2018年10月25日 (木)

コンターサークル地図の旅-豊橋鉄道田口線跡

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田口線の忘れ形見モハ14

廃線跡が遠からずダム湖の底に沈む、という話を聞いたのは、確か2年前、巴川の谷中分水(下注)を見に行ったときだった。鉄道が通っていた渓谷に大規模なダム建設が計画されており、ちょうどルートを横切る形で造られるため、それより上流側が水没して、二度と見られなくなってしまうというのだ。

*注 谷中分水の訪問記は「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」にある。

鉄道は豊橋鉄道田口線といい、現 JR飯田線の本長篠(ほんながしの)から三河田口(みかわたぐち)まで22.6kmを結んでいた。沿線にあった広大な御料林の木材搬出や鳳来寺への観光輸送を目的として、1929(昭和4)~1932(昭和7)年に順次開通した。

当初は田口鉄道が運営していたが、戦後、1956(昭和31)年に名鉄系列の豊橋鉄道に合併されて、上記名称となった。しかし、木材輸送のトラックへの移行や過疎化による人口減少などの影響で、運輸実績が落ち込み、1964(昭和39)年にバス転換の方針が示される。折悪しくその翌年、台風による土砂災害で、最奥部の清崎(きよさき)~三河田口間が不通となった。さらに1968(昭和43)年に田峯(だみね)~清崎間も同様の被害に見舞われたことで、復旧されることなく全線廃止となった。

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田口線現役時代の1:200,000地勢図(1969(昭和44)年修正図)

2018年10月14日、コンターサークル秋の本州旅の初日は、この廃線跡を追いかける。用地買収や家屋移転がほぼ終わり、ダムの事業工程がいよいよ本体にかかり始めており、今回がおそらく見納めになるだろう。

ちなみに、ルートを追うことができる地形図は、1:50,000が最大縮尺だ。1:25,000は初刊が1970(昭和45)年編集のため、タッチの差で鉄道は描かれなかった。ただし初刊図の段階では廃線跡の大半がまだ手付かずで、幅員1.5m未満の道路記号を使って明瞭に示されている。1:50,000を補完する意味で、以下では大いに利用している。

豊橋からJR飯田線の普通列車に乗った。のんびりと対向列車待ちもあって、終点の本長篠まで1時間20分かかった。電車で来た浅倉さんと私、そして改札前で待っていてくれた外山さん、この3名が本日の参加者だ。この廃線跡に詳しい外山さんが、クルマで見どころを案内してくださる。

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JR本長篠駅
右写真の、今は使われていない左(駅舎側)のホームに田口線が発着していた

朝方の雨で路面はまだ濡れているが、雲間から早や青空も覗き始めた。まずは鉄道の終点だった田口に向かって、車を走らせる。県道長篠東栄線から国道257号線へとつなぐ道路はまさに鉄道の通過ルートに沿っていて、クルマの外を流れる景色が、乗ることの能わなかった列車の車窓とだぶって見える。

田口の町は、周辺を流れる河川の活発な浸食によって孤立した高原の小盆地に立地する。その町並みからさらに高い丘の上にある奥三河郷土館を訪れた。ここには田口線の関連資料も保管されているので、美幸線のときのように(下注)探索の前に目を通しておきたいところだが、あいにく移転準備のために長期休館中だ。

*注 美幸線の廃線跡訪問記は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」参照。

ただ幸いなことに、前庭に展示されている田口線の旧車両モハ14は、観察が可能だった。屋根が架かっているので、保存状態もいい。窓から内部を覗くと、片側のロングシートを外して、資料の展示スペースにしてあるのがわかる。行先標は「清崎(三河田口)」と記され、廃止直前の様子を再現しているようだ(下注)。郷土館とともにこの車両も移設される予定だが、新館の建設地、つまり引越し先がほかならぬ清崎だというのは、話が出来過ぎている。

*注 晩年の3年間、不通となった清崎~三河田口間はバスで代行され、列車は清崎止まりだった。

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奥三河郷土館の前庭に静態保存されているモハ14

町を通り抜け、森の中のつづら折りの急坂を下る。旧 三河田口駅が設置された場所は、豊川上流の寒狭川(かんさがわ)が長い時間をかけて刻んだ深い谷底で、町との高低差は100m以上もあった。狭い川岸にダム工事用の仮設道路や転流工と呼ばれる水路トンネルが姿を現すなか、旧駅舎とホームの土台の一部が奇跡的に露出している。

その脇に、田口線の年表をはじめ、駅構内図、昭和35年ごろの町の施設配置図など、興味深い資料を掲げたにわか作りの案内板が立っていた。今年は廃線50周年に当たり、駅跡にもそのことを告げる幟が多数、風にはためいている。「今日はこの廃線跡を全線踏破するイベントをやっているはずです」と外山さんが言う。「田口を8時半出発なので、途中どこかで出会うと思いますよ」。

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(左)三河田口駅跡、下段が線路敷、中段がホーム、上段が駅舎の基礎
(右)現役時代の駅(現地案内板を撮影)
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三河田口駅構内図(現地案内板を撮影)

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清崎~田口間の新旧地形図
(左)田口線現役時代の1:50,000(1957(昭和32)年)を2倍拡大
(右)現在の1:25,000(2014(平成26)年)、廃線跡は幅員3.0m未満の道路記号で描かれる

廃線跡は、渓谷に沿う1車線の舗装道に転用され、清流の音を聞きながら歩ける絶好のハイキングコースになっている。しかし、ダムの予定地である最初のトンネル(旧 大久賀多第二隧道)の手前までは、赤のカラーコーンや注意を呼び掛ける立て看板が点々と置かれ、もはや工事現場そのものだ。トンネルは下流側にあるため、水没こそ免れるが、関連工事でやはり崩される運命にあるらしい。

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工事現場と化した廃線跡
(左)駅跡近くに工事用仮設道路が立ち上がる
(右)ダム本体の予定地では転流工を建設中
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渓谷沿いの廃線跡と旧 大久賀多第二隧道 (左)北口 (右)南口

道を下っていくと、次の旧 大久賀多第一隧道があった。清崎までの間にこうしたトンネルが計6本あるが、昭和初期の建設なので、ポータルは煉瓦積みではなく、飾り気のないコンクリート製だ。しかし、このトンネルは内部が素掘りのままだった。側壁に電線の碍子も残されていて、出自を彷彿とさせる。

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旧 大久賀多第一隧道
(左)内部は素掘りで、電線の碍子が残る (右)南口、小さな滝が落ちていた

やがて渓谷が大きく蛇行する区間にさしかかった。線路はこれを2本のトンネル(入道島第二隧道、同 第一隧道)とその間をつなぐ1本の鉄橋(第四寒狭川橋梁)でショートカットする。橋は4径間のプレートガーダー橋だが、河原へ降りて仰ぎ見ると橋脚はかなりの高さで、大掛かりな工事であったことが実感される。「帝室林野局が工費の半額近くを負担したので、実現した鉄道なんです」と外山さん。

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旧 第四寒狭川橋梁
(左)奥の明るい部分が橋梁。橋は2本のトンネルにはさまれている
(右)寒狭川を斜めに一跨ぎ
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旧 第四寒狭川橋梁、橋脚はかなりの高さがある

トンネルの後は高い築堤を築きながら徐々に下降していき、田内隧道をくぐり、川を斜めに渡る。この第三寒狭川橋梁も、5径間のガーダーがそのまま残り、鉄道の雰囲気が濃厚だ。

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清崎駅手前の旧 第三寒狭川橋梁
(左)現在は箱上橋または辨天橋の名で呼ばれる
(右)プレートガーダーが鉄道の雰囲気を残す

所期の目的を果たしたので、橋を眺められる川原で昼食を広げた。私はいつもコンビニおにぎりなのだが、今日は珍しく、豊橋駅で壺屋の稲荷寿しを買ってきている。

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豊橋駅名物、壺屋の稲荷寿しを昼食に

この清崎から少しの間、廃線跡は国道257号線に「上書き」されてしまう。次に姿を見せるのは、国道の清嶺トンネルの下流側だ。鉄道としては清崎第三隧道なのだが、南口だけが残っていて、崩れてきた土砂のために、内部は水に浸かっている。蒼く澄んでいるものの、かなり深そうだ。左岸に延びる廃線跡は荒れているので、田峯側からアプローチすると、沢を渡る短い橋梁の鉄桁が残っていた。

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(左)清崎第三隧道南口は蒼い水が溜まる (右)沢を渡っていた橋梁の鉄桁が残存
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田峯~清崎間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000
(中)廃止直後の1:25,000(1970(昭和45)年)、廃線跡が明瞭に描かれる
(右)現在の1:25,000、廃線跡の大半が図上から消えた

森林鉄道が接続していた旧 田峯駅を出た後、鉄道はまた寒狭川を渡る。4度目の渡河だがこれが最後で、もう寒狭川の谷に戻ることはない。惜しいことに鉄橋(第一寒狭川橋梁)も、それに続く路線最長の稲目隧道(1511m)も、県道として拡幅改修されたため、昔の面影は消失している。

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田口線のそれを拡幅改修した県道富栄設楽線の稲目トンネル

旧 滝上(たきうえ)駅付近では、例の廃線跡ウォークの参加者と思しき集団を見かけた。三河田口からすでに10kmは来ているが、本長篠までの道のりにすればまだ半ばだ。心の中でエールを送りつつ、先を急ぐ。

ここで廃線跡は国道から分かれて、しばらく海老川の右岸を南下する。旧 海老駅の南側からは1車線の舗装道になるので、寄り道した。少し走ると、山水画にでも出てきそうな切り立った断崖が行く手を遮っているのが見えてきた。鉄道の双瀬隧道がそれを果敢に貫いている。クルマから降りて、「ぜひ見てもらいたかった場所です」という外山さん推薦の絵になる景色をしばし嘆賞した。

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切り立った断崖を貫く旧 双瀬隧道。北口のポータルは斜めに切られた珍しいもの
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三河海老周辺の新旧地形図

その後、廃線跡はすんなり海老川の谷を下りきると思わせて、旧 玖老勢(くろぜ)駅からまた山越えにかかる。鳳来寺の参道に近づけるためのルート選択なのだそうだ。鳳来寺小学校の脇から踏み分け道を森の中へたどると、高い築堤が昼なお暗い谷を横切っていた。これが廃線跡で、左カーブで切通しを抜けて、路線第二の長さがあった麹坂隧道(441m)の北口に通じている。50年も経つにしては、藪に埋もれることなく、難なく歩ける明瞭さを保っているのが不思議だ。

これに対して隧道の南口は、巴川の谷中分水を巡検した帰りに立ち寄ったことがある。バリケードで封鎖されていたものの、内部は崩れずにこの北口まで今でも貫通しているらしい。

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昼なお暗い谷を横切る麹坂隧道北側の築堤
(左)旧道が築堤の下をくぐる (右)線路敷は今も明瞭さを保つ
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(左)麹坂隧道北側の切通し (右)麹坂隧道北口、坑内の湧水が流れ出る

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鳳来寺~玖老勢間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000(1960(昭和35)年)
(中)廃止直後の1:25,000(1975(昭和50)年)、万寿隧道の前後は描かれていない 
(右)現在の1:25,000(2016(平成28)年)、遊歩道となった区間を除き、図上で廃線跡を追うことはできない

次に案内してもらったのは、三河大草駅跡だ。鳳来寺駅から山を越えて、本長篠へ降りていく長い下り坂の途中にある。線路はこの区間で、高度を稼ぐために谷筋を離れて、山手を迂回する。それで、のどかな山田の風景を串刺しにするように、廃線跡のトンネルと高い築堤が横切っているのだ。

そのトンネルの一つ、大草隧道を南へ抜けたところ、薄暗いスギ林に包まれて、苔むした石積みのプラットホームが残っていた。辺りは背筋が寒くなるほどひと気がなく、ここで電車を待つのは勘弁願いたいところだ。ところが、崩れかけたホーム越しにトンネルが明るく透けて見えるのが幻想的だと、今やインスタ映えする景色を求めて、わざわざ写真を撮りに来る人がいるという。

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富保、大草両隧道の間で谷を渡る築堤
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三河大草駅跡 (左)南望 (右)北望、薄暗い森の中でトンネルだけが透けて見える

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本長篠~万寿隧道間の新旧地形図

最後に、県道長篠東栄線の脇に立つ石積みの高い橋脚のところで車を停めた。川と道路を一気にまたいでいた大井川橋梁の遺構だが、上空に渡されていたはずの橋桁はとうになく、橋脚だけがひとり谷間から天を仰いでいる。この後、田口線跡は再び1車線の舗装道として復活する。そして短い旧 内金隧道を経て、桜並木の間を緩くカーブしながら、ゴールの本長篠駅へ近づいていく。

