2017年8月26日 (土)

城下町岩村に鉄路の縁

明知(あけち)鉄道の気動車は、JR中央本線恵那(えな)駅の片隅から出発する。鉄道仲間のTさんと訪れた2017年7月のある日、片面1線の狭い専用ホームは、賑やかな年配女性のグループに占拠されていた。というのも、次に入線するのが、急行「大正ロマン号」という料理を楽しむイベント列車だったからだ。明知鉄道明知線は、恵那~明智(下注)間25.1km。私たちは途中の岩村(いわむら)駅まで切符を買っている。

*注 地名・駅名は「明智」と書かれるが、鉄道名は、古い用字の「明知」鉄道「明知」線が使われている。

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恵那駅で発車を待つ大正ロマン号
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明知鉄道路線図(恵那駅の案内板を撮影)

大正ロマン号は破格(?)の3両編成で、前1両が普通車、後ろ2両は特製弁当が用意された食堂車だ。残念だが私たちは普通客なので、前の車両のかぶりつきに陣取った。発車は12時22分、走り出すや列車は33‰勾配に直面する。一部にほぼ平坦な区間はあるものの、飯沼川の渓谷を遡り、1つ目のサミットとなる飯沼トンネルまで、8km近くこの急勾配が続くのだ。

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(左)東野駅東方にある33‰の勾配標 (右)野田トンネル

気動車はゆっくりと、しかし喘ぐこともなく、淡々と坂を上っていく。急行運転のため、小駅には止まらない。いったん阿木川のやや開けた谷に降りて、阿木(あぎ)駅に停車。再び小さな峠を越えて、今度は岩村川の平たい谷に出る。極楽(ごくらく)という新駅を経て、12時53分に岩村に着いた。斜め向かいのホームに、交換する上り列車が待っている。

岩村(下注1)は私にとって初めての土地だ。明知線には国鉄時代、一度乗り通したことがある(下注2)が、中間駅は素通りしたのでほとんど何も記憶に残っていない。今回も本来の目的は鉄道乗車だ。取り立てて岩村の町に興味があったわけではなく、まさかここで浅からぬ鉄路の縁に巡り合えるとは、この時はまだ想像もしていない。

*注1 行政上は岐阜県恵那市岩村町
*注2 国鉄明知線は、1985年11月に第三セクターである明知鉄道に転換された。

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岩村駅
(左)路線唯一の列車交換駅
(右)全線自動閉塞化されたが、転轍てこが残されている

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岩村のレンタサイクルは
電動アシストタイプ

とりあえず計画していたのは、明知線上の飯沼(いいぬま)駅を見に行くことだった。この駅は33‰勾配の途上にあり、日本で2番目の急傾斜駅として売り出し中だ(下注)。岩村から4駅恵那寄りで、さっき大正ロマン号で通過している。駅前からレンタサイクルの連絡先に電話して、パナソニックの電動自転車を借りた。なにしろ周りは山坂だらけなので、普通の自転車ではたちまちへばってしまうに違いない。

*注 普通鉄道で日本一の急傾斜の駅は、滋賀県大津市にある京阪電鉄京津線大谷駅で40‰の勾配上にある。

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阿木周辺の1:25,000地形図に加筆

あらかじめ地形図で、飯沼までできるだけ2車線道を避けて行けるルートを確かめてある。絶えずクルマを気にしながら走るのは興醒めだからだ。国道257号に並行して、岩村川の左岸に頃合いの小道が延びている。走ってみると比較的直線で舗装もされているし、飯羽間の中切集落で国道に合するまで、ゆったりのんびり進むことができた。

地形図にはまた、阿木駅の北に1車線のトンネルが描かれている(上図の中央)。里道にしては異例の長さなので、これもルートに組み入れておいた。もしや森林鉄道の跡と疑ったのだが、そうではなかった。ネット情報を拝借すれば、これは野田トンネルといい、長さは252m。戦時中、地下軍需工場のために掘られたのを戦後転用し、1947年に竣工したのだそうだ(下注)。内壁はモルタル吹き付け、路面はコンクリート舗装で、照明もついている。空気はひんやりとして、蒸し暑い外との気温差で靄がかかっていた。

*注 北口に立つ隧道完成之碑には次のように書かれていた。「昭和二十二年半田市加藤銀三郎氏私財を投じて之を貫通し爾来中津川市及び阿木飯沼両地區の厚志により年を追うて補強し昭和四十四年四月完成す 茲に謝恩の意を表し建之 野田組」

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野田トンネル (左)南口 (中)内部はもやがかかる (右)北口

峠を一つ越えると、飯沼駅だ。集落から離れた谷合いにぽつんとある。私たちが着くと同時に、踏切の警報機が甲高い音を立て始めた。うまいタイミングで、明智行き普通列車がやってきたのだ。慌ててスタンバイし、ホーム取付けの階段と列車との傾斜加減を写真に収める。後で、この列車と岩村駅で交換した上り列車も、阿木駅北側のカーブした築堤で捉えることができた。3段変速の電動自転車だと、かなり急な坂道でも無理なく走れるので、野山を駆ける撮影行には重宝する。

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飯沼駅
(左)33‰勾配からの発進 (右)待合室の基礎に表れる高低差
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阿木駅北方で上り列車を見送る
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阿木駅舎
(左)懐かしいホーロー引き駅名標 (右)ベンチには暖かそうな手縫いの座布団

話はそれるが、阿木にある異形の橋、旧阿木橋も見た。片側はコンクリート桁の道路橋なのだが、川の中央から先は簡易な鉄骨トラスで繋いである。通りがかりのご婦人に聞くと、かつて(1957年)大水の時に川岸が抉られたため、人や自転車だけでも通れるように継ぎ足したのがあの結果だという。元の川幅は今の半分だったのだ。すぐ上流に新しい橋が架かり、車の通行に支障がなくなったので、当時のまま残されている東濃のアビニョン橋だ。

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東濃のアビニョン橋、旧阿木橋

岩村の旧市街は、1998(平成10)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。近在の妻籠宿、馬籠宿のような先駆事例に影響を受けているのだろう。本通りと呼ばれるメインストリートでは約2kmの間、目障りな電線が地中化され、街路に沿う家並がすっきりと見通せるのがいい。古風な雰囲気を残す建物が数多く保存され、現代建築も修景されている。

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岩村本通り

駅から城をめざして上っていくと、街路がクランクしている枡形(ますがた)付近から先が、江戸期に遡る商家町になる。文化財の公開建物ももちろん一見の価値があるのだが、それにも増して、国道の本町交差点の上手で軒を並べる商家群が圧巻だ。立派な売薬の看板が所狭しと掛かる水野薬局、年代ものの柱時計が壁を埋める藤井時計店、18世紀の創業という造り酒屋の岩村醸造、同じ頃、藩医が長崎から持ち帰ったレシピで今もカステラを焼く松浦軒本店(下注)など、どれも、にわか造りの観光施設には真似のできない歳月の重みを感じさせる。

*注 固めに焼き上げて独特の食感をもつ名物のカステラをつくる菓子店が、この町にはあと2軒ある。

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本通りの商家
(左)柱時計が壁を埋める時計店 (右)長崎伝来のカステラを売る老舗
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貴重な年代物の看板に感動

今朝からずっと曇り空だったが、夕暮れにとうとう雨が降り出した。本通りをなおも上っていくと、背後にそびえる城山の森が薄墨を刷いたように重なり、木版画の風情を漂わせている。標高717mの山頂に築かれた岩村城は、こうして霧がかかりやすいので「霧ヶ城」の別名をもつ。伝説では、城内の井戸に秘蔵の蛇骨を投じると、霧が沸き立って城を隠すのだそうだ。

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木版画の風情を見せる街路と城山の森

麓から城跡までは、石畳の険しい坂道が続いている。雨の上がった翌朝早く登城したら、濡れた木立に陽光のシャワーが射し込む荘厳な光景に迎えられた。あまたの歴史を秘めた山城が、神秘の力の一端を見せてくれたのかもしれない。

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岩村城の登城坂 (左)初門付近 (右)追手門跡
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六段壁の石垣が残る岩村城址

話は前日に戻るが、町の端に立つ常夜灯の傍らで、保存地区の成り立ちを記した案内板を見ていたら、ある一文が目に止まった。「枡形より西側の地区は、江戸時代末期から順次発展し、明治39年の岩村と大井(現・恵那市)を結ぶ岩村電気軌道の開通により一層繁栄し、いまも岩村町の商業の中心地となっています」。明知線より前からここに電車が来ていたことを知ったのは、それが初めてだった。

中世から近世を通じて、岩村藩の城下町として栄えたこの町も、明治維新による藩の解体を境に、地域経済の中心的地位を失ってしまう。加えて、鉄道が町から遠く離れた中山道に沿って敷設されることになった。さらなる衰退を危惧した地元資産家の奔走で、実現したのが岩村電気軌道(下注)だったのだ。

*注 大井~岩村間12.6 km、軌間1,067 mm、600 V直流電化

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岩村電気軌道に関する記事
荒巻克彦「明知線と蒸気機関車」非売品,1980年より

名古屋から延伸されてきた官設鉄道、今の中央本線は1902(明治35)年に中津(現 中津川)に達し、大井駅(現 恵那駅)が開設された。会社の設立はその翌年で、3年後の1906(明治39)年には早くも大井と岩村の間で営業運転を始めている。名古屋に国内2番目の市内電車が登場(1898年)してまだ8年、進取の精神がもたらした最新の交通機関を、町民はさぞ驚きの目をもって迎えたことだろう。

同じ大井駅を起点とする国鉄明知線が岩村に到達するのは、1934(昭和9)年のことだ。大井までの所要時間は両者さほど変わらなかったが、貨物輸送はもとより、旅客も乗り心地の良さから新しい路線に移っていった。利用者が激減したため、電気軌道は補償を受けて、翌1935(昭和10)年に運行を廃止した。

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岩村周辺の1:25,000地形図に加筆
赤の破線は岩村電気軌道のルート
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上図と同じ範囲の1:50,000地形図(明治44年測図、2倍拡大)
岩村電気軌道が特種鉄道の記号で描かれている

では、その軌道はどこを通っていたのか。さっそく調べてみると、何のことはない、昼間に自転車を走らせた岩村川左岸の小道が、廃線跡だった(上図参照)。どうりでまっすぐ延びていたはずだ。翌日、もと十四銀行支店の建物にある観光案内所「まち並みふれあいの館」に立ち寄って、電気軌道に関する資料を見せてもらう。写真もまったく撮っていなかったので、改めて駅付近のルートを確かめに出かけた。

駅から北西に400m、小道が国道257号線を横断する地点に立つ。北側は、軽四輪が似合いそうなのどかな一車線道が続いている。それに対し、南側は同じ道幅ながら周囲に屋敷が並び、岩村川に突き当たったところで右へ曲がる。そのときは判らなかったのだが、旧版地形図によれば、現 岩村駅南西の、盛り土をした公園が電気軌道の終点跡と読める。

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電気軌道廃線跡
国道257号線横断地点の北側(大井方)は野中の一本道
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電気軌道廃線跡
(左)国道257号線横断地点から南側(岩村方)を望む
(右)岩村川に臨んでカーブした後、川を渡っていた

岩村駅の上りホームが駅舎から離れて、軌道終点の近くに配置されているのも、意味ありげだ。明知線が開通したとき、軌道はまだ現役だったから、相互に乗換の便が図られたとしても不思議はない。いたって静かなこの山里の駅が、一時期、新旧路線の旅客ターミナルとして賑わっていたなど、想像するだけでも興味深いことだ。

