2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6名になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが的確で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
なお、軌道の正確なルートは不明のため図示していない
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。しかし、昭和8年図にはこの道はなく、代わりにそれより南に振れた形の直線路が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。残念ながら後の圃場整備によって、廃線跡の道は消失してしまった。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。

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2017年3月12日 (日)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった
(中)1860年代に標準軌各線やクロイソル軌道 Croesor Tramway が開通
(右)1880年代にWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways が開通
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(左)1900年代に南北を連絡する PBSSR の工事が始まるも中断
(中)1920年代に旧WHRが全通
(右)1940年代までに旧WHR、フェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway とも休止
作図に当たっては、M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" Second Edition, Ian Allan Publishing, 2006 およびWikipedia英語版各鉄道の項を参照した。

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置
1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。

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ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置
1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆

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S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台(上図中央左の unused abutments)
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台(上図中央右の unused abutments)
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。

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ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係
1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通
(右)2011年に新WHRが全通

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年1月 7日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)の旅を続けよう。

機関車リンダ Linda が牽く列車は、リウ・ゴッホ Rhiw Goch 信号所を後にすると、高い石垣で谷を渡り、苔むした森に入っていく。この辺りは、かなりの急斜面だ。1830年代という早い時期に、起伏の多い山地で20kmもの勾配線路を築いていくのは、大変な工事だったに違いない。

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フェスティニオグへ向けて列車は上り続ける

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タン・ア・ブルフ~ブライナイ・フェスティニオグ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

プラース・ホールト Plas Halt(ホールトは停留所の意)の手前に、「タイラーのカーブ Tyler's Curve」と呼ばれる半径2チェーン半(50.3m)の最小カーブが控えている。線路横に立つ「W」と書いた標識は、「警笛鳴らせ」の意味だ。車輪をきしませながら回り込む間、ドゥアリド川が流れるフェスティニオグ谷 Vale of Ffestiniog と、それを隔てて向かいに大きな山塊が見晴らせた。谷底で軒を寄せ合うマイントゥログ Maentwrog の村のたたずまいも美しい。

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(左)リウ・ゴッホ信号所を通過 (右)マイントゥログの村を遠望

列車は、続いてマイル湖 Llyn Mair のある支谷を巡り始める。その途中に、タン・ア・ブルフ Tan-y-bwlch (下注)の駅がある。森に囲まれたS字状の島式ホームに軽やかな跨線橋が架かり、FRでは一番絵になる中間駅だ。ミンフォルズから20分奮闘し続けてきた機関車は、しばらく停車して水の補給を受ける。帰りはここで列車交換も行われて、眠ったようなホームがいっとき生気を取り戻した。

*注 タン・ア・ブルフ(峠下の意)は、ふつう続けてタナブルフと読まれるが、分かち書きの地名は中黒でつないで表記した。

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タン・ア・ブルフ駅 (左)森の中の島式ホームと跨線橋 (右)列車交換(帰路写す)
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坂を上る列車はここで給水を受ける(帰路写す)
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眼下にマイル湖。線路は対岸の山を回ってきた

ガルネズトンネル Garnedd Tunnel(55m)の短い闇を経て、しばらくはカンブリア山地を見渡す高みを走っていく。すでに谷底との標高差は160m以上あり、開いた窓から強めの風が入ってくる。タン・ア・ブルフから10分、そろそろ次の見どころ、ジアスト Dduallt のオープンスパイラル(ループ線)だ。ジアストの駅を過ぎると、線路は右へぐんぐん回り込み、今通った線路の上を乗り越える。そしてモイルウィントンネル Moelwyn Tunnel(262m)を介して、北側のアストラダイ Ystradau の谷へ抜けていく。

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フェスティニオグ谷を隔ててカンブリア山地の眺望が開ける
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ジアストのオープンスパイラル (左)ジアスト駅 (右)駅を出ると右へぐんぐん回り込む

あたかも鉄道模型を実地で再現したような構造だが、これはオリジナルのルートではない(下図参照)。1836年の開通当初は、インクライン(斜行鉄道)でこの山を越えていた。1842年に、山を貫く長さ668mの(旧)モイルウィントンネルが完成して、産業鉄道の時代はこのトンネルを行き来した。スパイラルになったのは、意外にも保存鉄道になってからで、正確にいうなら、鉄道を復元するためにわざわざ建設されたのだ。その理由を知るには、少し20世紀のFRの歩みを振り返る必要があるだろう。

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ジアスト~タナグリシャイ間の路線の変遷
(左)開通当初はインクラインで山越え("Old Tramway" と注記)
   旧モイルウィントンネルの完成で全線重力運行が可能に
    1:25,000地形図 SH64 1953年版に加筆
(右)現在は、貯水池の水位を超えるまでスパイラルで高度を稼ぐ
    1:25,000地形図 OL18 2015年版に加筆 © Crown copyright 2017

ウェールズのスレート産業が絶頂期を迎えたのは1880年代だ。世紀が変わると、タイルのような新素材の普及や、世界大戦に起因する労働力不足と販路の途絶、経済不況など、いくつも悪条件が重なって、凋落の傾向がはっきりしてくる。フェスティニオグでも採石場の閉山が相次いだため、ついにFRは1939年9月に旅客輸送を中止、1946年8月にはスレート輸送も断念せざるを得なくなった。鉄道施設が撤去を免れたのは、路線の建設を許可した19世紀の法律に、休廃止に関する規定がなかったからに過ぎない。

鉄道愛好家のグループが鉄道の復元に取組み始めたのは、それから5年後の1951年のことだ。まず1954年にボストン・ロッジ工場で機関車の修復に着手し、翌55年にはザ・コブ(築堤)の区間で保存走行を開始した。線路は山に向かって段階的に復旧されていき、1968年にはここ、ジアストまで到達した。

しかし、そこからが難関だった。鉄道が休止している間に、線路が通るアストラダイの谷では、揚水式水力発電所の建設計画が進められていたからだ。谷をダムで締め切って調整池にしたため、線路は2km近くにわたって水没してしまった。モイルウィントンネルの北口も使えなくなり、より高い位置にトンネルを掘り直す必要があった。足掛け18年2か月に及ぶ長い法廷闘争で英国中央電力庁CEGBから補償金を獲得した彼らは、ボランティアを動員して約4kmの新線建設を敢行した。これは1978年に最終的に完成し、保存鉄道は調整池の北端にあるタナグリシャイ Tanygrisiau まで延長されたのだ。

列車がループを回りきって新トンネルに入る直前に、旧線を載せていた築堤が右車窓の下方に見える。オープンループで稼いだ高度はわずか11mに過ぎないが、これがなければFRの復元は尻切れトンボで終わっていたに違いない。

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ジアストのオープンスパイラル
(左)今通って来た線路を乗り越える。左奥にジアスト駅が見える
(右)石積みが残る旧線の築堤

トンネルを出ると、その調整池が右手に姿を見せる。きょうは水位が下がっていたので、旧トンネルに突っ込む廃線跡も確認できた。列車は、発電所の建物の裏をかすめた後、坂を下りてタナグリシャイ駅に入っていく。ここでも列車交換があった。先頭に立っていたのは、同じダブル・フェアリーで赤塗装の12号機「デーヴィッド・ロイド・ジョージ David Lloyd George」だ。

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発電所の調整池の向こうに、スレートの採掘跡が残る山々
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(左)池の底に旧線跡が露出。旧トンネルの入口(封鎖)も見える
(右)揚水式発電所の裏手をかすめる

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タナグリシャイ駅
(左)駅の手前にあるクーモルシン滝 Cwmorthin Waterfall
(右)最後の列車交換は赤塗装の12号機と

いよいよ次が終点になる。最後の区間は、大きく崩された山肌や赤鼠色の巨大なボタ山を眺めながら、ブライナイ・フェスティニオグの町の方へゆるゆると向かう。見ての通り、ここはスレート鉱山の町だ。長い地名はフェスティニオグの上手(かみて)という意味で、本村であるスラン・フェスティニオグ Llan Ffestiniog から約4km北に位置する。

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(左)ボタ山を眺めながら行く
(右)左はディナス Dinas 方面の引込線。正面はグラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫

かつて町がどれだけ栄えていたかは、ここに3方向から鉄道が集中したことからも想像できる。ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷図(下図)をご覧いただきたい。

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ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷

一番乗りしたのは、もちろんフェスティニオグ鉄道だ。北を向いているのが本線で、東へ出ているのは支線の扱いだった。客扱いを始めた1865年から数年間、列車は、本線上のディナス Dinas 駅と東支線のディフス Duffws 駅へ交互に通っていた(図左上、1860s の欄)。しかし町から遠いディナスが1870年に休止となった後は、全旅客列車がディフスを終点とするようになった(下注1)。一方、1868年にFRと同じ軌間でフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道 Festiniog and Blaenau Railway が開通し(下注2)、FRディフス駅の近くに駅が造られた。

*注1 FRの本線もディナス駅も、その後成長したボタ山の下に埋没した。
*注2 ブライナイ・フェスティニオグ~フェスティニオグ Festiniog 間。で、鉄道はフェスティニオグ本村の周辺で採掘されたスレートを輸送する目的で敷かれた。FRと直通し、貨車もFR所有で、実質的にFRの支線だった。なお、当時は "Ffestiniog" ではなく "Festiniog" と綴った。

狭軌の路線網しかなかったこの町に、1879年、標準軌のロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 London and North Western Railway が北から到達した(図左中)。現在のコンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line だ。こちらもスレート輸送が目的で、わざわざコンウィ川の河口デガヌイ Deganwy に自前の積出し港を築いての進出だった。1881年に町の北西に本駅が完成し、FRも自社線上に乗換駅を設けた。

間を置かずして1883年には、ライバルたるグレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway も進出を果たす。バラ=フェスティニオグ鉄道 Bala Festiniog Railway という別会社を立てて、既存のフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道を買収し、改軌の上で接続したのだ。駅の位置は狭軌時代を踏襲したので、FRはここにも乗換え用のホームを用意した。

FRのディフス駅は1931年に休止となり(図左下)、グレート・ウェスタンとの乗換駅がその代替とされた。スレート輸送の衰退で1939年にFRの旅客輸送は途絶してしまうが、大手2社の路線はこの地に残った。

*注 ディフス駅の旧駅舎は当時の位置に残っている。

第二次世界大戦後、鉄道の国有化が実施され、標準軌線は英国国鉄 British Railways となる。それに伴い、旧ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン(当時はロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ鉄道 London, Midland and Scottish Railway)の駅は北駅 Blaenau Ffestiniog North、旧グレート・ウェスタンは中央駅 Blaenau Ffestiniog Central と改称された(図右上)。後者は1960年に休止となったものの、1963年にフェスティニオグ本村の南に建設が決まった原子力発電所への物資輸送用として一部が復活し、北駅から接続線が造られた(図右中)。もとよりこれは貨物専用であり、旅客輸送は従来どおり、北駅を終点としていた。

