2016年12月17日 (土)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

午前5時過ぎのロス・モチス駅。真っ暗な中にここだけ蛍光灯が煌々と灯る待合室には、スーツケースを引いてきた旅行者が10数人、列車の搭乗を待っていた。隅の出札窓口は1等急行とエコノミー(普通列車)に分かれている。2016年3月1日から1等急行の切符は車内では発売しないので事前に購入のこと、と注意書きが見えた。駅で買って乗るように、ということだ。ところが目を疑うことに、窓口には昼間の取扱時間しか書かれていない(下注)。列車は早朝に1本だけなのだが。

*注 掲示によると取扱時間は、月・木 10:30~14:30、15:00~17:30、火・水・金 9:00~12:00。

がらんとしたホームに、チワワ Chihuahua 行き1等急行列車はすでに据えつけられている。フェロメックス Ferromex(メキシコ国鉄)のいかつい顔をしたディーゼル機関車の後ろに食堂車1両、客車3両という簡素な編成だ。発車時間が近づくと、ぞろぞろと客が集まってきて、係員氏が搭乗のチェックを始めた。客はみな旅行社かどこかで予約を入れてきているらしい。切符を持っていないと告げると、スペイン語で答えが返ってくる。だが通じないと見た係員氏は、とにかく乗れと身振りで示してくれた。

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夜明け前のロス・モチス駅で発車を待つチェペトレイン
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ロス・モチス駅 (左)待合室に人が集まり始める  (右)乗車開始

6時00分、定刻にチェペトレインはホームを後にした。チェペ Chepe というのは、チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)の愛称だ。駅や列車のあちこちでそのロゴを見かける。車内に入ると、通路を挟んで2人掛けのゆったりしたリクライニングシートが並んでいるが、始発駅ではまだ空席が多い。車掌が回ってきたので、手書きの乗車券を切ってもらう。

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(左)1等急行車内、始発駅からの乗客はまだ少数
(右)座席配置図(備え付けの安全のしおりに掲載)

出発したときは薄暗かったのに、東の空が見る見る明るんできた。きょうも快晴のようだ。食堂車へ行くと、テーブルにはすでにクロスが敷かれ、食器とナプキンがセットされている。ほかの乗客も朝食を求めて次々と客車から移ってきた。

夜が明けると、列車は遠くに小山を望む平原を走っている。ほかに見えるのは、林と空地と雑多な建物群ぐらいだ。本来、貨物鉄道なので、軌道はロングレールでバラストも厚く、速度が上がっても乗り心地は悪くない。南北幹線との分岐駅、多数の貨車が休むスフラヒオ Sufragio を通過。車内に朝日が差し始め、食事を終えたテーブルに濃い影をつくった。

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走るうちに東の空が白み始める
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朝食
(左)朝食メニュー、通貨単位はメキシコペソ
(右)ウエボス・チェペ Huevos Che Pe を注文。説明によれば、農場風ソースをかけたマチャカ(乾燥肉)入りウエボス・エストレジャードス(フライドポテトの目玉焼き載せ) Huevos estrellados con machaca bañados en salsa ranchera

8時20分、エル・フエルテ El Fuerte 着。フエルテ Fuerte とは砦(英語の fort)のことで、16世紀の探検時代に軍隊の駐屯地だった。駅からかなり離れているが、旧市街はプエブロ・マヒコ Pueblos Mágicos(下注)にも選定されている。それとセットのツアー客なのだろう。簡易屋根の待合所にたむろしていた人たちが大勢乗り込んできて、車内はにわかに活気づいた。

*注 プエブロ・マヒコ(スペイン語で魔法の村の意)は、魅力的な市街や村を選定するメキシコ政府観光局の観光振興プログラム。

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エル・フエルテ駅 (左)8時20分到着 (右)多数の乗車がありほぼ満席に

線路にカーブが目立ち始め、大サボテンがまるで記念碑か何かのように、周りの灌木を圧して突っ立つ。列車は信号場のような小駅をいくつか通過した後、9時半過ぎにフエルテ川 Río Fuerte に差し掛かった。部分上路トラスのリオ・フエルテ橋梁は、長さが499mと路線随一だが、それだけでなく水面から結構な高さもある。自然のまま流れる泥色の大河に影を落としながら、列車は飄々と通過した。

*注 本稿記載のトンネルと橋梁の長さは、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014, p.123 のリスト掲載のフィート数値をメートルに換算した。

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(左)灌木の生える丘陵地を行く (右)記念碑のように立つ大サボテン
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路線最長のリオ・フエルテ橋梁を渡る

橋梁を境にして、西シエラネバダ山脈の西斜面を上る山岳線区間に入る。まずは東西に横たわる前山を越えなくてはならない。灰青色の油煙を勢いよく吐きながら、機関車は勾配のついた線路に挑み続ける。エル・デスカンソ El Descanso の無人駅を見送ると、まもなくトンネルに突っ込んだ。海側では初めてのトンネルとなるこの第86号(エル・デスカンソトンネル)は、前山を一気に抜けるもので、1,807m(現地標識は1,823m)と路線では最長だ。

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(左)山並みをめざして (右)信号場の小駅にも簡易のベンチ(ロス・ポソス Los Pozos)
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(左)前山を抜ける第86号トンネル
(右)トンネルを出るとウィテスダム湖が広がる。正面奥の谷がこれから上るセプテントリオン川の谷

闇が晴れると、やがて右手に湖面が現れる。フエルテ川を堰き止めて1995年に完成したウィテスダム Presa Huites(正式名 ルイス・ドナルド・コロシオダム Presa Luis Donaldo Colosio)の湖だ。対岸には重量感のある山塊が居座り、ところどころ剥き出しの岩肌を見せて威嚇している。峡谷の入口に到達したと実感させる光景だ。10時過ぎ、列車は右に大きくカーブして、湖面の上を鉄橋で一跨ぎした。さざ波立つ青い湖水が緑の山並みに映えて、予想外のいい眺めだった。このチニパス橋梁 Puente Chinipas は、全長291mで路線第二の長さがある。湛水した現在はともかく、完成当時は谷底からの高さが105mもあったそうだ。

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(左)ダム湖を渡るチニパス橋梁 (右)橋上からは予想外のいい眺め

いよいよ列車は、セプテントリオン川 Río Septentrión の谷を上流へ遡っていく。湖はほどなく後ろへ去り、川は渓流となって谷底を這う。両岸の切り立った断崖が牙をむき、見上げると山上で尖った岩の塔が青空に列をなしている。このあたり、谷は非常に深く刻まれ、頂との高低差は1,500mにもなる。急傾斜の岩は脆くて落石が多いので、主要列車が通る前に、軌陸車(下注)が線路の点検に回るのだという。

*注 軌陸車は、トラックなどの道路車両に軌道用の車輪を装備した保線用車両。これにより道路と同様、線路でも走ることができる。英語ではハイレール hi-rail(ハイウェーとレールからの造語)などと呼ばれる。

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セプテントリオン川の谷に分け入る
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(左)線路を巡回する軌陸車に遭遇 (右)落石防止の工事施工中
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(左)谷が深まる中流部ではトンネルと橋梁が多数 (右)川床からかなりの高さがある

20を超えるトンネルと無人駅を3つ通過した後、線路は川を渡って左岸(谷の東側)に移った。すると、左の席の乗客が外を指差して何か言っている。見ると、高い岩山の中腹に、鉄橋の朱いガーダーと巨大な銘板が架かっている(下写真)。資料によると、古い鉄道レールで組んだ銘板には、こう記されているそうだ。「チワワ太平洋鉄道は、メキシコ革命50年を記念してアドルフォ・ロペス・マテオス共和国大統領により開業した。1958年までの投資額3億9千万ペソ、1959~1961年の投資額7億4,400万ペソ。公共事業大臣。」(下注)

*注 原文は次の通り。"F. C. Chihuahua al Pacífico fue puesto en servicio por Adolfo López Mateos, Presidente de la República, en conmemoración del cincuentenario de la Revolución Mexicana. Inversión hasta 1958 $ 390,000,000.00. Inversión en 1959-1961 $ 744,000,000.00. Secretaria de Obras Públicas."

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テモリスに接近
(左)セプテントリオン川を渡りながら反転。上段に橋梁と巨大な銘板が見える
(右)古い鉄道レールで組んだ開通記念の銘板

ここが鉄道の名物景観の一つ、テモリス Témoris の3段ループだ。線路はまず大きく左に回りながら、長さ218mの鉄橋で川を渡り、向きを反転した形でテモリス駅へ滑り込む。エル・フエルテ以来の停車駅で、時刻はもう11時20分だ。駅を出ると、そのまま斜面を上っていく。そして、長さ932mの第49号トンネル(ラ・ペーラトンネル Túnel la Pera)の中で右に半回転してから、最上段のテラスに飛び出す。そこから見下ろす峡谷の風景は、あたかも良くできた鉄道模型だ。聳え立つ岩山が影を落とす緑の小盆地、その縁を廻るように敷かれた単線の線路。急カーブしたガーダー橋と、貨車が休む小さな駅。

■参考サイト
テモリス付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.2561,-108.2598,15z?hl=ja

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テモリス駅
(左)列車は南を向いている (右)チェペ全通50周年(2011年)の記念碑
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テモリスの3段ループ全景
線路は右下から来て、奥の鉄橋を渡り、左の駅を手前に進み、トンネルで半回転してこの写真の撮影地へ出てくる。さらに左の山腹を進み、奥の山塊をトンネルで抜ける
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ループ最上段を走る列車から下の鉄橋を望む。モニュメントのような岩山が印象的

この迂回で高度をかなり稼いだはずだが、傍らの川はかなりの急流で、長いトンネルを抜けたところで、もう線路の近くまで上ってきている。またしばらく、谷川とのおつきあいが続く。次のソレダー Soledad 駅の先にもオメガループの寄り道があるが、走るにつれて、周りの景色は溪谷から高原へと表情を和らげていった。

12時20分着のバウィチボ Bahuichivo では、久しぶりに大きな集落に出会うことができた。下車した人たちは、きっと南方にある峡谷観光の拠点チェロカウィ Cerocahui を訪れるのだろう。赤屋根の家と果樹園が点在するクィテコ Cuiteco の村を見送った後は、また溪谷の中だ。オメガループが計3回。最後のそれを回り終えると、3時間かけて遡ってきたセプテントリオン川は見納めになる。

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(左)車窓は高原の様相を帯びてくる (右)チェロカウィへの最寄りとなるバウィチボ駅
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赤い屋根と果樹園が点在するクィテコの村

この後鉄道は、激しい浸食を辛うじて免れた形の、回廊状の高原の上を伝っていく。地勢としては尾根筋だが、鉄道を通すには手ごわい起伏も待っている。最初の試練は、峠のトンネルを出てすぐのラ・ラーヤ La Laja だ。だが、概して羊腸の山岳ルートでは例外的に、ここの線形は大胆だ。大きく口を開けた谷を長さ212mのPC橋梁でひとまたぎし、立ちはだかる山を長さ465mのトンネルで貫いていく。

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ラ・ラーヤ橋梁 (左)木の間越しに橋梁がのぞく (右)線路は珍しく直線的

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1:1,000,000(100万分1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道第二区間(山岳区間)のルート、図中の枠は下図2の範囲
米国国防地図局DMA発行ONC H-23(1988年改訂)
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

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クリル~ラ・ラーヤ間の拡大図(縮尺1:250,000)
赤で加筆した鉄道ルートは、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" に基づいているため、原図とは一致しない
米国空軍航空図・情報センター発行JOG NG12-3 Ciudad Obregon(1968年編集)、JOG NG13-1 Creel (1969年編集)を使用
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

13時15分、サン・ラファエル San Rafael 駅に到着。機関車を転回する三角線が備わり、山岳区間の運行基地を任されている。乗務員も交替するので、列車は10分ほど停車する。鮮やかな原色の服をまとった地元タラウマラ族の売り子たちが、列車の周りに集まってきた。手編みの籠や袋詰めの果物を両手いっぱい持っているが、一様におとなしくて商魂には欠けるようだ。

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手編みの籠と果物を売るタラウマラ族の女性。サン・ラファエル駅にて

次は、珍しく棒線駅のポサダ・バランカス Posada Barrancas だ。峡谷の宿という意味の駅名どおり、宿泊施設が集中するアレポナプチ Areponápuchi 地内に設置されている。線路をはさんで両側にプラットホームがあった。人気の観光地で利用者が多いので、乗車ホームと降車ホームを分離しているのだ。秘境のはずが、これではまるで都会の駅ではないか。エル・フエルテから乗ってきた客も大方ここで降りた。

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ポサダ・バランカス駅 (左)1線2面の駅 (右)乗車と降車でホームを分離。写真は降車用

出発してまもなく、フランシスコ・M・トーニョ Francisco M. Togno 信号場で、対向待ちのロス・モチス行き列車と行違う。トーニョは、山岳区間の建設工事を指揮した主任技師だ。チワワ~トポロバンポの中間に近い場所に、功労者の名が残されているのも故ないことではない。

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フランシスコ・M・トーニョ信号場 (左)ロス・モチス行きと交換 (右)束の間の出会い

14時、列車はもう片方の観光拠点、ディビサデロ Divisadero に停車する。前回も記したように、厳密に言うと、鉄道はバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(コッパー・キャニオン)の中を通っていない。険しく複雑な断崖が続くため、とうてい線路を敷く土地がないからだ。それで、絶景を見渡せる唯一の場所が、崖っぷちに最接近する当駅ということになる。列車はここでも20分停車するから、展望台に出て、ウリケ川 Río Urique が刻んだ大峡谷の奇跡的な景色を堪能することができた。

■参考サイト
ディビサデロ付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.5345,-107.8245,17z?hl=ja

旅行書ロンリー・プラネットは書く。「駅には土産物屋や色鮮やかな屋台村もあるので、時間には気をつけたい。間に合わせのオイルドラムストーブで調理されたゴルディタス gorditas(マーサケーキ、ブルーコーンで作られたものもある)、ブリートー burritos(肉・チーズなどのトルティーヤ包み)、チレ・レジェーノ chiles rellenos(トウガラシのチーズ詰め)だけでも、足を止めるに値する」(下注)。

