2017年8月19日 (土)

タイエリ峡谷鉄道-山峡を行く観光列車

ダニーディン駅 Dunedin Railway Station は、どこかのお城と見間違えるほど華麗な駅舎だ。右端に立つ高さ37mの時計塔が、市の中心街オクタゴン Octagon からもよく見える。駅舎の印象を決定しているのは、地元ココンガ Kokonga 産の黒玄武岩と明るいオアマル石の組み合わせから成る鮮明なコントラストだ。そこにピンクの大理石の列柱や、テラコッタの屋根、銅板葺きの頂塔があしらわれて、モノトーンのカンヴァスに彩りを添えている。

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ダニーディン駅舎の華麗な外観
Photo by Ulrich Lange at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

出札ホールに入るとまず、中央に蒸気機関車のモチーフをあしらった英国ミントン製のモザイクタイルの床に目を奪われる。内壁を飾る艶やかなロイヤル・ドルトンの陶製付柱と装飾帯を愛でた後、2階のバルコニーに上れば、大窓のステンドグラスの、煙を勇壮に噴き上げる機関車の意匠が旅の気分を盛り上げてくれる。

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(左)出札ホールの内壁はロイヤル・ドルトンの装飾陶板、バルコニーのステンドグラスは機関車の意匠
(右)床はミントンのモザイクタイルを敷き詰める
以下、コピーライトの表示がない写真は、2004年3月筆者撮影

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南島の南東岸に位置するダニーディンは、1860年代のゴールドラッシュで移住者が急増し、工業都市としての基盤が造られた。19世紀にはニュージーランドで最大の都市になったこともある。経済的繁栄のもとで、1880年代から1900年代初めにかけて注目に値する建造物が市内に次々と造られた。その一つが、1906年に竣工したこの駅舎だ。

かつては1日最大100本の列車と乗降客をさばいていた駅だが、2002年に廃止された「サザナー Southerner」を最後に、メイン・サウス線 Main South Line(下注)を通しで走る長距離旅客列車は消滅してしまった。鉄骨組みの屋根が架かる立派なホームも今では閑散として、タイエリ峡谷鉄道(タイエリ・ゴージ鉄道)Taieri Gorge Railway(2014年からダニーディン鉄道 Dunedin Railways、詳細は後述)の観光列車が発着するだけになっている。

*注 メイン・サウス線は南島の東海岸を南へ走る幹線。リトルトン Lyttelton ~クライストチャーチ Christchurch ~ダニーディン~インヴァーカーギル Invercargill 間601.4km。

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閑散としたダニーディン駅の本線ホーム

タイエリ峡谷鉄道の列車は、駅から南へ出ていく。メイン・サウス線をウィンガトゥイ Wingatui まで走り、そこでオタゴ・セントラル支線 Otago Central Branch に入る。タイエリ川 Taieri River が隆起する地盤を刻んで造った深い峡谷を遡った後、多くの列車は、谷を脱した地点にあるプケランギ Pukerangi(ウィンガトゥイ分岐点から45.0km、ダニーディンから57.2km)で折り返す。往復の所要時間は4時間だ。

また、運行日は限られるが、その先ミドルマーチ Middlemarch(同 63.8km、76.1km)まで足を延ばす便もあり、こちらはミドルマーチでの休憩1時間を含めて往復6時間のコースになる。

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オタゴ・セントラル支線(ウィンガトゥイ Wingatui ~クロムウェル Cromwell)および周辺路線図
旗竿記号はタイエリ峡谷鉄道観光列車の走行ルート、点線は廃線区間(現 オタゴ・セントラル・レールトレール)
土地測量局 Department of Lands and Survey 発行の鉄道地図 南島1983年版に加筆
Sourced from LS159 Railway Map of South Island, Crown Copyright Reserved.

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駅舎にはタイエリ峡谷鉄道の
チケットオフィスが入居

私たちは、2004年3月のニュージーランド旅行の終盤で、タイエリ峡谷鉄道を訪れた。オクタゴンの観光案内所で資料や市街図を仕入れて、駅へ向かう。列車はEメールで予約してあるので、グッズショップを兼ねたチケットオフィスで名前を言って、切符を受け取った。プケランギ往復は1人59 NZドル(当時のレートで4,250円)だ。

プラットホームは、駅舎に接した長さ500mもある本線用と、ドック形(片側行止り)の支線用が使われている。朝の列車は支線用のほうに停まっていた。ディーゼル機関車に続いて緩急車、それから新旧の客車が8両ほど連なり、最後はバーと売店を備えた車両だ。私たちの指定された車両はクラシックな木造車だった。狭軌線のために車内は狭いが、座席は1+2配列の背もたれ転換式で、なかなか快適だ。最後尾の1人席と2人席の向かい合わせをあてがってもらったので、わが子の座る場所もある。

発車時刻が近づくにつれ、車内はほぼ満席になった。見たところ乗客層は鉄道ファンというより、この地方への観光客で、列車の旅を一つのイベントとして愉しんでいる様子だ。

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(左)支線用ホームで発車を待つ列車
(右)クラシックな車内は、1+2配列の転換式座席

9時30分、定刻に発車した。時おり雨が襲う肌寒い日だが、鉄道ファンとしてはオープンデッキに立たないわけにはいかない。列車はしばらく本線を走る。トンネルを2本抜けて、島式ホームが残るウィンガトゥイ駅で運転停車。すぐに右へ分岐して北進し、山裾を巻きながら1:50(20‰)勾配で上っていく。

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(左)ウィンガトゥイ駅を発車して支線へ
(右)タイエリ平野を後に、山裾を巻いて上り始める

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前半のハイライト区間(ウィンガトゥイ鉄橋の前後)の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map CE16 Mosgiel, CE17 Dunedin. Crown Copyright Reserved.

この小さな峠越えの下り坂の途中に、沿線前半の見どころがある。谷を斜めに横断する長さ197.5m、高さ47mのウィンガトゥイ鉄橋 Wingatui Viaduct だ。直下の谷底が透けて見え、写真を撮ろうと狭いデッキから身を乗り出したら、足がすくんだ。

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ウィンガトゥイ鉄橋
(左)高さは沿線随一 (右)直下が透けて見えて足がすくむ

まもなく幅30~50mほどのタイエリ川本流に出会う。列車は川の屈曲に対して忠実に急カーブで応じながら、しばらく左岸を進んでいく。バックロードとの併用橋で右岸に移ると、待避線のあるヒンドン Hindon 駅だ。しばらく停車します、とアナウンスが流れ、乗客たちはホームの形すらない線路脇の地面にどさっと降り立った。

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(左)タイエリ川本流に出会う
(右)旧パレラ Parera 駅通過。赤屋根の家はかつての駅舎

再び走り出すと、200~300mの比高がある谷が一層深さを増すように感じられる。車窓からいつのまにか高木が消え、ごつごつした巨岩と灌木や草地に代わっている。左から合流するディープ・ストリーム Deep Stream を渡ったところで、線路は再び1:50(20‰)勾配で谷壁を上り始めた。川が下方へ離れていけば、いよいよ旅の後半の見どころ区間だ。

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ディープストリーム鉄橋を渡り終えると、線路は谷壁を上りにかかる

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後半のハイライト区間(ヒンドン~プケランギ)の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map CD16 Middlemarch, CE16 Mosgiel. Crown Copyright Reserved.

岩をうがち、橋を架けて、険しい谷壁を切り抜けていくルートは、スリリングで見飽きることがない。とりわけ支谷の上空を渡るフラット・ストリーム鉄橋 Flat Stream Viaduct が見事だ。長さ120.7m、高さは34mと数字上はおとなしいが、右下方を流れる本流との高低差はすでに100m近くある。曲線でカントがついていることも手伝って、デッキから見下ろす高度感はなかなかのものだ。

鉄橋を渡った後は、直立に近い岩壁を大胆に切り崩した区間を通過していく。「ザ・ノッチズ The Notches(山峡の意)」と呼ばれ、峡谷の工事では屈指の難所だったところだ。

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険しい斜面を渡るフラット・ストリーム鉄橋(左)とザ・ノッチ第4鉄橋(右)

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上空から見たフラット・ストリーム鉄橋の前後
(c) Dunedin Railways, 2017

そのうち、垂直の切通しに機関車が頭を突っ込む形で停車した。旧 ザ・リーフス The Reefs 駅の少し手前(地形図に Viewpoint と注記)で、もうすぐ峡谷本体ともお別れという地点だ。展望台になっている保線用空地に出ると、平坦な高原とその底を這うように流れるタイエリ川が見渡せた。

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(左)ザ・リーフス駅手前で切通しに突っ込む形で停車
(右)保線用の空地が展望台に

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展望台からタイエリ川上流を望む

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IPENZによる記念銘板

IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)が設置した銘板には次のように記してあった。「旧 オタゴ・セントラル鉄道のこの区間はニュージーランドの工学遺産として重要なものである。ダニーディンからクロムウェル Cromwell までのルートは7つの代案の中から選ばれ、1879年に建設が始まった。タイエリ峡谷を通す工事は15の橋梁と7つのトンネルを要する最も困難な工区であったが、その壮大な景観は工学上の業績の価値をより高めている... 」

最後の休憩地を出ると、十分な高度を得た線路は高原上に居場所を移し、まもなくこの列車の終点プケランギに到着する。粗末な待合所がぽつんと建つ以外、何もないようなところだ。また雨が降り出したので、外に出た乗客も慌てて車内に戻ってしまう。機関車の機回し作業が手際よく終わり、列車は10分後に同じ道を引き返した。

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折返し地点のプケランギに到着

観光列車が走るオタゴ・セントラル支線は、本来、内陸部の開発で得られる鉱物資源や農畜産物を輸送する目的で造られた。ウィンガトゥイ~クロムウェル間236.1kmの長大な路線で、1889年から1921年の間に順次開通した。実現しなかったが、さらに奥地のハウェア Hawea まで延長する構想もあった(冒頭の路線図参照)。

しかし、第二次大戦後は輸送量が減少し、1970年代に入ると存続の可否が議論されるようになった。すでに1958年以降、末端区間アレクサンドラ Alexandra ~クロムウェル間の旅客輸送は、バスで代行されていたが、1976年には全線で、専らレールカーが担っていた旅客輸送が休止された。そればかりか、クルーサ川 Clutha River を堰き止めるクライドダム Clyde Dam(下注)の着工を前に、水没するクライド Clyde ~クロムウェル間19.9kmが、1980年4月4日限りで廃止となった。

*注 湛水したダム湖は、ダンスタン湖 Lake Dunstan と呼ばれる。

残る区間が遅くまで存続したのは、そのダムの建設資材を輸送する目的があったからに過ぎない。水没区間廃止後、クライド駅は1.9km手前に移転し、そこに貨物を扱うヤードが設けられた。1990年にダムが完成すると、鉄道は役割を終え、同年4月30日をもって運行が終了した。

ところで、このルートを走る観光列車は、支線の運命が定まるより前の1950~60年代から実績がある。1979年にオタゴ観光列車財団 Otago Excursion Train Trust に引き継がれて、事業が本格化した。それが人気を呼んだことから、1987年には運行に専念する公営企業「タイエリ峡谷株式会社 Taieri Gorge Limited」の設立で実施体制が整えられ、新車両も投入された。

路線の廃止方針を受けて、ダニーディン市議会は、列車を今後も安定して走らせるために、ニュージーランド鉄道との分界点(下注1)からミドルマーチまで約60kmの線路資産を取得することを決めた。1990年5月1日にこの区間の所有権は、ニュージーランド鉄道から市に移された(下注2)。

*注1 オタゴ・セントラル支線の根元区間には、産業用側線が接続しているため、分界点は同線4kmポスト地点にある。
*注2 ミドルマーチ以遠は、鉄道施設が撤去され、自然保護局 Department of Conservation (DOC)  により、「オタゴ・セントラル・レールトレール Otago Central Rail Trail」という自然歩道・自転車道に転用された。

1995年には、市と財団の共同出資により、新会社「タイエリ峡谷鉄道株式会社 Taieri Gorge Railway Limited」が設立された。市の線路資産と財団所有の車両は新会社に売却され、それ以降、この会社が観光鉄道事業の運営に当たっている。

2014年10月にタイエリ峡谷鉄道は、名称をダニーディン鉄道 Dunedin Railways に変更した。ただし、登記上の社名は変わらず、マーケティングブランドだけを新しくしたのだ。それというのも、内陸へ向かうタイエリ峡谷線とは別に、近年、メイン・サウス線を北上する観光列車も定期運行させており、名称と実態が合わなくなってきていたからだ。

この列車は「シーサイダー Seasider」の名で呼ばれ、東海岸の海浜風景を売り物にしている。多くはダニーディンから25.5km先のワイタティ Waitati で折り返す手軽な90分コースだが、奇勝モエラキ・ボールダー Moeraki Boulders や125km先のオマルー Oamaru を往復する長時間ツアーもある。旅客輸送における鉄道の凋落が著しいこの国で、ダニーディンだけは例外的に意気盛んだ。

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海岸線を走る観光列車「シーサイダー」
(ポート・チャルマーズ Port Chalmers ~ワイタティ間)
(c) Dunedin Railways, 2017

本稿は、J.A. Dangerfield and G.W. Emerson, "Over the Garden Wall - Story of the Otago Central Railway" Third Edition, The Otago Railway & Locomotive Society Incorporated, 1995、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ダニーディン鉄道 http://www.dunedinrailways.co.nz/

★本ブログ内の関連記事
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道
 ミッドランド線 II-アーサーズ・パス訪問記

2017年3月20日 (月)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV

商業鉄道だった旧ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway がすべての運行を停止したのは、第二次世界大戦前の1937年だった。それから74年の歳月を経て、2011年に保存鉄道として全線再開されるまでのいきさつは、ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建 Welsh Highland Railway restoration」の項(下記参考サイト)に詳しい。約13,000語に及ぶ長文の資料から、関係する諸集団の思惑が複雑に絡み合った鉄道再建の険しい道のりが明らかになる。以下、その骨子を書き出してみた。

■参考サイト ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建」
https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Highland_Railway_restoration

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ベンチの脚を飾るレッド・ドラゴン(ベズゲレルト駅にて)

旧線路用地の帰趨

旧WHRの運営企業は、正式名をウェルシュ・ハイランド鉄道(軽便鉄道)会社 The Welsh Highland Railway (Light Railway) Company(以下、旧WHR社)といった。同社は、1896年軽便鉄道法に基づく軽便鉄道令 Light Railway Order (LRO) によって、1922年に設立が認可されている。会社は、社債を発行して鉄道の建設資金を調達したが、その3/4を引き受けたのは国と地元自治体だった。ところが開通後まもなく経営不振に陥り、利子払いが滞ったため、会社に対して1944年に清算令が下された。ここまでは前回述べたとおりだ。

指名を受けた清算人は、債権者に債務弁済するにあたって、線路用地は入札にかけ、最高額の札を入れた者に売却することで資金を回収しようとしていた。ただし軽便鉄道令によって、線路用地の所有権は旧WHR社のみにあり、かつ鉄道目的にしか使えない。そこで、用地を縛りから解き放つには法的な手続きが必要となり、それには2つの選択肢があった。

一つは、旧WHR社を廃止する「廃止令 Abandonment Order」を得ることだ。ただしこれを申請する者に法律上の費用負担が生じる。二つ目は「譲渡令 Transfer Order」で、これを得た者は旧WHR社から譲渡を受けられるが、その土地の使用は引き続き鉄道目的に限定される。

清算人としては土地の換金が可能になる廃止令が望ましいが、その前提となる費用を工面する当てがなかった。旧WHR社の残余資産はすでに債権者に分配済みで、使い勝手の悪い線状の土地を取得するために気前よく資金を差し出す者が現れるとは思えなかったからだ。

