2019年5月 1日 (水)

紀州鉱山軌道の楽しみ方

紀伊半島の山中を、ささやかなトロッコ列車が走っている。軌間2フィート(610mm)、走行距離は約1kmに過ぎないが、1日6往復の設定がある。しかし、鉄道事業法に基づくものではないため、市販の時刻表や鉄道路線図には一切載っておらず、知る人ぞ知るという存在だ。

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山あいの湯ノ口温泉駅にトロッコ列車が到着
 

三重県南端に近い熊野市の内陸部(旧 南牟婁(みなみむろ)郡紀和町)、熊野川支流の、瀞峡(どろきょう)で知られる北山川の左岸に、それはある。今は観光用に運行されているが、もとは鉱山軌道だった。

この地区では古くから小規模な採鉱が行われていて、1930年代に、石原産業が本格的な鉱山を開いた。採掘場は北山川の支谷に沿って点在し、鉱石から銅などの有用鉱物を選別する選鉱場が、紀和町中心部の板屋(いたや)に置かれた。軌道はこの間を結ぶもので、鉱石と作業員・資材の輸送を担っていた。鉱山の名から「紀州鉱山軌道」と呼ばれているが、メインルートの板屋~惣房間だけでも5.5kmあり、険しい山中のため、大半がトンネルだった(下図参照)。

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紀州鉱山軌道周辺の1:25,000地形図(1976年)に
軌道関連事項と新国道のルートを加筆
 

1940~50年代、紀州鉱山(石原産業紀州事業所)は、銅の生産量で国内有数の規模を誇った。しかし、1963年の貿易自由化後は、海外産に押されて採算が悪化していき、1978年、約40年の歴史に幕を降ろした。軌道もまた、それと運命を共にした。

鉱山は地域の基幹産業だ。その撤退という大きな試練に直面して、町は、観光開発に将来を託そうとした。鉱区の中心、湯ノ口地区は地名が示すとおり、昔は温泉が湧く土地だった。鉱山開発の影響で長らく枯渇していたが、閉山1年後に行ったボーリングで地中の源泉が発見され、温泉として再興された。

ただそこは鉱山軌道がなければ秘境同然の場所で、アクセスに難がある。それで、軌道の一部を利用して、利用客を温泉の前まで送り届ける計画が練られた。起点は、国道311号線からほど近い小口谷(こぐちだに)とされた。そこには鉱山のズリ捨て場があり、再開発用の空地には事欠かなかったからだ。

1987年に小口谷~湯ノ口間でトロッコ列車の試験運行が始まり、1989年からは通年で運行されるようになった。さらにその翌年、小口谷に、瀞流荘(せいりゅうそう)という新たな宿泊施設がオープンした。設備の整ったその施設に宿泊し、トロッコで湯ノ口温泉に通うというユニークなオプションが可能になった。

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瀞流荘駅に停車中のトロッコ列車
 

それから早や30年が経つ。温泉施設は近年改築され、装いを新たにしたが、トロッコ列車は当時のまま健在だ。マッチ箱のような小さな2軸木造客車がトンネルの中をゴトゴトと走り、湯浴みの客を運ぶとともに、鉱山軌道ありし日の面影を今に伝えている。

昨年(2018年)夏、この軌道に乗る機会があった。前夜、瀞流荘に泊り、ゆっくり朝食をとって、9時55分発二番列車の客となった。乗り場は宿の山側にあり、地名の小口谷ではなく、「瀞流荘」駅を名乗っている(下注)。ここはかつて操車場や修理工場がある鉱山軌道の拠点だったので、谷間に広い跡地が残されている。線路の手前は駐車場に使われ、奥は特産品の加工場になっているようだ。

*注 グーグルマップでは「トロッコ電車 小川口駅」と注記されている。

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瀞流荘駅
(左)駅舎 (右)出札窓口
 

木造平屋の駅舎で切符を売っている。運賃は、大人片道270円、往復540円、また、湯ノ口温泉の入浴券つき往復券が860円だ。さらに、トロッコと瀞流荘・湯ノ口温泉入浴が1日フリーパスになる「熊野湯めぐり手形」もある(下注)。これは、宿泊客の場合、往復運賃と同額の540円(宿泊しない場合は1080円)で買え、実質的に入湯が無料になる。瀞流荘に泊るなら、これ以上の選択肢はない。

*注 「熊野湯めぐり手形」は、瀞流荘のフロントでも購入できる。

駅舎を出ると、線路を2本はさんだ、屋根付きの相対式ホームがあった。右も左も山の斜面で、線路はトンネルに潜っている。天井が低いかまぼこ形をした、しかし複線仕様のトンネルだ。左の板屋側のトンネル(二号隧道)の中を覗くと、鉄格子の奥に車両らしきものが見え、車庫として使われているようだ。列車が進む右側は、加工場へ行く道路と交差し、谷川を渡ってすぐ三号隧道に入る。

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瀞流荘駅前後のトンネル
(左)板屋側の二号隧道は車庫代わりに
(右)湯ノ口側の三号隧道入口
 

乗るべき客車は、すでにホームに据え付けられていた。江ノ電色に塗られた2軸車の5両編成だ。茶室のにじり口並みの小さな引き戸を開け、腰をかがめて入る。内部は狭いながらも四方にベンチがあり、座布団が敷いてある。窓にはガラスが嵌っているが、鉱山軌道時代は、隙間を空けて板を貼っただけの、いわゆる無双窓だったそうだ。夏場はともかく、さすがにそれでは温泉帰りの客は乗せられまい。

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(左)機関車が機回しされてきた
(右)客車内部
 

機回しされてきた機関車が前に付けられた。台車の上に大きな平箱を載せた車両で、箱の中を見せてもらうと、多数のバッテリーが配置されている。これは実際に鉱山軌道で使われていた蓄電池式電気機関車で、いわば貴重な動態保存機だ。

かつて鉱山軌道の本線系統は、架空線が張られ、直流600V、パンタグラフ集電の電気機関車が活躍していた。一方、坑道内では、スパークによるガス爆発を避けるため、蓄電池式が使われていた。軌道復活に当たっては、架線設備の再建を要さない後者で、客車を牽引することになった。広告媒体などで「トロッコ電車」という表現を目にするが、実態はこういうことだ。

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蓄電池式電気機関車
(左)後部に運転台、直接制御器がある
(右)前部の蓋を開けると蓄電池の列が
 

私たちのほかにもう1~2組の同乗者を載せて、列車はほぼ定刻に出発した。走行する全線で複線の線路が残されているものの、1編成が往復するだけなので、単線で足りる。このときは隣の線路が途中で外されて、何か工事をしているようすだった。

ルートはみごとに直線で、微かな上り坂だ。三号隧道は長さが300mある。天井に照明があり、にじみ出る地下水で、側壁が鈍く光っている。トンネルを抜けると、大嶝(おおさこ)と呼ばれた明かり区間を、少しの間走る。地形図で見ると、北山川が接近しているが、木々に隠され、車窓からは見えない。次の五号隧道は730mと長く、途中で下り坂に転じる。

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走行区間の大半を占めるトンネル
(左)かまぼこ形の断面、全線複線
(右)中間部の短い明かり区間
 

10分ほどで湯ノ口温泉駅に到着した。ホームは沢をまたぐ鉄橋の上にあり、線路は左に急カーブしながら、閉鎖された六号隧道へ向かっている。駅舎の代わりに、片流れ屋根のかかった待合ベンチがある。ここも鉱山軌道のジャンクションの一つで、かつては機関庫その他の施設が建ち並び、三角線をはじめ多数の側線が谷を埋めていた。その後跡地は転用され、温泉施設と滞在用のコテージやバンガローの敷地になった。

折り返し列車の発車は10時55分で、50分ほど間がある。源泉かけ流しの湯ノ口温泉で、露天風呂に浸かる時間を確保しているのだ。もっとゆっくり過ごしたいなら、1本見送って次の列車(12時35分発)にすることもできる。1日6往復は、ほどよい列車本数だろう。

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湯ノ口温泉駅
(南端から瀞流荘駅方を望む)
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(左)湯ノ口温泉
(右)軌道構内の跡地に並ぶ温泉のバンガロー
 

鉱山軌道の楽しみはこれにとどまらない。トロッコと同じ軌道上を、レールバイク(軌道自転車)でも走ることができるのだ。レールバイクは2人で漕ぐが、電動アシストなので大して力は要らない。また、後ろに2人乗りの付随車(ベンチシートと呼んでいる)をつければ、計4人まで同時に移動できる。

アクティビティの要素もあって、実のところ、狭いトロッコ客車に揺られるよりはるかに開放的で爽快だ。料金は湯ノ口1往復で2,600円、ベンチシートはプラス640円だが、試してみる価値は十分ある。ただし、1台しかないので、瀞流荘への事前予約が必須だ。また、一人だけでは乗れない。

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レールバイク
(左)後ろに2人乗りのベンチシートを付けることができる
(右)電動アシストのマウンテンバイク2台を固定接続
 

出発時刻は決まっていて、行きはトロッコ発車の15分前、帰りは10分前だ。ということは、もたもたしていると、後ろからトロッコが追ってくるわけで、漕ぎだす前に、「もしトンネル内で立ち往生したら、後から来る列車にライトで合図してください」と注意を受けた。もちろん、ふつうに漕げば心配は無用で、トロッコが発車する頃には終点に到着している。

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鉱山軌道を自転車で疾走
 

鉱山軌道の楽しみの延長として、場所を少し移動すれば、当時の珍しい車両や鉱山施設跡を目にすることも可能だ。

瀞流荘から2kmほどの板屋地区に、1995年開館した紀和鉱山資料館がある。ここには、各種車両が静態保存されている。まず前庭にあるのが、パンタグラフ集電の電気機関車610号機が有蓋人車(客車)、鉱車(貨車)各1両を牽く形の「列車」だ。鉱車の上に索道搬器も吊ってある。隣の、簡易転車台から延びる軌道には、蓄電池式機関車230号機と軌道自転車が据え付けられている。屋根が架けられているものの、戸外のため、表面に錆が回り始めているのが痛々しい。その中で人車だけは美しく塗り直され、中に入って、例の無双窓からの景色を追体験できる。

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紀和鉱山資料館前庭の展示車両
(左)鉱車と有蓋人車、上空に索道搬器
(右)架空線式電気機関車610号機
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(左)「列車」には立派な屋根が架けられている
(右)簡易転車台に接続された蓄電池式機関車と軌道自転車
 

館内には、蓄電池式機関車229号機、同415号機、鉱車、作業員を運んだ無蓋人車などの展示がある。人形を使って当時の鉱山作業の様子が再現されており、そのセットの一部という扱いだ。そのほか、紀州鉱山の動静が記録された社内紙「石原紀州」の貴重なコレクションも閲覧に供されている。

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資料館内部の展示車両
(左)蓄電池式機関車と鉱車
(右)坑夫を乗せた無蓋人車
 

板屋には選鉱場があり、鉱山軌道で運ばれてきた鉱石を処理していた。案内板によれば、総面積2200坪、高さ75mで日本第二の規模、完成当時の処理量は1日1000トンで東洋一だったという(下注)。その跡は、資料館から山手へ歩いて数分のところにある。倉庫や修理工場が建っていた平地は、公共施設用地に転用されてしまったが、山の斜面を利用した選鉱場跡が、建物を撤去した状態で朽ちるがままにされている。

*注 ちなみに、選鉱場で純度を高めた精鉱は、全長14.7kmの索道で山を越え、紀勢本線阿田和駅で貨物列車に積まれた。

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板屋選鉱場跡の廃墟
 

敷地内は通常立入禁止で、麓からの観察になる(下注)が、斜面にそびえるコンクリートの梁と柱、這い上がるインクラインのレールや階段など、見上げる廃墟の景観は、巨大なだけにかえって寂寥感を誘う。

*注 熊野市観光公社が年1回開催しているツアーに参加すれば、立入禁止区域の選鉱場上部や坑道を探索できる。

傍らには、鉱山軌道の一号隧道が口を開けている。複線の線路も残されているが、鉄格子の扉が閉まっている。このトンネル(一号・二号隧道)の反対側の出口は、「瀞流荘」駅のある小口谷だ。

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(左)インクライン跡
(右)一号隧道入口、内部には鉄格子扉が
 

最後に、この地への交通手段を書いておこう。

瀞流荘に泊る場合は、JR紀勢本線の熊野市駅まで送迎バスを出してくれるので、宿泊予約の際に確認するとよい。

公共交通機関で行く場合は、熊野市駅前から、熊野市バス「熊野古道瀞流荘線」(三重交通に運行委託)に乗る。資料館および選鉱場跡は「板屋(鉱山資料館前)」下車、トロッコ乗り場は終点「瀞流荘」下車だ。所要時間は約50分、1日4往復(2019年4月現在)しかないので、発車時刻には要注意だ。下記サイトに路線図と時刻表がある。

熊野市バス http://www.city.kumano.mie.jp/kurasi/kumanosi_bus/

本稿は、名取紀之「紀州鉱山専用軌道-その最後の日々」RM LIBRARY 212, ネコ・パブリッシング, 2017年、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図瀞八丁、大里、伏拝、本宮(いずれも昭和51年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
熊野市観光公社 http://kumano-kankou.com/
瀞流荘 https://www.ztv.ne.jp/irukaspa/
紀和鉱山資料館 https://kiwa.is-mine.net/

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 立山砂防軌道を行く
 黒部ルート見学会 I-黒部ダム~インクライン
 黒部ルート見学会 II-黒四発電所~欅平

2019年4月25日 (木)

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II

久慈で買った途中下車きっぷを見せて宮古駅の改札を入ると、1番線に2両編成の列車が停車していた。三陸鉄道リアス線の今回開通区間(便宜上「中リアス線」と呼ばせていただく)を行く釜石行きだ。造りに特段変わったところはないのだが、車内に入ると、どこかおろし立ての匂いがする。それもそのはず、これは開通に合わせて新たに調達された車両だ。運転台の側壁に「平成31年 三陸鉄道」と製造元の「新潟トランシス2019」のプレートがついている。

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開通に合わせて調達された新造車両
(左)釜石駅にて
(右)今年の製造・調達を示すプレート
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三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図
 

宮古発16時13分。同僚の車両が留め置かれた構内を後にして、列車は閉伊川(へいがわ)を渡った。そして、磯鶏(そけい)、新駅の八木沢・宮古短大と、一駅ずつ停まっていく。陽が傾き始めた時刻とあって、各駅で乗降客がある。断崖が続く北部の隆起海岸や、複雑な南部のリアス海岸に比べれば、宮古と釜石の間は地形がそれほど厳しくなく、人口も張り付いているのだ。

