2018年4月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

朝、JR御殿場線の上り電車に乗った。雲一つない秋晴れのもと、裾野の急坂を上っていくと、岩波駅あたりから、左前方の車窓にすっかり雪化粧を終えた富士山が顔を覗かせる。次の富士岡から南御殿場駅にかけてがハイライトだ。山体がいよいよ左正面に移動してきて、朝陽に照らされた優美な姿が窓枠いっぱいに展開する。

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御殿場線の車窓から見る朝の富士(富士岡~南御殿場間)

2017年11月25日のコンターサークルSの旅は、この御殿場線沿線に残る昔の複線跡がテーマだ。今でこそ地元密着型のローカル線だが、よく知られているようにこの路線は、1889(明治22)年の開通から丹那トンネルが完成するまでの45年間、東海道本線の一部だった。「燕」や「富士」「櫻」のような戦前を代表する長距離特急が疾駆し、主要幹線として全線が複線化されていたのだ。しかし、熱海回りのルートが1934(昭和9)年に開通すると、その地位から降ろされ、さらに太平洋戦争中にレール供出のために単線に戻されてしまった。

線路は撤収できても、トンネル、橋脚、橋台などおいそれとは移動できない構築物がある。堀さんは、著書『地図のたのしみ』(1972年)の中で、そうした複線時代の遺構が数多く存在することを書き留めている(下注)。元の記事は1964年に雑誌「鉄道ファン」で発表されたものだから、現地取材は50年以上前のはずだ。果たして今はどうなっているのだろう。私たちは堀さんに案内してもらったつもりで、沿線を旅することにした。

*注 『地図のたのしみ』p.146~(2012年新装新版ではp.153~)「四 地図に見る鉄道今昔 2 小田原付近と御殿場線」

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御殿場線(国府津~沼津間)のルート
1:200,000地勢図に本稿関連の駅名を加筆

電車は酒匂川(さかわがわ)の深い渓谷を通り抜けて、山北駅に9時50分に着いた。ここは東海道線時代に、箱根越えの前線基地として列車運行を支えた駅だ。駅前広場には、大出さんと石井さんが車で来ていた。

今日の行程を相談しているとき、石井さんが「古い地形図に、山北駅から南へ曲がっていく線路が描いてあるんですけど、これは何ですか」と聞く。明治中期の地形図(下図左参照)では確かに、駅から出た線路が南へ鋭くカーブし、山に突き当たって途切れている。「鉄分の濃いお二人ならご存じじゃないかと思って…」。しかし悔しいかな、私たちは線路の正体を知らなかった。

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山北駅周辺の地形図
(左)1896(明治29)年の1:50,000地形図
(右)現行1:25,000地形図(2014(平成26)年)。加筆した赤枠が線路跡地で、今も宅地がこの形に並ぶ

手がかりを求めて、山北町の鉄道資料館へ行ってみることにした。広場の東に建つふるさと交流センターの2階で、今年(2017年)8月にオープンしたばかりだ。開館時間前だったが、係の方が開けてくださった。山北が鉄道の町だったことを物語る貴重な資料や写真を見ていくうちに、まさに疑問に答えてくれるパネルがあった。

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山北駅 (左)構内で静態保存されているD52 70 (右) 山北町鉄道資料館の展示

そこには「緊急避難線(キャッチサイディング)」と書いてある。坂を下りてくる列車がブレーキ故障などで暴走した場合に、本線から逸らせて停止させるための設備で、昔は勾配区間にしばしば設けられていた。「でもどうしてこんなにカーブしてるんでしょうね。停まる前に脱線してしまいませんか」と石井さんが畳みかける。そこで資料館を辞した後、現地を見に行った。

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山北駅扇形庫の左上から延びる切妻屋根の縦列がキャッチサイディング跡
(山北町鉄道資料館の展示を撮影)

駅の東南の、町役場や生涯学習センターが建っている敷地には、かつて補助機関車を格納する扇形機関庫があった。その一角から南向きに右カーブしている宅地の列が、キャッチサイディングの跡らしい。宅地に沿って狭い道路が、国道246号線をアンダークロスした後も続いている。敷地は室生神社の境内をかすめて、なおも山手へ進み、斜面に阻まれる形で終わっていた。歩いてみると、末端に向かってかなりの上り勾配であることが実感される。「これなら脱線する前に、列車は失速しますね」。

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キャッチサイディング跡をたどる
(左)国道の南側から駅方向を望む。道路と右の宅地が跡地
(右)山際付近。左手前から左奥にかけての住宅の列が跡地

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トンネルと橋梁が連続する山北~駿河小山間
1:50,000地形図に加筆

所用のために戻る石井さんを見送って、大出さんと私は、予定の複線跡を探しに西へ向けて出発した。まず、国道から右に折れ、旧道(現 県道76号山北藤野線)に入ってすぐ、箱根第一号と第二号、2本のトンネルの間の橋梁が見える場所に、車を停める。フェンスがあって中に立ち入れないものの、トンネルは塞がれておらず、橋桁(ガーダー)もしっかり残っている。

現在、山北~谷峨(やが)間は、北側の旧 上り線が現役だ。しかし、さっきの資料館の展示によれば、1943(昭和18)年の単線化では、南側の旧 下り線に列車を通したのだそうだ。ところが、1968(昭和43)年の電化に際して、使われていなかった旧 上り線でトンネル断面の拡張工事を実施し、架線を設置した。このため、旧 上り線が現役に復帰し、代わりに旧 下り線が廃線になった。堀さんが訪れたのは電化前なので、ディーゼルカーは、今はなき南側の線路を走っていたはずだ。

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(左)左のトンネルポータルが箱根第二号の旧下り線
(右)箱根第一号、第二号トンネルの間に残る旧線ガーダー

第一酒匂川橋梁の脇にも、橋台が残っているのを確認してから、同 第二橋梁のほうへ回った。旧道は、線路を俯瞰するような高い位置を通っているので、集落に通じる細道を降りる。ここは複線仕様の橋脚が残っていた。石積みの橋脚を煉瓦で現在の線路面近くまでかさ上げしているから、昔は下路ガーダーが架かっていたのだろうか。

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第二酒匂川橋梁を俯瞰
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複線仕様の橋脚が残る第二酒匂川橋梁

昼食の後、谷峨駅を経て、今は無き第一相沢川橋梁(下注)の近くに車を置いた。1889年の開通時は単線だったので、第一相沢川橋梁で川の左岸、つまり北側に渡り、(旧)箱根第六号トンネルを経て、第二相沢川橋梁で右岸に戻っていた(下図上参照)。1901(明治34)年の複線化では、この1km足らずの区間だけ腹付け(隣接して敷設)ではなく、対岸を2本のトンネルで通過する別ルートとされた(下図中)。つまり、ここでは上下線が川を挟んで走っていたのだ。戦時中の単線化では旧 下り線(南側)が生かされたが、戦後の電化でも、山北~谷峨間のように旧 上り線が復活することはなかった(下図下)。

*注 川の名は現在、鮎沢川だが、鉄橋名は相沢(相澤)川とされている。

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谷峨駅西方の線路の変遷
(上)初期の単線時代 1896(明治29)年 1:50,000地形図
(中)複線時代 1921(大正10)年 1:25,000地形図
(下)単線化後 2014(平成26)年 1:25,000地形図

堀さんは、谷峨駅で下車して付近を歩いている。「(旧 第五号トンネルの西口から)川の方を見ると、大きな橋脚が一本河原に立ち、その向こうに対岸の橋台とそれに続く築堤があって、さらにその向こうに短いトンネルが望見された」(『地図のたのしみ』p.156)。

谷峨駅に通じる旧 第五号トンネル西口は今も確認できるが、川の中に橋脚は見当たらず、短いトンネル(旧 第六号)もすでに跡形すらない。おそらく国道の拡幅改良工事で、痕跡はほぼ完全に道路の下に埋もれてしまったようだ。

「北側の切通しを抜けると、左側の高みに登っていく細い道(中略)が分れている。それを入ってゆくと、左に鮎沢川を見下ろし、対岸に山腹をゆく御殿場線を望み、右に旧上り線の切り取りの跡を見下ろす、眺めのよい場所(中略)に出た」(同書p.156)。少しは期待していたのだが、この無名の展望地も道路工事の犠牲になったとおぼしい。

「もう少し先で対岸に渡る橋があるので、そこまで行ってみましょう」。大出さんと相談して、徒歩で向かう。それは、川沿いの小さな工業団地へ行く橋だったのだが、そこから右手に、第二相沢川橋梁の橋台が確認できた。両岸の取付け部分はすっかり工場の敷地に取り込まれたが、石積みの橋台だけが両岸から、まるで昔話を交わすかのように向かい合っているのだ。午前中からいくつか見てきた遺構の中で、この光景は特別印象的だった。

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第二相沢川橋梁
(左)両岸に残る橋台(矢印の位置)
(右)左岸(北側)の橋台。背後は工場敷地に埋もれている

車に戻って、再び西へ走り出す。駿河小山(するがおやま)駅へ通じる第一小山踏切から、箱根第七号トンネル西口の石積みポータルが間近に見えた。トンネルが連続する渓谷区間はこれが最後だ。線路はまだしばらく鮎沢川の谷間をくねっているが、谷は次第に浅くなり、やがて空の広い富士の裾野に出ていく。

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(左)箱根第七号トンネル西口。左側に旧上り線のポータルが見える
(右)足柄駅北方にある第五相沢川橋梁。ここも橋脚は複線仕様

「あと、どこか見るところありますか」と、大出さんが聞く。私は朝の上り電車の車窓を思い出していた。「複線跡じゃないんですが、富士岡駅のスイッチバックの築堤はどうでしょう」。富士岡駅は、1911(明治44)年に信号場として開設されたが、25‰の急勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックが採用された。坂道発進が困難な蒸気機関車のために、本線に並行して堤を築き、発進用の水平な線路を造ったのだ。電化に伴い、線路は撤去されてしまったが、高堤防と呼ばれた築堤だけはそのまま残されている。これも、主要幹線だった時代の貴重な遺構だ(下注)。

*注 同様の築堤が次の岩波駅にもある。

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富士岡駅で交換するJR東海313系
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富士岡駅のスイッチバック線跡、通称 高堤防
(左)駅のある北方向を望む (右)南方向。築堤末端ではかなりの高低差がつく

駅の南の住宅街を縫う小道をたどり、踏切を渡ってこの築堤に上がった。傾きかけた陽が雪の山襞に隈取のような影を加えて、富士が朝とはまた別の美しさを放っている。入口の案内板には、「富士見台(高堤防)」の名とともに、「富士見台という地名は数あれど最高の眺めを得られるのはここです」と誇らしげに記してあった。容赦なく視界を横切る新東名の巨大な高架がいささか目障りだが、それも現代的な小道具と思えば、確かにここは絶景だ。

堀さんは、谷峨で旧線跡を訪ねた後、再び下り列車を捕まえて、そのまま沼津まで乗り通したようだ。富士はそのとき、ディーゼルカーの車窓にどんな姿を映していたのだろうか。

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高堤防から望む富士

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図山北(大正10年測図および平成26年12月調製)、5万分の1地形図松田惣領(明治29年第1回修正)、秦野(昭和47年編集)、山中湖(平成2年修正)、20万分の1地勢図東京(平成3年要部修正)、横須賀(昭和55年編集)、甲府(昭和55年編集)、静岡(昭和55年編集)を使用したものである。

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2018年1月10日 (水)

奥出雲おろち号で行く木次線

山陰本線の宍道(しんじ)駅3番ホームに、赤1色のキハ120形気動車が停車している。朝9時10分発の木次(きすき)線木次行き1445Dだ。鄙びたローカル線と高をくくっていたので、単行とはいえ、ほぼ満席で立ち客までいるのは予想外だった。乗り込むなり、気のいい車掌さんに「トロッコですか」と聞かれたから、やはり観光列車に乗り継ぐ客が多いらしい。

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宍道駅3番線に停車中の木次行きキハ120形

今日10月27日(2017年)はその「奥出雲おろち号」で、木次線を遡る。出雲南部、いわゆる雲南地方の観光資源として1998年から運行されているトロッコ列車だが、乗車するのは初めてだ。運行区間は通常、木次~備後落合(びんごおちあい)間で、主として日曜日だけ出雲市から延長運転が行われている。今日は平日なので、木次まで定期列車に乗る必要があったのだ。