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県道脇で天を仰ぐ旧 大井川橋梁の橋脚
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桜並木に続く旧 内金隧道

廃線跡ウォークなら7時間はかかる行路を駆け足で巡る旅だったとはいえ、谷を縫い、山をいくつも越えて、ここまで出てくる道のりの険しさ、遠さは想像以上だ。鉄道廃止が取り沙汰された当時、地元では強い抵抗があったと聞く。確かに、この難路を45分ほどで走破していた田口線の存在意義は、今なら理解できる気がする。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田口(平成26年調製)、海老(昭和45年測量および平成25年調製)、三河大野(昭和50年修正測量および平成28年調製)、5万分の1地形図田口(昭和32年要部修正測量)、三河大野(昭和35年資料修正)および20万分の1地勢図豊橋(昭和44年修正)を使用したものである。

■参考サイト
田口線(田口鉄道)、今蘇る http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
設楽ダム工事事務所 http://www.cbr.mlit.go.jp/shitara/

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2018年10月19日 (金)

コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車

2018年9月2日、北の大地はひんやりとした秋の空気に包まれ、見上げればすっきりと青空が広がっている。まだ蒸し暑さが続く関西から来た者にとっては、なんともうらやましい。今朝の旭川の最低気温は10度まで下がったが、昼間は23度という予想なので、行楽に出かけるには最適の季節に違いない。

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仁宇布の美幸線跡を活用した「トロッコ王国美深」

旭川駅9時ちょうど発の稚内行き特急「宗谷」に乗り込んだ。本日のコンターサークル道内の旅は、国鉄美幸線の跡をたどることになっている。美幸線というのは、かつて宗谷本線の美深(びふか)から分岐して、仁宇布(にうぷ)まで21.2kmを走っていたローカル線だ。1964(昭和39)年開業という遅咲きの路線で、沿線が人口希薄な山中のため、筑豊の添田線などとともに日本一の赤字路線の座を争っていたことで知られる。

そもそも路線は仁宇布が目的地ではなく、分水界を越えて、オホーツク海岸の北見枝幸(きたみえさし)で興浜北線と接続する計画だった。起終点の駅名からそれぞれ一字を採った美幸線の名はなかなかよくできているが、国鉄再建法の成立で第一次廃止対象線の一つに挙げられ、1985年に廃止されてしまった。運行されたのはわずか21年で、その名にそぐわず、幸薄かった国鉄線だ。

私も美幸線には一度だけ乗ったことがある。メモを繰れば廃止の2年前、1983年8月のことだ。一日4往復、朱色のディーゼルカーが単行で走っていた。このときは同じ道北の天北線や興浜北線・南線なども巡ったのだが、悲しいことにその後すべて路線図から消えてしまった。廃止から33年、美幸線跡は今どうなっているのだろうか。

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美幸線現役時代の1:200,000地勢図(1973(昭和48)年修正図)

名寄駅で宗谷から降りて、レンタカーを運転してきた真尾さんと合流した。参加者はこの二人だけだった。札幌からの距離は200km以上(下注)、高速道路を使っても車で3時間近くかかる場所だから、無理もないことだ。

*注 JR(国鉄)の営業キロは、札幌から名寄まで213.0km。仁宇布までは256.3kmで、ほぼ東京~浜松間に相当する。

まずは、起点の美深駅へ向かうことにする。そこに美幸線の資料館があると聞いていたからだ。駅舎はレンガタイル貼りの2階建てで、美幸の鐘と称する時計塔が中央に立ち、見た印象は名寄駅よりもはるかに立派だ。階段を上がった2階の半分が展示室に充てられていた。開通から廃止に至るまでの写真や資料、駅や乗務員の備品、時刻表、乗車券類のほか、廃止撤回をめざして精力的に行っていた宣伝活動の品々も揃っている。たいへん充実した内容で、33年経ってもなお、消えた鉄道を惜しむ地元の人々の気持ちが伝わってくる。

1階の売店に記念グッズがあったので、サボ(列車の行先標)を象ったキーホルダーを土産に購入した。美幸線の乗り場は、確か向かいの島式ホームの外側、3番線だったはずだ。駅舎の横から覗くと、当時の面影がまだ残っているように見える。

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(左)美幸の鐘のあるJR美深駅舎
(右)美幸線の列車が発着していた美深駅3番ホーム(島式ホームの外側)
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美幸線展示室の展示品から
(左)サヨナラ列車の写真 (右)サボ(列車の行先標)、切符ほか関係資料
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(左)仁宇布駅の発車時刻表 (右)赤字路線を逆手に取った宣伝活動のチラシ

美深駅を後にして、道道49号美深雄武線を東へ進んだ。畑の中をまっすぐに山手へ向かう一本道だ。美幸線には中間駅が二つあり、東美深、辺渓(ぺんけ)といった。後者は道道のすぐ横にあったはずなので、車を停めて行ってみた。

十号川に架かるコンクリート橋が残っていたから、線路が通っていたのは確実だが、前後に続いていたはずの築堤は消失し、畑に変わっていた。当然、辺渓駅の跡も見当たらない。真尾さんが、橋台の際の、築堤を崩したと思しき場所に生えていた木を指さす。すでに幹の太さが一抱えもあり、経過した時間の長さを感じさせた。

このあと線路跡と道道は重なり合うように渓谷に入っていく。人家は全くないので、次はもう終点の仁宇布だが、駅間距離は14.9kmもあった。何度か渡るペンケニウプ川には、美幸線のコンクリート橋が、旧 美深町営軌道(下注)のものと思われる橋の遺構と並び残っている。ガーダー橋と違って、橋桁だけ撤去するわけにはいかないからだが、今となっては貴重な史跡だ。それに比べて、道路に並行していたはずの線路跡は、森の中で自然に還ってしまったようだ。

*注 美深町営軌道は、美深~仁宇布間にあった762mm軌間の簡易軌道で、主として木材輸送に用いられたが、美幸線開通に先立ち、1963年に廃止された。

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美幸線廃線跡
(左)辺渓駅手前の十号川に架かるコンクリート橋
(右)道道の第四仁宇布橋から、町営軌道の橋台(手前)、美幸線の橋梁(奥)を望む

やがて、高広パーキングと書いた標識が現れた。ここから仁宇布駅跡までの間は、線路が残されている。ディーゼルカーの代わりにレールバイク(軌道自転車)を使って、美幸線乗車を追体験できる観光施設に使われているのだ。当地ではレールバイクではなくトロッコと呼ぶので、以下の説明はそれに倣うことにしよう。

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仁宇布周辺の1:25,000地形図、トロッコ専用線路の注記がある

仁宇布駅跡を拠点とする「トロッコ王国美深」は、想像以上に設備の整った施設だった。車庫と整備場を兼ねた大きな建物と、その前に3本の側線を備えたヤードもある。整備場に隣接する高床のホームは旧 仁宇布駅のもので、子ども用のトロッコのミニコースが発着している。その後ろには、どういう経緯か知らないが、国鉄時代の581系寝台電車(サハネ581-19)が停めてあり、内部の見学も可能だ。長年の風雨に曝されて、塗装は無残に剥がれているものの、内装はまだきれいだった。

さっそく王国の乗車受付というか、入国審査カウンターへ行く。「広い施設ですね」と話しかけると、係官(?)の女性は「もう20年やっています。その間に拡げていったんです」と言う。トロッコ運行は1998年7月に始まっていて、この種の廃線跡活用では草分け的存在だ。支払いを済ませ、入国旅券の査証欄にスタンプを押してもらって、手続きは完了した。

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「トロッコ王国美深」
(左)現「駅舎」、コタンコロカムイ驛の看板が掛かる (右)内部の休憩スペース
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(左)正面の高床ホームは美幸線時代の遺構
(右)車庫の奥に置かれた581系寝台電車
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記念スタンプと記念乗車券

乗り場に出て、車両を観察する。3人掛けロングシートが前後に並ぶ6人乗りが主だが、グループ用の9人乗りも見かけた。全部で20台あるというから、人気のほどが知れる。車体には農作業などに使われる汎用小型エンジンが搭載されているので、足漕ぎは必要ない。クルマを運転する要領で、床にあるアクセルを踏めば走り、ブレーキを踏めば停止するのだ。サイドブレーキもついていて、停車中はこれを手前に引いておく。こうした操作があるため、運転する人は、普通自動車免許の提示を求められる(下注)。

*注 免許証を持っていない場合は、スタッフが運転する。

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トロッコ車両
(左)汎用小型エンジンを搭載 (右)運転席の床に設置されたアクセルとブレーキのペダル(緑の矢印)

トロッコは毎時00分の出発だ。受け付けたグループ数に応じて台数が用意され、少し間をおいて順にスタートする。私たちは12時発で、全部で6台走るうちの4番目だった。発車10分前に全員、乗り場前に集合して、スタッフの方から乗車に際しての注意事項を聞いた。
「コースは片道5kmありますので、往復で30~40分かかります。安全のために、前を行くトロッコとの車間は詰めないでください。100m程度空けて、つかず離れず走るようにお願いします」

「途中踏切が6か所あります。線路は廃線になっていますので、道路のほうが優先です。農道林道で車はめったに通りませんが、十分注意してください。鉄橋も大小合わせて6か所あります。落下防止のガードレールなどはないので、アクセルを緩めて通過してください。それから、ズボンのポケットに車の鍵やスマホなどを入れている方は、バッグか何かにしまったほうがいいです。線路の脇はすぐ草むらで、落とすとまず見つけられません」。

「折り返し点はループになっていて、上りの急カーブです。スピードを出し過ぎると脱線します。逆に緩めすぎると停まってしまいます。もし車輪が空転して再発進できないときは、助手席の人が降りて後ろから押してください…」。

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出発説明はこの看板の前で受ける

乗り場に移動し、赤色の17号車に乗り込んだ。真尾さんが運転席に座る。順番が来ると、スタッフの人が後ろのエンジンを始動した。出発だ。汎用エンジンのバタバタという騒音が響き渡り、それにレールの継ぎ目を通るときのゴトンゴトンというジョイント音が加わる。車体は絶えず小刻みに揺れ、乗り心地がいいわけではないが、風を切って本物の線路の上を滑っていくのは特別な感覚だ。

農道を横切り、白樺の並木を抜け、清らかな谷川のせせらぎを渡り、広葉樹の林に包まれる。片道だけでもけっこう乗りがいがある。真尾さん曰く「アクセルの遊びがないので、踏むとすぐ反応しますね。加減が難しい」。

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トロッコは白樺の並木を抜け、緑濃い森の中へ(左写真は帰路写す)

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(左)踏切の線路側に立つ一時停止標識(通る車はめったにないが)
(右)橋はコンクリート製で、バラストが敷かれ、下が透けてはいない

ようやく終端まで来た。ループは鉄道としては確かに超急曲線で、上り勾配にしてあるのは、速度を落とさせるためだとわかる。通過にはアクセルとブレーキの微妙な調節が必要だが、「だいぶ感覚がつかめてきました」と、停止することもなく無事クリアした。真尾さんは以前にも一度乗ったことがある。「そのときは係の人が手作業で1台ずつ方向を変えていましたから、ずいぶん省力化されましたね」。

ポイントの手前に係員が立ち、すべての車両がループに入るのを待っている。それからポイントを切り替えて、再び1台ずつ発車し、同じ線路を戻っていく。日曜ということもあって、次の13時発も6~7組並んでいて、なかなかの盛況ぶりだった。

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高広の終端ループにさしかかる
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(左)超急カーブ、速度注意! (右)ポイントの交差角度も急過ぎて、汗
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ループに全車両が入った後、ポイントが切り替えられ、仁宇布に向けて再発車

昼食をとった後は、天竜沼へ寄り道した。仁宇布の南南東約5km、松山の中腹にある森の中の湖沼だ。駐車場の端から始まる遊歩道を少し降りたところに、シナノキやナラ、エゾマツの深い林に囲まれて、ひっそりとたたずむ沼があった。濃淡ない混ざった木々の緑が、水面におぼろげに映り込んでいる。池を半周する木道があり、それを伝っていくと、見る角度と光線の差し加減によって、沼の表情が明から暗へ、また明へと刻々と変化するのがおもしろい。

これは、堀さんが好んで訪れた、無名で多少とも行きにくいところにある小さな沼、「B級湖沼」に該当するだろう。「実は、あの言葉を言い出したのは私なんです」と真尾さん。B級グルメなどに倣ってそう呼んでいたのを、堀さんが著書で取り上げたのだそうだ。

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森に囲まれ静かにたたずむ天竜沼
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木道が沼を半周している

