ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史
ベルギーの詳しい地図を眺めた人は、2か所の奇妙な国境線に目を奪われる。一つは北部で、オランダ領の町の中にガラスの破片のように散乱しているベルギーの飛び地だ。これはバールレ・ヘルトフBaarle-Hertogと呼ばれる地区で、錯綜していた貴族の旧所領が、オランダからの独立で固定化されたことに由来する。もう一つは東部で、ドイツ領内に回廊状にはみ出しているベルギー領だ。それにブロックされる形で、ドイツの領土は本体と切り離されて飛び地になっている。
この不思議な回廊は、もとはプロイセン王国(当時はドイツ帝国の一部を構成)の鉄道の線路敷きだったのだが、第1次大戦後の国境を画定する際に、ベルギーの強い主張で帰属が変えられた経緯をもつ。鉄道は、強風と冷たい霧雨が襲う森と湿原の国境地帯、ホーエス・フェン(上フェン)Hohes Vennを越えている。ドイツ語でフェンバーンVennbahn、すなわちフェン鉄道と呼ばれるのはそのためだが、建設の主要な目的は観光用でも、地域の足としてでもなかった。そして20世紀前半の激動する国際情勢の中で、次々とその性格を変えていった。時代に翻弄され続けたフェン鉄道、そこに託された使命とは、いったい何だったのだろうか。話は1885年からスタートする。
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右の図をご覧いただきたい。ともすると飛び地の部分にスポットが当てられがちだが、フェン鉄道の最初の計画は、アーヘンAachen付近とアイフェルEifel地方のプリュムPrümを結ぶという、延長100kmを越える大規模なものだった。次いで、南のルクセンブルク領に至る連絡線が追加され、近傍の町への支線も同時に建設されて、一帯のネットワークが形成された。図では当時のドイツとベルギーの国境を赤の+で示しておいた。ルートがベルギー領内に一切かかっていないことに留意したい。
鉄道は、最小半径300m、最急勾配16.7‰(1/60)で設計された。最初に開通した区間は、アーヘン郊外のローテ・エルデRothe Erdeからフェン高地の東側にあるモンシャウMonschau(Montjoie)までで、1885年のことだ。その後、順次延伸され、1889年にはルクセンブルク領のトロワヴィエルジュTroisvierges(ドイツ語ではウルフリンゲンUlflingen)で、首都ルクセンブルクLuxembourgへ通じる路線に接続を果たして、計画はいったん完了した。
ひたすら南を目指した理由は、北のアーヘンやルールRuhr地方を南のルクセンブルクとロレーヌ(当時はドイツ領ロートリンゲンLothringen)とを最短距離で結ぶためだった。貨物列車は北で産出する石炭やコークスを南の製鉄所へ運び、帰路はロレーヌの鉄鉱石や粗鋼をルールの工業地帯に送り込んだ。産業鉄道として成功し、輸送量は順調に増加した。1894年から複線化が開始されたことがそれを実証している。
ただし、輸送力の増強にはもう一つ隠された意図があった。というのは、普仏戦争(1870~71)以来、ドイツはフランスと常に緊張関係にあり、有事に備えた西部国境線の軍備増強を着々と進めていたからだ。フェン鉄道はそのための輸送路と位置づけられ、複線化と並行して、荷解きのための側線整備や待避線の延長など、軍用列車の運行を想定した駅機能の拡張が行われた。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍はベルギーに侵攻し、占領を開始した。鉄道は予定どおり軍事輸送に集中的に使われたが、同時に、近隣の路線への連絡支線が、初めから複線で次々と建設されていった。ヴァイヴェルツWeywertz~ユンケラートJünkerath(通称、フェン横断鉄道Vennquerbahn)、ヴィエルサルムVielsalm~ボルンBorn、ザンクト・フィトSt Vith~グーヴィGouvyなど、当初の計画線以外の路線はこのときに開通したものだ。
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ドイツの敗北と1919年6月に調印されたヴェルサイユ条約は、フェン鉄道の運命を一変させることになる。鉄道の沿線、オイペン郡Kreis Eupenとマルメディ郡Kreis Malmedyがベルギーに帰属することになったからだ(ベルギーでは東部地方Cantons de l'Est / Ostkantoneと呼んだ)。新たな国境がヴァルハイムWalheimとレーレンRaerenの間に引かれたため、両駅が国境駅となった。
ところが、ルートの北部には、まだドイツ領を通過する区間が残っていた。これに対してベルギーは、条約によって得られた領土の南北を連絡するのだから、この鉄道は自国領になると強く主張した。条約第35条には、両国間の新たな境界線について、経済的要因と交通手段を考慮しながら調停する国際調査委員会の設立がうたわれていた。委員会はベルギーの主張を認め、1921年11月に鉄道の所有地はベルギーに割譲された。その結果、ドイツの領土は分断されて、大小5個の飛び地が生じることになった(右図)。