■参考サイト
出雲の国・斐伊川サミット-トロッコ列車「奥出雲おろち号」
http://www.hiikawa-summit.info/orochi/

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木次駅 (左)駅前の道は川堤へ続く (右)構内

木次線は、島根県の宍道から広島県の備後落合まで延長81.9km、単線非電化の鉄道線だ。1937年に全通した中国山地を横断するルートの一つだが、名うての(?)閑散路線で、代替道路が未整備でなかったら、とうに廃止宣告を受けていたに違いない。

特に木次以遠は人口が少なく、列車はふだん、鉄道愛好者を除けば空気を載せて走っている。峠越えの区間は冬場、大雪に見舞われることがあり、そのつど長期の運休を迫られるのも厳しい。一方、根元に当たる宍道~木次間は比較的人口が張り付いているが、私鉄(下注)により簡易線規格で造られたため、半径161m(=8チェーン)の急カーブと20~25‰の急勾配が随所にあり、速度がいっこうに上がらない。その上、地図で見るとおり、点在する町に近づけようとしたことで、冗長なルートができてしまった。鉄道が交通の主役だった時代はともかく、道路が改良された今となっては、競争に不利な条件が揃っているのだ。

*注 簸上(ひのかみ)鉄道により1916年に開通、1934年国有化。

しかし別の見方をすれば、都市化されていない懐かしい風景の中を、ゆったりのんびり走るスローライフ志向の路線ともいえる。加えて、最奥部にはスイッチバックの出雲坂根(いずもさかね)駅という鉄道名所がある。高度を稼ぐために造られる明瞭な三段式(Z形)スイッチバックは、JR路線としてここ以外には、豊肥本線の立野(たての、大分県)にしかない。

「奥出雲おろち号」は、こうした変化に富んだ車窓風景を、ガラス越しでなく自然の風が吹き抜けるトロッコ列車で、心行くまで味わえるのが売りだ。私も出雲坂根までこの列車に揺られて、木次線のもつ雰囲気を体感しようと思っている。

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木次線ルート概略図

そろそろ発車時刻が近づいてきた。改札を入ると、さきほどキハ120形で到着した2番線に、ボディーに青と純白をあしらった3両編成の列車が停まっている。先頭が運転室つきの開放型客車(トロッコ車両)、真ん中が密閉型客車(普通客車)、最後尾にDE15形ディーゼル機関車という並びだ。観光列車らしく、機関車は後ろから推す形にして、前面展望を保証している(下注)。

*注 終点で列車を転回できないので、帰路は機関車が前に立つ。

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木次駅2番線に「奥出雲おろち号」がバックで入線 *

すでに多くの人が乗り込んで発車を待っていた。トロッコ車両は定員64名、テーブルをはさんで2席分の木製ベンチが向かい合う。車端はレール方向に向いた4人用の長椅子だ。見たところすべてのテーブルが塞がっていて、平日というのに盛況だ。同行のTさん、Gさんと合流して、私もこの長椅子に着席した。

ちなみに後ろの密閉型客車には誰も乗っていない。なぜなら、トロッコ車両では寒いとか、雨が吹き込んでくるときに避難するための席だからだ。つまり乗客は1枚の指定券で2席確保しているわけで、同時に使うことはないとはいえ、なんとも贅沢な措置だ。

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「奥出雲おろち号」の客車
(左)開放型車両(トロッコ車両) (右)密閉型車両は避難(?)用

ホームから園児の集団に見送られながら、10時07分定刻に木次駅を発車した。線路は斐伊川(ひいかわ)の流域に延びているが、斐伊川本流に沿って走る区間は意外に少なく、支谷を伝ってトンネルで別の支谷へ抜けるという一見迂遠なルートがとられている。斐伊川は中流部で穿入蛇行(せんにゅうだこう)しているから、トンネルや切通しが多く必要になり、工費がかさむのを嫌ったのだろう。そのため、車窓には、三江線で見るような大河ではなく、狭い谷川や段々になった山田の風景がどこまでも続くことになる。

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(左)園児に見送られて発車 (右)車端の長椅子が私たちの席 *

列車は、木次の町裏を抜けた後、久野川(くのかわ)が流れる谷を延々10km以上も遡る。2駅目の下久野(しもくの)駅を過ぎたところで右に折れて、路線最長2,241mの下久野トンネルに入った。ここで一つ出し物がある。客車の天井に八岐大蛇(やまたのおろち)のイルミネーションが浮かび上がるのだ。トンネルの壁にレーザー光で絵を描くといった派手な仕掛けではないが、長い闇の中で退屈をわずかでも紛らせることができる。

季節に応じた防寒着のご用意を、と案内サイトに注意書きがあるとおり、走行中は絶えず風が当たる。気温はさほど低くないとはいえ、早くも密閉型車両に移動する人が出てきた。

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(左)下久野トンネル通過中 (右)天井におろちの姿が浮かび上がる *

トンネルを抜けると、高原状の浅い谷を下って出雲三成(いずもみなり)に停車する。ここで上り列車1450Dとの交換がある。ダイヤに従えば相手が先着して待っているはずだが、今日は遅れているようだ。乗客の中にはホームに降り、記念写真を撮る人もいる。まもなく赤いキハ120形が何食わぬ顔でやってきた。

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出雲三成駅 (左)ここでも園児の見送りが (右)対向列車が到着

三成からは斐伊川を右に見ながら進むが、線路はまた支谷へそれていく。次の停車は亀嵩(かめだけ)、いうまでもなく松本清張の「砂の器」の舞台になった場所だ。小説は大昔に読んだきりだが、事件の真相を探る刑事のように、私も亀嵩には用事があった。というのはほかでもない、駅でそば弁当を受け取ることになっていたのだ。当日1時間前までに予約しておけば、ホームから手渡ししてくれる。

亀嵩駅の手打ちそばは昔から有名だが、2駅先の八川(やかわ)駅では、この列車のためにそば弁当を立ち売りしている。ただし、数個しか用意されていないので、確実に手に入れるにはどのみち電話予約が安心だ。

出雲横田(いずもよこた)は、大しめ縄を張った社殿と見紛う駅舎で知られている。しかし、眺めたければ駅前広場に回る必要がある。停車時間はわずかで、その余裕はなかった。八川を過ぎると谷はさらに深まっていき、いよいよ30‰の勾配標が現れた。険しい峠道の始まりだ。標高は500mを越え、紅葉も川下より進んでいる。

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(左)亀嵩駅。駅の手打ちそばは有名
(右)八川駅。ホームで待っているのはそばの立ち売り人 *
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トロッコ車両はいつでもパノラマビュー(八川~出雲坂根間)

11時15分、ついにスイッチバックの出雲坂根駅に到着した。駅自体は標準的な相対式ホームだが、その手前にシーサスクロッシング(X字形の分岐器)があり、そこで下段と中段の線路に分かれている。2010年築の木造駅舎はまだ新しいが、もちろん無人駅で、切符も売っていない。

■参考サイト
出雲坂根付近の最新1:25 000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/35.102400/133.120600
出雲坂根付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@35.1024,133.1182,16z?hl=ja

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出雲坂根駅
(左)駅舎正面。川下より紅葉が進んでいる * (右)列車の到着時だけ賑わう駅

私たちはここで下車して、備後落合へ旅を続けるトロッコ列車を見送った。列車は機関車を先頭にしてもと来た方向へバックし(見た目はこのほうが正常だが)、分岐器を渡って森の中へ消えていった。発車後10分近く経って、上段の続きの線路をゆっくり上っていく列車が、森の切れ目からちらと見えた(右下写真)。

おろち号は備後落合で折り返してくるが、それまでしばらく時間がある。駅舎の隣のあずまやに腰かけて、名物の延命水をお茶代わりに、そば弁当をおいしくいただいた。何匹ものカメムシが周りをうろうろするのには閉口したが、ピクニックに来たと思えばそれも一興だ。

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(左)スイッチバックを上るおろち号を見送る
(右)駅から上段の線路を行く列車が見えた
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(左)駅舎横のあずまやにある延命水 (右)亀嵩駅のそば弁当を開ける

13時30分過ぎ、木次側から先に下り普通列車1449Dが到着した(下注)。私はこれに乗るつもりだが、列車はおろち号と行き違いをするため、駅で長い待ち合わせがある。ほどなく、上方からレールのきしむ音が聞こえてきた。姿は見えないが、スイッチバックの上段を列車が降りてきている。下り列車の乗客がカメラの放列を敷く中、13時50分を回ったころに、ようやくおろち号が森の陰から現れた。

*注 木次線は山陰本線の支線なので、運転上は宍道方面が「上り」、備後落合方面が「下り」になる。

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下り普通列車が、戻ってきたおろち号と交換 *

出雲坂根に残ったTさんとGさんはこの後、スイッチバックの俯瞰撮影を試みている。後で聞くと、七曲がりの旧道を三井野原(みいのはら)のほうへ上っていく途中に、お立ち台に通じる道を見つけたそうだ。ロープをたぐって斜面をよじ登り、木立の間から狙い通りのショットをものにした。下がその成果だ。

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スイッチバック上段を降りていく普通列車 *
左奥の屋根(シェルター)が折り返しポイント。中段の線路は森に阻まれて見えない
下の線路は出雲坂根から八川へ向かう線路(スイッチバック下段に相当)
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折り返しポイントのシェルターから出てきた列車 *
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スイッチバックを降りた列車が木次方面へ去る *

次の三井野原が峠の駅で標高726m、JR西日本の路線では最高所だ。周辺は高原の風情だが、地形としては、南へ流れ下る西城川(江の川水系)が北へ流れる室原川(斐伊川水系)により河川争奪を受けて上流を喪失した、いわゆる風隙(ふうげき)に相当する。出雲坂根との直線距離はわずか1.3kmだが、標高差は160mにもなる。線路は、30‰の連続勾配と、スイッチバックを含む6km以上の長い迂回路で高度を稼いで、ようやくこの駅に達する。

その途中、並行する国道314号線が、奥出雲おろちループと名付けられた巨大なオープンスパイラルで上ってくるのが、車窓からも見える。谷を一気にまたぐ真っ赤なアーチ橋とその上をすいすい走る車を前にして、80年も前に造られた鉄道はいかにも分が悪い。観光列車を走らせる価値はあっても、残念だが、もはや日常輸送の役割は終えたと思わざるを得ない。

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国道314号奥出雲おろちループ
右写真のスパイラルを上り、左写真のアーチ橋を渡って三井野原へ
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(左)峠の駅三井野原(木次方を撮影)
(右)西城川上流の谷を降りていく(木次方を撮影)

西城川上流の狭い谷を下ること約30分で、終点備後落合に着いた。芸備線との乗換え駅で、この時間帯は珍しく三方向から列車が集まり、互いに連絡している。各ホームに帯の色が違うキハ120形がちょこんと停まり、揃って客待ちしているのはおもしろいが、運行本数が極少だから、乗り間違えるとおおごとだ。「三次」の方向幕をしっかり確かめて、私も次の列車に乗り継いだ。

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備後落合駅
(左)乗ってきた木次線列車
(右)隣の島式ホームで、芸備線三次行きと新見行きに連絡

掲載した写真のうち、キャプション末尾に * 印のあるものは同行のTさんから提供を受けた。それ以外は筆者が撮影した。

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 三江線お別れ乗車
 新線試乗記-可部線あき亀山延伸

2018年1月 5日 (金)

三江線お別れ乗車

廃止を目前に控えた三江線(さんこうせん)が、時ならぬ賑わいに沸いている。

島根県の江津(ごうつ)と広島県三次(みよし)を結ぶ三江線は、延長108.1km、単線非電化のローカル線だ。中国山地に発し日本海に流れ下る江の川(ごうのかわ)に、終始ついて走る。江の川は中国地方最長で、最大の流域面積をもつが、中・下流はいわゆる先行性河川(下注)のため、山に挟まれ、周りに平地がほとんどない。それで三江線の車窓は、のどかで鄙びた谷沿いの風景がどこまでも続いている。

*注 先行性河川とは、周辺の山地の隆起より川の下刻速度が勝ることで、元の流路を保った川のこと。

路線の魅力もそこにあるのは間違いないが、それはとりもなおさず沿線人口が少ないことを意味する。加えて、中間の川本町や美郷町からは山越えの道路で大田に出るほうが早く、江津回りの鉄道はニーズに合わなかった。全通したのは1975年だが、それより前の部分開通(三江北線および南線)時代から、輸送密度が低迷しているとして廃止対象に挙げられていたのだ。全通によって生き延び、国鉄からJR西日本に引き継がれたものの、状況が改善する気配はなく、ついに今年(2018年)3月末で廃止が現実のものとなる。

