報告を受けて、山上駅で注入する水量を毎回調節しなければならない。タンクの容量は7立方m(7キロリットル)あり、側面の水位計に、80リットルを1単位(1人分)と換算して目盛りが刻んである。

また、線路勾配は一定ではないし、走るにつれて滑車から車両までのケーブルの長さ、すなわち自重も変化していく。それで、許容速度を超過しないよう、適切なブレーキ操作が要求される。2本の走行レールの中間に、梯子状のリッゲンバッハ式ラックレール(歯竿)が設置されているのはそのためで、車両の前後の車軸に取り付けられたピニオン(歯車)がこれと常に噛み合っている。

デッキに立つ乗務員(制動手)がハンドブレーキを操作すると、下側のピニオンに軸ブレーキがかかる。さらに速度が3割超過した場合、上側のピニオンが遠心ブレーキでブロックされる。ケーブルに緩みや断裂が発生したときも、これが作用して確実に停止できる仕組みになっている。

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ハンドブレーキで速度を調節しながら下る
 

19世紀の作りとはいえ、水の重りで動く鉄道は、理想的なエコシステムだ。しかし実際に山上で、15分ごとに最大7キロリットルの水を確保するのは容易ではない。それで、山麓駅に到着した車両から排出された水は、電気ポンプで山上駅の貯水槽に戻され、再利用されており、そこだけは電力に頼らざるを得ない。ちなみに、1916年までは蒸気機関でポンプを動かしていたので、古い写真では、高架橋のたもとに、そのための高い煙突が写っている。

1888年の開通以来、ネロベルク鉄道はこのスタイルで130年を生き永らえてきた(下注)。その間に、同じ方式を採用していた他の鉄道は、大半が電気駆動に転換された。確かに水の調達は安価だが、反面、冬季は凍結するため運行が困難で、注水・排水にかかる時間や水量調節の手間を考えると頻繁運転には向いていない。さらに、水を積むことで軸重(車軸にかかる重量)が重くなり、軌道が傷みやすく保守費用がかかる点も不利だった。

*注 ウォーターバラスト方式で、ブレーキにリッゲンバッハ式ラックレールを使う鋼索鉄道の先駆けは、スイス、ブリエンツ湖畔にあるギースバッハ鉄道 Giessbachbahn(1879年開通、1948年電気駆動に転換)とされる。ドイツでは、バート・エムス Bad Ems のマールベルク鉄道 Malbergbahn(1886年開通、1979年廃止)が最も早い。

実際にネロベルク鉄道でも、公営化された後の1939年に、市が大型車両の導入に合わせて電気運転への転換工事を発注している。ところが、折悪しく第二次世界大戦が勃発し、作業は中断された。戦後は逆に希少性が評価されて、積極的な保存策が講じられてきた。老朽化した車両や施設の更新が、原形を尊重しながら行われ、1988年には州の工学文化財にも認定されている。

さて、話を山麓駅のホームに戻そう。結局、他に客は現れなかった。乗務員氏がトランシーバーで山上駅と連絡をとり、9時15分、ケーブルカーは静かにホームを離れた。まずは、会社のシンボルカラーである青と橙の旗がはためく高架橋区間だ。渡り終えると、周りは森に包まれ、勾配も険しくなる。

改めて観察すると、走行レールは3本しかない。中央のレールは、上下車両が共用しているのだ。と思う間もなく、中央レールが二手に分かれ、中間部の行き違い区間に入った。下っていく車両を見送ると、進行方向右側の視界が急に開け、生垣越しにヴィースバーデン市街が望める。しかし、すぐにまた森が復活し、そのまま山上駅のホームに到着した。乗車時間はわずか3分半だ。

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(左)高架橋を渡る。走行レール3本の間にラックレールが並ぶ
(右)中間部で山麓行きと行き違い
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生垣越しにヴィースバーデン市街の眺望
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(左)森の中の山上駅
(右)山上駅入口、右の道を行けば歩いて麓へ降りられる
 

すかさず始まった注水の音を聞きながら、駅を後にした。石畳道が、芝生の広がる山上公園 Bergpark に通じている。ここにはかつて、1881年築の立派なホテルがあったのだが、1986年に火災で損壊してしまった。中央にあった塔の煉瓦部分のみが保存され、現在ガーデンレストランに使用されている。一方、古典庭園の点景に使われるような古代様式のモノプテロス Monopteros(下注)も目を引く。周りの木々が大きくなかった頃は、麓からの目印だったのだろう。

*注 モノプテロスは、壁がなく、巡らせた列柱で天井を支える構造の神殿建築。円形神殿。

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山上公園
(左)旧 ホテルの塔を利用したガーデンレストラン
(右)モノプテロス
 

ところで、ネロベルクの名を聞くと、ローマ期に遡る町の歴史からの連想で、つい皇帝ネロ Nero を想像してしまう。だが、実際には何の関係もないそうだ。16世紀の古文書に、(町の)後ろの山という意味で Ersberg、Mersberg の地名が記されており、それが、Nersberg、Neroberg と転訛したに過ぎないという。

モノプテロスから見える森の切れ間を少し下ると、レーヴェンテラッセ Löwenterrasse(ライオンテラスの意)に出る。名のとおり、2基のライオン像が睨みを利かせる展望台だ。ここからは、斜面を駆け降りる葡萄畑と、その先に、緑の多い北東部の高級住宅地やヴィースバーデンの中心街が一望になる。

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展望台レーヴェンテラッセ
 

眺めを楽しんだら、後は歩いて下山することにしよう。駅の脇から明瞭な道がついているので、山中とはいえ迷うことなく降りられる。途中で、さっき車窓から見えた眺望区間に立ち寄ってみたが、線路の両側に金網が張り巡らされていた。高い脚立でもあればともかく、網の間からぎこちなく撮るしか方法がない。

山麓駅に戻ったときには、10時15分発の便が発車するところだった。1時間前の空きっぷりが嘘のように、車内は満席で、デッキに立つ人もいる。なるほど、これなら15分間隔で運行する意味がある。盛況ぶりに納得しながら、朝の陽を浴びて滑るように高架橋を上っていく古典車両を見送った。

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賑わう10時台の山上行き
 

なお、山麓駅舎のすぐそばに残る旧 化粧室小屋 Toilettenhäuschen が、小さな鉄道博物館になっている。車両の模型と設計図、当時の写真や備品などが展示してあり、ネロベルク鉄道のことをより深く知るために、訪れることをお勧めしたい。

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旧 化粧室を改装した鉄道博物館
(左)外観
(右)内部展示。車両模型の下にあるのはブレーキシュー
 

本稿は、Klaus Kopp "Die Nerobergbahn - Wiesbadens Drahtseil-Zahnstangenbahn aus dem Dreikaiserjahr 1888" 2. aktualisierte und ergänzte Auflage, Thorsten Reiß Verlag, 2013 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ネロベルク鉄道(公式サイト) http://www.eswe-verkehr.de/nerobergbahn

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 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

2018年9月 3日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) II

車掌氏からもらった火山急行 Vulkan-Express の沿線案内は続く("Tour-Info on Brohltalbahn" 英語版を和訳、内容一部略)。

「私たちの旅は、標高67mのブロールBEで始まります。ここに鉄道の本部があり、絵のような小さな駅舎、側線、機関庫、修理工場があります。ここで機関車と客車は保守され、修理されています。

