2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4名だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎 (右)1日4往復の滝本行き路線バス

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着。後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口 (右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台、滝の最下段が正面に来る

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋 (右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がっている
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吊橋から見た滝と背後の断崖

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段 (右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂 (右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道 (右)旧道が通る水根橋

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口 (左)切通しで隧道へ (右)水路橋が道をまたぐ

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2019年1月 8日 (火)

コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

コンターサークル2018年秋の旅の舞台は関東に移る。11月24日の集合場所は都内、中央線と武蔵野線が十字に交わる西国分寺駅だ。この駅の構造はちょっとおもしろい。後からできた武蔵野線(1973年開通)が地表付近を突っ切り、歴史的にずっと先輩の中央線(1889年開業、下注)は、それを避けるかのように掘割の底を通っている。なぜこのような配置になっているのだろうか。

*注 路線の正式名称は「中央本線」だが、本稿の記述は列車系統で使われる「中央線」に統一する。

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国分寺崖線に沿って歩く

それは、中央線が通過する地形に関係がある。武蔵野台地の地盤が、西隣の国立駅の手前で一段低くなっているのだ。その差は10m強。加えて東側にも、野川(のがわ)が削った谷がある。この高低差を緩和するために、中央線はここで地面を深く切り通し、線路の位置を下げて建設された。対する武蔵野線はそれをまたぎ越せればいいので、結果的に地表を通れることになる(下注)。

*注 ただし、武蔵野線の西国分寺駅以南は、地表を走っていた通称 下河原線の一部を転用したという事情も影響していよう。

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(左)西国分寺駅改札内コンコース 武蔵野線下りホームから撮影
 中央線のホームへはさらに左右の階段を降りていく
(右)国分寺の花沢橋から西望
 中央線は切通しを抜け、野川の谷を築堤で横断、再び切通しへ

本日のテーマは、この地盤の段差によって生じた斜面、すなわち段丘崖だ。中央線が突破している崖のラインは、立川市北部で顕著になり、およそ南東方向に大田区まで30km以上続いていて、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれる。

武蔵野台地は、もともと多摩川により関東山地から運び出された砂礫が堆積してできた扇状地だ。その後、多摩川の流路が南遷する過程で側面が削られ、段丘が形成された。西国分寺駅が載る上位段丘の武蔵野面に対し、国立の市街地は一段低い立川面にある。その境目が国分寺崖線だ。ちなみに立川面と、多摩川の沖積低地との境にも段丘崖が存在し、こちらは立川崖線と呼ばれている(下図参照)。

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国分寺崖線と立川崖線の概略位置
ベースは1:200,000地勢図(2012(平成24)年要部修正図)

この日の午前10時、西国分寺駅の改札内コンコースに集合したのは、今尾さん、大出さん、中西さんと私の4名。午後に予定が入っている人が多いので、短時間で行けるところまで行くことにして、ルートを熟知している今尾さんの案内でスタートした。

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西国分寺~新小金井間の1:25,000地形図と陰影起伏図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)

まず、崖線に沿って流れ下る野川の源流に足を向けた。武蔵野線のガードをくぐって、府中街道を横断し、階段を降りて恋ヶ窪の谷底へ。旧道を北へ少し歩くと、恋ヶ窪用水の由来を記した案内板が立っていた。玉川上水(後に砂川用水)からこの低地を経て、崖線沿いの旧村へ引かれていた水路だ。住宅街にはさまれて右へ、その流れと小道が寄り添うように延びている。

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姿見の池に向かう恋ヶ窪用水

たどっていくと、まもなくこんもりとした林地が現れた。中央にカルガモが泳ぐ池があり、木橋の上から園児の一団が楽しそうにそれに見入っている。これは姿見の池といい、昭和40年代にいったん埋められたものを復元整備したものだ。水は、地下水位上昇に伴う浸水対策を兼ねて、武蔵野線のトンネルで湧く地下水を引き込んでいるという。谷戸(やと、下注)と呼ばれるこうした谷間の湿地は、宅地に向かないため、まさに日陰の存在だった。時代が変わり、それが市民の憩いの場として見直されているのだ。

*注 地域によって、谷津(やつ)、谷地(やち)などとも呼ばれる。

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姿見の池も蘇り、市民の憩いの場に

池から続く谷間を下流へ歩いた。黄色い電車が颯爽と走る西武国分寺線のガードをくぐり、日立中央研究所の森を限る高い塀に沿って進む。そこをねぐらにしているのか、烏が太い声で鳴き交わしている。姿見の池から来た水は研究所内の大池に注ぎ、再び流れ出て野川となる。その先を追うには築堤上を走る中央線を横断しなければならないが、「築堤を突っ切る道がないので、陸橋まで迂回します」と今尾さん。

マンション脇の坂を上って、中央線を乗り越える花沢橋を渡った。東隣の国分寺駅がもう目の前だが、この駅のホームも掘割の中にあり、複雑な地形の起伏が実感される。それから住宅街の中の階段を降り、崖をなぞる形で蛇行する道をたどった。「泉町という町名ですね」「昔はここにも湧水があったんでしょうね」。しかし、今は斜面までびっしりと宅地化され、道に面して車庫、その上に住居という構造の住宅が並んでいる。泉どころか緑も乏しい。

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(左)野川沿いの小道、斜面もびっしり住宅で埋まる (右)野川は深い溝の中

国分寺街道と交差する一里塚橋の手前まで来ると、野川は自らの狭い谷を離れ、広い下位段丘面(立川面)に出る。私たちは崖線沿いに東へ進んだが、反対側、西約1kmにある武蔵国分寺跡も必見だ(下注)。後日一人で訪れたが、古代人が崖線を意識してこの地を選んだことがわかった。

*注 府中街道と武蔵野線をはさんで東側には、国分尼寺跡もある。

それは、ちょうど国府から北へ延びる官道(東山道)が崖線を越えようとする位置にある。現場の案内板によると、伽藍は崖線を背にして、その南面一帯に配置されていたようだ。崖線の下からは今も清水が湧き出し、中の島に祠を祀る真姿の池を潤していた。昔はもっと多くの湧水があったそうで、寺の財源である水田経営にとっても有利な場所だっただろう。崖線周辺は雑木林が保存されていて、都市化以前の風景を想像させてくれるのもうれしい。

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武蔵国分寺跡、奥に見える林が国分寺崖線
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国分寺・国分尼寺の伽藍と崖線の位置関係図
現地案内板を撮影
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(左)中の島に祠のある真姿の池
(右)崖線沿いに残る雑木林は都立公園として保護されている

話を戻そう。

国分寺街道を横断して、さらに東へ進む。崖に沿うこの一車線道は「ハケの道」と呼ばれている。崖のことを、古語で「ハケ」というからだ。しかし、鉄道駅に近いので、泉町同様、斜面もすべて家やマンションの用地にされ、段丘の上下を長い階段が結んでいる。年配の女性が手すりにつかまりながら、それを上っていく。高低差がせいぜい15mとはいえ、「毎日これで駅へ通うとしたら、どうでしょうね」。地形的にはここも「ハケ」に違いないが、植生を剥がしてコンクリート張りにしてしまってはイメージが合わない。

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(左)国分寺駅へ向かう道が急坂で崖線を上っていく
(右)住宅街にも崖線の上下を結ぶ階段が

もちろん、国分寺跡にあったような崖線の雑木林と、湧水地いわゆるハケの水が見られる場所もまだいくつか残されている。一つは、今回訪問しなかったが、国分寺駅近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だ。もとは岩崎家の別邸で、現在は都立公園になっている。湧水が注ぐ池が深い谷底にあり、段丘上に設けられた休憩所(紅葉亭)から見下ろすことができる。崖の落差を視覚的にも利用した劇場風の回遊式庭園で、コンパクトながら見応え十分だ。

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殿ヶ谷戸庭園、紅葉亭から崖下の次郎弁天池を俯瞰
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(左)崖を流れ落ちる滝 (右)崖を斜めに下る竹の小道

私たちは、その800mほど東にある新次郎池を見た。東京経済大学の敷地内で、林に囲まれた薄暗い窪地に小さな池があり、周囲の崖下5か所から湧水が流れ込んでいる。傍らの銘板によれば、かつてここにはわさび田があったといい、新次郎というのは、それを池を整備した時の東経大の学長の名だそうだ。湧水に手を浸してみる。「おっ、暖かいですね」。今日の最高気温は13度、もはや地下水のほうが暖かく感じる季節になっているのだ。

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林に囲まれた薄暗い窪地にある新次郎池
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(左)一つ一つの湧水は少量だが (右)池の堰を落ちるときはまとまった水量に

さらに200mほど進み、貫井(ぬくい)神社の前まで来た。石の鳥居をくぐると、色づき始めたモミジを映す大きな池がある。その上に架かる朱塗りの橋を渡り、水神様(市杵嶋姫命)を祀る本堂の前に出た。建物を囲むように水路が造られ、清水が流れている。湧出口があちこちにあるらしく、奥から手前へと見る見る水量が増えていくのには驚いた。

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水神様を祀る貫井神社、朱塗りの橋で池を渡る

新次郎池も貫井神社も、同じように段丘に食い込んだ形の窪地(下図参照)だ。かつては崖を侵食するほど豊かな湧水があったことを想像させる。都市開発が進み、地表がコンクリートやアスファルトに覆われると、降った雨は雨水管に直行してしまい、地中に浸透しなくなる。減少する地下水に連動して湧き出す水量も減り、すでに枯渇したものも少なくないそうだ。

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新次郎池と貫井神社附近の1:10,000地形図

最後に訪れたのは、新小金井街道の脇にある滄浪(そうろう)庭園。大正時代に実業家の別荘の庭として造られたもので、現在は小金井市が管理している。同じように段丘上に入口があり、崖下の湧水を引いた池まで降りていける。池の周りには針葉樹やモミジが鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い森を作っていた。ハケと呼ぶにふさわしい空間だ。「お屋敷の庭といっても相当広いですね」「市街地が拡大する前のものでしょうからね。残っていてよかったと思いますよ」。

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滄浪庭園入口
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崖を降りて池のほとりへ
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鬱蒼と茂る森に差し込む光

時刻を見たら、もう12時を回っている。どこかに食べる所があるだろうと手ぶらで来たので、崖線を巡る旅をここで切り上げ、武蔵小金井駅前に出た。昼食を共にして解散する。

改札で3人を見送った後、私はハケの道をさらに下流へ歩いてみた。中央線の駅勢圏から遠ざかるにつれ、風景は郊外色を帯びてくる。国分寺界隈とは違って、住宅地の間に少なからぬ面積の緑地が点在している。地形図に示した、はけの森緑地や美術の森がそうだ。小金井第二中学校の向かいには、個人宅の表札を掲げた大きなキウイ農園(はけの森果樹園)もあった。

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(左)美術の森 (右)はけの森果樹園のキウイ畑

やがて道は、はるかに広大な緑地、武蔵野公園に入っていく。土曜日とあって、子どもたちの歓声が広い谷間にこだましている。園地を貫く野川の流れは潤いというにはささやかだが、人工物が少ない風景は自然と心が落ち着く。晩秋の日は短い。午後3時を過ぎるともう、地面に落ちる林の影が長くなってくる。野川公園は北門をカメラに収めただけで、帰途に就くべく、私は新小金井駅に通じる崖線の坂を上っていった。

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武蔵野公園
(左)遠くから子どもたちの歓声が聞こえる (右)紅葉する公園の樹々
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(左)西武多摩川線の電車が野川を渡る (右)野川公園北門

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図国分寺(昭和61年編集)、2万5千分の1地形図立川(平成30年調製)、吉祥寺(平成30年調製)および20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)を使用したものである。起伏陰影図は地理院地図ウェブサイトより取得した。

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2018年10月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-曽爾高原

2018年秋の本州旅2日目の舞台は、奈良・三重県境に位置する曽爾(そに)高原とその周辺の、東海自然歩道にも含まれているトレッキングルートをたどる。曽爾高原は、すり鉢状の斜面にススキが群生して、秋になると臨時バスが運行されるほど関西の人気スポットの一つなのだが、それを取り囲むように連なる、柱状節理の断崖を剥き出しにした室生火山群の山々もまた人を引き付ける。その風景をゆっくり楽しもうと、敢えて高原へ直行せず、麓の谷間の集落から歩き始めることにした。

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ススキ揺れる曽爾高原、右下の湿原はお亀池

10月15日朝、雨上がりの近鉄大阪線の名張(なばり)駅前から、曽爾高原行きの路線バスに乗り込んだ。平日というのに、車内はハイキング装備の人たちで満席だ。参加者は今尾さんと私の2名。地形図話に花を咲かせながら、青蓮寺川(しょうれんじがわ)の渓谷を遡るバスに揺られた。ダム湖が尽きるあたりから、道路は見上げる高さの断崖と川とに挟まれ、大型車1台分の道幅しかない区間が断続する。30分ほど走ったところで、ようやく谷が開けてきた。