1961年7月に、保存鉄道に関心のあるシュルーズベリーの実業家の声掛けで、鉄道再開の可能性を議論する会合が開かれた。その場に招かれた清算人は、交渉次第ではあるが土地は750ポンドで売却する用意があると述べた。そこで、話をさらに具体化するために同年10月、ウェルシュ・ハイランド鉄道協会 Welsh Highland Railway Society(以下、WHR協会)が設立された。

協会の創設者に名を連ねたうちの数名は、近隣の保存鉄道フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)にも関与していた。フェスティニオグ鉄道も1946年に運行を休止したが、復活を望む人々によって1951年に鉄道協会が設立され、協会が過半数の株式を取得する形で、休眠状態の鉄道会社が再建された。そして1950年代の終わりまでに、ポースマドッグ Porthmadog(下注)から全線のほぼ中間地点にあたるタン・ア・ブルフ Tan-y-Bwlch まで運行が再開されていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から現在の Porthmadog に変更されたが、本稿では表記をポースマドッグに統一している。

鉄道再建の実績を持つ人々の参加はWHR協会の大きな支えになった。その一方で、FRの支持者の間ではWHRの再建に対して複雑な反応があり、歓迎する者もいれば、公然と敵意を示す者もいた。理由はおいおい明らかになるが、このことが、後日のFRの行動に少なからぬ影響を及ぼすことになる。

さて、路線を復元するには、まず再測量のために線路用地への立入り許可が必要だ。清算人はWHR協会に好意的で、ほどなく協会を実行力のある想定売却先と認めるようになった。協会は、清算人との間で用地購入に関して、行政当局とは計画認可に関して、それぞれ交渉に着手した。ポースマドッグが属するメリオネスシャー州 Merionethshire からは、ルート南端の計画に対して認可が下りた。しかし、カーナーヴォンのあるカーナーヴォンシャー州 Caernarfonshire の議会は、鉄道より並行道路の改良に関心が向いており、協会の計画には非協力的だった。

鉄道の運営責任を引き受けるには法人格が必要なため、WHR協会は1964年初めに、ウェルシュ・ハイランド軽便鉄道(1964)有限会社 Welsh Highland Light Railway (1964) Limited を設立した。巷では「64年会社 The 64 Company」と呼ばれたので、以下ではそれに倣おう。

運の悪いことに、行政との認可交渉をしている間に清算人が体調を壊し、用地の売却交渉をまとめることなく亡くなった。清算業務は管財人が自ら引き継いだが、彼は64年会社への売却を良しとせず、土地を競売に出すという当初の方針を貫いた。協会側は、積み上げてきた交渉を突然打ち切られ、同時に用地への立入り権も失ってしまった。

管財人は、競売への参加者に対し、旧WHR社の債務を引き受けるに足る資産の証明と、廃止令への出資を条件に加えた。64年会社も参加した競売で最高額を投じたのは、カンブリア州 Cumbria の資産家J・R・グリーン J. R. Green という男だった。グリーンは他の保存鉄道を支援している理解者であり、信頼のおける保存団体に管理を委ねるつもりだった。64年会社は彼にWHR復元と運行の支援を要請され、同意した。

ところがその後グリーンは、一時的に資金難に陥った。先行きを不安視した管財人は1969年に売却を撤回してしまい、64年会社は再び挫折を経験することになった。

その後、64年会社は1973年後半に、ポースマドッグでベズゲレルト側線 Beddgelert Siding と近接の土地を購入している。側線は、クロイソル軌道 Croesor Tramway が山から運び下ろしたスレート貨物をカンブリア鉄道 Cambrian Railways(後の国鉄カンブリア線)に受け渡すために造られたもので、戦後は使われていなかった。この廃線跡の上にポースマドッグからペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction まで短距離の狭軌線が敷かれ、1980年に保存鉄道として開業することになる。

64年会社と全線派

1974年に自治体の再編が実施された。メリオネスシャー州とカーナーヴォンシャー州は統合されて、グウィネズ Gwynedd 州になった。それに伴い、かつて保存鉄道に無関心だったカーナーヴォンでも、鉄道への風向きが変わり始めた。観光客の減少を食い止めるために、新たな観光資源に結び付ける動きが出てきたのだ。このとき、1972年に廃止されて以来、州の所有になっていた標準軌線跡を使って、狭軌保存鉄道を町まで引き込む構想が初めて提案された。一時は64年会社の拠点を、ポースマドッグからカーナーヴォンに移す話さえあったほどだ。

1970年代の半ばに、グウィネズ州は旧WHRの線路用地の取得に乗り出した。線路用地の査定価格は州に対して旧WHR社が負う債務と相殺されるので、名目の金額だけで用地を取得できるはずだ、と州は主張した。しかし、これでは最高額の入札者に売却したことにならないと、管財人は売却を貫徹するための承認を法廷の裁定に求めた。

1980年代の初めには、州と64年会社が用地を共同管理し、カーナーヴォンから「ベズゲレルト Beddgelert とリード・ジー Rhyd Ddu の間の手ごろな地点」まで鉄道再建を段階的に進めるという計画案ができていた。そのために、州はとりあえず費用を支払って、旧WHRの廃止令を得るつもりだった。

しかしこれが、その後巻き起こった激しい意見対立の、まさに引き金となった。すなわち廃止令によって線路用地の法的保護がなくなれば、再建の対象にならなかった区間は、鉄道以外のフットパス(自然歩道)や道路の新設・改修に使われてしまうのではないか。64年会社の内部に、そうした懸念をもつグループ、いわゆる「全線派」がいた。彼らはあくまで全線再開を目標にするべきで、それにはフェスティニオグ鉄道のように、旧WHR社の過半数の株式を取得して線路用地の管理権を得なければならないと考えた。

全線派は、自前の資金で旧WHRの株式と債券を探し当てて、購入し始めた。1983年初めに取締役会で彼らが表明したこの方針は、他の取締役を大いに驚かせた。州との取引を推進するという従来の会社の方針に逆行するように見えたからだ。ともかくも4月の取締役会では、取得済みの株式と債券を所有する財団の設立が合意された。全線派は調査を続けてよいが、その結果は取締役会に定期的に報告することとされた。

ところがその後、全線派はさらに踏み込み、資金集めの発起書を刷って社員や一般会員に配布した。これは取締役会の決議内容を越えるものだったため、9月の取締役会は紛糾した。会社の方針に従わなかったとして、全線派は買い集めた株式と債券を無償で会社に引き渡すよう求められた。彼らが拒否すると、業を煮やした取締役会は、全線派の取締役辞任を勧告した。

内部騒動の間も64年会社は、州との交渉を継続していた。州議会の小委員会は1983年4月に、管財人からペン・ア・モイント~ポント・クロイソル Pont Croesor 間の用地を取得して、64年会社にリースするよう勧告することを決定した。1980年に開業した区間の延長に道筋をつけるものだった。会社は同年11月に臨時総会を開き、そこで州との取引を進めることが承認された。

片や全線派も活動を進めていた。線路用地の買収を目的にした「線路用地統合会社 Trackbed Consolidation Ltd(以下、TCL)」を密かに立ち上げて、管財人に用地売却を働きかけた。これはすぐに取締役会の知るところとなり、1983年12月に、TCLに関係している全線派社員5名に対する会員活動の停止が決議された。彼らは年次総会への出席すら拒まれたため、双方ともに深い遺恨を抱くもととなった。

全線派はTCLを使って、株式と社債の買収を進めた。社債の75%の所有者による賛成票が、旧WHR社の財政再建計画に同意を与える法律的要件だったからだ。64年会社には全線派のほかにも同様の考えを持つグループがあり、彼らは西部借款団 West Consortium の名で、1985年1月に国が保有していた社債を購入した。

TCLと新たな盟友となった西部借款団の確保した社債を合わせると、全体の65%に達した。残りは3つの地方自治体が所有していた。その一つ、ドゥイヴォル Dwyfor 郡(下注)は当初全線派の考えを支持しており、それを足せば78%になる見通しだった。ところが1986年1月に再招集された債権者会議で、ドゥイヴォル郡は州議会などの説得に応じ、反対側に立った。全線派のめざす財政再建の試みは、土壇場で中断を余儀なくされた。そして管財人は、引き続き土地を州に売却する意思を持ち続けたのだ。

*注 ドゥイヴォル郡は1974~1996年に存在した自治体で、ポースマドッグやベズゲレルトを郡域に含む。

フェスティニオグ鉄道の思惑

64年会社が州と組もうとしたのは、弱い資金力をカバーするため、建設に際して公的な財政支援を期待したからだ。一方、州政府にとってWHRは、あくまでカーナーヴォン周辺の観光開発のためのツールでしかない。ポースマドッグまで線路が延伸される見込みは薄く、使われなかった用地は処分されるか転用され、全線再開は永遠に不可能になるだろう。全線派はそう考えて、あくまで自力でWHRを復興させようと考えた。

管財人が所与の権限で用地を州政府に売り渡そうとしているのに対抗して、彼らは旧WHR社を再興することで、本来会社にある用地の所有権を掌握しようとした。64年会社と州政府、それと対立する全線派(TCL)や西部借款団、いずれもWHRの再開という目指す方向は一致しており、最終目標とそのために取るべき手段が異なっただけだ。

ところが、ここでもう一者、まったく別の思惑でこの問題に介入しようとした集団があった。フェスティニオグ鉄道(FR)だ。FRはすでに1982年に自社全線の再開を完了していたが、ジアスト Dduallt からの水没区間で迂回線を建設するために、資金の借入れを行っていた(下注)。そのうえ再開後の乗客数が伸び悩み、収益性に問題を抱えていた。

*注 揚水式発電所建設に伴う調整池の建設で、旧線が水没したため、復活にあたってはスパイラルを含む迂回線の建設が必要となった(本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照)。

そのようなFRにとって、64年会社と州政府が進めているWHR復活計画は、決して他人事ではなかった。というのも、同じポースマドッグの町から出る潜在的な競争相手は、州の財政支援を受け、沿線にブライナイ・フェスティニオグよりも魅力的な観光地ベズゲレルトを擁している。ポースマドッグからベズゲレルトまでは平坦なルートで、運行経費が安価なため運賃を低く設定することも可能だ。FRは、現在の利用者の半数近くがWHRに流れると見積もり、借金の返済計画にも影響が及ぶことを懸念した。

WHRの再建は阻止しなければならない。そのための最良の方法は、自らWHRの線路用地を取得することだと、FRは考えた。これは後に「買って封じる Buy to Shut」政策と呼ばれることになる。

1987年9~10月に、他のいかなる入札者にも勝る16,000ポンドの入札が匿名でなされた。しかし、管財人が州に売却する方針を曲げなかったため、この策は成功しなかった。そこでFRは1988年9月に、州への直接の説得を試みた。州政府に線路用地の入札を辞退することを勧め、代わりに自分たちが入札に成功したら、鉄道目的「以外」に使うという条件で州に用地を寄託する用意があると伝えたのだ。

1989年に64年会社と州は協力関係を再確認し、管財人から線路用地を購入するために高等裁判所で売却の認可を受ける準備を始めた。裁判所の尋問ではすべての利害関係者を宣言するので、匿名の入札者の正体も明らかにされることになる。

FRは先手を打って、州政府と再協議の機会を持った。そこでは態度を180度転換して、「自分たちは鉄道保存の事業者であり、維持発展が可能ないかなる鉄道の休止も求めない」ことを表明した。そして、FRが用地を取得して、64年会社にリースすると提案した。そこで州は、両者の話し合いによる解決を促すことにした。

1989年のクリスマスに両者の代表が会合を持ち、FRは入札者の正体を開示したうえで、自らの考えを話した。しかし64年会社は、先に州から1988年9月にFRと行った会合のメモを入手していた。WHRの再開を望んでいなかった会社が、わずか1年後に再建を手助けしたいと申し出ている。64年会社は、FRの動機を非常に怪しんだ。

すでにこのとき、64年会社はペン・ア・モイントからポント・クロイソルまでの延長計画に認可を得て、州と共同で軽便鉄道令の案を提出していた。会合の後、64年会社はこの件に干渉するFRを非難する声明を発表し、FRに入札から撤退するよう求めた。秘密の入札者の正体も、一般会員の知るところとなった。

このニュースはすぐに広まり、イギリスの鉄道保存団体に属する多くの人々に衝撃を与えた。FRは、64年会社の地主となって彼らを援助したかった、64年会社と州の協力関係のもとでは全線復元の機会が失われたはずだと弁明したが、世間は納得しなかった。鉄道専門誌も反発し、「これは保存の精神ではない」という論説を掲載した。FRの支援者さえも非難の声を上げた。

連携と逆転劇

このときまで別の方法で線路用地へのアクセスを試みていた全線派は、それが取得できれば64年会社にリースするか寄贈する意思を持っていた。しかし、64年会社の顧問弁護士は、1922年軽便鉄道令は再使用できないとアドバイスしていたため、同社は彼らとの協力を拒否し続けた。厳しい批判に晒されるFRと、交渉の糸口がつかめない全線派と西部借款団、ともに全線復活を目標にする三者が接近するのは当然のなりゆきだった。

全線派(TCL)と西部借款団は、FRが全線の開通と運行に最善の努力を払うことを条件に、集めた株式と債券をFRに引き渡すことで合意した。その受け皿として、子会社フェスティニオグ鉄道ホールディングズ有限会社 Festiniog Railway Holdings Ltd が設立された。

こうしてFRは、全線派たちが描いていた戦略を用いて、高等裁判所の聴聞で管財人の申請に異議を唱えることができる立場に立った。理事が交替したFRは、今や復元の当事者になろうとしており、膨大な資料作成のための資金も準備していた。

聴聞の場でFRは、旧WHRの財政再建を試みる時間を稼ぐために、州への売却時期の延期を申請した。しかし、裁判所は、旧WHRにもはや存命の取締役がおらず、会社はいわば瀕死の状態であるとして、認めなかった。64年会社の顧問弁護士が指摘していたとおりだった。FRの再建のケースでは、1946年の休止後まもなく保存運動が始まっており、取締役会の再招集が可能だったが、WHRには同じ手法が通用しなかったのだ。

裁判所はそのうえで、この問題の解決策は、両当事者のどちらかが1896年軽便鉄道法第24条にもとづき譲渡令を申請することであると裁定した。譲渡令を得れば、(管財人との間で)売却の合意が整った後、鉄道建設と運行の権限の譲渡を受けられる。裁判所は管財人の売却申請には裁定を下さず、譲渡令申請の時間を見込んで猶予を与えた。

両者はそれぞれ譲渡令を申請した。内容が競合するため、1993年11月に公聴会が開かれることになった。1988年9月のメモが証拠として提出されたこともあって、FRは本当に再建に取り組む気があるのかどうか、まだ疑念を抱かれていた。そこで公聴会の進行中にFRは、州政府との間で、譲渡令を得たら5年以内に工事を開始する、実行できなかったときは線路用地を州に明け渡すという趣旨の協定を結んで、自らの姿勢を明確にした。

しかし、独立検査官が調査の結果下した判断は、64年会社の申請を支持するというものだった。その理由として検査官は、州の関与によって高水準の公的支援が期待できること、64年会社がポースマドッグに既存設備を有していること、64年会社が目的をWHR再建に特化しているのに対し、FRは他にも多数のプロジェクトを手がけており、そちらが優先される可能性があること、商業組織であるFRより64年会社のほうが、再建に必要なボランティアの動員が容易であること、などを列挙した。

やはりFRの挑戦は無謀だったと、誰しも感じたことだろう。ところが公聴会を踏まえて1994年7月に運輸大臣ジョン・マグレガー John MacGregor が発表した報告書を読んだ人は、自分の目を疑った。決定内容が64年会社ではなく、FRの申請を是認していたからだ。

FRの構想には公共団体や公的支援が関係していないため、結果的に公的部門に対するリスクが削減されるというのが、付された理由だった。当時の保守党政府の政治観に適合する結論とはいえ、予想外の展開に対して、地元では激しい反発が巻き起こった。FRは国務大臣を買収したと非難された。最後の蹴りを入れられた形の64年会社は控訴を検討したが、それは成功の保証がない高価な選択肢だった。

