2017年11月30日 (木)

コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

今日も宇都宮駅東口で待ち合わせた。中心街とは反対側で、空き地が目立つ東口だが、LRTの着工を来年に控えて、ストラスブールのシタディスをモデルにした大きな看板が立てられている。富山市のようなスマートな都市装置の始動を期待しながら、今の風景を写真に収めた。地図の旅2日目の10月8日は、黒磯の晩翠橋(道路橋)を見るとともに、東北本線(以下 東北線)の旧線跡をたどりながら北上する。

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宇都宮駅東口に立つLRT計画推進の大看板

参加者は堀さん、真尾さん、大出さん、石井さん、中西さん、私の計6人。堀さんはいつものとおり石井さんの車に、他のメンバーは真尾さんのレンタカーに分乗して、国道4号線を北東へ向かった。

最初の目的地は、東北線の鬼怒川(きぬがわ)橋梁だ。上野から順次延伸されてきた日本鉄道、現在の東北線は、1886(明治19)年10月1日に宇都宮~那須(現 西那須野)間が開業している。このときのルートは宇都宮からほぼ北へ直進するもので、氏家(うじいえ)の西方で、東西に分流していた鬼怒川を渡っていた(下注)。ところがこの川は暴れ川で、大雨のたびに氾濫しては線路に多大な被害を与えた。そのためルートは1897(明治30)年に早くも放棄され、現在の宝積寺(ほうしゃくじ)経由に付け替えられたのだ。

*注 後年、河川改修で東鬼怒川が鬼怒川本流となり、西鬼怒川は川幅縮小の上、水路化された。

水害の教訓から、新しい橋梁は、東の宝積寺台地と西の岡本台地が接近して、鬼怒川低地が最も狭まる地点を選んで架けられている。東西鬼怒川がすぐ上流で合流しているので、橋梁が1本で済むという点でもベストな渡河地だ。現在は上下線がそれぞれ単線橋で渡る。明治の橋梁はとうに姿を消し、現在上り線が使っているのが、跡を継いで1917(大正6)年に完成した2代目だ。

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鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆。薄茶色に着色した部分が台地

私たちは国道4号線の新鬼怒川橋を渡り、東北線を乗り越したところで狭い脇道に入った。車を降りて護岸上の踏み分け道を少し行くと、2本並ぶ鉄橋の袂に出られる。上り線橋梁は南側で、頑丈そうな煉瓦積みの橋脚に、ポニーワーレントラスと呼ばれる小型のトラス桁が載っている。下り線の、スマートだが冷たげなコンクリート橋との対比で、リベット打ちのレトロな機能美がひときわ目を引く。

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東北線鬼怒川(きぬがわ)橋梁。左が上り線のワーレントラス橋

橋脚はよく観察できるのだが、浅い角度のため橋桁の眺めは今一つだ。それで引き返して、国道橋の歩道へ回り、側面から鉄橋の全貌を眺めることにした。横構のない小型トラスは古風なスタイルだが、背景に広がる那須の山並みを遮らないのがいい。コンテナを連ねた長い貨物列車が、ジョイント音を高く響かせながら走り去るのを見送る。

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国道橋からの眺め

じっと眺めていた石井さんが「なぜ一番右のトラスだけ白いままなんでしょうね」と聞く。誰も答えないので、「塗り直さないでいつまで持つか実験しているのでは」と私。「持つなら塗らずに済まそうってこと?」「そうかも…」。本当のところは塗装作業の途中だったのかもしれない。

次の目的地は黒磯なので、しばらく4号線をドライブする。市街地をバイパスして、那珂川(なかがわ)のたもとに車を付けた。

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黒磯の晩翠橋のたもとに到着

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晩翠橋周辺の1:25,000地形図に加筆

晩翠橋(ばんすいきょう)は、旧国道4号(現 県道55号西那須野那須線)が那珂川を渡る地点に架けられた道路橋だ。初代の橋は、栃木県令に就任した三島通庸(みしまみちつね)が新陸羽街道整備の一環で1884(明治17)年に造らせたもので、木造だった。今より約70m上流にあり、大水で損壊しては、その都度架け直された。現在の橋は実に5代目で、1932年(昭和7)年に、世界恐慌に伴う失業対策で実施された国道の改良工事に合わせて建設されたものだ。

昭和の晩翠橋は、取付け道路を含めて画期的な設計で水害に対する強度を高めている。三島の旧橋は、扇状地面に載る黒磯の市街地から一段下がった位置(低位段丘面)で対岸に渡されていた。対する新橋は市街地から築堤を延ばし、道路はほとんど勾配なしで橋に達する。そのため橋面は、水面から23mの高さになった。さらに、流路に橋脚を立てずに済むアーチ構造を採用し、全長126.0m、中央径間70m(下注)の、大規模で景観的にも優れた橋梁が誕生したのだ。

*注 数値は、現地の案内板による。

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(左)初代~第4代の写真(現地案内板を撮影) (右)現 晩翠橋を川べりから見上げる

橋の南のたもとに、大きな写真入りの案内板があった。考えてみれば、いくら立派な橋梁を造っても、このように上路アーチの場合、通行人の目に入るのは欄干と路面だけだ。全体像は、側面から見て初めて理解できる。私たちもそうしたいと思ったが、それには下の河原に降りる必要がある。右岸の河原に停車している車や人影が見えるから、行けるのは確かなようだ。

しかし、実際にたどり着くのは一苦労だった。地理院地図に描かれている橋の300m北側の小道は柵で塞がれていて、車を進めることができなかったのだ。方々探し回ったあげく、石井さんがグーグルマップで橋の南側に別の道を見つけて、ようやくたどり着く。せっかくライトアップまでして橋を観光につなげようとしているのに、鑑賞する場所への道案内を欠くのは不備ではないか。

ともかく、水際から勇壮な鋼橋を見上げることができた。この構造はバランスドアーチといって、アーチを連続させることで、中間の2つの支点にかかる力(水平反力)を相殺する。もちろん見た目にも美しく、この角度から眺めると、まるで白鳥が翼を広げて大空に飛び立とうとしているかのようだ。

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翼のように広がるアーチが緑の渓谷を横断

「そろそろお昼にしましょうか」と真尾さんが皆に声をかけた。ベンチや土手の段に思い思いに座って、持参の昼食を開けようとしたら、堀さんが「昼食を買ってくるのを忘れちゃったな」と言う。しかし、心配する必要はなかった。「おにぎりありますよ」「私のアップルパイもどうぞ」と差し出されたもので、たちまち1食分が揃った。みんな優しい。

それから、400mほど下流に架かる東北線の橋梁を見に行った。鬼怒川橋梁と同じで上り線が古く、1920年竣工の上路プラットトラスが架かっている。下り線はコンクリート橋だが、初代のものとおぼしき煉瓦造の橋台が残っていた。カーオーディオのボリュームを全開にしてキャンプもどきを楽しんでいる若者たちの傍らで、新幹線と3本並んだ鉄道橋を写真に収める。

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少し下流に架かる鉄道の那珂川橋梁
手前から東北線上り線、同 下り線、東北新幹線

那珂川河畔を後にして、私たちは東北線の旧線跡をたどりながら北上した。同線の黒磯~郡山間は、1887(明治20)年に開業している。黒磯と白坂の間では、那須火山群からの泥流に覆われた起伏の多い土地を横断するため、曲線とともに随所に25‰の急勾配が必要になった。第一次世界大戦後、輸送力の逼迫から東北線では複線化を含む大規模な改良工事が実施され、1920(大正9)年にこの区間は、勾配を緩和した新線に切り替えられた。それに伴い残されたのが、20km近い旧線跡だ。

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堀さんの著書『地図を歩く』(河出書房新社、1974年、p.232~)にこのことが詳述されている(下注)。今でこそ廃線跡探索は鉄道趣味の一ジャンルとして確立しているが、おそらくその先駆けとなったのが『地図のたのしみ』や本書に収録されたレポートだ。私もこれで、地形図と照合しながらルートの変遷を追うという楽しみ方を知ったので、読み返せば懐かしい。

*注 2012年刊の『地図を歩く』新装新版ではp.220以下。

晩翠橋の少し先の瀬縫交差点を右折して、県道211号豊原高久線へ。国道4号(黒磯バイパス)をくぐった地点から、道路は旧線跡に載り、上瀬縫の台地越えを再現している。車なら何でもないとはいえ、じわじわと上る坂道だ。新幹線を乗り越えて現在の東北線に突き当たると、道は旧線からそれて高久駅に並行する。そして駅の先で右折して、線路の反対側へ出ていた旧線跡に再び合流する。

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東北線 黒磯~大田原間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

まもなく、現在線と並行する気持ちの良い直線路に入った。「撮り鉄がいますね」と話しながら車を走らせていると、余笹川の手前で列車がこちらに向かってくるのが見えた。「あれ、四季島(しきしま)じゃない?」と真尾さんが叫ぶ。なるほど、撮り鉄さんはこれを待っていたのか。私たちも路側のスペースに車を寄せて、今年デビューしたばかりのクルーズ列車がしずしずと通過するのを見届けた。私のコンデジではぶれてしまったので、大出さんにもらった動画のキャプチャーが下の写真。

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黒田原駅南方でクルーズ列車「四季島」と遭遇
(大出さん撮影の動画からのキャプチャー)

黒田原の市街地では町役場などが並ぶ旧駅前の道の直線化が完了していて、ナビを間違えた。ここで旧線は坂を下っていき、泥流原の縁に黒川がつくった浅い谷に通路を求める。堀さんが訪れた1972(昭和47)年当時は、黒川の中に「レンガ造りの背の高い橋脚が、五〇年の風雪に耐えて屹立して」(同書p.239)いたのだが、すでに撤去され、二車線道路に姿を変えている。

しかし、まもなく改良区間が終わり、一車線の田舎道が現れた。おおかた刈取りを終えた田んぼの中を、左右に緩くカーブしながら続いている。黒川を再び渡ったところで、豊原駅へ寄り道することにした。新線への切替えと同時に、その間にあった黒田原、豊原の両駅も移転したが、なかでも豊原新駅は旧駅から南へ1.6kmも離れた丘の中腹に造られた。小さな無人の駅舎から跨線橋で島式ホームに渡る構造だが、果たして今どれだけの乗降客があるのだろうか。

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ひっそりとした現 豊原駅

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東北線 大田原~豊原間周辺の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

成沢集落を過ぎたところで、旧線跡の道路に戻る。40数年前は、「ススキが両側に伸び放題に伸びているデコボコの砂利道で、ときたま小型自動車が砂埃をまきあげて通るほかは、秋の日ざしをあびて静まりかえった、野趣あふれる道だった」(同書p.242)。さすがに舗装されたものの今も一車線のままで、堀さんが歩いたときと景色はほとんど変わらないだろうと思わせる。だが、対向車の数は確実に増え、それもけっこう飛ばしてくる。「廃線後も幹線のままですね」と真尾さんが笑う。信号のない一本道なので、抜け道に利用されているのかもしれない。

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黒川橋梁南方の旧線跡を転用した一車線道路を進む

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東北線 豊原~白河間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

列車の撮影地として名高い黒川橋梁が見えてきた。丘の高みを伝ってきた現 東北線は、ここで黒川の広い谷を横断して、利根川水系と阿武隈川水系の分水嶺に向かう。橋梁は、上り線が長さ333.7mの堂々とした上路ワーレントラス橋で、下り線はシンプルなプレートガーダー橋になっている。

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堂々たる姿の東北線黒川橋梁

橋の下の空き地に車を停めた。せっかくだから、鉄橋を渡っていく列車を撮ってみたいが、旅客列車はさっき通ったばかりだ。「貨物列車が来るといいんだが。山下さんの神通力は効きませんか」。昨年、山陰本線の惣郷川橋梁へ行って以来、堀さんは、私に列車を呼び寄せる力があるのではと疑っている(下注)。しかし残念ながら、運はさっきの四季島との遭遇で使い果たしてしまったようだ。しばらく待ってみたものの、来ないものは来ない。

*注 惣郷川橋梁でキハ40系が通った話は「コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス」参照。

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(左)車を止めて待つも列車は現れず (右)地形図で経路を確認(大出さん撮影)

今日はよく晴れて、強い日差しが降り注ぐ。「ここにいても暑いので先へ進みましょう」と再び車に乗り込んだ。一車線道に出て、ちょうど鉄橋の真下を通っていたときだ。車内の話し声が突然、耳を聾さんばかりの轟音にかき消された。頭上を貨物列車が通過している。

「直下だと凄い音ですね。てっきり車が何かを引っ掛けて引きずってるのかと思いましたよ」と真尾さん。そのまま車を走らせようとしたら、中西さんが「大出さんを置いてきちゃった」と叫ぶ。私たちが轟音にたじろいでいる間に、列車を撮ろうと飛び出していったらしい。慌てて車を停めた。まもなく何喰わぬ顔で戻ってきた大出さん、うまく走行シーンを捉えることができたそうでよかった。