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ホームが千鳥状に配置された現 岩村駅
右の上りホームの斜め後ろが軌道駅跡らしい

さて、岩村での鉄路の縁の最後にもう一題、本通りに面した造り酒屋、岩村醸造を覗いたときの話をしよう。ソフトクリームはじめました、という看板に釣られて店内に入ったのだが、ふと見ると、床にレールが敷いてあるではないか。酒屋や醤油屋などで、重い原材料や製品の搬出入に手押しトロッコを使っていたとは聞いたことがある。いわゆる横丁鉄道だが、本物を見るのは初めてだ。

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杉玉が吊された岩村醸造の玄関口

もう利用されていないとはいえ、線路はしっかり残されている(下注)。店の人に「奥まで見学できますよ」と言われたので先を追うと、透き通った水の流れる中庭に出た。本通りに並行して走っている天正疎水という用水路で、屋敷を奥へ拡張したときに庭に取り込まれたのだ。酒の仕込みに使うのと同じ地下水で喉を潤してから、なおも奥へ向かうと、瓶詰めの作業場の横を急カーブですり抜けていく。そして、仕込み桶が並ぶ酒蔵に入ったところで途切れていた。

*注 岩村醸造のリーフレットによれば、長さは100m。

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(左)店先から奥へトロッコのレールが延びる (右)天正疎水をまたいで続く
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(左)作業場を急カーブですり抜ける (右)レールの先端は酒蔵の中

鉄道模型の世界には、屋外に線路を敷いて、人が乗れるような大型車両を走らせる庭園鉄道というジャンルがある。業務用とはいえ、屋敷の中を線路がくねくねと走るのは、それを超える意外性が感じられて愉快だ。堪能したので、何か土産を買って感謝の気持ちに代えたいと思ったが、日本酒をやらない私は、少し恐縮しながら甘酒入りのソフトクリームを注文するしかなかった。

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(左)トロッコは商品の陳列台に (右)甘酒入りソフトクリーム

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩村(平成19年更新)、5万分の1地形図岩村(明治44年測図)を使用したものである。

■参考サイト
明知鉄道 http://www.aketetsu.co.jp/
安岐郷誌 http://agimura.net/
城下町ホットいわむら http://hot-iwamura.com/
岩村醸造 http://torokko.shop-pro.jp/
 左メニューにあるグーグルのストリートビューで、トロッコのレールを追うことができる

2016年10月30日 (日)

開拓の村の馬車鉄道

少し前に、存続の危機に瀕しているマン島ダグラス Douglas の馬車軌道(馬車鉄道)のことを書いたことがある(下注)。調べていくうちに、同じように馬に牽かせる鉄道が日本にもあることを知った。その一つが、札幌近郊にある「北海道開拓の村」で、観光アトラクションとして運行されている。札幌在住の人にそのことを話すと「あの馬鉄はかなり前からありますよ」と不思議がられたのだが、訪れてみれば、周りに点在する保存建物とともに開拓時代の雰囲気が巧みに再現されていて、一見に値するものだった。今回は北の国を走るこの小さな馬車鉄道をレポートしたい。

*注 本ブログ「ダグラスの馬車軌道に未来はあるのか」、旅行記は「マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道

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ニセアカシアの並木道を馬車がやってくる

北海道開拓の村は、北海道百年を記念して1983年4月に、野幌森林公園の一角に造られた公開施設だ(下注)。公式サイトでは、「開拓の過程における生活と産業・経済・文化の歴史を示す建造物等を移設、復元して保存するとともに、開拓当時の情景を再現展示して、北海道の開拓の歴史を身近に学ぶことのできる野外博物館」と紹介している。いわば、博物館明治村、あるいは江戸東京たてもの園の北海道版だ。

*注 北海道開拓の村への公共交通機関は、JR千歳線・地下鉄東西線の新札幌(しんさっぽろ)駅前から、JR北海道バスの新22系統「開拓の村」行きを利用。このバスはJR函館本線の森林公園駅にも立ち寄る。バスの時刻表は、下記開拓の村の公式サイトにある。

■参考サイト
北海道開拓の村 http://www.kaitaku.or.jp/
北海道開拓の村付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/43.048200/141.497100

訪れたのは10月のよく晴れた土曜日だった。旧札幌停車場を縮小再現したという正面玄関の堂々とした建物を通り、右手のメインストリートを少し行くと、背の高いニセアカシアの並木に抱かれるようにして伸びる複線のか細い線路が見えてくる。これが馬車鉄道の走行線だ。線路の総延長は516.58m、軌間は762mm(2フィート6インチ、いわゆるニブロク)で、昔の札幌市内の馬車鉄道と同じにしてあるという(下注)。

*注 数値は、ウィキペディア日本語版「馬車鉄道」の項を参考にした。

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(左)正面玄関は旧札幌停車場のレプリカ (右)馬車鉄道の起点にある旧浦河支庁庁舎

使われている車両は、ダブルルーフ、オープンデッキつきの小型2軸客車だ。1981(昭和56)年日本車輌の製造銘板を付け、内部は6人掛けのロングシートが向い合せになっている。これを「道産馬(どさんこ)」と呼ばれる馬が牽く。正式には北海道和種馬といい、小柄ながら脚が丈夫で辛抱強いので、昔から農作業や荷物の運搬に重宝されてきた種だ。場内のパネルによると、本日の担当は、1991年生まれの「リキ」と1994年生まれの「アラシ」で、二頭とも毛並みの美しい白馬だった。案内の人の話では、彼らは外の飼育場で飼われていて、毎週開拓の村へ出勤してくるのだそうだ。

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(左)ダブルルーフにロングシートの客車内部 (右)牽き馬は道産馬(どさんこ)種

運行は、「旧浦河支庁庁舎前」と「旧ソーケシュオマベツ駅逓所前」の間で行われている。いずれも付近の保存建物の名にちなんでいるが、乗降設備などはなく、「馬車鉄道のりば」と書かれた小さな立て札が立っているだけだ。時刻表の上には、「ご乗車希望のお客様は、並んでお待ちください。定員約18名」と書き添えられていた。座席に12名とつり革6つで18名という計算だが、「約」としているのは、詰めてもらえばあと少しは乗れますよというニュアンスかもしれない。

試乗は後回しにして、午後の始発となる13時10分発を観察した。村内は広くて散策している姿も目立たないのだが、発車時刻が近づくと、待ち合わせ場所に自然と人が集まってくる。グループに子供連れ、ベビーカーを押してきたお母さんもいる。歩けばそれなりに距離があるので、場内唯一であるこの交通手段で移動するのは正解だ。ベビーカーは折り畳んでデッキの隅に置かれる。この回はほぼ満席になり、なかなかの人気であることがわかった。

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(左)客車が客待ち中 (右)乗り場の立て札

発車数分前に、旧開拓使札幌本庁舎(レプリカ)の裏から、ガラガラと引き棒を引きずりながら、白馬のリキが登場した。御者を務める人が後ろで手綱を握っていて、リキは客車の前でしばし待機する。客が全員車内に収まると、女性車掌が発車を宣言し、続いて御者に向かって「お願いしまーす」と呼ばわった。ここで初めて引き棒の金具が客車に掛けられる。御者が手綱を一振りするのを合図に、馬車は走り出した。初めは首を垂れ、足を踏ん張って重そうにしていたリキだが、車が転がり始めると軽快な足取りになり、カラカラと賑やかな鈴の音を残して見る見る遠ざかっていった。

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(左)おもむろにリキが登場 (右)客車の前でしばし待機
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(左)足を踏ん張り重そうにスタート (右)車が転がり始めると表情が緩む
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馬車は並木道を遠ざかる

次の発車までに、村内をざっと見て回ろうと思った。ところが、いざ行ってみると多くの建物で、人形やパネル展示、音声を駆使しながら、そこで営まれていた仕事や時代背景などがリアルに再現されている。靴を脱いで座敷や部屋に上がったり、説明役の人に話を聞いたりしていると、すぐに時間が経ってしまう。簡単に済ませようという目論見は、全くもって甘かった。

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保存建物と内部のようす
(左)紅葉を映す旧 来正(くるまさ)旅館
(右)旧 南一条巡査派出所ではお巡りさんが道案内
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旧 山本理髪店
(左)外観 (右)懐かしい小道具の前で髭剃りの実演中(もちろん人形です)
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漁村群
(左)豪壮な旧 青山家漁家住宅が中央に
(右)広い居間で囲炉裏の火を囲む(人は本物です)
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(左)旧 札幌農学校恵迪寮 (右)谷間の木漏れ日

市街地群と呼ばれるエリアでは、例の鈴の音がよく聞こえるので、そのつどメインストリートへ引き寄せられる。復元された古びた街並みと秋空を区切る並木道、その間を一心に進んでくる鉄道馬車は、ノスタルジックな絵画そのものだ。線路は並木道の間250mほどが複線で、その後は単線になる。そして池の手前で右カーブし、農村群の一角まで進んだところで「旅客線」は終わる。さらに道端の煉瓦の車庫まで、引込み線が続いていた。傍らを見ると、板囲いの中で、もう一頭の牽き馬アラシが秋の陽を浴びながら出番待ちをしている。

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馬車の走る姿はノスタルジックな絵画を見ているよう

終点からは馬車に乗って戻ることにしよう。乗車券は、車掌さんが手売りしている。まだ日が高いせいか、終点側から乗り込んだのは3人だけだった。もちろんここは一番前の席に陣取るべきだ。走り出すと、鈴の音と車輪の音に蹄のリズミカルな響きが合わさってけっこう騒がしい。それもあいまって、スピード感は見物していたとき以上だ。とりわけ唯一のカーブを曲がるときは、白い尻尾が左右に大きく揺れて迫力があった。並木道に入ると、道行く人がこちらに注目してくれる。ちょっとパレードの主人公になった気分で、初乗りを終えた。

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(左)終点の旧 駅逓所 (右)車庫の前で、折返しの出番を待つリキ
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馬車に乗る (左)カーブを回って複線の並木道へ (右)昔懐かしい風景を行く

この貴重な馬車鉄道は、4月~11月の間、9~16時台(12時台を除く)に運行されている。積雪のある冬季は、馬橇がこれに代わる。月~土曜は40分間隔で運行され、1両が終点まで行っては戻ってくる。日曜・祝日は30分毎で、両端から同時発車して2両が複線区間ですれ違う。このシーンを撮るために来る人もいるようだ。片道の所要時間は約5分で、料金は片道大人(15歳以上)250円、小人(3~14歳)100円だ(開拓の村の入場料が別途必要)。

*注 運行状況、料金は2016年10月現在。

ちなみに、村内の鉄道関係の復元施設としてはもう1か所、山村群の一角に森林鉄道の機関庫がある。内部に、1966年の廃止まで夕張岳森林鉄道で稼働していた小型ディーゼル機関車や貨車、トローリーなどが静態展示されている。本物の森に囲まれ、庫外までレールが引き出されていることもあって、こちらも写真の被写体としていい雰囲気を保っている。

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(左)森林鉄道機関庫 (右)本物の丸太が臨場感を呼ぶ

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡
 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道
 ダグラスの馬車軌道に未来はあるのか

2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

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鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

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夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

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1971~72年修正の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

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(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

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(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
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がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさんほか総勢8人。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

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夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

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廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