異例の措置は、ドイツ側の周辺住民を大いに戸惑わせた。当該区間には北からレトゲンRoetgen、ラマーズドルフLammersdorf、コンツェンKonzen、モンシャウMonschau、カルターヘルベルクKalterherbergの5つの駅が含まれていた。鉄道の両側に住む者は国境(すなわち踏切)を越えて行き来できるのか、鉄道を今までどおり利用できるのか、運賃はどの国の通貨で支払うのか...。委員会はその調整に1年を費やし、次のように取り決めた。
当該区間の駅名はドイツ語とする(フランス語由来のモンジョワMontjoieから1918年に改称したばかりのモンシャウMonschauを含めて)。鉄道敷地の通行や横断はベルギーの警察や税関の審査を受けない。駅窓口に関するドイツの鉄道規則はベルギー鉄道でも準用する。区間各駅からドイツ国内へ向かう旅行者にはドイツの国内運賃制度を適用する。運賃支払いは両国の通貨が使用できる。ベルギー国鉄が全ての列車を運行する。各駅停車列車は区間の両端で両国の税関検査を行う。通過列車については区間走行中は施錠する(いわゆるコリドアツークKorridorzug)等々。
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軍用列車の通行は続いていた。荷主はベルギー軍となり、ドイツから接収したエルゼンボルンElsenborn演習場に向けて、レーレン西方に作られた短絡線経由で最寄のズールブロットSourbrodtまで走った。一方、産業鉄道としての役割は、ベルギー国鉄に移管されたことで大きな影響を受けた。ロレーヌはフランスに返還され、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱してしまい、何度も税関を通らなければドイツに到達できない貨物輸送は、とても現実的とは言えなかった。1926年には優良顧客であったアーヘンの製鉄所も閉鎖された。
1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招いた。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のため、迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、レーレン以南の単線化に踏み切った。
1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行もドイツ国営鉄道Deutsche Reichsbahnの手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設は大きな被害を蒙った。ドイツ軍の撤退後、順次復旧が進められたが、トンネル内部が崩壊した南のロマーズヴァイラーLommersweiler~ロイラントReuland間や一部の支線はついに再開されることはなかった。
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産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道だが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。1950年代以降、地方の鉄道に降りかかった運命はどれも似たようなものだ。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。
飛び地の前後では定期の旅客列車は二度と設定されず、各駅を回る貨物列車だけが週3回のペースで細々と存続した。しかしこれも、線路状態が悪化したため、レーレンからズールブロットの間の運行が1989年6月で中止された。すでにウェームWaimes(ヴァイスメスWeismes)以南も廃止されており、この結果、フェン鉄道「本線」は、レーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポンTrois-Ponts方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmにまで縮小してしまった。
飛び地をめぐるルートは、これで永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せることだった。欧州地域開発基金ERDFからの交付金を受けて線路が再整備され、1993年から夏の間、観光列車の運行が開始された。オイペンEupenを始発駅としてビュリンゲンBüllingenを着地にするか、またはトロワ・ポンTrois-Pontsへ直行するコースで、蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。