復元されたフェスティニオグ鉄道が、数次の延長を経て、鉱山町に帰ってきたのは1982年だ(図右下)。これに合わせて旧 中央駅の位置に、新たに国鉄とFRの共同使用駅が設けられ、開業式が華々しく催された。これが、現在のブライナイ・フェスティニオグ駅だ。ジアストのオープンスパイラルと同様、終点駅もまた保存鉄道のために造られた施設なのだ。

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ブライナイ・フェスティニオグにあった旧駅の位置
1:25,000地形図 SH64 1953年版、SH74 1953年版 に加筆

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終点ブライナイ・フェスティニオグ駅に到着

小柄なリンダが1時間10分かけて牽いてきた列車は、グラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫を見ながら右に大きくカーブした後、その新駅に進入する。到着は定刻の15時40分。やはり遅れていたのではなく、途中駅の時刻表がおおまかだったようだ。国鉄(現 ナショナル・レール)コンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line(下注)のホームは片側1線、対するFRは島式ホームの両側を使っている。線路幅は並ぶと大人と子供ほども違うが、FRのホームにはしっかり屋根がかかり、簡素ながら切符売り場兼売店の入った建物もある。先駆者のプライドを示しているのかもしれない。

*注 コンウィ・ヴァレー線は、この路線の観光開発にあたり、運行会社のアリーヴァ・トレインズ・ウェールズや沿線自治体が用いている線路名称。

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跨線橋から見た終着駅。右の線路は標準軌のコンウィ・ヴァレー線
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(左)線路幅は倍以上違う(597mmと1435mm) (右)構内踏切を渡れば町の中心部へ

ただ、利用実態は、コンウィ・ヴァレー線が地元の一般客、FRはほとんど観光客で、まったく異なっている。そのため、時刻表上も相互連絡しているとはいいがたく、この日もFRの列車が滞在中、隣のホームに標準軌の気動車は現れなかった。

実はFRに並行するポースマドッグとの間には路線バス(1B系統、下注)が1時間ごとに走っており、コンウィ・ヴァレー線に接続しているのはそちらのほうなのだ。一時は狭軌の伝統が途絶した鉱山町に、今は再びナロー蒸機の鋭い汽笛がこだまするようになった。せっかく便利な乗車券もできているのだから、うまく周遊旅行が組めるように、鉄道各社も協調してくれるといいのだが。

*注 Express Motors http://www.expressmotors.co.uk/ が運行。

次回は、コンウィ・ヴァレー線を北上して、スランディドノへ向かう。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Ffestiniog Railway, A Traveller's Guide" Ffestiniog Railway Company, 2016および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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2016年12月 4日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II

第一次世界大戦の戦後処理では、ベルギーが最後まで主権の行使にこだわったフェン鉄道だが、その後どのように使われたのだろうか。

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レートゲン(レートヘン)駅、ザンクト・フィート方向(2008年)
Photo by Les Meloures from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

まず軍用面では、荷主がベルギー軍に代わったものの、ドイツから接収したエルゼンボルン Elsenborn 演習場に向けて、最寄りのズールブロット Sourbrodt 駅まで、軍用列車が引き続き運行された。ズールブロットから3km離れたキャンプまでは、軌間600mmの道端軌道が延びていた。また、これまでと違って、貨物列車がオイペン Eupen 方面から来るようになったため、ラーレン Raeren 駅での折返しの手間を省く目的で、同駅西方に駅構内をバイパスする連絡線が設けられた。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線

その一方、産業鉄道としての役割は、大戦後の国内外における情勢の変化のために大きな打撃を受けた。そもそも鉄道が通過する地域はほとんどが山間部で、域内の輸送需要は限られている。主要顧客は、北と南の鉱工業地帯を発着する通過貨物だった。ところが南部では、ロレーヌ(ロートリンゲン)がフランスに返還されてしまい、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱して、フランスへの依存を強めていった。何度も税関を通らなければならない貨物輸送は、とうてい現実的ではなかった。1926年には優良顧客であったアーヘン郊外ローテ・エルデ Rothe Erde の製鉄所も閉鎖された。

1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招くことになった。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のために迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、ラーレン以南の単線化に踏み切った。

1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー再占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行権も同年6月にドイツ国営鉄道 Deutsche Reichsbahn の手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。30年前の事態の再来だった。

ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。しかし結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設が甚大な被害を蒙った。中でも鉄道橋は、1か所を残してすべて通行妨害の目的で壊されたといわれる。

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破壊された高架橋(ビュートゲンバッハ付近)
Photo from wikimedia

ドイツ軍の撤退後、順次復旧工事が進められたものの、運行再開は1947年までずれ込んだ。また、トンネル内部が崩壊した南のロンマースヴァイラー Lommersweiler ~ロイラント Reuland 間や、1910年代に軍事目的で建設された一部の支線は放棄され、二度と列車が走ることがなかったのだ。

産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道であるが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。自動車が陸上交通の主流となった1950年代以降、地方の鉄道路線に降りかかった運命はどれも似たようなものだ。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。

飛び地を従えたラーレン~カルターヘルベルク Kalterherberg 間では、定期の旅客列車はついに設定されなかった。貨物列車のほうは、各駅を回る便が週3回のペースで細々と存続した。レートゲン(レートヘン)Roetgen で材木や肥料が、ランマースドルフで調理用ストーブ工場からの製品が積出されるなど、控えめながら安定した物流が残っていたのだ。ベルギー軍もまた、演習場最寄りのズールブロットを発着する軍用列車を走らせていた。1974年に発効した両国間の新たな協定では、この区間で貨物の取扱いを引き続き実施することが確認される一方で、旅客列車の運行は特別な場合に限定された。すなわち、双方に定期旅客輸送を復活させる意思がないことを前提に、1922年の合意事項を簡素化したのだった。

しかし、この協定の効力も長くは続かなかった。線路状態の劣化がかなり進行しており、ベルギー国鉄SNCBが、今後の運行継続は困難であると表明したからだ。ズールブロットへの軍用列車は南回りで代替することになり、1988年8月限りで運行を終えた。民生用の定期貨物も1989年6月限りで姿を消した。そして1990年、用済みとなったラーレン~ズールブロット間の土地施設は、国鉄から地元自治体に移管されてしまった。すでにウェーム Waimes(ヴァイスメス Weismes)から南の区間は1982年までに廃止済みで、1986年に線路も撤去されていた。この結果、フェン鉄道「本線」の営業は、後述するラーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポン Trois-Ponts 方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmの断片と化してしまった。

なお、この時点でラーレン以北が廃止を免れた理由は、別の役割が与えられていたためだった。ベルギーのアントヴェルペン Antwerpen 港に陸揚げされ、ドイツに運ばれる大型軍用車両などの例外的な貨物の通路としての役割だ。ベルギーからアーヘンに至る路線は別に2本あるのだが、どちらも両国国境の下をトンネルで抜けており、大型貨物は建築限界に抵触するため通行が不可能だった。そこで、遠回りにはなるがトンネルのないフェン鉄道が利用されていたのだ。

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ボッツェラールトンネルの4線軌条

しかしまもなく、2本の別ルートのうち、モンツェン Montzen ~アーヘン西駅 Aachen West ルートにあるボッツェラールトンネル Botzelaer Tunnel(ドイツではゲンメニッヒトンネル Gemmenich Tunnel と呼ぶ。長さ870m)で改良工事が開始された。もともとトンネル内部は複線だったが、アーヘン方向のみ、天井の高い中心部に寄せて、特殊貨物専用の第3の線路が増設されたのだ。この4線軌条化により、トンネル内部は6本のレールが並ぶ一種のガントレット(単複線)になった。トンネルの入口に第3の線路への分岐があり、ここから列車が進入すると、通行に支障する対向の線路には停止信号が出る。1991年にこの施設が完成したことで、オイペン~ラーレン~国境間もまた存在理由を失ってしまった。

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ボッツェラールトンネル
(左)ポータルの直前で左の線路から特殊貨物用線路が分岐
(右)内部は6本のレールが並ぶ
Photo by Wi1234 from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

フェン鉄道廃止年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ブラント Brand :1984年8月31日
・ラーレン Raeren ~ズールブロット Sourbrodt :1989年6月30日
・ズールブロット Sourbrodt ~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes):2007年1月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1982年9月28日
・ザンクト・フィート~ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~シュタイネブルック Steinebruck :1954年

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー~ロイラントReuland:1944年
・ロイラント~トロワヴィエルジュTroisvierges:1962年

【支線】
・シュトールベルク=ミューレ Stolberg-Mühle ~ヴァールハイム=シュミットホフ Walheim-Schmithof :1991年6月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :2007年1月1日

なお、日付は最後の営業日、運行廃止日、法的廃止日が混在している可能性がある。

飛び地を巡るルートは、これによって永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せるシンボルになることだった。国鉄による路線廃止の意向を受けて、ベルギーのドイツ語共同体を包括する地方政府が、保存鉄道への転換を図ろうとしたのだ。

欧州地域開発基金 ERDF からの交付金を得て線路が再整備され、1990年からベルギーのフェン鉄道協会 belgische Vennbahn V.o.E. の手で、観光列車の運行が開始された。5月から10月の日祝日に、国鉄の定期旅客列車が通じているオイペン Eupen を始発駅として、ラーレン、ヴァイヴェルツまで進み、東のビュリンゲン Büllingen もしくは西のマルメディ、トロワ・ポン Trois-Ponts に達するコースだった。ディーゼル機関車のほかに蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。1994年にはドイツ側のフェン鉄道協会 deutsche Vennbahn e.V. によるシュトールベルク Stolberg ~ラーレン~モンシャウ間の運行も始まった。

ところが、沿線にあったプロイセン時代の地下坑道の崩壊で、路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、協会の資金不足も手伝って、2001年をもってこのイベントは幕を閉じる。その後しばらく鉄道施設は放置されていたが、2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク RAVeL, Réseau autonome de voies lentes に組み込むことが発表された。

こうして、時代に翻弄され続けたフェン鉄道の苦難の歩みは、過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。すでにラーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。一方、カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、現地でレールバイク Railbike と呼ぶ軌道自転車(ドライジーネ Draisine)を使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。

