2017年9月10日 (日)

スロベニア 消える湖、消える川

スロベニアの南西部、クラス Kras(ドイツ語でカルスト Karst)と呼ばれる地域には、地形用語の本場にふさわしい石灰岩台地が横たわる。地中には長い歳月をかけて造られた洞穴が網目のように張り巡らされていて、世界遺産のシュコツィアン Škocjan や、トロッコ列車が走るポストイナ Postojna(下注)などの大規模鍾乳洞は、観光地としても有名だ。

*注 ポストイナの洞内軌道については、本ブログ「ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車」参照。

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ポストイナ鍾乳洞前のピウカ川
image from www.slovenia.info

こうした地下洞をうがってきたのが、台地に降った雨水を流す河川であることはいうまでもない。たとえばポストイナ盆地 Postojnska kotlina / Postojna Basin の水はピウカ川 Pivka に集まる(下図参照)。地形用語でポリエ Polje と呼ばれるこの溶蝕盆地は、砂岩と頁岩が互層になったフリッシュ Flysch で床張りされている。フリッシュは不透水性のため、川は盆地の平たい地表面を蛇行しながら流れる。

しかしその周囲は、石灰岩やドロマイトといった水溶性の岩石で覆われた山地だ(下注1)。そこで川は山際まで来ると、岩の隙間に浸み込み、徐々に溶かして地中に通路を拡げていく。ポストイナ鍾乳洞 Postojnska jama / Postojna Cave(下図では青の円内)もそのようにして生成された(下注2)。

*注1 石灰岩の主成分は炭酸カルシウムでそれ自体は水に溶けないが、二酸化炭素を含んだ水に触れることで水溶性の炭酸水素カルシウムに変化する。
*注2 なお、トロッコの線路が敷かれているのは水流の絶えた古い通路で、現在のピウカ川はそれより西側の通路を流れている。

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ポストイナ付近の1:50,000地形図
青の円内がピウカ川 Pivka の吸込み口であるポストイナ鍾乳洞
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ではこの後、川はどこへ行くのだろうか。ポストイナの町から街道を北へたどってみよう。ポストイナ門 Postojnska vrata / Postojna Gate と呼ばれるなだらかな峠を越えると、道はヘアピンカーブを繰り返しながら山を降りていく。坂下にあるのがプラニーナ Planina という小さな村だ。村の奥、高さ65mの断崖の直下に水の湧出口がある。ここで地中から出た川は、同じようなポリエの盆地、プラニーナ・ポリエ Planinsko polje / Planina Polje の中をゆったりと流れていく。

プラニーナ村の湧出口はプラニーナ鍾乳洞 Planinska jama / Planina Cave(下注)と呼ばれている。この洞穴が興味深いのは、500メートル奥で主要地下河川の合流が見られることだ。一つはポストイナから北流してきたピウカ川、もう一つは東から流れてくるラーク川 Rak River で、地下での合流としては、水量的にヨーロッパで最大級だという。

*注 かつては、湧出口近くにある古い小城にちなんで、小城鍾乳洞 Malograjska jama / Little Castle Cave とも呼ばれていた。

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プラニーナ鍾乳洞入口。ウニツァ川が勢いよく流れ出る
Photo by Doremo at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

そしてこのラーク川は、ピウカ川にもまして、何度も地下に消える川として知られている。地表に現れるたびに名前が変わることから、「7つの名を持つ川」の異名もある。

本流の水源は、スロベニアのカルストでは最も高い大スネジュニク山 Veliki Snežnik(標高1796m、下図右下)の麓に湧き出る泉だ。この山が属するディナル・アルプス Dinaric Alps は、バルカン半島を北西から南東に走っているが、その北側に、山脈に並行して大小のポリエの列が見られる。川はこのポリエ群を貫通しながら流れ下る。

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「7つの名を持つ川」リュブリャニツァ川の流路
ポリエ Polje(溶蝕盆地)で地表に現れては地下に潜るのを繰り返す
背景のレリーフは Geopedia.si より取得。(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

まず、クロアチア国境のバブノ・ポリエ Babno polje(標高750~770m)で、川はトルブホヴィツァ Trbuhovica の名を与えられる(下注)。地下を通って次のロジュ谷 Loška dolina / Lož Valley(標高約580m)に出ると、オブルフ川 Obrh と呼ばれる。また地下に浸み込み、ツェルクニツァ・ポリエ Cerkniško Polje / Cerknica Polje(標高約550m)に現れてからは、ストルジェン川 Stržen になる。

*注 この項は "Karst of Notranjska", Geodetski zavod Slovenije, 1996による。地形図には記載されていない。

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ツェルクニツァ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内がストルジェン川 Stržen の湧出し口、青の円内が吸込み口
「消える湖」ツェルクニツァ湖は湿原記号で描かれる。ポリエの周縁には他にも湧水(濃い青円の記号)が多数見られる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ストルジェン川の名は知らなくても、川の流域にある「消える湖」ツェルクニツァ湖 Cerkniško jezero / Lake Cerknica の名は耳にしたことがあるかもしれない。平均で26~28平方km、満水時には38平方kmと面積は同国最大で、ウィンドサーフィンなどさまざまなウォータースポーツの場を提供する湖だ。ところが、夏の渇水期には完全に干上がってしまい、湖底はたちまち草に覆われて牛たちの放牧地に変貌する。秋に激しい雨が降ると、わずか一日のうちに水が戻り、湖が再現される。

これが毎年繰り返されることから、ツェルクニツァ湖はヨーロッパ最大の間欠湖と言われる。湖面の変動が大きいため、地形図には水涯線が描かれず、Cerkniško jezero の名称と、蛇行する川の周囲に湿地の記号が広がるばかりだ。

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ツェルクニツァ湖の眺め
Photo by ModriDirkac at wikimedia. License: CC0 1.0

なぜこのような現象が起きるのだろうか。湖はポリエの南半分に位置する。そして、カルスト台地の地下にある洞穴の貯水池と、多数の開口部を通してつながっている。このいくつかは周囲の山の下にあって湖面より水位が高く、ほかのものは湖面より水位が低い。夏、流入量が少ないとき、水はより低水位の地下洞貯水池に排水されてしまい、湖には残らない。秋に雨が降ると、周囲のより高所にある貯水池が満水になり、地下通路を通じて湖へ水が回る。こうして湖は急速に水量を回復するのだ。

かつて村人たちは、湖を干拓して恒久的な農地に変えようとした。逆に土木技師は、貯水池に整備して産業開発に生かそうと考えた。しかし、カルストの地下構造との連動を完全に断ち切ることは不可能で、これまでいかなる制御の試みも成功したことがないという。

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秋、ツェルクニツァ湖に水が戻る
image from www.slovenia.info

川の追跡に戻ろう。ツェルクニツァ・ポリエの後、川は一度だけ地下から峡谷の底に顔を出す。名勝として知られ、同国で最も歴史ある風景公園のラーク・シュコツィアン Rakov Škocjan / Rak Škocjan だ。

*注 ディヴァーチャ Divača の近くにある世界遺産のシュコツィアン鍾乳洞 Škocjanske jame / Škocjan Caves とは別。シュコツィアンは聖カンティアヌスの縮約形で、これを守護聖人とする村(教会)の名として他にも例がある。

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ラーク・シュコツィアン付近の1:50,000地形図
ラーク川 Rak は青の円内でのみ地表に現れる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

峡谷は、鍾乳洞の天井の崩落によって生じたもので、長さは2.5km、切り立った断崖に囲まれる「出口のない」谷だ。中でも、42mの高さがある小天然橋 Mali naravni most / Little Natural Bridge、同じく37mの大天然橋 Veliki naravni most / Big Natural Bridge の、2か所の天然橋(下注)が見ものだ。特に後者では、上を地方道さえ通過している。この峡谷を通る間、川はラーク川 Rak と称し、再度地中に潜った後、先述のプラニーナ洞の中で合流してピウカ川になるのだ。

*注 天然橋(ナチュラルブリッジ)は、岩が川の上にアーチ状にまたがる自然の造形。

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ラーク・シュコツィアンの小天然橋。橋の上部は川から42mの高さ
image on the left by Zairon at wikimedia, License: CC BY-SA 4.0. image on the right from www.slovenia.info
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大天然橋は川のトンネル
Photo by Umberto Vesco at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

さて、これでプラニーナ・ポリエ(標高440~450m)まで戻ってきた。湧出口を出た川は、今度はウニツァ川 Unica(またはウーネツ川 Unec)と名前を変える。そして豊かになった水量を持て余すようにひどく蛇行しながら、ポリエの中を横断していく。北西端まで達すると、鋭角に曲がって東を向くが、地形図で涸れ川の記号が使われているように、いくらかの水は途中、山地の際に寄ったところで地中に吸い込まれてしまうようだ。

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プラニーナ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内が湧出し口=プラニーナ鍾乳洞、青の円内が吸込み口だが、
ウニツァ川 Unica はその手前から涸れ川記号で描かれている
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

出現と潜伏の繰り返しにも、いつか終わりが来る。リュブリャーナ盆地南東隅のヴルフニカ Vrhnika という町(標高290m)の周辺で、川はいくつもの湧水に分かれた形で、最終的に地表に現れる(下図)。

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ブルフニカ付近の1:50,000地形図
左の円内がモチルニク Močilnikとトヴィエ Retovje、右の円内がビストラ Bistra
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ヴルフニカの主要な湧出口は3か所ある。一つはモチルニク Močilnik で、高さ40mの石灰岩の崖、悪魔の断崖 Hudičeve skale / Devil’s Cliffs の直下だ。ギリシャ神話によれば、英雄イアソンとアルゴー号乗組員 Jason and the Argonauts は、金の羊毛皮を求めて川を遡行してきた。ところが、ここで地上の川が消失したため、行く手を阻まれてしまった。イアソンは怒り狂って拳で岩を叩いたので、その跡が今も残っているという。乗組員たちはやむなく船を分解し、部材を肩に担いでアドリア海まで運んだのだそうだ。

二つ目は、最も湧水量の多いレトヴィエ Retovje で、とりわけ大水門 Veliko okence と呼ばれる湧水は、水面がむくむくと盛り上がるほど勢いよく湧きあがり、迫力満点だ。三つ目は、ヴルフニカとボロウニツァ Borovnica の中間にあるビストラ Bistra で、修道院と古城の脇を泉から流れ出た小川が巡っている。

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(左)レトヴィエの湧出し口の一つ、大水門 (右)ビストラの湧出し口
image on the left  by Savinjc at Slovenian Wikipedia. License: CC BY-SA 3.0. image on the right by Mihael Grmek at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

これらの川はまもなく盆地の中央に集まり、7番目の名であるリュブリャニツァ川 Ljubljanica となって、首都リュブリャーナへ流れ下る。イアソンの時代は一面芦が生い茂る湿原だったはずだが、今は排水が進み、行く手に見渡す限りの農地が広がっている。

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農地化された湿原をリュブリャニツァ川は流れ下る
image from www.slovenia.info

(2006年3月18日付「スロベニア 何度も消える川」を全面改稿)

本稿は、Tourist map " Karst of Notranjska " Geodetski zavod Slovenije, 1995、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/
ヴルフニカ市観光案内 http://www.visitvrhnika.si/

★本ブログ内の関連記事
 ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

2017年6月11日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)

まだ雪のベールのかかる鳥海山の荘厳な姿に感嘆しながら、羽越本線で秋田へ移動してきた。コンターサークルS 春の旅も、きょう5月5日が最終日だ。用意した地形図は1:25,000「岩見三内(いわみさんない)」。雄物川の支流の一つで、秋田市東部を流れる岩見川の中流域を描いている。

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羽越本線の車窓から見た鳥海山

日本の1:25,000地形図は、全部で4,400面以上もある。それで、鉄道、主要道路、あるいは著名な山や湖などが図郭に入っていないと、見てもすぐに印象が薄れてしまう。率直なところ、「岩見三内」もそうした括りの図幅だった(下注)。ところが、お題に挙がったのを機にじっくり眺めてみると、興味深い題材がいくつも見つかる。他のメンバーも各々関心のあるテーマを持ち寄ったので、思いがけなく盛りだくさんの地図の旅になった。

*注 ただし、現在の「岩見三内」図幅は、図郭が拡大されたので、大張野駅前後の奥羽本線が顔を覗かせている。

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秋田市周辺の1:200,000地勢図(平成5年編集)に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