ところが、沿線にあった昔の地下坑道の崩壊で路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、2003年をもってこのイベントは終焉を迎える。そして2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク(RAVeL)に組み込むことが発表された。
こうして、フェン鉄道の苦難の歩みは過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。2009年現在、レーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、足漕ぎ台車draisine、当地でいうレールバイクRailbikeを使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。
■参考サイト
フェン鉄道:ドイツを通るベルギーの鉄道The Vennbahn: Belgium's railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
英語で書かれたフェン鉄道の通史。本稿の記述の多くはこのサイトに拠っている。
上フェンの旧 観光保存鉄道Die ehemalige touristische Museumseisenbahn im Hohen Venn
http://www.vennbahn.de/
旧観光鉄道の公式サイト。サイトだけはまだ残っている。収載されているベルンハルト・ダーフィト氏のフェン鉄道の記事Die Vennbahn von Bernhard David (PDFファイル)も本稿の参考にした。
フェン鉄道の現在の状況を伝える個人ブログ
http://borderhunting.blogspot.com/2007/07/vennbahn-roetgen.html
世界の飛び地Enclaves of The World 西ヨーロッパ編
http://enclaves.webs.com/westerneurope.htm
ページ冒頭で、バールレとフェン鉄道のことが記されている。
オート・ファーニュのレールバイクRailbike des Hautes Fagnes
http://www.railbike.be/
フランス語のHautes Fagnesは、ドイツ語のHohes Vennと同意。また、普通名詞のfagneやVennは沼地を意味する。
モンシャウ旧駅付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=50.5635,6.2312&z=16
駅の前後で(等高線に沿って)蛇行している廃線跡が見える。廃線跡の国境線は省略されている。










「オランダの新鉄道地図Nieuwe spoorkaart van Nederland」と称するこの地図は、道路と水系で構成した単色のベースマップの上に、赤や緑の実線で鉄道路線を描いている。タイトルを見る限り何の変哲もなさそうだが、凡例(蘭・英併記)に目を通せばユニークな地図であることは明らかだ。
縮尺は1:300 000で、ベースマップには同国の測量局Topografische Dienst Kadasterが編集した1:250 000道路地図を縮小使用している。道路地図といっても日本で言えば1:200 000地勢図に相当する公式地図で、道路、集落、水系、植生、行政界などが詳細に書き込まれたものだ。地図の見栄えで他と一線を画しているだけでなく、オランダの鉄道インフラの大要が概観できるという意味で注目に値する資料だ。どのような内容が盛り込まれているかは、凡例にある地図記号を見ていくのが手っ取り早い。表記がすべてオランダ語なので、参考のために、鉄道に関する地図記号の意味を日本語で付しておこう(厳密な訳ではないのでご了承を)。
オランダもインフラ管理と列車運行の事業者を分ける上下分離が実行されているが、後者の旅客輸送の大部分を担当するのがオランダ鉄道Nederlandse Spoorwegen (NS) だ。NSのサイトでは、時刻表添付と同じデザインを用いた地図がPDFファイルで提供されている。
一方、独立系の鉄道旅行情報サイトTreinreiziger.nlでは、趣向の違う鉄道地図(PDF)が提供されている(Treinreizigerは英語ならtrain travelerの意)。オランダ国内の鉄道旅行に持っていくとすれば、NSの運賃地図よりこちらのほうだろう。なぜなら、これはオランダの旅客列車のルートを一覧できる優れものだからだ。
ベルギー国鉄SNCBの公式サイトに、インタラクティブ形式の路線図がある。ベルギーの公用語であるオランダ語、フランス語、ドイツ語のほかに英語版も用意されていて、抵抗なく使える。さらに、表形式の時刻表のリンクもあるので、鉄道旅行に最低限必要な情報が揃う。ところが、公式サイトの英語版ではなぜかリンクが欠落していて、英語版の路線図を見るのに、わざわざオランダ語(NLと略記)かフランス語版(FR)から入っていかなければならない。
幸いなことに、路線図の古いバージョンがまだ残っている。こちらの方が機能が少ない分、ストレスなしに作動する。デザインを見る限り旧バージョンとは信じられないが、2007年開通のアントウェルペンAntwerpen中央駅を通過する新線が描かれていないので、それ以前の製作のようだ。