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レールバイクが並ぶカルターヘルベルク旧駅
Photo by L.1951a from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。記事では、Bernhard David "Die Vennbahn", Lokrundschau #195, pp.46-51、および参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版、フランス語版の記事(Vennbahn, Vennquerbahn)を参照した。

■参考サイト
Vennbahn Online http://www.vennbahn.de/
The Vennbahn: Belgium’s railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
Eisenbahnen in Aachen und der Euregio Maas-Rhein
http://www.vonderruhren.de/aachenbahn/
Vennbahn.eu http://www.vennbahn.eu/
Rail Bike des Hautes Fagnes http://www.railbike.be/

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 ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

2016年11月27日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

ドイツとベルギーが接する地域の詳しい地図を眺めた人は、奇妙な国境線が引かれているのに気づくだろう。下の地図はベルギー官製1:50,000地形図の一部だ。縦に走る+(プラス)記号の列が両国の国境線で、左側がベルギー領、右側がドイツ領になる。

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ドイツ側へブーメラン状に割り込むベルギー領
ベルギー官製1:50,000地形図 35-43 Gemmenich-Limbourg 1988年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016

鉄道は、日本のJR記号と同じ白黒の旗竿で描かれているが、図の中央でベルギー側からドイツ領内に割り込んでいったかと思うと、ブーメランのような軌跡を描いて戻ってくる。これは地形の起伏を避けて迂回しているのだが、奇妙なことに、ドイツにはみ出した部分は、終始両側に国境線の記号を伴っている。つまりここは、鉄道敷地だけがベルギー領なのだ。そのため、この回廊にブロックされる形で、ドイツの領土は「本土」から切り離されて飛び地になっている。飛び地はまだ南方にも続き、全部で5か所存在する。

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この不思議な回廊は、もとはプロイセン(当時すでにドイツ帝国の一部)の鉄道の線路敷だった。それが、第一次世界大戦後の国境を画定する際に、ベルギーの強い主張で帰属が変えられた経緯を持っている。

鉄道は、強風と冷たい霧雨が襲う森と湿原の国境地帯、ホーエス・フェン Hohes Venn(高フェンあるいはフェン高地)を越えていく。ドイツ語でフェンバーン Vennbahn(フェン鉄道)と呼ばれるのはそのためだ。それにしてもなぜ、ベルギーは鉄道の敷地の取得にこだわったのだろうか。その理由を理解するには、この鉄道路線に託された使命が何であったか、そして時代とともにそれがどのように変化していったのかを追跡する必要があるだろう。

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1919年以前のフェン鉄道と旧国境線
表示した他の路線は当時未完成のものを含む

ともすれば飛び地の区間にスポットが当てられがちだが、1882年に認可を得たフェン鉄道の計画は、アーヘン Aachen とアイフェル Eifel 地方のプリュム Prüm を結ぶ、延長100km以上の大規模な路線だった。本線に加えて北部地域で、ラーレン Raeren からオイペン Eupen に至る支線、ヴァールハイム Walheim からシュトールベルク Stolberg に至る支線が付随していた。

次いで、ルクセンブルク政府との協定により、同国のトロワヴィエルジュ Troisvierges(ドイツ語ではウルフリンゲン Ulflingen)に至る連絡線が追加された。後に、近傍の町への支線も建設されて、一帯のネットワークが形成されていった。右図に、一帯の鉄道路線図を当時の国境線とともに示したが、フェン鉄道のルートが、ベルギー領内に一切かかっていないことに留意したい。

鉄道は、最小曲線半径300m、最急勾配16.7‰(1/60)で設計された。最初に開通した区間は、アーヘン郊外のローテ・エルデ Rothe Erde からフェン高地の東側にあるモンシャウ Monschau(当時はモンジョワ Montjoie)までで、1885年のことだ。その後、下表のように順次延伸され、1889年にはトロワヴィエルジュで首都ルクセンブルク Luxembourg へ通じる路線に接続を果たして、計画はいったん完了した。

フェン鉄道開通年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ラーレン Raeren ~モンジョワ(モンシャウ) Montjoie (Monschau) :1885年6月30日
・モンジョワ(モンシャウ)~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes) :1885年12月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1887年11月28日
・ザンクト・フィート~ブライアルフ Bleialf :1888年10月1日
・ブライアルフ~プリュム(アイフェル)Prüm (Eifel) :1886年12月15日

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~トロワヴィエルジュ(ウルフリンゲン)Troisvierges (Ulflingen) :1889年11月4日

【支線】
・ヴァールハイム Walheim ~シュトールベルク Stolberg :1889年12月21日
・オイペン Eupen ~ラーレン:1887年8月3日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :1885年12月1日

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フェン横断鉄道 Vennquerbahn のビュートゲンバッハ Bütgenbach 西郊を走る観光列車(2004年)
Photo by Jan Pešula from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

鉄道がひたすら南を目指した理由はほかでもない、北と南にあるドイツ屈指の産業地帯を最短距離で結ぶためだった。貨物列車は、北のアーヘン近郊で産出する石炭やコークスを南のルクセンブルクやロレーヌ地方(当時はドイツ領ロートリンゲン Lothringen)にある製鉄所へ運び、帰路はロレーヌの鉄鉱石や粗鋼をルールの工業地帯などに送り込んだ。輸送量は順調に増加し、産業鉄道としての重要性は年を追うごとに高まった。1894年から複線化が開始されたことがそれを実証している。

ただし、輸送力の増強にはもう一つの隠された意図があった。というのは、普仏戦争(1870~71)以来、ドイツはフランスと常に緊張関係にあり、西部国境線の軍備増強を着々と進めていたからだ。

ドイツの宰相ビスマルクは牽制策として、他国との協調関係を固めることによって、フランスを国際的に孤立させる政策を展開した。しかし、1890年に彼が職を辞した後、情勢は明らかに変化した。フランスはロシアに接近し、1894年に露仏同盟を結んだ。ドイツは、中東政策の対立でロシアとの関係を悪化させるなか、有事の際に東と西の二正面作戦を迫られることを覚悟した。

戦況を有利に導くには、地理的に近い対仏戦をできるだけ短い期間で完結させ、兵力を速やかに対露戦線へ反転させる必要がある。しかし、独仏が直接国境を接するアルザス・ロレーヌ周辺は、フランス側の守備も固く、突破に手間取る可能性が高かった。そこで対仏戦略を定めたシュリーフェン・プランは、軍備の比較的手薄な中立国ベルギーを突破して、北からフランスに迫ろうとしていた。

ベルギー国境に沿って南下するフェン鉄道は、そのための補給路の一部と位置づけられた。複線化と並行して、荷解きのための側線整備や待避線の延長など、軍用列車の運行を想定した駅機能の拡張が実施された。また、1910年代になると、フェン鉄道を軸にした東西方向の連絡支線の整備も急がれるようになった。フェン横断鉄道 Vennquerbahn と通称されるヴァイヴェルツ Weywertz ~ユンケラート Jünkerath 間をはじめ、ヴィエルサルム Vielsalm ~ボルン Born、ザンクト・フィート St Vith ~グーヴィ Gouvy などは、このときに開通したものだ。これらは、初めから複線で建設され、分岐点の多くは本線運行に支障がないよう立体交差とされた。

1914年、ついに第一次世界大戦が勃発する。ドイツ軍はかねての計画に基づいてベルギーに侵攻し、武力占領を開始した。鉄道では、兵士や軍事物資の集中輸送が実施された。30年をかけて築かれたフェン鉄道を中心とする路線網が、面目を果たした時期だった。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線
図中の枠は下の拡大図の範囲を示す

しかし、潜水艦による無差別攻撃などに反応したアメリカの参戦によって、ドイツは守勢に立たされていく。国内の混乱もあって1918年11月、連合軍との休戦協定に署名し、4年に及ぶ戦争は終結した。戦後処理のために1919年6月にヴェルサイユ条約が調印されたが、このことはフェン鉄道の運命を一変させた。第27条によりベルギーとの間の国境線が東に移動し、鉄道の沿線であるオイペン郡 Kreis Eupen とマルメディ郡 Kreis Malmedy がベルギーに帰属することになったからだ。

ベルギーでは新たに獲得した地域を、東部地方 Cantons de l'Est / Ostkantone と呼んだ。新国境はフェン鉄道のヴァールハイム Walheim とラーレン Raeren の間を通ることになったため、両駅は税関をもつ国境駅とされた。

ところが、ルートの北部には、まだドイツ領を通過する区間が残っていた。この帰属が次の課題として浮上したのだ。ヴェルサイユ条約第372条では、同じ国の2つの地域間の連絡鉄道が他国を横断するか、もしくはある国からの支線が他国に終点を持つ場合、稼働の条件は関係する鉄道管理者間の協定で定められるとしていた。したがって、フェン鉄道についても、ドイツ領に残っている区間を含めてベルギー側の運営とすることは可能だった。しかし、ベルギーはさらに踏み込み、条約によって得られた領土の南北を連絡するのだから、この鉄道敷地は自国領になると主張したのだ。

当時は自動車交通も未発達で、鉄道の果たす役割は絶大だった。また、戦争で中立を侵犯されたベルギーは、まだドイツに強い警戒心を持っていた。鉄道の運行を将来にわたって保証するには、敷地に対して主権を行使することが不可欠の条件だったのだ。

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飛び地付近の拡大図
図中の1~5がドイツ領の飛び地

条約の第35条には、経済的要因と交通手段を考慮しながら両国間の新たな境界線を調停する国際調査委員会の設置がうたわれている。鉄道管理者間で協定の条件に関して合意に達することができない場合、先述の第372条で、この委員会がその相違点を裁定するものとしていた。課題の処理を委ねられた委員会は、結局ベルギーの主張を認め、1921年11月に鉄道の敷地はベルギーに割譲されることになった。冒頭で述べたように、地形の起伏の関係で、線路はベルギーに移ったオイペン郡とドイツに残るモンシャウ郡の間を蛇行して走る。そのため、沿線ではドイツの領土が分断されて、いくつもの飛び地が生じた(下注)。

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コンツェン地内の最小飛び地(上の矢印、上図の番号3)と
ベルギー領に囲まれたドイツ領の道路(下の矢印、上図の番号4の上端)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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ドイツ領モンシャウを横断するベルギー領の線路(矢印はモンシャウ旧駅)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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同じ場所のドイツ官製1:50,000
ここでも鉄道(「貨物列車のみ」と注記)が国境記号を伴って描かれる
L5502 Monschau 1988年版
(C) GEObasis.nrw, 2016