朝10時、秋田駅の東西連絡通路の一角に集まったのは、堀さん、真尾さん、丹羽さん、私の4人。駅前から2台の車で出発した。秋田市街を抜けて、県道28号秋田岩見船岡線を東へ。太平山の南斜面を水源とする太平川(たいへいがわ)に沿って、緩やかな谷を遡る。

まず、私のリクエストで、地主(じぬし)という集落で車を止めてもらった。ここに謎の地形があるからだ。現行地形図(下の左図)を見ると、地主の南を、太平川がまっすぐ西へ流れている。それと同時に、集落の西から北にかけて弧を描く土の崖と、一つ北の谷につながる鞍部(=風隙)も読みとれる。これは、かつて太平川が北へ蛇行していたことを示す証拠のようだ。それが、何らかのきっかけで西の谷へ流れ込むように変わったとすれば、西の谷による河川争奪があった、ということになる。

ところが、大正元年の旧版図(下の右図)を取寄せてみたら、驚いたことに、旧流路が実際に細々と残っているばかりか、太平川の本流には、長さ150mほどの隧道が描かれているではないか。石灰岩地形でもない限り、川が器用に地中を抜けていくとは考えにくい。どうやら自然の力による河川争奪ではなく、人間が水路を掘って流路を付け替える、房総半島で言う「川廻し」が行われたようだ。

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地主の「川廻し」
(左)平成18年更新図 (右)大正元年図、太平川の隧道と北行する旧流路が描かれる

しかし、謎はまだ残る。大正時代は隧道だったのに、なぜ今は青天井の谷になっているのか。地図の間違いでなければ、何か理由があるに違いない。

さっそく川岸の農道に出てみた。太平川は水制から先で早瀬となって、勢いよく正面の小渓谷へ落ちていく。雪解け水が混じる今は、思った以上に水量が豊かだ。一方、右手の水田の向こうでは、砥の粉色の地肌をところどころに覗かせた崖が緩い曲線を描く。もとは川の外縁、いわゆる攻撃斜面だったことをしのばせる。

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地主の「川廻し」 (左)太平川の堰 (右)隧道崩壊によって生じた小渓谷

60代とおぼしき男性が、近くの畑で作業をしていた。「あの川は昔、トンネルでしたか」と尋ねると、一瞬驚いた顔を見せながら頷いた。「確かに、子供のころはトンネルだった記憶がある。この地区は建設業をやっている人が多かったので、田を拡げるために自分たちで掘ったと聞いている。だが、山が脆いんで、崩れてしまったんだ」。

普段でもこの水量なら、大雨が降った後はきっと破壊的な水のパワーが生じるに違いない。柔らかい粘土層に掘られたトンネルは、早晩崩壊する運命にあったのだろう。謎解きをしてくれた男性に丁重に礼を言って、私たちは現場を後にした。

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旧流路は正面の土の崖沿いに右へ旋回していた。遠方に太平山を望む

地主のそれは、人の手による河川「争奪」だったが、次は、堀さんがめざしていた自然の争奪跡だ。野田集落の東、野田牧場へ上がる道で車を停めた。太平川は北から流れてきて、この付近で西へ向きを変えている。しかし、浅い谷が南へも続いている。つまり、ここでは野田集落を交点として、T字を寝かせた形で谷が広がっているのだ。そこで、昔は太平川が南流しており、後に河川争奪が生じて西へ流れるようになったという仮説が成り立つ。

典型的な争奪地形の場合、流路が変わると、水量が増した谷(野田のケースでは西の谷)では下刻が激しくなり、上流に向かって深い谷が形成されていく。ところが、野田の地形にはそうした展開が見られず、太平川は、ダイナミックな地形のドラマなど知らぬがごとく、終始ゆったりと谷を蛇行している。どうしてだろうか。

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野田の河川争奪
「風隙」~「繋沢」間が争奪前の谷筋

「地図の風景 東北編II 山形・秋田・青森」(そしえて、1981年、pp.115-117)で、籠瀬良明氏が成立過程を解説している。それによれば、その昔、太平川は南流していた(下図1)。しかし、野田の北東方からの崩壊、土石流、小扇状地といった土砂の押出しによって流れが遮られがちになり、一部が西の谷へ流れ込んだ(下図2)。この状況が続いて南側が閉ざされ、ついに全量が西へ流れるようになった(下図3)。つまり西の谷が力尽くで水流を奪ったのではなく、流路を塞がれた川が「自ら」西へ向きを変えた、というのだ。

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河川争奪の過程(解説は本文参照)
図1~3は「地図の風景 東北編II」p.117の図を参考にした

一段高い野田牧場へ上がれば、一帯を俯瞰できるのではないかと思ったが、斜面の植林が育ちすぎて視界がきかない。「南の谷頭がどうなっているか見たいんです」と堀さんが言うので、南の農道へ廻ることにした。谷頭(こくとう)は谷の最上流部のことで、そこでは水の力や風化作用によって、上流へ向けて谷が常に前進している。

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野田付近の180度パノラマ
右奥(北方向)に見える太平山から流れてきた太平川は、かつて左奥(南方向)へ流れていたが、河川争奪により現在は、正面の野田集落から奥(西方向)へ流れ去る

田んぼの先に、まだ冬の装いから目覚めていない雑木に囲まれて、深さが10m近くある窪地が姿を現した。これが谷頭だ。太平川に去られた南の谷(下注)では、下流の岩見川の基準面低下によって、谷頭の浸蝕力が強まっている。集水域がごく狭いのに、これだけの高低差を造る力があるとすると、将来、土砂の押出しとの闘いに打ち勝って、上流に谷を延ばしていき、最終的に太平川を奪い返すこともありうるのではないか(上図4)。そんな想像が脳裏をよぎった。

*注 無名の川だが、掲載の図では下流の地名を借りて「繋沢」としている。

上記「地図の風景」では、堀さんも共著者に名を連ねているが、「野田の河川争奪は籠瀬さんの担当だったので、私は来ていないんです。ようやく現地を見ることができてよかったです。」

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繋沢の谷頭
(左)旧流路(北方向)を望む、奥に太平山 (右)谷頭の上から南を望む
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谷頭を観察するメンバー

その南の谷に沿って県道を下りていくと、岩見川に三内川が合流するこの一帯の中心地、岩見三内だ。秋田駅西口からここまで、私たちが通ってきたルートでバス路線も維持されている。野崎の駐在所前の交差点にあるバス停は「貯木場前」。すでに新しい住宅が建ち始めているが、以前、道路の北側は、岩見川水系で産する木材を集積する岩見貯木場があった。貯木場には、奥羽本線の和田駅から森林鉄道(正式名「岩見林道」)が通じ、さらにここで三内支線が分岐して、北に広がる山林の中へ延びていた(下注、全体のルートは下図参照)。

*注 岩見林道(本線)29.4km、1923年開設、1967年廃止。三内支線24.9km、1921年開設、1967年廃止。大又支線13.4km、1933年開設、1967年廃止。その他延長線、分線がある。出典:林野庁「国有林森林鉄道路線データ」

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岩見三内の貯木場前バス停。正面奥の貯木場跡は払い下げられて宅地に

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秋田市東部の森林鉄道路線網、赤の矢印が岩見三内
1:200,000地勢図「秋田」(昭和35年編集)に加筆。原図は今尾恵介氏所蔵

私のもう一つのリクエストは、林鉄遺構の現状確認だった。三内支線は、貯木場から先で河岸段丘の崖際を走った後、上三内集落の北で三内川を渡っていた。その鉄橋は、平成18年更新図までは描かれているのに(下図参照)、2017年5月現在の地理院地図では消されている(下記サイト参照)。水害か何かで流失してしまったのだろうか。実態を自分の目で確かめたいと思った。

■参考サイト
上三内付近の1:25 000地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.728630/140.305000

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森林鉄道跡
1:25,000地形図(平成18年更新)に林鉄のルートを加筆
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1:25,000地形図(昭和13年修正測図)に描かれた林鉄のルート

私たちは一つ上流の小橋を渡って、廃線跡である農道からアプローチしたのだが、小橋の上から、遠くに朱色のガーダー橋が架かっているのが見えて、ホッとする。農道は、急曲線の築堤で鉄橋につながっていた。「トロッコは小回りが利くから、これぐらいのカーブは何ともないでしょう」「勾配はきつすぎるので、後で切り崩したのかもしれないですね」などと話しながら、軽便のレールを土留めに使った築堤を上る。

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上三内に残る三内支線の鉄橋

橋脚と橋桁(ガーダー)は、鉄道橋そのものだ。2連のガーダーの縦寸法が異なるのが気になるが、橋脚がそれに合わせて造られているので、もともと他からの転用品なのだろう。路面は一人分の幅しかないが、歩けるようにセメントを流し、簡易な欄干が取り付けてある。だが、橋の手前で、秋田市道路維持課のバリケードが通路を塞いでいた。通りかかった農作業帰りの女性に聞くと、「畑へ行くのに、車道は遠回りだからここを通ります。手すりが壊れて、通行止めになってますけど。直すのは来年になるらしいですよ。」

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縦寸法が異なるガーダー
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(左)鉄橋に向かう上流側の築堤 (右)築堤の土留めに古レールが使われていた

橋が地理院地図から消された理由は、それかもしれない。しかし、歩くには支障がなさそうなので、私たちも通らせてもらう。鉄橋の下を、緑味を帯びた水が川幅いっぱいに滔々と流れている。じっと見つめていると吸い込まれていきそうだ。対岸の築堤も切り崩されていたが、線路跡は明瞭で、集落から下りてくる小道と交差した後、緩いカーブを切りながら段丘崖の陰に消えていく。

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(左)鉄橋は対岸の農地へ行く歩道橋に (右)欄干の一部が破損
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三内川の上をそろりと渡る
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(左)築堤脇の神社。左奥に見えるバリケードの先が鉄橋
(右)反対側を望む。舗装道の右が廃線跡で、段丘崖の下へ続いている

築堤の脇に、八幡神社という小さな社があった。今日も天気に恵まれて、日なたはけっこう暑いのだが、見事な杉木立の下は、涼風が吹き通って心地よい。鳥居前の大きな石に腰を下ろして、昼食休憩にした。

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「ぼだっこ」おにぎり

朝、秋田駅のコンビニで見つけた「ぼだっこ」おにぎりを取り出す。中身を知らないまま買ったので、「これ何が入ってるんでしょうね」と皆も興味津々だ。私は漬物を想像していたのだが、かじってみたら、塩鮭の切り身が出てきた。後で調べると、ぼだっこの「ぼだ」は牡丹のことで、ベニザケの身の色から来ているそうだ。塩がよく効いているものの、梅干しや塩昆布と同じで、ご飯に添えればおいしく食べられた。「北海道で甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのを思い出しました」と私が言うので、真尾さんが丹羽さんにそのことを説明する(下注)。たとえコンビニであろうと、ご当地ものを探すのは楽しい。

*注 甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのは、夕張での話。「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

真尾さんは、アイヌ語地名の痕跡を探している。このすぐ上流に岩谷山(いわやさん)という、おにぎり形の山がある。地元では三内富士とも呼ばれているようだが、「モイワと同じように、神聖な山を意味する「イワ」と関係があるんではないでしょうか」と真尾さん。麓の砂子渕集落まで車を走らせた。実際、太平山との関わりで「お山かけ」(山岳信仰)の対象になっているためか、自然の植生が残されている。ヤマザクラや芽吹いたばかりの木々が、パステル調のグラデーションで山肌を彩り、ことのほか美しい。

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パステル調のグラデーションが美しい岩谷山

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岩谷山周辺の1:25,000地形図

その後、大又川流域へ移った。岨谷峡(そうやきょう)を越え、山間の小盆地にある鵜養(うやしない)集落へ。ナイはアイヌ語で沢の意で、漢字で「内」と書かれて、北海道の地名には頻出する。さっき通ってきた三内などもおそらくそうだが、「養の字を当てたのは珍しいです」。地名を記したものはないかと探したら、バス停の標識が見つかった。バス会社が撤退してしまい、ジャンボタクシーが巡回しているようだが、小さな集落に、鵜養下丁、鵜養中丁、鵜養上丁と3か所もある。

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鵜養 (左)鵜養下丁のバス停標識 (右)陽光を跳ね返す用水