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天竜沼周辺の1:25,000地形図

せっかく仁宇布まで来たので、時間の許す限りで、美幸線の未成線、すなわち未開通のまま放棄された線路の跡を追った。1:200,000地勢図に書き込んだルートのとおり、分水界の西尾峠を越えた後も、線路はまったく人家のない山中を縫っていく。これらは路盤工事がかなり進捗していたにもかかわらず、美幸線の営業廃止に伴い、あらかた原野や森に埋もれたか、農地その他に還されてしまった。

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牧場を横断する美幸線の未成線跡

その中で例外的に再利用されているのが、仁宇布~北見大曲間に掘られた第2大曲トンネル(長さ1,337m)だ。2車線に拡幅改築されて、道道美深中頓別線の天の川トンネル(1,353m)に生まれ変わり、難所だった大曲峠の山道を置き換えた。形は違えども、鉄道構想に込められた願いを実現したわけだ。私たちはこの道路トンネルを通り抜け、経緯を記す案内板を見届けて、全線が幻と化した美幸線跡を後にしたのだった。

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未成線のトンネルを拡幅改築した道道の天の川トンネル
(左)西口ポータル (右)経緯を記す西口の案内板

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美幸線未成線のルートと駅予定地
1:200,000地勢図(1972~73(昭和47~48)年修正図)に加筆

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図仁宇布(平成22年更新)、20万分の1地勢図名寄(昭和48年修正)、枝幸(昭和47年修正)を使用したものである。

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2018年9月 3日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) II

車掌氏からもらった火山急行 Vulkan-Express の沿線案内は続く("Tour-Info on Brohltalbahn" 英語版を和訳、内容一部略)。

「私たちの旅は、標高67mのブロールBEで始まります。ここに鉄道の本部があり、絵のような小さな駅舎、側線、機関庫、修理工場があります。ここで機関車と客車は保守され、修理されています。

駅を勾配で離れると、すぐに線路はブロールバッハの谷へ左折し、続く12kmの間それに沿って走ります。少し行くと、初めて主要道を横断し、すぐに鉄橋でブロールバッハ Brohlbach を渡ります。線路は主要道と並行しており、時速20kmで安定して走るので、追い越していく多くのドライバーに手を振るチャンスがあります。機関車の警笛がドライバーに、踏切で停止するよう促すでしょう。」

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整備工場の前の蒸気機関車 11sm
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ブロールバッハの谷を行く火山急行(帰路撮影)

「もう少し上り、小川を渡ると、近くの城の名にちなんだシュヴェッペンブルク Schweppenburg 停留所(下注)に着きます。続いて、今でもトウモロコシを粉に挽くのに水力を使用する数少ない製粉所の一つ、モーゼンミューレ Mosenmühle があります。テーニスシュタイン鉱泉 Tönissteiner Sprudel の看板は、ローマ人が既に2千年前に使っていたドイツ最古の鉱泉の一つへ行く道を示しています。」

*注 正式名はシュヴェッペンブルク・ハイルブルンネン Schweppenburg-Heilbrunnen。リクエストストップにつき、実際には通過することが多い。後述のヴァイラー Weiler とブレンク Brenk も同じ。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

「ここで谷が狭まり、勾配が1:40(25‰)に高まります。エンジン音からそれが聞き取れ、速度の低下に気づくはずです。約1km進んだ後、谷の高みにある次の停留場バート・テーニスシュタイン Bad Tönisstein で停まります。小さな緑色のブリキ小屋が、列車を待つ旅人に休む場所を提供します。谷の反対側に、柔らかい凝灰岩に掘られたいくつかの洞穴が見えますが、この地質は、ラーハ湖火山 Laacher See Vulkan の激しい噴火の後(下注1)、谷を巻き下りてきた火山灰がとどまってここに堆積したものです。柔らかい石は最初ローマ人が建築用の石に用いましたが、粉砕すれば、水中で硬化するコンクリートとして使えます(下注2)。」

*注1 爆発により火山は陥没し、カルデラ湖である現在のラーハ湖 Laacher See が生じた。ブルクブロールの南5kmに位置するこの湖は、面積3.3平方kmでアイフェル最大。
*注2 トラス Trass と呼ばれる特産の凝灰岩で、特にオランダで干拓事業に用いられた。

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(左)バート・テーニスシュタイン停留所の緑色の待合所
(右)テーニスシュタイン高架橋を渡る

「カーブを回り、着実に上るとすぐ、長さ120m、高さ12mの『テーニスシュタイン高架橋 Tönisstein Viadukt』で再び谷を渡り、いったん長さ95mのトンネルに潜ります(下注)。さらに少し上ると、標高145mのブルクブロール Burgbrohl 駅に着きます。駅舎は、地元産の石材とハーフティンバーの塔部から造られ、一部にスレートを葺いた、路線で最も美しいものです。

短時間停車した後、また上り、谷のへりに沿って家並みの裏手を進むと、向こう側に古城のそびえるブルクブロールの村を見渡すことができます。」

*注 テーニスシュタイン高架橋は路線で最大規模の高架橋で、蒸気列車の撮影ポイントでもある。また、テーニスシュタイントンネルは路線で唯一のもの。

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(左)テーニスシュタイン高架橋、列車の最後尾から撮影
(右)渡り終えると路線唯一のテーニスシュタイントンネル

「次はヴァイラー Weiler に停車します。ここにある側線は、巨大なヘルヘンベルク Herchenberg の採石場が使っていたかつて非常に多忙だった積み出し駅の唯一の忘れ形見です。ここから谷が広がり、遠方にもう火山起源のアイフェル山地の丸い山頂が見えています。A61号線を載せる巨大な道路橋の下を通ります。」

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(左)見栄えのするブルクブロール駅舎 (右)A61号線の高架橋の下を通る

「右手、その隣に高さ340mのバウゼンベルク Bausenberg のクレーターがあります。約14万年前のもので、ヨーロッパで最もよく保存された馬蹄形の火口です。ニーダーツィッセン Niederzissen(下注)を通り、しばらく主要道と小川に沿ってオーバーツィッセン Oberzissen へ進んでいくと、アイフェルの高い山々に囲まれた畑や牧草地や小さな森のある美しい田園風景が楽しめます。」

*注 ニーダーツィッセンは往路の休憩地で、時刻表では7分停車。通常施錠されている駅のトイレがこのときだけ開放される。

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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

「オーバーツィッセン駅を発車後、この路線が山岳鉄道と呼ばれる理由を実感することができるでしょう。というのは、鋭い左カーブで谷を離れ、美しい3径間のアーチ橋で通りをまたぎ、最後の、そして最も壮大な旅の区間にさしかかるからです。勾配は、続く5.5kmの大部分で 1:20(50‰)と険しくなります。1934年までここはラック鉄道でしたが、より強力なエンジンによってラックなしで上れるようになりました(下注)。」

*注 開通時はアプト式(2枚レール)ラック区間だったが、マレー式機関車や旅客輸送用の気動車の導入により、ラックレールは1934年に撤去された。

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(左)ニーダーツィッセンは往路の休憩地
(右)オーバーツィッセンの町を後にして、50‰の急勾配に挑む

「それが見えるとともに、エンジンが必死に働いているのが聞こえてきます。速度は徒歩並みに落ちますが、これは、ほかにはないアイフェルの田舎、畑や牧草地や森がゆっくりと客車の窓を通り過ぎるのを眺める時間を与えてくれます。列車の騒音で鹿がたいてい逃げていく一方で、線路のそばに放たれている馬はそれに慣れています。

右手には、古い火山の丘の上にオールブリュック城 Burg Olbrück が見えます。それは975年に遡り、何度か増築されました。フォン・ヴィート伯爵 Graf von Wied によって建てられたこの城は、1689年にフランス人によって破壊され、その後は地元民が石採り場として使っていました。2000年に城の欠損部が復元されて、今では巨大な塔に登り、上から壮大な景色を楽しむことができます。晴れた日には約50km離れたケルン大聖堂が見えるのです!!」

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古火山に立つオールブリュック城と麓の村ハイン Hain

「列車は3km上った後、ブレンク Brenk で側線と採石場の建物を通過します(下注)。ここではフォノライトが採掘されています。火山岩は粉砕されて細粒となり、コンテナでガラス工場に出荷されて、高品質のガラスの生産に使われます。利点の一つは融点を下げることで、コスト削減に役立ちます。採石場は、路線上の定期貨物輸送で唯一残っている顧客です。

*注 ブレンクの採石場はシェルコプフ Schellkopf という火山をまるごと採掘しており、すでに山の形を成していない。乱開発を防止するため、他の火山群は自然保護区に指定されている。

もうひと踏ん張りです! 美しい森の中を少し上り、それから高い築堤で谷を渡り、木々が列をなす切通しを抜けて再び開けた土地へ出ていきます。警笛の爆音が、17.5kmの旅を終えて標高465mの終着駅エンゲルン Engeln に到着したことを伝えてくれます。」

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(左)複線に見えるのはブレンク貨物駅の側線
(右)木々が列をなす切通しを抜ける。終点まであと少し

「ここが路線の終点ですが、かつてはケンペニッヒ Kempenich の村まであと5km(下注)走っていました。残念ながら、その区間の線路は1974年に撤去されました。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、エンゲルン~ケンペニッヒ間は6.32km、廃止日が1974年10月1日で、撤去は1976年としている。

エンゲルンからは、バスで旅を続けるか、標識の整ったハイキングルートを歩くか、あるいは駅のビュッフェで短い休憩と軽食をとった後、起点のブロール駅に列車で戻りましょう。」

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エンゲルン駅 (左)乗客は火山食堂で休憩 (右)すぐに機回し作業が始まる
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折返しの発車準備完了

そのエンゲルンでは折返しの発車まで30分の待ち時間があり、その間に機回し作業が行われる。駅舎は1997年に改築された木造の平屋で、ブルカーンシュトゥーベ(火山食堂) Vulkanstube と名付けられた軽食堂が開いている。乗客はここで休憩をとることができる。

駅の周囲は緩やかにうねる農地が広がり、人家は、西へ少し行った丘の麓にあるエンゲルンの小さな集落だけだ。地形的には高原の分水界で、なぜここが終点なのか、不思議に思う人もいるだろう。ケンペニッヒへの末端区間が廃止されたとき、ここに線路が残されたのは、一つ手前のブレンクでフォノライト(響岩)の貨物扱いが継続中だったからだ。ブレンクは急勾配区間に挟まれて手狭なため、坂を上り切ったエンゲルンを折返し駅にしたようだ。

線路に沿ってケンペニッヒ方へ少し歩いてみる。線路は駅舎から200mほどで途絶え、跡地はいったん畑に取り込まれた後、農道に姿を変えて続いていた。北を望むと、火山起源ののっぺりとした緑の丘(エンゲルナー・コプフ Engelner Kopf)を背景に、菜の花が満開で畑を黄色に染めている。のどかな春の景色に心が和んだ。

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エンゲルン駅周辺、火山起源の丘を前にして黄色に染まる菜種畑

復路では、予定通りオーバーツィッセンで蒸気機関車 11sm に引き継がれて、ブロールに着いた。一仕事終えた蒸機は、側線を伝ってエンゲルン方にある修理工場の前まで行き、石炭と水の補給を受ける。工場の扉は開放されていて、見学が可能だ。4軸ボギーの大型ディーゼル機関車 D5 や、改修中の気動車 VT30 がこの中にいた。

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ブロール駅構内で、石炭の補給を受ける蒸気機関車 11sm
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ブロール駅の整備工場
(左)大型ディーゼル機関車 D5 (右)気動車 VT30 は改修中

工場の手前から、ライン河港へ行く支線が右へ急カーブしていく。このいわゆる港線 Hafenstercke は、河畔まで実質500mほどの間に、DB線、連邦道と、難しい障害物をまるで軽業師のようにクリアしていくのがおもしろい。ブロールタール鉄道探訪の最後に、鉄道模型顔負けのこのユニークな軌跡を歩いて追ってみた。

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ブロール付近の1:25,000地形図(基図は GeoBasisViewer RLP から取得)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

まず線路はS字カーブを切りながら、高架に上がった連邦道412号線と平面交差する。次に、その高度を維持したまま、駅前通り Bahnhofstraße とDB線を乗り越える。高架橋の橋台には鉄道名の立体文字板が誇らしげに掲げられ、DB線を走る列車からも一瞬見える。かつてこれは、仕込まれたネオン管で光っていたらしい。

DB線に並行して下り勾配を下りたところが、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof のヤードだ。標準軌のDB線と接続しているので、線路は大部分3線軌条化されている。構内北端にはブロールタール鉄道の機関庫の建物も残っているが、もはや使われていない。

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(左)工場の手前で右へ分かれていく港線
(右)連邦道412号線と平面交差(ブロール方を望む)
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(左)右上写真の反対側を望む。下路トラス橋はDB線を越えている
(右)左写真のトラス橋を412号線の跨線橋から望む
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(左)トラス橋の橋台にある鉄道名の立体文字板
(右)ブロール積替駅、構内はほとんど3線軌条

