2017年11月 4日 (土)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。

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モファット・ロードの絵葉書、ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め
Image from The New York Public Library
https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99

*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。

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ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図
USGS 1:24,000地形図 East Portal
1958年版に加筆

目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の10711(フィート)と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。

■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja

ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。

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ロリンズ峠越え旧線全体図
USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆

旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。

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旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間
USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆

ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。

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デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617

間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。

しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。

*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。

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ライフルサイト・ノッチのスパイラル
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634

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旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆

この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。

モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。

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モファット・ロードの絵葉書、アロー駅
Image from wikimedia.

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旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆

旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。

ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。

モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。

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ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車
Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg.

さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。

*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。

それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグCraigまでが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。

*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。

実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。

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モファット線とドットセロ短絡線

その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。

その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。

*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。

モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。

*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。

ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。

ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。

(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車、右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)、
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)、
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望。中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む(当時の絵葉書)
image from wikimedia

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車、2006年撮影
(左)278号機関車 (右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で利点と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine  http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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2017年10月15日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド

1887年9月、リオグランデやサウスパークに7年遅れて、レッドヴィル Leadville に次の挑戦者が登場する。その名はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)。以下、「ミッドランド」と呼ぶことにしよう。

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ハガーマン峠西側ヘルゲート Hell Gate へのアプローチ
Courtesy, L. Tom Perry Special Collections, Harold B. Lee Library, Brigham Young University, Provo, UT 84602.

この鉄道はどこから来たのだろうか。デンヴァー Denver とプエブロ Pueblo の間にコロラドスプリングズ Colorado Springs という町がある。現在は州でデンヴァーに次ぐ大きな都市に成長しているが、もとはリオグランデが、付近の鉱泉を売りにして1871年から開発を始めた鉄道沿線のリゾートタウンだ。鉄道網ができ、1890年にクリップルクリーク Cripple Creek でコロラド最後のゴールドラッシュが起こると、鉱物資源の集積地として発展する。この町からミッドランドは、サウスパークと同じ峠を越えてレッドヴィルへ、そしてさらに西へと線路を延ばしていった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の路線概略図
赤線がミッドランド、青線がリオグランデ(主要線のみ)

ミッドランドには、前2社とは一線を画すセールスポイントがあった。2社が3フィート(914mm)の狭軌線だったのに対して、最初から4フィート8インチ半(1435mm)の標準軌で建設されたのだ。これは、大陸横断鉄道はもとより国内の主要鉄道網にそのまま車両を乗入れできることを意味する。リオグランデも対抗上、翌1888年にプエブロ~レッドヴィルの競合区間に急いで標準軌の線路を敷いたほど、そのインパクトは強かった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の
絵葉書、1900年ごろ
Photo from wikimedia

中でもブエナビスタ Buena Vista 北方からレッドヴィル西方までの約80kmは、ライバル同士が並走する区間になった。両者の線路は、時にアーカンザス川 Arkansas River をはさんで対岸に、時には全く隣接して敷かれていた。

リオグランデも標準軌にするのだが、完全に軌間を変更してしまうと狭軌車両が直通できなくなる。そこで一部区間では3線軌条方式を採用した。その後、支線の廃止に伴って、コロラド山中の路線は標準軌に統一されていくが、そのきっかけとなったのがミッドランドの参入だったのだ。

さらにミッドランドは1887年に、ブエナビスタまでの区間で定期運行を開始するにあたり、スケネクタディ機関車工場 Schenectady Locomotive Works 製115形3両を含む28両の機関車を投入した。115形は軸配置2-8-0(先輪1輪、動輪4輪)で、「コンソリデーション Consolidation(混載輸送の意)」と呼ばれた当時としては最大級の蒸気機関車だ。荷主たちに輸送力の優位性をアピールする意図があったことは言うまでもない。

では、鉄道がどんなルートを通っていたのか、地図で確かめておこう。幸いレッドヴィル周辺については、各社が競合していた時代の地形図が残っている(下図参照)。ご覧の通り、リオグランデ、ミッドランドとも、山麓の緩斜面に立地するレッドヴィルの町まで谷筋から寄り道する形で線路を設けている。ミッドランドにとってはこれが本線で、アーカンザス川に沿う線路は後から造ったアスペン短絡線 Aspen Short Line と呼ばれるショートカットルートだ(下注)。

*注 下図は1889年版だが刊行は少し後のようで、サウスパークのハイライン High Line(図の右上から降りてくる2本の線路のうちの右側)がすでに後継会社のコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad と注記されている。

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1880年代、レッドヴィルを目指した路線網
赤がミッドランド、青がリオグランデ、緑がコロラド・アンド・サザン(旧サウスパークのハイライン(高地線))
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

さて、ミッドランドがさらに西へ進出するには、どこかで大陸分水嶺を越える必要がある。選ばれたのは、レッドヴィルの西に位置する峠だ。ミッドランドの社長の名からハガーマン峠 Hagerman Pass と呼ばれるようになるが、鉄道通過で注目されるまでは交易ルートからも外れた無名の土地だった。峠の南1.3kmにある鞍部の直下に掘られたトンネルは、長さが659m(2,161フィート)に過ぎない。しかし、線路の最高到達地点は標高3,514m(11,528フィート)で、アルパイントンネルに次ぐ高度になった。当然、そこに至るアプローチは生易しいものではない。

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ハガーマン峠東側の多重ループ
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1915

地形図(下図)に開通当時の状況が描かれているが、峠の東側では、約560mある高度差を稼ぐために4回も折り返しながら最大32.4‰の勾配で上っていく。山麓から3つ目の馬蹄カーブは、谷をまたぐ長さ330mの大規模なトレッスル(下の写真参照)が組まれていて、とりわけ壮観だった。一方、峠の西側は谷底まで900m(3000フィート)以上も下降するため、最大30‰の片勾配が延々32km(20マイル)も続く。西から鉱石などの重量貨物を牽いて上ってくる機関車にとっては、試練の道中だったに違いない。

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ハガーマン峠周辺
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版、Mount Jackson 1909年版に加筆
*注 ハガーマントンネル~アイヴァンホー湖間のルートは誤りで、実際は赤のマーカーで示したように湖の南側の尾根を巻いていた。

分水嶺を驚異のルート設定で克服したミッドランドは、1887年12月にコロラド川本流と出会うグレンウッドスプリングズ Glenwood Springs まで線路を完成させて、分水嶺をまたぐ列車運行を開始した。線路はアスペンジャンクション Aspen Junction(後のバソールト Basalt)で二岐に分かれ、片方は1888年2月に目標としていた鉱山町アスペン Aspen に達した。

もう片方は、コロラド川北岸のライフル Rifle まで自社路線を建設(一部は乗入れ)し、その先をリオグランデと協定を結んで線路を共有することで、1890年9月にユタ州境に近いグランドジャンクション Grand Junction まで開通させた。これによりミッドランドは、ユタ州側の鉄道(リオグランデ・ウェスタン鉄道 Rio Grande Western Railway)と接続を果たし、予定していたソルトレークシティ Salt Lake City へ列車を直通できるようになった(下注)。

*注 ミッドランドは、1890年にリオグランデのかつての敵サンタフェの子会社となり、名称はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railroad に改められた。日本語では区別できないが、旧社名の Railway が Railroad に変わっている。しかし1893年のサンタフェ倒産により、再度独立する。

しかし山越えの線路には、開通直後から問題が発生していた。標高の高い峠道はとりわけ冬の気候が厳しく、雪が6月まで融けきらないこともあった。そのため、湿度の高い状態が長く続き、影響で木製の枕木やトレッスルが早々と腐り始めたのだ。取り換えてもまた同じ繰り返しになることから、抜本的なルート変更が計画された。

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第3馬蹄カーブの大規模な木造トレッスル橋
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-729

より低い位置で峠の下を貫くバスク=アイヴァンホートンネル Busk-Ivanhoe Tunnel がそれだった。長さは旧トンネルの4倍以上の2,863m(9,394フィート)あり、標高は3,338m(10,953フィート)まで落ちる。地図(下図の破線ルート)に示したとおり、ハガーマン峠前後の多重ループを一掃し、距離も1/3以下に短縮する画期的なものだった。不安定な地質に苦しみながら工事は3年がかりで進められ、1893年に開通した。

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旧線ハガーマントンネルと新線バスク=アイヴァンホートンネル(図では破線のルート)の位置関係
USGS 1:24,000地形図 Homestake Reservoir 1970年版、Nast 1970年版、Mount Massive 1967年版、Mount Champion 1960年版に加筆
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ハガーマン峠西側で32km続いていた下り坂(地図はその一部、上図の西側に当たる)
USGS 1:24,000地形図 Nast 1970年版に加筆

ただし、新線での運行が定着するまでには一騒動があった。ミッドランドはすでに巨額の負債を抱えていたため、トンネルは同名の建設会社が完成後も所有し、当面ミッドランドが通行料を支払って運行する形をとった。しかしこれは問題を先送りしたに過ぎず、不況下でミッドランドの経営が行き詰ってくると、料率をめぐる交渉が決裂する。鉄道会社が再建されたとき、新経営陣は放置されていた旧線を急ぎ復旧して、1897年10月から新トンネルの運行契約を破棄するという強硬策に出た。列車の運行は旧線経由に戻された。

ところが運の悪いことに、次の冬(1898~99年)は例年以上に天候不順で、連日嵐が吹き荒れた。1月になると降り積もる雪で、旧線ではスノーシェッド(雪囲い)が倒壊し、線路も埋まってしまった。峠の線路に列車が閉じ込められたが、救援に向かおうとしたロータリーもあまりの豪雪に歯が立たなかった。荒天が収まり線路が開通したのは4月になってからで、不通期間は78日に及んだ。さすがに懲りたミッドランドは建設会社を買収することにより使用料問題を解消し、1899年5月から運行を新線に復帰させたのだった。