駅を勾配で離れると、すぐに線路はブロールバッハの谷へ左折し、続く12kmの間それに沿って走ります。少し行くと、初めて主要道を横断し、すぐに鉄橋でブロールバッハ Brohlbach を渡ります。線路は主要道と並行しており、時速20kmで安定して走るので、追い越していく多くのドライバーに手を振るチャンスがあります。機関車の警笛がドライバーに、踏切で停止するよう促すでしょう。」

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整備工場の前の蒸気機関車 11sm
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ブロールバッハの谷を行く火山急行(帰路撮影)
 

「もう少し上り、小川を渡ると、近くの城の名にちなんだシュヴェッペンブルク Schweppenburg 停留所(下注)に着きます。続いて、今でもトウモロコシを粉に挽くのに水力を使用する数少ない製粉所の一つ、モーゼンミューレ Mosenmühle があります。テーニスシュタイン鉱泉 Tönissteiner Sprudel の看板は、ローマ人が既に2千年前に使っていたドイツ最古の鉱泉の一つへ行く道を示しています。」

*注 正式名はシュヴェッペンブルク・ハイルブルンネン Schweppenburg-Heilbrunnen。リクエストストップにつき、実際には通過することが多い。後述のヴァイラー Weiler とブレンク Brenk も同じ。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

「ここで谷が狭まり、勾配が1:40(25‰)に高まります。エンジン音からそれが聞き取れ、速度の低下に気づくはずです。約1km進んだ後、谷の高みにある次の停留場バート・テーニスシュタイン Bad Tönisstein で停まります。小さな緑色のブリキ小屋が、列車を待つ旅人に休む場所を提供します。谷の反対側に、柔らかい凝灰岩に掘られたいくつかの洞穴が見えますが、この地質は、ラーハ湖火山 Laacher See Vulkan の激しい噴火の後(下注1)、谷を巻き下りてきた火山灰がとどまってここに堆積したものです。柔らかい石は最初ローマ人が建築用の石に用いましたが、粉砕すれば、水中で硬化するコンクリートとして使えます(下注2)。」

*注1 爆発により火山は陥没し、カルデラ湖である現在のラーハ湖 Laacher See が生じた。ブルクブロールの南5kmに位置するこの湖は、面積3.3平方kmでアイフェル最大。
*注2 トラス Trass と呼ばれる特産の凝灰岩で、特にオランダで干拓事業に用いられた。

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(左)バート・テーニスシュタイン停留所の緑色の待合所
(右)テーニスシュタイン高架橋を渡る
 

「カーブを回り、着実に上るとすぐ、長さ120m、高さ12mの『テーニスシュタイン高架橋 Tönisstein Viadukt』で再び谷を渡り、いったん長さ95mのトンネルに潜ります(下注)。さらに少し上ると、標高145mのブルクブロール Burgbrohl 駅に着きます。駅舎は、地元産の石材とハーフティンバーの塔部から造られ、一部にスレートを葺いた、路線で最も美しいものです。

短時間停車した後、また上り、谷のへりに沿って家並みの裏手を進むと、向こう側に古城のそびえるブルクブロールの村を見渡すことができます。」

*注 テーニスシュタイン高架橋は路線で最大規模の高架橋で、蒸気列車の撮影ポイントでもある。また、テーニスシュタイントンネルは路線で唯一のもの。

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(左)テーニスシュタイン高架橋、列車の最後尾から撮影
(右)渡り終えると路線唯一のテーニスシュタイントンネル
 

「次はヴァイラー Weiler に停車します。ここにある側線は、巨大なヘルヘンベルク Herchenberg の採石場が使っていたかつて非常に多忙だった積み出し駅の唯一の忘れ形見です。ここから谷が広がり、遠方にもう火山起源のアイフェル山地の丸い山頂が見えています。A61号線を載せる巨大な道路橋の下を通ります。」

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(左)見栄えのするブルクブロール駅舎
(右)A61号線の高架橋の下を通る
 

「右手、その隣に高さ340mのバウゼンベルク Bausenberg のクレーターがあります。約14万年前のもので、ヨーロッパで最もよく保存された馬蹄形の火口です。ニーダーツィッセン Niederzissen(下注)を通り、しばらく主要道と小川に沿ってオーバーツィッセン Oberzissen へ進んでいくと、アイフェルの高い山々に囲まれた畑や牧草地や小さな森のある美しい田園風景が楽しめます。」

*注 ニーダーツィッセンは往路の休憩地で、時刻表では7分停車。通常施錠されている駅のトイレがこのときだけ開放される。

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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

「オーバーツィッセン駅を発車後、この路線が山岳鉄道と呼ばれる理由を実感することができるでしょう。というのは、鋭い左カーブで谷を離れ、美しい3径間のアーチ橋で通りをまたぎ、最後の、そして最も壮大な旅の区間にさしかかるからです。勾配は、続く5.5kmの大部分で 1:20(50‰)と険しくなります。1934年までここはラック鉄道でしたが、より強力なエンジンによってラックなしで上れるようになりました(下注)。」

*注 開通時はアプト式(2枚レール)ラック区間だったが、マレー式機関車や旅客輸送用の気動車の導入により、ラックレールは1934年に撤去された。

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(左)ニーダーツィッセンは往路の休憩地
(右)オーバーツィッセンの町を後にして、50‰の急勾配に挑む
 

「それが見えるとともに、エンジンが必死に働いているのが聞こえてきます。速度は徒歩並みに落ちますが、これは、ほかにはないアイフェルの田舎、畑や牧草地や森がゆっくりと客車の窓を通り過ぎるのを眺める時間を与えてくれます。列車の騒音で鹿がたいてい逃げていく一方で、線路のそばに放たれている馬はそれに慣れています。

右手には、古い火山の丘の上にオールブリュック城 Burg Olbrück が見えます。それは975年に遡り、何度か増築されました。フォン・ヴィート伯爵 Graf von Wied によって建てられたこの城は、1689年にフランス人によって破壊され、その後は地元民が石採り場として使っていました。2000年に城の欠損部が復元されて、今では巨大な塔に登り、上から壮大な景色を楽しむことができます。晴れた日には約50km離れたケルン大聖堂が見えるのです!!」

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古火山に立つオールブリュック城と麓の村ハイン Hain
 

「列車は3km上った後、ブレンク Brenk で側線と採石場の建物を通過します(下注)。ここではフォノライトが採掘されています。火山岩は粉砕されて細粒となり、コンテナでガラス工場に出荷されて、高品質のガラスの生産に使われます。利点の一つは融点を下げることで、コスト削減に役立ちます。採石場は、路線上の定期貨物輸送で唯一残っている顧客です。

*注 ブレンクの採石場はシェルコプフ Schellkopf という火山をまるごと採掘しており、すでに山の形を成していない。乱開発を防止するため、他の火山群は自然保護区に指定されている。

もうひと踏ん張りです! 美しい森の中を少し上り、それから高い築堤で谷を渡り、木々が列をなす切通しを抜けて再び開けた土地へ出ていきます。警笛の爆音が、17.5kmの旅を終えて標高465mの終着駅エンゲルン Engeln に到着したことを伝えてくれます。」

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(左)複線に見えるのはブレンク貨物駅の側線
(右)木々が列をなす切通しを抜ける。終点まであと少し
 

「ここが路線の終点ですが、かつてはケンペニッヒ Kempenich の村まであと5km(下注)走っていました。残念ながら、その区間の線路は1974年に撤去されました。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、エンゲルン~ケンペニッヒ間は6.32km、廃止日が1974年10月1日で、撤去は1976年としている。

エンゲルンからは、バスで旅を続けるか、標識の整ったハイキングルートを歩くか、あるいは駅のビュッフェで短い休憩と軽食をとった後、起点のブロール駅に列車で戻りましょう。」