道はこの後、杉林の中を右にカーブを切りながら坂を上っていく。側面に、黒田原からの下り坂と同じような石垣が続いているので、同時期に整備したのだろう。やがて東北線下り線の踏切、少し離れて上り線の踏切を通過。それから廃線跡は緩やかなカーブで上り線に吸収されていき、本日の探索のゴールと決めた白坂駅に到達する。

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林の中の旧線跡道路

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図黒磯(平成13年修正測量)、宝積寺(平成13年修正測量)、5万分の1地形図大田原(明治42年測図)同(平成7年修正)、白河(明治42年測図)同(平成5年修正)を使用したものである。

■参考サイト
栃木県の土木遺産 http://www.doboku.shimotsuke.net/
土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/

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2017年11月19日 (日)

コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

2017年秋のコンターサークルSの旅は、北関東が舞台だ。1日目10月7日は、かつて東洋一の銅山の町として栄えた足尾(現在は栃木県日光市足尾町)を回る。

集合場所に指定されていたのはJR日光駅だったが、私の泊っている宇都宮駅前まで、真尾さんがレンタカーで迎えに来てくれた。小雨そぼ降る中、杉並木が続く国道119号(日光街道)を走って、日光駅へ。集合時刻の10時21分に到着した電車から外国人を交え大勢の客が降りたけれども、残念ながらサークルのメンバーの姿はなかった。堀さんは明日来るので、本日の参加者は私たちと、足尾へ先回りしているはずの大出さんの3人だけだ。

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足尾本山駅構内風景

再び車に乗り込んで、国道を西へ進んだ。清滝から大谷(だいや)川を渡ると、国道122号は長さ2,765mの日足(にっそく)トンネルで足尾側へ抜ける。トンネルは一直線だが、「この上に細尾峠というつづら折りの旧道があって、霧の中を堀さんと踏破したことがあります」と真尾さん(下注)。雨は上がってきたものの、谷の上空を覆う雲はまだ低い。

*注 このときのレポートは、堀さんの著書『消えた街道・鉄道を歩く地図の旅』(講談社+α新書、2003年、p.182以下)にある。

まずは、わたらせ渓谷鐵道(以下「わ鐵」という)の通洞(つうどう)駅へ向かった。足尾の市街地は、渡良瀬川上流の谷沿いに長く伸びている。そのため町には、わ鐵の前身である旧 国鉄足尾線時代から、足尾本山(あしおほんざん)、間藤(まとう)、足尾、通洞と4つの駅があった。

最奥部に位置する足尾本山は精錬所の前の貨物専用駅で、1987年に貨物輸送が終了して以来、使われていない。次の間藤が旅客列車の終点で、最後まで採鉱が続けられた本山地区の最寄り駅だ。三つ目の足尾はわ鐵の運行拠点で、列車交換ができ、広い構内には貨物側線も残されている。そして最も川下の通洞は、棒線駅ながら足尾の中心部にあり、乗降客も多い。

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足尾(通洞、小滝地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

まずはその通洞駅前に車をつける。破風にハーフティンバーをあしらった山小屋風のデザインの駅舎がなかなかお洒落だ。駅前の小さな広場で大出さんと合流。山の緑が差し掛かるホームに出ると、ちょうど桐生方面の上り列車が入線するところだった。ちょっと褪せてはいるが、阪急電車のマルーン色を連想させる310形気動車だ。せっかくなので発着のようすを見届けてから、3人で足尾探索に出かけた。

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通洞駅 (左)ハーフティンバーの山小屋風駅舎 (右)昔の面影を残す駅舎内部
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桐生行き310形気動車が停車中

大出さんは私たちの到着を待つ間に近辺を歩いていて、「足尾のことがよくわかりますよ」と勧めてくれたのが足尾歴史館だ。足尾銅山と町に関するさまざまな歴史資料を展示している。運営するNPO法人の理事長さんの説明を伺いながら、館内を回った。「明治の足尾は、日本初の科学技術がたくさん導入された近代都市だったんです」と理事長。「電話、水力発電、索道、溶鉱炉など、みなそうです。電気鉄道も京都より早く、鉱石の運搬に使われていました」(下注)。

*注 旅客用の電気鉄道は1895(明治28)年京都で初めて走り始めたが、その4年前(1891年)に足尾では銅鉱石運搬用の電気軌道が開設されたという。

汚染排水や煤煙による渡良瀬川流域の深刻な公害問題は、足尾銅山の負の側面として知られているが、反面、鉱山は採掘・精錬技術の近代化で生産量を拡大させ、そのお膝元で町は栄華を極めた。鉱床のある備前楯山を取り巻く形で本山、通洞、小滝の主要3鉱区が立地し、その周囲に従業員とその家族、関連産業に携わる人々が暮らす市街地が形成されていた。足尾の人口は大正時代に3万8千人を超え、県内で宇都宮に次いで大きな町だったのだ。

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足尾歴史館 (左)鉱山町の歴史を資料で追う (右)トロッコ列車の周回線路

そのとき、「今からガソリンカーが走ります」とアナウンスが聞こえてきた。「外の乗り場へどうぞ」と理事長さんに急かされて建物の裏に回ると、波板屋根の簡易ホームに、黒装束のボンネット型ミニ機関車が停まっている。後ろには、北海道開拓の村で乗ったのとそっくりの小型客車がつけられていた。

*注 北海道開拓の村の馬車軌道の話は、本ブログ「開拓の村の馬車鉄道」参照。

足尾では、1895(明治28)年9月に開業した馬車鉄道が町民の足となり、資材や生活用品の輸送を担っていた。1925(大正15)年、馬に代わってガソリンエンジンの機関車が投入され、昭和30年代まで使われた。停車中の列車はそれを復元したものだ。

走路は当時と同じ610mm(2フィート)軌間で、もとスケートリンクだった場所に、延長174mの周回線が敷かれている。私たちもさっそく豆客車のロングシートに納まった。列車は、バイクのような騒々しいエンジン音とともに動き出すと、超急カーブを小気味よくしのいで走っていく。側線には、立山砂防軌道から譲渡されたというディーゼル機関車や、オープン客車も留置してある。それを横目に見ながら2周回って、ホームに帰着。思いがけない列車体験は楽しかった。「足尾ガソリン軌道歴史館線」と名付けられた軌道は、4~11月の第一土・日曜に運転されている。幸運にも今日はその日だったのだ。

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足尾ガソリン軌道歴史館線のトロッコ列車
(左)ガソリン機関車 (中)豆客車 (右)客車内部

資料館を後にして、主要鉱区の一つ、小滝へ向かった。わ鐵の第二渡良瀬川橋梁の下をくぐってすぐに右折、支流の庚申山川に沿う細道を上っていく。まず見つけたのは、道路橋に隣接して川をまたいでいるダブルワーレントラスの廃橋だ。傍らの案内板に旧 小滝橋、大正15年架設とある。地形図では「小滝坑跡」と注記された地点で、橋の上流側で石積みの坑道が口を開けている。残念ながら鉄パイプのバリケードに阻まれて、中には入れなかった。

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旧 小滝橋
(左)残存するワーレントラスの構造物 (右)橋の左手に旧小滝坑が口を開ける

銀山平の狭い段丘では、道の両側に階段状に均された敷地と土留めの石垣が見られた。公園の案内板によると、かつてここには多くの社宅が整然と並んでいたそうだ。最盛期には小滝だけで1万有余の人が暮らしていて、病院、学校が建ち、料理屋や芸妓屋もあったという。しかし、今は背の高いカラマツの林にすっかり覆われて、面影すら見いだすことができない。

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銀山平社宅跡
(左)階段状の敷地と土留めの石垣 (右)盛時の写真(現地案内板を撮影)

国民宿舎の前で引き返して、本山坑のほうへ向かう途中、足尾駅に立ち寄った。駅舎は平入り切妻造りで、庇が広く張り出しているのが特徴的だ。また、いいタイミングで桐生行きの気動車が入ってきた。今度は510形、2013年に導入された車両で、わ鐡で最も新しい。右手へ回ると、がらんとした敷地の側線に、国鉄色の気動車やタンク車が数両留置されている。真尾さんいわく、「ここにはヤードがあって、昔は貨車の操車をしていました」。

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足尾駅 (左)屋根庇を張り出させた駅舎 (右)桐生行き510形気動車

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足尾(本山地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

次いで、終点間藤駅へ向かった。こちらは線路が1本きりで、駅のすぐ上手に車止めがあり、先は草むらと化している。その中をさまよっている人がいたので、何かと思ったら、線路脇の木から落ちた栗を拾っているのだった。ホームに設置されている展望台は、対岸の山の斜面に現れるカモシカを見るためのものだそうだ。カモシカの姿は見かけなかったが、シカは確かにいて、銅親水公園からの帰り道に車の前を急に横切り、ヒヤッとする。

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間藤駅 (左)花壇になった旧折返し線跡と展望台 (右)駅舎

さらに上流へ。上間藤の道路脇で、地面に斜めに突き刺さる直径1mほどの鉄管を発見した。これは、理事長さんの説明にもあった日本初、1890(明治23)年完成の間藤水力発電所の跡だ。上部に延びていたはずの管路跡を確かめようと小道の階段を上っていく途中、地元の男性がすれ違いざまに「どこへ行かれる」と聞く。目的を話すと、「水路はここを通っていたんだ」と、斜面にかすかに残る正確な位置を教えてくれた。その人が言うには、発電所の跡地は、土盛りされて道路が通ったので、今はもう見ることができない。「だが、川の中に残骸があるよ」と指さす方向に、流れに洗われる煉瓦の塊が見えた。

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間藤水力発電所跡
(左)水を落とす鉄管の一部だけが残る (右)発電所のかつての姿(現地案内板を撮影)
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間藤水力発電所跡
(左)松木川に洗われる煉瓦の塊 (右)地元の男性が案内してくれた

親切な人で、「これから古河橋を見に行くんです」と話すと、「案内するよ。なに、散歩ついでだ」。それで車に同乗してもらい、1km上流の橋のたもとまで走った。重要文化財指定の古河(ふるかわ)橋は、松木川に架かる径間48mのボーストリング型ワーレントラス橋で、これも1890年に造られている(下注)。資料館で見た写真(下写真右)によれば、日本初の電気軌道もこの橋を渡っていたようだ。しかし老朽化に伴って、現在は通行禁止になっている。「隣に新しい道路橋ができてからも、歩いて渡れたんだが」とこの人。

向こうに見える大きな構造物は、本山精錬所跡だ。その奥に、支流の出川を渡る貨物線のガーダー橋があり、三態三様の橋が一つの構図に収まる。男性が、同じように橋を見に来た別のグループに捕まってしまったのを機に、私たちはお礼を言って、さらに上流へ車を移動させた。

*注 土木学会(JSCC)のサイトによれば、開通は1891(明治24)年1月1日。

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古河橋
(左)ボーストリング型トラス橋、対岸に本山精錬所跡
(右)橋には貨物を運ぶ電気軌道が併設されていた(足尾資料館の展示を撮影)

谷の奥に、白い簾のような滝がかかる何段もの堰堤が見えてきた。その周囲が整備されて、銅(あかがね)親水公園と呼ばれている。一般車が入れる最奥部なので、駐車場に車を置いて一番大きな砂防堰堤の脇まで上った。ここで北から降りてくる松木川に、東西からの支流が合流する。西側の谷をトラス橋が横断しているのが見えるが、森林鉄道の跡ではなく、発電所へ通じる送水管を通しているのだ。大出さんは以前ここまで来たことがあって、「あの鉄橋には見覚えがあります」。一帯は森林の乱伐と鉱山からの煙害で禿山になり、土砂の流出が激しい。懸命の植林活動が進められているが、堰堤の内側はすでに土砂で満杯だった。

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谷を塞ぐ大規模な砂防ダムと何段もの堰。ダムの手前に銅親水公園がある
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砂防ダムの上流側にて。奥に送水管を通すトラス橋が見える

帰り道、間藤から延びていた貨物線の廃線跡を訪ねてみた。松木川右岸、南橋集落の裏手に、間藤から26~30‰の急勾配で上ってきた線路がある。すっかり錆びが回っているものの、2本のレールはしっかり残っていた。土砂崩れであらかた埋まった難所を抜けると、トンネルの手前に腕木信号機が立っている。最近塗り直したのだろうか、異様にきれいだ。矢羽根が進行表示になっていたので(?)自己責任で進ませてもらうと、線路は短いトンネルを抜けて右に緩くカーブし、さっき古河橋から眺めた出川鉄橋を渡っていく。

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足尾本山への貨物線
(左)休止線にしては美しい腕木信号機 (右)S字カーブのトンネルを反対側から見る

その先が足尾本山駅だが、残念ながら手前に柵が立てられ、「鉱山施設につき立入りお断り」の札が掛っていた。柵越しに覗くと、構内は意外に整然と保たれている。しかし、錆びた側線に沿って破れ窓と朽ち板の建物が並ぶ、まるで時が止まったような光景には哀愁が漂う。じっと眺めていた真尾さんが「夕張を思い出しますね」とぽつりと呟いた(下注)。衰退した鉱山地区は、どこか共通の雰囲気を持っているようだ。谷の底は日暮れが早い。影が濃くなり始めた廃駅の構内を写真に収めて、私たちは車に戻った。

*注 北海道夕張の探訪記は「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

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出川鉄橋の先に足尾本山駅を望む

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図中禅寺湖(平成27年3月調製)、足尾(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
NPO法人 足尾歴史館 http://ashiorekishikan.com/

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2017年11月 4日 (土)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。

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モファット・ロードの絵葉書、ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め
Image from The New York Public Library
https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99

*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。

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ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図
USGS 1:24,000地形図 East Portal
1958年版に加筆

目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の10711(フィート)と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。

■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja

ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。

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ロリンズ峠越え旧線全体図
USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆

旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。

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旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間
USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆

ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。

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デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617

間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。

しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。

*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。

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ライフルサイト・ノッチのスパイラル
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634

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旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆

この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。

モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。

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モファット・ロードの絵葉書、アロー駅
Image from wikimedia.