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WHRの再建過程

対立を超えて

この後、FR財団は鉄道再建のための子会社を設立し、ついにカーナーヴォンを起点に再建のための工事が開始された。復活WHRの最初の区間となるカーナーヴォン~ディナス Dinas 間4.3kmは、1997年10月に開通した。

とはいえ、64年会社も大人しく引き下がったわけではない。FRに対抗して1996年に社名を「ウェルシュ・ハイランド鉄道有限会社 Welsh Highland Railway Ltd(名称が紛らわしいので以下、WHR(旧64年)社とする)」に変更し、「ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway」を名称登録した。自分たちがWHRの正当な後継者であると、会社はなおも主張していた。

区間開通に先立つ1997年3月に、FRはディナス以遠、ポースマドッグまでの工事令 Works Order(工事認可)を出願した。提案ルートに対するパブリックコメント(意見公募)で多数の反対意見が提出されたため、同年6月に公聴会が開かれた。

中でも焦点となったのは、ポースマドッグの町を通過する「クロス・タウン・リンク Cross Town Link」と呼ばれる区間だった。これには道路橋であるブリタニア橋の併用軌道が含まれており、ウェールズ政府道路局は、道路横断がハイストリート High Street(本通り)に交通渋滞をもたらすと異議を申し立てた(下注)。

*注 これは、町を迂回する道路バイパスの開通(2011年)によって最終的に解決が図られた。

WHR(旧64年)社も、反対意見を提出した。提案ルートの一部に自社所有地が含まれており、工事令が出れば強制的に買上げられてしまうからだ。

WHR(旧64年)社は、新路線を自社のペン・ア・モイント駅に接続させるという反対提案も用意していた。上述のように同社は1980年からペン・ア・モイント~ポースマドッグ間で保存列車を走らせており、ポースマドッグの駅は、FRのハーバー駅とは町をはさんで反対側、国鉄駅の向かいにある。このルートを使えばクロス・タウン・リンクが不要になって、本通りが渋滞する心配がない。両駅間を行き来する人が増えて、町の商店街への経済的効果も期待できるだろう。

しかし、FRにとればこの提案は、新路線と既存FR線を連絡させる機会が失われることを意味する。また、WHR(旧64年)社が南端区間の所有者になることで、通行保証のための協議が必要になり、両者間で争いが起これば通行妨害が起きるかもしれない。FRは、何とかしてWHR(旧64年)社が反対意見を撤回するよう説得すべきだと考えた。1997年8月に両者は交渉のテーブルについたが、9月後半に早くも決裂する。しかし公聴会が迫ってきたため、11月に交渉が再開され、ついに基本合意に達した。

合意内容は次のようなものだった。WHR(旧64年)社は、クロス・タウン・リンクに対する反対意見を取り下げる。その代わりにWHR(旧64年)社は、(新線と重なる)自社所有地のペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間で路線を建設できるものとし、FRもそれを全面支援する。つまり、FRは北から線路を延ばし、WHR(旧64年)社は南から線路を延ばす。合流地点をポント・クロイソルとするということだ。

加えて、北から来る新線の先端がポント・クロイソルに到達するまで、WHR(旧64年)社がペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間を自社で運行できる。また、WHR(旧64年)社の列車に対して新線全線の通行権を保証するとされた。

11月30日に取り交わされた覚書に基づき、1998年1月12日に協定が成立した。このいわゆる「1998年協定 The 1998 Agreement」で、新路線の北側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(カーナーヴォン)Welsh Highland Railway (Caernarfon)」、南側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(ポースマドッグ)Welsh Highland Railway (Porthmadog)」の名称で区別することも取り決められた。

その後、北側では、2000年8月にディナスからワインヴァウル Waunfawr まで、2003年にリード・ジー Rhyd Ddu まで線路が完成した。南側は、2006年にペン・ア・モイントからトライス・マウル Traeth Mawr の暫定ループ(信号所)まで700mが延長され、列車も走ったが、WHR(旧64年)社にはそれ以上延長工事を進める資金がなかった。

結局、北から来た線路は2010年4月にポント・クロイソルに到達し、WHR(旧64年)社が造れなかった区間を含めて、FRの手でポースマドッグまでの全線が建設され、2011年4月20日に晴れて開通の日を迎えた。それと同時に、1998年協定に従ってWHR(旧64年)社のトライス・マウルへの延長運転は中止され、ペン・ア・モイントで折り返す運行に戻った。名称も「ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR)」に変更されて今に至る。対立していたWHR(旧64年)社とFRの関係も、その後、共同行事の開催などを通じて、はるかに誠意のあるものに変わってきているという。

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

 マン島の鉄道を訪ねて-序章

2017年3月12日 (日)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった
(中)1860年代に標準軌各線やクロイソル軌道 Croesor Tramway が開通
(右)1880年代にWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways が開通
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(左)1900年代に南北を連絡する PBSSR の工事が始まるも中断
(中)1920年代に旧WHRが全通
(右)1940年代までに旧WHR、フェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway とも休止
作図に当たっては、M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" Second Edition, Ian Allan Publishing, 2006 およびWikipedia英語版各鉄道の項を参照した。

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置
1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。

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ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置
1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆

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S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台(上図中央左の unused abutments)
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台(上図中央右の unused abutments)
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。

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ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係
1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通
(右)2011年に新WHRが全通

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年3月 4日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II

まるで難読地名のようなリード・ジー Rhyd Ddu(下注)は、ウェールズ語で黒い浅瀬を意味するそうだ。前身であるノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways の最終到達点であり、今のウェルシュ・ハイランド鉄道(以下、WHR)でも2003~09年の間、終着駅だった。

*注 日本語では「ジー」になってしまうが、Ddu の発音は [ðíː]。

現行ダイヤでは主としてここで列車交換が行われ、スノードン山頂をめざす登山客や、折返し乗車または観光バスに乗継ぐツアー客が乗降する。駅の周りは、旧駅跡を転用した駐車場と、下手の道端にB&Bが数軒あるだけの寂しい場所だが、列車が着くときだけ活気が蘇る。この列車からも、雨のホームに何人か降り立った。

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雨のリード・ジー駅で列車交換

右手は、線路と並行する道路の向こうに、スリン・ア・ガデル Llyn-y-Gader の水面と、青草が覆う茫漠とした湿地が広がっている。にわかに信じがたいが、この平たい土地がルート上のサミットだ。線路が右カーブして道路の下をくぐるとすぐ、線路の右脇に標高650フィート(198m)のサミットを示す標識が立っている(実物は見損ねたが)。ピッツ・ヘッド・サミット Pitt's Head Summit という名は、畑の中に鎮座している大岩が、19世紀初めのイギリスの首相の横顔に似ているからだそうだ。

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

分水界を越えると、長い下り坂になる。それも1:40(25‰)の勾配が6kmほど続く、ポースマドッグ方から来る機関車にとっては苦難の坂道だ。この急勾配でも直登はできず、高度を稼ぐために、途中に半径60mのS字ループ S-bend を2か所挟んでいる。

上のループは通称「ウェイルグロズ(牧草地)ループ Weirglodd S-bend」、下のループは「クーム・クロッホ(鐘谷)ループ Cwm Cloch S-bend」で、その中間に、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest(国有林)のキャンプ場最寄りとなるメイリオネン Meillionen の停留所がある。興味深い線形なので車窓を注目していたが、残念ながら、森の中を走るためにあまり視界がきかない。下のループのくびれの部分で、かろうじて後で通る線路を見つけることができた。

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(左)森のキャンプ場最寄りのメイリオネン停留所を通過
(右)下のループでは、後で通る線路が見えた

14時30分、ベズゲレルト Beddgelert で途中下車した。駅は、長坂を降り切る手前に位置する。カーブした島式ホームで、坂を上る機関車のために、給水設備も用意されている。美しいことで知られる村の玄関口だが、駅へのアクセスはフットパスと車椅子用の迂回路のみだ。村から行く場合、表通り(A498号線)の観光案内所前にあるバス停が目印になる。脇道の奥に駐車場があり、その一角の木柵を開けて小道を上ると、突然線路とホームが現れる。

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(左)ベズゲレルトで途中下車 (右)先を急ぐ列車を見送る
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村から駅へのアプローチ
(左)駐車場の一角にある木柵を開ける (右)未舗装の小道を上ると駅が現れる

なぜこれほど目立たないのだろうか。資料によると、リード・ジーから保存鉄道の延伸が計画されたとき、村民が駅の開設に強く反対したのが原因らしい。曰く、駅が大きくて風景を侵害する、居住地に近すぎる、村へ入る道路の交通量が増加する…。どうやら、鉄道によって静かな村に喧噪が持ち込まれることを懸念したようだ。スノードニア国立公園局も同調して、リード・ジーを除き国立公園内に暫定終点を置かないことを、建設の許可条件に盛り込んだ。そのため、2009年4月に駅が開業したものの、小さな待合所が置かれただけで、本格的な旅客用施設は未整備のままとなった。

しかし実際のところ、1日の列車が最大3往復では、目くじらを立てるような騒音被害は起こりそうにない。反対していた住民も肩透かしを食らった気分だろう。それどころか鉄道は、新たな効果をもたらした。鉄道が通じていなければ私たちは村を知らなかったし、この駅で下車した人は、他にも10人は下らなかったから。

幸運なことに、あれほど辺りを煙らせていた雨が、ここへ来て上がり、雲に覆われた空も明るさを取り戻しつつある。先を急ぐ列車を見送って、村に通じる小道を下りた。表通りに出ると、左手が灰茶色の石造りの家の建ち並ぶ村の中心部だ。歩いていくと、まもなくコルウィン川 Afon Colwyn に行き当たった。水音を立てながら流れ下る川を、古びた石橋が2連のアーチでまたいでいる。橋と、たもとに建つ宿屋との取り合わせは、素朴ながら凛とした雰囲気で人目を惹いた。

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コルウィン川の石橋と、たもとに建つ宿屋

橋のすぐ先でコルウィン川は、東から来るグラスリン川 Afon Glaslyn に合流する。家内たちが土産物屋を巡っている間に、私は通りから逸れて、川沿いの牧草地にある伝説の猟犬ゲレルトの墓(下注)を訪ねた。それから下流の鉄橋のところまで行き、谷を遡ってくる列車をカメラに収めた。村に戻った後は、ポースマドッグ行きの発車時刻までゆっくりティータイムを楽しむことができた。

*注 墓碑銘によると、ゲレルトの墓(ウェールズ語でベズ・ゲレルトBedd Gelert)にまつわる伝説は次のとおり。ゲレルトは、村に邸のあるスラウェリン王子の忠実な猟犬だった。ある日、留守から戻った王子は息子がいないことに狼狽する。ゲレルトも息子のベッドも血だらけなのを見て、彼は剣でゲレルトを手に掛けてしまう。そのとき息子の声がして、近くに狼の死骸を発見した彼は、自分が誤解していたことに気づく。王子はゲレルトをこの場所に葬り、その後二度と笑顔を見せることはなかった…。なお、この塚墓は伝説に則って18世紀後半に作られたものだそうだ。

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(左)グラスリン川沿いの散歩道 (右)村のセント・マリー教会
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猟犬ゲレルトの墓 (左)墓は突き当たりの独立樹の根元に (右)墓碑銘
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グラスリン川を渡るカーナーヴォン行き列車

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ベズゲレルト~ポースマドッグ・ハーバー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図116 Dolgellau 1953年版 に加筆

17時10分、ベズゲレルト駅から再びWHRの客となる。雨に襲われる心配がなくなったので、オープン客車に席を取った。短いゴートトンネル Goat Tunnel を抜けると、さっきロケを張った鉄橋を渡って、グラスリン川左岸に位置を移す。そこから約1kmの間はアベルグラスリン渓谷 Pass of Aberglaslyn で、沿線で唯一の瑞々しい渓谷風景が見られる。行く手を塞ぐように谷はどんどん深まっていき、列車は短いトンネル2本でしのいだ後、路線最長のアベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel(長さ 280m)で谷の最狭部をバイパスする。

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再びWHRの客に (左)グラスリン川に沿って下る (右)アベルグラスリン渓谷を縫う

闇を抜けると同時に、景色はがらりと変化する。ナントモル Nantmor の停留所を見送った後は、農地と湿地が混在する干拓地トライス・マウル Traeth Mawr の真っ只中に出ていく。右に90度向きを変えた地点が、旧クロイソル・ジャンクション Croesor Junction で、近傍のスレート鉱山へ向かうクロイソル軌道 Croesor Tramway との分岐点だったところだ。

軌道跡は線形がよく、わが機関車は帰りを急ぐかのように速度を上げる。羊の姿を隠すほど背丈の高い草の牧場をかすめていき、地方道と一緒に川幅が広がったグラスリン川を渡る。小さな待合室がぽつんとあるだけのポント・クロイソル Pont Croesor 停留所には停まらなかった。

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(左)クロイソル・ジャンクションへの90度カーブ (右)背丈の高い草が生える牧場
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(左)川幅が広がったグラスリン川を渡る (右)ポント・クロイソル停留所を通過

右の車窓に注目していると、側線が分岐し、並行するホームと複数の線路が現れた。ペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction / Cyffordd Pen-y-Mount だ。ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway(以下 WHHR)の走行線の終点になっている。

WHHRというのは、WHRやその運営者であるフェスティニオグ鉄道とは別の組織が運営する小さな保存鉄道だ。カンブリア線のポースマドッグ駅近くの拠点駅からここまで、約800m(下注1)の路線を有している。WHR側にはホームはなく、この列車も知らん顔で通過してしまうが、よく似た鉄道名や接近する線路を見れば、2つの鉄道が無関係でないことは誰でもわかる。実際、両者の間には、何十年にも及ぶ関わり、というより穏やかならぬ因縁がある(下注2)。

*注1 路線長は公称1マイル(1.6km)だが、実測では800m弱しかない。
*注2 この経緯は、「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV」で詳述している。

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ペン・ア・モイント ジャンクション
(左)側線(閉鎖中)が分岐する (右)看板の裏にWHHRのホームと線路
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WHHR(茶色破線)とWHR(右上から降りてくる破線)、カンブリア線(左右に走る破線)の位置関係

辺りが人里めいてきた。主要道のバイパスの下をくぐると、WHHRの「本線」は右へ緩いカーブを切って離れていくが、車庫や博物館のある雑然とした区画がまだ並行する。と突然、ガタガタと線路を渡る衝撃が襲った。標準軌のカンブリア線を横断するカイ・パウブ クロッシング Cae Pawb Crossing(下注)だ。

*注 かつては単にカンブリアン クロッシング Cambrian Crossing と呼ばれていた。

線路同士が平面で交差するのは珍しい。なかでも異軌間のそれは、国内でもここにしかない。歴史的には、クロイソル軌道のほうが開通時期が早く、標準軌線は遅れて敷かれている。なぜ立体交差にしなかったのか。想像するに、それまで軌道が運ぶスレート貨物は、ポースマドッグ港で船に積み込まれていた。しかし、標準軌線が開通すれば、貨物輸送はそちらに移行して(下注)、港線の往来は激減するだろう。それなら立体交差に費用をかけるまでもないという判断だったのではないか。最終的には港線ばかりか軌道全線が廃止されてしまったが、保存鉄道化に際して、昔のとおりに平面交差が復元された。

*注 先述のペン・ア・モイント ジャンクションはそのための積替え駅で、WHHRが使う1.6kmの路線は、元来ジャンクションへ通じる貨物側線(ベズゲレルト サイディング Beddgelert Siding)だった。

■参考サイト
Phase 4 - Completing the Welsh Highland Railway - Cae Pawb: The Cambrian Crossing
http://www.whrsoc.org.uk/WHRProject/phase4/cambrian.htm
カイ・パウブ クロッシングの再建過程を写真入りで詳細に紹介しているウェルシュ・ハイランド鉄道協会(愛好団体)のサイト