そればかりか、近所にはジップライン、ラペリング、ロッククライミングなど、冒険的アトラクションも揃っている。一日ここで過ごせればいいのだが、そうでない場合は、絶景を記憶にとどめて先へ進まなくてはいけない。

*注 残念ながら、飲食物を客車へ持込むことはできないそうだ。

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ディビサデロ駅では峡谷展望のために15~20分の停車がある
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バランカ・デル・コブレのパノラマ
コブレ(銅の意)の名は、岩肌が地衣類に覆われて緑(青銅色)に見えることから
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ディビサデロ駅前に色鮮やかな土産物屋や屋台が並ぶ

14時20分、ディビサデロを発車。カーブだらけの線路をしばらくのろのろと走った後、15時ごろ、エル・ラーソ El Lazo(スパイラル、日本でいうループ線のこと)を通過した。上り勾配の途中で、下の線路は切通しと短いトンネル、上の線路はそれをアーチ橋でまたいでいる。アーチの直下は切り通しなので、オープンスパイラルと言って間違いない。

■参考サイト
エル・ラーソ(スパイラル)付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.6549,-107.7390,17z?hl=ja

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エル・ラーソ(スパイラル)通過中

次のオヒトス Ojitos 信号場が、路線の最高地点となる。標高はおよそ2,438m(約8,000フィートの換算値)に達している。後はおおむね下り坂だ。エル・バルコン El Balcón と呼ばれる長いオメガループを廻ると、右車窓に人里が見えてきて、まもなく一帯の中心地クリル Creel に到着した。時刻は15時40分、ほぼ定刻の運行だ。クリルも峡谷観光の拠点なので、残っていた乗客もここであらかた下車してしまった。

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クリル駅 (左)町は一帯の中心地で峡谷観光の拠点 (右)チワワ行きの入線

クリルから先は、西シエラマドレ山脈の東斜面になる。しかし実態は、今たどってきた高原地帯の続きと言ったほうが正確だろう。列車はまだしばらく、山中の気配が漂う中を行く。
クリルを出発してすぐ、路線で2番目、長さ1,260mの第4号トンネル(コンチネンタルトンネル)をくぐる。その名が示すように、カリブ海と太平洋を分かつ大陸分水嶺の下を抜けるトンネルだ。全通の際にルートが変更された区間で、以前は25‰の急勾配と数度のオメガループを駆使して峠を乗り越していた。その跡はダート道路になっているようで、空中写真でも追跡することができる。

また上り勾配に転じて、サン・ファニート San Juanito に16時20分着。峡谷圏はここまでで、以降、チェペトレインは沿線に点在する地方の町や村に目もくれない。支線と合流するラ・フンタ La Junta 駅も通過してしまうので、残る中間停車駅はクアウテモック Cuauhtémoc のみだ。

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潤いのある渓谷と乾燥した広大な盆地が交互に現れる

残っていた客もクリルであらかた降りてしまい、あれほど賑やかだった車内は嘘のようにがらんとしている。ツアー客はおそらくハイライト区間だけつまみ食いして、帰りは観光バスに身を任せるのだろう。人口の張り付く平野や盆地では閑散としているのに、人気のない山中に入ると賑やかになるというのも皮肉な現象だ。

少し早いが夕食を取ろうと思い、食堂車に足を向けた。ロス・モチスの出発直後のように、ここでも人影は数えるほどしかない。赤い夕日が差し込むテーブルに着き、キンキンに冷えた缶ビールを開けて、メキシコ唯一の長距離列車旅を締めくくろう。終点チワワの到着予定は20時54分だ。時間はまだたっぷりある。

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チワワ駅 (左)夜のとばりが降りた駅構内に接近 (右)20時54分全行程終了

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

2016年12月11日 (日)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

見る者を圧倒するような大峡谷といえば、アメリカのグランド・キャニオンがまず思い浮かぶだろう。ところが、お隣のメキシコには、それさえ凌ぐほど広大で深く刻まれた谷があるという。スペイン語でバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(下注)、英語でコッパー・キャニオン Copper Canyon と呼ばれるその地形は、同国北西部、西シエラマドレ山脈 Sierra Madre Occidental がカリフォルニア湾岸の低地に臨む一帯に広がっている。

*注 バランカ・デル・コブレは複数の峡谷(エル・コブレ El Cobre、ウリケ Urique、シンフォローザ Sinforosa、バトピラス Batopilas、オテロス Oteros など)の総称でもある。原語が複数形(バランカス Barrancas)なのはそのため。

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バランカ・デル・コブレの展望。ディビサデロにて

今回取り上げるチワワ太平洋鉄道(チワワ・パシフィック鉄道)は、その峡谷を一望できる展望台が第一のセールスポイントだ。しかしそれだけでない。鉄道自体が、中央高原と太平洋を直結する使命を背負い、険し過ぎてまともな道さえなかったコッパー・キャニオンの横断に挑んでいる。その結果、標準軌としては世界屈指の山岳鉄道が出現した。これから2回にわたって、驚異の路線の来歴と変化に富んだルートを紹介したい。

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奇岩が空を限るセプテントリオン谷
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路線最長のフエルテ川橋梁

チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)は、メキシコ高原北部のチワワ Chihuahua(下注)とカリフォルニア湾に臨む天然港トポロバンポ Topolobampo を連絡する673.0kmの路線だ。名前が長いので、現地では、チワワとパシフィコの頭文字(ChとP)を取って「エル・チェペ El Chepe」と呼ばれる。

*注 チワワは州名でもあるので、区別するときはチワワ市 Ciudad de Chihuahua(英訳 Chihuahua City)と書かれる。ちなみに犬種のチワワは当地方が原産。

今でこそ国内で完結しているが、本来の構想ははるかに壮大だった。1880年にメキシコ政府の承認を受けた計画は、アメリカ中央部から太平洋岸を目指す大陸横断鉄道だったのだ。それを引き継いだのが、鉄道経営者のアーサー・エドワード・スティルウェル Arthur Edward Stilwell で、1900年にカンザスシティを起点に、プレシディオ Presidio(オヒナガ Ojinaga)で米墨国境を越えてトポロバンポを終点とする総延長2,670kmの鉄道建設を開始した。当時、スティルウェルは経営していた別の鉄道が破産して失意の底にあったのだが、励ましのために誘われたパーティーで、集まった人々を前にこの計画を打ち明けた。北米大陸の地図に紐を当てながら、彼は、このルートこそ太平洋への最短距離であることを人々に納得させたという(下図参照)。

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スティルウェルの大陸横断鉄道構想を赤のルートで示す
黒のルートは競合する大陸横断鉄道(の一部)

設立されたカンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道 Kansas City, Mexico and Orient Railway が、線路の建設を進めていった。メキシコ国内では、1907年に峡谷の東の入口クリル Creel に達した。しかし、その先は険しい地形に阻まれて着工の見通しが立たなかった。アメリカ国内でも、サザン・パシフィック Southern Pacific など他の大陸横断鉄道が、競合を懸念して陰で妨害していたと言われる。さらに1910年にメキシコで政変が起きると、沿線で破壊行為が頻発して、不通個所が拡大していく。運賃収入が急減した会社は、結局、計画未完のまま、1912年に倒産してしまった。

その後、経営体はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway を含めて何度か交替するものの、クリル以西の延伸については長らく手付かずのままだった(下注)。1940年に鉄道が国有化されたことで、ようやく翌年から国営事業として工事が再開されることになる。

*注 アメリカとメキシコ区間の接続も遅れ、最後の空隙だったアルパイン Alpine から国境のプレシディオ Presidio の間が1930年に完成している。

海側では、線路がすでにエル・フエルテ El Fuerte の先まで延びていたので、クリルとの間に残されていたのは約280kmに過ぎなかった。ただし、一方は海岸低地、一方は山脈の肩に位置しており、標高差は2,300m以上もある。そのため、後で見る通り、2点をつなぐルートは非常に複雑で、足掛け20年にわたる長期の工事となった。ルイス・コルティネス Ruíz Cortines 大統領臨席のもと、国民待望の開通式が1961年11月 24日に挙行され、最初の構想から80年の長い時を経て、ついに峡谷を越える新たな交通路が日の目を見たのだ。

地下鉄とライトレールを除くと、今やメキシコで定期旅客列車を運行しているのは、この鉄道が唯一だそうだ。それで「チェペトレイン(スペイン語でトレン・チェペ Tren Chepe)」は、峡谷を訪れる観光客はもとより、地元住民にとっても大切な交通手段になっているらしい。2015年のダイヤによれば、旅客列車はチワワ~ロス・モチス Los Mochis 間653.1kmで、プリメラ・エクスプレス Primera Express(1等急行) が毎日1往復、クラセ・エコノミカ Clase Económica(普通列車)が週3往復設定されている。

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目立つロゴを配したチェペトレイン
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ロス・モチス駅の出札窓口は列車別

1等急行でも朝6時の出発で、終点に到着するのは夜の20時半から21時前という所要14~15時間の長旅だ。そのため、ハイライト区間のみを利用するツアー客が多い。一方、普通列車は、地元住民のために主要駅のほか50以上あるフラッグストップでも乗降を扱い、乗り通すなら1時間ほど余計にかかる。どちらも途中のディビサデロ Divisadero で、乗客が峡谷の眺望を楽しめるよう、15~20分の長い停車がある。

1等急行の編成は、定員64人の空調つき客車2~3両と食堂車1両だ。普通列車も同じ収容力の客車を使うが、食堂車は付随せず、代わりに売店がある。1等急行の運賃は普通の2倍近くするのだが、食事代は含まれておらず、普通に対する優位性はあまり高くない。それで普通列車のほうに人気が集まり、選択肢が1等しか残っていないこともしばしばある、と旅行書ロンリー・プラネットは注意を促している。

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1等急行車内
(左)リクライニングシートが並ぶ客車 (右)食堂車は木を使った暖かみのある内装

そのチワワ太平洋鉄道のルートだが、通過する地形を基準にすると、大きく3つに区分できるだろう。チワワ側から言えば、一つ目はチワワ~クリル間、メキシコ高原から西シエラマドレ山脈の東斜面をゆっくり上っていく約300kmだ。乾燥した盆地といくらか潤いのある溪谷が交互に現れ、その間に標高は1,400mから2,400mまで上昇する。

当区間は開通が1907年と早かったので、国営化後に路盤改良やレールの重軌条化が施工されており、線形を良くするために一部でルート変更も行われた。中でも規模の大きなものは、クリルの手前(東方)に造られた長さ1,260mのコンチネンタルトンネル Túnel Continental だ。旧線は、大陸分水嶺でもあるこの峠を25‰勾配と数か所のオメガループで乗り越えていたが、新トンネルの完成により勾配は20‰に緩和、距離も約3km短縮された。

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第一区間は高原に広がる盆地と渓谷が交互に現れる

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1:1,000,000(100万分1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道のルート
第一区間のうち、チワワ~サン・ファニート、太字の駅名は1等急行停車駅

二つ目は、最終開通区間とも重なっている。クリルを出発して、山脈の西斜面を滑り降り、路線最長の橋梁でフエルテ川を渡るまでの約220kmだ。ここで鉄道は、スパイラル(日本でいうループ線)やテモリス Témoris にある3段ループ、さらには多数のトンネルと橋梁を連ねて、地形の障壁に立ち向かう。ディビサデロでの眺望チャンスを含めて、全線のハイライト区間であるのは疑いない。

下の地図でわかるとおり、ルート設定は非常に巧妙だ。鉄道を敷くには険しすぎるコッパー・キャニオンの本体には、実は一度も足を踏み入れていない。クリルからは、まず南西へ延びる尾根の上をたどる。それから、比較的浸食度が浅いセプテントリオン川 Río Septentrión の谷にとりつき、この中を終始下りていくのだ。貨物列車の走行を考えると、線路勾配は最大でも25‰に抑える必要がある。そのため、急流部では高度を稼ぐために何度も折り返しているのだが、それでもコッパー・キャニオンの懸崖と格闘することを思えば、はるかに通過は容易だっただろう。

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第二区間、テモリスの大規模ループを見下ろす
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第二区間、峡谷の入口にあるウィテスダムの湖面

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第一区間終端~第二区間:サン・ファニート~フエルテ川橋梁

三つ目は、トポロバンポで最終的に海に出会うまで、太平洋岸低地を淡々と走る160kmの道のりだ。エル・フエルテまでは起伏のある灌木林を縫っていくが、その先は一面の平野が広がっている。なお、旅客列車はトポロバンポまでは達せず、20km手前の主要都市ロス・モチスが終点になる。

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第三区間は、丘陵そして平野をひた走る

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第三区間:フエルテ川橋梁~トポロバンポ
以上3図は、米国国防地図局 DMA 発行 ONC H-23(1988年改訂)、H-22(1974年改訂)を使用
images from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

折しも海側ロス・モチスからチワワまで、山を上っていく列車の車窓写真を提供いただいた。それをもとに次回、チワワ太平洋鉄道の机上旅行を楽しんでみたい。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

2013年1月19日 (土)

ワシントン山コグ鉄道 II-創始者マーシュ

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1880年ごろのワシントン山コグ鉄道
image from wikimedia

ワシントン山に上る鉄道の認可を得るために、シルヴェスター・マーシュ Sylvester Marsh はニューハンプシャー州議会へコグ機関車の模型を持ち込んだ。計画の説明を聞くか聞かないうちに、議場はどっと沸きかえった。機知に富んだ議員が有名なからかいの言葉を投げた。「彼には月へ行く鉄道を造らせたらいい。」

時は1858年、マーシュはすでに54歳だった。彼は、蒸気の力で最高峰の頂点を極めるという、当時としては前代未聞の事業に本気で挑戦しようとした。人生半ばを過ぎてから、なぜ私財を投じてまでこの計画に打ち込んだのだろうか。その理由を知るには、彼の前半生を俯瞰しておく必要があるだろう。