港へ向かう線路は、構内の北東で分岐する。ここでもS字を切りながら、通行量の多いライン左岸の主要道、連邦道9号線を大胆にも平面で横断し、河畔に出る。岸辺のビアガーデンの前に低いプラットホームがあり、「ブロール・ラインアンラーゲン(ライン埠頭)Brohl-Rheinanlagen」と記された駅名標が立っていた。毎週火曜日になると、ここに火山急行の特別列車が停まり、ライン川の観光船から降りてきた客を迎えるのだ。訪れた日曜日はビアガーデンが大賑わいで、ホームはすっかり客用駐車場にされていたが…。

3線軌条は、港の護岸に沿ってなおも北へ延び、ブロール・ハーフェン(港)Brohl Hafen の貨物駅に達する。粉塵の飛散を防ぐため、鉄道が運ぶフォノライトはコンテナ方式に移り、ブロール積替駅でトラックに引き継がれるようになった。それ以来、港の駅は仕事を失い、吹き通るラインの川風が、静かな水面にさざ波を立てるばかりだ。

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(左)港へ向かう3線軌条、連邦道9号線と平面交差
(右)ライン河畔を走る
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ラインアンラーゲン(ライン埠頭)停留所
(左)プラットホームと駅名標(画面左端)
(右)河岸には、火山急行のロゴを掲げたライン川観光船の船着き場が
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(左)3線軌条は河港へ延びる (右)静まりかえるブロール・ハーフェン(ライン河港)

■参考サイト
火山急行 http://vulkan-express.de/

★本ブログ内の関連記事
 火山急行(ブロールタール鉄道) I

 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 ハルツ狭軌鉄道 II-ブロッケン線
 ハルツ狭軌鉄道 III-ハルツ横断線
 ハルツ狭軌鉄道 IV-ゼルケタール線

2018年7月20日 (金)

北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

(旧)シュピーカーオーク島鉄道 Spiekerooger Inselbahn
 駅 Bahnhof ~埠頭 Anleger 3.5km
 非電化、軌間 1000mm
 1885年開通(馬車鉄道)、1949年ディーゼル化、1981年廃止

(現)保存馬車鉄道 Museumspferdebahn
 延長1.0km、軌間 1000mm、1981年開通

「緑の島 grüne Insel」。大きく育った樹木が村の家並みを覆うシュピーカーオーク Spiekeroog は、好んでそう呼ばれてきた。島は、ランゲオークとヴァンガーオーゲの間に位置する。面積は18平方kmで、ランゲオークよりやや小さいだけだが、人口は800人に満たない(2016年)。年間旅行者数も東フリジアの有人7島中、バルトルムに次いで少なく(2016年、94,055人)、それが、静けさを求める人にとって至高の場所とされるゆえんだ。

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緑に包まれるシュピーカーオーク村の中心部。右奥の建物は村役場 Rathaus

その環境を守るために、島では徹底した交通政策がとられている。カーフリー(下注1)はいうまでもない。自転車にすら制限が課されていて、村(下注2)の中心や北岸のビーチに通じる一部の道は走行禁止だ。旅行者向けのレンタサイクルは存在せず、本土から持込む場合は30.90ユーロが徴収される。居住圏はせいぜい2km四方なので、島内の移動は歩きが前提になっている。

*注1 カーフリーのどの島もそうだが、業務用電動車は走っている。
*注2 小さな自治体 Gemeinde なので、本稿では「村」の語を使用する。

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シュピーカーオーク島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

そのような島にも、ほんの30年前までディーゼル動力の列車が走っていた。他の島と同じように、フェリーが着く旧埠頭と村の入口との間3.5kmを結んでいたのだ。さらに驚くことに、鉄道が導入されたのは1885年で、東フリジア諸島ではボルクムに次いで早かった。もとよりそれは馬車鉄道で、村の中心部からヴェストエント Westend(西端の意)に開設された紳士用ビーチ Herrenbadestrand(下注)まで長さ1.6km、1000mm軌間の鉄道だった。その上を、馬に牽かれた華奢な客車がころころと走った。目的からして、夏の間だけの運行だった。

*注 当時、紳士用ビーチとは長さ500mの緩衝地帯を隔てて婦人用ビーチ Damenbadestrand があり、そこへ向かうダーメンパート Damenpad(婦人の小道の意)の入口にも、馬車鉄道の停留所が設けられた。

1891年、南の干潟に新しい桟橋が開かれると、上記路線の途中で分岐してそこに達する支線が、翌92年に開通する。これが航路接続の始まりだ。初期の線路は干潟の上に直接敷かれており、船が着く満潮時には、馬は胴体まで、車両はしばしば車輪の上まで、水に漬かっていた。

一方、村では1907~08年に正式の駅舎が建てられたが、狭い街路の併用軌道は通行の妨げになった。それで1924年にルートを短縮し、起点が村の西端に移された。その後、ヴェストエントのビーチが海岸浸食を受けて村の北側に移転したため、ビーチ列車は1931年に運行を取り止めたが、桟橋との連絡は継続された。いつしかシュピーカーオーク島鉄道は、ドイツで定期運行する最後の馬車鉄道になっていた。

第二次世界大戦後はさすがに増加する訪問客をさばききれなくなり、1949年、新しい埠頭の建設に合わせて、ついにエンジン駆動に転換される。現在ハルレジール Harlesiel の港で静態展示されている小型ディーゼル機関車(下注1)は、このときの導入機だ。同時にルートも変更され、当初の終点ヴェストエントの手前で分岐して、西側の砂丘沿いに南下するようになった。干潟では、初めて線路が杭桁 Pfahljoch(下注2)の上に置かれ、列車は桟橋に直接乗り入れた。

*注1 「北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編」で言及している。
*注2 直訳で「杭桁」としたが、干潟に打ち込んだ木杭の上に梁を渡した構築物のこと。

1960年代に入ると、「赤列車 roten Zug」「緑列車 grünen Zug」と呼ばれた編成が、旅客輸送を担った。腰に赤色をまとうヴィスマール車両製造所製の中古気動車に、付随客車3両と長物車1両がつくのが「赤列車」だ。ふだんはこの列車で往復するのだが、多客期には、シェーマ社製の小型機関車が、緑色を巻いた2軸客車を牽いて応援に入った。

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(左)赤列車 roten Zug。桟橋で気動車を「機回し」中
Photo by Anton aubers at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)緑列車 grünen Zug
Photo by Drehscheibexxx at wikimedia. License: CC0 1.0

残念なことに、この島でディーゼル運行が行われたのは32年間に過ぎない。そのころ、常時波に洗われる桟橋や杭桁軌道は、全面改修が必要な時期に来ていた。村議会は港湾施設を同じ場所で改築するのではなく、より村に近い位置に新たに建設することを決めた。待望の新港は1981年に完成し、村の中心へ歩いて7~8分で到達できるようになった。これに伴い、鉄道は仕事を失い、同年5月29日に正式に廃止された。

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(左)本土との間を結ぶフェリー (右)島の新港。訪問客は徒歩で村へ向かう
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(左)目抜き通りノールダーローク Noorderloog は最初の馬車鉄道ルート
(右)移転後の駅へ通じるヴェスターローク Westerloog。左側の道が馬車鉄道跡

しかし、シュピーカーオークの鉄道史にはまだ続きがある。というのも、廃止を見越して、馬車鉄道を復活させる準備作業が進んでいたからだ。プフォルツハイム Pforzheim 出身で元教師のハンス・ロール Hans Roll 氏のリーダーシップにより、その計画は実現する。

車両は、シュトゥットガルト路面電車博物館協会 Verein Straßenbahnmuseum Stuttgart から16人乗りのオープン車両が調達された。線路は旧線のうち、村の駅からヴェストエントまで約1kmの区間が再利用されることになった。そして牽き馬の通路にするため、線路沿いの溝が埋められた。

*注 利用されなかった区間の軌道は撤去された。旧桟橋は長く残っていたが、最終的に2009年に撤去された。

車庫は当初、旧 貨物倉庫が使われたが、後に新築された駅舎棟に引込線と専用のスペースが設けられた。ちなみにこの貨物倉庫は、その続きで線路の北側にあった旧駅舎とともに現在、ピザレストラン「デア・バーンホーフ Der Bahnhof(駅の意)」になっている。

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(左)保存馬車鉄道の駅。右側にささやかなホームと線路がある
(右)本日の時刻表。当駅発15時と16時、帰着は15時50分と16時50分のみ

島内鉄道の黎明期を彷彿とさせるユニークな保存馬車鉄道はこうしてスタートした。しかしその歩みは常に順調とはいかず、車両を所有する協会が解散して、1997~98年の2年間、休止をやむなくされたことがある。幸い1999年に復活し、隣のランゲオーク島鉄道の改修で出た中古の資材を使って、2005~06年の冬に線路の更新も実施された。今や運行年数はディーゼル運行のそれに匹敵するまでになり、すっかり島の名物として定着している。

シュピーカーオーク観光局その他のサイトの情報を総合すれば、運行期間は4月中旬から10月中旬までだ。列車は村の駅を毎日13時、14時、15時、16時ちょうどに出発し、45分後に戻ってくる。片道12~15分程度かかるので、たとえば13時発の列車なら、西の終端(ヴェストエント)に着くのは13時15分ごろ、折り返しの出発が13時30分ごろ、村の駅への帰着は13時45分ごろになる(下注)。もちろん片道だけの乗車も可能だ。

*注 現地の案内板では、村の駅への帰着時刻を50分後と記載しており、生き物のことなので多少の時間的余裕を見込んでいるようだ。

ただし、「風と天候次第で変更がありうる」と注意書きされているように、必ずしも全便が運行されるとは限らない。実際、私が訪れた日は、上天気だったにもかかわらず、15時と16時発の列車しか設定されていなかった。13時前に勇んで駅へ行ったものの、駅舎のドアは閉ざされて、人の気配が感じられない。このまま列車を待つと本土へ帰る船に間に合わなくなってしまうため、空の線路と、囲い場でくつろぐ2頭の牽き馬を写真に収めただけで、その場を立ち去らざるを得なかった。

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かつて側線が張り巡らされていた旧駅構内。右の2頭の馬が交替で馬車を牽く
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防潮堤の外側の草原を直進する線路

運行状況についてウェブサイトやSNSで告知は行われておらず(下注)、島の観光パンフレットの記述も「実際の運行時刻は、駅の掲示板でご確認ください」とそっけない。考えてみれば、島の訪問者の平均滞在日数は6.43日(2016年)だ。長期滞在客の気晴らしが目的の運行なら、乗る側もそのつもりでのんびり構えるしかないのだ。

*注 ここには挙げないが、駅の掲示には、連絡先のメールアドレスと電話番号が書かれていた。

主役のいない線路の写真ばかりではつまらないので、別の日にシュピーカーオークを訪れて、運よく乗車と撮影に成功したT氏の作品をお借りした。草原を貫くか細げな線路の上を、愛らしい牽き馬に連れられて華奢なオープン客車がのどかに転がる光景を、じっくりご覧いただきたい。

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(左)出発を待つ「列車」。エンジンは1馬力、名前はタンメ Tamme、これはフリジア語で、英語なら Tommy とのこと
(右)車内は4人掛けベンチが背中合わせに並ぶ
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(左)ヴェストエントに向けて出発。右の線路は車庫への引込線
(右)馭者と車掌と案内人を兼ねるクリスツィアン・ロール Christian Roll 氏。創設者の息子で、馬車鉄道の運行を引き継いだ
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陸閘 Deichschart を越えようとする「列車」
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(左)陸閘の上は恰好のお立ち台 (右)乗客に島の自然を案内していく
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(左)唯一のカーブを曲がれば終点は近い
(右)板張りのささやかなホームがあるヴェストエントに到着

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
spiekeroog.de  https://www.spiekeroog.de/
シュピーカーオーク博物館協会 Museumsverein Spiekeroog
http://www.inselmuseum-spiekeroog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編

 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道
 開拓の村の馬車鉄道

2018年6月 2日 (土)

コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年のコンターサークルS 春の旅本州編の後半は、関西地方が舞台だ。5月27日は、昔の風情を残す旧 高野(こうや)街道と、サイクリングロードになっている南海高野線旧線跡を通して歩いた。駅でいうと、河内長野(かわちながの)と天見(あまみ)の間、8kmほどの距離だ。

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吉年邸の大クスノキ

10時30分、河内長野駅の改札前に集合したのは、今尾さんと私と、飛び入りで参加してくれた海外鉄道研究会のTさんの計3人。駅前広場の一角にある高野街道の碑のところから、今日の歩きをスタートさせた。