かぶりつきで見ていると、PCまくらぎが敷かれ、軌道が強化されているのがわかる。しかし、1970年代以降に造られた南北のリアス線とは違って、こちらは戦前、1935~39(昭和10~14)年の開通だ。曲線やアップダウンが多く、そのせいか速度は一向に上がらない。並行する道路を走る軽四輪にも、軽々と追い抜かれてしまう。

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夕暮れの閉伊川橋梁(宮古~磯鶏間)を渡る
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被災個所は軌道を強化して復旧
(左)閉伊川橋梁 (右)織笠~岩手船越間
 

津軽石(つがるいし)からは、重茂(おもえ)半島との間に開けた低地帯を南下する。太平洋が広がっているはずの東の方角に、屏風のような山並みを見るのは、ちょっと不思議な感覚だ。自衛隊のレーダー基地がある十二神山(じゅうにじんやま)は、標高が731mある。

祭の神(さいのかみ)峠をトンネルで抜けると、列車は山すそを下っていく。陸中山田は、その名のとおりJR山田線の当初の目的地だ。東日本大震災で駅は周辺の市街地もろとも大破したため、建て直された。次の織笠(おりかさ)駅も、集落の高台移転に伴って、1kmほど陸中山田寄りに移された。

印象的なのは、駅のホームや沿線で、列車に手を振る親子連れを見かけることだ。まだ開通から日も浅いので、どの幼児たちの目も輝いている。震災から8年、考えてみればこの年齢の子が物心ついた時には、すでに列車の往来は途絶えていた。彼らにとって、風を切って走る列車は初めて見る光景なのかもしれない。

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岩手船越駅、 家族連れに見送られて
 

小さな岬の波板崎を回ると、今度は船越半島の付け根の低地(いわゆる船越地形)が見えてくる。ここでも海岸に高い防波堤が造成され、景色が一変している。三陸のおよそ浜という浜で、類似の工事が完了したか、進行中だ。

その岩手船越で下り列車と対向した。ふと目にした駅名標に、本州最東端の駅と書いてある。朝からずっと東に海を見ながら南下しているので、あまり実感が沸かないが、位置としてはそうなのだ。遥けくも来つるものかな、という感慨が一瞬脳裏をかすめた。海食崖が続く四十八坂海岸では、しばらく比高50m前後の高みを縫って走る。松林の間から垣間見える船越湾ののどかな風景に、心が安らぐ。この穏やかに見える海がときに豹変するとはとても信じられない。

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(左)本州最東端の駅 (右)ふだんの船越湾
 

吉里吉里(きりきり)の後、同名のトンネルを経て、列車は大槌(おおつち)へ降下していった。津波で橋桁が流出した大槌川橋梁は架け直され、左の河口に巨大な防潮堰が出現している。大槌の改築された駅舎の屋根は、ひょうたん島をイメージしているのだそうだ。線路の海側は草ぼうぼうの空地が広がるが、山側は、区画整理された土地にすでに新しい住宅が建ち並んでいる。それは隣の鵜住居(うのすまい)駅の周辺でも同様だった。

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(左)大槌川河口の巨大な防潮堰
(右)ひょうたん島形の屋根を載せる大槌駅舎
 

両石湾の深い入江を一瞥した後、列車は内陸に入っていき、中リアス線内で最長の釜石トンネル入口でサミットに達する。トンネルの闇から出ると、左へカーブし、まもなく花巻からきたJR釜石線の線路が右に寄り添う。仲良く甲子川(かっしがわ)をガーダー橋で渡れば、もう釜石駅の構内だ。

釜石駅は乗り場が5番線まであり、かつての隆盛をしのばせる。1・2番線の島式ホームは釜石線の花巻方面、3・4番線は中リアス線の宮古方面(3番線には釜石線の表示もある)、少し離れた5番線が南リアス線の盛方面だ。駅舎との間は地下道で結ばれているが、JR駅舎へ通じるルートと三鉄のそれへ通じるルートが地下で分岐しているのがおもしろい。三鉄線で着いたら三鉄の改札を出なければならないが、初めての人は戸惑うこと必至なので、分岐点に係員が立って案内している。

■参考サイト
釜石駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.273400/141.872550

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(左)釜石駅に到着
(右)地下道で分岐してJR駅と三鉄駅へ
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釜石駅
(左)JR駅舎 (右)三鉄駅舎
 

宮古で開通記念の企画は見届けたつもりだったが、駅近くのローソンへ行くと、レジの前に「さんてつ応援パン」なるものが置いてあった。150円。包装がトリコロールの列車デザインなので、つい手が伸びた。生地は少し甘じょっぱく、フィリングは鶯豆と、岩泉牛乳入りのホイップクリームだ。

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車両デザインのさんてつ応援パン 

釜石で1泊し、翌日も引き続き列車で南下する。釜石から盛(さかり)まで、従来、南リアス線と呼ばれていた区間だ。7時43分発の列車は単行で、乗り込むと、旅行者らしき男性が一人だけだった。学休期間とはいえ、朝の時間帯でこの閑散ぶりは厳しい。

南リアス線のうち、国鉄時代からあったのは、盛線と呼ばれた南半分の盛~吉浜(よしはま)間で、北半分の吉浜~釜石間は1984年の三鉄発足と同時に開通したものだ。釜石駅の発着ホームが、離れ小島のような配置になっているのが、その辺の事情を物語る。

開通が遅れたのは、工事の困難さもさることながら、需要が見込めなかったことが最大の理由だろう。釜石の南側はリアス海岸の険しい地形が続き、湾奧に小さな集落が点在しているに過ぎない。1970年に国道45号線の改良工事が完成するまでは、つづら折りの難路しかなく、陸の孤島と言われていたところだ。その上、古くは南部藩と伊達藩の境界、現在は釜石市と大船渡市の境界(下注)で、交流圏も異なっている。

*注 南部と伊達の藩界は、平田(へいた)~唐丹(とうに)間の石塚峠を通る尾根筋に置かれたが、現在の市境は唐丹と吉浜の間の鍬台(くわだい)峠を通る尾根筋にある。

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(左)離れ小島のような釜石駅「南リアス線」ホーム
(右)堂々たる高架線を行く(釜石~平田間)
 

海に突き出た尾根を長大トンネルで串刺しにしていくルートのため、列車に乗っていると、明かり区間より闇のほうが長い。海岸風景をゆっくり見たいので、眺めに定評のある吉浜で途中下車することにした。サクラの花びらをちりばめ、窓を眼に見立てたスマイル顔のラッピング駅舎(下注)が迎えてくれた。

*注 車両ラッピングとともに、ネスレ日本の復興支援プロジェクトによる。

跨線橋を渡って、山手の集落の間の小道を釜石方へ歩く。県道に合流し、なお500mほど進むと、見晴らしのいい場所が見つかった。駅から歩いて約10分のところだ。線路の後ろに広がる吉浜湾が、薄雲を透して降り注ぐ陽光をやわらかく受け止めている。釜石行きの列車が通過するのをカメラに収めて、駅に戻った。

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吉浜駅
(左)駅舎正面にサクラ・アートのラッピング
(右)キャットウォーク(?)の跨線橋
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吉浜湾を望むビュースポットにて
 

次の列車では、三陸駅から一人二人と乗ってきて、地域交通の一端を担っていることをうかがわせた。国道が大峠経由で盛へ短絡するのに対し、列車は海岸沿いに綾里(りょうり)へ迂回し、こまめに客を拾っていく。最後のトンネルを抜けると、大船渡(盛)市街が見えてきた。盛川の鉄橋を渡り、右カーブを終えたところで、隣に1車線のアスファルト道路が並行し始める。大船渡線BRTの走行路だ。両者はそのまま盛駅構内へ入っていった。

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(左)大船渡線BRTの走行路と並行
(右)盛駅3番線に到着
 

9時21分、盛駅3番線に到着。3番線といっても、1・2番線は線路が剥がされ舗装路にされてしまったため、実態は棒線同様の寂しい存在だ。跨線橋も残っているが、ホームの南端から平面でJR駅舎へ渡れるので、あまり用をなしていない。他の接続駅もそうだったように、JRと三鉄の駅舎が隣り合わせに建っている。ただ、三鉄の切符は運転士が集め、BRTも車内精算なので、改札業務は行われていない。

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(左)盛駅舎、右がJR、左が三鉄
(右)駅前にある三陸鉄道の起点碑
 

盛駅の東側には、側線が並ぶ広い構内がある。貨物専業の岩手開発鉄道が使っていて、石灰石を輸送するホッパ車が長い列をなすさまは壮観だ。構内を横断する長い跨線橋の上に立つと、黒装束の貨車の群れの中に、三鉄車両のまとうトリコロールが鮮やかに浮かび上がる。

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ホッパ車の群れの中で際立つトリコロール
 

さて、鉄路はここで惜しくも途切れていて、気仙沼方面へ向かうにはBRTに乗り継がなければならない。BRTという言葉はまだ耳慣れないが、バス・ラピッド・トランジット Bus rapid transit、すなわちバスを使った高速輸送システムのことだ。鉄道に比べて軽量、低コストの公共輸送機関として近年採用例が出始めた。

大船渡線BRTの場合、使われている車両は普通の低床バスだが、一般道だけでなく線路敷を再整備した専用道も走り、運賃は鉄道と共通だ。専用道では制限速度50km/hで、お世辞にもラピッドとは言えないが、鉄道時代に比べて運行本数は確かに多くなった。

ところがこのダイヤ、なぜか三鉄との接続をあまり考慮していない。そのため、盛では1時間30分の待ちぼうけを食らった。旅行者はともかく、こうした乗継ぎをする地元客は稀なのだろうか。そして10時50分、クルマならとうに気仙沼に着いている時刻に、ようやく三陸海岸を南下する旅が再開できたのだった。

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気仙沼方面のBRTが盛駅を出発
 

■参考サイト
三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
JR東日本-気仙沼線・大船渡線BRT
https://www.jreast.co.jp/railway/train/brt/

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2019年4月20日 (土)

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I

東日本大震災の未曾有の津波で線路が寸断され、長らく不通になっていた宮古(みやこ)~釜石(かまいし)間が、2019年3月24日、8年ぶりに復旧した。もとはJR山田線の一部だったが、第三セクターの三陸鉄道に移管され、復旧済みの北リアス線、南リアス線とともに「リアス線」を構成しての再出発だ。新生リアス線は盛(さかり)から久慈(くじ)まで163.0km、JR以外では最長の路線になる。

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閉伊川(へいがわ)を渡るリアス線の気動車
 

さっそく4月初めに初乗りを試みた。せっかくの機会なので、移管区間だけでなく、三陸海岸を北から南へ乗り通したい。日程の都合で、BRTで運行されているJR気仙沼線(陸前戸倉~気仙沼間が三陸海岸に沿う)は割愛せざるを得なかったが、八戸から気仙沼まで、営業距離にして271.6kmを2日かけて旅してきた。

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三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図
 

朝9時21分、八戸で「はやぶさ」1号を降りた。新幹線改札を出て、JR八戸線の発着ホームへ向かう。4月にしてはかなり冷える日で、断続的に降る雪が風に舞っている。停車しているのはE130形の2両編成、ローカル線も車両更新が進んで、ずいぶん快適になったものだ。定刻に発車すると、鈍色の空と雪景色の中、列車は時速40kmでとろとろと走っていく。

鮫(さめ)駅で、後から来る久慈行きに乗り継ぐとまもなく、ウミネコの大群が岩場を覆う蕪島(かぶしま)が見えてきた。ここからは太平洋の大海原が旅の友になり、左の車窓に砂浜と岩礁が交互に現れる。

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(左)雪が舞う八戸駅に停車中の八戸線E130形気動車
(右)車内、各ボックスに1組は乗っている
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(左)ウミネコの島、蕪島を車窓に見る
(右)サミットの侍浜駅では冬に逆戻り(後方を撮影)
 

陸中八木を過ぎると、線路が徐々に高さを増してきた。列車は海岸を離れ、トンネルを立て続けにくぐって、小さな谷に分け入る。周りは銀世界に戻り、サミットの侍浜(さむらいはま)駅では雪も激しくなって、あたかも雪中行軍の様相になった。坂を下って、久慈駅到着11時46分。乗客は入れ替わりがあったものの、終点まで乗り通した人も多かった。

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久慈駅
(左)八戸線ホーム (右)JR駅舎
 

この久慈駅で、三陸鉄道(以下、三鉄)リアス線と接続する。ホームは駅舎側の1・2番線をJR、線路を隔てた3番線を三鉄が使っているが、駅舎は両者別々だ。JRから三鉄へ乗り継ごうとすると、まず構内踏切を渡ってJR駅の改札からいったん表へ出る。そして三鉄駅に回り、跨線橋を渡って3番線へ、という回りくどいルートを強いられる。お年寄りや荷物のある人には、決して優しくない迂回路だ。中間改札のように、歩く距離をもっと短縮する方法を考えるべきではないだろうか。

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三鉄久慈駅舎
(左)正面玄関
(右)掲示物が所狭しと貼られた出札窓口
 

朝ドラ「あまちゃん」のロケ地にもなった三鉄の駅舎の中は、ポスター、色紙その他掲示物が所狭しと貼られている。公式サイトでは見つけにくいお得切符も、いろいろ売られていることがわかった。たとえば、

リアス線全線フリー乗車券」 土休日に発売、2日間有効 6,000円

1日フリー乗車券」 土休日のみ1日間有効、3区間に分けて発売。盛~釜石2,500円、釜石~宮古2,300円、宮古~久慈2,500円

片道途中下車きっぷ」 通年発売、片道切符だが途中下車ができる。価格は同区間の普通乗車券と同じ、たとえば盛~久慈間3,710円(有効2日)。ほかに盛~宮古(有効1日)、釜石~久慈(同2日)、宮古~久慈(同1日)の設定あり

