2018年6月20日 (水)

北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編

埠頭を後にして、ボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn の列車は一直線の長い築堤の上を走っていく。周りに低木が育っているし、道路も並行しているので、干潟の景色はとぎれとぎれだ。最高時速は50km、並行道路を飛ばす車には抜かれるものの、それなりに速い。発車して5~6分ほど経った頃、ようやく堤防と交差する陸閘 Deichtor(ボルクム駅起点 3.8km)を通過して、島の本体に入った。

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保存蒸機「ボルクム3世」号が牽く回顧列車

反対方向の列車とすれ違い、この鉄道が全線複線だったことに改めて気づく。列車が片道10本もないミニ路線に過剰設備では? そういう疑問を抱く人がいても不思議ではない。途中に信号所を設けて、列車交換させれば済むことではないかと…。

実際、1980年代に線路の強化工事を行った際、経費節約のために、整備対象外の一部区間(下注)を閉鎖して単線運行にしたことがある。ところが、船の到着が遅れて列車のダイヤに乱れが生じると、単線ゆえにそれが増幅し、出航する船にも波及した。それでその区間を復活させることになり、単線化の実験は4年(1989~93年)で終わった。船の発着に合わせて遅滞なく訪問客を送迎するには、複線設備が必要なことが証明されたのだ。

*注 単線区間はボルクム駅起点 2.7km~6.9km区間、およそ町のへりから埠頭の手前までだった。

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重軌条化された複線が陸閘を通り抜ける

それに、時刻表に記載されていない列車も走っている。フェリーの収容人数は最大1200人、カタマランやオランダからの便もあるので、1本の列車には乗せきれないということが当然起こりうる。また帰りの客が一列車に集中すると、乗換えに時間を要し、船の出航が遅れる可能性もある。それで状況に応じて臨時列車 Entlastungszug(混雑緩和列車の意)を出しているのだ。

私が本土に戻ろうと、ボルクム駅で列車を待っていたときもそうだった。定刻は15時30分発なのに、15分も前に早々と出発の合図が鳴った。時刻変更かと訝しみながら、慌てて飛び乗ったのだが(下注)、桟橋に着き、船のデッキから見ていると、もう1本時刻どおりの列車が入ってきた。結局、この船のために2本の列車が前後して走り、船はその到着を待っておもむろに出航した。

*注 私が見逃しただけであって、増発列車があることは駅の電光掲示板に表示される。

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レーデ駅に時刻通り現れた2本目の連絡列車

車窓風景に話を戻そう。列車が陸閘を過ぎ、林の中をさらに進むと、木の間越しに赤屋根の家並みがちらちらと見えてくる。ここで減速し、唯一の中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク Jakob-van-Dyken-Weg に停車した。この周囲にも貸別荘があるようすで、スーツケースを引きながら何組かが下車した。

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中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク

再び動き出すと、また道路と並走するようになり、辺りが町の様相を帯びてくる。やがて右に鋭くカーブし、多くの人が待つボルクム駅 Borkum Bahnhof のホームへ滑り込んだ。煉瓦建ての駅舎ではカフェやアイスクリーム屋が店を出し、ホームも線路面も煉瓦張りで、街路のような造りだ。普通鉄道の駅というよりむしろ、トラムのターミナルというのがふさわしい。

町のど真ん中なので、周りにはホテル、土産物屋、ブティック、レストラン、スーパーマーケット、ついでにカジノと、何でもある。考えてみれば、エムデンからここまで他人の後ろについて乗り継いできただけで、迷うどころか、長く歩かされることさえなかった。離島でも船と鉄道の連携によって、最小限の移動ストレスで済む公共交通システムが構築されているのはすばらしい。

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列車がボルクム駅に滑り込む

任務を終えた列車はどうなるのか、と見ていると、女性車掌が踏切の先にある重い転轍てこを倒して、線路を切替えた。それから列車は、推進運転で手前にある車庫の側線へ移動する。車庫は5両程度の奥行きらしく、機関車はまず半分を庫内に納めた後、残りを連れて、隣の線路に転線した。車庫入れ作業はちょっと面倒そうだ。

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推進運転で車庫入れ作業
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別の列車の機回し作業
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作業を終え、レーデ駅に向けて出発

ボルクム駅を含む町なか約1km区間の歴史は、軽便鉄道の開通よりさらに古い。なぜなら、1879年に造られた 900mm軌間の馬車軌道の一部だったからだ。旧灯台が火災で使えなくなり、新しい灯台が急遽必要となったため、島の東の入江からその建設現場まで、資材輸送用の軌道が敷かれた。ちなみに、このとき造られた新灯台 Neuer Leuchtturm は今も駅裏の丘に立ち、町を見下ろしている。

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馬車鉄道が建設資材を運んだ新灯台
(左)駅舎の裏に新灯台が頭を出す
(右)灯高(平均海面から灯火までの高さ)は63m

一方これとは別に、潮位の影響を受けない固定の埠頭を、堤外4kmの干潟の先端に建設するという計画が、1883年に動き出した。建設と運営を請け負ったのは、馬車軌道を走らせていたハービッヒ・ウント・ゴート社 Habich & Goth だ。同社は堤防から埠頭まで線路を敷くための築堤を造成し、先述のとおり馬車軌道も一部転用して、1888年、町と埠頭を結ぶ蒸気鉄道を開通させた。今のボルクム軽便鉄道だ。

たった今体験したとおり、これは本土との往来を劇的に改善する効果を生んだ。しかし、高波で築堤が何度も流されるなど、路線の維持は民間会社の手に余るものだった。そこで公共企業「エムス社 AG Ems」の子会社「ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH」が設立され、1903年に事業を継承した。

1902年にボルクム島は海軍要塞とされ、各所に軍用施設が造られていく。それに合わせて1908年、軽便鉄道に並行して資材を輸送する軍の専用線が敷かれた。当初2本の線路は別々に使われていたが、1912年ごろから混用されるようになり、軽便鉄道の複線運行が始まった。

本線から分岐する支線や側線、引込み線も多数造られた。すでに1888年にボルクム駅から北の海岸に沿って、防波堤工事の資材を運ぶシュトラント(海浜)線 Strandbahn が造られていた。1912年には島の東側へ向けて、オストラント線 Ostlandbahn が敷設された(下注)。

*注 工事終了後、1929年からシュトラント線では保養客のために旅客輸送も行われたが、1953年に休止。1968年に最後の記念運行が行われた後、線路は撤去された。一方、オストラント線は一般旅客輸送を行うことなく、1947年に撤去されている。

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(左)オストラント線はボルクム駅から北へ続いていた
(右)構内線路の先に道路となった線路跡が延びる

戦争の足音が再び近づいた1938年、埠頭に隣接して新しく軍港が建設されることになった。現在、フェリーが着岸する埠頭は旧港であって、西側の大きく掘り込まれた貨物港がそれだ。埠頭へ通じる築堤も拡幅され、複線の横にさらに軍用道路が通された。戦後1946年にこの道路は民間に開放され、港と町を結ぶルートとして機能するようになる。

しかし、このことは道路交通との競合を生じ、鉄道の経営に悪影響を及ぼした。前々回述べたように、1960年にはバス転換も視野に入れて、調査が実施されている。結論は鉄道の役割を肯定するものだったが、片や1962年に高波で鉄道が不通になり、その際のバス調達がきっかけで路線バスの運行が始まった(下注)。さらに1968年からは鉄道の運行期間が短縮され、冬季はバス代行となった。貨物輸送もまた1967年に廃止され、トラックに移された。

*注 路線バスはボルクム軽便鉄道・汽船会社が現在も運行しており、埠頭から町の中心部を経由して鉄道のない東部まで足を延ばす。

こうした低迷期は1970年代を通して続いた。潜在的な危機を脱したのは、1979年に積極的なインフラ投資計画が決定してからだ。それに基づき、線路の重軌条化や整備工場の改築、ボルクム駅舎の拡張、車両更新などさまざまな施策が進められた。旅客数が増えたことで、冬季運休は1994年に解除された。2000年代以降も機関車の増備や線路の再更新が続けられ、ボルクム軽便鉄道は順調に走り続けている。

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新灯台から南望
左奥に港へ延びる築堤がある。その右にかすかに見える発電用風車が新港の位置

鉄道の重要性はさておき、この島の旅行者にとって次に必要な交通手段は、自転車だそうだ。駅にレンタサイクル Fahrradverleih があるので、借りるべく駅舎南端の受付へ行った。そこには駐輪場かと思うほど、膨大な数の黒い自転車が整然と並んでいる。現地の人の体格に合う大型で頑丈そうな自転車だ。悲しいかな、私はサドルを一番下にしてもらって、ようやく地面に爪先がついた。料金は1日8ユーロ。

後輪用のブレーキレバーはなく、ペダルを少し逆転させると効くコースターブレーキだ。使ったことがない私には難しかった。走り始めのケンケン乗りはできない。発進時にペダルが真上/真下にあっても漕ぎ出せない(少しバックさせてから乗る)。走行中も無意識にペダルを逆回しして、ブレーキがかかる経験を何度かした。ただ、このレンタサイクルは軽便鉄道の直営なので、フレームに鉄道のロゴがついている。できるものなら土産に買って帰りたいところだ。

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ボルクム軽便鉄道のロゴ入り自転車。左のブレーキレバーはない

昼食の後、さっそく風を切って、海岸プロムナードを南へ走る。レストランの先は砂浜が広がり、シュトラントコルプ Strandkorb と呼ばれる優雅なビーチチェアがたくさん並んでいた。

灌木の中の気持ちのいい小道を走り、堤防の陸閘のところで踏切を渡って、一般道に出た。陸閘の壁面に何やらモザイクで描かれている。初めは抽象画かと思ったが、よく見るとボルクム島の地図で、1974~77年に建設されたこの堤防の位置を示しているのだった。縮尺まで添えてあるところが憎い。

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(左)色とりどりのシュトラントコルプが並ぶ砂浜
(右)管理小屋、扉の上に書かれた Vermietung はレンタルの意
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(左)陸閘のモザイク壁画は島の地図 (右)赤丸が現在位置、堤防は黒の太線

築堤道路をさらに進む。今日はよく晴れて、まだ5月というのに暑いくらいだ。埠頭に着いて、何か飲み物をと探したが、カフェどころか、売店すらない。もちろん船内に入ればあるのだが、地上は単なる通過地点とみなされているらしい。列車を1本撮影して、元来た道を戻った。

築堤道路を無心に漕いでいたとき、またレーデ行きの列車と行き違った。しかし、牽いていたのはいつものシェーマ・ロコではない。蒸気機関車だ! 

この蒸機は1940年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製で、1941年から1962年までこの島で「ドラルト Dollart」の名で稼働した後、島内で静態展示されていた。それが、鉄道を観光資源にする取組みのもと、解体修理で軽油焚きに改造され、「ボルクム3世 Borkum III」号として1996年に再デビューした。

きょう日曜日は、木曜とともにその運行日なのだが、何時に走るのか情報がなかったこともあり、すっかり忘れていた。特別運行の回顧列車 Nostalgiezug で、蒸機はヴァイヤー様式の古典客車を伴っていた。私はカメラを取り出す暇もなかったので、すばやく撮影に成功した同行のT氏の作品をお借りする(冒頭写真)。

鉄道には、このほか「豚の鼻面 Schweinschnäuzchen」または「オオアリクイ Ameisenbär」の異名をもつボンネットエンジンのヴィスマール・レールバス Wismarer Schienenbus T1形も1両保存されている。こちらの運行は原則火曜日だ(下注)。

*注 いずれも乗車には特別料金が必要。正確な運行日は鉄道の公式サイトに記載されている。

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(左)保存蒸気「ボルクム3世」号が通過
(右)車庫にいたヴィスマール・レールバス T1形、別称「豚の鼻面」

撮り逃がしたままにしてはおけないと、ボルクム3世が埠頭から折り返してくるのを、さっきの陸閘の上で待ち構えた。今度こそ撮れたのはよかったが、残念なことに機関車はバック運転だった。転車台はどこにもないから、そうなることはわかっていたのだが…。

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戻ってきた蒸機はバック運転

次回はランゲオーク島鉄道を訪れる。

■参考サイト
AG Ems  https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn  http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編

2018年6月16日 (土)

北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編

ボルクム Borkum~レーデ Reede 間 7.44km
非電化、軌間 900mm、全線複線、開業 1888年

東フリジア諸島の西端、ボルクム島 Borkum へ渡る船は、エムデン Emden の港から出航する。私は朝9時に出る便を予約したので、市内の宿に前泊していた。エムデンは、エムス川 Ems の河口近くにある古くからの港町だ。港に面して市庁舎が建ち(下注)、人々が集まる広場があり、片隅に起源が1635年に遡るハーフェントーア(港の門)Hafentor という市門も残っている。保存帆船が係留された風景は、どこか対岸のオランダの港町を思わせる。

*注 第二次世界大戦中の空襲で町の8割が焼けたため、市庁舎も戦後の再建になる。

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エムデン中心部の旧港
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(左)旧港に面して建つ市庁舎 (右)ハーフェントーア(港の門)

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エムデンの1:50,000地形図
(L2708 Emden 1997年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ただし、この港は保存された旧港だ。船が大型化するにつれ、港は沖へ拡張されていった。ボルクム航路は現在、旧市街から3km先の外港(アウセンハーフェン Außenhafen)にあるボルクム埠頭 Borkumanleger に発着する。

そのため鉄道も、エムデン中央駅 Emden Hbf との間に連絡支線を持っている。中央駅から埠頭最寄りのエムデン・アウセンハーフェン Emden Außenhafen 駅まで、ごろごろと低速で走る列車でも6分あれば着く(下注1)。また、中央駅前のターミナル(ZOB)からは、市バスも1時間ごとに出ている(下注2)。ボルクム桟橋では駅とバス停が目の前に並び、船との乗継ぎはいたって便利だ。

*注1 ヴェストファーレン鉄道 Westfalenbahn のRE15系統と、若干のIC(インターシティ)が乗り入れてくる。
*注2 Stadtverkehr Emden (SVE) 502系統、埠頭の最寄りは Außenhafen-Borkumanleger 停留所。なお、土曜は本数が減り、日曜は運休のため、要注意。

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(左)エムデン中央駅
(右)駅前広場に置かれた静態保存の蒸機。右奥は古い給水塔、手前の線路は模型走行用
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エムデン外港
(左)アウセンハーフェン駅 (右)左奥の建物がフェリーターミナル。駅に直結している

ボルクムは、東西二手に分かれるエムス河口の間に位置し、諸島の中では本土から最も遠い島だ。それにもかかわらず、旅行者数はノルダーナイ島に次いで多く(下注)、人気とともにそれに見合う受入れ体制を備えている。