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アスペンに入る2本の鉄道
USGS 1:125,000地形図Mount Jackson 1909年版に加筆

ミッドランドは、標準軌や最新車両という武器を引っ提げ、域内輸送のみならず、山地を通過する貨物もリオグランデから奪おうとした。その目論見はどこまで成功したのだろうか。

2社はレッドヴィルに次いで、発展が期待されたアスペンや西方との連絡輸送ルートの確立を競った。路線の開通はほとんど同時期だが、ミッドランドは速達性と輸送力で応分のシェアを獲得した。しかし、リオグランデも1890年には標準軌化を完了させるとともに、待避所の増設や複線化を進め、輸送体制を強化していく。ミッドランドの場合、稼いだ利益は社債の高利息の支払いに消えていき、運転資金は潤沢とは言えなかった。さらに1900年から1901年にかけての資本移動の結果(下注)、ミッドランドはライバルであるリオグランデに半分所有される形になり、もはや競合関係ではなくなってしまった。

*注 1900年にミッドランドの株式をリオグランデ・ウェスタンとコロラド・アンド・サザン Colorado and Southern が取得し、1901年にそのリオグランデ・ウェスタンの株式をリオグランデが取得して経営権を掌握した。

この頃のアメリカは好況期で、沿線では鉱業だけでなく畜産業も盛んになり、貨物輸送は順調に増加した。しかし1908年を境に、経済は不況に転じる。通過貨物はリオグランデだけでも担える量に縮小し、ミッドランドには流れにくくなった。鉱山の閉鎖や生産設備の移転により、域内輸送も減少した。

ところが、第一次世界大戦が始まると、連邦鉄道管理局は、戦時輸送の効率化を図るために、東西の短絡ルートであるミッドランドに列車を集中させるよう指令を出した。突然、膨大な貨物が集中したため、ミッドランドでは運行管理が追い付かず、列車の遅延や貨物の滞留が常態化した。当局はミッドランドが対応できないとみるや指令を撤回し、今度は列車をリオグランデ経由に振り替えた。この混乱で、ミッドランドから通過貨物がまったく消えてしまい、ついに息の根を絶たれることになった。1918年に運行休止の許可が下り、線路は1920年代初めに撤去された。

コロラドの中央山岳地帯における鉄道事業者の争いで、勝ち残ったのはリオグランデだった。もちろん経営権をめぐる複雑な動きも含めた結果ではあるものの、主要河川であるアーカンザス川とコロラド川の自然回廊をいち早く選択するという、先行者ならではの特権も大いに寄与しただろう。この基軸ルートを最大限に活用して、路線網を広範囲に張り巡らせ、それによって地域内と全米各地との移送貨物、さらには大陸を横断する通過貨物も受け入れることができた。

ほかの鉄道は、リオグランデより有利な経路を採ろうとしたものの、連絡運輸をうまく取り込むことができず、多くの場合、地域内輸送を担ったにとどまる。そのため、鉱物資源に多くを依存する地域が不況に陥ると、たちまち収益は悪化し、経営が立ちいかなくなってしまったのだ。

とはいえ、覇者たるリオグランデも、ライバルに対抗するために自社路線のさまざまな拡張や改良を行っている。とりわけ山脈の東西を結んだ2本の主要ルートは、アルパイントンネルやハガーマン峠にも匹敵する北米屈指の山岳鉄道だった。次回はその起源と盛衰に迫ろう。

(2007年1月18日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ハガーマン峠」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
Colorado Midland Railway - A Short History
http://www.willcallhandyman.com/ColoradoMidland/Short_History_Page.html
DRGW.net - The Colorado Midland Railway
http://www.drgw.net/info/ColoradoMidland
William Henry Jackson Collection - Brigham Young University Library
https://lib.byu.edu/collections/william-henry-jackson-collection/

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2017年10月10日 (火)

ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート

銀の都レッドヴィル Leadville に、サンタフェとの鉄道戦争を決着させたリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)が到達したのは1880年のことだ。ところが、リオグランデは狙い通りに町の輸送需要を独占することはできなかった。なぜなら、次のライバルが別の方向からすでに姿を現していたからだ。

ライバルの名は、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P、下注)。以下「サウスパーク」と呼ぶが、リオグランデがロイヤル峡谷の戦いでもたついている間に、着々とコロラドの山中へ駒を進めていた。パシフィック(太平洋)という名が示すとおり、これも西を目指そうとした鉄道だが、軌間は、リオグランデと同じ3フィート(914mm)の狭軌だった。

*注 1872年10月設立時点の社名は Denver, South Park and Pacific Railway。1873年に増資の上、Railway を Railroad に改名して新たに設立された。

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サウスパークを走った機関車
(コロラド州フェアプレー Fairplay, CO のサウスパーク市立博物館 South Park City Museum に展示)
Photo from www.loc.gov http://www.loc.gov/pictures/resource/highsm.33658/

リオグランデが、路線をデンヴァー Denver から南へ延ばすつもりだったことは前々回述べたとおりだ。それでレッドヴィルへ向かう路線も、開通済みのプエブロ Puebloで分岐してアーカンザス川 Arkansas River 沿いに北上するルートをとった。しかしこれをデンヴァー起点で見ると、かなりの遠回りになる。それに対してサウスパークは、デンヴァーから目的地に直行するという点を売りにした(下図参照)。サウスパーク South Park という名称は、途中で横断する高原地帯の名に由来する。

会社設立は1872年という早い時期だ。この時点ではまだシルヴァーブーム(1878年~)が起きてはおらず、したがってレッドヴィルの町も小さかった。例のパイクスピーク・ゴールドラッシュのさなか、1859~60年に礎が築かれたレッドヴィルは、一時はオロ・シティ Oro City(黄金都市の意)と持て囃されながら、砂金が枯渇するとたちまち人口が激減していた。標高3,100mの高地で気候が厳しいこともあって、有望な鉱物資源がない限り、鉄道資本家の興味を引く場所ではなかったのだ。

それでサウスパークの本線は、レッドヴィルに立ち寄ることなく、まっすぐ西へ向かい、まだ見ぬパシフィックをめざそうとした。しかし、1873~76年というのは金本位制のもとで、西部が不況に喘いでいた時代だ。鉄道会社も資金繰りが苦しく、延伸工事はいっこうに捗らなかった。

1878年にいよいよシルヴァーブームが到来すると、コロラド各地で銀の採掘地へ向けた鉄道の建設ラッシュも始まった。その年の初めにはまだデンヴァーから20マイル(32km)のプラット峡谷 Platte Canyon 入口で足踏みしていたサウスパークも、みるみる路線を延ばしていった。鉄道輸送は活気を呈しており、1日当り480ドルの費用で1,200ドルの収入があった。収支係数40の超優良線だったのだ。鉄道は1879年6月にサウスパークの一角にあるコモ Como に達した後、標高2,892mのトラウトクリーク峠 Trout Creek Pass を越え、リオグランデが縄張りとするアーカンザス川の谷へ降りていった。

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デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道の路線概略図
赤線がサウスパーク、青線がリオグランデ(主要線のみ)

こうなると、銀の都へのルートを巡って、両者の間で新たな鉄道戦争が勃発する、と先読みしたいところだが、実際はそうならなかった。なんと両者は手を携えて、レッドヴィルに入ったのだ。サウスパークのレッドヴィル開業は1880年7月2日、リオグランデは7月20日とされ、前者がタッチの差で早いらしいのだが、ターミナルは別でも、そこに至る線路は共同で使っていた。なぜそうなったのか。

実は裏で画策した男がいた。「泥棒男爵」ジェイ・グールド Jay Gould。ロイヤル峡谷戦争に介入し、リオグランデの側に立って、サンタフェの戦意を喪失させたあの男だ(前々回参照)。彼はすでにサウスパークの物言う株主でもあったため、二者が並行路線を持つのは無駄だと考えた。それで、両者がレッドヴィルに到達する1年前の1879年10月に、共同運行協定を結ばせていたのだ。そこにはこう記されている。「調和と相互利益を目的として、リオグランデは、ブエナビスタ Buena Vista からレッドヴィル鉱山地区へ線路を敷設し、サウスパークは同等の運行権を共有する。同様に、サウスパークは、チョーククリーク Chalk Creek 経由ガニソン Gunnison 地内への敷設権が与えられ、リオグランデには同等の運行権が与えられる。」

平たく言えば、両者がそれぞれ相手の路線に乗り入れる権利を有するということだ。サウスパークはこの協定に基づいて、リオグランデの敷いた線路でレッドヴィルに乗入れることができ、同時に、サウスパークが敷く予定の西側区間がガニソンまで共用となる。しかし、これはお互いに不満の残る協定だった。というのも、当該区間で上がる収入も、かかる維持費も両者が折半することになっていたからだ。取扱量の多いリオグランデとしてはドル箱路線の利益をみすみす他者に渡すことになる一方、サウスパークは列車数が少ない割に維持費の負担が重かった。

案の定、協定は開業から4年足らず、1884年2月に破棄されてしまう。それを見越してサウスパークは、レッドヴィルに通じる独自路線の建設を進めていた(下注)。コモで本線から分岐して北上するルートだ。

*注 ジェイ・グールドの支配下にあったサウスパークは、1881年からユニオン・パシフィック鉄道(UP)のサウスパーク線区 South Park Division として扱われるようになったが、本稿では混乱を避けるために前歴と区別せずに記述している。