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旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆

旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。

ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。

モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。

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ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車
Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg.

さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。

*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。

それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグCraigまでが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。

*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。

実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。

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モファット線とドットセロ短絡線

その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。

その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。

*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。

モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。

*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。

ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。

ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。

(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編

2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車、右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)、
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)、
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望。中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む(当時の絵葉書)
image from wikimedia

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車、2006年撮影
(左)278号機関車 (右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で利点と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine  http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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2017年10月15日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド

1887年9月、リオグランデやサウスパークに7年遅れて、レッドヴィル Leadville に次の挑戦者が登場する。その名はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)。以下、「ミッドランド」と呼ぶことにしよう。

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ハガーマン峠西側ヘルゲート Hell Gate へのアプローチ
Courtesy, L. Tom Perry Special Collections, Harold B. Lee Library, Brigham Young University, Provo, UT 84602.

この鉄道はどこから来たのだろうか。デンヴァー Denver とプエブロ Pueblo の間にコロラドスプリングズ Colorado Springs という町がある。現在は州でデンヴァーに次ぐ大きな都市に成長しているが、もとはリオグランデが、付近の鉱泉を売りにして1871年から開発を始めた鉄道沿線のリゾートタウンだ。鉄道網ができ、1890年にクリップルクリーク Cripple Creek でコロラド最後のゴールドラッシュが起こると、鉱物資源の集積地として発展する。この町からミッドランドは、サウスパークと同じ峠を越えてレッドヴィルへ、そしてさらに西へと線路を延ばしていった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の路線概略図
赤線がミッドランド、青線がリオグランデ(主要線のみ)

ミッドランドには、前2社とは一線を画すセールスポイントがあった。2社が3フィート(914mm)の狭軌線だったのに対して、最初から4フィート8インチ半(1435mm)の標準軌で建設されたのだ。これは、大陸横断鉄道はもとより国内の主要鉄道網にそのまま車両を乗入れできることを意味する。リオグランデも対抗上、翌1888年にプエブロ~レッドヴィルの競合区間に急いで標準軌の線路を敷いたほど、そのインパクトは強かった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の
絵葉書、1900年ごろ
Photo from wikimedia

中でもブエナビスタ Buena Vista 北方からレッドヴィル西方までの約80kmは、ライバル同士が並走する区間になった。両者の線路は、時にアーカンザス川 Arkansas River をはさんで対岸に、時には全く隣接して敷かれていた。

リオグランデも標準軌にするのだが、完全に軌間を変更してしまうと狭軌車両が直通できなくなる。そこで一部区間では3線軌条方式を採用した。その後、支線の廃止に伴って、コロラド山中の路線は標準軌に統一されていくが、そのきっかけとなったのがミッドランドの参入だったのだ。

さらにミッドランドは1887年に、ブエナビスタまでの区間で定期運行を開始するにあたり、スケネクタディ機関車工場 Schenectady Locomotive Works 製115形3両を含む28両の機関車を投入した。115形は軸配置2-8-0(先輪1輪、動輪4輪)で、「コンソリデーション Consolidation(混載輸送の意)」と呼ばれた当時としては最大級の蒸気機関車だ。荷主たちに輸送力の優位性をアピールする意図があったことは言うまでもない。

では、鉄道がどんなルートを通っていたのか、地図で確かめておこう。幸いレッドヴィル周辺については、各社が競合していた時代の地形図が残っている(下図参照)。ご覧の通り、リオグランデ、ミッドランドとも、山麓の緩斜面に立地するレッドヴィルの町まで谷筋から寄り道する形で線路を設けている。ミッドランドにとってはこれが本線で、アーカンザス川に沿う線路は後から造ったアスペン短絡線 Aspen Short Line と呼ばれるショートカットルートだ(下注)。

*注 下図は1889年版だが刊行は少し後のようで、サウスパークのハイライン High Line(図の右上から降りてくる2本の線路のうちの右側)がすでに後継会社のコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad と注記されている。

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1880年代、レッドヴィルを目指した路線網
赤がミッドランド、青がリオグランデ、緑がコロラド・アンド・サザン(旧サウスパークのハイライン(高地線))
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

さて、ミッドランドがさらに西へ進出するには、どこかで大陸分水嶺を越える必要がある。選ばれたのは、レッドヴィルの西に位置する峠だ。ミッドランドの社長の名からハガーマン峠 Hagerman Pass と呼ばれるようになるが、鉄道通過で注目されるまでは交易ルートからも外れた無名の土地だった。峠の南1.3kmにある鞍部の直下に掘られたトンネルは、長さが659m(2,161フィート)に過ぎない。しかし、線路の最高到達地点は標高3,514m(11,528フィート)で、アルパイントンネルに次ぐ高度になった。当然、そこに至るアプローチは生易しいものではない。

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ハガーマン峠東側の多重ループ
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1915

地形図(下図)に開通当時の状況が描かれているが、峠の東側では、約560mある高度差を稼ぐために4回も折り返しながら最大32.4‰の勾配で上っていく。山麓から3つ目の馬蹄カーブは、谷をまたぐ長さ330mの大規模なトレッスル(下の写真参照)が組まれていて、とりわけ壮観だった。一方、峠の西側は谷底まで900m(3000フィート)以上も下降するため、最大30‰の片勾配が延々32km(20マイル)も続く。西から鉱石などの重量貨物を牽いて上ってくる機関車にとっては、試練の道中だったに違いない。

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ハガーマン峠周辺
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版、Mount Jackson 1909年版に加筆
*注 ハガーマントンネル~アイヴァンホー湖間のルートは誤りで、実際は赤のマーカーで示したように湖の南側の尾根を巻いていた。

分水嶺を驚異のルート設定で克服したミッドランドは、1887年12月にコロラド川本流と出会うグレンウッドスプリングズ Glenwood Springs まで線路を完成させて、分水嶺をまたぐ列車運行を開始した。線路はアスペンジャンクション Aspen Junction(後のバソールト Basalt)で二岐に分かれ、片方は1888年2月に目標としていた鉱山町アスペン Aspen に達した。

もう片方は、コロラド川北岸のライフル Rifle まで自社路線を建設(一部は乗入れ)し、その先をリオグランデと協定を結んで線路を共有することで、1890年9月にユタ州境に近いグランドジャンクション Grand Junction まで開通させた。これによりミッドランドは、ユタ州側の鉄道(リオグランデ・ウェスタン鉄道 Rio Grande Western Railway)と接続を果たし、予定していたソルトレークシティ Salt Lake City へ列車を直通できるようになった(下注)。

*注 ミッドランドは、1890年にリオグランデのかつての敵サンタフェの子会社となり、名称はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railroad に改められた。日本語では区別できないが、旧社名の Railway が Railroad に変わっている。しかし1893年のサンタフェ倒産により、再度独立する。

しかし山越えの線路には、開通直後から問題が発生していた。標高の高い峠道はとりわけ冬の気候が厳しく、雪が6月まで融けきらないこともあった。そのため、湿度の高い状態が長く続き、影響で木製の枕木やトレッスルが早々と腐り始めたのだ。取り換えてもまた同じ繰り返しになることから、抜本的なルート変更が計画された。

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第3馬蹄カーブの大規模な木造トレッスル橋
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-729

より低い位置で峠の下を貫くバスク=アイヴァンホートンネル Busk-Ivanhoe Tunnel がそれだった。長さは旧トンネルの4倍以上の2,863m(9,394フィート)あり、標高は3,338m(10,953フィート)まで落ちる。地図(下図の破線ルート)に示したとおり、ハガーマン峠前後の多重ループを一掃し、距離も1/3以下に短縮する画期的なものだった。不安定な地質に苦しみながら工事は3年がかりで進められ、1893年に開通した。

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旧線ハガーマントンネルと新線バスク=アイヴァンホートンネル(図では破線のルート)の位置関係
USGS 1:24,000地形図 Homestake Reservoir 1970年版、Nast 1970年版、Mount Massive 1967年版、Mount Champion 1960年版に加筆
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ハガーマン峠西側で32km続いていた下り坂(地図はその一部、上図の西側に当たる)
USGS 1:24,000地形図 Nast 1970年版に加筆

ただし、新線での運行が定着するまでには一騒動があった。ミッドランドはすでに巨額の負債を抱えていたため、トンネルは同名の建設会社が完成後も所有し、当面ミッドランドが通行料を支払って運行する形をとった。しかしこれは問題を先送りしたに過ぎず、不況下でミッドランドの経営が行き詰ってくると、料率をめぐる交渉が決裂する。鉄道会社が再建されたとき、新経営陣は放置されていた旧線を急ぎ復旧して、1897年10月から新トンネルの運行契約を破棄するという強硬策に出た。列車の運行は旧線経由に戻された。

ところが運の悪いことに、次の冬(1898~99年)は例年以上に天候不順で、連日嵐が吹き荒れた。1月になると降り積もる雪で、旧線ではスノーシェッド(雪囲い)が倒壊し、線路も埋まってしまった。峠の線路に列車が閉じ込められたが、救援に向かおうとしたロータリーもあまりの豪雪に歯が立たなかった。荒天が収まり線路が開通したのは4月になってからで、不通期間は78日に及んだ。さすがに懲りたミッドランドは建設会社を買収することにより使用料問題を解消し、1899年5月から運行を新線に復帰させたのだった。

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アスペンに入る2本の鉄道
USGS 1:125,000地形図Mount Jackson 1909年版に加筆

ミッドランドは、標準軌や最新車両という武器を引っ提げ、域内輸送のみならず、山地を通過する貨物もリオグランデから奪おうとした。その目論見はどこまで成功したのだろうか。

2社はレッドヴィルに次いで、発展が期待されたアスペンや西方との連絡輸送ルートの確立を競った。路線の開通はほとんど同時期だが、ミッドランドは速達性と輸送力で応分のシェアを獲得した。しかし、リオグランデも1890年には標準軌化を完了させるとともに、待避所の増設や複線化を進め、輸送体制を強化していく。ミッドランドの場合、稼いだ利益は社債の高利息の支払いに消えていき、運転資金は潤沢とは言えなかった。さらに1900年から1901年にかけての資本移動の結果(下注)、ミッドランドはライバルであるリオグランデに半分所有される形になり、もはや競合関係ではなくなってしまった。

*注 1900年にミッドランドの株式をリオグランデ・ウェスタンとコロラド・アンド・サザン Colorado and Southern が取得し、1901年にそのリオグランデ・ウェスタンの株式をリオグランデが取得して経営権を掌握した。

この頃のアメリカは好況期で、沿線では鉱業だけでなく畜産業も盛んになり、貨物輸送は順調に増加した。しかし1908年を境に、経済は不況に転じる。通過貨物はリオグランデだけでも担える量に縮小し、ミッドランドには流れにくくなった。鉱山の閉鎖や生産設備の移転により、域内輸送も減少した。

ところが、第一次世界大戦が始まると、連邦鉄道管理局は、戦時輸送の効率化を図るために、東西の短絡ルートであるミッドランドに列車を集中させるよう指令を出した。突然、膨大な貨物が集中したため、ミッドランドでは運行管理が追い付かず、列車の遅延や貨物の滞留が常態化した。当局はミッドランドが対応できないとみるや指令を撤回し、今度は列車をリオグランデ経由に振り替えた。この混乱で、ミッドランドから通過貨物がまったく消えてしまい、ついに息の根を絶たれることになった。1918年に運行休止の許可が下り、線路は1920年代初めに撤去された。