*注 2016年の旅行者数 ボルクム 290,875、ユースト 135,284、ノルダーナイ 537,641、バルトルム 76,567、ランゲオーク 217,161、シュピーカーオーク 94,055、ヴァンガーオーゲ 123,036。 Industrie- und Handelskammer für Ostfriesland und Papenburg (IHK), "Tourismus auf den Ostfriesischen Inseln" による。

航路が水深のあるエムス川を通るので、他の島のように運行が潮位に左右されないのも有利だ。それでハイシーズンには、フェリー(貨客船)とカタマラン(双胴船)が1日3往復ずつ、計6往復の設定がある。フェリーは島まで2時間から2時間半かかるが、最高速度38ノット(70km/h)のカタマランなら、それを1時間に短縮できる。

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ボルクム航路の船団
(左)客船ヴェストファーレン号 (右)カタマラン(双胴船)ノルトリヒト号

ちなみにボルクムまで、大人普通運賃は片道19.60ユーロ、往復37.20ユーロだ。ほかに週末往復や日帰り往復(片道運賃と同額!)の割引切符もある。島に着いたら軽便鉄道の列車で町まで行くので、これらはすべて鉄道込みの運賃だ(下注)。

*注 島内の利用者のために、軽便鉄道のみの運賃の設定もある(大人片道2.60ユーロ)。蒸機等の特別列車は追加料金が必要。

他方、カタマランは、乗船1回につき11ユーロの追加が必要になる。さらにパンフレットには予約推奨と書いてある。9時発はこれで運行されるので、私は大事をとって、ネット予約しておいた。ところが、乗船してみると、船内はみごとに閑古鳥が鳴いていて、帰りに乗ったフェリーのほうがはるかに混雑していた。

上記IHK資料によれば、島の訪問者の平均滞在日数は8.43日で、日本人の感覚からするとかなり長い。時間に余裕のある滞在客にとって、乗船時間を1時間節約したところで大した意味はないのだろう。もちろん、満席にならない限り、予約なしで窓口へ行ってもカタマランの切符は買える。

エムデン中央駅から埠頭までバスで行った。到着が出航5分前という際どい接続だが、昨日下見に来ていたこともあって、難なく予定のカタマラン、ノルトリヒト Nordlicht 号(オーロラの意)に乗船できた。定刻9時、船は静かに港を離れる。積込みを待つ新車が整然と並んだ港内をゆっくり進み(下注)、川というより湾に見えるエムスの広い水面に出たところで、猛然と速度を上げた。

*注 エムデンにはフォルクスワーゲンの主力工場の一つがある。

ホバークラフトとは違い、カタマランは2階のデッキに出られる。高みから観察していると、航路は初め、緑の野に発電用風車が林立する右岸に沿う。やがてそれが右奥へ去るや、今度は左岸、すなわちオランダ側の陸地が接近してくる。こちらも発電用風車が回っているが殺風景で、造成された工業地区のようだ。スマホを定額のローミングサービスにしていたら、知らぬ間にオランダの電話会社につながっていた。

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(左)エムデンを出航 (右)右岸はドイツ領。緑の野に発電用風車が林立
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(左)エムス河口を猛然と走る (右)ボルクム島の砂浜に沿って

やがてボルクムの白く扁平な島影が見えてきたころ、針路は北西から右回転して東に転じる。そして、砂浜に沿うようにして、島の埠頭へ接近していく。朝というのに、埠頭にはたくさんの人影と車の列があった。後で知ったが、オランダのエームスハーフェン Eemshaven 行きのフェリーを待っているのだった。確かにボルクムは、ドイツ本土よりオランダのほうがずっと近い。

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ボルクム埠頭で船を待つ多くの人影
中央が軽便鉄道のホーム

タラップを伝って、ボルクム埠頭に降り立った。ボルクムといっても、ここはまだ干潟の先端に造られた人工の小島だ。島本体とは長さ2km以上ある築堤でつながっている。岸壁に並行して狭軌の線路が2本延び、屋根付きの低いプラットホームがそれに接する。フェリーにマイカーを載せてきた人は別として、大部分の訪問者はここで軽便鉄道の列車に乗り継ぐことになる。

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ボルクム島の1:50,000地形図(L2406 Borkum 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

そのボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn は、ここレーデ Reede から町なかのボルクム駅 Borkum Bahnhof まで、7.4kmを運行する非電化、900mm軌間の鉄道だ。エムス株式会社 AG Ems の子会社、ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH が、航路と一体で運営している。ミニ路線ではあるものの、全線複線化されており、鉄道が残る3島の中で最も規模が大きい。

レーデとは投錨地、停泊地を意味する言葉だ。埠頭は一般にアンレーガー Anleger(接岸場所の意)と呼ばれるのだが、ボルクムでは港が整備される以前の呼称を残している。なお、同鉄道の時刻表では駅名を、Reede ではなく Fährhafen(フェリー港の意)と記載しているので注意。

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埠頭のレーデ駅
(左)列車が入線
(右)電光掲示板は各方面のボルクム駅出発時刻(船の出航時刻ではない)を示す

待つことしばし、昔のバスかトラックのような余韻のない警笛を合図に、真っ赤な小型機関車が列車を牽いて、ゆるゆると入ってきた。ホームの前に停車するや、降りる人と乗り込む人が交錯する。特大のスーツケースが行き来し、毛並みのいい飼い犬も尻尾を振りながらついていく。

赤を装う機関車は、運行の主力を担うシェーマ社(下注)製の2軸ディーゼル CFL150形だ。側面のプレートによれば、これは「ハノーファー Hannover」号。鉄道には同型車があと3両、「ベルリン Berlin」「ミュンスター Münster」「アウリッヒ Aurich」が在籍している。いずれも赤塗装だが、機関室前面の排気筒の色が識別のポイントだ。このほか、より古いシェーマ・ロコ CFL200形1両も、繁忙期に出番がある。

*注 ドイツのディープホルツ Diepholz に本拠を置くクリストフ・シェットラー機械製造会社 Christoph Schöttler Maschinenfabrik GmbH、通称シェーマ SCHÖMA は、簡易軌道やトンネル建設現場で使われるこうした小型ディーゼル機関車の専門メーカー。

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シェーマ製ディーゼル機関車。排気筒の色でも識別可能
(左)ハノーファー号、1993年製 (右)アウリッヒ号、2007年製

機関車の後ろにつく黄色づくめの車両は、コンパートメント兼荷物車だ。さらに、側面が色違いの4軸客車が8両連なっている。小型とはいえ全部で10両、堂々たる編成だ。客車は1993~94年の製造で比較的新しいが、デッキつき、ダブルルーフの古典仕様は、かつて活躍していたヴァイヤー式客車 Weyer-Wagen(下注)に基づく。乗車時間が短いので、座席は木製ベンチだ。車内の片側が対面式クロスシート、もう片側がロングシートで、狭いスペースに効率よく配置されている。

*注 カール・ヴァイヤー社 Carl Weyer & Cie. (後のデュッセルドルフ鉄道需要 Düsseldorfer Eisenbahnbedarf)は、デュッセルドルフに本拠のあった車両メーカー。軽便鉄道が所有する旧型客車は改修を受けて、今なお回顧列車 Nostalgiezug の運行に使われている。

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現行4軸客車。内部は片側クロスシート、片側ロングシート
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回顧列車で使われる古典客車

乗客が乗り込んでいる間に、外では機回し作業が行われた。文献には、列車の両端に機関車を連結して(下注)、そのまま折り返し運転ができる、と書かれているが、この日はどの列車も機関車は1両だった。残りの機関車は、検査か整備に出ているのだろうか。

*注 2両の機関車が客車を挟む形のプッシュプル運転 Wendezugbetrieb は、 CFL150形を1両増備(「アウリッヒ」号)して、2007年に始まった。

時刻表によれば、この列車の出発時刻は「およそ」10時15分。船の遅延も見込んで、幅を持たせてあるのだろう。ホームから人影が消えれば、発車の準備が整う。前のほうで例のそっけない警笛が響き、列車はそろりと動き出した。車窓を、ランプウェーの口をぽっかり開けたフェリーの影が遠ざかる。ボルクム駅までは17分の旅だ。

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回顧列車がレーデ駅を出発、ボルクム駅に向かう
先頭は1970年製のシェーマ・ロコ、エムデン号

続きは次回に。

■参考サイト
AG Ems https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編

2018年6月11日 (月)

北海の島のナロー I-概要

ヨーロッパ大陸とイギリス諸島の間に、北海が横たわる。ドイツやオランダもこの海に接しているが、より大縮尺の地図を見ると、本土と北海本体の間には小さな島が鎖状に連なり、オランダ沿岸からユトランド半島にまで延びている。これらをフリジア諸島 Frisian Islands / Friesische Inseln と呼ぶ(下注)。そのうち、ドイツ領のエムス Ems 河口からヤーデ Jade、ヴェーザー Weser 河口までが、東フリジア諸島 East Frisian Islands / Ostfriesische Inseln だ。

*注 フリジア Frisia は英語由来の呼称で、ドイツ語ではフリースラント Friesland という。上で併記した原語は左が英語、右がドイツ語。

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東フリジアの地図
沖合に島が鎖状に連なる。本土との間の海がワッデン海
ドイツ官製1:500,000地形図 Nordwest を使用 © Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2018

なぜこのような形に島が並ぶのだろうか。その成因は主として海流による。このあたりは、最終氷期(約7万年前~1万年前まで)に海面が現在より約60m低く、砂礫やモレーンから成る平たく乾燥した土地が広がっていた。その後、氷床が融けて海面が上昇すると、海流に乗って砂が西から東へ移動していく。また、北海に注ぐ川が内陸から多量の砂泥を海に押し流し、これも海流によって運ばれた。

北海沿岸の潮汐力は大きい。満ち潮は速くて勢いがあるが、引き潮の速さはその85%にとどまる。そのため、沖合から満ち潮に乗ってきた砂は、引き潮で戻されずにいくらかはそこに残る。高潮や強風がそれを上へと堆積させる。やがて沿岸には長さ500kmにもなる砂丘の列ができた。実は、今あるフリジアの島々は、こうした砂丘が嵐の際の高波などで寸断された姿だ(下注)。

*注 なお、ユトランド半島西岸の島々は北フリジア諸島と呼ばれ、成因が異なる。

一方、氷圧から解放されたスカンジナビア半島の隆起で、相対的に北海南部が沈下したため、海面水位は上昇し続けている。そのため、島と本土との間は完全に陸地化することなく、干潟や遠浅の海、ワッデン海 Wattenmeer(下注)として姿をとどめた。

*注 オランダ語の Waddenzee に基づきワッデン海と呼ぶが、本来、干潟(Watt)の海(Meer)という意味の普通名詞でもある。

東フリジア諸島に有人島は7つある。西から順に、ボルクム Borkum、ユースト Juist、ノルダーナイ Norderney、バルトルム Baltrum、ランゲオーク Langeoog、シュピーカーオーク Spiekeroog、そしてヴァンガーオーゲ Wangerooge だ(下注)。

*注 島名の語尾に付く oog、ooge は、現地のフリジア語で島を意味する。

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遠浅が続くワッデン海の眺め
シュピーカーオーク島西岸にて

一番大きいのは西端のボルクム島だが、それでも面積は31平方km、日本でいえば厳島(宮島、30平方km)にほぼ等しい。一方、バルトルムとヴァンガーオーゲは10平方kmにも満たない小島だ。人口も、最も多いノルダーナイ島で約6000人、バルトルムやシュピーカーオークは1000人を割り込む。

そのようなささやかな島々にもかかわらず、このうち5島にかつて一般旅客や貨物を運ぶ軽便鉄道が存在した。そして今日でもなお、3つの島で列車の走る姿が見られる。しかも細々と動いているどころか元気で、島にとっても不可欠の存在になっているのだ。

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賑わうボルクム軽便鉄道
(左)レーデ Reede 駅で船と接続 (右)終点は町の中心

なぜ、島の鉄道 Inselbahn が21世紀まで生き残り、それぞれに活路を見出し得たのだろうか。その理由を知るために、少し歴史を遡ろう。

かつて東フリジアの島の生業は、漁業と少しばかりの農業だった。島に別の収入をもたらす道を開いたのは、19世紀、本土からやってきた保養客だ。彼らは泳ぎに来たわけではない。当時、海辺の新鮮な空気が呼吸器疾患その他さまざまな病状の改善に有効だと考えられており、療養のために滞在したのだ。

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砂浜を埋め尽くすシュトラントコルプ(屋根付きビーチチェア)Strandkorb
ヴァンガーオーゲ島にて

1797年にノルダーナイ島が、プロイセン王から最初のノルトゼーバート(北海保養地)Nordseebad に認定された。本土から隔絶した島という希少性や神秘性が、上流階級の人気に拍車をかけた。しかし、それは、交通の便が悪いことと同義だった。

島へ向かう舟は、本土のジール港 Sielhafen から出航する。ジールはフリジア語で、堤防で囲まれた水門のある水路のことだ。水路は河川とつながっており、内陸の水が水路を通って海に排出されるときに、干潟に深い溝、いわゆる澪(みお)を刻む。浅海では、これが唯一安全な航路になった(下注)。

*注 グレートジール Greetsiel、ベンザージール Bensersiel、ハルレジール Harlesiel など、島へ渡る港(干拓が進んで内陸に取り残された旧港を含む)の多くが今も「ジール」のついた地名をもっている。

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ジール港の眺め
カロリーネンジール Carolinensiel にて

潮が満ちてくれば、舟が出せる。だが、島との往来に使われたのは、シャルペ Schaluppe と呼ばれる1本マストの小さな帆掛け舟だ。慣れない本土の客は、これでたいてい船酔いの洗礼を受けた。さらに島の側には港と言えるものはなく、正確に言えば沖合の投錨地だった。桟橋を造っても、当時の技術では嵐が来るたびに、波で簡単に壊されてしまうからだ。

それで客は潮位が下がるのを待ち、干潟を歩いて上陸した。急ぐ者には、有料の干潟馬車 Wattwagen という選択肢もあった。満ち潮でも濡れないように車高を上げた馬車で、2頭の馬が波を蹴立てて牽く。馬はひどいときには頸まで水に浸かるため、病気になることも多かった。

シャルペに代わって蒸気船が就航すると、所要時間が短縮され、船酔いも軽減された。しかし喫水が深いため、投錨地はさらに沖合に遠ざかり、干潟馬車まで小舟でつながなくてはならなかった。乗り換えのときに、不注意な客が泥の海に落ちることもしばしばあったという。

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(左)1900年代の干潟馬車、座席は高さ1.7m。カリフォルニア・オークランド博物館所蔵
Photo by Daderot at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)現代の観光用干潟馬車。ノイヴェルク島 Neuwerk にて
Photo by Simaron at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0

