2019年8月 3日 (土)

オーストリアの狭軌鉄道-ヴァルトフィアテル鉄道 I

ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn

北線 Nordast:
グミュント Gmünd NÖ(下注)~リッチャウ Litschau 間 25.5km、1900年開通
アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg ~ハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein 間 13.2km、1900年開通
南線 Südast:
グミュント Gmünd NÖ ~グロース・ゲールングス Groß Gerungs 間 43.3km、1902~03年開通

軌間760mm、非電化

*注 NÖ はニーダーエースタライヒ Niederösterreich(州)の略。

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蒸機列車がヴァルトフィアテルの森を行く
 
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オーストリアで今なお稼働している760mm軌間の軽便鉄道の中で、ドナウ川の北にあるのは、ヴァルトフィアテル鉄道 Waldviertelbahn だけだ。起点はグミュント Gmünd という田舎町で、首都ウィーンから西北西へ直線で120km(下注)、チェコとの国境がもう目前に迫っている。ÖBB(オーストリア連邦鉄道)の最速列車で行っても約2時間かかるその町から、狭軌のか細い線路が北と南へ分かれていく。

一般輸送はすでに旅客・貨物とも廃止され、今は観光鉄道としての機能しか持っていない。だが、数年前に完成した明るく立派なターミナルからは、嬉しいことに夏のシーズン中、毎日欠かさず列車が運行されている。総延長82kmに及ぶ路線網は、まさしく辺境に残された孤高のナロー王国だ。

*注 鉄道の路線距離は、ウィーン(フランツ・ヨーゼフ駅)~グミュントNÖ 間で162km。

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グミュント周辺の鉄道路線の位置関係

6月最初の土曜日、グミュントを訪ねるために、ウィーンの静かなターミナル、フランツ・ヨーゼフ駅 Franz-Josefs-Bahnhof からチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 行のREX(レギオナルエクスプレス、快速列車)に乗り込んだ。Uバーン(地下鉄)に接続する次のシュピッテラウ Spitterau で多数の客を拾うと、列車はものの数分でウィーン市内を抜け出し、ドナウ右岸の河畔林に沿って走っていく。

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ウィーン・フランツ・ヨーゼフ駅
 

トゥルン Tulln で北を向き、ドナウ川を渡った後は、ヴァインフィアテル Weinviertel の緩やかにうねる丘陵地をじわじわと上る。中でもリンベルク・マイサウ Limberg-Maissau 駅の前後は大きなU字ループで、ちょうど谷向こうの鉄橋を降りてくる対向列車の姿を捉えることができた。

この路線はフランツ・ヨーゼフ線 Franz-Josefs-Bahn といい、プラハとウィーンを最短距離で結んでいる。しかし、山地を横断しなければならず、カーブの多いルートになった。それで国際特急はすべて、距離は長くなるものの高速走行が可能な北部本線 Nordbahn、ブルノ Brno 経由で走っており、こちらは実態としてローカル線だ。

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谷向こうを降りてくる対向列車
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目を和ませる菜の花の絨毯
 

遠望が利くのは、ジクムンツヘルベルク Sigmundsherberg あたりまでだろう。後は、畑や林の交錯する中を延々と走る。今は菜の花の咲く季節で、大地を覆うレモンイエローの絨毯が目を和ませるが、沿線に町らしい町は現れないまま、いつしか車窓は平原の風景に変わっていた。

グミュントNÖ 駅で、乗客のほとんどが降りた。駅舎を出ると、道路を隔てて、大屋根をアーチで支えた正面ガラス張りの建物がひときわ目を引く。「ヴァルトフィアテル鉄道」と書かれたパネルも下がっている。2014年に構内を整理縮小し、新たに造ったターミナルの駅舎兼車庫だ。

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(左)グミュントNÖ 駅到着
(右)ポップに改装された駅正面
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ヴァルトフィアテル鉄道のターミナル
 

建物の中に入ると、案内カウンターもある開放的な待合ホールの奥に、島式ホームを挟んでナローゲージが2線並んでいる。車庫を兼ねているので、線路の出口はシャッターつきだ。これとは別に、建物の外側にも、片側にホームをもつ1本の線路が延びている。後で知ったが、蒸機が牽引する列車はここで乗降するのだった。確かに屋内では、煙がこもってしまうに違いない。

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建物内部
(左)待合ホール
(右)プラットホーム 兼 車庫
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建物の外にある蒸機列車用のホーム
 

乗車券を買おうとカウンターで尋ねると、車内で売ります(下注)、と言われた。客の大半は団体かグループで、席を確保するために予約を入れていて、飛び込み客は少ないらしい。満席になっては困るからと、ウィーンを早めに出てきたが、拍子抜けした。空いた時間に市街へ行って、宿に荷物を預けてくることにしよう。

*注 車掌が手売りするので、現金払いのみ可。

列車に乗る前に、ヴァルトフィアテル鉄道の基礎的知識を仕入れておきたい。

まず、鉄道名になっているヴァルトフィアテルだが、これはこの地方の名称だ。ニーダーエースタライヒ Niederösterreich(下オーストリア)は、歴史的に4つのフィアテル(地方)Viertel に区分され、それぞれ主要産業の名で呼ばれてきた。すなわち、

北西部:ヴァルトフィアテル Waldviertel(森林地方の意=林業、鉱業を指す)
北東部:ヴァインフィアテル Weinviertel(葡萄酒地方の意)
南西部:モストフィアテル Mostviertel(果汁地方の意=リンゴ、ナシなどの果実酒醸造を指す)
南東部:インドゥストリーフィアテル Industrieviertel(工業地方の意)

■参考サイト
Wikimedia - ニーダーエースタライヒのフィアテル(エリア図)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vierteleinteilung_in_Niederösterreich.png

ヴァルトフィアテルは、ドナウ川 Donau の北側、マンハルツベルク山 Manhartsberg の西側の、文字どおり山がちな一帯を指す。その地方を鉄道が東西に貫いたのは1869年だった。ボヘミアとウィーンを結んで建設された勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道 k.k. priv. Kaiser Franz-Josephs-Bahn (KFLB、下注)、いうまでもなく現在のフランツ・ヨーゼフ線だ。

*注 勅許皇帝フランツ・ヨーゼフ鉄道は、ヘプ Cheb(ドイツ語名:エーガー Eger)~プルゼニ Plzeň(同 ピルゼン Pilsen)~グミュント~ウィーン間およびプラハ Praha ~グミュント間が主要路線で、1884年に国有化された。

鉄道は、グミュントの町の南西でラインジッツ川 Lainsitz を横断し、左岸に駅が設けられたが、それは静かな田舎町を一変させる出来事だった。なぜなら、ただの中間駅ではなく、プルゼニ方面とプラハ方面からの幹線どうしが合流する駅だったからだ。鉄道の運行拠点として機関庫や修理工場が配置され、グミュントはにわかに鉄道の町の様相を呈した(地理的位置は下図1段目参照)。

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ヴァルトフィアテル鉄道のルート変遷
 

経済効果が明らかになるにつれ、周辺の地域でも鉄道建設を求める声が高まるのは、当然の成り行きだった。1895年に公布されたニーダーエースタライヒの鉄道法 Landeseisenbahngesetz で、建設費に対する公的補助制度が確立すると、実際、次々と地方路線が誕生していく。

グミュント周辺では、地元のガラス産業界の要請を受けて、まずグミュントからリッチャウ Litschau とハイデンライヒシュタイン Heidenreichstein に至る北線の計画が具体化された。これは1900年7月に実現した。次いで1902年に南線のグミュント~シュタインバッハ=バート・グロースペルトホルツ Steinbach-Bad Großpertholz 間、1903年にはグロース・ゲールングス Groß Gerungs までの全線が開通した(上図2段目参照)。さらに北と南へ延伸する構想も立てられていた(下注)のだが、第一次世界大戦の勃発で実現せずに終わった。

*注 北線では、ボヘミアのノイビストリッツ Neubistritz(現 ノヴァー・ビストジツェ Nová Bystřice)で既存の狭軌路線への接続、南線では、ドナウ河畔のクレムス Krems やグライン Grein への延伸が構想された。

その戦争中、オーストリア一円の760mm軌間鉄道から機関車や車両が徴発され、バルカン半島の主戦場へ送達された(下注)。しかし、それよりも大きな問題をヴァルトフィアテル鉄道にもたらしたのは、戦後処理だった。

*注 ボスニアには760mm軌間による大規模な路線網が築かれており、そのため、ドイツ語圏ではこの軌間を「ボスニア軌間 Bosnische Spur / Bosnaspur」と呼ぶ。

1919年に結ばれたサン・ジェルマン条約で、ラインジッツ川左岸のグミュント中央駅 Gmünd Hbf(および狭軌線のグミュント地方鉄道駅 Gmünd Lokalbahnhof)とその周辺が、ニーダーエースタライヒから分離され、新生チェコスロバキア共和国(以下、チェコという)に属することが確定したのだ。それに伴い、駅はチェコ語の地名に基づきチェスケー・ヴェレニツェ České Velenice 駅(下注)に改称された。

*注 もとのドイツ語地名であるヴィーランツ Wielands をチェコ語に言い換えたもので、「チェコのヴィーランツ」を意味する。

グミュントが運行拠点のヴァルトフィアテル鉄道にとって、これは頭を抱える裁定だった。1920年7月の条約発効後しばらくの間、チェコ側では列車を空のまま発車させ、国境を越えたオーストリア側の最初の停留所で客を乗せる措置がとられた。しかし、1922年に国鉄が、オーストリア側に以前からあったグミュント・シュタット Gmünd Stadt 停留所を駅に改修するのに合わせ、狭軌の線路も延伸して、ここを列車の起点とした(上図3段目参照)。

ただしこの時点では、機関庫と修理工場はチェコに残されたままで、北線も一部でまだチェコ領を通っていた。そのため、機関車は相変わらず旧駅の機関庫をねぐらにしており、新駅との間を回送で走った。また、北線の列車は、チェコ領を無停車(下注)で通過するコリドーアツーク Korridorzug(回廊列車)の形で、リッチャウ方面へ向かったのだ。

*注 短絡線ができる1947年までは旧駅で折り返していたので、停車はしたが乗降はできなかった。

なお、この間1921年にオーストリア連邦鉄道 Österreichische Bundesbahnen(BBÖ、後にÖBB) 、いわゆる国鉄が成立し、狭軌鉄道も国鉄に引き継がれている。

第二次世界大戦もまた、ヴァルトフィアテル鉄道に多大な影響を及ぼした。第一に、チェスケー・ヴェレニツェの鉄道施設が、空爆に曝されて使用できなくなった。そのため、グミュント・シュタット(1946年に「グミュントNÖ」に改称)に、新たに狭軌用の機関庫と修理工場が整備された。

第二に、回廊列車の運行を嫌ったチェコスロバキアが、オーストリア側における短絡ルートの建設を促した。チェコが費用を負担して新線が造られ、こうして1950年12月から、北線はチェコ領を通らない現行ルートで走るようになったのだ(上図4段目参照)。

なお、新線開通によりグミュントNÖ 駅西方の三角線は不要となったが、車両の方向転換用にまだ残されている。しかし、蒸機は復路でも向きを変えず、バック運転、いわゆる逆機で戻ってくるため、日常運用でこれが使用されることはない。数奇の歴史を秘めた三角線だが、レールはもはや錆びついてしまっている。

三角線とそれに続くチェスケー・ヴェレニツェ駅前までの廃線跡の現状は、下の写真を参照されたい。

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グミュントNÖ 駅西方の三角線(下図①)
気動車が通っているのが三角形の他の一辺
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(左)立体交差するÖBB線の列車から三角線を北望
(右)三角線の西端は国境手前で途切れている
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(左)国境のラインジッツ川を渡る廃線跡遊歩道(②)
右手前にÖと刻まれたオーストリアの国境標が見える。この付近ではラインジッツ川の中心線に国境があるが、鉄橋とその敷地はチェコ領のため、国境線がこうして川の右岸(東側)に張り出している(南にある標準軌線の橋梁も同様)。
(右)チェコ側も遊歩道に(③)
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チェスケー・ヴェレニツェ
(左)街角の路地が遊歩道入口(④)
(右)駅までの廃線跡は公園化され、マロニエの並木が続く(⑤)
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現 チェスケー・ヴェレニツェ駅舎は戦後の再建(⑥)
駅前にあった狭軌線施設も戦災に遭い、解体撤去された
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グミュント周辺の地形図に廃線跡等を加筆
図中の①~⑥は上掲の写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ようやく運行体制を整えたヴァルトフィアテル鉄道だったが、戦後は自動車交通の進展に伴い、緩やかな衰退に向かい始める。蒸気機関車が定期運行を担うオーストリア最後の鉄道(登山鉄道を除く)として、ファンの人気を集めたのもつかの間、1986年にハイデンライヒシュタイン支線を含む北線の一般旅客輸送が、1992年にはハイデンライヒシュタイン支線の貨物輸送が休止となった。2000年には南線の貨物輸送、2001年1月に北線で残っていた貨物輸送の休止と段階的な縮小が実施され、ついに2001年6月9日、南線における一般旅客輸送の終了をもって全線休止となったのだ。

一方、観光列車の運行が1979年に開始されており、一般輸送廃止後は、もっぱら観光による地域開発のために鉄道が維持されている。運行事業者は、州の公営企業であるニーダーエースタライヒ運輸機構有限会社 Niederösterreichische Verkehrsorganisations-Ges.m.b.H (NÖVOG) だが、2010年にはインフラもÖBBから移管されて、鉄道運営の一元化が図られた。

なお、北線のハイデンライヒシュタイン支線(アルト・ナーゲルベルク Alt Nagelberg~ハイデンライヒシュタイン間)については、非営利法人のヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会 Waldviertler Schmalspurbahnverein (WSV) が「ヴァッケルシュタイン急行 Wackelstein-Express」の名で走らせている。

狭軌鉄道の車両群は、基本的にグミュントが拠点だ。日常的に使われるのは、1986年ノッツ Knotz 社製5090形気動車3両(VT08、VT11、VT13)で、その塗色から「金色のディーゼルカー Goldener Dieseltriebwagen」と呼ばれる。オーストリアの多くの760mm軌間で運行の主力を担っているものと同形式の車両だ。