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(左)近鉄名張駅西口、レトロな木造駅舎が残る (右)太良路バス停で下車

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名張市、曽爾村周辺の1:200,000地勢図(1988(昭和63)年修正図)
茶色の枠が下掲1:25,000詳細図の範囲

下車したのは、太良路(たろうじ、下注)というところ。杉の巨木が立つ神社の前、村のよろず屋の軒先に停留所の標識が立っている。走り去るバスを見送って歩き始めると、社森の陰から特異な風貌の鎧岳(よろいだけ)が姿を現した。のどかな村里の背後に急角度でそそり立ち、まるで守護神のように谷を見下している。中腹に露出した断崖の連なりは、なるほど鎧のようだ。

*注 太良路は、山一つ越えた太郎生(たろう)地区へ通じる道を意味する地名。バス停のふりがなは「たろうじ」だが、地理院地図の地名情報には「たろじ」とある。

上空は朝から雲に覆われたままだが、幸い雨の予報は出ていない。「ちぎれた雲が流れていくのも、神秘的でいいですよ」と私。橋を渡って、太良路の集落に入り、勾配のきつい沢沿いの旧道を上っていく。林がとぎれたところで振り向いたら、集落の向こうにまた鎧岳が見えた。今度は後ろに兜岳(かぶとだけ)を伴っている。

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太良路集落を見下す鎧岳(右)と兜岳
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別の角度から見た鎧岳(新嶽見橋にて別の日に撮影)
柱状節理の断崖がより顕わになる

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曽爾高原周辺の1:25,000地形図。赤線が歩いたルート

クルマ道と合流して少し進み、曽爾高原ファームガーデンの前を通り過ぎる。道路が勾配緩和のループを繰り返す間、徒歩道は森の中をほぼ直登している。胸突き八丁というべき、きつい上り坂だ。1:25,000地形図の倶留尊山(くろそやま)図幅によれば、太良路が標高390m、ファームガーデンが約470mに対して、ススキの原の広がるあたりはもう700mを超えている。

今尾さんが持ってきた地形図には、これから歩くルートが赤でなぞってあった。ただ、行く予定のないところまで延びているので聞けば、「古書店で買ったときから赤線が入っていたんです」。もとの持ち主は、何日もかけて山地を縦走する相当の健脚家だったようだ。

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徒歩道は車道からそれて杉林の中を直登する

森の中では風が止むため、じわりと汗がにじんでくる。こんな天気で湿度が高いらしい。落ち葉の積もる薄暗い杉林を登り続けて、国立曽爾青少年自然の家の前に出た。有名なススキの原はこの南側に広がっているはずだ。その全景を確かめようと、さっそく地形図で728m標高点がある高まりのほうに足を向けた。

一帯は、例えるなら半円の客席が舞台を囲む劇場のような地形だ。客席に相当する後ろの山は左右にピークがあり、左のそれは二本ボソ(標高996m)、右端は亀山(標高849m)という。間の鞍部は亀山峠と呼ばれ、太郎生へ抜ける徒歩道が通っている。一方、手前の舞台に当たる部分は凹地で、一部が湿原化して、お亀池の名がある。

この凹地には水の吐け口がなく、一見古い火口のようだ。しかし成因はそうではなく、後ろの山が大規模な崩壊を起こしたときに、その山と押し出された土砂(今立っている728m標高点から南へ延びる高まり)との間にできた窪みだ。風化によりすっかり均され、穏やかな表情を見せているので、過去にすさまじい地滑りが起きた現場とはとても思えない。

国立曽爾青少年自然の家の資料(下記参考サイト)によると、一帯は昔から麓の太良路地区の茅場だったそうだ。毎年春、地区の共同作業で山焼きが行われ、ススキが生育する環境が保たれてきた。刈り取ったススキ、すなわち茅で地区の屋根を葺いていたのだが、瓦やトタン屋根の普及で需要が減少したため、現在は専門業者が引き取り、全国の古民家の葺き替えに使われているという。

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ススキの原が広がる曽爾高原(別の日に撮影)
左端が二本ボソの稜線、中央の鞍部が亀山峠、右端のピークが亀山
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遊歩道が廻るお亀池(別の日に撮影)

池のそばのピクニックベンチで昼食を取った後、再び歩き出す。亀山峠までは、ススキが揺れる斜面を斜めに上る丸太階段の遊歩道だ。高度が上がるにつれ、曽爾の谷を隔てた西側の山並みも立ち上がってくる。太良路で確認できたのは鎧と兜だけだったが、今やその左奥にある国見山や住塚山(すみつかやま)、ナイフで片側を切り落としたような形の屏風岩まで一望になる。

室生火山群として括られている山々だが、どれも火山そのものではない。この地域は約1500万年前、南方で活動した火山からの噴出物で埋め尽くされた。火山灰は熱と自重によって溶融し、場所によって厚さが400mにもなる溶結凝灰岩の層を形成した。現在の山地は、これらの地層が水流の侵食を受けた後に残ったもので、ピークが1000m前後で揃っている。山地を特徴づける柱状節理の断崖は、凝灰岩の露頭なのだ。

標高約820mの峠から遠くの山並みにカメラを向けるが、あいにく雲の動きが早すぎて、峰が次々と覆い隠されてしまう。そのうち、亀山の尾根の裏からも霧が湧いてきて、ススキの原をすべり降り始めた。「風伝(ふうでん)峠みたいですね」と今尾さんが言う。風伝峠といえば熊野古道の山越えの一つで、冬場に朝霧が里へ吹き下りる風伝おろしが見られる。偶然にも私も、最近そこを歩いたばかりだ。

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(左)亀山峠へ上る長い階段道 (右)霧に包まれる亀山峠
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曽爾高原から室生火山群を望む 中央が兜岳、その右が鎧岳

しばらくそんな旅の四方山話をしながら視界が晴れるのを待ってみたが、かえって霧がこちらへ回ってきて、周りを白一色に塗り込めてしまった。帰りのバスの時刻も気になってきたので、時計の針が1時を指したところで諦め、山を降りることにした。

峠には県境が走っている。西側が奈良県宇陀(うだ)郡曽爾村、東側は三重県津市だが、かつては一志(いちし)郡美杉村といった。その名にたがわず、道はすぐに、すらりと伸びた杉の美林の下へ潜り込んでいく。

ジグザグの山道には、曽爾側と同じように丸太で土留めした階段が組まれているのだが、極端に急斜面のため、谷側の詰めた土がすでに抜け落ちた個所さえある。加えて先月の台風で倒れたと見え、太い木が何本も道を塞いでいる。私たちはそれを一つずつ跨ぎ越しながら、慎重に歩を進めた。谷の傾斜が少し緩むと、それこそ熊野古道のような苔むした石畳が現れた。観光用とは思われず、このルートがかつて主要な往来に供されていたことを示すものだ。

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(左)亀山峠からの下り (右)急斜面を杉の美林が覆う
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(左)台風による倒木が道を塞ぐ (右)石畳の山道

632m標高点の付近で山道は杉林を抜け出し、軽自動車が通れる幅の舗装道に合流する。そしてしばらく、池の平高原と呼ばれる緩い起伏の、棚状の土地を縦断していく。ここも地滑り地形のようだが、地形図で見る限り、曽爾高原よりはるかに大規模だ。しかし、放棄された茅場に植林が実施されたことで、景観は大きく変わってしまったらしい。同じような湿原もあるはずなのに、荒れ地か耕作放棄地としか見えないのだ。高原で出会ったのは放し飼いにされた2頭の山羊のみで、人のいる気配はなかった。

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池の平高原 (左)倶留尊山は雲がかかったまま (右)放し飼いの山羊しかいない

620m標高点から先は、また急な下り坂が復活し、整地された棚田の中を太郎生(たろう、下注)の村里へ入っていく。太郎生は、堀さんが名張からバスで名松線の伊勢奥津(いせおきつ)駅へ向かう途中で立ち寄った場所だ。しかも季節は秋だった。著書『地図を歩く』(1974年)には、「とある一隅の畠からの、茶褐色の土のうねと、浅みどりの野菜の葉と、たわわに実る柿とを前景にした倶留尊の見はらしは、なかでも私の忘れ得ぬ旅の印象の一つとなった」(p.178)とある。

*注 この地名のふりがなには、「たろう」「たろお」の二通りの表記がある。

しかし残念ながら、私たちが太郎生に降りてもまだ、倶留尊山は中腹まで雲がかかったままで、堀さんを魅了した険しい峰の連なりを拝むことは叶わずじまい。棚田と小川と、その周囲に散在する農家のたたずまいを眺めることでよしとするしかなかった。

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太郎生へ降りる道から見た倶留尊山(別の日に撮影)

太郎生郵便局の前に停留所(南出口バス停、下注)の標識を見つけ、名張駅前へ戻るバスを拾った。往きの曽爾高原行きとは打って変わって、乗客は遠来の私たちだけだ。観光地から外れた地方路線にはありがちな話とはいえ、「駅までこのままかな」と他人事ながら気になる。結局、市街の外縁に当たる上比奈知(かみひなち)でようやく女の子が一人乗ってきて、私たちを少し安堵させたのだった。

*注 南出口バス停から100mほど南西に、中太郎生バス停もある。旧道沿いの民宿たろっと三国屋の右の路地を抜けると到達でき、このほうが距離的には近い。

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(左)山麓の上出集落を抜ける (右)国道沿いの南出口バス停

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図倶留尊山(平成28年調製)および20万分の1地勢図伊勢(昭和63年修正)を使用したものである。

■参考サイト
国立曽爾青少年の家-曽爾のこともの http://soni.niye.go.jp/kotomono/kotomono.html

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2018年10月13日 (土)

モーゼル渓谷ツェラー・ハムの展望台

ボージュ山地を発してコブレンツ(コーブレンツ)でライン川に合流するまで、約550kmを流れ下るモーゼル川 die Mosel。その中流から下流部にかけての流路は特徴的だ。まるで行く先を忘れて迷子になったかのように、極端な曲流が連続している。

このような地形は「穿入(せんにゅう)蛇行」と呼ばれ、日本でも大井川や四万十川などに見られる。もともと平野部をゆったりと蛇行していた川が、地盤の相対的な隆起に対して水流による浸食で抵抗し、もとの流路を維持している状態だ。見方を変えれば、大昔の自由蛇行を谷の中に閉じ込めた地形の缶詰ということができるだろう。

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マリエンブルクから曲流するモーゼル川を眺望

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あまたある曲流の中でも最大と言えるものが、ピュンダリッヒ Pünderich とブライ Bullay の間にある。経由地ツェル Zell の名を採って、「ツェラー・ハム Zeller Hamm(下注)」または「ツェルのモーゼル湾曲 Zeller Moselschleife」と呼ばれるこの曲流は、始点から終点までの延長が14kmにも及ぶ。ところが、首根っこの、最もくびれた地点間の距離は1kmもないのだ。それで、くびれの所で谷を分けている尾根に上れば、左右に同じ川が見え、かつ流水方向は反対という、鏡像のような光景に出会える。

*注 ハム Hamm は、ラテン語の hamus(鉤、フックなどの意)に由来し、川の湾曲を意味する。

加えてここは、鉄道ファンにとっても注目すべき場所だ。コブレンツから川に沿って走ってきたDBのモーゼル線 Moselstrecke(下注)が、湾曲部をショートカットしている。くびれ尾根をトンネルで貫くとともに、その前後に上下2層の鉄橋や、長い斜面高架橋を構えている。山と川とこれら珍しい構築物が織りなす風光が好まれて、ここで撮られた写真は、昔から路線紹介の定番だ。

*注 モーゼル線のこの区間については、本ブログ「モーゼル渓谷を遡る鉄道 II」で詳述。

どのポイントでどんな構図が得られるかを含めて、今回はこの曲流の周辺を紹介しよう。

図3
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ツェラー・ハム周辺の1:50,000地形図(L5908 Cochem 1989年)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz, 2012

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撮影地周辺の1:25,000地形図(GeoBasisViewer RLPから取得)
撮影位置を①~④で示す
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

コブレンツ中央駅からモーゼル線トリーア方面のRE(レギオエクスプレス、快速列車に相当)に乗ると、車窓に映る穏やかな川面を眺めながら、44分でブライに到着する。地下通路を介して山側にあるブライ駅舎は、20世紀初期に建てられた簡素なデザインの建物だ。アーチ天井のホールの片側は旅行センター、片側はビアレストランが入居するが、降車客の姿が消えると、朝10時の構内はしんと静まりかえる。

