2017年9月 3日 (日)

ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

中欧スロベニアの南西部からアドリア海の間には、石灰岩やドロマイトなど水溶性の岩石が造り出す複雑怪奇な地形が横たわる。カルスト地形というよく知られた用語は、スロベニア語でクラス Kras と呼ばれるこの地方のドイツ語名称を借りたものだ(下注)。

*注 クラスはドイツ語でカルスト Karst、イタリア語ではカルソ Carso になる。

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トロッコ列車が地中の「コンサートホール」を駆け抜ける
image from www.slovenia.info

首都リュブリャーナ Ljubljana から西へ向かう列車は、このカルストの波打つ高原を越えていかなければならない。たどるルートは、ローマ時代からあるパンノニア平原(現 ハンガリーとその周辺)と北イタリアを結ぶ交易路だ。標高610mの峠道は回廊状になっていて、ポストイナ門 Postojnska vrata と呼ばれる。近現代に至るまで戦略的に重要な場所で、今も幹線鉄道と高速道路が並走している。

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ポストイナというのは、峠道から下りたところにある小さな町の名だ。しかしその名は門よりも、鍾乳洞(下注)の存在によって世界に知られている。カルスト地形では珍しくない鍾乳洞だが、ポストイナの裏山の地下に横たわるそれは総延長が約24kmあり、同国でも一二を争う規模を誇る。その一部、往復5kmが観光用に公開されており、1日数回行われるガイド付きツアーで見学することができる。

*注 公式名称はスロベニア語で Postojnska jama(ポストイナの洞穴)、英語でも Postojna Cave だが、日本ではこの種の洞穴を鍾乳洞と呼ぶので、本稿では「ポストイナ鍾乳洞」とした。

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ポストイナ鍾乳洞の管理棟(鍾乳洞宮殿 Jamski Dvorec)、左奥が洞口
image from www.slovenia.info

ポストイナ鍾乳洞のユニークさは、規模の大きさにとどまらない。ここにはおそらく世界でも類のない、鍾乳洞の中を走るトロッコ列車があるのだ。ツアー参加者は、洞内に入るとまず、このミニ列車に乗って、地中の奥深くへ運ばれていく。約10分乗車した後、ガイドに従って、徒歩で鍾乳洞の最も見ごたえのある区間を巡る。そして、コンサートホール Koncertna dvorana と呼ばれる大空間から、再び列車で入口まで戻ってくる。全行程の所要時間は約1時間半だ。

洞内軌道は620mm軌間で、上下別線になっている(見かけは複線)。終端はループ化されており、周回線路の総延長は3.7kmに及ぶ。また、降車ホームと乗車ホームは分離され、両者の間は回送運転になる(下図参照。図中、departure platform が乗車ホーム、arrival platform が降車ホームの位置)。列車は、蓄電池式機関車が牽引し、2人掛け×4列の簡素な2軸客車を多数連結している。それでも押し寄せる訪問客をさばくために、繁忙期は60分ごとに続行で運行されるのだ。

■参考サイト
YouTube ポストイナ洞内軌道の乗車映像(4K解像度)
 往路と復路が逆に編集されているので注意。全20分のうち、前半は「復路」の後方、後半は「往路」の前方の映像になっている
https://www.youtube.com/watch?v=u3CE6hzDE0A

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線路は上下別線
photo by fish tsoi at flickr.com, CC BY 2.0
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洞内の終点(降車ホーム)、ここから徒歩ツアーが出発する
image from www.slovenia.info

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地形図で見るポストイナ鍾乳洞
赤の鉄道記号が洞内軌道のルート、青線が徒歩ツアーのルート

公式サイトから取得した洞内平面図を、1:25,000地形図に重ねた。位置照合は、Geodetski zavod Slovenije 発行の観光地図 "Karst of Notranjska" を参考にした
(c) Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

観光用の軽鉄道とはいえ、鍾乳洞の公式サイトによれば140年もの歴史があるという。ポストイナ鍾乳洞は、未知の通路が発見された1818年以降、人々に知られるようになった。ウィーン~トリエステ間のオーストリア南部鉄道 Österreichische Südbahn がポストイナを経由した19世紀中期には、すでに洞内に鉄道を敷く構想があったが、実現はしなかった。

初めて洞内にレールが敷かれるのは1872年だ。入口から洞内のカルバリ Kalvarija(下注1)と名付けられた地点まで、1,534mの長さの人車軌道だった。ルートにほとんど坂道がない(下注2)ので、案内人一人で、二人乗りの小さな客車を押して走らせていたという。しかし、訪問者が増加すると、人力に頼る運行形態には限界が来る。

*注1 カルバリはいうまでもなくキリスト受難の丘のことだが、現在は「大きな山」 Velike gore / Great Mountain と呼ばれる。
*注2 実際、軌道が走る周囲の床面は平坦化されており、人工的に整備したのは間違いない。

1914年に、モンタニア Montania と呼ばれるガソリンエンジンで走る機関車と4人乗り客車が、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社に発注された。モンタニアは鉱山や林業で使われていた小型機関車だ。しかし、第一次世界大戦が勃発したため、納入は延び延びになり、予定の運行が可能になったのは、線路の改修が完了した1924年だった。

当初、1日4便が運行され、初年度は15,588人がそれを利用して鍾乳洞を巡った。翌25年には3軸の、より強力な新型モンタニアが6人乗りの新しい客車とともに導入された。1928年には、鍾乳洞の入口に、レストランや待合室がある今の管理棟がオープンし、プラットホームも整備された。ただし、今と違って、列車を利用せずに徒歩だけで巡ることもまだ可能だった。徒歩ツアーは1963年まで維持されていた。

第二次世界大戦後、鍾乳洞の訪問者数はますます増加したが、引き続きガソリン車が使われたため、洞内の空気汚染が深刻化していった。1957年にようやく、蓄電池で動くエマム Emam 機関車2両が配備されてモンタニアを置き換え、完全無煙化を達成した。エマムは1959年と1964年にも各1両が増備された。

一方、線路も改良の必要に迫られていた。単線で、中間の信号所が2か所しかなく、同時に3本運行するのが限度だったからだ。1959年から複線化の検討が始まり、第一段階として、鍾乳洞入口のループと2本目の線路が1964年6月20日に開通した。このとき、洞内の終点はまだ頭端構造だったが、1967年に第二段階の、人工トンネルを介したループが最奥部で開通し、現在の周回線が完成した。

1978年には蓄電池式機関車は12両を数えるまでになったが、1988年に新型6両が調達されて、8両の旧型車を置き換えている。来年(2018年)は鍾乳洞発見200周年に当たり、これを機に管理会社では、輸送システムのさらなる更新を計画しているそうだ。

本稿の最後に、1999年8月に筆者が訪れたときの簡単なレポートを記しておこう。

リュブリャーナ8時10分発のプーラ Pula 行き列車で、霧の中をゆるゆると走って、ポストイナ着9時02分、ホームに降り立ったのは数人だった。貨物駅かと思うほど駅前にも何もなく、地図帳を紛失して土地不案内の私たちは、道なりに進んでなんとか町の中心部に出た。案内所があったので地図を所望するも、窓口氏は「not exist」とにべもない。

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(左)ポストイナ駅に到着。構内は広いが貨物駅のよう (右)鍾乳洞の平面図

道路標識を頼りに歩くこと10分ほどで、鍾乳洞の施設が見えてきた。訪問者はみなマイカー利用のようで、なるほどこれでは公共交通が成立しないはずだ(下注)。毎時00分にツアーが出るとパンフレットにあったので、急いで入場券の窓口に並んだ。平日でもかなりの人出だ。

*注 2017年現在、リュブリャーナからポストイナ鍾乳洞行きのバスが平日3本、休日1本設定されている。なお、鍾乳洞には立ち寄らないものの、ポストイナ市街を通る路線バスは多数走っている。

エントランスを入っていくと、トロッコ列車が待機している。遊園地のジェットコースターのような短いオープン客車が10両ほども連なっている。ドアもシートベルトもないのだが、走り出したらやたらと飛ばす。それも本物の鍾乳洞の中なので、鍾乳石の垂れ下がる大広間があるかと思えば、頭をこすりそうな素掘りのトンネルをくぐる。通路幅が狭くなると上り線と下り線が離れていき、また近づいてくる。スリリングな場面展開は、造り物のアトラクションの比ではなかった。