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鵜養周辺の1:25,000地形図

静かな山里で動いているものと言えば、そよ風のほかに足もとを勢いよく流れる用水路の水ぐらいだ。堰板のところで流れが膨らんで、初夏の陽光をちらちらと跳ね返している。目覚ましい光景に出会ったわけでもないのに、きょう一日の行程が脳裏に蘇り、満ち足りた気分になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩見三内(大正元年測図、昭和13年修正測図、平成18年更新)、20万分の1地勢図秋田(昭和35年編集、平成5年編集)を使用したものである。

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2016年12月11日 (日)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

見る者を圧倒するような大峡谷といえば、アメリカのグランド・キャニオンがまず思い浮かぶだろう。ところが、お隣のメキシコには、それさえ凌ぐほど広大で深く刻まれた谷があるという。スペイン語でバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(下注)、英語でコッパー・キャニオン Copper Canyon と呼ばれるその地形は、同国北西部、西シエラマドレ山脈 Sierra Madre Occidental がカリフォルニア湾岸の低地に臨む一帯に広がっている。

*注 バランカ・デル・コブレは複数の峡谷(エル・コブレ El Cobre、ウリケ Urique、シンフォローザ Sinforosa、バトピラス Batopilas、オテロス Oteros など)の総称でもある。原語が複数形(バランカス Barrancas)なのはそのため。

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バランカ・デル・コブレの展望。ディビサデロにて

今回取り上げるチワワ太平洋鉄道(チワワ・パシフィック鉄道)は、その峡谷を一望できる展望台が第一のセールスポイントだ。しかしそれだけでない。鉄道自体が、中央高原と太平洋を直結する使命を背負い、険し過ぎてまともな道さえなかったコッパー・キャニオンの横断に挑んでいる。その結果、標準軌としては世界屈指の山岳鉄道が出現した。これから2回にわたって、驚異の路線の来歴と変化に富んだルートを紹介したい。

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奇岩が空を限るセプテントリオン谷
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路線最長のフエルテ川橋梁

チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)は、メキシコ高原北部のチワワ Chihuahua(下注)とカリフォルニア湾に臨む天然港トポロバンポ Topolobampo を連絡する673.0kmの路線だ。名前が長いので、現地では、チワワとパシフィコの頭文字(ChとP)を取って「エル・チェペ El Chepe」と呼ばれる。

*注 チワワは州名でもあるので、区別するときはチワワ市 Ciudad de Chihuahua(英訳 Chihuahua City)と書かれる。ちなみに犬種のチワワは当地方が原産。

今でこそ国内で完結しているが、本来の構想ははるかに壮大だった。1880年にメキシコ政府の承認を受けた計画は、アメリカ中央部から太平洋岸を目指す大陸横断鉄道だったのだ。それを引き継いだのが、鉄道経営者のアーサー・エドワード・スティルウェル Arthur Edward Stilwell で、1900年にカンザスシティを起点に、プレシディオ Presidio(オヒナガ Ojinaga)で米墨国境を越えてトポロバンポを終点とする総延長2,670kmの鉄道建設を開始した。当時、スティルウェルは経営していた別の鉄道が破産して失意の底にあったのだが、励ましのために誘われたパーティーで、集まった人々を前にこの計画を打ち明けた。北米大陸の地図に紐を当てながら、彼は、このルートこそ太平洋への最短距離であることを人々に納得させたという(下図参照)。

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スティルウェルの大陸横断鉄道構想を赤のルートで示す
黒のルートは競合する大陸横断鉄道(の一部)

設立されたカンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道 Kansas City, Mexico and Orient Railway が、線路の建設を進めていった。メキシコ国内では、1907年に峡谷の東の入口クリル Creel に達した。しかし、その先は険しい地形に阻まれて着工の見通しが立たなかった。アメリカ国内でも、サザン・パシフィック Southern Pacific など他の大陸横断鉄道が、競合を懸念して陰で妨害していたと言われる。さらに1910年にメキシコで政変が起きると、沿線で破壊行為が頻発して、不通個所が拡大していく。運賃収入が急減した会社は、結局、計画未完のまま、1912年に倒産してしまった。

その後、経営体はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway を含めて何度か交替するものの、クリル以西の延伸については長らく手付かずのままだった(下注)。1940年に鉄道が国有化されたことで、ようやく翌年から国営事業として工事が再開されることになる。

*注 アメリカとメキシコ区間の接続も遅れ、最後の空隙だったアルパイン Alpine から国境のプレシディオ Presidio の間が1930年に完成している。

海側では、線路がすでにエル・フエルテ El Fuerte の先まで延びていたので、クリルとの間に残されていたのは約280kmに過ぎなかった。ただし、一方は海岸低地、一方は山脈の肩に位置しており、標高差は2,300m以上もある。そのため、後で見る通り、2点をつなぐルートは非常に複雑で、足掛け20年にわたる長期の工事となった。ルイス・コルティネス Ruíz Cortines 大統領臨席のもと、国民待望の開通式が1961年11月 24日に挙行され、最初の構想から80年の長い時を経て、ついに峡谷を越える新たな交通路が日の目を見たのだ。

地下鉄とライトレールを除くと、今やメキシコで定期旅客列車を運行しているのは、この鉄道が唯一だそうだ。それで「チェペトレイン(スペイン語でトレン・チェペ Tren Chepe)」は、峡谷を訪れる観光客はもとより、地元住民にとっても大切な交通手段になっているらしい。2015年のダイヤによれば、旅客列車はチワワ~ロス・モチス Los Mochis 間653.1kmで、プリメラ・エクスプレス Primera Express(1等急行) が毎日1往復、クラセ・エコノミカ Clase Económica(普通列車)が週3往復設定されている。

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目立つロゴを配したチェペトレイン
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ロス・モチス駅の出札窓口は列車別

1等急行でも朝6時の出発で、終点に到着するのは夜の20時半から21時前という所要14~15時間の長旅だ。そのため、ハイライト区間のみを利用するツアー客が多い。一方、普通列車は、地元住民のために主要駅のほか50以上あるフラッグストップでも乗降を扱い、乗り通すなら1時間ほど余計にかかる。どちらも途中のディビサデロ Divisadero で、乗客が峡谷の眺望を楽しめるよう、15~20分の長い停車がある。

1等急行の編成は、定員64人の空調つき客車2~3両と食堂車1両だ。普通列車も同じ収容力の客車を使うが、食堂車は付随せず、代わりに売店がある。1等急行の運賃は普通の2倍近くするのだが、食事代は含まれておらず、普通に対する優位性はあまり高くない。それで普通列車のほうに人気が集まり、選択肢が1等しか残っていないこともしばしばある、と旅行書ロンリー・プラネットは注意を促している。

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1等急行車内
(左)リクライニングシートが並ぶ客車 (右)食堂車は木を使った暖かみのある内装

そのチワワ太平洋鉄道のルートだが、通過する地形を基準にすると、大きく3つに区分できるだろう。チワワ側から言えば、一つ目はチワワ~クリル間、メキシコ高原から西シエラマドレ山脈の東斜面をゆっくり上っていく約300kmだ。乾燥した盆地といくらか潤いのある溪谷が交互に現れ、その間に標高は1,400mから2,400mまで上昇する。

当区間は開通が1907年と早かったので、国営化後に路盤改良やレールの重軌条化が施工されており、線形を良くするために一部でルート変更も行われた。中でも規模の大きなものは、クリルの手前(東方)に造られた長さ1,260mのコンチネンタルトンネル Túnel Continental だ。旧線は、大陸分水嶺でもあるこの峠を25‰勾配と数か所のオメガループで乗り越えていたが、新トンネルの完成により勾配は20‰に緩和、距離も約3km短縮された。

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第一区間は高原に広がる盆地と渓谷が交互に現れる

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1:1,000,000(100万分の1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道のルート
第一区間のうち、チワワ~サン・ファニート、太字の駅名は1等急行停車駅

二つ目は、最終開通区間とも重なっている。クリルを出発して、山脈の西斜面を滑り降り、路線最長の橋梁でフエルテ川を渡るまでの約220kmだ。ここで鉄道は、スパイラル(日本でいうループ線)やテモリス Témoris にある3段ループ、さらには多数のトンネルと橋梁を連ねて、地形の障壁に立ち向かう。ディビサデロでの眺望チャンスを含めて、全線のハイライト区間であるのは疑いない。

下の地図でわかるとおり、ルート設定は非常に巧妙だ。鉄道を敷くには険しすぎるコッパー・キャニオンの本体には、実は一度も足を踏み入れていない。クリルからは、まず南西へ延びる尾根の上をたどる。それから、比較的浸食度が浅いセプテントリオン川 Río Septentrión の谷にとりつき、この中を終始下りていくのだ。貨物列車の走行を考えると、線路勾配は最大でも25‰に抑える必要がある。そのため、急流部では高度を稼ぐために何度も折り返しているのだが、それでもコッパー・キャニオンの懸崖と格闘することを思えば、はるかに通過は容易だっただろう。

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第二区間、テモリスの大規模ループを見下ろす
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第二区間、峡谷の入口にあるウィテスダムの湖面

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第一区間終端~第二区間:サン・ファニート~フエルテ川橋梁

三つ目は、トポロバンポで最終的に海に出会うまで、太平洋岸低地を淡々と走る160kmの道のりだ。エル・フエルテまでは起伏のある灌木林を縫っていくが、その先は一面の平野が広がっている。なお、旅客列車はトポロバンポまでは達せず、20km手前の主要都市ロス・モチスが終点になる。

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第三区間は、丘陵そして平野をひた走る

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第三区間:フエルテ川橋梁~トポロバンポ
以上3図は、米国国防地図局 DMA 発行 ONC H-23(1988年改訂)、H-22(1974年改訂)を使用
images from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

折しも海側ロス・モチスからチワワまで、山を上っていく列車の車窓写真を提供いただいた。それをもとに次回、チワワ太平洋鉄道の机上旅行を楽しんでみたい。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

2016年10月14日 (金)

コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス

長州、萩の町で朝を迎えた。あの蒸し暑い空気は雨と共に去り、10月らしい青空が広がっている。山から差す朝陽がことのほかまぶしい。萩には自然と歴史の見どころが多いので、到着した昨日は自転車を借りて越ヶ浜の笠山まで遠征し、ホットケーキのように扁平な島が点々と浮かぶ沖合の奇景を堪能した。今朝(10月10日)も早起きして、松蔭神社の境内ですがすがしい空気を浴びてきた。

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(左)笠山から沖合の扁平な島々(萩六島)を望む (右)雲間から光のシャワーが
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(左)静かな朝の川べり(松本川) (右)松蔭神社境内に遺された松下村塾の建物

これを前哨戦だとするとこの後は本番で、コンターサークルS 地図の旅2日目に参加する。舞台は、萩から30kmほど北東の須佐(すさ)周辺。山陰本線の名橋に数えられる「惣郷川(そうごうがわ)橋梁」と、海岸のホルンフェルスの露頭を回る予定だ。

JR山陰本線で須佐は、東萩(ひがしはぎ)から数えて6駅目になる。列車で向かうつもりで8時半に東萩駅(下注)の待合室へ行くと、すでに堀さんと、愛車で到着した相澤さんの姿があった。

*注 阿武川(あぶがわ)のデルタに立地する萩市街に対して、鉄道は外側を大回りしていて、代表駅は、萩駅ではなく東萩駅。

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(右)人影少ない東萩駅 (右)待合室で道順を打合せ

「橋は須佐より手前ですからね」というお言葉に甘えて、車で出発した。まず走る国道191号線は、日本海の海岸線をなぞっていく絶景ルートだ。昨日眺めた沖合の島々も、順光のもとでより鮮やかに見えた。宇田郷(うたごう)駅前で山へ分け入る国道から離れ、海辺の狭い旧道に入る。弁天崎の短いトンネル(尾無隧道)を抜けると、道がやや海側に膨らんで、お目当ての惣郷川橋梁が現れる。旧道は橋梁の南端でアンダークロスしているので、手前で車を停めた。

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惣郷川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆

ここは、東から流れてきた惣郷川が海に注ぐ場所だ。両岸に山が迫り、線路は長さ2215mの大刈(おおがり)隧道へ向けて、上り坂(11‰)の途中にある。そのため、橋は取付け位置を高くし、かつ半径600mの曲線上に設けられた。全長は189.14m、高さは11.6m(下注1)だ。強い潮風に晒され続ける過酷な環境のため、防錆が課題となるトラス橋ではなく、鉄筋コンクリート(RC)の柱と梁で組んだラーメン構造(下注2)が採用された。しかも鉄筋の被り厚を標準の2倍にし、塩害に強いシリカセメントを使用して、万全を期したという。