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5090形気動車
 

北線で日祝日、南線で水・土曜に走る古典列車編成は、蒸気機関車またはディーゼル機関車が牽引する。前者はクラウス社 Krauss & Co による1906年製のテンダー蒸機で、Mh.1 および Mh.4 の2両が在籍している。もともと山岳路線のマリアツェル鉄道 Mariazellerbahn 向けに造られており、連続勾配・急曲線に適応した性能をもつ。南線の「ヴァルトフィアテルのゼメリング Waldviertler Semmering」と呼ばれる山登り区間が、一番の見せ場だ。後者は1950~60年代製の機械式ディーゼル機関車で、V5とV12の2両が就役している。

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蒸機 Mh.4 が2軸客車を牽く
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ディーゼル機関車 V5 と V12
 

観光輸送に特化されたヴァルトフィアテル鉄道は、シーズン限定の運行だ。2019年の場合、北線は5月1日~9月29日、ハイデンライヒシュタイン支線は7月13日~9月1日、南線は4月27日~10月27日で、しかも7月~9月第1週のハイシーズン以外は平日(水曜を除く)運休になる。また、1日の運行本数も1本から多くて3本までなので、訪問する際は、運行日と時刻表をよく確かめておく必要がある。

では次回、まず北線から、路線の特色や車窓風景について紹介しよう。

本稿は、Paul Gregor Liebhart und Johannes Schendl "Die Waldviertelbahn - Eine nostalgische Reise mit der Schmalspurbahn" Sutton Verlag, 2017 、鉄道内各駅設置パネル、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ヴァルトフィアテル鉄道(公式サイト)  https://www.waldviertelbahn.at/
ヴァルトフィアテル狭軌鉄道協会(ヴァッケルシュタイン急行) http://www.wsv.or.at/cms/

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2019年6月29日 (土)

列車で行くアッター湖 I-カンマー線

ÖBB フェクラブルック=カンマー・シェルフリング線(カンマー線)
Bahnstrecke Vöcklabruck–Kammer-Schörfling (Kammerer Bahn)

フェクラブルック分岐点 Abzw. Vöcklabruck ~カンマー・シェルフリング Kammer-Schörfling 間 8.1km
軌間1435mm(標準軌)、交流15kV 16.7Hz電化
1882年開通、2014年カンマー・シェルフリング駅移転(路線長0.5km短縮)

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アッター湖岸のヨットハーバー
カンマーにて

オーストリアの湖水地方、ザルツカンマーグート Salzkammergut で最大の湖が、アッター湖 Attersee だ(下注)。前回までのテーマだったトラウン湖 Traunsee の西15~20kmに横たわっている。南北約20km、東西4kmの広さをもち、面積は46.2平方km。氷河湖起源のため、最大水深は169mもある。

*注 オーストリア全体でも、ボーデン湖 Bodensee とノイジードル湖 Neusiedler See に次ぐ。この二つの湖は国境をまたいでいるので、水面がすべてオーストリア領の湖では最大。

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バート・イシュル Bad Ischl やグムンデン Gmunden といった著名なリゾートのあるトラウン川の谷(トラウンタール Trauntal)に比べると開発は遅れたが、かえってその静けさが好まれて、1860年代には避暑客が訪れるようになる。

1869年に、湖岸の村々に立ち寄る航路が整備され、翌年から外輪蒸気船が就航した。1882年には、ウィーン~ザルツブルク間の皇后エリーザベト鉄道 k.k. privilegierten Kaiserin Elisabeth-Bahn(現 西部本線 Westbahn)から湖に至る鉄道の支線が完成し、湖岸に設けられた終着駅で航路に接続した。交通の便が改善されたことで、多くの中産階級が湖を訪れるようになり、アッター湖は夏の別荘地としても人気が高まっていく。

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湖面に照り返す日差しが眩しい
カンマーの突堤から南望
 

この鉄道支線が、現在の ÖBB(オーストリア連邦鉄道)カンマー線 Kammerer Bahn(下注1)だ。正式名をフェクラブルック=カンマー・シェルフリング線 Bahnstrecke Vöcklabruck–Kammer-Schörfling といい、「カンマラー・ハンスル Kammerer Hansl(下注2)」というあだ名もあった。

*注1 ÖBBの路線については、線名にある Bahn の訳を「~鉄道」ではなく「~線」とした。
*注2 ハンスル Hansl は、人名ヨハネス Johannes の短縮形。ハンスルに特別な意味はなく、「カンマーの太郎」といったニュアンス。

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アッター湖周辺の鉄道路線の位置関係
緑がカンマー線
 

カンマー線の列車は、南部本線のフェクラブルック Vöcklabruck を出て、カンマー・シェルフリング Kammer-Schörfling まで10.4km(正確には10.408km)を走る。実際はフェクラブルックの西2.3km(同 2.267km)地点で本線から分岐するので、支線の実長は8.1km(同 8.141km)になる。

開通は1882年5月のことだ。その5年前(1877年)にトラウンタールを遡ってバート・イシュル方面へ、ザルツカンマーグート線 Salzkammergutbahn が通じており、アッターガウ Attergau、すなわちアッター湖沿岸でも鉄道の到来が待望されていた。

カンマー線(下注)は初め、私設の地方鉄道として造られたが、オーストリアがナチスドイツに併合されて間もない1939年に、他の地方鉄道とともに国有化され、ドイツ帝国鉄道 Deutsche Reichsbahn の路線となった。第二次世界大戦後は、ÖBBリンツ鉄道管理局に属し、1955年7月に、本線と同じ方式で電化されている。

*注 開通時の終点の駅名が、避暑地として名の通った「カンマー Kammer」だったのでこう呼ばれる。その後、自治体名のシェルフリング・アム・アッターゼー Schörfling am Attersee に合わせて、1909年に現 駅名に改称された。

1970年代までは、アッター湖の観光とともに、沿線にある製材工場などの産業が盛んで、旅客輸送にも活気があった。しかし、その後は道路交通への移行や、産業の不振に伴う雇用者数減少などが重なって、カンマー線はひどい不振に陥っていく。

2001年6月のダイヤ改正は、地元に衝撃を与えた。ÖBBが、旅客列車をそれまでの12往復から、一気に平日1往復までカットしたのだ。旅客輸送の存続は、もはや風前の灯火となった。地域交通を維持するためにオーバーエースタライヒ州は、ÖBBに業務委託する形で旅客輸送を続けることにした。その費用は州の予算と、部分的に地方自治体の補助金で賄われる。

この結果、旅客列車は2006年から2往復、2007年12月には5往復に復活した。現在(2019年6月)は9往復まで増便されている。そのうち3往復は昔のように、本線のアットナング・プフハイム Attnang-Puchheim まで足を延ばす。

ただし、運行は平日のみで、土日祝日は完全運休になる。カンマー線に並行して、アットナング・プフハイム駅と湖南部のウンターアッハ Unterach やシュタインバッハ Steinbach などとを結ぶバス路線(路線番号561、562など)があり、カンマー線の機能を補うことができるからだ。

フェクラブルック駅のカンマー線ホームは、1番線の反対側にある頭端式の短い21番線だ。訪れたときには、13時24分発の列車が停車していた。低床3車体連節のボンバルディア社製タレント Talent で、ザルツブルク交通 Salzburg Verkehr のロゴが入っている。ザルツブルクのSバーンとの共用のようだ。当地はオーバーエースタライヒ州で、州は違うのだが、運用上1編成あれば足りるから、近所から借りたのだろうか。

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(左)フェクラブルック駅のカンマー線ホーム
(右)ザルツブルク交通の連節車で運行
 

平日の昼過ぎなので、車内は閑散としていそうなものだ。ところが予想に反して、座席は学校帰りの子どもたちに占拠されて、とても賑やかだった。鉄道に並行するバス路線があっても、一度にこれだけの人数を運ぶことは難しい。そこに、カンマー線の旅客列車がすんでのところで廃止を免れた一つの理由があるようだ。レジャー客が対象でないなら、休日の運休も納得できる。彼らには、湖岸の町や村へ乗換なしで行けるバスのほうがずっと便利に違いない。

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のどかな沿線風景もある
 

発車すると本線に入り、しばらくその上を進む。それから軽く振られて、隣の線路へ移った。視線が本線より少し高くなったところで、左へカーブしていく。リゾート地へ向かう路線というイメージとは違って、沿線には畑や森がある一方、工場や商業施設も目につく。特にレンツィング Lenzing 駅の南には、木材から化学繊維を製造するレンツィング社の大規模な工場群があり、高い煙突から立ち上る白い煙が、遠くからも見える。多数並んだ側線には貨車の列が留置されていて、ここだけ切り取れば、工業地帯を走る路線と思われてもおかしくない。

子どもたちは途中の駅や停留所でぱらぱらと降りていき、最後まで乗っていたのは半数に満たなかった。全線の所要時間は17分、速度が落ち、アーガー川 Ager の鉄橋を渡ると、すぐに終点のカンマー・シェルフリングだった。

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カンマー・シェルフリング駅到着
学校帰りの子どもたちも下車
 

終点駅は、州が実施した地域交通政策の一環で、近年大きく様変わりしている。かつては航路との接続のために、ここからさらに約500m南に進んだ湖岸に駅があった。2014年6月にルートが短縮され、アーガー川の道路橋のたもとに、バスと乗継ぎができる駅施設がオープンした。列車ホームの反対側に、路線バスが発着する。

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(左)移転・新設された駅施設
(右)反対側にバスが発着
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カンマー・シェルフリング駅周辺の地形図に鉄道ルートを加筆
破線は旧線跡
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

では、旧駅やそこへ至る廃線跡はどうなっているのだろうか。新駅に接して、駐車場の敷地が弧を描いており、旧線跡が転用されたことがわかる。その先はアーガー通り Agerstraße の元踏切を越えて、家並みの裏に回るが、線路はすでになく、草の生えた空地が続いている。州道B152号線(湖岸通り Seeleiten Straße)を横断したところが旧駅跡で、施設はすべて撤去され、更地に還っていた。

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旧線跡
(左)駐車場の敷地が弧を描く
(右)アーガー通りの元踏切から家並みの裏側へ

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(左)B 152号線の元踏切から北望
(右)B152号線(手前の道)の先が、更地になった旧駅跡
 

ここまで来ると、アッター湖の波静かな湖面がもう目の前にある。今日は抜けるような青空で、照り返す日差しが眩しく、目に痛いほどだ。湖上連絡船の船着き場から、入江のヨットハーバーを隔てて、湖岸の並木越しに端正な建物が見える。記録が12世紀に遡るというカンマー城 Schloss Kammer で、この地を毎夏訪れていた世紀末の画家クリムト Klimt も描いている。

■参考サイト
ベルヴェデーレ・オーストリア絵画館(公式サイト)-グスタフ・クリムト「アッター湖畔のカンマー城 III」
https://digital.belvedere.at/objects/3112/schloss-kammer-am-attersee-iii
同 「カンマー城への並木道」
https://digital.belvedere.at/objects/8691/allee-zum-schloss-kammer

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湖に臨むカンマー城(右手前の建物)
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カンマー城への並木道
いずれもクリムトの絵のモチーフ
 

隣接する公園のベンチで少し休憩した後は、対岸に来ているもう1本の路線、アッターゼー鉄道を訪れよう。続きは次回に。

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2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

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消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

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鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
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旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
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拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた
 

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

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(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

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御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

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(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
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富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

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竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

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八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

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(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
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大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

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大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

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(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
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橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

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(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

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初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

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初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
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初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

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上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

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2019年2月 9日 (土)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 II-現況

ウィーン中央駅の東口からヌスドルフ Nussdorf まで、市電D系統のトラムが乗り換えなしで連れていってくれる。時間は45分ほどかかるが、どのみち降りるのは終点なので、リング通り Ringstraße に建ち並ぶ豪壮な建物群を眺めながら、観光気分でのんびり乗っていればいい。

ほとんど数字に置き換えられてしまったウィーン市電の系統名のなかで、D系統は頑なに昔の英字名を残している。まるで登山鉄道へのアクセスルートとして造られた由緒を誇るかのようだ。国鉄(オーストリア連邦鉄道 ÖBB)のヌスドルフ駅前で左折し、町なかの狭い坂道を少し上ると、終点のベートーヴェンガング Beethovengang(下注)が見えてくる。トラムは終端ループを一回りしてから、停留所の前に停まる。

*注 この地名を忠実に転写すれば「ベートホーフェンガング」になるが、後述のように作曲家ベートーヴェンにちなんだ名称なので慣用読みに従う。

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終点ベートーヴェンガングに停車中のD系統トラム
 
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ヌスドルフ~グリンツィング間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
数字は各写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

このループに囲まれたレモン色の塗り壁の建物こそ、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の起点だったヌスドルフ旧駅舎だ。他の駅舎がすべて取り壊されたなか、今はなき登山鉄道を記念する建造物として、唯一完全な形で遺されている。現在は、アインケーア・ツア・ツァーンラートバーン Einkehr zur Zahnradbahn というレストラン(下注)が入居している。午前中でまだ食事には早かったが、主人らしき人に中を見たいと言うと、快く応じてくれた。

*注 店の名は、御休み処「ラック鉄道館」といった意味。

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[1] ヌスドルフ旧駅舎の正面玄関
 

ホールにはテーブルが並んでいて駅の面影はないが、壁に、ラック鉄道のルート図や機関士の肖像写真などが掲げてある。突き当りの扉の外はホームだったはずだが、テラス席が占領していた。生垣の向こうは市電のループ線で、ラック列車が来なくなった後も、トラムが代役を務めてくれているようだ(下注)。

*注 登山鉄道が稼働していた当時は、路面軌道は駅前で行き止まりになっており、終端ループはなかった。

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(左)旧駅舎のホーム側、今はレストランのテラス席に
(右)レストランの看板は当時の写真をあしらう
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(左)旧駅舎内部
(右)最終列車に乗車した機関士の肖像写真、右の壁には制帽が掛かる
 

駅舎を辞して、周囲を観察する。東側の、かつて機関庫があった場所は、集合住宅が建っている。一方、市電線路を挟んで西側には、一見あずまや風の施設がある。男子小用の公衆トイレなのだが、これは当時からあるものだそうだ。個別便器のない掛け流し(?)方式で、確かに古そうに見える。ちょうどループを回ってきたトラムがその前で停まったと思ったら、乗務員氏が降りてきて中に駆け込んだ。

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(左)当時の公衆トイレが今も現役
(右)トラムも臨時停車!
 