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(左)乗降客で混雑する入口駅 (右)鍾乳石の垂れ下がる洞内を行く
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第2次大戦中、ナチスドイツが洞内を火薬庫に使用していた。パルチザンが火をつけたため、洞内に煙が充満した。黒い鍾乳石はその名残

これだけでも十分楽しめたのだが、列車を降りた後、ガイドによる洞内ツアーがある。私たちは「English」の立札のもとに集合したが、ガイド氏の話は率直なところよくわからない。一応ついていきながらも、半分勝手に行動したので、いつのまにか後ろの「イタリアーノ」組に追いつかれてしまった。

鍾乳石は見事に保存されていて、スパゲティと呼ばれる細い糸のような石や、削り節をくねらせたような石のように、繊細な造形がそのまま見られる。かなり奥深いところなので、荒らされる前に保護の網をかぶせることができたのだろう。洞穴はピウカ川 Pivka River が造ったはずだが、水流が全く見られないのは、別の場所を通っているからだという(下注)。

*注 ピウカ川は、上の地図でライトブルーに塗った洞穴を流れている。なお、入口の降車ホーム付近だけは、川が流れる洞穴に設けられているため、水音がする。

ツアーが終わる直前、類人魚なる生き物が入れられた水槽の前を通過した。ライトを当てられっ放しだが、闇の中で生きてきた類人魚は大丈夫なのだろうか。徒歩による鍾乳洞見学は1時間ほどで終わる。予想に反して、ガイド氏はチップを要求することもなく、帰りの列車の時刻だけ告げて、どこかへ消えてしまった。

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徒歩ツアーで巡る鍾乳洞、「スパゲティ」が天井を覆う

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/

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 スロベニア 消える湖、消える川
 ベルギー アン鍾乳洞トラム I

2008年7月24日 (木)

ラトビア最後の狭軌鉄道

1520mmの広軌、いわゆるロシアンゲージが支配するラトビアで、唯一750mmのナローゲージを残しているのが、グルベネ=アルークスネ鉄道 Gulbenes - Alūksnes bānītis だ。定期運行している狭軌鉄道は、バルト三国でもここしかない。原語のバーニーティス bānītis はドイツ語の Bahn(鉄道)に縮小辞をつけたもので、広軌用に比べてめっぽう小柄な車両や施設に対する土地の人々の親近感がよく表れている。場所はラトビア北東部、森の中に湖が点在する道のりを、毎日3往復の列車がのんびりと走っている。鉄道の公式サイトは英語版も充実しているので、それを参考に、波乱に満ちた鉄道の歴史をたどってみよう。

■参考サイト
グルベネ=アルークスネ鉄道(英語版) http://www.banitis.lv/eng/

Blog_banitis_map地元の有力者が興した会社によって鉄道が公式開業したのは、ロシア帝国領時代の1903年だ。当時の路線は、ストゥクマニ Stukmaņi ~ヴァルカ Valka 間212kmもあって、今とは比べ物にならない長大な路線だった(右図)。

ストゥクマニは、ダウガヴァ川 Daugava 沿いにある現在のプリャヴィニャス Pļaviņas で、リーガへ通じる幹線との接続駅だ。列車はそこから北東方向にマドナ Madona、ヴェツグルベネ Vecgulbene(1928年、旧名グルベネに戻る。Vecはoldの意)、アルークスネ Alūksne まで進んだ後、北西に向きを変えてアペ Ape、ヴァルカへ至る。

ヴァルカにはリーガと現ロシアのプスコフ Pskov を結ぶ広軌線が通っていたが、それとは別に開通済みの狭軌線に接続して、現エストニア領パルヌ Pärnu の港への短絡路を確保した。鉄道が内陸輸送の主役であった時代、積み替えせず港まで物資を直送できるのは大きな利点だった。木材をはじめ、とうもろこしや酒その他の農産物が、このルートを通って運ばれた。

しかし、帝国末期の世情は不安定で、会社はまもなく、血の日曜日事件に始まるロシア第一革命の渦に巻き込まれる。農村の騒乱に呼応して、鉄道員たちも活動の先鋒に立った。施設が破壊され、会社は蒙った損失を回復できないまま、第一次大戦直前、ついに破産してしまう。1916年、ロシア軍は、ヴェツグルベネでこの線と交差する広軌新線(Ieriki ~ Abrene )を建設するのに合わせて、ストゥクマニ~ヴェツグルベネ間を広軌に変換した。このため、狭軌区間は北半分に短縮された。

1918年にバルト三国は相次いでロシアからの独立を宣言するが、これが狭軌線の運命をまたも翻弄することになる。アルークスネの先で、ラトビアとエストニアの国境線が鉄路を二度も横切ることになったからだ。両国間の協議で、エストニア側に越境した区間の運行管理をラトビアに委ねることが決まり、戦争で荒廃した鉄道は1921年にようやく全線再開に漕ぎつける。ラトビア国内の輸送は順調に推移したものの、パルヌ港が他国領となったため物流の方向が変わり、アペから西側の利用は極端に少なくなった。

第二次大戦、特にその終盤はドイツ占領軍の撤退とソ連軍の空襲で、鉄道の施設は甚大な被害を受けた。しかし、重点的な復旧作業の結果、1945年12月には運行を開始している。1960年代には、ヴァルガ Valga 駅(現エストニア)に引き込むルートが設けられが、同時にこの頃から、自動車交通の発達が鉄道の顧客を徐々に奪い始めた。1970年、長らく閑散区間だったヴァルガ~アペ間が休止、1973年にはアペ~アルークスネ間も運行を取りやめた。

こうして、アルークスネ~グルベネ間だけが残ったが、その理由は、アルークスネに駐留していたソ連軍に物資を供給するためだったといわれる。しかしここにも存続の危機が迫っていた。1987年に、老朽化した車両の整備不良がたたって運行が止まってしまったのだ。すでに鉄道は、工学遺産に指定されていたため、知識人らの熱心な支援活動が当時の共産党中央委員会を動かした。客車が新調され、続いてDL 2両が新たに導入された。

ソ連から再独立した後も、貨物輸送の廃止、旅客列車の削減と、鉄道の規模縮小は進行したが、1998年の国鉄から地方政府への売却、2001年の運営会社設立によって命脈を保ち、2003年には100周年を祝うことができた。地元では観光資源としての期待も膨らんでいるようだ。

Blog_banitis_gulbene 手元にあるソ連製の1:100,000地形図で起終点の部分を示そう。グルベネ Gulbene はドイツ名をシュヴァネンブルク Schwanenburg といい、狭軌線の単なる中間駅が、第一次大戦中に鉄道の結節点となったことでにわかに活気づいた。1926年当時の壮麗な駅舎が今も建っている。地図の北東隅から狭軌線(日本で言う私鉄記号)が延びてきて、グルベネ駅の手前で途切れている。しかし、南西に向かう広軌線(太い実線)がその続きだったことは、狭軌線をそのまま延長するとスムーズにつながることでわかる。

Blog_banitis_aluksne アルークスネ Alūksne は、ドイツ名マリエンブルク Marienburg といい、ドイツ騎士団が通商路を護るため、湖に浮かぶ小島に聖母の名を冠した城を築いたことに由来する。地図で、町の北側の小さな入江にある丸い島がそれで、Pilssala(城島)あるいは Marijas sala(マリア島)と呼ばれている。また、現在のラトビア語の地名は、森の泉という意味だそうで、いずれ劣らぬ優美な名にふさわしいリクリエーションスポットであることは、地図を一瞥しただけでも想像できる。

バーニーティスの運行ダイヤは、車庫のあるグルベネが拠点だ。アルークスネまで片道33.4kmを、途中8駅に停まりながら90分かけて走る。公式サイトのフォトギャラリーに、空中から撮った写真を集めたページがあった。緑の森と開墾地、そして青い湖面のパッチワークを縫うようにして、まっすぐ伸びるかぼそい鉄路が見える。その上を、小さなエンジンが2両の客車を牽いて(推して?)走るけなげな姿が捉えられている。