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夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。Oさん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書「続 北海道 鉄道跡を紀行する」(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、「北海道 地図を紀行する 道南・道央編」北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

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旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

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オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
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(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
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(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

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志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

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(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

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(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」とKさんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

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(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

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道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

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夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

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 開拓の村の馬車鉄道

2016年10月14日 (金)

コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス

長州、萩の町で朝を迎えた。あの蒸し暑い空気は雨と共に去り、10月らしい青空が広がっている。山から差す朝陽がことのほかまぶしい。萩には自然と歴史の見どころが多いので、到着した昨日は自転車を借りて越ヶ浜の笠山まで遠征し、ホットケーキのように扁平な島が点々と浮かぶ沖合の奇景を堪能した。今朝(10月10日)も早起きして、松蔭神社の境内ですがすがしい空気を浴びてきた。

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(左)笠山から沖合の扁平な島々(萩六島)を望む (右)雲間から光のシャワーが
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(左)静かな朝の川べり(松本川) (右)松蔭神社境内に遺された松下村塾の建物

これを前哨戦だとするとこの後は本番で、コンターサークルS 地図の旅2日目に参加する。舞台は、萩から30kmほど北東の須佐(すさ)周辺。山陰本線の名橋に数えられる「惣郷川(そうごうがわ)橋梁」と、海岸のホルンフェルスの露頭を回る予定だ。

JR山陰本線で須佐は、東萩(ひがしはぎ)から数えて6駅目になる。列車で向かうつもりで8時半に東萩駅(下注)の待合室へ行くと、すでに堀さんと、愛車で到着した相澤さんの姿があった。

*注 阿武川(あぶがわ)のデルタに立地する萩市街に対して、鉄道は外側を大回りしていて、代表駅は、萩駅ではなく東萩駅。

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(右)人影少ない東萩駅 (右)待合室で道順を打合せ

「橋は須佐より手前ですからね」というお言葉に甘えて、車で出発した。まず走る国道191号線は、日本海の海岸線をなぞっていく絶景ルートだ。昨日眺めた沖合の島々も、順光のもとでより鮮やかに見えた。宇田郷(うたごう)駅前で山へ分け入る国道から離れ、海辺の狭い旧道に入る。弁天崎の短いトンネル(尾無隧道)を抜けると、道がやや海側に膨らんで、お目当ての惣郷川橋梁が現れる。旧道は橋梁の南端でアンダークロスしているので、手前で車を停めた。

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惣郷川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆

ここは、東から流れてきた惣郷川が海に注ぐ場所だ。両岸に山が迫り、線路は長さ2215mの大刈(おおがり)隧道へ向けて、上り坂(11‰)の途中にある。そのため、橋は取付け位置を高くし、かつ半径600mの曲線上に設けられた。全長は189.14m、高さは11.6m(下注1)だ。強い潮風に晒され続ける過酷な環境のため、防錆が課題となるトラス橋ではなく、鉄筋コンクリート(RC)の柱と梁で組んだラーメン構造(下注2)が採用された。しかも鉄筋の被り厚を標準の2倍にし、塩害に強いシリカセメントを使用して、万全を期したという。

*注1 高さは、井筒天端からレール面までの最大値。出典:小野田滋「土木紀行-山陰本線・惣郷川橋梁 屹立するコンクリートラーメン」土木学会誌87-1, 2002年1月, p54-55。
*注2 ラーメン Rahmen はドイツ語で枠、骨組みを意味する。

橋は1932(昭和7)年に竣工した。橋や大刈隧道を含む須佐~宇田郷間8.8kmが翌年開通し、これをもって山陰海岸を走る鉄道が全通した。つまり、この区間は現 山陰本線に残された最後のミッシングリンクだったのだ。

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(左)緩やかなカーブが優美さを醸し出す (右)裾が開いた橋脚、中央部は工事中

「立派な橋ですね」「築80年には見えない」。足元に潮騒を聞きながら、相澤さんと私がひとしきり感心していると、そばで堀さんが解説してくれた。「橋脚の脚の裾が平行ではなく、開いているでしょう。あれで安定感が出ます。橋全体がカーブしているのも変化があっていい」「柱3本ごとに黒い縦の継ぎ目が見えますか。構造的に一体ではなく、分割してあるんです。当時の技術的な事情があるのかもしれません」。

写真を撮ろうとするのだが、中央部では工事の足場が組まれ、人が動いている。鉄筋コンクリートは、経年によるひび割れが避けられず、侵入した水や空気が中の鉄筋まで届くと、腐食して強度が落ちる。それを防ぐために、表面に樹脂コーティングが施されているから、その塗り直しか何かの作業だろう。

と突然、ゴーッという音とともに、日に数本しかない列車が頭上を通過していった。私たちが須佐まで乗る予定だった上り列車だ。時刻表をチェックしていたわけではないので、偶然のタイミングだった。「線路のそばにいると、不思議と列車が通るんです」と私。「天浜線の天竜川橋梁でも、河原へ出たら来ましたよね」そのときもお二人と一緒だった。「好かれてるんでしょうね」と相澤さんがまじめな顔で応じてくれた。

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惣郷川橋梁を渡る上りのキハ40形
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惣郷川橋梁、北側からの眺め

旧道は、惣郷の小さな集落を通り抜けて坂を上り、北側で再び線路に接近する。そこからもう一度橋を眺めた。朝なので光の加減はいいのだが、角度が浅いため、海側の橋脚はあまり見えなかった。「旧道をこのまま行ってくれますか」という堀さんのリクエストで、大刈垰を越える旧道を行く。大刈トンネル経由の国道は1977(昭和52)年に開通したので、果てしなく曲がりくねるこの道が幹線でなくなってから40年近く経過している。さっき車が1台私たちを追い越していったから、通り抜けはできるはずだ。

舗装は特段荒れておらず、路肩に黄色いガードレールも残っている。ただ、路面には枯葉や小枝が積もっていて、それを右に左に避けながらの運転になった。堀さんとしては、歩いてみたい道候補の一つだったようだが、あいにく木が生い茂って、眺望のきくところはほとんどなかった。峠の掘割を越えると、金井という2~3軒しかない集落で稲刈りをしている。その後はまた同じような羊腸の下り坂になった。

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(左)大刈垰サミットの長い堀割 (右)羊腸の大刈垰旧道

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須佐周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

続いて、二つ目の訪問地ホルンフェルスの露頭へ向かう。須佐駅を通過して海岸へ出る道へ折れ、4kmほど進んだところに、レストハウスと無料駐車場がある。海を見下ろすちょっとした海岸段丘の上だ。そこからさほど遠くない海辺に、それが見えた。道路の脇から小道が延びて、近くまで行けるようになっている。海沿いの棚田に沿って歩いていくと、道はだんだん細くなり、断崖の真上で終わった。堀さんの手を取って来たものの、「戻れなくなるからここで待っています」とおっしゃるので、相澤さんと二人で先へ進む。

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須佐のホルンフェルス露頭を遠望。右下が畳岩、奥の赤い崖がより典型的な例

濡れて滑りやすい波蝕棚の上を慎重に降りていくと、さっき遠望していた白黒ストライプの海蝕崖が目の前に現れた。地元では畳岩と呼ばれ、北へ向かって傾斜している。周辺の崖にも同じような横縞(=互層)があるのに、この一角だけコントラストが明瞭なため、特に目を引く。白く見える層は砂岩、黒っぽいのは頁岩だという。

垂直約12mの畳岩は思ったほど大きくはない。「でも、この広い岩場も上の層が剥がれたものですね」と私が言うと、相澤さんも「ずっと広がっていたのが、波で削られていったんでしょう」。間隔を置いてやってくる大波は、岩に激しくぶつかって砕け散る。縦にも節理が入っているため、裂け目が広がり、やがて剥離していくのだろう。

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縞模様が目を引く「畳岩」

ホルンフェルス Hornfels というのは、高熱による変成岩のことだ。ドイツ語で角岩(つのいわ)を意味し、動物の角を思わせる硬さと模様からそう呼ばれる(下注)。レストハウスのパネルで、当地のホルンフェルスの成因が説明されていた。すなわち、約2500万年前から1500万年前の間に、砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積した。約1400万年前にこれを突き破って高温の火成岩体が噴出し、そのときの高圧と高熱で周囲の須佐層群の性質が変わった(=熱変性)。互層を形成する岩石もその作用を受けているのだが、もっと典型的なものはその後ろにある赤い色の崖なのだそうだ。

*注 名称の由来は、ウィキペディア英語版による。

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(左)熱変成を受けた砂岩と頁岩の互層 (右)縦の大きな裂け目も見つかる

レストハウスへ戻って休憩する間、相澤さんが持参の焼き栗を割ってくれた。秋の味覚が口の中に広がる。店の人から、行列のできるイカ尽くしの食堂が駅前にあると聞いて、また車を走らせた。「梅の葉」という小さな店で、12時前に入ったのにすでに40分待ちだった。名物の活イカづくりはすでに品切れていたので、イカ天丼に舌鼓を打つ。粗食も辞さないコンターサークルの旅では珍しいことだ。車で帰る相澤さんに見送られて、堀さんと私は、須佐駅から14時発の下り列車に乗った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図須佐、宇田(いずれも平成13年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
一般社団法人中国建設弘済会-アーカイブス(土木遺産一覧)
http://www.ccba.or.jp/archives/heritage.htm

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 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年7月 3日 (日)

新線試乗記-北海道新幹線で函館へ

「この列車は13時31分発、北海道新幹線新函館北斗(しんはこだてほくと)行きです。」東京から乗り通してきた「はやぶさ13号」の車内にアナウンスが流れた。何気なく聞いてはいても、北海道新幹線ということばの響きが新鮮で、耳に残る。

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(左)東京駅に新函館北斗行き「はやぶさ13号」が入線
(右)開業を知らせるJR東日本のパンフレット

今、列車は新青森駅に停車している。京都駅を出たのは朝7時半で、東京で30分弱の乗継ぎ時間をとったとはいえ、すでにお昼を回った。新函館北斗まではトータルで7時間かかる計算だ。ずっと座りづめで、そろそろお尻が痛くなってきたが、日本海側を走る特急「白鳥」や寝台の「日本海」で1日がかりの長旅をしていたころに比べれば、贅沢な悩みかもしれない。

北海道新幹線の新青森~新函館北斗間148.8kmは、2016年3月26日に開業した。上下各13本の列車が設定され、両駅間は最短61分になった。運用車両は、東北新幹線で使われてきたE5系とJR北海道所有のH5系だ。どちらも基本的に同じ仕様で、明るい緑と白のツートンをまとっているが、側面の帯はE5系のピンクに対して、H5系はご当地色のラベンダーを巻く。

新青森を発車した後も、アナウンスは続いた。「これから青函トンネルを通り、チューリップの春を迎えた北海道へと参ります」。乗車したのは5月20日、春到来の北の大地を想像して心が弾む。6年前に東北新幹線が新青森まで延びた時、駅の北方にある車両基地へ去っていくはやぶさを見送りながら、新幹線が見る夢はまだ当分続くと思った。その夢に現実が追いついたのだ。線路が右手に分かれていき、その車両基地が車窓をよぎった。

*注 東北新幹線の新青森延伸については、本ブログ「新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学」参照

線路は、津軽半島の東岸を北上する。右手には水が張られた田んぼが続き、その向こうにJR津軽線と沿岸集落、それから青い陸奥湾を隔てて夏泊半島の山々がくっきりと見えている。それはまるで新旧交通路の交代劇をなぞるようだ。集落の手前の線路には、ほんの2か月前まで函館をめざす特急列車の姿があったし、30年前にはあの海を国鉄の青函連絡船が行き交っていたから。