高野街道というのは、古来、京や大坂と真言密教の聖地高野山との往来に使われたルートの総称だ。京都方面から生駒山地の西麓を南下してくる東高野街道、堺から南東へ進む西高野街道など、道筋はいくつかあるが、それらが最終的に河内長野で一本にまとまり、紀見峠(きみとうげ)を越えていく。

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河内長野駅前の高野街道碑

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河内長野~三日市町周辺の1:25,000地形図

なかでも河内長野から三日市宿にかけては沿道に見どころが点在している。駅前から南に向かうと、立派な旧家、吉年(よどし)邸がある。だが屋敷より目を引くのが、庭に生える樹高20m、枝張り30mもあるという大クスノキだ。家の裏手から噴き出すように枝葉を広げ、白壁の土蔵を今にも呑み込んでしまいそうな勢いだ(冒頭写真)。

その脇で道は二手に分かれる。「右のほうが古い道なので、そっちを通ろうと思います」と案内役の私。今尾さんが持参した明治期の地形図では、三日市宿へショートカットする道がすでに描かれているので、右は旧々道ということになる。

段丘崖を降りて道が直角に曲がる所に、天野酒の醸造元、西條合資会社の風情のある建物が軒を連ねていた。道の左側(南側)が登録有形文化財の旧店舗「さかみせ」で、幕末から明治初期の建築だそうだ。修復工事が終わったばかりなので、軒に渡された銅の雨樋がまだ艶々としている。最近の景観整備事業で路面が石畳に置き換えられたこともあり、ここだけ昔にタイムスリップしたような一角だった。

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(左)銅の雨樋が光る西條合資会社の旧店舗
(右)旧西條橋を渡ると別久坂(2018年3月撮影)

旧西條橋で石川を渡った後は、また坂を駆け上がる。別久(びっく)坂と呼ばれるこの急坂で、道は烏帽子山の山裾にぴったりと張り付く。中世、山頂には城が築かれており、「防衛戦略上や経済的な理由から、高野街道を山裾に取り込んだものと考えられます」と案内板は語る。確かにここは上位段丘面で、宅地がなかった頃は遠くまで見通しが利いただろう。烏帽子形八幡神社の門前には休憩用のベンチがこしらえてあった。鬱蒼と茂る森の中から、鶯のさえずりが聞こえてくる。

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烏帽子形八幡神社の門前

上田の高札場跡で直角に曲がると、今度は松屋坂の急な下り道だ。吉年邸から直進してきた旧道と合流してすぐ、旧 三日市交番が公開されていた。木造2階の小さな建物だが、築年は古く1921(大正10)年とされる。「駅前に新しい交番ができるまで、駐在さんがここに詰めていたんです」とボランティアの案内人さん。かつてはすぐ隣に町役場もあったというから、辺りは行政の中心だったのだ。

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(左)旧 三日市交番が公開中 (右)風情を漂わせる三日市宿の家並み

加賀田川を渡る。私たちが注目したのは左に見える高野線鉄橋、ではなくその手前(西側)に残された煉瓦の旧橋台だ。おそらく1914(大正3)年開通時のもので、イギリス積みのどっしりとした外観が頼もしいが、観光パンフレットには何ら言及がない。「これも文化財なんで、説明板の一つぐらいほしいですね」とTさんが残念がる。「街道の風物じゃないと関心がないんでしょうか」と私。

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(左)高野線単線時代の煉瓦積み橋台 (右)現在線の脇に残る

それに対して宿場の歴史に関わるものは、本陣格の旅籠だった油屋跡、19世紀後半に造られ現存する八木家住宅と、どれも丁寧に解説されている。背景にショッピングセンターの無粋な建物が見え隠れするものの、蛇行する街路沿いに懐かしい瓦屋根の町屋が続いて、写真の一つも撮りたくなる界隈だ。

三日市町駅前まで来たので、少し早いが、そのショッピングセンター、フォレスト三日市の空調の効いたベンチを借りて、昼食にした。今日は気温が30度に近く、空気の重たさが梅雨の季節が近いことを知らせている。

駅を後に、直線状の旧道をなおも進む。石見川を渡る新高野橋の北のたもとに、八里石を見つけた。高さ178cmの立派な石碑で、おもてに「西是(これ)ヨリ高野山女人堂江(へ)八里」、側面に安政四(1857)丁巳年二月の日付が刻まれている。傍らの案内板によれば、これは堺から高野山まで13里ある西高野街道に沿って一里ごとに建てられた標石の一つで、すべてが今も残っているという。「日本のマイルストーンですね」と今尾さんが感心する。

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(左)八里石 (右)街道は紀見峠に向けてなおも延びる

史跡などの見どころはおよそこれが最後で、旧街道自体もこの先、断続的に国道に取り込まれてしまう。大阪府が作成したハイキング地図は、「車が多く、歩道がない区間もあるので、国道の脇道をのんびりと歩くこと」を勧めている。この脇道というのが、南海高野線の廃線跡を転用したサイクリングロード(歩行者自転車専用道)だ。一般道路で代用される区間はあるものの、天見川の谷に沿って約5.5kmの間延びている。

南海高野線には急勾配急曲線の連続する山岳区間があり、ズームカーと呼ばれる高性能の専用車両が活躍する舞台となっていた。今でこそ橋本~極楽橋間に短縮されているが、かつては大阪寄りの紀見峠の前後区間もそうだった。

1970年代に入ると、全国的なニュータウン開発の波が山間部まで及んでくる。それに呼応して高野線でも、河内長野~橋本間で輸送力強化を目的とした複線化が進められた(下注)。大型車両の乗り入れが可能となるよう、高架橋やトンネルの新設による線形の抜本的な改良も実施された。そしてその引き換えに、谷間を曲がりくねっていた単線の旧線は任務を解かれ、廃線跡となったのだ。

*注 複線化(多くの区間でルート変更を伴う)の時期は以下のとおり。
河内長野~三日市町 1974(昭和49)年、三日市町~千早口 1984年、千早口~天見 1983年、天見~紀見峠 1979年、紀見峠~御幸辻 1983年、御幸辻~橋本 1995年(ただし新線切替は1994年)
 旧線区間はカーブの最小半径が160mだったが、これを400m(一部240m)に緩和した。反面、ルートをショートカットするため、最大勾配は旧線25‰に対して新線は33‰とされた。

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三日市町~天見周辺の1:25,000地形図
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高野線旧線時代の地形図(1977(昭和52)年修正測量)。範囲は上図と同じ

美加の台(みかのだい)駅の500m手前で、線路際から左前方へサイクリングロードが分かれていく。軽自動車なら通れる道幅で、簡易舗装もされている。路側に植え込みや並木が続いているから、一般的な農道でないと知れるが、案内板などは見当たらない。立っているのは歩行者自転車専用の道路標識のみ。旧高野街道のルートマップでもせいぜい「国道の脇道」扱いだから、地元では観光資源とはみなされていないのだろう。人通りもなく、私たちが歩いている間、サイクリストのグループと一、二度すれ違っただけだった(下注)。

*注 自転車旅行者の間では、由来は定かでないが、「トトロ街道」と呼ばれているという。

小道はさっそく、木漏れ日が差し込む谷間に入っていく。少しの間、桜の並木が造られている。周りの林に負けないように育ったと見えて、かなりの丈がある。「線路のそばに咲いていたのかな」「枝ぶりから見て、整備のときに植えたんでしょうね」。廃線からすでに30年以上経つので、桜の木なら十分育つだろう。

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(左)サイクリングロードになった旧線跡が分かれていく
(右)谷間を桜並木が彩る(いずれも2018年3月撮影)

右手には現在線の高架に続いて、ニュータウンの玄関口として新設された美加の台駅が見える。丘の上には大規模な住宅地が広がっているはずだが、谷間にいては実感できない。現在線のガード下をくぐった後は、さらに谷が深まった。天見川の清流を二度横切るので、もしやと橋の下を覗いてみたら、頑丈そうなガーダー(橋桁)と煉瓦の橋台が確認できた。旧線の遺構に違いない。

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美加の台駅の南側で高野線をくぐる
なお、旧線跡(加賀田信号所があった)は現在線と同一レベルで交差していたので、サイクリングロードはこの区間で旧線跡からそれて迂回している
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天見川を渡る個所に旧鉄橋の橋台と橋桁が残る

渓谷を抜けたところで、サイクリングロードはいったん終わり、一般道路に接続している。廃線跡は道路の隣で草むらの農道と化し、その先では民家の庭先や畑の拡張に利用されているようだ。少し進むと、現在線が美加の台トンネルから出てきた。ここから千早口駅まではルートが移設されていない、すなわち廃線跡がないので、私たちは下岩瀬集落の中を抜けていった。

線路をくぐれば、千早口(ちはやぐち)駅だ。駅前の観光案内板には珍しくサイクリングロードも描かれていたが、旧街道のように、鉄道史跡であることも書き添えてほしいところだ。「信号機でも残っているとわかりやすいんでしょうけど」とTさん。実際は、鉄道標識すら保存されておらず、さっきの民家の畑に赤く塗られた境界標らしきものがあっただけだ。

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千早口駅前の観光案内板

標高が上がったせいで、頬に当たる風が少し涼しく感じられるようになった。駅横から再びサイクリングロードを進む。こちらはさっきより舗装が新しいので、後で整備されたのだろう。右に左にカーブが連続し、そのつど新しい景色が開けるのが楽しい。対岸には国道が通っていて、トラックの走行音も聞こえてくるのだが、それさえ別にすれば、なかなか趣のある道だ。

谷の中で、少し幅の広い箇所を見つけた。舗装道は1線分だが、柵の隣に同じような幅の空地が並行しているのだ。横断する水路の側壁の幅から、谷側にもう1線あったことが推定できる。そのときは信号所の跡と思ったが、よく考えてみると、旧線の千早口~天見間はわずか1.9km。列車交換のための信号所は必要ない。あるいは天見川の対岸に砂利採取場があるので、積込用の貨物側線だったのだろうか…。

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(左)千早口駅南方。側壁は現役時代のオリジナル
(右)柵の隣に側線跡のような空地が並行する

旧線は峠に向けて高度を稼ごうとしていたらしく、谷底との高低差が徐々に広がってくる。家並みが谷底に沈んで見える。鬱蒼とした林の中、天見小学校の裏手を回っていくと、今日の目標にしていた天見駅だった。板張りの山小屋のような無人駅舎だが、中で自動改札機がしっかり通せんぼしている。

すぐ下手に温泉旅館の南天苑があり、建物が登録有形文化財になっているので、見に行った。辰野金吾事務所の設計で、堺の大浜公園に建っていた保養施設の別館を1935(昭和10)年に移築したものだという。元の場所は戦争で空襲に遭い、そこに残っていた本館は焼失してしまった。移設のおかげでこの建物だけは命拾いしたことになる。おかみさんから奨められて、庭から座敷も拝見した。

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天見温泉南天苑(2018年3月撮影)

「これから高野山に登ってきます」という元気な今尾さんを天見駅に見送って、Tさんと私はサイクリングロードをもう少し先まで行った。ここでも桜並木が程よいカーブを描いている。次の支谷を横断する地点に架けられているのは、安っぽい擬製のアーチ橋だったが、その下に本物の煉瓦溝渠が顔を覗かせていた。

心地よい歩き道は、しかし蟹井神社の手前の辻で途切れる。例によって、人と自転車を描いた道路標識が立っているだけで、実にそっけない終わり方だ。そこから先、廃線跡は築堤上の空き地に変わり、残存する高いガーダー橋を経て、現在線に合流していく。紀見峠の下を貫く新しいほうのトンネルが、もうすぐそこに見えている。

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(左)天見駅舎 (右)サイクリングロードはなおも上流へ
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(左)擬製のアーチ橋の左下に煉瓦溝渠
(右)サイクリングロードの終点。廃線跡の築堤はまもなく現在線と合流する

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図富田林(昭和52年修正測量および平成19年更新)、岩湧山(昭和52年修正測量および平成22年更新)を使用したものである。

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2018年4月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

朝、JR御殿場線の上り電車に乗った。雲一つない秋晴れのもと、裾野の急坂を上っていくと、岩波駅あたりから、左前方の車窓にすっかり雪化粧を終えた富士山が顔を覗かせる。次の富士岡から南御殿場駅にかけてがハイライトだ。山体がいよいよ左正面に移動してきて、朝陽に照らされた優美な姿が窓枠いっぱいに展開する。

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御殿場線の車窓から見る朝の富士(富士岡~南御殿場間)

2017年11月25日のコンターサークルSの旅は、この御殿場線沿線に残る昔の複線跡がテーマだ。今でこそ地元密着型のローカル線だが、よく知られているようにこの路線は、1889(明治22)年の開通から丹那トンネルが完成するまでの45年間、東海道本線の一部だった。「燕」や「富士」「櫻」のような戦前を代表する長距離特急が疾駆し、主要幹線として全線が複線化されていたのだ。しかし、熱海回りのルートが1934(昭和9)年に開通すると、その地位から降ろされ、さらに太平洋戦争中にレール供出のために単線に戻されてしまった。