コロラドの中央山岳地帯における鉄道事業者の争いで、勝ち残ったのはリオグランデだった。もちろん経営権をめぐる複雑な動きも含めた結果ではあるものの、主要河川であるアーカンザス川とコロラド川の自然回廊をいち早く選択するという、先行者ならではの特権も大いに寄与しただろう。この基軸ルートを最大限に活用して、路線網を広範囲に張り巡らせ、それによって地域内と全米各地との移送貨物、さらには大陸を横断する通過貨物も受け入れることができた。

ほかの鉄道は、リオグランデより有利な経路を採ろうとしたものの、連絡運輸をうまく取り込むことができず、多くの場合、地域内輸送を担ったにとどまる。そのため、鉱物資源に多くを依存する地域が不況に陥ると、たちまち収益は悪化し、経営が立ちいかなくなってしまったのだ。

とはいえ、覇者たるリオグランデも、ライバルに対抗するために自社路線のさまざまな拡張や改良を行っている。とりわけ山脈の東西を結んだ2本の主要ルートは、アルパイントンネルやハガーマン峠にも匹敵する北米屈指の山岳鉄道だった。次回はその起源と盛衰に迫ろう。

(2007年1月18日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ハガーマン峠」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
Colorado Midland Railway - A Short History
http://www.willcallhandyman.com/ColoradoMidland/Short_History_Page.html
DRGW.net - The Colorado Midland Railway
http://www.drgw.net/info/ColoradoMidland
William Henry Jackson Collection - Brigham Young University Library
https://lib.byu.edu/collections/william-henry-jackson-collection/

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2017年10月10日 (火)

ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート

銀の都レッドヴィル Leadville に、サンタフェとの鉄道戦争を決着させたリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)が到達したのは1880年のことだ。ところが、リオグランデは狙い通りに町の輸送需要を独占することはできなかった。なぜなら、次のライバルが別の方向からすでに姿を現していたからだ。

ライバルの名は、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P、下注)。以下「サウスパーク」と呼ぶが、リオグランデがロイヤル峡谷の戦いでもたついている間に、着々とコロラドの山中へ駒を進めていた。パシフィック(太平洋)という名が示すとおり、これも西を目指そうとした鉄道だが、軌間は、リオグランデと同じ3フィート(914mm)の狭軌だった。

*注 1872年10月設立時点の社名は Denver, South Park and Pacific Railway。1873年に増資の上、Railway を Railroad に改名して新たに設立された。

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サウスパークを走った機関車
(コロラド州フェアプレー Fairplay, CO のサウスパーク市立博物館 South Park City Museum に展示)
Photo from www.loc.gov http://www.loc.gov/pictures/resource/highsm.33658/

リオグランデが、路線をデンヴァー Denver から南へ延ばすつもりだったことは前々回述べたとおりだ。それでレッドヴィルへ向かう路線も、開通済みのプエブロ Puebloで分岐してアーカンザス川 Arkansas River 沿いに北上するルートをとった。しかしこれをデンヴァー起点で見ると、かなりの遠回りになる。それに対してサウスパークは、デンヴァーから目的地に直行するという点を売りにした(下図参照)。サウスパーク South Park という名称は、途中で横断する高原地帯の名に由来する。

会社設立は1872年という早い時期だ。この時点ではまだシルヴァーブーム(1878年~)が起きてはおらず、したがってレッドヴィルの町も小さかった。例のパイクスピーク・ゴールドラッシュのさなか、1859~60年に礎が築かれたレッドヴィルは、一時はオロ・シティ Oro City(黄金都市の意)と持て囃されながら、砂金が枯渇するとたちまち人口が激減していた。標高3,100mの高地で気候が厳しいこともあって、有望な鉱物資源がない限り、鉄道資本家の興味を引く場所ではなかったのだ。

それでサウスパークの本線は、レッドヴィルに立ち寄ることなく、まっすぐ西へ向かい、まだ見ぬパシフィックをめざそうとした。しかし、1873~76年というのは金本位制のもとで、西部が不況に喘いでいた時代だ。鉄道会社も資金繰りが苦しく、延伸工事はいっこうに捗らなかった。

1878年にいよいよシルヴァーブームが到来すると、コロラド各地で銀の採掘地へ向けた鉄道の建設ラッシュも始まった。その年の初めにはまだデンヴァーから20マイル(32km)のプラット峡谷 Platte Canyon 入口で足踏みしていたサウスパークも、みるみる路線を延ばしていった。鉄道輸送は活気を呈しており、1日当り480ドルの費用で1,200ドルの収入があった。収支係数40の超優良線だったのだ。鉄道は1879年6月にサウスパークの一角にあるコモ Como に達した後、標高2,892mのトラウトクリーク峠 Trout Creek Pass を越え、リオグランデが縄張りとするアーカンザス川の谷へ降りていった。

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デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道の路線概略図
赤線がサウスパーク、青線がリオグランデ(主要線のみ)

こうなると、銀の都へのルートを巡って、両者の間で新たな鉄道戦争が勃発する、と先読みしたいところだが、実際はそうならなかった。なんと両者は手を携えて、レッドヴィルに入ったのだ。サウスパークのレッドヴィル開業は1880年7月2日、リオグランデは7月20日とされ、前者がタッチの差で早いらしいのだが、ターミナルは別でも、そこに至る線路は共同で使っていた。なぜそうなったのか。

実は裏で画策した男がいた。「泥棒男爵」ジェイ・グールド Jay Gould。ロイヤル峡谷戦争に介入し、リオグランデの側に立って、サンタフェの戦意を喪失させたあの男だ(前々回参照)。彼はすでにサウスパークの物言う株主でもあったため、二者が並行路線を持つのは無駄だと考えた。それで、両者がレッドヴィルに到達する1年前の1879年10月に、共同運行協定を結ばせていたのだ。そこにはこう記されている。「調和と相互利益を目的として、リオグランデは、ブエナビスタ Buena Vista からレッドヴィル鉱山地区へ線路を敷設し、サウスパークは同等の運行権を共有する。同様に、サウスパークは、チョーククリーク Chalk Creek 経由ガニソン Gunnison 地内への敷設権が与えられ、リオグランデには同等の運行権が与えられる。」

平たく言えば、両者がそれぞれ相手の路線に乗り入れる権利を有するということだ。サウスパークはこの協定に基づいて、リオグランデの敷いた線路でレッドヴィルに乗入れることができ、同時に、サウスパークが敷く予定の西側区間がガニソンまで共用となる。しかし、これはお互いに不満の残る協定だった。というのも、当該区間で上がる収入も、かかる維持費も両者が折半することになっていたからだ。取扱量の多いリオグランデとしてはドル箱路線の利益をみすみす他者に渡すことになる一方、サウスパークは列車数が少ない割に維持費の負担が重かった。

案の定、協定は開業から4年足らず、1884年2月に破棄されてしまう。それを見越してサウスパークは、レッドヴィルに通じる独自路線の建設を進めていた(下注)。コモで本線から分岐して北上するルートだ。

*注 ジェイ・グールドの支配下にあったサウスパークは、1881年からユニオン・パシフィック鉄道(UP)のサウスパーク線区 South Park Division として扱われるようになったが、本稿では混乱を避けるために前歴と区別せずに記述している。

線路はボレアズ峠 Boreas Pass を越え、ブレッケンリッジ Breckenridge からいったんブルー川 Blue River の谷を下る。その後反転南下して、テンマイルクリーク Tenmile Creek を遡り、フリーモント峠 Fremont Pass 経由でレッドヴィルに至る。「ハイライン High Line(高地線)」と呼ばれたように、標高3500m近い大陸分水嶺を二度も越える名うての山岳路線だった(下注)。この開通によって、レッドヴィルからデンヴァーまでの距離は、リオグランデの446km(277マイル)に対し、243km(151マイル)と著しく短縮された。

*注 ボレアズ峠は標高3,499m(11,481フィート)、フリーモント峠は標高3,450m(11,318フィート)。

ところで、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道を語るなら、本来の設立目的であった西部連絡線のことも外すわけにはいかない。ハイラインの大胆なルート選択にも驚くが、西方ではさらに挑戦的な土木工事が実行に移されていたからだ。

西をめざすサウスパークの当面の目標は、大陸分水嶺を越えた先にあるガニソンの谷だった。その周辺では石炭、石灰石、鉄や貴金属を産出する鉱山が開発を待っていた。峠道にはいくつかの選択肢がある。最も標高が低いのは一番南にあるマーシャル峠 Marshall Pass だが、すでにリオグランデの最初の本線が敷かれていた。次に低い峠はモナーク峠 Monarch Pass で、現在、連邦道50号線が通っている。サウスパークはそのいずれでもなく、ブエナビスタから距離は最短だが、標高はさらに高い峰筋を越えようとした。

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アルパイントンネルを中心とした鉄道路線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

残念ながらその時代に分水嶺付近の地形図は作られなかったので、1980年代の地形図でルートを確認しておこう。右上のデンヴァー側からPACK TRAIL(登山道)の注記のある小道が左に延びている。これが廃線跡だ。線路は最急40‰の険しい勾配で、サミットをめざしていた。トンネル沢 Tunnel Gulch の南斜面に、標高11,600フィートの注記を伴ってトンネル北口がある。本来の峠道は一つ東にあるウィリアムズ峠 Williams Pass なのだが、鉄道はそれよりも尾根がくびれて、掘削距離が短くて済むこの場所を選んだ。

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アルパイントンネル周辺
USGS 1:24,000地形図 Saint Elmo 1982年版、Cumberland Pass 1982年版、Whitepine 1982年版、Garfield 1982年版に加筆

アルパイントンネル Alpine Tunnel(アルプストンネルの意)と命名されたこのトンネルは、コロラドの大陸分水嶺に穿たれた最初のものだ。標高3,539m(11,612フィート、下注)は、鉄道用としては北アメリカで最も高く、その記録は未だに破られていない。長さはたかだか540m(1,772フィート)と見積もられたので、建設会社は6か月で貫通させるつもりだった。ところが、掘削中に花崗岩の破砕帯に遭遇し、アカスギの支持枠で全長の8割を補強するなど、予期しない難工事となった。結局、完成までに2年近くを要し、1881年12月にようやく開通した。地形図にはトンネルの位置が明瞭に描かれているが、現在はポータルが崩壊して、内部に入ることはできなくなっている。

*注 アルパイントンネルに関するウィキペディア英語版の記事では、トンネルの標高が11,523フィート(3,512m)とされているが、1:24,000地形図記載の標高値から見て、Narrowgauge.org が示す11,612フィートに妥当性がある。 http://narrowgauge.org/alpine-tunnel/html/auto_tour.html

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アルパイントンネル西口、1880年代撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1425

南口からは、地図上の廃線跡が車道の記号になる。もちろん車高の高い四輪駆動車でしか行けないようなオフロードだが。この狭い平底の谷間には、列車運行の中継基地が設けられた。アルパイン駅 Alpine Station と呼ばれて、機関庫、給水タンク、転車台、鉄道員宿舎などが備わっていたが、1906年に火災に遭い、主要な建物は焼失してしまった。最近になって愛好家たちの手で、駅併設の電報局舎や37m(120フィート)の線路、転車台などが復元され、かつての雰囲気が蘇っている。

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現地に復元されたアルパインステーションの施設
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

やがて道は、はるかに広いU字谷の中腹に踊り出る。谷底からの高さは約300m(1,000フィート)ある。車窓には、登山鉄道も顔負けの雄大な山岳風景が開けて、列車の客を魅了したに違いない。降りていく途中にあるザ・パリセーズ The Palisades(絶壁の意)は、そそり立つ断崖の下に石組みで通路を確保した難所で、沿線の名所にもなっていた。谷底に達すると、線路は急曲線のシャーロッドループ Sherrod Loop で方向転換する。現在の車道はループを短絡しており、外側に膨らんだ小道が本来の線路跡だ。また、すぐ下方にあるウッドストック Woodstock 駅は、1884年早春の雪崩で宿舎が壊滅して、13人が命を失うという大きな被害に見舞われた現場になる。

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往時のザ・パリセーズ、1900~1920年撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1373
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現在のザ・パリセーズ(上写真の逆方向を見る)、2006年撮影
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この後は、ミドルクウォーツクリーク Middle Quartz Creek の右岸の谷壁に沿って、淡々と下っていく。地形図で、山から滑り落ちる谷川を渡る地点にある "Water Tank" の注記は、機関車に補給する水を貯える水槽だ。張り出し尾根を大きく回り込むと、ようやく峠の西麓クォーツ Quartz(すでに廃村)に降り立つことができる。