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尾関山公園から江の川(可愛川(えのかわ))と三江線を望む

私は昨年(2017年)、この三江線を二度訪れた(ルートは下図参照)。初回の10月はオーソドックスに、鉄道仲間のTさんらと三次から江津まで全線を乗り通した。二回目の12月は趣向を変えて、バスと鉄道の合わせ技を使った。広島から高速バスで石見川本(いわみかわもと)へ直行し、石見川本~浜原間で下り列車425Dに乗った後、一駅歩いて、粕淵(かすぶち)から路線バスで大田市(おおだし)へ抜けたのだ(下注)。

*注 乗継時刻は以下の通り。広島10:00発→(イワミツアー高速バス)→石見川本12:09着/14:00発→(三江線)→浜原14:41着→(徒歩)→粕渕駅15:30発→(石見交通バス)→大田市駅16:16着/16:42発→(山陰本線)→出雲市17:33着。なお、粕渕駅15:30発のバスは、土日祝日運休につき注意(2017年12月現在)。

ちなみにTさんは前半のみ別行動で、前日に広島、三次、口羽(くちば)と列車移動し、そこから持参の自転車で潮(うしお)駅近くの旅館まで走って投宿、翌日も潮から川本まで再び自転車に乗り、石見川本駅で私と合流するというアクティブな旅をしている。

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三江線お別れ乗車でたどったルート

以下は2回分の見聞録だが、混乱を避けるために、三次から江津へ順に話を進めることにしたい。

初回の訪問時、三次に宿をとっていた私は、朝の下り列車を撮影しようと、早起きして尾関山に上った。尾関山は、三次旧市街の北西端にある比高50mほどの独立丘で、春は桜の名所として名高い。旧市街の西端を走る三江線はこの山をトンネルで貫いた後、江の川を渡る(下注)。その様子を狙おうと思ったのだ。時折小雨が降るあいにくの天気だったが、7時台の列車を山上の公園から(冒頭写真)、9時台の列車を橋のたもとからそれぞれ撮ることができた。

*注 江の川は、広島県側では可愛川(えのかわ)の別名で呼ばれており、鉄橋の名称も可愛川橋梁。

■参考サイト
尾関山駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.812900/132.841600

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可愛川橋梁を渡る夕方の三江線上り列車、前日に西側から撮影
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同 朝の下り列車、東側から撮影

尾関山駅が山のふもとにあるので、そこで上り列車を待ってもよかったのだが、全線乗車のために三次駅まで戻る。距離にして約2.5km、歩いても30分程度だ。三次駅で10時02分発の上り列車(下注1)に乗車した。日が短いこの時期、他の列車だと出発が夜明け前か、到着が日没後になってしまう。それで唯一の昼行便となるこの列車(424D~426D)に乗り納めの旅行者が集中して、混雑していると聞いていた(下注2)。

*注1 線路名称上、三江線は山陰本線の支線なので、川下へ進む江津行きが「上り」になる。
*注2 さらなる混雑を見越して、3月のダイヤ改正で口羽~浜原間上下各1便が増発されることになった。廃止まで2週間の期間限定ながら、昼間通し乗車の選択肢が増える。

列車はキハ120形の2両編成だったが、発車数分前に乗り込むと、なるほど座席はすでに埋まり、立ち客も10人では利かない。川本まで2時間以上の長丁場、私は最後部のかぶりつきに陣取って線路を眺めることになった。

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朝の三次駅
(左)駅舎 (右)10時02分発三江線列車に惜別客が続々と乗り込む

三江線は大きく3つの区間に分けられる。まず戦前の1930~37年に、北側の江津~浜原間50.1km(のちの三江北線)が順次開通している。南側でも同時期に着工されたが戦争のために中断し、戦後、1955~63年に三次~口羽間28.4kmが順次開通した(三江南線)。中間に残された浜原~口羽間29.6kmの開通は1975年になってからで、これにより三江線が全通した。

列車が三次駅を出るとまもなく、広島へ向かう芸備線を左へ分ける。そして馬洗川(ばせんがわ)を渡り、旧市街の西側を直線の高架で突っ切る大胆なルート設定だ。三次駅が川向うの不便な場所にあるので、鉄橋を2本架けてでも、旧市街の側に鉄道を引き寄せたかったように見える。期待に反して列車本数が少なく、結局使い物にはならなかったのだが。

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尾関山駅
(左)市街地西側を直線で突っ切る線路(三次方を撮影)
(右)人影のないホーム、交換設備はとうに撤去済(江津方を撮影)

朝の撮影場所にした可愛川橋梁を渡り、しばらく川の左岸を行く。粟屋駅の手前で、早くも制限時速30kmの標識が見えた。戦後の開通とはいえ着工は戦前なので、トンネルを極力避け、川べりの崖を削って線路を通した箇所が断続する。そこには例外なく速度制限があり、所要時間が長びく原因を作っている。

停留所といったほうが適当な片面ホームの駅が多数を占める中で、式敷(しきじき)駅は島式ホームで、列車交換設備があった。江の川を斜めに横断するガーダー橋が、単調になりがちな車窓に変化を与えてくれる。島根県に入った作木口(さくぎぐち)では、驚いたことに下車する客がぞろぞろと続いた。周辺は民家が数軒だけの寂しい場所だが、旗を持った添乗員らしき人が見えたので、区間乗車を組み込んだツアーの客のようだ。

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(左)式敷駅を出てすぐ川を斜めに横断(三次方を撮影)
(右)作木口駅ではツアー客が多数下車

口羽はいうまでもなく三江南線時代の終点で、列車交換が可能だ。ここで降りたTさんが、写真を提供してくれた。ここから浜原までが最後の開通区間になる。鉄建公団が建設した高規格線なので、PC枕木が敷かれ、曲線も緩やかで、谷間を縫うトンネルが連続する。列車の速度も明らかに上がってくる。

*注 最高速度は北線・南線区間が65km/hと低速なのに対して、中間区間は85km/h。

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口羽駅
(左)当駅折返しの列車が停車中 * (右)15時17分、三次に向けて発車 *

線路は川の左右を行ったり来たりし、そのたびに県境をまたぐ。地上20mの高さで、天空の駅のネーミングがついて注目される宇都井(うづい)駅のホームには、雨模様にもかかわらずカメラをかざす人が何人もいた。また川を渡って右岸につき、しばらく進むと、川幅が心なしか広がっていくのに気づく。少し下流の浜原ダムで川が堰き止められて、湖になっているのだ。そのほとりに潮駅がある。線路沿いの桜並木で有名だが、残念なことに次の花見頃に列車の姿は見られない。

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(左)天空の駅宇都井から見える石州瓦を葺いた家々
(右)短い覆道が3本連続(石見松原~潮間、三次方を撮影)
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潮駅を発つ朝の下り列車 *

線路は、路線最長の登矢丸(とやがまる)トンネル(2,802m)で、支流の沢谷にそれた後、浜原で江の川本谷に戻ってくる。浜原は三江北線時代の終点だ。口羽に似て、カーブした構内に交換設備があり、駅前には全通記念碑も置かれている。二回目の訪問では、ここから次の粕淵まで約2.5kmの旧道を徒歩移動した(Tさんは自転車)。乗るべきバスが粕淵駅前発だったからだが、川を見下ろす高堤防の上を歩いていくのは気分がよかった。

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浜原駅
(左)当駅止まりの列車が停車中。右奥は三瓶山 (右)駅舎前に全通記念碑

線路は下路ワーレントラスの第一江川橋梁で左岸に移る。これが最後の江の川横断になる。北線は建設年代が古いからか、カーブは半径200mが続出し、崖際が多いので速度制限も頻繁にある。前面展望の楽しみはともかく、運行環境としてはかなり厳しい。途中、浜原ダムの水を落として発電している明塚(あかつか)発電所の前を通過する。また、乙原(おんばら)駅前には、曲流していた川の短絡によって孤立した丘、いわゆる繞谷(じょうこく)丘陵があり、線路はそれを遠巻きにするように敷かれている。

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(左)粕淵駅を出てすぐ最後の江の川横断(三次方を撮影)
(右)里道の踏切(粕淵~明塚間) *
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三江北線区間には杣道のような箇所が点在(三次方を撮影)
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(左)浜原ダムから導水する明塚発電所(明塚~石見簗瀬間)
(右)乙原の繞谷丘陵

起終点を除いて沿線最大の集落が、川本(駅名は石見川本)だ。昼行便424Dはここが終点となり、約1時間半の待ち合せで、始発の江津行き426Dに連絡している。実際は同じ車両が通しで使われるのだが、停泊中は施錠されるため、所持品もすべて持って降りなければならない。

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石見川本駅到着
(左)車両はここで1時間半停泊 (右)神楽ラッピングの団体専用列車と交換した

ちょうどお昼時でもあり、車内から解放された客がどっと駅前に繰り出すのが、日々の恒例行事になっている。町もそれを好機と捉えて、駅前の空き店舗を休憩場所に提供し、「おもてなしサロン」と銘打った。名産のえごま茶をふるまい、見どころや食事処を記した地図を配って、地元の観光PRに余念がない。サロンでもらった「三江線乗車記念切符」は10月段階で8457人目(同年3月31日からの来場者数)だったのが、12月には11125人目と、1万人を軽く突破していた。

私たちが食事処に選んだのは、すぐ近くにある新栄寿しだ。初回来た時に食べたうな重(1300円)が大いに気に入ったので、二回目も迷わず注文する。肉厚の鰻を1匹まるごと使って今時この値段だから、リクエストしないわけにはいかない。大将もおかみさんもあいそがいいし、ここはお奨めだ。小さな店で、早く行かないとすぐ満席になるのでご注意を。

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川本駅前のおもてなしサロン
(左)萌えキャラが店先でカウントダウン * (右)えごま茶をいただきながら休憩
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(左)石見川本駅の記念スタンプ (右)サロンでもらった「三江線乗車記念切符」
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駅前の新栄寿しで昼食 (左)店入口 * (右)立派なうな重に舌鼓を打つ

食事の後は、駅裏の川の堤防や南にある川本大橋の上から、停泊中の列車を撮る時間が十分ある。江津行き426Dは、下り浜原行き425Dの到着(13:43ごろ)を待って13時45分に発車する。その425Dは14時ちょうどの発車だ。二度目に来た時は425Dで浜原に向かうことにしていたので、その到着と426Dの発車を大橋の上でカメラに収めてから、急ぎ足で乗り継いだ。

■参考サイト
石見川本付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.991300/132.492600

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川本大橋から江津方を望む
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石見川本駅
(左)高堤防から見た構内全景 * (右)満員の客を乗せて上り列車が発車

川本滞在の話はこれくらいにして、再び三江線を江津へ向かおう。相変わらず右手車窓に江の川の悠然とした流れが横たわり、列車は例の速度制限に足かせをはめられて、緩慢な走りを続ける。

ところが、お腹も満ち足りた私は、前半のような集中力を失くしていた。たとえば因原(いんばら)駅の南側では、路線の観光ポスターにも使われている石州瓦を載せた家並みが広がるし、江の川も河口に近づくにつれ川幅が太くなり、中国太郎の風格を表し始めるのだが、同行の人たちと四方山話に明け暮れて、1枚の写真も撮っていない。

そのうち、行く手にスマートな二層構造の国道橋(新江川橋)と白い煙を吐く製紙工場の煙突が見えてきた。ずっと山中の景色を見慣れた目には違和感さえある。川と山に挟まれて家の影すらない江津本町(ごうつほんまち)を出ると、列車は旅の伴侶だった江の川から離れていき、14時54分、江津駅3番線の古びたホームに滑り込んだ。三次を出てかれこれ5時間になる。言葉は交わさないまでも、跨線橋へと移動するどの顔にも、「長旅お疲れさま」の文字が浮かんでいる。

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江津駅に到着

掲載した写真のうち、キャプション末尾に * 印のあるものは同行のTさんから提供を受けた。それ以外は筆者が撮影した。

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 新線試乗記-可部線あき亀山延伸

2017年12月29日 (金)

新線試乗記-可部線あき亀山延伸

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河戸帆待川~あき亀山間を走る227系

可部(かべ)線の新しい終点まで行くのに、京都駅の券売機で乗車券を買おうと思った。駅名を度忘れしてしまい、ちょっと慌てたが、なんとか検索で探し当てた。ところが、出てきた切符を見たら、広島市内行きと書いてある! 手間取る必要はなかった。券面表示が同じなら、広島駅まで買えばよかったのだ。