*注1 高さは、井筒天端からレール面までの最大値。出典:小野田滋「土木紀行-山陰本線・惣郷川橋梁 屹立するコンクリートラーメン」土木学会誌87-1, 2002年1月, p54-55。
*注2 ラーメン Rahmen はドイツ語で枠、骨組みを意味する。

橋は1932(昭和7)年に竣工した。橋や大刈隧道を含む須佐~宇田郷間8.8kmが翌年開通し、これをもって山陰海岸を走る鉄道が全通した。つまり、この区間は現 山陰本線に残された最後のミッシングリンクだったのだ。

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(左)緩やかなカーブが優美さを醸し出す (右)裾が開いた橋脚、中央部は工事中

「立派な橋ですね」「築80年には見えない」。足元に潮騒を聞きながら、相澤さんと私がひとしきり感心していると、そばで堀さんが解説してくれた。「橋脚の脚の裾が平行ではなく、開いているでしょう。あれで安定感が出ます。橋全体がカーブしているのも変化があっていい」「柱3本ごとに黒い縦の継ぎ目が見えますか。構造的に一体ではなく、分割してあるんです。当時の技術的な事情があるのかもしれません」。

写真を撮ろうとするのだが、中央部では工事の足場が組まれ、人が動いている。鉄筋コンクリートは、経年によるひび割れが避けられず、侵入した水や空気が中の鉄筋まで届くと、腐食して強度が落ちる。それを防ぐために、表面に樹脂コーティングが施されているから、その塗り直しか何かの作業だろう。

と突然、ゴーッという音とともに、日に数本しかない列車が頭上を通過していった。私たちが須佐まで乗る予定だった上り列車だ。時刻表をチェックしていたわけではないので、偶然のタイミングだった。「線路のそばにいると、不思議と列車が通るんです」と私。「天浜線の天竜川橋梁でも、河原へ出たら来ましたよね」そのときもお二人と一緒だった。「好かれてるんでしょうね」と相澤さんがまじめな顔で応じてくれた。

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惣郷川橋梁を渡る上りのキハ40形
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惣郷川橋梁、北側からの眺め

旧道は、惣郷の小さな集落を通り抜けて坂を上り、北側で再び線路に接近する。そこからもう一度橋を眺めた。朝なので光の加減はいいのだが、角度が浅いため、海側の橋脚はあまり見えなかった。「旧道をこのまま行ってくれますか」という堀さんのリクエストで、大刈垰を越える旧道を行く。大刈トンネル経由の国道は1977(昭和52)年に開通したので、果てしなく曲がりくねるこの道が幹線でなくなってから40年近く経過している。さっき車が1台私たちを追い越していったから、通り抜けはできるはずだ。

舗装は特段荒れておらず、路肩に黄色いガードレールも残っている。ただ、路面には枯葉や小枝が積もっていて、それを右に左に避けながらの運転になった。堀さんとしては、歩いてみたい道候補の一つだったようだが、あいにく木が生い茂って、眺望のきくところはほとんどなかった。峠の掘割を越えると、金井という2~3軒しかない集落で稲刈りをしている。その後はまた同じような羊腸の下り坂になった。

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(左)大刈垰サミットの長い堀割 (右)羊腸の大刈垰旧道

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須佐周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

続いて、二つ目の訪問地ホルンフェルスの露頭へ向かう。須佐駅を通過して海岸へ出る道へ折れ、4kmほど進んだところに、レストハウスと無料駐車場がある。海を見下ろすちょっとした海岸段丘の上だ。そこからさほど遠くない海辺に、それが見えた。道路の脇から小道が延びて、近くまで行けるようになっている。海沿いの棚田に沿って歩いていくと、道はだんだん細くなり、断崖の真上で終わった。堀さんの手を取って来たものの、「戻れなくなるからここで待っています」とおっしゃるので、相澤さんと二人で先へ進む。

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須佐のホルンフェルス露頭を遠望。右下が畳岩、奥の赤い崖がより典型的な例

濡れて滑りやすい波蝕棚の上を慎重に降りていくと、さっき遠望していた白黒ストライプの海蝕崖が目の前に現れた。地元では畳岩と呼ばれ、北へ向かって傾斜している。周辺の崖にも同じような横縞(=互層)があるのに、この一角だけコントラストが明瞭なため、特に目を引く。白く見える層は砂岩、黒っぽいのは頁岩だという。

垂直約12mの畳岩は思ったほど大きくはない。「でも、この広い岩場も上の層が剥がれたものですね」と私が言うと、相澤さんも「ずっと広がっていたのが、波で削られていったんでしょう」。間隔を置いてやってくる大波は、岩に激しくぶつかって砕け散る。縦にも節理が入っているため、裂け目が広がり、やがて剥離していくのだろう。

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縞模様が目を引く「畳岩」

ホルンフェルス Hornfels というのは、高熱による変成岩のことだ。ドイツ語で角岩(つのいわ)を意味し、動物の角を思わせる硬さと模様からそう呼ばれる(下注)。レストハウスのパネルで、当地のホルンフェルスの成因が説明されていた。すなわち、約2500万年前から1500万年前の間に、砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積した。約1400万年前にこれを突き破って高温の火成岩体が噴出し、そのときの高圧と高熱で周囲の須佐層群の性質が変わった(=熱変性)。互層を形成する岩石もその作用を受けているのだが、もっと典型的なものはその後ろにある赤い色の崖なのだそうだ。

*注 名称の由来は、ウィキペディア英語版による。

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(左)熱変成を受けた砂岩と頁岩の互層 (右)縦の大きな裂け目も見つかる

レストハウスへ戻って休憩する間、相澤さんが持参の焼き栗を割ってくれた。秋の味覚が口の中に広がる。店の人から、行列のできるイカ尽くしの食堂が駅前にあると聞いて、また車を走らせた。「梅の葉」という小さな店で、12時前に入ったのにすでに40分待ちだった。名物の活イカづくりはすでに品切れていたので、イカ天丼に舌鼓を打つ。粗食も辞さないコンターサークルの旅では珍しいことだ。車で帰る相澤さんに見送られて、堀さんと私は、須佐駅から14時発の下り列車に乗った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図須佐、宇田(いずれも平成13年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
一般社団法人中国建設弘済会-アーカイブス(土木遺産一覧)
http://www.ccba.or.jp/archives/heritage.htm

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 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋
 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年6月13日 (月)

コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

5月22日朝、札幌駅8時ちょうど発の特急「スーパーカムイ3号」に乗り込んだ。江別を過ぎ、夕張川の鉄橋を渡れば、車窓はすっかり田園地帯だ。遠くに浮かぶ雪の山並みを背景に、田植えの時期を迎えた石狩平野を列車は北へ向かってひた走る。

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(左)特急「スーパーカムイ」の車窓から見る田園地帯 (右)滝川駅に到着

コンターサークルSは札幌がホームグラウンドで、この時期は隔週で北海道各地の「地図の旅」を実践している。本日は、石狩川右岸(西岸)に残る三日月湖(下注)を巡ることになっていて、私も初めて参加した。集合場所は、札沼(さっしょう)線の晩生内(おそきない)駅だ。この路線は札幌駅が起点だが、なかなか乗る機会がない。せっかく行くなら全線を乗り通してみようと、函館線で滝川(たきかわ)まで行き、そこから札沼線の終点新十津川(しんとつかわ)へ回ることにした。本題に入る前に、このささやかな終点駅の話題を差し挿ませていただこう。

*注 河跡湖(かせきこ)とも呼ばれ、蛇行する川が氾濫や侵食作用などで流路を変えた後、旧河道に取り残された湖や池を指す。日本語では月に例えるが、英語ではオクスボウレイク oxbow lake(オクスボウは、牛を牛車につなぐU字形の軛(くびき))、フランス語ではブラモール bras-mort(死んだ腕=淀んだ支流)とさまざまだ。

滝川駅から新十津川駅へは、石狩川橋経由で4km強に過ぎない。徳富(とっぷ)川にかかる昔の鉄橋を見たかったので、手前の新十津川橋でタクシーを降りた。橋は、札沼線が新十津川からさらに北の石狩沼田まで走っていたときの遺構だ。今は水路管を渡しているが、南側のガーダー(橋桁)2連と橋脚に鉄道時代のものが残っている。若緑に囲まれた朱色の橋は、背景の青空と雪山に眩しく映えていた。

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水路橋に転用された旧札沼線の徳富川橋梁
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(左)南側のガーダー2連と橋脚は鉄道時代のもの (右)線路の代わりに水道管

しかし残っていたのは橋だけだ。南に続いているはずの築堤はおろか、用地自体が宅地に整えられ消失している。まだ新しい住宅地の中を、徒歩で新十津川駅へ向かった。

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新十津川橋の左に旧線跡の水路橋がある(1:25,000「地理院地図」に加筆)

鉄道ファンには周知の話題だが、札沼線の末端、浦臼(うらうす)~新十津川間は、今年(2016年)3月のダイヤ改正で、列車が1往復まで極少化されてしまった。従来朝、昼、夕と3本設定されていたのが、朝の1本だけになったのだ。新十津川駅では、気動車キハ40が1両きりで9時28分に到着し、9時40分に折返していく。それがその日の最終列車になる。

当然、駅は寂れて人影もないように想像してしまいがちだ。ところが、かえって希少性が増したのか、記念乗車がブームになっている。列車がホームに入ると、小さな駅は降りた客で時ならぬ賑わいを見せた。駅舎はもちろん無人だが、きれいな記念スタンプが置いてあるし、役場まで行けば到達証明書ももらえるらしい。多くの人は折返し乗車のようで、上り列車にも15~6人が乗車していた。普段からこの乗車率なら、列車を削減されずに済むのだろうに。

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(左)新十津川駅は時ならぬ賑わい (右)駅構内を南望
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1日1本の列車を満開のチューリップが迎える
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(左)待合室に掲げられた究極の時刻表 (右)駅の記念スタンプ

のどかそのものの田園風景の中を、気動車はトコトコ走る。1時間半かけて列車の終点、石狩当別まで乗って、そこで北上してきた堀さんたちと合流した。

晩生内駅も、簡易な造りということでは新十津川と変わらない。砂利引きの狭いホームに降り立ったのは、もちろんサークルのメンバーだけだ。参加者は堀さん、真尾さん、Oさん、車でやってきたミドリさんほか全部で9人。ここ数日、北海道は高温注意報が出されるくらいの暑さで、今日も札幌の最高気温は28度。雲一つない快晴はありがたいが、朝晩まだ肌寒いだろうと用意してきた上着は、一度も出番がなかった。

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(左)晩生内駅に到着 (右)北へ去る気動車を見送る

駅の小さな待合室で地形図を広げ、これからの道順を確認する。駅の南にある西沼、東沼を経て北上し、後は行けるところまで行こうということになった。地図の上では大小の差はあれ皆同じような三日月形をしているが、それぞれどんな表情を持っているのだろうか。ミドリさんの車で先行する堀さんを見送って、私たちは歩き出した。

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晩生内周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

踏切を越え、線路と並行する国道275号線の歩道を南へ約600m、左折すると広めの農道(三軒屋農道)が石狩川のほうへ延びている。道がカーブすると同時に、右手に弓なりに横たわる池が見えた。吹き越す強い風が水面を細かく波立たせ、沼を縁取る疎林の枝葉を揺らしている。地形図によれば西沼だが、道の脇の案内板には「三軒屋沼」と書かれている。三軒屋というのは、沼のある旧河道に囲まれた袋状の土地で、確かにそこには今も3軒の農家がある。

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(左)「松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む」の案内板
(右)農道の旧河道横断地点。右(画面外)に西沼がある。遠方のアーチは美浦大橋

案内板によれば、「三軒屋沼は、石狩川の屈曲した河道が氾濫時に取り残されて出来た三日月形の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る、自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では昭和7年から15年までで17回を記録し、その都度農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。(中略)人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は、自然形成的な三日月湖が多くあります。」

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農道から西沼を見る

石狩川の三日月湖は、河道の直線化工事に伴ってできたとばかり思い込んでいたが、水流の作用によるもののほうが多いのだ。付近の旧版1:50,000地形図を見比べてみよう。西沼・東沼の場合、明治末期の図【図1】ではまだ石狩川の蛇行する分流として描かれる(下注)が、大正期【図2】になると明確に川と切り離されている。しかし、沼はほぼつながって、旧河道そのものだ。三軒屋沼と一括りにされていたとしても不思議ではない。2つの沼に分かれたのは水位が低下したからで、現在の水面は目測する限り、周囲の田んぼの面より10m近く低くなっている。

*注 図1は明治28年式図式と明治42年式図式が混在する仮製図のため、石狩川と三日月湖の位置や面積は、大正期の正式図(基本図)に比べて、必ずしも正確とはいえない。

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【図1】 明治末期
1:50,000地形図「奈井江」 1909(明治42)年部分修正測量、1911(明治44)年改版
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【図2】 大正期
1:50,000地形図「砂川」 1916(大正5)年測図
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【図3】 昭和30年代
1:50,000地形図「砂川」 1959(昭和34)年修正測量

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ビニールハウスに出入りする線路(?)