一つは、駅舎を写した古い絵葉書を集めた「昔のベルギーの駅Les gares belges d'autrefois」というサイトにある。トップページの最下段に、「草創期から今日までのベルギー鉄道地図Carte du réseau belge depuis sa création jusqu'à nos jours」と「ベルギー旅客鉄道地図(2002年)Carte du réseau voyageurs belge (2002)」がリンクされている。特に前者は、廃止線を含めた普通鉄道の全路線を描きこんだ力作で、全盛期の鉄道網を回顧できる。
もう一つは、「ベルギー鉄道非公式サイトChemins de fer belges - Site non officiel」というベルギーの鉄道を紹介する個人サイトで、その中に「国鉄路線網地図Cartes du réseau SNCB」という鉄道地図を集めたページがある。最上段にある時刻表の添付地図をはじめ、多くは紙地図をスキャンしたものだが、唯一、「鉄道網の変遷Évolution du réseau」は、1830~2000年までの鉄道網の変遷を1年1秒の速度で見せるユニークな動画像だ。
アイルランド鉄道
北アイルランド鉄道


ラ・ミュール鉄道Chemin de Fer de La Mureは、フランスアルプスの西縁に広がる山岳地帯のダイナミックな風景が堪能できることから、一般旅行者にも人気が高い保存鉄道だ。サン・ジョルジュ・ド・コミエSt-Georges-de-Commiers ~ラ・ミュールLa Mure間、延長は30.1kmある。起点駅の標高は315mだが、終点では881mにもなり、メーターゲージ(1m軌間)で、18のトンネル、あまたのアーチ橋に半径100mの急曲線が延々と続くと聞けば、いかにも登山鉄道の要件を満たしている。しかし、意外にも勾配は27.5‰と、緩くはないものの幹線にもある規格だ。それというのも、これはもともと沿線で産出した石炭を運搬するために敷かれた産業鉄道だったからだ。公式ウェブサイト以外にも詳しいデータを収めたファンサイトがある(下記参考サイト)ので、それらを参考に鉄道のプロフィールを紹介してみたい。

前者の1つめは、フランス国鉄SNCFが製作し、フランス鉄道線路公社Réseau Ferré de France (RFF) が公開している。1997年、旧フランス国鉄SNCFは列車運行とインフラ管理を別組織化する、いわゆる上下分離の対象となったが、その際、インフラ保有の受け皿として設立されたのがRFFだ。その資料サイトに、組織のミッションにふさわしい鉄道地図が収められている。「Réseau ferré national(全国鉄道ネットワーク)」というタイトルで、RFFの管理下にあるフランス全土の鉄道線(一部の地方私鉄を含む)を詳細に図示したものだ。記載項目は比較的シンプルで、線路の本数、待避線、操車場、旅客駅とそれ以外(非営業を含む)といった施設関係と、狭軌線、地方私鉄、休止線、廃止線の区別、それに行政界とSNCFの管理局界が入っている程度だ。しかし、鉄道の公式資料であり、全線全駅が待避線や連絡線の有無を含めて丹念に図示されていることで、注目に値する。
もう1つは個人サイトで、「フランス鉄道網Le réseau ferré français」と題する線路配置図だ。上記の地図を各路線の主要駅間ごとに抽出したような体裁で、駅とキロ程を図示している。また、付属資料として開業日、勾配、トンネル、電化方式、最高速度などのデータを揃えているので、資料集として活用できる。
最後は、イル=ド=フランス交通連合Syndicat des transports d'Île-de-France (STIF) のサイトにある鉄道地図だ。下記のリンクをたどると、Cartothèqueの括りにさまざまなタイプの路線図PDFが集められており、パリ都市圏の公共交通を知るうえで見逃せない資料集となっている。
まず、フランス国鉄SNCFのサイトには、フランス全国版とイル=ド=フランスÎle-de-France(首都パリを中心とする地域、首都圏)の詳細版がある。全国版は路線網と主要駅を表示しているが、TGVやユーロスターが走る高速鉄道線以外は、すべて細線で区別なく表した単調な地図だ。イル=ド=フランス版はパリと郊外を結ぶRERとTransilienの路線を描いているが、3.5MBもあるPDFファイルにもかかわらず、解像度が低く、実用に耐えない。
次は、個人サイトの力作だ。フランスとカナダ(およびブラジル、リオデジャネイロ)の有用な鉄道地図が提供されている。列車が走るルートを列車種別や系統ごとに描き分け、同時に主な駅間の所要時間や運行頻度を表示したものだが、スマートな配色と明解なデザイン、それにデータ更新が頻繁に実施されていることにも感心する。
3番目は「フランスの鉄道地図 II」で紹介したイティネレール・エ・テリトワール社Itinéraires & Territoiresが運営するサイトitransports.comにある、インタラクティブマップだ。メインページはフランス語だが、英語版も用意されているので、そちらで説明しよう。