マーシュは1803年9月に、ニューハンプシャー州中部のキャンプトン Campton にある自営農場で生まれた。11人兄弟の9番目だったので、家業は継げず、19歳でボストンへ働きに出た。彼が身を投じたのは食料品や食肉の小売だった。商才があったとみえ、ボストン中心部に今もあるクインシー・マーケット Quincy Market が1827年に開業したとき、そこに店を構えた。しかし翌年には西を目指してオハイオ州アシュタビューラ Ashtabula に行き、さらに1833年にはイリノイ州シカゴ Chicago に移り住む。

今ではアメリカ第3の大都市であるシカゴも、当時はまだ小さなフロンティアで、人口わずか200人ほどだった。彼はこの土地で精肉業を営み続け、町の急速な発展とともに事業を拡張していった。1850年に地元新聞は、マーシュのブランドが有名で、加工場には蒸気動力の大規模な設備があると報じている。ところが彼はそれに飽き足りない。

この頃、シカゴはすでに、プレーリーを後背地に持つ世界有数の穀物の積出し港になっていた。ヨーロッパの大消費地に向けて貨物船で送り出すのだが、それには一つの問題があった。長い航海中にトウモロコシなどの穀物が腐敗したり、発熱で傷んでしまうのだ。マーシュは、加熱式の穀物乾燥機を考案して、この悩みに終止符を打った。新型装置の評価は高く、彼はその勢いに乗って、精肉業から穀物輸出の事業に転進する。乾燥機関連の特許権と穀物貿易は、彼にかなりの収入をもたらすことになった。

作業機械に対する彼の関心は今に始まったことではない。産業革命を牽引していた蒸気機関の応用技術に、彼は早くから熱中していた。シカゴに来る前に、オールバニー Albany で運行を始めた当時最新の蒸気機関車デウィット・クリントン号 DeWit Clinton にもわざわざ乗りに出かけている。11件の合衆国特許を取得する根っからの発明家で、急速に近代化する社会を率いていた先頭集団の一員だったのだ。

*注 デウィット・クリントン号は1831年にニューヨーク州で初めて運行された蒸気機関車。数か所の閘門を経由するエリー運河 Erie Canal の水運に対して、オールバニー Albany とスケネクタディ Schenectady の間を短絡するモホーク・アンド・ハドソン鉄道 Mohawk & Hudson Railroad(当時の名称)で使われた。

1855年、52歳で再婚したのをきっかけに、マーシュは仕事中心の実生活から引退することを決意する。そして、懐かしいボストン郊外へ戻ってきた。その後のエピソードは、コグ鉄道の前史としてよく語られる。

引退後の退屈さのため体調不良を起こしていた彼は、1857年、友人とワシントン山へ徒歩旅行に出かけた。晴れた8月の午後だったが、稜線の上で突然の嵐に襲われ、危うく遭難しかけた。なんとか山小屋にたどり着いた彼は、「もっと容易で安全に山を上るための何らかの手段」を提供することを使命と考えるようになったというのだ。数々の発明で事業の成功体験をもつ彼は、思いがけないところで見つけた新たな課題に夢中になり、結局後半生をこれに賭けることになる。

山を上る鉄道としてケーブルカー(英語でfunicular railway)の技術は知られていたが、ワシントン山では距離が長すぎ、ケーブルの自重を支えることすら困難だ。やはり蒸気機関車に自力で上らせるしかないと判断した彼は、技師の長男とともに、コグ(歯車)を装備した機関車とラックレールの構造について研究を始めた。

この種の機構は、1812年という早い時期に、イギリスのリーズ Leeds で実用化されていた。ジョン・ブレンキンソップ John Blenkinsop が、石炭を輸送する鉄道で板状レールの摩擦力を補うために使用したラックレールだ。平地を走る路線のため、後に不要であることがわかって普及しなかったが、マーシュはこれを登山鉄道に応用しようと考えた。模型を使って実験を繰り返し、1858年、ついに建設計画の認可を議会に申請した。

これが冒頭で紹介した議会での一幕につながる。それでも認可が下りたのは、実現が不可能であり、承認したところで実害はないと誰もが思ったからだという。それから5年ほどの空白を置いて、事業は本格的に動き出した。機関車の命綱となる制動装置やラックレールの改良、必要な土地の購入などを進める一方で、彼は実業家らしく、重要な交渉にも奔走していた。それはお客をどのようにしてここへ呼び寄せるのかという問題の解決策だった。

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19世紀 ワシントン山周辺の鉄道網

西麓が起点のコグ鉄道に対して、現在、ワシントン山頂には東麓から上ってくる有料道路もある。意外なことにこの道路の開通は、登山鉄道の全通より8年も早い1861年だ。もちろんまだ自動車は普及しておらず、乗合馬車による山頂観光を狙ったワシントン山馬車道路 Mount Washington Carriage Road として造られた。それが東麓に設けられた理由は、山の北東にあるゴーラム Gorham の町まで1851年に鉄道(下注)が通じていたからだ。ゴーラムから道路を使えば山頂まで26km(16マイル)しかない。マーシュの鉄道は、馬車道路と競合しないよう、西麓に拠点を置かざるをえなかった。

*注 セントローレンス河畔のモントリオール Montreal と大西洋岸ポートランド Portland を結んだセントローレンス・アンド・アトランティック(大西洋)鉄道 St. Lawrence and Atlantic Railroad。

山の西側で最も近い鉄道駅は42km(26マイル)離れたリトルトン Littleton だった。マーシュはそのボストン・コンコード・アンド・モントリオール鉄道 Boston, Concord & Montreal Railroad (BC&M) の社長ジョン・E・ライアン John E. Lyon に書簡を送った。初め「正気の沙汰ではない」と思ったというライアンだが、発明品の作動をマーシュが実証することを条件に、協力に同意した。

1866年に、西麓の基地に造った400m(1/4マイル)の線路で、列車の試走会が行われた。その日の主役は、現在マーシュフィールドの空地に展示されている1号機関車ヒーロー Hero、後のペパーザス Peppersass だった。「機関車はみごとに動いている。悲観論者や疑り深い者でさえ、走る列車に乗るのをためらわなかった。」 新聞記事が伝えるとおり、実演は成功を収め、出資者をはじめ集まった人々は、鉄道の実用性を確信した。

*注 本稿で用いた数値は原文のマイル、フィート表記をメートル法に換算したものだが、この試験線について、200m(660フィート)としている文献もある。

その後、線路工事は本格化した。ライアンが送り込んだ現場監督は、橋梁建設に携わった経験があり、全線にわたるトレッスルの構築に力を発揮しただろう。建設認可はすでに1回延長されており、1868年8月が最終期限だった。ヤコブの梯子まで完成したところで開通式が行われたのは、それに間に合わせるためだ。夏の終わりの3週間、運行が続けられたが、開通の体裁を整えるのが目的だったのを知ってか、2ドルの規定料金を払わずに乗った者もいたという。

頂上まで線路建設が完了したのは翌1869年で、7月3日に正式に旅客輸送が始まり、8月には当時のグラント大統領も訪れた。コグ鉄道の往復料金は3ドル、それに山麓駅まで連絡の駅馬車の運賃も別途必要だったが、快適な箱型客車で上る登山観光の人気は高かった。幌なしの乗合馬車を使うライバルの有料道路はすっかり利用客を奪われてしまい、自動車が一般化するまで劣勢に立たされたほどだ。

コグ鉄道は全線開通から数年間、山麓駅への連絡手段を駅馬車に頼っていたが、1874年にライアンのBC&M鉄道が、リトルトンの東のウィング・ロード Wing Road からフェービアン Fabyan まで待望の支線24km(15マイル)を開通させた。2年後の1876年に山麓駅まで延長され、コグ鉄道は初めて幹線鉄道網と接続されることになった。

さらに、1875年にはポートランド・アンド・オグデンズバーグ鉄道 Portland & Ogdensburg Railroad (P&O) が、南からクローフォード・ノッチ Crawford Notch を越えて通じたので、にわかにフェービアンは鉄道交通の十字路に位置づけられた。マーシュはそこにフェービアン・ハウス Fabyan House と呼ぶ大きなホテルを建設し、山を訪れる旅行者の足場を整えた。

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フェービアン・ハウスと大統領連山
image from The New York Public Library

人生3度目の成功を手にしたマーシュは、終生コグ鉄道の社長の座にあったが、しかしそれは名誉職のようなものだった。なぜなら、彼の保有株式の多くは、機関車の購入代金代わりに、すでに工場主に譲渡されていた。そのため、経営の実権はもう一人の大株主であるライアンが掌握していたのだ。このようなエピソードが伝わっている。ある団体がマーシュに、コグ鉄道の山頂施設を使いたいと要請したが、「私には会社を代弁する権限がない」という回答が返ってきた。そこで、ボストンへ行ってライアンに事情を告げたところ、即決で承諾が得られたというのだ。

コグ鉄道の正式開通から2年後の1871年に、スイスのリギ山にヨーロッパ初、世界で2番目のラックレールを使った登山鉄道(下注)が開通している。実は1867年に在米スイス領事が、まだ工事中だったワシントン山のコグを視察したことがあった。マーシュは求めに応じて、コグの図面や写真を無償で提供し、助言まで与えた。領事は本国に向けて熱心にレポートを返し、それがリギ鉄道の実現を後押ししたと言われている。また、1883年にはマーシュの方式を使って、メイン州マウント・デザート島 Mount Desert Island でグリーン山コグ鉄道 Green Mountain Cog Railway が開通している。

*注 二クラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach 考案の方式を使ったフィッツナウ=リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn。本ブログ「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」で詳述。

彼が最初に考案したユニークな登山鉄道は、こうして世紀の変わり目をはさんで、各地の山岳ツーリズムを刺激する原動力となっていった。元祖ワシントン山コグ鉄道も、2度の世界大戦中の休止を除いて運行を続け、これまでに延べ500万人近くを山頂へ運んだ。マーシュが1884年12月、81歳で永眠したとき、会社は次のような告別の辞を捧げている。「ここに、事業を提案し起業した非凡で思慮深い仲間の喪失を憶える。その快適さへの関心と最終的な成功に対する確信は、逆境と順境とにかかわらず決して弱まることがなかった。」

本稿は、Bruce D. Heald, "The Mount Washington Cog Railway: Climbing the White Mountains of New Hampshire " History Press, 2011、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
地形図は、アメリカ合衆国官製1:250,000地形図 Lewiston(1947年版)を用いた。

■参考サイト
ワシントン山コグ鉄道(公式サイト) http://www.thecog.com/
ワシントン山コグ鉄道(旧サイト) http://www.cog-railway.com/
ワシントン山自動車道(公式サイト) http://mtwashingtonautoroad.com/
WhiteMountainHistory.org   http://whitemountainhistory.org/

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 ワシントン山コグ鉄道 I-ルート案内

 リギ山を巡る鉄道 I-開通以前
 リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道

2013年1月14日 (月)

ワシントン山コグ鉄道 I-ルート案内

アメリカ東海岸、ニューハンプシャー州 New Hampshire 北部一帯は、ホワイト山地 White Mountains と呼ばれる。その中心を成すのが、ピークに創成期の歴代大統領や有力政治家の名が冠されている大統領連山 Presidential Range だ。北から主なピークを順にあげると、マディソン山(4代)、アダムズ山(2代)、ジェファーソン山(3代)と来て、次がワシントン山 Mount Washington だ。初代大統領の名に恥じず、標高1917m(6288 フィート)でアメリカ北東部では最高峰となる。

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山腹を行く登山列車

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かつて、この記念すべき山の頂まで鉄道を敷こうと考えた男がいた。シルヴェスター・マーシュ Sylvester Marsh というその男の計画は、歯車の噛み合わせで支えながら、平均勾配250‰、最急勾配374.1‰の線路を上るという途方もないものだった。今でもスイスのピラトゥス鉄道 Pilatusbahn に次いで世界で2番目という険しい坂道を、19世紀半ばに蒸気の力で克服しようとしたのだから、当時の州議会で「彼には月へ行く鉄道を造らせたらいい」と呆れられたのも無理はない。

マーシュはなぜこのような破天荒な計画を思い付いたのだろうか。その経緯は次回詳述するとして、今回はこの「月へ行く鉄道 The railway to the moon」の概要を、現地写真とともに紹介しておきたい。

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鉄道の正式名は、ワシントン山コグ鉄道 The Mount Washington Cog Railway。軌間1422mm(4フィート8インチ、下注1)、延長4.8km(3マイル)の路線だ。コグとは歯車の歯のことだが、アメリカではラック式鉄道を一般に「コグ鉄道 Cog railway」または単に「コグCog」と呼ぶ。国内で現存するコグ鉄道はこのほか、コロラド州のパイクスピーク Pikes Peak とミシガン州ハンコック Hancock にあるのみ(下注2)で、希少価値の高い観光資源になっている。

*注1 ほぼ標準軌(1435mm=4フィート8インチ半)だが、下記参考文献では山地の気温変化その他の理由で生じた差だとしている。
*注2 パイクスピークのコグについては、本ブログ「マニトゥー・アンド・パイクスピーク・コグ鉄道」を参照。
 ミシガン州ハンコックのクィンシー・アンド・トーチ湖コグ鉄道 Quincy and Torch Lake Cog Railway は、1997年に開業した延長わずか700m(2300フィート)のミニ路線。最急勾配350‰。

1868年8月に開業したワシントン山のコグは、いうまでもなくラック式登山鉄道としては世界最古の歴史を誇る。ただしこれは、工事の認可期限に間に合わせるために、取り急ぎ途中まで開通させたにすぎない。山頂まで全線が完成したのは少し遅れて1869年7月のことだ。それでも二番手となったスイスのリギ山に上るフィッツナウ=リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn(1871年)より2年早く、先駆者としての地位は揺るがない。