ただ、これらのお得切符は自販機では扱っていない。そのため、有人窓口が閉まっている時間帯は買えないから、注意が必要だ(下注)。

*注 2019年4月現在、三陸鉄道の公式サイトには新線の情報がほとんどない。お得切符についても「最新情報」の過去項目に埋もれている。

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久慈駅南方の三鉄車庫、リアス線が右奥に延びる
 

片道途中下車きっぷを作ってもらい、駅舎内のそば屋「リアス亭」で売っている1日20食限定の名物「うに弁当」(1,470円)も運よく入手して、乗車準備はすべて整った。ホームに出ると、白地に赤青の帯を引いた2両編成の気動車が客待ちしている。2両編成の車内は、八戸線より乗客は減って、座る人のないボックスもある。宮古~久慈間は従来の北リアス線(下注)だが、ざっと見渡したところ、大半が地元客ではなく旅行者のようだ。通学を除けば、日常の移動で列車が使われることは少なくなってしまった。

*注 三陸海岸の北部は、地形としては隆起海岸であって、リアス海岸(沈水海岸)には該当しない。

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(左)久慈駅リアス線ホーム
(右)36-700形の車内、人のいないボックスも散見
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リアス線開通を祝うヘッドマークとステッカー
 

12時08分発車。列車は最初山間部を走り、トンネルで小さな峠を越える。雪が降りしきる中、陸中野田で列車交換があった。野田玉川まで来ると高度がかなり上がり、松林の間から覗く海は遥か下になる。線路は荒波が洗う海岸線を避けて、段丘面を渡っていくが、深く切れ込んだ谷が随所で行く手を阻んでいる。

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陸中野田で下り列車と列車交換
 

それを一気に跨ぎ越す橋梁の一つが、長さ302mの安家川(あっかがわ)橋梁だ。PCトラスの壮大な鉄橋は、大海原を俯瞰する北リアス線屈指のビュースポットにもなっている。車内に案内のアナウンスが流れ、列車は徐行どころか、1~2分橋の上で停車して、ゆっくり眺める時間を与えてくれた。

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安家川橋梁を渡る(後方を撮影)
 

堀内(ほりない)駅を出ると、もう一つの絶景、長さ176mの大沢橋梁にさしかかる。夏ばっぱが大漁旗を振って春子を見送った小さな浜が、眼下に見える。ここも同じように停車してくれるから、名シーンを思い返す時間はたっぷりある。一方、山側には国道45号線のアーチ橋、堀内大橋が架かっている。その橋のたもとから鉄橋を渡る列車をねらうのが、あまちゃん以前から、三鉄の鉄道写真の定番だ。この列車も誰かのカメラの被写体になったかもしれない。

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大沢橋梁からの太平洋の眺め
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国道の堀内大橋を通して、春まだ浅い山里が見える
 

旧 北リアス線の見どころは、だいたいここまでだろう。国鉄久慈線時代の終点だった普代(ふだい)を出ると、まるで地下鉄かと思うようなトンネルの連続区間に突入するからだ。三鉄の長大トンネルのベスト3、すなわち北から順に、普代トンネル(4,700m)、小本トンネル(5,174m)、真崎トンネル(6,532m)がこの間に集中している。

車窓に目を向けても自分の顔しか映らないので、久慈から手を付けずにいた「うに弁当」の包みを開けた。鮮やかな色の蒸しウニが表面を埋め尽くし、ご飯が見えないのは確かに感動的だ。そのご飯もウニの煮汁で焚いたものだという。旬には少し早いからか、ウニはほぐし身のようなものだったが、それでもほおばると、口の中が濃厚な香りで満たされた。ネット情報によれば、リアス亭で作り売りしているのは、夏ばっぱのモデルになった人だそうだ。

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三鉄名物「うに弁当」
(左)三鉄久慈駅舎の「リアス亭」で販売
(右)包みを開ければうに尽くし
 

宮古駅には13時54分に到着した。製鉄所やラグビーで知られた釜石に比べて、全国的な知名度がやや劣るとはいえ、宮古は岩手県の三陸海岸で最大の町だ。駅も中心街に隣接していて、川向うに町が離れた釜石駅より活気がある。

宮古~釜石間が移管されたが、今も宮古駅は、JR山田線盛岡方面との接続駅だ。久慈駅と同じように、JR駅舎の隣に三鉄駅舎が建っている。しかし扉が閉まり、張り紙がしてあった。読めば、移管を機に業務をJR駅舎に移したという。なるほどJR駅正面の表札をよく見ると、三鉄とJRのロゴが仲良く並ぶ。三鉄はJRの駅業務を受託したので、みどりの窓口も今までどおり開いている。

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宮古駅
(左)JR駅舎はこの春から三鉄と共同使用
(右)もとの三鉄駅舎は閉鎖
 

JRに乗継ぐ乗客は、いったん外改札で三鉄内の精算をして、改めて駅舎内の改札からJRの乗車券で入るように誘導される(逆も同じ)。それでも、JR駅内での移動なので、久慈駅のような大回りにならない。JRと接続する他の駅もこうすればいいのに、と思う。

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宮古駅構内
奥の車両はキットカットの応援ラッピング車
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宮古駅構内につどう車両群
三鉄車の他に山田線を走るJR車両も
 

さて、宮古で接続列車に乗れば、暗くなるまでに気仙沼までたどり着けるのだが、今日は釜石で泊ることにしている。それで列車を1本遅らせて、駅の周りを観察することにした。開通から2週間近く経ち、お祝い気分もすっかり抜けた後かと思ったが、そうでもない。

駅には、岩手日報が無料配布した3月24日付の開業特集号がまだ残っていた。当該区間の宮古、陸中山田、大槌、釜石の4駅で配り、それぞれの表紙をつなげると続き絵になるというものだ。見開きページに、自作の応援メッセージを掲げた沿線の人たちの笑顔が溢れている。また、跨線橋でつながっている駅裏の市民交流センターでは、開通を記念して新旧の鉄道写真のパネル展示が行われていた。見入っている人はもう誰もいなかったが、行きずりの者にも、復旧の日を迎えた高揚感と熱気の余韻が伝わってくるようだ。

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(左)市民交流センターの鉄道写真展示
(右)岩手日報の開業特集号
 

とこうするうちに、釜石行き列車の出発時刻が近づいてきた。そろそろ駅に戻らなくては。

次回は、その開通区間を旅する。

■参考サイト
宮古駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.639850/141.947300

三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
同 リアス線特設ページ https://www.sanrikutetsudou.com/rias-line/

★本ブログ内の関連記事
 東北圏の新線
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II
 新線試乗記-仙石東北ライン
 新線試乗記-仙台地下鉄東西線

 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間

2019年4月14日 (日)

新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間

おおさか東線は、既存の城東貨物線を利用して、新大阪駅と関西本線(愛称 大和路(やまとじ)線)の久宝寺(きゅうほうじ)駅を結ぶ20.3kmのJR路線だ。2008年3月15日に、南側の放出(はなてん)~久宝寺間が先行開通していたが(下注)、今回、北側の新大阪~放出間が完成して、2019年3月16日に開業の日を迎えた。関西での新線開業は、2009年の阪神なんば線以来10年ぶりだ。

*注 放出~久宝寺間については「新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間」参照。

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淀川橋梁を渡るおおさか東線の普通列車
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おおさか東線(新大阪~久宝寺)は
図中央の「F」で示されたルート
 

新大阪では、地上の2番線がおおさか東線の発着に充てられた(下注1)。同じホームの反対側1番線には、関西空港から京都へ向かう特急「はるか」が入ってくる。このホームを捻出するために、長い間、発着番線の移設工事が続いていたのも昔話になってしまった(下注2)。

*注1 奈良行き直通快速は1番線を使用する。
*注2 このホームはもと特急「はるか」と北陸方面の特急「サンダーバード」が発着し、11、12番線を名乗っていた。

訪れたのは月曜日。エスカレーターを降りると、久宝寺行き普通列車、うぐいす色の201系ロングシート車が停車していた。奈良まで長征する1日4往復の直通快速のほかは、すべてこの各駅停車だ。車両は関西本線(大和路線)で見慣れているが、側窓の下半分が「おおさか東線全線開業」のシールで覆われているところがいつもと違う。それに編成中1か所だけ、若草山を背景に興福寺五重塔と鹿の群れをあしらった、ささやかなラッピングシールが貼られている。さらに、後で目撃したが、八尾市の市制70周年を兼ねた開業記念ヘッドマークをつけた編成もあった。

カメラやスマホを手にした人が入れ代わり立ち代わり車両の前に立つのは、新線らしい光景だ。一方、車内は落ち着いたもので、早や普段使いで乗っているように見える。6両編成、15分間隔の頻発運行で、ロングシートがそこそこ埋まる程度の乗客数がある。昼間でこれなら、朝夕は混むのだろう。放射状路線ほどの集中度はなくても、市街地を通る環状ルートにはやはり潜在需要があるようだ。

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(左)新大阪駅のおおさか東線ホーム
   1番線は直通快速、2番線は各駅停車
(右)ささやかな全線開業のラッピング
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沿線の八尾市提供のヘッドマークをつけた列車も
 

発車時刻が来たので、その普通列車に乗り込んだ。新大阪を出ると、右手の東海道本線(JR京都線)と並行に、まずは京都方へ進む。感覚的には上り列車だが、新大阪が起点なので、下りになるという。しかし列車番号は偶数、すなわち上りの番号を付けている。それでかどうか、駅の案内では敢えて上り下りに言及しない。

すぐに東淀川駅だが、おおさか東線にはホームがなく、あっさりと通過する。神崎川のトラス橋(上神崎川橋梁)を渡り終えたところで高架に駆け上がり、同時に右に旋回して東海道線をまたいだ。最初の停車駅、南吹田(みなみすいた)はこの急曲線の途中にある。駅の北側に広場が造成され、かつて灌漑に用いたドンゴロス風車のモニュメントも設置されて、今回開業した新駅の中で最も力が入っている。

駅を出ると、再度神崎川を渡るトラス橋だが、まだ曲線は続いていて、内側の線路脇にR280(半径280m)の標識が見える。渡り終えたところで、吹田操車場から来る線路と合流した。これが本来の城東貨物線で、今通ってきた急曲線の線路は、既得の土地に新しく建設されたものだ。

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南吹田駅
(左)新規開業駅で唯一駅前広場がある
(右)ドンゴロス風車のモニュメント
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急曲線の神崎川橋梁を渡ってくる電車
南吹田駅ホームから撮影
 

新幹線の高架をくぐり、阪急の千里線と京都線をまたぐと、JR淡路(あわじ)に停車する。駅の設備は高架下にあるが、周囲は住宅街で、駅前広場を設ける余地はない。300mほど西へ歩くと阪急の淡路駅で、こちらは今、立体化工事のまっ最中だ。完成すれば阪急が、逆にJRの上空を乗り越すようになる。

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JR淡路駅
(左)高架下に駅舎を配置
(右)ホームは比較的余裕がある
 

おおさか東線の沿線風景のハイライトは、何と言っても淀川を渡る長さ611mのトラス橋だろう。1929(昭和4)年の架橋で、小ぶりの下路ワーレントラスを18個連ねたさまは壮観だ。正式名称は淀川橋梁というのだが、左岸の地名にちなみ、地元では赤川(あかがわ)鉄橋の通称で親しまれてきた。複線仕様で造られた橋に対して、貨物線は単線だったので、空いている片側が長らく、両岸をつなぐ生活道路として利用されていたからだ。

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淀川橋梁は沿線風景のハイライト
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回送の電気機関車も渡る
 

新線の着工前に一度、実際に歩いて渡ったことがある。あくまで仮橋の扱いとあって、路面は鉄板敷き、高欄は木組みの簡易な造りで、幅はわずか1.8mと人がすれ違える程度の広さしかなかった。バイクは通行不可で、自転車も降りて渡るよう立札があるものの、距離が長いので従っている人は誰もいない。さらにジョギングコースにしている人も少なからずいるようで、生活に溶け込んだ橋の存在を感じることができた。

淡路駅で降りたついでに、久しぶりに川の堤を上ると、旅客新線を通すというのに、鉄橋は上塗りが剥がれ、赤白まだらの、まるで廃橋のような姿で使われていた。再塗装に予算が回らなかったか、まだ必要ないと判断されているのかはわからないが、新しく架けられた他のトラス橋に比べると、ちょっとみすぼらしい(下注)。

*注 赤川鉄橋の北詰にあった亀岡街道踏切は廃止され、すぐ脇にアンダーパスが造られていた。

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淀川橋梁の現在と過去
(左)複線が敷かれた橋梁
(右)赤川仮橋があった頃(2013年3月撮影)
 

淀川を渡り終えれば、次は城北公園通(しろきたこうえんどおり)だ。すぐ南で交差する街路の名を採っているのだが、公共交通としては市バスしかなかったエリアにとって、待望の鉄道駅だ(下注)。西側の小さな商店街には蕪村通りの名があった。旧 毛馬村が与謝蕪村の生誕地であることにあやかっているのだが、このあたりで昔の風情を偲ぶのは難しい。

*注 ただし、城北公園通を通る市バス(大阪シティバス34号系統)は梅田に直結し、かつ頻発しているので、鉄道より便利なのは間違いない。

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城北公園通駅
(左)自転車置き場はすぐ満杯になりそう
(右)蕪村通り商店街にも祝いの横断幕が
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高架の足回りは貨物線時代のまま
 

しばらくは直線区間だが、先頭車両のかぶりつきで見ていると微妙に曲がっていて、定規で引いたような南区間とは様子が違う。南区間はかつて、近鉄大阪線を乗り越した後、地上を走っており、旅客線化に伴い複線高架を新たに立てた。それに対して、北区間はもともと築堤上の単線で、基本的に腹付けにより複線化したので、まっすぐとはいかなかったのだろう。ちなみに大阪市都島区と旭区の境界も、この線路の東側に沿って引かれており、こちらはみごとに直線的だ。

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微妙に曲がる線路
城北公園通駅ホームから南望
 

JR野江(のえ)は、京阪の野江駅に近いが、家が建て込んで互いに見通せない。京阪とJRを乗り継ごうとする人はふつう京橋駅まで行くから、実害はないのだろう。ホームにいたら、目の前をごうごうと貨物列車が通過した。結構長いコンテナ貨物で、改めてここが貨物との共用であることに気づく。

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JR野江駅
(左)京阪駅は奥へ200m
(右)開業を知らせる幟もあちこちに
 

左から片町線(学研都市線)の複線が近づいてきた。鴫野(しぎの)~放出(はなてん)の1駅間は両線が並走する区間だ。鴫野ではホームがまだ路線別だが、その後、片町線上り線(木津方面)がおおさか東線の複線を乗り越して、左外側に移る。これで方向別配線となり、放出駅では、新大阪から四条畷方面、また久宝寺から京橋方面が同一ホームで乗り継ぎできるようになる。さらに放出の先で、片町線下り線(京橋方面)が右外側からおおさか東線をまたいで、X字交差が完成するのだ。歴史の古い片町線が新参路線を乗り越す形にしているのは、貨物列車の走行ルートに極力勾配を入れない配慮だろう。