旅情あふれる小列車に揺られてアルークスネを訪ねるという日帰り旅行のプランを思いついた。しかし、時刻表を見る限り、観光客が利用できそうなのは日中の1往復だけで、アルークスネでの滞在時間はわずか25~30分しかない。駅からの距離を考えると、湖岸の散策どころか、湖を目にしただけで戻るのが精一杯だろう。ならばいっそアルークスネの湖畔で1泊することを考えたい。時を忘れてゆったり過ごす旅が、バーニーティスに一番ふさわしいのだと思う。

■参考サイト
バーニーティス、空からの写真 Foto no gaisa  http://www.banitis.lv/lat/galerija_aero.htm
アルークスネ公式サイト 市街図 http://www.aluksne.lv/dome/karte1.html

アルークスネ付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=57.4156,27.0464&z=14

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 バルト三国の鉄道地図
 バルト三国の地図-ラトビアの地方図・市街図

2008年7月17日 (木)

バルト三国の鉄道地図

バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の鉄道は、ソ連時代、カリーニングラード州とともにバルチック鉄道 Балтийская железная дорога / Baltic Railway の管轄下にあったが、1991年の再独立によって、各国に移管された。三国を合わせた面積は175,000平方キロで、そこに約700万人が住む。1平方キロ当たりの人口密度は40.4人と、北海道(66.8人。面積には北方四島を含む)の6割ほどにしかならず、旅客鉄道が生き残る環境としてはかなり厳しいと想像される。ガイドブックなどには、各都市間の移動はバスが中心で、鉄道は本数が少なく使いにくいと書かれていることが多い。

Blog_balticstates_railmap いったいどの路線が、どれぐらいの頻度で運行されているのだろうか。各鉄道会社の2008年夏ダイヤを参考に、地図上に落とし込んでみたのが、右の図だ。すべての系統を網羅できたか心許ないが、およその傾向は読み取れるだろう。

どの国の路線網も太字で記した首都を中心にしており、タリン Tallinn とリーガ Rīga の近郊では比較的頻度の高いダイヤ(通勤電車)が組まれていることがわかる。しかし、距離が100kmを越える区間になると、1日数本の中・長距離列車が運行されているだけだ。早朝に地方を出て首都へ、夜に首都から地方へ戻るというような設定では、首都を足場にする旅行者のニーズに合わない。

図では国際列車を省略しているが、三国の首都間を行き交う「首都特急」などは夢の話で、列車の目的地はロシア方面に限られているのが実態だ。モスクワとサンクトペテルブルク行きはどの首都からも出ているし、ロシア本土とカリーニングラード州を連絡する列車はリトアニア国内に停車していく。

首都間は無理でも、せめて三国間の国境を越える列車がないかと探したが、見つかったのは、ヴィリニュスからラトビア東部の都市に停車してサンクトペテルブルクへ行く1往復と、リーガからエストニア国境にある双子町ヴァルカ Valka へ足を伸ばす3往復だけだった。ヴァルカから先、タルトゥ、タリン方面へ行く定期列車は設定されていないので、今のところ鉄路でラトビアからエストニアへ回遊することは不可能のようだ。

このように、バルト三国相互間の旅客往来に鉄道が関与する割合は極めて小さい。それが影響しているのか、鉄道地図も、三国の全体像が見えるものは刊行されておらず、トーマス・クックのヨーロッパ鉄道地図 The Thomas Cook Rail Map of Europe のレベルか、そうでなければ、鉄道会社が作成したものを個別に当たるほかないようだ。

エストニア
国有のエストニア鉄道 Eesti Raudtee / Estonian Railways の輸送部門は貨物に特化されており、旅客輸送には別途数社が関わっている。南西鉄道 Edelaraudtee / South-West Railway は、タリン Tallinn ~パルヌ Pärnu およびヴィリヤンディ Viljandi 間を経営(施設保有、旅客・貨物輸送)しているほか、エストニア鉄道の管理下にある東のナルヴァ Narva、東南のタルトゥ Tartu へも旅客列車を走らせている。

また、首都タリン近郊では、電気鉄道 Elektriraudtee / Electric Railway による通勤電車があり、首都とサンクトペテルブルク、モスクワを結ぶ各1往復の夜行列車は、ゴーレール社 GoRail が運行している。

エストニア鉄道の公式サイトには、古い鉄道地図があたかも現行のものであるかのように掲載されていて、誤解を招きそうだ。南西鉄道と電気鉄道のサイトにも、自社運行区間の簡単な路線図がある。なお、イギリスのクエールマップ社 Quail Map のシリーズに、エストニア鉄道地図(1枚ものの印刷図、1997年版)がある。

■参考サイト
エストニア鉄道 http://www.evr.ee/
 トップページ > EVR Kaartで、旧路線図が見られる。かつての路線網を知るのには役立つが、現況との乖離が大きい。
南西鉄道 http://www.edel.ee/
 路線図: トップページ > Raudteekaart(鉄道地図)  非運行区間を含んでいる。
 路線別時刻表PDF: トップページ > Sõidugraafikud または Sõiduplaanid ja hinnad(時刻表と運賃)
電気鉄道 http://www.elektriraudtee.ee/
 路線図: トップページ > REISIJALE(旅客)> Piletihinnad(運賃)のページ末尾にある。
 時刻表:トップページ > REISIJALE(旅客)> Sõiduplaan(時刻表)
  時刻表検索とは別に、エクセル形式の全駅時刻表 Sõiduplaan がダウンロードできる。
  ダイレクトリンク http://www.elektriraudtee.ee/file.php?2694
クエールマップ社 http://www.quailmapcompany.free-online.co.uk/

ラトビア
国有のラトビア鉄道 Latvijas dzelzceļš = LDz / Latvian Railways の子会社、旅客列車会社 Pasažieru Vilciens / Passenger Train が運行する。リーガから4方向に40~80km圏内までは近郊路線として、通勤電車が走るが、以遠はディーゼル機関車が牽引する中長距離列車で、一部を除いて本数が少ない。特に西の沿岸都市が不便で、リェパーヤ Liepāja へは辛うじて1本が残るが、ヴェンツピルス Ventspils へは全く走っていない。

バルト三国の鉄道の軌間はロシアと共通の1520mm(エストニアは1524mm)だが、かつては狭軌鉄道網も発達していた。東部のグルベネ Gulbene には、定期運行する最後の750mm狭軌鉄道がある(「ラトビア最後の狭軌鉄道」参照)。

■参考サイト
ラトビア鉄道 http://www.ldz.lv/
 英語版でも路線図、時刻表が見られる。
 路線図: トップページ> Passenger traffic > Route Scheme  
 本来は区分ごとの拡大図が表示されるところ、現在は全体図(425KB)が現れる。
 時刻表は検索方式のみ。
旅客列車  http://www.pv.lv/
 このサイトでも同じ路線図が見られるが、上記に比べて解像度が低い。

リトアニア
国有のリトアニア鉄道 Lietuvos geležinkeliai = LG / Lithuanian Railways が国内の旅客列車を運行しているが、他の二国に比べると上下分離や子会社化が進んでいない。近郊電車区間も存在しないが、これは人口分布が首都への一極集中型でないことが一因としてあげられよう。

旅客列車の本数では、ヴィリニュスと第二の都市カウナス Kaunas の間の17往復が最も多く、次がヴィリニュス近郊の観光地トラカイ Trakai 行きの10往復、他は毎日1桁台の列車しか走っていない。貨物輸送は盛んだが、旅客輸送全体に占める鉄道の割合は、ラトビア5.1%、エストニア1.7%に対してリトアニアは1.0%しかなく、EU諸国で最低だ(EU energy and transport in figures - Statistical pocketbook 2007/2008 p.121による2006年のデータ)。

リトアニアにも狭軌鉄道が存在したが、現在は保存鉄道として、アウクシュタイティヤ狭軌鉄道 Aukštaitijos Siaurasis Geležinkelis = ASG / Aukštaitija Narrow Gauge Railway、68.4kmが残るのみとなっている。