線路は撤収できても、トンネル、橋脚、橋台などおいそれとは移動できない構築物がある。堀さんは、著書『地図のたのしみ』(1972年)の中で、そうした複線時代の遺構が数多く存在することを書き留めている(下注)。元の記事は1964年に雑誌「鉄道ファン」で発表されたものだから、現地取材は50年以上前のはずだ。果たして今はどうなっているのだろう。私たちは堀さんに案内してもらったつもりで、沿線を旅することにした。

*注 『地図のたのしみ』p.146~(2012年新装新版ではp.153~)「四 地図に見る鉄道今昔 2 小田原付近と御殿場線」

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御殿場線(国府津~沼津間)のルート
1:200,000地勢図に本稿関連の駅名を加筆

電車は酒匂川(さかわがわ)の深い渓谷を通り抜けて、山北駅に9時50分に着いた。ここは東海道線時代に、箱根越えの前線基地として列車運行を支えた駅だ。駅前広場には、大出さんと石井さんが車で来ていた。

今日の行程を相談しているとき、石井さんが「古い地形図に、山北駅から南へ曲がっていく線路が描いてあるんですけど、これは何ですか」と聞く。明治中期の地形図(下図左参照)では確かに、駅から出た線路が南へ鋭くカーブし、山に突き当たって途切れている。「鉄分の濃いお二人ならご存じじゃないかと思って…」。しかし悔しいかな、私たちは線路の正体を知らなかった。

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山北駅周辺の地形図
(左)1896(明治29)年の1:50,000地形図
(右)現行1:25,000地形図(2014(平成26)年)。加筆した赤枠が線路跡地で、今も宅地がこの形に並ぶ

手がかりを求めて、山北町の鉄道資料館へ行ってみることにした。広場の東に建つふるさと交流センターの2階で、今年(2017年)8月にオープンしたばかりだ。開館時間前だったが、係の方が開けてくださった。山北が鉄道の町だったことを物語る貴重な資料や写真を見ていくうちに、まさに疑問に答えてくれるパネルがあった。

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山北駅 (左)構内で静態保存されているD52 70 (右) 山北町鉄道資料館の展示

そこには「緊急避難線(キャッチサイディング)」と書いてある。坂を下りてくる列車がブレーキ故障などで暴走した場合に、本線から逸らせて停止させるための設備で、昔は勾配区間にしばしば設けられていた。「でもどうしてこんなにカーブしてるんでしょうね。停まる前に脱線してしまいませんか」と石井さんが畳みかける。そこで資料館を辞した後、現地を見に行った。

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山北駅扇形庫の左上から延びる切妻屋根の縦列がキャッチサイディング跡
(山北町鉄道資料館の展示を撮影)

駅の東南の、町役場や生涯学習センターが建っている敷地には、かつて補助機関車を格納する扇形機関庫があった。その一角から南向きに右カーブしている宅地の列が、キャッチサイディングの跡らしい。宅地に沿って狭い道路が、国道246号線をアンダークロスした後も続いている。敷地は室生神社の境内をかすめて、なおも山手へ進み、斜面に阻まれる形で終わっていた。歩いてみると、末端に向かってかなりの上り勾配であることが実感される。「これなら脱線する前に、列車は失速しますね」。

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キャッチサイディング跡をたどる
(左)国道の南側から駅方向を望む。道路と右の宅地が跡地
(右)山際付近。左手前から左奥にかけての住宅の列が跡地

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トンネルと橋梁が連続する山北~駿河小山間
1:50,000地形図に加筆

所用のために戻る石井さんを見送って、大出さんと私は、予定の複線跡を探しに西へ向けて出発した。まず、国道から右に折れ、旧道(現 県道76号山北藤野線)に入ってすぐ、箱根第一号と第二号、2本のトンネルの間の橋梁が見える場所に、車を停める。フェンスがあって中に立ち入れないものの、トンネルは塞がれておらず、橋桁(ガーダー)もしっかり残っている。

現在、山北~谷峨(やが)間は、北側の旧 上り線が現役だ。しかし、さっきの資料館の展示によれば、1943(昭和18)年の単線化では、南側の旧 下り線に列車を通したのだそうだ。ところが、1968(昭和43)年の電化に際して、使われていなかった旧 上り線でトンネル断面の拡張工事を実施し、架線を設置した。このため、旧 上り線が現役に復帰し、代わりに旧 下り線が廃線になった。堀さんが訪れたのは電化前なので、ディーゼルカーは、今はなき南側の線路を走っていたはずだ。

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(左)左のトンネルポータルが箱根第二号の旧下り線
(右)箱根第一号、第二号トンネルの間に残る旧線ガーダー

第一酒匂川橋梁の脇にも、橋台が残っているのを確認してから、同 第二橋梁のほうへ回った。旧道は、線路を俯瞰するような高い位置を通っているので、集落に通じる細道を降りる。ここは複線仕様の橋脚が残っていた。石積みの橋脚を煉瓦で現在の線路面近くまでかさ上げしているから、昔は下路ガーダーが架かっていたのだろうか。

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第二酒匂川橋梁を俯瞰
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複線仕様の橋脚が残る第二酒匂川橋梁

昼食の後、谷峨駅を経て、今は無き第一相沢川橋梁(下注)の近くに車を置いた。1889年の開通時は単線だったので、第一相沢川橋梁で川の左岸、つまり北側に渡り、(旧)箱根第六号トンネルを経て、第二相沢川橋梁で右岸に戻っていた(下図上参照)。1901(明治34)年の複線化では、この1km足らずの区間だけ腹付け(隣接して敷設)ではなく、対岸を2本のトンネルで通過する別ルートとされた(下図中)。つまり、ここでは上下線が川を挟んで走っていたのだ。戦時中の単線化では旧 下り線(南側)が生かされたが、戦後の電化でも、山北~谷峨間のように旧 上り線が復活することはなかった(下図下)。

*注 川の名は現在、鮎沢川だが、鉄橋名は相沢(相澤)川とされている。

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谷峨駅西方の線路の変遷
(上)初期の単線時代 1896(明治29)年 1:50,000地形図
(中)複線時代 1921(大正10)年 1:25,000地形図
(下)単線化後 2014(平成26)年 1:25,000地形図

堀さんは、谷峨駅で下車して付近を歩いている。「(旧 第五号トンネルの西口から)川の方を見ると、大きな橋脚が一本河原に立ち、その向こうに対岸の橋台とそれに続く築堤があって、さらにその向こうに短いトンネルが望見された」(『地図のたのしみ』p.156)。

谷峨駅に通じる旧 第五号トンネル西口は今も確認できるが、川の中に橋脚は見当たらず、短いトンネル(旧 第六号)もすでに跡形すらない。おそらく国道の拡幅改良工事で、痕跡はほぼ完全に道路の下に埋もれてしまったようだ。

「北側の切通しを抜けると、左側の高みに登っていく細い道(中略)が分れている。それを入ってゆくと、左に鮎沢川を見下ろし、対岸に山腹をゆく御殿場線を望み、右に旧上り線の切り取りの跡を見下ろす、眺めのよい場所(中略)に出た」(同書p.156)。少しは期待していたのだが、この無名の展望地も道路工事の犠牲になったとおぼしい。

「もう少し先で対岸に渡る橋があるので、そこまで行ってみましょう」。大出さんと相談して、徒歩で向かう。それは、川沿いの小さな工業団地へ行く橋だったのだが、そこから右手に、第二相沢川橋梁の橋台が確認できた。両岸の取付け部分はすっかり工場の敷地に取り込まれたが、石積みの橋台だけが両岸から、まるで昔話を交わすかのように向かい合っているのだ。午前中からいくつか見てきた遺構の中で、この光景は特別印象的だった。

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第二相沢川橋梁
(左)両岸に残る橋台(矢印の位置)
(右)左岸(北側)の橋台。背後は工場敷地に埋もれている

車に戻って、再び西へ走り出す。駿河小山(するがおやま)駅へ通じる第一小山踏切から、箱根第七号トンネル西口の石積みポータルが間近に見えた。トンネルが連続する渓谷区間はこれが最後だ。線路はまだしばらく鮎沢川の谷間をくねっているが、谷は次第に浅くなり、やがて空の広い富士の裾野に出ていく。

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(左)箱根第七号トンネル西口。左側に旧上り線のポータルが見える
(右)足柄駅北方にある第五相沢川橋梁。ここも橋脚は複線仕様

「あと、どこか見るところありますか」と、大出さんが聞く。私は朝の上り電車の車窓を思い出していた。「複線跡じゃないんですが、富士岡駅のスイッチバックの築堤はどうでしょう」。富士岡駅は、1911(明治44)年に信号場として開設されたが、25‰の急勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックが採用された。坂道発進が困難な蒸気機関車のために、本線に並行して堤を築き、発進用の水平な線路を造ったのだ。電化に伴い、線路は撤去されてしまったが、高堤防と呼ばれた築堤だけはそのまま残されている。これも、主要幹線だった時代の貴重な遺構だ(下注)。

*注 同様の築堤が次の岩波駅にもある。

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富士岡駅で交換するJR東海313系
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富士岡駅のスイッチバック線跡、通称 高堤防
(左)駅のある北方向を望む (右)南方向。築堤末端ではかなりの高低差がつく

駅の南の住宅街を縫う小道をたどり、踏切を渡ってこの築堤に上がった。傾きかけた陽が雪の山襞に隈取のような影を加えて、富士が朝とはまた別の美しさを放っている。入口の案内板には、「富士見台(高堤防)」の名とともに、「富士見台という地名は数あれど最高の眺めを得られるのはここです」と誇らしげに記してあった。容赦なく視界を横切る新東名の巨大な高架がいささか目障りだが、それも現代的な小道具と思えば、確かにここは絶景だ。

堀さんは、谷峨で旧線跡を訪ねた後、再び下り列車を捕まえて、そのまま沼津まで乗り通したようだ。富士はそのとき、ディーゼルカーの車窓にどんな姿を映していたのだろうか。

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高堤防から望む富士

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図山北(大正10年測図および平成26年12月調製)、5万分の1地形図松田惣領(明治29年第1回修正)、秦野(昭和47年編集)、山中湖(平成2年修正)、20万分の1地勢図東京(平成3年要部修正)、横須賀(昭和55年編集)、甲府(昭和55年編集)、静岡(昭和55年編集)を使用したものである。

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2017年11月30日 (木)

コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

今日も宇都宮駅東口で待ち合わせた。中心街とは反対側で、空き地が目立つ東口だが、LRTの着工を来年に控えて、ストラスブールのシタディスをモデルにした大きな看板が立てられている。富山市のようなスマートな都市装置の始動を期待しながら、今の風景を写真に収めた。地図の旅2日目の10月8日は、黒磯の晩翠橋(道路橋)を見るとともに、東北本線(以下 東北線)の旧線跡をたどりながら北上する。

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宇都宮駅東口に立つLRT計画推進の大看板

参加者は堀さん、真尾さん、大出さん、石井さん、中西さん、私の計6人。堀さんはいつものとおり石井さんの車に、他のメンバーは真尾さんのレンタカーに分乗して、国道4号線を北東へ向かった。

最初の目的地は、東北線の鬼怒川(きぬがわ)橋梁だ。上野から順次延伸されてきた日本鉄道、現在の東北線は、1886(明治19)年10月1日に宇都宮~那須(現 西那須野)間が開業している。このときのルートは宇都宮からほぼ北へ直進するもので、氏家(うじいえ)の西方で、東西に分流していた鬼怒川を渡っていた(下の地図参照、下注)。ところがこの川は暴れ川で、大雨のたびに氾濫しては線路に多大な被害を与えた。そのためルートは1897(明治30)年に早くも放棄され、現在の宝積寺(ほうしゃくじ)経由に付け替えられたのだ。

*注 後年、河川改修で東鬼怒川が鬼怒川本流となり、西鬼怒川は川幅縮小の上、水路化された。

水害の教訓から、新しい橋梁は、東の宝積寺台地と西の岡本台地が接近して、鬼怒川低地が最も狭まる地点を選んで架けられている。東西鬼怒川がすぐ上流で合流しているので、橋梁が1本で済むという点でもベストな渡河地だ。現在は上下線がそれぞれ単線橋で渡る。明治の橋梁はとうに姿を消し、現在上り線が使っているのが、跡を継いで1917(大正6)年に完成した2代目だ。

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宇都宮北方の東北本線が描かれた1:200,000図
(左)北へ直進する旧線が描かれた唯一の地図(輯製二十万分一図、1894(明治27)年修正) (右)宝積寺経由の現ルート
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鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆。薄茶色に着色した部分が台地