農家の前を通ったら、ビニールハウスに線路のようなものが出入りしているのを見つけた。ハウスで育てたイネの苗床を運び出すための装置らしい。パイプを組み合わせた簡易な軌道のパーツが傍らに積んである。これをつないでハウスの中まで延ばしていくようだ。「鉄道模型と同じですね」と、鉄道ファンでもある真尾さんと私は嬉々としてカメラを向けた。

農道は馬蹄形の旧河道を、東沼の上でもう一度横断する。西沼では築堤だったが、東沼には三軒屋橋が架かっている。西沼と同じ出自ながら、東沼は林に囲まれていないからか、のっぺりとして風情に欠けるのが難だ。休憩場所としてはいま一つだが、時刻はとうに正午を回っている。ベンチ代わりの橋の欄干にもたれて、持参の弁当を広げた。通るのは農作業車ぐらいなので、何ら気にすることはない。

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(左)のっぺりとした東沼 (右)東沼に架かる橋(三軒屋橋)の上で昼食

橋を渡りきったところで、農道は二手に分かれる。私たちは北へ向かった。地方道との交差点にさしかかると、道路標識に「美浦渡船(みうらとせん)右へ1.7km」と記されている。聞けば、石狩川に唯一残っていた伝統の渡船で、道内でも最後だったそうだ。黄色の大アーチが遠くからも望める美浦大橋の開通によって、2011年限りで廃止となった。

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美浦渡船を指し示す道路標識

前を歩いていたOさんが振り向いて、「ではここで失礼します」と言う。コンターサークルの旅は途中参加も離脱も自由だとは知っているが、ここは平野のど真ん中だ。「どこへ行くんですか」と聞くと、「橋を渡って茶志内駅まで歩きます。なに、8kmぐらいですから」とのこと。

東へ進むOさんの後ろ姿を見送って、残りの面々は北上し続けた。途中で草の小道にそれて、月沼のほうへ降りていく。堀さんとミドリさんも合流した。月沼は、三軒屋で見てきた沼に比べればかなり可愛らしい。「でも小さいから、月の形がよくわかります」とミドリさん。

明治期の図でも本流から離れた場所にぽつんと描かれているから、かなり古い時代の忘れものだろう。逆に言えば、沼としては大先輩ということだ。西端は長年の泥が堆積して湿地のようになり、それを通してみる対岸の飄々とした木立が一幅の絵になっている。おじいさん沼の全体像を確かめたくて、沼際のあぜ道に上ってみたが、かえって眺めは平凡だった。

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月沼の眺め (左)岸のカラシナが彩りを添える (右)一部は湿地状に

さらに北へ800mほど進めば、ウツギ沼が右側にある。農道からはよく見えないので、小川に沿う小道を下っていく。これはまさに沼らしい沼だった。明治期には月沼よりよほど堂々と描かれているのに、今はやせ細って見る影もない。ヨシやヤナギが藪状にひしめき合い絡み合って、水辺に張り出している。おまけに小さな虫が多数飛び回って、私たちを悩ませた。

写真を撮ろうとするが、見通しが今一つだ。「逆光だし、反対側から見たほうがよかったんじゃないかな」と真尾さん。下の写真は、藪の切れ目で身を乗り出して、かろうじて撮ったものだ。他の人たちは諦めて先へ行ってしまったが、ここまで来たのだから隣の新沼も見てみようと、有志でそちらに足を向けた。

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半分藪化したウツギ沼

新沼は、周辺で一番大きな沼で、名前が示すように誕生も比較的新しい。大正期でさえまだ大きくうねった川の一部で、昭和34年図【図3】でようやく、川の短絡によって取り残された状況が描かれる(下注)。広い空の下、なみなみと水を湛えた若い沼の水面を見つめていると、平野を悠然と曲流していた頃の石狩川の光景が目に浮かぶようだ。できるものなら上空を舞いながら、心ゆくまで眺めていたいと思う。

*注 1:50,000「砂川」図幅は、大正7年図から昭和34年図までの間に、鉄道補入や資料修正版が数回刊行されたが、地形は修正されなかったため、地形図を追うだけでは新沼誕生の時期を絞り込めない。

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石狩川の曲流の記憶をとどめる新沼
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新沼中央部のパノラマ

とはいえ、そろそろいい時間になってきた。幹事役の真尾さんが地形図で帰りのルートを確かめる。「ここからだと晩生内に戻るより、一つ先の札的(さってき)のほうが近そうです」。札沼線札的駅に着くころには、陽もいくぶん傾いて、真昼の暑さは消え去っていた。無人のホームに立ち、北から降りて来る列車をしばらく待つ。鉄道防風林の隙間を縫って吹く風はことのほか涼しく、紫外線に晒されてほてった肌を優しく冷ましてくれた。

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(左)帰り道にカラシナの群落 (右)駅へ向けて歩く
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(左)札的駅ホーム (右)歩き旅お疲れ様でした

地図を携えて北海道の大地を歩くのは、堀さんの著書で繰り返し読んできた旅行記そのものだ(下注)。私にはまるで、その中の登場人物になったような一日だった。札幌に戻ってからの打ち上げの席で、道内の旅に参加した感想を聞かれた。実感をこめて、「北海道に移住しようかなと思いました」と話すと、「歓迎しますよ」と皆に真顔で言われた。

*注 堀さんの晩生内周辺の訪問記は、「地図の風景 北海道編 I」そしえて, 1979, pp.105-110、および「北海道 地図を紀行する 道南道央編」北海道新聞社, 1988, p.159以下にある。

掲載の地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図奈井江(明治44年改版)、砂川(大正5年測図、昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図晩生内(平成26年4月調製)を使用したものである。

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2016年5月28日 (土)

コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水

数日前の天気予報では、確実に雨具が必要とされた今日5月4日。確かに昨夜はひどい嵐で、大粒の雨が宿の窓ガラスを激しく叩いていた。しかし目が覚めたら、窓の外はもう眩しい青空が広がっている。お天道様も私たちの旅を祝福してくれているようだ。

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巴川分水点

コンターサークルSの正式行事で、巴川(ともえがわ)の谷中分水を見に行く。場所は愛知県奥三河地方、今は新城(しんしろ)市に含まれるが、かつては南設楽郡作手(つくで)村だったところだ。標高が500m以上ある高原上の浅い盆地を、巴川が貫いている。面白いことにこの川は、1本の連続した水路にもかかわらず、平たい谷の真ん中で水流だけが二手に分かれているのだ。一方は北進して最後は矢作川(やはぎがわ)に注ぎ、もう一方は南進して豊川(とよがわ、下注)に合流する。その分水する現場をこの目で確かめようというのが、本日の歩き旅の目的だ。

*注 市名は「とよかわ」だが、川の名は「とよがわ」。

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作手盆地周辺の1:200,000地勢図に、矢作川・豊川の分水界等を加筆

豊橋からJR飯田線の特急「伊那路1号」にのんびり揺られ、10時33分に新城駅に着いた。駅の待合室に集まったのは、堀さんをはじめ、真尾さん、大出さん、相澤さん、石井さん、外山さん、私の7人。さっそく3台の車に分乗して、現地へ向かった。

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(左)特急「伊那路1号」で新城駅へ (右)駅の待合室で本日の行程を打合せ

新城の町がある豊川平野の北側には、本宮山を主峰に、山が屏風のように連なっている。それを攀じ登る国道301号線は、ヘアピンカーブが連続する手ごわい山道だ。見上げる高さにあった新東名の高架橋が、いつのまにか眼下に沈んでしまう。作手盆地は、この山並みの上に載るいわば天空の別天地だ。

籠瀬良明氏の解説(下注)によれば、この場所はもとは海面からそう高くない盆地で、水を湛えた沼が広がっていた。水の出口は二つあり、北と南へ流れ出ていた。その後、地面の隆起か、海面の下降によって、小盆地周辺は海面から500mの高さに変わっていった(=隆起準平原)。しかし、「造物主が水の入った大皿を一方へ傾けないようバランスを保ちながら、慎重に持ち上げた」ので、水が南北に流れる状態は保たれた。やがて沼は湿原になり、人の手が入って水田に整えられたが、この巴川だけは、もとのまま盆地の水を二方に流し続けているのだという。

*注 「地図の風景」中部編II 愛知・岐阜(そしえて、1981年) p.42~43

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作手盆地の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

峠の後もしばらく山道が続く。2つ目の峠を過ぎてようやく、のどかな農村風景が広がってきた。作手盆地に入ったのだ。連休中とあって、目星をつけていた道の駅は、クルマがひっきりなしに出入りしている。満杯の駐車場に、私たちもなんとか空きを見つけることができた。郷土の名産品を商う売店も大賑わいだ。

売店の裏手を、くだんの巴川が走っている。正確に言えば、豊川水系の巴川だ。雨後の濁り水を集めて、流れに勢いがある。真尾さんが言う。「この川に沿って行けば、1kmほどで分水点のはずです」。私たちは地形図を片手に、農道を北へ向かって歩き始めた。

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(左)道の駅を起点に豊川水系巴川を遡る (右)雨の後の濁り水を集めて

田んぼになみなみと水が張られ、初夏の強い日差しを撥ね返している。耕運機を操る人影が動き、エンジン音が山裾にこだまする。岸に植えられた名残りの八重桜を愛で、青草を食むヤギたちを眺めながら行くうちに、足もとの川幅はみるみる細くなっていった。

観察すると、その原因は左右から注ぎ込む用水路にあるようだ。つまり、本流よりも周囲の山から用水路を通じて流れてくる支流のほうが、集水域がはるかに広い。それによって巴川の水量が維持されているのだ。実際、地形図で「市場」の地名注記がある辺りまで来ると、本流も細い溝のようになってしまった。直線化され、水田より2m以上掘り下げてあるので、自然の川ではもちろんない。

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(左)岸を彩る名残りの八重桜 (右)やがて巴川は細い溝に

水路が北東から北へ向きを変える地点まで来ると、いよいよ水の量が減ってきた。石井さんの車で先回りしていた堀さんも合流して、じっと目を凝らす。白鳥神社から南東に延びる農道との交点に橋がかかっていて、その南側では、まだ南向きのわずかな水の動きを認めることができた。北側には、水路にコンクリートの枡が切ってある。東側から道の下をくぐって水がたっぷり流れ込んでいるのだが、その大部分はなんと北へ出ていくのだ。というのも南側の水路には砂が堆積していて、枡の水位がある程度高くならないと、そちらに水が流れていかないらしい。「分水点はここということですね」。一同顔を上げて、本日の調査の成果を確かめ合った。

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橋の下の枡が現在の分水点
大部分の水は北(手前)へ
残りは南へ

豊川・矢作川分水点と書かれた大きな看板が、100mほど先に立っている。ささやかな公園もこしらえてあった。説明板によると、ここは昔、大野原湿原といって作手村で最も広い湿原だった。泥炭の層が、深いところで4mも堆積している。水の流れが一定しなかったために、すぐそばの祠が祀ってある場所にあった橋は乱橋(みだればし)と呼ばれていたのだそうだ。

せっかくの「分水」公園だが、実際の分水点とは位置がずれてしまっている。しかし、それを言い咎めても意味がない。なぜなら、小さな水路として存在する巴川は、おそらく水田の造成過程で湿原から水を抜くために掘られたもので、分水点もそのとき人工的に生じたはずだからだ。人手が入る前は、湿原全体が境目のあいまいな分水「面」を構成していたと考えていいのではないだろうか。

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(左)分水点ではなくなった「分水」公園
(右)遠方の橋が現在の分水点。水は北(手前)へ流れている
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白鳥神社東方から北望。矢作川水系巴川が北(奥)へ流れ去る