駅前の道から山手に向かって、インターロッキングが施された廃線跡がまっすぐ延びている。その名もツァーンラートバーンシュトラーセ Zahnradbahnstraße(ラック鉄道通りの意)なので嬉しい。機関車になったつもりで、緩い坂を上っていく。もとは複線が敷かれていたから用地幅は広いのだが、すぐにシュトラーセとは名ばかりの遊歩道になり、周りは雑草が生い茂る。

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(左)[2] ラック鉄道通りが山手へ延びる
(右)[3] 遊歩道は将来、並木道になるのだろう
 

最初に横切る車道は、エロイカガッセ Eroicagasse(英雄小路の意)だ。道の西側は、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタット Heiligenstadt 地内なので、通りの名が交響曲第3番の標題から来ていることは容易に想像がつく。ちなみに、すぐ右手を流れる小川、シュライバーバッハ Schreiberbach に沿って、市電の停留所名にもなったベートーヴェンガング Beethovengang(ベートーヴェンの小径)が延びている。交響曲第6番「田園」の曲想が練られたという名所だ。行ってみると、ナイチンゲールもカッコウも鳴いていなかったが、木の枝に茶色のリスがいて、一心に木の実をかじっていた。

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(左)[4] 小川に沿うベートーヴェンの小径
(右)[4] 小川に接する築堤の擁壁は鉄道時代のものか?
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一心に木の実をかじるリスを目撃
 

この小径とエロイカガッセとの交差点の標識を写真に撮る人は多いのだが、すぐ近くにあるラック鉄道通りとエロイカガッセの交差点標識に気づく人はいるのだろうか。ともかく、英雄の冒頭主題を口ずさみながら、廃線跡をさらに上流へ歩いていく。右手の広場に、列車を象った木製遊具が置かれていた。ベートーヴェン公園 Beethovenpark の一角なのだが、子どもたちにとっては花より団子、楽聖より汽車ポッポだろう。

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(左)[5] ベートーヴェンの小径とエロイカガッセの交差点は観光名所
  (語頭の 19. はウィーン19区を意味する)
(右)[6] ラック鉄道通りとの交差点もすぐ近くに
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[7] ベートーヴェン公園の一角にある列車形の木製遊具
 

ここで線路は、カーレンベルガー通り Kahlenbergerstraße を乗り越していた。かつての跨道橋は、煉瓦積みの橋台だけが残っている。複線を支えていたので、幅広の構造物だ。橋桁は撤去されて渡れないため、いったん築堤から降りて、通りを平面横断する。見通しが悪いから、クルマには要注意だ。

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[8] カーレンベルガー通りの跨道橋橋台
(左)北側から (右)南側から
 

すぐに廃線跡に戻るも、周りの森がますます茂ってきて、上空を覆ってしまう。100年も経てば空地が自然に還ってしまうのも当然だが、一人で歩くのはいささか心細い。と思っていたら、いくらも行かないうちに突然森が開け、住宅地の中へ飛び出した。廃線跡は、それを貫く道路として完全に再生されてしまっている。道路名も変わって、ウンタラー・シュライバーヴェーク Unterer Schreiberweg(下シュライバー道の意)だ。勾配はすでにけっこうきつく、7~8%(70~80‰、下注)あったようだ。

*注 以下の文中で示す線路勾配は、ヌスドルフ旧駅舎内に掲げられている地図に記載の数値(%表示)による。

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(左)[9] 廃線跡は森の小道に
(右)[10] 突然開けて住宅街へ
 

起点で西へ向けて出発したルートは、いくつかの曲がり角を経て、今は北西、ウィーンの森の方向に針路を変えている。勾配はさらに険しくなり、10%に達する。アキレス腱に堪える坂道を、ジョギング姿の若者が軽々と追い抜いていった。右手の家並みがとぎれると、カーレンベルクの裾野を埋め尽くした葡萄畑が見え始める。グリンツィング Grinzing のホイリゲで出されるワインの葡萄も、ここで栽培されているのだ。

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(左)[11] グリンツィング駅跡を振り返る
(右)[12] 勾配路の周囲は敷地の広い高級住宅地
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[13] カーレンベルクの裾野を埋め尽くす葡萄畑
その先に山上の送信塔やホテルが見える
 
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グリンツィング~カーレンベルク間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

 

田舎道と斜めに交わる位置の手前に、グリンツィング駅があったはずだが、それらしき痕跡はなかった。急坂はこのあと6%まで緩む。次のクラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl 駅との間は短く、約700mしかない。全線の中間に位置するこの駅では、山を上る機関車に水が補給された。駅舎は第二次大戦後に取り壊され、現在は市民プール(クラプフェンヴァルドルバート Krapfenwaldlbad、略してクラーヴァ Krawa)の駐車場に利用されている。

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[14] クラプフェンヴァルドル駅跡は市民プールの駐車場に
 

さて、麓から廃線跡をたどってきた人は、おそらくここで道を間違える。というのも、駐車場の上手から、車道に並行して一見線路敷のようなインターロッキングの小道が延びているからだ。しかし、ほんとうの廃線跡は、車道から右45度の方向に離れていく。地図でなら一目瞭然だが、現地ではいくつもの分かれ道が見え、しかも真のルートは茂みに埋もれかけている。道が途中で行き止まりにならず、山手へまっすぐ続いていたら選択は正しい。

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(左上)[15] 駐車場上手の分かれ道、矢印が廃線跡
(左下)[16] さらにY字路あり
(右)[17] 踏み分け道になった廃線跡
 

山にとりつく区間のため、勾配は再び10%に高まる。茂みの合間から、緑の縞模様を描く葡萄畑越しに、目指すカーレンベルクの教会やホテルの建物が見えた。右後ろには、遠くドナウ本流とノイエ・ドナウ Neue Donau の2本の帯が光り、それをはさんで高層ビルが2棟、背比べをしている(下注)。いつのまにか、かなりの高さまで上ってきたことに気づく瞬間だ。

*注 川の右がミレニアムタワー Millennium Tower 、左がドナウシティのDCタワー DC Tower。

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[17] ドナウ川とウィーン新市街の高層ビル群を望む
 

踏み分け道の緩い左カーブはいかにも線路跡で、800mほど行けば、2車線道のヘーエンシュトラーセ Höhenstraße(高地通りの意)と合流する。今上がってきた小道は可動柵で通せんぼされているが、これはクルマの進入を防ぐためのもので、徒歩であれば問題ない。実際、犬の散歩をしている人に会ったし、山岳スポーツ情報のサイト「ベルクフェックス Bergfex」にも、廃線跡歩きのルートとして描かれている(下注)。

*注 https://www.bergfex.com/
"Auf den Spuren der Zahnradbahn auf den Kahlenberg" を検索。(検索語句は「ラック鉄道跡をカーレンベルクへ上る」の意)"

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[18] ヘーエンシュトラーセとの合流地点
(左)小道側には車止めの柵がある
(右)反対側から見たところ
 

この先の廃線跡は、勾配が3~4%と緩むこともあり、残念ながら2車線道に上書きされてしまった。歩道がないし、カーブも多いので、歩くのは危険だ。「ベルクフェックス」の地図に従い、車道の山側に別途設けられた小道に退避する。

小道は、広葉樹の森を縫う気持ちのいい散策路だった。車道とほぼ並行しており、かつ多くの区間でそれより高みを通っているので、廃線跡の観察も可能だ。さっきの踏み分け道から打って変わって、気持ちに余裕が出てきたのか、ウィンナワルツ「ウィーンの森の物語」でツィターが奏でる、あの鄙びた響きのメロディーが口をつく。

2車線道が、線路跡らしい緩いカーブで東へ方向転回し始めたところで、小川を渡った。他でもない、ベートーヴェンガングのリスの木の下を流れていたシュライバーバッハの源流だ。道路下は溝渠で、側面に上塗りしたモルタルが剥がされ、鉄道時代の煉瓦積みを露出させてあった。

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(左)[19] ウィーンの森の散策路
(右)[20] 溝渠に鉄道の煉瓦積みが露出
 

ズルツヴィーゼ Sulzwiese のバス停を通過し、散策路はなおも蛇行しながら上る廃線跡の車道についていく。やがて車道の反対側に、駐車場のような細長い空地が現れる。これが最初のカーレンベルク駅跡だ。前回記したとおり、登山鉄道が1874年に開業したとき、ライバル会社が山頂を押さえていたため、ここに仮の終点を置かざるを得なかった。この会社を買収するまで、たった2年の暫定措置だった(下注)ので、痕跡は何もなさそうだ。

*注 駅廃止後も、複線から単線になる信号所としての機能は残っていた。

車道が左へそれていく一方、直進している舗装道が廃線跡だ。旧駅から先は単線だったので、車1台が通れる程度の幅しかない。ちなみにこの道は、山頂に送信施設をもつオーストリア放送協会 ORF の私道で、入口に立つ標識には「当分の間任意通行を許可します。ただし事情を問わず利用は自己責任です(下注)」と記されている。

*注 原文は以下のとおり。 "Bis auf Widerruf freiwillig gestatteter Durchgang. Die Benützung erfolgt jedoch in allen Fallen auf eigene Gefahr."

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(左)[21] 蛇行しながら上る車道が廃線跡
(右)[22] 旧駅跡の空地から、直進する廃線跡を望む
 

森の中を緩いカーブで上っていくうち、赤白に塗り分けた送信塔が見えてきた。道を直進すると、金網で閉ざされた送信施設の専用区域だ。ここが終点カーレンベルク駅の跡なのだが、立ち入ることはできない。左手に進むと、送信塔と並んで、ラック鉄道会社が客寄せのために造ったシュテファニー展望塔 Stefaniewarte が建っている。今日は平日なので、塔の周りには人影もなかった(下注)。

*注 展望塔入口のプレートによれば、開館は5月から10月の、土曜12~18時と日・祝日10~18時(ただし好天時のみ、また10月は17時まで)。

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[23] ひと気のないカーレンベルク山頂
送信塔の後ろにシュテファニー展望塔が立つ
 

小道を下ると、カーレンベルク山上広場に出る。正面に聖ヨセフ教会、右手に私立ウィーン・モジュール大学 Modul University Vienna の施設、その奥はホテルで、大学との間に展望テラスが広がる。少し遠目ではあるが、ドナウの両岸に拡がるウィーン市街地が一望になる。目を凝らすと、フンデルトヴァッサーのデザインした有名なシュピッテラウの清掃工場の煙突の奥に、旧市街のシンボル、シュテファン大聖堂の尖塔も見えた。

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[24] テラスからのウィーン市街展望
 

ところで、山上まで来たからには、テラスの手前に置かれているラック鉄道の記念物を忘れてはならない。幅広のずんぐりした車体に華奢な車輪、妻面にカーレンベルク・ラック鉄道 Zahnradbahn Kahlenberg と書かれているとおり、かつて走っていた客車のレプリカだ。スイスのリギ山によく似た形の車両があるが、カーレンベルクも、同じニクラウス・リッゲンバッハの設計だから偶然ではない。

レプリカが据え付けられた当初は、車内が鉄道写真の展示室になっていたそうだが、今や荒れ放題で、天井がつっかえ棒に支えられているのも痛々しい。ともかく、山上でラック鉄道の面影を偲べるものは、これが唯一だ。

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[25] カーレンベルク山上広場に展示(というか放置)された客車のレプリカ
 

山上広場をテラスと反対側へ進むと、広い駐車場と、その片隅に下界へ降りるバスの乗り場がある。大学施設があるおかげで、38A 系統のバスがわりと頻繁に出ている。途中グリンツィングで降りれば38系統のトラムで、終点ハイリゲンシュタット駅前まで乗ればUバーン(地下鉄)で、それぞれ旧市街に戻ることができる。

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2019年2月 4日 (月)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要

カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn

ヌスドルフ Nussdorf ~カーレンベルク Kahlenberg 間5.5km
軌間1435mm(標準軌)、複線(下注)・非電化
リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配100‰、高度差314m
1874年開通、1922年廃止

*注 カーレンベルク旧駅~カーレンベルク新駅間0.6km(1876年の延長区間)のみ単線

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グリンツィング駅から、ヌスドルフへ下るルートを望む
(1910年ごろ)
Photo at de.wikipedia
 
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今回は、オーストリアの首都ウィーン(下注1)の郊外に昔あった登山鉄道、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の話をしたい。それは、19世紀後半に各地に出現した同種の観光鉄道のなかでも、草分け的存在だったという点で特筆される。ヨーロッパで初めてラック式の登山列車が走り出したのは、1871年5月、スイス中部のリギ山に上るフィッツナウ・リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn(下注2)だが、その3年後、1874年3月にこの鉄道は開業している。現存するブダペストのラック鉄道(1874年6月開業)よりわずかに早く、ハプスブルクの帝都が呼び込んだ斬新なアトラクションは、好奇心旺盛な市民の耳目を引いたに違いない。

*注1 本稿ではドイツ語のWの日本語表記をヴとしているが、Wien, Wienerのみ、慣例に従いウィーン、ウィーナーとした。
*注2 フィッツナウ・リギ鉄道については本ブログ「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」参照。また、ブダペストのラック鉄道については同「ブダペストの登山鉄道と子供鉄道」で言及している。

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ウィーン周辺の1:200,000地形図
(BEV 1:200,000 48/16 Wien 1982年)
茶色の枠は下図1:50,000の範囲を示す
© BEV, 2018
 

まず、鉄道があった場所を確認しておこう。上図はウィーン市周辺を描いた1:200,000地形図だ。市街の西から北にかけてウィーンの森 Wienerwald と呼ばれる山地(下注)が広がっている。それがドナウ川 Donau に落ち込むところに、肩を並べる二つのピークがある。東側がレオポルツベルク Leopoldsberg、西側がカーレンベルク Kahlenberg で、いずれもウィーン市街やドナウの流れを展望する景勝地として知られたところだ。鉄道はそのカーレンベルクの山頂へ上っていた。