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エンゲルン駅
(左)乗客は火山食堂で休憩
(右)すぐに機回し作業が始まる
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折返しの発車準備完了

そのエンゲルンでは折返しの発車まで30分の待ち時間があり、その間に機回し作業が行われる。駅舎は1997年に改築された木造の平屋で、ブルカーンシュトゥーベ(火山食堂) Vulkanstube と名付けられた軽食堂が開いている。乗客はここで休憩をとることができる。

駅の周囲は緩やかにうねる農地が広がり、人家は、西へ少し行った丘の麓にあるエンゲルンの小さな集落だけだ。地形的には高原の分水界で、なぜここが終点なのか、不思議に思う人もいるだろう。ケンペニッヒへの末端区間が廃止されたとき、ここに線路が残されたのは、一つ手前のブレンクでフォノライト(響岩)の貨物扱いが継続中だったからだ。ブレンクは急勾配区間に挟まれて手狭なため、坂を上り切ったエンゲルンを折返し駅にしたようだ。

線路に沿ってケンペニッヒ方へ少し歩いてみる。線路は駅舎から200mほどで途絶え、跡地はいったん畑に取り込まれた後、農道に姿を変えて続いていた。北を望むと、火山起源ののっぺりとした緑の丘(エンゲルナー・コプフ Engelner Kopf)を背景に、菜の花が満開で畑を黄色に染めている。のどかな春の景色に心が和んだ。

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エンゲルン駅周辺
火山起源の丘を前にして黄色に染まる菜種畑
 

復路では、予定通りオーバーツィッセンで蒸気機関車 11sm に引き継がれて、ブロールに着いた。一仕事終えた蒸機は、側線を伝ってエンゲルン方にある修理工場の前まで行き、石炭と水の補給を受ける。工場の扉は開放されていて、見学が可能だ。4軸ボギーの大型ディーゼル機関車 D5 や、改修中の気動車 VT30 がこの中にいた。

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ブロール駅構内で、石炭の補給を受ける蒸気機関車 11sm
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ブロール駅の整備工場
(左)大型ディーゼル機関車 D5
(右)気動車 VT30 は改修中

工場の手前から、ライン河港へ行く支線が右へ急カーブしていく。このいわゆる港線 Hafenstercke は、河畔まで実質500mほどの間に、DB線、連邦道と、難しい障害物をまるで軽業師のようにクリアしていくのがおもしろい。ブロールタール鉄道探訪の最後に、鉄道模型顔負けのこのユニークな軌跡を歩いて追ってみた。

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ブロール付近の1:25,000地形図
(基図は GeoBasisViewer RLP から取得)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

まず線路はS字カーブを切りながら、高架に上がった連邦道412号線と平面交差する。次に、その高度を維持したまま、駅前通り Bahnhofstraße とDB線を乗り越える。高架橋の橋台には鉄道名の立体文字板が誇らしげに掲げられ、DB線を走る列車からも一瞬見える。かつてこれは、仕込まれたネオン管で光っていたらしい。

DB線に並行して下り勾配を下りたところが、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof のヤードだ。標準軌のDB線と接続しているので、線路は大部分3線軌条化されている。構内北端にはブロールタール鉄道の機関庫の建物も残っているが、もはや使われていない。

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(左)工場の手前で右へ分かれていく港線
(右)連邦道412号線と平面交差(ブロール方を望む)
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(左)右上写真の反対側を望む。下路トラス橋はDB線を越えている
(右)左写真のトラス橋を412号線の跨線橋から望む
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(左)トラス橋の橋台にある鉄道名の立体文字板
(右)ブロール積替駅、構内はほとんど3線軌条
 

港へ向かう線路は、構内の北東で分岐する。ここでもS字を切りながら、通行量の多いライン左岸の主要道、連邦道9号線を大胆にも平面で横断し、河畔に出る。岸辺のビアガーデンの前に低いプラットホームがあり、「ブロール・ラインアンラーゲン(ライン埠頭)Brohl-Rheinanlagen」と記された駅名標が立っていた。毎週火曜日になると、ここに火山急行の特別列車が停まり、ライン川の観光船から降りてきた客を迎えるのだ。訪れた日曜日はビアガーデンが大賑わいで、ホームはすっかり客用駐車場にされていたが…。

3線軌条は、港の護岸に沿ってなおも北へ延び、ブロール・ハーフェン(港)Brohl Hafen の貨物駅に達する。粉塵の飛散を防ぐため、鉄道が運ぶフォノライトはコンテナ方式に移り、ブロール積替駅でトラックに引き継がれるようになった。それ以来、港の駅は仕事を失い、吹き通るラインの川風が、静かな水面にさざ波を立てるばかりだ。

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(左)港へ向かう3線軌条、連邦道9号線と平面交差
(右)ライン河畔を走る
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ラインアンラーゲン(ライン埠頭)停留所
(左)プラットホームと駅名標(画面左端)
(右)河岸には、火山急行のロゴを掲げたライン川観光船の船着き場が
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(左)3線軌条は河港へ延びる
(右)静まりかえるブロール・ハーフェン(ライン河港)
 

■参考サイト
火山急行 http://vulkan-express.de/

★本ブログ内の関連記事
 火山急行(ブロールタール鉄道) I

 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 ハルツ狭軌鉄道 II-ブロッケン線
 ハルツ狭軌鉄道 III-ハルツ横断線
 ハルツ狭軌鉄道 IV-ゼルケタール線

2018年8月27日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) I

ブロールタール鉄道 Brohltalbahn

本線(谷線 Talstrecke) ブロール Brohl BE ~エンゲルン Engeln 間 17.51km
 軌間1000mm、非電化、最急勾配50‰、1901年開通

支線(港線 Hafenstrecke) ブロール~ブロール・ハーフェン Brohl Hafen 間 1.95km
 軌間1000m、標準軌との3線軌条区間あり、1904年開通

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ブロールBE駅の火山急行
先頭に立つのは蒸気機関車 11sm
 
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DB(ドイツ鉄道)ライン左岸線の、普通列車しか停まらない小駅から、その狭軌鉄道は出発する。ブロールバッハ Brohlbach という川が流れる谷を遡っていくので、路線名はブロールタール鉄道 Brohltalbahn だが、列車のブランドは「ヴルカーン・エクスプレス Vulkan-Express」、直訳すると火山急行だ。

イタリアではなくて、ドイツにも火山がある? と訝しく思う人がいるかもしれない。実はこのライン川からベルギー、ルクセンブルク国境にかけてのアイフェル Eifel 地方は、第三紀の5000万年前から火山活動が続いていて、地表はその噴出物で覆われている。地形図をざっと眺めるだけで、火山起源の円錐丘やマールの湖(下注)が至るところに見つかる。マール Maar という地理用語自体、アイフェル方言で湖を指す言葉(標準ドイツ語では Meer)から採られたものだ。

*注 マールは、爆発的噴火により生じた、周囲に環状丘を持たない円形火口をいう。水を湛えるマールは、伊豆半島の一碧湖や男鹿半島の一ノ目潟などわが国にも見られる。

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火山起源の円錐丘に建つ城(オールブリュック城)を背景に走る火山急行
Photo by Simeon Langenbahn from http://vulkan-express.de/
 

火山急行は、そのようなヴルカーンアイフェル(アイフェル火山帯)Vulkaneifel の高みへと上っていく列車だ。命名はスイスの有名な観光列車、氷河急行 Glacier Express に倣ったのだが、急行と言いながら曲線と勾配のきつい狭軌線をのんびり走るところは、本家のそれに似ていないでもない。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