私たちは国道4号線の新鬼怒川橋を渡り、東北線を乗り越したところで狭い脇道に入った。車を降りて護岸上の踏み分け道を少し行くと、2本並ぶ鉄橋の袂に出られる。上り線橋梁は南側で、頑丈そうな煉瓦積みの橋脚に、ポニーワーレントラスと呼ばれる小型のトラス桁が載っている。下り線の、スマートだが冷たげなコンクリート橋との対比で、リベット打ちのレトロな機能美がひときわ目を引く。

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東北線鬼怒川(きぬがわ)橋梁。左が上り線のワーレントラス橋

橋脚はよく観察できるのだが、浅い角度のため橋桁の眺めは今一つだ。それで引き返して、国道橋の歩道へ回り、側面から鉄橋の全貌を眺めることにした。横構のない小型トラスは古風なスタイルだが、背景に広がる那須の山並みを遮らないのがいい。コンテナを連ねた長い貨物列車が、ジョイント音を高く響かせながら走り去るのを見送る。

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国道橋からの眺め

じっと眺めていた石井さんが「なぜ一番右のトラスだけ白いままなんでしょうね」と聞く。誰も答えないので、「塗り直さないでいつまで持つか実験しているのでは」と私。「持つなら塗らずに済まそうってこと?」「そうかも…」。本当のところは塗装作業の途中だったのかもしれない。

次の目的地は黒磯なので、しばらく4号線をドライブする。市街地をバイパスして、那珂川(なかがわ)のたもとに車を付けた。

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黒磯の晩翠橋のたもとに到着

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晩翠橋周辺の1:25,000地形図に加筆

晩翠橋(ばんすいきょう)は、旧国道4号(現 県道55号西那須野那須線)が那珂川を渡る地点に架けられた道路橋だ。初代の橋は、栃木県令に就任した三島通庸(みしまみちつね)が新陸羽街道整備の一環で1884(明治17)年に造らせたもので、木造だった。今より約70m上流にあり、大水で損壊しては、その都度架け直された。現在の橋は実に5代目で、1932年(昭和7)年に、世界恐慌に伴う失業対策で実施された国道の改良工事に合わせて建設されたものだ。

昭和の晩翠橋は、取付け道路を含めて画期的な設計で水害に対する強度を高めている。三島の旧橋は、扇状地面に載る黒磯の市街地から一段下がった位置(低位段丘面)で対岸に渡されていた。対する新橋は市街地から築堤を延ばし、道路はほとんど勾配なしで橋に達する。そのため橋面は、水面から23mの高さになった。さらに、流路に橋脚を立てずに済むアーチ構造を採用し、全長126.0m、中央径間70m(下注)の、大規模で景観的にも優れた橋梁が誕生したのだ。

*注 数値は、現地の案内板による。

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(左)初代~第4代の写真(現地案内板を撮影) (右)現 晩翠橋を川べりから見上げる

橋の南のたもとに、大きな写真入りの案内板があった。考えてみれば、いくら立派な橋梁を造っても、このように上路アーチの場合、通行人の目に入るのは欄干と路面だけだ。全体像は、側面から見て初めて理解できる。私たちもそうしたいと思ったが、それには下の河原に降りる必要がある。右岸の河原に停車している車や人影が見えるから、行けるのは確かなようだ。

しかし、実際にたどり着くのは一苦労だった。地理院地図に描かれている橋の300m北側の小道は柵で塞がれていて、車を進めることができなかったのだ。方々探し回ったあげく、石井さんがグーグルマップで橋の南側に別の道を見つけて、ようやくたどり着く。せっかくライトアップまでして橋を観光につなげようとしているのに、鑑賞する場所への道案内を欠くのは不備ではないか。

ともかく、水際から勇壮な鋼橋を見上げることができた。この構造はバランスドアーチといって、アーチを連続させることで、中間の2つの支点にかかる力(水平反力)を相殺する。もちろん見た目にも美しく、この角度から眺めると、まるで白鳥が翼を広げて大空に飛び立とうとしているかのようだ。

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翼のように広がるアーチが緑の渓谷を横断

「そろそろお昼にしましょうか」と真尾さんが皆に声をかけた。ベンチや土手の段に思い思いに座って、持参の昼食を開けようとしたら、堀さんが「昼食を買ってくるのを忘れちゃったな」と言う。しかし、心配する必要はなかった。「おにぎりありますよ」「私のアップルパイもどうぞ」と差し出されたもので、たちまち1食分が揃った。みんな優しい。

それから、400mほど下流に架かる東北線の橋梁を見に行った。鬼怒川橋梁と同じで上り線が古く、1920年竣工の上路プラットトラスが架かっている。下り線はコンクリート橋だが、初代のものとおぼしき煉瓦造の橋台が残っていた。カーオーディオのボリュームを全開にしてキャンプもどきを楽しんでいる若者たちの傍らで、新幹線と3本並んだ鉄道橋を写真に収める。

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少し下流に架かる鉄道の那珂川橋梁
手前から東北線上り線、同 下り線、東北新幹線

那珂川河畔を後にして、私たちは東北線の旧線跡をたどりながら北上した。同線の黒磯~郡山間は、1887(明治20)年に開業している。黒磯と白坂の間では、那須火山群からの泥流に覆われた起伏の多い土地を横断するため、曲線とともに随所に25‰の急勾配が必要になった。第一次世界大戦後、輸送力の逼迫から東北線では複線化を含む大規模な改良工事が実施され、1920(大正9)年にこの区間は、勾配を緩和した新線に切り替えられた。それに伴い残されたのが、20km近い旧線跡だ。

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堀さんの著書『地図を歩く』(河出書房新社、1974年、p.232~)にこのことが詳述されている(下注)。今でこそ廃線跡探索は鉄道趣味の一ジャンルとして確立しているが、おそらくその先駆けとなったのが『地図のたのしみ』や本書に収録されたレポートだ。私もこれで、地形図と照合しながらルートの変遷を追うという楽しみ方を知ったので、読み返せば懐かしい。

*注 2012年刊の『地図を歩く』新装新版ではp.220以下。

晩翠橋の少し先の瀬縫交差点を右折して、県道211号豊原高久線へ。国道4号(黒磯バイパス)をくぐった地点から、道路は旧線跡に載り、上瀬縫の台地越えを再現している。車なら何でもないとはいえ、じわじわと上る坂道だ。新幹線を乗り越えて現在の東北線に突き当たると、道は旧線からそれて高久駅に並行する。そして駅の先で右折して、線路の反対側へ出ていた旧線跡に再び合流する。

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東北線 黒磯~大田原間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

まもなく、現在線と並行する気持ちの良い直線路に入った。「撮り鉄がいますね」と話しながら車を走らせていると、余笹川の手前で列車がこちらに向かってくるのが見えた。「あれ、四季島(しきしま)じゃない?」と真尾さんが叫ぶ。なるほど、撮り鉄さんはこれを待っていたのか。私たちも路側のスペースに車を寄せて、今年デビューしたばかりのクルーズ列車がしずしずと通過するのを見届けた。私のコンデジではぶれてしまったので、大出さんにもらった動画のキャプチャーが下の写真。

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黒田原駅南方でクルーズ列車「四季島」と遭遇
(大出さん撮影の動画からのキャプチャー)

黒田原の市街地では町役場などが並ぶ旧駅前の道の直線化が完了していて、ナビを間違えた。ここで旧線は坂を下っていき、泥流原の縁に黒川がつくった浅い谷に通路を求める。堀さんが訪れた1972(昭和47)年当時は、黒川の中に「レンガ造りの背の高い橋脚が、五〇年の風雪に耐えて屹立して」(同書p.239)いたのだが、すでに撤去され、二車線道路に姿を変えている。

しかし、まもなく改良区間が終わり、一車線の田舎道が現れた。おおかた刈取りを終えた田んぼの中を、左右に緩くカーブしながら続いている。黒川を再び渡ったところで、豊原駅へ寄り道することにした。新線への切替えと同時に、その間にあった黒田原、豊原の両駅も移転したが、なかでも豊原新駅は旧駅から南へ1.6kmも離れた丘の中腹に造られた。小さな無人の駅舎から跨線橋で島式ホームに渡る構造だが、果たして今どれだけの乗降客があるのだろうか。

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ひっそりとした現 豊原駅

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東北線 大田原~豊原間周辺の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

成沢集落を過ぎたところで、旧線跡の道路に戻る。40数年前は、「ススキが両側に伸び放題に伸びているデコボコの砂利道で、ときたま小型自動車が砂埃をまきあげて通るほかは、秋の日ざしをあびて静まりかえった、野趣あふれる道だった」(同書p.242)。さすがに舗装されたものの今も一車線のままで、堀さんが歩いたときと景色はほとんど変わらないだろうと思わせる。だが、対向車の数は確実に増え、それもけっこう飛ばしてくる。「廃線後も幹線のままですね」と真尾さんが笑う。信号のない一本道なので、抜け道に利用されているのかもしれない。

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黒川橋梁南方の旧線跡を転用した一車線道路を進む

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東北線 豊原~白河間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

列車の撮影地として名高い黒川橋梁が見えてきた。丘の高みを伝ってきた現 東北線は、ここで黒川の広い谷を横断して、利根川水系と阿武隈川水系の分水嶺に向かう。橋梁は、上り線が長さ333.7mの堂々とした上路ワーレントラス橋で、下り線はシンプルなプレートガーダー橋になっている。

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堂々たる姿の東北線黒川橋梁

橋の下の空き地に車を停めた。せっかくだから、鉄橋を渡っていく列車を撮ってみたいが、旅客列車はさっき通ったばかりだ。「貨物列車が来るといいんだが。山下さんの神通力は効きませんか」。昨年、山陰本線の惣郷川橋梁へ行って以来、堀さんは、私に列車を呼び寄せる力があるのではと疑っている(下注)。しかし残念ながら、運はさっきの四季島との遭遇で使い果たしてしまったようだ。しばらく待ってみたものの、来ないものは来ない。

*注 惣郷川橋梁でキハ40系が通った話は「コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス」参照。

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(左)車を止めて待つも列車は現れず (右)地形図で経路を確認(大出さん撮影)

今日はよく晴れて、強い日差しが降り注ぐ。「ここにいても暑いので先へ進みましょう」と再び車に乗り込んだ。一車線道に出て、ちょうど鉄橋の真下を通っていたときだ。車内の話し声が突然、耳を聾さんばかりの轟音にかき消された。頭上を貨物列車が通過している。

「直下だと凄い音ですね。てっきり車が何かを引っ掛けて引きずってるのかと思いましたよ」と真尾さん。そのまま車を走らせようとしたら、中西さんが「大出さんを置いてきちゃった」と叫ぶ。私たちが轟音にたじろいでいる間に、列車を撮ろうと飛び出していったらしい。慌てて車を停めた。まもなく何喰わぬ顔で戻ってきた大出さん、うまく走行シーンを捉えることができたそうでよかった。

道はこの後、杉林の中を右にカーブを切りながら坂を上っていく。側面に、黒田原からの下り坂と同じような石垣が続いているので、同時期に整備したのだろう。やがて東北線下り線の踏切、少し離れて上り線の踏切を通過。それから廃線跡は緩やかなカーブで上り線に吸収されていき、本日の探索のゴールと決めた白坂駅に到達する。

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林の中の旧線跡道路

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図黒磯(平成13年修正測量)、宝積寺(平成13年修正測量)、5万分の1地形図大田原(明治42年測図)、同(平成7年修正)、白河(明治42年測図)、同(平成5年修正)、輯製20万分の1図日光(明治27年修正)、宇都宮(明治27年修正)、20万分の1地勢図日光(昭和52年編集)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
栃木県の土木遺産 http://www.doboku.shimotsuke.net/
土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/

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 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

2017年11月19日 (日)

コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

2017年秋のコンターサークルSの旅は、北関東が舞台だ。1日目10月7日は、かつて東洋一の銅山の町として栄えた足尾(現在は栃木県日光市足尾町)を回る。

集合場所に指定されていたのはJR日光駅だったが、私の泊っている宇都宮駅前まで、真尾さんがレンタカーで迎えに来てくれた。小雨そぼ降る中、杉並木が続く国道119号(日光街道)を走って、日光駅へ。集合時刻の10時21分に到着した電車から外国人を交え大勢の客が降りたけれども、残念ながらサークルのメンバーの姿はなかった。堀さんは明日来るので、本日の参加者は私たちと、足尾へ先回りしているはずの大出さんの3人だけだ。

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足尾本山駅構内風景

再び車に乗り込んで、国道を西へ進んだ。清滝から大谷(だいや)川を渡ると、国道122号は長さ2,765mの日足(にっそく)トンネルで足尾側へ抜ける。トンネルは一直線だが、「この上に細尾峠というつづら折りの旧道があって、霧の中を堀さんと踏破したことがあります」と真尾さん(下注)。雨は上がってきたものの、谷の上空を覆う雲はまだ低い。