*注 1922年に画定された飛び地は、その後、一部で帰属変更が行われた。詳細は以下の通り。

レートゲナー・ヴァルト Roetgener Wald (右図の2、変遷は下左図参照)
1922年11月 国境画定。中央部はベルギー領で、東西にあるドイツ領飛び地は貫通道路(258、399号線)でつながっていた。
1949年4月 貫通道路もベルギー領とされたことで、ドイツ領飛び地は完全に二分。
1958年8月 中央部と横断道路(258号線の西半分と399号線)がドイツに返還。南北道路(258号線の南半分)はベルギー領のままで、国内道路網と接続のない道路となっている。

ヘンメレス Hemmeres (ザンクト・フィートの南方にあった6番目の飛び地。下右図参照)
1922年11月 国境画定で線路用地がベルギー領とされたため、オウル(ウール)川 Our と鉄道に挟まれた土地がドイツ領飛び地に。
1949年4月 飛び地もベルギー領とされたため、ドイツ領飛び地は解消。
1958年8月 鉄道の区間廃止により、飛び地と線路用地がドイツに返還。

レートゲナー・ヴァルト
Roetgener Wald
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ヘンメレスHemmeres
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薄緑の部分が1922年確定のドイツ領
線路はベルギー領のため、西側に飛び地が生じた
地名はヘンマース Hemmers と表記
ドイツ官製1:25,000
3311 St Vith、3312 Bleialf(いずれも1895年版)

異例の措置は、ドイツ側の周辺住民を大いに当惑させた。当該区間には北からレートゲン(レートへン)Roetgen、ランマースドルフ Lammersdorf、コンツェン Konzen、モンシャウ Monschau(1918年にフランス語由来のモンジョワ Montjoie から改称)、カルターヘルベルク Kalterherberg の5つの駅が含まれていた。飛び地となった土地には農地や森林だけでなく、集落も立地している。鉄道の両側に住む者は踏切、すなわち国境を越えて行き来できるのか。アーヘンの産業地帯に通勤する住民は、鉄道を今までどおり利用できるのか、運賃はどの国の通貨で支払うのか。委員会はその調整にさらに1年を費やし、次のように取り決めた。

列車運行に関しては、

・ベルギー国鉄が全ての列車を運行する。
・各駅停車列車は、区間の両端で両国の税関検査を行う。
・通過列車あるいは通過車両は、区間走行中、施錠する(いわゆるコリドーアツーク Korridorzug)。

また、鉄道利用に関しては沿線住民に最大限の配慮を払った。

・鉄道敷地(ベルギー領)の通行や横断に関しては、ベルギーの警察や税関の審査を受けない。
・駅名は(沿線住民の言語である)ドイツ語とする。
・駅窓口に関するドイツの鉄道規則は、ベルギー国鉄でも準用する。
・区間各駅からドイツ国内へ向かう旅行者には、ドイツの国内運賃制度を適用する。
・運賃支払いは両国の通貨が使用できる。
等々。

これらの特別条項を盛り込んだ合意は1922年11月に成立し、フェン鉄道は正式に、北のラーレンから南で再び(新)国境を越えるシュタイネブリュック Steinebrück までが、ベルギー国鉄の路線となった。

続きは次回に。

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。

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2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

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鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

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夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

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1971~72年の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

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(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

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(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
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がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさんほか総勢8名。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

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夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

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廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

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夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。Oさん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書「続 北海道 鉄道跡を紀行する」(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、「北海道 地図を紀行する 道南・道央編」北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

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旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

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オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
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(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
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(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

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志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

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(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

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(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」とKさんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

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(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

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道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

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夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

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 開拓の村の馬車鉄道

2016年7月23日 (土)

サンマリノへ行く鉄道

長靴形をしたイタリア半島の東の付け根に近いところに、その国はある。地図で見ると、国土はイタリアの中にぽっかり浮かんでいて、似た境遇のバチカン市国などとともに、エンクラーヴェ Enclave(包領)と呼ばれる特異な地理環境の独立国だ。正式国名をサンマリノ共和国 Serenissima Repubblica di San Marino(下注)といい、アドリア海沿岸のリミニ Rimini の町から内陸へ約10km走ると、その国境に達する。豊かに波打つ丘陵地を突き破るようにそそり立つティターノ山 Monte Titano、その上に、古くからある町の城壁が見えるはずだ。

*注 イタリア語の発音に従えばサン・マリーノだが、外務省の表記に倣ってサンマリノと記す。

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サンマリノ市街のあるティターノ山を遠望
Photo by Annunziata from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現在、この国に公共交通機関だけで向かおうとすると、FS(旧 イタリア国鉄)線でリミニまで行き、駅前で路線バスを待つしかない。しかし、第二次世界大戦で中断されるまで、リミニ駅の1番線にはサンマリノ行きの電車が停まっていた。白と空色のツートンカラーをまとう車体を見れば、誰しも目的地の国旗を思い浮かべたに違いない。

路線はリミニ=サンマリノ線 Ferrovia Rimini-San Marino といい、31.5kmの長さがあった。国鉄線の一つであり、2国間を連絡するという意味で国際路線でもあったが、軌間はイタリアのメーターゲージである950mm軌間で、幹線との直通は想定されていなかった。急勾配路線のため、最初から直流3000Vで電化され、TIBB社の子会社カルミナーティ・エ・トセッリ Carminati & Toselli 製の電車4両、AB01~04が運行を担った。

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復元された電車AB03
Photo by Aisano from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

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サンマリノに鉄道が通じたのは古い話ではない。建設認可は1913年に下りていたものの、話が進んだのは、ムッソリーニのサンマリノ公式訪問がきっかけだ。1927年に二国間協定が締結され、建設費は全額イタリア政府の資金で賄われることになった。翌28年12月から建設工事が始まり、4年後の1932年6月、市民の歓喜に包まれて開通式が挙行された。

しかし、鉄道が市民に貢献した時間はあまりに短かった。というのも、第二次世界大戦末期の1944年6月26日、連合軍によって空爆の標的にされたのだ。サンマリノは1920年代からイタリアの影響でファシスト政権下にあったとはいえ、戦争に対しては中立を宣言していた。しかしドイツ軍が越境して備品や弾薬を集積しているという誤った情報が伝わり、攻撃の対象になった。鉄道施設が破壊されたため、7月4日から全線で運行が停止した。列車が来なくなったトンネルはイタリアから逃れてきた人の臨時の避難所になり、チフスが流行した秋には、車両も患者を収容するためにあてがわれた。

戦後、鉄道復旧の要望は多々あったものの、当局の動きは鈍く、部分的な修復が行われるにとどまった。道路整備が優先された時代であり、後述するように線形の制約が大きいこの路線には将来性を見出せなかった、というのが本音だろう。そのうち1958~60年に、イタリア側で道路用地に転用するために線路の撤去が始まり、市民の一縷の望みも絶たれた。結局電車は12年間走っただけで、2両は博物館の展示品になり、2両は他の鉄道に売却されてしまった。

路線の起点リミニ国鉄駅は標高3m、一方、終点のサンマリノ駅は標高643mだ。この大きな高低差をレールと車輪の粘着力だけで克服するために、ルートはすこぶる変化に富んでいる。地形的に見ると、平地に直線を引いただけのリミニ~ドガーナ Dogana 間、山の裾野を蛇行しながら上るドガーナ~ボルゴ・マッジョーレ Borgo Maggiore 間、山本体にとりつき、ぐるぐる巻いていく最終区間の3つに分けられるだろう。いったいどんなところを走っていたのか、当時の地形図や空中写真で追ってみることにしたい。

*注 駅の標高は、同鉄道の保存団体「白青列車協会 Associazione Treno Bianco Azzurro」の資料に拠ったため、地形図記載の標高数値とは若干の相違がある。

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リミニ=サンマリノ線路線図

第一区間(リミニ~ドガーナ)

リミニを出て約1.2km、最初の停留所リミニ・マリーナ Rimini Marina までは、アンコーナ Ancona 方面の国鉄幹線に沿って走る。リミニ・マリーナにはこの路線の車庫と修理工場が置かれ、運行の拠点になっていた。構内は種苗園に転用されたが、駅舎は今も残されている。線路は右に大きくカーブした後、アウーザ川 Ausa の平たい谷をまっすぐ山をめざして進んでいく。

次のコリアーノ=チェラソーロ Coriano-Cerasolo 停留所の手前まで、直線が8km以上も続く。今は住宅や工場が点在しているが、当時は一面葡萄畑に覆われていた。3つ目の駅が、税関を意味するドガーナ Dogana(標高69m)だ。線路はすでにサンマリノ領内に入っているが、地名が示すように、道路はここで国境を越えてくる。車窓景観としては、実質的に2kmほど先のメリーニ橋 Pont Melini が転換点になる。

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ドガーナ~ドマニャーノ間の1:25,000地形図
イタリア官製1:25,000 109-IV-NO Montescudo(1948年改訂版)

第二区間(ドガーナ~ボルゴ・マッジョーレ)

メリーニ橋で正面に見える丘の上の村は、セラヴァッレ Serravalle という。線路は左手から回り込み、町の真下をスパイラル(ループ線)で一周巻いて、標高135mのセラヴァッレ駅に達する。今は丘全体がすっかり宅地に埋まっているが、湾曲した街路の一部はスパイラルの廃線跡を転用したものだ。駅の手前にあるサンタンドレアトンネル Galleria Sant' Andrea(長さ258m)は通り抜けることができ、その先に旧セラヴァッレ駅舎も修復されて残っている。

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セラヴァッレ付近のルート。図中×印のトンネルは通行不可(以下同じ)
空中写真はGoogle Mapより取得(2016年7月)

線路はこの後、ティターノ山の裾野を舞台に、のた打ち回るような軌跡を描いて上っていく。第二区間の平均勾配は30‰あり、半径100mの急カーブによる折返しもたびたび現れる。折り返すごとに視点が上昇して、車窓の見晴らしもよくなっていったことだろう。幸いにも、セラヴァッレの少し上手から、リジニャーノトンネル Galleria Lisignano(長さ246m)を経て次のドマニャーノ Domagnano 停留所(標高315m)の手前までは、自転車道として整備されており、当時の車窓を追体験できる。

ヴァルドラゴーネ Valdragone 停留所(標高393m)をやり過ごす頃には、目の前に、ティターノ山の絶壁が威嚇するように立ちはだかる。まもなく共和国のメルカターレ Mercatale(ショッピング街)、ボルゴ・マッジョーレだ。駅の標高は493mで、高度でいえば全体の3/4まで来たことになる。

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ドマニャーノ~サンマリノ間の1:25,000地形図
イタリア官製1:25,000 108-I-NE S.Marino(1949年改訂版), 109-IV-NO Montescudo(1948年改訂版)