火山急行の舞台となるブロールタール鉄道は、メーターゲージ、非電化の小鉄道だ。ライン河畔の村ブロールを起点に、谷を遡る本線(谷線 Talstrecke)と、河港へ行く支線(港線 Hafenstrecke)から構成される。

本線は、ブロールから終点のエンゲルン Engeln まで17.5kmを結び、1901年に先行開通した。最奥部のオーバーツィッセン Oberzissen とエンゲルンの間は、50‰の急勾配が5.5kmもの間続く難所だ。開通当初はアプト式(2枚レール)のラック区間とされ、1934年から粘着式運転に切り替えられた。また、1902年にはエンゲルンから先、ケンペニッヒ Kempenich まで6.3kmが延長されたが、残念ながら利用の低迷により、1974年に廃止されて今は無い。

一方、支線はブロールからブロール・ハーフェン(ブロール港)Brohl Hafen に通じる1.95kmの短い路線で、1904年に開通している。中間部には、国鉄(のちDB)との間で貨物を積み替えるヤード、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof が造られた。標準軌貨車を直通させるための3線軌条が1933年に積替駅と港の間に設置され、今も残っている(下注)。

*注 ブロールタール鉄道の本線方面に標準軌貨車を直通させるために、他の狭軌鉄道と同様、ロールボック(1928年まで)やロールワーゲン(1978年まで)も使われていた。

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火山急行を牽いてテーニスシュタイン高架橋を渡る蒸機
Photo by Walter Brück from http://vulkan-express.de/
 

ブロールタール鉄道の敷設目的は貨物輸送で、沿線で採掘された石材を運び出し、国鉄やラインの川船に引き渡すことだった。開通以来、トラス Trass(特産の凝灰岩)の切石やモルタルに使う細骨材、あるいはガラス生産の添加剤として使われるフォノライト(響岩)など、有用資源が鉄道を通して出荷されてきた。

他方、旅客輸送は、人口の少ない山間地域のため、当初から細々としたもので、その後の経済不況や戦争の間に、休止と再開を繰り返した。そして車両の老朽化などを理由に1961年9月に一般旅客列車は廃止され、バスに置き換えられた。

その後、鉄道に残っていた客車を使って、1977年から観光客向けの列車が運行されるようになる。これが火山急行の始まりだ。この間も貨物輸送は続いていたが、道路輸送への転換や他国産との競合による操業中止などで輸送量が減少し、残る顧客はフォノライトだけになっていた。

鉄道は1987年に廃止の危機に瀕した。このときは持ちこたえたものの、1991年に会社は再度廃止方針を表明する。だが最終的に、観光資源としての可能性を評価する地元自治体から新たな出資を得て、存続が決まった。

1995年には裁判所から、粉塵公害を理由に河港での積替え作業を禁止する裁定が出たことで、フォノライト輸送が中断する事態も起きた。これはコンテナ方式に変更し、ブロールでトラックに積み替える方法をとることで、4年後の1999年に再開された。

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ブロール港の静かな水面
堤防の右はライン川
 

現在、鉄道は上下分離方式で運営され、インフラはブロールタール連合自治体 Verbandsgemeinde Brohltal が、運行事業はボランティアベースの利益共同体が設立した運行会社(ブロールタール狭軌鉄道運行会社 Brohltal-Schmalspureisenbahn Betriebs-GmbH)が、それぞれ責任を負うことになっている。

ドイツにも保存鉄道は相当数あるが、月1回とか日曜祝日のみなど、運行日が限定されているものが多い。その中で火山急行はシーズン中、特定曜日を除き毎日運行していて、旅行者にとって比較的訪問日程が取りやすい鉄道と言えるだろう。ただし、運行本数は少なく、最大でも一日3往復しかない(下注)。所要時間は、往路が一方的な上り坂のため90分、復路は下りで72分だ。

*注 ダイヤは日ごとに変化するので、公式サイトで前もって調べておく必要がある。

列車を牽くのは基本的にディーゼル機関車だが、2018年のダイヤでは、シーズン中の一部の土・日曜に、鉄道の虎の子的存在であるマレー式蒸気機関車 11sm(下注)が登場する。11sm は1906年製で、1960年代までこの路線で定期列車を牽いていたオリジナル機だ。1966年の引退後、ドイツ鉄道史協会DGEGに引き取られ、長らく博物館で静態展示されていたが、買い戻されて長期にわたる解体修理の上、2015年に現役に復帰した。

*注 マレー式蒸気機関車は、動輪群を前後2組配置し、後部はボイラーに固定、前部は関節でつないで可動式にしたもので、牽引力が高く、急勾配・急曲線に適応する。なお、車両番号の sm は重量マレー schwere Mallet の略。

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マレー式蒸気機関車 11sm
 

蒸気機関車は、負担の大きい急勾配区間には入らず、ブロール~オーバーツィッセン間を往復している。たとえば午前中の便では、ブロール10時30分発の二番列車を牽いてオーバーツィッセンまで行く(11時27分着)。そこへ、ディーゼル牽引の一番列車がエンゲルンから戻ってくる(11時34分)ので、その客車を自らの列車の後ろに併結する。こうして長い編成となった列車を従え、11時55分、蒸気機関車はブロールへ向け帰っていくのだ。ちなみに、列車を蒸機に託してフリーになったディーゼル機関車は、エンゲルン行き二番列車(12時00分発)を牽いて、再び急坂を引き返していく。

一方、港線は基本的に貨物専用だが、火曜日に限りブロール・ライン埠頭 Brohl Rheinanlagen の停留所まで旅客列車が運行され、ライン川の観光船と連絡している。

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オーバーツィッセンでの交換風景
(左)復路の一番列車が駅に到着したとき、すでに蒸機は帰り支度を整えていた
(右)ディーゼルが解結され、この後蒸機が転線して併結作業に入る
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長い編成でブロールに戻る火山急行
復路の蒸機は後退運転

2018年5月の旅行中、日曜日に時間が空いたので、火山急行に乗りに出かけた。朝9時10分発の一番列車に間に合うように、ライン左岸線のブロールでRB(普通列車)を降りる。DB駅前の狭い広場から数十段の階段を上ったところが、ブロールタール鉄道の起点駅だ。DBと区別するために、ブロールタール鉄道(会社)Brohltal-Eisenbahn(-Gesellschaft) の頭文字を採って、ブロールBE駅と書かれる。

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ブロールBE 駅
(左)DB駅前からBE構内へ上る階段
(右)駅舎のチケットカウンター
 
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(左)エンゲルン往復の乗車券
 (右)蒸機追加料金券
 

発車時刻が迫っているので、さっそく駅舎に入って切符を買い求めた。2等往復13ユーロだが、先述のとおり、復路が蒸機列車になるため、その追加料金3ユーロが必要だ。

ホームには、乗るべき列車がすでに待機している。急勾配に備えてディーゼル機関車は重連編成だ。このD1とD2は、1965年オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製の50歳を超えた古参機だが、まだ頑張っている。港線で標準軌貨車と連結できるように、先頭のバッファーの位置を狭軌線路の中心線からずらしてあるのが特徴だ。

機関車の次は、自転車その他の手荷物が積み込まれた有蓋貨車、その後に客車が3両つながっている。1両目はスイスのBOB(ベルナー・オーバーラント鉄道)の旧車で、内部は1等室と2等室に分かれ、窓下のテーブルにBOBの路線図がそのまま残る。2両目は食堂車(といっても軽食と飲み物)、3両目は車長の短いベンチシートの2軸客車、いずれも、車端のデッキから乗降する形式の古典車両だ。