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(左)ブライ駅舎の中央ホール (右)大砲鉄道の案内板

ホールの中央にある、カノーネンバーン(大砲鉄道)Kanonenbahn と書かれた案内板が目に留まった。大砲鉄道というのは、19世紀プロイセンの時代に、有事の際の輸送ルートとして、ベルリン Berlin とロレーヌ地方のメス Metz との間に建設された路線の俗称(下注1)で、モーゼル線も実はその一部だ。ブライ駅はツェラー・ハムを巡る周遊トレール(下注2)の出発点とされていて、トレールをたどる人に地域の鉄道史を知ってもらおうと、関連地点に案内板が設置されている。

*注1 大砲鉄道については、本ブログ「ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線」に概要がある。
*注2 正式名は「大砲鉄道ブライ=ライル鉄道史文化トレール Eisenbahnhistoricher Kulturweg Kanonenbahn Bullay - Reil」。延長23km。

駅舎を出て右へ、鉄道の築堤に沿って進むと、500mほどでさっそくアルフ=ブライ二層橋 Doppelstockbrücke Alf-Bullay のたもとに出た。長さ314m、6径間(最大径間72m)の堂々たるトラス橋だ。上が鉄道、下が州道L 199号線という二層構造で、モーゼル川を渡っている。北側の橋台の脇をかつてモーゼル鉄道(下注)がくぐっていたのだが、今は道路に転用されてしまっている。

*注 モーゼル鉄道 Moselbahn または モーゼルタール鉄道 Moseltalbahn は1962年に廃止された標準軌の私鉄路線。トリーアから、鉄道のないモーゼル右岸を忠実になぞって、ブライに達していた。現 ブライ駅の正式名が Bullay (DB) と表記されるのは、南に少し離れていたモーゼル鉄道の駅(Bullay Kleinbahnhof または Bullay Süd)と区別していた名残。

二層橋の道路部分では、車道の両脇に一段高くなった歩道がある。突き刺さるトラスの太い梁がやや邪魔になるものの、スピードを上げて通る車を気にしなくていいのはありがたい。渡り終えたところで、連邦道53号線を横断する必要がある。

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アルフ=ブライ二層橋
上を鉄道(モーゼル線)、下を道路(州道L199号線)が通る

地図で見ると、曲流の展望地へは、右手に見える小さな葡萄畑の急斜面を上っていくのが近道なのだが、私有地らしく、トレールには認定されていない。正規ルートは、左手の車道脇から山中に入り込む登山道だ。少し上ったところで、右から来る小道に合流するが、この小道は、プリンツェンコプフトンネル Prinzenkopftunnel(長さ458m)の北側ポータルの前に通じている。寄り道すれば、二層橋を渡る列車をほぼ同じ高さで捕えることができるだろう。

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アルフ=ブライ二層橋を渡るモーゼルワイン鉄道の旅客列車
上図①の位置で撮影

一方、トレールはくびれ尾根の森の中を、一部ジグザグに上っていき、最終的に尾根筋のマリエンブルク Marienburg に出る。マリエンブルクには、トリーア司教区の青少年研修施設があり、そのテラスに立つと、葡萄畑の山腹に張り付くピュンダリッヒ斜面高架橋 Pündericher Hangviadukt が見渡せる。この形式ではドイツで最も長く、延長786m、内径7.2m のアーチを92個連ねた見ごたえのある構造物だ。高架橋の眺めは、尾根筋に限ればここがベストで、西へ進むにつれて視角が浅くなり、アーチ全体がきれいに見えなくなる。

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マリエンブルクから望むピュンダリッヒ斜面高架橋
上図②の位置で撮影
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(左)南向き斜面に整列する葡萄の苗木
(右)尾根伝いのトレール。遠方にプリンツェンコプフの展望塔が見える
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ピュンダリッヒ斜面高架橋を走る列車から見たマリエンブルク(右の山上の建物)

マリエンブルクの眺望を満喫した後は、いよいよプリンツェンコプフの展望塔 Aussichtsturm へ向かおう。尾根伝いの道は、葡萄畑越しに、対岸に広がるピュンダリッヒの町と、左に大きく曲がっていく川のパノラマが楽しめる景勝ルートだ。700m、約10分行ったところで、展望塔に通じる坂道が左に分岐している。少し上れば、鉄骨で組んだ塔の足もとに出る。

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プリンツェンコプフに建つ展望塔

プリンツェンコプフ Prinzenkopf(王子の山頂の意)はツェラー・ハムの付け根にある小さなピークだ。標高220m、19世紀からすでに人気の見晴らし台だった。1818年に皇太子、後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 Friedrich Wilhelm IV. がラインラント行啓の際に立ち寄り、仮設のあずまやで昼食を取った。その故事から山の名がある。

1888年に、最初の展望塔が中古の木材を使って建てられたが、1899年に石造りの堅固な塔に建て替えられた。展望階には屋根がかかり色ガラスが嵌められて、風雨や、初夏のやっかいな羽蟻から護られた快適な施設だった。しかし、第二次世界大戦末期の1945年3月に、米軍によって爆破されてしまった。その後しばらくして1983年に、地元自治体によって塔が再建された。景観に配慮して木造とされたが、それが仇となって2005年の嵐で破損したため、2009年に鉄骨組みで建て直されたのが現在の塔だ(下注)。

*注 展望塔の歴史は、現地にあった鉄道史文化トレールの案内板を参照した。

四代目となるこの展望塔は、高さが27.3m、最上階の展望デッキは基礎から18m、モーゼル川からは145mの高さがある。人気は今も続いているらしく、塔には入れ替わり立ち替わり見物客が訪れていた。最上階のデッキからは360度の展望が得られる。とりわけ東方向は、手前からまっすぐ伸びる緑濃い細い尾根の先に、マリエンベルクの修道院風の建物が見え、その両側に、葡萄畑を斜面に載せたモーゼルの深い谷が奥まで通っている。予想通り、鏡像のようなみごとな光景だ。

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プリンツェンコプフの展望塔から見たツェラー・ハムのパノラマ
正面の建物がマリエンブルク。川は右手前から中央奥の山の後ろを回って、左手前へ流れてくる。上図③の位置で撮影

展望塔の建つ位置は、モーゼル線のプリンツェンコプフトンネルの真上に当たる。少し期待していたのだが、意外にも鉄道の撮影に向いていないことがわかった。二層橋はちょうど木の陰になり、斜面高架橋は手前のアーチが隠れてしまうのだ。

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展望塔から下流方向を望む
川の右岸はブライの町だが、手前の木に隠れる
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展望塔から上流方向を望む
斜面高架橋の手前のアーチが見えない

塔を後に、アルフ=ブライ二層橋を遠望できる場所を求めて、アルフの町へ降りる道を少したどった。森が途切れたところにレストランを兼ねた農家があり、その前が、さっき二層橋を渡ったときに右手に見えていた葡萄畑の斜面だった。まだお昼時でやや逆光にはなるものの、形よくカーブするモーゼルの谷を背景に、二層橋が川面に堂々とした姿を映している。

実はここへ来る前に、順光になるマリエンブルク側で二層橋の展望地を探してみたのだが、北斜面は森に覆われているため、研修施設に入らない限り、そのような場所はなかった。施設内に望楼のような建物を見かけたので、そこならブライやアルフの町を背景に、二層橋を渡る列車の写真が撮れるのではないだろうか。

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葡萄畑の上から望むアルフ=ブライ二層橋
上図④の位置で撮影

モーゼルの伸びやかな風光に心行くまで浸った後で、同じ道をとぼとぼ帰るのも芸がない。このままアルフに降りて、モーゼル川を横断するフェリーで対岸のブライに戻るか、あるいは斜面に付けられたトレールを上流(南)へ歩いて、ライラーハルス Reiler Hals の鞍部からモーゼルワイン鉄道のライル Reil 駅まで、もう少しハイキングの時間を楽しみたい。

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 ライン渓谷ボッパルダー・ハムの展望台
 ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線
 モーゼル渓谷を遡る鉄道 I
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2018年9月16日 (日)

ライン渓谷ボッパルダー・ハムの展望台

ドイツ観光のハイライトの一つ、ライン川クルーズは、世界遺産にも登録された渓谷(下注)の、両側から荒々しい岩肌が迫る速くて豊かな流れの上を、遊覧船が進んでいく。上流のリューデスハイム Rüdesheim あたりから乗船した人は、ザンクト・ゴアール St. Goar  か対岸のザンクト・ゴアールスハウゼン St. Goarshausen で降りてしまうことも多いが、KDラインの船便はさらに下流へ進み、ボッパルトあるいはコブレンツ(コーブレンツ)Koblenz を終点にしている。

*注 「ライン渓谷中流上部 Obere Mittelrheintal」の名で、ビンゲン・アム・ライン Bingen am Rhein ~コブレンツ間が登録されている。本ブログ「ドイツの旅行地図-ライン渓谷を例に」でも言及。

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ライン川の湾曲に面するボッパルトの町

このルート後半は、古城群やローレライなど見どころの多い前半に比べて、地味な区間と思われがちだ。しかしそこにライン渓谷で唯一、川が大きく湾曲するボッパルダー・ハム Bopparder Hamm の奇観があるのを忘れてはいけない。

ドイツ国内でライン川は、おおむね北ないし北西方向に流れているのだが、細部はそうとも限らない。ここボッパルトの町の前では西を向いており、その直後、右に180度転回して、一時的に東へ向かう。深い渓谷の中とあって、両岸を走る鉄道も道路もショートカットするすべがなく、川に従い大迂回を強いられている。

半径約1kmの半円を描く曲流の景観は、渓谷のへりの高みから眺め降ろすのがいい。ボッパルト近くの左岸の崖の上に、その条件を満たす「ゲーデオンスエック Gedeonseck」という展望台がある。

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展望台へ上るチェアリフトから右岸線を走る列車を望む

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ボッパルト周辺の1:25,000地形図 (5711 Boppard 2009年)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

その日は、船ではなく左岸線の列車で、ボッパルト中央駅 Boppard Hbf に着いた。ボッパルトは帝国都市の経歴をもつ古都(下注1)で、今はライン河畔に開けた上品なリゾート都市の一つだ。中央駅とは名ばかりの小さな駅前広場から西へ歩くこと15分、ミュールタール Mühltal の鉄道ガードをくぐると、水車の回る鄙びたレストランの隣に、展望台へ上るチェアリフトの乗り場がある。妻壁にゼッセルバーン・ボッパルト Sesselbahn Boppard(下注2)と大書してあるから、見落とすことはない。

*注1 帝国都市 Reichsstadt は中世、神聖ローマ帝国の直轄都市。ただし、ボッパルトが帝国都市の地位を得ていた時期は短く、1309年以降はトリーア選帝侯国 Kurtrier に属した。
*注2 ゼッセルバーン Sesselbahn はチェアリフトのこと。ゼッセルリフト Sessellift ともいう。

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(左)ボッパルト中央駅 (右)チェアリフトの乗り場

リフトは1954年に開設されたもので、長さ915m、高低差は232mある。片道20分のけっこう長い空中遊覧だ。並行して登山道も整備されているのだが、周辺の地形を理解するには、往路は空中リフトに身をゆだね、復路で歩いてゆっくり景色を楽しむのがいいだろう。

乗り場の係員に見送られて、リフトはまず葡萄畑の斜面を這い上がり、まもなくライン川とミュールタールを見下す細い尾根の上に出る。そしてそのまま、尾根伝いに北上していく。両側が鋭い角度で落ち込んでいるので、視界を遮るものはなく、すでに見晴らしは抜群だ。

右手はライン渓谷で、遠心力を感じるほど大きなカーブを描いている。さっき歩いてきたボッパルトの白い町並みがじわじわと遠ざかる。はるか下の川を行く貨物船や河岸を走る列車や自動車は、もはやミニチュアか何かのようだ。

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(左)まず葡萄畑の斜面を這い上がる (右)その後は尾根伝いに北上(帰路写す)

左手は山また山だが、直下ミュールタールの山腹に、注目すべきDBのフンスリュック線 Hunsrückbahn(下注)が通っている。ボッパルトを起点とし、高原上のエンメルスハウゼン Emmelshausen まで行く路線だが、ラインの谷壁を克服するために、1:16.4(60.9‰)と粘着式では破格の急勾配が用いられている。運よく単行の気動車がその坂道を下ってくるのに遭遇した。

*注 フンスリュック線は延長14.7km。現在は交通企業レーヌス・ヴェニーロ Rhenus Veniro が、左岸線のボッパルト・ジュート(南駅)Boppard Süd まで旅客列車を運行している。

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フンスリュック線の連接気動車が60.9‰の急勾配を行く(帰路写す)