第三区間(ボルゴ・マッジョーレ~サンマリノ)

現在は、もと駅前から右手に少し上ったところにロープウェーの乗場があり、空中を伝ってサンマリノの町へ一気に着地できる。しかし、鉄道はそうはいかなかった。山裾に取り付き、裏側に回り込んで高度を稼がなければならず、平均勾配は40‰に達した。実はティターノ山は、表と裏で表情が違う。人を寄せつけない険しさを見せる表(東)側に対して、裏(西)側は比較的緩やかな斜面で、サンマリノの市街もそちらに展開しているのだ。

ボルゴ・マッジョーレ駅の先にあった道路をまたぐ高架橋は解体されたが、その先のボルゴトンネル Galleria Borgo(長さ173m)とモンタルボトンネル Galleria Montalbo(長さ186m)は遊歩道に活用されている。線路はそれからすぐ、第二のスパイラルであるピアッジェトンネル Galleria Piagge(長さ515m)に突入するが、これは現在通行できない。

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ボルゴ・マッジョーレ付近のルート
空中写真はGoogle Mapより取得(2016年7月)

次の1km強の間は、アペニーノの支脈モンテフェルトロの山並みをはるかに望みながら、斜面に忠実に沿って走る区間だ。最後にモンターレトンネル Galleria Montale の中で半回転して、サンマリノ駅に到着する。

駅前広場 Piazzale della Stazione は名称ともども健在だが、ロータリーは鉄道廃止後に拡張されたものだ。当時の駅舎は、現在の広場の南半分を占めており、その南側の駐車場になっている区画に、1面2線の発着ホームや車庫等が配置されていた(下の空中写真に、駅舎等の配置を書き添えてある)。施設はすべて取り壊され、跡形もない。広場の西に面するホテルジョリ Joli のレストランが、旧駅 Ristorante Vecchia Stazione を名乗っているのがせめてもの慰めだ。

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サンマリノ駅付近のルート
空中写真はGoogle Mapより取得(2016年7月)

最近サンマリノでは、鉄道を一部復活させようという動きがある。2012年が鉄道開通80周年に当たることから、それに向けて、保存団体である白青列車協会が中心になり計画が進められた。まず、駅の200m南にあるモンターレトンネルの前後、距離にして800mの区間で、線路の復元工事が実施された。架線柱はオリジナルの様式を再現し、直流480Vに減圧されはしたものの、架線も張られた。その間にサンマリノの博物館に保存されていた電車AB03が全面改修を受けて、現地に復帰したのだ。

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復元区間の起点に電車が配置され、当時を彷彿とさせる
Photo by Aisano from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この事業はサンマリノ政府の支援を受けていて、次の段階ではボルゴ・マッジョーレまでの延長を検討していると伝えられる。すでに廃線跡の大半は車道や遊歩道に転用されており、前進は容易ではないだろうが、開通すれば新たな観光資源としての活用も期待できる。短命に終わった鉄道だけに、国旗色の電車に再び山を上らせるという夢が、サンマリノ市民の誇りとして実現することを祈りたい。

(2006年2月28日付「サンマリノへ行く鉄道」を全面改稿)

■参考サイト
リミニ=サンマリノ ある国際鉄道の日々
Rimini - San Marino  Una Ferrovia Internazionale di Ieri
http://www.clamfer.it/02_Ferrovie/Rimini/Rimini-San%20Marino.htm
リミニ=サンマリノ線 LA FERROVIA RIMINI- SAN MARINO
http://www.ferrovieitaliane.net/ferrovia-rimini-san-marino/
Structurae - Rimini-San Marino Railway
https://structurae.net/structures/rimini-san-marino-railway
 廃線跡に残る構造物の写真多数
サンマリノ:鉄道の旧線跡 San Marino: il vecchio percorso della ferrovia
http://www.viaggi-lowcost.info/cosa-fare/san-marino-vecchio-percorso-ferrovia/
ferrovie.it(イタリア鉄道情報サイト) http://www.ferrovie.it/portale/

2016年7月11日 (月)

カールス鉄道-百年越しの夢の跡

何の変哲もないローカル線が、思いもよらぬ来歴を秘めていることがある。ヴェーザー川上流の小さな港町で行止りになる16.4kmの支線は、その名をカールス鉄道 Carlsbahn と言った。すでに廃止され線路も撤去されているが、そのルートは昔、ドイツが統一される前に存在したヘッセン選帝侯国にとって非常に重要だった。その証拠にこの鉄道は、1840年代というかなり早い時期に、同国で最初に開通した路線なのだ。それがなぜ、発展することもなく消えてしまったのだろうか。その経緯と現況を探ってみよう。

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カールス鉄道最大の遺構、ダイゼルトンネル

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ヘッセン選帝侯国 Kurfürstentum Hessen、略してクーアヘッセン Kurhessen は、19世紀のドイツ中部にあった領邦だ(下注)。カッセル Kassel(当時の綴りは Cassel)が首都で、そのためヘッセン=カッセルという呼称もある。いうまでもなく内陸国で、外海との交易は北海に注ぐヴェーザー川 Weser に頼っていた。船は河口から450kmこの川を遡って、ミュンデン Münden(現 ハン・ミュンデン Hann. Münden)の港で荷を下ろす。ここで川が二手に分かれて水量が減るため、荷船は上流へ進めなかったのだ。

*注 ダルムシュタット Darmstadt を首都とするヘッセン大公国 Großherzogtum Hessen は別の領邦。

しかしハン・ミュンデンは、名前がハノーファーのミュンデン Hannoversch Münden を意味するとおり、隣国ハノーファー王国 Königreich Hannover の領地だ。荷揚げされた物資には、カッセルへ送られる前に王国によって関税が課された。喉元を他邦に押さえられた形のクーアヘッセンにとっては、ミュンデンをバイパスする交通路を開拓することが、かねての宿願になっていた。

自国にも、ヴェーザー川に面する唯一の港町がある。カールスハーフェン Karlshafen というその町は、ヘッセン=カッセル方伯だったカール1世が、1699年にユグノー教徒の入植地として創設した由来をもっている(下注)。願いを達成する方法はただ一つ、ここを陸揚げ港にすることだったが、カッセルへは、ディーメル川の谷を遡り、鞍部を越えて、40~50kmの陸路を克服しなければならない。

*注 プロテスタントのユグノー教徒は、カトリックから迫害を受け、母国フランスを脱出して多くがドイツ各地に移住していた。町は創設当時ジーブルク Sieburg という名だったが、1717年にカールスハーフェン(当時の綴りは Carlshaven)に改称されている。現在の正式名称はバート・カールスハーフェン Bad Karlshafen。

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バート・カールスハーフェンのヴェーザー川

カール方伯はこの間に運河を開削しようとしていた。1710年に発表された計画は、さらに南へ延長してラーン川Lahnに接続し、結果として首都カッセルを南北物流の中心にするという壮大なもので、後にカール方伯運河 Landgraf-Carl-Kanal と呼ばれるようになる。しかし港から順次着工したものの、カッセルどころか途中の鞍部までもたどり着かないうちに、カールは亡くなった。指導者を失った計画は、未完のまま放棄されてしまう(下注)。

*注 1730年の彼の死までにホーフガイスマー Hofgeismar 近くのシェーネベルク Schöneberg まで完成しており、後述のように、ルート上には水路や水門などの遺構が存在する。

クーアヘッセンを含む近隣諸邦の間で東西連絡鉄道の建設構想が持ち上がったのは、それから1世紀を隔てた1840年のことだ。今度はハレ Halle ~カッセル~ヴェストファーレン Westfalen を結ぶというもので、各邦が領内に建設した路線をつないでいくことになっていた。クーアヘッセンは、これこそカールの遺志を実現するまたとない機会と考えた。それに、鉄道建設に必要な資材や設備は船で運ばれてくるため、いずれにしても港まで線路を延ばす必要があったのだ。

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19世紀半ばのヘッセン北部における河川と鉄道の位置関係
ハノーファー王国領の河港ミュンデン Münden を避けるために、カールスハーフェン Carlshafen (Bad Karlshafen)~カッセル Cassel (Kassel) 間の鉄道が計画されたことがわかる

決定したルートは次のようなものだった(上図参照)。カッセルから北上して、ヒュンメ Hümme(現 ホーフガイスマー=ヒュンメ Hofgeismar-Hümme)に至る。そこで分かれて一方は東西連絡のために西へ進み、もう一方は北上を続けてカールスハーフェンで河港に臨む。後者がカールの鉄道を意味するカールス鉄道と呼ばれるようになるのは、ごく自然なことだ。最初は馬車鉄道で計画されたが、後で蒸気機関車を導入することが決まった。

工事はカールスハーフェンから始まり、南へ進められた。ヒュンメを経てグレーベンシュタイン Grebenstein(仮駅)までが1848年3月30日に完成し、クーアヘッセンで最初の鉄道になった(下注)。引き続き、カッセルへの延長線が同年8月18日に開通、ヒュンメから西へ、邦境を越えてヴァールブルク Warburg に接続したのは、3年後の1851年2月だった。

*注 開通式は1848年4月3日に挙行された。ちなみにこの経緯は、中山道鉄道の資材運搬のために敷設され、東海地方で最初に開通した武豊線(正確には武豊~熱田間)に似ている。

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開通間もない頃のカールスハーフェンの1:25,000地形図
ヘッセン選帝侯国作成 1857年版

ついに実現した念願の短絡路だったが、残念なことに、鉄道が思いどおりの効果を発揮した期間はごく短かった。どうしてだろうか。

クーアヘッセンは当時すでに、プロイセンが主導するドイツ関税同盟 Deutscher Zollverein の一員だった。そこへ1851年にハノーファー王国も加わったことで、両邦間にあった関税障壁が解消されてしまったのだ。船のコストが安くなり、荷揚げは再びカッセルにより近いミュンデン港で行われるようになった。さらに決定的だったのは、1856年にゲッティンゲン Göttingen、ミュンデンを経てカッセルに至るハノーファー南部鉄道 Hannöversche Südbahn が全通したことだ。水量の季節変化に影響を受けがちな川船に比べて、速くて安定した輸送が可能になった。ヴェーザー川の水運は大打撃を受け、カールス鉄道を利用する貨物も、域内発着のわずかな量に絞られてしまった。

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1960年代のカールスハーフェン左岸駅の眺め(ディーメル・エコ歩道の案内板の写真)