■参考サイト
リトアニア鉄道  http://www.litrail.lt/ 英語版あり
 路線図:Passenger transportation > Train stations > Train stations map
 時刻表は検索方式のみ。
アウクシュタイティヤ狭軌鉄道 http://www.siaurukas.eu/

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 ロシアの鉄道地図 I
 ロシアの鉄道地図 II-ウェブ版
 ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版
 ラトビア最後の狭軌鉄道

2008年5月 8日 (木)

ロシアの鉄道を地図で追う

以前、旧ソ連軍参謀本部が作成した地形図でユーラシア大陸を西から東へと旅した(「旧ソ連軍作成の地形図 III」参照)が、今回はロシアの大地を疾駆する鉄道の軌跡に的を絞ってレポートしてみよう。(Map images courtesy of maps.vlasenko.net)

世界最北端の鉄道
ムルマンスク
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/r-36-103_104.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/r-36-115_116.jpg

旅客列車で行ける北端の駅として有名なのが、ロシア北西部のムルマンスク Мурманск / Murmansk だ。駅の位置は北緯68度58分。サンクトペテルブルクのラドジスキー駅からここまで1438km、約28時間かかる。レールはさらに北に延びて、北緯69度5分のセヴェロモルスク Североморск / Severomorsk の港に達する。

1:100,000(原画像を80%に縮小)
Blog_genshtab_map31
ムルマンスク 1:50,000(×80%)
Blog_genshtab_map32
この1:50,000は現在ダウンロードできない

ペチェンガ
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/r-36-087_088.jpg

しかし、最北端はここではない。ムルマンスク・ニケリ鉄道で西へ150km進んだペチェンガ Печенга / Pechenga 付近にある。地形図で見る限り、その北6kmにある湖のほとりが鉄路の最果てで、69度37分の緯度を示す。D. Zinoviev 氏の鉄道地図ではペチェンガ湾に面する漁港リイナハマリ Лиинахамари / Liinakhamari の名が付されている。

ムルマンスク・ニケリ鉄道はニッケル鉱山のための貨物鉄道で、旅客輸送もしているようだが、ペチェンガへの支線(線形から判断するとこちらが先に開通したと思われる)は貨物専用だ。

コラ半島はノルウェーと国境を接し、不凍港のため軍事施設が点在する地域だが、1:50,000地形図が堂々と閲覧に供されている(本稿では1:100,000を使用)。

100,000(×80%)
Blog_genshtab_map33

■参考サイト
Кольские карты / Kol'skiy maps http://kolamap.ru/
コラ半島に関する地図サイト(ロシア語表記)。地形図(vlasenko.net とは別ソース)や古地図の画像がある。トップページの中央のコラム ТОПОГРАФИЯ/Topography に縮尺1:200,000~1:50,000の地形図が多数収録されている。

タルナフ

最北から2番目は、エニセイ川河口に最も近い港町ドゥディンカ Дудинка / Dudinka から、ノリリスク Норильск / Norilsk を経て、タルナフ Талнах / Talnakh に通じる産業鉄道で、延長約120km、他の鉄道と接続のない孤立線だ。終点タルナフはニッケルなどを生産する鉱業の町で、北緯69度30分。これらの町は現在、外国人が立入れない、いわゆる閉鎖都市に指定されているので、図上旅行以外に方法はない。

1:100,000(×60%)
Blog_genshtab_map34
この1:100,000は現在ダウンロードできない

「皇帝の指」カーブ
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/o-36.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/o-36-042.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm100/o-36-054.jpg

モスクワとサンクトペテルブルク間649.7kmの幹線は、1851年にロシアで2番目に開通した古い鉄道だ。ロシア革命以前は、建設を命じた皇帝ニコライ1世にちなんで、ニコライ鉄道 Николаевская железная дорога と呼ばれていた。鉄道は両都市間をほぼ最短距離で結んでいるが、ただ1個所、サンクトペテルブルクから200kmの地点に妙な曲線が設けてあった。

言い伝えによると、皇帝は最初に設計者の描いたルートが気に入らず、自ら地図の上に定規で直線を引いた。そのとき、置いた指の周りをなぞったために、そこだけ線が歪んでしまった。怯えた設計者は指摘もできず、線路はそのまま曲げて建設されたのだという。

しかし、伝説が作り話であることは、1:100,000地形図を見れば明白だ。盛り土と切り通しの直線的な連なりが当初のルートを示している。事実、この迂回線は、4連の機関車を必要とした急勾配を解消する目的で、開通から26年後の1877年に完成したものだ。しかし2001年に、列車の高速化を進めるために再び直線に戻されて、距離が5km短縮したそうだ。

1:1,000,000(×25%) 矢印が「皇帝の指」カーブ
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拡大図 1:100,000(×80%)
Blog_genshtab_map36

ウラル山脈の欧亜境界
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/o-40.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/o-41.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm50/o-41-109-1.jpg

シベリア鉄道がウラル山脈を乗り越える地点に、ヨーロッパとアジアの境界を示すオベリスクが建っている。車窓から見える一瞬のシャッターチャンスを狙う旅行者も多い。

幸運にもこの辺りは1:50,000地形図が使えるので探してみると、ペルヴォウラルスク Первоуральск / Pervouralsk とスヴェルドロフスク Свердловск / Sverdlovsk(現名称はエカテリンブルク Екатеринбург / Yekaterinburg)の間、370mの等高線を線路が横切るところ(図に矢印)に、"Вершина" すなわちサミットの注記がある停留所(?)と記念碑の記号が見つかった。広域図と照合すると、変哲のないなだらかな鞍部の西側はカスピ海に注ぐボルガ川水系、東側は北極海に流れ下るオビ川水系で、実に雄大な分水界なのだった。

1:1,000,000(×80%)
Blog_genshtab_map37
拡大図 1:50,000(×80%) 矢印が欧亜境界のサミット
Blog_genshtab_map38

バイカル湖を廻る鉄道
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/n-48.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm1000/m-48.jpg

東をめざすシベリア鉄道は途中、バイカル湖によって行く手を阻まれる。現在のルートはイルクーツクから南下して湖の西端に達するが、1905年に完成した初期のルートはアンガラ川を遡り、湖岸にぴったり張り付いて、湖を半周していた(詳細は本ブログ「バイカル環状鉄道」参照)。

1:1,000,000(×60%)
blog_circumbaikalrailway_map1
青が1898~1900年開通の、湖を船で連絡する初期ルート
赤はそれに代わる1901~1904年開通のバイカル環状鉄道
緑は現在のシベリア鉄道である1949年開通の山越え新線

バム鉄道、ロシア最長のトンネル
http://download.maps.vlasenko.net/smtm200/o-49-36.jpg

第2シベリア鉄道ともいわれるバム鉄道 БАМ / BAM(正式名はバイカル=アムール幹線 Байкало-Амурская Магистраль)で、バイカル湖畔から東へ約300km。セヴェロムイスキー山脈を貫く同名のトンネル Северомуйский туннель / Severomuysky Tunnel は、1977年に着手され、永久凍土を掘り進む難工事の末、2003年にようやく開通した。15343mあり、ロシアで最も長い。

トンネルの完成までは標高1100mを越える峠の上を越えていたが、旧線は40‰の急勾配があり、補助機関車を必要とする難所だった。貨物優先のため、乗客は峠の手前で降ろされ、20kmの未舗装道を車で運ばれたという。1989年、勾配を18‰以下に抑えた迂回路が完成して、旅客列車も走るようになった。しかし、悪魔の橋 Чёртов мост と呼ばれる橋梁をはじめとして急カーブが連続し、依然としてツンドラ地帯の峠道が運行上の隘路であることに変わりはなかった。新トンネルの開通により、2時間半かかったこの区間の所要時間が、わずか15分に短縮された。

この付近は1:100,000が閲覧できるのだが、1978年編集のため、新トンネルが予定線として描かれているばかりで、旧線の姿はなかった。1:200 000は1986年に編集されており、改良前の旧線と工事中のトンネルとの関係がわかる。改良後の旧線ルートは資料がないため、衛星画像を参考に筆者が書き込んでみた(図の improved old line)。