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ディーゼル機関車D1
バッファーの位置が中心線からずれている
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(左)有蓋貨車は主として自転車運搬用
(右)BOBの旧型客車、右1/3は1等室
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(左)BOB客車の1等室
(右)窓下テーブルに路線図が残る
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2軸客車はレトロなベンチシート
 

観光バスからの客が乗り込んだので、BOB車は賑わっていたが、後ろの車両はガラガラで、週末旅行で来たというオランダ人の鉄道ファンと、地元の親子連れが1組だけだ。車掌が巡回してきた。どこから来たのかを聞きとると、日本語版がないのは残念だが、と言いながら、英語で書かれた沿線案内をくれた。

「乗客のみなさま、1901年に正式開業した『火山急行』にご乗車ありがとうございます! ドイツに残る数少ないメーターゲージ列車の一つで、おそらく最も急勾配の列車の旅をお楽しみください。

乗車中にご体験いただけるとおり、『ブロールタール鉄道』は本物の山岳鉄道です! 興味深いことに、あなたは『火山公園 Vulkan Park(下注)』の一部を通って旅しています。アイフェル山地のこの地域では、鉱泉のような『熱い過去 hot past』の多くの遺物や火山活動のあらゆる種類の痕跡を見つけることができます…。」

注:正式名は、アイフェル火山帯自然公園 Naturpark Vulkaneifel。

読んでみるとけっこう充実した内容で、車窓風景の理解に役立った。次回は、この沿線案内を参照しながら、エンゲルンまで旅することにしよう。

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一番列車まもなく出発
 

■参考サイト
火山急行(公式サイト) http://vulkan-express.de/

★本ブログ内の関連記事
 火山急行(ブロールタール鉄道) II
 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車
 ハルツ狭軌鉄道 I-山麓の町ヴェルニゲローデへ
 ハルツ狭軌鉄道 II-ブロッケン線

2018年7月20日 (金)

北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

(旧)シュピーカーオーク島鉄道 Spiekerooger Inselbahn
 駅 Bahnhof ~埠頭 Anleger 3.5km
 非電化、軌間 1000mm
 1885年開通(馬車鉄道)、1949年ディーゼル化、1981年廃止

(現)保存馬車鉄道 Museumspferdebahn
 延長1.0km、軌間 1000mm、1981年開通

「緑の島 grüne Insel」。大きく育った樹木が村の家並みを覆うシュピーカーオーク Spiekeroog は、好んでそう呼ばれてきた。島は、ランゲオークとヴァンガーオーゲの間に位置する。面積は18平方kmで、ランゲオークよりやや小さいだけだが、人口は800人に満たない(2016年)。年間旅行者数も東フリジアの有人7島中、バルトルムに次いで少なく(2016年、94,055人)、それが、静けさを求める人にとって至高の場所とされるゆえんだ。

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緑に包まれるシュピーカーオーク村の中心部
右奥の建物は村役場 Rathaus
 

その環境を守るために、島では徹底した交通政策がとられている。カーフリー(下注1)はいうまでもない。自転車にすら制限が課されていて、村(下注2)の中心や北岸のビーチに通じる一部の道は走行禁止だ。旅行者向けのレンタサイクルは存在せず、本土から持込む場合は30.90ユーロが徴収される。居住圏はせいぜい2km四方なので、島内の移動は歩きが前提になっている。

*注1 カーフリーのどの島もそうだが、業務用電動車は走っている。
*注2 小さな自治体 Gemeinde なので、本稿では「村」の語を使用する。

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シュピーカーオーク島の1:50,000地形図
(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018
 

そのような島にも、ほんの30年前までディーゼル動力の列車が走っていた。他の島と同じように、フェリーが着く旧埠頭と村の入口との間3.5kmを結んでいたのだ。さらに驚くことに、鉄道が導入されたのは1885年で、東フリジア諸島ではボルクムに次いで早かった。もとよりそれは馬車鉄道で、村の中心部からヴェストエント Westend(西端の意)に開設された紳士用ビーチ Herrenbadestrand(下注)まで長さ1.6km、1000mm軌間の鉄道だった。その上を、馬に牽かれた華奢な客車がころころと走った。目的からして、夏の間だけの運行だった。

*注 当時、紳士用ビーチとは長さ500mの緩衝地帯を隔てて婦人用ビーチ Damenbadestrand があり、そこへ向かうダーメンパート Damenpad(婦人の小道の意)の入口にも、馬車鉄道の停留所が設けられた。

1891年、南の干潟に新しい桟橋が開かれると、上記路線の途中で分岐してそこに達する支線が、翌92年に開通する。これが航路接続の始まりだ。初期の線路は干潟の上に直接敷かれており、船が着く満潮時には、馬は胴体まで、車両はしばしば車輪の上まで、水に漬かっていた。

一方、村では1907~08年に正式の駅舎が建てられたが、狭い街路の併用軌道は通行の妨げになった。それで1924年にルートを短縮し、起点が村の西端に移された。その後、ヴェストエントのビーチが海岸浸食を受けて村の北側に移転したため、ビーチ列車は1931年に運行を取り止めたが、桟橋との連絡は継続された。いつしかシュピーカーオーク島鉄道は、ドイツで定期運行する最後の馬車鉄道になっていた。

第二次世界大戦後はさすがに増加する訪問客をさばききれなくなり、1949年、新しい埠頭の建設に合わせて、ついにエンジン駆動に転換される。現在ハルレジール Harlesiel の港で静態展示されている小型ディーゼル機関車(下注1)は、このときの導入機だ。同時にルートも変更され、当初の終点ヴェストエントの手前で分岐して、西側の砂丘沿いに南下するようになった。干潟では、初めて線路が杭桁 Pfahljoch(下注2)の上に置かれ、列車は桟橋に直接乗り入れた。

*注1 「北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編」で言及している。
*注2 直訳で「杭桁」としたが、干潟に打ち込んだ木杭の上に梁を渡した構築物のこと。

1960年代に入ると、「赤列車 roten Zug」「緑列車 grünen Zug」と呼ばれた編成が、旅客輸送を担った。腰に赤色をまとうヴィスマール車両製造所製の中古気動車に、付随客車3両と長物車1両がつくのが「赤列車」だ。ふだんはこの列車で往復するのだが、多客期には、シェーマ社製の小型機関車が、緑色を巻いた2軸客車を牽いて応援に入った。

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(左)赤列車 roten Zug。桟橋で気動車を「機回し」中
Photo by Anton aubers at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)緑列車 grünen Zug
Photo by Drehscheibexxx at wikimedia. License: CC0 1.0
 

残念なことに、この島でディーゼル運行が行われたのは32年間に過ぎない。そのころ、常時波に洗われる桟橋や杭桁軌道は、全面改修が必要な時期に来ていた。村議会は港湾施設を同じ場所で改築するのではなく、より村に近い位置に新たに建設することを決めた。待望の新港は1981年に完成し、村の中心へ歩いて7~8分で到達できるようになった。これに伴い、鉄道は仕事を失い、同年5月29日に正式に廃止された。

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(左)本土との間を結ぶフェリー
(右)島の新港。訪問客は徒歩で村へ向かう
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(左)目抜き通りノールダーローク Noorderloog は最初の馬車鉄道ルート
(右)移転後の駅へ通じるヴェスターローク Westerloog
  左側の道が馬車鉄道跡
 

しかし、シュピーカーオークの鉄道史にはまだ続きがある。というのも、廃止を見越して、馬車鉄道を復活させる準備作業が進んでいたからだ。プフォルツハイム Pforzheim 出身で元教師のハンス・ロール Hans Roll 氏のリーダーシップにより、その計画は実現する。