線路はボレアズ峠 Boreas Pass を越え、ブレッケンリッジ Breckenridge からいったんブルー川 Blue River の谷を下る。その後反転南下して、テンマイルクリーク Tenmile Creek を遡り、フリーモント峠 Fremont Pass 経由でレッドヴィルに至る。「ハイライン High Line(高地線)」と呼ばれたように、標高3500m近い大陸分水嶺を二度も越える名うての山岳路線だった(下注)。この開通によって、レッドヴィルからデンヴァーまでの距離は、リオグランデの446km(277マイル)に対し、243km(151マイル)と著しく短縮された。

*注 ボレアズ峠は標高3,499m(11,481フィート)、フリーモント峠は標高3,450m(11,318フィート)。

ところで、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道を語るなら、本来の設立目的であった西部連絡線のことも外すわけにはいかない。ハイラインの大胆なルート選択にも驚くが、西方ではさらに挑戦的な土木工事が実行に移されていたからだ。

西をめざすサウスパークの当面の目標は、大陸分水嶺を越えた先にあるガニソンの谷だった。その周辺では石炭、石灰石、鉄や貴金属を産出する鉱山が開発を待っていた。峠道にはいくつかの選択肢がある。最も標高が低いのは一番南にあるマーシャル峠 Marshall Pass だが、すでにリオグランデの最初の本線が敷かれていた。次に低い峠はモナーク峠 Monarch Pass で、現在、連邦道50号線が通っている。サウスパークはそのいずれでもなく、ブエナビスタから距離は最短だが、標高はさらに高い峰筋を越えようとした。

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アルパイントンネルを中心とした鉄道路線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

残念ながらその時代に分水嶺付近の地形図は作られなかったので、1980年代の地形図でルートを確認しておこう。右上のデンヴァー側からPACK TRAIL(登山道)の注記のある小道が左に延びている。これが廃線跡だ。線路は最急40‰の険しい勾配で、サミットをめざしていた。トンネル沢 Tunnel Gulch の南斜面に、標高11,600フィートの注記を伴ってトンネル北口がある。本来の峠道は一つ東にあるウィリアムズ峠 Williams Pass なのだが、鉄道はそれよりも尾根がくびれて、掘削距離が短くて済むこの場所を選んだ。

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アルパイントンネル周辺
USGS 1:24,000地形図 Saint Elmo 1982年版、Cumberland Pass 1982年版、Whitepine 1982年版、Garfield 1982年版に加筆

アルパイントンネル Alpine Tunnel(アルプストンネルの意)と命名されたこのトンネルは、コロラドの大陸分水嶺に穿たれた最初のものだ。標高3,539m(11,612フィート、下注)は、鉄道用としては北アメリカで最も高く、その記録は未だに破られていない。長さはたかだか540m(1,772フィート)と見積もられたので、建設会社は6か月で貫通させるつもりだった。ところが、掘削中に花崗岩の破砕帯に遭遇し、アカスギの支持枠で全長の8割を補強するなど、予期しない難工事となった。結局、完成までに2年近くを要し、1881年12月にようやく開通した。地形図にはトンネルの位置が明瞭に描かれているが、現在はポータルが崩壊して、内部に入ることはできなくなっている。

*注 アルパイントンネルに関するウィキペディア英語版の記事では、トンネルの標高が11,523フィート(3,512m)とされているが、1:24,000地形図記載の標高値から見て、Narrowgauge.org が示す11,612フィートに妥当性がある。 http://narrowgauge.org/alpine-tunnel/html/auto_tour.html

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アルパイントンネル西口、1880年代撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1425

南口からは、地図上の廃線跡が車道の記号になる。もちろん車高の高い四輪駆動車でしか行けないようなオフロードだが。この狭い平底の谷間には、列車運行の中継基地が設けられた。アルパイン駅 Alpine Station と呼ばれて、機関庫、給水タンク、転車台、鉄道員宿舎などが備わっていたが、1906年に火災に遭い、主要な建物は焼失してしまった。最近になって愛好家たちの手で、駅併設の電報局舎や37m(120フィート)の線路、転車台などが復元され、かつての雰囲気が蘇っている。

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現地に復元されたアルパインステーションの施設
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

やがて道は、はるかに広いU字谷の中腹に踊り出る。谷底からの高さは約300m(1,000フィート)ある。車窓には、登山鉄道も顔負けの雄大な山岳風景が開けて、列車の客を魅了したに違いない。降りていく途中にあるザ・パリセーズ The Palisades(絶壁の意)は、そそり立つ断崖の下に石組みで通路を確保した難所で、沿線の名所にもなっていた。谷底に達すると、線路は急曲線のシャーロッドループ Sherrod Loop で方向転換する。現在の車道はループを短絡しており、外側に膨らんだ小道が本来の線路跡だ。また、すぐ下方にあるウッドストック Woodstock 駅は、1884年早春の雪崩で宿舎が壊滅して、13人が命を失うという大きな被害に見舞われた現場になる。

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往時のザ・パリセーズ、1900~1920年撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1373
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現在のザ・パリセーズ(上写真の逆方向を見る)、2006年撮影
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この後は、ミドルクウォーツクリーク Middle Quartz Creek の右岸の谷壁に沿って、淡々と下っていく。地形図で、山から滑り落ちる谷川を渡る地点にある "Water Tank" の注記は、機関車に補給する水を貯える水槽だ。張り出し尾根を大きく回り込むと、ようやく峠の西麓クォーツ Quartz(すでに廃村)に降り立つことができる。

このアルパイントンネルとアプローチ区間20.9km(13マイル)は、近年「アルパイントンネル歴史地区 Alpine Tunnel Historic District」として保存と復元が進められ、1996年に国の登録歴史地区 National Register of Historic Places に指定されている。

さて、最大の難所の完成で工事は山場を越え、1882年9月にサウスパークの最初の列車がガニソンに到着した。ガニソンからさらに北方のボールドウィン鉱山へ支線が敷かれ、鉱石輸送も始まった。しかし、アルパイントンネルを挟んだ険しい山岳区間は冬場、しばしば猛吹雪に曝され、列車の運行は困難を極めた。年表には、トンネルの一時閉鎖をはじめ、脱線、衝突など、心細げな狭軌鉄道の苦闘の歴史が連綿と綴られている。

サウスパークは、ガニソンを拠点に、オハイオ峠 Ohio Pass を越えて西進するルートの開拓や、西南部のサンファン San Juan 地方への進出を画策するが、新天地はすでにリオグランデに押さえられていて、手の出しようがなかった。全通6年後の1888年、不況のために会社は早くも資金繰りに窮し、ユニオン・パシフィックの管理下で別会社(下注)に引継がれた。さらに1899年には、コロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railway (C&S) に再編される。

*注 デンヴァー・レッドヴィル・アンド・ガニソン鉄道 Denver, Leadville and Gunnison Railway。社名からわかるように、破綻したサウスパークの受け皿会社だった。

1910年11月、トンネルの一部が崩壊してまたも運休となったが、運営会社はもはや復旧する意欲を失っていた。そのままアルパイントンネルを含むブエナビスタ~ガニソン間は、廃止されてしまう。自動車交通が発達すると残る東部区間でも輸送量も漸減していき、1937年ついにほぼ全線が廃止となった。例外的に残された、もとハイライン(高地線)のレッドヴィル~クライマクス Climax 間は1943年に標準軌に改軌され、なおも使われたが、現在は保存鉄道「レッドヴィル・コロラド・アンド・サザン鉄道 Leadville Colorado & Southern Railroad」の観光列車が走るだけになっている。

リオグランデが創始し、サウスパークなどが後を追って、確立されたコロラドの3フィート狭軌王国。次回は、そこに標準軌という新しい風を吹き込んだ挑戦者の話をしたい。

(2007年1月25日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-アルパイントンネル」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Leadville Colorado & Southern Railroad  http://www.leadville-train.com/

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2017年8月26日 (土)

城下町岩村に鉄路の縁

明知(あけち)鉄道の気動車は、JR中央本線恵那(えな)駅の片隅から出発する。鉄道仲間のTさんと訪れた2017年7月のある日、片面1線の狭い専用ホームは、賑やかな年配女性のグループに占拠されていた。というのも、次に入線するのが、急行「大正ロマン号」という料理を楽しむイベント列車だったからだ。明知鉄道明知線は、恵那~明智(下注)間25.1km。私たちは途中の岩村(いわむら)駅まで切符を買っている。

*注 地名・駅名は「明智」と書かれるが、鉄道名は、古い用字の「明知」鉄道「明知」線が使われている。

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恵那駅で発車を待つ大正ロマン号
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明知鉄道路線図(恵那駅の案内板を撮影)

大正ロマン号は破格(?)の3両編成で、前1両が普通車、後ろ2両は特製弁当が用意された食堂車だ。残念だが私たちは普通客なので、前の車両のかぶりつきに陣取った。発車は12時22分、走り出すや列車は33‰勾配に直面する。一部にほぼ平坦な区間はあるものの、飯沼川の渓谷を遡り、1つ目のサミットとなる飯沼トンネルまで、8km近くこの急勾配が続くのだ。

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(左)東野駅東方にある33‰の勾配標 (右)野田トンネル

気動車はゆっくりと、しかし喘ぐこともなく、淡々と坂を上っていく。急行運転のため、小駅には止まらない。いったん阿木川のやや開けた谷に降りて、阿木(あぎ)駅に停車。再び小さな峠を越えて、今度は岩村川の平たい谷に出る。極楽(ごくらく)という新駅を経て、12時53分に岩村に着いた。斜め向かいのホームに、交換する上り列車が待っている。

岩村(下注1)は私にとって初めての土地だ。明知線には国鉄時代、一度乗り通したことがある(下注2)が、中間駅は素通りしたのでほとんど何も記憶に残っていない。今回も本来の目的は鉄道乗車だ。取り立てて岩村の町に興味があったわけではなく、まさかここで浅からぬ鉄路の縁に巡り合えるとは、この時はまだ想像もしていない。