*注 「ウィーンの森」という語の響きから、森林公園のようなものをつい想像してしまうが、実際は長さ45km、幅20~30kmの広がりがある山地の名称。

鉄道の起点は、南麓のヌスドルフ Nussdorf(下注)にあった。ルートはまず西へ進み、シュライバーバッハ川 Schreiberbach とネッセルバッハ川 Nesselbach の間の葡萄畑が広がる山脚にとりつく。少しずつ北へ針路を修正しながら上り続け、グリンツィング Grinzing、クラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl を経て、森の尾根筋に接近する。その後、ズルツヴィーゼ Sulzwiese 付近で180度向きを転じて、尾根伝いにカーレンベルクに至った。

*注 ヌスドルフは1999年まで Nußdorf と綴った(小文字の場合)が、新正書法に従い、現在は Nussdorf が正式表記。

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カーレンベルク鉄道と斜路リフトのルート
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ではなぜ、ここにいち早く登山鉄道が造られたのだろうか。歴史をひも解くと、きっかけは1873年に開催されたウィーン万国博覧会だ。来客向けの呼び物にするために、当時スイスで実用化されたばかりのラック鉄道に白羽の矢が立ったのだ。1872年3月に、発明者のニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が加わったコンソーシアムから帝国商務省に、事業計画が提出されている。同年8月に認可が下り、着工に向けて準備が始まった。

しかし通常の鉄道とは認可条件が異なり、政府の優遇措置、とりわけ土地収用の特権が受けられなかった。そのため、地主に売却を渋られたり、土地転がしに遭うなど買収交渉が難航した。資金不足のために、再調達さえ必要になった。結局、着工は1873年5月までずれ込み、工事を急いだものの、万博の会期中には間に合わなかった。開業できたのは1874年3月7日で、博覧会が終了して5か月後だった。

*注 ちなみにこの1873年ウィーン万博(和暦では明治6年)は、明治維新後の日本が初めて公式参加した国際博覧会で、岩倉使節団が見学に訪れている。

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旧ヌスドルフ駅前のラック鉄道記念の木彫りレリーフ
ただし実物ではなく写真パネルが嵌めてあった
 

さらに、山上には一足早く到達したライバルがいた。ドナウ河岸からレオポルツベルクの北斜面を上ってくる斜路リフト Schrägaufzug、すなわちケーブルカー(下注)で、ラック鉄道の工事がもたもたしている間に、1873年7月、オーストリア登山鉄道会社 Österreichische Bergbahngesellschaft がさっさと開通させたものだ。同社はさらにカーレンベルクの眺めのいい一等地も買い占め、万博の客を当て込んでホテルを建てた。そのため、遅れてきたラック鉄道は山頂まで入ることができず、駅をその手前600mの位置に設けなければならなかった。

*注 斜路リフトは長さ725m、勾配34%。レオポルツベルクへのケーブルカー Drahtseilbahn auf den Leopoldsberg とも呼ばれた。

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レオポルツベルクへの斜路リフト全景(1873年)
Photo at wikimedia
 

しかし成功裡に終わった万博の熱気が冷めるとホテルの客足が落ち、オーストリア登山鉄道会社は経営難に陥る。機に乗じて、カーレンベルク鉄道会社は1876年、同社を買収した。そして競合する斜路リフトを廃止し、その代わりにラック鉄道を標高484mの山頂まで延長した。これでようやく5.5km全線が完成し、ラック蒸機が推す登山列車が、上りは30分、下りは25分で山麓との間を結んだのだ。

線路は麓からカーレンベルク旧駅まで複線で敷かれていたが、延長区間は単線とされた。開通当初はまだラック鉄道用の分岐器(ポイント)が開発されておらず、遷車台(トラバーサー)を設置して車両の入換を行った。

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グリンツィング駅に停車中の列車
背景はカーレンベルク山頂(1875年)
Photo at wikimedia
 

機関車は6両在籍していた。同種の多くの鉄道のように、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)から納入された蒸機だった。一方、客車は18両が用意され、一部は革張りシートを設置した1等コンパートメントを備えていた。夏は側窓なしの形で運行され、冬はガラス窓が嵌め込まれた。機関車は客車を最大3両連れて山を上り下りした。ラック式特有の揺れと衝撃が激しく、試乗したウィーンっ子の間で、さっそく「ガックン列車 Ruckerlbahn」とあだ名がついたという。

また、鉄道は水源の乏しい山上へ水の輸送も請け負っており、そのためのタンク車2両が常備されていた。

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ヌスドルフ駅構内(1875年)
Photo at wikimedia
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カーレンベルク山上広場に置かれているラック鉄道客車のレプリカ
 

全線開通後、鉄道会社は積極的な旅客誘致策を講じた。ヌスドルフはウィーン旧市街から北へ5km離れている。そこで、この間に連絡のための路面軌道を造ることにしたのだ。1885年1月に認可を得て、ショッテンリング Schottenring(リング北辺)からヌスドルフまでの路線が開通した。当時、市街地はまだ馬車軌道だったので、ショッテンリングから市境(現 リヒテンヴェルダープラッツ Lichtenwerderplatz)までは馬が牽き、そこで客車は路面用の蒸気機関車に引き継がれて、ヌスドルフまで走破した。ちなみに、このルートは現在もウィーン市電D系統の一部として残っている。

さらに、1887年には山頂に、皇太子妃シュテファニー・フォン・ベルギエンの寄贈により、シュテファニー展望塔 Stephaniewarte が建てられた。駅のすぐ横にそびえる高さ22mの塔の上からは、ウィーン盆地はもとより、晴れた日には南東のライタ山地 Leithagebirge、南西のシュネーベルク Schneeberg も見渡せた。これは話題となり、この年、ラック鉄道は26万人を超える利用者を呼び込むことに成功する。だがその後、記録が破られることは一度もなかった。

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山頂に建つシュテファニー展望塔
 

1911年に鉄道会社は再建計画を練り、鉄道を電化するとともに、資金捻出のために沿線の住宅地開発をもくろんだ。しかし後者は、森に悪影響を与えるとして市の同意を得られず、電化工事の認可も、1914年の第一次世界大戦勃発により実現しないままになった。

戦争中も運行は続けられたが、敗戦により事態は大きく変わった。中欧に君臨した帝国が解体され、オーストリアは人口650万人の小さな内陸国になってしまったのだ。産業基盤が失われ、食糧も自足できず、深刻な不況が国を襲った。蒸機に頼る鉄道は石炭不足で運行すら難しくなった。車両整備もままならず、故障が相次いだ。

軌道資材を他の必要な鉄道に回すことになり、まず複線の片方が撤去された。そして1919年9月をもって、定期運行は休止となった。水の輸送だけは1922年4月まで維持されたが、その時点で、48年間続いたラック鉄道の命運は尽きた。線路は1925年までに撤去され、車両も老朽化していたため、すべて廃車処分された。

さて、カーレンベルクから列車の走る姿が消えて、すでに100年近くが経過している。現在、その跡はどうなっているのだろうか。

起点のヌスドルフ駅舎は鉄道施設の中で唯一現存し、レストランが入居している。また、駅とウィーン市街との連絡のために造られた路面軌道も、市電D系統の一部として健在だ。それに対して、ラック鉄道の廃線跡は、多くが車の通る道路に転換されてしまい、橋台や溝渠が断片的に残存するに過ぎない。中間駅クラプフェンヴァルドルの跡は駐車場と化し、山上駅跡は、シュテファニー展望塔がひとり空しく護り続けている。

昨年(2018年)9月にウィーンを訪れる機会があったので、廃線跡を実際に歩いてみた。次回はその状況をレポートしよう。

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旧ヌスドルフ駅舎の前にさしかかるウィーン市電D系統のトラム
 

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2018年10月25日 (木)

コンターサークル地図の旅-豊橋鉄道田口線跡

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田口線の忘れ形見モハ14
 

廃線跡が遠からずダム湖の底に沈む、という話を聞いたのは、確か2年前、巴川の谷中分水(下注)を見に行ったときだった。鉄道が通っていた渓谷に大規模なダム建設が計画されており、ちょうどルートを横切る形で造られるため、それより上流側が水没して、二度と見られなくなってしまうというのだ。

*注 谷中分水の訪問記は「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」にある。

鉄道は豊橋鉄道田口線といい、現 JR飯田線の本長篠(ほんながしの)から三河田口(みかわたぐち)まで22.6kmを結んでいた。沿線にあった広大な御料林の木材搬出や鳳来寺への観光輸送を目的として、1929(昭和4)~1932(昭和7)年に順次開通した。

当初は田口鉄道が運営していたが、戦後、1956(昭和31)年に名鉄系列の豊橋鉄道に合併されて、上記の名称となった。しかし、木材輸送のトラックへの移行や過疎化による人口減少などの影響で、運輸実績が落ち込み、1964(昭和39)年にバス転換の方針が示される。折悪しくその翌年、台風による土砂災害で、最奥部の清崎(きよさき)~三河田口間が不通となった。さらに1968(昭和43)年に田峯(だみね)~清崎間も同様の被害に見舞われたことで、復旧の願い空しく全線廃止されたのだ。

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田口線現役時代の1:200,000地勢図(1969(昭和44)年修正図)
 

2018年10月14日、コンターサークル秋の本州旅の初日は、この廃線跡を追いかける。用地買収や家屋移転がほぼ終わり、ダムの事業工程がいよいよ本体にかかり始めており、今回がおそらく見納めになるだろう。

ちなみに、ルートを追うことができる地形図は、1:50,000が最大縮尺だ。1:25,000は初刊が1970(昭和45)年編集のため、タッチの差で鉄道は描かれなかった。ただし初刊図の段階では廃線跡の大半がまだ手付かずで、幅員1.5m未満の道路記号を使って明瞭に示されている。1:50,000を補完する意味で、以下では大いに利用している。

豊橋からJR飯田線の普通列車に乗った。のんびりと対向列車待ちもあって、終点の本長篠まで1時間20分かかった。電車で来た浅倉さんと私、そして改札前で待っていてくれた外山さん、この3名が本日の参加者だ。この廃線跡に詳しい外山さんが、クルマで見どころを案内してくださる。

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JR本長篠駅
右写真の、今は使われていない左(駅舎側)のホームに田口線が発着していた
 

朝方の雨で路面はまだ濡れているが、雲間から早や青空も覗き始めた。まずは鉄道の終点だった田口に向かって、車を走らせる。県道長篠東栄線から国道257号線へとつなぐ道路はまさに鉄道の通過ルートに沿っていて、クルマの外を流れる景色が、乗ることの能わなかった列車の車窓とだぶって見える。

田口の町は、周辺を流れる河川の活発な浸食によって孤立した高原の小盆地に立地する。その町並みからさらに高い丘の上にある奥三河郷土館を訪れた。ここには田口線の関連資料も保管されているので、美幸線のときのように(下注)探索の前に目を通しておきたいところだが、あいにく移転準備のために長期休館中だ。

*注 美幸線の廃線跡訪問記は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」参照。

ただ幸いなことに、前庭に展示されている田口線の旧車両モハ14は、観察が可能だった。屋根が架かっているので、保存状態もいい。窓から内部を覗くと、片側のロングシートを外して、資料の展示スペースにしてあるのがわかる。行先標は「清崎(三河田口)」と記され、廃止直前の様子を再現しているようだ(下注)。郷土館とともにこの車両も移設される予定だが、新館の建設地、つまり引越し先がほかならぬ清崎だというのは、話が出来過ぎている。

*注 晩年の3年間、不通となった清崎~三河田口間はバスで代行され、列車は清崎止まりだった。

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奥三河郷土館の前庭に静態保存されているモハ14
 

町を通り抜け、森の中のつづら折りの急坂を下る。旧 三河田口駅が設置された場所は、豊川上流の寒狭川(かんさがわ)が長い時間をかけて刻んだ深い谷底で、町との高低差は100m以上もあった。狭い川岸にダム工事用の仮設道路や転流工と呼ばれる水路トンネルが姿を現すなか、旧駅舎とホームの土台の一部が奇跡的に露出している。

その脇に、田口線の年表をはじめ、駅構内図、昭和35年ごろの町の施設配置図など、興味深い資料を掲げたにわか作りの案内板が立っていた。今年は廃線50周年に当たり、駅跡にもそのことを告げる幟が多数、風にはためいている。「今日はこの廃線跡を全線踏破するイベントをやっているはずです」と外山さんが言う。「田口を8時半出発なので、途中どこかで出会うと思いますよ」。

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(左)三河田口駅跡、下段が線路敷、中段がホーム、上段が駅舎の基礎
(右)現役時代の駅(現地案内板を撮影)
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三河田口駅構内図(現地案内板を撮影)
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清崎~田口間の新旧地形図
(左)田口線現役時代の1:50,000(1957(昭和32)年)を2倍拡大
(右)現在の1:25,000(2014(平成26)年)、廃線跡は幅員3.0m未満の道路記号で描かれる
 

廃線跡は、渓谷に沿う1車線の舗装道に転用され、清流の音を聞きながら歩ける絶好のハイキングコースになっている。しかし、ダムの予定地である最初のトンネル(旧 大久賀多第二隧道)の手前までは、赤のカラーコーンや注意を呼び掛ける立て看板が点々と置かれ、もはや工事現場そのものだ。トンネルは下流側にあるため、水没こそ免れるが、関連工事でやはり崩される運命にあるらしい。

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工事現場と化した廃線跡
(左)駅跡近くに工事用仮設道路が立ち上がる
(右)ダム本体の予定地では転流工を建設中
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渓谷沿いの廃線跡と旧 大久賀多第二隧道
(左)北口 (右)南口
 

道を下っていくと、次の旧 大久賀多第一隧道があった。清崎までの間にこうしたトンネルが計6本あるが、昭和初期の建設なので、ポータルは煉瓦積みではなく、飾り気のないコンクリート製だ。しかし、このトンネルは内部が素掘りのままだった。側壁に電線の碍子も残されていて、出自を彷彿とさせる。

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旧 大久賀多第一隧道
(左)内部は素掘りで、電線の碍子が残る
(右)南口、小さな滝が落ちていた
 