狭軌の旅のフィナーレは、ポースマドッグの市街地のへりを行く区間だ。計画時点では、ポースマドッグ・クロスタウンリンク Porthmadog cross town link と呼ばれた。旧線跡が商業施設に転用されてしまったため、ルートはその駐車場の東側に新設されている。カーブの多い線路をゆるゆると走った後、列車は一旦停止した。前方から警報機の唸る音が聞こえてくる。

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ポースマドッグ・クロスタウンリンク
(左)製粉工場スノードン・ミルの廃墟をかすめる
(右)駐車場の外側に新設された線路(いずれも別の日に撮影)

この先は、ポースマドッグ港に面するブリタニア橋 Britania Bridge という道路橋で、併用軌道になっている。信号で道路交通が遮断されると、列車は動き出し、橋上の道路に急カーブで進入する。ポースマドッグのハイ・ストリート High Street に、大柄なガーラット式機関車がゆっくりと割り込んでいくこのイベントは、今や町の名物の一つといっていい。列車はそのままポースマドッグ・ハーバー駅前をすり抜けて、新設された2番線へ滑り込む。時計を見ると17時50分、定刻の到着だった。

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ブリタニア橋の併用軌道へ急カーブで進入
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ブリタニア橋を一時占有する列車
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(左)列車通過の間、道路交通は完全遮断(別の日に撮影)
(右)ポースマドッグ・ハーバー駅新2番線に到着

カーナーヴォンからポースマドッグまで直通列車の走行を実現したWHRだが、長い路線の成立までには紆余曲折があった。次回はその経緯を追ってみたい。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト)
http://www.whrsoc.org.uk/

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年2月25日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I

カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間 39.7km
軌間 1フィート11インチ半(597mm)
開業 1922年、休止 1936年(旅客)1937年(貨物)、保存鉄道開業 1997~2011年

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カーナーヴォン城の塔屋から東望
WHRカーナーヴォン駅は中央左寄り、市街擁壁と二車線道路の間にある。右はセイオント川

ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)の起点駅は、カーナーヴォン城の高い城壁の上からよく見える。北ウェールズをめぐる最終日は、メナイ海峡を扼する要衝カーナーヴォン Caernarfon(下注)まで足を延ばし、狭軌保存鉄道でポースマドッグへ戻るという旅程を立てた。昨晩から雨が続いている。朝もけっこうな降り方で、ホテルの斜め向かいにあるバス停へ行くのに、ウィンドブレーカーのフードではしのげず、傘を必要とした。路線バス1系統で野や丘を越えて、カーナーヴォンまでは45分ほどだ。

*注 カーナーヴォンはかつて Carnarvon と綴ったが、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。ウェールズ語の発音はカイルナルヴォン(ルは巻き舌)。

到着したバス停から南へ少し歩けば、カッスル・スクエア Castle Square という広場に出る。目の前にそびえるカーナーヴォン城は、コンウィ Conwy やボーマリス Beaumaris、ハーレフ Harlech の古城とともに、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服のために築いた要塞だ。4か所まとめて世界遺産に登録されている。中でもここは首都の居城で、敷地の広さは先日行ったコンウィ城のざっと2倍はあるだろうか。高塔の数も多くて立派だ。

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(左)カーナーヴォンのバスターミナル (右)カッスル・スクエア、右奥に城が見える
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メナイ海峡を扼する要衝の地カーナーヴォン城を東の塔から西望
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中庭の円壇でチャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ戴冠式が行われた
右写真は当時の様子を伝えるパネル

城の見学を終えて、WHRの駅に通じる坂を下った。市街地を載せる段丘の下、セイオント川 Afon Seiont 沿いの低地の一角に、現在の駅はある。線路はプラットホームに接した本線と機回し線の2本きりで、出札兼売店のある建物も簡素な平屋のプレハブ仕立てだ。敷地に余裕がないので、運行基地はここではなく、途中のディナス Dinas に置かれている。

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WHRカーナーヴォン駅
(左)折返し運転に備えて機回しの最中 (右)線路2本きりの狭い構内

混まないうちにと、ポースマドッグまでの片道乗車券を買い求めた。途中のベズゲレルトに寄り道するつもりだが、同一日、同一方向なら途中下車は自由だと聞いた。正規運賃が大人25.60ポンドのところ、エクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass を見せたので半額になる。大人が同伴する15歳までの子ども1人はもともと無料だから、結果的に大人1人の正規運賃で家族4人が乗れるわけだ。しかし、あまり安いのも、なんだか悪いような気がする。

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WHRの片道乗車券

ちょうど折り返しとなる列車が到着したばかりで、降りた客が城や旧市街のほうへぞろぞろと移動するのが見える。駅の目の前に観光名所があるというのは、確かに大きなアドバンテージだ。しかし、WHRの魅力はそれにとどまらない。

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跨線橋から城の方角を望む。手前の赤茶色の建物が出札兼売店

カモメが飛び交うこの場所から、列車は内陸に入っていく。初めは牧場や林が現れては消え、中盤では、スノードニア国立公園の壮大な山岳風景が展開する。波静かな湖、清流の渓谷、天気がよければウェールズ最高峰スノードン山の雄姿も眺められる。後半は、農地が広がる沖積低地を走って、再び港の前に出る。景色はすこぶる変化に富んでいて、イギリス屈指の絶景路線といっても決して過言ではないのだ。

とはいえ、全線を乗り通すとなると、最速便でも2時間5分かかる。熱心な鉄道ファンでない限り、日帰りの往復乗車には少なからず忍耐が要求されよう。列車交換のある峠の駅リード・ジー Rhyd Ddu で折返すか、全線を走破するにしても、私たちのように片道は路線バスに任せるのが現実的だと思う(下注)。

*注 路線バス1系統はWHRのルートではなく、A487号線(旧国鉄アヴォンウェン線 Afonwen Line 沿い)を通るから、リード・ジーやベズゲレルトは経由しない。

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ウェルシュ・ハイランド鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

WHRの運行期間は2016年の場合、2月中旬から11月末の間だ。残念ながら列車本数は少なく、中間期は1日2往復、夏のピークシーズンでも3往復しかない。当初の運行計画は1時間間隔だったし、手元にある2007年の時刻表(当時はリード・ジーまでの部分開業)でも、繁忙期5往復、最繁忙期には6往復の設定がある。どうやらその後、大幅な見直しがかけられたようだ。思うように利用者が増えなかったのだろうか。本日のカーナーヴォン発は10時、13時、15時45分。私たちは13時発に乗るつもりだ。

ホームでは、その列車が折り返しの発車を待っている。牽引する蒸気機関車は、クリムソンレーキ(深紅色)をまとう1958年製の138号機。南アフリカで働いた後、WHRにやってきた。ボイラー部分が2つの台車にまたがって載る、ガーラット Garratt と呼ばれる連接式機関車だ。急曲線や勾配区間に適応しているので、線形の厳しいこの路線で第二の人生を送っていて、同僚機も数両在籍する。

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ガーラット式機関車138号機

客車は8両編成だが、さまざまな形式が混結されている。窓のないオープン形も1両挟まっているが、雨が吹き込んで、もはやシートはびしょ濡れだ。私たちはガラス窓のある3等車両に席を取った。貫通路をはさんで、2人掛けと1人掛けのボックス席が並ぶ。座席のモケットにはWHRとFR(フェスティニオグ鉄道)の図柄が織り込まれ、テーブルにも両線の略図が描かれている。2本の鉄道は今、一つの会社のもとで、姉妹鉄道のように運営されているのだ。

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(左)客車内。座席のモケットにはWHRとFRの図柄
(右)座席テーブルの路線図もWHRとFRを関連図示

あいにくの天気のせいか、乗客数はそれほど多くない。この車両も空席だらけだったが、発車間際に団体客がぞろぞろと入ってきて、急に賑やかになった。残念ながら窓は固定式で、撮影には向かない。結局、皮のベルトで窓の開閉を調節できるデッキドアの前にいる時間のほうが長かった。

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カーナーヴォン~スノードン・レーンジャー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 115 Pwllheli, 107 Snowdon いずれも1959年版 に加筆

カーナーヴォンを発車すると、初め、セイオント川の蛇行する谷に沿った後、鉄橋で対岸に渡る。それからしばらく、緑の牧場の中を行く。線路の右側(海側)をローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway(全国自転車道 National Cycle Route 8号線の一部)が並走している。それに気を取られて、途中のボントネウィズ停留所 Bontnewydd Halt の通過には、まったく気がつかなかった。リクエストストップなので、乗降客がいなければ停まらない。

約10分走り続けて、ディナスに着いた。かつてディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれた駅だ。狭軌線(下注)が運んできたスレート貨物を標準軌貨車に積替えていたので、構内は十分な広さを持っている。そこを買われて、駅は、カーナーヴォンの代わりに、保存鉄道の北の拠点に位置づけられた。機関庫や整備工場が整備され、側線は保存車両や工事車両のねぐらになった。ホームの端には石造りの小さな駅舎も見えるが、これは当時から残る建物を修復したのだという。

*注 商業鉄道時代のWHR、およびその前身のノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways。なお、現WHRのカーナーヴォン~ディナス間は標準軌の旧国鉄線だった。

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ディナス駅 (左)側線には工事用車両が留置 (右)ホーム先端の建物は復元駅舎
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ディナス駅の機関庫の前を通過

駅を出ると、列車は左に大きくカーブして、山手へと進んでいく。牛たちが寝そべる牧場があるかと思えば、こんもりとした森を境に、野の花が咲き乱れる草原が現れる。通過したトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction は、その名が示すように、旧線時代はブリングウィン Bryngwyn 支線を分岐していた。モイル・トラヴァン Moel Tryfan のスレート鉱山へ通じる路線で、今もパブリック・フットパスとして跡をたどれる。

左車窓に、グウィルヴァイ川 Afon Gwyrfai の流れが顔を見せるようになる。この後、峠までこの川が旅の友になるだろう。次のワインヴァウル Waunfawr 駅は、森に囲まれたひと気のない場所だが、跨線橋が架かる広い島式ホームで、機関車の給水タンクもある。保存鉄道の延伸過程で、2000~03年の間、列車の終点になっていた名残に違いない。しかし、この列車を乗り降りする人は一人もいなかった。

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(左)牧場で牛たちが寝そべる (右)付かず離れず流れるグウィルヴァイ川
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跨線橋の架かるワインヴァウル駅

川を何度か渡るうちに山が近づいてくるが、雨がひとしきり強くなり、降りてきた雲で稜線は隠されたままだ。プラース・ア・ナント Plas-y-Nant 停留所の手前では、谷が急に狭まってくる。川は早瀬に変わり、列車は急カーブに車輪をきしませながら、ゆるゆると通過した。

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プラース・ア・ナントの手前でいったん谷が狭まる

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

やがて右手にクエリン湖 Llyn Cwellyn の広い水面が広がって、乗客の目を奪う。水位安定のために人工の堰が造られているが、湖の出自は、氷河の置き土産であるモレーン(堆石)で堰き止められた、いわゆる氷河湖だ。浅いように見えても、水深は120フィート(37m)ある。線路は少しずつ坂を上っていくので、車窓から湖を俯瞰する形になるのがいい。

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(左)クエリン湖が見えてくる (右)霧雨に煙る牧場と湖面

湖面の際まで続く斜面の牧草地で、羊たちが草を食んでいるのが見える。のどかな景色を楽しみたいところだが、降りしきる雨のせいで湖面すら霞んできた。天気が良ければ進行方向にスノードン山頂が見えるのに、今はまったく霧の中だ。登山口の一つになっているスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger の停留所もあっけなく通り過ぎた。

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(左)クエリン湖が遠ざかる (右)スノードン山腹を流れ落ちるトレウェイニズ川 Afon Treweunydd

クエリン湖が次第に後方へ遠ざかる。列車は、山から下りてくる急流をカーブした石橋でまたぎ、なおも、岩が露出するスノードンの西斜面で高度を上げていく。山襞に沿って急曲線が連続するので、前を行く機関車もよく見える。クエリン湖は白く煙って谷を覆う霧とほとんど見分けがつかないが、間もなく見納めだ。ひときわ大きな岩山を左へ回り込んでいくとリード・ジー、全線のほぼ中間地点に到着する。

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スノードン山の西斜面で高度を上げていく
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(左)リード・ジー駅に到着 (右)待合室と機関車の給水施設
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雨の中、カーナーヴォン行き列車と交換

旅の続きは次回に。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト) http://www.whrsoc.org.uk/

★本ブログ内の関連記事
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 スノードン登山鉄道 I-歴史
 スノードン登山鉄道 II-クログウィン乗車記

2017年2月18日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ヴェイル・オブ・レイドル鉄道

アベリストウィス Aberystwyth ~デヴィルズ・ブリッジ Devil's Bridge 間 18.91km
軌間 1フィート11インチ3/4(603mm)
開業 1902年、保存鉄道化 1989年

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デヴィルズ・ブリッジ駅構内を遠望

カンブリア線のアベリストウィスは頭端式のターミナルだ。乗降用は1線だけの簡素な配線だが、ホームには幾何学模様をあしらった美しい屋根がかかる。正面には、大都市によくあるように、通りに面して間口の広い、垢抜けた雰囲気の石造りの建物が建っている。これは旧駅舎で、今はアル・ヘン・オルサーヴ Yr hen Orsaf(旧駅の意)という名の洒落たパブ兼ホテルだ。カンブリア線の切符売り場は、ホームに隣接した煉瓦の建物の中にある。

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アベリストウィス駅
(左)通りに面した旧駅舎、今はパブ兼ホテルに (右)頭端式の発着ホーム

今から乗るヴェイル・オブ・レイドル鉄道 Vale of Rheidol Railway(下注)はこの駅が起点で、レイドル川 Afon Rheidol の谷を遡ってデヴィルズ・ブリッジ Devil's Bridge まで、18.9kmの路線だ。軌間は1フィート11インチ3/4(603mm)の狭軌で、イギリスでは他に、南ウェールズのブレコン・マウンテン鉄道 Brecon Mountain Railway にしか例がない。もっとも、開通当時はフェスティニオグなどと同じ1フィート11インチ半(597mm)だったとされ、途中で微妙な調整が加えられているようだ。

*注 ヴェイル Vale はヴァレー Valley と同系語で、谷を意味するため、鉄道名は「レイドル渓谷鉄道」とも訳される。

ホームに出ると、標準軌線と狭軌線の線路が、頭端駅へ並んで入ってきている。それで、切符売り場もてっきりカンブリア線の隣にあるのだろうと見回したが、ない。慌てて近くの係員氏に聞くと、ホームの先だよ、と言う。線路に沿って通路が続き、200mぐらい歩いたところに、ようやく売店併設の小屋があった。切符を買った後、乗場へはまた本駅舎のほうへ戻るので、それだけで結構歩かされる。ついでに言うと、帰りも同じで小屋を経由しないと外に出られないため、出入口がしばらくの間混雑した。

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(左)ヴェイル・オブ・レイドル鉄道のホームは長い通路の先
(右)旧カーマーゼン線のスペースが転用された

2007~08年ごろの写真には、本線と機回し線の間に嵩上げしていないホームが見え、切符売り場も線路先端のすぐ右にある。以前はずいぶん手近な場所に、旅客用設備がまとまっていたのだ。ただこの場合、ホームへの通路が機回し線を横断して危険なのと、客車にステップで乗り込む不便さがある。その対策の結果が現在の形なのだろうか。

車庫の方から列車を牽く機関車がやってきた。スラウェリン Llywelyn の名をもつ8 号機だ。サイドタンクに "GREAT WESTERN" と大書されているのは、この路線がグレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway (GWR) の一支線になった1923年に、自社のスウィンドン工場 Swindon Works で製造されたことを意味している。落ち着いた緑の塗装も当時の再現だという。機関車は、開通当時からいた旧型機を参考に、長所は引き継ぎ、短所は改良する形で造られたいわば2世機だ。