地図・鉄道ファンと広言している割には認識不足も甚だしいが、可部線は駅数が多く、時刻表地図に比較的長めに描かれているせいか、こんな勘違いをしてしまう。実際の営業キロ数は15.6km(横川~あき亀山間)、広島からでも18.6kmと、広電と並走する山陽本線の広島~宮島口(21.8km)に及ばない小規模な都市近郊線だ。

その可部線も、かつては広島市域を出て中国山地深くに分け入り、三段峡まで60.2kmの長い距離を走っていた。しかし、非電化区間の可部~三段峡間は、利用者数の低迷で2003年に廃止されてしまった。しばらくその状態が続いていたが、今年(2017年)3月4日、新たな展開があった。可部から新駅のあき亀山まで1.6km、運行区間が延長されたのだ。見かけは旧線の一部復活だが、線路も駅も一から整備されたので、実態は新規開業に等しい。今回は、遅まきながらその様子を見に行くつもりだ。

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広島近郊路線図、水色のラインが可部線

しばらくぶりで訪れた広島駅は、2階に広いコンコースがオープンして、見違えるように明るくなっていた。南口の改築はこれからなので、これでもまだ変化の途中だ。4番線に降りると、可部線方面の新型電車が停まっていた。こちらも黄色一色の従来車ではなく、2年前(2015年)から投入された新型電車227系だ。ステンレス車体に、カープの本拠地らしく鮮やかな赤帯を巻いている。すでに日中の運行はこの形式の2両編成に統一され、ローカル支線のイメージが一掃された。

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広島駅にて
(左)新型電車227系
(右)黄色づくめの旧型車は朝夕の応援部隊。写真は105系

広島駅を出て横川(よこがわ)までは山陽本線を行く。アストラムラインと連絡する新白島(しんはくしま)駅が中間にできたからか、速度は上がらないままだ。横川駅では、手前でポイントを渡って、島式ホーム5番線に入った。ここからが可部線で、太田川(放水路)の鉄橋を渡り、路線唯一の短いトンネルを抜けた後、川の右岸(西岸)に広がる沖積平野を北上していく。

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横川を出てすぐ太田川放水路鉄橋を渡る
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太田川(放水路)に面する三滝駅

可部線のルーツは、1909~11年に大日本軌道により開業した非電化762mm軌間の軽便鉄道だ。駅間距離が短く、駅構内の造りがコンパクトなのもその名残だろう。1919年に可部軌道として独立したが、その後、1926年に地元の電力会社だった広島電気に買収されて、電化と1067mmへの改軌(1928~30年)が行われた。1931年には広浜鉄道として独立し、1936年に島根県浜田に至る予定線の一部として国有化されて、国鉄可部線となった。

軽便鉄道が開通したころは一面の田園地帯だった沿線も、今や市街地で覆い尽くされている。広々とした車窓風景に出会える区間といえば、太田川を渡る三滝駅の前後や上八木~中島間ぐらいのものだ。

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太田川鉄橋を渡る227系(上八木~中島間)

ただ、前面展望なら他にも楽しめるところがある。可部線のルートは、電化改軌や河川改修に伴い、かなり変わっている(詳細は本稿末尾を参照)が、梅林~上八木間では、道端をゴトゴト走っていた軽便鉄道の面影が残っているのだ。道路とは完全に分離されているものの、梅林駅の前後では可部街道の左側にぴったり沿って走る。10キロポスト付近に来ると、半径160mの急カーブで街道を横断し、今度は道の右側につく。吊り掛けモーターの旧車が似合いそうな線路を、新型227系が進んでいくのは面白い。

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軽便鉄道の面影が残る区間
(左)梅林駅 (右)上八木駅。いずれも上り列車から撮影

広島駅から約40分で、可部駅に到着した。今回の延伸に伴って、駅構内は様変わりしている。右側にあった電車用の頭端式ホーム(旧1・2番線)は使われなくなり、線路も剥がされた。その代わり、三段峡まで通じていた時代に気動車が発着していた3番線が1番線上りホームとなり、その向かいに2番線下りホームが整備された。改札は各ホームの北端に設置され、跨線橋が駅の東西を結ぶ自由通路になっている。

旧市街地に面した狭い東口が昔日の面影を残す一方で、西口は、2007年に造られた立派なバスターミナルが駅の下り改札に直結された(上り改札へは跨線橋の上り下りが必要になったが)。朝、再訪したときは、ここに広島方面行きのバスが次々と発着していた。なにしろ国道は渋滞気味だし、町中の旧道も抜け道に使う車がひっきりなしに行き交い、歩くのに危険を感じるほどだから、可部線の果たす役割は小さくない。

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可部駅東口
(左)駅務室も売店もこちらに (右)改札は上りホーム専用になった
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可部駅西口
(左)アーチをくぐって右手が下り改札。左は跨線橋で東口と上り改札へ通じる
(右)整備された西口バスターミナル

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可部線旧線と新線の比較
(左)可部~三段峡間廃止以前の図(1977~78(昭和52~53)年)。河戸駅は大毛寺川を渡る手前にあった
(右)あき亀山延伸後の図。あき亀山駅は大毛寺川を渡った県営団地跡に設けられた

新線区間は短距離なので、まずは線路に沿って歩いてみた。河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅の小さな駅前広場は県道267号線に面している。帆掛け舟のモニュメントがあったので、太田川を遡る川舟かと思ったら、帆待川の名の謂れを示すものだった。直前に渡った小川は帆掛け舟が通れそうにないし、帆待川がどこにあるのかはわからずじまいだ。新可部や西可部のようなありきたりの名にはしたくなかったとしても、凝りすぎだろう。

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河戸帆待川駅
(左)最小サイズの正面入口 (右)駅名の由来を示す帆掛け舟のモニュメント

さらに歩いていくと、路地の奥に歩行者用跨線橋があるのを見つけた。新線区間の列車を撮るには好都合だ(冒頭写真はここで撮影)。ただ、人通りがさほどなさそうな場所なのに、エレベーターまで付随している。バリアフリーの方針自体は結構なことだが、果たして保守費用に見合うだけの利用があるのだろうか、と余計な心配をしてしまった。

県道267号線の整備区間は大毛寺川(おおもじがわ)の手前までで、そこから昔ながらの田舎道になった。とはいえここも車の通行が結構多く、歩きたくなるような道ではない。終点のあき亀山駅は、高台の住宅地から降りてきた道との交差点を南へ入ったところにある。構内は、頭端型の島式ホームに接する2線の横に、可部駅の設備が移されたのだろう、留置側線が3線並んでいる。駅前には小さなロータリーがあるだけで、市民病院の移転予定地とされる一帯はまだ手付かずの状態だ。

■参考サイト
あき亀山駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.517200/132.496300
あき亀山駅付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@34.5170,132.4955,17z?hl=ja

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あき亀山駅
(左)正面入口は南向き (右)発着用2線の横に留置線も
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あき亀山駅と可部市街を遠望。川との間の空地は病院の移転予定地

駅名の亀山というのはこの地域の地名(旧村名)で、駅の住居表示も広島市安佐北区亀山南一丁目になっている。旧線にも「安芸亀山(あきかめやま)」と称する駅があったが、場所はもっと西で、新駅の位置はむしろ旧 河戸(こうど)駅に近い。安芸がひらがな表記になったのは、旧駅との混同を避けるためらしい。

ちなみに、周辺を歩いたとき、集落の中に河戸駅の駅名標と待合室が保存されているのを偶然発見した。場所はあき亀山駅の北200mで、グーグルマップにも「旧河戸駅移設地」の注記がある。

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集落の中に旧 河戸駅の駅名標と待合室を発見

駅への進入路の西側には、復活しなかった廃線跡が続いている。線路がまだ残されているのが見えたので、雑草をかき分けながら行ってみた。すっかり赤錆びているものの、レールは左に緩くカーブしながら、家並みの裏手に延びる。線路脇に倒された電柱、8の字(0.8kmの意)が刻まれた距離標と、思いがけない小道具が情趣を添える。だが、それも県道267号線との交差地点(旧 踏切)までで、後はバラストが剥き出しだった。位置的には平野のどん詰まりで、溪谷が目の前に迫っている。

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(左)あき亀山駅西側の廃線跡 (右)倒された電柱と距離標が残る

あき亀山駅へ戻った。簡易改札機にICカードをタッチして、ホームへ上がる。広島行きの列車が停車中だが、昼間の始発駅には人影がほとんどなく、静かだ。病院が移転してくるまで、当面こんな状況が続くのだろう。

定刻になり、列車はバラストも真新しい線路をおもむろに走り出した。見通しのいい直線コースだが、駅間距離800mなので速度を上げる間もない。棒線駅の河戸帆待川で、黒カバンにスーツ姿の二人連れが乗り込んだ。税務署や区役所が近いから、その所用客だろうか。国道54号可部バイパスの高架をくぐり、右へカーブしていくと、早くも可部駅が視界に入った。列車は旧線時代と同じ東側のホーム(現 1番線)へ滑り込み、隣で待機していた下り列車に道を譲る。

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可部駅での列車交換。左の上りホームは旧来のもの、右の下りホームは新設

可部線のルート変遷

横川~安芸長束

軽便時代の駅は可部街道の東側にあり、松原駅の北で街道を横切っていたが、1928年の電化改軌の際に省線横川駅から西へ出発する形に改められた。さらに、戦後の太田川放水路の建設に伴って、1962年に西寄りの現ルートに付け替えられている。

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(左)軽便時代の横川駅は、旧 可部街道の東側にあった
(中)1928年電化改軌の際、省線横川駅から西へ出発する形に改修
(右)太田川放水路建設に伴い、1962年に西寄りの現ルートに付け替え。赤のマーカーは旧線のルート

古市橋~緑井

軽便時代は、安川の旧流路に架かる古市橋を併用軌道で渡り、古市市街地の裏手を通っていた。1929年の電化改軌の際に併用軌道が廃され、現在の直線的なルートとなった。ちなみに、このとき消えた古市駅の名は、場所は異なるもののアストラムラインの駅名として復活している。

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(左)軽便時代は、古市橋を併用軌道で渡り、古市市街地の裏手を通った
(右)1929年電化改軌の際、直線的な現ルートに付け替え

上八木~中島

旧 太田川鉄橋は可部街道の橋梁に並行して架けられ、前後に急曲線があったが、河川改修に伴い、1953年に鉄橋が移設され、曲線も緩和された。

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(左)旧 太田川鉄橋は可部街道の橋梁に並行
(右)河川改修に伴い、1953年に鉄橋とその前後のルートが付け替えられた

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図広島(大正14年測図、昭和25年修正、平成6年部分修正測量)、祇園(大正14年測図、昭和25年修正、平成6年部分修正測量)、深川(大正14年測図)、中深川(昭和52年修正測量)、可部(昭和52年修正測量)、飯室(昭和53年修正測量)を使用したものである。

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2017年8月26日 (土)

城下町岩村に鉄路の縁

明知(あけち)鉄道の気動車は、JR中央本線恵那(えな)駅の片隅から出発する。鉄道仲間のTさんと訪れた2017年7月のある日、片面1線の狭い専用ホームは、賑やかな年配女性のグループに占拠されていた。というのも、次に入線するのが、急行「大正ロマン号」という料理を楽しむイベント列車だったからだ。明知鉄道明知線は、恵那~明智(下注)間25.1km。私たちは途中の岩村(いわむら)駅まで切符を買っている。

*注 地名・駅名は「明智」と書かれるが、鉄道名は、古い用字の「明知」鉄道「明知」線が使われている。

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恵那駅で発車を待つ大正ロマン号
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明知鉄道路線図(恵那駅の案内板を撮影)

大正ロマン号は破格(?)の3両編成で、前1両が普通車、後ろ2両は特製弁当が用意された食堂車だ。残念だが私たちは普通客なので、前の車両のかぶりつきに陣取った。発車は12時22分、走り出すや列車は33‰勾配に直面する。一部にほぼ平坦な区間はあるものの、飯沼川の渓谷を遡り、1つ目のサミットとなる飯沼トンネルまで、8km近くこの急勾配が続くのだ。

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(左)東野駅東方にある33‰の勾配標 (右)野田トンネル

気動車はゆっくりと、しかし喘ぐこともなく、淡々と坂を上っていく。急行運転のため、小駅には止まらない。いったん阿木川のやや開けた谷に降りて、阿木(あぎ)駅に停車。再び小さな峠を越えて、今度は岩村川の平たい谷に出る。極楽(ごくらく)という新駅を経て、12時53分に岩村に着いた。斜め向かいのホームに、交換する上り列車が待っている。