*注1 行政上は岐阜県恵那市岩村町
*注2 国鉄明知線は、1985年11月に第三セクターである明知鉄道に転換された。

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岩村駅
(左)路線唯一の列車交換駅
(右)全線自動閉塞化されたが、転轍てこが残されている

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岩村のレンタサイクルは
電動アシストタイプ

とりあえず計画していたのは、明知線上の飯沼(いいぬま)駅を見に行くことだった。この駅は33‰勾配の途上にあり、日本で2番目の急傾斜駅として売り出し中だ(下注)。岩村から4駅恵那寄りで、さっき大正ロマン号で通過している。駅前からレンタサイクルの連絡先に電話して、パナソニックの電動自転車を借りた。なにしろ周りは山坂だらけなので、普通の自転車ではたちまちへばってしまうに違いない。

*注 普通鉄道で日本一の急傾斜の駅は、滋賀県大津市にある京阪電鉄京津線大谷駅で40‰の勾配上にある。

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阿木周辺の1:25,000地形図に加筆

あらかじめ地形図で、飯沼までできるだけ2車線道を避けて行けるルートを確かめてある。絶えずクルマを気にしながら走るのは興醒めだからだ。国道257号に並行して、岩村川の左岸に頃合いの小道が延びている。走ってみると比較的直線で舗装もされているし、飯羽間の中切集落で国道に合するまで、ゆったりのんびり進むことができた。

地形図にはまた、阿木駅の北に1車線のトンネルが描かれている(上図の中央)。里道にしては異例の長さなので、これもルートに組み入れておいた。もしや森林鉄道の跡と疑ったのだが、そうではなかった。ネット情報を拝借すれば、これは野田トンネルといい、長さは252m。戦時中、地下軍需工場のために掘られたのを戦後転用し、1947年に竣工したのだそうだ(下注)。内壁はモルタル吹き付け、路面はコンクリート舗装で、照明もついている。空気はひんやりとして、蒸し暑い外との気温差で靄がかかっていた。

*注 北口に立つ隧道完成之碑には次のように書かれていた。「昭和二十二年半田市加藤銀三郎氏私財を投じて之を貫通し爾来中津川市及び阿木飯沼両地區の厚志により年を追うて補強し昭和四十四年四月完成す 茲に謝恩の意を表し建之 野田組」

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野田トンネル (左)南口 (中)内部はもやがかかる (右)北口

峠を一つ越えると、飯沼駅だ。集落から離れた谷合いにぽつんとある。私たちが着くと同時に、踏切の警報機が甲高い音を立て始めた。うまいタイミングで、明智行き普通列車がやってきたのだ。慌ててスタンバイし、ホーム取付けの階段と列車との傾斜加減を写真に収める。後で、この列車と岩村駅で交換した上り列車も、阿木駅北側のカーブした築堤で捉えることができた。3段変速の電動自転車だと、かなり急な坂道でも無理なく走れるので、野山を駆ける撮影行には重宝する。

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飯沼駅
(左)33‰勾配からの発進 (右)待合室の基礎に表れる高低差
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阿木駅北方で上り列車を見送る
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阿木駅舎
(左)懐かしいホーロー引き駅名標 (右)ベンチには暖かそうな手縫いの座布団

話はそれるが、阿木にある異形の橋、旧阿木橋も見た。片側はコンクリート桁の道路橋なのだが、川の中央から先は簡易な鉄骨トラスで繋いである。通りがかりのご婦人に聞くと、かつて(1957年)大水の時に川岸が抉られたため、人や自転車だけでも通れるように継ぎ足したのがあの結果だという。元の川幅は今の半分だったのだ。すぐ上流に新しい橋が架かり、車の通行に支障がなくなったので、当時のまま残されている東濃のアビニョン橋だ。

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東濃のアビニョン橋、旧阿木橋

岩村の旧市街は、1998(平成10)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。近在の妻籠宿、馬籠宿のような先駆事例に影響を受けているのだろう。本通りと呼ばれるメインストリートでは約2kmの間、目障りな電線が地中化され、街路に沿う家並がすっきりと見通せるのがいい。古風な雰囲気を残す建物が数多く保存され、現代建築も修景されている。

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岩村本通り

駅から城をめざして上っていくと、街路がクランクしている枡形(ますがた)付近から先が、江戸期に遡る商家町になる。文化財の公開建物ももちろん一見の価値があるのだが、それにも増して、国道の本町交差点の上手で軒を並べる商家群が圧巻だ。立派な売薬の看板が所狭しと掛かる水野薬局、年代ものの柱時計が壁を埋める藤井時計店、18世紀の創業という造り酒屋の岩村醸造、同じ頃、藩医が長崎から持ち帰ったレシピで今もカステラを焼く松浦軒本店(下注)など、どれも、にわか造りの観光施設には真似のできない歳月の重みを感じさせる。

*注 固めに焼き上げて独特の食感をもつ名物のカステラをつくる菓子店が、この町にはあと2軒ある。

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本通りの商家
(左)柱時計が壁を埋める時計店 (右)長崎伝来のカステラを売る老舗
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貴重な年代物の看板に感動

今朝からずっと曇り空だったが、夕暮れにとうとう雨が降り出した。本通りをなおも上っていくと、背後にそびえる城山の森が薄墨を刷いたように重なり、木版画の風情を漂わせている。標高717mの山頂に築かれた岩村城は、こうして霧がかかりやすいので「霧ヶ城」の別名をもつ。伝説では、城内の井戸に秘蔵の蛇骨を投じると、霧が沸き立って城を隠すのだそうだ。

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木版画の風情を見せる街路と城山の森

麓から城跡までは、石畳の険しい坂道が続いている。雨の上がった翌朝早く登城したら、濡れた木立に陽光のシャワーが射し込む荘厳な光景に迎えられた。あまたの歴史を秘めた山城が、神秘の力の一端を見せてくれたのかもしれない。

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岩村城の登城坂 (左)初門付近 (右)追手門跡
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六段壁の石垣が残る岩村城址

話は前日に戻るが、町の端に立つ常夜灯の傍らで、保存地区の成り立ちを記した案内板を見ていたら、ある一文が目に止まった。「枡形より西側の地区は、江戸時代末期から順次発展し、明治39年の岩村と大井(現・恵那市)を結ぶ岩村電気軌道の開通により一層繁栄し、いまも岩村町の商業の中心地となっています」。明知線より前からここに電車が来ていたことを知ったのは、それが初めてだった。

中世から近世を通じて、岩村藩の城下町として栄えたこの町も、明治維新による藩の解体を境に、地域経済の中心的地位を失ってしまう。加えて、鉄道が町から遠く離れた中山道に沿って敷設されることになった。さらなる衰退を危惧した地元資産家の奔走で、実現したのが岩村電気軌道(下注)だったのだ。

*注 大井~岩村間12.6 km、軌間1,067 mm、600 V直流電化

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岩村電気軌道に関する記事
荒巻克彦「明知線と蒸気機関車」非売品,1980年より

名古屋から延伸されてきた官設鉄道、今の中央本線は1902(明治35)年に中津(現 中津川)に達し、大井駅(現 恵那駅)が開設された。会社の設立はその翌年で、3年後の1906(明治39)年には早くも大井と岩村の間で営業運転を始めている。名古屋に国内2番目の市内電車が登場(1898年)してまだ8年、進取の精神がもたらした最新の交通機関を、町民はさぞ驚きの目をもって迎えたことだろう。

同じ大井駅を起点とする国鉄明知線が岩村に到達するのは、1934(昭和9)年のことだ。大井までの所要時間は両者さほど変わらなかったが、貨物輸送はもとより、旅客も乗り心地の良さから新しい路線に移っていった。利用者が激減したため、電気軌道は補償を受けて、翌1935(昭和10)年に運行を廃止した。

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岩村周辺の1:25,000地形図に加筆
赤の破線は岩村電気軌道のルート
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上図と同じ範囲の1:50,000地形図(明治44年測図、2倍拡大)
岩村電気軌道が特種鉄道の記号で描かれている

では、その軌道はどこを通っていたのか。さっそく調べてみると、何のことはない、昼間に自転車を走らせた岩村川左岸の小道が、廃線跡だった(上図参照)。どうりでまっすぐ延びていたはずだ。翌日、もと十四銀行支店の建物にある観光案内所「まち並みふれあいの館」に立ち寄って、電気軌道に関する資料を見せてもらう。写真もまったく撮っていなかったので、改めて駅付近のルートを確かめに出かけた。

駅から北西に400m、小道が国道257号線を横断する地点に立つ。北側は、軽四輪が似合いそうなのどかな一車線道が続いている。それに対し、南側は同じ道幅ながら周囲に屋敷が並び、岩村川に突き当たったところで右へ曲がる。そのときは判らなかったのだが、旧版地形図によれば、現 岩村駅南西の、盛り土をした公園が電気軌道の終点跡と読める。

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電気軌道廃線跡
国道257号線横断地点の北側(大井方)は野中の一本道
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電気軌道廃線跡
(左)国道257号線横断地点から南側(岩村方)を望む
(右)岩村川に臨んでカーブした後、川を渡っていた

岩村駅の上りホームが駅舎から離れて、軌道終点の近くに配置されているのも、意味ありげだ。明知線が開通したとき、軌道はまだ現役だったから、相互に乗換の便が図られたとしても不思議はない。いたって静かなこの山里の駅が、一時期、新旧路線の旅客ターミナルとして賑わっていたなど、想像するだけでも興味深いことだ。

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ホームが千鳥状に配置された現 岩村駅
右の上りホームの斜め後ろが軌道駅跡らしい