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8号機スラウェリン、デヴィルズ・ブリッジ駅にて

客車は、屋根つきオープン車両3両、箱型車両3両、1等車1両という構成だった。乗客の人気がオープン車両に集中するのは学習済みなのだが、ホームで写真を撮っているとつい出遅れてしまう。箱型車両のほうに回ると、座席横の窓は締め切りで、両側に3か所ずつあるドアだけが皮ベルトのついた落とし窓になっている。往きはまだ席に余裕があったので、ドアの前をしっかり確保した。

この客車には貫通路はない。ドアはそれぞれ、車内で3分割されている区画(コンパートメント)の専用出入り口だ。各区画には向い合せのシートが2~3組配置され、ドア前のシートは2人掛け、ほかは3人掛けになっている。軌間はタリスリン鉄道より狭いのに、客車の内寸は逆にこちらのほうが広いような気がする。

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簡易なベンチが並ぶオープン客車

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箱型客車の内部は3区画に分かれ、各区画に向い合せのシートを2~3組配置

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ヴェイル・オブ・レイドル鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

ヴェイル・オブ・レイドル鉄道は今でこそ、公益財団 Charitable Trust が所有する保存鉄道だが、その前はれっきとした英国国鉄 British Rail の路線で、1968年からは国鉄最後の蒸気鉄道として知られていた。年譜を遡ると、本来は1902年に、谷で伐り出した木材(下注)と鉛鉱で産出する鉱石を搬出するために造られた鉄道だ。貨物はアベリストウィスで標準軌線の貨車に積み替えられるか、港への支線を通って船に引き継がれていた。しかし、輸送の主軸はまもなく貨物から、悪魔の橋やその周辺を訪れる観光客に移る。

*注 木材は南ウェールズの炭鉱で、坑道の支柱に使われた。

1913年にカンブリア鉄道 Cambrian Railways に吸収されるが、1922年の4大会社(ビッグ・フォー The Big Four)への集約で、グレート・ウェスタン鉄道の路線となる。グレート・ウェスタンは起点駅の移転や、先述した機関車の更新など、路線に積極的な投資を行った。一般旅客の道路交通への移行で1931年に冬季の運行を中止してからは、オープン客車の増備など観光列車の充実に力を注いだ。

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駅名標、ヴェイル・オブ・レイドル鉄道乗換の記載も

第二次世界大戦後の1948年に4大会社は国有化され、英国国鉄に統合された。路線は、1963年の有名な「ビーチング報告書 Beeching Report」(下注)が巻き起こした嵐の中でも生き残ったが、中間の待避所は撤去され、全線1閉塞となった。1966年にはアベリストウィス駅で、廃止されたカーマーゼン線 Carmarthen line の敷地を使ってルート変更が実施され、幹線の機関庫が狭軌用に転用された。標準軌線の隣のホームを使う現在の形になったのはこの時だ。

*注 リチャード・ビーチング博士 Dr. Richard Beeching による、英国鉄道の徹底的合理化を進言した報告書。これに伴う大規模な路線廃止は「ビーチングの斧 Beeching's Axe」と呼ばれた。

しかし、大鉄道の傘下で続けられた路線の歴史は、サッチャー政権時代に幕を閉じる。国鉄合理化策の一環で経営を切り離すことになり、1989年に民間に売却されたのだ。しかし、ウェールズの他の多くの保存鉄道と異なるのは、ボランティアの手を借りずに、有給のスタッフだけで運営されている点だという。観光鉄道としてそれだけの集客力があるということだろうか。

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アベリストウィス~アベルフルード間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

雲の隙間から薄日もさす中、列車は12時15分定刻に発車した。車庫の脇をすり抜け、構内から出て、しばらくはカンブリア線の線路と並行する。これまで訪れた保存鉄道と雰囲気が違うように感じるのは、都市郊外の倉庫や工場が見える一帯を通っていくからだ。一つ目の停留所スランパダルン Llanpadarn もそのエリアにあるが、列車交換がないのに何分も停まった。再び走り出すと、カンブリア線が左に離れていく。レイドル川を木製トレッスルで渡って、線路は左岸に移った。この後はずっと左側に景色が開ける。右手の線路際にはまだ殺風景な工業団地が続いているが、左は茂みの間に河原が顔を出す。

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(左)しばらくカンブリア線と並走 (右)レイドル川を木製トレッスルで渡る

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カペル・バンゴル駅 (左)工事用車両を留置する側線 (右)小さな駅にもフラワーポットが

二つ目の停留所グラナラヴォン Glanyrafon が、ちょうど開発地と田園風景との境目だ。列車は、広い谷の中の牧草地を突っ切っていくが、のんびりと寝そべる牛たちはびくともしない。次はカペル・バンゴル Capel Bangor 駅で、対向設備とともに工事用の車両を留置しておく側線がある。起点から7.2km、すでに20分ほど揺られてきたが、標高はまだ23mに過ぎない。線路が載る地形としてはここまでが平地で、この後は、ヴェイル・オブ・レイドル Vale of Rheidol(レイドル川の谷、ウェールズ語ではクーム・レイドル Cwm Rheidol)の南壁にとりついて、じわじわと高度を上げていくことになる。

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(左)のどかな牧場の風景 (右)乗馬教室?の生徒たちが手を振ってくれる

駅を出ると、まず右の車窓に森になった谷壁が迫ってくる。それから少しずつ川が流れる谷底を離れていく。すでに1:50(20‰)~1:48(20.8‰)の急勾配が断続していて、せわしないドラフト音が数両隔たったここまで届いてくる。時折、ポーッポッという甲高い汽笛が山にこだまする。いっとき森が途切れて、のびやかな牧場の風景が開けたと思ったら、ナンタローネン Nantyronen の停留所だった。待合所とベンチは作りたてのような艶を保ち、真っ赤なゼラニウムがアクセントをつけている。ホームの端に設置された水タンクから、機関車は往路最後の給水を受けた。

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絵のように美しいナンタローネン駅では給水停車

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刈取りの済んだ草地にヘイロールが転がる

次のアベルフルード Aberffrwd は起点から12.5kmで、すでに全線の2/3を走ってきたことになる。標高も85mまで上がり、周囲は森で、いよいよ山の気配が漂ってきた。ここも対向設備がある駅だ。風景に集中していたせいで、谷を降りてきた列車に気づくのが遅れ、機関車の写真を撮り損ねた。現在、この鉄道で稼働中の蒸機は2機しかなく、牽いていたのは黒光りの9号機「プリンス・オブ・ウェールズ Prince of Wales」に違いないのだが、結局拝めずじまいだった。

Blog_wales_rheidol13(左)アベルフルード駅 (右)山の気配が漂ってきた

谷の底は平地で、おおかた生垣で区切った放牧地に利用されている。その草の絨毯に割り込むようにして、クーム・レイドル貯水池が現れた。斜面の深緑と薄曇りの空を静かな水面に映している。日差しは途絶えたが、天気はなんとか持ちそうだ。谷の斜面を切り欠いて造られた線路は、細かいカーブを繰り返す。左カーブのときが狙い目なので、カメラを構えた。車両の前の方にも中年の鉄道ファンが乗っていて、同じタイミングで窓から大きな体を乗り出している。そのつど「こんなのが撮れた」と言うように隣席の奥さんにモニターを見せるのだが、あいにく奥さんの反応はそっけない。他人事とも思えず、苦笑してしまう。

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(左)クーム・レイドル貯水池を見下ろす (右)奥に見える川べりの建物は発電所

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レイドル谷の斜面を上る。窓から大きな体を乗り出す鉄道ファン

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アベルフルード~デヴィルズ・ブリッジ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

アベルフルードからは本格的な上りで、終点近くまで1:50の勾配が途切れることがない。機関車を操る機関士にとっては正念場だ。途中にレイドル・フォールズ Rheidol Falls とリウヴロン Rhiwfron の2か所の停留所があるのだが、どちらも速度を緩めることなく通過した。谷底からの高度差はすでに120mほどになり、いつのまにかレイドル川も森の陰に沈んでしまった。最後は、河川争奪で生じたV字の渓谷(本稿末尾で図解)を左に見送って、比較的なだらかな台地の上へ這い上がる。切通しをくぐれば終点のデヴィルズ・ブリッジだ。

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(左)レイドル・フォールズ停留所の東方、緑の谷底に小さな採掘跡
(右)カーブも勾配も厳しさを増す

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レイドルのV字谷を左に見送る

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(左)台地の上へ這い上がる (右)終点デヴィルズ・ブリッジ到着

アベリストウィスからちょうど1時間、時刻表どおり13時15分の到着だった。駅は広場と一体になっていて、着いた客と乗り込む客で屋台も土産物屋も繁盛している。その隣では、子供たちが小型機関車マーガレット Margaret の乗車体験を楽しんでいた(冒頭写真)。

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デヴィルズ・ブリッジ駅
(左)機関車は帰路の準備 (右)機回し線は切通しの中へ続く

駅名になっているデヴィルズ・ブリッジ(悪魔の橋)というのは、駅前の道路を左手に400mほど下っていったところにある。マナッハ川  Afon Mynach が刻んだ深い谷に、3本の橋が上下に重なって架かっている。ここは近辺の観光名所で、沿線にほとんど集落のない小鉄道が廃止を免れてきたのも、これがあるおかげだ。一番下にあるのが悪魔の橋の伝説をもつ11世紀の石造アーチ橋で、その上にあるのが1753年建造の石造アーチ橋、現在使われている一番上の鉄製の桁橋は1901年に架けられた。

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(左)現 悪魔の橋。2代の石橋はこの直下に
(右)デヴィルズ・パンチボウルへ降りる遊歩道(橋上から撮影)

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(左)有料遊歩道の入口 (右)時間のない人は向かいのパンチボウル入口へ

悪魔の橋伝説は、ヨーロッパ各地で語り継がれている(下注)。たいていは村人の前に悪魔が現れて、橋を架ける話を持ち掛けるところから始まる。この橋を請け負った悪魔も、最初に橋を渡った者の魂を報酬にもらうと宣言するのだが、橋が完成したとき、老婆が投げたパンを追って犬が先に渡ってしまう。悪魔は約束が違うと腹を立てて立ち去り、橋だけが残ったというストーリーだ。

*注 本ブログ「MGBシェレネン線と悪魔の橋」で扱ったスイスアルプス山中の石橋もその一つ。

橋は親亀子亀のように重なっていて、しかも上の橋ほど道幅が広いので、古い橋を見たければ谷へ降りるしかない。それで、橋の北詰の道路脇に、溪谷を巡る有料遊歩道の入口がある。左側のそれがメインルートで、3代の橋を仰ぎながら、さらに渓谷の底の、マナッハ川がレイドル川に合流する地点まで降り、対岸に上ってくる。要する時間は少なくとも45分だ。地形図によれば高度差約100mの往復が必要で、かつ、滝のしぶきで濡れて滑りやすい石段が続くから、結構ハードなコースに違いない。

それでガイドブックは時間のない人、脚力に自信のない人にもう一つのルートを薦めている。道路右側にある別の入口から入って、大型の甌穴デヴィルズ・パンチボウル Devil's Punchbowl を見に行くというものだ。これは10分で往復できるが、橋は直下から見上げる形になる。

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渓谷を巡る2本の遊歩道の見取り図
橋から見て左入口がメインルート、右入口がパンチボウル見学の遊歩道

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3代重なる悪魔の橋とマナッハ川溪谷
Photo by William M. Connolley from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

折返し列車の発車まで1時間の余裕があるのだが、駅の周辺で写真を撮っていたら、遊歩道にチャレンジする時間がなくなってしまった。残念だが、悪魔の橋がどのような形をしているのかは、ウィキメディアの写真でご覧いただくことにしよう。

■参考サイト
3代重なる悪魔の橋(Wikimedia、右写真)
https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Devils-bridge-pano.JPG

2代目現役時代の写真(Wikimedia)
https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Devils_Bridge_Aberystwith_Wales.jpg

ヴェイル・オブ・レイドル鉄道(公式サイト)
http://www.rheidolrailway.co.uk/

次回は、北ウェールズのカーナーヴォンから、ウェルシュ・ハイランド鉄道に乗車する。

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Vale of Rheidol Railway Visitors Guide" Vale of Rheidol Railway および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-タリスリン鉄道
 ウェールズの鉄道を訪ねて-アベリストウィス・クリフ鉄道

 

【参考】デヴィルズ・ブリッジ付近の河川争奪

左図:
1.当地点から上流は、かつてはるか南のカーディガン Cardigan へ流れ下るタイヴィ川 Teifi の流域だった。
2.第四紀の間に、イストウィス(アストウィス)川 Ystwyth が、谷頭侵食によってタイヴィ川の上流部を争奪した。
3.次いでレイドル川 Rheidol が谷頭侵食によって、イストウィス川となった上流部を争奪した。デヴィルズ・ブリッジ付近ではレイドル谷の下刻が進行し、V字谷が生じた。

右図:
デヴィルズ・ブリッジ以南の、もとのタイヴィ川の流路(推定)を矢印で示す

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タイヴィ川流域の河川争奪過程
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デヴィルズ・ブリッジ~トレガロン湿地北部Tregaron Bog Northの地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

2017年2月 4日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェアボーン鉄道

フェアボーン Fairbourne ~バーマス・フェリー Barmouth Ferry 間 3.2km
軌間 1フィート1/4インチ(311mm)
開業 1895年、保存鉄道化 1916年

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機関士が巨人に見えるフェアボーン鉄道の機関車。背景はバーマス鉄橋

タリスリン鉄道訪問の後、フェアボーンに移動した。タウィン Tywyn から列車でほんの20分ほどだが、この間に、山が海に直接落ちるヴリオグの断崖 Friog cliffs という難所がある。線路は、海面から高さ約30mほどの崖の中腹に通されている。過去、落石による機関車転落事故が2度発生した現場で、列車は時速25~30マイル(40~48km)の徐行を強いられる。その代わり、眺望は何度見てもすばらしい。南から行くと、湾の向こうにバーマスの町が見え、次に長く延びる砂浜が近づいてきて、列車はそれに向かって飛行機が着陸するように高度を下げていく。

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(左)カーディガン湾に沿って北上
(右)マウザッハ川の河口に接近(フェアボーン南方)
「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」に使用した写真を再掲
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ヴリオグの断崖を振り返る(翌日撮影)

フェアボーンの村はその砂浜に載っている。降りた駅も棒線上の無人駅だ。対するフェアボーン鉄道 Fairbourne Railway の始発駅は、通りの向かいに敷地を構えている。早めに乗車券を買い、施設をひととおり見て回った。鉄道は、ここから砂嘴の先端まで3.2km延びているが、軌間は1フィート1/4インチ(311mm)と、フェスティニオグやタリスリンの約半分だ。機関車はフルサイズ鉄道のそれを縮小して造られていて、分類としてはミニチュア鉄道(鉄道模型)になるそうだ。英語では Ridable miniature railway、つまり人が乗れる鉄道模型だ。

しかし、駅構内は立派に駅の要件を満たしている。並行する3本の線路に沿って、管理棟らしき長い建物が2棟建つ。中は切符売り場を兼ねた売店があり、その奥は本物(?)の鉄道模型のレイアウトスペースだ。建物の裏を覗くと、整備工場と留置線が見えた。小さな待合所だけのカンブリア線の駅とは、比べものにならない。ただ、なぜか客用のトイレはなくて、駅前の公衆トイレを案内された。旅客営業しているというより、趣味で動かしている鉄道だけれど乗ってもいいよ、というスタンスかもしれない。

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ミニチュア鉄道とはいえ、整備された構内をもつフェアボーン駅
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フェアボーン駅 (左)機回し用側線が分岐 (右)奥はヤードと機関庫につながる

ちょうど前の列車が帰ってきたところだった。牽いていたのは、759のナンバーをつけた「ヨー Yeo」号、デヴォン州リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railway の同名の機関車のハーフサイズモデルだ(下注)。1978年製で、後述するように、フランスの廃止線から移籍してきた。どれだけ小さいかを実感するには、下の写真を見ていただくのが一番だろう。