リフトが徐々に高度を上げていくにつれ、足元の斜面も険しさを増してくる。見る位置によってはほとんど尾根線の外側に乗り出しているかのように感じられる。残り1/3でルートがミュールタール側の斜面に移った後も、やや深い谷を渡るスリリングな区間があった。日本なら、リフトの動線に沿って落下防止用のネットが張られていそうなものだが、ここには何もない。その上、チェアはスキー場にあるような簡易構造で、足を預けているのは1本の細い鉄棒に過ぎない。それで、深く腰を掛け、動かないでいることが唯一、高所の恐怖を払いのける方法だった。

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(左)チェアリフトの終点 (右)オークの森を歩いて展望台へ

リフトの終点は標高302mのヒルシュコプフ Hirschkopf で、オークの深い森を背負っている。木漏れ日の林道を5分足らず歩いていくと、前方の視界が開けて、ゲーデオンスエックに出た。あいにく開放されている展望台は北の端の狭い場所で、一等地は軽食堂のテーブルが占拠している。しかし、午後3時で客がまばらだったので、飲み物なしで少しばかり景色を眺めさせてもらった。

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ゲーデオンスエックの展望台はレストランが占拠。開放された展望台は左奥にある

なるほど、噂通りここからはボッパルダー・ハムの大湾曲が一望になる。ライン川は右から左へゆったりと流れている。リフトからも見たように、右手にボッパルトの町、その奥の山かげから対岸のカンプ・ボルンホーフェン Kamp-Bornhofen が顔を覗かせる。一方、正面は円盤のような整った形が印象的なフィルゼン Filsen の村と畑で、その後ろにオスターシュパイ Osterspai の村も見える。左は、川沿いの急斜面に、ボッパルト自慢の良質なワインを産む葡萄畑が広がっている。

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ゲーデオンスエックから見たラインの湾曲、ボッパルダー・ハム
右はボッパルトの町、正面はフィルゼンの村、左は良質ワインを産む葡萄畑

ボッパルダー・ハムの「ハム Hamm」というのは、ラテン語の hamus(鉤、フックなどの意)に由来するそうだ。つまり、本来はボッパルトの湾曲地形を意味する言葉なのだが、一般にはこの一帯の葡萄畑、あるいは特産のワインのことを指すと思われている(下注)。

*注 地形図でも、斜面の葡萄畑に掛かるようにボッパルダー・ハムの注記がある。

ライン中流では、川沿いの南向き斜面は貴重な存在だ。川の流路が東西方向のところに限られるからだ。ボッパルダー・ハムは直射光とともに、スレート質の地面から反射光がたっぷり得られ、そこに川の蓄熱効果が加わる。さらに湿気をもたらす西風が西側の山地で遮られるため、温暖で乾燥した環境を好む葡萄の栽培には最適なのだという。

昔から南北交通の大動脈だったライン渓谷では、両岸に複線の鉄道が通っている。東側がライン右岸線 Rechte Rheinstrecke、西側がライン左岸線 Linke Rheinstrecke だが、大部分のICEが2002年に開通した高速新線(下注)に移った後も、ここをIC(インターシティ)や貨物列車が頻繁に往来する。少々遠目にはなるものの、この展望台は、ライン川と周辺の風景を入れてそれらの列車を撮るにもいい場所だ。

*注 ケルン=ライン/マイン高速線 Schnellfahrstrecke Köln–Rhein/Main。ケルン Köln とフランクフルト Frankfurt am Main を結ぶ高速新線。

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葡萄畑の下の左岸線を列車が行き交う

近くにもう1か所、展望台があるという情報が気になっていた。「フィーアゼーンブリック Vierseenblick(四つの湖の眺めの意)」と名のつく場所だ。再び林道を北へ5分ほど歩いていくと、入口に看板が立っていた。

そこも同じように軽食堂が居座っていて、開放された展望所は小さなスペースだったが、なるほど山かげに隠れて、ライン川が見かけ上、4つの断片に分かれる。上流側からカンプ・ボルンホーフェン、ボッパルト、フィルゼン、オスターシュパイと、沿岸の町や村がどれ一つ省かれることなく、公平に見えるのも絶妙といっていい。

とはいえ、今しがた湾曲の雄大な全貌を目の当たりにして感動したばかりだ。この景観は、せっかくの自然の造形を出し惜しみしているようで、案外つまらなかった、と正直に告白しておこう。

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フィーアゼーンブリックからの眺め

■参考サイト
ボッパルト・チェアリフト(公式サイト) http://www.sesselbahn-boppard.de

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2018年6月11日 (月)

北海の島のナロー I-概要

ヨーロッパ大陸とイギリス諸島の間に北海が横たわる。ドイツやオランダもこの海に接しているが、より大縮尺の地図を見ると、本土と北海本体の間には小さな島が鎖状に連なり、オランダ沿岸からユトランド半島にまで延びている。これらはフリジア諸島 Frisian Islands / Friesische Inseln と呼ばれ(下注)、そのうち、ドイツ領のエムス Ems 河口からヤーデ Jade、ヴェーザー Weser 河口までが、東フリジア諸島 East Frisian Islands / Ostfriesische Inseln だ。

*注 フリジア Frisia は英語由来の呼称で、ドイツ語ではフリースラント Friesland という。上で併記した原語は左が英語、右がドイツ語。

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東フリジアの地図
沖合に島が鎖状に連なる。本土との間の海がワッデン海
ドイツ官製1:500,000地形図 Nordwest を使用 © Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2018

なぜこのような形に島が並ぶのだろうか。その成因は主として海流の作用だ。このあたりは、最終氷期(約7万年前~1万年前まで)に海面が現在より約60m低く、砂礫やモレーンから成る平たく乾燥した土地が広がっていた。その後、氷床が融けて海面が上昇すると、海流に乗って砂が西から東へ移動していく。また、北海に注ぐ川が内陸から多量の砂泥を海に押し流し、これも海流によって運ばれた。

北海沿岸の潮汐力は大きい。満ち潮は速くて勢いがあるが、引き潮の速さはその85%にとどまるという。そのため、沖合から満ち潮に乗ってきた砂は、引き潮で戻されずにいくらかはそこに残る。高潮や強風がそれを上へと堆積させる。やがて沿岸には長さ500kmにもなる砂丘の列ができた。実は、今あるフリジアの島々は、こうした砂丘が嵐の際の高波などで寸断された姿だ(下注)。

*注 なお、ユトランド半島西岸の島々は北フリジア諸島と呼ばれ、成因が異なる。

一方、氷圧から解放されたスカンジナビア半島の隆起で、相対的に北海南部が沈下したため、海面水位は上昇し続けている。そのため、島と本土との間は完全に陸地化することなく、干潟や遠浅の海、ワッデン海 Wattenmeer(下注)として姿をとどめた。

*注 オランダ語の Waddenzee に基づきワッデン海と呼ぶが、本来、干潟(Watt)の海(Meer)という意味の普通名詞でもある。

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遠浅が続くワッデン海の眺め
シュピーカーオーク島西岸にて

東フリジア諸島に有人島は7つある。西から順に、ボルクム Borkum、ユースト Juist、ノルダーナイ Norderney、バルトルム Baltrum、ランゲオーク Langeoog、シュピーカーオーク Spiekeroog、そしてヴァンガーオーゲ Wangerooge だ(下注)。

*注 島名の語尾に付く oog、ooge は、現地のフリジア語で島を意味する。

一番大きいのは西端のボルクム島だが、それでも面積は31平方km、日本でいえば厳島(宮島、30平方km)にほぼ等しい。一方、バルトルムとヴァンガーオーゲは10平方kmにも満たない小島だ。人口も、最も多いノルダーナイ島で約6000人、バルトルムやシュピーカーオークは1000人を割り込む。

そのようなささやかな島々にもかかわらず、このうち5島にかつて一般旅客や貨物を運ぶ軽便鉄道が存在した。そして今日でもなお、3つの島で列車の走る姿が見られる。しかも細々と動いているどころか元気で、島にとっても不可欠の存在になっているのだ。

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賑わうボルクム軽便鉄道
(左)レーデ Reede 駅で船と接続 (右)終点は町の中心

なぜ、島の鉄道 Inselbahn が21世紀まで生き残り、それぞれに活路を見出し得たのだろうか。その理由を知るために、少し歴史を遡ろう。

かつて東フリジアの島の生業は、漁業と少しばかりの農業だった。島に別の収入をもたらす道を開いたのは、19世紀、本土からやってきた保養客だ。彼らは泳ぎに来たわけではない。当時、海辺の新鮮な空気が呼吸器疾患その他さまざまな病状の改善に有効だと考えられており、療養のために滞在したのだ。

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砂浜を埋め尽くすシュトラントコルプ(屋根付きビーチチェア)Strandkorb
ヴァンガーオーゲ島にて

1797年にノルダーナイ島が、プロイセン王から最初のノルトゼーバート(北海保養地)Nordseebad に認定された。本土から隔絶した島という希少性や神秘性が、上流階級の人気に拍車をかけた。しかし、それは、交通の便が悪いことと同義だった。

島へ向かう舟は、本土のジール港 Sielhafen から出航する。ジールはフリジア語で、堤防で囲まれた水門のある水路のことだ。水路は河川とつながっており、内陸の水が水路を通って海に排出されるときに、干潟に深い溝、いわゆる澪(みお)を刻む。浅海では、これが唯一安全な航路になった(下注)。

*注 グレートジール Greetsiel、ベンザージール Bensersiel、ハルレジール Harlesiel など、島へ渡る港(干拓が進んで内陸に取り残された旧港を含む)の多くが今も「ジール」のついた地名をもっている。

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ジール港の眺め
カロリーネンジール Carolinensiel にて

潮が満ちてくれば、舟が出せる。だが、島との往来に使われたのは、シャルペ Schaluppe と呼ばれる1本マストの小さな帆掛け舟だ。慣れない本土の客は、これでたいてい船酔いの洗礼を受けた。さらに島の側には港と言えるものはなく、正確に言えば沖合の投錨地だった。桟橋を造っても、当時の技術では嵐が来るたびに、波で簡単に壊されてしまうからだ。

それで客は潮位が下がるのを待ち、干潟を歩いて上陸した。急ぐ者には、有料の干潟馬車 Wattwagen という選択肢もあった。満ち潮でも濡れないように車高を上げた馬車で、2頭の馬が波を蹴立てて牽く。馬はひどいときには頸まで水に浸かるため、病気になることも多かった。

シャルペに代わって蒸気船が就航すると、所要時間が短縮され、船酔いも軽減された。しかし喫水が深いため、投錨地はさらに沖合に遠ざかり、干潟馬車まで小舟でつながなくてはならなかった。乗り換えのときに、不注意な客が泥の海に落ちることもしばしばあったという。

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(左)1900年代の干潟馬車、座席は高さ1.7m。カリフォルニア・オークランド博物館所蔵
Photo by Daderot at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)現代の観光用干潟馬車。ノイヴェルク島 Neuwerk にて
Photo by Simaron at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0

時代が下り、19世紀後半になると、いよいよ北海の島々にも鉄道敷設の構想が現れる。まず、本土との距離が最も近いノルダーナイ島で、ワッデン海を築堤で横断し、その上に本土直通の鉄道を走らせるという計画が発表された。しかし、ヒンデンブルクダム Hindenburgdamm(下注)に半世紀先立つ大胆な提案は、技術的な困難さからすぐに立ち消えとなった。

*注 ヒンデンブルクダムは、北フリジア諸島のジルト島 Sylt と本土をつなぐ長さ11kmの築堤。1927年に完成し、その上を標準軌鉄道が通る。

実現した鉄道としては、1879年にボルクム島に導入された900mm軌間の馬車鉄道が最初だ。ただしこれは船との接続ではなく、火災に遭い改築が必要となった灯台の工事現場に建設資材を輸送するものだった。1885年にはシュピーカーオーク島に旅客用の馬車鉄道が登場するが、これも港ではなく、西海岸に設けられたビーチと村の間を往復した。

港と島の中心集落との連絡機能を担う最初の鉄道は、1888年にボルクム島で開通した蒸気鉄道だ(下注)。固定の桟橋が、潮位に影響されないように防波堤の沖4kmに建設され、そこへ向けて延長された築堤の上に線路が敷かれた。蒸気船を降りた客は、桟橋に横付けされた列車に乗り換えて、町まで運ばれる。上陸までの煩わしい行程を過去のものにする画期的な方式で、この後、島への訪問客が急増するのは当然のことだった。

*注 ジルトでも同年、ムンクマルシュ Munkmarsch の旧港から主邑ヴェスターラント Westerland までメーターゲージの蒸気鉄道が開通している。ボルクムのわずか3週間後だった。