*注 このときのレポートは、堀さんの著書『消えた街道・鉄道を歩く地図の旅』(講談社+α新書、2003年、p.182以下)にある。

まずは、わたらせ渓谷鐵道(以下「わ鐵」という)の通洞(つうどう)駅へ向かった。足尾の市街地は、渡良瀬川上流の谷沿いに長く伸びている。そのため町には、わ鐵の前身である旧 国鉄足尾線時代から、足尾本山(あしおほんざん)、間藤(まとう)、足尾、通洞と4つの駅があった。

最奥部に位置する足尾本山は精錬所の前の貨物専用駅で、1987年に貨物輸送が終了して以来、使われていない。次の間藤が旅客列車の終点で、最後まで採鉱が続けられた本山地区の最寄り駅だ。三つ目の足尾はわ鐵の運行拠点で、列車交換ができ、広い構内には貨物側線も残されている。そして最も川下の通洞は、棒線駅ながら足尾の中心部にあり、乗降客も多い。

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足尾(通洞、小滝地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

まずはその通洞駅前に車をつける。破風にハーフティンバーをあしらった山小屋風のデザインの駅舎がなかなかお洒落だ。駅前の小さな広場で大出さんと合流。山の緑が差し掛かるホームに出ると、ちょうど桐生方面の上り列車が入線するところだった。ちょっと褪せてはいるが、阪急電車のマルーン色を連想させる310形気動車だ。せっかくなので発着のようすを見届けてから、3人で足尾探索に出かけた。

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通洞駅 (左)ハーフティンバーの山小屋風駅舎 (右)昔の面影を残す駅舎内部
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桐生行き310形気動車が停車中

大出さんは私たちの到着を待つ間に近辺を歩いていて、「足尾のことがよくわかりますよ」と勧めてくれたのが足尾歴史館だ。足尾銅山と町に関するさまざまな歴史資料を展示している。運営するNPO法人の理事長さんの説明を伺いながら、館内を回った。「明治の足尾は、日本初の科学技術がたくさん導入された近代都市だったんです」と理事長。「電話、水力発電、索道、溶鉱炉など、みなそうです。電気鉄道も京都より早く、鉱石の運搬に使われていました」(下注)。

*注 旅客用の電気鉄道は1895(明治28)年京都で初めて走り始めたが、その4年前(1891年)に足尾では銅鉱石運搬用の電気軌道が開設されたという。

汚染排水や煤煙による渡良瀬川流域の深刻な公害問題は、足尾銅山の負の側面として知られているが、反面、鉱山は採掘・精錬技術の近代化で生産量を拡大させ、そのお膝元で町は栄華を極めた。鉱床のある備前楯山を取り巻く形で本山、通洞、小滝の主要3鉱区が立地し、その周囲に従業員とその家族、関連産業に携わる人々が暮らす市街地が形成されていた。足尾の人口は大正時代に3万8千人を超え、県内で宇都宮に次いで大きな町だったのだ。

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足尾歴史館 (左)鉱山町の歴史を資料で追う (右)トロッコ列車の周回線路

そのとき、「今からガソリンカーが走ります」とアナウンスが聞こえてきた。「外の乗り場へどうぞ」と理事長さんに急かされて建物の裏に回ると、波板屋根の簡易ホームに、黒装束のボンネット型ミニ機関車が停まっている。後ろには、北海道開拓の村で乗ったのとそっくりの小型客車がつけられていた。

*注 北海道開拓の村の馬車軌道の話は、本ブログ「開拓の村の馬車鉄道」参照。

足尾では、1895(明治28)年9月に開業した馬車鉄道が町民の足となり、資材や生活用品の輸送を担っていた。1925(大正15)年、馬に代わってガソリンエンジンの機関車が投入され、昭和30年代まで使われた。停車中の列車はそれを復元したものだ。

走路は当時と同じ610mm(2フィート)軌間で、もとスケートリンクだった場所に、延長174mの周回線が敷かれている。私たちもさっそく豆客車のロングシートに納まった。列車は、バイクのような騒々しいエンジン音とともに動き出すと、超急カーブを小気味よくしのいで走っていく。側線には、立山砂防軌道から譲渡されたというディーゼル機関車や、オープン客車も留置してある。それを横目に見ながら2周回って、ホームに帰着。思いがけない列車体験は楽しかった。「足尾ガソリン軌道歴史館線」と名付けられた軌道は、4~11月の第一土・日曜に運転されている。幸運にも今日はその日だったのだ。

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足尾ガソリン軌道歴史館線のトロッコ列車
(左)ガソリン機関車 (中)豆客車 (右)客車内部

資料館を後にして、主要鉱区の一つ、小滝へ向かった。わ鐵の第二渡良瀬川橋梁の下をくぐってすぐに右折、支流の庚申山川に沿う細道を上っていく。まず見つけたのは、道路橋に隣接して川をまたいでいるダブルワーレントラスの廃橋だ。傍らの案内板に旧 小滝橋、大正15年架設とある。地形図では「小滝坑跡」と注記された地点で、橋の上流側で石積みの坑道が口を開けている。残念ながら鉄パイプのバリケードに阻まれて、中には入れなかった。

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旧 小滝橋
(左)残存するワーレントラスの構造物 (右)橋の左手に旧小滝坑が口を開ける

銀山平の狭い段丘では、道の両側に階段状に均された敷地と土留めの石垣が見られた。公園の案内板によると、かつてここには多くの社宅が整然と並んでいたそうだ。最盛期には小滝だけで1万有余の人が暮らしていて、病院、学校が建ち、料理屋や芸妓屋もあったという。しかし、今は背の高いカラマツの林にすっかり覆われて、面影すら見いだすことができない。

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銀山平社宅跡
(左)階段状の敷地と土留めの石垣 (右)盛時の写真(現地案内板を撮影)

国民宿舎の前で引き返して、本山坑のほうへ向かう途中、足尾駅に立ち寄った。駅舎は平入り切妻造りで、庇が広く張り出しているのが特徴的だ。また、いいタイミングで桐生行きの気動車が入ってきた。今度は510形、2013年に導入された車両で、わ鐡で最も新しい。右手へ回ると、がらんとした敷地の側線に、国鉄色の気動車やタンク車が数両留置されている。真尾さんいわく、「ここにはヤードがあって、昔は貨車の操車をしていました」。

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足尾駅 (左)屋根庇を張り出させた駅舎 (右)桐生行き510形気動車

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足尾(本山地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

次いで、終点間藤駅へ向かった。こちらは線路が1本きりで、駅のすぐ上手に車止めがあり、先は草むらと化している。その中をさまよっている人がいたので、何かと思ったら、線路脇の木から落ちた栗を拾っているのだった。ホームに設置されている展望台は、対岸の山の斜面に現れるカモシカを見るためのものだそうだ。カモシカの姿は見かけなかったが、シカは確かにいて、銅親水公園からの帰り道に車の前を急に横切り、ヒヤッとする。

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間藤駅 (左)花壇になった旧折返し線跡と展望台 (右)駅舎

さらに上流へ。上間藤の道路脇で、地面に斜めに突き刺さる直径1mほどの鉄管を発見した。これは、理事長さんの説明にもあった日本初、1890(明治23)年完成の間藤水力発電所の跡だ。上部に延びていたはずの管路跡を確かめようと小道の階段を上っていく途中、地元の男性がすれ違いざまに「どこへ行かれる」と聞く。目的を話すと、「水路はここを通っていたんだ」と、斜面にかすかに残る正確な位置を教えてくれた。その人が言うには、発電所の跡地は、土盛りされて道路が通ったので、今はもう見ることができない。「だが、川の中に残骸があるよ」と指さす方向に、流れに洗われる煉瓦の塊が見えた。

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間藤水力発電所跡
(左)水を落とす鉄管の一部だけが残る (右)発電所のかつての姿(現地案内板を撮影)
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間藤水力発電所跡
(左)松木川に洗われる煉瓦の塊 (右)地元の男性が案内してくれた

親切な人で、「これから古河橋を見に行くんです」と話すと、「案内するよ。なに、散歩ついでだ」。それで車に同乗してもらい、1km上流の橋のたもとまで走った。重要文化財指定の古河(ふるかわ)橋は、松木川に架かる径間48mのボーストリング型ワーレントラス橋で、これも1890年に造られている(下注)。資料館で見た写真(下写真右)によれば、日本初の電気軌道もこの橋を渡っていたようだ。しかし老朽化に伴って、現在は通行禁止になっている。「隣に新しい道路橋ができてからも、歩いて渡れたんだが」とこの人。

向こうに見える大きな構造物は、本山精錬所跡だ。その奥に、支流の出川を渡る貨物線のガーダー橋があり、三態三様の橋が一つの構図に収まる。男性が、同じように橋を見に来た別のグループに捕まってしまったのを機に、私たちはお礼を言って、さらに上流へ車を移動させた。

*注 土木学会(JSCC)のサイトによれば、開通は1891(明治24)年1月1日。

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古河橋
(左)ボーストリング型トラス橋、対岸に本山精錬所跡
(右)橋には貨物を運ぶ電気軌道が併設されていた(足尾資料館の展示を撮影)

谷の奥に、白い簾のような滝がかかる何段もの堰堤が見えてきた。その周囲が整備されて、銅(あかがね)親水公園と呼ばれている。一般車が入れる最奥部なので、駐車場に車を置いて一番大きな砂防堰堤の脇まで上った。ここで北から降りてくる松木川に、東西からの支流が合流する。西側の谷をトラス橋が横断しているのが見えるが、森林鉄道の跡ではなく、発電所へ通じる送水管を通しているのだ。大出さんは以前ここまで来たことがあって、「あの鉄橋には見覚えがあります」。一帯は森林の乱伐と鉱山からの煙害で禿山になり、土砂の流出が激しい。懸命の植林活動が進められているが、堰堤の内側はすでに土砂で満杯だった。

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谷を塞ぐ大規模な砂防ダムと何段もの堰。ダムの手前に銅親水公園がある
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砂防ダムの上流側にて。奥に送水管を通すトラス橋が見える

帰り道、間藤から延びていた貨物線の廃線跡を訪ねてみた。松木川右岸、南橋集落の裏手に、間藤から26~30‰の急勾配で上ってきた線路がある。すっかり錆びが回っているものの、2本のレールはしっかり残っていた。土砂崩れであらかた埋まった難所を抜けると、トンネルの手前に腕木信号機が立っている。最近塗り直したのだろうか、異様にきれいだ。矢羽根が進行表示になっていたので(?)自己責任で進ませてもらうと、線路は短いトンネルを抜けて右に緩くカーブし、さっき古河橋から眺めた出川鉄橋を渡っていく。

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足尾本山への貨物線
(左)休止線にしては美しい腕木信号機 (右)S字カーブのトンネルを反対側から見る

その先が足尾本山駅だが、残念ながら手前に柵が立てられ、「鉱山施設につき立入りお断り」の札が掛っていた。柵越しに覗くと、構内は意外に整然と保たれている。しかし、錆びた側線に沿って破れ窓と朽ち板の建物が並ぶ、まるで時が止まったような光景には哀愁が漂う。じっと眺めていた真尾さんが「夕張を思い出しますね」とぽつりと呟いた(下注)。衰退した鉱山地区は、どこか共通の雰囲気を持っているようだ。谷の底は日暮れが早い。影が濃くなり始めた廃駅の構内を写真に収めて、私たちは車に戻った。

*注 北海道夕張の探訪記は「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

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出川鉄橋の先に足尾本山駅を望む

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図中禅寺湖(平成27年3月調製)、足尾(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
NPO法人 足尾歴史館 http://ashiorekishikan.com/

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2017年11月 4日 (土)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。

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モファット・ロードの絵葉書、ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め
Image from The New York Public Library
https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99

*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。

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ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図
USGS 1:24,000地形図 East Portal
1958年版に加筆

目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の10711(フィート)と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。

■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja

ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。

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ロリンズ峠越え旧線全体図
USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆

旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。

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旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間
USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆

ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。

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デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617

間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。

しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。

*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。

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ライフルサイト・ノッチのスパイラル
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634

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旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆

この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。

モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。

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モファット・ロードの絵葉書、アロー駅
Image from wikimedia.

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旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆

旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。

ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。

モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。

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ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車
Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg.

さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。

*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。

それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグCraigまでが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。

*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。

実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。

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モファット線とドットセロ短絡線

その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。

その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。

*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。

モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。

*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。

ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。

ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。

(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車、右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)、
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)、
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望。中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む(当時の絵葉書)
image from wikimedia

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車、2006年撮影
(左)278号機関車 (右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で有利と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine  http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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