*注 ヨーは、バーンスタプルを流れる川の名。

つないでいる客車は7両で、コンパートメントの箱型車両の間に、オープンタイプの屋根付きが1両、屋根なしが1両挟まっている。席は、当然そこから埋まっていく。ベンチシートは大人なら2人しか掛けられない狭さなので、現地の人たちは大きな身体を折り曲げて、かろうじて車内に納まる。

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車両の小ささを実感 (左)機関車「ヨー Yeo」号 (右)箱型客車

フェアボーン鉄道は、もともと1895年に、2フィート(610mm)軌間で造られている。フェアボーンの村を造る建築資材の運搬が敷設の目的だったが、まもなくフェリー乗り場へ行く観光客を乗せるようになった。1916年には、観光開発に専念するため、1フィート3インチ=15インチ(381mm)の蒸気鉄道に改軌された。所有者は何度か替わり、1940年にはいったん運行休止となっている。

第二次世界大戦を挟んで、鉄道は、実業家ジョン・ウィルキンズ John Wilkins により1947年に再開された。1960~70年代初期にはリゾート客の人気を集めて、利用者数がピークに達したものの、その後、実績が落ち込む。1984年には、エラートン家 Ellerton family に売却された。

ジョン・エラートン John Ellerton は、鉄道を立て直すために思いきった梃入れを図った。フェアボーンの駅舎を新設するとともに、機関車も一新しようと、ブルターニュのレゾー・ゲルレダン観光鉄道 Réseau Guerlédan Chemin de Fer Touristique の余剰機関車を調達した。この鉄道は、メーターゲージ線の廃線跡を利用して1978年に開業したのだが、資金不足で翌年あっけなく休止となり、新製間もない機関車の引取り先が求められていたのだ。軌間が1フィート1/4インチ=12インチ1/4(311mm)だったため、フェアボーンではそれに合わせる改軌工事が行われた。代わりに、働く場をなくした1フィート3インチ軌間の機関車のほとんどが、世界各地に放出された。

しかし、エラートン時代も長くは続かず、1995年にトニー・アトキンソン教授 Professor Tony Atkinson らが新たなオーナーに就任した。それ以降、機関車の信頼性を高め、線路の状態を改良するために、相当額の資金が投じられた。2011年に彼が亡くなったため、鉄道はまたも拠り所を失ったが、スタッフの削減や寄付の奨励によって、何とか今まで運行が続けられている。

線路が延びているのは、マウザッハ川 Afon Mawddach の三角江を閉ざすように延びる砂嘴の上だ。それ自体はただの砂山なのだが、先端のペンリン・ポイント Penrhyn Point からカンブリア線の名橋、バーマス鉄橋 Barmouth Bridge が正面に見える。また、そこに発着するフェリーを使って、対岸にある人気の観光地バーマス Barmouth へ渡ることもできる。単純に往復するもよし、旅に変化をつけるパーツにするもよし、愛好家はもとより、一般旅行者も十分楽しめる保存鉄道なのだ。

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フェアボーン鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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フェアボーン鉄道沿線の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

後の列車で来た家族と合流して、次の列車に乗り込んだ。機関車は「シェルパ Sherpa」号だ(冒頭写真の機関車)。レゾー・ゲルレダンから来た蒸気機関車の1両で、ブルーの塗装を含めてダージリン・ヒマラヤ鉄道のB形タンク機関車をモデルにしている。ただし、運転士の載るスペースからテンダーにかけては追加仕様だ。

15時40分、定刻に発車した。駅構内を抜けると、まずはビーチ・ロード Beach Road に沿う直線路を進んでいき、海岸に突き当たって右に折れる。そこが最初の停留所ビーチ・ホールト Beach Halt で、駅名が示すように、目の前に護岸堤防がある。その形から「ドラゴンの歯」と呼ばれるコンクリートの固まりの列は、第二次世界大戦中に造られた対戦車ブロックだ。

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バーマス・フェリー駅に向けて出発
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ビーチ・ロードに沿う直線路へ
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(左)最初の停留所ビーチ・ホールト
(右)大戦の記憶をとどめるコンクリートブロックの列「ドラゴンの歯」(カンブリア線車窓から撮影)

短いルートながら、途中に4か所の停留所があり、列車は律儀に停まっていく。次は9ホールのゴルフ場の最寄りとなるゴルフ・ホールト Golf Halt だ。駅名標に、アングルジー島の有名な世界一長い駅名(下注)よりも長い副駅名が記されているので注目したい。 "Gorsafawddachaidraigodanheddogleddollonpenrhynareurdraethceredigion"、全部で67文字ある。ウェールズ語の意味は、「カーディガン湾の黄金の浜の上のペンリン・ロードの北の平和な地にあるマウザッハ駅とそのドラゴン」、ドラゴンとはもちろん先述のドラゴンの歯のことだ。

*注 ノース・ウェールズ・コースト線のスランヴァイルプール Llanfairpwll 駅、正式名は、"Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch"(58文字)

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(左)67文字の副駅名が添えられたゴルフ・ホールトの駅名標
(右)砂嘴に広がるゴルフコース
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(参考)スランヴァイルプール駅の駅名標(2007年撮影)

続いてはループ・ホールト Loop Halt 。ループはパッシング・ループ passing loop(待避線)のことで、ここで列車交換がある。地図上ではずっと海岸線を走るように読めるが、海側は草の生えた砂の丘が終始続き、列車から大海原は見えない。逆に内陸側では、このあたりから砂嘴が細まってきて、潮の引いた三角江とそれを横断するバーマス鉄橋の眺望がどんどん開けていく。

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(左)ループ・ホールトで列車交換 (右)右手にバーマス鉄橋が見えてくる

最後の停留所はエスチュエリー・ホールト Estuary Halt 、エスチュエリーは三角江を意味する。一般道路はここが終端となり、先に進める乗り物は列車だけだ。

カルバートの短いトンネルを抜けて右カーブし、次いで左に大きく回り込みながら、列車は停止した。終点バーマス・フェリー駅に到着だ。客が全員降りると、さっそく機関車を前後付け替える機回し作業が始まった。線路は本来バルーンループになっていて、機回しの必要がなかったのだが、現在ループの合流部は閉鎖され、飛砂に埋もれかけている。

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(左)終点バーマス・フェリー駅に到着 (右)さっそく機回しが始まる
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バーマス・フェリー駅全景

右手、砂浜の向こうに、長さ699mのカンブリア線バーマス鉄橋が延びる(下注)。真正面で500mほどしか離れていないので、あまりに長く、カメラもパノラマモードでなければ全貌を写し取ることは不可能だ。今は干潮なので北端の水路を残してほとんど砂に覆われているが、潮が満ちてくれば海に浮かぶ橋になるのだろう。眺めていたら、南からちょうど列車が渡ってきた。

*注 バーマス鉄橋については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」も参照。

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バーマス・フェリー駅から見たバーマス鉄橋のパノラマ
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カンブリア線の列車が渡ってくる
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バーマス鉄橋側から見た、フェアボーン鉄道が走る砂嘴とバーマス・フェリー駅舎(中央の建物、満潮時に撮影)

対岸との間を結ぶバーマス・フェリーが、目の前の浜辺でこちらへ渡ってきた客を降ろしている。フェリーと言っても、クルマを積込むような船を想像してはいけない。実態はふつうのモーターボートを使った渡し舟だ。潮位が高いときは、町の護岸の下まで行ってくれるのだが、干潮の今は、突堤の海側の砂浜が船着き場になっている。ボートは砂に乗り上げるようにして止まり、鉤のような道具を舟先に引っ掛けて踏み板が渡される。客は、船頭氏に手を添えてもらって乗り降りする。チップほどの運賃を渡して、私たちもボートに乗り込んだ。

天気予報が言っていたとおり、昼過ぎから薄雲が出始め、3時ごろには日差しも途切れて、空全体が雲に覆われた。その分、海風が涼しい。乗船時間はものの数分だが、到着した地点から町まで、砂の上を延々歩かなくてはならなかった。

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バーマス・フェリー(渡し舟)で対岸へ

バーマスの町はよく賑わっていた。山と海と三角江に臨むシチュエーションは、かのワーズワースも賞賛したと言われ、今もなおカーディガン湾屈指のレジャースポットだ。行列ができていた店で買ってきたフィッシュ・アンド・チップスを、川沿いのテラスでほおばる。

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こじゃれた雰囲気をもつバーマス市街

家内たちがささやかなショッピングを楽しんでいる間、私は町はずれの高みまで行って、バーマス鉄橋の再俯瞰を試みた。列車はさきほど通ったばかりなので、主なき構図になってしまうのは承知の上だ。夕方というのに、鉄橋に併設されているフットパスを、人がけっこうぞろぞろと歩いている。

18時のプスヘリ Pwllheli 行きで帰るべく、カンブリア線のバーマス駅まで移動した。山側にある本来の駅舎はすでに閉まっていて、海側のホームへ廻れと案内が出ている。列車交換がないので、夕方以降は片側のホームを使用していないようだ。レジャー帰りのにぎやかな人たちに混じって、私たちも鉄橋のほうからやって来た気動車の客になった。

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マウザッハ川の三角江を横断するバーマス鉄橋
「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」に使用した写真を再掲
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カンブリア線バーマス駅、駅舎はすでに閉まっていた

次回はさらに南下して、アベリストウィスの鋼索軌道(ケーブルカー)に乗る。

■参考サイト
フェアボーン鉄道 http://www.fairbournerailway.com/
バーマス観光案内(公式サイト)http://barmouth-wales.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-タリスリン鉄道

2017年1月28日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-タリスリン鉄道

タウィン・ワーフ Tywyn Wharf ~ナント・グウェルノル Nant Gwernol 間 11.67km
軌間 2フィート3インチ(686mm)
開業 1866年、保存鉄道化 1951年

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タウィン・ワーフ駅の機回し風景

ポースマドッグ Porthmadog から、7時47分発のカンブリア線気動車に乗り込んだ。車内は見事にすいていたので、海側に座って、カーディガン湾の開放的な景色を思う存分眺めることができた。今朝もすっきりと晴れ渡り、空気はひんやりしている。酷暑の国から来た身にはまるで別世界だ。当地で快晴が3日も続くのは珍しく、テレビの天気予報も、さすがに午後からは雲が出てくると言っていた。

タウィン Tywyn で下車する。きょうの前半は、タリスリン鉄道 Talyllyn Railway(下注)を往復するつもりだ。小型蒸機が活躍する保存鉄道で、海岸の避暑地タウィンから、東の山中のナント・グウェルノル Nant Gwernol に至る12km弱を走っている。軌間は2フィート3インチ(686mm)と、フェスティニオグほどではないにしろ、かなり狭い。

*注 Talyllyn は Tal-y-llyn とも書かれ、終点が属する教区の名だ(山間の美しいタリスリン湖にあやかったとも言われる)。タラスリン、タル・ア・スリンと表記すべきところだが、慣用に従いタリスリンとした。

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タリスリン鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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タリスリン鉄道沿線の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 127 Aberystwyth 1960年版 に加筆

始発駅タウィン・ワーフ Tywyn Wharf は、カンブリア線のタウィン駅から少し距離がある。駅前の道を右へとり、線路に沿って300mほど歩くと、次の交差点の傍らに小ぶりの駅舎が建っている。屋根はスレート葺き、壁は煉瓦積みの伝統的な外見だが、実は2005年の再開発事業による新築だ。平屋部分が事務所、切符売り場、売店等で、隣の2階建部分は鉄道博物館になっている。

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(左)カンブリア線でタウィン駅下車 (右)タウィンの小さな市街地
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タウィン・ワーフの駅舎は2005年に改築された
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タウィン・ワーフ駅
(左)ささやかな始発駅の構内
(右)標準軌線に並行する側線はスレート貨物を積替えていた跡

さっそく乗車券を買った。特に言わなければ、寄付金つき一日券 Donation Day Rover の運賃になるようだ。その代わり、乗車券と一緒に渡される運賃15%分のバウチャーが、売店やカフェでの支払いに使える。私はウェールズ・パスを見せたので、運賃自体が20%オフになった。

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往復乗車券

ホームに出ると、短いながらもポースマドッグのハーバー駅を思わせる明るい庇屋根とフラワーバスケットの列が迎えてくれる。すでにコンパートメント形の客車がホームにつけられていた。扉が片側にしかないが、これには深い訳がある。

150年前、鉄道の建設工事の最終盤のことだ。商務省検査官による完了検査の結果を聞いた鉄道会社の役員は青ざめた。跨線橋の内寸が車両限界より小さいため、跨線橋の下で列車が立ち往生したときに、乗客が車両から脱出できない、として改善命令が出たからだ。従わなければ運行が開始できない。とはいえ、いまさら車両も跨線橋も造り直すわけにはいかない。そこで、会社は苦肉の策をひねり出した。跨線橋の下の線路位置を右にずらして左側に規定の空間を確保し、そのうえで車両は右扉を閉鎖して、左扉のみ使用するという妥協案だ。これでかろうじて検査に合格し、鉄道は開通を果たした。片側扉はその名残なのだという。

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(左)客車は片扉 (右)貫通路はなく、ボックスごとに扉がある

始発列車の出発は10時30分で、まだ1時間近くある。隣の鉄道博物館を覗くと、小型機関車にスレート貨車、硬券乗車券その他の小物と、狭軌鉄道のコレクションが充実している。しばらく見学しているうちに、時間はたちまち過ぎていった。

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鉄道博物館の展示品

タリスリン鉄道もまた、スレート運搬のために開設された鉄道だ。この地域では、1840年代からタウィン(下注)の北東7マイル(11km)のブリン・エグルイス Bryn Eglwys で、本格的な採掘が営まれていた。しかし、そのスレートは駄馬で南の山を越え、ペンナル Pennal から川舟でダヴィー川を下り、河口で貨物船に積み替えるという非常に手間のかかるルートで輸送されていた。そのため、さらなる増産は困難だった。

*注 タウィン Tywyn は、1975年まで Towyn と綴った。

1864年にイングランド北西部の工場主の一人ウィリアム・マッコーネル William McConnel が、商売の多角化のために採掘場の経営に乗り出した。彼は、輸送路を確立しようと、当時標準軌の鉄道が来ていたタウィンまで、軽便鉄道の敷設を計画した。採用された2フィート3インチ(686mm)という軌間は今では珍しいが、当時、近隣のコリス鉄道 Corris Railway ですでに使われていた規格だ。目的地のブリン・エグルイスは標高250mの山中にある。それで鉄道は、2か所のインクライン(勾配鉄道)を連ねて、必要な高度を稼いだ。

*注 コリス鉄道は、マハンレス Machynlleth(標準軌線開通以前はさらに下流のデルウェンラス Derwenlas)からコリス Corris やアベルスレヴェンニ Aberllefenni のスレート鉱山へ延びていた軽便鉄道。1859年開通。現在は、山中のコリスに1.2kmの短い保存鉄道が復元されている。

鉄道は1866年に完成し、同じ年に労働者や一般旅客の輸送も始まった。スレート生産がピークを過ぎると、近所のタリスリン湖やカデア・イドリス(カダイル・イドリス)山 Cadair Idris と組み合わせたグランド・ツアーを企画して、旅行客の掘り起こしにも努めた。

1910年にマッコーネルが手を引いた後は、地元の地主で下院議員だったハイドン・ジョーンズ Haydn Jones が採掘場と鉄道を引き継いだ。第一次世界大戦が終結すると、旅行者は再び増加に転じた。客車不足を補うために、スレート貨車に板張りの座席をしつらえて急場をしのいだことさえあった。観光輸送は運営費用の足しになったが、しかし十分な利益をもたらすほどではなかったようだ。

鉄道の経営を支えていたのは依然、スレート貨物だった。しかし、第二次大戦後の1946年に大規模な崩壊が起きて、採掘場は閉鎖のやむなきに至る。ハイドン・ジョーンズは、自分が生きている間は列車を動かすと公言していたので、鉄道は週2日に限って、細々と走り続けた。だが、1950年に彼が亡くなると、運行休止の懸念が現実のものとなった。