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新青森から津軽半島東岸を北上する
陸奥湾の向こうに夏泊半島、その左後方は下北半島のシルエット

しかしこの眺めも長くは続かない。海峡に達するまでに両手に余る数のトンネルが控えている。闇と明かりをいくつか過ぎたところで、電車は減速し始めた。狭軌との合流地点にさしかかったらしい。

青函トンネルを含む「海峡線」区間は、1988年の完成時から在来線として旅客・貨物の輸送に使われ続けてきた。特に貨物は大動脈で、北海道の産業にとって生命線になっている。新幹線の開通によって旅客輸送は完全に移行するが、貨物列車は依然在来線から乗入れてくる。高速ですれ違った場合、風圧がコンテナ貨物に与える影響が懸念されて、新幹線列車は時速140kmまで速度を落として走ることになったのだ。

在来線の線路が高架に上がってきて、シェルターの中で合流した。あっという間だった。新幹線は標準軌(1435mm)、在来線は狭軌(1067mm)と軌間が異なるので、この区間はレールが3本並ぶ3線軌条に改築されている。素人目には珍しい光景程度の感覚だが、その開発と保守作業の舞台裏は想像以上に大変らしい。

JR北海道のサイトによれば、3線軌条に対応するため、1台19億円のレール削正車をはじめ特別仕様の作業車を揃えた。また、地上設備は12か所の3線分岐器(ポイント)のほか、限界支障報知、レール破断検知、饋電区分制御など特殊な装置を開発して設置した。日常作業でも、線路の点検個所が1.5倍に増える上に、貨物列車が深夜早朝に走行するため、実質2時間弱しか確保できない。また、レールが近接する側は作業がしにくく、冬はこの部分に氷塊がはさまって分岐器の不転換(ポイントが切り替わらない)が起こらないよう警戒する必要があるのだそうだ。

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(左)狭軌の在来線が合流 (右)3線軌条で青函トンネルへ

はやぶさ13号は、中間にある2駅にも停車する。一つは本州側の奥津軽いまべつ、在来線時代の津軽今別駅だが、全面屋根のかかった立派なホームに変身していた。知らぬ間に発車する。

しばらくしてまたアナウンスがあった。「これから青函トンネルに入ります。右側に赤い鳥居と展望台が見えましたら、次が青函トンネルです」。新幹線にはビジネスライクな印象を抱いていたが、「スーパー白鳥」と同じような観光案内が続いているのは嬉しい。とはいえ、トンネルに突入しても、「入りました」のアナウンスと、トンネルを紹介する電光掲示が流れるのみで、窓が一斉に曇ったりはしない。昼間だからか貨物列車のすれ違いもなく、53.85kmの闇を走り抜ける25分間はひたすら静かに過ぎていく。

10年以上も前、ここの竜飛海底(たっぴかいてい)駅で降りたことを思い出した。あのときは斜坑に設置されたケーブルカーで龍飛崎まで上がり、津軽海峡を眺めながら、北端まで来た感慨にふけったものだ。残念なことに新幹線の工事開始に伴って、駅は閉鎖されてしまった(下注)。

*注 現在も龍飛崎の青函トンネル記念館やケーブルカー(斜坑線)は利用可能だが、地上からしか行けない。

次に地上に顔を出すのは、知内町湯ノ里付近で、左の車窓に、瑞々しい春の山々と初めての北海道の集落が見える。二つ目の中間駅が木古内(きこない)だ。ここは後刻、在来線の列車で訪れた。新幹線開業と同時にJRから切り離され、道南いさりび鉄道という第3セクターの運営になったが、キハ40が担う通勤通学の風景は変わらない。

山側の新幹線駅舎が威容を見せつけているが、本来の正面である海側に立ついさりび鉄道の駅舎も建て直されている。内装には木材を多用して、昔の学校の廊下を思わせるところがおもしろい。正面入口から新幹線に乗ろうとすると、いったん在来線をまたいで降りて、地表にある新幹線の改札を入り、再び3階相当のホームへ上ることになる。もちろん地元の人は、ダイレクトに山側の駅舎へ回るだろうが。

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木古内駅 (左)新幹線ホームの駅名標 (右)在来線側の駅舎も新築

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木古内駅 (左)在来線側の改札入口 (右)在来線は道南いさりび鉄道に転換された

木古内を出てから2km半ほど、新幹線は海岸沿いに走る。しかし、防音壁に阻まれて、海はほとんど見えない。新幹線は建設の時代が下がるほど平地の用地取得が難しくなってトンネルが増え、さらに最近の新幹線は防音対策が厳重で、少しでも家並みがあるとたちまち高い壁でブラックアウトにされてしまう。

終点まであと13分。トンネルをいくつか抜けると、南向きに広がった函館平野に出る。アナウンスが「函館山がご覧になれます」と告げるのだが、実際は例の防音壁によって、細切れの眺めしか得られない。在来線のときは、湾を隔てて島かと見まごう函館山がどんどん大きくなり、終点の近いことを教えてくれた。あの感動を味わうことは難しい。

100名定員の広い車内に、もう数組しか乗っていない。前にいた中年グループの一人が、軽く伸びをしながら「は~るばるきたぜ函館へ」と口ずさんだ。東京から4時間乗ってきたのだとしたら、歌い出したくなる気持ちもわかる。まもなく車体が左に傾き始め、右手に横津岳の西麓が近づいてくる。車両基地の建物群が横に並び、はやぶさ13号は新函館北斗駅の真新しいホームに滑り込んだ。

■参考サイト
新函館北斗駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/41.904700/140.648600

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新函館北斗駅
(左)E5系が並ぶ (右)右側に線路増設スペースがある。上階コンコースはガラス張り

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新函館北斗駅 (左)駅舎と駅前広場 (右)2階改札内、在来線は右へ

この駅は、もと渡島大野(おしまおおの)という無人駅で、函館駅から17.9kmの距離にある。札幌に直通する新幹線として、在来線のようにスイッチバックするわけにはいかないとしても、立地はかなり遠い。用地買収や線形の制約があったのだろうが、せめて七飯駅に接続しておけば、下り優等列車が使っていた藤代線も活用できたのにと思う。

それで函館との連絡は、733系電車による「はこだてライナー」が担うことになった。首都圏から訪れる旅行者にも違和感のない新型車両なので、受け入れ態勢としては万全だ。3両編成で、おおむね下りの新幹線と10分程度の接続時間で発車する。走りもいたって軽快で、五稜郭までノンストップの便なら最速15分で函館に着く。

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733系はこだてライナー (左)新函館北斗駅で発車を待つ (右)車内広告も開業を祝う

ただ、10分接続は結構忙しい。乗り遅れると、次の列車は森方面から来る単行気動車ということがままある。筆者がホームにいたときも、「エーッ、1両!」とスーツケースを引いた旅人風の夫妻が呆れて声を上げた。冷房はないし、走りものろいのに加えて、時間帯によっては結構混むので、旅の第一印象を損ねないかちょっと心配だ。

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森方面から来た単行気動車。乗降口にステップがあり、大荷物の人には辛い

そのキハ40に揺られて函館駅に到着した。いうまでもなく函館市の主たる玄関口だが、新幹線開通で本州方面を結んでいた特急がいっさい消えてしまった。交通の結節機能を、新幹線駅に半分譲り渡した格好だ。札幌方面の特急「北斗」が従来どおり発着しているとはいえ、改築された立派な駅舎と長距離列車用の長いプラットホームが、心なしか手持無沙汰に見えた。

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函館駅到着 (左)0キロポストのオブジェ (右)駅舎正面

さて、北海道新幹線に乗ってみて、印象はどうだったか。憧れの北海道に上陸したというのに、車窓から海峡も函館山も大して見えず、在来線のような楽しみは得られなかった。記念の初乗りはともかく、乗ること自体が旅の目的にはなりそうにない。

移動ツールとしての利用はどうか。新函館北斗までなら、到達時間は1時間早くなった。東京から列車が海を越えて直通するという心理的効果も無視できない。団体旅行だと新駅の前から観光バスを出して、そのまま目的地に向かえる。レンタカーもしかり。信号の多い市内の道を走らなくていいから好都合だ。一方、筆者のように函館市内へ行く個人客は、どのみち在来線に乗換えなくてはならない。ライバルとなる空港は市街に近く、羽田へ1時間20分で飛んでいく。駅が空港より立地が悪いようでは、闘う前からすでに競争力に疑問符がついてしまう。

目下JR北海道は、JR東日本とも連携しながら、イベントを打ったり割安な乗車券を売り出すなど、観光需要の喚起に懸命だ。新幹線はこの後札幌まで延伸される予定だが、開通は2031年と、15年も先の話になる。道央に出れば何らかの展開が期待できるとしても、それまであの厄介な線路施設を延々と維持していかなくてはならないのだ。悲願の新幹線とは知りながらも、一筋縄ではいかない重い荷物を預かったものだと思わざるを得ない。

■参考サイト
JR北海道-北海道新幹線特設サイト http://hokkaido-shinkansen.com/
JR北海道-青函トンネル http://www.jrhokkaido.co.jp/seikan/

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 新線試乗記-札幌市電ループ化

 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群
  1日1往復になった札沼線新十津川駅のレポートを含む

2016年6月25日 (土)

新線試乗記-札幌市電ループ化

札幌市電のミッシングリンクが埋められる日が、ついにやって来た。2015年12月20日、駅前通に敷設された真新しい線路に、営業運転の電車が走り始めたのだ。路面軌道の新設は、駅前延伸のケースを別にすると、2009年の富山市内環状線以来(下注1)とあって、これに乗らないわけにはいかない。コンターサークルS(下注2)の席でそのことを話したら、堀淳一さんが「札幌に住んでいても乗る機会がないから、一緒に行きましょう」と、案内してくださることになった。以下は、今年(2016年)5月に堀さんと敢行した試乗の記録だ。

*注1 富山市内の環状線については「新線試乗記-富山地方鉄道環状線」参照。
*注2 コンターサークルSについては「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」参照。

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西4丁目電停から駅前通に出てきた電車

札幌市電は1960年代が最盛期で、総延長が25kmあった。しかし1972年の冬季オリンピック開催に向けて地下鉄の整備が始まると、それと引換えに次々と廃止されていき、1974年には現在の8.5kmまで縮小してしまった。最後に残された路線(成り立ちから言うと3路線の部分接合)は、上辺が右に突き出た縦長の矩形をしているのだが、地下鉄南北線と並行するために廃止となった西4丁目~すすきの間だけが途切れている。そのわずか400mの失われた環が今回接続されて、めでたく環状線として再生されたのだ。

■参考サイト
西4丁目電停付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/43.058900/141.352100

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路線図。右上の西4丁目~すすきの間が新設区間
札幌市交通局リーフレット「路面電車のループ化で変わること」より

三越前でタクシーを降りて、さっそく西4丁目の電停(正式には停留場)へ向かった。以前、この電停は1本の線路を2本のホームがはさみ、電車は折返し運転されていたと思うが、今は外回り(下注)専用だ。ホームが拡幅され、白塗りのしっかりした屋根と横壁も設置されている。