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マーシュ式ラック装置

マーシュの考案したラック式装置(右写真)は、そのリギ山で初めて使われたニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach の方式(リッゲンバッハ式)とよく似ている。しかし、マーシュのラックレールの桟の断面が円形なのに対して、リッゲンバッハのそれは台形で、歯車との噛み合せが改良されているという。結局マーシュ式は、ここにしか残らなかった(下注)。その意味で、保存されているラック式蒸機と併せて、19世紀の鉄道工学史を証言する貴重な存在といえるだろう。

*注 メイン州アケーディア国立公園 Acadia National Park にあったグリーン山コグ鉄道 Green Mountain Cog Railway(グリーン山は現在のキャディラック山 Cadillac Mountain)でも使われたが、わずか7年(1883~1890)の短命に終わった。蒸機2機は、ワシントン山に引き取られた。

コグの舞台は、ボストン Boston から北へ266km(165マイル)、メイン州ポートランド Portland から西へ145km(90マイル)の山間部だ。地形図を2種類用意したので、それを参照していただきたい。起点はワシントン山の西麓にあり、地形図にマーシュフィールド駅 Marshfield Station と記された地点が乗り場だ。開通当時はここが基地駅(山麓駅)Base Station だったが、1920年代にコグの創設者と、ワシントン山頂に上った最初のヨーロッパ人とされるダービー・フィールド Darby Field にちなんで改称された。

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大統領連山周辺の地形図(原図1:100,000)
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コグ鉄道周辺の地形図(原図1:25,000)

一方、今の地形図ではマーシュフィールドより少し西にBase Stationの注記があり、コグの線路もそこまで延びている。ここにコグの車両基地(車庫と工場)があるからだが、かつてはここに麓の谷を走る標準軌線からフェービアン Fabyan 駅で分岐した延長9.7km(6マイル)の支線が上ってきていた。

支線開通はコグ全通の7年後の1876年のことで、その際、コグの線路が西(下手)へ約400m(1/4マイル)延長され、対面で乗換ができるようになった。支線は粘着運転ながら最急勾配60‰とこちらも相当険しく、機関車は急勾配線の常道である坂下側につけられたという。コグの会社は支線の開通をきっかけに株主に配当が出せるようになったといわれるくらい、集客に貢献したが、自動車に押されて1930年に休止されてしまった。支線跡は、地図上にOLD RAILROAD GRADEと注記を添えた小道の記号で残されている。

今は道路が唯一のアプローチだ。フェービアンから延びてくるこの道路(ベース・ロード Base Road)も、ワシントン山ターンパイク(有料道路)Mount Washington Turnpike としてコグ鉄道の工事のために造成されている。道路が現マーシュフィールド駅まで達しているのは、上述のように開通当時はそこがコグの起点だったからだ。

地形図を読む限り、起点の標高は820m(2700フィート)、終点は頂上のすぐ下で1910m(6270フィート)程度になる。この高度差1090mを、列車は上り65分(蒸機の場合。ディーゼルは37分)、下りは40分でつなぐ。

■参考サイト
ワシントン山山頂付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=44.2700,-71.3026&z=15

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(左)コグ鉄道の玄関、マーシュフィールド駅舎
(右)同 列車乗り場。山へ駆け上がる線路が見える
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(左)蒸機に石炭を補給するホッパーも現役 (右)鉄道工場・車庫は下手にある

では、マーシュフィールド駅から山頂へ行く列車に乗り込もう。板張りの簡素な客車だが、機関車は後ろにつくので前方の視界を遮るものはない。発車すると、いきなり線路は急な上りにかかる。渡る谷川はアモヌーザック川 Ammonoosuc River といい、ワシントン山の西斜面を駆け下りてきた清流だ。斜度の差でジェットコースターのようにも見えるコールド・スプリング・ヒル Cold Spring Hill の坂道をしばらく上っていく。まだ周囲に森林が広がるが、蒸機の排煙による延焼を防ぐため、線路の左右は防火帯のように刈り取られている。

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(左)山上行き列車が乗り場に待機 (右)板張りの客車は前方の視界良好
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(左)谷川を渡っていきなり急坂に (右)コールド・スプリング・ヒルを一気に上る

やがて前方に、巨大な桶のようなワウムベック・タンク Waumbek Tank(地形図ではWater Tankと表示)が現れる。高度1160m(3800フィート)の表示があり、線路はタンクを挟んで複線になる。これは列車交換のためのパッシングループ(待避線)で、延長が550m(1800フィート)あり、所要時間短縮のために2004年に完成した。両端にある転轍機はトラバーサー(遷車台)式で左右に動くが、その動力は太陽光発電で供給されているという。以前は1941年に造られた枝状の長い側線(下注)だったため、待つ側の列車はスイッチバック運転が必要だった。

*注 この形の待避線は、上部のスカイライン・スイッチ Skyline Switch にまだ残っている。

蒸機は、山頂往復に備えてこのタンクから給水を受けるし、二番列車以降なら、山を下ってくる列車と行き違う。後ろを振り向けば、いつのまにか小さくなった山麓の基地とともに、森のかなたにワシントン山ホテル(現オムニ・ワシントン山リゾート Omni Mount Washington Resort)の赤屋根を載せた白亜の城が望めるだろう。

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(左)上りきると前方にワウムベック・タンク。 転轍機はトラバーサー式
(右)長い待避線の間で列車交換がある

複線区間が終わると、傾斜はさらに険しさを増し、線路は進行左側に落ち込む斜面にかろうじて張り付いていく。周りの樹木が次第に低く疎らになるのも高度が上ってきた証拠だ。全線の中間地点は、右手にある「ハーフウェー・ハウス(中途の家)Half-way House」と書かれた小屋でわかる(地形図には小屋 barn の記号がある)。小屋はもちろん水平に建っているのだが、坂を上る車窓からは山側にかなり傾いているように見える。高度は1370m(4500フィート)に達する。

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(左)待避線の末端。急勾配はこれからが本番 (右)ハーフウェー・ハウスの横を通過

コグ鉄道の線路は、全線にわたって木組みの架台(トレッスル)の上に敷かれている。雪や岩屑の排除を容易にする工夫だが、これから通る区間は地面から高さがある。さらに最急勾配374.1‰もこのあたりで、客車の前と後ろで4.2メートルの高低差があるそうだ。建設当時から、旧約聖書の創世記でヤコブの夢に出てきた天に通じる梯子(はしご)のようだと言われ、今も「ヤコブの梯子 Jacob's Ladder」と案内される。トレッスルはほとんどが木造で、古くなれば交換するため、線路の周りには朽ちた丸太が散乱している。高度は1440m(4725フィート)。

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(左)天に通じる「ヤコブの梯子」
(右)画面中央が山麓駅。遠くの白い建物はワシントン山ホテル

この名所を乗り切ると、線路はついにスカイライン Skyline と呼ばれる尾根の上に出る。手前のクレー山 Mount Clay に隠されていたジェファーソン Jefferson、アダムズ Adams、マディソン Madison といった大統領連山の北側の主峰群が、初めて姿を見せる。その右に落ち込む大きな谷の一帯は、グレート・ガルフ(深い淵あるいは湾)Great Gulf と呼ばれる原生林だ。

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尾根上(スカイライン)に出る。手前はクレー山
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大統領連山の眺望
ピークは左からジェファーソン山、アダムズ山、奥の少し低いのがマディソン山

山上でしか味わえない雄大な眺めを楽しみながら、右手に枝状の側線(スカイライン・スイッチ Skyline Switch)を見送って、列車はさらにワシントン山の北西斜面をゆっくりと上っていく。地図には給水タンク Water Tanks の表示があるが、実物はすでに撤去されている。右手に山頂の建物を仰ぎながら自らも大きく右に回り込んでいくと、まもなく終点だ。先行列車で着いた人たちが私たちの列車を写真に撮ろうと待ち構えているだろう。東斜面に山上まで有料道路(ワシントン山自動車道 Mt. Washington Auto Road)が通じているので、クルマで上ってきた観光客とも合流することになる。

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(左)スカイライン・スイッチを通過 (右)頂上のビジターハウスが見えてきた
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山頂駅に到着
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(左)1917mの山頂 (右)最強の風速記録をもつ測候所があった山頂のスーベニア・ショップ

往復ツアーの場合、頂上滞在の1時間を含めて所要3時間だ。すべて蒸機運行だったころは頂上の滞在時間が20分と言われていたが、ディーゼル化によるスピードアップが観光時間の拡大に寄与した。それだけに防寒具は必須といえるだろう。なにしろ、山頂は1934年に世界で最も強い風速103m/s(当地の表示は時速231マイル。2010年に破られた)が観測されたという現場でもあり、天候は荒々しく常に不安定だ。

長らくコグ鉄道の主役は、蒸気機関車だった。下の写真の左側は1866年製の1号機で、開業時に走った最初のコグ機関車だ。初めヒーローHeroと名付けられたが、縦型ボイラーがペパーソースの瓶(タバスコのような)に似ていたので、後にペパーザス Peppersass と呼ばれるようになった。

これがマーシュフィールドの乗り場に展示されているのには訳がある。水平ボイラー車の導入によって引退していたペパーザスは、1929年の開業60周年記念行事の目玉として、復活運転されることになった。ところが晴れの舞台で山を上る途中、車軸が突然破損し、坂を逆走する大事故を起こしてしまったのだ。列車は脱線して壊れ、逃げ遅れた乗員1名が死亡した。ペパーザスはその後修復されたものの、一度も走らせてもらえず、記念碑のように広場に置かれたままになっている。

それに対して、右の9号機ワウムベック Waumbek(下注)は現役だ。ニューハンプシャー州にあったマンチェスター機関車工場 Manchester Locomotive Works で1908年に造られた蒸気機関車で、このほかにも数両の同僚が基地の工場に動態保存されている。

*注 ワウムベックは、大統領連山の北に位置する標高1221m(4006フィート)の山の名。

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(左)1号機ペパーザスはお化粧直しの最中 (右)仕業を終えた9号機ワウムベック

蒸機は、コグ・スモッグ Cog Smog と揶揄されるほど大量の煤煙を出す。州の大気汚染防止法に抵触するので、特別に除外規定があるほどだ。2008年からはスピードアップと環境対策を兼ねて、順次自社工場製の液体式ディーゼル機関車の配備が始まった。すでに4両が揃い、列車の運行は基本的にこのディーセルで担われている(写真左は2008年製M-1号機、右は2009年製M-2号機)。その結果、昔ながらの蒸機による運行は、夏のシーズン中、朝8時15分に出る1便に限定されてしまった。

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(左)現在の主力ディーゼル機関車M-1号機 (右)同 M-2号機

さて、このようなユニークな鉄道の建設を実行したシルヴェスター・マーシュとは、どのような人物だったのか。マーシュとコグ鉄道の関わりについて、次回詳述したい。

(2006年12月28日付「ワシントン山コグ鉄道」を全面改稿)

本稿は、Bruce D. Heald, "The Mount Washington Cog Railway: Climbing the White Mountains of New Hampshire " History Press, 2011、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
地形図は、アメリカ合衆国官製1:100,000地形図 Mount Washington(1988年版), 1:25,000 地形図Mt Washington(1982年版)を用いた。

写真はすべて、2011年7月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
ワシントン山コグ鉄道(公式サイト) http://www.thecog.com/
ワシントン山コグ鉄道(旧サイト)http://www.cog-railway.com/
WhiteMountainHistory.org   http://whitemountainhistory.org/
 ワシントン山、コグ鉄道を含むホワイト山地の豊富な歴史資料がある。

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 ワシントン山コグ鉄道 II-創始者マーシュ

 リギ山を巡る鉄道 I-開通以前
 リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道

2011年2月24日 (木)

カナダ ケトルバレー鉄道 II-見どころ

屈指の山越え路線であったケトルバレー鉄道 Kettle Valley Ralway (KVR、下注) を記念する名所を、西の起点ホープ Hope から順にたどってみよう。

*注 本記事内では、表記をケトル「ヴァ」レーではなく「バ」レーに統一した。

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図中1~6の詳細図は次回掲載

クインテットトンネル Quintette Tunnels
クインテットトンネル、あるいはオセロトンネル群 Othello Tunnels は、難所コキーハラ Coquihalla 越えの前哨戦というべき関門だ。どのような地形で、何が珍しいのか。簡潔に説明しているKVRの資料サイト(下記参考サイト)から引用させていただく。

「ホープを出てほんの数マイルで、コキーハラ川は高さ300フィート(90m)の切り立った花崗岩の断崖がある幅の狭い峡谷にさしかかる。峡谷に入るとすぐに、川は突然ヘアピン状に折り返し、たとえ余地があったとしても、鉄道が川に沿いながら峡谷を通過することは不可能だった。人々はこのルートを完全に避けるか、でなければ1マイルの長いトンネルをぶち抜くことが、通過する唯一の方法だと本気で考えた。

マカロック(同鉄道の主任技師アンドリュー・マカロック Andrew McCulloch)は同意せず、ルートを調査するために自らロープで体を吊り、崖の表面を降りた。彼は、トンネルを1本ではなく、4本うがてばよいことを発見した。その1つは「明かり窓」、すなわち片側が開いたもので、トンネルが5つあるような印象を与える。そのため、これはクインテット(5組の)トンネル Quintette Tunnels と呼ばれるようになった。さらに驚くべき事実は、4本のトンネルと間にある2本の橋の全体が、完全に一直線に並んでいることだった。」

図1
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グリッド1km間隔、標高データはフィート単位(図2、3も同じ)

地形図では、崖の記号は使われず、線路に架かる2本の橋だけがあっさりと描かれている(トンネルは筆者の加筆)。ただ、これでは難工事の実感が湧かないので、ぜひ下記参考サイトの実景写真で確かめていただきたい。現在ここは州立公園内の自然歩道(トレール)として4~10月の間開放されている。