やがて渓谷が大きく蛇行する区間にさしかかった。線路はこれを2本のトンネル(入道島第二隧道、同 第一隧道)とその間をつなぐ1本の鉄橋(第四寒狭川橋梁)でショートカットする。橋は4径間のプレートガーダー橋だが、河原へ降りて仰ぎ見ると橋脚はかなりの高さで、大掛かりな工事であったことが実感される。「帝室林野局が工費の半額近くを負担したので、実現した鉄道なんです」と外山さん。

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旧 第四寒狭川橋梁
(左)奥の明るい部分が橋梁。橋は2本のトンネルにはさまれている
(右)寒狭川を斜めに一跨ぎ
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旧 第四寒狭川橋梁
橋脚はかなりの高さがある
 

トンネルの後は高い築堤を築きながら徐々に下降していき、田内隧道をくぐり、川を斜めに渡る。この第三寒狭川橋梁も、5径間のガーダーがそのまま残り、鉄道の雰囲気が濃厚だ。

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清崎駅手前の旧 第三寒狭川橋梁
(左)現在は箱上橋または辨天橋の名で呼ばれる
(右)プレートガーダーが鉄道の雰囲気を残す
 

所期の目的を果たしたので、橋を眺められる川原で昼食を広げた。私はいつもコンビニおにぎりなのだが、今日は珍しく、豊橋駅で壺屋の稲荷寿しを買ってきている。

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豊橋駅名物、壺屋の稲荷寿しを昼食に
 

この清崎から少しの間、廃線跡は国道257号線に「上書き」されてしまう。次に姿を見せるのは、国道の清嶺トンネルの下流側だ。鉄道としては清崎第三隧道なのだが、南口だけが残っていて、崩れてきた土砂のために、内部は水に浸かっている。蒼く澄んでいるものの、かなり深そうだ。左岸に延びる廃線跡は荒れているので、田峯側からアプローチすると、沢を渡る短い橋梁の鉄桁が残っていた。

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(左)清崎第三隧道南口は蒼い水が溜まる
(右)沢を渡っていた橋梁の鉄桁が残存
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田峯~清崎間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000
(中)廃止直後の1:25,000(1970(昭和45)年)、廃線跡が明瞭に描かれる
(右)現在の1:25,000、廃線跡の大半が図上から消えた
 

森林鉄道が接続していた旧 田峯駅を出た後、鉄道はまた寒狭川を渡る。4度目の渡河だがこれが最後で、もう寒狭川の谷に戻ることはない。惜しいことに鉄橋(第一寒狭川橋梁)も、それに続く路線最長の稲目隧道(1511m)も、県道として拡幅改修されたため、昔の面影は消失している。

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田口線のそれを拡幅改修した県道富栄設楽線の稲目トンネル
 

旧 滝上(たきうえ)駅付近では、例の廃線跡ウォークの参加者と思しき集団を見かけた。三河田口からすでに10kmは来ているが、本長篠までの道のりにすればまだ半ばだ。心の中でエールを送りつつ、先を急ぐ。

ここで廃線跡は国道から分かれて、しばらく海老川の右岸を南下する。旧 海老駅の南側からは1車線の舗装道になるので、寄り道した。少し走ると、山水画にでも出てきそうな切り立った断崖が行く手を遮っているのが見えてきた。鉄道の双瀬隧道がそれを果敢に貫いている。クルマから降りて、「ぜひ見てもらいたかった場所です」という外山さん推薦の絵になる景色をしばし嘆賞した。

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切り立った断崖を貫く旧 双瀬隧道
北口のポータルは斜めに切られた珍しいもの
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三河海老周辺の新旧地形図
 

その後、廃線跡はすんなり海老川の谷を下りきると思わせて、旧 玖老勢(くろぜ)駅からまた山越えにかかる。鳳来寺の参道に近づけるためのルート選択なのだそうだ。鳳来寺小学校の脇から踏み分け道を森の中へたどると、高い築堤が昼なお暗い谷を横切っていた。これが廃線跡で、左カーブで切通しを抜けて、路線第二の長さがあった麹坂隧道(441m)の北口に通じている。50年も経つにしては、藪に埋もれることなく、難なく歩ける明瞭さを保っているのが不思議だ。

これに対して隧道の南口は、巴川の谷中分水を巡検した帰りに立ち寄ったことがある。バリケードで封鎖されていたものの、内部は崩れずにこの北口まで今でも貫通しているらしい。

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昼なお暗い谷を横切る麹坂隧道北側の築堤
(左)旧道が築堤の下をくぐる
(右)線路敷は今も明瞭さを保つ
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(左)麹坂隧道北側の切通し
(右)麹坂隧道北口、坑内の湧水が流れ出る
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鳳来寺~玖老勢間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000(1960(昭和35)年)
(中)廃止直後の1:25,000(1975(昭和50)年)、万寿隧道の前後は描かれていない 
(右)現在の1:25,000(2016(平成28)年)、遊歩道となった区間を除き、図上で廃線跡を追うことはできない
 

次に案内してもらったのは、三河大草駅跡だ。鳳来寺駅から山を越えて、本長篠へ降りていく長い下り坂の途中にある。線路はこの区間で、高度を稼ぐために谷筋を離れて、山手を迂回する。それで、のどかな山田の風景を串刺しにするように、廃線跡のトンネルと高い築堤が横切っているのだ。

そのトンネルの一つ、大草隧道を南へ抜けたところ、薄暗いスギ林に包まれて、苔むした石積みのプラットホームが残っていた。辺りは背筋が寒くなるほどひと気がなく、ここで電車を待つのは勘弁願いたいところだ。ところが、崩れかけたホーム越しにトンネルが明るく透けて見えるのが幻想的だと、今やインスタ映えする景色を求めて、わざわざ写真を撮りに来る人がいるという。

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富保、大草両隧道の間で谷を渡る築堤

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三河大草駅跡
(左)南望
(右)北望、薄暗い森の中でトンネルだけが透けて見える

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本長篠~万寿隧道間の新旧地形図
 

最後に、県道長篠東栄線の脇に立つ石積みの高い橋脚のところで車を停めた。川と道路を一気にまたいでいた大井川橋梁の遺構だが、上空に渡されていたはずの橋桁はとうになく、橋脚だけがひとり谷間から天を仰いでいる。この後、田口線跡は再び1車線の舗装道として復活する。そして短い旧 内金隧道を経て、桜並木の間を緩くカーブしながら、ゴールの本長篠駅へ近づいていく。

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県道脇で天を仰ぐ旧 大井川橋梁の橋脚
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桜並木に続く旧 内金隧道
 

廃線跡ウォークなら7時間はかかる行路を駆け足で巡る旅だったとはいえ、谷を縫い、山をいくつも越えて、ここまで出てくる道のりの険しさ、遠さは想像以上のものがあった。鉄道廃止が取り沙汰された当時、地元では強い抵抗があったそうだ。それは歴史あるものに漠然と抱くノスタルジーを超えて、この難路を45分ほどで走破していた田口線に対する現実的な信頼度の高さを示す証しだったのではないか。路線が有していた存在意義は、今なら理解できる気がする。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田口(平成26年調製)、海老(昭和45年測量および平成25年調製)、三河大野(昭和50年修正測量および平成28年調製)、5万分の1地形図田口(昭和32年要部修正測量)、三河大野(昭和35年資料修正)および20万分の1地勢図豊橋(昭和44年修正)を使用したものである。

■参考サイト
田口線(田口鉄道)、今蘇る http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
設楽ダム工事事務所 http://www.cbr.mlit.go.jp/shitara/

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2018年10月19日 (金)

コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車

2018年9月2日、北の大地はひんやりとした秋の空気に包まれ、見上げればすっきりと青空が広がっている。まだ蒸し暑さが続く関西から来た者にとっては、なんともうらやましい。今朝の旭川の最低気温は10度まで下がったが、昼間は23度という予想なので、行楽に出かけるには最適の季節に違いない。

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仁宇布の美幸線跡を活用した「トロッコ王国美深」
 

旭川駅9時ちょうど発の稚内行き特急「宗谷」に乗り込んだ。本日のコンターサークル道内の旅は、国鉄美幸線の跡をたどることになっている。美幸線というのは、かつて宗谷本線の美深(びふか)から分岐して、仁宇布(にうぷ)まで21.2kmを走っていたローカル線だ。1964(昭和39)年開業という遅咲きの路線で、沿線が人口希薄な山中のため、筑豊の添田線などとともに日本一の赤字路線の座を争っていたことで知られる。

そもそも路線は仁宇布が目的地ではなく、分水界を越えて、オホーツク海岸の北見枝幸(きたみえさし)で興浜北線と接続する計画だった。起終点の駅名からそれぞれ一字を採った美幸線の名はなかなかよくできているが、国鉄再建法の成立で第一次廃止対象線の一つに挙げられ、1985年に廃止されてしまった。運行されたのはわずか21年で、その名にそぐわず、幸薄かった国鉄線だ。

私も美幸線には一度だけ乗ったことがある。メモを繰れば廃止の2年前、1983年8月のことだ。一日4往復、朱色のディーゼルカーが単行で走っていた。このときは同じ道北の天北線や興浜北線・南線なども巡ったのだが、悲しいことにその後すべて路線図から消えてしまった。廃止から33年、美幸線跡は今どうなっているのだろうか。

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美幸線現役時代の1:200,000地勢図(1973(昭和48)年修正図)

名寄駅で宗谷から降りて、レンタカーを運転してきた真尾さんと合流した。参加者はこの二人だけだった。札幌からの距離は200km以上(下注)、高速道路を使っても車で3時間近くかかる場所だから、無理もないことだ。

*注 JR(国鉄)の営業キロは、札幌から名寄まで213.0km。仁宇布までは256.3kmで、ほぼ東京~浜松間に相当する。

まずは、起点の美深駅へ向かうことにする。そこに美幸線の資料館があると聞いていたからだ。駅舎はレンガタイル貼りの2階建てで、美幸の鐘と称する時計塔が中央に立ち、見た印象は名寄駅よりもはるかに立派だ。階段を上がった2階の半分が展示室に充てられていた。開通から廃止に至るまでの写真や資料、駅や乗務員の備品、時刻表、乗車券類のほか、廃止撤回をめざして精力的に行っていた宣伝活動の品々も揃っている。たいへん充実した内容で、33年経ってもなお、消えた鉄道を惜しむ地元の人々の気持ちが伝わってくる。

1階の売店に記念グッズがあったので、サボ(列車の行先標)を象ったキーホルダーを土産に購入した。美幸線の乗り場は、確か向かいの島式ホームの外側、3番線だったはずだ。駅舎の横から覗くと、当時の面影がまだ残っているように見える。

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(左)美幸の鐘のあるJR美深駅舎
(右)美幸線の列車が発着していた美深駅3番ホーム(島式ホームの外側)
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美幸線展示室の展示品から
(左)サヨナラ列車の写真
(右)サボ(列車の行先標)、切符ほか関係資料
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(左)仁宇布駅の発車時刻表
(右)赤字路線を逆手に取った宣伝活動のチラシ
 

美深駅を後にして、道道49号美深雄武線を東へ進んだ。畑の中をまっすぐに山手へ向かう一本道だ。美幸線には中間駅が二つあり、東美深、辺渓(ぺんけ)といった。後者は道道のすぐ横にあったはずなので、車を停めて行ってみた。

十号川に架かるコンクリート橋が残っていたから、線路が通っていたのは確実だが、前後に続いていたはずの築堤は消失し、畑に変わっていた。当然、辺渓駅の跡も見当たらない。真尾さんが、橋台の際の、築堤を崩したと思しき場所に生えていた木を指さす。すでに幹の太さが一抱えもあり、経過した時間の長さを感じさせた。

このあと線路跡と道道は重なり合うように渓谷に入っていく。人家は全くないので、次はもう終点の仁宇布だが、駅間距離は14.9kmもあった。何度か渡るペンケニウプ川には、美幸線のコンクリート橋が、旧 美深町営軌道(下注)のものと思われる橋の遺構と並び残っている。ガーダー橋と違って、橋桁だけ撤去するわけにはいかないからだが、今となっては貴重な史跡だ。それに比べて、道路に並行していたはずの線路跡は、森の中で自然に還ってしまったようだ。

*注 美深町営軌道は、美深~仁宇布間にあった762mm軌間の簡易軌道で、主として木材輸送に用いられたが、美幸線開通に先立ち、1963年に廃止された。

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美幸線廃線跡
(左)辺渓駅手前の十号川に架かるコンクリート橋
(右)道道の第四仁宇布橋から、町営軌道の橋台(手前)、美幸線の橋梁(奥)を望む
 

やがて、高広パーキングと書いた標識が現れた。ここから仁宇布駅跡までの間は、線路が残されている。ディーゼルカーの代わりにレールバイク(軌道自転車)を使って、美幸線乗車を追体験できる観光施設に使われているのだ。当地ではレールバイクではなくトロッコと呼ぶので、以下の説明はそれに倣うことにしよう。

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仁宇布周辺の1:25,000地形図
トロッコ専用線路の注記がある

仁宇布駅跡を拠点とする「トロッコ王国美深」は、想像以上に設備の整った施設だった。車庫と整備場を兼ねた大きな建物と、その前に3本の側線を備えたヤードもある。整備場に隣接する高床のホームは旧 仁宇布駅のもので、子ども用のトロッコのミニコースが発着している。その後ろには、どういう経緯か知らないが、国鉄時代の581系寝台電車(サハネ581-19)が停めてあり、内部の見学も可能だ。長年の風雨に曝されて、塗装は無残に剥がれているものの、内装はまだきれいだった。

さっそく王国の乗車受付というか、入国審査カウンターへ行く。「広い施設ですね」と話しかけると、係官(?)の女性は「もう20年やっています。その間に拡げていったんです」と言う。トロッコ運行は1998年7月に始まっていて、この種の廃線跡活用では草分け的存在だ。支払いを済ませ、入国旅券の査証欄にスタンプを押してもらって、手続きは完了した。

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「トロッコ王国美深」
(左)現「駅舎」、コタンコロカムイ驛の看板が掛かる
(右)内部の休憩スペース
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(左)正面の高床ホームは美幸線時代の遺構
(右)車庫の奥に置かれた581系寝台電車
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記念スタンプと記念乗車券
 