時代が下り、19世紀後半になると、いよいよ北海の島々にも鉄道敷設の構想が現れる。まず、本土との距離が最も近いノルダーナイ島で、ワッデン海を築堤で横断し、その上に本土直通の鉄道を走らせるという計画が発表された。しかし、ヒンデンブルクダム Hindenburgdamm(下注)に半世紀先立つ大胆な提案は、技術的な困難さからすぐに立ち消えとなった。

*注 ヒンデンブルクダムは、北フリジア諸島のジルト島 Sylt と本土をつなぐ長さ11kmの築堤。1927年に完成し、その上を標準軌鉄道が通る。

実現した鉄道としては、1879年にボルクム島に導入された900mm軌間の馬車鉄道が最初だ。ただしこれは船との接続ではなく、火災に遭い改築が必要となった灯台の工事現場に建設資材を輸送するものだった。1885年にはシュピーカーオーク島に旅客用の馬車鉄道が登場するが、これも港ではなく、西海岸に設けられたビーチと村の間を往復した。

港と島の中心集落との連絡機能を担う最初の鉄道は、1888年にボルクム島で開通した蒸気鉄道だ(下注)。固定の桟橋が、潮位に影響されないように防波堤の沖4kmに建設され、そこへ向けて延長された築堤の上に線路が敷かれた。蒸気船を降りた客は、桟橋に横付けされた列車に乗り換えて、町まで運ばれる。上陸までの煩わしい行程を過去のものにする画期的な方式で、この後、島への訪問客が急増するのは当然のことだった。

*注 ジルトでも同年、ムンクマルシュ Munkmarsch の旧港から主邑ヴェスターラント Westerland までメーターゲージの蒸気鉄道が開通している。ボルクムのわずか3週間後だった。

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列車が埠頭に横付けされ、乗継ぎは実にスムーズ
ボルクム・レーデ駅にて

ボルクムの成功を見て、1890年代は島々の間で、桟橋の整備とともに鉄道敷設が一種のブームとなった。1891年にはシュピーカーオークで馬車鉄道が、1897年にはヴァンガーオーゲでメーターゲージの蒸気鉄道が、1898年にユースト(下注)、1901年にランゲオークでもそれぞれ馬車鉄道が開業し、港で客を迎える体制が整えられている。

*注 ユーストの馬車鉄道は開通後まもなく、高波の被害を被った。それを機に線路を杭桁の上に載せ、内燃動力に切り替えたので、馬車鉄道の運行は1シーズンのみで終わった。

鉄道の近代化のスピードは、島によって事情がかなり異なる。初めから蒸気鉄道であったボルクム、ヴァンガーオーゲでは、1950年代に、徴用解除された本土の中古ディーゼル機関車や気動車により「無煙化」された。内燃式のユーストも同時期に気動車を導入している。

それに対して、馬車鉄道のランゲオークとシュピーカーオークは、歩みが遅かった。前者は1937年に内燃動力に転換したが、後者はドイツ最後の馬車鉄道と言われた時代を経て、戦後の1949年にようやく転換された。

さて、こうした旅客や生活必需物資の輸送は、島の鉄道の重要な任務だが、他にも期待された役割があった。その一つは海岸保全工事のための資材輸送だ。

北海の嵐に伴う高波はしばしば島に大きな被害をもたらし、「ブランカー・ハンス Blanker Hans(下注)」と恐れられてきた。堤防や桟橋が破壊されるだけでなく、海岸が、ときには屋敷や畑も含めて持っていかれる。風向きの関係で西岸が常にハンスの攻撃に曝されており、逆に東岸には未固結の砂州が長く延びている。島の主要集落が西側に偏っているのは、侵食作用で追い詰められた結果に他ならない。

*注 ブランカー・ハンスは、白く光るハンス(ハンスは一般的な人名)の意で、波のしぶきを見立てたもの。

そのため、防波堤の建設と拡張が19世紀半ばから継続的に行われ、工事用の軌道や側線が、鉄道の本線から分岐する形で設けられた。ボルクム、ユースト、シュピーカーオーク、ヴァンガーオーゲ、どの島もそうだ。バルトルム島にも工事軌道はあり、州の水路・航路局 Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理していた。しかし、こうした軌道は、工事が完成すれば不要となる定めだ。今も残っているのは、ヴァンガーオーゲにあるWSA保全拠点への引込み線が唯一とされる。

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(左)「堤防は島を護る。立入らないでください」の立札
(右)防波堤と交差する線路には閘門を設置。いずれもヴァンガーオーゲ島にて

それに加えてもう一つの役割は、軍事貢献だった。とりわけボルクムとヴァンガーオーゲは、エムス、ヴェーザーの河口を扼する位置にあるため、二度の世界大戦で要塞地帯とされた。兵舎、弾薬庫、砲座など軍用施設には、たいてい鉄道の引込み線がつながっていた。

初期の挫折以来、鉄道に縁がないノルダーナイ島でも、軍用鉄道だけは造られた。第一次世界大戦中の1915年に何と標準軌で敷設され、第二次大戦でも使用された。だが戦後は、民生用に転換されることもなく、1947年までに姿を消した。

戦後、本土(特に西ドイツ)では1950~60年代までに、ほぼすべての軽便鉄道が自動車との競争に敗れ、廃止されてしまうが、島の鉄道はどうなったのだろうか。

分類すると、東フリジア諸島で現在、軽便鉄道が存続しているのは、ボルクム、ランゲオーク、ヴァンガーオーゲの3島だ。ユーストとシュピーカーオークのそれは1980年代前半に廃止され、残るノルダーナイとバルトルムでは、先述の通り一般用の鉄道が稼働したことは一度もない(下注)。

*注 シュピーカーオークでは廃止とほぼ同時に、馬車鉄道が保存運行で復活し、2年の中断期間があったものの、現在も続けられている。ちなみに、北フリジアのジルトの軽便鉄道も1970年に廃止された。

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東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

ではなぜ、ある者は生き残り、ある者は失われたのか。まず存続したほうの要因は、いまだに需要があるというに尽きる。

ボルクムでは戦後、桟橋へ通じる軍用道路が市民に開放され、車で直接桟橋に行くことが可能になった。競合による鉄道の経営悪化を受けて、1960年に初めてバスへの転換を視野に入れた調査が行われた。しかし、町まで 7kmの距離があり、船で到着した客を一度に運ぶには相当な台数が必要となるため、バス輸送は現実的でなかった。大量輸送できる鉄道の特性を認めた結論だった。

また、ランゲオークとヴァンガーオーゲでは、島全体がカーフリー化されており(下注)、旅客輸送はもっぱら鉄道に任されている。

*注 自動車の全面禁止ではなく、スイスのツェルマット Zermat やヴェンゲン Wengen などと同様、貨物を運ぶ電動車は走っている。

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ヴァンガーオーゲの広大な干潟を横断

一方、鉄道が廃止されたユーストとシュピーカーオークもカーフリーの島なので、原因を作ったのは車ではない。実は、中心集落に近い場所に新港が造られたため、鉄道で間をつなぐ必要がなくなったのだ。かつては、ある程度水深のある沖合でないと、桟橋を設けることができなかった。しかし、浚渫技術の進歩で、干潟の奥まで水路を掘る工事が可能になり、両島はそちらを選択した。

とはいえ、今なお東フリジアの3つの島に軽便鉄道があり、積極的に活用されているというのは貴重だ。今年(2018年)5月、実際に島を訪れる機会を得たので、次回からその活動状況や沿線風景を順にレポートしていこう。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編

2018年4月12日 (木)

プロヴァンス鉄道 II-ルートを追って

コート・ダジュール Côte d'Azur の中心都市ニース Nice、その山手の一角からプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence の列車は出発する。ターミナルの名はニースCP駅、CP はもちろんプロヴァンス鉄道の頭文字だ。やや無機質な雰囲気を放つ近代的駅舎の奥に、トラス屋根を架けた2面3線の頭端式ホームが横たわる。

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ニースCP駅 発着ホーム
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同 正面玄関
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同 (左)エントランスの床で路線図がエスコート (右)出札ホール

CP駅が開業したのは1991年12月のことだ。SNCF(フランス国鉄)の中央駅であるニース・ヴィル Nice-Ville とは距離があり、直線距離で約500m、道なりに歩けば10分以上かかる。かつては今より東の、マロッセナ大通り Avenue Malausséna に面して開通時からのターミナルがあり、南駅 Gare du Sud と称していた。中央駅より北に位置するのに南(シュド)駅と呼ぶのは、前回述べたように、この鉄道の最初の運営会社の名がシュド・フランス Sud France、正式名フランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France だったからだ。

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(左)ニース南駅があった時代の1:25,000地形図(3743 ouest 1982年版に加筆)
(右)現在の同じエリア。南駅跡は更地でファサードだけが描かれている。
© 2018 IGN

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トラムのリベラシオン Libération 停留所に隣接する旧 南駅(写真左奥)

南駅には、テラコッタ色でアクセントを施した壮麗な石造りのファサード部に続いて、1889年パリ万国博のパビリオンを移設したという幅23m、高さ18m、長さ87mの鉄骨ドームで覆われたプラットホームがあった。現在CP駅がある辺りは側線が何本も並ぶ広いヤードで、ニース・ヴィルの貨物駅に通じる線路も延びていた。

しかし、施設の老朽化に加えて経営立て直しのために資産処分することが決まり、1991年にターミナルは141m後退した現在のCP駅に移転した。南駅跡地はその後2000年に、国からニース市に売却された。市は更地にしたうえで再開発を目論んでいたのだが、それに対して市民や専門家から強い抗議の声が湧き上がった。国も反対の意思を示したため、市はとうとう原案の撤回に追い込まれた。

2002年にはファサード部が、2005年にはドームが国の文化財に登録され、市はこれらの建築遺産を保存しながら活用する再開発案を発表した。ファサード部は全面改修を受けて、すでに2014年1月から図書館(名称はラウル・ミル図書館 Bibliothèque Raoul Mille)として使われている。ドームや周囲のヤードも、近々商業施設やスポーツ施設に生まれ変わる予定だという(一部は供用済み)。

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壮麗な旧 南駅ファサード。改修で図書館として再生された
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(左)トップにはめ込まれたパネルには「フランス南部鉄道」の文字
(右)ホームを収容していた鉄骨ドームはまだ修復中

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プロヴァンス鉄道路線図 (IGN 1:1,000,000フランス全図に加筆)
© 2018 IGN

現在のターミナルに話を戻そう。列車はCP駅を出ると、少しの間、市街地を曲がりくねりながら進む。停留所は短い間隔で設置されているが、多くはリクエストストップ(乗降客があるときのみ停車)だ。最初のトンネルを抜け、緑に囲まれた住宅地の間を上り、北から張り出す尾根をさらに2本のトンネルで通過する。市内にありながら谷間の鄙びた駅ラ・マドレーヌ La Madeleine は列車交換が可能で、古い駅舎も残っている。

長さ950mのベレートンネル Tunnel de Bellet を抜けると坂を下り、ヴァール川 Var が流れる谷底平野に出る。ランゴスティエール Lingostière 駅は、ニース南駅の廃止に伴って車庫や整備工場が移設され、今や同線の運行拠点になっている。

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ニースCP駅を出発すると、市街地を縫って西へ
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(左)尾根を次々とトンネルで抜ける。サン・フィリップ Saint-Philippe 停留所
(右)運行拠点のランゴスティエール駅。背後は整備工場

ここからはヴァール川を延々と遡る旅だ。列車はしばらく、川と国道N202号線に挟まれて走る。ヴァール川を渡るラ・マンダ橋 Pont de la Manda の手前にコロマール=ラ・マンダ Colomars - La Manda 駅がある。シャトル便の多くがこの駅止まりで、川風が吹き通るホームで折り返していく。現駅は1968年に移転したもので、それ以前は約400m下流にあった。戦前はここで中央ヴァール線が分岐して、ラ・マンダ橋で川を渡っていたのだ。そのため、北線のルートも今とは違い、河岸を離れて山側に迂回していた(下図参照)。

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(左)コロマール旧駅で分岐していた中央ヴァール線と北線
この図は中央ヴァール線の廃止後に作られているので、廃止線を示す断続的な鉄道記号で描かれている。1:50,000地形図(1950年代)を拡大
(右)現在の図。プロヴァンス鉄道(旧 北線)はヴァール川左岸に直線化され、駅も移転。旧線跡(北線のトンネルを含む)は道路として残っている。
画像はいずれもGéoportailより取得 © 2018 IGN

しばらく車窓に続いた平野が遠ざかり、川岸に山が迫ってくる。プラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var は、渓谷のとっかかりに位置している。起点(旧 ニース南駅)から24.9km、近郊列車はここが終点だ。この先は1日5往復(下注)の列車が走るだけの閑散区間になる。

*注 2018年4月現在、ニース発の長距離列車はディーニュ Digne 行きが4本、途中のアノー Annot 止まりが1本で、いずれも毎日運転。復路ニース着便は、ディーニュ発4本(毎日運転)とアノー発が1本(月~土と日祝日で運転時刻が異なる)。

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プラン・デュ・ヴァール駅に停車中の連接気動車 AMP800形
駅名の前につくラ・ヴェジュビー la Vésubie はここで合流する支流の名

山間を走るプロヴァンス鉄道の中でも、おそらくティネー川 Tinée 合流点までの6kmあまりは、谷が最も狭まる通行の難所だ。ヴァール川 Var がヴィアル山 Mt Vial の山腹を激しく侵食し、昼なお暗き険崖を削り出している。デフィレ・ド・ショーダン Défilé de Chaudan(ショーダンの隘路の意)、さらにその上流側で垂直の崖が迫る一帯はメスクラ峡谷 Gorges de la Mescla と呼ばれる(下注)。鉄道はデフィレをすり抜けた後、川を渡り、長さ934mのラ・メスクラトンネルで蛇行する峡谷をショートカットする。

*注 mescla はプロヴァンス方言で川の合流点の意。ヴァール川に北からティネー川が合流する。

ちなみに、アルプ・マリティーム軌道 Tramways des Alpes-Maritimes(シュド・フランスが経営する簡易線)の1本が、メスクラからティネー川の谷をサン・ソヴール・シュル・ティネー Saint-Sauveur-sur-Tinée まで延びていた。トンネルを出てすぐ対岸に渡っている古い下路アーチ橋はその跡だ。

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(左)デフィレ・ド・ショーダン(ショーダンの隘路)を通過
(右)踏切とマロッセーネトンネル Tunnel de Malaussène