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列車が埠頭に横付けされ、乗継ぎは実にスムーズ
ボルクム・レーデ駅にて

ボルクムの成功を見て、1890年代は島々の間で、桟橋の整備とともに鉄道敷設が一種のブームとなった。1891年にはシュピーカーオークで馬車鉄道が、1897年にはヴァンガーオーゲでメーターゲージの蒸気鉄道が、1898年にユースト(下注)、1901年にランゲオークでもそれぞれ馬車鉄道が開業し、港で客を迎える体制が整えられている。

*注 ユーストの馬車鉄道は開通後まもなく、高波の被害を被った。それを機に線路を杭桁 Pfahljoch の上に載せ、内燃動力に切り替えたので、馬車鉄道の運行は1シーズンのみで終わった。

鉄道の近代化のスピードは、島によって事情がかなり異なる。初めから蒸気鉄道であったボルクム、ヴァンガーオーゲでは、1950年代に、徴用解除された本土の中古ディーゼル機関車や気動車により「無煙化」された。内燃式のユーストも同時期に気動車を導入している。

それに対して、馬車鉄道のランゲオークとシュピーカーオークは、歩みが遅かった。前者は1937年に内燃動力に転換したが、後者はドイツ最後の馬車鉄道と言われた時代を経て、戦後の1949年にようやく転換された。

さて、こうした旅客や生活必需物資の輸送は、島の鉄道の重要な任務だが、他にも期待された役割があった。その一つは海岸保全工事のための資材輸送だ。

北海の嵐に伴う高波はしばしば島に大きな被害をもたらし、「ブランカー・ハンス Blanker Hans(下注)」と恐れられてきた。堤防や桟橋が破壊されるだけでなく、海岸が、ときには屋敷や畑も含めて持っていかれる。風向きの関係で西岸が常にハンスの攻撃に曝されており、逆に東岸には未固結の砂州が長く延びている。島の主要集落が西側に偏っているのは、侵食作用で追い詰められた結果に他ならない。

*注 ブランカー・ハンスは、白く光るハンス(ハンスは一般的な人名)の意で、波のしぶきを見立てたもの。

そのため、防波堤の建設と拡張が19世紀半ばから継続的に行われ、工事用の軌道や側線が、鉄道の本線から分岐する形で設けられた。ボルクム、ユースト、シュピーカーオーク、ヴァンガーオーゲ、どの島もそうだ。バルトルム島にも工事軌道はあり、州の水路・航路局 Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理していた。しかし、こうした軌道は、工事が完成すれば不要となる定めだ。今も残っているのは、ヴァンガーオーゲにあるWSA保全拠点への引込み線が唯一とされる。

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(左)「堤防は島を護る。立入らないでください」の立札
(右)防波堤と交差する線路には陸閘を設置。いずれもヴァンガーオーゲ島にて

それに加えてもう一つの役割は、軍事貢献だった。とりわけボルクムとヴァンガーオーゲは、エムス、ヴェーザーの河口を扼する位置にあるため、二度の世界大戦で要塞地帯とされた。兵舎、弾薬庫、砲座など軍用施設には、たいてい鉄道の引込み線がつながっていた。

初期の挫折以来、鉄道に縁がないノルダーナイ島でも、軍用鉄道だけは造られた。第一次世界大戦中の1915年に何と標準軌で敷設され、第二次大戦でも使用された。だが戦後は、民生用に転換されることもなく、1947年までに姿を消した。

戦後、本土(特に西ドイツ)では1950~60年代までに、ほぼすべての軽便鉄道が自動車との競争に敗れ、廃止されてしまうが、島の鉄道はどうなったのだろうか。

分類すると、東フリジア諸島で現在、軽便鉄道が存続しているのは、ボルクム、ランゲオーク、ヴァンガーオーゲの3島だ。ユーストとシュピーカーオークのそれは1980年代前半に廃止され、残るノルダーナイとバルトルムでは、先述の通り一般用の鉄道が稼働したことは一度もない(下注)。

*注 シュピーカーオークでは廃止とほぼ同時に、馬車鉄道が保存運行で復活し、2年の中断期間があったものの、現在も続けられている。ちなみに、北フリジアのジルトの軽便鉄道も1970年に廃止された。

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東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

ではなぜ、ある者は生き残り、ある者は失われたのか。まず存続したほうの要因は、いまだに需要があるというに尽きる。

ボルクムでは戦後、桟橋へ通じる軍用道路が市民に開放され、車で直接桟橋に行くことが可能になった。競合による鉄道の経営悪化を受けて、1960年に初めてバスへの転換を視野に入れた調査が行われた。しかし、町まで 7kmの距離があり、船で到着した客を一度に運ぶには相当な台数が必要となるため、バス輸送は現実的でなかった。大量輸送できる鉄道の特性を認めた結論だった。

また、ランゲオークとヴァンガーオーゲでは、島全体がカーフリー化されており(下注)、旅客輸送はもっぱら鉄道に任されている。

*注 自動車の全面禁止ではなく、スイスのツェルマット Zermat やヴェンゲン Wengen などと同様、貨物を運ぶ電動車は走っている。

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ヴァンガーオーゲの広大な塩性湿地を行く

一方、鉄道が廃止されたユーストとシュピーカーオークもカーフリーの島なので、原因を作ったのは車ではない。実は、中心集落に近い場所に新港が造られたため、鉄道で間をつなぐ必要がなくなったのだ。かつては、ある程度水深のある沖合でないと、桟橋を設けることができなかった。しかし、浚渫技術の進歩で、干潟の奥まで水路を掘る工事が可能になり、両島はそちらを選択した。

とはいえ、今なお東フリジアの3つの島に軽便鉄道があり、積極的に活用されているというのは貴重だ。今年(2018年)5月、実際に島を訪れる機会を得たので、次回からその活動状況や沿線風景を順にレポートしていこう。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
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 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月 6日 (水)

コンターサークル地図の旅-淡河疏水

兵庫県東播磨地方のいなみ野(印南野)台地は、日本で最も灌漑用ため池が密集する地域だ。水田に対するため池の面積は、地区によって3割にも達するという。瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、台地は周囲を流れる河川より数十m高く、また表土が山砂利層であることから、もともと水が得にくい土地だった。

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御坂サイフォン橋
手前が1891年築の石造橋、奥は1953年築の鉄筋コンクリート橋

江戸時代の新田開発で、周辺や台地内の河川から水路が引かれたが、既存の水利権との調整で、取水できるのは秋から春に限られた。そこで、堤を築いて池を造り、水をいったんそこに引き込んでおき、必要なときに使えるようにした。ため池が多いのはそれが理由だ。しかし、農業生産が拡大するにつれ、水不足は再び顕著になっていく。

より遠い六甲山地(六甲山系および丹生(たんじょう)山系)に水源を求める案は、すでに18世紀後半から唱えられていたというが、流路が藩をまたぐため、利害調整が難しく、話は容易に進まなかった。明治に入り、最終的に兵庫県に統合されたことで、計画がようやく動き出す。

当初、取水地は山田川中流と目されていたが、調査の結果、水路予定地の地質が悪いことが判明し、一本北の川筋である淡河川(おうごがわ)に変更された。導水路は最初、川の右岸の山中を伝う。そして御坂(みさか)で志染川(しじみがわ、下注)の谷を横断した後、芥子山(けしやま)を隧道で貫き、いなみ野台地に出る。この淡河疏水(おうごそすい、下注)は1888(明治21)年1月に着工され、難工事を克服して1891(明治24)年に完成を見た。

*注 御坂で淡河川と山田川が合流して、志染川と名を変える。
*注 正式名は淡河川疏水。なお、「疏」は当用漢字外のため、地形図では淡河「疎」水と表記される。

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淡河疏水、山田川疏水の概略ルート

御坂で横断する谷の比高は60m以上ある。このため、横浜水道の設計者である英国人土木技師ヘンリー・S・パーマーの提案により、逆サイフォン構造が採用された(下注)。管路延長は749.32m(水平距離735.30m)で、谷底を流れる志染川は、全長56.95mのアーチ橋を架けて通過する。管路の吐口は呑口より2.45m低いだけだが、管路を満たした水は、連通管の原理で谷を隔てたこの位置まで上昇してくる。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来のサイフォンとは構造が異なるが、以下ではこの名物区間のことをサイフォンと記す。

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御坂サイフォンの見取図。現地の案内板を撮影

前置きが長くなったが、2018年5月28日のコンターサークルSの旅は、この淡河疏水の探索がテーマだ。まずはお目当てのアーチ橋、御坂サイフォン橋に行き、その後時間が許す範囲で、疏水の名物スポットを巡りたいと思っている。

JR三ノ宮駅の高架下にある神姫(しんき)バスのターミナルから、9時10分発の西脇営業所行きに乗車した。三木や小野を経由する便だが、御坂にも停まるので、現場へのアプローチとしては理想的だ。

朝の郊外方面なので、乗客は数えるほどだった。三宮を出ると、長い新神戸トンネルで六甲山系を一気に越え、箕谷(みのたに)ICから志染川沿いに下っていく。御坂バス停前に集合したのは、バスに乗ってきた今尾さん、浅倉さん、私と、自家用車で到着していた相澤夫妻の計5人だ。

サイフォンのありかは、すぐそばの山腹に黒い鉄管が横たわっているので、探すまでもない。斜面を降りた鉄管は地中に潜ってしまうが、跡を目で追うと、県道を越え、御坂神社の脇を通り、集落内の道に出る。そしてそのままサイフォン橋に接続する。橋は本来、車一台優に通れる幅があるのだが、上流側はチェーン柵を張って通行できなくしている。「明治の橋が老朽化したので、戦後(1953(昭和28)年)、下流側に新しい橋が造られ、水路もこちらを通っているそうです」と私。

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御坂サイフォン橋の路面。この下に管路が通っている
(左)北側から写す。上流側は通行不可になっている (右)南側から写す

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御坂サイフォン周辺の地形図(等高線は10m間隔)

橋のたもとから右に分かれる小道をたどると、川原に降りることができる。流れに架かる沈下橋の上に立って、眼鏡橋の通称をもつ軽やかな2連アーチを眺めた。ただ、前面に来るのは鉄筋コンクリート製の昭和の橋なので、隠れている明治橋が見える位置まで、川原の草藪を漕いでいった。

明治のサイフォン橋は、アーチ部も橋台も石造りだ(冒頭写真)。表面にモルタルを吹き付けて補強した跡があるが、下部ほどその剥離が目立つのは、大水のときに受けた被害だろうか。昭和橋は、明治橋のプロポーションを踏襲している。開腹と充腹というデザイン上の違いはあるものの、並んでもあまり違和感がない。下から仰ぐと、まるでお爺さんに若者が寄り添い、支えている構図だ。

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(左)並ぶアーチを川原から見上げる。左が明治橋 (右)昭和橋の側面
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斜面に横たわるサイフォンの管路 (左)橋の南側から写す (右)北斜面に接近

橋を後にサイフォンの南側まで行ってみたが、管路が再び地表に出たところで通行止めの柵がしてあった。それで逆の北側に回る。急坂の小道を上り、老人ホームの手前で折れて、疏水べりに出た。幅2~3mの水路にまだほとんど水は来ていない。この上流には石積みのポータルをもつ隧道があるはずだが、周囲の草丈が高すぎて、踏み込むのは躊躇された。

一方、下流側は水路に蓋がされ、その上が通路になっている。おりしも土地改良区の人が水路のゲートの調整に来ていたので、一言お断りしたうえで、その道を先へ進んだ。地形図では庭園路の記号で書かれている林の中の道は、枝葉が積もっているものの歩きやすい。少し行くと、急に視界が開けて、サイフォンの吞口にある枡が現れた。

そこは格好の展望台で、谷を降りていく管路とサイフォン橋を通る道、向かいの谷を上る管路が直列に並ぶさまが一望になる。下から見上げるのとは違う、スケールの大きな眺めだ。「サイフォン全体がわかる。ここはいいですね」。今日は曇りがちで日差しこそ少ないが、谷間はやや蒸し暑かった。それに比べて、山の上は心地よい風が通う。一行はしばらく風に吹かれながら、130年前の偉業を成し遂げた地元の人々の熱意に思いを馳せた。

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呑口(北側の山上)からの眺望
背景は三木総合防災公園内の施設、その後ろは芥子山

「さっきの神社の付近に三角点がありますね」と地形図を眺めていた今尾さんが言う。山を下りた後、神社の境内に狙いを定めて探してみた。案の定、社の奥の竹林の中に「基本測量」と記された杭があった。相澤さんが慣れた手つきで落ち葉の下を掘り返すうち、目印となる自然石とその中心に測量標の頭が現れた。「三角点にしては見通しの悪い場所ですね」「設置したときは竹林もなく、開けていたんでしょう」。