最後も個人サイトで、「公共交通アトラスAtlas des transports publics」と題し、鉄道線はもとよりバス路線を克明に描いた正縮尺地図をPDFで提供している。使用言語はフランス語のみ。
www.fahrplanfelder.chは、スイス公式時刻表をPDFファイルで提供するサイトだ。鉄道、バス、湖岸の連絡船などテーブル形式の公共交通機関時刻表Fahrplanfeldが、すべて閲覧できるようになっている。スイスの公用語である独、仏、伊、ロマンシュの4ヶ国語に加えて、英語による案内があるので、外国人にとっても使いやすい。ファイルはドイツのように電話帳1冊まるごとではなく、時刻表番号ごとに分けられていて、地名をキーにしてその町を通る交通機関を検索することも可能だ。
以前の記事で、出発地と目的地と乗車日を入力すると最適の列車を表示するオンライン時刻表が、旅を想像する愉しみを奪ってしまったと嘆いたことがある。それを聞き取ってくれたとは思えないが、ドイツ鉄道Deutsche Bahnのサイトにある「電子時刻表Elektronisches Kursbuch」では、冊子にすれば電話帳を超える厚さになるテーブル形式の時刻表を、まるごとPDFで提供し始めた。冊子のほうは今年限りで廃刊にするらしい。時刻表は、地域別におのおの数百ページ、30~40MBもあるような重いファイルだが、それと同時に、ドイツ鉄道の旅客全線を表した鉄道地図も見ることができる。
ウェブサイトで見られる鉄道地図にも言及しておこう。オーストリア連邦鉄道Österreichische Bundesbahnen = ÖBB、すなわち国鉄のサイトに、全国の路線網を描いた地図がPDFファイルで上がっている。

































ナショナルレールNational Railは単一の鉄道会社ではなく、イギリス国鉄の解体後に参入した列車運行会社(ATOCと呼ばれ、現在24社ある)が共通で使用するブランドだ。長年なじまれた2本の矢のマークも国鉄から引き継いでいる。ナショナルレールは独自のウェブサイトを開設して、時刻検索やサービスの案内を行っているが、その中にPDFによる全国鉄道地図が含まれている。
地図帳と名乗っているがウェブ上で公開している1枚ものの鉄道地図だ。イギリスの営業線と休止・廃止線の全線全駅(メトロとライトレールは路線のみ)を克明に描いていて、旅客線、保存鉄道線、貨物線を区分する。作者は「著作権のある鉄道地図帳から情報を得ることはしない方針」と書いているので、おそらく当時の時刻表や路線図、地形図などから調べ起こしているのだろう。残念ながら、今のところイングランド北部とスコットランドは未完成で、東岸はヨーク北方、西岸はマンチェスター、リヴァプールの手前で終わっている。
独自のコンセプトで作成されたイギリス鉄道路線図が各種提供されている。いずれもスキマティックマップ、すなわち距離や方角をデフォルメした図式化地図(位相図)だが、未来的なデザインで古い鉄道のイメージを打ち破るものだ。路線網図Network MapにはA4サイズの簡略版とA2の詳細版が用意されているほか、会社(TOC)別に運行路線を色分けした地図Franchise Map、建設中または予定線を図示した地図などもある。後者では、北ウェールズのカナーヴォンCaernarfonや、湖水地方のケジックKeswickへ行く廃止線の復活構想があることもわかる。




































いまや南仏の新名所となっているミヨー橋Viaduc de Millau。2004年12月16日に開通した全長2460mの道路橋で、最も高い主塔は343mとエッフェル塔を20mしのぐ。世界の橋の情報を集めたドイツのサイト「橋ウェブBrueckenweb.de」では登場以来、閲覧回数の首位をキープしている。日曜朝の番組「題名のない音楽会」(テレビ朝日系列)で流れる出光興産のCMにも出てくるから、ご記憶の方も多いだろう。雲海に浮かぶ吊り橋(斜長橋)があまりに現実離れしているので、あれはCGで作ったのだろうと思った人もいたとか。
スイス中央部を走るルツェルン・シュタンス・エンゲルベルク鉄道Luzern-Stans-Engelberg-Bahn(LSE)は、2005年1月にスイス連邦鉄道SBBから分離されたブリューニック線Brünigbahnを併合して、中央鉄道Zentralbahn(ZB) となった。LSE線はベネディクト派修道院の門前町、いまは山岳リゾートの拠点でもあるエンゲルベルクをめざして、アー川に沿う平たい谷底を坦々と走る路線だが、終点の手前4kmのところに突如現れるのが、高低差300mもある胸突き八丁。リッゲンバッハ式のラックレールを使って、電車は深い森の中をぐいぐい上っていく。この鉄道随一のハイライト区間だ。


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