■参考サイト
改良後の旧線の現場写真 http://bam.railways.ru/eng/egalery.html

1:200,000(×100%)
Blog_genshtab_map39

大河アムールを渡る
http://download.maps.vlasenko.net/smtm200/m-53-33.jpg
http://download.maps.vlasenko.net/smtm200/m-53-34.jpg

東方をめざすシベリア鉄道の列車はアムール川 Амур / Amur を長大鉄橋で渡って、ロシア極東で2番目の都市、ハバロフスク Хабаровск / Khabarovsk に到着する。1916年に完成した18連のトラス橋は、長さ2590mで当時としてはユーラシア大陸最長だったが、1999年に、長さ2612mの新しい道路併用橋に架け替えられた。地図に描かれているのはもちろん旧橋で、川幅が最も狭まる地点に架橋されていることがわかる。前後の奔放な流路は、広範囲を収める1:200,000の図郭さえもはみ出す勢いだ。

ちなみに、戦略上の理由で、橋に並行する河底トンネル(長さ7km以上)が1942年に完成し、上り線として使用されてきた。地形図には記載がないが、ハバロフスク側の入口は、橋の東のたもとにある短いトンネルの南側と思われる。川岸に背を向けた行き止まりの側線が描かれているが、衛星画像によると、この先にトンネルのポータルが推定される。

1:200,000(×100%)
Blog_genshtab_map40

サハリン島のループ線

サハリン島南部、ユジノサハリンスク Южно-Сахалинск / Yuzhno-Sakhalinsk とホルムスク Холмск / Kholmsk を結ぶ南部横断線は、日本領樺太であった1928年に豊真線として全通した。途中、分水嶺を横断する個所が2個所あり、西側の山越えでは宝台(たからだい)ループ線と通称されるスパイラルを構えている。残念ながら1994年に一部を除き、運行が中止された。

サハリン島の地形図で閲覧できる最大縮尺は1:100,000だ。地図ではスパイラルが平面交差のように描かれているが、実際は上部の線路が鉄橋でまたいでいる(豊真線の詳細は、「樺太 豊真線を地図で追う」参照)。

1:100,000(×80%)
Blog_genshtab_map41
引用したのは1:100,000のI-54-033、I-54-045だが、vlasenko.netには該当図葉の画像がないため、maps.poehali.orgの画像を使用した。

★本ブログ内の関連記事
 ロシアの鉄道地図 I
 ロシアの鉄道地図 II-ウェブ版
 旧ソ連軍作成の地形図 III

2008年5月 1日 (木)

ロシアの鉄道地図 II-ウェブ版

今回はウェブ上で公開されているロシアの鉄道地図を見よう。

Blog_russia_railmap_hp1 一つ目は、ロシア鉄道 Российские железные дороги / Russian Railways の公式サイトに掲載されているものだ。サイトはロシア語版と英語版が設けられているが、鉄道地図はキリル文字を用いたロシア語版しかなく、ロシア鉄道を構成する17の地域支社ごとに1面ずつ作成されている。英語版サイトでは以下のURLがメインページになる。

■参考サイト
Structure (of Russian Railways)
http://eng.rzd.ru/wps/portal/rzdeng?STRUCTURE_ID=174

まず、鉄道網を表現したクリッカブルマップからして、地域支社の名称と相互の位置関係が一目でわかる優れものだ。この地図または下欄のリンクから各地域支社の詳細ページに飛ぶと、地域支社の簡潔なプロフィールとともに鉄道地図が見つかる。

Blog_russia_railmap_hp2 ちなみに、同サイトのロシア語版では、写真集 Фотогалерея / Photo Gallery の中に、鉄道地図だけを集めたページもある。また、この写真集には車両、列車、子供鉄道、施設、鉄道風景など豊富な画像が収められ、ロシア鉄道の素顔を知るのに格好の材料を提供している。

■参考サイト
鉄道地図一覧(ロシア語版)Схемы железных дорог
http://press.rzd.ru/wps/portal/press?STRUCTURE_ID=820
写真集メインページ(ロシア語版)
http://press.rzd.ru/wps/portal/press?STRUCTURE_ID=119

さて、その鉄道地図だが、行政区分別に塗り分けたベースマップの上に、路線が目立つ赤のラインで引かれ、駅を球状の記号で並べるというものだ。駅名には起点からのkm単位の距離が併記されている。前回紹介した鉄道地図帳と比較すると、同じ地図作成機関ロスカルトグラフィアのコピーライトが表示されているにもかかわらず、表現にはかなりの相違がある。

ウェブ版は、今も述べたように起点からの距離が書かれているが、地図帳は、道路地図によくあるように主要駅間の距離表示になっている。それにウェブ版では小駅(機能していない駅?)が省略されているようだ。路線の描き方で見ると、ウェブ版は地図帳に比べてかなり単純化されていて、時刻表の鉄道路線図という印象だ。ルートは直線的だし、幹線と支線の区別もない。

その点、地図帳は極力実際の経路に近づけた表現になっていて、幹線かどうかも線の太さでわかる。ウェブ版はJPEG画像で、細かい文字が一部読み取りにくいが、印刷物ではその心配はない。このように概して地図帳のほうに一日の長があるのだが、ウェブ版に記載されている亘り線や短絡線が、地図帳では無視されていたりするので、やはり複数の情報源で補うべきだろう。

Blog_russia_railmap_hp3 二つ目の鉄道地図は、距離や方角をデフォルメしたいわゆるスキマティックマップ(位相図)で、旧ソビエト連邦全域をカバーする個人の労作だ。うれしいことに英語版も用意されている。全体では相当大きなサイズになるため、横7×縦8=56枚に分割した画像で詳細を見るようにしてある。

■参考サイト
Russian, CIS and Baltic Railway Map(英語版)
http://parovoz.com/maps/supermap/index-e.html

左上隅に凡例があるが、それによると、まず彩色による区分で、予定線・工事線、廃止線・休止線、旅客輸送をしない単線とする単線、産業用の単線、旅客輸送をする複線としない複線、単線複線が入り混じる線区の別を示す。そして、線の種類による区分で、鉄道フェリー、電化線、狭軌線、3線軌道、ヨーロッパ標準軌道を表す。この組み合わせで路線の性格を詳しく読み取ることができる。例えば、モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ幹線は緑の二重線で描かれているので、全線が旅客輸送をする複線で、かつ1.5~3KV(実際は交流3KV)で電化されていることがわかる。

図上のルートは直交および斜め45度に単純化され、およその方向を示すに過ぎない。中間駅も大胆に省略されているが、その代わり、公式版鉄道地図には見当たらない貨物専用の枝線などがずいぶん発見できる。そのほか、地下鉄のある都市名は太字、路面電車のある都市は斜体で表されていて、都市交通を調べる手がかりになる。

このように、ロシアの鉄道ネットワークの全貌を一望することができる画期的な資料地図なのだが、広大な地域だけに、調べる側としては位置を特定する材料がほしい。だが、路線網以外に書かれているのは、単純化された海岸線と地域支社の境界線のみだ。地域支社の略称が付されているが、ロシア語をラテン文字に転写したもので、例えば、北部鉄道は英訳の Northern Railways ではなくロシア語で「北の」を表すセヴェルナヤ Северная の頭3文字の転写 SEV が使われている。ロシア以外の諸国も同様で、ウクライナに至っては地域鉄道別になっている。筆者は最初、どのあたりの路線網なのか皆目見当がつかなかった。

2種のウェブ版鉄道地図を一言で評すると、前者は旅行者用、後者は調査用だ。用途に応じてお使いになるといい。

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 ロシアの鉄道地図 I
 ロシアの鉄道を地図で追う

 近隣諸国のウェブ版鉄道地図については、以下を参照。
 フィンランドの鉄道地図
 バルト三国の鉄道地図
 ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版

2008年4月24日 (木)

ロシアの鉄道地図 I

Blog_russia_railatlas 中・東欧の地図を扱うオンラインショップを物色していたときに見つけたのが、この地図帳。地図178ページ、索引72ページ、その他含めて256ページのハードカバー本だ。多少古ぼけた印象の表紙の上部に書かれているのは、すばり「鉄道地図 Атлас железные дороги / Railway Atlas」で、その下に「ロシア、CIS諸国、バルト諸国」とあり、この1冊で旧ソビエト連邦全域の鉄道路線を概観することができる。