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(左)ときに貨物列車も通過、JR野江駅にて
(右)新規区間の南端、放出駅
 

放出では3分停車する。その間に隣のホームに片町線の区間快速が到着して、乗客の移動があった。なるほど、この停車は単なる時間調整ではなく、両線の列車を接続させるための待ち時間のようだ。日中は両線とも15分間隔の運行なので、上下ともこうした乗継ぎが可能なダイヤになっている。尼崎駅の絶妙な相互接続のノウハウが、ここにも移植されているとは知らなかった。

放出から先は既存区間だが、11年ぶりに足を踏み入れて、全線通しの初回乗車を楽しんだ。新大阪を発って34分で、電車は終点の久宝寺に到着した。

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久宝寺では奈良行き列車(左側)に同一ホームで接続
 

奈良方面へは、ここで関西本線(大和路線)の列車に接続しているし、先述の直通快速も1日4往復ながら走る(下注)。それで駅貼りのポスターも、「直結!おおさか東線、新大阪に奈良に」をアピールする。とはいえ、新幹線沿線から奈良へは、京都で近鉄奈良線に乗り換えるルートがとうに確立している。西から新大阪止まりの「みずほ」などで来る人も、数少ない直通快速の時刻に合わせて行動する人はほとんどいないに違いない。

*注 直通快速はこれまで放出からJR東西線経由で尼崎へ向かっていたが、おおさか東線全通を機に新大阪へ行先が変更された。

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新大阪と奈良の直結を
アピールするポスター
 

その意味でおおさか東線は、今のところ観光客よりも通勤通学客の期待を背負ってスタートしたと言うべきだろう。新大阪を通る東海道線(JR京都線・神戸線)は、今や私鉄を凌駕して京阪神間の旅客輸送における大動脈となっている。そこに直接接続する意義は大きいし、朝夕混雑を極める大阪駅や梅田駅での乗換えを回避できるのもメリットだ。将来的には、梅田貨物駅跡地で整備中の、いわゆる「うめきた新駅」まで運行が延長される予定だというから、その傾向はさらに強まるだろう。

一方、観光客を呼び込むには、直通快速の利便性向上が鍵になる。しかし、すでに大阪環状線内から大和路快速が15分間隔、京都からのJR奈良線みやこ路快速も30分間隔で走っている。それほどの高頻度ダイヤが、おおさか東線にも適用される日が来るとは思えないのだが。

■参考サイト
淀川橋梁付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.688100/135.563200

★本ブログ内の関連記事
 新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間

 2019年開通の新線
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I

2018年10月25日 (木)

コンターサークル地図の旅-豊橋鉄道田口線跡

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田口線の忘れ形見モハ14
 

廃線跡が遠からずダム湖の底に沈む、という話を聞いたのは、確か2年前、巴川の谷中分水(下注)を見に行ったときだった。鉄道が通っていた渓谷に大規模なダム建設が計画されており、ちょうどルートを横切る形で造られるため、それより上流側が水没して、二度と見られなくなってしまうというのだ。

*注 谷中分水の訪問記は「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」にある。

鉄道は豊橋鉄道田口線といい、現 JR飯田線の本長篠(ほんながしの)から三河田口(みかわたぐち)まで22.6kmを結んでいた。沿線にあった広大な御料林の木材搬出や鳳来寺への観光輸送を目的として、1929(昭和4)~1932(昭和7)年に順次開通した。

当初は田口鉄道が運営していたが、戦後、1956(昭和31)年に名鉄系列の豊橋鉄道に合併されて、上記の名称となった。しかし、木材輸送のトラックへの移行や過疎化による人口減少などの影響で、運輸実績が落ち込み、1964(昭和39)年にバス転換の方針が示される。折悪しくその翌年、台風による土砂災害で、最奥部の清崎(きよさき)~三河田口間が不通となった。さらに1968(昭和43)年に田峯(だみね)~清崎間も同様の被害に見舞われたことで、復旧の願い空しく全線廃止されたのだ。

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田口線現役時代の1:200,000地勢図(1969(昭和44)年修正図)
 

2018年10月14日、コンターサークル秋の本州旅の初日は、この廃線跡を追いかける。用地買収や家屋移転がほぼ終わり、ダムの事業工程がいよいよ本体にかかり始めており、今回がおそらく見納めになるだろう。

ちなみに、ルートを追うことができる地形図は、1:50,000が最大縮尺だ。1:25,000は初刊が1970(昭和45)年編集のため、タッチの差で鉄道は描かれなかった。ただし初刊図の段階では廃線跡の大半がまだ手付かずで、幅員1.5m未満の道路記号を使って明瞭に示されている。1:50,000を補完する意味で、以下では大いに利用している。

豊橋からJR飯田線の普通列車に乗った。のんびりと対向列車待ちもあって、終点の本長篠まで1時間20分かかった。電車で来た浅倉さんと私、そして改札前で待っていてくれた外山さん、この3名が本日の参加者だ。この廃線跡に詳しい外山さんが、クルマで見どころを案内してくださる。

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JR本長篠駅
右写真の、今は使われていない左(駅舎側)のホームに田口線が発着していた
 

朝方の雨で路面はまだ濡れているが、雲間から早や青空も覗き始めた。まずは鉄道の終点だった田口に向かって、車を走らせる。県道長篠東栄線から国道257号線へとつなぐ道路はまさに鉄道の通過ルートに沿っていて、クルマの外を流れる景色が、乗ることの能わなかった列車の車窓とだぶって見える。

田口の町は、周辺を流れる河川の活発な浸食によって孤立した高原の小盆地に立地する。その町並みからさらに高い丘の上にある奥三河郷土館を訪れた。ここには田口線の関連資料も保管されているので、美幸線のときのように(下注)探索の前に目を通しておきたいところだが、あいにく移転準備のために長期休館中だ。

*注 美幸線の廃線跡訪問記は「コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車」参照。

ただ幸いなことに、前庭に展示されている田口線の旧車両モハ14は、観察が可能だった。屋根が架かっているので、保存状態もいい。窓から内部を覗くと、片側のロングシートを外して、資料の展示スペースにしてあるのがわかる。行先標は「清崎(三河田口)」と記され、廃止直前の様子を再現しているようだ(下注)。郷土館とともにこの車両も移設される予定だが、新館の建設地、つまり引越し先がほかならぬ清崎だというのは、話が出来過ぎている。

*注 晩年の3年間、不通となった清崎~三河田口間はバスで代行され、列車は清崎止まりだった。

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奥三河郷土館の前庭に静態保存されているモハ14
 

町を通り抜け、森の中のつづら折りの急坂を下る。旧 三河田口駅が設置された場所は、豊川上流の寒狭川(かんさがわ)が長い時間をかけて刻んだ深い谷底で、町との高低差は100m以上もあった。狭い川岸にダム工事用の仮設道路や転流工と呼ばれる水路トンネルが姿を現すなか、旧駅舎とホームの土台の一部が奇跡的に露出している。

その脇に、田口線の年表をはじめ、駅構内図、昭和35年ごろの町の施設配置図など、興味深い資料を掲げたにわか作りの案内板が立っていた。今年は廃線50周年に当たり、駅跡にもそのことを告げる幟が多数、風にはためいている。「今日はこの廃線跡を全線踏破するイベントをやっているはずです」と外山さんが言う。「田口を8時半出発なので、途中どこかで出会うと思いますよ」。

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(左)三河田口駅跡、下段が線路敷、中段がホーム、上段が駅舎の基礎
(右)現役時代の駅(現地案内板を撮影)
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三河田口駅構内図(現地案内板を撮影)
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清崎~田口間の新旧地形図
(左)田口線現役時代の1:50,000(1957(昭和32)年)を2倍拡大
(右)現在の1:25,000(2014(平成26)年)、廃線跡は幅員3.0m未満の道路記号で描かれる
 

廃線跡は、渓谷に沿う1車線の舗装道に転用され、清流の音を聞きながら歩ける絶好のハイキングコースになっている。しかし、ダムの予定地である最初のトンネル(旧 大久賀多第二隧道)の手前までは、赤のカラーコーンや注意を呼び掛ける立て看板が点々と置かれ、もはや工事現場そのものだ。トンネルは下流側にあるため、水没こそ免れるが、関連工事でやはり崩される運命にあるらしい。

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工事現場と化した廃線跡
(左)駅跡近くに工事用仮設道路が立ち上がる
(右)ダム本体の予定地では転流工を建設中
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渓谷沿いの廃線跡と旧 大久賀多第二隧道
(左)北口 (右)南口
 

道を下っていくと、次の旧 大久賀多第一隧道があった。清崎までの間にこうしたトンネルが計6本あるが、昭和初期の建設なので、ポータルは煉瓦積みではなく、飾り気のないコンクリート製だ。しかし、このトンネルは内部が素掘りのままだった。側壁に電線の碍子も残されていて、出自を彷彿とさせる。

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旧 大久賀多第一隧道
(左)内部は素掘りで、電線の碍子が残る
(右)南口、小さな滝が落ちていた
 

やがて渓谷が大きく蛇行する区間にさしかかった。線路はこれを2本のトンネル(入道島第二隧道、同 第一隧道)とその間をつなぐ1本の鉄橋(第四寒狭川橋梁)でショートカットする。橋は4径間のプレートガーダー橋だが、河原へ降りて仰ぎ見ると橋脚はかなりの高さで、大掛かりな工事であったことが実感される。「帝室林野局が工費の半額近くを負担したので、実現した鉄道なんです」と外山さん。

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旧 第四寒狭川橋梁
(左)奥の明るい部分が橋梁。橋は2本のトンネルにはさまれている
(右)寒狭川を斜めに一跨ぎ
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旧 第四寒狭川橋梁
橋脚はかなりの高さがある
 

トンネルの後は高い築堤を築きながら徐々に下降していき、田内隧道をくぐり、川を斜めに渡る。この第三寒狭川橋梁も、5径間のガーダーがそのまま残り、鉄道の雰囲気が濃厚だ。

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清崎駅手前の旧 第三寒狭川橋梁
(左)現在は箱上橋または辨天橋の名で呼ばれる
(右)プレートガーダーが鉄道の雰囲気を残す
 

所期の目的を果たしたので、橋を眺められる川原で昼食を広げた。私はいつもコンビニおにぎりなのだが、今日は珍しく、豊橋駅で壺屋の稲荷寿しを買ってきている。

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豊橋駅名物、壺屋の稲荷寿しを昼食に
 

この清崎から少しの間、廃線跡は国道257号線に「上書き」されてしまう。次に姿を見せるのは、国道の清嶺トンネルの下流側だ。鉄道としては清崎第三隧道なのだが、南口だけが残っていて、崩れてきた土砂のために、内部は水に浸かっている。蒼く澄んでいるものの、かなり深そうだ。左岸に延びる廃線跡は荒れているので、田峯側からアプローチすると、沢を渡る短い橋梁の鉄桁が残っていた。

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(左)清崎第三隧道南口は蒼い水が溜まる
(右)沢を渡っていた橋梁の鉄桁が残存
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田峯~清崎間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000
(中)廃止直後の1:25,000(1970(昭和45)年)、廃線跡が明瞭に描かれる
(右)現在の1:25,000、廃線跡の大半が図上から消えた
 

森林鉄道が接続していた旧 田峯駅を出た後、鉄道はまた寒狭川を渡る。4度目の渡河だがこれが最後で、もう寒狭川の谷に戻ることはない。惜しいことに鉄橋(第一寒狭川橋梁)も、それに続く路線最長の稲目隧道(1511m)も、県道として拡幅改修されたため、昔の面影は消失している。

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田口線のそれを拡幅改修した県道富栄設楽線の稲目トンネル
 

旧 滝上(たきうえ)駅付近では、例の廃線跡ウォークの参加者と思しき集団を見かけた。三河田口からすでに10kmは来ているが、本長篠までの道のりにすればまだ半ばだ。心の中でエールを送りつつ、先を急ぐ。

ここで廃線跡は国道から分かれて、しばらく海老川の右岸を南下する。旧 海老駅の南側からは1車線の舗装道になるので、寄り道した。少し走ると、山水画にでも出てきそうな切り立った断崖が行く手を遮っているのが見えてきた。鉄道の双瀬隧道がそれを果敢に貫いている。クルマから降りて、「ぜひ見てもらいたかった場所です」という外山さん推薦の絵になる景色をしばし嘆賞した。

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切り立った断崖を貫く旧 双瀬隧道
北口のポータルは斜めに切られた珍しいもの
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三河海老周辺の新旧地形図
 

その後、廃線跡はすんなり海老川の谷を下りきると思わせて、旧 玖老勢(くろぜ)駅からまた山越えにかかる。鳳来寺の参道に近づけるためのルート選択なのだそうだ。鳳来寺小学校の脇から踏み分け道を森の中へたどると、高い築堤が昼なお暗い谷を横切っていた。これが廃線跡で、左カーブで切通しを抜けて、路線第二の長さがあった麹坂隧道(441m)の北口に通じている。50年も経つにしては、藪に埋もれることなく、難なく歩ける明瞭さを保っているのが不思議だ。

これに対して隧道の南口は、巴川の谷中分水を巡検した帰りに立ち寄ったことがある。バリケードで封鎖されていたものの、内部は崩れずにこの北口まで今でも貫通しているらしい。

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昼なお暗い谷を横切る麹坂隧道北側の築堤
(左)旧道が築堤の下をくぐる
(右)線路敷は今も明瞭さを保つ
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(左)麹坂隧道北側の切通し
(右)麹坂隧道北口、坑内の湧水が流れ出る
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鳳来寺~玖老勢間の新旧地形図
(左)現役時代の1:50,000(1960(昭和35)年)
(中)廃止直後の1:25,000(1975(昭和50)年)、万寿隧道の前後は描かれていない 
(右)現在の1:25,000(2016(平成28)年)、遊歩道となった区間を除き、図上で廃線跡を追うことはできない
 

次に案内してもらったのは、三河大草駅跡だ。鳳来寺駅から山を越えて、本長篠へ降りていく長い下り坂の途中にある。線路はこの区間で、高度を稼ぐために谷筋を離れて、山手を迂回する。それで、のどかな山田の風景を串刺しにするように、廃線跡のトンネルと高い築堤が横切っているのだ。