谷の両側にはなおも比高数百mの山並みが続くものの、ヴィラール・シュル・ヴァール Villars-sur-Var、トゥエ・シュル・ヴァール Touët-sur-Var(下注)と遡るにしたがって、むしろ谷は明るく開けていくように感じる。起点から58.3kmのピュジェ・テニエ Puget-Théniers は、ニースから延ばされてきた鉄道が最初の終点を置いたところだ。人口1900人ほどの小さな町だが、これでもヴァール中流域では最大規模になる。

*注 シュル・ヴァール sur-Var は、ヴァール川沿いの、を意味する。他の同名の町と区別するための接尾辞。

この駅には対向設備があり、朝夕、列車交換が設定されている。だが、ふだんは人影もなく、時が止まったようだ。高床の貨物ホームや機関車のための給水タンクが残され、その脇に、廃車になった車両が野ざらしにされて哀れを誘う。年に十数日、こことアノー Annot(一部はル・フュジュレ Le Fugeret)の間で蒸気機関車による観光列車が運行される。そのときだけは駅にも活気が戻るのだろう。

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ピュジェ・テニエ駅

久しぶりに谷底平野に出ると、進行方向の岩山の上に、周囲を睥睨するように立つ砦が見えてくる。アントルヴォー Entrevaux は、この比高約150mの城山の麓、曲流する川に面する中世の城塞都市で、県の「特色ある村や街 Villages et cités de caractère」にも指定されている。石橋を渡り、古い城門をくぐると、背の高い家並みの間を石畳の狭い路地が網の目のように縫う。駅は対岸(南側)にあり、川向うに砦と町がよく見える。列車は石橋のたもとの広場(駐車場に使われている)の下をトンネルで抜けていく。

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行く手の岩山の上にアントルヴォーの砦
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アントルヴォーの砦と町
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アントルヴォー (左)城門 (中)石畳の狭い路地 (右)古い噴水のある広場
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(左)アントルヴォー駅 (右)アントルヴォー第1トンネルで右岸の広場の下を抜ける

次の山脚が迫る所では、まるで城門のようなアーチが2か所で道路と鉄道をまたいでいる。これは水路橋 Pont-canal で、山から勢いよく流れ下る沢の水をヴァール川へ逃がすための施設だ。

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2か所の水路橋が線路と道路をまたぐ

ポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan でヴァールの本流は右へ去り、線路は支流クーロン川 Coulomp の谷を進む。サン・ブノワ Saint-Benoît の停留所から先では、最急勾配30‰が現れるようになり、谷の斜面をひたすら登り続ける。途中、長さ123mのベイート高架橋 Viaduc de la Beîte でクーロン川の深い谷を渡る。ずっと付き添ってきたN202号線は、南の峠(トゥトゾール峠 Col de Toutes Aures)を越えるために、左の谷へ消えていく。

起点から73.0kmのアノー Annot が、ヴァール水系最後の町になる。ここも中心部に「特色ある村や街」の指定を受けた古い街並みが残されている。背後の山は砂岩の崖を巡らせたレ・グレ・ダノー Les Grés d'Annot で、ロッククライミングの名所だ。列車は町を遠巻きにしながら、険しい坂道をさらに上る。

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クーロン川をまたぐ長さ123mのベイート高架橋
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アノー駅 (左)ディーニュ方向を望む (右)SY形気動車が坂を降りてきた

次のル・フュジュレ Le Fugeret では、高度を稼ぐために同線唯一のS字ループを通過する。大きくカーブした2本のトンネルを経て、村の北斜面に出ると、左車窓にループの軌跡が俯瞰できる。その後はメアイユ Méailles の村が載る緩斜面の直下を、線路は上っていく。ちょうど停留所をはさんで、大規模なギヨーマス高架橋 Viaduc de la Guillaumasse(長さ121 m)とマウーナ高架橋 Viaduc de Maouna(長さ197 m)が架かっている。後者は左にカーブしていて、窓の開く車両ならぜひカメラを向けたいところだ。

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ル・フュジュレ~メアイユ間の1:25,000地形図 
画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN

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ル・フュジュレ駅
(左)今はリクエストストップに (右)「機関士に合図してください Faire signe au Conducteur」の表示
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ル・フュジュレ駅北側
線路はS字ループで高度を稼ぐ。矢印がループの最上段、左側はトンネル
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ギヨーマス高架橋
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谷の肩に位置するメアイユの村
線路はその下の斜面を行く。右下はギヨーマス高架橋

緑の深い谷を少し遡ったところで、左に大きくカーブし、分水嶺を貫くラ・コル・サン・ミシェルトンネル Tunnel de la Colle-Saint-Michel、長さ3,457 mに突入する。長い闇を抜けるとヴェルドン川 Verdon を渡り、路線最高地点(標高1,023m)に達する。川に沿って降りたトラム・オート Thorame Haute の駅はまさに山中の列車交換所で、駅舎の隣に教会がぽつんと建っているほかに集落らしきものは見当たらない。

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(左)コル・ド・サン・ミシェルトンネルの西口ですぐにヴェルドン川を渡る
(右)山中の列車交換所トラム・オート駅

いつのまにか広くなったヴェルドンの河原を渡って、サンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes に到着する。左の車窓を見ると、卓状のル・セール・グロ Le Serre Gros(標高1,777m)がどっしりと腰を据え、その右にひときわ尖った峰ピク・ド・シャマット Pic de Chamatte(同 1,879m)も見える。いずれもこの一帯に広がる褶曲山地の一部だ。

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サンタンドレ・レザルプ駅
(左)左手にル・セール・グロがどっしりと腰を据える
(右)転車台、背景の尖った山がピク・ド・シャマット
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線路に散り敷く松ぼっくり。モリエ Moriez 駅にて

N202号線と再会した後、列車は長さ1,195mのモリエトンネル Tunnel de Moriez で、コル・デ・ロビーヌ Col des Robines の鞍部を越えて、アス川 Asse の谷に出る。バレーム Barrême では、N85号線、通称ナポレオン街道 Route Napoléon に出会う。ナポレオン・ボナパルトが1815年に幽閉先のエルバ島からパリへ帰還する際に通ったルートだ。

*注 ナポレオン街道はコート・ダジュールのジュアン湾 Golfe Juan(道路としてはカンヌ Canne が起点)から、ディーニュ、ガップ Gap を経てグルノーブル Grenoble へ延びる。ちなみに別のメーターゲージ路線、ラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure も一部でこのルートに沿って走る。「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。

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バレーム駅のAMP800形

石灰岩の崖が迫るシャブリエールの隘路 Clue de Chabrières をトンネルでかわすと、アス川の谷は急に広くなる。しかし、鉄道は右へそれて、最後の山越えにかかる。といっても風隙を通り抜けるので、珍しくトンネルがなく、峠の実感がないままに下りになる。山の向こうはのびやかな谷底平野だ。列車はなだらかな斜面をゆっくり降りていき、ブレオーヌ川 Bléone を渡る。左車窓に草むした標準軌の線路が寄り添うのに気が付けば、まもなく終点ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains(起点から150.0km)だ。列車は3時間を超える長旅を終えて、島式2線のささやかなホームに滑り込む。

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ディーニュ・レ・バン駅
停車中の列車の後ろ、木の陰に駅舎がある。背景の尖峰はソメ・ド・クアール Sommet de Couard(1989m)

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ディーニュ・レ・バン駅周辺。SNCF線は廃線として描かれている
画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN

ホームの反対側はSNCFのサントーバン=ディーニュ線だが、メーターゲージの列車も入れるように一部3線軌条になった線路は錆びついたままだ。すでに1980年の時点で、定期旅客列車が全廃され、夏季運行のアルプアジュール AlpAzur 連絡便と細々とした貨物列車が発着するだけになっていた。その貨物列車も1987年、季節旅客列車は1989年にそれぞれ休止となり、1991年に正式に路線廃止の手続きが取られた。サントーバン(下注)で接続していたマルセイユ=ブリアンソン線 Ligne Marseille - Briançon へは、シストロン Sisteron 行きの路線バスが代行する形になる。

*注 正式名はシャトー・アルヌー・サントーバン Château-Arnoux-Saint-Auban。

ところが驚いたことにディーニュの駅舎では、プロヴァンス鉄道の窓口の隣にSNCFの窓口が開設され、昔と同じように全国路線網の切符を扱っている。この駅から標準軌列車の姿が消えて30年が経つ。にもかかわらず、そこだけ見れば、扉の向こうのホームへサントーバンからの列車が、「長らくお待たせしました」と言いながら今にも入ってきそうだ。

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ディーニュ・レ・バン駅舎
(左)プロヴァンス鉄道出札窓口  (中)入口は別々 (右)SNCF出札窓口
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同 ホーム
(左)ディーニュ、ニース方を望む。右の3線軌条がSNCF線
(右)反対側を望む。SNCF側のホームは駅舎前まで続いている

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/

★本ブログ内の関連記事
 プロヴァンス鉄道 I-トラン・デ・ピーニュの来歴

 フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う
 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

2018年4月 5日 (木)

プロヴァンス鉄道 I-トラン・デ・ピーニュの来歴

「トラン・デ・ピーニュ Train des Pignes」、地中海岸のニース Nice から山中へ分け入るプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence (CP) の列車につけられた愛称だ。ピーニュはプロヴァンス方言で松ぼっくりを意味する。蒸気機関車の時代、列車がのんびりやってくるので、駅で待つ客は落ち着いて松ぼっくりを拾う時間があったとか、石炭が足りなくなると、機関士は集めた松ぼっくりを罐(かま)にくべたなど、名前にまつわる逸話が伝わっている。

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プロヴァンス鉄道の新型車両、2010年CFD社製のAMP800形連接気動車
プラン・デュ・ヴァール駅にて

しかしこの愛称、もとは別の線区を走る列車のものだった。現在、プロヴァンス鉄道と呼ばれるのは、ニース~ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains 間149.9kmの単一路線だが、過去には、同じメーターゲージ(1m軌間)で他に2本の主要路線とそれに接続する支線群があった(下の路線図参照)。主要路線の一つが、アルプス前面の丘陵地帯を貫く「中央ヴァール線 Ligne Central-Var」(ニース~メラルグ Meyrargues 間210km)で、沿線には数十kmにわたり松林が続く。冬になれば線路の周辺に、おびただしい数の松ぼっくりが転がっていたに違いない。

もう一つはトゥーロン Toulon ~サン・ラファエル Saint-Raphaël (Var) 間110kmの「ヴァール沿岸線 Ligne du littoral varois」で、地中海岸の町や村を結んでいた。これらの狭軌列車を総称してトラン・デ・ピーニュと言ったのだが、今やそれを受け継ぐのは、当時「北線 Ligne du nord」であったニース~ディーニュ間のみとなった。

北線は人口の少ない山間部を通り、3線区中輸送量が最も少なかった。にもかかわらず、なぜ生き残ったのだろうか。今回は、プロヴァンス鉄道の来歴をたどってみたい。

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ニースを中心とする旧ニース伯爵領 Comté de Nice/ Contea di Nizza は、1860年にイタリアからフランスに帰属替えされた土地だ。パリ、リヨンからマルセイユに至る路線を造っていたパリ=リヨン=地中海鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée (PLM) は、さっそく地中海岸を東進する延長線の建設を開始し、1864年にニースに到達した。

「帝国の動脈 artère impériale」とされた幹線網が確立すると、次の目標は、支線の建設による地方の開発だった。1879年の公共事業計画、いわゆるフレシネ計画 Plan Freycinet(下注)には、この地方で「137号 ディーニュよりカステラーヌ Castellane を経てまたは近傍を通りドラギニャン Draguignan に至る路線」、「141号 ニースよりピュジェ・テニエ Puget-Théniers に至る路線」が挙げられた。

*注 公共事業大臣シャルル・ド・フレシネ Charles de Freycinet が手掛けた野心的な国土開発計画。特に鉄道の整備に重点が置かれ、181の地方線(地方利益路線 voies ferrées d'intérêt local と呼ばれる)が指定された。日本の鉄道敷設法と同様の趣旨。

PLM社は、137号に含まれるディーニュ~サンタンドレ Saint-André 間の認可を得たが、山間部の路線のためメーターゲージの導入を迫られると、あっさり撤退してしまう。代わって名乗りを上げたのは、マルセイユ資本で設立されたフランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France いわゆるシュド・フランス Sud France だった。1885年に、141号を延長して137号のサンタンドレに接続する新たな路線の認可を取得した。これが北線の原型になる。

両端から工事が進められ、まず西側のディーニュ~メゼル Mézel 間が1891年8月に開通した。次いで1892年には、東側でニース~ピュジェ・テニエ間、西側でメゼル~サンタンドレ(下注)間が開通した。当時、イタリアとの間で政治的な緊張が高まっていたため、ニースから途中のサン・マルタン・デュ・ヴァール Saint-Martin-du-Var までは標準軌の軍用列車が通過できるよう3線軌条とされ、トンネル等の構造物も標準軌の建築限界が適用されている。

*注 開通当時の正式駅名はサンタンドレ・ド・メウイーユ Saint-André-de-Méouilles だったが、現在はサンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes と称する。

残るピュジェ・テニエとサンタンドレの間には、ヴァール Var、ヴェルドン Verdon 両水系の分水嶺が立ちはだかり、長大トンネルの掘削が必要だった。資金不足の同社は早々と建設を諦め、この区間の工事は国が肩代わりする形で進められた。

シュド・フランスは20世紀初めに延長600kmに及ぶ路線網を有した大規模な地方鉄道だったが、信用上の醜聞に振り回されて資金繰りに難渋し、北線は後回しにされた。15年後の1907年にようやくピュジェ・テニエからポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan、1908年にさらにアノー Annot まで延伸され、1911年8月、最後の峠越え区間(アノー~サンタンドレ間)の完成で、全線が開業した。

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プロヴァンス鉄道と周辺の路線網(破線は廃線を示す)

初めこそ祝福を受けたものの、自動車の普及に加えて、洪水による線路の流失など、地方路線の経営は順調にはいかなかった。1925年、会社は国の支援を受けることになり、名称もプロヴァンス鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de la Provence に改められた。これが現在使われている名称の起こりだ。

状況はその後も改善しなかったため、同社は1933年に北部線と中央ヴァール線の運営を断念した。両路線は国の管理に移され、県土木局(ポンゼ・ショセー)Ponts et Chaussées が運行を引き継いだ。1935年からは蒸気機関車に換えてルノー社製の気動車が導入され、コストとともに所要時間の削減効果をもたらした。第二次世界大戦にかけて業績は好転する。

ところが、その戦争が事態を一変させた。大戦末期の1944年、ドイツ軍と連合軍の戦闘で、中央ヴァール線とヴァール沿岸線の主要な高架橋が破壊され、通行できなくなってしまったのだ。不通区間はバスで代行され、1948~50年に全線が正式に廃止された。こうして、旧 プロヴァンス鉄道の路線網で唯一残ったのが、皮肉にも重要性が低いとみなされていた北線だった(以下の記述では、北線を「プロヴァンス鉄道」と呼ぶ)。