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(左)御坂神社正面 (右)三角点の探索

相澤さんの車に同乗させてもらい、移動を開始した。東播用水土地改良区の事務所でもらった疏水の資料と地形図を見比べながら、私がナビをする。まず車を停めたのは、練部屋(ねりべや)分水所だ。淡河疏水は、後にできた山田川疏水(下注)と合わさり、いなみ野台地の比較的高い位置にあるこの分水所に達する。そしてここで5方向に分けられる。

*注:1915(大正4)年竣工。かつては坂本で山田川から取水していたが、1991(平成3)年以降、呑吐(どんど)ダムから導水している。呑吐ダムには、さらに北部の大川瀬ダムから水が送られてくる。

最初は方形に煉瓦を積み上げたものだったそうだが、後に六角形に改修され、1959(昭和34)年に現在の直径10mある円筒分水工に置き換えられた。ここでは、送られてきた水を円筒の中心部から湧出させ、円筒外周部に分配比に応じた仕切りを造って、越流させている。分水を可視化して公平性を担保しているわけで、賢い仕掛けだ。

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(左)練部屋分水所の円筒分水工 (右)分水工の構造図。現地の案内板を撮影

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練部屋分水所周辺の地形図

ここで昼食。水音を間近に聞きながら、こどもの頃のサイフォン遊びの思い出から、水車で搗いたそばが美味い理由や、水力で動くケーブルカーに乗った話まで、水にまつわる話題に花が咲いた。

東京へ帰る今尾さんをJR土山駅へ送って行った後、来た道を戻って、淡山疏水・東播用水博物館を訪ねた。淡山(たんざん)疏水とは、淡河川疏水と山田川疏水の総称だ。前庭に、サイフォンで使われた鉄管の断片が置いてあった。初代のそれは英国から輸入した軟鉄製で、後年の漏水対策として分厚いコンクリートが周囲に巻かれた状態で保存されている。今、現地で使われているのは1992年に交換された3代目だそうだ。

館内には水路のルートをランプで示す地図や、明治期の疏水施設の写真展示もある。案内人さんの、「水路管を清掃すると魚がいっぱい、ときには亀まで出てくることがあります。小さいときに入ったやつがパイプライン暮らしで育ってしまって」という話には笑った。

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博物館の前庭にあるサイフォン管の展示

この近くに、疏水の石造橋が残されている。掌中橋(てなかばし)といい、小川をまたぐ長さ7.6mの小さな水路橋だ。1914(大正3)年竣工と時代が下るが、堅牢そうな花崗岩のアーチと側面の煉瓦張りで、見栄えがする。すでに水路の用はなしていないが、元の場所に手を加えることなく残されており、疏水関連の貴重な遺産だ(下注)。相澤夫人に臨時のモデルをお願いして、写真を撮った。

*注 西方にある、より規模の大きな平木橋(長さ16.2m)は、道路工事に支障したため、移築保存された。

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掌中橋。欄干には橋の名とともに請負人、石工の名が刻まれる

水路トンネルのポータルを見ておきたかったので、相澤さんにまた車を走らせてもらった。目星をつけたのは、雌岡山(めっこさん)の西麓、古神(こがみ)地内の田んぼの中にある幹線水路の隧道だ。ところが、法面をすっかり草むらが覆っていて近づけない。やむをえず道路から遠望したのが下の写真だ。几帳面な石積のポータルの下に、煉瓦を巻いた楕円形の吐口が見える。「流量が少なくても泥などが溜まりにくいように、底を丸めてあるんでしょう」と浅倉さん。

御坂で会った土地改良区の人が、来週、再来週には田植えが始まる、と言っていたのを思い出した。もう6月だ。あの画期的なサイフォンで谷を渡って、この水路にたっぷりと水が送られてくる日も近い。

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(左)雌岡山 (右)その西麓にある隧道吐口

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、和歌山(昭和59年編集)、姫路(昭和59年編集)、徳島(昭和53年編集)、および地理院地図を使用したものである。

淡河疏水、山田川疏水の概略ルートは、農林水産省近畿農政局東播用水二期農業水利事業所 製作の「いなみ野台地を潤す水の路 ”淡河川山田川疏水”」所載の図面を参考にした。

御坂サイフォンの写真は別途、晴天時に撮影したものを使用している。

■参考サイト
いなみ野ため池ミュージアム http://www.inamino-tameike-museum.com/
 トップページ > ため池資料館 >「淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"」に詳しい資料がある。

農林水産省「御坂サイフォンを設計したパーマー」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/hyogo_02/

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2018年5月10日 (木)

コンターサークル地図の旅-富士山麓の湧水群

レトロな雰囲気を漂わせた岳南(がくなん)電車吉原駅の窓口で、全線1日フリー乗車券を買った。往復すれば元が取れてしまう700円のお得な切符だ。岳南電車は、ここから岳南江尾まで富士山麓の工場地帯を縫っていく9.2kmのミニ路線で、もと京王のステンレス車両が活躍している。終点まで乗り通してから、本日の集合場所、本吉原(ほんよしわら)駅へ戻った。

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岳南電車
(左)富士山を正面に見る区間(吉原~ジヤトコ前間) (右)終点の岳南江尾駅

2018年4月29日、コンターサークルSの旅2日目は、富士山南麓の湧水群を訪ね歩くことになっている。というと、有名な三島近郊の柿田川湧水や富士宮の浅間大社をつい思い浮かべてしまうのだが、今回はそれとは違って、富士市内にある湧水群だ。メンバーは誰も行ったことがないので、事前にネット情報を収集してある。

本吉原の駅前に集まったのは、真尾さん、今尾さん、中西さん、木下さん親子、大出さんと私の、大6小1、計7人、昨日にもまして賑やかな道中になるだろう。巡ろうと思う湧水群は、大別して今泉、原田、吉永と3か所ある(下の地形図参照)。まずは、最も西側の「今泉ガマ(下注)」と呼ばれる湧水群へ歩を進めた。

*注 ガマはここでは湧水地帯の意味で使われ、河間の字を当てる。ちなみに沖縄のガマ(洞窟)も地下水が湧いていることが多いそうだ。

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地理院地図(1:25,000)に、歩いたルートと湧水群の位置を加筆
青の星印が湧水のおよその位置を示す

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今泉市街地の水路(田宿川)に映る
逆さ富士

町なかを進み、根方街道(県道22号三島富士線)の古い水門のある橋を渡ったところから、さっそくそれは始まった。曲がりくねる街路の脇に何の変哲もない水路が並行しているのだが、よく見ると、護岸の石垣やブロックの隙間からちょろちょろと水が漏れ出している。川底で泥がむくむくと舞い上がるのも、水が湧いているのに違いない。

左岸の随所に、焦げ茶色の低い崖が露出しているのが見える。ここは溶岩台地の末端部で、崖は裾野を流れ下ってきた溶岩が冷え固まったもの。その下から伏流水が湧き出しているのだ。一つ一つは大した量ではない。しかし、それが集まるとどうなるかは、水門の橋のあたりでほとんど淀んでいた水が、200mほど先で、もうたっぷりとした流れに変わっていることでも明らかだ。

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(左)ブロックの水抜きから漏れ出す湧水 (右)小さな湧水にも水神様を祀る

この水路は田宿(たじゅく)川といい、今泉ガマの水はすべてここに流れ込んでくる。主な水源には水神様が祀られていて、地元で大切にされているようだ。川面を覗き込みながら歩いていると、近所の方に声を掛けられた。用向きを説明したら、施錠してある湧水地に案内してくださるという。

そこは川と崖の間にある空き地で、かつては家が建っていたが、今は基礎が残るだけだ。草を分けて崖際まで行くと、こんこんと湧き出す泉があった。「けっこうな水量ですね」と驚くと、その方いわく「屋敷の庭で水車を回していたんですよ。いつもならもっと湧くんだが、今年は異常に少なくてね」。飲めますよと言われて、紙コップに注いでもらった。富士山の天然水は、癖がなく滑らかな飲み心地だった。「年中15度前後です。こどもの頃は、ここにスイカを放り込んであった。冷蔵庫みたいに冷えすぎないからいいんです」

「少し下へ行くとバイカモ(梅花藻)が自生してますから、見てください。きれいな水でないと育たないので、住民が集まって年に6回、川に入って清掃してるんです。5月には咲くんだが、去年はバン(鷭)が飛んで来てみんな食べてしまいましてね」「今はきれいですが、昔は悪水(あくすい)って呼んでました。製紙工場が排水を垂れ流してたので。今でも川底を10cmぐらい掘ると、その時のパルプのかすが溜まってるんですよ」

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屋敷跡の湧水を見せてもらう

時間を割いて話をしてくださったこの方に丁重に礼を言って、再び歩き始めた。今泉で特に湧水量の多いのは、法雲寺という寺の周辺なのだが、そこへ到達する前からすでに豊かな流れとなり、川面にバイカモが広がってゆらゆらと揺れている。住宅や工場の密集地を澄み切った清流が貫くというのは、ちょっと不思議な風景だ。橋の上から眺めながら、この環境を維持するのは並大抵の努力ではないだろうと思った。

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(左)住宅密集地を、バイカモが揺れる清流が貫く
(右)湧水が集まりいつしか豊かな流れに

田宿川を後にして、私たちは原田地区のほうへ足を向けた。すでに正午を回っているので、途中、原田公園で昼食をとる。単なる休憩目的で行ったのだが、そこは思いがけない富士山のビュースポットだった。東に張り出した高台(溶岩台地)の上にあり、しかも北側を松原川の浅い谷が走るので、パースペクティブが強調されるらしい。

「この辺はほんと富士見町ですね」「富士見町って名づけ始めたら、そのうち富士見町だらけになりそう」。今尾さんが笑って「富士見町は富士山の近くにあまりないんですよ。見えて当たり前なので」。

今日も抜けるような青空で、降り注ぐ陽光がまぶしい。遊びに興じる子供の歓声がこだまするなか、クスノキの木陰のベンチに腰を下ろす。キリ君の姿が見えないと思ったら、いつのまにか回転ジャンクルジムのところで、地元の人の輪に溶け込んでいた。

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原田公園から望む富士

原田の湧水群巡りは、五社神社の前の神戸橋からスタートする。橋のたもと、滝川左岸の石垣の下に湧き口があるのだ。水量は、裾野を下りてくる本流に負けないくらい多い。滝川はその先で溶岩の間を早瀬となって流れ下るので、溶岩台地のかなり高い位置で出ていることがわかる。

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原田地区
(左)神戸橋のたもとの湧水(左側からの流れ) (右)溶岩の間を流れ落ちる早瀬

坂を下ると、住宅地の間に原田湧水池公園という回遊式の小さな庭園があった。ここでも澄んだ小川が勢いよく流れている。案内板によれば、この界隈にはかつて水車を利用した搗屋が数軒あり、搗屋町と呼ばれていたそうだ。水車小屋が園内に再現されているものの、水車は回っていなかった。公園から直接水源にたどり着けないのも、惜しい気がする。

滝川沿いの遊歩道を進む。左手は溶岩流の斜面で、深い森に覆われているが、右手は平地で、殺風景な製紙工場の建物が建ち並ぶ。鎧が淵(よろいがぶち)親水公園が見えてきた。護岸が階段状にされ、河原に降りられるので、子供たちが川に入り、脛まで水に浸かって遊んでいる。背後の森は永明寺(ようめいじ)という寺の境内で、青もみじの間から落ちる滝の音が、話し声をかき消さんばかりに響き渡る。

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鎧が淵親水公園 (左)川原に降りる石段 (右)永明寺境内から落ちる滝

寺の東側に回ると、滝不動という名の、これも湧水にまつわる祠があった。小さな不動尊像が、大木の根元から流れ落ちる滝に打たれている。この水をかけると疣(いぼ)が取れるとされ、いぼとり不動尊の名があるという。「疣はウイルス感染症ですから、皮膚を清潔に保つといいんです」と、真尾さんが知見を加える。水源はすぐ上手にあり、そこから二手に分かれて一方は寺の境内へ、一方は滝不動へ落ちているらしい。

この辺りはどこにいても水音が聞こえ、潤いのある土地という感を強くする。さっき訪れた今泉の場合、水は台地の下から湧くので、水量がある割には静かだった。それに対して原田では、台地の比較的上面で湧き出している。地上に出た水は、高低差のある斜面を流れ落ちることになり、自然と音が立つのだ。

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滝不動 (左)滝に打たれる不動尊像 (右)水源側から境内を見下ろす