さて、岩村での鉄路の縁の最後にもう一題、本通りに面した造り酒屋、岩村醸造を覗いたときの話をしよう。ソフトクリームはじめました、という看板に釣られて店内に入ったのだが、ふと見ると、床にレールが敷いてあるではないか。酒屋や醤油屋などで、重い原材料や製品の搬出入に手押しトロッコを使っていたとは聞いたことがある。いわゆる横丁鉄道だが、本物を見るのは初めてだ。

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杉玉が吊された岩村醸造の玄関口

もう利用されていないとはいえ、線路はしっかり残されている(下注)。店の人に「奥まで見学できますよ」と言われたので先を追うと、透き通った水の流れる中庭に出た。本通りに並行して走っている天正疎水という用水路で、屋敷を奥へ拡張したときに庭に取り込まれたのだ。酒の仕込みに使うのと同じ地下水で喉を潤してから、なおも奥へ向かうと、瓶詰めの作業場の横を急カーブですり抜けていく。そして、仕込み桶が並ぶ酒蔵に入ったところで途切れていた。

*注 岩村醸造のリーフレットによれば、長さは100m。

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(左)店先から奥へトロッコのレールが延びる (右)天正疎水をまたいで続く
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(左)作業場を急カーブですり抜ける (右)レールの先端は酒蔵の中

鉄道模型の世界には、屋外に線路を敷いて、人が乗れるような大型車両を走らせる庭園鉄道というジャンルがある。業務用とはいえ、屋敷の中を線路がくねくねと走るのは、それを超える意外性が感じられて愉快だ。堪能したので、何か土産を買って感謝の気持ちに代えたいと思ったが、日本酒をやらない私は、少し恐縮しながら甘酒入りのソフトクリームを注文するしかなかった。

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(左)トロッコは商品の陳列台に (右)甘酒入りソフトクリーム

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩村(平成19年更新)、5万分の1地形図岩村(明治44年測図)を使用したものである。

■参考サイト
明知鉄道 http://www.aketetsu.co.jp/
安岐郷誌 http://agimura.net/
城下町ホットいわむら http://hot-iwamura.com/
岩村醸造 http://torokko.shop-pro.jp/
 左メニューにあるグーグルのストリートビューで、トロッコのレールを追うことができる

2017年7月30日 (日)

リムタカ・インクライン II-ルートを追って

新線が開通すると、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline を含むワイララパ線 Wairarapa Line 旧線区間では、施設の撤去作業が行われ、ほぼ更地化した。平野部では多くが農地や道路に転用されてしまったが、峠越えのカイトケ Kaitoke ~クロス・クリーク Cross Creek 間は公有地で残された。

一方、フェル式蒸気機関車の中で唯一解体を免れたH 199号機は、リムタカの東にあるフェザーストン Featherston の町に寄贈され、公園で屋外展示された。子どもたちの遊び場になったのはいいが、その後風雨に晒され、心無い破壊行為もあって、状態は悪化の一途をたどる。20年が経過したとき、旧線時代を振り返る書物の刊行をきっかけにして、保存運動が始まった。その結果、フェザーストンに今もあるフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum が1984年に建てられ、機関車は改めて館内で公開されるようになった。

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IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)によるリムタカ・インクラインの銘板
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

忘れられていた廃線跡にも、人々の関心が向けられた。ニュージーランド林務局 New Zealand Forest Service は、博物館開館と同じ年に、クロス・クリーク駅跡へ通じるアクセス道とインクライン跡の整備を実施した。崩壊した築堤には迂回路が設けられ、土砂崩れで冠水していたサミットトンネル Summit Tunnel も排水されて、サミット駅跡まで到達できるようになった。

その発展形が、ウェリントン地方議会 Wellington Regional Council と自然保護局 Department of Conservation が共同で計画した、廃線跡を利用するトレール(自然歩道)の設置だ。1987年11月に、メイモーン Maymorn ~クロス・クリーク間 22kmが「開通」し、「リムタカ・レールトレール Rimutaka Rail Trail」と命名された。H形機の舞台は今や、自転車や徒歩で追体験することが可能だ。

それは、いったいどのようなところを走っていたのか。トレールにならなかった区間も含めて、新旧の地形図でそのルートを追ってみよう。

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リムタカ・インクラインを含むワイララパ旧線のルート
3つの枠は下の詳細図の範囲を示す
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

アッパー・ハット Upper Hut ~カイトケ Kaitoke 間

付け替え区間は、アッパー・ハット駅を出て間もなく始まる。ハット谷 Hutt Valley より一段高いマンガロア谷 Mangaroa Valley に出るために、旧線は、境を成す尾根筋に取りつき、ぐいぐいと上っていく。短距離ながら急曲線(半径5チェーン=100.6m)と急勾配(1:35=28.6‰)が続く、リムタカの本番を控えた前哨戦のような区間だ。廃線跡は森に埋もれてしまい、現行地形図では、尾根を抜ける長さ120mのトンネル(Old tunnel の注記あり)しか手がかりがない。しかし、等高線の描き方から谷を渡っていた築堤の存在が推定できる。

トンネルを抜けるとマンガロア谷だ。北に緩やかに傾斜する広い谷の中を、旧線はほぼ直線で縦断し、途中にマンガロア駅があった。地形図でも、断続的な道路と防風林(緑の帯の記号)のパターンがその跡を伝える。

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マンガロア駅跡
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現 メイモーン駅の東方から、旧線跡はリムタカ・レールトレールとして、明瞭な形をとり始める。周辺はトンネル・ガリー保養地 Tunnel Gully Reareation Area で、地形図では破線で描かれる小道が錯綜しているが、その中で、車が通れる小道 Vehicle track を表す少し長めの破線記号が、本題のトレールだ。こう見えても、勾配は1:40(25‰)前後ある。

長さ221m、直線のマンガロアトンネル Mangaroa Tunnel で、プラトー山 Mount Plateau の尾根を抜ける。大きく育った松林の間を進むうちに、一つ北側のカイトケ谷 Kaitoke Valley に移っている。旧カイトケ駅構内は私有地になったため、トレールはそれを避けて大きく西へ迂回しており、駅跡の先で本来の旧線跡に復帰する。

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アッパー・ハット~カイトケ間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP32 Paraparaumu, BP33 Featherston. Crown Copyright Reserved.
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同 旧線時代の1マイル1インチ地図(1957年版)
鉄道記号の横のT字の記号は電信線 Telephone lines、
橋梁に添えられた S は鋼橋 Steel または吊橋 Suspension、W は木橋 Wooden を表す
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

カイトケ~サミット Summit 間

サミットに至る峠の西側約12kmのうち、初めの約2kmは一般車も通れる道だ。車止めのゲートを越えると専用林道で、開けたカイトケ谷のへりに沿いながら、パクラタヒ川 Pakuratahi River が流れる谷へ入っていく。

まもなく谷幅は狭まり、渓谷の風情となる。小川を横切っていたミューニションズ・ベンド橋梁 Munitions Bend bridge は1960年代に流失した。以来、林道は川をじかに渡っていた(=渡渉地 Ford)が、2003年、傍らに徒橋 Foot bridge と線路のレプリカが渡された(下注)。長さ73mのパクラタヒトンネル Pakuratahi Tunnel を抜けると、森の陰に新線リムタカトンネルの換気立坑がある。新線はこの直下117mの地中を通っているのだ。

*注 ウェリントン地方議会のサイトでは、徒橋の設置を2003年としているが、現地の案内標識には2004年と記されている。

少し行くと、長さ28m、木造ハウトラス Howe truss のパクラタヒ橋梁 Pakuratahi Bridge で本流を渡る。ニュージーランド最初のトラス橋だったが、火災で損傷したため、1910年に再建されたもので、2001年にも修復を受けている。

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木造ハウトラスのパクラタヒ橋梁
Photo by Pseudopanax at wikimedia

谷間がやや開け、右カーブしながら、長さ70mの桁橋レードル・ベンド・クリーク橋梁 Ladle Bend Creek bridge を渡る。比較的緩やかだった勾配は、ここから最急勾配1:40(25‰)と厳しくなる。直線で上っていくと、また谷が迫ってくる。高い斜面をトレースしながら、山襞を深い切通しで抜ける。

再び視界が開けると、レールトレールは左から右へ大きく回り込みながら、均されたサミット駅跡に達する。現役時代から、集落はおろかアクセス道路すらない山中の駅だったので、運転関係の施設のほかに鉄道員宿舎が5戸あるのみだった。今は跡地の一角に蒸機の残骸のオブジェが置かれているが、H形のものではないそうだ。

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サミット駅跡
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

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カイトケ~クロス・クリーク間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

サミット~クロス・クリーク Cross Creek 間

峠の東西で線路勾配は大きく異なる。あたかも信越本線の碓氷峠に似て、西側は25‰で上りきれるが、東側は66.7‰の急勾配を必要とした。それを克服する方法が、碓氷峠のアプト式に対して、リムタカではフェル式(下注)だ。この急坂区間をリムタカ・インクライン Rimutaka Incline と呼んだ。

*注 フェル式については、前回の記事参照。

文献では長さ3マイル(メートル換算で4.8km)と書かれることが多いが、これは両駅間の距離を指している。サミット駅を出ると間もなく、旧線は長さ576m(1,890フィート)のサミットトンネルに入るが、トンネル内の西方約460mは、下り1~3.3‰とわずかな排水勾配がつけられているだけだ。残り約100mの間に勾配は徐々に険しくなり、トンネルの東口で下り1:15(66.7‰)に達していた(下注)。このことから推測すれば、フェル式レールの起点は東口近くに置かれていたはずだ。

*注 トンネルは地形の関係で南北に向いているが、ここではサミット駅方を西、クロス・クリーク駅方を東と表現する。

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サミットトンネル東口
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