このアルパイントンネルとアプローチ区間20.9km(13マイル)は、近年「アルパイントンネル歴史地区 Alpine Tunnel Historic District」として保存と復元が進められ、1996年に国の登録歴史地区 National Register of Historic Places に指定されている。

さて、最大の難所の完成で工事は山場を越え、1882年9月にサウスパークの最初の列車がガニソンに到着した。ガニソンからさらに北方のボールドウィン鉱山へ支線が敷かれ、鉱石輸送も始まった。しかし、アルパイントンネルを挟んだ険しい山岳区間は冬場、しばしば猛吹雪に曝され、列車の運行は困難を極めた。年表には、トンネルの一時閉鎖をはじめ、脱線、衝突など、心細げな狭軌鉄道の苦闘の歴史が連綿と綴られている。

サウスパークは、ガニソンを拠点に、オハイオ峠 Ohio Pass を越えて西進するルートの開拓や、西南部のサンファン San Juan 地方への進出を画策するが、新天地はすでにリオグランデに押さえられていて、手の出しようがなかった。全通6年後の1888年、不況のために会社は早くも資金繰りに窮し、ユニオン・パシフィックの管理下で別会社(下注)に引継がれた。さらに1899年には、コロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railway (C&S) に再編される。

*注 デンヴァー・レッドヴィル・アンド・ガニソン鉄道 Denver, Leadville and Gunnison Railway。社名からわかるように、破綻したサウスパークの受け皿会社だった。

1910年11月、トンネルの一部が崩壊してまたも運休となったが、運営会社はもはや復旧する意欲を失っていた。そのままアルパイントンネルを含むブエナビスタ~ガニソン間は、廃止されてしまう。自動車交通が発達すると残る東部区間でも輸送量も漸減していき、1937年ついにほぼ全線が廃止となった。例外的に残された、もとハイライン(高地線)のレッドヴィル~クライマクス Climax 間は1943年に標準軌に改軌され、なおも使われたが、現在は保存鉄道「レッドヴィル・コロラド・アンド・サザン鉄道 Leadville Colorado & Southern Railroad」の観光列車が走るだけになっている。

リオグランデが創始し、サウスパークなどが後を追って、確立されたコロラドの3フィート狭軌王国。次回は、そこに標準軌という新しい風を吹き込んだ挑戦者の話をしたい。

(2007年1月25日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-アルパイントンネル」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Leadville Colorado & Southern Railroad  http://www.leadville-train.com/

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2017年8月26日 (土)

城下町岩村に鉄路の縁

明知(あけち)鉄道の気動車は、JR中央本線恵那(えな)駅の片隅から出発する。鉄道仲間のTさんと訪れた2017年7月のある日、片面1線の狭い専用ホームは、賑やかな年配女性のグループに占拠されていた。というのも、次に入線するのが、急行「大正ロマン号」という料理を楽しむイベント列車だったからだ。明知鉄道明知線は、恵那~明智(下注)間25.1km。私たちは途中の岩村(いわむら)駅まで切符を買っている。

*注 地名・駅名は「明智」と書かれるが、鉄道名は、古い用字の「明知」鉄道「明知」線が使われている。

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恵那駅で発車を待つ大正ロマン号
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明知鉄道路線図(恵那駅の案内板を撮影)

大正ロマン号は破格(?)の3両編成で、前1両が普通車、後ろ2両は特製弁当が用意された食堂車だ。残念だが私たちは普通客なので、前の車両のかぶりつきに陣取った。発車は12時22分、走り出すや列車は33‰勾配に直面する。一部にほぼ平坦な区間はあるものの、飯沼川の渓谷を遡り、1つ目のサミットとなる飯沼トンネルまで、8km近くこの急勾配が続くのだ。

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(左)東野駅東方にある33‰の勾配標 (右)野田トンネル

気動車はゆっくりと、しかし喘ぐこともなく、淡々と坂を上っていく。急行運転のため、小駅には止まらない。いったん阿木川のやや開けた谷に降りて、阿木(あぎ)駅に停車。再び小さな峠を越えて、今度は岩村川の平たい谷に出る。極楽(ごくらく)という新駅を経て、12時53分に岩村に着いた。斜め向かいのホームに、交換する上り列車が待っている。

岩村(下注1)は私にとって初めての土地だ。明知線には国鉄時代、一度乗り通したことがある(下注2)が、中間駅は素通りしたのでほとんど何も記憶に残っていない。今回も本来の目的は鉄道乗車だ。取り立てて岩村の町に興味があったわけではなく、まさかここで浅からぬ鉄路の縁に巡り合えるとは、この時はまだ想像もしていない。

*注1 行政上は岐阜県恵那市岩村町
*注2 国鉄明知線は、1985年11月に第三セクターである明知鉄道に転換された。

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岩村駅
(左)路線唯一の列車交換駅
(右)全線自動閉塞化されたが、転轍てこが残されている

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岩村のレンタサイクルは
電動アシストタイプ

とりあえず計画していたのは、明知線上の飯沼(いいぬま)駅を見に行くことだった。この駅は33‰勾配の途上にあり、日本で2番目の急傾斜駅として売り出し中だ(下注)。岩村から4駅恵那寄りで、さっき大正ロマン号で通過している。駅前からレンタサイクルの連絡先に電話して、パナソニックの電動自転車を借りた。なにしろ周りは山坂だらけなので、普通の自転車ではたちまちへばってしまうに違いない。

*注 普通鉄道で日本一の急傾斜の駅は、滋賀県大津市にある京阪電鉄京津線大谷駅で40‰の勾配上にある。

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阿木周辺の1:25,000地形図に加筆

あらかじめ地形図で、飯沼までできるだけ2車線道を避けて行けるルートを確かめてある。絶えずクルマを気にしながら走るのは興醒めだからだ。国道257号に並行して、岩村川の左岸に頃合いの小道が延びている。走ってみると比較的直線で舗装もされているし、飯羽間の中切集落で国道に合するまで、ゆったりのんびり進むことができた。

地形図にはまた、阿木駅の北に1車線のトンネルが描かれている(上図の中央)。里道にしては異例の長さなので、これもルートに組み入れておいた。もしや森林鉄道の跡と疑ったのだが、そうではなかった。ネット情報を拝借すれば、これは野田トンネルといい、長さは252m。戦時中、地下軍需工場のために掘られたのを戦後転用し、1947年に竣工したのだそうだ(下注)。内壁はモルタル吹き付け、路面はコンクリート舗装で、照明もついている。空気はひんやりとして、蒸し暑い外との気温差で靄がかかっていた。

*注 北口に立つ隧道完成之碑には次のように書かれていた。「昭和二十二年半田市加藤銀三郎氏私財を投じて之を貫通し爾来中津川市及び阿木飯沼両地區の厚志により年を追うて補強し昭和四十四年四月完成す 茲に謝恩の意を表し建之 野田組」

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野田トンネル (左)南口 (中)内部はもやがかかる (右)北口

峠を一つ越えると、飯沼駅だ。集落から離れた谷合いにぽつんとある。私たちが着くと同時に、踏切の警報機が甲高い音を立て始めた。うまいタイミングで、明智行き普通列車がやってきたのだ。慌ててスタンバイし、ホーム取付けの階段と列車との傾斜加減を写真に収める。後で、この列車と岩村駅で交換した上り列車も、阿木駅北側のカーブした築堤で捉えることができた。3段変速の電動自転車だと、かなり急な坂道でも無理なく走れるので、野山を駆ける撮影行には重宝する。

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飯沼駅
(左)33‰勾配からの発進 (右)待合室の基礎に表れる高低差
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阿木駅北方で上り列車を見送る
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阿木駅舎
(左)懐かしいホーロー引き駅名標 (右)ベンチには暖かそうな手縫いの座布団

話はそれるが、阿木にある異形の橋、旧阿木橋も見た。片側はコンクリート桁の道路橋なのだが、川の中央から先は簡易な鉄骨トラスで繋いである。通りがかりのご婦人に聞くと、かつて(1957年)大水の時に川岸が抉られたため、人や自転車だけでも通れるように継ぎ足したのがあの結果だという。元の川幅は今の半分だったのだ。すぐ上流に新しい橋が架かり、車の通行に支障がなくなったので、当時のまま残されている東濃のアビニョン橋だ。

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東濃のアビニョン橋、旧阿木橋

岩村の旧市街は、1998(平成10)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。近在の妻籠宿、馬籠宿のような先駆事例に影響を受けているのだろう。本通りと呼ばれるメインストリートでは約2kmの間、目障りな電線が地中化され、街路に沿う家並がすっきりと見通せるのがいい。古風な雰囲気を残す建物が数多く保存され、現代建築も修景されている。

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岩村本通り

駅から城をめざして上っていくと、街路がクランクしている枡形(ますがた)付近から先が、江戸期に遡る商家町になる。文化財の公開建物ももちろん一見の価値があるのだが、それにも増して、国道の本町交差点の上手で軒を並べる商家群が圧巻だ。立派な売薬の看板が所狭しと掛かる水野薬局、年代ものの柱時計が壁を埋める藤井時計店、18世紀の創業という造り酒屋の岩村醸造、同じ頃、藩医が長崎から持ち帰ったレシピで今もカステラを焼く松浦軒本店(下注)など、どれも、にわか造りの観光施設には真似のできない歳月の重みを感じさせる。

*注 固めに焼き上げて独特の食感をもつ名物のカステラをつくる菓子店が、この町にはあと2軒ある。

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本通りの商家
(左)柱時計が壁を埋める時計店 (右)長崎伝来のカステラを売る老舗
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貴重な年代物の看板に感動

今朝からずっと曇り空だったが、夕暮れにとうとう雨が降り出した。本通りをなおも上っていくと、背後にそびえる城山の森が薄墨を刷いたように重なり、木版画の風情を漂わせている。標高717mの山頂に築かれた岩村城は、こうして霧がかかりやすいので「霧ヶ城」の別名をもつ。伝説では、城内の井戸に秘蔵の蛇骨を投じると、霧が沸き立って城を隠すのだそうだ。

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木版画の風情を見せる街路と城山の森

麓から城跡までは、石畳の険しい坂道が続いている。雨の上がった翌朝早く登城したら、濡れた木立に陽光のシャワーが射し込む荘厳な光景に迎えられた。あまたの歴史を秘めた山城が、神秘の力の一端を見せてくれたのかもしれない。

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岩村城の登城坂 (左)初門付近 (右)追手門跡
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六段壁の石垣が残る岩村城址

話は前日に戻るが、町の端に立つ常夜灯の傍らで、保存地区の成り立ちを記した案内板を見ていたら、ある一文が目に止まった。「枡形より西側の地区は、江戸時代末期から順次発展し、明治39年の岩村と大井(現・恵那市)を結ぶ岩村電気軌道の開通により一層繁栄し、いまも岩村町の商業の中心地となっています」。明知線より前からここに電車が来ていたことを知ったのは、それが初めてだった。

中世から近世を通じて、岩村藩の城下町として栄えたこの町も、明治維新による藩の解体を境に、地域経済の中心的地位を失ってしまう。加えて、鉄道が町から遠く離れた中山道に沿って敷設されることになった。さらなる衰退を危惧した地元資産家の奔走で、実現したのが岩村電気軌道(下注)だったのだ。

*注 大井~岩村間12.6 km、軌間1,067 mm、600 V直流電化

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岩村電気軌道に関する記事
荒巻克彦「明知線と蒸気機関車」非売品,1980年より

名古屋から延伸されてきた官設鉄道、今の中央本線は1902(明治35)年に中津(現 中津川)に達し、大井駅(現 恵那駅)が開設された。会社の設立はその翌年で、3年後の1906(明治39)年には早くも大井と岩村の間で営業運転を始めている。名古屋に国内2番目の市内電車が登場(1898年)してまだ8年、進取の精神がもたらした最新の交通機関を、町民はさぞ驚きの目をもって迎えたことだろう。

同じ大井駅を起点とする国鉄明知線が岩村に到達するのは、1934(昭和9)年のことだ。大井までの所要時間は両者さほど変わらなかったが、貨物輸送はもとより、旅客も乗り心地の良さから新しい路線に移っていった。利用者が激減したため、電気軌道は補償を受けて、翌1935(昭和10)年に運行を廃止した。

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岩村周辺の1:25,000地形図に加筆
赤の破線は岩村電気軌道のルート
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上図と同じ範囲の1:50,000地形図(明治44年測図、2倍拡大)
岩村電気軌道が特種鉄道の記号で描かれている

では、その軌道はどこを通っていたのか。さっそく調べてみると、何のことはない、昼間に自転車を走らせた岩村川左岸の小道が、廃線跡だった(上図参照)。どうりでまっすぐ延びていたはずだ。翌日、もと十四銀行支店の建物にある観光案内所「まち並みふれあいの館」に立ち寄って、電気軌道に関する資料を見せてもらう。写真もまったく撮っていなかったので、改めて駅付近のルートを確かめに出かけた。