川で行止まる路線では発展が見込めないと、カールスハーフェン以遠への延長が画策されたが、資金不足のため、一向に話が前に進まない。そうするうちに1878年、ヴェーザー川対岸にゾリング鉄道 Sollingbahn が開通し(下注)、進出の余地さえ奪われてしまった。ゾリング鉄道にもカールスハーフェン駅が設けられたので、併存していた時代は、そちらを右岸(レヒテス・ウーファー Rechtes Ufer, r.U.)駅、カールス鉄道のほうを左岸(リンケス・ウーファー Linkes Ufer, l.U.)駅と呼んだ。

*注 ゾリング鉄道は、オットベルゲン Ottbergen ~ノルトハイム Northeim 間64.0kmで、カールス鉄道が狙っていた東西連絡を先に実現した。この路線は現在も運行中。

カールス鉄道は、カッセルへの直通列車の増便など地元の需要をこまめに拾いながら、第二次大戦後もなんとか命脈を保った。しかし、所詮ローカル線の域を出ず、戦後、自動車交通の興隆で不採算路線が整理される局面になると、抗うすべはなかった。1966年9月25日、最後の旅客列車が運行されて、カールスハーフェン駅は閉鎖された。トレンデルブルク Trendelburg にあった砂利採取場のために、ヒュンメとの短区間が貨物線で残されたが、これも1986年9月に終了し、ついに全線が廃止となった。

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カールス鉄道周辺の1:50,000地形図
ニーダーザクセン州測量局1:50,000 L4322 Höxter 1996年版
ヘッセン州測量局1:50,000 L4522 Hannoversch Münden 1992年版

カールス鉄道の線路はまもなく撤去され、今は多くの区間が、ディーメル自転車道 Diemelradweg、ディーメル・エコ歩道 Eco Pfad Diemel として活用されている。根元のヒュンメから見て行こう。

ヒュンメへは、カッセル市内からレギオトラムRT1(旧RT3)系統が通っている。レギオトラム RegioTram というのは、市内の路面を走るトラムがそのままDB鉄道線に乗り入れて郊外まで足を延ばすサービスだ。アルストーム Alstom 社製の白い低床車レギオツィタディス RegioCitadis がその役を担っている。カッセル中央駅に設けられた専用ホームから乗込むと、40分弱で終点ホーフガイスマー=ヒュンメ Hofgeismar-Hümme 駅に到着する。ここがカールス鉄道廃線跡探索の起点だ。

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ホーフガイスマー=ヒュンメ(旧 ヒュンメ)がカールス鉄道の分岐駅

地図を見ると、ヒュンメ駅前後で線路が不自然な馬蹄形に曲がっている。西から張出す山脚を回り込むという理由もあるにせよ、ヒュンメでの分岐を前提にしたルート設定なのは間違いない。廃線跡は、駅の北側で右にカーブしていく並木の小道だ。目の前に広がるブライテ・ヴィース Breite Wiese の盆地は、大雨が降るたびに、トレンデルブルクの狭い谷に阻まれた水が溢れて地面を覆った。洪水を避けるために線路は、盆地を最小限の距離で横断し、東の山際に沿ってシュタンメン Stammen 集落の東側を抜けていく。

一方、自転車道のほうは、ヒュンメの集落を貫いた後、エッセ川に沿った小気味よい直線路を使うが、これは廃線跡ではなく、未完となったカール方伯運河の側道だ。左側の窪みが運河の跡になる。古地図には、並行する3列の水路が描かれているが、中央が運河で、両側は排水用の水路だ。洪水の際に、運河航行に与える影響を和らげるための工夫だそうだ。

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(左)ディーメル・エコ歩道の案内板
(右)未完に終わったカール方伯運河の側道を行く。左側の窪みが運河跡
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案内板の古地図。ブライテ・ヴィース(右半)に3列の直線水路が描かれている

さて、トレンデルブルク付近からは、自転車道が廃線跡に載ってくる。ディーメル川の谷に忠実に従って、線路は大きく蛇行している。道端にはトレンデルブルクの旧駅舎が残っているが、今は銀行の支店だ。村の中心部は、狭まる谷を窺う丘の上にある。

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(左)トレンデルブルクの旧駅舎。線路跡は標識柱の後ろ、青い柵に沿って左へ入る小道
(右)トレンデルブルクの村が丘の上から谷を見下ろす
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ディーメル川の谷越しにダイゼルベルク Deiselberg を望む
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廃線跡はディーメル川に沿って下る

2つ目の山脚ケッセルベルク Kesselberg を回り込むところに、最も重要な遺構が存在する。カールス鉄道唯一のトンネルだった長さ202mのダイゼルトンネル Deiseler Tunnel だ。長らく放置されていたが、再整備のうえ2014年に通れるようになったばかりだ。案内板には「ヘッセン最古の鉄道トンネル、蝙蝠の楽園、夏の半年間(4~10月)、自転車と歩行者に開放」と書かれている。

自転車道からそれ、標識に従い坂道を上ると、南口にたどりつく。森の中に、赤い砂岩で築かれたポータルが静かにたたずんでいる。扁額はないものの、両側に太い付け柱が立ち、洞口はアーチ環を重ねて輪郭を強調したデザインだ。小鉄道には不釣合いな威厳を放つ姿は、当時の人々の鉄道に託した思いをよく表している。

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ダイゼルトンネル (左)南口 (右)再整備が終わったトンネル内

ヴュルマーゼン Wülmersen 停留所跡の手前で、ホルツァペ川 Holzape という小川を横断する。ここに架かる3連の石のアーチも、見逃せない遺構の一つだ。このあたりからは、谷を囲む斜面がしだいに高さを増し、自転車道は川端の緑濃い林の中を行くようになる。ヘルマースハウゼン付近にも、川を短絡する形で運河(ケーゲルスグラーベン Kegelsgraben)や水門が残っている。

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ホルツァペ川を渡る3連アーチの石橋

ディーメル川に沿う緩い左カーブを流していくうちに、目的地のバート・カールスハーフェンに近づく。川岸にあった駅の構内は、そっくりマリー・デュラン学校 Marie-Durand-Schule の校地に転用されている。校庭の一角に静態展示されているのは、DBで走っていたVT2.09形のレールバスだが、雨ざらしのため塗装の傷みが目につく。

駅前からは、その名もカール通り Carlstraße という広い通りがヴェーザー川の方へ延びている。往時は貨物線がこの通りを川べりまで進み、埠頭に並行する荷揚げ用側線に接続していた。貨物線と側線は直交していたため、貨車は2基の転車台で向きを変えて相互に行き来した。

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カールスハーフェン(左岸)駅跡に建つ学校の校庭にレールバスが

町の中心部はハーフェン Hafen(港)と呼ばれて、広い船溜まりがそのまま保存されている。周辺一帯はバロック様式を引き継ぐ白壁の建物が立ち並び、田舎町らしからぬきりっと引き締まった風情が美しい。南側のひときわ目立つ建物は、もと税関 Packhaus で、市役所や観光案内所が入居している。

傍らのカフェで少し休憩した後、ヴェーザー川をまたぐ橋で対岸に渡れば、DB線(ゾリング鉄道)のバート・カールスハーフェン駅(下注)まで、ほんの500mほどだ。平日はおよそ1時間ごとに、北ヘッセン交通連合 Nordhessischer VerkehrsVerbund (NVV) のRB85系統の列車が停車する。これに乗って東の終点ゲッティンゲンまで行くと、旅の起点カッセルへ戻る列車を捕まえられる。

*注 NVVのRB85系統は、ゲッティンゲン~オットベルゲン Ottbergen 間を運行する。

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(左)カールスハーフェンの旧税関、前の船溜まりは水が抜かれて工事中
(右)白壁の建物が立ち並ぶヴェーザー通り Weserstraße
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対岸のバート・カールスハーフェン(旧 カールスハーフェン右岸)駅

掲載した写真は、2015年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T. 氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
北ヘッセン交通連合 http://www.nvv.de/
カッセル郡エコ歩道 http://www.eco-pfade.de/

★本ブログ内の関連記事
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 ヴィーゼンタタール鉄道 I-赤いレールバスが行く
 ヴィーゼンタタール鉄道 II-廃線跡の自転車道
 ロッセタール鉄道-6線軌条を行くトラム
 ナウムブルク鉄道-トラムと保存蒸機の共存

2016年6月13日 (月)

コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

5月22日朝、札幌駅8時ちょうど発の特急「スーパーカムイ3号」に乗り込んだ。江別を過ぎ、夕張川の鉄橋を渡れば、車窓はすっかり田園地帯だ。遠くに浮かぶ雪の山並みを背景に、田植えの時期を迎えた石狩平野を列車は北へ向かってひた走る。

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(左)特急「スーパーカムイ」の車窓から見る田園地帯 (右)滝川駅に到着

コンターサークルSは札幌がホームグラウンドで、この時期は隔週で北海道各地の「地図の旅」を実践している。本日は、石狩川右岸(西岸)に残る三日月湖(下注)を巡ることになっていて、私も初めて参加した。集合場所は、札沼(さっしょう)線の晩生内(おそきない)駅だ。この路線は札幌駅が起点だが、なかなか乗る機会がない。せっかく行くなら全線を乗り通してみようと、函館線で滝川(たきかわ)まで行き、そこから札沼線の終点新十津川(しんとつかわ)へ回ることにした。本題に入る前に、このささやかな終点駅の話題を差し挿ませていただこう。

*注 河跡湖(かせきこ)とも呼ばれ、蛇行する川が氾濫や侵食作用などで流路を変えた後、旧河道に取り残された湖や池を指す。日本語では月に例えるが、英語ではオクスボウレイク oxbow lake(オクスボウは、牛を牛車につなぐU字形の軛(くびき))、フランス語ではブラモール bras-mort(死んだ腕=淀んだ支流)とさまざまだ。

滝川駅から新十津川駅へは、石狩川橋経由で4km強に過ぎない。徳富(とっぷ)川にかかる昔の鉄橋を見たかったので、手前の新十津川橋でタクシーを降りた。橋は、札沼線が新十津川からさらに北の石狩沼田まで走っていたときの遺構だ。今は水路管を渡しているが、南側のガーダー(橋桁)2連と橋脚に鉄道時代のものが残っている。若緑に囲まれた朱色の橋は、背景の青空と雪山に眩しく映えていた。

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水路橋に転用された旧札沼線の徳富川橋梁
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(左)南側のガーダー2連と橋脚は鉄道時代のもの (右)線路の代わりに水道管

しかし残っていたのは橋だけだ。南に続いているはずの築堤はおろか、用地自体が宅地に整えられ消失している。まだ新しい住宅地の中を、徒歩で新十津川駅へ向かった。

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新十津川橋の左に旧線跡の水路橋がある(1:25,000「地理院地図」に加筆)