トンネルを抜けると、旧線跡は分水嶺の中腹に躍り出る。眼下の谷、向かいの山並み、これから下っていくルートまで眺望できる展望地だ。左に回り込んで、長さ121mのシベリアトンネル Siberia tunnel を抜けたところに、半径100m(5チェーン)の急曲線で谷を渡る高さ27mの大築堤があった。谷は築堤の形状にちなんでホースシュー・ガリー Horseshoe Gully(馬蹄形カーブの峡谷の意)と呼ばれたが、冬は激しい北西風に晒されるため、シベリア・ガリー Siberia Gully の異名もあった。1880年に突風による列車の転落事故が発生した後、築堤上に防風柵が設けられている。

しかし、その大築堤も今はない。廃線後の1967年、暴風雨のさなかに、下を抜けていた水路が土砂で詰まり、溢れた水が築堤を押し流してしまったからだ。そのため現在、レールトレールの利用者は谷底まで急坂で下り、川を渡渉するという回り道を余儀なくされる。谷から突っ立っている異様なコンクリートの塔は、縦方向の水路が剥き出しになったものだという。

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(左)ホースシュー・ガリーを渡っていた大築堤に、防風柵が見える
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ
(右)築堤が流失したため、現在、レールトレールは谷底まで降りて川を渡る
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

次のプライシズトンネル Price’s Tunnel は、長さ98m(322フィート)でS字に曲がっている。しばらくこうして斜面を下っていくうちに、平坦地に到達する。登録史跡にもなっているクロス・クリーク駅跡だ。フェル式車両の基地があったので、構内はかなり広いが、今はトレール整備で造られた待合室のような小屋があるばかりだ。

なお、旧版地形図には、マンガロアとクロス・クリークを結んで "Surveyed Line or Proposed Rly. Tunnel" と注記された点線が描かれている。これは当初構想のあった約8kmの新トンネルだ。結局、リムタカトンネルはこのルートでは実現せず、クロス・クリークは廃駅となってしまった。

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1955年10月29日、H 199号機が先導する最終列車がクロスクリーク駅を出発
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

クロス・クリーク~フェザーストン Featherston 間

クロス・クリークから東は、1:40(25‰)以内の勾配で降りていく。残念ながら大部分が私有地となり、旧線跡の多くは牧草地の中に埋もれている。そのため、レールトレールは小川(クロス・クリーク)を渡って対岸に移る。地形図で下端に見える水面は、北島第3の湖、ワイララパ湖 Lake Wairarapa だ。平原に出ると、旧線はフェザーストンの町まで一直線に進んでいた。途中、小駅ピジョン・ブッシュ Pigeon Bush があったはずだが、周辺にぽつんと残る鉄道員宿舎の暖炉煙突2基を除いて、跡形もない。

リムタカトンネルを抜けてきた新線が接近する地点に、スピーディーズ・クロッシング Speedy's Crossing と呼ばれる踏切がある。1955年11月3日、ここで新線の開通式が執り行われた。39kmに及ぶ旧線跡の終点はまた、新旧の交替というエポックを象徴する場所でもあった。

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クロス・クリーク~フェザーストン間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

■参考サイト
Tracks.org.nz  http://tracks.org.nz/
Cycle Rimutaka - New photos of the Rimutaka Cycle Trail!
http://www.cyclerimutaka.com/news/2015/10/28/new-photos-of-the-rimutaka-cycle-trail
Mountain Biking Travels - Rimutaka Rail Trail - Wairarapa
http://mountainbiking-travels.blogspot.jp/2015/06/rimutaka-rail-trail-wairarapa.html

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道

 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 I
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 II

2017年7月23日 (日)

リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶

急勾配の線路を上り下りするために、2本の走行レールに加えて第3のレールを用いて、推進力や制動力を高める鉄道がある。その大部分は、地上に固定した歯竿(ラック)レールと、車体に装備した歯車(ピニオン)を噛ませるラック・アンド・ピニオン方式、略してラック式と呼ばれるものだ。代名詞的存在のアプト式をはじめ、いくつかのバリエーションが創られた。

しかし、フェル式 Fell system はそれに該当しない。なぜなら、中央に敷かれた第3のレールはラックではなく、平滑な双頭レールを横置きしたものに過ぎないからだ。坂を上るときは、このセンターレールの両側を車体の底に取り付けた水平駆動輪ではさむことで、推進力を補う。また、下るときは同じように制輪子(ブレーキシュー)を押し付けて制動力を得る。

■参考サイト
レール断面図
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/history/fell-centre-rail-system

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線路工夫が見守る中、フェル式区間を上る貨物列車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

この方式は、イギリスの技師ジョン・バラクロー・フェル John Barraclough Fell が設計し、特許を取得したものだ。ラック式ほど険しい勾配には向かないものの、レールの調達コストはラック式に比べて安くて済む。1863~64年に試験運行に成功したフェルの方式は、1868年に開通したアルプス越えのモン・スニ鉄道 Chemin de fer du Mont-Cenis で使われた。フレジュストンネル Tunnel du Fréjus が開通するまで、わずか3年間の暫定運行だったが、宣伝効果は高く、これを機に、フェル式は世界各地へもたらされることになる(下注)。

*注 現存しているのは、マン島のスネーフェル登山鉄道(本ブログ「マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道」参照)が唯一だが、中央レールは非常制動用にしか使われない。

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ニュージーランドの植民地政府もまた、この効用に注目した。当時、北島南端のウェリントン Wellington からマスタートン Masterton 方面へ通じる鉄道(現 ワイララパ線 Wairarapa Line)の建設が準備段階に入り、中間に横たわるリムタカ山脈 Rimutaka Range をどのように越えるかが主要な課題になっていた。

ルート調査の結果、カイトケ Kaitoke(当時の綴りは Kaitoki)からパクラタヒ川 Pakuratahi River の谷を経由するという大筋の案が決まった。峠の西側の勾配は最大1:40(25‰)に収まり、蒸機が粘着力で対応できるため、問題はない。しかし、東側は谷がはるかに急で、なんらかの工夫が必要だった。勾配を抑えるために山を巻きながら下る案は、あまりの急曲線と土工量の多さから退けられ、最終的に、平均1:15勾配(66.7‰、下注)で一気に下降する案が採用された。

*注 縦断面図では1:16(62.5‰)~1:14(71.4‰)とされている。

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ワイララパ旧線とリムタカ・インクライン
フェル式を採用したインクライン(図では梯子状記号で表示)は、サミットトンネル Summit Tunnel 東口~クロス・クリーク Cross Creek 駅間のみで、それ以外は粘着式で運行された
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この長さ3マイル(4.8km)のインクライン(勾配鉄道、下注)に導入されたのが、フェル式だ。特殊な構造の機関車が必要となるものの、客車や貨車は直通でき、実用性もモン・スニで実証済みだというのが、推奨の理由だった。当時、山脈を長大トンネルで貫く構想もすでにあり、インクラインは暫定的な手段と考えられたのだが、実際には、フェル式を推進と制動の両方に使用するものでは77年間と、最も寿命の長い適用例になった。

*注 このインクライン区間の呼称については、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline のほか、「リムタカ・インクライン鉄道 Rimutaka Incline Railway」や「リムタカ鉄道 Rimutaka Railway」も見受けられる。ただし、下記参考資料では「リムタカ鉄道」を、ワイララパ旧線全体を表現する用語として使用している。

建設工事は1874年に始まり、予定より遅れたものの1878年10月に完成した。これでウェリントンからフェザーストン Featherston まで、山脈を越えて列車が直通できるようになった。

フェル式区間のあるサミット Summit ~クロス・クリーク Cross Creek 間(下注)には、イギリス製の専用機関車NZR H形(軸配置0-4-2)が投入された。開通時に1875年製が4両(199~202号機)、1886年にも2両(203、204号機)が追加配備されている。また、下り坂に備えて列車には、強力なハンドブレーキを備えた緩急車(ブレーキバン)が連結された。これら特殊車両の基地は、峠下のクロス・クリーク駅にあった。通常の整備はここで実施され、全般検査のときだけ、ウェリントン近郊のペトーニ Petone にある整備工場へ送られたという。

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唯一残るフェル式機関車(フェル機関車博物館蔵 H 199号機)
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.
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床下に潜れば、センターレールとそれをはさむブレーキシューが見える
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.

当初インクラインを通行する列車は、機関車1両で扱える重量までとされた。制限は徐々に緩和され、1903年の貫通ブレーキ導入後は、最大5両の機関車で牽くことも可能になった。しかし、機関車ごとに乗員2名、列車には車掌、さらに増結する緩急車でブレーキ扱いをする要員と、1列車に10数名が携わることになり、運行コストに大きく影響した。また、インクラインでの制限速度は、上り坂が時速6マイル(9.7km)、下り坂が同10マイル(16km)で、機関車の付け替え作業と合わせ、この区間の通過にはかなりの時間を費やした。

ワイララパ線は、1897年にウッドヴィル・ジャンクション Woodville Junction(後のウッドヴィル)までの全線が完成している。ギズボーン Gisborne 方面の路線と接続されたことで輸送量が増え、20世紀に入ると、H形機関車の年間走行距離は最初期の10倍にもなった。

1936年、鉄道近代化策の一環で、ウェリントン~マスタートン間に軽量気動車6両 RM 4~9 が導入された。センターレールに支障しないよう、通常の台車より床を12インチ(305mm)高くした特別仕様車で、速度の向上が期待されたが、実際には時速10~12マイル(16~19km)にとどまった。

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カイトケ駅に到着する軽量気動車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

リムタカのボトルネックを解消する抜本策が、バイパストンネルの建設であることは自明の話だった。1898年に詳細な調査が実施され、マンガロア Mangaroa ~クロス・クリーク間を直線で結ぶ約5マイル(8km)のトンネル計画が練られた。1920年代にも再び実現可能性の調査が、30年代には詳細な測量が行われたが、それ以上前に進まなかった。