駅から北西に400m、小道が国道257号線を横断する地点に立つ。北側は、軽四輪が似合いそうなのどかな一車線道が続いている。それに対し、南側は同じ道幅ながら周囲に屋敷が並び、岩村川に突き当たったところで右へ曲がる。そのときは判らなかったのだが、旧版地形図によれば、現 岩村駅南西の、盛り土をした公園が電気軌道の終点跡と読める。

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電気軌道廃線跡
国道257号線横断地点の北側(大井方)は野中の一本道
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電気軌道廃線跡
(左)国道257号線横断地点から南側(岩村方)を望む
(右)岩村川に臨んでカーブした後、川を渡っていた

岩村駅の上りホームが駅舎から離れて、軌道終点の近くに配置されているのも、意味ありげだ。明知線が開通したとき、軌道はまだ現役だったから、相互に乗換の便が図られたとしても不思議はない。いたって静かなこの山里の駅が、一時期、新旧路線の旅客ターミナルとして賑わっていたなど、想像するだけでも興味深いことだ。

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ホームが千鳥状に配置された現 岩村駅
右の上りホームの斜め後ろが軌道駅跡らしい

さて、岩村での鉄路の縁の最後にもう一題、本通りに面した造り酒屋、岩村醸造を覗いたときの話をしよう。ソフトクリームはじめました、という看板に釣られて店内に入ったのだが、ふと見ると、床にレールが敷いてあるではないか。酒屋や醤油屋などで、重い原材料や製品の搬出入に手押しトロッコを使っていたとは聞いたことがある。いわゆる横丁鉄道だが、本物を見るのは初めてだ。

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杉玉が吊された岩村醸造の玄関口

もう利用されていないとはいえ、線路はしっかり残されている(下注)。店の人に「奥まで見学できますよ」と言われたので先を追うと、透き通った水の流れる中庭に出た。本通りに並行して走っている天正疎水という用水路で、屋敷を奥へ拡張したときに庭に取り込まれたのだ。酒の仕込みに使うのと同じ地下水で喉を潤してから、なおも奥へ向かうと、瓶詰めの作業場の横を急カーブですり抜けていく。そして、仕込み桶が並ぶ酒蔵に入ったところで途切れていた。

*注 岩村醸造のリーフレットによれば、長さは100m。

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(左)店先から奥へトロッコのレールが延びる (右)天正疎水をまたいで続く
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(左)作業場を急カーブですり抜ける (右)レールの先端は酒蔵の中

鉄道模型の世界には、屋外に線路を敷いて、人が乗れるような大型車両を走らせる庭園鉄道というジャンルがある。業務用とはいえ、屋敷の中を線路がくねくねと走るのは、それを超える意外性が感じられて愉快だ。堪能したので、何か土産を買って感謝の気持ちに代えたいと思ったが、日本酒をやらない私は、少し恐縮しながら甘酒入りのソフトクリームを注文するしかなかった。

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(左)トロッコは商品の陳列台に (右)甘酒入りソフトクリーム

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩村(平成19年更新)、5万分の1地形図岩村(明治44年測図)を使用したものである。

■参考サイト
明知鉄道 http://www.aketetsu.co.jp/
安岐郷誌 http://agimura.net/
城下町ホットいわむら http://hot-iwamura.com/
岩村醸造 http://torokko.shop-pro.jp/
 左メニューにあるグーグルのストリートビューで、トロッコのレールを追うことができる

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2017年7月30日 (日)

リムタカ・インクライン II-ルートを追って

新線が開通すると、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline を含むワイララパ線 Wairarapa Line 旧線区間では、施設の撤去作業が行われ、ほぼ更地化した。平野部では多くが農地や道路に転用されてしまったが、峠越えのカイトケ Kaitoke ~クロス・クリーク Cross Creek 間は公有地で残された。

一方、フェル式蒸気機関車の中で唯一解体を免れたH 199号機は、リムタカの東にあるフェザーストン Featherston の町に寄贈され、公園で屋外展示された。子どもたちの遊び場になったのはいいが、その後風雨に晒され、心無い破壊行為もあって、状態は悪化の一途をたどる。20年が経過したとき、旧線時代を振り返る書物の刊行をきっかけにして、保存運動が始まった。その結果、フェザーストンに今もあるフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum が1984年に建てられ、機関車は改めて館内で公開されるようになった。

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IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)によるリムタカ・インクラインの銘板
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

忘れられていた廃線跡にも、人々の関心が向けられた。ニュージーランド林務局 New Zealand Forest Service は、博物館開館と同じ年に、クロス・クリーク駅跡へ通じるアクセス道とインクライン跡の整備を実施した。崩壊した築堤には迂回路が設けられ、土砂崩れで冠水していたサミットトンネル Summit Tunnel も排水されて、サミット駅跡まで到達できるようになった。

その発展形が、ウェリントン地方議会 Wellington Regional Council と自然保護局 Department of Conservation が共同で計画した、廃線跡を利用するトレール(自然歩道)の設置だ。1987年11月に、メイモーン Maymorn ~クロス・クリーク間 22kmが「開通」し、「リムタカ・レールトレール Rimutaka Rail Trail」と命名された。H形機の舞台は今や、自転車や徒歩で追体験することが可能だ。

それは、いったいどのようなところを走っていたのか。トレールにならなかった区間も含めて、新旧の地形図でそのルートを追ってみよう。

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リムタカ・インクラインを含むワイララパ旧線のルート
3つの枠は下の詳細図の範囲を示す
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

アッパー・ハット Upper Hut ~カイトケ Kaitoke 間

付け替え区間は、アッパー・ハット駅を出て間もなく始まる。ハット谷 Hutt Valley より一段高いマンガロア谷 Mangaroa Valley に出るために、旧線は、境を成す尾根筋に取りつき、ぐいぐいと上っていく。短距離ながら急曲線(半径5チェーン=100.6m)と急勾配(1:35=28.6‰)が続く、リムタカの本番を控えた前哨戦のような区間だ。廃線跡は森に埋もれてしまい、現行地形図では、尾根を抜ける長さ120mのトンネル(Old tunnel の注記あり)しか手がかりがない。しかし、等高線の描き方から谷を渡っていた築堤の存在が推定できる。

トンネルを抜けるとマンガロア谷だ。北に緩やかに傾斜する広い谷の中を、旧線はほぼ直線で縦断し、途中にマンガロア駅があった。地形図でも、断続的な道路と防風林(緑の帯の記号)のパターンがその跡を伝える。

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マンガロア駅跡
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現 メイモーン駅の東方から、旧線跡はリムタカ・レールトレールとして、明瞭な形をとり始める。周辺はトンネル・ガリー保養地 Tunnel Gully Reareation Area で、地形図では破線で描かれる小道が錯綜しているが、その中で、車が通れる小道 Vehicle track を表す少し長めの破線記号が、本題のトレールだ。こう見えても、勾配は1:40(25‰)前後ある。

長さ221m、直線のマンガロアトンネル Mangaroa Tunnel で、プラトー山 Mount Plateau の尾根を抜ける。大きく育った松林の間を進むうちに、一つ北側のカイトケ谷 Kaitoke Valley に移っている。旧カイトケ駅構内は私有地になったため、トレールはそれを避けて大きく西へ迂回しており、駅跡の先で本来の旧線跡に復帰する。

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アッパー・ハット~カイトケ間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP32 Paraparaumu, BP33 Featherston. Crown Copyright Reserved.
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同 旧線時代の1マイル1インチ地図(1957年版)
鉄道記号の横のT字の記号は電信線 Telephone lines、
橋梁に添えられた S は鋼橋 Steel または吊橋 Suspension、W は木橋 Wooden を表す
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

カイトケ~サミット Summit 間

サミットに至る峠の西側約12kmのうち、初めの約2kmは一般車も通れる道だ。車止めのゲートを越えると専用林道で、開けたカイトケ谷のへりに沿いながら、パクラタヒ川 Pakuratahi River が流れる谷へ入っていく。

まもなく谷幅は狭まり、渓谷の風情となる。小川を横切っていたミューニションズ・ベンド橋梁 Munitions Bend bridge は1960年代に流失した。以来、林道は川をじかに渡っていた(=渡渉地 Ford)が、2003年、傍らに徒橋 Foot bridge と線路のレプリカが渡された(下注)。長さ73mのパクラタヒトンネル Pakuratahi Tunnel を抜けると、森の陰に新線リムタカトンネルの換気立坑がある。新線はこの直下117mの地中を通っているのだ。

*注 ウェリントン地方議会のサイトでは、徒橋の設置を2003年としているが、現地の案内標識には2004年と記されている。

少し行くと、長さ28m、木造ハウトラス Howe truss のパクラタヒ橋梁 Pakuratahi Bridge で本流を渡る。ニュージーランド最初のトラス橋だったが、火災で損傷したため、1910年に再建されたもので、2001年にも修復を受けている。

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木造ハウトラスのパクラタヒ橋梁
Photo by Pseudopanax at wikimedia

谷間がやや開け、右カーブしながら、長さ70mの桁橋レードル・ベンド・クリーク橋梁 Ladle Bend Creek bridge を渡る。比較的緩やかだった勾配は、ここから最急勾配1:40(25‰)と厳しくなる。直線で上っていくと、また谷が迫ってくる。高い斜面をトレースしながら、山襞を深い切通しで抜ける。

再び視界が開けると、レールトレールは左から右へ大きく回り込みながら、均されたサミット駅跡に達する。現役時代から、集落はおろかアクセス道路すらない山中の駅だったので、運転関係の施設のほかに鉄道員宿舎が5戸あるのみだった。今は跡地の一角に蒸機の残骸のオブジェが置かれているが、H形のものではないそうだ。

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サミット駅跡
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

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カイトケ~クロス・クリーク間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

サミット~クロス・クリーク Cross Creek 間

峠の東西で線路勾配は大きく異なる。あたかも信越本線の碓氷峠に似て、西側は25‰で上りきれるが、東側は66.7‰の急勾配を必要とした。それを克服する方法が、碓氷峠のアプト式に対して、リムタカではフェル式(下注)だ。この急坂区間をリムタカ・インクライン Rimutaka Incline と呼んだ。

*注 フェル式については、前回の記事参照。

文献では長さ3マイル(メートル換算で4.8km)と書かれることが多いが、これは両駅間の距離を指している。サミット駅を出ると間もなく、旧線は長さ576m(1,890フィート)のサミットトンネルに入るが、トンネル内の西方約460mは、下り1~3.3‰とわずかな排水勾配がつけられているだけだ。残り約100mの間に勾配は徐々に険しくなり、トンネルの東口で下り1:15(66.7‰)に達していた(下注)。このことから推測すれば、フェル式レールの起点は東口近くに置かれていたはずだ。

*注 トンネルは地形の関係で南北に向いているが、ここではサミット駅方を西、クロス・クリーク駅方を東と表現する。

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サミットトンネル東口
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

トンネルを抜けると、旧線跡は分水嶺の中腹に躍り出る。眼下の谷、向かいの山並み、これから下っていくルートまで眺望できる展望地だ。左に回り込んで、長さ121mのシベリアトンネル Siberia tunnel を抜けたところに、半径100m(5チェーン)の急曲線で谷を渡る高さ27mの大築堤があった。谷は築堤の形状にちなんでホースシュー・ガリー Horseshoe Gully(馬蹄形カーブの峡谷の意)と呼ばれたが、冬は激しい北西風に晒されるため、シベリア・ガリー Siberia Gully の異名もあった。1880年に突風による列車の転落事故が発生した後、築堤上に防風柵が設けられている。

しかし、その大築堤も今はない。廃線後の1967年、暴風雨のさなかに、下を抜けていた水路が土砂で詰まり、溢れた水が築堤を押し流してしまったからだ。そのため現在、レールトレールの利用者は谷底まで急坂で下り、川を渡渉するという回り道を余儀なくされる。谷から突っ立っている異様なコンクリートの塔は、縦方向の水路が剥き出しになったものだという。

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(左)ホースシュー・ガリーを渡っていた大築堤に、防風柵が見える
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ
(右)築堤が流失したため、現在、レールトレールは谷底まで降りて川を渡る
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

次のプライシズトンネル Price’s Tunnel は、長さ98m(322フィート)でS字に曲がっている。しばらくこうして斜面を下っていくうちに、平坦地に到達する。登録史跡にもなっているクロス・クリーク駅跡だ。フェル式車両の基地があったので、構内はかなり広いが、今はトレール整備で造られた待合室のような小屋があるばかりだ。

なお、旧版地形図には、マンガロアとクロス・クリークを結んで "Surveyed Line or Proposed Rly. Tunnel" と注記された点線が描かれている。これは当初構想のあった約8kmの新トンネルだ。結局、リムタカトンネルはこのルートでは実現せず、クロス・クリークは廃駅となってしまった。