鉄道ファンには周知の話題だが、札沼線の末端、浦臼(うらうす)~新十津川間は、今年(2016年)3月のダイヤ改正で、列車が1往復まで極少化されてしまった。従来朝、昼、夕と3本設定されていたのが、朝の1本だけになったのだ。新十津川駅では、気動車キハ40が1両きりで9時28分に到着し、9時40分に折返していく。それがその日の最終列車になる。

当然、駅は寂れて人影もないように想像してしまいがちだ。ところが、かえって希少性が増したのか、記念乗車がブームになっている。列車がホームに入ると、小さな駅は降りた客で時ならぬ賑わいを見せた。駅舎はもちろん無人だが、きれいな記念スタンプが置いてあるし、役場まで行けば到達証明書ももらえるらしい。多くの人は折返し乗車のようで、上り列車にも15~6人が乗車していた。普段からこの乗車率なら、列車を削減されずに済むのだろうに。

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(左)新十津川駅は時ならぬ賑わい (右)駅構内を南望
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1日1本の列車を満開のチューリップが迎える
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(左)待合室に掲げられた究極の時刻表 (右)駅の記念スタンプ

のどかそのものの田園風景の中を、気動車はトコトコ走る。1時間半かけて列車の終点、石狩当別まで乗って、そこで北上してきた堀さんたちと合流した。

晩生内駅も、簡易な造りということでは新十津川と変わらない。砂利引きの狭いホームに降り立ったのは、もちろんサークルのメンバーだけだ。参加者は堀さん、真尾さん、Oさん、車でやってきたミドリさんほか全部で9名。ここ数日、北海道は高温注意報が出されるくらいの暑さで、今日も札幌の最高気温は28度。雲一つない快晴はありがたいが、朝晩まだ肌寒いだろうと用意してきた上着は、一度も出番がなかった。

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(左)晩生内駅に到着 (右)北へ去る気動車を見送る

駅の小さな待合室で地形図を広げ、これからの道順を確認する。駅の南にある西沼、東沼を経て北上し、後は行けるところまで行こうということになった。地図の上では大小の差はあれ皆同じような三日月形をしているが、それぞれどんな表情を持っているのだろうか。ミドリさんの車で先行する堀さんを見送って、私たちは歩き出した。

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晩生内周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

踏切を越え、線路と並行する国道275号線の歩道を南へ約600m、左折すると広めの農道(三軒屋農道)が石狩川のほうへ延びている。道がカーブすると同時に、右手に弓なりに横たわる池が見えた。吹き越す強い風が水面を細かく波立たせ、沼を縁取る疎林の枝葉を揺らしている。地形図によれば西沼だが、道の脇の案内板には「三軒屋沼」と書かれている。三軒屋というのは、沼のある旧河道に囲まれた袋状の土地で、確かにそこには今も3軒の農家がある。

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(左)「松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む」の案内板
(右)農道の旧河道横断地点。右(画面外)に西沼がある。遠方のアーチは美浦大橋

案内板によれば、「三軒屋沼は、石狩川の屈曲した河道が氾濫時に取り残されて出来た三日月形の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る、自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では昭和7年から15年までで17回を記録し、その都度農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。(中略)人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は、自然形成的な三日月湖が多くあります。」

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農道から西沼を見る

石狩川の三日月湖は、河道の直線化工事に伴ってできたとばかり思い込んでいたが、水流の作用によるもののほうが多いのだ。付近の旧版1:50,000地形図を見比べてみよう。西沼・東沼の場合、明治末期の図【図1】ではまだ石狩川の蛇行する分流として描かれる(下注)が、大正期【図2】になると明確に川と切り離されている。しかし、沼はほぼつながって、旧河道そのものだ。三軒屋沼と一括りにされていたとしても不思議ではない。2つの沼に分かれたのは水位が低下したからで、現在の水面は目測する限り、周囲の田んぼの面より10m近く低くなっている。

*注 図1は明治28年式図式と明治42年式図式が混在する仮製図のため、石狩川と三日月湖の位置や面積は、大正期の正式図(基本図)に比べて、必ずしも正確とはいえない。

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【図1】 明治末期
1:50,000地形図「奈井江」 1909(明治42)年部分修正測量、1911(明治44)年改版
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【図2】 大正期
1:50,000地形図「砂川」 1916(大正5)年測図
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【図3】 昭和30年代
1:50,000地形図「砂川」 1959(昭和34)年修正測量

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ビニールハウスに出入りする線路(?)

農家の前を通ったら、ビニールハウスに線路のようなものが出入りしているのを見つけた。ハウスで育てたイネの苗床を運び出すための装置らしい。パイプを組み合わせた簡易な軌道のパーツが傍らに積んである。これをつないでハウスの中まで延ばしていくようだ。「鉄道模型と同じですね」と、鉄道ファンでもある真尾さんと私は嬉々としてカメラを向けた。

農道は馬蹄形の旧河道を、東沼の上でもう一度横断する。西沼では築堤だったが、東沼には三軒屋橋が架かっている。西沼と同じ出自ながら、東沼は林に囲まれていないからか、のっぺりとして風情に欠けるのが難だ。休憩場所としてはいま一つだが、時刻はとうに正午を回っている。ベンチ代わりの橋の欄干にもたれて、持参の弁当を広げた。通るのは農作業車ぐらいなので、何ら気にすることはない。

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(左)のっぺりとした東沼 (右)東沼に架かる橋(三軒屋橋)の上で昼食

橋を渡りきったところで、農道は二手に分かれる。私たちは北へ向かった。地方道との交差点にさしかかると、道路標識に「美浦渡船(みうらとせん)右へ1.7km」と記されている。聞けば、石狩川に唯一残っていた伝統の渡船で、道内でも最後だったそうだ。黄色の大アーチが遠くからも望める美浦大橋の開通によって、2011年限りで廃止となった。

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美浦渡船を指し示す道路標識

前を歩いていたOさんが振り向いて、「ではここで失礼します」と言う。コンターサークルの旅は途中参加も離脱も自由だとは知っているが、ここは平野のど真ん中だ。「どこへ行くんですか」と聞くと、「橋を渡って茶志内駅まで歩きます。なに、8kmぐらいですから」とのこと。

東へ進むOさんの後ろ姿を見送って、残りの面々は北上し続けた。途中で草の小道にそれて、月沼のほうへ降りていく。堀さんとミドリさんも合流した。月沼は、三軒屋で見てきた沼に比べればかなり可愛らしい。「でも小さいから、月の形がよくわかります」とミドリさん。

明治期の図でも本流から離れた場所にぽつんと描かれているから、かなり古い時代の忘れものだろう。逆に言えば、沼としては大先輩ということだ。西端は長年の泥が堆積して湿地のようになり、それを通してみる対岸の飄々とした木立が一幅の絵になっている。おじいさん沼の全体像を確かめたくて、沼際のあぜ道に上ってみたが、かえって眺めは平凡だった。

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月沼の眺め (左)岸のカラシナが彩りを添える (右)一部は湿地状に

さらに北へ800mほど進めば、ウツギ沼が右側にある。農道からはよく見えないので、小川に沿う小道を下っていく。これはまさに沼らしい沼だった。明治期には月沼よりよほど堂々と描かれているのに、今はやせ細って見る影もない。ヨシやヤナギが藪状にひしめき合い絡み合って、水辺に張り出している。おまけに小さな虫が多数飛び回って、私たちを悩ませた。

写真を撮ろうとするが、見通しが今一つだ。「逆光だし、反対側から見たほうがよかったんじゃないかな」と真尾さん。下の写真は、藪の切れ目で身を乗り出して、かろうじて撮ったものだ。他の人たちは諦めて先へ行ってしまったが、ここまで来たのだから隣の新沼も見てみようと、有志でそちらに足を向けた。

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半分藪化したウツギ沼

新沼は、周辺で一番大きな沼で、名前が示すように誕生も比較的新しい。大正期でさえまだ大きくうねった川の一部で、昭和34年図【図3】でようやく、川の短絡によって取り残された状況が描かれる(下注)。広い空の下、なみなみと水を湛えた若い沼の水面を見つめていると、平野を悠然と曲流していた頃の石狩川の光景が目に浮かぶようだ。できるものなら上空を舞いながら、心ゆくまで眺めていたいと思う。

*注 1:50,000「砂川」図幅は、大正7年図から昭和34年図までの間に、鉄道補入や資料修正版が数回刊行されたが、地形は修正されなかったため、地形図を追うだけでは新沼誕生の時期を絞り込めない。

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石狩川の曲流の記憶をとどめる新沼
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新沼中央部のパノラマ

とはいえ、そろそろいい時間になってきた。幹事役の真尾さんが地形図で帰りのルートを確かめる。「ここからだと晩生内に戻るより、一つ先の札的(さってき)のほうが近そうです」。札沼線札的駅に着くころには、陽もいくぶん傾いて、真昼の暑さは消え去っていた。無人のホームに立ち、北から降りて来る列車をしばらく待つ。鉄道防風林の隙間を縫って吹く風はことのほか涼しく、紫外線に晒されてほてった肌を優しく冷ましてくれた。

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(左)帰り道にカラシナの群落 (右)駅へ向けて歩く
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(左)札的駅ホーム (右)歩き旅お疲れ様でした

地図を携えて北海道の大地を歩くのは、堀さんの著書で繰り返し読んできた旅行記そのものだ(下注)。私にはまるで、その中の登場人物になったような一日だった。札幌に戻ってからの打ち上げの席で、道内の旅に参加した感想を聞かれた。実感をこめて、「北海道に移住しようかなと思いました」と話すと、「歓迎しますよ」と皆に真顔で言われた。

*注 堀さんの晩生内周辺の訪問記は、「地図の風景 北海道編 I」そしえて, 1979, pp.105-110、および「北海道 地図を紀行する 道南道央編」北海道新聞社, 1988, p.159以下にある。

掲載の地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図奈井江(明治44年改版)、砂川(大正5年測図、昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図晩生内(平成26年4月調製)を使用したものである。

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2016年6月 5日 (日)

コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産

5月5日は舞台を静岡県西部に移し、今は浜松市に含まれる天竜の交通土木遺産を訪ねる。風は終日強かったが、今日も好天に恵まれた。集合場所が西鹿島(にしかじま)駅だったので、私は東海道線の新所原(しんじょはら)駅から、天竜浜名湖鉄道(以下、天浜(てんはま)線)の単行気動車に乗って出かけた。この路線は、浜名湖の北側を回っていく。朝の光をきらきら撥ね返す湖面といい、線路際の木々がつくる濃緑のトンネルといい、車窓に展開する瑞々しい光景に心が洗われる。