懸案への対処が先送りされ続けた結果、第二次世界大戦が終わる頃には、リムタカの改良は待ったなしの状況になっていた。機関車もインクラインの線路も、長年酷使されて老朽化が進行していたからだ。1947年に決定された最終ルートは、当初案のクロス・クリーク経由ではなく、一つ北のルセナズ・クリーク Lucena's Creek(地形図では Owhanga Stream)の谷に抜けるものになった。1948年、ついにトンネルを含む新線が着工され、7年の工期を経て、1955年に竣工した。

これに伴い、旧線の運行は1955年10月29日限りとされた。最終日には、稼働可能なH形機関車全5両を連結した記念列車がインクラインで力走を見せ、多くの人が別れを惜しんだ。切替え工事を経て、新線の開通式が挙行されたのは同年11月3日だった。

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インクライン運行最終日に坂を下るH形4重連
Norman Cameron "Rimutaka Railway" 表紙写真

リムタカ迂回線 Rimutaka Deviation は、延長39.0kmあった旧線区間を14.4kmも短縮するとともに、最急勾配は1:70(14.3‰)、曲線半径も400mまでに抑えた画期的な新線だ。その結果、旅客列車で70分かかっていたアッパー・ハット~フェザーストン間がわずか22分になった。貨物列車も所要時間の短縮に加え、長編成化が可能になって、輸送能力が格段に向上した。

新線は全線単線で、トンネルをはさんで西口のメイモーン Maymorn 駅と東口のリムタカ信号場 Rimutaka Loop にそれぞれ待避線が設置されている。リムタカトンネル Rimutaka Tunnel は長さ 8,798mと、当時ニュージーランドでは最長を誇った(下注)。

*注 1978年に東海岸本線 East Coast Main Trunk Line の短絡線として、長さ8,850mのカイマイトンネル Kaimai Tunnel が完成するまで、最長の地位を守った。

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リムタカトンネル開通式
ブックレット表紙
Photo by Archives New Zealand at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

トンネルには、ほぼ中間地点に換気立坑 ventilation shaft があり、旧線が通るパクラタヒ谷の地表面に達している。実はこれは、トンネル完成後に追加された工事だ。この区間はもともと架空線方式の電化が想定されていたが、経済的な理由で非電化のままになった。ディーゼル機関車の試験走行を行ったところ、自然換気だけでは排気が十分でないことが判明し、急遽対策がとられたのだ。

新線への切替え後、列車の往来が途絶えた旧線では、すぐさま施設の撤去が始まった。H形機関車は、長年走り続けた線路の撤去作業を自ら務めた。それが終わると、ハット整備工場へ牽かれていき、そこでしばらく留置された。そして翌年除籍され、フェザーストンの町に寄贈された1両を残して、あえなく解体されてしまった。

まだ使用可能だったフェルレールと緩急車は、再利用するために南島のレワヌイ支線 Rewanui Branch(下注)へ移送された。こうして、リムタカ・インクラインの77年の歴史は幕を閉じたのだった。

*注 ニュージーランドにはリムタカのほかにも、フェル式が使われた路線がある。南島北西部の鉱山支線であった上記のレワヌイ・インクライン Rewanui Incline(使用期間 1914~66年)とロア・インクライン Roa Incline(同 1909~60年)、ウェリントン ケーブルカー Wellington Cable Car(同 1902~78年)、カイコライ・ケーブルカー Kaikorai Cable Car(ダニーディン Dunedin 市内、期間不明)だが、いずれも制動のみの使用だった。

では、旧線はどのようなところを走っていたのか。次回は、インクラインを含む旧線のルートを地形図で追ってみたい。

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン II-ルートを追って
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道
 ニュージーランドの鉄道地図

 マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道

2017年6月11日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)

まだ雪のベールのかかる鳥海山の荘厳な姿に感嘆しながら、羽越本線で秋田へ移動してきた。コンターサークルS 春の旅も、きょう5月5日が最終日だ。用意した地形図は1:25,000「岩見三内(いわみさんない)」。雄物川の支流の一つで、秋田市東部を流れる岩見川の中流域を描いている。

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羽越本線の車窓から見た鳥海山

日本の1:25,000地形図は、全部で4,400面以上もある。それで、鉄道、主要道路、あるいは著名な山や湖などが図郭に入っていないと、見てもすぐに印象が薄れてしまう。率直なところ、「岩見三内」もそうした括りの図幅だった(下注)。ところが、お題に挙がったのを機にじっくり眺めてみると、興味深い題材がいくつも見つかる。他のメンバーも各々関心のあるテーマを持ち寄ったので、思いがけなく盛りだくさんの地図の旅になった。

*注 ただし、現在の「岩見三内」図幅は、図郭が拡大されたので、大張野駅前後の奥羽本線が顔を覗かせている。

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秋田市周辺の1:200,000地勢図(平成5年編集)に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

朝10時、秋田駅の東西連絡通路の一角に集まったのは、堀さん、真尾さん、丹羽さん、私の4人。駅前から2台の車で出発した。秋田市街を抜けて、県道28号秋田岩見船岡線を東へ。太平山の南斜面を水源とする太平川(たいへいがわ)に沿って、緩やかな谷を遡る。

まず、私のリクエストで、地主(じぬし)という集落で車を止めてもらった。ここに謎の地形があるからだ。現行地形図(下の左図)を見ると、地主の南を、太平川がまっすぐ西へ流れている。それと同時に、集落の西から北にかけて弧を描く土の崖と、一つ北の谷につながる鞍部(=風隙)も読みとれる。これは、かつて太平川が北へ蛇行していたことを示す証拠のようだ。それが、何らかのきっかけで西の谷へ流れ込むように変わったとすれば、西の谷による河川争奪があった、ということになる。

ところが、大正元年の旧版図(下の右図)を取寄せてみたら、驚いたことに、旧流路が実際に細々と残っているばかりか、太平川の本流には、長さ150mほどの隧道が描かれているではないか。石灰岩地形でもない限り、川が器用に地中を抜けていくとは考えにくい。どうやら自然の力による河川争奪ではなく、人間が水路を掘って流路を付け替える、房総半島で言う「川廻し」が行われたようだ。

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地主の「川廻し」
(左)平成18年更新図 (右)大正元年図、太平川の隧道と北行する旧流路が描かれる

しかし、謎はまだ残る。大正時代は隧道だったのに、なぜ今は青天井の谷になっているのか。地図の間違いでなければ、何か理由があるに違いない。

さっそく川岸の農道に出てみた。太平川は水制から先で早瀬となって、勢いよく正面の小渓谷へ落ちていく。雪解け水が混じる今は、思った以上に水量が豊かだ。一方、右手の水田の向こうでは、砥の粉色の地肌をところどころに覗かせた崖が緩い曲線を描く。もとは川の外縁、いわゆる攻撃斜面だったことをしのばせる。

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地主の「川廻し」 (左)太平川の堰 (右)隧道崩壊によって生じた小渓谷

60代とおぼしき男性が、近くの畑で作業をしていた。「あの川は昔、トンネルでしたか」と尋ねると、一瞬驚いた顔を見せながら頷いた。「確かに、子供のころはトンネルだった記憶がある。この地区は建設業をやっている人が多かったので、田を拡げるために自分たちで掘ったと聞いている。だが、山が脆いんで、崩れてしまったんだ」。

普段でもこの水量なら、大雨が降った後はきっと破壊的な水のパワーが生じるに違いない。柔らかい粘土層に掘られたトンネルは、早晩崩壊する運命にあったのだろう。謎解きをしてくれた男性に丁重に礼を言って、私たちは現場を後にした。

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旧流路は正面の土の崖沿いに右へ旋回していた。遠方に太平山を望む

地主のそれは、人の手による河川「争奪」だったが、次は、堀さんがめざしていた自然の争奪跡だ。野田集落の東、野田牧場へ上がる道で車を停めた。太平川は北から流れてきて、この付近で西へ向きを変えている。しかし、浅い谷が南へも続いている。つまり、ここでは野田集落を交点として、T字を寝かせた形で谷が広がっているのだ。そこで、昔は太平川が南流しており、後に河川争奪が生じて西へ流れるようになったという仮説が成り立つ。

典型的な争奪地形の場合、流路が変わると、水量が増した谷(野田のケースでは西の谷)では下刻が激しくなり、上流に向かって深い谷が形成されていく。ところが、野田の地形にはそうした展開が見られず、太平川は、ダイナミックな地形のドラマなど知らぬがごとく、終始ゆったりと谷を蛇行している。どうしてだろうか。

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野田の河川争奪
「風隙」~「繋沢」間が争奪前の谷筋

「地図の風景 東北編II 山形・秋田・青森」(そしえて、1981年、pp.115-117)で、籠瀬良明氏が成立過程を解説している。それによれば、その昔、太平川は南流していた(下図1)。しかし、野田の北東方からの崩壊、土石流、小扇状地といった土砂の押出しによって流れが遮られがちになり、一部が西の谷へ流れ込んだ(下図2)。この状況が続いて南側が閉ざされ、ついに全量が西へ流れるようになった(下図3)。つまり西の谷が力尽くで水流を奪ったのではなく、流路を塞がれた川が「自ら」西へ向きを変えた、というのだ。

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河川争奪の過程(解説は本文参照)
図1~3は「地図の風景 東北編II」p.117の図を参考にした

一段高い野田牧場へ上がれば、一帯を俯瞰できるのではないかと思ったが、斜面の植林が育ちすぎて視界がきかない。「南の谷頭がどうなっているか見たいんです」と堀さんが言うので、南の農道へ廻ることにした。谷頭(こくとう)は谷の最上流部のことで、そこでは水の力や風化作用によって、上流へ向けて谷が常に前進している。