*注 路面電車はクルマと同じく左側通行なので、駅前通を南下するほうが外回り。

一方、内回り線の乗場はこの南1条通ではなく、直交する駅前通の4プラ(4丁目プラザ)前に移された。駅前通では、軌道が道路の中央でなく、サイドリザベーションと言って両側の歩道に寄せて敷かれている。それで、電停も歩道に直結だ。乗降に際して信号待ちや車道の横断が不要になり、便利で安全性も高まった。道路脇だと冬は雪がたまるので、軌道上や路肩にはロードヒーティングも入っているらしい。

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西4丁目電停
(左)外回りホームは元の位置で全面改修 (右)内回りホームは駅前通の4プラ前に移設

電停にやってきたのは、広告を巻いた旧型電車だった。札幌にもポラリスと名付けた新しい低床連接車(A1200形)が導入されているが、まだ3編成で断然少数派だ。「低床車が入るといっても、1年に1編成ですから」と堀さん。時刻表によると、1時間に片道1本程度しか走っておらず、平日日中に巡りあえる確率は1/7に過ぎない。旧型車は乗降ステップの段差が大きく、踏面も狭いので、お年寄りには大変だ。手間取るばかりか、降り口では転倒の危険もぬぐえない。新型車は最終的に11編成まで増備されるそうだが、行政が事業の採算性を気にかけるあまり、不便の解消がなかなか進まないのは問題だ。

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低床連接車ポラリス

扉が閉まり、出発の準備が整った。しかし、路面電車用の黄色の右折信号が表示されず、交差点に出るのにだいぶ待たされた。ぐいっと大回りして、南行車線の最も左側につける。新設区間では、片側3車線のうち左端の1車線が軌道敷に転用され、クルマは通行禁止の措置が取られた。荷捌き停車やタクシーの客扱いもできなくなり、その機能は東西の通りに移されている。

それで電車の進路に支障物は見当らない。大きく成長した街路樹の葉陰を滑らかに走り始めたが、すぐに狸小路(たぬきこうじ)の停留場が見えてくる。札幌を代表するアーケード街の前なので、乗降が少なからずあった。ここでも信号に引っかかる。「信号が多いですね」と言うと堀さんが、「一つ一つの通りが広いので、そのたびに信号で停められるんです」。それに歩車分離式のため、信号1個の待ち時間自体も長いのだ。

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駅前通を北上する内回りの車内から

外回りは駅前通の出入りが右折になるので、とりわけこの区間の通過に時間がかかる。後日、西4丁目電停のそばで、信号の切替えパターンを観察してみた。外回りの乗降が完了した段階で、南1条通(電車が待機している東西の通り)の信号が青だったとする。進む順番として次は電車だと思いたいが、残念ながら、先に駅前通(南北の通り)が青になる。それから車道が全赤に変わるとともに、歩行者信号が全青(スクランブル)になる。

もうこれで発車するだろう、と誰しも思うが、そうではないのだ。また南1条通の青、駅前通の青、歩行者の青と、ひととおり繰り返され、その後ついに電車の黄色矢印が出る。結局この車両は、交差点前にスタンバイしてから、優に6分は待たされていた。これは極端な例かもしれないが、少なくとも狸小路が目的地の人は、西4で降りて歩いたほうが早く着くに違いない。優先信号を再考できないものかと思ったことだ。

南東角に立つニッカウヰスキーのローリー卿に見守られながら、電車はすすきの交差点で右折して、月寒通へと進む。すすきの電停は、従来どおり道路の中央に両方向のホームがあるが、環状化に伴い2線に拡張された(下注)。また、西側の折返し用中線にも別の乗場が設けてあり、後日見たら、貸切電車専用停留場の札が掛けてあった。ポラリスの貸切もできるらしい。

*注 従来は、西4丁目と同じ折返し2面1線の構造だった。

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(左)すすきの交差点を曲がる (右)すすきの電停はもとの位置で2面2線に改修

新設区間はここまでだ。「降りて写真を撮りますか」と聞かれたので、「せっかくですからまず全線に乗りましょう」と、既設区間に踏み込んだ。広い月寒通はすぐに左折して、西7丁目通を南下する。「この辺に住んでいた頃は、これに乗って大学へ通ってました」と堀さんは目を細める。市電沿線には母校もあって、若い頃の思い出がたくさん詰まっているのだろう(下注)。車窓からはほとんど見えないが、中島公園や創生川もすぐ近所だ。

*注 「地図の中の札幌-街の歴史を読み解く」(亜璃西社、2012)の224ページ以下に、堀さんの札幌市電の思い出が綴られている。

幌南小学校前電停を過ぎると、軌道は右へ曲がる。そして藻岩山を左前方に眺めながらしばらく進み、また右折すると電車事業所前電停だ。「ここから車庫にいる電車が見えますよ」と教えていただいた。この後は、福住桑園通を北上する。「西側は住宅街ですから、単調な駅名が多いんです」。学校名や直交する通り名が付された東側に比べて、西側は、西線何条というナンバー電停が続く。かつてこちらは別の系統で、お古の電車が回されていたそうだ。

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(左)既存区間の南西端、電車事業所前電停 (右)車庫に集う車両群

師範学校付属小の跡地を突っ切る西15丁目の斜めの道を経て、南1条通に帰ってきた。商業施設が増えてきたように思ったら、もう振出しの西4丁目電停に着くところだった。ループツアーを無事終えて、再び駅前通を南へ去っていく電車を見送った。堀さんが「新しいルートはどうでしたか」と尋ねる。「全然違和感がなくて、昔からあったように見えます」と答えると、堀さんは笑いながらも、「ここまで来るのが大変だったんですよ」としみじみと言った。

札幌市の資料によると、今回のループ化は、中心市街地の活性化に寄与する公共交通政策の一つのステップで、今後も札幌駅方面や創生川以東、桑園地域などへ軌道の延伸を検討していくのだそうだ。欧米の都市では一般的な施策だが、日本ではクルマ中心の固定観念や財源捻出のハードルが高くて、なかなか実現しない。札幌のメインストリートに進出した路面電車がショーウィンドーの役割を果たし、人々の気づきを喚起してくれるといいのだが。

■参考サイト
札幌市交通局 https://www.city.sapporo.jp/st/

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 新線試乗記-仙台地下鉄東西線

2016年6月19日 (日)

新線試乗記-仙台地下鉄東西線

緑に囲まれた国際センター駅の建物は、ガラス張りのフリースペースが広く取られ、開放感にあふれている。2階東側のテラスに出ると、ご丁寧にもお立ち台まで用意してあった。聞いていたとおり、ここからは広瀬川をまたぐ東西線が遮るものなく俯瞰できる。しばらくすると、対岸の木立の陰から側面にライトブルーの帯を通した2000系電車が現れた。真新しい橋梁の上をほとんど音もなく近づいてくる。そして前面を飾る三日月のラインを一瞬光らせた後、滑るように足もとの駅構内へ消えていった。

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広瀬川橋梁を渡ってくる2000系電車(国際センター駅2階テラスから)

仙台市営地下鉄東西線は、八木山動物公園~荒井間の13.9kmで、2015年12月6日に開業した。名前が示すように、仙台市内を東西に貫く路線だ。訪れたのは今年(2016年)6月、開業時のフィーバーはとうに治まって、ふだんどおりの日曜の午後だった。券売機で地下鉄の一日乗車券を買ったら、土・日・祝日は620円の特別価格になっている。これだけで何度も乗り降りするのはなんだか恐縮だ。起点は西側の八木山動物公園駅だが、今回は東側の荒井駅から、途中下車もしながら、八木山動物公園のほうへ向かうことにしよう。

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(左)開業を知らせるパンフレット (右)路線図、ライトブルーが東西線

荒井駅の周りはまだ開発中だ。駅正面(南側)にはバスターミナルがあり、住宅やマンションも建つが、北側には農地が広がっている。地図で見ると仙台東部道路がすぐ東を走っていて、市街地の東端にいることがわかる。ホームは地下にあり、線路はその後地上に出て、車両基地に続いている。駅舎は新幹線の駅さえ思わせる立派な2階建てだ。大震災とその復興の記録を展示した3.11メモリアル交流館が開いていたので、しばらく見学させてもらった。

スタジオ風のしゃれた天井のコンコースを降りて、上り電車に乗る。土休日の日中も南北線と同じ7分30秒間隔の設定で、15分もあれば中心部に着けるのだから便利だ。しかし4両編成の電車に、客は数えるほどしか乗っていない。

■参考サイト
荒井駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.244900/140.948400

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荒井駅 (左)駅舎 (右)1階コンコース
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荒井駅 (左)駅の周りは開発途中。左奥に車両基地がある
(右)せんだい3.11メモリアル交流館の展示室

2000系車両は全長16.5m(中間車)、全幅2.5m、都営大江戸線などとほぼ同じ小断面、リニアモーター方式の車両だ。南北線を走る1000系は全長20m(同)、全幅2.9mあり、そちらから乗換えると確かに狭く感じる。ところが、おもしろいことに床下の線路幅は東西線の方が広い。南北線の軌間がJRと同じ1067mmであるのに対して、東西線は標準軌の1435mmを使っている。

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2000系電車
(左)側面はホームドアに隠れない位置にアクセントを施す (右)車内はやや狭い

3つ目の薬師堂駅で降りてみた。駅名に合せたのか、地上出入口が和風のデザインだ。ここも屋根付きのバス乗り場が接していて、公共交通の接続改善が図られている。東北貨物線をくぐったところにある陸奥国分寺跡の薬師堂を見ようと思ったのだが、広い境内にひと気はなく、物寂しい雰囲気だった。

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薬師堂駅の和風出入り口とバス乗り場
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(左)薬師堂仁王門 (右)ひと気のない薬師堂境内

次の連坊(れんぼう)駅は寺町らしい地名で、仙台一高前でもある。ライバル校の仙台二高は国際センター駅から歩いて数分だから、図らずも東西線で簡単に往来できるようになったわけだ。エスカレーターがやたらと長いのは、一部で民地の下を通ることもあって、線路の位置が深いのだろう。

ルート図を見ると、ここから青葉通一番町までは直角カーブを繰り返し、まるであみだ籤をたどるようだ。中に半径105mという最急曲線も何か所か含まれている。宮城野通りの下を貫くJR仙石線との競合を避けたのかもしれないが、せめて新寺通りを直進すれば、楽天スタジアムへの足にもなったのにと残念に思う市民もいることだろう。とはいえ、線形が悪い割には、乗り心地がいい。急カーブにありがちな車輪がレールと摺れる不快音がほとんど聞こえてこない(下注)。

*注 異音が少ないのは、急曲線対策として国内のリニア地下鉄初となるボギー角連動リンク式操舵台車を用いているからだという。(「仙台市営地下鉄東西線が開業」鉄道ジャーナル2016年4月号p.128)

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連坊駅 (左)一高前のエレベーター出入口 (右)駅名の由来を記す特設案内板

仙台駅で車内の客が一斉に入れ替わった。やはりJRと地下鉄とバスが集中する公共交通の一大結節点だ。静かな時が流れていたこれまでの駅構内とうってかわり、コンコースを歩く人の流れも速くて激しい。急に都会に放り出されたような気がして、ちょっと面食らう。

ここでは、地下化されたJR仙石線の下を地下鉄南北線がくぐり、その南北線の下を東西線が交差している。東西線の線路の深さは推して知るべしだ。JR仙台駅から来ると地下鉄の東改札を入ることになるが、手前に東西線のホームへ降りる長いエスカレーターがあった。南北線のエスカレーターはその奥になる。慣れれば何でもない話だが、南北線に乗ろうとしてうっかり東西線に行ってしまいそうだ。