乗り場に出て、車両を観察する。3人掛けロングシートが前後に並ぶ6人乗りが主だが、グループ用の9人乗りも見かけた。全部で20台あるというから、人気のほどが知れる。車体には農作業などに使われる汎用小型エンジンが搭載されているので、足漕ぎは必要ない。クルマを運転する要領で、床にあるアクセルを踏めば走り、ブレーキを踏めば停止するのだ。サイドブレーキもついていて、停車中はこれを手前に引いておく。こうした操作があるため、運転する人は、普通自動車免許の提示を求められる(下注)。

*注 免許証を持っていない場合は、スタッフが運転する。

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トロッコ車両
(左)汎用小型エンジンを搭載
(右)運転席の床に設置されたアクセルとブレーキのペダル(緑の矢印)
 

トロッコは毎時00分の出発だ。受け付けたグループ数に応じて台数が用意され、少し間をおいて順にスタートする。私たちは12時発で、全部で6台走るうちの4番目だった。発車10分前に全員、乗り場前に集合して、スタッフの方から乗車に際しての注意事項を聞いた。
「コースは片道5kmありますので、往復で30~40分かかります。安全のために、前を行くトロッコとの車間は詰めないでください。100m程度空けて、つかず離れず走るようにお願いします」

「途中踏切が6か所あります。線路は廃線になっていますので、道路のほうが優先です。農道林道で車はめったに通りませんが、十分注意してください。鉄橋も大小合わせて6か所あります。落下防止のガードレールなどはないので、アクセルを緩めて通過してください。それから、ズボンのポケットに車の鍵やスマホなどを入れている方は、バッグか何かにしまったほうがいいです。線路の脇はすぐ草むらで、落とすとまず見つけられません」。

「折り返し点はループになっていて、上りの急カーブです。スピードを出し過ぎると脱線します。逆に緩めすぎると停まってしまいます。もし車輪が空転して再発進できないときは、助手席の人が降りて後ろから押してください…」。

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出発説明はこの看板の前で受ける
 

乗り場に移動し、赤色の17号車に乗り込んだ。真尾さんが運転席に座る。順番が来ると、スタッフの人が後ろのエンジンを始動した。出発だ。汎用エンジンのバタバタという騒音が響き渡り、それにレールの継ぎ目を通るときのゴトンゴトンというジョイント音が加わる。車体は絶えず小刻みに揺れ、乗り心地がいいわけではないが、風を切って本物の線路の上を滑っていくのは特別な感覚だ。

農道を横切り、白樺の並木を抜け、清らかな谷川のせせらぎを渡り、広葉樹の林に包まれる。片道だけでもけっこう乗りがいがある。真尾さん曰く「アクセルの遊びがないので、踏むとすぐ反応しますね。加減が難しい」。

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トロッコは白樺の並木を抜け、緑濃い森の中へ(左写真は帰路写す)
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(左)踏切の線路側に立つ一時停止標識(通る車はめったにないが)
(右)橋はコンクリート製で、バラストが敷かれ、下が透けてはいない
 

ようやく終端まで来た。ループは鉄道としては確かに超急曲線で、上り勾配にしてあるのは、速度を落とさせるためだとわかる。通過にはアクセルとブレーキの微妙な調節が必要だが、「だいぶ感覚がつかめてきました」と、停止することもなく無事クリアした。真尾さんは以前にも一度乗ったことがある。「そのときは係の人が手作業で1台ずつ方向を変えていましたから、ずいぶん省力化されましたね」。

ポイントの手前に係員が立ち、すべての車両がループに入るのを待っている。それからポイントを切り替えて、再び1台ずつ発車し、同じ線路を戻っていく。日曜ということもあって、次の13時発も6~7組並んでいて、なかなかの盛況ぶりだった。

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高広の終端ループにさしかかる
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(左)超急カーブ、速度注意!
(右)ポイントの交差角度も急過ぎて、汗
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ループに全車両が入った後、ポイントが切り替えられ、仁宇布に向けて再発車
 

昼食をとった後は、天竜沼へ寄り道した。仁宇布の南南東約5km、松山の中腹にある森の中の湖沼だ。駐車場の端から始まる遊歩道を少し降りたところに、シナノキやナラ、エゾマツの深い林に囲まれて、ひっそりとたたずむ沼があった。濃淡ない混ざった木々の緑が、水面におぼろげに映り込んでいる。池を半周する木道があり、それを伝っていくと、見る角度と光線の差し加減によって、沼の表情が明から暗へ、また明へと刻々と変化するのがおもしろい。

これは、堀さんが好んで訪れた、無名で多少とも行きにくいところにある小さな沼、「B級湖沼」に該当するだろう。「実は、あの言葉を言い出したのは私なんです」と真尾さん。B級グルメなどに倣ってそう呼んでいたのを、堀さんが著書で取り上げたのだそうだ。

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森に囲まれ静かにたたずむ天竜沼
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木道が沼を半周している
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天竜沼周辺の1:25,000地形図
 

せっかく仁宇布まで来たので、時間の許す限りで、美幸線の未成線、すなわち未開通のまま放棄された線路の跡を追った。1:200,000地勢図に書き込んだルートのとおり、分水界の西尾峠を越えた後も、線路はまったく人家のない山中を縫っていく。これらは路盤工事がかなり進捗していたにもかかわらず、美幸線の営業廃止に伴い、あらかた原野や森に埋もれたか、農地その他に還されてしまった。

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牧場を横断する美幸線の未成線跡
 

その中で例外的に再利用されているのが、仁宇布~北見大曲間に掘られた第2大曲トンネル(長さ1,337m)だ。2車線に拡幅改築されて、道道美深中頓別線の天の川トンネル(1,353m)に生まれ変わり、難所だった大曲峠の山道を置き換えた。形は違えども、鉄道構想に込められた願いを実現したわけだ。私たちはこの道路トンネルを通り抜け、経緯を記す案内板を見届けて、全線が幻と化した美幸線跡を後にしたのだった。

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未成線のトンネルを拡幅改築した道道の天の川トンネル
(左)西口ポータル
(右)経緯を記す西口の案内板
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美幸線未成線のルートと駅予定地
1:200,000地勢図(1972~73(昭和47~48)年修正図)に加筆
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図仁宇布(平成22年更新)、20万分の1地勢図名寄(昭和48年修正)、枝幸(昭和47年修正)を使用したものである。

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2018年9月 3日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) II

車掌氏からもらった火山急行 Vulkan-Express の沿線案内は続く("Tour-Info on Brohltalbahn" 英語版を和訳、内容一部略)。

「私たちの旅は、標高67mのブロールBEで始まります。ここに鉄道の本部があり、絵のような小さな駅舎、側線、機関庫、修理工場があります。ここで機関車と客車は保守され、修理されています。

駅を勾配で離れると、すぐに線路はブロールバッハの谷へ左折し、続く12kmの間それに沿って走ります。少し行くと、初めて主要道を横断し、すぐに鉄橋でブロールバッハ Brohlbach を渡ります。線路は主要道と並行しており、時速20kmで安定して走るので、追い越していく多くのドライバーに手を振るチャンスがあります。機関車の警笛がドライバーに、踏切で停止するよう促すでしょう。」

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整備工場の前の蒸気機関車 11sm
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ブロールバッハの谷を行く火山急行(帰路撮影)
 

「もう少し上り、小川を渡ると、近くの城の名にちなんだシュヴェッペンブルク Schweppenburg 停留所(下注)に着きます。続いて、今でもトウモロコシを粉に挽くのに水力を使用する数少ない製粉所の一つ、モーゼンミューレ Mosenmühle があります。テーニスシュタイン鉱泉 Tönissteiner Sprudel の看板は、ローマ人が既に2千年前に使っていたドイツ最古の鉱泉の一つへ行く道を示しています。」

*注 正式名はシュヴェッペンブルク・ハイルブルンネン Schweppenburg-Heilbrunnen。リクエストストップにつき、実際には通過することが多い。後述のヴァイラー Weiler とブレンク Brenk も同じ。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

「ここで谷が狭まり、勾配が1:40(25‰)に高まります。エンジン音からそれが聞き取れ、速度の低下に気づくはずです。約1km進んだ後、谷の高みにある次の停留場バート・テーニスシュタイン Bad Tönisstein で停まります。小さな緑色のブリキ小屋が、列車を待つ旅人に休む場所を提供します。谷の反対側に、柔らかい凝灰岩に掘られたいくつかの洞穴が見えますが、この地質は、ラーハ湖火山 Laacher See Vulkan の激しい噴火の後(下注1)、谷を巻き下りてきた火山灰がとどまってここに堆積したものです。柔らかい石は最初ローマ人が建築用の石に用いましたが、粉砕すれば、水中で硬化するコンクリートとして使えます(下注2)。」

*注1 爆発により火山は陥没し、カルデラ湖である現在のラーハ湖 Laacher See が生じた。ブルクブロールの南5kmに位置するこの湖は、面積3.3平方kmでアイフェル最大。
*注2 トラス Trass と呼ばれる特産の凝灰岩で、特にオランダで干拓事業に用いられた。

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(左)バート・テーニスシュタイン停留所の緑色の待合所
(右)テーニスシュタイン高架橋を渡る
 

「カーブを回り、着実に上るとすぐ、長さ120m、高さ12mの『テーニスシュタイン高架橋 Tönisstein Viadukt』で再び谷を渡り、いったん長さ95mのトンネルに潜ります(下注)。さらに少し上ると、標高145mのブルクブロール Burgbrohl 駅に着きます。駅舎は、地元産の石材とハーフティンバーの塔部から造られ、一部にスレートを葺いた、路線で最も美しいものです。

短時間停車した後、また上り、谷のへりに沿って家並みの裏手を進むと、向こう側に古城のそびえるブルクブロールの村を見渡すことができます。」

*注 テーニスシュタイン高架橋は路線で最大規模の高架橋で、蒸気列車の撮影ポイントでもある。また、テーニスシュタイントンネルは路線で唯一のもの。

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(左)テーニスシュタイン高架橋、列車の最後尾から撮影
(右)渡り終えると路線唯一のテーニスシュタイントンネル
 

「次はヴァイラー Weiler に停車します。ここにある側線は、巨大なヘルヘンベルク Herchenberg の採石場が使っていたかつて非常に多忙だった積み出し駅の唯一の忘れ形見です。ここから谷が広がり、遠方にもう火山起源のアイフェル山地の丸い山頂が見えています。A61号線を載せる巨大な道路橋の下を通ります。」

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(左)見栄えのするブルクブロール駅舎
(右)A61号線の高架橋の下を通る
 

「右手、その隣に高さ340mのバウゼンベルク Bausenberg のクレーターがあります。約14万年前のもので、ヨーロッパで最もよく保存された馬蹄形の火口です。ニーダーツィッセン Niederzissen(下注)を通り、しばらく主要道と小川に沿ってオーバーツィッセン Oberzissen へ進んでいくと、アイフェルの高い山々に囲まれた畑や牧草地や小さな森のある美しい田園風景が楽しめます。」

*注 ニーダーツィッセンは往路の休憩地で、時刻表では7分停車。通常施錠されている駅のトイレがこのときだけ開放される。

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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

「オーバーツィッセン駅を発車後、この路線が山岳鉄道と呼ばれる理由を実感することができるでしょう。というのは、鋭い左カーブで谷を離れ、美しい3径間のアーチ橋で通りをまたぎ、最後の、そして最も壮大な旅の区間にさしかかるからです。勾配は、続く5.5kmの大部分で 1:20(50‰)と険しくなります。1934年までここはラック鉄道でしたが、より強力なエンジンによってラックなしで上れるようになりました(下注)。」

*注 開通時はアプト式(2枚レール)ラック区間だったが、マレー式機関車や旅客輸送用の気動車の導入により、ラックレールは1934年に撤去された。

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(左)ニーダーツィッセンは往路の休憩地
(右)オーバーツィッセンの町を後にして、50‰の急勾配に挑む
 

「それが見えるとともに、エンジンが必死に働いているのが聞こえてきます。速度は徒歩並みに落ちますが、これは、ほかにはないアイフェルの田舎、畑や牧草地や森がゆっくりと客車の窓を通り過ぎるのを眺める時間を与えてくれます。列車の騒音で鹿がたいてい逃げていく一方で、線路のそばに放たれている馬はそれに慣れています。

右手には、古い火山の丘の上にオールブリュック城 Burg Olbrück が見えます。それは975年に遡り、何度か増築されました。フォン・ヴィート伯爵 Graf von Wied によって建てられたこの城は、1689年にフランス人によって破壊され、その後は地元民が石採り場として使っていました。2000年に城の欠損部が復元されて、今では巨大な塔に登り、上から壮大な景色を楽しむことができます。晴れた日には約50km離れたケルン大聖堂が見えるのです!!」

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古火山に立つオールブリュック城と麓の村ハイン Hain
 

「列車は3km上った後、ブレンク Brenk で側線と採石場の建物を通過します(下注)。ここではフォノライトが採掘されています。火山岩は粉砕されて細粒となり、コンテナでガラス工場に出荷されて、高品質のガラスの生産に使われます。利点の一つは融点を下げることで、コスト削減に役立ちます。採石場は、路線上の定期貨物輸送で唯一残っている顧客です。

*注 ブレンクの採石場はシェルコプフ Schellkopf という火山をまるごと採掘しており、すでに山の形を成していない。乱開発を防止するため、他の火山群は自然保護区に指定されている。

もうひと踏ん張りです! 美しい森の中を少し上り、それから高い築堤で谷を渡り、木々が列をなす切通しを抜けて再び開けた土地へ出ていきます。警笛の爆音が、17.5kmの旅を終えて標高465mの終着駅エンゲルン Engeln に到着したことを伝えてくれます。」

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(左)複線に見えるのはブレンク貨物駅の側線
(右)木々が列をなす切通しを抜ける。終点まであと少し
 

「ここが路線の終点ですが、かつてはケンペニッヒ Kempenich の村まであと5km(下注)走っていました。残念ながら、その区間の線路は1974年に撤去されました。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、エンゲルン~ケンペニッヒ間は6.32km、廃止日が1974年10月1日で、撤去は1976年としている。