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野田付近の180度パノラマ
右奥(北方向)に見える太平山から流れてきた太平川は、かつて左奥(南方向)へ流れていたが、河川争奪により現在は、正面の野田集落から奥(西方向)へ流れ去る

田んぼの先に、まだ冬の装いから目覚めていない雑木に囲まれて、深さが10m近くある窪地が姿を現した。これが谷頭だ。太平川に去られた南の谷(下注)では、下流の岩見川の基準面低下によって、谷頭の浸蝕力が強まっている。集水域がごく狭いのに、これだけの高低差を造る力があるとすると、将来、土砂の押出しとの闘いに打ち勝って、上流に谷を延ばしていき、最終的に太平川を奪い返すこともありうるのではないか(上図4)。そんな想像が脳裏をよぎった。

*注 無名の川だが、掲載の図では下流の地名を借りて「繋沢」としている。

上記「地図の風景」では、堀さんも共著者に名を連ねているが、「野田の河川争奪は籠瀬さんの担当だったので、私は来ていないんです。ようやく現地を見ることができてよかったです。」

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繋沢の谷頭
(左)旧流路(北方向)を望む、奥に太平山 (右)谷頭の上から南を望む
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谷頭を観察するメンバー

その南の谷に沿って県道を下りていくと、岩見川に三内川が合流するこの一帯の中心地、岩見三内だ。秋田駅西口からここまで、私たちが通ってきたルートでバス路線も維持されている。野崎の駐在所前の交差点にあるバス停は「貯木場前」。すでに新しい住宅が建ち始めているが、以前、道路の北側は、岩見川水系で産する木材を集積する岩見貯木場があった。貯木場には、奥羽本線の和田駅から森林鉄道(正式名「岩見林道」)が通じ、さらにここで三内支線が分岐して、北に広がる山林の中へ延びていた(下注、全体のルートは下図参照)。

*注 岩見林道(本線)29.4km、1923年開設、1967年廃止。三内支線24.9km、1921年開設、1967年廃止。大又支線13.4km、1933年開設、1967年廃止。その他延長線、分線がある。出典:林野庁「国有林森林鉄道路線データ」

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岩見三内の貯木場前バス停。正面奥の貯木場跡は払い下げられて宅地に

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秋田市東部の森林鉄道路線網、赤の矢印が岩見三内
1:200,000地勢図「秋田」(昭和35年編集)に加筆。原図は今尾恵介氏所蔵

私のもう一つのリクエストは、林鉄遺構の現状確認だった。三内支線は、貯木場から先で河岸段丘の崖際を走った後、上三内集落の北で三内川を渡っていた。その鉄橋は、平成18年更新図までは描かれているのに(下図参照)、2017年5月現在の地理院地図では消されている(下記サイト参照)。水害か何かで流失してしまったのだろうか。実態を自分の目で確かめたいと思った。

■参考サイト
上三内付近の1:25 000地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.728630/140.305000

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森林鉄道跡
1:25,000地形図(平成18年更新)に林鉄のルートを加筆
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1:25,000地形図(昭和13年修正測図)に描かれた林鉄のルート

私たちは一つ上流の小橋を渡って、廃線跡である農道からアプローチしたのだが、小橋の上から、遠くに朱色のガーダー橋が架かっているのが見えて、ホッとする。農道は、急曲線の築堤で鉄橋につながっていた。「トロッコは小回りが利くから、これぐらいのカーブは何ともないでしょう」「勾配はきつすぎるので、後で切り崩したのかもしれないですね」などと話しながら、軽便のレールを土留めに使った築堤を上る。

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上三内に残る三内支線の鉄橋

橋脚と橋桁(ガーダー)は、鉄道橋そのものだ。2連のガーダーの縦寸法が異なるのが気になるが、橋脚がそれに合わせて造られているので、もともと他からの転用品なのだろう。路面は一人分の幅しかないが、歩けるようにセメントを流し、簡易な欄干が取り付けてある。だが、橋の手前で、秋田市道路維持課のバリケードが通路を塞いでいた。通りかかった農作業帰りの女性に聞くと、「畑へ行くのに、車道は遠回りだからここを通ります。手すりが壊れて、通行止めになってますけど。直すのは来年になるらしいですよ。」

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縦寸法が異なるガーダー
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(左)鉄橋に向かう上流側の築堤 (右)築堤の土留めに古レールが使われていた

橋が地理院地図から消された理由は、それかもしれない。しかし、歩くには支障がなさそうなので、私たちも通らせてもらう。鉄橋の下を、緑味を帯びた水が川幅いっぱいに滔々と流れている。じっと見つめていると吸い込まれていきそうだ。対岸の築堤も切り崩されていたが、線路跡は明瞭で、集落から下りてくる小道と交差した後、緩いカーブを切りながら段丘崖の陰に消えていく。

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(左)鉄橋は対岸の農地へ行く歩道橋に (右)欄干の一部が破損
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三内川の上をそろりと渡る
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(左)築堤脇の神社。左奥に見えるバリケードの先が鉄橋
(右)反対側を望む。舗装道の右が廃線跡で、段丘崖の下へ続いている

築堤の脇に、八幡神社という小さな社があった。今日も天気に恵まれて、日なたはけっこう暑いのだが、見事な杉木立の下は、涼風が吹き通って心地よい。鳥居前の大きな石に腰を下ろして、昼食休憩にした。

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「ぼだっこ」おにぎり

朝、秋田駅のコンビニで見つけた「ぼだっこ」おにぎりを取り出す。中身を知らないまま買ったので、「これ何が入ってるんでしょうね」と皆も興味津々だ。私は漬物を想像していたのだが、かじってみたら、塩鮭の切り身が出てきた。後で調べると、ぼだっこの「ぼだ」は牡丹のことで、ベニザケの身の色から来ているそうだ。塩がよく効いているものの、梅干しや塩昆布と同じで、ご飯に添えればおいしく食べられた。「北海道で甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのを思い出しました」と私が言うので、真尾さんが丹羽さんにそのことを説明する(下注)。たとえコンビニであろうと、ご当地ものを探すのは楽しい。

*注 甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのは、夕張での話。「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

真尾さんは、アイヌ語地名の痕跡を探している。このすぐ上流に岩谷山(いわやさん)という、おにぎり形の山がある。地元では三内富士とも呼ばれているようだが、「モイワと同じように、神聖な山を意味する「イワ」と関係があるんではないでしょうか」と真尾さん。麓の砂子渕集落まで車を走らせた。実際、太平山との関わりで「お山かけ」(山岳信仰)の対象になっているためか、自然の植生が残されている。ヤマザクラや芽吹いたばかりの木々が、パステル調のグラデーションで山肌を彩り、ことのほか美しい。

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パステル調のグラデーションが美しい岩谷山

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岩谷山周辺の1:25,000地形図

その後、大又川流域へ移った。岨谷峡(そうやきょう)を越え、山間の小盆地にある鵜養(うやしない)集落へ。ナイはアイヌ語で沢の意で、漢字で「内」と書かれて、北海道の地名には頻出する。さっき通ってきた三内などもおそらくそうだが、「養の字を当てたのは珍しいです」。地名を記したものはないかと探したら、バス停の標識が見つかった。バス会社が撤退してしまい、ジャンボタクシーが巡回しているようだが、小さな集落に、鵜養下丁、鵜養中丁、鵜養上丁と3か所もある。

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鵜養 (左)鵜養下丁のバス停標識 (右)陽光を跳ね返す用水

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鵜養周辺の1:25,000地形図

静かな山里で動いているものと言えば、そよ風のほかに足もとを勢いよく流れる用水路の水ぐらいだ。堰板のところで流れが膨らんで、初夏の陽光をちらちらと跳ね返している。目覚ましい光景に出会ったわけでもないのに、きょう一日の行程が脳裏に蘇り、満ち足りた気分になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩見三内(大正元年測図、昭和13年修正測図、平成18年更新)、20万分の1地勢図秋田(昭和35年編集、平成5年編集)を使用したものである。

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2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6人になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが適切で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
破線が、米軍撮影空中写真を参考にして描いた軌道のルート
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆
軌道関係の痕跡は、韮山の崖記号と花渕浜西方の直線路のみ

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。昭和8年図にはこの道はないものの、同じ位置に田んぼの中を一直線に延びる小道(地図記号としては、道幅1m以上の町村道)が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図、右図参照)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

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【追記 2017.5.28】
先日発売された、今尾恵介 責任編集「地図と鉄道」(洋泉社、2017年6月)の114ページ以下で、石井さんがこの築港軌道について的確な記事を書いている。軌道跡が明瞭に写る米軍撮影の空中写真や、高山の西の切通し(記事では小豆浜公園近くの切通し)の撤去前の写真なども見られる。ご参考までに。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。
参考にした米軍撮影空中写真は、国土地理院所蔵のUSA-M201-56(1947年4月12日撮影)、USA-M174-228, 232(1952年10月31日撮影)。

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2017年3月12日 (日)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった
(中)1860年代に標準軌各線やクロイソル軌道 Croesor Tramway が開通
(右)1880年代にWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways が開通
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(左)1900年代に南北を連絡する PBSSR の工事が始まるも中断
(中)1920年代に旧WHRが全通
(右)1940年代までに旧WHR、フェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway とも休止
作図に当たっては、M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" Second Edition, Ian Allan Publishing, 2006 およびWikipedia英語版各鉄道の項を参照した。

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置
1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。

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ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置
1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆

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S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台(上図中央左の unused abutments)
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台(上図中央右の unused abutments)
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。

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ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係
1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通
(右)2011年に新WHRが全通

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

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