そのトンネルの一つ、大草隧道を南へ抜けたところ、薄暗いスギ林に包まれて、苔むした石積みのプラットホームが残っていた。辺りは背筋が寒くなるほどひと気がなく、ここで電車を待つのは勘弁願いたいところだ。ところが、崩れかけたホーム越しにトンネルが明るく透けて見えるのが幻想的だと、今やインスタ映えする景色を求めて、わざわざ写真を撮りに来る人がいるという。

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富保、大草両隧道の間で谷を渡る築堤

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三河大草駅跡
(左)南望
(右)北望、薄暗い森の中でトンネルだけが透けて見える

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本長篠~万寿隧道間の新旧地形図
 

最後に、県道長篠東栄線の脇に立つ石積みの高い橋脚のところで車を停めた。川と道路を一気にまたいでいた大井川橋梁の遺構だが、上空に渡されていたはずの橋桁はとうになく、橋脚だけがひとり谷間から天を仰いでいる。この後、田口線跡は再び1車線の舗装道として復活する。そして短い旧 内金隧道を経て、桜並木の間を緩くカーブしながら、ゴールの本長篠駅へ近づいていく。

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県道脇で天を仰ぐ旧 大井川橋梁の橋脚
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桜並木に続く旧 内金隧道
 

廃線跡ウォークなら7時間はかかる行路を駆け足で巡る旅だったとはいえ、谷を縫い、山をいくつも越えて、ここまで出てくる道のりの険しさ、遠さは想像以上のものがあった。鉄道廃止が取り沙汰された当時、地元では強い抵抗があったそうだ。それは歴史あるものに漠然と抱くノスタルジーを超えて、この難路を45分ほどで走破していた田口線に対する現実的な信頼度の高さを示す証しだったのではないか。路線が有していた存在意義は、今なら理解できる気がする。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田口(平成26年調製)、海老(昭和45年測量および平成25年調製)、三河大野(昭和50年修正測量および平成28年調製)、5万分の1地形図田口(昭和32年要部修正測量)、三河大野(昭和35年資料修正)および20万分の1地勢図豊橋(昭和44年修正)を使用したものである。

■参考サイト
田口線(田口鉄道)、今蘇る http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
設楽ダム工事事務所 http://www.cbr.mlit.go.jp/shitara/

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2018年10月19日 (金)

コンターサークル地図の旅-美幸線跡とトロッコ乗車

2018年9月2日、北の大地はひんやりとした秋の空気に包まれ、見上げればすっきりと青空が広がっている。まだ蒸し暑さが続く関西から来た者にとっては、なんともうらやましい。今朝の旭川の最低気温は10度まで下がったが、昼間は23度という予想なので、行楽に出かけるには最適の季節に違いない。

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仁宇布の美幸線跡を活用した「トロッコ王国美深」
 

旭川駅9時ちょうど発の稚内行き特急「宗谷」に乗り込んだ。本日のコンターサークル道内の旅は、国鉄美幸線の跡をたどることになっている。美幸線というのは、かつて宗谷本線の美深(びふか)から分岐して、仁宇布(にうぷ)まで21.2kmを走っていたローカル線だ。1964(昭和39)年開業という遅咲きの路線で、沿線が人口希薄な山中のため、筑豊の添田線などとともに日本一の赤字路線の座を争っていたことで知られる。

そもそも路線は仁宇布が目的地ではなく、分水界を越えて、オホーツク海岸の北見枝幸(きたみえさし)で興浜北線と接続する計画だった。起終点の駅名からそれぞれ一字を採った美幸線の名はなかなかよくできているが、国鉄再建法の成立で第一次廃止対象線の一つに挙げられ、1985年に廃止されてしまった。運行されたのはわずか21年で、その名にそぐわず、幸薄かった国鉄線だ。

私も美幸線には一度だけ乗ったことがある。メモを繰れば廃止の2年前、1983年8月のことだ。一日4往復、朱色のディーゼルカーが単行で走っていた。このときは同じ道北の天北線や興浜北線・南線なども巡ったのだが、悲しいことにその後すべて路線図から消えてしまった。廃止から33年、美幸線跡は今どうなっているのだろうか。

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美幸線現役時代の1:200,000地勢図(1973(昭和48)年修正図)

名寄駅で宗谷から降りて、レンタカーを運転してきた真尾さんと合流した。参加者はこの二人だけだった。札幌からの距離は200km以上(下注)、高速道路を使っても車で3時間近くかかる場所だから、無理もないことだ。

*注 JR(国鉄)の営業キロは、札幌から名寄まで213.0km。仁宇布までは256.3kmで、ほぼ東京~浜松間に相当する。

まずは、起点の美深駅へ向かうことにする。そこに美幸線の資料館があると聞いていたからだ。駅舎はレンガタイル貼りの2階建てで、美幸の鐘と称する時計塔が中央に立ち、見た印象は名寄駅よりもはるかに立派だ。階段を上がった2階の半分が展示室に充てられていた。開通から廃止に至るまでの写真や資料、駅や乗務員の備品、時刻表、乗車券類のほか、廃止撤回をめざして精力的に行っていた宣伝活動の品々も揃っている。たいへん充実した内容で、33年経ってもなお、消えた鉄道を惜しむ地元の人々の気持ちが伝わってくる。

1階の売店に記念グッズがあったので、サボ(列車の行先標)を象ったキーホルダーを土産に購入した。美幸線の乗り場は、確か向かいの島式ホームの外側、3番線だったはずだ。駅舎の横から覗くと、当時の面影がまだ残っているように見える。

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(左)美幸の鐘のあるJR美深駅舎
(右)美幸線の列車が発着していた美深駅3番ホーム(島式ホームの外側)
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美幸線展示室の展示品から
(左)サヨナラ列車の写真
(右)サボ(列車の行先標)、切符ほか関係資料
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(左)仁宇布駅の発車時刻表
(右)赤字路線を逆手に取った宣伝活動のチラシ
 

美深駅を後にして、道道49号美深雄武線を東へ進んだ。畑の中をまっすぐに山手へ向かう一本道だ。美幸線には中間駅が二つあり、東美深、辺渓(ぺんけ)といった。後者は道道のすぐ横にあったはずなので、車を停めて行ってみた。

十号川に架かるコンクリート橋が残っていたから、線路が通っていたのは確実だが、前後に続いていたはずの築堤は消失し、畑に変わっていた。当然、辺渓駅の跡も見当たらない。真尾さんが、橋台の際の、築堤を崩したと思しき場所に生えていた木を指さす。すでに幹の太さが一抱えもあり、経過した時間の長さを感じさせた。

このあと線路跡と道道は重なり合うように渓谷に入っていく。人家は全くないので、次はもう終点の仁宇布だが、駅間距離は14.9kmもあった。何度か渡るペンケニウプ川には、美幸線のコンクリート橋が、旧 美深町営軌道(下注)のものと思われる橋の遺構と並び残っている。ガーダー橋と違って、橋桁だけ撤去するわけにはいかないからだが、今となっては貴重な史跡だ。それに比べて、道路に並行していたはずの線路跡は、森の中で自然に還ってしまったようだ。

*注 美深町営軌道は、美深~仁宇布間にあった762mm軌間の簡易軌道で、主として木材輸送に用いられたが、美幸線開通に先立ち、1963年に廃止された。

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美幸線廃線跡
(左)辺渓駅手前の十号川に架かるコンクリート橋
(右)道道の第四仁宇布橋から、町営軌道の橋台(手前)、美幸線の橋梁(奥)を望む
 

やがて、高広パーキングと書いた標識が現れた。ここから仁宇布駅跡までの間は、線路が残されている。ディーゼルカーの代わりにレールバイク(軌道自転車)を使って、美幸線乗車を追体験できる観光施設に使われているのだ。当地ではレールバイクではなくトロッコと呼ぶので、以下の説明はそれに倣うことにしよう。

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仁宇布周辺の1:25,000地形図
トロッコ専用線路の注記がある

仁宇布駅跡を拠点とする「トロッコ王国美深」は、想像以上に設備の整った施設だった。車庫と整備場を兼ねた大きな建物と、その前に3本の側線を備えたヤードもある。整備場に隣接する高床のホームは旧 仁宇布駅のもので、子ども用のトロッコのミニコースが発着している。その後ろには、どういう経緯か知らないが、国鉄時代の581系寝台電車(サハネ581-19)が停めてあり、内部の見学も可能だ。長年の風雨に曝されて、塗装は無残に剥がれているものの、内装はまだきれいだった。

さっそく王国の乗車受付というか、入国審査カウンターへ行く。「広い施設ですね」と話しかけると、係官(?)の女性は「もう20年やっています。その間に拡げていったんです」と言う。トロッコ運行は1998年7月に始まっていて、この種の廃線跡活用では草分け的存在だ。支払いを済ませ、入国旅券の査証欄にスタンプを押してもらって、手続きは完了した。

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「トロッコ王国美深」
(左)現「駅舎」、コタンコロカムイ驛の看板が掛かる
(右)内部の休憩スペース
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(左)正面の高床ホームは美幸線時代の遺構
(右)車庫の奥に置かれた581系寝台電車
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記念スタンプと記念乗車券
 

乗り場に出て、車両を観察する。3人掛けロングシートが前後に並ぶ6人乗りが主だが、グループ用の9人乗りも見かけた。全部で20台あるというから、人気のほどが知れる。車体には農作業などに使われる汎用小型エンジンが搭載されているので、足漕ぎは必要ない。クルマを運転する要領で、床にあるアクセルを踏めば走り、ブレーキを踏めば停止するのだ。サイドブレーキもついていて、停車中はこれを手前に引いておく。こうした操作があるため、運転する人は、普通自動車免許の提示を求められる(下注)。

*注 免許証を持っていない場合は、スタッフが運転する。

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トロッコ車両
(左)汎用小型エンジンを搭載
(右)運転席の床に設置されたアクセルとブレーキのペダル(緑の矢印)
 

トロッコは毎時00分の出発だ。受け付けたグループ数に応じて台数が用意され、少し間をおいて順にスタートする。私たちは12時発で、全部で6台走るうちの4番目だった。発車10分前に全員、乗り場前に集合して、スタッフの方から乗車に際しての注意事項を聞いた。
「コースは片道5kmありますので、往復で30~40分かかります。安全のために、前を行くトロッコとの車間は詰めないでください。100m程度空けて、つかず離れず走るようにお願いします」

「途中踏切が6か所あります。線路は廃線になっていますので、道路のほうが優先です。農道林道で車はめったに通りませんが、十分注意してください。鉄橋も大小合わせて6か所あります。落下防止のガードレールなどはないので、アクセルを緩めて通過してください。それから、ズボンのポケットに車の鍵やスマホなどを入れている方は、バッグか何かにしまったほうがいいです。線路の脇はすぐ草むらで、落とすとまず見つけられません」。

「折り返し点はループになっていて、上りの急カーブです。スピードを出し過ぎると脱線します。逆に緩めすぎると停まってしまいます。もし車輪が空転して再発進できないときは、助手席の人が降りて後ろから押してください…」。

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出発説明はこの看板の前で受ける
 

乗り場に移動し、赤色の17号車に乗り込んだ。真尾さんが運転席に座る。順番が来ると、スタッフの人が後ろのエンジンを始動した。出発だ。汎用エンジンのバタバタという騒音が響き渡り、それにレールの継ぎ目を通るときのゴトンゴトンというジョイント音が加わる。車体は絶えず小刻みに揺れ、乗り心地がいいわけではないが、風を切って本物の線路の上を滑っていくのは特別な感覚だ。

農道を横切り、白樺の並木を抜け、清らかな谷川のせせらぎを渡り、広葉樹の林に包まれる。片道だけでもけっこう乗りがいがある。真尾さん曰く「アクセルの遊びがないので、踏むとすぐ反応しますね。加減が難しい」。

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トロッコは白樺の並木を抜け、緑濃い森の中へ(左写真は帰路写す)
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(左)踏切の線路側に立つ一時停止標識(通る車はめったにないが)
(右)橋はコンクリート製で、バラストが敷かれ、下が透けてはいない
 

ようやく終端まで来た。ループは鉄道としては確かに超急曲線で、上り勾配にしてあるのは、速度を落とさせるためだとわかる。通過にはアクセルとブレーキの微妙な調節が必要だが、「だいぶ感覚がつかめてきました」と、停止することもなく無事クリアした。真尾さんは以前にも一度乗ったことがある。「そのときは係の人が手作業で1台ずつ方向を変えていましたから、ずいぶん省力化されましたね」。

ポイントの手前に係員が立ち、すべての車両がループに入るのを待っている。それからポイントを切り替えて、再び1台ずつ発車し、同じ線路を戻っていく。日曜ということもあって、次の13時発も6~7組並んでいて、なかなかの盛況ぶりだった。

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高広の終端ループにさしかかる
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(左)超急カーブ、速度注意!
(右)ポイントの交差角度も急過ぎて、汗
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ループに全車両が入った後、ポイントが切り替えられ、仁宇布に向けて再発車
 

昼食をとった後は、天竜沼へ寄り道した。仁宇布の南南東約5km、松山の中腹にある森の中の湖沼だ。駐車場の端から始まる遊歩道を少し降りたところに、シナノキやナラ、エゾマツの深い林に囲まれて、ひっそりとたたずむ沼があった。濃淡ない混ざった木々の緑が、水面におぼろげに映り込んでいる。池を半周する木道があり、それを伝っていくと、見る角度と光線の差し加減によって、沼の表情が明から暗へ、また明へと刻々と変化するのがおもしろい。

これは、堀さんが好んで訪れた、無名で多少とも行きにくいところにある小さな沼、「B級湖沼」に該当するだろう。「実は、あの言葉を言い出したのは私なんです」と真尾さん。B級グルメなどに倣ってそう呼んでいたのを、堀さんが著書で取り上げたのだそうだ。

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森に囲まれ静かにたたずむ天竜沼
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木道が沼を半周している
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天竜沼周辺の1:25,000地形図
 

せっかく仁宇布まで来たので、時間の許す限りで、美幸線の未成線、すなわち未開通のまま放棄された線路の跡を追った。1:200,000地勢図に書き込んだルートのとおり、分水界の西尾峠を越えた後も、線路はまったく人家のない山中を縫っていく。これらは路盤工事がかなり進捗していたにもかかわらず、美幸線の営業廃止に伴い、あらかた原野や森に埋もれたか、農地その他に還されてしまった。