なお、オセロ Othello という地名はいうまでもなく、文豪シェークスピアに由来している。命名者は主任技師マカロックで、この区間の駅名を考えるときに、お気に入りの戯曲の登場人物名を借用したのだ。オセロの次の駅はリア Lear、そしてジェシカ Jessica、ポーシャ Portia、イアーゴ Iago、ロミオ Romeo と続き、コキーハラの峠を隔ててジュリエット Juliet がある。このルートには何のゆかりもなかったが、乗客には評判で、駅の郵便局では訪問記念の絵葉書も扱ったという。

■参考サイト
ケトルバレー鉄道(KVR資料集) http://www.hectorturner.com/kettlevalley/
ブリティッシュコロンビア州公園局(BCパークス)-コキーハラ峡谷州立公園 BC Parks - Coquihalla Canyon Provincial Park
http://www.env.gov.bc.ca/bcparks/explore/parkpgs/coquihalla_cyn/
クインテットトンネル付近の概略図(BC ParksのサイトにあるPDFファイルに直接リンク)
http://www.env.gov.bc.ca/bcparks/explore/parkpgs/coquihalla_cyn/coq_canyon_map.pdf
クインテットトンネルの写真
http://www.env.gov.bc.ca/bcparks/explore/parkpgs/coquihalla_cyn/photos/
クインテットトンネル付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=49.3722,-121.3655&z=16

ブローディ Brodie
人里離れた山中のこの場所で、北のスペンシズブリッジ Spences Bridge 方面から来た線路と合流する。名所とは言えないが、KVRにとっては重要なポイントだ。地形図は1976年現在の情報で編集されているため、1961年に廃止されたコキーハラ越えの線路はすでに見えない。接続状況は筆者が加筆した。スペンシズブリッジから来た線路が狭い谷間を折返しているのは、ブルックミアの集落が載る谷との間に50mほどの高度差があるためだが、コキーハラ越えを優先した線形であるのは間違いない。

図2
Blog_kettlevalley_map4

■参考サイト
ブローディ付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=49.8187,-120.9330&z=15

プリンストン北方 North of Princeton
プリンストンでカッパーマウンテン Copper Mountain の鉱山へ行く支線を分けた後、線路は再び山越えにかかる。途中、旧駅でいうとベルフォート Belfort とジュラ Jura の間では、約100mの高度をかせぐために4回の折り返し(ループ)で丘を上っていく。

図3
Blog_kettlevalley_map5

■参考サイト
プリンストン北方(蛇行部)のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=49.5251,-120.4873&z=15

ケトルバレー蒸気鉄道 Kettle Valley Steam Railway
KVRのルート中、フォールダーFaulder~トラウトクリーク橋 Trout Creek Bridge 間16kmだけは線路が残されている。場所は、オカナガン湖 Lake Okanagan の南西岸にあるサマーランド Summerland の町の裏手で、トラウトクリーク Trout Creek(鱒の小川の意)の谷を下りてきた線路が湖岸の高台(段丘)に出ようとするところだ。ここでは1999年から蒸機牽引の観光列車が運行されている。公式サイトによれば、5~10月の間、週末を中心に1日2往復していて、所要時間は90分。ほかに、電飾を施したクリスマス列車や、悪名高い地元ギャングに列車が乗っ取られる「大列車強盗 Great Train Robberies」のような特別企画もある。

図4
Blog_kettlevalley_map6
グリッド1km間隔、標高データはm単位(図5も同じ)

Blog_kettlevalley1 実際に走るのは、保存鉄道の拠点として設けられたプレーリーヴァレー Prairie Valley 駅とトラウトクリーク橋(リーフレットではキャニオンヴュー Canyon View 駅と紹介されている)の間約10kmだ。トラウトクリーク橋は、同名の川が刻んだ峡谷をアプローチトレッスルと上路トラスで跨ぐもので、長さ619フィート(189m)、高さ238フィート(73m)、KVRではもちろん最大規模だった。1912年の完成当時はトレッスル部が木製だったが、1927~28年に鋼鉄製に改修されている。観光列車は、オカナガン湖を遠くに眺める橋の上で停車して、折返す。なぜなら、橋の南詰めより先は、もはや線路が外されてしまっているからだ。

■参考サイト
ケトルバレー蒸気鉄道  http://www.kettlevalleyrail.org/
(右写真はリーフレット表紙)
トラウトクリーク橋付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=49.5657,-119.6543&z=16
トラウトクリーク橋の写真
http://wikitravel.org/upload/en/1/15/Trout_creek_trestle.jpg

オカナガン湖東岸の3段ループ Triple Loops, East of Okanagan Lake
オカナガン湖南端(湖尻)のペンティクトン Penticton を出ると、コキーハラに匹敵する難所であるカーミ区間 Carmi Division に入る。ペンティクトンは標高350m程度だが、オカナガン山 Okanagan Mountain 東側の鞍部にあるシュート湖 Chute Lake は、標高1200mに近い。KVRは、勾配を2.2%に抑えるために、湖の東側の山腹に3段の大規模なループ(下注)を構えて高度を稼ぐ。下部の折返しはオープンだが、上部のそれはトンネルを介している。アドラトンネル Adra Tunnel というこのトンネルは、長さ約500mに過ぎないが、KVRでは最長だ。いや、これほどの山越え路線に500m以上のトンネルがないこと自体が、驚異的というべきか。

地図からも想像されるように、現役当時、この区間は、木間隠れに山と湖の壮大なパノラマが開ける随一の絶景区間だった。よく紹介されるのは、通称「リトルトンネル Little Tunnel」からの展望だ(地図に展望地の印をつけておいた)。現在はトレールに転用され、後述するマイラ峡谷とともにサイクリストに人気が高いが、アドラトンネルは内部崩壊のため通行止めとされ、手前に短絡路が設けてある。

*注 ループ Loop は、勾配緩和などのために大きく引き回した線形(あるいは環状線)をいう。日本でいうループ線は、欧米ではスパイラル Spiral と呼ぶ。

図5
Blog_kettlevalley_map7

■参考サイト
ループ下部折返し(グレンファーGlenfir付近)のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=49.6614,-119.6028&z=16

マイラ峡谷 Myra Canyon
シュート湖の5km先で線路は峠に達するが、そこから距離にして約50kmは標高1200m台の高原を延々と走り続ける。地形的には、ケローナ Kelowna の南に陣取るリトルホワイト山 Little White Mountain の肩あたりに位置する。山塊にはいく筋かの峡谷が刻まれていて、中でもマイラ峡谷 Myra Canyon は際立って広く深い。KVRは上流へ大きく迂回しながら、木製トレッスル18か所(うち2か所は1929年に鉄製に改修)と短いトンネル2本を連ねて、これを渡り切る。要した木材は貨車25台分にのぼり、主任技師マカロック自身「これほどの山腹に建設された鉄道は見たことがない」と回想したほどだった。鉄製に改修されたトレッスルは、東側の6号が長さ220m、高さ55m、西側の9号が長さ111m、高さ48mと見ごたえのある規模だ。

ちなみにマイラ Myra というのは峡谷の東縁にあった駅名だが、由来は技師の娘の名前だそうだ。また、マイラの西隣の駅ルース Ruth はマカロックの娘の名、同じく東隣の駅はずばりマカロック McCulloch と命名されている。

図6
Blog_kettlevalley_map8
グリッド1km間隔、標高データはm単位、ただし下部はフィート単位の地形図を接続

Blog_kettlevalley21980年の線路撤去後、この区間も橋ごとトレールに整備され、爽快な谷渡りが楽しめると評判をとった。ところが、2003年の夏に一帯で落雷による山火事が発生し、12か所の木製トレッスルが焼失、鉄製トレッスルも路面の損壊を蒙ってしまった。被害の様子は、マイラ峡谷トレッスル修復協会のサイト(下記参考サイト)で確認できるが、夏は高温で乾燥する地域とあって、木橋の火の回りも速かったようだ。しかし、2008年までにすべて以前の姿に復元され、新たに沿線の切通しの安全策も講じられて、通行できるようになった。州南部を一つに結んだケトルバレー鉄道を思い起こさせる最大の遺構として、これからも自然に親しむ人々を迎えてくれるに違いない。

■参考サイト
BCパークス-マイラ・ベルヴュー州立公園 Myra-Bellevue Provincial Park
http://www.env.gov.bc.ca/bcparks/explore/parkpgs/myra/
マイラ峡谷のトレッスル群の写真集
http://castanet.firewatch.net/firepics2/firepics2/KVR - Myra Canyon/Before the fire/Summer/
マイラ峡谷6号トレッスル付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=49.7757,-119.3235&z=16
マイラ峡谷トレッスル修復協会 Myra Canyon Trestle Restoration Society
http://www.myratrestles.com/
(右写真はリーフレット表紙)
マイラ峡谷の路線図(PDF)
http://www.myratrestles.com/images/pdf/kvr_map-03.pdf

本稿は、Dan and Sandra Langford "Cycling the Kettle Valley Railway" Third Edition, Rocky Mountain Books, 2002、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipedia英語版の記事(Kettle Valley Railway, Kettle Valley Rail Trail)を参照して記述した。
地形図は、カナダ官製1:1,000,000国際図 NM9_10 Vancouver, NM11 Kootenay Lake, 1:50,000 地形図82E/11, 82E/12, 82E/14, 92H/6, 92H/9, 92H/10, 92H/15(いずれもGeoGratis - Scanned Mapsからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

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 カナダ ケトルバレー鉄道 I-歴史

2011年2月17日 (木)

カナダ ケトルバレー鉄道 I-歴史

Blog_kettlevalley_map1鉄道の誕生にはさまざまな必然性が絡んでいる。地形に逆らって直線的に引かれた国境線がなければ、ケトルバレー鉄道はおそらく現れなかったに違いない。

ケトルバレー鉄道 Kettle Valley Railway(KVR、下注)とは、カナダ、ブリティッシュコロンビア州の南部で路線網を巡らせていた鉄道会社だ。本線と呼ぶべきものは、カナディアン・パシフィック鉄道 Canadian Pacific Railway (CPR) のホープ Hope とスペンシズブリッジ Spences Bridge で分岐して東へ進み、ミッドウェーまでの約530kmで、1915~16年に全通した。後にCPRが運営を引き継ぎ、クローズネスト峠 Crowsnest Pass を経由する南部本線 Southern Mainline の一部を構成したが、1989年に全廃されてしまった。

*注 本記事内では、表記をケトル「ヴァ」レーではなく「バ」レーに統一した。

筆者がKVRに注目したのは、そのルートが常識では考えられないような山あり谷ありの連続だったからだ。下の地図をご覧いただきたい。KVRのルートを赤の実線で示してある。

Blog_kettlevalley_map2
図中1~6の詳細図は次回掲載

図の左下にフレーザー川に面したホープ Hope の町(標高41m)がある。ここを発した鉄道は、険しい山肌を縫いながらコキーハラ峠 Coquihalla Pass(地形図による付近の標高点1104m)に上り詰める。北方のスペンシズブリッジ Spences Bridge からやってきた線路(下注)に合流し、その直後のブルックミア Brookmere でも別の分水界(同961m)を横断する。いったんプリンストン(同638m)まで降りるものの、川の流れに逆らって再び山へと向かっている(サミットは同1098m)。

オカナガン湖畔のペンティクトン Penticton(同343m)は沿線の中心都市だが、線路は湖岸に沿いもせず、ヘアピンカーブを繰り返しながら、またも山腹を上っていく。ケローナ Kelowna 南方に居座る山塊を、巻くようにして通過するあたりに、全線の最高地点(1274m)がある。ここで針路を南に変え、社名の由来であるケトル川の谷(ケトルバレー Kettle Valley)に入って、ようやく終点ミッドウェー Midway(同584m)に達する。

このようにKVRは、蒸気機関車の時代に4回の大きな峠越えをこなし、高度差も1200mに及ぶ名うての山岳路線だった。完成した時に、それまでで最も費用のかかった鉄道と評されたのも道理だ。これほど険しいルートを採用してまで、何のために鉄道を建設する必要があったのだろうか。その経緯を探ってみたい。

KVR計画はそもそも、西海岸の港バンクーバーへ通じるカナディアン・パシフィック鉄道(CPR)が州の南部を経由しなかったという事実に端を発する。1885年に開通したCPRは、経路をより南に寄せるため、予定のイエローヘッド峠を退けキッキングホース峠を選んだのだが、それでも国境に近い地方からはかなり遠かった。

一帯は、鉱山開発のブームに沸いていた。両国国境の西半分は北緯49度線上で人為的に定められたもので、自然地形は一切考慮されていない。鉱脈は国境に関係なく広がっていたし、州南部は合衆国ワシントン州と同じコロンビア川 Columbia River の流域で、地勢はむしろ合衆国側へ開けていた。ノーザン・パシフィック鉄道 Northern Pacific Railroad(NP)やグレート・ノーザン鉄道 Great Northern Railway(GN)といった合衆国の鉄道会社は、当然のように自社の線路を越境させ、資源や生産物を南へ運び出していた。KVRに向けられた期待は、内陸部と海港を短絡する輸送路を整備して、こうした外資による蚕食から自国の利益を保護しようという動向を反映したものだった。

KVRの路線で最初に開通したのは、西側のスペンシズブリッジ~メリット Merritt ~ニコラ Nicola 間で、1907年のことだ。ニコラ・カムループス・アンド・シミルカメーン鉄道 Nicola, Kamloops and Similkameen Railway の免許(1891年認可)を利用して、ニコラで産する石炭を運搬する目的で造られたが、建設資金を提供したのはCPRで、実質的にその支線だった。一方、東側では、CPRの子会社となったコロンビア・ウェスタン鉄道 Columbia and Western Railway が、1900年にミッドウェーまで路線を延ばしていた。コロンビア・ウェスタンは、プレーリー(大草原)へ延びるCPRのクローズネスト峠線に連絡している。

CPRは、離れた2点をつないで南部本線を形成することを構想した。CPRが焦る理由はほかでもない。すでに合衆国側からグレート・ノーザンの子会社が、カナダ西海岸を目指して線路をじわじわと延ばしつつあったからだ。その名に意図があからさまなバンクーバー・ヴィクトリア・アンド・イースタン鉄道 Vancouver, Victoria and Eastern Railway(VV&E)は、1909年にプリンストンまで達している。対して、2点間すなわちメリット~ミッドウェーを連結するケトルバレー鉄道(KVR)の工事は、1910年に始まった。