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地下鉄仙台駅東改札
正面が東西線ホームへ降りるエスカレーター、南北線は奥へ進む

東西線が地上に顔を出す大町西公園~国際センター間は、駅を出て歩いてみた。桜の名所でもある西公園は、整備工事で閉鎖中だった。ならばと広瀬川を渡る大橋の上に立ち止まり、北側に見えるスマートな鉄道橋を渡ってくる2000系を待つ。運転間隔が短いから、チャンスはすぐにやってくる。

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地下鉄広瀬川橋梁を大橋から望む

大橋の西のたもとから国際センター駅へは、川沿いに桜の小径(こみち)という名の気持ちのいい散歩道が延びている。鉄道に乗りに来ていることをつい忘れてしまいそうだ。冒頭でこの駅の2階にあるお立ち台のことを書いたが、線路の直上にあるため、架線を支える太いビームがいささか目障りだった。視点は少し下がるものの、むしろこの小径からの方が車両をきれいに捉えることができる。

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国際センター駅 (左)ガラス張りの駅舎 (右)改札の中にも緑が見える
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桜の小径から見た広瀬川橋梁

次の川内(かわうち)と青葉山は、東北大学のために造ったような駅だ。これまで仙台駅からバスで優に20分はかかった山の上のキャンパスまで、電車は10分足らずで駆け上がってしまう。そのために、この間には57‰(水平距離1000mで57m上がる)という急勾配があるのだが、乗っていてもモーターの唸りが特別高まることもなく、坂の気配はほとんど感じなかった。

青葉山駅のホームもかなり深くて、キャンパスのど真ん中にある地上出入り口までエスカレーターを何度も乗り継がなければならない。昼夜を問わず学生の姿がある理系学部の敷地とはいえ、さすがに日曜日は閑散としている。ホームまで降りるのに階段の段数を数えたら、205段あった。親切にも途中に休憩用のベンチが用意されている。

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青葉山駅 (左)土壁を模した階段の壁面 (右)地上出入り口はキャンパスの中に

上り電車は終点に着く直前に、竜の口渓谷をまたぐ。青葉山と八木山を分けている深い谷だ。本来ならここに架かる竜の口橋梁は沿線随一の眺めになるはずだが、残念ながら期待に応えてはくれない。その理由は、橋がダブルデッキトラスと言って、線路の上に道路が被さる二重構造のトラス橋だからだ。さらに、現場は森に阻まれて外からの眺望が利かず、接続道路も開通の見通しが立っていない。車窓からは谷の斜面のうっそうとした森が垣間見えるが、それだけだ。トラスが視界をよぎり、あっという間にまた闇に閉ざされる。

到着した八木山動物公園駅では、ホームのエレベーター乗場に、さっそくお目当ての表示を見つけた。「136.4m(軌条面)、日本一標高の高い地下鉄駅」と、動物公園の最寄駅らしくキリンやライオンやペンギンたちのイラストとともに記されている。改札階の床にも動物の足跡が描かれ、雰囲気を盛り上げる。

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八木山動物公園駅 (左)ホームにある「標高日本一」のイラスト (右)コンコース

地上1階はバスターミナルだが、特にバスに用事のない人は、エレベーターで一気に5階まで上がることをお奨めしたい。そこは大規模な駐車場の屋上で、動物公園の西口に平面で接続している。反対側は展望テラスになっていて、八木山の斜面全体に広がる住宅街とかなたの仙台平野が一望になる。透明フェンスにホームと同じイラストがあった。ホームで見たときはまるで実感が伴わなかったが、ここに立って初めて「日本一」の意味するところが腑に落ちた。

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屋上テラスは仙台平野を見晴らす展望台

■参考サイト
仙台市交通局-地下鉄 http://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/
八木山動物公園駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.243000/140.843400

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2016年6月 5日 (日)

コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産

5月5日は舞台を静岡県西部に移し、今は浜松市に含まれる天竜の交通土木遺産を訪ねる。風は終日強かったが、今日も好天に恵まれた。集合場所が西鹿島(にしかじま)駅だったので、私は東海道線の新所原(しんじょはら)駅から、天竜浜名湖鉄道(以下、天浜(てんはま)線)の単行気動車に乗って出かけた。この路線は、浜名湖の北側を回っていく。朝の光をきらきら撥ね返す湖面といい、線路際の木々がつくる濃緑のトンネルといい、車窓に展開する瑞々しい光景に心が洗われる。

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天浜線の気動車、二俣本町にて
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天浜線の車窓 (左)三ヶ日駅付近の湖面(猪鼻湖) (右)都築駅に停車

西鹿島は、この天浜線と、新浜松から来る遠州鉄道(遠鉄)の連絡駅だ。堀さん、今尾さん、石井さん、相澤さん、外山さんがすでに到着して、道順を打合せている最中だった。後で木下さん親子も合流したので、私を含めて総勢8人。本日も堀さんの私的小旅行の位置づけなのだが、コンターサークルSの公式行事となんら変わらない賑やかな旅になった。

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本日の集合場所、西鹿島駅

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1:200,000地勢図浜松(1981(昭和56)年編集)の一部に加筆
市町村名等は現在とは異なる

もともと堀さんが行くおつもりだったのは、都田川を渡る枕瀬橋(まくらせばし)だ。渓谷の中に素朴な木組みの橋が架かっているという。3台のクルマに分乗して、まずはそちらに向かった。

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枕瀬橋周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

西鹿島駅からは西へ10kmもない。車内で世間話をしているうちに、早や橋の入口、大平(おいだいら)地区まで来てしまった。この辺は河岸段丘上に人家と耕地が点在し、川は比高約30mの谷底を流れている。柿畑の脇に車を停めさせてもらい、クルマ1台がやっと通れる細い道を川の方へ降りていった。まもなく雑木が頭上にかぶさってきて、道はヘアピンカーブで向きを北に変える。段丘崖を刻んだ急な下り坂だ。木漏れ日が路面でちらちらと踊り、すでに水音が木立を通して耳に届いている。100mほど進んだところにその橋があった。

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枕瀬橋、西側から撮影

長さは40mほどだろうか。川面からコンクリートの橋脚がすっくと立ち、そのうえに木組みの桁が架かっている。見るからに安定感があるのは、おそらく各橋脚から斜めに延びて、桁をしっかり支えている頬杖(ほおづえ)材のせいだ。それが3つ並んで、緑の谷間に心地よいリズムを刻んでいる。

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(左)枕瀬橋側面 (右)橋桁を支える頬杖材

「床板に比べて欄干がやけに新しいですね」と私が言うと、堀さんも「写真ではこんな欄干はなかったと思いますが」。どうやらこれは最近の改修らしい。以前は流れ橋のように、足を踏み外さない程度のごく低い欄干だけだった。「ここは小学生のマラソンコースになっているらしいです」と石井さん。危険防止の目的としても、橋が醸し出していたはずの風情は半ば損なわれてしまった気がする。

吹き越す強風に帽子を飛ばされそうになりながら向こう岸に渡ると、橋のたもとに銘板が取付けてあった。意外にも建造は1986(昭和61)年3月と新しい。古い地形図にも描かれているから、もちろん架け直されたのだろう。「昔からあったとすると、こういう木組みの技術者はどこから来たんでしょうか」。今尾さんが答える。「森林鉄道の橋梁にもこういう構造があります。ここから木曽にかけては林鉄の宝庫ですからね」。

谷間から段丘上の人家は全く見えない。都田川の豊かな流れとうっそうと茂る斜面林に囲まれて、深山の気配さえ漂う不思議な場所だった。

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(左)橋上から北望、うっそうと茂る斜面林 (右)同 南望
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橋のたもとで記念写真(左写真は外山さん撮影)

昼食を新東名の浜松SAでとり、午後は天竜区(旧 天竜市)へ移動して、付近の交通土木遺産をいくつか巡ることにした。

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二俣周辺の1:25,000地形図(2015(平成27)年3月調製)に、訪れた地点を加筆
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上記地形図を2倍拡大
左円内:鳥羽山を穿った4本のトンネル(左から国道、歩道、鉄道、旧道=鳥羽山洞門)
右円内:周囲と異なる光明電気鉄道跡の斜め地割(道路と宅地の列)

一つ目は、国道152号線の鹿島橋(かじまばし)だ。浜松市のサイト「浜松情報Book」にはこう紹介されている。「1937(昭和12)年に完成した全長216.6m、幅員6mの当時としてはモダンなトラス橋。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス橋であり、全国的にも貴重な例」。カンチレバートラスというのは、橋脚から両側にトラスを延ばし(=カンチレバー、片持ち梁)、それで中央部の桁を吊る構造だ。これによって、スパンを長く取ることが可能になる。

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優美な姿が印象的な鹿島橋

場所は西鹿島駅のすぐ北で、山中を流れてきた天竜川が浜松平野にまさに飛び出そうとする位置に架かっている。「下流側には歩道橋があるので、本来の姿が見えにくくなっています」という外山さんのアドバイスで、私たちは上流側左岸に移動した。午後はこちらが順光になる。橋を渡っているときは気がつかなかったが、トラス橋なのに吊橋のような、クラシックで優美な姿に目を奪われる。堤防の上から全貌を、川べりから仰角で、とみな思い思いにカメラを向けた。

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直線の中に混じる曲線が建築美のポイント

東隣には、天浜線の鉄橋(天竜川橋梁、長さ403m)が並行している。こちらはよくある下路ワーレントラスなので、被写体としては平凡だ。「列車があれば絵になるんだがなあ」と念じたら、本当に列車が渡ってきた。

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天浜線の天竜川橋梁を列車が渡る

国道は鹿島橋を渡った後、直線で鳥羽山隧道に突っ込んでいく。しかしこれは1942(昭和17)年に開通したルートで、それまで街道は右にそれて、旧トンネルを通っていた。鳥羽山洞門という古めかしい名がついている。実は私は今朝、天浜線を二俣本町まで乗り越し、徒歩でこのトンネルを経由して西鹿島へ戻っていた。「クルマでも抜けられますよ」と伝えたものの、念には念を入れて、一番車幅の広い相澤号が先頭に立つ。内部は狭い歩道が切ってあるが、まったく問題なく通過できた。

反対側に出た後、クルマから降りて改めて観察する。トンネルは、1899(明治32)年の開通から120年近い歳月を耐えてきた。煉瓦造のポータルは表面が黒ずみ、一部は草生していて、扁額の文字ももはや読み取りがたい。内部もアーチの補強材が当てられて痛々しいが、中央部だけはオリジナルの煉瓦積みが露出していた。「雰囲気ありますね」「この煉瓦、今にも落ちてきそう」と、はしゃぐ声が洞内にこだまする。

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鳥羽山洞門
(左)北口ポータル、入口付近は補強材が入る (右)中央部は煉瓦積みが露出

続いて、今尾さんの案内で天浜線天竜二俣駅へ向かった。駅の近くに、光明(こうみょう)電気鉄道の痕跡があるというのだ。天浜線(旧 国鉄二俣線)ができるより前に存在した私鉄で、東海道線の中泉(現 磐田)駅から天竜川左岸を北上し、光明村船明(ふなぎら)を当面の終点に見据えていた。1928(昭和3)年に田川、2年後に二俣町まで開通し、そのとき手前のこの位置に、阿蔵(あくら)駅を設けた(後、二俣口に改称)。しかし、投資に見合うだけの需要がなく、1935(昭和10)年にあっけなく廃止されてしまった。