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牧場を横断する美幸線の未成線跡
 

その中で例外的に再利用されているのが、仁宇布~北見大曲間に掘られた第2大曲トンネル(長さ1,337m)だ。2車線に拡幅改築されて、道道美深中頓別線の天の川トンネル(1,353m)に生まれ変わり、難所だった大曲峠の山道を置き換えた。形は違えども、鉄道構想に込められた願いを実現したわけだ。私たちはこの道路トンネルを通り抜け、経緯を記す案内板を見届けて、全線が幻と化した美幸線跡を後にしたのだった。

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未成線のトンネルを拡幅改築した道道の天の川トンネル
(左)西口ポータル
(右)経緯を記す西口の案内板
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美幸線未成線のルートと駅予定地
1:200,000地勢図(1972~73(昭和47~48)年修正図)に加筆
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図仁宇布(平成22年更新)、20万分の1地勢図名寄(昭和48年修正)、枝幸(昭和47年修正)を使用したものである。

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2018年8月14日 (火)

ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

貸切運行のモ161で阪堺線の終点、浜寺駅前に降り立った一行は、20分の休憩の間、車内を撮影したり、近くにある南海本線の駅舎を覗いたりして過ごした。

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浜寺駅前に停車中のモ161
(以下、特記ないものは2014年4月撮影)
 

浜寺は、古くから白砂清松の海岸として知られた場所だ。沖合に埋立地が造成される以前は、海水浴場にさまざまなレジャー施設が併設された行楽の人気スポットだった。戦前、大阪市内からここまで、南海本線、阪堺線(阪堺電気軌道、1915年から南海鉄道阪堺線)、新阪堺(正式名称は阪堺電鉄、下注)と3本の鉄道が通じていたことからも、その賑わいぶりが想像できる。

*注 阪堺電軌とは別会社で、1944年に大阪市電へ吸収される際に、堺市街から浜寺までの末端区間は廃止された。

南海本線の駅名は浜寺公園といい、1907(明治40)年に建てられた私鉄最古級の木造駅舎が最近まで使われていた。惜しいことに、鉄道の高架化工事に伴って2016年1月に駅舎としての役割を終え、現在は、曳家により高架工事に支障しない位置に移設保存されている。一方の阪堺線の電停名は浜寺駅前、つまり南海の駅前という意味だ。控えめな名称に合わせるように、駅舎も切妻屋根のささやかなものだ。たいていホームに次の電車が停まっているから、待合室を設ける必要もないのだろう。

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瀟洒なデザインが特徴的な南海本線浜寺公園駅の旧駅舎
(2010年4月撮影)
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浜寺駅前電停は南海の駅(右奥)から公園へ通じる通り沿いにある
(2010年4月撮影)
 

そろそろ折返しの出発時刻になる。13時20分に出た定期列車の後を追って、モ161もホームを離れた。復路では、我孫子道車庫に寄り道した後、上町線の起点、天王寺駅前まで行くことになっている。

先行車が各電停で客を拾っていくので、こちらは徐行したり、ときには停止したり、車間距離を見計らいながらの運行だ。その間、車内ではサイレントタイムの指示があった。おしゃべりは控えて、吊り掛け駆動の懐かしいうなり音を鑑賞する。意識はおのずと車外の動く景色に向くから、数分おきにすれ違う対向列車が気になる。

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モ161の復路
(左)大道筋で先行車の後を追う
(右)まもなく我孫子道電停
 

大和川を渡り、大阪市域に入って最初の停留場が、我孫子道(あびこみち)だ。南側のホームの前まで進んだ後、バックでゆっくりと車庫の構内に入っていった。東端の側線で停車、ここでも20分間の休憩がある。業務の支障にならないよう行動範囲を限定した上で、車庫見学が許された。

ここは阪堺電車の運行拠点なので、街路で見かけるさまざまな車両が休んでいる。堺トラム第2編成の紫おんがいるかと思えば、目立つ塗色のモ601形、その陰に隠れるように橙帯の旧 京都市電の姿も確認できた。モ161の前で全員が記念写真に収まった後、再び車内へ戻る。

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我孫子道車庫のモ161
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我孫子道車庫に憩う車両群
堺トラム、モ601形、旧 京都市電
 

我孫子道を14時07分に出発した。少し進めば、住吉大社前の併用軌道だ。住吉電停の先で、右へ分岐する渡り線を経由して、いよいよ上町線の専用軌道に進入する。

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専用軌道上にある住吉電停の下りホーム
浜寺駅前直通運転開始直後の2009年9月撮影
 

阪堺電気軌道のサイト等によれば、上町線のルーツは軌間1067mmの馬車鉄道だ。1900(明治33)年に、まず天王寺西門前~東天下茶屋間が開通している。1909年に会社が南海鉄道に合併された後、1910年に住吉神社前(現 住吉)への延伸と電化・改軌工事が完成した。南海線の駅に隣接する住吉公園(下注)まで全通したのは1913(大正2)年のことだ。その後1921年に、天王寺駅前以北の区間が大阪市電に譲渡されて、上町線の営業区間が固まった。

*注 当時は南海線の駅名も住吉公園(1912年開業)で、上町線の駅名はそれに合わせたもの。

出自が異なる阪堺線と上町線だが、旧 阪堺電気軌道が南海と合併した1915年以来、もう100年以上も姉妹線のように扱われている。南海時代には、1980年に廃止された平野線(今池~平野)とともに、大阪軌道線と総称されていた。

旅客流動は、恵美須町よりも交通の結節点であり商業の中心地である天王寺/阿倍野に向いているため、上町線と阪堺線をつなぐ系統の利用者が多い。2009年に上町線天王寺駅前と阪堺線浜寺駅前を結ぶ直通運転が復活した(下注)。代わりに阪堺線恵美須町発の電車が我孫子道止まりになり、堺市域からも天王寺へ直結させるという会社の戦略意図が明確になっている。

*注 浜寺駅前への直通運転は1955(昭和30)年に始まったが、1973年から我孫子道止まりに短縮されていた。

前回も触れたが、貸切乗車のときはまだ上町線の末端区間、住吉~住吉公園間200mが残っていた。ただ、ひと月ほど前(2014年3月)のダイヤ改正で、住吉公園の発着が大幅に減便され、朝の7~8時台の5往復(土休日4往復)だけになっていた。乗り合わせた人たちと、きっとこれは廃止の前触れに違いないと話していたのを覚えている。

予測は、わずか2年後に現実となった。2016年1月31日付でこの区間が廃止され、利用者は近くの住吉鳥居前電停に回らざるを得なくなった。屋根があり風雨をしのげる住吉公園に比べて、鳥居前は道路上で、吹きさらしの狭い安全地帯だ。快適度にはかなりの落差があるが、運用効率のほうが優先されてしまった。

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住吉公園電停ありし頃(4点とも2009年9月撮影)
(左)住吉電停前の平面交差
(右)住吉公園駅にさしかかるモ602
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(左)2線3面のささやかなホーム
(右)駅舎正面。左の高架は南海本線
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住吉大社周辺の1:10,000地形図
(1985(昭和60)年編集)
南海本線、阪堺電軌阪堺線、上町線と各駅・停留場の位置関係がわかる
 

住吉を出ると、電車は住宅街の中をくねりながら上っていき、サミットで南海高野線とオーバークロスする。坂道は30.3‰という異例の急勾配で、舞台は、低平な海岸平野から高燥な洪積台地に移る。以後、上町線はその名のとおり、終始この上町台地を伝っていく。

帝塚山四丁目電停の北側で併用軌道が始まるが、通るのは軌道の両側に1車線とれるかどうかの狭い道だ。それにもかかわらず路上駐車は日常茶飯事で、電停では朝夕その1車線が客の待ち合わせ場所にされる。それで車は、軌道の上を電車と前後しながら走らざるを得ない。

また、別のあるとき、姫松だったか、電停前の商店のガラス戸越しに、店の人と話している女性客が見えた。到着した電車に気づくと挨拶を交わし、悠々と表に出て、その足で乗り込んできた。生活密着型の鉄道ならではの光景がここにはある。

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(左)上町台地に上り、南海高野線を越える急勾配区間
(右)生活道路の併用軌道、姫松電停にて
(いずれも2009年9月撮影)
 

北畠電停の先で左にそれて、いったん専用軌道に戻る。しかしそれは少しの間に過ぎない。松虫電停を出た後、電車は体をくねらせながら、車が溢れるあべの(阿倍野)筋の大通りに割り込んでいく。阿倍野交差点から北側は、再開発事業に伴う道路の拡幅工事の最中で、軌道の周りは雑然としている。ビルの谷間にこもる都会の喧噪を掻き分けるようにして、14時28分、モ161は終点、天王寺駅前に到着した。

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専用軌道からあべの筋に割り込む
(車内から後方を撮影)
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天王寺駅前の旧ターミナル
(2009年9月撮影)

あべの筋の併用軌道は、その後2016年12月3日に、拡幅が完了した道路の中央に切り替えられた。新線では、センターポールの架線柱が建ち並び、芝生を植え込んだ緑化軌道が延びる。阿倍野電停は拡幅されて上屋がつき、天王寺駅前電停も、2面1線の窮屈な構造はそのままながら、改築されて面目を一新した。ここに堺トラムが現れたら、LRTの新設路線と何ら変わらない。

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切り替えられた併用軌道
(左)阿倍野交差点から北望
(右)阿倍野電停
(いずれも2017年9月撮影)
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改築された天王寺駅前電停
(2017年9月撮影)
 

今改めて周囲を見渡せば、天を突くあべのハルカスをはじめ、キューズモール、新しい駅前歩道橋と、いつのまにか阿倍野一帯が近未来的な風景に転換されている。阪堺電車もとうとうその進化に追いついたわけだ。とはいえ、屋外広告物条例などなんのその、質屋やパチンコ屋のド派手な広告を付けた車両もまだ素知らぬ顔で走ってくる。これもまた阪堺らしい姿だ。

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図住之江(昭和60年編集)を使用したものである。

■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/

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2018年8月 7日 (火)

ライトレールの風景-阪堺電気軌道阪堺線

阪堺電気軌道、通称 阪堺電車が、手持ちのレトロ車両を使って貸切運行を行っている。もう4年前になるが、2014年4月の海外鉄道研究会のイベントでそれに乗る機会があった。

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恵美須町で発車を待つモ161
(以下、特記ないものは2014年4月撮影)
 

阪堺電気軌道は、阪堺線(恵美須町~浜寺駅前14.1km)と上町線(天王寺駅前~住吉4.4km、下注)の2路線から成る。コースは、まず往路が恵美須町(えびすちょう)を出発して、阪堺線を一気に浜寺駅前まで走り通す。復路では我孫子道(あびこみち)の車庫を見学し、住吉から上町(うえまち)線に入って、天王寺駅前で降りるというものだ。

*注 ただし当時は住吉~住吉公園間0.2kmもまだ運行しており、朝の時間帯だけ発着があった。この区間は2016年1月31日付で廃止。

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阪堺電車の路線図
 

少し早めの昼食をとって、地下鉄堺筋線で集合場所へ向かった。恵美須町は、路線が1911(明治44)年に開業したときからのターミナルだ。堺筋が国道25号と交わる恵比須交差点の南西角で、通天閣が聳える繁華街「新世界」とは道を隔てて隣り合っている。しかし、駅(停留場)は平屋根の入口に電車のりばを示す小さな看板があるだけで、うっかりしていたら通り過ごしてしまいそうだ。

喫茶店の前の薄暗い通路を入っていくと、改札口はなく、あっけなくホームに出た。車内精算の路面電車だから当然なのだが、屋根を架けた3面2線のターミナルらしい造りの構内だけに、けっこう意外感がある。参加者は30名あまり、着いては出ていく定期列車の写真を撮りながら、賑やかに時間待ちをしていた。

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恵美須町電停
(左)のりばを示す小さなプレートがあるだけの入口(2010年4月撮影)
(右)3面2線の立派な頭端式ホーム
 

12時過ぎ、吊り掛けモーターのモ161がホームに入ってきた。1928(昭和3)年製の車両で、開業100周年を記念して昭和40年代の状態に復元されたのだそうだ。外装はダークグリーンだが、屋根は赤(鉛丹色)、ドアと窓枠はニス塗りでいいアクセントになっている。阪堺線ではど派手なボディー広告の車両を見慣れているので、このシックないでたちは新鮮だ。

車内に入ると、目の覚めるようなブルーのモケットシートが目を引く。腰を下ろすと感じる堅めの反発力が懐かしい。鎧戸の日除けやアールヌーボー風の装飾金具、「禁煙」のプレートでさえ、レトロ感を盛り上げる立派な小道具だ。

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モ161
(左)中央扉は両開き、ニスの赤茶が美しい
(右)艶やかなブルーのモケットシートが目を引く
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(左)さりげない装飾金具もポイント
(右)運転台

12時15分、電車は恵美須町を出発した。しばらくは建物の間の専用軌道を走っていく。信号に従うほかは停まらない特別列車だが、先行車を追い抜けないので急行運転とは言いがたい。大阪環状線の下をくぐり、それと並行する大通りを横断し、旧南海天王寺支線をまたいでいた築堤を上り下りする。

路面電車というイメージが定着しているにもかかわらず、車と並んで走る併用軌道区間はそれほど多くない。開業当時、住吉大社前や堺の旧市街地を除いて、町裏や都市化が及んでいない郊外に線路を敷いたからだ。だからこそ高度成長期、いたずらにクルマの目の敵にされることなく、生き残ることができたのかもしれない。

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恵美須町を出発
 

気が付くと緩い右カーブに差し掛かっている。天神ノ森の大きなクスノキが視界をかすめた。まもなく電車は、南海高野線のガードをくぐって紀州街道に出ていく。約2kmの間続く最初の併用軌道の始まりだ。

その北半分は、軌道の位置が道路の西側(進行方向右側)に偏っているため、対向するクルマが軌道上を堂々と走ってくる。この間にある東玉出と塚西の北行き電停は、路面に白線で描かれた安全地帯があるだけだ。そこに立ったままでは不注意なクルマに撥ねられかねず、利用者は道路際の軒先で待たなければならない。前方を見ていると、右折車や、時には通行人まで直前を横切る。電車の速度が勘で分かっていると見えて、慌てるそぶりもない。

上町線との分岐がある住吉電停の前でいったん停車した。軌道は複雑に交差していて、左後方へ行くのは天王寺駅前方面、右前方は住吉公園へ向かうひげ線(下注)だ。阪堺線浜寺公園方面と上町線天王寺駅前方面相互間の渡り線もある。