とそこへ、農道をこちらに向かってきた軽自動車の窓から手を振る人がいる。木下さんと息子のキリ君だ。総勢9人となった一行は、近くの白鳥神社の境内を借りて、持参した昼食を広げた。堀さんは昔、当地を訪れていて、そのことは「誰でも行ける意外な水源・不思議な分水」(東京書籍、1996年、p.197~201)に記されている。久しぶりに再訪しようと思った理由は、「近所にもう1か所、行ったことのない谷中分水があるから」だというので、午後はそちらへ足を向けることになった。

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(左)白鳥神社正面 (右)境内で昼食休憩

白鳥神社の前の道をまっすぐ東へ進むと、作手鴨ヶ谷(つくでかもがや)という集落に入る。集落の位置する谷は巴川本谷から延びる支谷のように見えるのだが、実は反対側(東向き)に下っている。ということは、その間に矢作川・豊川を分けるもう一つの分水点があるはずだ。

行ってみたところ、道が南東へ曲がるあたりはまだ上り坂だった。ところが、地形図で538m標高点の打ってあるY字路まで行くと、左に分岐する道は明らかに下っている。田んぼの段差も同様だ。そればかりか、標高点のすぐ西で、宅地と林を載せた高まりが谷を横断していた。ちょうどそこは地形図でも、等高線が最もくびれている場所に当たる(下注)。鴨ヶ谷の谷中分水は、景観上も明瞭な分水「界」を成していたのだ。

*注 ちなみに、分水界周辺の535m補助曲線は、西側では閉じているのに、東側は開いたまま途切れている。明らかに描画ミスだ。

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(左)宅地の載る高みが鴨ヶ谷分水界 (右)道端に咲いていたシャガの花

林の裏(西側)の、道路から草の道を少し降りた先に、小さな湿原が残っていた。一面、背の高いヌマガヤで覆われ、ひょろりと立つハンノキの枝が吹き通る風に揺れている。「北海道みたいだなあ」と北海道に住む真尾さんが感心する。案内板によれば、この鴨ヶ谷湿原は、かつて大野原湿原の一部だったのだそうだ。すると、さっきの巴川分水点を含めて、作手盆地を埋め尽くしていた大湿原の貴重な生き残りということになる。

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(左)鴨ヶ谷湿原 (右)今も山からの水をたっぷり含む

案内板を見ていた誰かが「湿原植物のクサレダマってありますけど、可愛い花に似合わない名前ですね」とつぶやいた。堀さんが苦笑しながら「腐れ玉じゃないですよ。草レダマです」。なら、レダマって何だろうというので、さっそく木下さんが持参のポケット植物図鑑を広げた。漢字で書くと連玉なのだそうだ。「腐れどころか、優雅な名前じゃないですか」と頷き合う。

人とクルマで溢れかえる道の駅とは違って、ここには私たちのほか誰もいない。旅の最後に、思いがけなく本当の別天地を見つけたような気がした。

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湿原を吹き渡る風にハンノキの枝が揺れる

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図高里(平成19年更新)を使用したものである。

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2015年11月28日 (土)

コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界

山陰本線二条発9時09分の電車で一路、山陰路へ。園部駅で2両編成の223系に乗換えると、後ろの車両に、堀さんと丹羽さんの姿があった。9月21日、コンターサークルS「地図の旅」2日目は、京都府の胡麻(ごま)高原に、繞谷(じょうこく)丘陵と谷中分水界を見に行く。車窓はすっかり山里の風景になり、刈入れ時の近づいた稲穂が谷を淡い黄金色に染めている。

「クロスシートは旅の気分が出ますね。東日本ではロングシートばかりなので」。関西では、私鉄との競争もあって、枕木方向に座席を配置するクロスシート車が伝統的に優勢だ。223系は東海道・山陽線の新快速にも運用される花形車両で、背もたれを前後に動かせる転換式シートだから、乗り心地が悪いはずはない。しかし、ローカル線の宿命で園部以遠は単線になり、そこへ特急列車が割り込んでくる。途中の船岡駅ではそれに道を譲るために、長い停車時間があった。

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胡麻駅到着 (左)223系の後ろに丸山が見える (右)駅舎玄関

無人の胡麻駅に10時13分到着。山が低まり、谷が開けて、どことなく明るい雰囲気のある土地だ。駅舎の反対側は一面の田んぼで、その向こうに形の整った小山が見えている。一つ目の目標地形である繞谷丘陵、標高259mの丸山だ。地形図では、平たい谷に囲まれて周辺の山から隔離された文字どおりの丸い山だが、どうしてこのような地形ができるのだろうか。

曲流している川があるとする。流域の土地が隆起したり侵食基準面が低下して、川の侵食力が復活(=回春)すると、次第に曲流を反映した谷が形成されていく。これを穿入(せんにゅう)蛇行というのだが、蛇行が進むと、くびれた個所で川が短絡してしまうことがある。このとき、蛇行していた谷は干上がり、空谷と短絡した川の間に、切断され孤立した山脚が残される。この地形を、谷をめぐらす丘という意味で繞谷丘陵、あるいは還流丘陵と呼ぶのだ。もとは山脚だから不定形が普通で、丸山のようなきれいな形をしたものはむしろ珍しい。

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ホーム跨線橋から見た丸山北面

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胡麻駅周辺の1:25,000地形図に、3人で歩いたルートと、中央分水界を加筆

ホームから優美な山容を愛でたあと、次の目標に向けて歩を進めることにした。胡麻の町筋は駅から線路沿いに西へ延びているが、私たちは一本山手にある村の中の道をとった。少し歩くと学校らしき建物群が見えてくる。車道に面しているのはもと保育所の建物で、その後ろが胡麻郷(ごまごう)小学校の校舎だ。公園林と見紛う広い前庭があり、奥の正門まで、まるで神社の参道のように通学路が延びている。都会の新設校には真似のできない風格が漂っていて、「こんな路を毎日通えるのは羨ましいですね」と、丹羽さんと一緒にカメラを向けた。

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前庭の奥にある胡麻郷小学校正門

道は緩やかな上りに差し掛かる。地形が、河岸段丘のへりから、畑郷川が造った扇状地に移行する徴しだ。地名も「駅前」から「新町」に変わる。さらに、家の造りにも特徴が表れてきた。茅葺の上に瓦の箱棟を載せた母屋はともかく、屋根を外壁から浮かせた土蔵など、あまり見たことのない造りだ。

栗の木が植わった畑の脇を通り過ぎた。落ちたいがが道まではみ出し、はじけた栗の実が転がっている。小道の向こうではソバの花が霞のように広がり、道端のコスモスが風に揺れる。のどかな村の秋景色だ。丹羽さんはグループで農園を造っているそうで、畑に植わっている作物に関心を寄せる。柿や栗だけでなく、太い蔓と葉で盛り上がった一角には、よく見るとキウイの実が生っていた。「ニュージーランドの特産と思っていましたが」と言うと、「ニュージーランドの気候は日本と変わりませんから」と堀さん。

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(左)扇状地の緩い勾配 (右)屋根を外壁から浮かせた土蔵
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(左)栗畑も収穫の季節 (右)道端にコスモスが揺れる

今から見に行く谷中分水界というのは、連続する谷の中で水流の方向が変わる場所のことだ。谷が形成される時点では一方向に流れていたはずの水流が、地盤の隆起や傾動などを原因として、ある場所から先で逆方向に流れるようになることがある。また、或る川が、隣接する川の侵食などによって上流を奪われたとき(=河川争奪)も、下流とは流れの方向が一変してしまう。このように、川が自ら造った谷を素直に流下しないのは、地形として変則的だ。それで谷中分水界は、ファンの探究心をそそる主題の一つになっている。

胡麻高原の西端では、隣を流れる畑郷川との間に比高30~40mの急斜面が読み取れる。見たところこれは、いわゆる争奪の肱(ひじ、下注)のようだ。そして普通なら、奪われた川が胡麻川、奪った川が畑郷川で、争奪前にはその上流部が胡麻川へ流れ込んでいたと考えたいところだ。しかし、話はそれほど単純ではない。というのも、胡麻高原の幅は広いところで700~800m、例の繞谷丘陵の丸山も200mほどの幅がある谷を巡らせている。流域の狭い畑郷川ではいかにも力不足で、規模に見合うもっと大きな川が流れていなければならない。それはいったいどこへ消えたのだろうか。

*注 河川争奪により上流を奪った川は、その地点であたかも肱を曲げたように向きを変える。そのため、このような場所を争奪の肱と呼び、谷中分水界もその付近にできる。

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丹波高地西部の河川流路の変遷

京丹波町を流れる質美川が、高屋川上流や畑郷川などを合わせ、胡麻を経由して南へ流れていたという説も唱えられたが、今ではそれとは違う、大規模な流路の変遷があったと考えられている(上図参照)。

研究論文(下注)によれば、その推定にあたって、胡麻川谷の河岸段丘に見られるいくつかの興味深い事実が手掛かりとなった。一つに、最上位の段丘面が、大堰(おおい)川上流から胡麻川沿いへ断続し、かつ胡麻川沿いでは南から北に向かって高度を減じること。二つ目に、この段丘面から採取された礫の傾き(=インブリケーション)が、すべて北を向いていること。三つ目に、当地域では園部川上流にしかない流紋岩の礫がこの段丘面で共通して発見され、しかもその径が北へ行くほど小さくなることだ。

*注 山内一彦「丹波高地西部、大堰川・由良川上流部における河川争奪とその原因」立命館地理学第14号, 2002, pp.17-35。上図は本論文の第9図(p.29)をもとに描いた。

これらの事実は、その昔、胡麻川谷で川が北流していたことを示している(上図1)。胡麻の幅広い谷も、大堰川の上流部や園部川の水を併せた大きな川(論文では古大堰川と呼ぶ)が造ったのだと考えれば、納得できる。では、なぜそれが今のような南向きに変わったのだろうか。

原因は、亀岡断層や殿田断層の活動が活発化して、南西側が沈降したことにあるという。現 大堰川の侵食力が増して北に進み(=谷頭侵食)、船岡で河川争奪を起こして園部川の流路を南に変えた。次いで、堆積が進んで湛水しがちだった古大堰川から溢れた水が、北進してきた大堰川へ流れ込むようになった。こうして40万年前頃、古大堰川は殿田付近で南(=太平洋側)に向きを変え、そのため東胡麻付近にいったん分水界が移った(上図2)。

分水界に隣接する胡麻高原では、南からの豊かな水流が途絶えた。すると、畑郷川が山から押し出す土砂が排出されなくなって扇状地化し、北への流れを塞いでしまう。胡麻高原は湖になり、丸山は湖上に浮かぶ島になった。この状態が進むと、やがて相対的に低くなった東胡麻側から水が溢れ出す。こうして16万年前頃に、胡麻高原全体が大堰川の流域となり、分水界はその西縁に移った(上図3)。その後、亀岡盆地の沈降の影響を受けて、園部川も南東に流路を変え、最終的に今の流路が定まったのだそうだ(上図4)。

結局のところ、畑郷川は河川争奪の当事者ではなかったらしい。その現象はもっと南の殿田や船岡で起きたことであって、畑郷川は、自ら造った扇状地を自らの手でせっせと削っているに過ぎない。早い話が河岸段丘だったのだ。しかし、成因はどうであれ、この場所に谷中分水界が通っていることには変わりはない。しかも太平洋側と日本海側を分ける中央分水界だ。それだけでも訪ねてみる値打ちがあるだろう。

扇状地上の集落を3人で歩いていると、どこへ行きなさる、と村の人たちが声をかけてくれる。地形用語で説明してもと思い、水分の路(みずわかれのみち)を見に来ましたと話すと、通じた。兵庫県石生(いそう)の水分かれ公園のような、水流が二手に分かれる仕掛けこそないが、村おこしの一環で分水界に沿う新道にそういう名がつけられ、立派な標識も立てられているのだ。

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水分の路の標識

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畑郷川が胡麻高原をえぐっている現場に近づいたところで、昼食タイムにした。うまいぐあいに上空の雲が日ざしを遮り、暑さを和らげてくれる。堀さんがこの地を訪れるのは二度目だ。前回の訪問記が、「地図の風景」近畿編I 京都・滋賀(そしえて、1980年)にある。「早春のころ、標高点二〇六付近の分水界に立って、はろばろとした野と、春の気配を漂わせる四囲の山肌を見渡すのは快い」(p.46、下注)。