ここでもう一度地図(上図)をご覧いただきたい。赤の実線がKVRのルート、その南に黒い旗竿線で描いたのがライバルのVV&Eだ。両者ともプリンストン Princeton とミッドウェー Midway を経由地にしていて、熾烈な競合関係を演じていたことが想像できる。国境を無視して合理的な経路を採用したVV&Eに比べて、後発のKVRはルートの大回りが目立ち、特にミッドウェーからペンティクトン Penticton までのいわゆるカーミ区間 Carmi Division は極端だ。

単にケトル川の谷筋からオカナガン川流域に出るのなら、既存のVV&Eに並行しながらオソイヨーズ Osoyoos を通る案もあり得たと思う。そうではなくまっすぐ北上したのは、VV&Eの沿線を避けたというより、オカナガン北部をめざしながら途中で倒産した別の鉄道の復活を、同時に夢見ていた可能性がある。それはミッドウェー・アンド・ヴァーノン鉄道 Midway and Vernon Railway といい、名の通り、ミッドウェーとオカナガン湖岸のヴァーノン Vernon を結ぶものだった。KVRのミッドウェー~ロッククリーク Rock Creek 間4kmは、未完となった同鉄道の路盤を利用している。しかし、その夢は実現せずに終わった。

さて、プリンストンへ先回りしたVV&Eは、この先の線路建設にも着手していた。最短経路は狭く険しいコキーハラの峠道しかなく、KVRも追いかけるようにそのルートを申請した。競合問題は法廷までもつれ込んだものの、1911年の総選挙で自由党が敗北したのをきっかけに、案外あっさりと決着した。それは次のようないきさつだ。

当時、ウィルフリッド・ローリエ Wilfrid Laurier 首相率いる自由党は、合衆国との間で自由貿易協定を締結しようとしていた。対立する保守党は、このままではカナダが合衆国に吸収されかねないと主張した。基本政策の賛否を問う選挙で、有権者は後者を支持したのだ。

自由党の下野は、VV&Eとグレートノーザンにとっても敗北を意味するものだった。なぜなら、保護主義回帰で規制が強化されれば、国際輸送で大きな利益は見込めず、投資を回収するめどが立たなくなる。両者は話合いのテーブルに就き、1913年にコキーハラ協定 Coquihalla Agreement が交わされた。協定で、VV&Eが敷設済みの区間はKVRが使用権を獲得し、未着手の区間はKVRが建設して、VV&Eは一定の使用料を払って線路を使うことになった。

懸案が解決したことで、工事のペースは速まった。1915年、ミッドウェー~メリット間が開業して、KVRに最初の旅客列車が走った。翌1916年には、コキーハラ峠を経由するブローディ Brodie ~ホープ Hope 間の短絡線も開通し、CPR本線に連絡を果たした。海岸と内陸を直結するという鉄道の目的からして、以後こちらが主たるルートになったことは言うまでもない。

KVRを介して南部本線が全通したことによる恩恵は、ブリティッシュコロンビア州南部にとどまらず、バンクーバーの港に農産物を送り出すプレーリー諸州も等しく享受した。東西間を結ぶ急行列車が設定され、北回りの本線以上によく利用されたし、本線が自然災害で不通になった折りには有用な代替ルートとなった。ただし、実際にケトルバレー鉄道と名乗った期間は長くなく、1931年初めにCPRが事業を継承して、南部本線の運営は一体化されている。

1949年に、鉄道に並行するクローズネストハイウェー Crowsnest Highway が開通すると、それを境として、地域における鉄道の優位性は自動車交通に奪われていく。しかし路線の運命にとどめを刺したのは、1959年の冬にコキーハラ峠越えの線路を襲った雪崩のほうだった。カスケード山脈 Cascade Mountains は年間積雪量が4mを越える豪雪地帯で、急斜面を削って建設された線路はしばしば雪崩や土砂崩れに見舞われていた。線路の大規模な流失で運行休止を余儀なくされた同区間は、復旧の手が加えられないまま、1961年に廃止の宣告を受けた。

これがある種の引き金になったことは否定できないだろう。スペンシズブリッジ経由の迂回線で運行が続けられたものの、線内の旅客列車は、利用者の減少により1964年に姿を消した。次の撤退は、コキーハラに次ぐ険しい山越えのあるミッドウェー~ペンティクトン間で、1973年に運行休止、1978年に廃止となり、これで東西の連絡が絶たれた。旧KVRで最後まで残されていたのは、1930年に開通した支線上にあるオカナガンフォールズ Okanagan Falls から、ペンティクトン、プリンストンを経てスペンシズブリッジまでの線路だった。しかし、同区間に設定されていた貨物列車も、ついに1989年限りで見納めとなった。

KVRは過去帳入りし、線路もすっかり撤去されてしまった。しかし幸いにも、路床の大部分がハイカーやサイクリストのためのケトルバレー・レールトレール Kettle Valley Rail Trail に転用されたため、今も廃線跡をたどるのは容易だ。また、ペンティクトン近郊の一部区間だけは、蒸機牽引の保存鉄道(ケトルバレー蒸気鉄道 Kettle Valley Steam Railway)として運営され、訪問客に往年の雄姿を伝えている。

CPRのクローズネスト峠越えに劣らず、山中を果敢に切り開いたKVRのルートには、見るべき遺構が点在する。次回、保存鉄道を含めてそうした名所をいくつか訪れることにしたい。

本稿は、下記ウェブサイトおよびWikipedia英語版の記事(Kettle Valley Railway, Kettle Valley Rail Trail, Columbia and Western Railway)を参照して記述した。地形図は、カナダ官製1:1,000,000国際図 NM9_10 Vancouver, NM11 Kootenay Lake(いずれもGeoGratis - Scanned Mapsからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

■参考サイト
ケトルバレー鉄道路線図(概略) http://www.kettlevalleyrailway.ca/map.html
ケトルバレー蒸気鉄道 Kettle Valley Steam Railway
http://www.kettlevalleyrail.org/
ケトルバレー鉄道(資料集)
http://www.hectorturner.com/kettlevalley/
BC州における初期のCPR(資料集)The Early Years of the CPR in BC
http://canyon.alanmacek.com/index.php/Canadian_Pacific_Railway_in_British_Columbia
ケトルバレー鉄道のサイクリングCycling the Kettle Valley Railway
http://www.kettlevalleyrailway.ca/

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 カナダ ケトルバレー鉄道 II-見どころ

 カナディアンロッキーを越えた鉄道-序章
 カナディアンロッキーを越えた鉄道-クローズネスト峠
 カナディアンロッキーを越えた鉄道-キッキングホース峠
 カナディアンロッキーを越えた鉄道-ロジャーズ峠
 カナディアンロッキーを越えた鉄道-イエローヘッド峠
 カナディアンロッキーを越えた鉄道-フレーザー川を下る

2011年2月10日 (木)

カナディアンロッキーを越えた鉄道-クローズネスト峠

Blog_crowsnestpass_map1 鉄道が横断するカナディアンロッキーの峠道の中で、最も南にあるのがクローズネスト峠 Crowsnest Pass だ。標高は1357mでイエローヘッド峠を上回るが、東側から緩い坂道で到達できる点は変わらない。そしてここは、穀倉地帯のプレーリー(大草原)と、豊かな鉱脈が眠るブリティッシュコロンビア州南東部を結ぶ最短の通路だった。

カナディアン・パシフィック鉄道 Canadian Pacific Railway(CPR)が敷いた路線は、かつて南部本線 Southern Mainline あるいは第二本線 Second Mainline と言われて、バンクーバーからの長距離便の主要経路になった時代もある。旅客列車が全廃されたため、現代の旅行者にはなじみがないが、CPRは今も路線の東半分を維持していて、沿線には特筆すべき鉄道構築物が存在している。今回は、クローズネスト峠とその周辺を、地図とともに訪ねてみよう。

全体図
Blog_crowsnestpass_map2

キッキングホース峠経由のCPR本線と異なり、南部本線は一気に完成されたわけではない。ルーツは1885年、CPR本線のダンモア Dunmore(アルバータ州南東部メディシンハットMedicine Hat東郊)から分岐して西へ、現在のレスブリッジ Lethbridge 近郊にある炭鉱まで敷かれた3フィート軌間の狭軌鉄道だ。レスブリッジ市街はこれ以降、鉄道駅の周りに形成されていく。ロッキー山脈の向こう側へ通じる第二の路線を検討していたCPRは、1893年にこの路線を借り受けて標準軌に改軌し、直通列車を走らせた(1897年に路線買収)。

連邦政府との間で、農産物の運賃を低く固定する代わりに建設費の国庫補助を引き出す、いわゆる「クローズネスト峠協定 Crow's Nest Pass Agreement」が1897年に結ばれると、いよいよ峠を越えて、水運と接続できるクートネー湖 Kootenay Lake 南岸までの路線建設が開始される。レスブリッジ~クートネー桟橋 Kootenay Landing 間、325マイル(523km、下注)は1898年に開通した。埠頭からは船で湖上を走り、ネルソン Nelson に上陸する。そこで、1891年に開通済みのコロンビア・アンド・クートネー鉄道 Columbia and Kootenay Railway(実際はCPRがリースしていた)に接続し、コロンビア川と出会うキャスルガー Castlegar(書類上は対岸のロブソンRobson)へと続いていた。

この時点でレールが途切れていたクートネー桟橋~ネルソン間のうち、ネルソン~プロクターProcter間は1901年に延長されたが、残るプロクター~クートネー桟橋間は、湖岸に山が迫る難所で、1931年初頭にようやく開通を果たした。

*注 「アルバータ鉄道地図帳」のサイトによる線路距離。290マイル(480km)としている資料もある。http://railways.library.ualberta.ca/Chapters-7-4/

図1
Blog_crowsnestpass_map3
レスブリッジ市街と鉄橋(1:50,000地形図)
グリッド(方眼)1km間隔、標高データはm単位

南部本線の見どころの最たるものは、レスブリッジ駅のすぐ西に架かる巨大な鉄橋だろう【図1】。平原をオールドマン川 Oldman River が刻んだ深くて広い谷を、軽々とまたいでいる。現地でハイレベルブリッジ High Level Bridge と呼ばれるトレッスル橋は、外観が山陰本線の旧 餘部鉄橋とそっくりで、建造時期も1909年と、餘部(1912年)とほぼ時期を同じくする。だが、長さは1624m(餘部は311m)、高さが95.7m(同41.5m)と、桁違いのスケールだ。

■参考サイト 
レスブリッジ鉄橋付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=49.6975,-112.8628&z=15
 地表に鉄橋の長い影が映っている
Flickr レスブリッジ鉄橋の写真
http://www.flickr.com/photos/amanda_white_photography/2978632960/
You Tube レスブリッジ鉄橋を渡る
http://www.youtube.com/watch?v=uAJR1M8-MRs
架橋100周年記念サイト  http://www.highlevelbridge.com/

一昨年(2009年)、現地で架橋100周年が祝われたとおり、鉄橋の完成は1909年になってからだ。では、全線開通(1898年)から11年の間、列車はどこを走っていたのだろうか。

図2
Blog_crowsnestpass_map4
旧線と新線の位置関係(1:250,000地形図)
標高データはフィート単位

上の地図を見ていただこう。赤の点線が旧線の位置を示している。レスブリッジから西のマクラウド(現 フォートマクラウド Fort Macleod)の間、現在線とは全く違うルートが採用された【図2】(下注)。2つの町とも、主流たるオールドマン川の右岸に立地しているから、本来、川を渡る必然性はないはずだ。その証拠に旧線はオールドマン川の谷を一度も横断していない。しかし問題は別のところにあった。南からこの川に合流する2つの支流、特に本流と同じ幅と深さの谷を作っている東側のセントマリー川 St. Mary River を、どのようにして渡るかだ。

*注 右図の旧線位置は下記「アルバータ鉄道地図帳」収載の路線図を参照した。このあたりは乾燥地域のため、平原に敷かれた線路の痕跡が、100年を経過してなお空中写真で確認できる。Mike Walker "SPV's Comprehensive Railroad Atlas of North America" Western Canada, SPV, 2006 p.38の地図にも旧線位置が示されているが、セントマリー横断後も終始、オールドマン本流の右岸に沿うように描かれており、明らかに誤りだ。

図3
Blog_crowsnestpass_map5
セントマリー川付近の旧線(1:50,000地形図)
標高データはm単位

結論として旧線は、スイッチバックを避けるため、東方に移設したレスブリッジ駅から南下し、本流の谷の南斜面を降りる。そして低い位置でセントマリーを渡り終え、再び斜面を上って大平原に出るという方法を選択した【図3】。線路がたどろうとした斜面は、長年の浸食により無数の大きなひだ(涸れ谷、クーリー Coolee)を生じている。これを深い切通しと木製トレッスルの連続でこなし、セントマリーも長さ894m、高さ20mの気の遠くなるような大トレッスルを組んで横断した。当時の写真から、新鉄橋にも劣らない大規模な構築物のようすを想像していただきたい。

■参考サイト
セントマリー川南岸に連続するトレッスルと切通しの写真
http://www.crowsnest.bc.ca/images/1ma260.jpg
セントマリー橋の写真(東北望) http://www.crowsnest.bc.ca/images/1ma253.jpg

これほどの大工事にもかかわらず、わずか11年で旧線が放棄された理由はいくつかある。1.2%の坂道とカーブの連続で、早々に運行上のボトルネックとなっていたこと、乾燥した峡谷では野火が発生する危険があり、保線に注意を要したこと、さらに工事に間に合わせようと生木を多く使ったため、トレッスルの劣化が早かったことだ。トレッスルを取り換えるだけでは運行状況が改善せず、まったくの新線を造るほうが費用対効果の点で優れていると考えられた。当時、国中が好景気に浴していたことも決定に力を貸しただろう。