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蒸気列車の旅に誘う
トラン・デ・ピーニュのポスター
撮影地はベイート高架橋
Viaduc de la Beîte
(アノー~ル・フュジュレ間)

戦後、国はこうした地方路線の直営体制を見直すべく、沿線自治体に抜本的な対策の策定を促した。廃止を求める意見もあった中で、関係地方自治体による組合組織(下注1)が設立され、1972年に運営の移管が完了した。列車運行はCGEAグループ(後のヴェオリア・トランスポール Veolia Transport、現在はトランスデヴ Transdev)の子会社CFTA(下注2)に委託されてきたが、期間満了に伴い、2014年からこの地域の広域行政を担うプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 Région Provence-Alpes-Côte d'Azur の直営となっている(下注3)。

*注1 地中海・アルプス協同組合 Le Syndicat Mixte Méditerranée-Alpes (SYMA)。
*注2 CFTAは2005年に、歴史的な名称であるフランス南部鉄道会社 Compagnie ferroviaire du Sud de la France (CFSF) に改称され、その名のもとに2013年まで路線の運行を担っていた。
*注3 路線の所有権は依然国にあり、管理運営を州に相当する地域圏 Région が行う。

細々と続けられてきた貨物輸送が1977年に終了する一方、1980年からは、旅行者誘致のために蒸気列車の運行が開始された。これは保存団体のプロヴァンス鉄道研究グループ Groupe d’Étude pour les Chemins de fer de Provence によってピュジェ・テニエ~アノー(およびル・フュジュレ Le Fugeret)間で現在も続けられている。

■参考サイト
トラン・デ・ピーニュ・ア・ヴァプール(蒸気による松ぼっくり列車の意)Train des Pignes à vapeur
http://www.traindespignes.fr/

プロヴァンス鉄道はニース~ジュネーヴ Genève 間の最短ルートに当たるため、1959 年から季節限定で連絡輸送が実施されていた。1970年代には、グルノーブルとディーニュの2回乗換えで両都市間を移動することができた(下注)。1983年からはSNCFと連携して「アルプアジュール(アルパジュール) AlpAzur」の統一名称で改装車両が運行され、一時注目を浴びた。

*注 ルートは、ジュネーヴからSNCFでキュロズ Culoz、シャンベリー Chambéry、モンメリアン Montmélian、グルノーブル、ヴェーヌ Veynes、サントーバン Saint-Auban を経てディーニュ・レ・バンへ、そしてプロヴァンス鉄道でニース南駅に至る。

残念ながら、1989年にSNCFが幹線網に接続するサントーバン=ディーニュ線 Ligne de Saint-Auban à Digne の休止に踏み切ったことに伴い、ユニークな企画も終了した。同線は1991年5月に正式に廃止され、線路は残っているもの朽ちるままにされている。この時から、プロヴァンス鉄道は他に接続する鉄道を持たない孤立線となった。

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ディーニュ・レ・バン駅。ホームの左側が廃線となったSNCF線
車両は1970年代CFD社製のSY形気動車(車両番号X301~)

同じころ、ニース市もまたプロヴァンス鉄道の山中を走る区間(全線の9割)を廃止して、近郊区間だけを存続させる再構築案の検討を始めていたが、後に撤回された。その代わりに、鉄道は1991年12月に歴史あるニース南駅を明け渡し、西へ140m後退した位置に新しいターミナルとしてニースCP駅を置くことになった。

現在、このCP駅から平日毎時2~3本の列車(下注)が出発していくが、多くは13km先のコロマール(ラ・マンダ)Colomars–La Manda を終点にしている。時間にして25分ほどのミニトリップだ。その先、ヴァール渓谷の入口に位置するプラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var(ニースから24.7km、40分)まで行くのが、平日11本。時刻表ではこの近郊区間をラ・ナヴェット la Navette(シャトル運転の意)と称して区別している。

*注 頻発区間でも、土・日・祝日は運休する便が多いので要注意。

さらに全線を完走して、ディーニュ・レ・バンに到達するのは1日わずか4本だ。所要3時間20分あまりの長旅で、こんなところによく鉄道を敷いたものだと感心するような山中をメーターゲージのか細いレールが延びている。いったいどのような景色の中を列車は走っていくのか、次回はそのルートを追ってみよう。

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/
 公式サイトは近郊区間(通勤者向け)urbain と旅行者向け tourisme に分かれている

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 プロヴァンス鉄道 II-ルートを追って

 フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う
 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

2018年3月19日 (月)

ラ・ミュール鉄道、2020年に一部再開

グルノーブル Grenoble の南、マテジーヌ高原 Matheysine Plateau へ、電気機関車に牽かれて観光列車が上っていく。高原で採掘される石炭を運び出していたラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure は、本来の役割を終えて、1997年に観光鉄道に転換された。

*注 ラ・ミュール鉄道のプロフィールについては本ブログ「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。

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被災前のラ・ミュール鉄道
Photo by Alain Gavillet at wikimedia. License: CC BY 2.0

しかし、年間最大7万人が訪れていたというプティ・トラン petit train(小列車の意)の旅は、2010年10月26日に突然終了する。この日発生した山崩れで、約3,000立方メートルという大量の岩や土砂が、トンネルの入口とモンテナール湖 Lac de Monteynard を見下ろす高架橋の上に落下し、線路が完全に埋まってしまったのだ。

現場は2本のトンネルの間の短い明かり区間で、目もくらむ 高さ250m(下注)の断崖に石積みの高架橋が架かっている。土砂の除去作業をしようにも現場に近づく道路はなく、不安定になった岩肌からは小さな崩落が続いていた。復旧の見通しが立たないことから、運行を受託していたヴェオリア・トランスポール Veolia Transport は、要員を解雇し、事業から完全に手を引いた。それ以来、ラ・ミュール鉄道は全線が不通のままだ。

*注 1962年に完成したモンテナール=アヴィニョネ ダム Barrage de Monteynard-Avignonet により湛水する前は、川底から400mもの高さがある荒れた急斜面だった。なお、湖の名も正式にはモンテナール=アヴィニョネ湖 Lac de Monteynard-Avignonet。

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崩壊現場を対岸より撮影
Photo by Guillaume BOSSANT at fr.wikipedia. License: CC BY-SA 1.0

鉄道が通るイゼール県 département de l'Isère は、事業再開を目指して、2012年に委託業務の最初の入札を行った。しかし、提示の条件を満たす事業者は現れなかった。その後も再入札や個別の交渉が繰り返されたが、いずれも途中で暗礁に乗り上げた。この間、線路施設は放置され、2013年11月には架線の一部が盗まれる被害も発生した。

ところが、運行中止から7年が経とうという2017年6月になって、新たな報道があった。フランスのマスコミサイト Franceinfo から、6月29日付記事を引用させていただく(フランス語原文を和訳)。

イゼール県のラ・ミュール小列車が新しい運行事業者を見つけて2020年に再開予定
Le petit train de la Mure en Isère a trouvé un nouvel exploitant et va redémarrer en 2020

それはイゼール県きっての観光地の一つである。2010年の山崩れの後中止されたラ・ミュール小列車の運行が再開されることになった。県議会は今朝、新しい事業者の名を発表した。2020年の再開に向けて2,600万ユーロの投資が必要となる。

良いニュースは何年も前から期待されていたが、イゼール県のラ・ミュール小列車が再び走ることになった。2010年10月、巨大な地すべりが列車の走るレールを遮断していた。この木曜日、2017年6月29日、イゼール県議会は小列車を運営する代表者の名を発表した。大規模で費用のかかる作業が必要になる。最初の観光客を迎えるのは2020年の見込みである。

複雑なインフラの管理を専門とする民間管理事業者エデス Edeis は、新しい「ラ・ミュール小列車」を運営するために選ばれた。イゼール県議会議長ジャン=ピエール・バルビエ Jean-Pierre Barbier が、今朝ラ・ミュールでの記者会見の席でその名を明らかにした。

「小列車」は2020年7月に再開される予定である。ラ・ミュールとモンテナールの展望台の間15kmの路線を走ることになる。最終的には、運行中止前の年間訪問者70,000人に対して120,000人に達することが目標である。

しかし、再開の前に大規模で費用のかかる作業がある。起工式は年末までに行われる予定である。必要となる投資総額は2,600万ユーロと見積もられ、うち600万ユーロは委託先のエデスが負担することになっている。県はそれに最大1,500万ユーロを投入する。ジャン=ピエール・バルビエにとって有用な投資であり、「そうすれば、経済的観点からうまくいくと信じているのです」。

イゼール県の観光の真の花冠「ラ・ミュール小列車」は、2010年10月の山崩れ以来、運行されていない。2本のトンネルの間の線路上に数千立方メートルの岩が崩れ落ちた。被害状況を地元の制作会社が撮影している。

記事にあるモンテナールの展望台というのは、グラン・バルコン Grand balcon(大バルコニーの意)付近に新たに設置するもので、レストランが併設されるという。そこは崩落個所より800mほどラ・ミュール寄りの高架橋上で、湖の眺望がすばらしく、以前から観光列車がフォトストップのサービスをしていた。列車はそこで折り返すことになるようだ。また、途中のラ・モット・ダヴェイヤン La Motte-d'Aveillans にある鉱山イメージ博物館 Musée de la mine image の前に新たに停留所を設けるともされている。

別の記事(Transportrail 2017年9月10日付)では、さらに具体的に「2020年夏のシーズン(4~10月)にこの区間で1日当たり9往復を運行させる計画」と書かれており、その日に向けて着々と準備が進められているのは間違いない(下注)。

*注 エデス社のサイトによれば、委託契約期間は30年で、初めの3年で整備工事を行い、その後27年間、インフラを維持管理するという。
https://www.edeis.com/train-de-mure-projet-emblematique-activites-dingenierie-dexploitation-dedeis/

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2020年の運行再開区間(赤線)。図中の LANDSLIDE が崩壊地点

ただ残念なのは、これが全線復活ではないことだ。計画では、上流側のラ・ミュール~グラン・バルコン間約15kmの運行が再開されるが、その一方で、本来の起点で、SNCFアルプス線 Ligne des Alpes との接続駅であるサン・ジョルジュ・ド・コミエ St-Georges-de-Commiers までの下流区間約15kmについては、少なくとも当面は放棄される。そのため、車両保守のための施設や留置線は、ラ・ミュールに集約されるという。

確かに、崩落現場にはまったく手が付けられておらず、土砂の撤去は、足場確保の困難さ、膨大な作業量、二次災害の危険性などから見ておそらく不可能だ。列車を通すには、現場の前後にある2本のトンネルをつなげる形で、当区間を迂回するトンネルを新たに掘るしかないだろう。しかし、巨額の費用を投じて全線再開を実現できたとしても、それがさらなる利用者増に結び付くかというと、そこは疑問だ。

ヨーロッパのどの観光鉄道もそうだが、客の大半は自家用車か観光バスで来る。SNCF線への接続が復活してもその傾向が変わることはないだろう。それに、沿線はおおむね木が茂り、見通しが利く区間は意外に少ない。展望台があり、丘陵を折り返しながら峠を越えていく上部区間に比べて、乗客を喜ばせる仕掛けに欠けている。さらに、エデス社にとってみれば、全線を往来する客は時間を惜しんで、せっかく整備したグラン・バルコンのレストランを素通りしてしまう恐れがある。

案の定、Franceinfo の続報によれば、サン・ジョルジュ・ド・コミエの町長が、計画はわが町のことを忘れている、と県に対して異議を申し立てたそうだ(2017年10月24日付記事)。駅前に駐車する観光バスが消え、列車運行に関する仕事がすべてなくなり、サン・ジョルジュ・ド・コミエは片道10本のSNCF気動車が停車するだけの静かな無人駅に零落してしまった。その状況がこの先いつまで続くのかは、誰にもわからない。

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 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

2017年3月20日 (月)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV

商業鉄道だった旧ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway がすべての運行を停止したのは、第二次世界大戦前の1937年だった。それから74年の歳月を経て、2011年に保存鉄道として全線再開されるまでのいきさつは、ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建 Welsh Highland Railway restoration」の項(下記参考サイト)に詳しい。約13,000語に及ぶ長文の資料から、関係する諸集団の思惑が複雑に絡み合った鉄道再建の険しい道のりが明らかになる。以下、その骨子を書き出してみた。

■参考サイト ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建」
https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Highland_Railway_restoration

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ベンチの脚を飾るレッド・ドラゴン(ベズゲレルト駅にて)

旧線路用地の帰趨

旧WHRの運営企業は、正式名をウェルシュ・ハイランド鉄道(軽便鉄道)会社 The Welsh Highland Railway (Light Railway) Company(以下、旧WHR社)といった。同社は、1896年軽便鉄道法に基づく軽便鉄道令 Light Railway Order (LRO) によって、1922年に設立が認可されている。会社は、社債を発行して鉄道の建設資金を調達したが、その3/4を引き受けたのは国と地元自治体だった。ところが開通後まもなく経営不振に陥り、利子払いが滞ったため、会社に対して1944年に清算令が下された。ここまでは前回述べたとおりだ。

指名を受けた清算人は、債権者に債務弁済するにあたって、線路用地は入札にかけ、最高額の札を入れた者に売却することで資金を回収しようとしていた。ただし軽便鉄道令によって、線路用地の所有権は旧WHR社のみにあり、かつ鉄道目的にしか使えない。そこで、用地を縛りから解き放つには法的な手続きが必要となり、それには2つの選択肢があった。

一つは、旧WHR社を廃止する「廃止令 Abandonment Order」を得ることだ。ただしこれを申請する者に法律上の費用負担が生じる。二つ目は「譲渡令 Transfer Order」で、これを得た者は旧WHR社から譲渡を受けられるが、その土地の使用は引き続き鉄道目的に限定される。

清算人としては土地の換金が可能になる廃止令が望ましいが、その前提となる費用を工面する当てがなかった。旧WHR社の残余資産はすでに債権者に分配済みで、使い勝手の悪い線状の土地を取得するために気前よく資金を差し出す者が現れるとは思えなかったからだ。

1961年7月に、保存鉄道に関心のあるシュルーズベリーの実業家の声掛けで、鉄道再開の可能性を議論する会合が開かれた。その場に招かれた清算人は、交渉次第ではあるが土地は750ポンドで売却する用意があると述べた。そこで、話をさらに具体化するために同年10月、ウェルシュ・ハイランド鉄道協会 Welsh Highland Railway Society(以下、WHR協会)が設立された。