エンゲルンからは、バスで旅を続けるか、標識の整ったハイキングルートを歩くか、あるいは駅のビュッフェで短い休憩と軽食をとった後、起点のブロール駅に列車で戻りましょう。」

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エンゲルン駅
(左)乗客は火山食堂で休憩
(右)すぐに機回し作業が始まる
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折返しの発車準備完了

そのエンゲルンでは折返しの発車まで30分の待ち時間があり、その間に機回し作業が行われる。駅舎は1997年に改築された木造の平屋で、ブルカーンシュトゥーベ(火山食堂) Vulkanstube と名付けられた軽食堂が開いている。乗客はここで休憩をとることができる。

駅の周囲は緩やかにうねる農地が広がり、人家は、西へ少し行った丘の麓にあるエンゲルンの小さな集落だけだ。地形的には高原の分水界で、なぜここが終点なのか、不思議に思う人もいるだろう。ケンペニッヒへの末端区間が廃止されたとき、ここに線路が残されたのは、一つ手前のブレンクでフォノライト(響岩)の貨物扱いが継続中だったからだ。ブレンクは急勾配区間に挟まれて手狭なため、坂を上り切ったエンゲルンを折返し駅にしたようだ。

線路に沿ってケンペニッヒ方へ少し歩いてみる。線路は駅舎から200mほどで途絶え、跡地はいったん畑に取り込まれた後、農道に姿を変えて続いていた。北を望むと、火山起源ののっぺりとした緑の丘(エンゲルナー・コプフ Engelner Kopf)を背景に、菜の花が満開で畑を黄色に染めている。のどかな春の景色に心が和んだ。

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エンゲルン駅周辺
火山起源の丘を前にして黄色に染まる菜種畑
 

復路では、予定通りオーバーツィッセンで蒸気機関車 11sm に引き継がれて、ブロールに着いた。一仕事終えた蒸機は、側線を伝ってエンゲルン方にある修理工場の前まで行き、石炭と水の補給を受ける。工場の扉は開放されていて、見学が可能だ。4軸ボギーの大型ディーゼル機関車 D5 や、改修中の気動車 VT30 がこの中にいた。

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ブロール駅構内で、石炭の補給を受ける蒸気機関車 11sm
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ブロール駅の整備工場
(左)大型ディーゼル機関車 D5
(右)気動車 VT30 は改修中

工場の手前から、ライン河港へ行く支線が右へ急カーブしていく。このいわゆる港線 Hafenstercke は、河畔まで実質500mほどの間に、DB線、連邦道と、難しい障害物をまるで軽業師のようにクリアしていくのがおもしろい。ブロールタール鉄道探訪の最後に、鉄道模型顔負けのこのユニークな軌跡を歩いて追ってみた。

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ブロール付近の1:25,000地形図
(基図は GeoBasisViewer RLP から取得)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
 

まず線路はS字カーブを切りながら、高架に上がった連邦道412号線と平面交差する。次に、その高度を維持したまま、駅前通り Bahnhofstraße とDB線を乗り越える。高架橋の橋台には鉄道名の立体文字板が誇らしげに掲げられ、DB線を走る列車からも一瞬見える。かつてこれは、仕込まれたネオン管で光っていたらしい。

DB線に並行して下り勾配を下りたところが、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof のヤードだ。標準軌のDB線と接続しているので、線路は大部分3線軌条化されている。構内北端にはブロールタール鉄道の機関庫の建物も残っているが、もはや使われていない。

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(左)工場の手前で右へ分かれていく港線
(右)連邦道412号線と平面交差(ブロール方を望む)
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(左)右上写真の反対側を望む。下路トラス橋はDB線を越えている
(右)左写真のトラス橋を412号線の跨線橋から望む
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(左)トラス橋の橋台にある鉄道名の立体文字板
(右)ブロール積替駅、構内はほとんど3線軌条
 

港へ向かう線路は、構内の北東で分岐する。ここでもS字を切りながら、通行量の多いライン左岸の主要道、連邦道9号線を大胆にも平面で横断し、河畔に出る。岸辺のビアガーデンの前に低いプラットホームがあり、「ブロール・ラインアンラーゲン(ライン埠頭)Brohl-Rheinanlagen」と記された駅名標が立っていた。毎週火曜日になると、ここに火山急行の特別列車が停まり、ライン川の観光船から降りてきた客を迎えるのだ。訪れた日曜日はビアガーデンが大賑わいで、ホームはすっかり客用駐車場にされていたが…。

3線軌条は、港の護岸に沿ってなおも北へ延び、ブロール・ハーフェン(港)Brohl Hafen の貨物駅に達する。粉塵の飛散を防ぐため、鉄道が運ぶフォノライトはコンテナ方式に移り、ブロール積替駅でトラックに引き継がれるようになった。それ以来、港の駅は仕事を失い、吹き通るラインの川風が、静かな水面にさざ波を立てるばかりだ。

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(左)港へ向かう3線軌条、連邦道9号線と平面交差
(右)ライン河畔を走る
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ラインアンラーゲン(ライン埠頭)停留所
(左)プラットホームと駅名標(画面左端)
(右)河岸には、火山急行のロゴを掲げたライン川観光船の船着き場が
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(左)3線軌条は河港へ延びる
(右)静まりかえるブロール・ハーフェン(ライン河港)
 

■参考サイト
火山急行 http://vulkan-express.de/

★本ブログ内の関連記事
 火山急行(ブロールタール鉄道) I

 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 ハルツ狭軌鉄道 II-ブロッケン線
 ハルツ狭軌鉄道 III-ハルツ横断線
 ハルツ狭軌鉄道 IV-ゼルケタール線

2018年7月20日 (金)

北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

(旧)シュピーカーオーク島鉄道 Spiekerooger Inselbahn
 駅 Bahnhof ~埠頭 Anleger 3.5km
 非電化、軌間 1000mm
 1885年開通(馬車鉄道)、1949年ディーゼル化、1981年廃止

(現)保存馬車鉄道 Museumspferdebahn
 延長1.0km、軌間 1000mm、1981年開通

「緑の島 grüne Insel」。大きく育った樹木が村の家並みを覆うシュピーカーオーク Spiekeroog は、好んでそう呼ばれてきた。島は、ランゲオークとヴァンガーオーゲの間に位置する。面積は18平方kmで、ランゲオークよりやや小さいだけだが、人口は800人に満たない(2016年)。年間旅行者数も東フリジアの有人7島中、バルトルムに次いで少なく(2016年、94,055人)、それが、静けさを求める人にとって至高の場所とされるゆえんだ。

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緑に包まれるシュピーカーオーク村の中心部
右奥の建物は村役場 Rathaus
 

その環境を守るために、島では徹底した交通政策がとられている。カーフリー(下注1)はいうまでもない。自転車にすら制限が課されていて、村(下注2)の中心や北岸のビーチに通じる一部の道は走行禁止だ。旅行者向けのレンタサイクルは存在せず、本土から持込む場合は30.90ユーロが徴収される。居住圏はせいぜい2km四方なので、島内の移動は歩きが前提になっている。

*注1 カーフリーのどの島もそうだが、業務用電動車は走っている。
*注2 小さな自治体 Gemeinde なので、本稿では「村」の語を使用する。

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シュピーカーオーク島の1:50,000地形図
(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018
 

そのような島にも、ほんの30年前までディーゼル動力の列車が走っていた。他の島と同じように、フェリーが着く旧埠頭と村の入口との間3.5kmを結んでいたのだ。さらに驚くことに、鉄道が導入されたのは1885年で、東フリジア諸島ではボルクムに次いで早かった。もとよりそれは馬車鉄道で、村の中心部からヴェストエント Westend(西端の意)に開設された紳士用ビーチ Herrenbadestrand(下注)まで長さ1.6km、1000mm軌間の鉄道だった。その上を、馬に牽かれた華奢な客車がころころと走った。目的からして、夏の間だけの運行だった。

*注 当時、紳士用ビーチとは長さ500mの緩衝地帯を隔てて婦人用ビーチ Damenbadestrand があり、そこへ向かうダーメンパート Damenpad(婦人の小道の意)の入口にも、馬車鉄道の停留所が設けられた。

1891年、南の干潟に新しい桟橋が開かれると、上記路線の途中で分岐してそこに達する支線が、翌92年に開通する。これが航路接続の始まりだ。初期の線路は干潟の上に直接敷かれており、船が着く満潮時には、馬は胴体まで、車両はしばしば車輪の上まで、水に漬かっていた。

一方、村では1907~08年に正式の駅舎が建てられたが、狭い街路の併用軌道は通行の妨げになった。それで1924年にルートを短縮し、起点が村の西端に移された。その後、ヴェストエントのビーチが海岸浸食を受けて村の北側に移転したため、ビーチ列車は1931年に運行を取り止めたが、桟橋との連絡は継続された。いつしかシュピーカーオーク島鉄道は、ドイツで定期運行する最後の馬車鉄道になっていた。

第二次世界大戦後はさすがに増加する訪問客をさばききれなくなり、1949年、新しい埠頭の建設に合わせて、ついにエンジン駆動に転換される。現在ハルレジール Harlesiel の港で静態展示されている小型ディーゼル機関車(下注1)は、このときの導入機だ。同時にルートも変更され、当初の終点ヴェストエントの手前で分岐して、西側の砂丘沿いに南下するようになった。干潟では、初めて線路が杭桁 Pfahljoch(下注2)の上に置かれ、列車は桟橋に直接乗り入れた。

*注1 「北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編」で言及している。
*注2 直訳で「杭桁」としたが、干潟に打ち込んだ木杭の上に梁を渡した構築物のこと。

1960年代に入ると、「赤列車 roten Zug」「緑列車 grünen Zug」と呼ばれた編成が、旅客輸送を担った。腰に赤色をまとうヴィスマール車両製造所製の中古気動車に、付随客車3両と長物車1両がつくのが「赤列車」だ。ふだんはこの列車で往復するのだが、多客期には、シェーマ社製の小型機関車が、緑色を巻いた2軸客車を牽いて応援に入った。

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(左)赤列車 roten Zug。桟橋で気動車を「機回し」中
Photo by Anton aubers at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)緑列車 grünen Zug
Photo by Drehscheibexxx at wikimedia. License: CC0 1.0
 

残念なことに、この島でディーゼル運行が行われたのは32年間に過ぎない。そのころ、常時波に洗われる桟橋や杭桁軌道は、全面改修が必要な時期に来ていた。村議会は港湾施設を同じ場所で改築するのではなく、より村に近い位置に新たに建設することを決めた。待望の新港は1981年に完成し、村の中心へ歩いて7~8分で到達できるようになった。これに伴い、鉄道は仕事を失い、同年5月29日に正式に廃止された。

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(左)本土との間を結ぶフェリー
(右)島の新港。訪問客は徒歩で村へ向かう
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(左)目抜き通りノールダーローク Noorderloog は最初の馬車鉄道ルート
(右)移転後の駅へ通じるヴェスターローク Westerloog
  左側の道が馬車鉄道跡
 

しかし、シュピーカーオークの鉄道史にはまだ続きがある。というのも、廃止を見越して、馬車鉄道を復活させる準備作業が進んでいたからだ。プフォルツハイム Pforzheim 出身で元教師のハンス・ロール Hans Roll 氏のリーダーシップにより、その計画は実現する。

車両は、シュトゥットガルト路面電車博物館協会 Verein Straßenbahnmuseum Stuttgart から16人乗りのオープン車両が調達された。線路は旧線のうち、村の駅からヴェストエントまで約1kmの区間が再利用されることになった。そして牽き馬の通路にするため、線路沿いの溝が埋められた。

*注 利用されなかった区間の軌道は撤去された。旧桟橋は長く残っていたが、最終的に2009年に撤去された。

車庫は当初、旧 貨物倉庫が使われたが、後に新築された駅舎棟に引込線と専用のスペースが設けられた。ちなみにこの貨物倉庫は、その続きで線路の北側にあった旧駅舎とともに現在、ピザレストラン「デア・バーンホーフ Der Bahnhof(駅の意)」になっている。

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(左)保存馬車鉄道の駅
  右側にささやかなホームと線路がある
(右)本日の時刻表
  当駅発15時と16時、帰着は15時50分と16時50分のみ
 

島内鉄道の黎明期を彷彿とさせるユニークな保存馬車鉄道はこうしてスタートした。しかしその歩みは常に順調とはいかず、車両を所有する協会が解散して、1997~98年の2年間、休止をやむなくされたことがある。幸い1999年に復活し、隣のランゲオーク島鉄道の改修で出た中古の資材を使って、2005~06年の冬に線路の更新も実施された。今や運行年数はディーゼル運行のそれに匹敵するまでになり、すっかり島の名物として定着している。

シュピーカーオーク観光局その他のサイトの情報を総合すれば、運行期間は4月中旬から10月中旬までだ。列車は村の駅を毎日13時、14時、15時、16時ちょうどに出発し、45分後に戻ってくる。片道12~15分程度かかるので、たとえば13時発の列車なら、西の終端(ヴェストエント)に着くのは13時15分ごろ、折り返しの出発が13時30分ごろ、村の駅への帰着は13時45分ごろになる(下注)。もちろん片道だけの乗車も可能だ。

*注 現地の案内板では、村の駅への帰着時刻を50分後と記載しており、生き物のことなので多少の時間的余裕を見込んでいるようだ。

ただし、「風と天候次第で変更がありうる」と注意書きされているように、必ずしも全便が運行されるとは限らない。実際、私が訪れた日は、上天気だったにもかかわらず、15時と16時発の列車しか設定されていなかった。13時前に勇んで駅へ行ったものの、駅舎のドアは閉ざされて、人の気配が感じられない。このまま列車を待つと本土へ帰る船に間に合わなくなってしまうため、空の線路と、囲い場でくつろぐ2頭の牽き馬を写真に収めただけで、その場を立ち去らざるを得なかった。

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かつて側線が張り巡らされていた旧駅構内
右の2頭の馬が交替で馬車を牽く
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防潮堤の外側の草原を直進する線路
 