新線は駅からそのまま西へ向かい、いきなり本流の谷の上空に躍り出る。ハイレベルブリッジは一直線だが、0.4%の上り勾配がついている。空中散歩を終えると、しばらく平原を突き進み、再びオールドマン川を長さ579m、高さ44.5mの鉄橋で渡ってマクラウドに至る。新線は勾配、曲線とも最小限に抑えられ、路線長自体8.5kmの短縮になったという。

図4
Blog_crowsnestpass_map6
クローズネスト峠付近の1:50,000地形図
グリッド1km間隔、標高データはフィート単位(図5も同じ)

さて、レスブリッジから先へ進もう。170kmほど西に行くと、クローズネスト峠が現れる【図4】。峠の廊下は例によってほとんど勾配がついていないが、仲良く並ぶ3つの小さな湖のうち、東の2つ、クローズネスト湖 Crowsnest Lake とアイランド湖 Island Lake から出た川はハドソン湾側へ、西の1つ、サミット湖 Summit Lake からは正反対の太平洋側に流れていく。列車は、大陸分水界をまたいで、いよいよブリティッシュコロンビア州に足を踏み入れる。

峠の西側には、勾配を制限内に収めるための特徴的な長いループが控えている。線路はここで突然南へ向きを変える。ミシェルクリーク Michel Creek の谷の東斜面を約3km逆行してから、180度回転して北へ向かう。設計者の名を取ってマッギリヴレー・ループ McGillivray Loop と呼ばれる迂回路は、両端の標高点で見て272フィート(83m)の高度をかせいでいる。Googleの空中写真(下記参考サイト)では、ループの上端にあるきれいな半円カーブを走行中の貨物列車が写っている。設計ではこの尾根をトンネルで抜ける予定だったが、地質が非常に悪く、大回りのルートに切替えられた。1901年に再度トンネル化が図られたものの、1948年に現在のオープンカット方式に戻されたという経緯がある。

■参考サイト
マッギリヴレー・ループの当時の写真  http://www.crowsnest.bc.ca/loop.html
 右上にループの上路と列車が、左下に下路が見える。
クローズネスト峠西方ループ付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=49.6643,-114.7703&z=16

図5
Blog_crowsnestpass_map7
クートネー桟橋付近の1:50,000地形図

最後に、開通から30年以上も線路の終点であったクートネー桟橋 Kootenay Landing を見ておきたい【図5】。ここはクートネー湖の南端で、ロッキー山脈を発したクートネー川が南から流れ込み、湖面とも陸ともつかない浅瀬が一面に広がる場所だ。鉄道は東の山裾から、谷に対してほぼ直角に設けた長大なトレッスルでこの平地を思い切りよく横断した。そのようすが古い写真に残されている(下記参考サイト)。

川の流入口には、汽船と連絡する桟橋駅が設けられたが、遠浅のため、乗換え用の桟橋は沖まで長く伸ばさなければならなかった。後に、横断部は土の堤防に置き換えられ、全線開通に際して、駅も廃止された。クートネー川を渡る部分はトラス橋とされ、河川航行を妨げないように中央部は可動式(昇開橋)で造られた。貨客が行き交い、多忙を極めたはずの駅跡では、一部の杭材が今も朽ちるままに残されている。

■参考サイト
桟橋に向かう当時のトレッスルの写真  http://www.crowsnest.bc.ca/c_00578.html
可動橋および湖岸に残る杭材の写真  http://www.crowsnest.bc.ca/crowtoday04.html
旧 クートネー桟橋付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=49.2528,-116.6788&z=15

以上見てきた東部本線の東側では、貨物専用ながら現在も列車が日夜行き交っている。その一方、西側については廃止の後、レールも剥されてしまった。だがここでも興味をそそる遺構がいくつかあって、カナダ屈指の山越えルートだった当時をしのぶことができる。次回はそのケトルバレー鉄道 Kettle Valley Railway の話をしよう。

本稿は、下記ウェブサイトおよびWikipedia英語版の記事(Canadian Pacific Railway in BC, Lethbridge Viaduct, Crowsnest Pass)を参照して記述した。
地形図は、カナダ官製1:1,000,000国際図 NM11 Kootenay Lake, NM12 Lethbridge、1:250,000地形図 82H Lethbridge、1:50,000地形図 82F/2, 82F/7, 82G/10, 82H/10(いずれもGeoGratis - Scanned Mapsからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

■参考サイト
「アルバータ鉄道地図帳 Atlas of Alberta Railways」クローズネスト線 The Crow’s Nest Line
http://railways.library.ualberta.ca/Chapters-7-4/
同 クローズネスト線の建設 Building the Crow’s Nest Pass Line
http://railways.library.ualberta.ca/Excerpts-7-4-2/
クローズネスト峠線の詳細な路線図(画像への直接リンク)
http://railways.library.ualberta.ca/Images/Maps/CrowsnestPass.jpg
クローズネスト峠鉄道ルート The Crowsnest Pass Railway Route
http://www.crowsnest.bc.ca/
 同線の過去と現在に関する詳細な記述とともに、写真、路線図等を含む。

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2011年2月 3日 (木)

カナディアンロッキーを越えた鉄道-フレーザー川を下る

Blog_fraserriver_map1 カナディアン・ノーザン鉄道 Canadian Northern Railway (CNoR) が建設した線路(下注)は、広いロッキー山脈峡谷 Rocky Mountain Trench に出たとたん、南に針路を変える。この後、北西のプリンスジョージ Prince George へ大回りするフレーザー川を見送って、自らは近道をするのだ。川のお供をグランド・トランク・パシフィック(GTPR)に譲り、CNoRの列車は、支流トンプソン川 Thompson River の谷へ入っていく。

*注 現在はCNoR、GTPRとも、カナディアン・ナショナル鉄道 Canadian National Railways (CN) によって運営されているが、以下の記述では旧称で通す。

だが、CNoRの一人旅は、途中のカムループス Kamloops の町までだ。その先、今度は、ロジャーズ峠を越えてきた大陸横断の先駆者、カナディアン・パシフィック鉄道(CPR)と絡み合うことになるからだ。線路が統合されたイエローヘッド峠とは違い、この競合区間は現在も残っている(下図)。カナディアン号 The Canadian で通る場合は、東行、西行とも夜中の走行となってしまうのが残念だが、沿線には興味深い個所もあるので、少し触れておこう。

全体図
Blog_fraserriver_map2

川下りに際して、CNoRが採用したルート設定方針は明確に読み取れる。すなわちそれは、可能な限りライバルの対岸を通るということだ。CPRが左岸(河口に向かって左側の岸)に陣取っていれば、新参のCNoRは右岸に回る。この原則は、双方共通の目的地であるバンクーバーに入るまで、終始一貫している。狭い谷あいでは、列車が運行されている線路の傍らで安易に工事の発破をかけるわけにいかないから、このような配置になったのだろう。

ただし、400kmを越える並走の間で、原則を崩す場所が4か所だけある。いずれの場合もCNoRのほうから川を渡ってきて、一定距離、CPR線の傍らに寄り添う。極端なのは、カムループスから70kmほど下ったアシュクロフト Ashcroft の東【図1】で、左岸に移ったかと思うとすぐに右岸に戻ってしまう。この間、1km強しかない。工費のかさむ鉄橋を構えてまでそうする理由は、地形図や空中写真を読めば推測できる。CNoRの本来の陣地である右岸に、険しい崖(下注)が迫っているのだ。前後2か所の「寄り添い」も同じような構図になっている。

*注 地図では崖の記号が使用されておらず、等高線の混み方で判断するしかないので、空中写真も参照。

図1
Blog_fraserriver_map3
アシュクロフトの東 1:50,000地形図
グリッド(方眼)1km間隔、標高データはフィート単位(以下同じ)

図2
Blog_fraserriver_map4
リットン付近の1:50,000地形図

■参考サイト
アシュクロフト東部のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=50.7485,-121.2381&z=15

最後の1か所は、フレーザー川本流と再会するリットン Lytton の町【図2】にあるが、ここだけは地形が理由ではなさそうだ。図の左手からフレーザー川が合流するので、橋1本は必須なのだが、わざわざ岸を移動したのは、町あるいは河港のある側に線路を寄せたかったとしか考えられない。おかげで、鉄橋の取付け部に急曲線が生じ、線形はCPRに比べてかなり不利になってしまった。

図3
Blog_fraserriver_map5
シスコ・クロッシングの1:50,000地形図

さて、ここまで基本的にCPRが左岸、CNoRが右岸という配置が続いてきた。しかし、リットンの川下約10kmの地点で、ついに位置関係が逆転するときが来る。CPRが右岸に場所を変えるため、CNoRはその直前で、フレーザー川とCPRの線路をアーチ橋で一気にまたいで、左岸に出るのだ。鉄橋が2本重なるこの場所【図3】は、地名からシスコ・クロッシング Cisco Crossing と呼ばれ、鉄道写真の絶好の被写体になっている。列車運行が時刻どおりとはいかない中で、YouTubeには、鉄橋を渡るCNoR(CN)上の車窓から、真下を通過するCPRの貨物列車をとらえた、千載一遇の映像も投稿されている。

■参考サイト
シスコ・クロッシング付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=50.1496,-121.5793&z=16
Wikimedia シスコ・クロッシングの写真
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Canadian_Pacific_Railway_train_crossing_Fraser_River_on_Cisco_bridge_at_Siska,_British_Columbia_(2010-Jun-13).jpg
You Tube シスコ・クロッシングにおける列車同士の交差
Rocky Mountaineer CN Railway Cisco Crossing British Columbia
http://www.youtube.com/watch?v=Qyo6gsfGTCM

図4
Blog_fraserriver_map6
地獄の門付近の1:50,000地形図

最後の見どころは、近辺の観光名所にもなっているヘルズゲート Hell's Gate、すなわち地獄の門だ【図4】。左岸の高みを通過するトランスカナダハイウェー(1号線)から対岸にあるCPRの線路際まで、観光用のロープウェー(下注)が架けられている。ここは、リットン~イェール Yale 間のフレーザー峡谷が最も狭まる地点に当たり、両側の岩壁がせり出して35mの幅しかない水路に、ロッキー山脈などを源とする豊かな水量が殺到する。

*注 エアトラム Air Tram と称する。地図では Aerial Cableway と表記。

地獄の門がとりわけ有名になったのは、1914年に行われたCNoR線の建設工事が原因だ。鉄道の路盤を造るために、切り立った左岸に発破をしかけたところ、予期せぬ大規模な崩壊が起きた。多量の岩石が直下の川を埋め、狭い川幅がさらに狭められた結果、流れに6m以上の滝のような落差が生じてしまった。

この災害は、思わぬところに影響をもたらした。次の夏、地獄の門から上流で、遡行するサケの姿がほとんど消えてしまったのだ。沿岸漁業への打撃を懸念した連邦政府と州政府は、掘削と爆破によって川を開こうとしたが、川底に沈んだ岩を取り除かない限り、問題は解決しそうになかった。調査検討の結果、難所を迂回する人工魚道が有効ということになり、1944年から設置工事が開始された。その後、水位に応じて数段の魚道が継続的に整備されていき、ようやくサケはもとの産卵場所に到達できるようになったという。地図にも Fish Ladder という注記が見える。

■参考サイト
フレーザー川の魚道構造物 Fish Passage Structures on the Fraser River
http://www.saxvik.ca/
地獄の門付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=49.7799,-121.4495&z=16

現在この並行区間は、所有会社がCPRとCNに分かれている。しかし、両社が方向別に共用することで、事実上複線として扱われているようだ。日本の例で言うと、名鉄名古屋本線・JR飯田線の豊橋~平井信号所間のようなものだろう。地図資料(下注)から読み取る限り、その区間はアシュクロフトの南方に位置するバスクジャンクション Basque Junction(東から数えて3番目の「寄り添い」区間内)からバンクーバー都市圏までで、CPR線が東行、CN(旧CNoR)線が西行となっている。カナディアン号やロッキーマウンテニア号などの旅客列車も例外ではない。CNoRの壮大な構想は泡と消えてしまったが、少なくともイエローヘッド峠の西側では、夢の跡を今も列車でたどることができるのだ。

*注 Mike Walker "SPV's Comprehensive Railroad Atlas of North America" Western Canada, SPV, 2006 p59, p65, p71の地図。

本稿は、下記ウェブサイトおよびWikipedia英語版の記事(Hell's Gate, British Columbia)を参照して記述した。
地形図は、カナダ官製1:1,000,000国際図 NM9_10 Vancouver、1:50,000地形図 92H/11, 92H/14, 92I/4, 92I/11, 92I/14(いずれもGeoGratis - Scanned Mapsからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

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2011年1月27日 (木)

カナディアンロッキーを越えた鉄道-イエローヘッド峠

Blog_yellowheadpass_map1 カナダ最初の大陸横断鉄道となったカナディアン・パシフィック鉄道 Canadian Pacific Railway (CPR) は、市場から離れ、遠回りになるとして、最終的にイエローヘッド峠 Yellowhead Pass を選ばなかった。峠に列車が通るようになるのは、CPRの開通後30年近く経ってからのことだ。

20世紀に入って、大草原(プレーリー)の開発がより北方へと進展すると、CPRの本線からはずれた地域をつなぐ路線の建設が切望されるようになった。これらの地域から太平洋に出るには、イエローヘッド峠が最短の経路だ。好景気を反映して、峠には2本の鉄道が競合するように建設された。プリンスルパート Prince Rupert の港をめざすグランド・トランク・パシフィック鉄道 Grand Trunk Pacific Railway (GTPR)、そしてバンクーバーへ向かうカナディアン・ノーザン鉄道 Canadian Northern Railway (CNoR) だ。前者は1911年に峠まで線路を延ばし、1914年に全線開通した。後者は少し遅れて1913年に峠に達し、1915年に全通した。