車両は、シュトゥットガルト路面電車博物館協会 Verein Straßenbahnmuseum Stuttgart から16人乗りのオープン車両が調達された。線路は旧線のうち、村の駅からヴェストエントまで約1kmの区間が再利用されることになった。そして牽き馬の通路にするため、線路沿いの溝が埋められた。

*注 利用されなかった区間の軌道は撤去された。旧桟橋は長く残っていたが、最終的に2009年に撤去された。

車庫は当初、旧 貨物倉庫が使われたが、後に新築された駅舎棟に引込線と専用のスペースが設けられた。ちなみにこの貨物倉庫は、その続きで線路の北側にあった旧駅舎とともに現在、ピザレストラン「デア・バーンホーフ Der Bahnhof(駅の意)」になっている。

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(左)保存馬車鉄道の駅
  右側にささやかなホームと線路がある
(右)本日の時刻表
  当駅発15時と16時、帰着は15時50分と16時50分のみ
 

島内鉄道の黎明期を彷彿とさせるユニークな保存馬車鉄道はこうしてスタートした。しかしその歩みは常に順調とはいかず、車両を所有する協会が解散して、1997~98年の2年間、休止をやむなくされたことがある。幸い1999年に復活し、隣のランゲオーク島鉄道の改修で出た中古の資材を使って、2005~06年の冬に線路の更新も実施された。今や運行年数はディーゼル運行のそれに匹敵するまでになり、すっかり島の名物として定着している。

シュピーカーオーク観光局その他のサイトの情報を総合すれば、運行期間は4月中旬から10月中旬までだ。列車は村の駅を毎日13時、14時、15時、16時ちょうどに出発し、45分後に戻ってくる。片道12~15分程度かかるので、たとえば13時発の列車なら、西の終端(ヴェストエント)に着くのは13時15分ごろ、折り返しの出発が13時30分ごろ、村の駅への帰着は13時45分ごろになる(下注)。もちろん片道だけの乗車も可能だ。

*注 現地の案内板では、村の駅への帰着時刻を50分後と記載しており、生き物のことなので多少の時間的余裕を見込んでいるようだ。

ただし、「風と天候次第で変更がありうる」と注意書きされているように、必ずしも全便が運行されるとは限らない。実際、私が訪れた日は、上天気だったにもかかわらず、15時と16時発の列車しか設定されていなかった。13時前に勇んで駅へ行ったものの、駅舎のドアは閉ざされて、人の気配が感じられない。このまま列車を待つと本土へ帰る船に間に合わなくなってしまうため、空の線路と、囲い場でくつろぐ2頭の牽き馬を写真に収めただけで、その場を立ち去らざるを得なかった。

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かつて側線が張り巡らされていた旧駅構内
右の2頭の馬が交替で馬車を牽く
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防潮堤の外側の草原を直進する線路
 

運行状況についてウェブサイトやSNSで告知は行われておらず(下注)、島の観光パンフレットの記述も「実際の運行時刻は、駅の掲示板でご確認ください」とそっけない。考えてみれば、島の訪問者の平均滞在日数は6.43日(2016年)だ。長期滞在客の気晴らしが目的の運行なら、乗る側もそのつもりでのんびり構えるしかないのだ。

*注 ここには挙げないが、駅の掲示には、連絡先のメールアドレスと電話番号が書かれていた。

主役のいない線路の写真ばかりではつまらないので、別の日にシュピーカーオークを訪れて、運よく乗車と撮影に成功したT氏の作品をお借りした。草原を貫くか細げな線路の上を、愛らしい牽き馬に連れられて華奢なオープン客車がのどかに転がる光景を、じっくりご覧いただきたい。

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(左)出発を待つ「列車」
  エンジンは1馬力、名前はタンメ Tamme、これはフリジア語で、英語なら Tommy とのこと
(右)車内は4人掛けベンチが背中合わせに並ぶ
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(左)ヴェストエントに向けて出発
  右の線路は車庫への引込線
(右)馭者と車掌と案内人を兼ねるクリスツィアン・ロール Christian Roll 氏
  創設者の息子で、馬車鉄道の運行を引き継いだ
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陸閘 Deichschart を越えようとする「列車」
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(左)陸閘の上は恰好のお立ち台
(右)乗客に島の自然を案内していく
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(左)唯一のカーブを曲がれば終点は近い
(右)板張りのささやかなホームがあるヴェストエントに到着
 

■参考サイト
Inselbahn.de https://www.inselbahn.de/
spiekeroog.de https://www.spiekeroog.de/
シュピーカーオーク博物館協会 Museumsverein Spiekeroog
http://www.inselmuseum-spiekeroog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
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 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道
 開拓の村の馬車鉄道

2018年3月19日 (月)

ラ・ミュール鉄道、2020年に一部再開

グルノーブル Grenoble の南、マテジーヌ高原 Matheysine Plateau へ、電気機関車に牽かれて観光列車が上っていく。高原で採掘される石炭を運び出していたラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure は、本来の役割を終えて、1997年に観光鉄道に転換された。

*注 ラ・ミュール鉄道のプロフィールについては本ブログ「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。

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被災前のラ・ミュール鉄道
Photo by Alain Gavillet at wikimedia. License: CC BY 2.0

しかし、年間最大7万人が訪れていたというプティ・トラン petit train(小列車の意)の旅は、2010年10月26日に突然終了する。この日発生した山崩れで、約3,000立方メートルという大量の岩や土砂が、トンネルの入口とモンテナール湖 Lac de Monteynard を見下ろす高架橋の上に落下し、線路が完全に埋まってしまったのだ。

現場は2本のトンネルの間の短い明かり区間で、目もくらむ 高さ250m(下注)の断崖に石積みの高架橋が架かっている。土砂の除去作業をしようにも現場に近づく道路はなく、不安定になった岩肌からは小さな崩落が続いていた。復旧の見通しが立たないことから、運行を受託していたヴェオリア・トランスポール Veolia Transport は、要員を解雇し、事業から完全に手を引いた。それ以来、ラ・ミュール鉄道は全線が不通のままだ。

*注 1962年に完成したモンテナール=アヴィニョネ ダム Barrage de Monteynard-Avignonet により湛水する前は、川底から400mもの高さがある荒れた急斜面だった。なお、湖の名も正式にはモンテナール=アヴィニョネ湖 Lac de Monteynard-Avignonet。

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崩壊現場を対岸より撮影
Photo by Guillaume BOSSANT at fr.wikipedia. License: CC BY-SA 1.0

鉄道が通るイゼール県 département de l'Isère は、事業再開を目指して、2012年に委託業務の最初の入札を行った。しかし、提示の条件を満たす事業者は現れなかった。その後も再入札や個別の交渉が繰り返されたが、いずれも途中で暗礁に乗り上げた。この間、線路施設は放置され、2013年11月には架線の一部が盗まれる被害も発生した。

ところが、運行中止から7年が経とうという2017年6月になって、新たな報道があった。フランスのマスコミサイト Franceinfo から、6月29日付記事を引用させていただく(フランス語原文を和訳)。

イゼール県のラ・ミュール小列車が新しい運行事業者を見つけて2020年に再開予定
Le petit train de la Mure en Isère a trouvé un nouvel exploitant et va redémarrer en 2020

それはイゼール県きっての観光地の一つである。2010年の山崩れの後中止されたラ・ミュール小列車の運行が再開されることになった。県議会は今朝、新しい事業者の名を発表した。2020年の再開に向けて2,600万ユーロの投資が必要となる。