協会の創設者に名を連ねたうちの数名は、近隣の保存鉄道フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)にも関与していた。フェスティニオグ鉄道も1946年に運行を休止したが、復活を望む人々によって1951年に鉄道協会が設立され、協会が過半数の株式を取得する形で、休眠状態の鉄道会社が再建された。そして1950年代の終わりまでに、ポースマドッグ Porthmadog(下注)から全線のほぼ中間地点にあたるタン・ア・ブルフ Tan-y-Bwlch まで運行が再開されていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から現在の Porthmadog に変更されたが、本稿では表記をポースマドッグに統一している。

鉄道再建の実績を持つ人々の参加はWHR協会の大きな支えになった。その一方で、FRの支持者の間ではWHRの再建に対して複雑な反応があり、歓迎する者もいれば、公然と敵意を示す者もいた。理由はおいおい明らかになるが、このことが、後日のFRの行動に少なからぬ影響を及ぼすことになる。

さて、路線を復元するには、まず再測量のために線路用地への立入り許可が必要だ。清算人はWHR協会に好意的で、ほどなく協会を実行力のある想定売却先と認めるようになった。協会は、清算人との間で用地購入に関して、行政当局とは計画認可に関して、それぞれ交渉に着手した。ポースマドッグが属するメリオネスシャー州 Merionethshire からは、ルート南端の計画に対して認可が下りた。しかし、カーナーヴォンのあるカーナーヴォンシャー州 Caernarfonshire の議会は、鉄道より並行道路の改良に関心が向いており、協会の計画には非協力的だった。

鉄道の運営責任を引き受けるには法人格が必要なため、WHR協会は1964年初めに、ウェルシュ・ハイランド軽便鉄道(1964)有限会社 Welsh Highland Light Railway (1964) Limited を設立した。巷では「64年会社 The 64 Company」と呼ばれたので、以下ではそれに倣おう。

運の悪いことに、行政との認可交渉をしている間に清算人が体調を壊し、用地の売却交渉をまとめることなく亡くなった。清算業務は管財人が自ら引き継いだが、彼は64年会社への売却を良しとせず、土地を競売に出すという当初の方針を貫いた。協会側は、積み上げてきた交渉を突然打ち切られ、同時に用地への立入り権も失ってしまった。

管財人は、競売への参加者に対し、旧WHR社の債務を引き受けるに足る資産の証明と、廃止令への出資を条件に加えた。64年会社も参加した競売で最高額を投じたのは、カンブリア州 Cumbria の資産家J・R・グリーン J. R. Green という男だった。グリーンは他の保存鉄道を支援している理解者であり、信頼のおける保存団体に管理を委ねるつもりだった。64年会社は彼にWHR復元と運行の支援を要請され、同意した。

ところがその後グリーンは、一時的に資金難に陥った。先行きを不安視した管財人は1969年に売却を撤回してしまい、64年会社は再び挫折を経験することになった。

その後、64年会社は1973年後半に、ポースマドッグでベズゲレルト側線 Beddgelert Siding と近接の土地を購入している。側線は、クロイソル軌道 Croesor Tramway が山から運び下ろしたスレート貨物をカンブリア鉄道 Cambrian Railways(後の国鉄カンブリア線)に受け渡すために造られたもので、戦後は使われていなかった。この廃線跡の上にポースマドッグからペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction まで短距離の狭軌線が敷かれ、1980年に保存鉄道として開業することになる。

64年会社と全線派

1974年に自治体の再編が実施された。メリオネスシャー州とカーナーヴォンシャー州は統合されて、グウィネズ Gwynedd 州になった。それに伴い、かつて保存鉄道に無関心だったカーナーヴォンでも、鉄道への風向きが変わり始めた。観光客の減少を食い止めるために、新たな観光資源に結び付ける動きが出てきたのだ。このとき、1972年に廃止されて以来、州の所有になっていた標準軌線跡を使って、狭軌保存鉄道を町まで引き込む構想が初めて提案された。一時は64年会社の拠点を、ポースマドッグからカーナーヴォンに移す話さえあったほどだ。

1970年代の半ばに、グウィネズ州は旧WHRの線路用地の取得に乗り出した。線路用地の査定価格は州に対して旧WHR社が負う債務と相殺されるので、名目の金額だけで用地を取得できるはずだ、と州は主張した。しかし、これでは最高額の入札者に売却したことにならないと、管財人は売却を貫徹するための承認を法廷の裁定に求めた。

1980年代の初めには、州と64年会社が用地を共同管理し、カーナーヴォンから「ベズゲレルト Beddgelert とリード・ジー Rhyd Ddu の間の手ごろな地点」まで鉄道再建を段階的に進めるという計画案ができていた。そのために、州はとりあえず費用を支払って、旧WHRの廃止令を得るつもりだった。

しかしこれが、その後巻き起こった激しい意見対立の、まさに引き金となった。すなわち廃止令によって線路用地の法的保護がなくなれば、再建の対象にならなかった区間は、鉄道以外のフットパス(自然歩道)や道路の新設・改修に使われてしまうのではないか。64年会社の内部に、そうした懸念をもつグループ、いわゆる「全線派」がいた。彼らはあくまで全線再開を目標にするべきで、それにはフェスティニオグ鉄道のように、旧WHR社の過半数の株式を取得して線路用地の管理権を得なければならないと考えた。

全線派は、自前の資金で旧WHRの株式と債券を探し当てて、購入し始めた。1983年初めに取締役会で彼らが表明したこの方針は、他の取締役を大いに驚かせた。州との取引を推進するという従来の会社の方針に逆行するように見えたからだ。ともかくも4月の取締役会では、取得済みの株式と債券を所有する財団の設立が合意された。全線派は調査を続けてよいが、その結果は取締役会に定期的に報告することとされた。

ところがその後、全線派はさらに踏み込み、資金集めの発起書を刷って社員や一般会員に配布した。これは取締役会の決議内容を越えるものだったため、9月の取締役会は紛糾した。会社の方針に従わなかったとして、全線派は買い集めた株式と債券を無償で会社に引き渡すよう求められた。彼らが拒否すると、業を煮やした取締役会は、全線派の取締役辞任を勧告した。

内部騒動の間も64年会社は、州との交渉を継続していた。州議会の小委員会は1983年4月に、管財人からペン・ア・モイント~ポント・クロイソル Pont Croesor 間の用地を取得して、64年会社にリースするよう勧告することを決定した。1980年に開業した区間の延長に道筋をつけるものだった。会社は同年11月に臨時総会を開き、そこで州との取引を進めることが承認された。

片や全線派も活動を進めていた。線路用地の買収を目的にした「線路用地統合会社 Trackbed Consolidation Ltd(以下、TCL)」を密かに立ち上げて、管財人に用地売却を働きかけた。これはすぐに取締役会の知るところとなり、1983年12月に、TCLに関係している全線派社員5名に対する会員活動の停止が決議された。彼らは年次総会への出席すら拒まれたため、双方ともに深い遺恨を抱くもととなった。

全線派はTCLを使って、株式と社債の買収を進めた。社債の75%の所有者による賛成票が、旧WHR社の財政再建計画に同意を与える法律的要件だったからだ。64年会社には全線派のほかにも同様の考えを持つグループがあり、彼らは西部借款団 West Consortium の名で、1985年1月に国が保有していた社債を購入した。

TCLと新たな盟友となった西部借款団の確保した社債を合わせると、全体の65%に達した。残りは3つの地方自治体が所有していた。その一つ、ドゥイヴォル Dwyfor 郡(下注)は当初全線派の考えを支持しており、それを足せば78%になる見通しだった。ところが1986年1月に再招集された債権者会議で、ドゥイヴォル郡は州議会などの説得に応じ、反対側に立った。全線派のめざす財政再建の試みは、土壇場で中断を余儀なくされた。そして管財人は、引き続き土地を州に売却する意思を持ち続けたのだ。

*注 ドゥイヴォル郡は1974~1996年に存在した自治体で、ポースマドッグやベズゲレルトを郡域に含む。

フェスティニオグ鉄道の思惑

64年会社が州と組もうとしたのは、弱い資金力をカバーするため、建設に際して公的な財政支援を期待したからだ。一方、州政府にとってWHRは、あくまでカーナーヴォン周辺の観光開発のためのツールでしかない。ポースマドッグまで線路が延伸される見込みは薄く、使われなかった用地は処分されるか転用され、全線再開は永遠に不可能になるだろう。全線派はそう考えて、あくまで自力でWHRを復興させようと考えた。

管財人が所与の権限で用地を州政府に売り渡そうとしているのに対抗して、彼らは旧WHR社を再興することで、本来会社にある用地の所有権を掌握しようとした。64年会社と州政府、それと対立する全線派(TCL)や西部借款団、いずれもWHRの再開という目指す方向は一致しており、最終目標とそのために取るべき手段が異なっただけだ。

ところが、ここでもう一者、まったく別の思惑でこの問題に介入しようとした集団があった。フェスティニオグ鉄道(FR)だ。FRはすでに1982年に自社全線の再開を完了していたが、ジアスト Dduallt からの水没区間で迂回線を建設するために、資金の借入れを行っていた(下注)。そのうえ再開後の乗客数が伸び悩み、収益性に問題を抱えていた。

*注 揚水式発電所建設に伴う調整池の建設で、旧線が水没したため、復活にあたってはスパイラルを含む迂回線の建設が必要となった(本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照)。

そのようなFRにとって、64年会社と州政府が進めているWHR復活計画は、決して他人事ではなかった。というのも、同じポースマドッグの町から出る潜在的な競争相手は、州の財政支援を受け、沿線にブライナイ・フェスティニオグよりも魅力的な観光地ベズゲレルトを擁している。ポースマドッグからベズゲレルトまでは平坦なルートで、運行経費が安価なため運賃を低く設定することも可能だ。FRは、現在の利用者の半数近くがWHRに流れると見積もり、借金の返済計画にも影響が及ぶことを懸念した。

WHRの再建は阻止しなければならない。そのための最良の方法は、自らWHRの線路用地を取得することだと、FRは考えた。これは後に「買って封じる Buy to Shut」政策と呼ばれることになる。

1987年9~10月に、他のいかなる入札者にも勝る16,000ポンドの入札が匿名でなされた。しかし、管財人が州に売却する方針を曲げなかったため、この策は成功しなかった。そこでFRは1988年9月に、州への直接の説得を試みた。州政府に線路用地の入札を辞退することを勧め、代わりに自分たちが入札に成功したら、鉄道目的「以外」に使うという条件で州に用地を寄託する用意があると伝えたのだ。

1989年に64年会社と州は協力関係を再確認し、管財人から線路用地を購入するために高等裁判所で売却の認可を受ける準備を始めた。裁判所の尋問ではすべての利害関係者を宣言するので、匿名の入札者の正体も明らかにされることになる。

FRは先手を打って、州政府と再協議の機会を持った。そこでは態度を180度転換して、「自分たちは鉄道保存の事業者であり、維持発展が可能ないかなる鉄道の休止も求めない」ことを表明した。そして、FRが用地を取得して、64年会社にリースすると提案した。そこで州は、両者の話し合いによる解決を促すことにした。

1989年のクリスマスに両者の代表が会合を持ち、FRは入札者の正体を開示したうえで、自らの考えを話した。しかし64年会社は、先に州から1988年9月にFRと行った会合のメモを入手していた。WHRの再開を望んでいなかった会社が、わずか1年後に再建を手助けしたいと申し出ている。64年会社は、FRの動機を非常に怪しんだ。

すでにこのとき、64年会社はペン・ア・モイントからポント・クロイソルまでの延長計画に認可を得て、州と共同で軽便鉄道令の案を提出していた。会合の後、64年会社はこの件に干渉するFRを非難する声明を発表し、FRに入札から撤退するよう求めた。秘密の入札者の正体も、一般会員の知るところとなった。

このニュースはすぐに広まり、イギリスの鉄道保存団体に属する多くの人々に衝撃を与えた。FRは、64年会社の地主となって彼らを援助したかった、64年会社と州の協力関係のもとでは全線復元の機会が失われたはずだと弁明したが、世間は納得しなかった。鉄道専門誌も反発し、「これは保存の精神ではない」という論説を掲載した。FRの支援者さえも非難の声を上げた。

連携と逆転劇

このときまで別の方法で線路用地へのアクセスを試みていた全線派は、それが取得できれば64年会社にリースするか寄贈する意思を持っていた。しかし、64年会社の顧問弁護士は、1922年軽便鉄道令は再使用できないとアドバイスしていたため、同社は彼らとの協力を拒否し続けた。厳しい批判に晒されるFRと、交渉の糸口がつかめない全線派と西部借款団、ともに全線復活を目標にする三者が接近するのは当然のなりゆきだった。

全線派(TCL)と西部借款団は、FRが全線の開通と運行に最善の努力を払うことを条件に、集めた株式と債券をFRに引き渡すことで合意した。その受け皿として、子会社フェスティニオグ鉄道ホールディングズ有限会社 Festiniog Railway Holdings Ltd が設立された。

こうしてFRは、全線派たちが描いていた戦略を用いて、高等裁判所の聴聞で管財人の申請に異議を唱えることができる立場に立った。理事が交替したFRは、今や復元の当事者になろうとしており、膨大な資料作成のための資金も準備していた。

聴聞の場でFRは、旧WHRの財政再建を試みる時間を稼ぐために、州への売却時期の延期を申請した。しかし、裁判所は、旧WHRにもはや存命の取締役がおらず、会社はいわば瀕死の状態であるとして、認めなかった。64年会社の顧問弁護士が指摘していたとおりだった。FRの再建のケースでは、1946年の休止後まもなく保存運動が始まっており、取締役会の再招集が可能だったが、WHRには同じ手法が通用しなかったのだ。

裁判所はそのうえで、この問題の解決策は、両当事者のどちらかが1896年軽便鉄道法第24条にもとづき譲渡令を申請することであると裁定した。譲渡令を得れば、(管財人との間で)売却の合意が整った後、鉄道建設と運行の権限の譲渡を受けられる。裁判所は管財人の売却申請には裁定を下さず、譲渡令申請の時間を見込んで猶予を与えた。

両者はそれぞれ譲渡令を申請した。内容が競合するため、1993年11月に公聴会が開かれることになった。1988年9月のメモが証拠として提出されたこともあって、FRは本当に再建に取り組む気があるのかどうか、まだ疑念を抱かれていた。そこで公聴会の進行中にFRは、州政府との間で、譲渡令を得たら5年以内に工事を開始する、実行できなかったときは線路用地を州に明け渡すという趣旨の協定を結んで、自らの姿勢を明確にした。