Blog_canadianrockies_railway_map
カナディアンロッキーを越えた鉄道 路線図
緑線がGTPR、青線がCNoR

カナディアンロッキーを越えるイエローヘッド峠は標高1133m、リゾート都市ジャスパー Jasper から西へ24kmの地点にある。その名は、ハドソン湾会社の探検隊を峠に案内したメティ Métis(原住民とヨーロッパ人の混血)の猟師にちなんでいる。彼は金髪で、隊員からテト・ジョーヌ Tête Jaune(黄色い頭を意味するフランス語)と呼ばれていた。

大陸分水界をなすとはいえ、ジャスパーの町と峠との標高差は70m程度しかない。ハイウェーを飛ばすドライバーは、案内標識を見ない限り、ほとんど意識することもなく通過するだろう。一方、峠の西側は、バンクーバーに流れ下るフレーザー川 Fraser River の最上流域に当たっている。途中、広いロッキー山脈峡谷 Rocky Mountain Trench に出るまで約80kmの間に、川は370mの高度差をゆっくりと下降していく。地形は開放的なU字谷で、勾配も許容限度に収まり、鉄道の通過に最も適したルートであったことに間違いない。

下の地形図をご覧いただこう。右端にイエローヘッド峠がある。峠を斜めに横切る太い破線は、ブリティッシュコロンビア州(左側)とアルバータ州の境界で、同時に大陸分水界をも意味する。ここからおよそ西向きに延びる廊下のような谷が自然の通路で、中央に見えるムース湖 Moose Lake を経て、左端のロッキー山脈峡谷へ通じている。谷の北方には、カナディアンロッキーの最高峰ロブソン山 Mount Robson(標高3954m)が見える(図の中央左寄り上部、12972フィートの標高点あり)。線路はハイウェー(16号線)とともに、谷に忠実に沿って走るが、かつて敷かれた2社の線路のうち、ムース湖より東では片方が撤去されてしまい、今は存在しない。

Blog_yellowheadpass_map2
峠から西側の1:250,000地形図
グリッド(方眼)10km間隔、標高データはフィート単位

2社はどちらも、第一次大戦下の経営不振に苦しんだあげく、1918~19年に相次いで国有化されてしまった。そのことが路線の一本化を促進したように思えるが、実はそうではない。参戦中のイギリスが、自治政府に対して、フランスの前線で使用するレールの供出を求めたのが原因だ。要請に応じてカナダでは、1916年12月から順次、鉄道路線の整理統合 Consolidation が実行されることになった。ジャスパー周辺でも1917年から、重複区間約200マイル(320km)のレールがはがされていった。各社は撤去命令に従うより他なかったが、関係者の回想では、回収された資材のほとんどが大西洋を渡らないままに終わったそうだ。

GTPRとCNoR、どちらの線路が整理の対象とされたかは区間によって異なる。資料「アルバータ鉄道地図帳」(下記参考サイト)によれば、ジャスパー駅付近では、構内が広く整っていたGTPRの線路が残された。峠の前後は最初CNoR線が生かされたらしいが、1924年にGTPRが敷いた線路に切替えられて、そのまま現在に至っている。GTPRは連邦政府が建設の後ろ盾となっていて、線路規格が高かったことが選択の主な理由だろう。

Blog_yellowheadpass_map3
ジャスパー付近の1:50,000地形図
グリッド1km間隔、標高データはm単位

峠から西へ進むと、ムース湖の湖尻にあるレッドパスジャンクション Red Pass Junction で、線路が二手に分岐する(下図)。CNoRのほうが線路の位置はだいぶ高いものの、そのままつかず離れず30kmほども走り、ロッキー山脈峡谷に出るところでようやく北と南へ分かれていく。複線のようにも見える線路配置の不思議は、上の建設史を知れば納得できるはずだ。北側を走るのがもとGTPR、南側がCNoRの線路で、現在はどちらも後を継いだカナディアン・ナショナル鉄道 Canadian National Railway (CN) の所有となっている。

Blog_yellowheadpass_map4
レッドパス付近の1:50,000地形図
標高データは右下部のみm、他はフィート単位

トロントとバンクーバーを結ぶVIAレールの長距離旅客列車カナディアン号に乗れば、ちょうどこのあたりで最高峰ロブソン山の雄姿を拝むことができる。西海岸からジャスパーへ区間乗車する乗客にとっては、行路のハイライトとなるひとときだ。ただし、「雲の帽子をかぶる山 Cloud Cap Mountain」と称される雪山が実際に姿を現すかどうかは、きわめて運任せのことらしい。

本稿は、下記ウェブサイトを参照して記述した。
地形図は、カナダ官製1:250,000地形図 83D Canoe River, 83E Mount Robson、1:50,000地形図 82D/14, 82D/15, 83D/16, 83E/2, 83E/3(いずれもGeoGratis - Scanned Mapsからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

■参考サイト
アルバータ鉄道地図帳 Atlas of Alberta Railwaysのサイト http://railways.library.ualberta.ca/ に、イエローヘッド峠前後のGTPRとCNの路線整理状況図(画像)が収録されている。
http://railways.library.ualberta.ca/Maps-10-1-11/
Grand Trunk Pacific Railway, Canadian Northern Track Consolidation(画像への直接リンク)
http://railways.library.ualberta.ca/Images/Maps/GTPRCanadianNorthernTrackConsolidation.jpg
イエローヘッド峠付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=52.8923,-118.4621&z=13
カナダ公園管理局-イエローヘッド峠国定史跡
Parks Canada - Yellowhead Pass National Historic Site of Canada
http://www.pc.gc.ca/docs/v-g/pm-mp/lhn-nhs/yellowhead_e.asp

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2011年1月20日 (木)

カナディアンロッキーを越えた鉄道-ロジャーズ峠

Blog_rogerspass_map1 西を目指す列車はキッキングホース峠の分水界を越えると、ゴールデン Golden で比較的広い谷に出る。ロッキー山脈峡谷 Rocky Mountain Trench と呼ばれる延長1600kmの大規模な断層谷で、中央をコロンビア川 Columbia River が悠々と流れている。しかし、それもつかの間、線路はキンバスケット湖 Kinbasket Lake(ダムによる堰止め湖)をかすめて、再び山間に入っていく。二つ目の峠、セルカーク山脈 Selkirk Mountains を越えるロジャーズ峠(ロジャーズ・パス)Rogers Pass へのアプローチだ。

馬に蹴られたキッキングホースと違い、ロジャーズの名は発見者の名字にちなんだもので、由来は一見平凡だ。ただ、次のような逸話が伝えられている。測量士A・B・ロジャーズ少佐は、設立間もないカナディアン・パシフィック鉄道 Canadian Pacific Railway(CPR)に雇われ、その際、山脈を抜ける峠道を発見すれば5000ドルの報奨金と峠に彼の名をつけるという契約を取り交わした。2年越しの調査で、山並みの中に通路があることを確かめた彼に対して、会社はロジャーズ峠と命名し、約束どおり小切手を渡した。だが彼は、地図に名が刻まれたことに満足し、金が目的ではないと言って小切手を現金化せず、長い間自分の部屋の壁に飾っていたという。

彼の誉れとなったロジャーズ峠は、大陸の東西を結んだCPR本線にとって、ビッグヒルと並ぶ難所だった。その証拠に、峠には後年、列車運行を容易にするために2本の長大トンネルが掘られ、新しい方は北米最長の規模を誇っている。標高1332m(下注)と、先のキッキングホース峠に比べて300mも低い峠が、なぜ難所と呼ばれ続けたのか。開通時からの線路改良の歴史と合わせて見ていこう。

*注 カナダ官製1:50,000地形図データ Toporama の注記による。

Blog_kickinghorsepass_map4
3つの峠付近の1:1,000,000地形図

峠の周辺は、地形的に特徴がある。東側を南北に流れているビーヴァー川 Beaver River の谷は標高800~900m、それに対して峠の「廊下」は標高1300m前後と、かなりの高低差があるのだ。この段差は、かつて谷を埋めていた氷河の規模(下刻の圧力)の違いがもたらすものだが、勾配に弱い鉄道にとって、数百mの高低差は相当に挑戦的だ。実際、東側のアプローチは廊下の入口の15km以上も手前から始まり、2.2%の勾配で谷の東壁をじわじわと這い上がっていく。

途中、斜面を滑り落ちる深い渓流をまたぐために、大きな橋をいくつも架けなければならなかった。中でも被写体としてよく登場するのが、ストーニークリーク橋梁 Stoney Creek Bridge だ。オリジナルはトレッスル(木組みの橋)で建設当時、世界一高いと言われたが、列車の重量化に対応させるために1893年と1929年の2回架け替えられている。3代目は径間102.48m、谷底からの高さ90m(下注)の堂々たるアーチ鉄橋として、並走するトランスカナダハイウェー Trans-Canada Highway(1号線)からも目にすることができる。

*注 データはStructuae.deのサイトより
http://en.structurae.de/structures/data/index.cfm?id=s0007230

■参考サイト
ストーニークリーク橋梁の写真
Panoramio  http://www.panoramio.com/photo/4601565
Wikipedia  http://en.wikipedia.org/wiki/File:Eastbound_over_SCB.jpg

Blog_rogerspass_map2
峠付近の1:50,000地形図(縮小)。旧線と現在線の位置関係を示した

橋の南で、現在線から旧線(廃線跡)が分かれる。旧線はさらに上っていき、ビーヴァー川の支流で峠の方から流れ出すコノートクリーク Connaught Creek の谷へと入り込む。山が間近に迫るこの区間の最大の課題は、雪崩への対策だった。セルカーク山脈一帯は雪が深いため、急傾斜地はしばしば予期せぬ雪崩に見舞われ、工事段階からすでに犠牲者を出していた。開通の翌年に、線路を保護するスノーシェッド(雪覆い)の設置が追加され、その数は31か所、全長6.5kmにもなった。

しかし、夏にスノーシェッドは要らない。覆いの外側を迂回する線路が敷かれ、雪崩の危険がない季節は旅客列車をそちらに走らせて、氷河を望む雄大な山岳風景を乗客に提供した。峠にはホテルを建て、グレーシャーハウス Glacier House(氷河館)と名付けた。乗客はここで下車して食事をとることになっていて、列車は昼時に峠を通るよう設定されていたという。元来これは重い食堂車にビッグヒルをはじめとする急勾配を通過させないための措置だったが、氷河の見えるホテルはたちまち旅行者の人気を集め、やがて登山活動の拠点ともなった。

峠の西側も、東側ほどではないにしろ急な下り坂で、イルシルワト川 Illecillewaet River の谷につながっている。谷の下降に従えない線路は、まず東壁に沿って川の上流まで進み、180度回転して今度は南壁に張り付く。次のループブルック Loop Brook(ループ沢)と名付けられた支谷でも大きく南に回り込み、S字を描くようにもう半回転して、ようやく谷底に到達する。この巧妙な設定ルートの一部は、ロジャーズ峠上の一角とともに、現在、トレール(自然歩道)に指定されて、1号線からのアクセスも容易だ。

ちなみに地図資料(下注)によると、峠の駅は3度移転している(上図参照)。開業時の駅は峠のサミットに設けられたが、1899年2月に発生した雪崩の直撃を受け、壊滅してしまった。2番目の駅は危険な峠を避けて、東へ約3kmの位置に移された。しかし、勾配の途中で手狭だったのか、あるいはホテルへのアクセスの関係か、やがて現在のロジャーズ峠センター Rogers Pass Centre の場所に戻された。4番目、最後の移転は現場付近の線路の直線化に伴うもののようだ。

*注 Mike Walker "SPV's Comprehensive Railroad Atlas of North America" Western Canada, SPV, 2006 p.64の地図。

ロジャーズ峠最大の悲劇は、1910年3月4日に起こった。その夜、作業員がロータリー車とともに、西側の山から崩れて線路をふさいだ雪の山を片付けていたところ、反対側の斜面からまたも雪崩が作業現場を襲ったのだ。一度に62名が亡くなった痛ましい災害は、CPRに峠の線路を放棄する決断を促したとされる。

バイパスとなる長さ8,082mのコノートトンネル Connaught Tunnel は、運行本数の増加に対応できるよう複線の設計で、3年の工期を経て1916年に完成した。これにより、連続する雪覆いとS字のループ線を含む23.3kmが廃止され、自然との壮絶な闘いとともに、氷河を仰ぐ絶景の車窓も昔語りとなった。なお、トンネル内は1959年に単線に戻されている。車高の高い貨物列車に適応させるために、線路をトンネル断面の中央に敷き直したのだという。

最近の改良はさらに抜本的なものだ。1989年に完成した単線のマクドナルド山トンネル Mount Macdonald Tunnel で、長さは14,723mもある。通常西行きの列車がこちらを通り、東行きは従来のコノートトンネルを経由している。トンネルの東側では、既存線の下方に新線を延長することで、複線化だけでなく平均0.82%(最大1%)という勾配の緩和が実現された。こうして、バンクーバー港に向けた貨物列車は、ついに補機なしでロジャーズ峠を越えられるようになったのだ。

本稿は、下記ウェブサイト、Wikipedia英語版の記事(Rogers Pass, Connaught Tunnel等)を参照して記述した。
地形図は、カナダ官製1:1,000,000国際図 NM-11 Kootenay Lake(1978年版印刷図)、1:50,000地形図82N/3, 82N/4, 82N/5, 82N/6(いずれもToporamaからのダウンロード)を用いた。(c) Department of Natural Resources, Canada. All rights reserved.

■参考サイト
ロジャーズ峠付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&sll=51.2999,-117.5187&z=13
セルカーク山脈を横断するロジャーズ峠の歴史(歴史と見どころを紹介している)
The History of the Rogers Pass crossing of the Selkirk Mountains of B.C. Canada by the Canadian Pacific Railway and later by the Trans-Canada Highway
http://cdnrail.railfan.net/RogersPass/RogersPasstext.htm
カナダ公園管理局-ロジャーズ峠国定史跡
Parks Canada - Rogers Pass National Historic Site of Canada
http://www.pc.gc.ca/docs/v-g/pm-mp/lhn-nhs/kickinghorse_e.asp

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