良いニュースは何年も前から期待されていたが、イゼール県のラ・ミュール小列車が再び走ることになった。2010年10月、巨大な地すべりが列車の走るレールを遮断していた。この木曜日、2017年6月29日、イゼール県議会は小列車を運営する代表者の名を発表した。大規模で費用のかかる作業が必要になる。最初の観光客を迎えるのは2020年の見込みである。

複雑なインフラの管理を専門とする民間管理事業者エデス Edeis は、新しい「ラ・ミュール小列車」を運営するために選ばれた。イゼール県議会議長ジャン=ピエール・バルビエ Jean-Pierre Barbier が、今朝ラ・ミュールでの記者会見の席でその名を明らかにした。

「小列車」は2020年7月に再開される予定である。ラ・ミュールとモンテナールの展望台の間15kmの路線を走ることになる。最終的には、運行中止前の年間訪問者70,000人に対して120,000人に達することが目標である。

しかし、再開の前に大規模で費用のかかる作業がある。起工式は年末までに行われる予定である。必要となる投資総額は2,600万ユーロと見積もられ、うち600万ユーロは委託先のエデスが負担することになっている。県はそれに最大1,500万ユーロを投入する。ジャン=ピエール・バルビエにとって有用な投資であり、「そうすれば、経済的観点からうまくいくと信じているのです」。

イゼール県の観光の真の花冠「ラ・ミュール小列車」は、2010年10月の山崩れ以来、運行されていない。2本のトンネルの間の線路上に数千立方メートルの岩が崩れ落ちた。被害状況を地元の制作会社が撮影している。

記事にあるモンテナールの展望台というのは、グラン・バルコン Grand balcon(大バルコニーの意)付近に新たに設置するもので、レストランが併設されるという。そこは崩落個所より800mほどラ・ミュール寄りの高架橋上で、湖の眺望がすばらしく、以前から観光列車がフォトストップのサービスをしていた。列車はそこで折り返すことになるようだ。また、途中のラ・モット・ダヴェイヤン La Motte-d'Aveillans にある鉱山イメージ博物館 Musée de la mine image の前に新たに停留所を設けるともされている。

別の記事(Transportrail 2017年9月10日付)では、さらに具体的に「2020年夏のシーズン(4~10月)にこの区間で1日当たり9往復を運行させる計画」と書かれており、その日に向けて着々と準備が進められているのは間違いない(下注)。

*注 エデス社のサイトによれば、委託契約期間は30年で、初めの3年で整備工事を行い、その後27年間、インフラを維持管理するという。
https://www.edeis.com/train-de-mure-projet-emblematique-activites-dingenierie-dexploitation-dedeis/

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2020年の運行再開区間(赤線)。図中の LANDSLIDE が崩壊地点

ただ残念なのは、これが全線復活ではないことだ。計画では、上流側のラ・ミュール~グラン・バルコン間約15kmの運行が再開されるが、その一方で、本来の起点で、SNCFアルプス線 Ligne des Alpes との接続駅であるサン・ジョルジュ・ド・コミエ St-Georges-de-Commiers までの下流区間約15kmについては、少なくとも当面は放棄される。そのため、車両保守のための施設や留置線は、ラ・ミュールに集約されるという。

確かに、崩落現場にはまったく手が付けられておらず、土砂の撤去は、足場確保の困難さ、膨大な作業量、二次災害の危険性などから見ておそらく不可能だ。列車を通すには、現場の前後にある2本のトンネルをつなげる形で、当区間を迂回するトンネルを新たに掘るしかないだろう。しかし、巨額の費用を投じて全線再開を実現できたとしても、それがさらなる利用者増に結び付くかというと、そこは疑問だ。

ヨーロッパのどの観光鉄道もそうだが、客の大半は自家用車か観光バスで来る。SNCF線への接続が復活してもその傾向が変わることはないだろう。それに、沿線はおおむね木が茂り、見通しが利く区間は意外に少ない。展望台があり、丘陵を折り返しながら峠を越えていく上部区間に比べて、乗客を喜ばせる仕掛けに欠けている。さらに、エデス社にとってみれば、全線を往来する客は時間を惜しんで、せっかく整備したグラン・バルコンのレストランを素通りしてしまう恐れがある。

案の定、Franceinfo の続報によれば、サン・ジョルジュ・ド・コミエの町長が、計画はわが町のことを忘れている、と県に対して異議を申し立てたそうだ(2017年10月24日付記事)。駅前に駐車する観光バスが消え、列車運行に関する仕事がすべてなくなり、サン・ジョルジュ・ド・コミエは片道10本のSNCF気動車が停車するだけの静かな無人駅に零落してしまった。その状況がこの先いつまで続くのかは、誰にもわからない。

★本ブログ内の関連記事
 フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う
 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

2017年10月 5日 (木)

ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後

鉄道史に残るバトルの舞台となったロイヤル峡谷 Royal Gorge は、アーカンザス川 Arkansas River がロッキー山脈からグレートプレーンズ Great Plains(大平原)に流れ出る直前に通過する地形上の隘路だ。谷は西北西方向に約10km続き、まるで鋭利なナイフで切り裂いたかのように深くて狭い。谷の深さは最高380m、幅は最も狭まるところで底部15m、頂部90mしかないという。

これほどの険しい地形はどうしてできたのだろうか。およそ100万年前、氷河期の直前に、アーカンザス川の流れる方向と交差する軸に沿って、花崗岩の地盤の隆起が始まった。それは断続的かつかなり急速なものだったが、川が水の力で河床を削るペースより速くはない。結果的に流路はその位置に保たれ、周囲が上昇していく中で相対的に谷が刻まれていった(=先行谷)。これがロイヤル峡谷になる。谷の幅は通常、長年の風化作用によって両側へ拡大していくものだが、隆起の発生が比較的最近のために、まだその段階に達しておらず、切り立った断崖が残されているのだ。

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ロイヤル峡谷
Photo by Michael Murphy at flickr.com, License: CC BY-NC-ND 2.0

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ロイヤル峡谷橋周辺
USGS 1:24,000地形図 Royal Gorge 1994年版に加筆

1880年3月に宿敵サンタフェとの間で結んだボストン協定 Treaty of Boston によって、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)はこの峡谷で路線所有権を手に入れた。険しいとは言え川沿いの通路は、隆起した台地を昇り降りするより、はるかに勾配が緩やかで、機関車に多くの荷物を運ばせることができる。峡谷を押さえたことは、コロラドの山岳地帯に路線網を拡げる突破口を得たのも同然だった。

これを梃にリオグランデは、精力的に線路を延ばし続ける。銀の都レッドヴィルはもとより、サライダ Salida で分岐してマーシャル峠 Marshall Pass を経由するルート(南回り線)で、1883年にユタ州ソルトレークシティ Salt Lake City との接続も果たした。ユタ州との連絡路はまもなく北回りのテネシートンネル Tennessee Tunnel 経由に移るが、いずれにしてもロイヤル峡谷は通らねばならず、1930年代までここは常に重要幹線であり続けた。

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1901年のリオグランデ路線図

峡谷に衰退の影が差し始めたのは、1928~34年にモファットトンネル Moffat Tunnel 経由でデンヴァーに直結する新線が完成してからだ。この路線はもともとリオグランデのライバル会社(下注)が、自力でデンヴァーとソルトレークシティを結ぶために建設を進めていた。しかし全通を果たすことなく倒産してしまったため、リオグランデが買収し、自社線に接続替えする工事を実施したのだ。デンヴァーへの距離ではこのほうがかなりの短縮になるため、多くの列車がそちらに回るようになった。