今から思えば、鉄道を救うための社会活動は、彼の死をきっかけにして動き出したのだ。バーミンガムの新聞社の協力で、考えを同じくする人々が集い、準備作業が始まった。鉄道会社の株式は持ち株会社に移し、運営は保存協会が担うことにして、早くも1951年のシーズンには、保存鉄道としてのスタートが切られた。

ハイドン・ジョーンズの最晩年に稼働していた機関車は、2号機ドルゴッホ Dolgoch だけだった(下注)。そこで、先ごろ休止となったコリス鉄道から2両の機関車が購入され、3号サー・ハイドン Sir Haydn、4号エドワード・トーマス Edward Thomas と命名された。小さな鉄道は1957年にBBCの番組で紹介されたことで人気が高まり、運営が軌道に乗ったと言われている。

*注 1号機タリスリンは、戦時中酷使されたために故障し、修理待ちの状態だった。

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2号機関車ドルゴッホ

今年(2016年)の運行期間は、3月中旬から10月末と、冬季の一部の日だ。ピークシーズンには1日6便が運行されている。所要時間は往路が55分、復路が82~87分だ。復路のほうが長くかかるのは、途中のアベルガノルウィン Abergynolwyn で休憩タイム refreshment break があるためだ(下注)。

*注 最終便は往路に休憩タイムが設定されており、所要時間は逆転する。

博物館の中では、ほとんど一人だった。ところが、出発15分前にホームに戻ると、すでに客車のどの区画にも客の姿がある。私も、母と娘とおぼしき3人連れがいる区画に入れてもらったが、発車直前に、途中の信号所へ赴くという老スタッフ氏も乗り込んできた。向い合せのシートは一応片側3人掛けではあるものの、大人5人が入ると少々窮屈だ。スタッフ氏は「狭くて悪いね」と恐縮していたが、繁盛しているのだから結構なことだ。

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フラワーバスケットで飾られた始発駅のホーム

前につく機関車はそのドルゴッホ。1866年製で、ずっとこの鉄道を仕事場にしてきた最古参機だ。列車は、出発するといきなり掘割の中を行く。タウィンの町は背後の山から続く微高地に載っていて、線路はこれを切り通して造られているからだ。

一駅目のペンドレ Pendre は、機関庫、車庫、整備工場が置かれて、鉄道の管理拠点になっている。それからしばらく、広々とした牧場の中を進んでいく。明るい光が一面に降り注ぎ、羊たちが無心に青草を食むのどかな景色に心が和む。リダローネン Rhydyronen という野中の小さな駅にも、列車を待つ人の姿があった。無人の待合室のように見えた建物は、驚いたことに切符売り場兼売店で、人が配置されているらしい。

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(左)機関庫のあるペンドレ駅 (右)タウィンの町を抜けるとのどかな牧野が広がる
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(左)リダローネン駅では降車客あり (右)ナナカマドの木が見送ってくれる(帰路撮影)

次のブリングラス Brynglas には待避線があり、帰りはここで列車交換が行われた。閉塞は通票方式で、信号扱所に詰めている係員がポイントを操作し、手旗で閉塞区間への進入を許可している。商業鉄道ではとうに失われた暖かな手作り感が、ここではボランティアの手で連綿と維持されているということが、だんだんとわかってきた。

やがて左手の車窓にも、巨大なコッペパンのような山塊が見え始める。線路は緩やかな上り勾配で、浅いU字の谷に入っていく。機関車のドラフト音がせわしくなり、長く鋭い汽笛がときおり山にこだまする。林の中に、ナント・ドルゴッホ Nant Dol-goch の谷川を渡る高さ16mの高架橋がある。渡り終えると、左カーブしながらドルゴッホ駅に停車した。けっこう降りる人たちがいるのは、谷川にある3つの滝を見ながらハイキングを楽しむつもりだろう。機関車もここで給水を受けた。

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ドルゴッホ西方。緩やかな上り勾配が始まる
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(左)ナント・ドルゴッホの谷川を渡る (右)ドルゴッホ駅の発車風景(帰路撮影)

クォーリー・サイディング・ホールト Quarry Siding Halt では、帰りに列車交換をしたが、やってきたのはお面をつけた「ダンカン Duncan」だった。1918年製、動輪2軸の6号機で、ダグラス Douglas が本名なのだが、ずっと絵本「きかんしゃトーマス」の登場人物の扮装で走っている。トーマスの作者ウィルバート・オードリー牧師 Rev. Wilbert Awdry はタリスリン鉄道の保存協会の会員で、1952年からしばしば家族で現地を訪れて、ボランティアとして働いた。トーマスシリーズに登場する狭軌のスカーロイ鉄道 Skarloey Railway とその機関車は、タリスリン鉄道のそれをモデルにしているのだそうだ。

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(左)クォーリー・サイディング・ホールトで列車交換
(右)対向相手はダンカン(いずれも帰路撮影)

次は、アベルガノルウィンだ。森に囲まれ、近くに人家はなく、石切工とその家族が住んでいた同名の村へは1kmほど坂を下りていかなければならない。それにもかかわらず、長いホームと側線と、切符売り場、売店、カフェを収容した立派な駅舎がある。旅客列車は、鉱山軌道の時代からずっとここが終点で、拠点駅の雰囲気があるのはそのためだ。この先の貨物線だった線路をナント・グウェルノルまで旅客用として復活させる計画は、1968年に着工され、1976年にようやく完成した。

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アベルガノルウィンの村を遠望

アベルガノルウィンで降りた人はほとんどおらず、皆、終点まで行くようだ。傍らの谷が下りに転じる一方で、線路はなおも上り続ける。村へ直降していたインクラインの跡には、錆びた線路とワイヤを巻き取るドラムが残されていた。列車のスピードが落ち、崖際を回り込んでいくと終点だった。

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(左)村へ降りていたインクラインの跡
(右)アストウィスト・インクラインの図(タウィン・ワーフ駅前の案内板を撮影)

ナント・グウェルノルは、狭い岩棚の上にホームに面する本線と機回し線があるのみの、簡素な駅だ。先に延びていたアストウィスト・インクライン Alltwyllt Incline は撤去済みのため、鉄路としては完全に行止りになっている。機関車は切り離され、隣の機回し線をバックしていって、反対側に付け直された。列車は10分間停車の後、折返していく。ホームには、小屋が建つほかには土産物屋一つないので、乗客もとんぼ返りするのかと思ったら、そうでもない。多くの人はホームに立ち、戻る列車を見送っていた。周辺には遊歩道が整備されているので、ゆっくりと散策に出かけるのだろう。

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(左)ナント・グウェルノル駅に到着 (右)10分で機回しして折り返す

帰りの列車は、さっきのアベルガノルウィンで30分ほど停車する。小さな客車に1時間以上揺られてきたので、体を伸ばすのにちょうどいい。機関士や車掌らスタッフも同様らしく、駅舎の端のテーブルに用意されたコーヒーとサンドイッチを囲んで、談笑している。時計を見たら、もうすぐ12時だ。私も、もらったバウチャーを使って何か食べ物を仕入れに行くとしよう。

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アベルガノルウィン駅に到着
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アベルガノルウィン駅 (左)復路に30分の休憩タイムがある (右)出札窓口

次回は、マウザッハ河口のフェアボーン鉄道に乗る。

■参考サイト
タリスリン鉄道 http://www.talyllyn.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Talyllyn Railway Guide Book" Talyllyn Railway Company, 2016 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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2017年1月21日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道

下部区間:ヴィクトリア Victoria ~ハーフウェー Halfway 間 800m、開業 1902年
上部区間:ハーフウェー~サミット Summit 間 750m、開業 1903年
軌間 3フィート6インチ(1,067mm)

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グレート・オーム軌道の古典トラムが急坂を行く

アイリッシュ海に臨むスランディドノ Llandudno は人気のある海岸保養地だ。白い瀟洒な建物が建ち並ぶプロムナード Promenade(海岸遊歩道)が、休暇を過ごす多くの人で賑わう。その町の西側を、灰色の高い崖が限っている。草地の間にドロマイト(苦灰岩)が層状に露出して、まるでミルフィーユのような容貌のこの崖は、グレート・オーム Great Orme と呼ばれる台地の側面だ(下注)。

*注 ちなみに、グレート・オームに対するリトル・オーム Little Orme が、スランディドノ市街の東側にある。これらの岬は、船乗りたちにとって格好の目印だった。

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スランディドノの市街地の背後を、ミルフィーユのようなグレート・オームの崖が限る

東西3.5km、南北2km、標高207mのグレート・オームは、地形的に見ると、スランディドノの市街地が載る砂州によって陸地とつながれた島(=陸繫島)だ。海に突き出して、眺めがいいので、昔からスランディドノの滞在客に手近な気晴らしの場を提供してきた。これから乗るグレート・オーム軌道 Great Orme Tramway も、そこへ上る足として親しまれているケーブルトラム(トラム車両のケーブルカー)だ。

軌道は下部区間と上部区間に分かれている。それぞれ独立して運転され、乗客は両区間が接続するハーフウェー駅 Halfway Station で車両を乗換える。開業したのは、下部区間が1902年、上部区間が1年遅れて1903年のことだ。1932年に下部区間で車両がケーブルから外れて脱線する事故を起こし、2年間運休となった以外は、2度の大戦中も含めて110年以上走り続けてきた。その間に運行権は、1949年に民間会社からスランディドノ市に移り、その後の自治体再編によって、現在はコンウィ特別市 Conwy County Borough が運営主体となっている。

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グレート・オーム軌道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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グレート・オーム周辺の地形図
1:25,000地形図 SH78, SH88 いずれも1956年版 に加筆。高度はフィート単位。

乗り場のヴィクトリア駅 Victoria Station は、町を南北に貫くグローザイス通り Gloddaeth Street から300mほど山手へ上った、台地の麓にある。駅名は、この敷地にかつて建っていたヴィクトリアというホテルが由来だという。主要道路から引っ込んでいて場所がわかりにくそうに思ったが、心配は無用だった。青い大きな看板のかかる乗り場の前の歩道に、すでに次のブロックまで達する長い行列ができていたからだ。

案内板によると、4~9月は始発10時、最終便が18時で、通常20分毎、繁忙時は10分毎に運行されている(下注)。真っ青な空が広がった今日は、もちろん10分間隔でフル稼働していたが、定員48名の小さな車両なので、並んでいる間も列は解消するどころか、次々と加わる人で長くなる一方だった。

*注 3月と10月は10~17時の運行で、冬場は全面運休となる。

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ヴィクトリア駅の前には長蛇の列が

車両が発着する様子を眺めながら1時間近く待って、ようやく大屋根の下の切符売り場までたどり着いた。ここまで来れば、あと1~2便で乗れる。たまたま前の便が私たちの直前で満席になったので、次に来た車両には先頭で乗込めた。できるならこの手の乗り物は、上るにつれて眼下の景色が開けていく最後尾の席を取りたい。

車両は開業時からいるオープンデッキ付き側窓なしのボギー車で、コバルトブルーの外壁に、クリーム色でクラシックな装飾や文字が描かれている。車内は通路の両側に、2人掛けの狭い木製ベンチが向かい合わせに並ぶ。乗り込んだ客が全員着席すると、すぐに発車した。

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開業時からの古典車両
(左)オープンデッキ付き側窓なし (右)2人掛けの木製ベンチが並ぶ

ヴィクトリアからハーフウェー Halfway までの下部区間は、長さが800m、最急勾配1:3.7(270‰)で、標高差123mを6分で上りきる。大部分が道路との併用軌道で、車両を引き上げるケーブルは、路面に埋められたZレールの溝の中に敷かれている。そのため、地表では車輪が走行する2本のレールと、その間にZレールの平たい頂部が見えるばかりだ。教えられなければ、ケーブルカーとは気づかないだろう。

見かけは有名なサンフランシスコ市内のケーブルカーに似ているが、あちらは、動いているケーブルを車両側の専用装置で掴むことにより移動する循環式だ。対して、こちらは車両がケーブルに固定され、ケーブルとともに移動する。普通のケーブルカーと同じ交走式と呼ばれる仕組みだが、併用軌道で残存しているのはイギリス唯一で、世界でも貴重な存在だそうだ(下注)。

*注 同じ方式がポルトガルのリスボン市内で3路線稼働している。

ところでこの車両、屋根の上にトロリーポールが載っている。見た目の違和感はないのだが、よく考えてみれば車両は動力装置を持っていないはずだ。何のためのポールだろうか。調べてみると、かつて線路の上空には、駅の運転要員と車両の乗務員が連絡を取り合う通信線が張られており、ポールはそれに接触させるものだった。無線機の導入によってすっかり用済みになり、今は固定されたままだ。

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駆動システム図解。動力装置はハーフウェー駅で集中管理されているため、左の下部区間と右の上部区間で方式が異なる

線路は、駅を出るとすぐにオールド・ロード Old Road と呼ばれる家並に囲まれた坂道に入り、そのまま急勾配で上っていく。歩く人でさえ、車両が通るときは石積みの側壁に身を寄せてやり過ごさなければならないほどの狭い道だ。クルマとの対向はとうてい不可能なので、運行時間帯は沿線の住宅への出入りを除いて、車両通行が禁止されている。

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下部区間は4号車と5号車が担当。最初は狭いオールド・ロードを行く
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上るにつれ、スランディドノのプロムナード(海岸遊歩道)が見えてくる

高度が上がるにつれて、弓なりになったプロムナードと波打ち寄せる海岸線が視界に入ってくる。くねくねと曲がったあと、ようやく2車線のティー・グウィンロード Tŷ Gwyn Road(Tŷ Gwyn は白い家の意)に躍り出た。ここでは道路の中央ではなく進行方向右端を走るので、最初に車道を横切らなければならない。その間、警報機が鳴り、道路側の赤信号が灯って、クルマの通行は遮断される。

帰りはここを歩いて降りたのだが、警報機が鳴り出すより前に、地面からガラガラと賑やかな音が響き始めた。ケーブルが溝の中で移動し、滑車が回転する音だ。そしてしばらくしてから車両が現れる。ドライバーはともかく歩行者にとっては、この音が車両の接近を知らせる一番の合図になった。

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ティー・グウィンロードに出る。警報機が鳴り、クルマは停止

まもなく下部区間の中間地点だ。線路が複線に分かれ、降りてきた車両とゆっくりすれ違う。交換所の先は、線路が一種のガントレット(単複線)になるのがおもしろい。走行レールのうち内側2本は近接し、かつ位置が逆転(左車線のレールが右側にある)している。さらに、内側の車輪のフランジが通る溝は、左右車線で共用する形だ。

確かに、中間地点より上半分は2本のケーブルが互いに逆方向に動くから、干渉を避けるにはZレールを分ける、すなわち線路を複線化する必要がある。しかしここは、用地に余裕のない道路上のため、こうした珍しい形状が採用されたようだ。

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道路わきの列車交換所を通過
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(左)交換所より下は単線 (右)交換所より上はガントレットに
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スランディドノ湾が大きく広がる。湾の先の断崖がある山がリトル・オーム

道路とともに右へ大きく曲がると、勾配は輪をかけて急になった。道端の建物が坂上側へ傾いて見える。トラムが涼しい顔で上る隣を、クルマがローギアでエンジンを唸らせながらやっとのことで追い抜いていく。そんなに気張らなくても、と思わず同情したくなる。後ろに開けていたスランディドノ湾の眺望は、いつしか山かげに隠れた。

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カーブを曲がると目に見えて急勾配に。左写真は坂上から、右写真は坂下から撮影

今度は左へカーブする。公園のゲートがあり、並行道路が線路から離れていった。まもなく、ケーブルカーも、ハーフウェー駅の切妻屋根の下へ半分吸い込まれ、そこで停車した。ハーフウェーは文字どおり道の中途なので、山頂へ行く乗客はここで上部区間の車両に乗り換えなくてはいけない。