製作したのは「2002年、オムスク地図製作所 Омская картграфическая фабрика / Omsk Cartographic Factory」で、ロシアの地図作成機関ロスカルトグラフィア Роскартография / Roskartographia関連の政府出資会社だ。

ページ構成は以下の通り。

・1:25,000,000行政区分図(CIS、バルト諸国含む)、地勢図
 いずれも見開き2ページに全域を収めた小縮尺図だが、ロシア地理の入門に役立つ。
・索引図、主要鉄道路線図
 前者は行政区域、後者は路線を地域鉄道支社別に色分けする。同じ色をメイン地図でも使っているので、直感的に関連がわかる。なお、CIS、バルト諸国は別の索引図がある。
・主要都市間距離、標準時間帯
 後者は挿図だが、11もの標準時をもつ大国らしい主題図だ。
・凡例集
 地図帳の表記はすべてロシア語だが、凡例だけは英語版も用意されている。

・行政区分別鉄道地図
これが本編で、見開き2ページにロシア連邦各行政区の全図と、州都の拡大図を挿図で載せるスタイルで統一している。ロシアの行政区は、州(オーブラスチ область)、共和国(レスプブリカ республика)、地方(クライ край)、連邦直轄市(федеральный город、 モスクワ市とサンクトペテルブルク市)ほかがあり、区分図の数も83にのぼる。

巻頭に概要が書かれているので、主だったところを紹介すると、
「この地図帳は鉄道で旅する乗客の参考になるように編集されている。掲載は地域鉄道支社の順で、バルト諸国、CIS諸国は最後にまとめてある。鉄道のない地域は省略されている。幹線道路、連絡航路、主要な町も掲載している。駅や停留所は名称とともにすべて書き込み、都市名が駅名と異なる場合は括弧書きで併記している。主要な駅間距離をルート上に書き添えている。州都拡大図は、鉄道路線のほかに市街地、道路、空港、水系などを示している...」。

最後に、駅名索引と、都市名と駅名が異なるケースの対照表がついている。

ちなみに、ロシアでも鉄道はすでに国の直轄から政府出資の株式会社に移行した。新生ロシア鉄道 Российские железные дороги / Russian Railways には17の地域支社がある。地図帳では、北西部を受け持つ最も歴史の古い10月鉄道 Октябрьская железная дорога / October Railways に始まって、バルト海に面した飛び地にあるカリーニングラード鉄道、首都とその周辺のモスクワ鉄道、ヤロスラヴリを拠点とする北部鉄道 Северная железная дорога / Northern Railways という順で、最後は、極東のサハリン鉄道が締めくくる。

地域支社の管轄区域が、おおむね行政区のかたまりごとに分割されているのも、地図帳から読み取れる。ただし、モスクワ市のページを見ると、モスクワ鉄道のローズ色が支配する中心部へ、バイオレット色の10月鉄道が北西から直線的に入ってきて目立つ。サンクトペテルブルクとを結ぶこの路線は、10月鉄道が一括管理しているらしい。

鉄道地図はすべて縮尺が明示されている。州別図の場合、最も面積の狭い州で1:750,000、広いものでは1:3,000,000(300万分の1)だ。州都の拡大図も1:200,000~1:500,000と、分類的には小縮尺に入る。そこに路線が、多くても数本引かれているだけだから、現実のスケールは想像をはるかに超えている。ロシアの大地は、長らく鉄のカーテンの向こう側にあったせいで、いまだに筆者にはほとんど馴染みがない。しかし、ここに描かれた鉄道路線と自然景などの手がかりと地形図を照合すれば、未知の領域に足を踏み入れる糸口がつかめるに違いない。

筆者は本書を以下のサイトで購入したが、ロシア書専門のナウカ・ジャパンのカタログにも載っている(Book No. R60847)。

■参考サイト
中・東欧の地図販売サイト Mittelosteuropa-Landkarten 
http://www.mittelosteuropa-landkarten.com/
ロシア鉄道公式サイト(英語版) http://eng.rzd.ru/

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 バルト三国の鉄道地図

2008年4月17日 (木)

バイカル環状鉄道

バイカル湖畔は、シベリア(横断)鉄道 Транссибирская магистраль / Trans-Siberian Railway(略称 Транссиб / Transsib)の車窓最大のハイライトだ。モスクワのヤロスラヴリ駅から東へ5153km、イルクーツク Иркутск / Irkutsk を発車すると、列車は山間を抜けてゆるゆると高台へ上って行く。ふと気がつくと、左手下方に「シベリアの青い瞳」が視界のかなたまで広がっていて、乗客たちの目はしばらく釘付けになる。

シベリア南東部にあるバイカル湖 Озеро Байкал / Lake Baikal は、周囲2100kmもあるアジア最大の淡水湖だ。地学的にも生態系の点でもユニークな特徴をもち、世界遺産に登録されている。世界一深い湖で、最深地点はなんと水面下1637m、そのため貯水量はアメリカ五大湖の合計より多く、地球上の淡水量の1/5にも及ぶという。この湖岸に鉄道が到達したのは1900年のことだった。

全体図
blog_circumbaikalrailway_map1
青が1898~1900年開通の、湖を船で連絡する初期ルート
赤はそれに代わる1901~1904年開通のバイカル環状鉄道
緑は現在のシベリア鉄道である1949年開通の山越え新線
下記拡大図の位置も図中に示してある

旧ソ連製1:1,000,000地形図 M-48 および N-48 を使用。Map images courtesy of maps.vlasenko.net、原画像を60%に縮小

最初のルートは、湖水の唯一の流出口であるアンガラ川の左岸をイルクーツクから遡るもので、延長72km。湖に臨む岬の突端に「バイカル駅」と船着場が設けられた。同年には、対岸のムィソーヴァヤ Мысовая / Mysovaya の港(後に町はバブシュキン Бабушкин / Babushkin に改名)からさらに東進する路線が開通した。この間の往来に充てるため、イギリスから砕氷能力をもつフェリーを購入して、湖上連絡が実施された。しかし、1903~04年はことのほか厳冬で、砕氷が叶わず、凍結した湖面にレールを敷いて役畜に客車を曳かせたと記されている。

その一方で、バイカル環状鉄道 Кругобайкальская железная дорога / Circum-Baikal Railway と呼ばれる陸上の連絡路を建設するために、調査が進められていた。ムィソーヴァヤから湖の西端クルトゥク Култук / Kultuk までは湖岸に沿うのが順当だが、そこから先は4つの案が比較検討された。最終的に、山越えしてイルクーツクと短絡する3つのバリエーションは斥けられ、湖岸を東に進んでバイカル駅につなぐ計画が採用された。経済効率の点で優位だったとはいうものの、このルートも平地には恵まれず、湖に落ち込む断崖がほとんど切れ目なく続いている。

建設事業は、1899年にムィソーヴァヤ側から始まった。問題の北岸区間では、岩をうがち、33本のトンネルと248個所の橋梁を築く難工事となった。陸上の運搬路がないため、現場で調達できる石材以外の資材は、夏は船、冬はそりに載せて運んだ。1904年2月の日露戦争勃発後は、兵力の安定的な輸送が喫緊の問題となり、完成が急がれた。その年9月、ついに「鉄のベルトを留める金色のバックル」が開通を果たし、翌10月からは定期運行が開始された。

シベリアを横断する大動脈の成立は、東部の開発を促進し、まもなく輸送力の増強を求められるようになる。単線では1日14往復が限度のため、複線化して最大48往復とする工事が進められ、1914年に終了した。

1940年代には軌道のさらなる改良が計画された。しかし、険しい地形を縫う路線では落石や土砂崩れなどが頻発し、安全性を抜本的に高めようとすると費用は莫大なものとなる。調査報告書は、湖岸ルートの更新を断念し、クルトゥクの手前のスリュジャンカ Слюдянка / Slyudyanka からイルクーツクへ通じる短絡線に付け替えることを提案した。こうして初期の構想から50年を経て、1949年に山越えの新線が日の目を見たのだった。