*注 デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway、別稿で詳述予定。

しかし、峡谷ルートの息の根を止めたものはそれではない。まず旅客輸送について言えば、あらゆる鉄道に共通の課題である自動車や航空機との競争だ。1967年7月26日、デンヴァー~サライダ間にわずかに残されていた1日2便の運行が終了して、旅客列車の姿が消えた。片や貨物列車はその後も運行が続いていたが、合併によって路線の所有者となったユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、1996年にコスト削減策の一つとして運行ルートの整理を発表したのだ。最後の営業列車が峡谷を抜けたのは、それから1年も経たない1997年8月23日だった。

かつて経営を支えていた多数の鉱山支線はとうに全廃されており、通過貨物が戻らないなら路線の将来はないと思われた。ところが、ここで新たな道が開ける。それは観光資源としての活用だった。休止の翌年(1998年)、ユニオン・パシフィックは、ロイヤル峡谷を通る約19km(12マイル)の線路の売却について要請を受けた。運営に携わる新会社が地元のキャニョンシティ Cañon City(下注)で設立され、早くも1999年5月に「ロイヤル峡谷ルート鉄道 Royal Gorge Route Railroad」の名称で観光列車の運行が始まった。

*注 旧名 キャノンシティ Canon City。1994年に正式に改称された。

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ロイヤル峡谷ルート鉄道
Photo from wikimedia

走行区間は、キャニョンシティ~パークデール Parkdale 間19km。キャニョンシティのサンタフェ駅 Santa Fe Station で乗り込み、峡谷を通り抜けたパークデールで折り返す、所要2時間(夕刻便は2時間半)のツアーだ。喜ばしいことにこのイベントは人気を呼び、18年経過した現在も継続されている。2017年のスケジュールでは、夏のシーズン(5月27日~10月31日)に毎日3~4本の列車が走り、冬場にもサンタ・エクスプレスなど特別列車の運行がある。

設立当時から在籍する機関車は、かつてリオグランデの長距離列車を牽引していたGM-EMD社製F7形などだが、2012年に同じEMD社のGP40-2形がお目見えし、それ以来これが運行の主力になっているようだ。

客車はヴィスタドーム Vista Dome(展望車)、クラブ Club (1等車)、コーチ Coach(普通車)の区別があり、乗車料金も異なる。中間にはオープンエアカー Open Air car (無蓋車)が1両連結されており、展望車に乗らなくても峡谷の空を仰ぐことが可能だ。これは予約不要で、クラスを問わず出入りできる。また、GP40-2形が先頭につくときは、より魅力的なキャブライド Cab Ride(運転室添乗)という選択肢も用意されている。1列車2名限定で150ドルのプレミアムチケットだが、いい思い出になるのは間違いない。

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オープンエアカーから見る峡谷の風景
Photo from coloradoscenicrails.com

線路はこの区間で終始アーカンザス川の左岸(北側)を通っているが、これほどの峡谷にもかかわらずトンネルが一つもなく、断崖を削って用地を確保しているのには驚かされる。だが、最も狭隘な地点ではそれも難しく、流路の上に張り出す形で長さ53m (175フィート)の橋梁を渡す必要があった。設計者は、川床に橋脚を立てる代わりに、両岸から梁を延ばしてA字形に組み、それでプレートガーダー(鈑桁)の片側を吊るという珍しい形式の橋梁を考案した。ここは開通時から有名なポイントなので、観光列車も必ず停車して、見学の時間を与えてくれる。

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A字梁の吊橋
Photo from coloradoscenicrails.com

もう一つ、大きな吊橋がはるか上空に架かっている。谷を一跨ぎして両岸を結ぶロイヤル峡谷橋 Royal Gorge Bridge だ(下写真。冒頭の俯瞰写真も参照)。長さ384m(1,260フィート)、中央径間268m(880フィート)、水面からの高さはなんと291m(956フィート)もあり、1929年完成以来、米国で最も高い橋のタイトルを保持し続けているという(下注)。

*注 長年、橋の公式の高さは321m(1,053フィート)とされてきたが、現在は上記の値になっている。また、2001年に中国の六広河大橋 Liuguanghe Bridge が完成するまで、72年の間世界一高い橋でもあった。

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谷を一跨ぎするロイヤル峡谷橋
Photo by Hustvedt at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

橋は、一般交通を目的とせず、最初から観光アトラクションを意図して建設されたものだ。地形図で読み取れるように、峡谷の両側には、谷底にいては想像もできないような、なだらかな起伏の高原が広がっている。ここにロイヤル峡谷橋公園 Royal Gorge Bridge and Park という名のテーマパークがあり、橋はその公園区域を連絡する通路、かつアトラクションの一つになっているのだ(下注)。

*注 普通車両までは通行できるが、南口は閉鎖されており、公園への出入りは北口に限定されている。

公園では吊橋の他にも、峡谷のスケールを立体的に体感できるさまざまなライド(乗り物)やアトラクションが開発されてきた。橋の完成後間もない1931年には、峡谷の底に達する3フィート(914mm)軌間のインクライン鉄道 Incline Railway(ケーブルカー)が造られた(下注)。地形図に、破線に添えて INCLINED RR とあるのがそれだ(RRは Railroad の略)。

*注 延長1550フィート、勾配45度(1000‰)、所要時間片道5分半とされる。
最近の写真は次のサイト参照。ページの後半でインクライン鉄道が登場する。
http://highestbridges.com/wiki/index.php?title=Royal_Gorge_Bridge/Page_2

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(左)インクライン鉄道全景(古い絵葉書)
Photo by Boston Public Library at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
(右)インクライン鉄道の谷底駅(1987年)
Photo by Larry D. Moore at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

さらに1950年代には、峡谷のへりにループ式のミニチュア鉄道が設置された(同じく  Miniature Railroad と注記)。1969年には峡谷を渡る空中ケーブルが開通し(同 AERIAL TRAM と注記)、片道は空中ケーブル、片道は徒歩で橋を渡るという周遊コースが可能になった。2003年には峡谷上空へ空中ブランコで飛び出すスカイコースター Skycoaster も登場した。

ところが、観光地として人気を博していたさなかの2013年6月、橋の西側で山火事が発生し、まもなく峡谷両岸に燃え広がった。火は4日間燃え続け、公園の90%を焼き尽くした。客と従業員は全員避難して無事だったが、インクライン鉄道や空中ケーブルを含め公園施設の大半が被害に遭い、当面休園を余儀なくされてしまった。吊橋だけは不幸中の幸いで、踏板の一部を焦がしたにとどまり、躯体に損傷は及ばなかった。

復旧工事が進められた結果、公園は2014年8月に一部再開、2015年5月に峡谷を横断する新しいゴンドラとジップラインが完成して、大規模な再開が実現した。その陰で、インクライン鉄道は、定員が少なく非効率だったこともあり、修復の断念が伝えられている。会社としては、代わりに二人乗りチェアリフトのような、待ち時間を少なくする別のアトラクションの導入を検討しているという。橋とほぼ同じ時を刻んできたユニークな鉄道だったのに、残念なことだ。

話を開拓時代に戻すことにしよう。空前の景気に沸く銀の都レッドヴィル Leadville、その切符を手中にしたリオグランデに対し、サンタフェとはまた別のライバルが別の方向から出現する。それを次回に。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
Royal Gorge Route Railroad  https://royalgorgeroute.com/
Royal Gorge Bridge and Park  http://royalgorgebridge.com/
Highest Bridges.com  http://highestbridges.com/

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