岩村(下注1)は私にとって初めての土地だ。明知線には国鉄時代、一度乗り通したことがある(下注2)が、中間駅は素通りしたのでほとんど何も記憶に残っていない。今回も本来の目的は鉄道乗車だ。取り立てて岩村の町に興味があったわけではなく、まさかここで浅からぬ鉄路の縁に巡り合えるとは、この時はまだ想像もしていない。

*注1 行政上は岐阜県恵那市岩村町
*注2 国鉄明知線は、1985年11月に第三セクターである明知鉄道に転換された。

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岩村駅
(左)路線唯一の列車交換駅
(右)全線自動閉塞化されたが、転轍てこが残されている

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岩村のレンタサイクルは
電動アシストタイプ

とりあえず計画していたのは、明知線上の飯沼(いいぬま)駅を見に行くことだった。この駅は33‰勾配の途上にあり、日本で2番目の急傾斜駅として売り出し中だ(下注)。岩村から4駅恵那寄りで、さっき大正ロマン号で通過している。駅前からレンタサイクルの連絡先に電話して、パナソニックの電動自転車を借りた。なにしろ周りは山坂だらけなので、普通の自転車ではたちまちへばってしまうに違いない。

*注 普通鉄道で日本一の急傾斜の駅は、滋賀県大津市にある京阪電鉄京津線大谷駅で40‰の勾配上にある。

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阿木周辺の1:25,000地形図に加筆

あらかじめ地形図で、飯沼までできるだけ2車線道を避けて行けるルートを確かめてある。絶えずクルマを気にしながら走るのは興醒めだからだ。国道257号に並行して、岩村川の左岸に頃合いの小道が延びている。走ってみると比較的直線で舗装もされているし、飯羽間の中切集落で国道に合するまで、ゆったりのんびり進むことができた。

地形図にはまた、阿木駅の北に1車線のトンネルが描かれている(上図の中央)。里道にしては異例の長さなので、これもルートに組み入れておいた。もしや森林鉄道の跡と疑ったのだが、そうではなかった。ネット情報を拝借すれば、これは野田トンネルといい、長さは252m。戦時中、地下軍需工場のために掘られたのを戦後転用し、1947年に竣工したのだそうだ(下注)。内壁はモルタル吹き付け、路面はコンクリート舗装で、照明もついている。空気はひんやりとして、蒸し暑い外との気温差で靄がかかっていた。

*注 北口に立つ隧道完成之碑には次のように書かれていた。「昭和二十二年半田市加藤銀三郎氏私財を投じて之を貫通し爾来中津川市及び阿木飯沼両地區の厚志により年を追うて補強し昭和四十四年四月完成す 茲に謝恩の意を表し建之 野田組」

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野田トンネル (左)南口 (中)内部はもやがかかる (右)北口

峠を一つ越えると、飯沼駅だ。集落から離れた谷合いにぽつんとある。私たちが着くと同時に、踏切の警報機が甲高い音を立て始めた。うまいタイミングで、明智行き普通列車がやってきたのだ。慌ててスタンバイし、ホーム取付けの階段と列車との傾斜加減を写真に収める。後で、この列車と岩村駅で交換した上り列車も、阿木駅北側のカーブした築堤で捉えることができた。3段変速の電動自転車だと、かなり急な坂道でも無理なく走れるので、野山を駆ける撮影行には重宝する。

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飯沼駅
(左)33‰勾配からの発進 (右)待合室の基礎に表れる高低差
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阿木駅北方で上り列車を見送る
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阿木駅舎
(左)懐かしいホーロー引き駅名標 (右)ベンチには暖かそうな手縫いの座布団

話はそれるが、阿木にある異形の橋、旧阿木橋も見た。片側はコンクリート桁の道路橋なのだが、川の中央から先は簡易な鉄骨トラスで繋いである。通りがかりのご婦人に聞くと、かつて(1957年)大水の時に川岸が抉られたため、人や自転車だけでも通れるように継ぎ足したのがあの結果だという。元の川幅は今の半分だったのだ。すぐ上流に新しい橋が架かり、車の通行に支障がなくなったので、当時のまま残されている東濃のアビニョン橋だ。

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東濃のアビニョン橋、旧阿木橋

岩村の旧市街は、1998(平成10)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。近在の妻籠宿、馬籠宿のような先駆事例に影響を受けているのだろう。本通りと呼ばれるメインストリートでは約2kmの間、目障りな電線が地中化され、街路に沿う家並がすっきりと見通せるのがいい。古風な雰囲気を残す建物が数多く保存され、現代建築も修景されている。

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岩村本通り

駅から城をめざして上っていくと、街路がクランクしている枡形(ますがた)付近から先が、江戸期に遡る商家町になる。文化財の公開建物ももちろん一見の価値があるのだが、それにも増して、国道の本町交差点の上手で軒を並べる商家群が圧巻だ。立派な売薬の看板が所狭しと掛かる水野薬局、年代ものの柱時計が壁を埋める藤井時計店、18世紀の創業という造り酒屋の岩村醸造、同じ頃、藩医が長崎から持ち帰ったレシピで今もカステラを焼く松浦軒本店(下注)など、どれも、にわか造りの観光施設には真似のできない歳月の重みを感じさせる。

*注 固めに焼き上げて独特の食感をもつ名物のカステラをつくる菓子店が、この町にはあと2軒ある。

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本通りの商家
(左)柱時計が壁を埋める時計店 (右)長崎伝来のカステラを売る老舗
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貴重な年代物の看板に感動

今朝からずっと曇り空だったが、夕暮れにとうとう雨が降り出した。本通りをなおも上っていくと、背後にそびえる城山の森が薄墨を刷いたように重なり、木版画の風情を漂わせている。標高717mの山頂に築かれた岩村城は、こうして霧がかかりやすいので「霧ヶ城」の別名をもつ。伝説では、城内の井戸に秘蔵の蛇骨を投じると、霧が沸き立って城を隠すのだそうだ。

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木版画の風情を見せる街路と城山の森

麓から城跡までは、石畳の険しい坂道が続いている。雨の上がった翌朝早く登城したら、濡れた木立に陽光のシャワーが射し込む荘厳な光景に迎えられた。あまたの歴史を秘めた山城が、神秘の力の一端を見せてくれたのかもしれない。

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岩村城の登城坂 (左)初門付近 (右)追手門跡
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六段壁の石垣が残る岩村城址

話は前日に戻るが、町の端に立つ常夜灯の傍らで、保存地区の成り立ちを記した案内板を見ていたら、ある一文が目に止まった。「枡形より西側の地区は、江戸時代末期から順次発展し、明治39年の岩村と大井(現・恵那市)を結ぶ岩村電気軌道の開通により一層繁栄し、いまも岩村町の商業の中心地となっています」。明知線より前からここに電車が来ていたことを知ったのは、それが初めてだった。

中世から近世を通じて、岩村藩の城下町として栄えたこの町も、明治維新による藩の解体を境に、地域経済の中心的地位を失ってしまう。加えて、鉄道が町から遠く離れた中山道に沿って敷設されることになった。さらなる衰退を危惧した地元資産家の奔走で、実現したのが岩村電気軌道(下注)だったのだ。

*注 大井~岩村間12.6 km、軌間1,067 mm、600 V直流電化

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岩村電気軌道に関する記事
荒巻克彦「明知線と蒸気機関車」非売品,1980年より

名古屋から延伸されてきた官設鉄道、今の中央本線は1902(明治35)年に中津(現 中津川)に達し、大井駅(現 恵那駅)が開設された。会社の設立はその翌年で、3年後の1906(明治39)年には早くも大井と岩村の間で営業運転を始めている。名古屋に国内2番目の市内電車が登場(1898年)してまだ8年、進取の精神がもたらした最新の交通機関を、町民はさぞ驚きの目をもって迎えたことだろう。

同じ大井駅を起点とする国鉄明知線が岩村に到達するのは、1934(昭和9)年のことだ。大井までの所要時間は両者さほど変わらなかったが、貨物輸送はもとより、旅客も乗り心地の良さから新しい路線に移っていった。利用者が激減したため、電気軌道は補償を受けて、翌1935(昭和10)年に運行を廃止した。

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岩村周辺の1:25,000地形図に加筆
赤の破線は岩村電気軌道のルート
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上図と同じ範囲の1:50,000地形図(明治44年測図、2倍拡大)
岩村電気軌道が特種鉄道の記号で描かれている

では、その軌道はどこを通っていたのか。さっそく調べてみると、何のことはない、昼間に自転車を走らせた岩村川左岸の小道が、廃線跡だった(上図参照)。どうりでまっすぐ延びていたはずだ。翌日、もと十四銀行支店の建物にある観光案内所「まち並みふれあいの館」に立ち寄って、電気軌道に関する資料を見せてもらう。写真もまったく撮っていなかったので、改めて駅付近のルートを確かめに出かけた。

駅から北西に400m、小道が国道257号線を横断する地点に立つ。北側は、軽四輪が似合いそうなのどかな一車線道が続いている。それに対し、南側は同じ道幅ながら周囲に屋敷が並び、岩村川に突き当たったところで右へ曲がる。そのときは判らなかったのだが、旧版地形図によれば、現 岩村駅南西の、盛り土をした公園が電気軌道の終点跡と読める。

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電気軌道廃線跡
国道257号線横断地点の北側(大井方)は野中の一本道
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電気軌道廃線跡
(左)国道257号線横断地点から南側(岩村方)を望む
(右)岩村川に臨んでカーブした後、川を渡っていた

岩村駅の上りホームが駅舎から離れて、軌道終点の近くに配置されているのも、意味ありげだ。明知線が開通したとき、軌道はまだ現役だったから、相互に乗換の便が図られたとしても不思議はない。いたって静かなこの山里の駅が、一時期、新旧路線の旅客ターミナルとして賑わっていたなど、想像するだけでも興味深いことだ。

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ホームが千鳥状に配置された現 岩村駅
右の上りホームの斜め後ろが軌道駅跡らしい

さて、岩村での鉄路の縁の最後にもう一題、本通りに面した造り酒屋、岩村醸造を覗いたときの話をしよう。ソフトクリームはじめました、という看板に釣られて店内に入ったのだが、ふと見ると、床にレールが敷いてあるではないか。酒屋や醤油屋などで、重い原材料や製品の搬出入に手押しトロッコを使っていたとは聞いたことがある。いわゆる横丁鉄道だが、本物を見るのは初めてだ。

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杉玉が吊された岩村醸造の玄関口

もう利用されていないとはいえ、線路はしっかり残されている(下注)。店の人に「奥まで見学できますよ」と言われたので先を追うと、透き通った水の流れる中庭に出た。本通りに並行して走っている天正疎水という用水路で、屋敷を奥へ拡張したときに庭に取り込まれたのだ。酒の仕込みに使うのと同じ地下水で喉を潤してから、なおも奥へ向かうと、瓶詰めの作業場の横を急カーブですり抜けていく。そして、仕込み桶が並ぶ酒蔵に入ったところで途切れていた。

*注 岩村醸造のリーフレットによれば、長さは100m。

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(左)店先から奥へトロッコのレールが延びる (右)天正疎水をまたいで続く
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(左)作業場を急カーブですり抜ける (右)レールの先端は酒蔵の中

鉄道模型の世界には、屋外に線路を敷いて、人が乗れるような大型車両を走らせる庭園鉄道というジャンルがある。業務用とはいえ、屋敷の中を線路がくねくねと走るのは、それを超える意外性が感じられて愉快だ。堪能したので、何か土産を買って感謝の気持ちに代えたいと思ったが、日本酒をやらない私は、少し恐縮しながら甘酒入りのソフトクリームを注文するしかなかった。

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(左)トロッコは商品の陳列台に (右)甘酒入りソフトクリーム

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩村(平成19年更新)、5万分の1地形図岩村(明治44年測図)を使用したものである。

■参考サイト
明知鉄道 http://www.aketetsu.co.jp/
安岐郷誌 http://agimura.net/
城下町ホットいわむら http://hot-iwamura.com/
岩村醸造 http://torokko.shop-pro.jp/
 左メニューにあるグーグルのストリートビューで、トロッコのレールを追うことができる

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2016年10月30日 (日)