その後も旧線は使われたが、1950年に、アンガラ川を堰き止める水力発電用のダム建設が始まる。イルクーツクからバイカル駅までの区間の大部分が水没する運命となり、1956年に廃止された。残されたスリュジャンカとバイカル駅の間は行き止まりの閑散線と化し、幹線であればトンネルや橋梁に配置される監視員もすべて撤退してしまった。1962年には崖崩れの被害で、複線の片方が使用不能となり、撤去された。

ここで、旧ソ連軍参謀本部の1:100,000地形図を見ておこう (Map images courtesy of maps.vlasenko.net、原画像を80%に縮小)。

拡大図1の右端、アンガラ川の左岸に廃止線が4kmばかり水没を免れている。線路が湖岸に回りこむ位置にバイカル駅があり、かつて連絡船が発着した突堤がある。左へ続く湖岸は、比高300~400mの見るからに険しい斜面で、線路は波打ち際にへばりつくように敷かれている。随所に記された分数表示はトンネルの数値で、分子は高さ×幅、分母は長さを示す。

拡大図 1
Blog_circumbaikalrailway_map2

拡大図2は新旧路線の分岐点付近だ。現在の幹線であるイルクーツク短絡線が、反転を繰り返しながらゆっくり上っていく。複線のはずだが、スイッチバック形式の待避線が何箇所も見える。一方、図の右からやってきた旧線はここクルトゥクでようやく、わずかばかりの平地と集落を見出すことになる。

拡大図 2
blog_circumbaikalrailway_map3

地図に描かれている通り、旧線、延長89kmはその後も不遇時代を生き永らえた。やがて「バイカル環状鉄道」の名称は、もっぱらこの路線を指すようになった。鉄道の周辺にはダーチャ(自給自足のための別荘)や旅行者の宿泊所があって、買出しに出る人のために1日1本の普通列車「マターニャ」が運行されている。相当にくたびれた車両だが、リクエスト次第で駅でないところでも停ってくれるのだという。

さらに、単なる地元民の生活路線からの脱皮も始まっている。すでに1982年に工学遺産および自然保護区域として、州議会により指定の対象に挙げられたが、1996年の世界遺産登録以降、湖の眺望をほしいままにできる鉄道には、観光資源としての見直しがかけられた。

2003年から定期観光列車の運行が始まり、イルクーツク直通で夏季は週に2往復、それ以外は1往復している。これを利用するツアーの旅程によれば、イルクーツクからダム湖西側の道路をバスで走って、湖岸のリストビヤンカ村に滞在、翌日フェリーで湖上を移動してバイカル駅に上陸、そしてこの観光列車に1日たっぷり乗車して、発地に戻る(またはこの逆コース)。

鉄道の沿線人口は極小で、災害のリスクも高く、立地条件は非常に厳しい。それだけに、地域にとって近代史の語り部でもあるバイカル環状鉄道のルネサンスに注目したいものだ。

■参考サイト
Circum-Baikal railway http://kbzd.irk.ru/Eng/
バイカル環状鉄道に関するデータ集(英、露語)

The Trans-Siberian Railway (Web Encyclopedia) http://www.transsib.ru/Eng/
シベリア横断鉄道に関するデータ、写真、歴史など非常に充実した資料集(英、露、独語)

バイカル環状鉄道ツアーの一例 Tours to Baikal - Circumbaikal Railway Tour
http://www.baikalex.com/travel/circumbaikal.html

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2006年7月16日 (日)

クロアチアの1:100,000地図帳

Blog_croatiaatlas クロアチアのアドリア海沿岸には古くからの良港が点在しており、内陸のサヴァ川 Sava 流域から交易ルートが開かれていた。内陸平野と海岸の間には、ディナル山地 Dinara Planina をはじめとする1000m級の切り立った石灰岩山地が立ちはだかる。やがて物流の主役に躍り出た鉄道も、複雑な起伏をもつこの山地を乗り越さなければならなかった。

サヴァ河畔の首都ザグレブ Zagreb とこの国最大の港町リエカ Rijeka を結ぶ路線は、電化された主要幹線の一つだが、小縮尺の地図で見ても相当な難路と想像される。もっと詳しい地形図がほしい。クロアチアの官製地形図は単価が高いので入手をためらっていたところ、スロヴェニア測地研究所 Geodetski Zavod Slovenije のサイトに、クロアチアの地図帳が言及されているのを発見。問合せてみると、同研究所の協力でザグレブの書店から刊行されたものだ、と回答があった。その後1ヶ月かけて送られてきたのが、全土の1:100,000地形図を掲載した「クロアチア大地図帳 Veliki Atlas Hrvatske」(Mozaik Knjiga社発行、2002年版、全480ページ)。前回紹介したスロヴェニア地図帳の姉妹編といっていい仕様だった。

さっそくザグレブ~リエカ線を図上で追ってみると、ザグレブから南西へ30km、旧市街が「六稜郭」の中にあるカルロヴァツ Karlovac までは平野を走る直線主体のルートだ。水量の豊かなムレジニツァ川 Mrežnica のほとりをしばらく進み、ゆるやかなカルスト台地を上り始める。オグリン Ogulin の手前で南方の港スプリト Split へ向かう支線を分けたあと、台地を刻むドブラ Dobra 川の谷中を小さなカーブを重ねて遡る。谷が尽きるとそこはクパ川Kupaの深く広い斜面の上だ。比高が450mもある斜面に沿ってさらに高度を上げていくと、やがてデルニツェ Delnice の町。車窓には高原状の風景が展開し、最高地点は標高800mにも達する。ところがそこはもう海岸から直線距離で10kmもない地点なので、この先、港町まで一気に下降しなくてはならない。2回の半回転を含む急カーブと下り勾配の連続だ。左手がアドリア海なのだが、地図で見る限りすっきり見晴らせる場所は少なさそうだ...。

Blog_dalmacia4 大地図帳ではなくもっと手軽な地図でよければ、同研究所が作成するアドリア海沿岸地域の1:100,000区分図シリーズ全8面があり、欧米の通販サイトでも入手できる。内容は官製図から編集されたもので、等高線は40m間隔(官製は20m)に広がるが、この縮尺ならかえって相応といえる。裏面には図郭内の中心都市の市街図とともに、観光ガイドが英語でも記述されていて、役に立つ。

右の写真はチェコのGeoClub社発行の「ダルマチア4」(ドゥブロブニク周辺)。中身は同研究所の図版を使っている。

■参考サイト
クロアチア鉄道(英語版) http://www.hznet.hr/eng/
「官製地図を求めて-クロアチア」 http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_croatia.html

2006年6月 2日 (金)

スロバキアの1:50,000旅行地図

Blog_slovakiatatra スロバキアとポーランドの国境にあるタトラ山地には、標高2654mのゲルラホフカ峰 Gerlachovký štít をはじめ、標高2500mを超える峰々が屏風のようにそびえ立つ。山地は南の低タトラ Nízké Tatry と北の高タトラ Vysoké Tatry に分かれているが、後者はスイスアルプス並みに鉄道系の交通が発達した観光地だ。

高タトラと低タトラにはさまれた盆地を東西に走るスロバキア国鉄の駅から、高タトラの裾野を這い上がる鉄道路線が3ルート設けられている。西から順に記すと、①ラック式鉄道(Tatranská Štrba~Štrbské Pleso、延長4,753m、高低差455m)、②メーターゲージ路線(Poprad-Tatry~Stary Smokovec、延長13km)③標準軌線(Poprad-Tatry~Studený Potok~Tatranská Lomnica、延長17km)。

3つのルートの終点となっている各リゾート村の間はメーターゲージの通称「タトラ電気鉄道」(Tatranská Lomnica~Stary Smokovec~Štrbské Pleso、延長22km。所要1時間)がつないでいる。さらに、タトラの頂からの眺めを愉しむためにロープウェイやケーブルカーも整備されている。夏は登山、ハイキング、高地療養、冬はスキー、スノーボードと観光施設も充実した一等観光地なので、日本ではまだ無名なのが不思議なくらいだ。