しかし、独立検査官が調査の結果下した判断は、64年会社の申請を支持するというものだった。その理由として検査官は、州の関与によって高水準の公的支援が期待できること、64年会社がポースマドッグに既存設備を有していること、64年会社が目的をWHR再建に特化しているのに対し、FRは他にも多数のプロジェクトを手がけており、そちらが優先される可能性があること、商業組織であるFRより64年会社のほうが、再建に必要なボランティアの動員が容易であること、などを列挙した。

やはりFRの挑戦は無謀だったと、誰しも感じたことだろう。ところが公聴会を踏まえて1994年7月に運輸大臣ジョン・マグレガー John MacGregor が発表した報告書を読んだ人は、自分の目を疑った。決定内容が64年会社ではなく、FRの申請を是認していたからだ。

FRの構想には公共団体や公的支援が関係していないため、結果的に公的部門に対するリスクが削減されるというのが、付された理由だった。当時の保守党政府の政治観に適合する結論とはいえ、予想外の展開に対して、地元では激しい反発が巻き起こった。FRは国務大臣を買収したと非難された。最後の蹴りを入れられた形の64年会社は控訴を検討したが、それは成功の保証がない高価な選択肢だった。

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WHRの再建過程

対立を超えて

この後、FR財団は鉄道再建のための子会社を設立し、ついにカーナーヴォンを起点に再建のための工事が開始された。復活WHRの最初の区間となるカーナーヴォン~ディナス Dinas 間4.3kmは、1997年10月に開通した。

とはいえ、64年会社も大人しく引き下がったわけではない。FRに対抗して1996年に社名を「ウェルシュ・ハイランド鉄道有限会社 Welsh Highland Railway Ltd(名称が紛らわしいので以下、WHR(旧64年)社とする)」に変更し、「ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway」を名称登録した。自分たちがWHRの正当な後継者であると、会社はなおも主張していた。

区間開通に先立つ1997年3月に、FRはディナス以遠、ポースマドッグまでの工事令 Works Order(工事認可)を出願した。提案ルートに対するパブリックコメント(意見公募)で多数の反対意見が提出されたため、同年6月に公聴会が開かれた。

中でも焦点となったのは、ポースマドッグの町を通過する「クロス・タウン・リンク Cross Town Link」と呼ばれる区間だった。これには道路橋であるブリタニア橋の併用軌道が含まれており、ウェールズ政府道路局は、道路横断がハイストリート High Street(本通り)に交通渋滞をもたらすと異議を申し立てた(下注)。

*注 これは、町を迂回する道路バイパスの開通(2011年)によって最終的に解決が図られた。

WHR(旧64年)社も、反対意見を提出した。提案ルートの一部に自社所有地が含まれており、工事令が出れば強制的に買上げられてしまうからだ。

WHR(旧64年)社は、新路線を自社のペン・ア・モイント駅に接続させるという反対提案も用意していた。上述のように同社は1980年からペン・ア・モイント~ポースマドッグ間で保存列車を走らせており、ポースマドッグの駅は、FRのハーバー駅とは町をはさんで反対側、国鉄駅の向かいにある。このルートを使えばクロス・タウン・リンクが不要になって、本通りが渋滞する心配がない。両駅間を行き来する人が増えて、町の商店街への経済的効果も期待できるだろう。

しかし、FRにとればこの提案は、新路線と既存FR線を連絡させる機会が失われることを意味する。また、WHR(旧64年)社が南端区間の所有者になることで、通行保証のための協議が必要になり、両者間で争いが起これば通行妨害が起きるかもしれない。FRは、何とかしてWHR(旧64年)社が反対意見を撤回するよう説得すべきだと考えた。1997年8月に両者は交渉のテーブルについたが、9月後半に早くも決裂する。しかし公聴会が迫ってきたため、11月に交渉が再開され、ついに基本合意に達した。

合意内容は次のようなものだった。WHR(旧64年)社は、クロス・タウン・リンクに対する反対意見を取り下げる。その代わりにWHR(旧64年)社は、(新線と重なる)自社所有地のペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間で路線を建設できるものとし、FRもそれを全面支援する。つまり、FRは北から線路を延ばし、WHR(旧64年)社は南から線路を延ばす。合流地点をポント・クロイソルとするということだ。

加えて、北から来る新線の先端がポント・クロイソルに到達するまで、WHR(旧64年)社がペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間を自社で運行できる。また、WHR(旧64年)社の列車に対して新線全線の通行権を保証するとされた。

11月30日に取り交わされた覚書に基づき、1998年1月12日に協定が成立した。このいわゆる「1998年協定 The 1998 Agreement」で、新路線の北側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(カーナーヴォン)Welsh Highland Railway (Caernarfon)」、南側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(ポースマドッグ)Welsh Highland Railway (Porthmadog)」の名称で区別することも取り決められた。

その後、北側では、2000年8月にディナスからワインヴァウル Waunfawr まで、2003年にリード・ジー Rhyd Ddu まで線路が完成した。南側は、2006年にペン・ア・モイントからトライス・マウル Traeth Mawr の暫定ループ(信号所)まで700mが延長され、列車も走ったが、WHR(旧64年)社にはそれ以上延長工事を進める資金がなかった。

結局、北から来た線路は2010年4月にポント・クロイソルに到達し、WHR(旧64年)社が造れなかった区間を含めて、FRの手でポースマドッグまでの全線が建設され、2011年4月20日に晴れて開通の日を迎えた。それと同時に、1998年協定に従ってWHR(旧64年)社のトライス・マウルへの延長運転は中止され、ペン・ア・モイントで折り返す運行に戻った。名称も「ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR)」に変更されて今に至る。対立していたWHR(旧64年)社とFRの関係も、その後、共同行事の開催などを通じて、はるかに誠意のあるものに変わってきているという。

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 マン島の鉄道を訪ねて-序章

2017年3月12日 (日)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった
(中)1860年代に標準軌各線やクロイソル軌道 Croesor Tramway が開通
(右)1880年代にWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways が開通
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(左)1900年代に南北を連絡する PBSSR の工事が始まるも中断
(中)1920年代に旧WHRが全通
(右)1940年代までに旧WHR、フェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway とも休止
作図に当たっては、M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" Second Edition, Ian Allan Publishing, 2006 およびWikipedia英語版各鉄道の項を参照した。

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置
1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。

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ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置
1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆

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S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台(上図中央左の unused abutments)
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台(上図中央右の unused abutments)
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。

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ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係
1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通
(右)2011年に新WHRが全通

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年3月 4日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II

まるで難読地名のようなリード・ジー Rhyd Ddu(下注)は、ウェールズ語で黒い浅瀬を意味するそうだ。前身であるノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways の最終到達点であり、今のウェルシュ・ハイランド鉄道(以下、WHR)でも2003~09年の間、終着駅だった。

*注 日本語では「ジー」になってしまうが、Ddu の発音は [ðíː]。

現行ダイヤでは主としてここで列車交換が行われ、スノードン山頂をめざす登山客や、折返し乗車または観光バスに乗継ぐツアー客が乗降する。駅の周りは、旧駅跡を転用した駐車場と、下手の道端にB&Bが数軒あるだけの寂しい場所だが、列車が着くときだけ活気が蘇る。この列車からも、雨のホームに何人か降り立った。

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雨のリード・ジー駅で列車交換

右手は、線路と並行する道路の向こうに、スリン・ア・ガデル Llyn-y-Gader の水面と、青草が覆う茫漠とした湿地が広がっている。にわかに信じがたいが、この平たい土地がルート上のサミットだ。線路が右カーブして道路の下をくぐるとすぐ、線路の右脇に標高650フィート(198m)のサミットを示す標識が立っている(実物は見損ねたが)。ピッツ・ヘッド・サミット Pitt's Head Summit という名は、畑の中に鎮座している大岩が、19世紀初めのイギリスの首相の横顔に似ているからだそうだ。

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

分水界を越えると、長い下り坂になる。それも1:40(25‰)の勾配が6kmほど続く、ポースマドッグ方から来る機関車にとっては苦難の坂道だ。この急勾配でも直登はできず、高度を稼ぐために、途中に半径60mのS字ループ S-bend を2か所挟んでいる。

上のループは通称「ウェイルグロズ(牧草地)ループ Weirglodd S-bend」、下のループは「クーム・クロッホ(鐘谷)ループ Cwm Cloch S-bend」で、その中間に、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest(国有林)のキャンプ場最寄りとなるメイリオネン Meillionen の停留所がある。興味深い線形なので車窓を注目していたが、残念ながら、森の中を走るためにあまり視界がきかない。下のループのくびれの部分で、かろうじて後で通る線路を見つけることができた。

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(左)森のキャンプ場最寄りのメイリオネン停留所を通過
(右)下のループでは、後で通る線路が見えた

14時30分、ベズゲレルト Beddgelert で途中下車した。駅は、長坂を降り切る手前に位置する。カーブした島式ホームで、坂を上る機関車のために、給水設備も用意されている。美しいことで知られる村の玄関口だが、駅へのアクセスはフットパスと車椅子用の迂回路のみだ。村から行く場合、表通り(A498号線)の観光案内所前にあるバス停が目印になる。脇道の奥に駐車場があり、その一角の木柵を開けて小道を上ると、突然線路とホームが現れる。

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(左)ベズゲレルトで途中下車 (右)先を急ぐ列車を見送る
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村から駅へのアプローチ
(左)駐車場の一角にある木柵を開ける (右)未舗装の小道を上ると駅が現れる

なぜこれほど目立たないのだろうか。資料によると、リード・ジーから保存鉄道の延伸が計画されたとき、村民が駅の開設に強く反対したのが原因らしい。曰く、駅が大きくて風景を侵害する、居住地に近すぎる、村へ入る道路の交通量が増加する…。どうやら、鉄道によって静かな村に喧噪が持ち込まれることを懸念したようだ。スノードニア国立公園局も同調して、リード・ジーを除き国立公園内に暫定終点を置かないことを、建設の許可条件に盛り込んだ。そのため、2009年4月に駅が開業したものの、小さな待合所が置かれただけで、本格的な旅客用施設は未整備のままとなった。

しかし実際のところ、1日の列車が最大3往復では、目くじらを立てるような騒音被害は起こりそうにない。反対していた住民も肩透かしを食らった気分だろう。それどころか鉄道は、新たな効果をもたらした。鉄道が通じていなければ私たちは村を知らなかったし、この駅で下車した人は、他にも10人は下らなかったから。

幸運なことに、あれほど辺りを煙らせていた雨が、ここへ来て上がり、雲に覆われた空も明るさを取り戻しつつある。先を急ぐ列車を見送って、村に通じる小道を下りた。表通りに出ると、左手が灰茶色の石造りの家の建ち並ぶ村の中心部だ。歩いていくと、まもなくコルウィン川 Afon Colwyn に行き当たった。水音を立てながら流れ下る川を、古びた石橋が2連のアーチでまたいでいる。橋と、たもとに建つ宿屋との取り合わせは、素朴ながら凛とした雰囲気で人目を惹いた。

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コルウィン川の石橋と、たもとに建つ宿屋

橋のすぐ先でコルウィン川は、東から来るグラスリン川 Afon Glaslyn に合流する。家内たちが土産物屋を巡っている間に、私は通りから逸れて、川沿いの牧草地にある伝説の猟犬ゲレルトの墓(下注)を訪ねた。それから下流の鉄橋のところまで行き、谷を遡ってくる列車をカメラに収めた。村に戻った後は、ポースマドッグ行きの発車時刻までゆっくりティータイムを楽しむことができた。

*注 墓碑銘によると、ゲレルトの墓(ウェールズ語でベズ・ゲレルトBedd Gelert)にまつわる伝説は次のとおり。ゲレルトは、村に邸のあるスラウェリン王子の忠実な猟犬だった。ある日、留守から戻った王子は息子がいないことに狼狽する。ゲレルトも息子のベッドも血だらけなのを見て、彼は剣でゲレルトを手に掛けてしまう。そのとき息子の声がして、近くに狼の死骸を発見した彼は、自分が誤解していたことに気づく。王子はゲレルトをこの場所に葬り、その後二度と笑顔を見せることはなかった…。なお、この塚墓は伝説に則って18世紀後半に作られたものだそうだ。

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(左)グラスリン川沿いの散歩道 (右)村のセント・マリー教会
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猟犬ゲレルトの墓 (左)墓は突き当たりの独立樹の根元に (右)墓碑銘
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グラスリン川を渡るカーナーヴォン行き列車

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ベズゲレルト~ポースマドッグ・ハーバー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図116 Dolgellau 1953年版 に加筆

17時10分、ベズゲレルト駅から再びWHRの客となる。雨に襲われる心配がなくなったので、オープン客車に席を取った。短いゴートトンネル Goat Tunnel を抜けると、さっきロケを張った鉄橋を渡って、グラスリン川左岸に位置を移す。そこから約1kmの間はアベルグラスリン渓谷 Pass of Aberglaslyn で、沿線で唯一の瑞々しい渓谷風景が見られる。行く手を塞ぐように谷はどんどん深まっていき、列車は短いトンネル2本でしのいだ後、路線最長のアベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel(長さ 280m)で谷の最狭部をバイパスする。

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再びWHRの客に (左)グラスリン川に沿って下る (右)アベルグラスリン渓谷を縫う

闇を抜けると同時に、景色はがらりと変化する。ナントモル Nantmor の停留所を見送った後は、農地と湿地が混在する干拓地トライス・マウル Traeth Mawr の真っ只中に出ていく。右に90度向きを変えた地点が、旧クロイソル・ジャンクション Croesor Junction で、近傍のスレート鉱山へ向かうクロイソル軌道 Croesor Tramway との分岐点だったところだ。

軌道跡は線形がよく、わが機関車は帰りを急ぐかのように速度を上げる。羊の姿を隠すほど背丈の高い草の牧場をかすめていき、地方道と一緒に川幅が広がったグラスリン川を渡る。小さな待合室がぽつんとあるだけのポント・クロイソル Pont Croesor 停留所には停まらなかった。

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(左)クロイソル・ジャンクションへの90度カーブ (右)背丈の高い草が生える牧場
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(左)川幅が広がったグラスリン川を渡る (右)ポント・クロイソル停留所を通過

右の車窓に注目していると、側線が分岐し、並行するホームと複数の線路が現れた。ペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction / Cyffordd Pen-y-Mount だ。ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway(以下 WHHR)の走行線の終点になっている。

WHHRというのは、WHRやその運営者であるフェスティニオグ鉄道とは別の組織が運営する小さな保存鉄道だ。カンブリア線のポースマドッグ駅近くの拠点駅からここまで、約800m(下注1)の路線を有している。WHR側にはホームはなく、この列車も知らん顔で通過してしまうが、よく似た鉄道名や接近する線路を見れば、2つの鉄道が無関係でないことは誰でもわかる。実際、両者の間には、何十年にも及ぶ関わり、というより穏やかならぬ因縁がある(下注2)。