開拓の村の馬車鉄道

少し前に、存続の危機に瀕しているマン島ダグラス Douglas の馬車軌道(馬車鉄道)のことを書いたことがある(下注)。調べていくうちに、同じように馬に牽かせる鉄道が日本にもあることを知った。その一つが、札幌近郊にある「北海道開拓の村」で、観光アトラクションとして運行されている。札幌在住の人にそのことを話すと「あの馬鉄はかなり前からありますよ」と不思議がられたのだが、訪れてみれば、周りに点在する保存建物とともに開拓時代の雰囲気が巧みに再現されていて、一見に値するものだった。今回は北の国を走るこの小さな馬車鉄道をレポートしたい。

*注 本ブログ「ダグラスの馬車軌道に未来はあるのか」、旅行記は「マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道

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ニセアカシアの並木道を馬車がやってくる

北海道開拓の村は、北海道百年を記念して1983年4月に、野幌森林公園の一角に造られた公開施設だ(下注)。公式サイトでは、「開拓の過程における生活と産業・経済・文化の歴史を示す建造物等を移設、復元して保存するとともに、開拓当時の情景を再現展示して、北海道の開拓の歴史を身近に学ぶことのできる野外博物館」と紹介している。いわば、博物館明治村、あるいは江戸東京たてもの園の北海道版だ。

*注 北海道開拓の村への公共交通機関は、JR千歳線・地下鉄東西線の新札幌(しんさっぽろ)駅前から、JR北海道バスの新22系統「開拓の村」行きを利用。このバスはJR函館本線の森林公園駅にも立ち寄る。バスの時刻表は、下記開拓の村の公式サイトにある。

■参考サイト
北海道開拓の村 http://www.kaitaku.or.jp/
北海道開拓の村付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/43.048200/141.497100

訪れたのは10月のよく晴れた土曜日だった。旧札幌停車場を縮小再現したという正面玄関の堂々とした建物を通り、右手のメインストリートを少し行くと、背の高いニセアカシアの並木に抱かれるようにして伸びる複線のか細い線路が見えてくる。これが馬車鉄道の走行線だ。線路の総延長は516.58m、軌間は762mm(2フィート6インチ、いわゆるニブロク)で、昔の札幌市内の馬車鉄道と同じにしてあるという(下注)。

*注 数値は、ウィキペディア日本語版「馬車鉄道」の項を参考にした。

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(左)正面玄関は旧札幌停車場のレプリカ (右)馬車鉄道の起点にある旧浦河支庁庁舎

使われている車両は、ダブルルーフ、オープンデッキつきの小型2軸客車だ。1981(昭和56)年日本車輌の製造銘板を付け、内部は6人掛けのロングシートが向い合せになっている。これを「道産馬(どさんこ)」と呼ばれる馬が牽く。正式には北海道和種馬といい、小柄ながら脚が丈夫で辛抱強いので、昔から農作業や荷物の運搬に重宝されてきた種だ。場内のパネルによると、本日の担当は、1991年生まれの「リキ」と1994年生まれの「アラシ」で、二頭とも毛並みの美しい白馬だった。案内の人の話では、彼らは外の飼育場で飼われていて、毎週開拓の村へ出勤してくるのだそうだ。

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(左)ダブルルーフにロングシートの客車内部 (右)牽き馬は道産馬(どさんこ)種

運行は、「旧浦河支庁庁舎前」と「旧ソーケシュオマベツ駅逓所前」の間で行われている。いずれも付近の保存建物の名にちなんでいるが、乗降設備などはなく、「馬車鉄道のりば」と書かれた小さな立て札が立っているだけだ。時刻表の上には、「ご乗車希望のお客様は、並んでお待ちください。定員約18名」と書き添えられていた。座席に12名とつり革6つで18名という計算だが、「約」としているのは、詰めてもらえばあと少しは乗れますよというニュアンスかもしれない。

試乗は後回しにして、午後の始発となる13時10分発を観察した。村内は広くて散策している姿も目立たないのだが、発車時刻が近づくと、待ち合わせ場所に自然と人が集まってくる。グループに子供連れ、ベビーカーを押してきたお母さんもいる。歩けばそれなりに距離があるので、場内唯一であるこの交通手段で移動するのは正解だ。ベビーカーは折り畳んでデッキの隅に置かれる。この回はほぼ満席になり、なかなかの人気であることがわかった。

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(左)客車が客待ち中 (右)乗り場の立て札

発車数分前に、旧開拓使札幌本庁舎(レプリカ)の裏から、ガラガラと引き棒を引きずりながら、白馬のリキが登場した。御者を務める人が後ろで手綱を握っていて、リキは客車の前でしばし待機する。客が全員車内に収まると、女性車掌が発車を宣言し、続いて御者に向かって「お願いしまーす」と呼ばわった。ここで初めて引き棒の金具が客車に掛けられる。御者が手綱を一振りするのを合図に、馬車は走り出した。初めは首を垂れ、足を踏ん張って重そうにしていたリキだが、車が転がり始めると軽快な足取りになり、カラカラと賑やかな鈴の音を残して見る見る遠ざかっていった。

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(左)おもむろにリキが登場 (右)客車の前でしばし待機
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(左)足を踏ん張り重そうにスタート (右)車が転がり始めると表情が緩む
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馬車は並木道を遠ざかる

次の発車までに、村内をざっと見て回ろうと思った。ところが、いざ行ってみると多くの建物で、人形やパネル展示、音声を駆使しながら、そこで営まれていた仕事や時代背景などがリアルに再現されている。靴を脱いで座敷や部屋に上がったり、説明役の人に話を聞いたりしていると、すぐに時間が経ってしまう。簡単に済ませようという目論見は、全くもって甘かった。

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保存建物と内部のようす
(左)紅葉を映す旧 来正(くるまさ)旅館
(右)旧 南一条巡査派出所ではお巡りさんが道案内
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旧 山本理髪店
(左)外観 (右)懐かしい小道具の前で髭剃りの実演中(もちろん人形です)
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漁村群
(左)豪壮な旧 青山家漁家住宅が中央に
(右)広い居間で囲炉裏の火を囲む(人は本物です)
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(左)旧 札幌農学校恵迪寮 (右)谷間の木漏れ日

市街地群と呼ばれるエリアでは、例の鈴の音がよく聞こえるので、そのつどメインストリートへ引き寄せられる。復元された古びた街並みと秋空を区切る並木道、その間を一心に進んでくる鉄道馬車は、ノスタルジックな絵画そのものだ。線路は並木道の間250mほどが複線で、その後は単線になる。そして池の手前で右カーブし、農村群の一角まで進んだところで「旅客線」は終わる。さらに道端の煉瓦の車庫まで、引込み線が続いていた。傍らを見ると、板囲いの中で、もう一頭の牽き馬アラシが秋の陽を浴びながら出番待ちをしている。

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馬車の走る姿はノスタルジックな絵画を見ているよう

終点からは馬車に乗って戻ることにしよう。乗車券は、車掌さんが手売りしている。まだ日が高いせいか、終点側から乗り込んだのは3人だけだった。もちろんここは一番前の席に陣取るべきだ。走り出すと、鈴の音と車輪の音に蹄のリズミカルな響きが合わさってけっこう騒がしい。それもあいまって、スピード感は見物していたとき以上だ。とりわけ唯一のカーブを曲がるときは、白い尻尾が左右に大きく揺れて迫力があった。並木道に入ると、道行く人がこちらに注目してくれる。ちょっとパレードの主人公になった気分で、初乗りを終えた。

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(左)終点の旧 駅逓所 (右)車庫の前で、折返しの出番を待つリキ
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馬車に乗る (左)カーブを回って複線の並木道へ (右)昔懐かしい風景を行く

この貴重な馬車鉄道は、4月~11月の間、9~16時台(12時台を除く)に運行されている。積雪のある冬季は、馬橇がこれに代わる。月~土曜は40分間隔で運行され、1両が終点まで行っては戻ってくる。日曜・祝日は30分毎で、両端から同時発車して2両が複線区間ですれ違う。このシーンを撮るために来る人もいるようだ。片道の所要時間は約5分で、料金は片道大人(15歳以上)250円、小人(3~14歳)100円だ(開拓の村の入場料が別途必要)。

*注 運行状況、料金は2016年10月現在。

ちなみに、村内の鉄道関係の復元施設としてはもう1か所、山村群の一角に森林鉄道の機関庫がある。内部に、1966年の廃止まで夕張岳森林鉄道で稼働していた小型ディーゼル機関車や貨車、トローリーなどが静態展示されている。本物の森に囲まれ、庫外までレールが引き出されていることもあって、こちらも写真の被写体としていい雰囲気を保っている。

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(左)森林鉄道機関庫 (右)本物の丸太が臨場感を呼ぶ

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 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道
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 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

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鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

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夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

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1971~72年修正の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

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(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

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(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
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がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさん、河村さん、及川さんほか総勢8人。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

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夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

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廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

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夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。及川さん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書『続 北海道 鉄道跡を紀行する』(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、『北海道 地図を紀行する 道南・道央編』北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

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旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

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オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
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(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
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(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

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志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

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(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

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(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」と河村さんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

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(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

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道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

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夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

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 開拓の村の馬車鉄道

2016年10月14日 (金)

コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス

長州、萩の町で朝を迎えた。あの蒸し暑い空気は雨と共に去り、10月らしい青空が広がっている。山から差す朝陽がことのほかまぶしい。萩には自然と歴史の見どころが多いので、到着した昨日は自転車を借りて越ヶ浜の笠山まで遠征し、ホットケーキのように扁平な島が点々と浮かぶ沖合の奇景を堪能した。今朝(10月10日)も早起きして、松蔭神社の境内ですがすがしい空気を浴びてきた。

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(左)笠山から沖合の扁平な島々(萩六島)を望む (右)雲間から光のシャワーが
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(左)静かな朝の川べり(松本川) (右)松蔭神社境内に遺された松下村塾の建物

これを前哨戦だとするとこの後は本番で、コンターサークルS 地図の旅2日目に参加する。舞台は、萩から30kmほど北東の須佐(すさ)周辺。山陰本線の名橋に数えられる「惣郷川(そうごうがわ)橋梁」と、海岸のホルンフェルスの露頭を回る予定だ。

JR山陰本線で須佐は、東萩(ひがしはぎ)から数えて6駅目になる。列車で向かうつもりで8時半に東萩駅(下注)の待合室へ行くと、すでに堀さんと、愛車で到着した相澤さんの姿があった。

*注 阿武川(あぶがわ)のデルタに立地する萩市街に対して、鉄道は外側を大回りしていて、代表駅は、萩駅ではなく東萩駅。

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(右)人影少ない東萩駅 (右)待合室で道順を打合せ

「橋は須佐より手前ですからね」というお言葉に甘えて、車で出発した。まず走る国道191号線は、日本海の海岸線をなぞっていく絶景ルートだ。昨日眺めた沖合の島々も、順光のもとでより鮮やかに見えた。宇田郷(うたごう)駅前で山へ分け入る国道から離れ、海辺の狭い旧道に入る。弁天崎の短いトンネル(尾無隧道)を抜けると、道がやや海側に膨らんで、お目当ての惣郷川橋梁が現れる。旧道は橋梁の南端でアンダークロスしているので、手前で車を停めた。

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惣郷川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆

ここは、東から流れてきた惣郷川が海に注ぐ場所だ。両岸に山が迫り、線路は長さ2215mの大刈(おおがり)隧道へ向けて、上り坂(11‰)の途中にある。そのため、橋は取付け位置を高くし、かつ半径600mの曲線上に設けられた。全長は189.14m、高さは11.6m(下注1)だ。強い潮風に晒され続ける過酷な環境のため、防錆が課題となるトラス橋ではなく、鉄筋コンクリート(RC)の柱と梁で組んだラーメン構造(下注2)が採用された。しかも鉄筋の被り厚を標準の2倍にし、塩害に強いシリカセメントを使用して、万全を期したという。

*注1 高さは、井筒天端からレール面までの最大値。出典:小野田滋「土木紀行-山陰本線・惣郷川橋梁 屹立するコンクリートラーメン」土木学会誌87-1, 2002年1月, p54-55。
*注2 ラーメン Rahmen はドイツ語で枠、骨組みを意味する。

橋は1932(昭和7)年に竣工した。橋や大刈隧道を含む須佐~宇田郷間8.8kmが翌年開通し、これをもって山陰海岸を走る鉄道が全通した。つまり、この区間は現 山陰本線に残された最後のミッシングリンクだったのだ。

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(左)緩やかなカーブが優美さを醸し出す (右)裾が開いた橋脚、中央部は工事中