スロバキア語で Vysoké Tatry ヴィソケー・タトリと呼ばれる高タトラ地域の地図を紹介しよう。

地元のVKÚ社は、全土を63面でカバーする1:50,000観光地図シリーズを出版している(写真右上)。等高線は20m間隔(日本の1:50,000と同じ)、ぼかしも施されて地形の概要がつかみやすい。登山ルートには地点間の所要時間も併記されている。ヴィソケー・タトリはシリーズの113番。別冊で付いている観光案内は、登山ルートの解説をした100ページ以上もある大作だが、惜しむらくは表記がスロバキア語のみ。

Blog_slovakiatatra_shocart 前回紹介したSHOCart社にも、同じように全土をカバーする1:50,000区分図がある(写真右)。ヴィソケー・タトリはシリーズの1097番。等高線間隔は10mとさらに詳細で、端正な美しさが特徴だ。タトラ以外の地域は品切れが目立つのが難点だったが、この4月にチェコと同様の全国地図帳が発売された。

オーストリアのフライターク・ウント・ベルント社 Freytag&Berndt も1:50,000観光地図を発行している。図番WKSK1、図名「高タトラと西タトラ(ドイツ語表記 Hohe Tatra und Westliche Tatra)」。F&Bはたいていの地図店で扱っているので入手しやすいが、この図に関しては精度が粗く、上記2社の精緻な作品を見た後では幻滅モノである。

■参考サイト
VKÚ http://www.vku.sk/
SHOCart http://www.shocart.cz/
Freytag&Berndt http://www.freytagberndt.at/
タトラ山地観光案内のサイト
http://www.tatry.sk/ 英語版あり。"Photo"にタトラ山の写真多数
http://www.tanap.sk/ 英語版あり。"Transport"から時刻表にリンクしている

2006年4月27日 (木)

ドナウの曲がり角

Blog_dunakanyar_map 月刊「地図中心」2006年3月号(日本地図センター発行)を読み返していたら、「ドナウの曲がり角とセンテンドレ」という記事があった。場所はハンガリー北部、スロヴァキアとの国境に近い一帯。東へ流れてきたドナウ川がここで向きを南に変える。日本ではドナウベンドと呼ばれ、最近はブダペスト市街探訪とのセットで旅行社のツアーにも組み込まれている。ドナウベンドは、現地語でドゥナカニャル Dunakanyar(上記記事のドゥナ・クニーは誤り)。Dunaはドナウ川、kanyarは曲がり角という意味だ。ちなみにドイツ語ではドナオクニー Donauknie 、英語はダニューブ・ベンド Danube Bend で、日本での呼称はこれをミックスしている。

Blog_visegrad上記記事にある出典が明記されていない地図図版のうち、1:250,000のほうは明らかにハンガリーの地図会社、カルトグラフィア Cartographia 社発行の観光地図だ。同社のさらに詳しい1:40,000観光地図16番「Pilis, Visegrádi-hegység」を使えば、ドナウの曲がり角を存分に紙上旅行できる。

来た道を戻るのは芸がないので、ブダペストBudapestからドナウ河畔の町を巡ってブダペストに戻る左回り一周コースをとろうと思う。沿線には、芸術家の町センテンドレ Szentendre、古城が残るヴィシェグラード Visegrád、そしてハンガリー建国の地エステルゴム Esztergom がある。ちなみに、同じカルトグラフィア社の観光地図31番はずばり「Dunakanyar」と名づけられているが、センテンドレは図郭外になるので注意しなければならない。

旅の足はできるだけ鉄道にしたい。第1区間のブダペスト~センテンドレ間は、通称ヘーヴHÉVと呼ばれる近郊電車が走っている。すべて各駅停車で、終点まで行く便は日中30分ごとだ。壮麗な国会議事堂を川向こうに望むバッチャーニ広場 Batthyány tér から発車し、市街地を抜けていく。地図を見ると、直進する道路から離れてポマーズ Pomáz の町に迂回するが、思い直したように踵を返してセンテンドレに到着する。所要時間は約40分。駅に接して古典車両を展示する交通博物館 Városi Tömegközlekedési Múzeum があるので立ち寄らずにはいられない。そのあと、観光客でにぎわう市街の中心部まで歩いても、ものの10分ほどだ。教会や小さな美術館を巡り、路上画家の作品を冷やかしているとすぐに時間が経ってしまうだろう。

この先は鉄道が対岸にしかないので、主要道を走るバス(ヴォラーンブス Volánbusz が運行、時刻表は下記サイト参照)に乗る。ヴィシェグラードまで所要40分。この区間も30分ごとに出ているので便利だ。このあたりのドナウは、本流と支流センテンドレ・ドナウ Szentendrei-duna に分かれていて、バスの右の窓に時折顔を出すのは、実は支流のほうだ。左手に山が迫ってくると、ヴィシェグラードが近付いている。バスはドナウ対岸の町ナジマロシュ Nagymaros とを結ぶ船着場の前で停まる。小さな村で見るものとてないが、比高270mほどある背後の山の上はドナウベンドの格好の展望台になっている。きょうはこの黒山 Fekete-hegy に建つホテル・シルヴァヌス Hotel Silvanus を予約してある。夕なずむ大河を見下ろす部屋で休むとしよう。

ヴィシェグラード Visegrád の山上ホテルでを迎える。朝食のあとは、500mばかり先にある要塞跡まで朝の散歩に出かけよう。大河ドナウがゆったりと流れる広々とした峡谷のパノラマを見下ろしながら、暫し、いにしえに思いを馳せるのもいい。山を下りたら、昨日のバス停で1時間おきに来るエステルゴム Esztergom 行きのバスを拾う。陸路よりも船でドナウの川風に吹かれたいところだが、意外にもヴィシェグラードから遡る船は1日1便きりなので、よほど時間に余裕がない限り使えそうにない。

バスに乗ったら進行右側の席をとること。ドナウは終始右手を流れるからだ。古都エステルゴムまでは約40分。まもなく川は対岸の山塊を回り込むように大きく右にカーブしていく。山の名は聖ミカエル山 Szt. Mihály-hegy、標高484m。さほどの高さではないが、進路をふさぐように張り出しているので存在感がある。その麓をスロヴァキアへ向かう鉄道が走る。バスの窓からも、川べりの並木越しに列車の姿を捉えることができるかもしれない。聖ミカエルの山というと、フランスのモン・サン・ミシェル Mont-St-Michel、イギリス、コーンウォールのセント・マイケルズ・マウント St. Michael's Mount のような寺院を想像してしまうが、残念ながらここは休憩所があるだけらしい。

川はしばらく車窓から遠ざかり、再び現れるともう対岸はスロヴァキア領に変わっている。そのうち、家並みが増えてきて、エステルゴムの旧市街に到着だ。ここは、千年王国ハンガリーの最初の王宮が置かれた町。建国の歴史を伝える丘の上の大聖堂を訪ねたあとは、ドナウにかかる橋に出てその姿を遠望してみるのもよさそうだ。

ドナウに沿ってここまで大回りしてきたが、ブダペストに戻るには、ドログ Dorog 経由で東南方向に小さな峠を突っ切るのが早い。新市街のターミナルからバスが20分ごとに出ている。ブダペストまで1時間20分。しかし、ずっとバスの旅だったから、不便は承知の上で、鉄道ファンらしくハンガリー国鉄MÁVに乗ろうと思う。市内バス6系統が連れていってくれたのは、町はずれの少し心細い駅。でもブダペスト行きは1時間に1本以上ある。各駅停車で1時間30分は退屈かもしれないが、オメガループの峠越えがあるので見逃さないように。

■参考サイト
ヘーヴ  http://www.bkv.hu/
  時刻表 menetrend は、メニューのHÉV menetrend > Szentendrei HÉV
ヴォラーンブス http://www.volanbusz.hu/
   時刻表は、メニューのBelföldi menetrend > Helyközi menetrend > ABC順地名リストで検索
  センテンドレ~ヴィシェグラードは、Budapest 2920系統
  ヴィシェグラード~エステルゴムは、Esztergom 2855系統
ホテル・シルヴァヌス http://www.hotelsilvanus.hu/
MÁV列車検索 http://www.elvira.hu/ 英語版あり

「官製地図を求めて-ハンガリー」 http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_hungary.html

★本ブログ内の関連記事
 ハンガリーの旅行地図-カルトグラフィア社
 ブダペストの登山鉄道と子供鉄道

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