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1955年10月29日、H 199号機が先導する最終列車がクロスクリーク駅を出発
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

クロス・クリーク~フェザーストン Featherston 間

クロス・クリークから東は、1:40(25‰)以内の勾配で降りていく。残念ながら大部分が私有地となり、旧線跡の多くは牧草地の中に埋もれている。そのため、レールトレールは小川(クロス・クリーク)を渡って対岸に移る。地形図で下端に見える水面は、北島第3の湖、ワイララパ湖 Lake Wairarapa だ。平原に出ると、旧線はフェザーストンの町まで一直線に進んでいた。途中、小駅ピジョン・ブッシュ Pigeon Bush があったはずだが、周辺にぽつんと残る鉄道員宿舎の暖炉煙突2基を除いて、跡形もない。

リムタカトンネルを抜けてきた新線が接近する地点に、スピーディーズ・クロッシング Speedy's Crossing と呼ばれる踏切がある。1955年11月3日、ここで新線の開通式が執り行われた。39kmに及ぶ旧線跡の終点はまた、新旧の交替というエポックを象徴する場所でもあった。

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クロス・クリーク~フェザーストン間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

■参考サイト
Tracks.org.nz  http://tracks.org.nz/
Cycle Rimutaka - New photos of the Rimutaka Cycle Trail!
http://www.cyclerimutaka.com/news/2015/10/28/new-photos-of-the-rimutaka-cycle-trail
Mountain Biking Travels - Rimutaka Rail Trail - Wairarapa
http://mountainbiking-travels.blogspot.jp/2015/06/rimutaka-rail-trail-wairarapa.html

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶
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 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 I
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 II

2017年7月23日 (日)

リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶

急勾配の線路を上り下りするために、2本の走行レールに加えて第3のレールを用いて、推進力や制動力を高める鉄道がある。その大部分は、地上に固定した歯竿(ラック)レールと、車体に装備した歯車(ピニオン)を噛ませるラック・アンド・ピニオン方式、略してラック式と呼ばれるものだ。代名詞的存在のアプト式をはじめ、いくつかのバリエーションが創られた。

しかし、フェル式 Fell system はそれに該当しない。なぜなら、中央に敷かれた第3のレールはラックではなく、平滑な双頭レールを横置きしたものに過ぎないからだ。坂を上るときは、このセンターレールの両側を車体の底に取り付けた水平駆動輪ではさむことで、推進力を補う。また、下るときは同じように制輪子(ブレーキシュー)を押し付けて制動力を得る。

■参考サイト
レール断面図
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/history/fell-centre-rail-system

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線路工夫が見守る中、フェル式区間を上る貨物列車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

この方式は、イギリスの技師ジョン・バラクロー・フェル John Barraclough Fell が設計し、特許を取得したものだ。ラック式ほど険しい勾配には向かないものの、レールの調達コストはラック式に比べて安くて済む。1863~64年に試験運行に成功したフェルの方式は、1868年に開通したアルプス越えのモン・スニ鉄道 Chemin de fer du Mont-Cenis で使われた。フレジュストンネル Tunnel du Fréjus が開通するまで、わずか3年間の暫定運行だったが、宣伝効果は高く、これを機に、フェル式は世界各地へもたらされることになる(下注)。

*注 現存しているのは、マン島のスネーフェル登山鉄道(本ブログ「マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道」参照)が唯一だが、中央レールは非常制動用にしか使われない。

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ニュージーランドの植民地政府もまた、この効用に注目した。当時、北島南端のウェリントン Wellington からマスタートン Masterton 方面へ通じる鉄道(現 ワイララパ線 Wairarapa Line)の建設が準備段階に入り、中間に横たわるリムタカ山脈 Rimutaka Range をどのように越えるかが主要な課題になっていた。

ルート調査の結果、カイトケ Kaitoke(当時の綴りは Kaitoki)からパクラタヒ川 Pakuratahi River の谷を経由するという大筋の案が決まった。峠の西側の勾配は最大1:40(25‰)に収まり、蒸機が粘着力で対応できるため、問題はない。しかし、東側は谷がはるかに急で、なんらかの工夫が必要だった。勾配を抑えるために山を巻きながら下る案は、あまりの急曲線と土工量の多さから退けられ、最終的に、平均1:15勾配(66.7‰、下注)で一気に下降する案が採用された。

*注 縦断面図では1:16(62.5‰)~1:14(71.4‰)とされている。

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ワイララパ旧線とリムタカ・インクライン
フェル式を採用したインクライン(図では梯子状記号で表示)は、サミットトンネル Summit Tunnel 東口~クロス・クリーク Cross Creek 駅間のみで、それ以外は粘着式で運行された
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

この長さ3マイル(4.8km)のインクライン(勾配鉄道、下注)に導入されたのが、フェル式だ。特殊な構造の機関車が必要となるものの、客車や貨車は直通でき、実用性もモン・スニで実証済みだというのが、推奨の理由だった。当時、山脈を長大トンネルで貫く構想もすでにあり、インクラインは暫定的な手段と考えられたのだが、実際には、フェル式を推進と制動の両方に使用するものでは77年間と、最も寿命の長い適用例になった。

*注 このインクライン区間の呼称については、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline のほか、「リムタカ・インクライン鉄道 Rimutaka Incline Railway」や「リムタカ鉄道 Rimutaka Railway」も見受けられる。ただし、下記参考資料では「リムタカ鉄道」を、ワイララパ旧線全体を表現する用語として使用している。

建設工事は1874年に始まり、予定より遅れたものの1878年10月に完成した。これでウェリントンからフェザーストン Featherston まで、山脈を越えて列車が直通できるようになった。

フェル式区間のあるサミット Summit ~クロス・クリーク Cross Creek 間(下注)には、イギリス製の専用機関車NZR H形(軸配置0-4-2)が投入された。開通時に1875年製が4両(199~202号機)、1886年にも2両(203、204号機)が追加配備されている。また、下り坂に備えて列車には、強力なハンドブレーキを備えた緩急車(ブレーキバン)が連結された。これら特殊車両の基地は、峠下のクロス・クリーク駅にあった。通常の整備はここで実施され、全般検査のときだけ、ウェリントン近郊のペトーニ Petone にある整備工場へ送られたという。

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唯一残るフェル式機関車(フェル機関車博物館蔵 H 199号機)
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.
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床下に潜れば、センターレールとそれをはさむブレーキシューが見える
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.

当初インクラインを通行する列車は、機関車1両で扱える重量までとされた。制限は徐々に緩和され、1903年の貫通ブレーキ導入後は、最大5両の機関車で牽くことも可能になった。しかし、機関車ごとに乗員2名、列車には車掌、さらに増結する緩急車でブレーキ扱いをする要員と、1列車に10数名が携わることになり、運行コストに大きく影響した。また、インクラインでの制限速度は、上り坂が時速6マイル(9.7km)、下り坂が同10マイル(16km)で、機関車の付け替え作業と合わせ、この区間の通過にはかなりの時間を費やした。

ワイララパ線は、1897年にウッドヴィル・ジャンクション Woodville Junction(後のウッドヴィル)までの全線が完成している。ギズボーン Gisborne 方面の路線と接続されたことで輸送量が増え、20世紀に入ると、H形機関車の年間走行距離は最初期の10倍にもなった。

1936年、鉄道近代化策の一環で、ウェリントン~マスタートン間に軽量気動車6両 RM 4~9 が導入された。センターレールに支障しないよう、通常の台車より床を12インチ(305mm)高くした特別仕様車で、速度の向上が期待されたが、実際には時速10~12マイル(16~19km)にとどまった。

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カイトケ駅に到着する軽量気動車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

リムタカのボトルネックを解消する抜本策が、バイパストンネルの建設であることは自明の話だった。1898年に詳細な調査が実施され、マンガロア Mangaroa ~クロス・クリーク間を直線で結ぶ約5マイル(8km)のトンネル計画が練られた。1920年代にも再び実現可能性の調査が、30年代には詳細な測量が行われたが、それ以上前に進まなかった。

懸案への対処が先送りされ続けた結果、第二次世界大戦が終わる頃には、リムタカの改良は待ったなしの状況になっていた。機関車もインクラインの線路も、長年酷使されて老朽化が進行していたからだ。1947年に決定された最終ルートは、当初案のクロス・クリーク経由ではなく、一つ北のルセナズ・クリーク Lucena's Creek(地形図では Owhanga Stream)の谷に抜けるものになった。1948年、ついにトンネルを含む新線が着工され、7年の工期を経て、1955年に竣工した。

これに伴い、旧線の運行は1955年10月29日限りとされた。最終日には、稼働可能なH形機関車全5両を連結した記念列車がインクラインで力走を見せ、多くの人が別れを惜しんだ。切替え工事を経て、新線の開通式が挙行されたのは同年11月3日だった。

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インクライン運行最終日に坂を下るH形4重連
Norman Cameron "Rimutaka Railway" 表紙写真

リムタカ迂回線 Rimutaka Deviation は、延長39.0kmあった旧線区間を14.4kmも短縮するとともに、最急勾配は1:70(14.3‰)、曲線半径も400mまでに抑えた画期的な新線だ。その結果、旅客列車で70分かかっていたアッパー・ハット~フェザーストン間がわずか22分になった。貨物列車も所要時間の短縮に加え、長編成化が可能になって、輸送能力が格段に向上した。

新線は全線単線で、トンネルをはさんで西口のメイモーン Maymorn 駅と東口のリムタカ信号場 Rimutaka Loop にそれぞれ待避線が設置されている。リムタカトンネル Rimutaka Tunnel は長さ 8,798mと、当時ニュージーランドでは最長を誇った(下注)。

*注 1978年に東海岸本線 East Coast Main Trunk Line の短絡線として、長さ8,850mのカイマイトンネル Kaimai Tunnel が完成するまで、最長の地位を守った。

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リムタカトンネル開通式
ブックレット表紙
Photo by Archives New Zealand at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

トンネルには、ほぼ中間地点に換気立坑 ventilation shaft があり、旧線が通るパクラタヒ谷の地表面に達している。実はこれは、トンネル完成後に追加された工事だ。この区間はもともと架空線方式の電化が想定されていたが、経済的な理由で非電化のままになった。ディーゼル機関車の試験走行を行ったところ、自然換気だけでは排気が十分でないことが判明し、急遽対策がとられたのだ。

新線への切替え後、列車の往来が途絶えた旧線では、すぐさま施設の撤去が始まった。H形機関車は、長年走り続けた線路の撤去作業を自ら務めた。それが終わると、ハット整備工場へ牽かれていき、そこでしばらく留置された。そして翌年除籍され、フェザーストンの町に寄贈された1両を残して、あえなく解体されてしまった。

まだ使用可能だったフェルレールと緩急車は、再利用するために南島のレワヌイ支線 Rewanui Branch(下注)へ移送された。こうして、リムタカ・インクラインの77年の歴史は幕を閉じたのだった。

*注 ニュージーランドにはリムタカのほかにも、フェル式が使われた路線がある。南島北西部の鉱山支線であった上記のレワヌイ・インクライン Rewanui Incline(使用期間 1914~66年)とロア・インクライン Roa Incline(同 1909~60年)、ウェリントン ケーブルカー Wellington Cable Car(同 1902~78年)、カイコライ・ケーブルカー Kaikorai Cable Car(ダニーディン Dunedin 市内、期間不明)だが、いずれも制動のみの使用だった。

では、旧線はどのようなところを走っていたのか。次回は、インクラインを含む旧線のルートを地形図で追ってみたい。

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン II-ルートを追って
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道
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 マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道

2017年6月11日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)

まだ雪のベールのかかる鳥海山の荘厳な姿に感嘆しながら、羽越本線で秋田へ移動してきた。コンターサークルS 春の旅も、きょう5月5日が最終日だ。用意した地形図は1:25,000「岩見三内(いわみさんない)」。雄物川の支流の一つで、秋田市東部を流れる岩見川の中流域を描いている。

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羽越本線の車窓から見た鳥海山

日本の1:25,000地形図は、全部で4,400面以上もある。それで、鉄道、主要道路、あるいは著名な山や湖などが図郭に入っていないと、見てもすぐに印象が薄れてしまう。率直なところ、「岩見三内」もそうした括りの図幅だった(下注)。ところが、お題に挙がったのを機にじっくり眺めてみると、興味深い題材がいくつも見つかる。他のメンバーも各々関心のあるテーマを持ち寄ったので、思いがけなく盛りだくさんの地図の旅になった。

*注 ただし、現在の「岩見三内」図幅は、図郭が拡大されたので、大張野駅前後の奥羽本線が顔を覗かせている。

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秋田市周辺の1:200,000地勢図(平成5年編集)に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