*注 標高点二〇六(206mの標高点)は現行地形図にはないが、205.3m三角点の北西で2車線道路が直角に曲がる地点。

丹羽さんや私にとって堀さんの著書は、地形学のおもしろさに開眼するきっかけとなった。「添えられていたイラストで、地形の成り立ちがよくわかりました」「川と川が土地を奪い合うとか、ありえないようなことが解き明かされるのがすごく新鮮でした」などと、感想を述べあう生徒たち。「あのころ地形学をやっている人は少なくて、分かりやすい本もなかったんですよ」と堀さん。

谷中分水界はこの付近を通っている。高原のへりから畑郷川の谷が見渡せたはずだ、という記憶に従って、丹羽さんと手分けしてしばらく付近を探してみたが、あれから35年が経過して斜面の杉林が大きく成長したためか、結局思うような見晴らしは得られなかった。

帰りは、行きとは別の直線路をたどった。胡麻駅に到着したのは15時過ぎ。列車を待つ間、駅舎に併設された休憩所で、ソフトクリームをなめた。店番の女性に「ここはゴマの産地なんでしょうか」と聞くと、「胡麻は食べ物のゴマじゃなくて、駒から来たんです。でも地名を知った油会社の社長さんがここに本当にゴマ油の工場を建ててしまいました」。工場は今も操業しているそうだ。

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(左)畑郷川の谷は杉林の向こう (右)胡麻駅に帰りの電車が来た

「夜行バスまで時間がたっぷりあるので、その辺を散歩してきます」という丹羽さんをホームに残して、堀さんと私は15時45分発の園部行き電車に乗った。丹羽さんは、全国の繞谷丘陵を訪ね回っている。湖中の島という数奇な来歴を秘めた丸山を、じっくり観察しないまま帰るわけにはいかなかったに違いない。後で送ってくださった、駅から見えない丸山の裏側や忠魂碑の立つ山頂広場の貴重な写真をもって、胡麻高原の固有地形を訪ねる旅の記を締めくくるとしよう。

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(左)丸山登り口 (右)丸山山頂広場の忠魂碑
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丸山南東面

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図胡麻(平成19年更新)及び20万分の1地勢図京都及大阪(平成元年要部修正)を使用したものである。

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2014年12月31日 (水)

スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

正式な分類ではないが、山上(さんじょう)鉄道と言われるものがある。高地にある村や観光地へ人や荷物を届けるという役割では登山鉄道などと変わらないのだが、山麓または谷底で他の鉄道路線と直接接続してはおらず、高地で孤立している路線のことだ。通常、下界との間は、ケーブルカーやロープウェーなど他の交通手段で連絡されている。

このタイプが採用されるのは、たとえば急斜面の上に比較的なだらかな高地が広がる地形の場合だ。登山鉄道のように斜面に線路を引き回すと建設費が高くつくので、困難な斜面は直登し、高地に出たら水平に進むというルートを採る。そのような場所に敷かれた山上鉄道は、概して車窓の景色がいい。ましてやスイス中部でも人気の観光地、ユングフラウ三山のそばを走るとなれば、絶景の展開を期待しないほうがおかしいだろう。

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メンリッヘンから見たラウターブルンネン谷
BLMの通過地点を加筆

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その鉄道の正式名称は、ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道 Bergbahn Lauterbrunnen–Mürren (BLM) という。名前の通り、ラウターブルンネン Lauterbrunnen とミューレン Mürren(下注)を結び、地元では略して「ミューレン鉄道 Mürrenbahn」と呼ばれている。

*注 Mürrenの第1母音は短母音なので「ミュレン」と書くべきだが、スイス政府観光局公式サイトですら「ミューレン」と表記しているのでそれに従う。

鉄道の舞台であるラウターブルンネン谷 Lauterbrunnental は、氷河が造り出した典型的なU字谷だ。谷底にあるラウターブルンネンと、谷のへりに載る山の村ミューレンとの標高差は、およそ840m。これを、ラウターブルンネン~グリュッチュアルプ Grütschalp 間がロープウェー、グリュッチュアルプ~ミューレン間が粘着式鉄道と、2種類のモードの連携で克服している。開通は1891年8月で、当初、前者はロープウェーではなく、ケーブルカーで建設された。少し歴史を追ってみよう。

*注 標高は、ラウターブルンネンBLM駅800m(ロープウェー起点の案内板による。797mとする文献もある)、グリュッチュアルプ駅1486m、ミューレン駅1639m。

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ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道 周辺図
スイス官製1:100,000地形図ブリューニック峠 Brünigpass およびオーバーヴァリス Oberwallis 図葉の一部を使用

1880年代、ユングフラウ地域(リュッチーネ川 Lütschine 流域)では、鉄道の建設計画がある種のブームを呈していた。認可を受けた鉄道は次の10年間に続々と完成を見て、現在もある鉄道網がほぼこの時期にできあがった。そのうち最初に開通したのが1890年7月、インターラーケンからラウターブルンネンとグリンデルヴァルトへ延びるベルナー・オーバーラント鉄道 Berner Oberland-Bahnen (BOB) だ。これはリュッチーネ川の谷を遡る路線だが、これを足掛かりにして今度は山を這い上がる観光鉄道が造られていく。BLMもその一つだった。

BLMの第一走者だったケーブルカーは、BOBラウターブルンネン駅の山側にある山麓駅から、標高1486mのグリュッチュアルプまで直線的に上っていた。路線延長は1.42kmで、高度差690mあった。動力は、当時普及していたウォーターバラスト方式が採用された。ウォーターバラスト(水の重り)というのは、釣瓶のように、山上で水を積んだ車両がその重みで下降し、ケーブルにつながれた麓の車両を上昇させる仕組みだ。しかし、作業時間の短縮と車両の大型化に対応するために、1900年代初めに電気運転に切替えられている。

第二走者の山上鉄道は初めから電気運転で計画されたが、これは当時としては大胆な選択だった。先行するBOBはいうまでもなく、少し遅れて1893年に開通したシーニゲ・プラッテ鉄道 Schynige Platte-Bahn も、ヴェンゲルンアルプ鉄道 Wengernalpbahn も蒸気運転だ(下注)。しかし、山上鉄道の場合、蒸気機関車本体は分解して運び上げるとしても、燃料調達を日常的に麓から行うのは現実的でなかっただろう。

*注 ユングフラウ鉄道 Jungfraubahn だけは地中区間が長いため、最初から電気運転で建設されたが、地上区間(クライネ・シャイデック~アイガーグレッチャー)が開通したのはBLMの7年後の1898年、全通は1912年。

次に検討されたのは蓄電池式電車だ。しかし、当時の蓄電池は耐用年数が短いばかりか、重量で線路を傷めることが懸念されて、見送られた。最終的に架空線方式が採用されたのだが、スイス国内ではまだ珍しく、レマン湖畔ヴヴェーの路面軌道、バーゼル=ラント準州の路面軌道(下注)に次いで、実用化では3番目だった。両路線とも廃止されてしまったので、現在は、BLMが国内最古の粘着式電化鉄道になっている。

*注 前者は正式名ヴヴェー=モントルー=テリテ=シヨン路面軌道 Tramway Vevey—Montreux—Territet—Chillon (VMC) 、1888年5月開通、1952~58年段階的廃止。後者はジサッハ=ゲルターキンデン鉄道 Sissach—Gelterkinden-Bahn (SG)、1891年5月開通、1916年廃止。

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ラウターブルンネン村とシュタウプバッハ滝 Staubbachfall
(WABの車窓から撮影)

開通式は6月1日に予定されたものの、車両の送達が間に合わなかった。後でようやく届いたものの、試運転中に客車が脱線してひどく損壊し、その影響で別の客車も、運輸当局から安全性に疑念があるとして使用の差止めをくらうなど、さんざんなスタートとなった。とりあえず貨車を人が乗れるように改装して充当した、というのが8月14日開通当日の真相だ。その一方で鉄道の人気は高く、押し寄せる利用者をさばくのに苦労したという。機関車3両と客車が揃って、山上鉄道が完全な形で開通したのは翌1892年5月になってからだった。

ケーブルカーの敷設ルートは、谷の西側に連なる断崖がとぎれた場所をうまく選んでいる。100年以上もそうして運行されてきたが、設計者の誤算があったとすれば、それはこの斜面の一部が地滑り地帯だったことだ。建設以来、地盤が横方向に最大2.5m、下方向に同じく3m以上動いており、BLMはそのつど対策工事を迫られてきた。

ロープウェーなら、地質の安定した場所に支柱を立て、地すべりの恐れがある斜面をまたぎ越すことができる。運行の安全性を担保するために、連邦運輸省はケーブルカーの営業認可を2006年半ばまでとして、転換を促した。ルートは変更せず、駅施設も再利用することにしたため、ケーブルカーの運行は、着工に先立つ2006年4月23日限りで休止となった。工事が完成し、ロープウェーで運行が再開されたのは同年12月16日で、この間8か月あまり、BLMでは、山上鉄道だけが列車本数を削減した臨時ダイヤで動いていた。

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ラウターブルンネン~グリュッチュアルプ間の地形図
(上)ケーブルカー時代(地図は1998年版)
(下)ロープウェー転換後(同 2006年版)
スイス官製1:25,000地形図ラウターブルンネン Lauterbrunnen 図葉の一部を使用

筆者が初めてBLMに乗った1984年には、もちろんケーブルカーが健在だったが、昨年(2013年)8月に再訪したときは、ロープウェーに置き換わっていた。ケーブルカーの路盤はすでに撤去され、痕跡すら定かでなかった。新しいロープウェーのキャビンは、一度に100人を運べる大型のものだ。山麓駅の乗場にはけっこうな行列ができていたのだが、難なく全員が車内に収まった。

ケーブルカーのルートをなぞって斜面を這い上がるので、側窓の眺望は望み薄だろう。そう考えて谷側の窓のほうに寄っていたのだが、実際、針葉樹林が両側に迫ってくるため、視界は縦方向にしか広がらない。その狭いフレームのなかで、谷を隔てた山の中腹に広がるヴェンゲン Wengen の村が目の高さになり、そして眼下に沈んでいった。1台の搬器が往復しているだけですれ違いがないせいもあって、あれよと言う間に山上駅に到着する。ケーブルカーの時代は片道11分(当時の時刻表による)かかっていたが、ロープウェーならわずか4分だ。

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(左)ラウターブルンネンBLM駅舎 (右)ロープウェーの大型キャビン
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(左)ロープウェーの車窓から(2013年)
(右)旧ケーブルカーの車窓から(1984年)

グリュッチュアルプでの乗換はスムーズ、と言いたいところだが、夏のシーズン中で利用者が多い。山上鉄道のホームで待っていたのは、1967年製造(1997/98年改造)のBDe 4/4形単行電車。定員が座席56名+立席44名、計100名なので、数字上はロープウェーからの乗換客を収容できるはずだが、大きなバックパックを背負っている人のことは計算に入れているまい。案の定、車内はデッキを含めて、ぎっしり満員御礼の状況になり、運転席の右側の折畳み椅子も、臨時の敬老シートに転用された。予想外の混雑だが、終点までは所要14分なので、少しの辛抱だ。

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(左)グリュッチュアルプに到着 (右)山上鉄道に乗換え

粘着式鉄道は軌間1000mm、斜面を水平に移動しているように見えるが、実態は最急勾配50‰、最小曲線半径40mの、けっこうな山岳路線だ。全長わずか4.3kmの間に、高度150mを上っていく。車窓の眺望はミューレン行きの場合、一方的に左側に開ける。スイスの絶景鉄道は数々あるが、ユングフラウ三山をこれほど近くから良い並びで拝めるというのは、この路線だけが持つアドバンテージだ。

グリュッチュアルプを出ると、まもなく草原が広がる区間があり、左手前方にくだんの雪山が見えてくる。中間地点のヴィンターエック Winteregg で、対向列車をかわした後、線路は張出し尾根を巻くためにU字谷のへりに最も近づいていく。運転席の後ろにかぶりついていると、まるで雪山に向かって突進しているように錯覚する。線路の左手には高さ700~800mもある大断崖がぱっくりと口を開けているのだが、目の前の雄大な風景に夢中で、足もとのことは誰も気に留めない。

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(左)運転台拝見 (右)かなたにヴェンゲンの村とメンリッヒェン
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(左)ヴィンターエックで列車交換(帰路写す)
(右)対向列車が下りてくる。右上の目のマークは、フロントガラスに貼られたワンマン運転(乗車券を車内で発売しない)の目印
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(左)雪山が車窓に迫る (右)遊歩道が線路に沿う