*注 このひげ線は、上述のとおりすでに廃止されている。

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住吉の渡り線を行く旧塗装のモ161
(2010年4月撮影)
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住吉鳥居前の併用軌道
 

初詣客数では関西で一二を争う住吉大社の門前(停留場名は住吉鳥居前)を通過すると、電車は急カーブで右にそれて、再び住宅地の中の専用軌道を走り出す。ほどなく阪堺電車の運行拠点である我孫子道で停車した。ここは阪堺線と上町線の乗換え指定駅であり、大阪市内最南端のため、運賃が変わる境界駅でもある(下注)。

*注 後述するとおり、現在普通運賃は全線均一になっている。

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大和川に架かる華奢なガーダー橋
(2010年4月撮影)
 

大阪と堺の市境をなす大和川(やまとがわ)を、華奢なガーダー橋で渡っていく。もちろん阪堺線では最も長い橋梁だ。阪神高速と少しの間並行した後、減速して急なカーブを回り込むと、堺の旧市街を南北に貫く大道筋(だいどうすじ)が見えてくる。

幅50mあるという大通りに設けられた一直線のセンターリザベーション軌道が、電車の通り道だ。座席に腰を下ろしていると気づきにくいが、両側の車道との間は、季節の花が溢れる花壇やつつじの植え込みで仕切られていて、トラムが走る環境としては特筆すべきものだ。この区間は約2.5kmも続き、けっこう乗り甲斐がある。

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大道筋のセンターリザベーション軌道
(左)老朽化していた軌道(2010年4月撮影)
(右)PCまくらぎ化で乗り心地が改善
 

旧市街の南端で、もと環濠の土居川を渡ると、三たび専用軌道が復活する。そしてまた、胸のすくような直線路だ。大阪市内に比べて住宅の密集度が緩和されたせいか、全開の窓から吹き込んでくる初夏の風が心地よい。

また築堤を上っていき、南海電鉄本線を斜めにまたぎ越すあたりで、電車は速度を緩めた。右の車窓に浜寺公園の松林が広がっている。13時ごろ、終点の手前の乗降場所で停止。参加者を全員降ろしてから、電車はおもむろに1面1線の浜寺駅前のホームに入っていった。ここでは折返しの発車まで、20分の休憩がある。

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(左)南海本線を乗り越して海側へ
(右)浜寺駅前ではホームの手前で客を降ろす
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浜寺駅前電停
(左)出札
(右)自販機が林立する正面入口
(いずれも2017年9月撮影)

1912(明治45/大正元)年に全通した阪堺線だが、1915年からは南海電鉄の一路線として運行されていた。利用者減少による採算悪化を受けて1980年に分社化され、今の形になった。しかし、その後も状況は改善せず、新会社発足以来約30年間で、輸送人員は7割も減ったという。

減少傾向は、大阪市内に比べて堺市内がより顕著だった。ほぼ並行して走る3本の鉄道(南海本線、南海高野線、JR阪和線)に、所要時間でも運賃の点でも及ばず、利用者の逸走を招いたのだ。2000年決算で、会社は最初の債務超過に陥った。人員削減で合理化を進める傍ら、2003年堺市に対して、堺市内区間の存廃を含めた協議を申し入れている。

その中で2007年ごろから、東西鉄軌道事業の構想が持ち上がった。従来の鉄道がすべて南北方向に走っているのに対して、それを連絡する東西軸としてLRTを建設するというものだ。それに合わせて阪堺線は公有化(上下分離)する方針だった。ところが、役所主導で検討が進められたため、LRTのルートとなる沿線住民の強烈な反対運動を引き起こしてしまう。2009年の市長選で争点になり、計画中止を公約に掲げる現市長が当選した結果、事業はあえなく白紙撤回された。

しかし、現実に走っている阪堺線まで見捨てるわけにはいかなかった。翌2010年に市は、阪堺線に対する支援策を発表し、2011年から10年間をめどに総額50億円の財政支援を行うとともに、公有化の協議を続行することとしたのだ。

支援項目で利用者にインパクトがあったのは、経費補助による運賃値下げだ。阪堺電車の運賃体系は、大阪市内または堺市内が200円、市境を越えると290円に跳ね上がって、並行路線より高くなっていたが、これを全線200円の均一運賃にした(消費税率改定に合わせて現在は210円)。さらに満65歳以上の堺市民は専用カード持参で100円になる。住民向けだけでなく、観光客誘致のためのフリー乗車券もいろいろと用意された。

また、車両の更新も話題となった。2013年から15年にかけて調達された3編成の新型LRV「堺トラム」だ。富山地鉄のサントラムや札幌市電のポラリスと同形の3車体連接車(下注)だが、車体塗装を敢えて抑えたトーンにしているのが特徴だ。原色がはじける従来車との違いは歴然で、外観との相乗効果で沿道に高級感を振りまいている。

*注 富山地鉄のサントラムは「新線試乗記-富山地方鉄道環状線」、札幌市電は「新線試乗記-札幌市電ループ化」の項で触れている。

実はこの日、朝早いうちに住吉鳥居前の電停でそれを待っていたのだが、同じ目的の親子連れがそばにいた。坊やは先発する従来車には目もくれない。「トラムに乗りたい!」と叫んで、次にやって来た堺トラムにいそいそと乗り込んだ。1時間に1本の割合で来る堺トラムは明らかに混んでいて、大人でもこれを選んで乗る人がいる、と後で聞いた。

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堺トラム第1編成「茶ちゃ」
 

多方面にわたる財政支援は、堺市民の阪堺線に対する認識に変化を与えたようだ。上町線の起点あべの界隈で、キューズモールやハルカスなど大規模商業施設が相次いで開業したこともあって、利用者数はそれ以来、上向きに転じている。

次回は、モ161の帰り道を上町線天王寺駅前までたどる。

■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/
堺市公式サイト-阪堺線への支援の取組について
http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/toshikotsu/hankaisen/

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 ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

2018年8月 1日 (水)

ライトレールの風景-福井鉄道福武線

5年後に予定される北陸新幹線の延伸を先取りするかのように、福井駅西口の風景は一変していた。駅ビルが刷新されただけでなく、広場に巨大な動く恐竜のモニュメントが据え付けられ、よそ者の度肝を抜く。それとともに、傍らに新設された福井鉄道(以下、福鉄)の電車乗り場も新鮮だ。事情を知らなければ、福井にもいよいよトラムが走るようになったのか、と驚く人もいるだろう。

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風景が一変した福井駅前を発車する福井鉄道770形
 

もちろん、福鉄の駅前乗入れは今に始まったわけではない。1933(昭和8)年に開通して以来、85年の長い歴史をもっている。ただこれまで福井駅前の電停は、JR駅から200mほど先の、昔ながらの商店街に挟まれた通称「電車通り」の真ん中に置かれていた。JRの駅前からは建物の陰に隠れて見えず、地元の人のみぞ知る存在だったと言ってよい。

それが2016年3月27日、西口広場の整備に伴って線路が143m延長され、本当の駅前に新しい乗り場が開かれたのだ。停留場名だけは「駅前」からもう一歩踏み込んで、ずばり「福井駅」だ。路線バスのターミナルも中央大通りから広場内に集約されたことで、西口はすっかり公共交通の結節点として再生された感がある。

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西口広場に新設された「福井駅」停留場
 

福井駅電停は、3面2線の頭端型ホームだ。建物内にホームがある高岡や富山のターミナルとは違って、冬場の季節風に曝されるものの、屋根の下を選べば、少なくとも雨に濡れずにJRの駅舎までたどり着ける。棒線だった旧電停に比べて、列車の留め置きが可能なのも、ダイヤが乱れたときに効果を発揮しそうだ。

ただ問題は、整備されたインフラがまだ十分に活用されていないことだろう。それはこの停留所の発車時刻表を見ればわかる。なんと朝の越前武生方面は1時間に1本程度(8時台は休日運休!)、田原町方面に至っては8時36分が始発で、9時台でも1本しかない。日中も各方面30分間隔の発車だ。本来、通勤通学で最も混雑するはずの時間帯にほとんど列車が設定されていないのは、このルートにその需要がないことを端的に示している。

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駅前通りを通過する線路
以前はここに終点があった
 

実はこの通称 駅前線は、短い支線に過ぎない。福鉄の路線図を見ると、越前武生(えちぜんたけふ)~田原町(たわらまち)間20.9kmが本線格で、駅前線0.6kmはそこから盲腸のようにちょろんと飛び出た恰好だ(下注)。

*注 歴史的にはこちらが本線で、旧 本町通り~田原町間は、駅前線から17年遅れて1950(昭和25)年に開通した。正式にはどちらも福武(ふくぶ)線。

列車の運行も、今や市街を貫くフェニックス通り(旧 国道8号)上の南北ルートに重きが置かれている。朝の普通列車や日中の急行列車は、福井駅に寄り道することなく、フェニックス通りを駆け抜けてしまう(下注)。そのほうが、市外から市内の高校や大学に通う学生生徒たちにとっては、おそらくずっとありがたいのだ。

*注 日中は、福井城址大名町で反対方面の急行に乗り換えることが可能。駅の案内板にそのことが記載されている。

そんなわけで日中、福井駅に発着するのは各駅停車に限られる。後述するように福鉄にも新型トラム(LRV)が導入されているが、運がいいのか悪いのか、その界隈にいた間、やってきたのは名鉄から譲り受けた1980年代の小型車両ばかりだった。車両の見栄えといい、列車の運行間隔といい、衆目を集める場所だけにちょっと寂しい。

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えちぜん鉄道・福井鉄道の路線図(一部)
左上の田原町~鷲塚針原間が福鉄(緑のライン)の乗入れ区間
 

さて、西口広場進出とともに、福鉄には大きな変化がもう一つある。同じ日に開始されたえちぜん鉄道(以下、えち鉄)三国芦原線との相互直通(相直)運転、名付けて「フェニックス田原町ライン」だ。同線は一般的な高床の電車で運行されているので、低床トラムの乗り入れに当たって、専用ホームの新設など地上設備にも改良が施された。その様子を見に、えち鉄福井駅(下注)からアテンダントが添乗する列車に乗って、鷲塚針原(わしづかはりばら)駅へ移動する。

*注 ちなみに訪れたのは2018年6月半ばで、同駅はまだ新幹線高架上に設けられた仮駅だった。

九頭竜川を立派なトラス橋で渡り、一面緑の田園地帯をしばらく走ったところに、その駅があった。周りは集落だが、建て込んではおらず、のどかな雰囲気だ。小さな木造の駅舎に、さりげなく登録有形文化財のプレートが貼り付けてある。ここはもともと高床ホーム1面2線の駅だったが、東側に福井方から新たに1線が引き出され、片面の低床ホームが新設された(下注)。

*注 高床ホームの高さは880mm、低床は320mm。

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鷲塚針原駅
(左)既存2線(左と中央)の隣に折返し線(LRV停車中)を新設
(右)登録有形文化財の木造駅舎
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鷲塚針原駅に揃うえち鉄の高床車両と福鉄の低床LRVフクラム
 

イエローグリーンをまとう3車体連接のLRVが、折り返し待ちで停車している。2013年から16年にかけて導入された福鉄のF1000形、愛称フクラムだ。色違いで現在4編成が稼働している。対するえち鉄も、自前のLRV(ただし2車体連接)L形2編成を用意して、相直運転に投入した。こちらの愛称はki-bo(キーボ)で、F1000形と合わせて、きぼうふくらむ、と読ませるらしい。

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(左)3車体連接のF1000形フクラム
(右)L形ki-boは中間車のない編成
いずれも福武線水落~西山公園間で撮影
 

列車は私ともう一人の乗客を乗せて、鷲塚針原のホームを定刻に発車した。本線に入ると速度を上げていき、直線区間では速度計の針が70kmを指した。急行の扱いだが、えち鉄線内6kmのうち、通過するのは九頭竜川橋梁の北詰にある中角(なかつの)だけだ。川を渡って福井市街地に入ると、田原町まで各駅に停車していく。

かぶりつきで観察していると、低床ホームの設置方法には、駅によってバリエーションがある。最初の新田塚(にったづか)は列車交換駅で、島式ホーム(高床)の両側にある線路を、さらに新設の低床ホームが挟み込むサンドイッチ型だ。一方、八ツ島と日華化学前は棒線駅なので、高床と低床を直列に並べ、その間は階段やスロープでつないでいる(下注)。商業ビルに半分潜り込むような形の福大前西福井も、列車交換駅だが相対式ホームなので、やはり直列型だ。

*注 両駅は2007年開設の新駅で、将来のLRT化を見込んで、高床ホームを撤去が容易な木造にしてあったそうだ。

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(左)新田塚は中央に高床、左右に低床ホームを配置
(右)日華化学前は高床と低床を直列に配置
 

行く手に、両鉄道が接続する田原町駅が見えてきた。えち鉄が直進するのに対し、福鉄に入る相直便は手前で右に分岐して、一見相対式の専用ホームに到着する。一見という訳は、ホームが行先別ではなく、相直便は両方面とも、越前武生に向かって左側のホームを使うからだ。対する右側のホームは当駅折返しの列車用で、線路はえち鉄につながっていない。「お乗りまちがいにご注意ください」と書かれた掲示が利用者の困惑を物語る。

駅舎は、相直運転に合わせて、木目調の小ざっぱりした建物に建て替えられた。以前は薄暗い納屋のような駅(失礼!)だったように記憶するが、その面影はどこにもない。東側にあったはずのコンビニも撤去されて、フェニックス通りまで見通せる広場になった。とはいえ、日中の駅は閑散としたものだ。

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田原町駅
(左)えち鉄線から右へ分岐して福鉄の構内へ
(右)反対側から福鉄構内を撮影
  左の線路は折返し用で、えち鉄にはつながっていない
 

えち鉄は、ここから旧市街を迂回してJR線の外側に出てしまう。それで、乗換えなしに中心部へ直行できる相直便は利用価値が高いのだが、列車本数は意外に少なく、1日11往復きりだ。朝に2本(福大前西福井で折返し)と日中1時間ごとで、夜は走らない。多くの時間帯は、従来どおり田原町乗り換えになる。