下の地形図は、その光明電鉄の記載がある貴重な版だ。阿蔵駅以南では現在の天浜線と同じルートを通っているが、これは電鉄廃止後、2本のトンネルを含めて用地がそっくり転用されたからだ。ちなみに、鳥羽山をくぐるトンネルは鳥羽山洞門、その南の「天龍橋」は後に鹿島橋に代を譲ることになる1911(明治44)年開通の吊橋だ。また、遠鉄のかつての終点、遠州二俣駅は、現在の西鹿島駅より少し北に位置している。その東側は、分流していた天竜川の広い河原だったこともわかる。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1930(昭和5)年鉄道補入)

昼下がりの天竜二俣駅構内は、がらんとして人気がなかった。西端には、そこだけ斜めの地割があり、数軒の住宅が建っている。南側からは宅地の土留め程度にしか見えないが、北側に回ると階段が続いているではないか。明らかにプラットホームの跡だ。光明電鉄の名は皆さん初耳だったようで、今尾さんが概要を説明する。「なんとか開通したものの、電気代が払えなくて送電を停められてしまったんです」。「短命の鉄道だったんですね。でも後世まで、電気代滞納って言われるのはかわいそう」と石井さん。

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がらんとした天竜二俣駅構内、左のキハ20と後ろのナハネ20(寝台車)は保存車両
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光明電鉄阿蔵駅の遺構
(左)舗装道が線路跡。左は一見、宅地の土留めのようだが…
(右)反対側(北)から見ると階段が残り、ホーム跡とわかる

この先で山の端を抜けていた短い阿蔵トンネルは民有地内で、見ることが難しいというので、別の路線、佐久間(さくま)線の跡へ回ることにした。こちらは一度も列車が走らなかった、いわゆる未成線だ。国鉄二俣線遠江二俣(現 天浜線天竜二俣)から飯田線中部天竜に向けて計画された路線だが、1980(昭和55)年の国鉄再建法で工事が中止され、開通は夢物語になってしまった。下の地形図は、まだ佐久間線が工事中だったころの版だ。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1975(昭和50)年修正測量)

阿蔵川に沿って住宅街の道を遡ると、玖延寺の手前で、上空を佐久間線の立派な高架橋が横切っていた。光明電鉄に比べてこちらは比較的新しい遺跡だ。放置されて35年以上になるとはいえ、トンネルも築堤もしっかり残っている。草を踏み分けて南側の白山トンネルの入口まで行ってみると、フェンスで閉ざされているものの、微妙な空隙があった。廃トンネル探索の達人である石井さんと外山さんは、血が騒ぐらしい。「でも、きょうはコンターサークルなのでやめておきます」と二人で笑った。

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(左)佐久間線の築堤 (右)フェンスで閉鎖された白山トンネル北口

盛りだくさんの見学を終えて、朝出発した西鹿島駅に戻る。ここで解散。堀さんと私は遠鉄で新浜松へ、今尾さんは天浜線で掛川へ、あとの5人はそれぞれの車で帰宅の途に就いた。遠鉄の電車に乗るのは久しぶりだ。改札を入りながら、「遠鉄って名前は、遠いところへ行く感じがしますね」と私が言うと、「近鉄のほうが、よっぽど遠くへ行ってますよ」と、すかさず堀さんが混ぜ返した。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図二俣(昭和5年鉄道補入、昭和50年修正測量、平成27年3月調製)、伊平(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
浜松情報Book(鹿島橋) http://www.hamamatsu-books.jp/
ふじのくに文化資源データベース(鳥羽山洞門)
http://www.fujinokunibunkashigen.net/

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2016年5月18日 (水)

コンターサークル地図の旅-寒川支線跡

2016年ゴールデンウィークの「地図の旅」は、いつもと違う形で始まった。本日5月3日は、コンターサークルSの行事ではなく、堀さんの私的小旅行という位置づけになっている。「興味と意志のおありの方はどうか御同道下さい」というのが、主宰を退いた堀さんの、メンバーに対する気遣いであることは百も承知しているが、ここではサークルの旅と同じ流儀で書くことをお許しいただきたい。

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寒川支線の線路が残る公園で

JR相模線寒川(さむかわ)駅11時42分集合、旧寒川支線(下注)の跡を歩く、というのが本日の行程だ。茅ヶ崎駅で東海道線から1番線の小ぢんまりしたホームに回ると、ブルー2色の帯を巻いた205系が停まっていた。

*注 正式には国鉄相模線(当時)の一部だが、「寒川支線」あるいは「西寒川支線」の通称で呼ばれていた。

相模線にはほとんど乗ったことがない。メモを繰ると1981年7月が最初で最後、もはや大昔の話だ。この路線の電化はかなり遅くて1991年だから、まだキハ35系あたりがガーッと轟音を振りまいて走っていた時代だ。茅ヶ崎までの間、何を思っていたかは覚えていないが、ユーミンの「天気雨」を口ずさみながら、ディーゼルカーに揺られてきた淡い記憶がある。

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(左)茅ヶ崎駅1番線で発車を待つ (右)寒川駅到着

今や往時をしのばせるものすらない電車の車内に、堀さんの姿を見つけた。「廃線跡の旅なので、来ないわけにはいきませんでした」と、まずご挨拶する。寒川まではほんの8分、車窓をゆっくり眺める間もなく到着だ。ここも立派な橋上駅に改築されている。改札を出たところで、石井さんが待っていてくれた。

コンコースの腰壁には、タイミングのいいことに、「茅ヶ崎-寒川間開通95周年の歴史」と題した写真パネルが展示されている。寒川の木造駅舎や懐かしいディーゼルカーの交換風景の傍らに、これから行く西寒川駅が現役だった頃の写真もあった。

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寒川支線の現役時代をしのばせる写真パネル

現在のJR相模線は、相模鉄道が1921(大正10)年に開業した茅ヶ崎~川寒川間6.4kmがルーツだ。翌1922年に、相模川から採取する砂利の運搬を目的に、寒川~四之宮間で1.9kmの支線が開業した。これがいわゆる寒川支線となる。本線の方は1926(大正15)年から順次延伸され、1931(昭和6)年に橋本まで全通している。

以来、支線では貨物だけを扱っていたが、沿線の軍需工場へ作業人員を輸送するために1940(昭和15)年から旅客営業を開始した。1944(昭和19)年には、四之宮駅の廃止統合に伴って、西寒川が終点になる。旅客輸送は戦後いったん中断したものの、1960(昭和35)年に再開され、国鉄末期の合理化策で1984(昭和59)年3月末限りで廃止されるまで、細々と続けられたのだ。

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寒川駅構内の支線跡 (左)西側は更地化 (右)東側は側線と車輪が残る

高架駅舎の窓から見下ろすと、相模線の線路の南側に、草生した細長い空き地が延びている。東半分は草に埋もれているが、使われていない側線も見え、これが寒川支線の痕跡なのは疑いない。地上へ降りてみると、一部アスファルトで固められたレールの上に、ぽつんと1対の車輪が置いてあった。片付けるのを忘れるはずはないから、何かの記念物だろうか。

一行3人で、西へ歩き出す。今日はやや強い風が吹いている。湿度も高めで、歩くと汗ばんでくるが、足を止めるとちょっと寒い。駅構内の終端は大山踏切で、ここでも線路の南側に空地が残っていることを確認した。せっかくなら線路跡を歩きたいが、鉄道用地だし、片方向20分間隔で電車が来るからそうもいかない。踏切の先でも、立ち並ぶ民家が線路の眺めを遮っていて、堀さんはもどかしそうだ。

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寒川~西寒川間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
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寒川支線現役時代の1:25,000地形図 1976(昭和51)年改測

産業道路(県道46号相模原茅ヶ崎線)と立体交差するところで、ようやく線路に出会えた。寒川支線はここで本線と分かれる。支線自体、左へカーブしているけれども、地図の上では、本線のほうが反向曲線で無理やり離れていくようだ。「寒川支線の方が本線に見えますね」と私が言うと、「もともと砂利を運ぶために造ったようなものですから」と堀さん。

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(左)支線が分かれる地点。本線は右へ、支線は左へ
(右)大門踏切を隔てて寒川神社の社森と鳥居が

大門踏切の向こうに寒川神社に続くこんもりとした社森と、それに半分隠れるようにして一の鳥居が見える。相模国の一之宮まではまだ1kmもあるのだが、早やここから参道が延びているとは知らなかった。残念ながら寒川支線はそれに背を向けるように、南西へ向かう。

大門踏切前交差点の南側は、どの地形図でも廃線跡が消失したように描かれている。しかし、現地には「ゲート広場」と記されたミニ公園があった。二方を道路に挟まれた三角形の小区画だ。ゲートというのは大門にあやかったか、あるいは緑道の門という意味なのだろうか。

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(左)緑道の手前にゲート広場 (右)一之宮緑道入口

というのも、ここから長さ900mにわたって、廃線跡を転用した一之宮緑道が始まるからだ。一之宮はこの付近の地名だ。廃線跡を自転車道にする例は多いが、ここは緑道と称するだけあって、カツラの並木とツツジの植栽が施されている。舗装もアスファルトではなく、インターロッキング仕様だ。歩いているのは私たちだけだが、自転車はよく通るし、子どもたちの遊び場にも使われていた。「こういう整備された廃線跡はお好きですか」と堀さんに聞くと、「好きというより、この線には乗ったことがあるので、来てみたかったんですよ」との答。

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堀さんは、昔から寒川支線に興味をひかれていたらしい。「地図から旅へ」(毎日新聞社、1975年)に収められた訪問記は、次の文章で始まる。「延長わずか1・5キロで、途中駅もないという超ミニサイズの上、終点の西寒川が一見、相模平野のまっただ中の、こんな短い線をわざわざ建設する必然性を疑わせるような、変哲のない場所であることが、そのゆえにいっそう私の好奇心をさそったのである」(同書p.168)

茅ヶ崎駅から乗った西寒川直通の列車で、車掌のアナウンスが行先をくどいほど繰り返すことに、堀さんは苦笑する。そればかりか寒川駅では車掌が車内に回ってきて、残っていた2人きりの乗客に「西寒川ですか」とわざわざ念を押したそうだ。終点に着くと、折返しまでの間、この親切な車掌と話が弾み、写真のポーズをとってもらうなど、心温まるひとときを過ごした。その記憶が、堀さんの心にひときわ深い印象を残しているに違いない(下注)。

*注 「地図の風景」関東編I 東京・神奈川(そしえて、1980年)にも寒川支線の記事がある(p.148「都市化のなかの超ミニ・過疎レール 西寒川」)。

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(左)クルマの来ない緑道は子どもたちの遊び場 (右)公園入口を限る車輪のオブジェ
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本日の記念撮影

緑道の中間部は一之宮公園という名で、住宅街の中の憩いのスペースになっている。入口に、レールの断片と一対の車輪がオブジェとして置いてあった。にぶく光る頑丈そうな車軸を「これ、本物かな?」と眺めていると、堀さんがやにわに腰を下ろした。顔を上げてにこりとしたところを、石井さんがすかさず写真に収める。

公園内には、緩くカーブした線路が200mほど残されている。レールの継ぎ目や朽ちかけた枕木からして、もとからあった線路のようだ。「枕木に埋め込んである輪っかは何のためですか」と石井さんが尋ねる。堀さんも私もさんざん線路を見てきたはずだが、妻面に見える鉄製の輪のことは知らなかった。後で石井さん自ら調べたところでは、割れ止めリングといって、枕木が乾燥して割れて、レールを固定した犬釘が浮いたりするのを防ぐためのものだそうだ。