「立派な橋ですね」「築80年には見えない」。足元に潮騒を聞きながら、相澤さんと私がひとしきり感心していると、そばで堀さんが解説してくれた。「橋脚の脚の裾が平行ではなく、開いているでしょう。あれで安定感が出ます。橋全体がカーブしているのも変化があっていい」「柱3本ごとに黒い縦の継ぎ目が見えますか。構造的に一体ではなく、分割してあるんです。当時の技術的な事情があるのかもしれません」。

写真を撮ろうとするのだが、中央部では工事の足場が組まれ、人が動いている。鉄筋コンクリートは、経年によるひび割れが避けられず、侵入した水や空気が中の鉄筋まで届くと、腐食して強度が落ちる。それを防ぐために、表面に樹脂コーティングが施されているから、その塗り直しか何かの作業だろう。

と突然、ゴーッという音とともに、日に数本しかない列車が頭上を通過していった。私たちが須佐まで乗る予定だった上り列車だ。時刻表をチェックしていたわけではないので、偶然のタイミングだった。「線路のそばにいると、不思議と列車が通るんです」と私。「天浜線の天竜川橋梁でも、河原へ出たら来ましたよね」。そのときもお二人と一緒だった。「好かれてるんでしょうね」と相澤さんがまじめな顔で応じてくれた。

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惣郷川橋梁を渡る上りのキハ40形
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惣郷川橋梁、北側からの眺め

旧道は、惣郷の小さな集落を通り抜けて坂を上り、北側で再び線路に接近する。そこからもう一度橋を眺めた。朝なので光の加減はいいのだが、角度が浅いため、海側の橋脚はあまり見えなかった。「旧道をこのまま行ってくれますか」という堀さんのリクエストで、大刈垰を越える旧道を行く。大刈トンネル経由の国道は1977(昭和52)年に開通したので、果てしなく曲がりくねるこの道が幹線でなくなってから40年近く経過している。さっき車が1台私たちを追い越していったから、通り抜けはできるはずだ。

舗装は特段荒れておらず、路肩に黄色いガードレールも残っている。ただ、路面には枯葉や小枝が積もっていて、それを右に左に避けながらの運転になった。堀さんとしては、歩いてみたい道候補の一つだったようだが、あいにく木が生い茂って、眺望のきくところはほとんどなかった。峠の掘割を越えると、金井という2~3軒しかない集落で稲刈りをしている。その後はまた同じような羊腸の下り坂になった。

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(左)大刈垰サミットの長い堀割 (右)羊腸の大刈垰旧道

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須佐周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

続いて、二つ目の訪問地ホルンフェルスの露頭へ向かう。須佐駅を通過して海岸へ出る道へ折れ、4kmほど進んだところに、レストハウスと無料駐車場がある。海を見下ろすちょっとした海岸段丘の上だ。そこからさほど遠くない海辺に、それが見えた。道路の脇から小道が延びて、近くまで行けるようになっている。海沿いの棚田に沿って歩いていくと、道はだんだん細くなり、断崖の真上で終わった。堀さんの手を取って来たものの、「戻れなくなるからここで待っています」とおっしゃるので、相澤さんと二人で先へ進む。

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須佐のホルンフェルス露頭を遠望。右下が畳岩、奥の赤い崖がより典型的な例

濡れて滑りやすい波蝕棚の上を慎重に降りていくと、さっき遠望していた白黒ストライプの海蝕崖が目の前に現れた。地元では畳岩と呼ばれ、北へ向かって傾斜している。周辺の崖にも同じような横縞(=互層)があるのに、この一角だけコントラストが明瞭なため、特に目を引く。白く見える層は砂岩、黒っぽいのは頁岩だという。

垂直約12mの畳岩は思ったほど大きくはない。「でも、この広い岩場も上の層が剥がれたものですね」と私が言うと、相澤さんも「ずっと広がっていたのが、波で削られていったんでしょう」。間隔を置いてやってくる大波は、岩に激しくぶつかって砕け散る。縦にも節理が入っているため、裂け目が広がり、やがて剥離していくのだろう。

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縞模様が目を引く「畳岩」

ホルンフェルス Hornfels というのは、高熱による変成岩のことだ。ドイツ語で角岩(つのいわ)を意味し、動物の角を思わせる硬さと模様からそう呼ばれる(下注)。レストハウスのパネルで、当地のホルンフェルスの成因が説明されていた。すなわち、約2500万年前から1500万年前の間に、砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積した。約1400万年前にこれを突き破って高温の火成岩体が噴出し、そのときの高圧と高熱で周囲の須佐層群の性質が変わった(=熱変性)。互層を形成する岩石もその作用を受けているのだが、もっと典型的なものはその後ろにある赤い色の崖なのだそうだ。

*注 名称の由来は、ウィキペディア英語版による。

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(左)熱変成を受けた砂岩と頁岩の互層 (右)縦の大きな裂け目も見つかる

レストハウスへ戻って休憩する間、相澤さんが持参の焼き栗を割ってくれた。秋の味覚が口の中に広がる。店の人から、行列のできるイカ尽くしの食堂が駅前にあると聞いて、また車を走らせた。「梅の葉」という小さな店で、12時前に入ったのにすでに40分待ちだった。名物の活イカづくりはすでに品切れていたので、イカ天丼に舌鼓を打つ。粗食も辞さないコンターサークルの旅では珍しいことだ。車で帰る相澤さんに見送られて、堀さんと私は、須佐駅から14時発の下り列車に乗った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図須佐、宇田(いずれも平成13年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
一般社団法人中国建設弘済会-アーカイブス(土木遺産一覧)
http://www.ccba.or.jp/archives/heritage.htm

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 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年7月 3日 (日)

新線試乗記-北海道新幹線で函館へ

「この列車は13時31分発、北海道新幹線新函館北斗(しんはこだてほくと)行きです。」東京から乗り通してきた「はやぶさ13号」の車内にアナウンスが流れた。何気なく聞いてはいても、北海道新幹線ということばの響きが新鮮で、耳に残る。

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(左)東京駅に新函館北斗行き「はやぶさ13号」が入線
(右)開業を知らせるJR東日本のパンフレット

今、列車は新青森駅に停車している。京都駅を出たのは朝7時半で、東京で30分弱の乗継ぎ時間をとったとはいえ、すでにお昼を回った。新函館北斗まではトータルで7時間かかる計算だ。ずっと座りづめで、そろそろお尻が痛くなってきたが、日本海側を走る特急「白鳥」や寝台の「日本海」で1日がかりの長旅をしていたころに比べれば、贅沢な悩みかもしれない。

北海道新幹線の新青森~新函館北斗間148.8kmは、2016年3月26日に開業した。上下各13本の列車が設定され、両駅間は最短61分になった。運用車両は、東北新幹線で使われてきたE5系とJR北海道所有のH5系だ。どちらも基本的に同じ仕様で、明るい緑と白のツートンをまとっているが、側面の帯はE5系のピンクに対して、H5系はご当地色のラベンダーを巻く。

新青森を発車した後も、アナウンスは続いた。「これから青函トンネルを通り、チューリップの春を迎えた北海道へと参ります」。乗車したのは5月20日、春到来の北の大地を想像して心が弾む。6年前に東北新幹線が新青森まで延びた時、駅の北方にある車両基地へ去っていくはやぶさを見送りながら、新幹線が見る夢はまだ当分続くと思った。その夢に現実が追いついたのだ。線路が右手に分かれていき、その車両基地が車窓をよぎった。

*注 東北新幹線の新青森延伸については、本ブログ「新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学」参照

線路は、津軽半島の東岸を北上する。右手には水が張られた田んぼが続き、その向こうにJR津軽線と沿岸集落、それから青い陸奥湾を隔てて夏泊半島の山々がくっきりと見えている。それはまるで新旧交通路の交代劇をなぞるようだ。集落の手前の線路には、ほんの2か月前まで函館をめざす特急列車の姿があったし、30年前にはあの海を国鉄の青函連絡船が行き交っていたから。

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新青森から津軽半島東岸を北上する
陸奥湾の向こうに夏泊半島、その左後方は下北半島のシルエット

しかしこの眺めも長くは続かない。海峡に達するまでに両手に余る数のトンネルが控えている。闇と明かりをいくつか過ぎたところで、電車は減速し始めた。狭軌との合流地点にさしかかったらしい。

青函トンネルを含む「海峡線」区間は、1988年の完成時から在来線として旅客・貨物の輸送に使われ続けてきた。特に貨物は大動脈で、北海道の産業にとって生命線になっている。新幹線の開通によって旅客輸送は完全に移行するが、貨物列車は依然在来線から乗入れてくる。高速ですれ違った場合、風圧がコンテナ貨物に与える影響が懸念されて、新幹線列車は時速140kmまで速度を落として走ることになったのだ。

在来線の線路が高架に上がってきて、シェルターの中で合流した。あっという間だった。新幹線は標準軌(1435mm)、在来線は狭軌(1067mm)と軌間が異なるので、この区間はレールが3本並ぶ3線軌条に改築されている。素人目には珍しい光景程度の感覚だが、その開発と保守作業の舞台裏は想像以上に大変らしい。

JR北海道のサイトによれば、3線軌条に対応するため、1台19億円のレール削正車をはじめ特別仕様の作業車を揃えた。また、地上設備は12か所の3線分岐器(ポイント)のほか、限界支障報知、レール破断検知、饋電区分制御など特殊な装置を開発して設置した。日常作業でも、線路の点検個所が1.5倍に増える上に、貨物列車が深夜早朝に走行するため、実質2時間弱しか確保できない。また、レールが近接する側は作業がしにくく、冬はこの部分に氷塊がはさまって分岐器の不転換(ポイントが切り替わらない)が起こらないよう警戒する必要があるのだそうだ。

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(左)狭軌の在来線が合流 (右)3線軌条で青函トンネルへ

はやぶさ13号は、中間にある2駅にも停車する。一つは本州側の奥津軽いまべつ、在来線時代の津軽今別駅だが、全面屋根のかかった立派なホームに変身していた。知らぬ間に発車する。

しばらくしてまたアナウンスがあった。「これから青函トンネルに入ります。右側に赤い鳥居と展望台が見えましたら、次が青函トンネルです」。新幹線にはビジネスライクな印象を抱いていたが、「スーパー白鳥」と同じような観光案内が続いているのは嬉しい。とはいえ、トンネルに突入しても、「入りました」のアナウンスと、トンネルを紹介する電光掲示が流れるのみで、窓が一斉に曇ったりはしない。昼間だからか貨物列車のすれ違いもなく、53.85kmの闇を走り抜ける25分間はひたすら静かに過ぎていく。

10年以上も前、ここの竜飛海底(たっぴかいてい)駅で降りたことを思い出した。あのときは斜坑に設置されたケーブルカーで龍飛崎まで上がり、津軽海峡を眺めながら、北端まで来た感慨にふけったものだ。残念なことに新幹線の工事開始に伴って、駅は閉鎖されてしまった(下注)。

*注 現在も龍飛崎の青函トンネル記念館やケーブルカー(斜坑線)は利用可能だが、地上からしか行けない。

次に地上に顔を出すのは、知内町湯ノ里付近で、左の車窓に、瑞々しい春の山々と初めての北海道の集落が見える。二つ目の中間駅が木古内(きこない)だ。ここは後刻、在来線の列車で訪れた。新幹線開業と同時にJRから切り離され、道南いさりび鉄道という第3セクターの運営になったが、キハ40が担う通勤通学の風景は変わらない。

山側の新幹線駅舎が威容を見せつけているが、本来の正面である海側に立ついさりび鉄道の駅舎も建て直されている。内装には木材を多用して、昔の学校の廊下を思わせるところがおもしろい。正面入口から新幹線に乗ろうとすると、いったん在来線をまたいで降りて、地表にある新幹線の改札を入り、再び3階相当のホームへ上ることになる。もちろん地元の人は、ダイレクトに山側の駅舎へ回るだろうが。

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木古内駅 (左)新幹線ホームの駅名標 (右)在来線側の駅舎も新築

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木古内駅 (左)在来線側の改札入口 (右)在来線は道南いさりび鉄道に転換された

木古内を出てから2km半ほど、新幹線は海岸沿いに走る。しかし、防音壁に阻まれて、海はほとんど見えない。新幹線は建設の時代が下がるほど平地の用地取得が難しくなってトンネルが増え、さらに最近の新幹線は防音対策が厳重で、少しでも家並みがあるとたちまち高い壁でブラックアウトにされてしまう。

終点まであと13分。トンネルをいくつか抜けると、南向きに広がった函館平野に出る。アナウンスが「函館山がご覧になれます」と告げるのだが、実際は例の防音壁によって、細切れの眺めしか得られない。在来線のときは、湾を隔てて島かと見まごう函館山がどんどん大きくなり、終点の近いことを教えてくれた。あの感動を味わうことは難しい。