札幌に戻る真尾さんを見送った後、かがみ石公園を経て、三つ目の湧水地帯、吉永(比奈)地区へ歩を進めた。玉泉寺の山下にも湧水があるのだが、時間の関係で省略して、医王寺へ向かう。門前の参道を囲むように水をたたえる大きな池が、泉の郷湧水公園という名で整備されている。

親子連れが何組も来ていた。花菖蒲が縁取る池には、まるまると肥えた鯉がたくさん泳いでいて、子供たちは餌やりに夢中だ。池は浅いのだが、近くで湧いた水が流れ込むので澄みきっている。公園化されたところもいくつか通ってきたが、明るく落ち着いた水辺があるという点でここがベストだろう。「溶岩台地の谷間で、いかにも水が湧いてきそうな場所です」「お寺を囲む森もいい雰囲気ですね」。

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泉の郷湧水公園 (左)親子連れが何組も (右)餌を求める肥えた鯉
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公園と、湧水をはぐくむ背後の森

湧水巡りを終えた私たちは、電車で帰るべく最寄りの岳南富士岡駅へ向かった。さすが日本一の山というべきか、当地の湧水も思った以上の規模だ。観光バスはまず来ないから静かだし、数あるスポットを追っていけば一日楽しめる。小学生のキリ君も、泉守のおじさんにもらった竹の杖をこんこん鳴らしながら、元気に歩き通した。お母さんが予言していたように、帰りの車の中ではよく眠れただろうね。

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」を使用したものである。

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2018年5月 4日 (金)

コンターサークル地図の旅-丹那断層

東海道本線函南(かんなみ)駅の瀟洒な駅舎を出ると、真っ青な空から降り注ぐ強い日差しに思わずたじろいだ。今年は4月を待たずに桜が見ごろになり、今や初夏どころか、真夏も間近と思わせるような陽気が続いている。大型連休初日となる2018年4月28日、コンターサークルS 春の旅本州編の初回はここ函南駅に集合して、伊豆半島の付け根を南北に走る丹那(たんな)断層の活動跡を見に行く予定だ。

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東海道本線函南駅

参加したのは真尾さん、今尾さん、中西さん、木下さん親子と私の、大5小1、計6人。2台のタクシーで、まず田代にある火雷(からい)神社へ行ってもらった。1930(昭和5)年に発生した北伊豆地震のときに、断層が境内を横断したという場所だ。

タクシーは、平井集落から熱海街道旧道(県道11号熱海函南線)で、丹那山地の前山にあたる尾根筋をぐいぐい上っていく。「乗せたお客さんに丹那断層へ行ってくれと言われることはあるが、たいてい断層公園のことで、火雷神社というのは珍しいね」と運転手さん。「神社からその公園まで歩くつもりなんです。そのほうが下り坂なので」と返すと、妙に感心されてしまった。

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1:25,000地形図に、歩いたルートと丹那断層の位置を加筆

地形図では、丹那山地と呼ばれる脊梁山脈の西斜面に、小さな凹地が南北に行儀よく並んでいる。いずれも断層によって形成された構造谷(断層線谷)が、火山灰や砂礫の堆積によって平底化したものだ。かつては水をたたえていたが、さらなる堆積と排水で湿地に変化し、人がこれを農地に改良した。一番北の凹地は集落の名をとって田代盆地と呼ばれ、その西の山際に火雷神社がある。

20分ほどで目的地に到着した。集落から延びる道の傍らに、小さなお社がひっそりと鎮座している。枝を広げて道の上に濃い影を作るタブノキの巨木が目を引く。石段十数段で上れるささやかな参道の隣に、断層の活動跡が保存されていた。

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火雷神社
(左)現在使われている鳥居と石段。地震後に設置されたもの
(右)ジオパーク案内板を参考に

前面にあるのが、北伊豆地震で崩れ落ちた神社のかつての鳥居だ。貫(ぬき)と呼ばれる横材の断片を付けた石柱が1本、モニュメントのように突っ立っている。対になるべき柱は、上部をへし折られた姿で敷地の端にぽつんとある。あとの部材は、すっかり苔むした状態で地面に散らばっていた。

奥に目をやると、鳥居から続いていた昔の石段がほぼ無傷で残されている。しかし、傍らに立つジオパークの案内板によれば、鳥居との間で1.4mの食い違いが生じているという。確かに石段の正面に立つと、本来、左側にあるべき鳥居の柱が石段に重なって見える。造られたときは鳥居と石段の中心線が揃っていたはずなので、向こうの地面が相対的に左へ動いたことがわかる。実際には断層を境にして、石段側が南(向かって左)へ70cm、鳥居側が北(右)へ70cmずれたのだそうだ。

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北伊豆地震でずれた鳥居と石段
(左)正面から写す。右側の石段が地震前からあるもの、左側の石段は地震後の設置 
(右)背面から写す。鳥居の部材が地面に散らばっている
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地震直後の状況
(左)火雷神社のずれた鳥居と石段。今もこのまま保存されている
(右)下山道の食い違い
伊豆半島ジオパークの火雷神社解説資料 http://izugeopark.org/geosites/karaijinja/ より

道路や水路の食い違いが横ずれの跡を示す例はほかにもあるが、近接した鳥居と石段という素人目にも明瞭な「基準点」をもつのは奇跡的だ。一同感心し過ぎたせいか、危うく社殿にお参りするのを忘れるところだった。

その後、150m南にある「下山道の食い違い」を見た。案内板には、約2.4mもの食い違いが生じ、現在も名残が認められるとあるが、道が舗装され周囲に家も建っているので、よくわからなかった。道のアップダウンから、横ずれより縦ずれではないか、と思ったくらいだ。

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(左)下山道の食い違いの現状。横ずれの跡はわからなかった
(右)鯉のぼりが泳ぐ田代集落の中心部

田代集落を通り抜けて、南へ足を向けた。道端に春の花がつつましげに咲いていて、木下さんに花の名を教わりながら行く。キリ君は、背負ったリュックからお菓子の袋を取り出すたびに、大人たちに一つずつ中身を配ってくれる。

熱海街道旧道に合した後、道は下り坂になった。熱函(ねっかん)道路の開通以後、交通量が激減したとはいえ、途中の軽井沢(かるいさわ)集落では、主要街道だった頃の名残を見ることができる。

バス停(下注)の前に、四方を自然石で固めた343.0mの一等水準点があった。一目見て真尾さんが、「この標石は新しいですね」と指摘する。昔のものなら花崗岩の柱石だが、これは金属製のプレートが埋められている。それに旧版地形図(上図参照)によれば、水準点は泉竜寺という寺の上手にあったはずだ。寺からまっすぐ山を上っていた古い街道が現行地形図では消えているから、山手に墓苑が造成されたのをきっかけに移設されたのではないだろうか。

*注 路線バスはすでに廃止され、現在は、函南中学の通学バスのための停留所になっている。

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軽井沢バス停 (左)ポストの後ろに水準点 (右)自然石に護られた一等水準点

水準点のすぐ先で、今尾さんが道端に立つ古い木の電柱を見つけた。「東京電力 堂庭独立電話線二四四」と記されたプレートの底部に「大正7年1月」の文字が読みとれる。1918年だから、まさに100年前の電柱だ。「戦前なのに左から右へ書いてますね」「理工系は英数字を混ぜるので、当時でも左から書いたんです」。三島市に隣接する清水町の役場の所在地が堂庭(どうにわ)なので、熱海街道に沿ってそこまで延びていた電話線の電柱なのかもしれない。

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100年前のプレートを付けた電柱は今も現役

軽井沢集落を過ぎ、熱海街道旧道から左へ折れると、道は丹那盆地へ向けて一気に下っていく。坂の途中の牧場では看板に乳牛が描かれていたが、胴の白黒の模様が静岡県の形になっているのが面白い。坂を下り切ったところに、この地方でよく見かける丹那牛乳ブランドの生産工場があった。あの牧場で搾った牛乳もここへ運ばれてくるようだ。私たちも隣のコンビニで直売の瓶入り牛乳を買って、乾いたのどを潤した。

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丹那盆地遠望
正面のピークが玄岳(くろたけ、標高798m)で、その右の鞍部は断層によるもの
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(左)乳牛のイラストのまだら模様に注目 (右)直売所を兼ねたコンビニでのどを潤す

酪農王国オラッチェで昼食休憩をとってから、再び歩き出した。丹那盆地は、東西1km、南北1.5kmほどの広さがある。多賀火山という古火山の麓で、およそ円い形をしているので、陥没カルデラを想像させるが、そうではなく、これも断層活動による構造盆地だそうだ。その中央を、丹那断層が南北に横断している。

丹那断層公園は、盆地の南東隅の乙越(おっこし)という集落の中にあった。整備された公園で、断層が動いた痕跡が保存され、北伊豆地震発生当時の写真や地質構造図など、資料パネルも多数設置されている。芝生の上の石組みは小さな水路の跡だ。地盤の横ずれによって、クランク状に曲がった状態で残る。その北側では断層が走る地面を掘り下げてあり、地層の断面を生で観察できた。

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丹那断層公園。赤い標識が断層の位置を示す
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(左)水路跡が断層でクランク状に (右)地層の断面が観察できる施設

「丹那断層と北伊豆地震」というタイトルのパネルが、両者の関係を要約している。「北伊豆地震の規模はマグニチュード7.3、震源は丹那盆地付近の地下0~5km、震央付近の震度は6という、直下型の大地震でした。この時動いた丹那断層は、箱根芦ノ湖から修善寺町まで続く、長さ30kmの丹那断層帯の代表的な断層です。(中略)丹那断層は、このように約700~1000年の周期で活動が繰り返されてきて、1000年に2mの割合で左横ずれを続け、約50万年前から現在までに左横ずれ1km、西側地塊が100m以上隆起したと推定されています」。(原文の数字と単位を英数字に変換)

断層によって、周辺の地形は大きく姿を変えた。隆起した西の地盤は、盆地を限る低い山稜になり、今、公園から西を望むと、その山稜の上に富士山が頭だけを出している。また、かつて東から西へ直線的に流れ下っていた川は、横ずれのために流路を改めた。隆起した山稜に旧流路の跡が残っていて、東側の流路とは約1km南へずれている。

川ばかりではない。「盆地の下を通っている丹那トンネルも、横ずれの影響を受けて微妙にS字に曲がってるんです」と今尾さん。東海道本線の丹那トンネルは北伊豆地震のとき、まだ掘削中だった。本坑はまだ断層の位置まで達していなかったが、水抜き坑が塞がれるなどの被害が出た。断層を境に東西が約2mずれたため、直線で計画されたルートは内部でわずかにS字カーブを描いているそうだ。

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盆地の西を限る低い山稜と富士山

火雷神社からここまで、私たちはおおむね断層線に沿って歩いてきたことになる。実距離は4km強に過ぎないが、沿道での思わぬ発見をも楽しみながら、充実した時を過ごすことができた。時刻は早や15時を回っている。まだ陽は高いものの、標高250mほどある盆地は、日陰に入ると思ったより風が涼しい。私たちは静かな公園のベンチに腰を下ろして、函南駅へ戻るために呼んだタクシーが来るのを待った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図熱海(平成20年更新)を使用したものである。

■参考サイト
THE 函南遺産 http://kannami13.sakura.ne.jp/
伊豆半島ジオパーク https://izugeopark.org/

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2017年11月12日 (日)

コンターサークル地図の旅-美馬牛の谷中分水と尾根を行く水路

2017年6月18日、朝7時台のライラック3号で札幌を発ち、旭川までやってきた。乗り継ぐ富良野線の列車は2番線に停まっている。車内に入るとほぼ座席が埋まるほどの盛況ぶりで、インバウンドの旅行者とおぼしきグループもちらほらいる中に、堀さんの姿を見つけた。

列車は旭川駅を出ると、初夏の光眩しい郊外を一直線に南下する。今朝は雲一つない快晴で、左の車窓から、遠く連なる北海道の脊梁山地がすっきりと見通せる。「あのひときわ高いのが大雪山系ですよ」と、山々の名を堀さんに教えてもらいながら、約50分列車に揺られて目的地の美馬牛(びばうし、下注)に着いた。

*注 駅舎にあった説明板によれば、美馬牛という牧歌的な地名は、「カラスガイの多いところ」という意味のアイヌ語「ピパウシ」から来ているそうだ。カラスガイは湖沼に棲む大型の二枚貝で、本州ではカワシンジュガイと呼ぶとのこと。

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美馬牛南東の丘にて

美馬牛は富良野線のサミットの駅で、美瑛(びえい)町と上富良野(かみふらの)町の境界付近に位置する。美瑛の丘と呼ばれ、道央の人気観光地として必ず名前の挙がるエリアだから、私たちのほかにも、旅支度をした若者たちが何組か、同じホームに降り立った。赤屋根の小さな無人駅舎に集まったのは、堀さん、真尾さん夫妻、ミドリさん、河村さん、草間さん、私の7人。今日の行程を確認し合った後、さっそく2台の車に分乗して出発した。