朝10時、秋田駅の東西連絡通路の一角に集まったのは、堀さん、真尾さん、丹羽さん、私の4人。駅前から2台の車で出発した。秋田市街を抜けて、県道28号秋田岩見船岡線を東へ。太平山の南斜面を水源とする太平川(たいへいがわ)に沿って、緩やかな谷を遡る。

まず、私のリクエストで、地主(じぬし)という集落で車を止めてもらった。ここに謎の地形があるからだ。現行地形図(下の左図)を見ると、地主の南を、太平川がまっすぐ西へ流れている。それと同時に、集落の西から北にかけて弧を描く土の崖と、一つ北の谷につながる鞍部(=風隙)も読みとれる。これは、かつて太平川が北へ蛇行していたことを示す証拠のようだ。それが、何らかのきっかけで西の谷へ流れ込むように変わったとすれば、西の谷による河川争奪があった、ということになる。

ところが、大正元年の旧版図(下の右図)を取寄せてみたら、驚いたことに、旧流路が実際に細々と残っているばかりか、太平川の本流には、長さ150mほどの隧道が描かれているではないか。石灰岩地形でもない限り、川が器用に地中を抜けていくとは考えにくい。どうやら自然の力による河川争奪ではなく、人間が水路を掘って流路を付け替える、房総半島で言う「川廻し」が行われたようだ。

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地主の「川廻し」
(左)平成18年更新図 (右)大正元年図、太平川の隧道と北行する旧流路が描かれる

しかし、謎はまだ残る。大正時代は隧道だったのに、なぜ今は青天井の谷になっているのか。地図の間違いでなければ、何か理由があるに違いない。

さっそく川岸の農道に出てみた。太平川は水制から先で早瀬となって、勢いよく正面の小渓谷へ落ちていく。雪解け水が混じる今は、思った以上に水量が豊かだ。一方、右手の水田の向こうでは、砥の粉色の地肌をところどころに覗かせた崖が緩い曲線を描く。もとは川の外縁、いわゆる攻撃斜面だったことをしのばせる。

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地主の「川廻し」 (左)太平川の堰 (右)隧道崩壊によって生じた小渓谷

60代とおぼしき男性が、近くの畑で作業をしていた。「あの川は昔、トンネルでしたか」と尋ねると、一瞬驚いた顔を見せながら頷いた。「確かに、子供のころはトンネルだった記憶がある。この地区は建設業をやっている人が多かったので、田を拡げるために自分たちで掘ったと聞いている。だが、山が脆いんで、崩れてしまったんだ」。

普段でもこの水量なら、大雨が降った後はきっと破壊的な水のパワーが生じるに違いない。柔らかい粘土層に掘られたトンネルは、早晩崩壊する運命にあったのだろう。謎解きをしてくれた男性に丁重に礼を言って、私たちは現場を後にした。

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旧流路は正面の土の崖沿いに右へ旋回していた。遠方に太平山を望む

地主のそれは、人の手による河川「争奪」だったが、次は、堀さんがめざしていた自然の争奪跡だ。野田集落の東、野田牧場へ上がる道で車を停めた。太平川は北から流れてきて、この付近で西へ向きを変えている。しかし、浅い谷が南へも続いている。つまり、ここでは野田集落を交点として、T字を寝かせた形で谷が広がっているのだ。そこで、昔は太平川が南流しており、後に河川争奪が生じて西へ流れるようになったという仮説が成り立つ。

典型的な争奪地形の場合、流路が変わると、水量が増した谷(野田のケースでは西の谷)では下刻が激しくなり、上流に向かって深い谷が形成されていく。ところが、野田の地形にはそうした展開が見られず、太平川は、ダイナミックな地形のドラマなど知らぬがごとく、終始ゆったりと谷を蛇行している。どうしてだろうか。

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野田の河川争奪
「風隙」~「繋沢」間が争奪前の谷筋

『地図の風景 東北編II 山形・秋田・青森』(そしえて、1981年、pp.115-117)で、籠瀬良明氏が成立過程を解説している。それによれば、その昔、太平川は南流していた(下図1)。しかし、野田の北東方からの崩壊、土石流、小扇状地といった土砂の押出しによって流れが遮られがちになり、一部が西の谷へ流れ込んだ(下図2)。この状況が続いて南側が閉ざされ、ついに全量が西へ流れるようになった(下図3)。つまり西の谷が力尽くで水流を奪ったのではなく、流路を塞がれた川が「自ら」西へ向きを変えた、というのだ。

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河川争奪の過程(解説は本文参照)
図1~3は「地図の風景 東北編II」p.117の図を参考にした

一段高い野田牧場へ上がれば、一帯を俯瞰できるのではないかと思ったが、斜面の植林が育ちすぎて視界がきかない。「南の谷頭がどうなっているか見たいんです」と堀さんが言うので、南の農道へ廻ることにした。谷頭(こくとう)は谷の最上流部のことで、そこでは水の力や風化作用によって、上流へ向けて谷が常に前進している。

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野田付近の180度パノラマ
右奥(北方向)に見える太平山から流れてきた太平川は、かつて左奥(南方向)へ流れていたが、河川争奪により現在は、正面の野田集落から奥(西方向)へ流れ去る

田んぼの先に、まだ冬の装いから目覚めていない雑木に囲まれて、深さが10m近くある窪地が姿を現した。これが谷頭だ。太平川に去られた南の谷(下注)では、下流の岩見川の基準面低下によって、谷頭の浸蝕力が強まっている。集水域がごく狭いのに、これだけの高低差を造る力があるとすると、将来、土砂の押出しとの闘いに打ち勝って、上流に谷を延ばしていき、最終的に太平川を奪い返すこともありうるのではないか(上図4)。そんな想像が脳裏をよぎった。

*注 無名の川だが、掲載の図では下流の地名を借りて「繋沢」としている。

上記『地図の風景』では、堀さんも共著者に名を連ねているが、「野田の河川争奪は籠瀬さんの担当だったので、私は来ていないんです。ようやく現地を見ることができてよかったです。」

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繋沢の谷頭
(左)旧流路(北方向)を望む、奥に太平山 (右)谷頭の上から南を望む
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谷頭を観察するメンバー

その南の谷に沿って県道を下りていくと、岩見川に三内川が合流するこの一帯の中心地、岩見三内だ。秋田駅西口からここまで、私たちが通ってきたルートでバス路線も維持されている。野崎の駐在所前の交差点にあるバス停は「貯木場前」。すでに新しい住宅が建ち始めているが、以前、道路の北側は、岩見川水系で産する木材を集積する岩見貯木場があった。貯木場には、奥羽本線の和田駅から森林鉄道(正式名「岩見林道」)が通じ、さらにここで三内支線が分岐して、北に広がる山林の中へ延びていた(下注、全体のルートは下図参照)。

*注 岩見林道(本線)29.4km、1923年開設、1967年廃止。三内支線24.9km、1921年開設、1967年廃止。大又支線13.4km、1933年開設、1967年廃止。その他延長線、分線がある。出典:林野庁「国有林森林鉄道路線データ」

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岩見三内の貯木場前バス停。正面奥の貯木場跡は払い下げられて宅地に

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秋田市東部の森林鉄道路線網、赤の矢印が岩見三内
1:200,000地勢図「秋田」(昭和35年編集)に加筆。原図は今尾恵介氏所蔵

私のもう一つのリクエストは、林鉄遺構の現状確認だった。三内支線は、貯木場から先で河岸段丘の崖際を走った後、上三内集落の北で三内川を渡っていた。その鉄橋は、平成18年更新図までは描かれているのに(下図参照)、2017年5月現在の地理院地図では消されている(下記サイト参照)。水害か何かで流失してしまったのだろうか。実態を自分の目で確かめたいと思った。

■参考サイト
上三内付近の1:25 000地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.728630/140.305000

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森林鉄道跡
1:25,000地形図(平成18年更新)に林鉄のルートを加筆
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1:25,000地形図(昭和13年修正測図)に描かれた林鉄のルート

私たちは一つ上流の小橋を渡って、廃線跡である農道からアプローチしたのだが、小橋の上から、遠くに朱色のガーダー橋が架かっているのが見えて、ホッとする。農道は、急曲線の築堤で鉄橋につながっていた。「トロッコは小回りが利くから、これぐらいのカーブは何ともないでしょう」「勾配はきつすぎるので、後で切り崩したのかもしれないですね」などと話しながら、軽便のレールを土留めに使った築堤を上る。

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上三内に残る三内支線の鉄橋

橋脚と橋桁(ガーダー)は、鉄道橋そのものだ。2連のガーダーの縦寸法が異なるのが気になるが、橋脚がそれに合わせて造られているので、もともと他からの転用品なのだろう。路面は一人分の幅しかないが、歩けるようにセメントを流し、簡易な欄干が取り付けてある。だが、橋の手前で、秋田市道路維持課のバリケードが通路を塞いでいた。通りかかった農作業帰りの女性に聞くと、「畑へ行くのに、車道は遠回りだからここを通ります。手すりが壊れて、通行止めになってますけど。直すのは来年になるらしいですよ。」

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縦寸法が異なるガーダー
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(左)鉄橋に向かう上流側の築堤 (右)築堤の土留めに古レールが使われていた

橋が地理院地図から消された理由は、それかもしれない。しかし、歩くには支障がなさそうなので、私たちも通らせてもらう。鉄橋の下を、緑味を帯びた水が川幅いっぱいに滔々と流れている。じっと見つめていると吸い込まれていきそうだ。対岸の築堤も切り崩されていたが、線路跡は明瞭で、集落から下りてくる小道と交差した後、緩いカーブを切りながら段丘崖の陰に消えていく。

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(左)鉄橋は対岸の農地へ行く歩道橋に (右)欄干の一部が破損
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三内川の上をそろりと渡る
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(左)築堤脇の神社。左奥に見えるバリケードの先が鉄橋
(右)反対側を望む。舗装道の右が廃線跡で、段丘崖の下へ続いている

築堤の脇に、八幡神社という小さな社があった。今日も天気に恵まれて、日なたはけっこう暑いのだが、見事な杉木立の下は、涼風が吹き通って心地よい。鳥居前の大きな石に腰を下ろして、昼食休憩にした。

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「ぼだっこ」おにぎり

朝、秋田駅のコンビニで見つけた「ぼだっこ」おにぎりを取り出す。中身を知らないまま買ったので、「これ何が入ってるんでしょうね」と皆も興味津々だ。私は漬物を想像していたのだが、かじってみたら、塩鮭の切り身が出てきた。後で調べると、ぼだっこの「ぼだ」は牡丹のことで、ベニザケの身の色から来ているそうだ。塩がよく効いているものの、梅干しや塩昆布と同じで、ご飯に添えればおいしく食べられた。「北海道で甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのを思い出しました」と私が言うので、真尾さんが丹羽さんにそのことを説明する(下注)。たとえコンビニであろうと、ご当地ものを探すのは楽しい。

*注 甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのは、夕張での話。「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

真尾さんは、アイヌ語地名の痕跡を探している。このすぐ上流に岩谷山(いわやさん)という、おにぎり形の山がある。地元では三内富士とも呼ばれているようだが、「モイワと同じように、神聖な山を意味する「イワ」と関係があるんではないでしょうか」と真尾さん。麓の砂子渕集落まで車を走らせた。実際、太平山との関わりで「お山かけ」(山岳信仰)の対象になっているためか、自然の植生が残されている。ヤマザクラや芽吹いたばかりの木々が、パステル調のグラデーションで山肌を彩り、ことのほか美しい。

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パステル調のグラデーションが美しい岩谷山

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岩谷山周辺の1:25,000地形図

その後、大又川流域へ移った。岨谷峡(そうやきょう)を越え、山間の小盆地にある鵜養(うやしない)集落へ。ナイはアイヌ語で沢の意で、漢字で「内」と書かれて、北海道の地名には頻出する。さっき通ってきた三内などもおそらくそうだが、「養の字を当てたのは珍しいです」。地名を記したものはないかと探したら、バス停の標識が見つかった。バス会社が撤退してしまい、ジャンボタクシーが巡回しているようだが、小さな集落に、鵜養下丁、鵜養中丁、鵜養上丁と3か所もある。

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鵜養 (左)鵜養下丁のバス停標識 (右)陽光を跳ね返す用水

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鵜養周辺の1:25,000地形図

静かな山里で動いているものと言えば、そよ風のほかに足もとを勢いよく流れる用水路の水ぐらいだ。堰板のところで流れが膨らんで、初夏の陽光をちらちらと跳ね返している。目覚ましい光景に出会ったわけでもないのに、きょう一日の行程が脳裏に蘇り、満ち足りた気分になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩見三内(大正元年測図、昭和13年修正測図、平成18年更新)、20万分の1地勢図秋田(昭和35年編集、平成5年編集)を使用したものである。

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