100名定員の広い車内に、もう数組しか乗っていない。前にいた中年グループの一人が、軽く伸びをしながら「は~るばるきたぜ函館へ」と口ずさんだ。東京から4時間乗ってきたのだとしたら、歌い出したくなる気持ちもわかる。まもなく車体が左に傾き始め、右手に横津岳の西麓が近づいてくる。車両基地の建物群が横に並び、はやぶさ13号は新函館北斗駅の真新しいホームに滑り込んだ。

■参考サイト
新函館北斗駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/41.904700/140.648600

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新函館北斗駅
(左)E5系が並ぶ (右)右側に線路増設スペースがある。上階コンコースはガラス張り

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新函館北斗駅 (左)駅舎と駅前広場 (右)2階改札内、在来線は右へ

この駅は、もと渡島大野(おしまおおの)という無人駅で、函館駅から17.9kmの距離にある。札幌に直通する新幹線として、在来線のようにスイッチバックするわけにはいかないとしても、立地はかなり遠い。用地買収や線形の制約があったのだろうが、せめて七飯駅に接続しておけば、下り優等列車が使っていた藤代線も活用できたのにと思う。

それで函館との連絡は、733系電車による「はこだてライナー」が担うことになった。首都圏から訪れる旅行者にも違和感のない新型車両なので、受け入れ態勢としては万全だ。3両編成で、おおむね下りの新幹線と10分程度の接続時間で発車する。走りもいたって軽快で、五稜郭までノンストップの便なら最速15分で函館に着く。

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733系はこだてライナー (左)新函館北斗駅で発車を待つ (右)車内広告も開業を祝う

ただ、10分接続は結構忙しい。乗り遅れると、次の列車は森方面から来る単行気動車ということがままある。筆者がホームにいたときも、「エーッ、1両!」とスーツケースを引いた旅人風の夫妻が呆れて声を上げた。冷房はないし、走りものろいのに加えて、時間帯によっては結構混むので、旅の第一印象を損ねないかちょっと心配だ。

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森方面から来た単行気動車。乗降口にステップがあり、大荷物の人には辛い

そのキハ40に揺られて函館駅に到着した。いうまでもなく函館市の主たる玄関口だが、新幹線開通で本州方面を結んでいた特急がいっさい消えてしまった。交通の結節機能を、新幹線駅に半分譲り渡した格好だ。札幌方面の特急「北斗」が従来どおり発着しているとはいえ、改築された立派な駅舎と長距離列車用の長いプラットホームが、心なしか手持無沙汰に見えた。

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函館駅到着 (左)0キロポストのオブジェ (右)駅舎正面

さて、北海道新幹線に乗ってみて、印象はどうだったか。憧れの北海道に上陸したというのに、車窓から海峡も函館山も大して見えず、在来線のような楽しみは得られなかった。記念の初乗りはともかく、乗ること自体が旅の目的にはなりそうにない。

移動ツールとしての利用はどうか。新函館北斗までなら、到達時間は1時間早くなった。東京から列車が海を越えて直通するという心理的効果も無視できない。団体旅行だと新駅の前から観光バスを出して、そのまま目的地に向かえる。レンタカーもしかり。信号の多い市内の道を走らなくていいから好都合だ。一方、筆者のように函館市内へ行く個人客は、どのみち在来線に乗換えなくてはならない。ライバルとなる空港は市街に近く、羽田へ1時間20分で飛んでいく。駅が空港より立地が悪いようでは、闘う前からすでに競争力に疑問符がついてしまう。

目下JR北海道は、JR東日本とも連携しながら、イベントを打ったり割安な乗車券を売り出すなど、観光需要の喚起に懸命だ。新幹線はこの後札幌まで延伸される予定だが、開通は2031年と、15年も先の話になる。道央に出れば何らかの展開が期待できるとしても、それまであの厄介な線路施設を延々と維持していかなくてはならないのだ。悲願の新幹線とは知りながらも、一筋縄ではいかない重い荷物を預かったものだと思わざるを得ない。

■参考サイト
JR北海道-北海道新幹線特設サイト http://hokkaido-shinkansen.com/
JR北海道-青函トンネル http://www.jrhokkaido.co.jp/seikan/

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 新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学
 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 I
 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 II

 北海道の新線
 新線試乗記-札幌市電ループ化

 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群
  1日1往復になった札沼線新十津川駅のレポートを含む

2016年6月25日 (土)

新線試乗記-札幌市電ループ化

札幌市電のミッシングリンクが埋められる日が、ついにやって来た。2015年12月20日、駅前通に敷設された真新しい線路に、営業運転の電車が走り始めたのだ。路面軌道の新設は、駅前延伸のケースを別にすると、2009年の富山市内環状線以来(下注1)とあって、これに乗らないわけにはいかない。コンターサークルS(下注2)の席でそのことを話したら、堀淳一さんが「札幌に住んでいても乗る機会がないから、一緒に行きましょう」と、案内してくださることになった。以下は、今年(2016年)5月に堀さんと敢行した試乗の記録だ。

*注1 富山市内の環状線については「新線試乗記-富山地方鉄道環状線」参照。
*注2 コンターサークルSについては「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」参照。

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西4丁目電停から駅前通に出てきた電車

札幌市電は1960年代が最盛期で、総延長が25kmあった。しかし1972年の冬季オリンピック開催に向けて地下鉄の整備が始まると、それと引換えに次々と廃止されていき、1974年には現在の8.5kmまで縮小してしまった。最後に残された路線(成り立ちから言うと3路線の部分接合)は、上辺が右に突き出た縦長の矩形をしているのだが、地下鉄南北線と並行するために廃止となった西4丁目~すすきの間だけが途切れている。そのわずか400mの失われた環が今回接続されて、めでたく環状線として再生されたのだ。

■参考サイト
西4丁目電停付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/43.058900/141.352100

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路線図。右上の西4丁目~すすきの間が新設区間
札幌市交通局リーフレット「路面電車のループ化で変わること」より

三越前でタクシーを降りて、さっそく西4丁目の電停(正式には停留場)へ向かった。以前、この電停は1本の線路を2本のホームがはさみ、電車は折返し運転されていたと思うが、今は外回り(下注)専用だ。ホームが拡幅され、白塗りのしっかりした屋根と横壁も設置されている。

*注 路面電車はクルマと同じく左側通行なので、駅前通を南下するほうが外回り。

一方、内回り線の乗場はこの南1条通ではなく、直交する駅前通の4プラ(4丁目プラザ)前に移された。駅前通では、軌道が道路の中央でなく、サイドリザベーションと言って両側の歩道に寄せて敷かれている。それで、電停も歩道に直結だ。乗降に際して信号待ちや車道の横断が不要になり、便利で安全性も高まった。道路脇だと冬は雪がたまるので、軌道上や路肩にはロードヒーティングも入っているらしい。

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西4丁目電停
(左)外回りホームは元の位置で全面改修 (右)内回りホームは駅前通の4プラ前に移設

電停にやってきたのは、広告を巻いた旧型電車だった。札幌にもポラリスと名付けた新しい低床連接車(A1200形)が導入されているが、まだ3編成で断然少数派だ。「低床車が入るといっても、1年に1編成ですから」と堀さん。時刻表によると、1時間に片道1本程度しか走っておらず、平日日中に巡りあえる確率は1/7に過ぎない。旧型車は乗降ステップの段差が大きく、踏面も狭いので、お年寄りには大変だ。手間取るばかりか、降り口では転倒の危険もぬぐえない。新型車は最終的に11編成まで増備されるそうだが、行政が事業の採算性を気にかけるあまり、不便の解消がなかなか進まないのは問題だ。

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低床連接車ポラリス

扉が閉まり、出発の準備が整った。しかし、路面電車用の黄色の右折信号が表示されず、交差点に出るのにだいぶ待たされた。ぐいっと大回りして、南行車線の最も左側につける。新設区間では、片側3車線のうち左端の1車線が軌道敷に転用され、クルマは通行禁止の措置が取られた。荷捌き停車やタクシーの客扱いもできなくなり、その機能は東西の通りに移されている。

それで電車の進路に支障物は見当らない。大きく成長した街路樹の葉陰を滑らかに走り始めたが、すぐに狸小路(たぬきこうじ)の停留場が見えてくる。札幌を代表するアーケード街の前なので、乗降が少なからずあった。ここでも信号に引っかかる。「信号が多いですね」と言うと堀さんが、「一つ一つの通りが広いので、そのたびに信号で停められるんです」。それに歩車分離式のため、信号1個の待ち時間自体も長いのだ。

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駅前通を北上する内回りの車内から

外回りは駅前通の出入りが右折になるので、とりわけこの区間の通過に時間がかかる。後日、西4丁目電停のそばで、信号の切替えパターンを観察してみた。外回りの乗降が完了した段階で、南1条通(電車が待機している東西の通り)の信号が青だったとする。進む順番として次は電車だと思いたいが、残念ながら、先に駅前通(南北の通り)が青になる。それから車道が全赤に変わるとともに、歩行者信号が全青(スクランブル)になる。

もうこれで発車するだろう、と誰しも思うが、そうではないのだ。また南1条通の青、駅前通の青、歩行者の青と、ひととおり繰り返され、その後ついに電車の黄色矢印が出る。結局この車両は、交差点前にスタンバイしてから、優に6分は待たされていた。これは極端な例かもしれないが、少なくとも狸小路が目的地の人は、西4で降りて歩いたほうが早く着くに違いない。優先信号を再考できないものかと思ったことだ。

南東角に立つニッカウヰスキーのローリー卿に見守られながら、電車はすすきの交差点で右折して、月寒通へと進む。すすきの電停は、従来どおり道路の中央に両方向のホームがあるが、環状化に伴い2線に拡張された(下注)。また、西側の折返し用中線にも別の乗場が設けてあり、後日見たら、貸切電車専用停留場の札が掛けてあった。ポラリスの貸切もできるらしい。

*注 従来は、西4丁目と同じ折返し2面1線の構造だった。

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(左)すすきの交差点を曲がる (右)すすきの電停はもとの位置で2面2線に改修

新設区間はここまでだ。「降りて写真を撮りますか」と聞かれたので、「せっかくですからまず全線に乗りましょう」と、既設区間に踏み込んだ。広い月寒通はすぐに左折して、西7丁目通を南下する。「この辺に住んでいた頃は、これに乗って大学へ通ってました」と堀さんは目を細める。市電沿線には母校もあって、若い頃の思い出がたくさん詰まっているのだろう(下注)。車窓からはほとんど見えないが、中島公園や創生川もすぐ近所だ。

*注 「地図の中の札幌-街の歴史を読み解く」(亜璃西社、2012)の224ページ以下に、堀さんの札幌市電の思い出が綴られている。

幌南小学校前電停を過ぎると、軌道は右へ曲がる。そして藻岩山を左前方に眺めながらしばらく進み、また右折すると電車事業所前電停だ。「ここから車庫にいる電車が見えますよ」と教えていただいた。この後は、福住桑園通を北上する。「西側は住宅街ですから、単調な駅名が多いんです」。学校名や直交する通り名が付された東側に比べて、西側は、西線何条というナンバー電停が続く。かつてこちらは別の系統で、お古の電車が回されていたそうだ。

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(左)既存区間の南西端、電車事業所前電停 (右)車庫に集う車両群

師範学校付属小の跡地を突っ切る西15丁目の斜めの道を経て、南1条通に帰ってきた。商業施設が増えてきたように思ったら、もう振出しの西4丁目電停に着くところだった。ループツアーを無事終えて、再び駅前通を南へ去っていく電車を見送った。堀さんが「新しいルートはどうでしたか」と尋ねる。「全然違和感がなくて、昔からあったように見えます」と答えると、堀さんは笑いながらも、「ここまで来るのが大変だったんですよ」としみじみと言った。

札幌市の資料によると、今回のループ化は、中心市街地の活性化に寄与する公共交通政策の一つのステップで、今後も札幌駅方面や創生川以東、桑園地域などへ軌道の延伸を検討していくのだそうだ。欧米の都市では一般的な施策だが、日本ではクルマ中心の固定観念や財源捻出のハードルが高くて、なかなか実現しない。札幌のメインストリートに進出した路面電車がショーウィンドーの役割を果たし、人々の気づきを喚起してくれるといいのだが。

■参考サイト
札幌市交通局 https://www.city.sapporo.jp/st/

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