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美馬牛駅に集合

旭川盆地の周縁部に当たるこの一帯は、十勝岳連峰からもたらされた火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が浸食されて、なだらかな尾根と谷が交互に並ぶ独特の地形が広がっている。河川は基本的に北西へ向かうのだが、断層活動で富良野盆地が沈降した影響で、一部が鞍替えして南の富良野川へ流れ込むようになった。そのため、谷中分水(こくちゅうぶんすい)や、谷筋が途中でUターンするといった珍しい地形が生まれている。谷の途中で川の流れる方向が逆になる谷中分水は、地形図に明確に示されているものでも付近に2か所あり、まずはそれを見に行くつもりだ。

堀さんはすでに1970年代に、この地を訪れている。『地図の風景 北海道編 I 道南・道央』(そしえて、1979年)の134ページ以下にその記述があるが、「あのときは近いほうの分水界を確かめましたが、もう一つのほうは見なかったように思うんです」。それがこの旅を企画した動機だそうだ。

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美瑛・上富良野周辺の1:200,000地勢図
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
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美馬牛周辺の1:25,000地形図に加筆

駅前から北西へ延びる道を、国道237号線を越えて少し進むと、早くも一つ目の谷中分水に到達する。地形図(上図右上の円内)では、道に沿って流れる小川がここで約500mの間、途切れている。流路を図上で追うと、北ではルベシベ三線川となって美瑛川へ注ぎ、南は江幌完別川で他の川と合流して富良野川となる。つまり、川が描かれていないこの間に、流れる方向を変える傾斜転換点があるはずだ。

クルマを降りて周囲を観察してみるが、メンバーから「どこが分水なんですか」という質問が飛んだ。以前訪れた愛知県巴川の谷中分水は稲田に囲まれていたので、灌漑用水路の流水方向が途中で反対になるのが明確だった(下注)。それに比べてこのような畑作地帯では排水溝も見当たらず、分水界を断定する方法がない。

*注 巴川の谷中分水については、本ブログ「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」参照。

谷間の先に目を遣ると、両側ともわずかに下っているから、このあたりが鞍部であることは疑いない。谷を横切る農道(幅員3.0m未満の道路の記号)に沿って町界が走っているのも傍証になる。尾根を行政界に利用するのはよくあることだからだ。しかし、谷を貫く道路には町界標が立っておらず、驚いたことに、道路脇に立ち並ぶスノーポールは、上富良野町域に入ってもなお美瑛町と書かれていたのだ。

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一つ目の谷中分水、東~南方向を望む。画面中央を横切る道が分水界か?

もやもや感が抜けきらないまま、二つ目の谷中分水(上図左上の円内)へ向かった。美馬牛から丘を越えてきた道道70号芦別美瑛線が、谷に沿う二車線道と交差する地点で車を停める。こちらは周りの丘が高く、谷は北側で明らかに下っていて、より鞍部らしい地形だ。道路脇に溝が切ってあったが、水は流れていなかった。ミドリさんが、地形図に水準点が書かれていると言って、俄然張り切る。いっしょに交差点近くの草むらを探してみたが、怪しげなポールが立っているものの標石は見つからない。それどころか道路脇の家の人が出てきて、「ここは私有地ですが」と咎められてしまった。

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二つ目の谷中分水、西方向を望む。画面中央の2車線道路が分水界

次は、Uターンする谷筋だ。「日本の地形図では珍しく、開拓川には北向きに、トラシエホロカンベツ川には南向きに、流れの向きを示す矢印がついている。」と、同書で堀さんが言及した場所で、この分水界のすぐ南にある。286m標高点の三叉路を右(西)へ折れて、小橋を2本渡った。後のほうが、開拓川に架かる第2海老名橋だ。ここまで北向きに調子よく下ってきた開拓川は、急に向きを変えて、南へ流れるトラシエホロカンベツ川に合流する。

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開拓川Uターン地点 (左)第2海老名橋 (右)川は左奥からカーブしながら橋の下へ

トラシエホロカンベツ川と東隣の江幌完別川には、こうした転向支流がいくつもあり、本流がかつて北へ流れていた形跡を残している。一方、上富良野市街の西を流れるエバナマエホロカンベツ川は、上流部に同じような谷中分水地形と転向支流を擁しているのに、本流が北向き、支流が南向きと、前2者とは逆の関係になっているのが面白い。

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「まるごとザンギ」おにぎり

橋の欄干を腰掛け代わりにして、昼食を広げた。先日、秋田の「ぼだっこ」でご当地もののおにぎりに味を占めた私は、旭川駅のコンビニで「まるごとザンギ」と書かれた海苔巻きを買ってきた。もちろん、ザンギが下味を付けた鶏の唐揚げであることを知らなかったのは、道外から来た私だけだったのだが。

*注 「ぼだっこ」については、「コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)」参照。

空腹を満たした後は、ミドリさんのリクエストで、急カーブする前の開拓川を源流へ向かって遡る。しかし、2車線道路はしばらく行くと左(東)へそれてしまい、直進側は細い未舗装道しかなかった。「上流まで道があることはありますが、どっちみち川から逸れて森の中へ入ってしまいます」と、地形図でナビをしていた私。

右手に、丘を一直線に上っていく道が見えたので、「それじゃ、この道の上から森を眺めることでよしとしましょうか」と真尾さんが提案した。比高50mはある急傾斜の丘を、クルマで這うように上っていく。周辺より少し高度があるので、私も「後ろを振り向いたら、きっといい景色ですよ」と予言する。

道が行き止る柵のところで車を降りると、果たして期待通りだった。一直線に遠ざかる野道を軸にして、緑系とベージュ系の色のパッチワークで覆われた丘が、緩やかにうねりながら見渡す限り広がっている。その表面を撫でるように、ゆっくりと雲の影が渡っていくのが見える。パノラマの背後では、十勝岳連峰が山肌にまだ雪渓をとどめたまま、縹色の屏風となって空を限っている。

一同思わず「すごーい」と一言発した後、しばらく言葉が続かない。真尾さんが沈黙を破って「十勝岳がこんなにきれいに見えたのは記憶にないですよ」。それにこの春、道内の旅の日は概して天気がすぐれず、今日は久しぶりの好天だったそうだ。絶景の前で記念写真を撮ったあと、少々お疲れの堀さんを美瑛駅まで送っていった。

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美瑛の丘と十勝岳連峰のパノラマ
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展望地で記念撮影

駅への最短ルートは、西11線農免農道だ。横たわる丘の列を次々と横断していくので、極端なアップダウンが連続する。「ここはジェットコースターの道と呼ばれてるんです」と真尾さん。途中、「かみふらの八景」という標柱が建つ空地に数台の車が停まり、十勝岳の眺望を楽しむ人垣ができていた。この景色も悪くはないが、さっきの無名の展望台のほうが、視点が高い分、ダイナミックな眺めなのは間違いない。

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ジェットコースターの道

ユニークな地形景観を楽しんだ後は、周辺の「青い川」と「不思議な用水」を訪ねることにした。美瑛駅から、美瑛川の谷沿いに走る道道966号十勝岳温泉美瑛線を、白金温泉(しろがねおんせん)方面へ進む。

白金温泉の3kmほど手前に、「青い池」と呼ばれるスポットがある。池といっても砂防用のブロック堰堤に美瑛川の水が滞留しただけだが、青みを帯びた水と立ち枯れした林の組合せが幻想的だと評判が高く、今では美瑛の定番観光地の一つになっている。しかし人気が出過ぎて、駐車場の空き待ちをする車で道路が渋滞するほどだというので、私たちは敬遠し、代わりに、池に青い水を供給している川を見に行った(下注)。

*注 後日(同年8月27日)、真尾さんとミドリさんは青い池の訪問を敢行している。

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白金温泉周辺の1:25,000地形図に青い池その他を加筆

白金温泉の入口に架かるブルーリバー橋の前で車を停める。美瑛川の渓谷(白金小函)を高い位置でまたぐトラス橋は、川と滝と山並みをセットで眺める格好の展望台で、多くの人が歩いていた(下注)。上流側に目を遣ると、右側の断崖に幾筋もの滝が簾のように掛かっている。白ひげの滝だ。約30万年前に堆積した土石流の上に新しい溶岩が被さり、その二つの地層の間を通ってきた水がここで湧き出すのだという。

*注 ブルーリバー橋の本来の用途は、十勝岳の噴火に備えて、白金温泉から対岸に設置されたシェルターへ通じる避難経路。

滝もみごとだが、水の色は、それより上手ですでに美しいターコイズブルーに染まっている。後で調べたところでは、橋からも見える硫黄沢川と美瑛川の合流点あたりから、その現象は強まるらしい。十勝岳の斜面を水源とするこれらの沢の水はアルミニウムを含んでいて、美瑛川の水と混ざるとコロイド状の粒子が生成される。それが波長の短い青色光を散乱させて目に届くのだそうだ。

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ブルーリバー橋から眺める白ひげの滝と青い川(美瑛川)
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(左)ブルーリバー橋 (右)左が美瑛富士、右が美瑛岳

十勝岳は今も噴煙を上げていて、沢の水には硫黄分も多く含まれる。そのため、美瑛の丘を潤す用水は沢より少し上流で取水されている。道内各地の水路を追いかけている河村さんは取水口を見たかったのだが、地形図を読む限り、谷底にあって近づけそうにない。それで下流に目を転じた。水路の水は美瑛川を横断した後、道道に並行する林道に沿って下り、いったん、しろがねダムの貯水池(四季彩湖)に溜まる。その後、一部がオヤウンナイ川を経由して美瑛川に戻り、下流で再び取水されて、別の水路に入っていく。

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(左)砂防ダムの流木捕捉工は、ラピュタのロボット兵を連想させる (右)この水が青い池をつくる

この水路は大規模な土地改良以前の古い用水で、地形図(下図)にも明瞭に描かれている。不思議な用水と言ったのは、水路が丘陵地の尾根を伝っているからだ。もちろん高台に水を万遍なく行き渡らせるためだが、地図では川の記号が使われるので、本来、谷底に描かれるはずの川が周囲より高いところにあるという不思議なことになるのだ。

目を付けたのは、美瑛町御牧(みまき)で、道道824号美沢美馬牛線から右へ分かれる道が、丘のサミットに達する地点だ。水路が鞍部を横断しようとして、この道と交差している。車を停めて雑木林の中を探すと、すぐに水路が見つかった。まだ根元に近い区間なので、けっこうな水量を保って勢いよく流れている。地形図を見ていたミドリさんが、「この水路は、熊見川というそうです」と報告する(下注)。「自然の川みたいだな」「開拓時代はこのあたりにも熊が姿を見せたんでしょうね」。不思議な川に値する新しい発見だ。

*注 現行の地理院地図では、この注記は消されている。

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尾根筋を流れる用水路(熊見川)

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熊見川の注記がある用水路(1:25,000地形図置杵牛(平成13年修正測量)に加筆)

これを最後の探索にする予定だったが、美馬牛駅の方へ戻る途中で誰かが、谷を隔てた緑の丘の上に水路橋が延びているのを見つけた。背丈は低いものの、傾きかけた陽の光を浴びて、まるでローマの水道橋か何かのように堂々と見える。「行ってみたいですね」と河村さん。「行ってみましょう」と衆議一決して、たもとまで道が描かれている東側の谷へ回った。トラクターが動いている畑の中の道を突っ切る前に、午前中の教訓で、真尾夫人がトラクターを操っていた人に声をかける。許可をもらって車を入れ、水路の手前につけた。

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向かいの丘の上に水路橋を発見
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反対側からの水路橋の眺め

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水路橋周辺(1:25,000地形図に加筆)

水路は熊見川の続きだ。たどってきた尾根筋がここで細まり、少し痩せてもいる。それで、用地幅が必要な土盛りを避けて、高架橋を渡したようだ。両側が畑になった尾根の上だから、眺めがいいのは当然だが、吹きつける風の強さも半端ではない。風圧にたじろぎながら水路の来た方を振り返ると、緑とベージュのパッチワークのかなたに、十勝岳連峰や幌内山地が西日を受けて、輪郭を際立たせている。美瑛の旅を締めくくるのにふさわしい景色だった。

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丘の上に水路橋を追う
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振り返れば十勝岳連峰の眺望

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図美馬牛(平成29年6月調製)、白金温泉(平成26年4月調製)、置杵牛(平成13年修正測量)、20万分の1地勢図旭川(昭和54年要部修正)を使用したものである。

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