駅舎は2001年の改築で、見かけはまだ新しい。半円の屋内通路の壁には、軌道の歴史や構造を説明したパネルがかかり、ガラス張りの内壁からケーブルを巻き上げたドラムも間近に見える。それはそれで興味深いのだが、接続する便に乗りたければ、残念ながらじっくり見ている時間はない。

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(左)ハーフウェー駅到着 (右)停車位置の先にある車両検査ピット
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(左)ガラス越しにケーブルの巻上げ機が見える (右)隣接する上部区間の発着場

ハーフウェーからサミット Summit までの上部区間は、750mの長さがある。最急勾配1:9.3(107.5‰)で、標高差44mを4分半で上ってしまう。すでに台地の上に出ているので、勾配は比較的緩く、速度も若干速めだ。下部区間とは違って終始単線(交換所を除く)の専用軌道で、ケーブルも露出している。

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上部区間 (左)ハーフウェー駅を発車 (右)終始専用区間のため、ケーブルが露出

駅を出ると、聖ティドノ教会(下注1)へ降りる道路と交差した後、ヒースが淡い彩りを添える緑の草原をそろそろと上っていく。海側を小さな空中ゴンドラが行き来しているのが見える。スランディドノ・ケーブルカー Llandudno Cable Car という名称のため紛らわしいが、グレート・オームへ上るもう一つの公共交通機関だ(下注2)。後で乗ろうとしたのだが、乗り場に山麓で見たのと同じような長蛇の列ができていたので諦めた。

*注1 ちなみに、聖ティドノ St. Tudno はスランディドノの守護聖人で、町の名の由来でもある。
*注2 公共交通機関としては、スランディドノの市内循環バス(26系統)も山頂まで1時間毎に走っている(日祝日を除く)。

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上部区間の列車交換所で6号車と7号車が交換。背後は空中ゴンドラ
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交換所のあとは少し急な勾配で山頂までひと上り

中間地点を過ぎると、交換した下り車両が、日差し降り注ぐのどかな景色の中を遠ざかっていく。線路には柵がないので、群れからはぐれた羊や牛が入り込むこともままあるそうだ。線路は左右にカーブを切りながら、短い切通しで起伏を乗り越えた。今度は左手に青いコンウィ湾が見えてきて、乗客の視線がそちらに注がれる、と思う間に早くも終点だった。

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(左)左手にコンウィ湾が開ける (右)サミット駅に到着

標高198mのサミット駅は、呼び名にたがわず山頂直下にある。右手の小道を少したどれば、ビジターセンターやショップ、レストランのある山頂の休憩施設だ。しかし、天気のいい日は何よりもまず、遮るもののない陸と海の眺望を楽しみたい。

南側は弧をなすコンウィ湾の後ろになだらかなスノードニアの山並みが続き、西はアングルシーの島影が長く尾を引く。北は、羊が放たれた山上牧場の向こうに、アイリッシュ海の大海原が目の届く限り広がり、そのまま明るい空に溶け込んでいる。こんな気晴らしの場所がすぐ近くにあるスランディドノの滞在客は幸せだと、心から思った。

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山頂から、コンウィ湾とスノードニアの山々を遠望
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(左)山上の台地はのびやかな放牧地 (右)カモメの楽園でもある

次回は南に転じて、鉱山軌道だったタリスリン鉄道に乗る。

本稿は、Keith Turner "The Great Orme Tramway - Over a Century of Service" Gwasg Carreg Gwalch, 2002および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
グレート・オーム軌道(公式サイト) http://www.greatormetramway.co.uk/

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2017年1月 7日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)の旅を続けよう。

機関車リンダ Linda が牽く列車は、リウ・ゴッホ Rhiw Goch 信号所を後にすると、高い石垣で谷を渡り、苔むした森に入っていく。この辺りは、かなりの急斜面だ。1830年代という早い時期に、起伏の多い山地で20kmもの勾配線路を築いていくのは、大変な工事だったに違いない。

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フェスティニオグへ向けて列車は上り続ける

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タン・ア・ブルフ~ブライナイ・フェスティニオグ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

プラース・ホールト Plas Halt(ホールトは停留所の意)の手前に、「タイラーのカーブ Tyler's Curve」と呼ばれる半径2チェーン半(50.3m)の最小カーブが控えている。線路横に立つ「W」と書いた標識は、「警笛鳴らせ」の意味だ。車輪をきしませながら回り込む間、ドゥアリド川が流れるフェスティニオグ谷 Vale of Ffestiniog と、それを隔てて向かいに大きな山塊が見晴らせた。谷底で軒を寄せ合うマイントゥログ Maentwrog の村のたたずまいも美しい。

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(左)リウ・ゴッホ信号所を通過 (右)マイントゥログの村を遠望

列車は、続いてマイル湖 Llyn Mair のある支谷を巡り始める。その途中に、タン・ア・ブルフ Tan-y-bwlch (下注)の駅がある。森に囲まれたS字状の島式ホームに軽やかな跨線橋が架かり、FRでは一番絵になる中間駅だ。ミンフォルズから20分奮闘し続けてきた機関車は、しばらく停車して水の補給を受ける。帰りはここで列車交換も行われて、眠ったようなホームがいっとき生気を取り戻した。

*注 タン・ア・ブルフ(峠下の意)は、ふつう続けてタナブルフと読まれるが、分かち書きの地名は中黒でつないで表記した。

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タン・ア・ブルフ駅 (左)森の中の島式ホームと跨線橋 (右)列車交換(帰路写す)
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坂を上る列車はここで給水を受ける(帰路写す)
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眼下にマイル湖。線路は対岸の山を回ってきた

ガルネズトンネル Garnedd Tunnel(55m)の短い闇を経て、しばらくはカンブリア山地を見渡す高みを走っていく。すでに谷底との標高差は160m以上あり、開いた窓から強めの風が入ってくる。タン・ア・ブルフから10分、そろそろ次の見どころ、ジアスト Dduallt のオープンスパイラル(ループ線)だ。ジアストの駅を過ぎると、線路は右へぐんぐん回り込み、今通った線路の上を乗り越える。そしてモイルウィントンネル Moelwyn Tunnel(262m)を介して、北側のアストラダイ Ystradau の谷へ抜けていく。

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フェスティニオグ谷を隔ててカンブリア山地の眺望が開ける
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ジアストのオープンスパイラル (左)ジアスト駅 (右)駅を出ると右へぐんぐん回り込む

あたかも鉄道模型を実地で再現したような構造だが、これはオリジナルのルートではない(下図参照)。1836年の開通当初は、インクライン(勾配鉄道)でこの山を越えていた。1842年に、山を貫く長さ668mの(旧)モイルウィントンネルが完成して、産業鉄道の時代はこのトンネルを行き来した。スパイラルになったのは、意外にも保存鉄道になってからで、正確にいうなら、鉄道を復元するためにわざわざ建設されたのだ。その理由を知るには、少し20世紀のFRの歩みを振り返る必要があるだろう。

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ジアスト~タナグリシャイ間の路線の変遷
(左)開通当初はインクラインで山越え("Old Tramway" と注記)
   旧モイルウィントンネルの完成で全線重力運行が可能に
    1:25,000地形図 SH64 1953年版に加筆
(右)現在は、貯水池の水位を超えるまでスパイラルで高度を稼ぐ
    1:25,000地形図 OL18 2015年版に加筆 © Crown copyright 2017

ウェールズのスレート産業が絶頂期を迎えたのは1880年代だ。世紀が変わると、タイルのような新素材の普及や、世界大戦に起因する労働力不足と販路の途絶、経済不況など、いくつも悪条件が重なって、凋落の傾向がはっきりしてくる。フェスティニオグでも採石場の閉山が相次いだため、ついにFRは1939年9月に旅客輸送を中止、1946年8月にはスレート輸送も断念せざるを得なくなった。鉄道施設が撤去を免れたのは、路線の建設を許可した19世紀の法律に、休廃止に関する規定がなかったからに過ぎない。

鉄道愛好家のグループが鉄道の復元に取組み始めたのは、それから5年後の1951年のことだ。まず1954年にボストン・ロッジ工場で機関車の修復に着手し、翌55年にはザ・コブ(築堤)の区間で保存走行を開始した。線路は山に向かって段階的に復旧されていき、1968年にはここ、ジアストまで到達した。

しかし、そこからが難関だった。鉄道が休止している間に、線路が通るアストラダイの谷では、揚水式水力発電所の建設計画が進められていたからだ。谷をダムで締め切って調整池にしたため、線路は2km近くにわたって水没してしまった。モイルウィントンネルの北口も使えなくなり、より高い位置にトンネルを掘り直す必要があった。足掛け18年2か月に及ぶ長い法廷闘争で英国中央電力庁CEGBから補償金を獲得した彼らは、ボランティアを動員して約4kmの新線建設を敢行した。これは1978年に最終的に完成し、保存鉄道は調整池の北端にあるタナグリシャイ Tanygrisiau まで延長されたのだ。

列車がループを回りきって新トンネルに入る直前に、旧線を載せていた築堤が右車窓の下方に見える。オープンループで稼いだ高度はわずか11mに過ぎないが、これがなければFRの復元は尻切れトンボで終わっていたに違いない。

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ジアストのオープンスパイラル
(左)今通って来た線路を乗り越える。左奥にジアスト駅が見える
(右)石積みが残る旧線の築堤

トンネルを出ると、その調整池が右手に姿を見せる。きょうは水位が下がっていたので、旧トンネルに突っ込む廃線跡も確認できた。列車は、発電所の建物の裏をかすめた後、坂を下りてタナグリシャイ駅に入っていく。ここでも列車交換があった。先頭に立っていたのは、同じダブル・フェアリーで赤塗装の12号機「デーヴィッド・ロイド・ジョージ David Lloyd George」だ。

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発電所の調整池の向こうに、スレートの採掘跡が残る山々
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(左)池の底に旧線跡が露出。旧トンネルの入口(封鎖)も見える
(右)揚水式発電所の裏手をかすめる

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タナグリシャイ駅
(左)駅の手前にあるクーモルシン滝 Cwmorthin Waterfall
(右)最後の列車交換は赤塗装の12号機と

いよいよ次が終点になる。最後の区間は、大きく崩された山肌や赤鼠色の巨大なボタ山を眺めながら、ブライナイ・フェスティニオグの町の方へゆるゆると向かう。見ての通り、ここはスレート鉱山の町だ。長い地名はフェスティニオグの上手(かみて)という意味で、本村であるスラン・フェスティニオグ Llan Ffestiniog から約4km北に位置する。

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(左)ボタ山を眺めながら行く
(右)左はディナス Dinas 方面の引込線。正面はグラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫

かつて町がどれだけ栄えていたかは、ここに3方向から鉄道が集中したことからも想像できる。ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷図(下図)をご覧いただきたい。

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ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷

一番乗りしたのは、もちろんフェスティニオグ鉄道だ。北を向いているのが本線で、東へ出ているのは支線の扱いだった。客扱いを始めた1865年から数年間、列車は、本線上のディナス Dinas 駅と東支線のディフス Duffws 駅へ交互に通っていた(図左上、1860s の欄)。しかし町から遠いディナスが1870年に休止となった後は、全旅客列車がディフスを終点とするようになった(下注1)。一方、1868年にFRと同じ軌間でフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道 Festiniog and Blaenau Railway が開通し(下注2)、FRディフス駅の近くに駅が造られた。

*注1 FRの本線もディナス駅も、その後成長したボタ山の下に埋没した。
*注2 ブライナイ・フェスティニオグ~フェスティニオグ Festiniog 間。で、鉄道はフェスティニオグ本村の周辺で採掘されたスレートを輸送する目的で敷かれた。FRと直通し、貨車もFR所有で、実質的にFRの支線だった。なお、当時は "Ffestiniog" ではなく "Festiniog" と綴った。

狭軌の路線網しかなかったこの町に、1879年、標準軌のロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 London and North Western Railway が北から到達した(図左中)。現在のコンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line だ。こちらもスレート輸送が目的で、わざわざコンウィ川の河口デガヌイ Deganwy に自前の積出し港を築いての進出だった。1881年に町の北西に本駅が完成し、FRも自社線上に乗換駅を設けた。

間を置かずして1883年には、ライバルたるグレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway も進出を果たす。バラ=フェスティニオグ鉄道 Bala Festiniog Railway という別会社を立てて、既存のフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道を買収し、改軌の上で接続したのだ。駅の位置は狭軌時代を踏襲したので、FRはここにも乗換え用のホームを用意した。

FRのディフス駅は1931年に休止となり(図左下)、グレート・ウェスタンとの乗換駅がその代替とされた。スレート輸送の衰退で1939年にFRの旅客輸送は途絶してしまうが、大手2社の路線はこの地に残った。

*注 ディフス駅の旧駅舎は当時の位置に残っている。

第二次世界大戦後、鉄道の国有化が実施され、標準軌線は英国国鉄 British Railways となる。それに伴い、旧ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン(当時はロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ鉄道 London, Midland and Scottish Railway)の駅は北駅 Blaenau Ffestiniog North、旧グレート・ウェスタンは中央駅 Blaenau Ffestiniog Central と改称された(図右上)。後者は1960年に休止となったものの、1963年にフェスティニオグ本村の南に建設が決まった原子力発電所への物資輸送用として一部が復活し、北駅から接続線が造られた(図右中)。もとよりこれは貨物専用であり、旅客輸送は従来どおり、北駅を終点としていた。

復元されたフェスティニオグ鉄道が、数次の延長を経て、鉱山町に帰ってきたのは1982年だ(図右下)。これに合わせて旧 中央駅の位置に、新たに国鉄とFRの共同使用駅が設けられ、開業式が華々しく催された。これが、現在のブライナイ・フェスティニオグ駅だ。ジアストのオープンスパイラルと同様、終点駅もまた保存鉄道のために造られた施設なのだ。

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ブライナイ・フェスティニオグにあった旧駅の位置
1:25,000地形図 SH64 1953年版、SH74 1953年版 に加筆

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終点ブライナイ・フェスティニオグ駅に到着

小柄なリンダが1時間10分かけて牽いてきた列車は、グラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫を見ながら右に大きくカーブした後、その新駅に進入する。到着は定刻の15時40分。やはり遅れていたのではなく、途中駅の時刻表がおおまかだったようだ。国鉄(現 ナショナル・レール)コンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line(下注)のホームは片側1線、対するFRは島式ホームの両側を使っている。線路幅は並ぶと大人と子供ほども違うが、FRのホームにはしっかり屋根がかかり、簡素ながら切符売り場兼売店の入った建物もある。先駆者のプライドを示しているのかもしれない。

*注 コンウィ・ヴァレー線は、この路線の観光開発にあたり、運行会社のアリーヴァ・トレインズ・ウェールズや沿線自治体が用いている線路名称。

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跨線橋から見た終着駅。右の線路は標準軌のコンウィ・ヴァレー線
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(左)線路幅は倍以上違う(597mmと1435mm) (右)構内踏切を渡れば町の中心部へ

ただ、利用実態は、コンウィ・ヴァレー線が地元の一般客、FRはほとんど観光客で、まったく異なっている。そのため、時刻表上も相互連絡しているとはいいがたく、この日もFRの列車が滞在中、隣のホームに標準軌の気動車は現れなかった。

実はFRに並行するポースマドッグとの間には路線バス(1B系統、下注)が1時間ごとに走っており、コンウィ・ヴァレー線に接続しているのはそちらのほうなのだ。一時は狭軌の伝統が途絶した鉱山町に、今は再びナロー蒸機の鋭い汽笛がこだまするようになった。せっかく便利な乗車券もできているのだから、うまく周遊旅行が組めるように、鉄道各社も協調してくれるといいのだが。

*注 Express Motors http://www.expressmotors.co.uk/ が運行。

次回は、コンウィ・ヴァレー線を北上して、スランディドノへ向かう。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Ffestiniog Railway, A Traveller's Guide" Ffestiniog Railway Company, 2016および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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