*注1 路線長は公称1マイル(1.6km)だが、実測では800m弱しかない。
*注2 この経緯は、「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV」で詳述している。

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ペン・ア・モイント ジャンクション
(左)側線(閉鎖中)が分岐する (右)看板の裏にWHHRのホームと線路
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WHHR(茶色破線)とWHR(右上から降りてくる破線)、カンブリア線(左右に走る破線)の位置関係

辺りが人里めいてきた。主要道のバイパスの下をくぐると、WHHRの「本線」は右へ緩いカーブを切って離れていくが、車庫や博物館のある雑然とした区画がまだ並行する。と突然、ガタガタと線路を渡る衝撃が襲った。標準軌のカンブリア線を横断するカイ・パウブ クロッシング Cae Pawb Crossing(下注)だ。

*注 かつては単にカンブリアン クロッシング Cambrian Crossing と呼ばれていた。

線路同士が平面で交差するのは珍しい。なかでも異軌間のそれは、国内でもここにしかない。歴史的には、クロイソル軌道のほうが開通時期が早く、標準軌線は遅れて敷かれている。なぜ立体交差にしなかったのか。想像するに、それまで軌道が運ぶスレート貨物は、ポースマドッグ港で船に積み込まれていた。しかし、標準軌線が開通すれば、貨物輸送はそちらに移行して(下注)、港線の往来は激減するだろう。それなら立体交差に費用をかけるまでもないという判断だったのではないか。最終的には港線ばかりか軌道全線が廃止されてしまったが、保存鉄道化に際して、昔のとおりに平面交差が復元された。

*注 先述のペン・ア・モイント ジャンクションはそのための積替え駅で、WHHRが使う1.6kmの路線は、元来ジャンクションへ通じる貨物側線(ベズゲレルト サイディング Beddgelert Siding)だった。

■参考サイト
Phase 4 - Completing the Welsh Highland Railway - Cae Pawb: The Cambrian Crossing
http://www.whrsoc.org.uk/WHRProject/phase4/cambrian.htm
カイ・パウブ クロッシングの再建過程を写真入りで詳細に紹介しているウェルシュ・ハイランド鉄道協会(愛好団体)のサイト

狭軌の旅のフィナーレは、ポースマドッグの市街地のへりを行く区間だ。計画時点では、ポースマドッグ・クロスタウンリンク Porthmadog cross town link と呼ばれた。旧線跡が商業施設に転用されてしまったため、ルートはその駐車場の東側に新設されている。カーブの多い線路をゆるゆると走った後、列車は一旦停止した。前方から警報機の唸る音が聞こえてくる。

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ポースマドッグ・クロスタウンリンク
(左)製粉工場スノードン・ミルの廃墟をかすめる
(右)駐車場の外側に新設された線路(いずれも別の日に撮影)

この先は、ポースマドッグ港に面するブリタニア橋 Britania Bridge という道路橋で、併用軌道になっている。信号で道路交通が遮断されると、列車は動き出し、橋上の道路に急カーブで進入する。ポースマドッグのハイ・ストリート High Street に、大柄なガーラット式機関車がゆっくりと割り込んでいくこのイベントは、今や町の名物の一つといっていい。列車はそのままポースマドッグ・ハーバー駅前をすり抜けて、新設された2番線へ滑り込む。時計を見ると17時50分、定刻の到着だった。

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ブリタニア橋の併用軌道へ急カーブで進入
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ブリタニア橋を一時占有する列車
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(左)列車通過の間、道路交通は完全遮断(別の日に撮影)
(右)ポースマドッグ・ハーバー駅新2番線に到着

カーナーヴォンからポースマドッグまで直通列車の走行を実現したWHRだが、長い路線の成立までには紆余曲折があった。次回はその経緯を追ってみたい。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト)
http://www.whrsoc.org.uk/

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年2月25日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I

カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間 39.7km
軌間 1フィート11インチ半(597mm)
開業 1922年、休止 1936年(旅客)1937年(貨物)、保存鉄道開業 1997~2011年

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カーナーヴォン城の塔屋から東望
WHRカーナーヴォン駅は中央左寄り、市街擁壁と二車線道路の間にある。右はセイオント川

ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)の起点駅は、カーナーヴォン城の高い城壁の上からよく見える。北ウェールズをめぐる最終日は、メナイ海峡を扼する要衝カーナーヴォン Caernarfon(下注)まで足を延ばし、狭軌保存鉄道でポースマドッグへ戻るという旅程を立てた。昨晩から雨が続いている。朝もけっこうな降り方で、ホテルの斜め向かいにあるバス停へ行くのに、ウィンドブレーカーのフードではしのげず、傘を必要とした。路線バス1系統で野や丘を越えて、カーナーヴォンまでは45分ほどだ。

*注 カーナーヴォンはかつて Carnarvon と綴ったが、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。ウェールズ語の発音はカイルナルヴォン(ルは巻き舌)。

到着したバス停から南へ少し歩けば、カッスル・スクエア Castle Square という広場に出る。目の前にそびえるカーナーヴォン城は、コンウィ Conwy やボーマリス Beaumaris、ハーレフ Harlech の古城とともに、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服のために築いた要塞だ。4か所まとめて世界遺産に登録されている。中でもここは首都の居城で、敷地の広さは先日行ったコンウィ城のざっと2倍はあるだろうか。高塔の数も多くて立派だ。

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(左)カーナーヴォンのバスターミナル (右)カッスル・スクエア、右奥に城が見える
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メナイ海峡を扼する要衝の地カーナーヴォン城を東の塔から西望
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中庭の円壇でチャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ戴冠式が行われた
右写真は当時の様子を伝えるパネル

城の見学を終えて、WHRの駅に通じる坂を下った。市街地を載せる段丘の下、セイオント川 Afon Seiont 沿いの低地の一角に、現在の駅はある。線路はプラットホームに接した本線と機回し線の2本きりで、出札兼売店のある建物も簡素な平屋のプレハブ仕立てだ。敷地に余裕がないので、運行基地はここではなく、途中のディナス Dinas に置かれている。

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WHRカーナーヴォン駅
(左)折返し運転に備えて機回しの最中 (右)線路2本きりの狭い構内

混まないうちにと、ポースマドッグまでの片道乗車券を買い求めた。途中のベズゲレルトに寄り道するつもりだが、同一日、同一方向なら途中下車は自由だと聞いた。正規運賃が大人25.60ポンドのところ、エクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass を見せたので半額になる。大人が同伴する15歳までの子ども1人はもともと無料だから、結果的に大人1人の正規運賃で家族4人が乗れるわけだ。しかし、あまり安いのも、なんだか悪いような気がする。

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WHRの片道乗車券

ちょうど折り返しとなる列車が到着したばかりで、降りた客が城や旧市街のほうへぞろぞろと移動するのが見える。駅の目の前に観光名所があるというのは、確かに大きなアドバンテージだ。しかし、WHRの魅力はそれにとどまらない。

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跨線橋から城の方角を望む。手前の赤茶色の建物が出札兼売店

カモメが飛び交うこの場所から、列車は内陸に入っていく。初めは牧場や林が現れては消え、中盤では、スノードニア国立公園の壮大な山岳風景が展開する。波静かな湖、清流の渓谷、天気がよければウェールズ最高峰スノードン山の雄姿も眺められる。後半は、農地が広がる沖積低地を走って、再び港の前に出る。景色はすこぶる変化に富んでいて、イギリス屈指の絶景路線といっても決して過言ではないのだ。

とはいえ、全線を乗り通すとなると、最速便でも2時間5分かかる。熱心な鉄道ファンでない限り、日帰りの往復乗車には少なからず忍耐が要求されよう。列車交換のある峠の駅リード・ジー Rhyd Ddu で折返すか、全線を走破するにしても、私たちのように片道は路線バスに任せるのが現実的だと思う(下注)。

*注 路線バス1系統はWHRのルートではなく、A487号線(旧国鉄アヴォンウェン線 Afonwen Line 沿い)を通るから、リード・ジーやベズゲレルトは経由しない。

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ウェルシュ・ハイランド鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

WHRの運行期間は2016年の場合、2月中旬から11月末の間だ。残念ながら列車本数は少なく、中間期は1日2往復、夏のピークシーズンでも3往復しかない。当初の運行計画は1時間間隔だったし、手元にある2007年の時刻表(当時はリード・ジーまでの部分開業)でも、繁忙期5往復、最繁忙期には6往復の設定がある。どうやらその後、大幅な見直しがかけられたようだ。思うように利用者が増えなかったのだろうか。本日のカーナーヴォン発は10時、13時、15時45分。私たちは13時発に乗るつもりだ。

ホームでは、その列車が折り返しの発車を待っている。牽引する蒸気機関車は、クリムソンレーキ(深紅色)をまとう1958年製の138号機。南アフリカで働いた後、WHRにやってきた。ボイラー部分が2つの台車にまたがって載る、ガーラット Garratt と呼ばれる連接式機関車だ。急曲線や勾配区間に適応しているので、線形の厳しいこの路線で第二の人生を送っていて、同僚機も数両在籍する。

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ガーラット式機関車138号機

客車は8両編成だが、さまざまな形式が混結されている。窓のないオープン形も1両挟まっているが、雨が吹き込んで、もはやシートはびしょ濡れだ。私たちはガラス窓のある3等車両に席を取った。貫通路をはさんで、2人掛けと1人掛けのボックス席が並ぶ。座席のモケットにはWHRとFR(フェスティニオグ鉄道)の図柄が織り込まれ、テーブルにも両線の略図が描かれている。2本の鉄道は今、一つの会社のもとで、姉妹鉄道のように運営されているのだ。

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(左)客車内。座席のモケットにはWHRとFRの図柄
(右)座席テーブルの路線図もWHRとFRを関連図示

あいにくの天気のせいか、乗客数はそれほど多くない。この車両も空席だらけだったが、発車間際に団体客がぞろぞろと入ってきて、急に賑やかになった。残念ながら窓は固定式で、撮影には向かない。結局、皮のベルトで窓の開閉を調節できるデッキドアの前にいる時間のほうが長かった。

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カーナーヴォン~スノードン・レーンジャー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 115 Pwllheli, 107 Snowdon いずれも1959年版 に加筆

カーナーヴォンを発車すると、初め、セイオント川の蛇行する谷に沿った後、鉄橋で対岸に渡る。それからしばらく、緑の牧場の中を行く。線路の右側(海側)をローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway(全国自転車道 National Cycle Route 8号線の一部)が並走している。それに気を取られて、途中のボントネウィズ停留所 Bontnewydd Halt の通過には、まったく気がつかなかった。リクエストストップなので、乗降客がいなければ停まらない。

約10分走り続けて、ディナスに着いた。かつてディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれた駅だ。狭軌線(下注)が運んできたスレート貨物を標準軌貨車に積替えていたので、構内は十分な広さを持っている。そこを買われて、駅は、カーナーヴォンの代わりに、保存鉄道の北の拠点に位置づけられた。機関庫や整備工場が整備され、側線は保存車両や工事車両のねぐらになった。ホームの端には石造りの小さな駅舎も見えるが、これは当時から残る建物を修復したのだという。

*注 商業鉄道時代のWHR、およびその前身のノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways。なお、現WHRのカーナーヴォン~ディナス間は標準軌の旧国鉄線だった。

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ディナス駅 (左)側線には工事用車両が留置 (右)ホーム先端の建物は復元駅舎
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ディナス駅の機関庫の前を通過

駅を出ると、列車は左に大きくカーブして、山手へと進んでいく。牛たちが寝そべる牧場があるかと思えば、こんもりとした森を境に、野の花が咲き乱れる草原が現れる。通過したトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction は、その名が示すように、旧線時代はブリングウィン Bryngwyn 支線を分岐していた。モイル・トラヴァン Moel Tryfan のスレート鉱山へ通じる路線で、今もパブリック・フットパスとして跡をたどれる。

左車窓に、グウィルヴァイ川 Afon Gwyrfai の流れが顔を見せるようになる。この後、峠までこの川が旅の友になるだろう。次のワインヴァウル Waunfawr 駅は、森に囲まれたひと気のない場所だが、跨線橋が架かる広い島式ホームで、機関車の給水タンクもある。保存鉄道の延伸過程で、2000~03年の間、列車の終点になっていた名残に違いない。しかし、この列車を乗り降りする人は一人もいなかった。

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(左)牧場で牛たちが寝そべる (右)付かず離れず流れるグウィルヴァイ川
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跨線橋の架かるワインヴァウル駅

川を何度か渡るうちに山が近づいてくるが、雨がひとしきり強くなり、降りてきた雲で稜線は隠されたままだ。プラース・ア・ナント Plas-y-Nant 停留所の手前では、谷が急に狭まってくる。川は早瀬に変わり、列車は急カーブに車輪をきしませながら、ゆるゆると通過した。

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プラース・ア・ナントの手前でいったん谷が狭まる

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

やがて右手にクエリン湖 Llyn Cwellyn の広い水面が広がって、乗客の目を奪う。水位安定のために人工の堰が造られているが、湖の出自は、氷河の置き土産であるモレーン(堆石)で堰き止められた、いわゆる氷河湖だ。浅いように見えても、水深は120フィート(37m)ある。線路は少しずつ坂を上っていくので、車窓から湖を俯瞰する形になるのがいい。

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(左)クエリン湖が見えてくる (右)霧雨に煙る牧場と湖面

湖面の際まで続く斜面の牧草地で、羊たちが草を食んでいるのが見える。のどかな景色を楽しみたいところだが、降りしきる雨のせいで湖面すら霞んできた。天気が良ければ進行方向にスノードン山頂が見えるのに、今はまったく霧の中だ。登山口の一つになっているスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger の停留所もあっけなく通り過ぎた。

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(左)クエリン湖が遠ざかる (右)スノードン山腹を流れ落ちるトレウェイニズ川 Afon Treweunydd

クエリン湖が次第に後方へ遠ざかる。列車は、山から下りてくる急流をカーブした石橋でまたぎ、なおも、岩が露出するスノードンの西斜面で高度を上げていく。山襞に沿って急曲線が連続するので、前を行く機関車もよく見える。クエリン湖は白く煙って谷を覆う霧とほとんど見分けがつかないが、間もなく見納めだ。ひときわ大きな岩山を左へ回り込んでいくとリード・ジー、全線のほぼ中間地点に到着する。

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スノードン山の西斜面で高度を上げていく
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(左)リード・ジー駅に到着 (右)待合室と機関車の給水施設
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雨の中、カーナーヴォン行き列車と交換

旅の続きは次回に。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト) http://www.whrsoc.org.uk/

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 スノードン登山鉄道 I-歴史
 スノードン登山鉄道 II-クログウィン乗車記

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