運行状況についてウェブサイトやSNSで告知は行われておらず(下注)、島の観光パンフレットの記述も「実際の運行時刻は、駅の掲示板でご確認ください」とそっけない。考えてみれば、島の訪問者の平均滞在日数は6.43日(2016年)だ。長期滞在客の気晴らしが目的の運行なら、乗る側もそのつもりでのんびり構えるしかないのだ。

*注 ここには挙げないが、駅の掲示には、連絡先のメールアドレスと電話番号が書かれていた。

主役のいない線路の写真ばかりではつまらないので、別の日にシュピーカーオークを訪れて、運よく乗車と撮影に成功したT氏の作品をお借りした。草原を貫くか細げな線路の上を、愛らしい牽き馬に連れられて華奢なオープン客車がのどかに転がる光景を、じっくりご覧いただきたい。

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(左)出発を待つ「列車」
  エンジンは1馬力、名前はタンメ Tamme、これはフリジア語で、英語なら Tommy とのこと
(右)車内は4人掛けベンチが背中合わせに並ぶ
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(左)ヴェストエントに向けて出発
  右の線路は車庫への引込線
(右)馭者と車掌と案内人を兼ねるクリスツィアン・ロール Christian Roll 氏
  創設者の息子で、馬車鉄道の運行を引き継いだ
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陸閘 Deichschart を越えようとする「列車」
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(左)陸閘の上は恰好のお立ち台
(右)乗客に島の自然を案内していく
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(左)唯一のカーブを曲がれば終点は近い
(右)板張りのささやかなホームがあるヴェストエントに到着
 

■参考サイト
Inselbahn.de https://www.inselbahn.de/
spiekeroog.de https://www.spiekeroog.de/
シュピーカーオーク博物館協会 Museumsverein Spiekeroog
http://www.inselmuseum-spiekeroog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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2018年6月 2日 (土)

コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年のコンターサークルS 春の旅本州編の後半は、関西地方が舞台だ。5月27日は、昔の風情を残す旧 高野(こうや)街道と、サイクリングロードになっている南海高野線旧線跡を通して歩いた。駅でいうと、河内長野(かわちながの)と天見(あまみ)の間、8kmほどの距離だ。

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吉年邸の大クスノキ

10時30分、河内長野駅の改札前に集合したのは、今尾さんと私と、飛び入りで参加してくれた海外鉄道研究会のTさんの計3人。駅前広場の一角にある高野街道の碑のところから、今日の歩きをスタートさせた。

高野街道というのは、古来、京や大坂と真言密教の聖地高野山との往来に使われたルートの総称だ。京都方面から生駒山地の西麓を南下してくる東高野街道、堺から南東へ進む西高野街道など、道筋はいくつかあるが、それらが最終的に河内長野で一本にまとまり、紀見峠(きみとうげ)を越えていく。

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河内長野駅前の高野街道碑

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河内長野~三日市町周辺の1:25,000地形図

なかでも河内長野から三日市宿にかけては沿道に見どころが点在している。駅前から南に向かうと、立派な旧家、吉年(よどし)邸がある。だが屋敷より目を引くのが、庭に生える樹高20m、枝張り30mもあるという大クスノキだ。家の裏手から噴き出すように枝葉を広げ、白壁の土蔵を今にも呑み込んでしまいそうな勢いだ(冒頭写真)。

その脇で道は二手に分かれる。「右のほうが古い道なので、そっちを通ろうと思います」と案内役の私。今尾さんが持参した明治期の地形図では、三日市宿へショートカットする道がすでに描かれているので、右は旧々道ということになる。

段丘崖を降りて道が直角に曲がる所に、天野酒の醸造元、西條合資会社の風情のある建物が軒を連ねていた。道の左側(南側)が登録有形文化財の旧店舗「さかみせ」で、幕末から明治初期の建築だそうだ。修復工事が終わったばかりなので、軒に渡された銅の雨樋がまだ艶々としている。最近の景観整備事業で路面が石畳に置き換えられたこともあり、ここだけ昔にタイムスリップしたような一角だった。

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(左)銅の雨樋が光る西條合資会社の旧店舗
(右)旧西條橋を渡ると別久坂(2018年3月撮影)

旧西條橋で石川を渡った後は、また坂を駆け上がる。別久(びっく)坂と呼ばれるこの急坂で、道は烏帽子山の山裾にぴったりと張り付く。中世、山頂には城が築かれており、「防衛戦略上や経済的な理由から、高野街道を山裾に取り込んだものと考えられます」と案内板は語る。確かにここは上位段丘面で、宅地がなかった頃は遠くまで見通しが利いただろう。烏帽子形八幡神社の門前には休憩用のベンチがこしらえてあった。鬱蒼と茂る森の中から、鶯のさえずりが聞こえてくる。

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烏帽子形八幡神社の門前

上田の高札場跡で直角に曲がると、今度は松屋坂の急な下り道だ。吉年邸から直進してきた旧道と合流してすぐ、旧 三日市交番が公開されていた。木造2階の小さな建物だが、築年は古く1921(大正10)年とされる。「駅前に新しい交番ができるまで、駐在さんがここに詰めていたんです」とボランティアの案内人さん。かつてはすぐ隣に町役場もあったというから、辺りは行政の中心だったのだ。

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(左)旧 三日市交番が公開中 (右)風情を漂わせる三日市宿の家並み

加賀田川を渡る。私たちが注目したのは左に見える高野線鉄橋、ではなくその手前(西側)に残された煉瓦の旧橋台だ。おそらく1914(大正3)年開通時のもので、イギリス積みのどっしりとした外観が頼もしいが、観光パンフレットには何ら言及がない。「これも文化財なんで、説明板の一つぐらいほしいですね」とTさんが残念がる。「街道の風物じゃないと関心がないんでしょうか」と私。

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(左)高野線単線時代の煉瓦積み橋台 (右)現在線の脇に残る

それに対して宿場の歴史に関わるものは、本陣格の旅籠だった油屋跡、19世紀後半に造られ現存する八木家住宅と、どれも丁寧に解説されている。背景にショッピングセンターの無粋な建物が見え隠れするものの、蛇行する街路沿いに懐かしい瓦屋根の町屋が続いて、写真の一つも撮りたくなる界隈だ。

三日市町駅前まで来たので、少し早いが、そのショッピングセンター、フォレスト三日市の空調の効いたベンチを借りて、昼食にした。今日は気温が30度に近く、空気の重たさが梅雨の季節が近いことを知らせている。

駅を後に、直線状の旧道をなおも進む。石見川を渡る新高野橋の北のたもとに、八里石を見つけた。高さ178cmの立派な石碑で、おもてに「西是(これ)ヨリ高野山女人堂江(へ)八里」、側面に安政四(1857)丁巳年二月の日付が刻まれている。傍らの案内板によれば、これは堺から高野山まで13里ある西高野街道に沿って一里ごとに建てられた標石の一つで、すべてが今も残っているという。「日本のマイルストーンですね」と今尾さんが感心する。

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(左)八里石 (右)街道は紀見峠に向けてなおも延びる

史跡などの見どころはおよそこれが最後で、旧街道自体もこの先、断続的に国道に取り込まれてしまう。大阪府が作成したハイキング地図は、「車が多く、歩道がない区間もあるので、国道の脇道をのんびりと歩くこと」を勧めている。この脇道というのが、南海高野線の廃線跡を転用したサイクリングロード(歩行者自転車専用道)だ。一般道路で代用される区間はあるものの、天見川の谷に沿って約5.5kmの間延びている。

南海高野線には急勾配急曲線の連続する山岳区間があり、ズームカーと呼ばれる高性能の専用車両が活躍する舞台となっていた。今でこそ橋本~極楽橋間に短縮されているが、かつては大阪寄りの紀見峠の前後区間もそうだった。

1970年代に入ると、全国的なニュータウン開発の波が山間部まで及んでくる。それに呼応して高野線でも、河内長野~橋本間で輸送力強化を目的とした複線化が進められた(下注)。大型車両の乗り入れが可能となるよう、高架橋やトンネルの新設による線形の抜本的な改良も実施された。そしてその引き換えに、谷間を曲がりくねっていた単線の旧線は任務を解かれ、廃線跡となったのだ。

*注 複線化(多くの区間でルート変更を伴う)の時期は以下のとおり。
河内長野~三日市町 1974(昭和49)年、三日市町~千早口 1984年、千早口~天見 1983年、天見~紀見峠 1979年、紀見峠~御幸辻 1983年、御幸辻~橋本 1995年(ただし新線切替は1994年)
 旧線区間はカーブの最小半径が160mだったが、これを400m(一部240m)に緩和した。反面、ルートをショートカットするため、最大勾配は旧線25‰に対して新線は33‰とされた。

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三日市町~天見周辺の1:25,000地形図
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高野線旧線時代の地形図(1977(昭和52)年修正測量)。範囲は上図と同じ

美加の台(みかのだい)駅の500m手前で、線路際から左前方へサイクリングロードが分かれていく。軽自動車なら通れる道幅で、簡易舗装もされている。路側に植え込みや並木が続いているから、一般的な農道でないと知れるが、案内板などは見当たらない。立っているのは歩行者自転車専用の道路標識のみ。旧高野街道のルートマップでもせいぜい「国道の脇道」扱いだから、地元では観光資源とはみなされていないのだろう。人通りもなく、私たちが歩いている間、サイクリストのグループと一、二度すれ違っただけだった(下注)。

*注 自転車旅行者の間では、由来は定かでないが、「トトロ街道」と呼ばれているという。

小道はさっそく、木漏れ日が差し込む谷間に入っていく。少しの間、桜の並木が造られている。周りの林に負けないように育ったと見えて、かなりの丈がある。「線路のそばに咲いていたのかな」「枝ぶりから見て、整備のときに植えたんでしょうね」。廃線からすでに30年以上経つので、桜の木なら十分育つだろう。

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(左)サイクリングロードになった旧線跡が分かれていく
(右)谷間を桜並木が彩る(いずれも2018年3月撮影)

右手には現在線の高架に続いて、ニュータウンの玄関口として新設された美加の台駅が見える。丘の上には大規模な住宅地が広がっているはずだが、谷間にいては実感できない。現在線のガード下をくぐった後は、さらに谷が深まった。天見川の清流を二度横切るので、もしやと橋の下を覗いてみたら、頑丈そうなガーダー(橋桁)と煉瓦の橋台が確認できた。旧線の遺構に違いない。

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美加の台駅の南側で高野線をくぐる
なお、旧線跡(加賀田信号所があった)は現在線と同一レベルで交差していたので、サイクリングロードはこの区間で旧線跡からそれて迂回している
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天見川を渡る個所に旧鉄橋の橋台と橋桁が残る

渓谷を抜けたところで、サイクリングロードはいったん終わり、一般道路に接続している。廃線跡は道路の隣で草むらの農道と化し、その先では民家の庭先や畑の拡張に利用されているようだ。少し進むと、現在線が美加の台トンネルから出てきた。ここから千早口駅まではルートが移設されていない、すなわち廃線跡がないので、私たちは下岩瀬集落の中を抜けていった。

線路をくぐれば、千早口(ちはやぐち)駅だ。駅前の観光案内板には珍しくサイクリングロードも描かれていたが、旧街道のように、鉄道史跡であることも書き添えてほしいところだ。「信号機でも残っているとわかりやすいんでしょうけど」とTさん。実際は、鉄道標識すら保存されておらず、さっきの民家の畑に赤く塗られた境界標らしきものがあっただけだ。

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千早口駅前の観光案内板

標高が上がったせいで、頬に当たる風が少し涼しく感じられるようになった。駅横から再びサイクリングロードを進む。こちらはさっきより舗装が新しいので、後で整備されたのだろう。右に左にカーブが連続し、そのつど新しい景色が開けるのが楽しい。対岸には国道が通っていて、トラックの走行音も聞こえてくるのだが、それさえ別にすれば、なかなか趣のある道だ。

谷の中で、少し幅の広い箇所を見つけた。舗装道は1線分だが、柵の隣に同じような幅の空地が並行しているのだ。横断する水路の側壁の幅から、谷側にもう1線あったことが推定できる。そのときは信号所の跡と思ったが、よく考えてみると、旧線の千早口~天見間はわずか1.9km。列車交換のための信号所は必要ない。あるいは天見川の対岸に砂利採取場があるので、積込用の貨物側線だったのだろうか…。

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(左)千早口駅南方。側壁は現役時代のオリジナル
(右)柵の隣に側線跡のような空地が並行する

旧線は峠に向けて高度を稼ごうとしていたらしく、谷底との高低差が徐々に広がってくる。家並みが谷底に沈んで見える。鬱蒼とした林の中、天見小学校の裏手を回っていくと、今日の目標にしていた天見駅だった。板張りの山小屋のような無人駅舎だが、中で自動改札機がしっかり通せんぼしている。

すぐ下手に温泉旅館の南天苑があり、建物が登録有形文化財になっているので、見に行った。辰野金吾事務所の設計で、堺の大浜公園に建っていた保養施設の別館を1935(昭和10)年に移築したものだという。元の場所は戦争で空襲に遭い、そこに残っていた本館は焼失してしまった。移設のおかげでこの建物だけは命拾いしたことになる。おかみさんから奨められて、庭から座敷も拝見した。

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天見温泉南天苑(2018年3月撮影)

「これから高野山に登ってきます」という元気な今尾さんを天見駅に見送って、Tさんと私はサイクリングロードをもう少し先まで行った。ここでも桜並木が程よいカーブを描いている。次の支谷を横断する地点に架けられているのは、安っぽい擬製のアーチ橋だったが、その下に本物の煉瓦溝渠が顔を覗かせていた。

心地よい歩き道は、しかし蟹井神社の手前の辻で途切れる。例によって、人と自転車を描いた道路標識が立っているだけで、実にそっけない終わり方だ。そこから先、廃線跡は築堤上の空き地に変わり、残存する高いガーダー橋を経て、現在線に合流していく。紀見峠の下を貫く新しいほうのトンネルが、もうすぐそこに見えている。

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(左)天見駅舎 (右)サイクリングロードはなおも上流へ
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(左)擬製のアーチ橋の左下に煉瓦溝渠
(右)サイクリングロードの終点。廃線跡の築堤はまもなく現在線と合流する

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図富田林(昭和52年修正測量および平成19年更新)、岩湧山(昭和52年修正測量および平成22年更新)を使用したものである。

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