それでも施策は当たったようで、相直運転開始の前後を比較すると、利用者数は年間ベースで2~3%増加したのだそうだ。たとえば、福鉄を利用して福井大学に通う学生たちは、これまで田原町で降りて歩いていたが、相直便ができて、最寄りのえち鉄福大前西福井まで行くようになった(下注)。フェニックス通りに目ぼしい商業施設がなく、交通需要が通勤通学の時間帯に集中するのが辛いところだが、こうした開通効果が持続し、じわじわと拡大していくならうれしいことだ。

*注 運賃の乗継割引(最大25%)も行われている。

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田原町駅
(左)会社が変わるため運転を引継ぎ
(右)手前が福鉄、奥がえち鉄の出札窓口
 

せっかくここまできたので、福鉄全線を乗り通してから帰りたい。福鉄の運転士に引き継がれたフクラムは、しずしずとフェニックス通りの中央に出ていく。併用軌道上の停留場も改築されていた。以前は、人一人立てるだけの、柵もない危険な「安全」地帯だったが、拡幅され、屋根と風防もついて、電車待ちの環境がずいぶん改良されている。

駅前線が分岐する福井城址大名町(ふくいじょうしだいみょうまち)は、相直運転と同じタイミングで、「市役所前」から改称されたばかりだ。その目的は観光振興だそうだが、実際には城跡より市役所のほうが手前にあるし、日常使うには名前が長すぎていただけない。設備投資に県から多額の補助が出ているから、福井城址に陣取る県庁(下注)の意向を汲んだのかと勘繰ってしまう。

*注 福井城には見事な堀と石垣が残っているが、本丸に県庁ビルが聳えている。

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フクラム青編成が、田原町駅からフェニックス通りの併用軌道へ出ていく
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(左)併用軌道上の駅も改築。仁愛女子高校停留場
(右)福井城址大名町の駅前線分岐
 

足羽川を渡り、商工会議所前(旧 木田四ツ辻)を出ると右へそれて、専用軌道に入る。どこか1か所で途中下車しようと思っていたので、普通列車に乗換えて、西山公園駅で下車した。西山公園というのは、鯖江市民の憩いの場になっている広い緑地で、地元では桜やつつじの名所として知られている。谷あいにある北の庭では、ちょうど花菖蒲が見ごろを迎えていた。福鉄は、並行するJRに比べて駅間距離が短いので、すぐ行ける普段使いの気安さがある。

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西山公園の嚮陽庭園
(左)北の庭では花菖蒲が見ごろ
(右)上段の庭は、山頂にもかかわらず池泉回遊式庭園!
 

日野川を横断し、北府(きたご)の古い木造駅舎の前をかすめるように急カーブしていくと、まもなく終点の越前武生だ。この列車が到着すると、2面3線のホームは、フクラムと880形ですべて埋まった。古びた駅ビルは、駅名を武生新(たけふしん)と言っていた頃から、大して変わっていない。そしてこれも最初からだが、JRの武生駅とは徒歩連絡で、約300m離れている。間に居座るアル・プラザの中を突き抜けて、トラムがJRの駅前広場に粛然と現れる図をつい想像してしまうのだが…。

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越前武生駅に到着
線路は新旧車両で埋まった
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越前武生駅
(左)古びた駅ビル内の改札
(右)正面
 

■参考サイト
福井鉄道 https://www.fukutetsu.jp/

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2018年4月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

朝、JR御殿場線の上り電車に乗った。雲一つない秋晴れのもと、裾野の急坂を上っていくと、岩波駅あたりから、左前方の車窓にすっかり雪化粧を終えた富士山が顔を覗かせる。次の富士岡から南御殿場駅にかけてがハイライトだ。山体がいよいよ左正面に移動してきて、朝陽に照らされた優美な姿が窓枠いっぱいに展開する。

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御殿場線の車窓から見る朝の富士(富士岡~南御殿場間)

2017年11月25日のコンターサークルSの旅は、この御殿場線沿線に残る昔の複線跡がテーマだ。今でこそ地元密着型のローカル線だが、よく知られているようにこの路線は、1889(明治22)年の開通から丹那トンネルが完成するまでの45年間、東海道本線の一部だった。「燕」や「富士」「櫻」のような戦前を代表する長距離特急が疾駆し、主要幹線として全線が複線化されていたのだ。しかし、熱海回りのルートが1934(昭和9)年に開通すると、その地位から降ろされ、さらに太平洋戦争中にレール供出のために単線に戻されてしまった。

線路は撤収できても、トンネル、橋脚、橋台などおいそれとは移動できない構築物がある。堀さんは、著書『地図のたのしみ』(1972年)の中で、そうした複線時代の遺構が数多く存在することを書き留めている(下注)。元の記事は1964年に雑誌「鉄道ファン」で発表されたものだから、現地取材は50年以上前のはずだ。果たして今はどうなっているのだろう。私たちは堀さんに案内してもらったつもりで、沿線を旅することにした。

*注 『地図のたのしみ』p.146~(2012年新装新版ではp.153~)「四 地図に見る鉄道今昔 2 小田原付近と御殿場線」

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御殿場線(国府津~沼津間)のルート
1:200,000地勢図に本稿関連の駅名を加筆

電車は酒匂川(さかわがわ)の深い渓谷を通り抜けて、山北駅に9時50分に着いた。ここは東海道線時代に、箱根越えの前線基地として列車運行を支えた駅だ。駅前広場には、大出さんと石井さんが車で来ていた。

今日の行程を相談しているとき、石井さんが「古い地形図に、山北駅から南へ曲がっていく線路が描いてあるんですけど、これは何ですか」と聞く。明治中期の地形図(下図左参照)では確かに、駅から出た線路が南へ鋭くカーブし、山に突き当たって途切れている。「鉄分の濃いお二人ならご存じじゃないかと思って…」。しかし悔しいかな、私たちは線路の正体を知らなかった。

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山北駅周辺の地形図
(左)1896(明治29)年の1:50,000地形図
(右)現行1:25,000地形図(2014(平成26)年)。加筆した赤枠が線路跡地で、今も宅地がこの形に並ぶ

手がかりを求めて、山北町の鉄道資料館へ行ってみることにした。広場の東に建つふるさと交流センターの2階で、今年(2017年)8月にオープンしたばかりだ。開館時間前だったが、係の方が開けてくださった。山北が鉄道の町だったことを物語る貴重な資料や写真を見ていくうちに、まさに疑問に答えてくれるパネルがあった。

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山北駅 (左)構内で静態保存されているD52 70 (右) 山北町鉄道資料館の展示

そこには「緊急避難線(キャッチサイディング)」と書いてある。坂を下りてくる列車がブレーキ故障などで暴走した場合に、本線から逸らせて停止させるための設備で、昔は勾配区間にしばしば設けられていた。「でもどうしてこんなにカーブしてるんでしょうね。停まる前に脱線してしまいませんか」と石井さんが畳みかける。そこで資料館を辞した後、現地を見に行った。

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山北駅扇形庫の左上から延びる切妻屋根の縦列がキャッチサイディング跡
(山北町鉄道資料館の展示を撮影)

駅の東南の、町役場や生涯学習センターが建っている敷地には、かつて補助機関車を格納する扇形機関庫があった。その一角から南向きに右カーブしている宅地の列が、キャッチサイディングの跡らしい。宅地に沿って狭い道路が、国道246号線をアンダークロスした後も続いている。敷地は室生神社の境内をかすめて、なおも山手へ進み、斜面に阻まれる形で終わっていた。歩いてみると、末端に向かってかなりの上り勾配であることが実感される。「これなら脱線する前に、列車は失速しますね」。

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キャッチサイディング跡をたどる
(左)国道の南側から駅方向を望む。道路と右の宅地が跡地
(右)山際付近。左手前から左奥にかけての住宅の列が跡地

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トンネルと橋梁が連続する山北~駿河小山間
1:50,000地形図に加筆

所用のために戻る石井さんを見送って、大出さんと私は、予定の複線跡を探しに西へ向けて出発した。まず、国道から右に折れ、旧道(現 県道76号山北藤野線)に入ってすぐ、箱根第一号と第二号、2本のトンネルの間の橋梁が見える場所に、車を停める。フェンスがあって中に立ち入れないものの、トンネルは塞がれておらず、橋桁(ガーダー)もしっかり残っている。

現在、山北~谷峨(やが)間は、北側の旧 上り線が現役だ。しかし、さっきの資料館の展示によれば、1943(昭和18)年の単線化では、南側の旧 下り線に列車を通したのだそうだ。ところが、1968(昭和43)年の電化に際して、使われていなかった旧 上り線でトンネル断面の拡張工事を実施し、架線を設置した。このため、旧 上り線が現役に復帰し、代わりに旧 下り線が廃線になった。堀さんが訪れたのは電化前なので、ディーゼルカーは、今はなき南側の線路を走っていたはずだ。

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(左)左のトンネルポータルが箱根第二号の旧下り線
(右)箱根第一号、第二号トンネルの間に残る旧線ガーダー

第一酒匂川橋梁の脇にも、橋台が残っているのを確認してから、同 第二橋梁のほうへ回った。旧道は、線路を俯瞰するような高い位置を通っているので、集落に通じる細道を降りる。ここは複線仕様の橋脚が残っていた。石積みの橋脚を煉瓦で現在の線路面近くまでかさ上げしているから、昔は下路ガーダーが架かっていたのだろうか。

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第二酒匂川橋梁を俯瞰
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複線仕様の橋脚が残る第二酒匂川橋梁

昼食の後、谷峨駅を経て、今は無き第一相沢川橋梁(下注)の近くに車を置いた。1889年の開通時は単線だったので、第一相沢川橋梁で川の左岸、つまり北側に渡り、(旧)箱根第六号トンネルを経て、第二相沢川橋梁で右岸に戻っていた(下図上参照)。1901(明治34)年の複線化では、この1km足らずの区間だけ腹付け(隣接して敷設)ではなく、対岸を2本のトンネルで通過する別ルートとされた(下図中)。つまり、ここでは上下線が川を挟んで走っていたのだ。戦時中の単線化では旧 下り線(南側)が生かされたが、戦後の電化でも、山北~谷峨間のように旧 上り線が復活することはなかった(下図下)。

*注 川の名は現在、鮎沢川だが、鉄橋名は相沢(相澤)川とされている。

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谷峨駅西方の線路の変遷
(上)初期の単線時代 1896(明治29)年 1:50,000地形図
(中)複線時代 1921(大正10)年 1:25,000地形図
(下)単線化後 2014(平成26)年 1:25,000地形図

堀さんは、谷峨駅で下車して付近を歩いている。「(旧 第五号トンネルの西口から)川の方を見ると、大きな橋脚が一本河原に立ち、その向こうに対岸の橋台とそれに続く築堤があって、さらにその向こうに短いトンネルが望見された」(『地図のたのしみ』p.156)。

谷峨駅に通じる旧 第五号トンネル西口は今も確認できるが、川の中に橋脚は見当たらず、短いトンネル(旧 第六号)もすでに跡形すらない。おそらく国道の拡幅改良工事で、痕跡はほぼ完全に道路の下に埋もれてしまったようだ。

「北側の切通しを抜けると、左側の高みに登っていく細い道(中略)が分れている。それを入ってゆくと、左に鮎沢川を見下ろし、対岸に山腹をゆく御殿場線を望み、右に旧上り線の切り取りの跡を見下ろす、眺めのよい場所(中略)に出た」(同書p.156)。少しは期待していたのだが、この無名の展望地も道路工事の犠牲になったとおぼしい。

「もう少し先で対岸に渡る橋があるので、そこまで行ってみましょう」。大出さんと相談して、徒歩で向かう。それは、川沿いの小さな工業団地へ行く橋だったのだが、そこから右手に、第二相沢川橋梁の橋台が確認できた。両岸の取付け部分はすっかり工場の敷地に取り込まれたが、石積みの橋台だけが両岸から、まるで昔話を交わすかのように向かい合っているのだ。午前中からいくつか見てきた遺構の中で、この光景は特別印象的だった。

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第二相沢川橋梁
(左)両岸に残る橋台(矢印の位置)
(右)左岸(北側)の橋台。背後は工場敷地に埋もれている

車に戻って、再び西へ走り出す。駿河小山(するがおやま)駅へ通じる第一小山踏切から、箱根第七号トンネル西口の石積みポータルが間近に見えた。トンネルが連続する渓谷区間はこれが最後だ。線路はまだしばらく鮎沢川の谷間をくねっているが、谷は次第に浅くなり、やがて空の広い富士の裾野に出ていく。

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(左)箱根第七号トンネル西口。左側に旧上り線のポータルが見える
(右)足柄駅北方にある第五相沢川橋梁。ここも橋脚は複線仕様

「あと、どこか見るところありますか」と、大出さんが聞く。私は朝の上り電車の車窓を思い出していた。「複線跡じゃないんですが、富士岡駅のスイッチバックの築堤はどうでしょう」。富士岡駅は、1911(明治44)年に信号場として開設されたが、25‰の急勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックが採用された。坂道発進が困難な蒸気機関車のために、本線に並行して堤を築き、発進用の水平な線路を造ったのだ。電化に伴い、線路は撤去されてしまったが、高堤防と呼ばれた築堤だけはそのまま残されている。これも、主要幹線だった時代の貴重な遺構だ(下注)。

*注 同様の築堤が次の岩波駅にもある。

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富士岡駅で交換するJR東海313系
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富士岡駅のスイッチバック線跡、通称 高堤防
(左)駅のある北方向を望む (右)南方向。築堤末端ではかなりの高低差がつく

駅の南の住宅街を縫う小道をたどり、踏切を渡ってこの築堤に上がった。傾きかけた陽が雪の山襞に隈取のような影を加えて、富士が朝とはまた別の美しさを放っている。入口の案内板には、「富士見台(高堤防)」の名とともに、「富士見台という地名は数あれど最高の眺めを得られるのはここです」と誇らしげに記してあった。容赦なく視界を横切る新東名の巨大な高架がいささか目障りだが、それも現代的な小道具と思えば、確かにここは絶景だ。

堀さんは、谷峨で旧線跡を訪ねた後、再び下り列車を捕まえて、そのまま沼津まで乗り通したようだ。富士はそのとき、ディーゼルカーの車窓にどんな姿を映していたのだろうか。

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高堤防から望む富士

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図山北(大正10年測図および平成26年12月調製)、5万分の1地形図松田惣領(明治29年第1回修正)、秦野(昭和47年編集)、山中湖(平成2年修正)、20万分の1地勢図東京(平成3年要部修正)、横須賀(昭和55年編集)、甲府(昭和55年編集)、静岡(昭和55年編集)を使用したものである。

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