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(左)案内板も駅名標風に (右)草取り作業お疲れ様です

その枕木を文字どおり枕にして、猫が一匹まどろんでいた。カメラを向けると、逃げ出すどころか、撮ってと言わんばかりに起き上がってポーズをとる。そろそろお昼どきだ。「ここらで休憩しましょう」とめいめい持参の昼食を広げた。すると、さっきの猫に続いて数匹の猫が興味深げにこちらへ近づいてくる。近所では見かけない顔ぶれだから、様子を窺いに来たのかもしれない。突然、上空で厚木基地のほうへ向かう軍用機が爆音を轟かせて、昼下がりの静寂を破った。

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朽ちかけた枕木を枕がわりに

緑道は、あと500mほど住宅街を走ったあと、小さな公園に突き当たって終わる。八角広場という名称は、中央にある噴水池にちなんだようだが、残念ながら噴水はもう出ておらず、浴場の廃墟のような不思議な雰囲気を醸し出している。ここが西寒川駅の跡だ。線路の断片が同じように残され、その延長線上に、「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の大きな碑があった。駅ができた訳を伝えているのだ。

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(左)緑道後半は住宅が両脇に迫る (右)終点手前の踏切跡
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(左)八角広場が緑道の終点 (右)西寒川駅跡を示す碑

「地図の風景」に、堀さんが撮影した当時の駅の写真が載っている。現実と見比べようとしてみるが、面影がどこにもなく、同定すらままならない。「ホームはレールの東側に一面あるだけで、西側はレールのすぐわきから雑草が伸び放題に伸び、あちこちに水たまりのある人かげのない空地が、それに続いていた。」(「地図から旅へ」p.172)。あれから40年が経ち、すっかり変貌してしまった西寒川駅跡は、堀さんにどんな思いを残しただろうか。

帰りは、八角公園前の停留所から、寒川駅南口行きのバスに乗った。通勤通学客のいない休日の午後とはいえ、乗客は私たちだけで、こちらもいささか心もとなかった。

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八角広場全景、右奥はバス停

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寒川~西寒川間の1:10,000地形図。緑色に塗られた区間が廃線跡の緑道

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図藤沢(平成18年更新、昭和51年第2回改測)、伊勢原(昭和48年修正測量)及び1万分の1地形図寒川(平成12年編集)を使用したものである。

■参考サイト
さむかわ さわやか ちょこっと ウォーキング http://samukawa-k.jimdo.com/

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2015年8月22日 (土)

新線試乗記-仙石東北ライン

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仙石東北ライン路線図

朝8時台、仙台駅2番線に青、ピンク、緑という不思議なカラーコーディネートの列車が4両で入ってきた。仙石東北(せんせきとうほく)ラインを走るハイブリッド型気動車HB-E210系だ。

既存の線路で構成した新しい列車走行ルートのことを、JR東日本では、「~ライン」と呼んでいるようだ。仙石東北ラインは、仙石線と東北本線を経由して、県第二の都市石巻を県都仙台に直結する新ルートになる。震災後、一部区間がバス代行のままだった仙石線が全通再開するのに合わせて、今年(2015年)5月30日、運行を開始した。

具体的なルートはこうだ。仙石線と東北本線は、松島を望む一部の区間で並走している(下記参考サイト参照)。そこで、松島駅/高城町(たかぎまち)駅の西方で両者が接近する地点に、接続用の線路300mを新設して、列車の相互乗入れを可能にした。ここを境に列車は、石巻方では仙石線、仙台方は東北本線を走る。

東北本線は、戦中(1944年)に完成した新線区間、いわゆる海線を含んでおり、線形が比較的よく、スピードアップが期待できる。震災前にも仙石線を通しで走る快速列車があったのだが、線内に十分な追抜き設備がないため、先行する各停より先着できなかった。これに対して、仙石東北ラインは事実上、別線を建設したのと同じ意味を持つ。そのメリットを最大限生かすために、全便が一部の駅を通過する快速の扱いになっている。

■参考サイト
仙石・東北接続線付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.376300/141.060700

しかし、問題は両線の電化方式が異なることだ。仙石線は、私鉄の宮城電気鉄道を戦時中(1944年)に国有化した路線で、直流1500Vを使用する。一方の東北本線は、戦後の電化になるため、交流20000V 50Hzだ。従来運用されている電車では両線をまたいで走行することはできない。といって、交直流電車は価格が高く、デッドセクション(無電区間)も必要になるだろう。最終的に導入されたのは、小海線その他で実績を積んでいるハイブリッド型の気動車(下注)だった。架線集電の必要がないので、接続線には架線が張られていない。

*注 ハイブリッド型は蓄電池を備えた電気式気動車。エンジンで発電機を回し、蓄電池に蓄える。その電力で車軸を駆動させるだけでなく、回生ブレーキから得られる電力も蓄電し再利用することで、省エネ化を図っている。

8月に仙石東北ラインを試乗した。仙台駅で石巻行きの電車といえば、ふつう地下にある仙石線ホームから出るものだ。しかし、新ルートは地上の東北本線ホームに発着する。両ホームの間はかなりの距離があるので、事情を知らないと乗継ぎに冷や汗をかくことになるだろう。平日の朝、郊外へ出ていく便だが、発車までにボックス席に2~3人は座った。まずまずの利用者数だ。

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仙台駅2番線に石巻行きが到着

停車中、電力は蓄電池から供給されているのでエンジンのアイドリングがなく、静かさは電車と変わらない。乗客は気動車に乗っていることを全く意識することがないだろう。走り出して暫くすると、エンジンのうなりが聞こえてきた。発進時も蓄電池からの電力を使用し、時速15kmに達するとエンジンが起動するのだそうだ。

仙台~石巻間が最速52分と宣伝されているが、それは上下各1本しかない特別快速の所要時間だ。それ以外は、朝夕走る仙台~塩釜間ノンストップの赤い快速が59分前後、日中の緑の快速は東北本線内の各駅に停まり、さらに3~4分余計にかかる。といっても、高城町までに中間駅は5つしかないから、私鉄並みの駅間距離の仙石線に比べれば、快速の名を汚すほどではない。

塩釜から先は山が海に迫り、長短のトンネルが連続する。10本目を抜けたところで、例の接続線との分岐点にさしかかった。かぶりつきで見ていると、今走ってきた東北下り線からいったん上り線に合流し、再び右手へ出ていく形になっている。ポイントはすでに分岐側に開いているが、その直前で一旦停止した。それから徐行で接続線に入る。すぐに仙石線への合流点が見えてくるが、手前の「第一場内」と書かれた信号が赤のため、再停止。青に変わるのを待って、おもむろに合流した。

帰り(上り列車)も同じ手順を踏んだので、上下ともここで2分程度のロスが生じている形だ。列車運行管理システムが両線で統合されておらず、手動で切替えを行う必要があるからだと聞いた。改良されるのは2~3年後になるそうだ。

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接続線分岐点 (左)東北下り線から右へ分岐 (右)接続線に入る
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(左)接続線から仙石線への合流点で信号待ち
(右)高城町駅の行先表示に「塩釜」が加わった

高城町から先、陸前小野までは今回再開した区間になる。陸前富山から陸前大塚の間では、海岸すれすれの場所を走り、出来立ての真っ白な護岸が目を引く。高さがさほどでないのは、湾口に連なる松島が防波堤となって津波の勢いが減衰するからだという。線路は、架線柱が新調され、一部でロングレールも敷かれているが、線路の位置はほぼもとのままだ。

ところが、陸前大塚から先、陸前小野までの間は大きく様変わりした。集落の高台移転計画に伴い、海沿いの平地を迂回していた線路を500mほど北へ移設するという大規模なルート変更が実行されたからだ。これによって、両駅間は4.7kmから3.5kmに短縮され、東名(とうな)、野蒜(のびる)の2駅が移設の対象となった(下の地形図参照)。

高架の新線がまっすぐ東の山手に上っていく。山上ではURによる宅地造成が進行中で、各所で重機が唸りを上げている。帰りに野蒜駅で下車してみた。駅は無人ながら、空調の効いた待合室とトイレが備わっている。しかし駅前広場の周りは全面、工事現場の仮囲いに覆われていて、視界が効かない。もとの集落に通じる道路は大回りしているので、炎天下では降りる気にもなれず、完成予想図の説明板を見るほかにできることがなかった。

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野蒜駅
(左)駅舎と仮囲いに覆われた駅前広場 (右)駅舎2階から造成現場を望む
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(左)交通路の位置関係を示す案内板
(右)鳴瀬川橋梁から野蒜方へ続く高架橋を望む

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陸前大塚~陸前小野駅の旧版1:25,000地形図(1978年改測)に新線の位置を加筆

■参考サイト
野蒜駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.379000/141.156900

野蒜を出た新線は、再び高架になって山を下り、そのまま頑丈そうな鳴瀬川のPC橋を渡っていく。この橋梁は今回の新設ではなく、2000年に架け替えられたもので、津波にもよく耐えた。陸前小野では山が遠のき、平野の中を直線で進んでいく。この周辺も一部ロングレールになって、一時ジョイント音が消えた。矢本からは家並みが連なり、車内の客も駅ごとに増えていく。石巻線が左隣に寄り添うようになれば、終点は近い。到着した石巻駅のホームには、まだ「仙石東北ライン開業2015.5.30」の垂れ幕が下がり、夏の風になびいていた。

同ルートには今回、上下各14本の列車が設定された。およそ1時間毎で、震災前の仙石線快速とほぼ同数だ。しかし、時刻表を見ると、下りは仙台発11時台、上りは折返しとなる石巻発12時台がぽっかり空いている。また、上りの通勤通学時間帯、仙台に8時台に到着する列車も設定がない。東北本線の線路容量その他の事情があるのだとは思うが、毎日の利用者にとっては増便を検討してほしいところだろう。

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石巻駅
(左)開業記念の垂れ幕が下がるホーム (右)石ノ森章太郎のキャラクターが飾られる駅舎

石巻まで来た足で、石巻線に乗換えて、女川(おながわ)を往復した。こちらも震災で大きな被害を受け、最後の区間である浦宿(うらしゅく)~女川間は今年3月21日に再開されたばかりだ。旧北上川の鉄橋を徐行で渡り、山を貫いて渡波(わたのは)へ南下する。次いで万石浦(まんごくうら)の岸辺をくねくねとたどり、浦宿からトンネルを抜けると、女川だ。

新たに造成された土地に、1面2線のホームとコミュニティ施設を併設した真新しい駅舎ができていた。旧駅より200m山手で、標高も5m嵩上げされているという。野蒜と同様、駅の周辺では造成工事が真っ最中だ。待合室にある「私たちは海と生きる」と書かれたポスターが胸を打つ。

駅前広場に出てみた。まっすぐ延びるプロムナードに若木が2列に植えられ、港の方へ続いている。これが大きく育ち、樹陰ができる頃には、町にもとの賑やかさが戻るように、と祈らずにはいられなかった。

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女川駅 (左)新しいホームの周辺はまだ造成中 (右)駅舎正面
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女川駅前からプロムナードが港のほうへ延びる

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女川周辺の旧版1:25,000地形図(1974年修正測量)に、新駅の位置を加筆

■参考サイト
女川駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.446700/141.443900

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図小野(昭和53年改測)、女川(昭和49年修正測量)を使用したものである。

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