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天浜線の気動車、二俣本町にて
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天浜線の車窓 (左)三ヶ日駅付近の湖面(猪鼻湖) (右)都築駅に停車

西鹿島は、この天浜線と、新浜松から来る遠州鉄道(遠鉄)の連絡駅だ。堀さん、今尾さん、石井さん、相澤さん、外山さんがすでに到着して、道順を打合せている最中だった。後で木下さん親子も合流したので、私を含めて総勢8名。本日も堀さんの私的小旅行の位置づけなのだが、コンターサークルSの公式行事となんら変わらない賑やかな旅になった。

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本日の集合場所、西鹿島駅

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1:200,000地勢図浜松(1981(昭和56)年編集)の一部に加筆
市町村名等は現在とは異なる

もともと堀さんが行くおつもりだったのは、都田川を渡る枕瀬橋(まくらせばし)だ。渓谷の中に素朴な木組みの橋が架かっているという。3台のクルマに分乗して、まずはそちらに向かった。

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枕瀬橋周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

西鹿島駅からは西へ10kmもない。車内で世間話をしているうちに、早や橋の入口、大平(おいだいら)地区まで来てしまった。この辺は河岸段丘上に人家と耕地が点在し、川は比高約30mの谷底を流れている。柿畑の脇に車を停めさせてもらい、クルマ1台がやっと通れる細い道を川の方へ降りていった。まもなく雑木が頭上にかぶさってきて、道はヘアピンカーブで向きを北に変える。段丘崖を刻んだ急な下り坂だ。木漏れ日が路面でちらちらと踊り、すでに水音が木立を通して耳に届いている。100mほど進んだところにその橋があった。

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枕瀬橋、西側から撮影

長さは40mほどだろうか。川面からコンクリートの橋脚がすっくと立ち、そのうえに木組みの桁が架かっている。見るからに安定感があるのは、おそらく各橋脚から斜めに延びて、桁をしっかり支えている頬杖(ほおづえ)材のせいだ。それが3つ並んで、緑の谷間に心地よいリズムを刻んでいる。

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(左)枕瀬橋側面 (右)橋桁を支える頬杖材

「床板に比べて欄干がやけに新しいですね」と私が言うと、堀さんも「写真ではこんな欄干はなかったと思いますが」。どうやらこれは最近の改修らしい。以前は流れ橋のように、足を踏み外さない程度のごく低い欄干だけだった。「ここは小学生のマラソンコースになっているらしいです」と石井さん。危険防止の目的としても、橋が醸し出していたはずの風情は半ば損なわれてしまった気がする。

吹き越す強風に帽子を飛ばされそうになりながら向こう岸に渡ると、橋のたもとに銘板が取付けてあった。意外にも建造は1986(昭和61)年3月と新しい。古い地形図にも描かれているから、もちろん架け直されたのだろう。「昔からあったとすると、こういう木組みの技術者はどこから来たんでしょうか」。今尾さんが答える。「森林鉄道の橋梁にもこういう構造があります。ここから木曽にかけては林鉄の宝庫ですからね」。

谷間から段丘上の人家は全く見えない。都田川の豊かな流れとうっそうと茂る斜面林に囲まれて、深山の気配さえ漂う不思議な場所だった。

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(左)橋上から北望、うっそうと茂る斜面林 (右)同 南望
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橋のたもとで記念写真(左写真は外山さん撮影)

昼食を新東名の浜松SAでとり、午後は天竜区(旧 天竜市)へ移動して、付近の交通土木遺産をいくつか巡ることにした。

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二俣周辺の1:25,000地形図(2015(平成27)年3月調製)に、訪れた地点を加筆
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上記地形図を2倍拡大
左円内:鳥羽山を穿った4本のトンネル(左から国道、歩道、鉄道、旧道=鳥羽山洞門)
右円内:周囲と異なる光明電気鉄道跡の斜め地割(道路と宅地の列)

一つ目は、国道152号線の鹿島橋(かじまばし)だ。浜松市のサイト「浜松情報Book」にはこう紹介されている。「1937(昭和12)年に完成した全長216.6m、幅員6mの当時としてはモダンなトラス橋。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス橋であり、全国的にも貴重な例」。カンチレバートラスというのは、橋脚から両側にトラスを延ばし(=カンチレバー、片持ち梁)、それで中央部の桁を吊る構造だ。これによって、スパンを長く取ることが可能になる。

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優美な姿が印象的な鹿島橋

場所は西鹿島駅のすぐ北で、山中を流れてきた天竜川が浜松平野にまさに飛び出そうとする位置に架かっている。「下流側には歩道橋があるので、本来の姿が見えにくくなっています」という外山さんのアドバイスで、私たちは上流側左岸に移動した。午後はこちらが順光になる。橋を渡っているときは気がつかなかったが、トラス橋なのに吊橋のような、クラシックで優美な姿に目を奪われる。堤防の上から全貌を、川べりから仰角で、とみな思い思いにカメラを向けた。

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直線の中に混じる曲線が建築美のポイント

東隣には、天浜線の鉄橋(天竜川橋梁、長さ403m)が並行している。こちらはよくある下路ワーレントラスなので、被写体としては平凡だ。「列車があれば絵になるんだがなあ」と念じたら、本当に列車が渡ってきた。

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天浜線の天竜川橋梁を列車が渡る

国道は鹿島橋を渡った後、直線で鳥羽山隧道に突っ込んでいく。しかしこれは1942(昭和17)年に開通したルートで、それまで街道は右にそれて、旧トンネルを通っていた。鳥羽山洞門という古めかしい名がついている。実は私は今朝、天浜線を二俣本町まで乗り越し、徒歩でこのトンネルを経由して西鹿島へ戻っていた。「クルマでも抜けられますよ」と伝えたものの、念には念を入れて、一番車幅の広い相澤号が先頭に立つ。内部は狭い歩道が切ってあるが、まったく問題なく通過できた。

反対側に出た後、クルマから降りて改めて観察する。トンネルは、1899(明治32)年の開通から120年近い歳月を耐えてきた。煉瓦造のポータルは表面が黒ずみ、一部は草生していて、扁額の文字ももはや読み取りがたい。内部もアーチの補強材が当てられて痛々しいが、中央部だけはオリジナルの煉瓦積みが露出していた。「雰囲気ありますね」「この煉瓦、今にも落ちてきそう」と、はしゃぐ声が洞内にこだまする。

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鳥羽山洞門
(左)北口ポータル、入口付近は補強材が入る (右)中央部は煉瓦積みが露出

続いて、今尾さんの案内で天浜線天竜二俣駅へ向かった。駅の近くに、光明(こうみょう)電気鉄道の痕跡があるというのだ。天浜線(旧 国鉄二俣線)ができるより前に存在した私鉄で、東海道線の中泉(現 磐田)駅から天竜川左岸を北上し、光明村船明(ふなぎら)を当面の終点に見据えていた。1928(昭和3)年に田川、2年後に二俣町まで開通し、そのとき手前のこの位置に、阿蔵(あくら)駅を設けた(後、二俣口に改称)。しかし、投資に見合うだけの需要がなく、1935(昭和10)年にあっけなく廃止されてしまった。

下の地形図は、その光明電鉄の記載がある貴重な版だ。阿蔵駅以南では現在の天浜線と同じルートを通っているが、これは電鉄廃止後、2本のトンネルを含めて用地がそっくり転用されたからだ。ちなみに、鳥羽山をくぐるトンネルは鳥羽山洞門、その南の「天龍橋」は後に鹿島橋に代を譲ることになる1911(明治44)年開通の吊橋だ。また、遠鉄のかつての終点、遠州二俣駅は、現在の西鹿島駅より少し北に位置している。その東側は、分流していた天竜川の広い河原だったこともわかる。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1930(昭和5)年鉄道補入)

昼下がりの天竜二俣駅構内は、がらんとして人気がなかった。西端には、そこだけ斜めの地割があり、数軒の住宅が建っている。南側からは宅地の土留め程度にしか見えないが、北側に回ると階段が続いているではないか。明らかにプラットホームの跡だ。光明電鉄の名は皆さん初耳だったようで、今尾さんが概要を説明する。「なんとか開通したものの、電気代が払えなくて送電を停められてしまったんです」。「短命の鉄道だったんですね。でも後世まで、電気代滞納って言われるのはかわいそう」と石井さん。

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がらんとした天竜二俣駅構内、左のキハ20と後ろのナハネ20(寝台車)は保存車両
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光明電鉄阿蔵駅の遺構
(左)舗装道が線路跡。左は一見、宅地の土留めのようだが…
(右)反対側(北)から見ると階段が残り、ホーム跡とわかる

この先で山の端を抜けていた短い阿蔵トンネルは民有地内で、見ることが難しいというので、別の路線、佐久間(さくま)線の跡へ回ることにした。こちらは一度も列車が走らなかった、いわゆる未成線だ。国鉄二俣線遠江二俣(現 天浜線天竜二俣)から飯田線中部天竜に向けて計画された路線だが、1980(昭和55)年の国鉄再建法で工事が中止され、開通は夢物語になってしまった。下の地形図は、まだ佐久間線が工事中だったころの版だ。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1975(昭和50)年修正測量)

阿蔵川に沿って住宅街の道を遡ると、玖延寺の手前で、上空を佐久間線の立派な高架橋が横切っていた。光明電鉄に比べてこちらは比較的新しい遺跡だ。放置されて35年以上になるとはいえ、トンネルも築堤もしっかり残っている。草を踏み分けて南側の白山トンネルの入口まで行ってみると、フェンスで閉ざされているものの、微妙な空隙があった。廃トンネル探索の達人である石井さんと外山さんは、血が騒ぐらしい。「でも、きょうはコンターサークルなのでやめておきます」と二人で笑った。

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(左)佐久間線の築堤 (右)フェンスで閉鎖された白山トンネル北口

盛りだくさんの見学を終えて、朝出発した西鹿島駅に戻る。ここで解散。堀さんと私は遠鉄で新浜松へ、今尾さんは天浜線で掛川へ、あとの5人はそれぞれの車で帰宅の途に就いた。遠鉄の電車に乗るのは久しぶりだ。改札を入りながら、「遠鉄って名前は、遠いところへ行く感じがしますね」と私が言うと、「近鉄のほうが、よっぽど遠くへ行ってますよ」と、すかさず堀さんが混ぜ返した。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図二俣(昭和5年鉄道補入、昭和50年修正測量、平成27年3月調製)、伊平(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
浜松情報Book(鹿島橋) http://www.hamamatsu-books.jp/
ふじのくに文化資源データベース(鳥羽山洞門)
http://www.fujinokunibunkashigen.net/

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