気がつくと、終点ミューレンが目の前に迫っている。大して乗った気がしないうちに、早やホームに到着だ。駅は村のはずれに位置している。駅前で二手に分かれる道を、左に行くのがメインストリートだ。

大きな木組みの家が立ち並ぶ村の中は、一般車の通行が禁止されている。ぶらぶら歩いて静かな村を通り抜けると、鉄道駅とは反対側のロープウェー乗場に着くだろう。ここから007の展望台シルトホルン Schilthorn に上るもよし、時間がなければ谷底のシュテッヘルベルク Stechelberg へ降り、バスでラウターブルンネンに戻るというコースもとれる。このロープウェーは1967年の全通以来、BLMのライバル的存在だが、BLMのロープウェー転換工事の際には、山上の村にとって貴重な代替交通手段になった。車の入らない村では、両者持ちつ持たれつの関係が成立しているのだ。

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(左)終点ミューレンに到着
(右)駅構内にはためくベルン州旗とミューレン村旗。なお、左にいるBe 4/4形31号機は、2011年1月に運用開始したBLMの新顔(ASmの中古車を改修)
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(左)ミューレン村の「大通り」、一般車は乗入れできない
(右)アルメントフーベル Allmendhubel の展望台に上るケーブルカー
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ミューレンの町裏からの眺望

■参考サイト
ユングフラウ鉄道公式サイト http://www.jungfrau.ch/

この記事は、Florian Inäbnit "Schweizer Bahnen, Berner Oberland" Prellbock Druck & Verlag, 2012、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

ご参考までに、その他の山上鉄道(筆者が思いつくもののみ)のリストを挙げておこう。

日本
・信貴山急行電鉄(大阪府、奈良県):粘着式の山上鉄道は廃止、ケーブルカーは近鉄西信貴鋼索線として残存
・住友別子鉱山鉄道(愛媛県):廃止

スイス
・エモッソン観光鉄道 Train Touristique d'Emosson :ケーブルカー+軌間600mmのトロッコ鉄道+小型ケーブルカー
・リギ・シャイデック鉄道 Rigi-Scheidegg Bahn :廃止(本ブログ「リギ山を巡る鉄道 V-リギ・シャイデック鉄道」で詳述)

ドイツ
・オーバーヴァイスバッハ登山鉄道 Oberweißbacher Bergbahn :ケーブルカー+標準軌鉄道

オーストリア
・ライセック登山鉄道 Reißeck-Bergbahnen :ケーブルカー+軌間600mmのトロッコ鉄道

フランス
・アルトゥスト小列車 Petit Train d'Artouste :ロープウェー+軌間500mmのトロッコ鉄道

イタリア
・リットナー(リッテン)鉄道 Rittnerbahn :ロープウェー+軌間1000mmの狭軌鉄道。ロープウェーは旧 ラック式鉄道を転換したもの

2014年11月26日 (水)

コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地

舞鶴を歩いた翌日5月4日は、滋賀県北西部の高島市へ出かけた。吹く風は爽やかだが、初夏の日差しがまぶしく、ちょっと汗ばむほどの陽気になった。

コンターサークルS「地図の旅」本日の目的地は、百瀬川(ももせがわ)扇状地。百瀬川というのは、滋賀・福井県境の野坂山地から流れ出て、琵琶湖の北端近くに注ぐ小河川だ。後で述べる理由で山から大量の土砂を運び出し、山麓に扇を開いた形の堆積地、いわゆる扇状地を造りあげた。模式的な形状から、甲府盆地の京戸川(きょうどがわ)などと並び、地理の教科書に取り上げられることも多い。

加えて扇端では、河床が周囲より高い天井川になっている。横切る道路は橋ならぬトンネルで川底をくぐり抜け、しかも、車道用と歩道用が親子のように並んでいるそうだ。地図の旅には、かなり魅力的なエリアであることは間違いない。

堀さんのおしらせには、湖西線近江今津駅に11時18分集合、車で百瀬川扇状地に移動して、扇頂から扇端に向かって歩く、と書かれていた。持参する地形図は、1:25,000「海津」図幅だ。

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百瀬川扇状地付近の地形図(原図は1:25,000)に、歩いたルートを加筆
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同じ範囲の旧図 1975(昭和50)年修正測量

車窓に映える湖の風景を愛でながら、京都から普通電車で約1時間、近江今津に降り立つ。改札前に集まったのは全部で6人。堀さんのほか、地図研究家の今尾さん、30年来の会員である相澤さん、廃道・隧道愛好家(!)の石井さん、廃道と火の見櫓マニア(!)の外山さん、そして私。いずれ劣らぬユニークでパワフルなメンバーだ。

相澤さんと外山さんの車に分乗して、さっそく扇状地へ向けて出発する。今津駅から現地まで6kmほどの距離がある。旧街道から左に折れて、水田の中の一本道を上っていく。山林との境に張り巡らされた獣避けのものものしいフェンスを抜け、百瀬川の河原に突き当たったところで、車を降りた。

若葉萌える季節で、山肌を覆う緑のグラデーションが目に優しい。川の上流に目をやると、何段にも組まれた堰堤から、かなりの幅をもって水が流れ落ちているのが確認できる。「ここは水量がたっぷりありますね」。誰からともなくこの言葉が出たのは、水量が本日観察すべきお題の一つだからだ。

扇状地は砂礫の堆積なので、扇頂では水量が豊富でも、流下する間にどんどん地中に浸透していく。しまいに地表から水流が消失して、涸れ川になってしまう。1975年の旧版地形図(上の地形図参照)では、扇端から約800m下流で涸れ川を表す破線記号に変わっているが、実際にどのあたりで水が消えるのかを、この目で確かめたいと思っている。

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扇頂にて (左)緑の山肌と水量たっぷりの堰堤 (右)本日のメンバー

右岸の砂利道を、下流へ向かって歩き始めた。林道のようだが、右側(川の反対側)を見ると、数mの落差がある。道は堤防上に載っているのだ。昔はおそらく、大水のたびに濁流が、旧河道を通って扇端の集落を襲っていたのだろう。それで、被害を防ぐために堤防を築いて、集落がない北東方向へ流路を固定させたのだと思われる。地形図で等高線を読み取ると、河床も周囲より高い。絶え間ない砂礫の堆積で、扇状地上ですら天井川と同じ状態になっているようだ。

ところで、この1:25,000「海津」図幅の新刊は、見慣れた図式とはかなり趣きが違う。昨年(2013年)11月から、デジタルデータ(電子国土基本図)からの出力イメージを使用した新図式に切り替わったからだ。多色化やぼかし(陰影)の付加など、相当手が加えられているが、今尾さんは、「地名の階層が無視されているし、新図式には、まだいろいろと改善すべき点があるんですよ」と指摘する。1:25,000の改革は、A1判の折図(1998年~)といい、世界測地系移行に伴う図郭拡大版(2003年~)といい、どれも全国を一巡しないうちに頓挫している。今回の企画は果たして長続きするのだろうか。

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少し歩いたところで、草むらに腰を下ろして昼食にした。コンビニで軽食を買ってきている人が多いなか、崎陽軒のシウマイ弁当を開ける今尾さんに、羨望の視線が注がれる。私は、堀さんの著書「誰でも行ける意外な水源・不思議な分水」(東京書籍、1996年)をリュックから取り出した。実は百瀬川には、ほかにも地形ファンにとって興味深い場所がある。それが、隣の石田川の上流を奪った河川争奪の跡だ。この本には堀さんが、地形の変化で山上の湿原と化した石田川源流域を見に行かれたときのことが記されている。

争奪後、百瀬川は旧 石田川の上流部を激しく侵食していき、谷の出口に土砂をうず高く積み上げた。これが扇状地発達の原因だ。地形図では、山中に多数の砂防堰堤が描かれているが、これも侵食に伴う山腹の崩壊を食い止めるための対策に他ならない。

百瀬川の不思議はまだある。地形図(下の1:50,000地形図参照)で、最上流部に注目していただきたい。通常なら谷が狭まり急傾斜になるところだが、この川は遡るにつれ、等高線の間隔が開いていき、福井県との県境は広い谷間が別の谷で断ち切られた、いわゆる風隙(ふうげき)になっている。どうやら百瀬川自体(あるいは争奪以前の石田川)も、ここで河川争奪に遭ったらしい。

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上流にある2か所の河川争奪跡(1:50,000地形図)

奪った相手は、若狭湾に注ぐ耳川だ。さらに地形図を追うと、この争奪跡の北の尾根筋に、緩傾斜の鞍部が2か所見いだせる(下の1:25,000地形図の円で囲んだ場所)。百瀬川の谷頭よりいくらか標高が高いので、少なくとも近接している1か所は、耳川の侵食を辛うじて免れた百瀬川か、その支流の旧河道ではないだろうか。

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旧河道(?)の残る最上流部(1:25,000地形図)

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(左)堤防道路を下流へ向かう (右)流れが消失した堰堤

再び歩き出してまもなく、流れはほとんど見えなくなり、扇端から約700mの堰堤(冒頭の新版地形図に位置を記載)で早くも消失してしまった。山から送り出される水量によって消失地点が移動するとはいえ、旧版地形図の描写がほぼ正確であることがこれでわかった。それに比べて新図では、河口まで水が流れているように描かれている。過去の現地調査の成果がきちんと継承されていないのは残念だ。

問題が一つ解決したので、次のお題、「120.0mの三角点を探せ」に移る。地形図には、百瀬川の堤防道路の上に120.0の数値を添えた三角点が描かれている。それを実地で探そうというわけだ。堰堤の横なのでわけなく発見できるはずだったが、意外にも見当たらない。あちこち探し回った末、あったのは草むらに隠れていた県の基準点のみ。結局それが、地形図の三角点に代わるものかどうかはわからなかった。

とはいえ、基準点を置くだけあって、このあたりは見晴らしがいい。南東方向は、田園地帯ごしに琵琶湖と竹生島、北は、近辺の観光名所になったマキノのメタセコイヤ並木が望める。展望台でもなんでもない場所だけに、少し得をしたような気分になった。

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(左)メタセコイヤ並木を遠望 (右)琵琶湖に浮かぶ竹生島

右手に国道161号線(湖北バイパス)が近づいてきたところで、道路は堤防から降りていく。本格的な天井川の始まりだ。「水が流れているかどうか見てきます」。廃道探索よろしく、石井さんと外山さんは、生い茂る背丈の高い草をものともせず川の堤を上っていった。

突き当りが県道で、本日の旅の終点、百瀬川隧道がある。トンネルの暗闇というのは、不安や畏怖の念と同時に、冒険心、探究心を掻き立てずにはおかない。このトンネルは長さこそ36mと短いが、河底を潜るという特殊な形態が人を惹きつける。昨日の北吸トンネルより時代が下って、竣工は1925(大正14)年。そのため、ポータルはそっけないコンクリート製だ。隧道名を書いた扁額も、北口は面目を保っているが、南口のそれは雑草に覆われてよく見えない。天井高は3.3m、横幅も十分でなく、内部で車どうし離合するのは困難だ。

これが親トンネルだとすると、子トンネル(歩道トンネル)はどこにあるのだろうか? 見回すとそれは、親から少し間隔を置いた東側に掘られていた。こちらは思い切り小型だ。天井の高さはわずか2m程度、背の高い人なら自然と頭を屈めたくなる。内部は蛍光灯が点っているとはいえ、昼間でも薄暗く、ましてや夜に一人で通るのは勇気が要るだろう。

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百瀬川隧道 (左)親トンネル南口 (右)右側にあるのが子トンネル
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(左)天井高は大人の背丈ぎりぎり (右)薄暗い内部
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(左)子トンネルを示す標識 (右)親トンネル北口
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(左)トンネルの脇で、つがいの(?)ミヤマカワトンボが見送ってくれた
(右)帰りにメタセコイヤ並木をドライブ

百瀬川では今、大規模な改修事業が進行している。1975年の地形図(冒頭の地形図参照)では、北隣の生来川と並行しながら単独で湖に注いでいるが、その後、バイパス建設の際、バイパスの手前に仮の落差工を組んで、生来川へ合流するように流路が変更された。合流した後の川幅も拡張された。現在は、河底トンネルよりさらに上流に落差工を設けて、水を生来川に落とす工事が行われており、それに伴い、トンネルの上はすでに廃河川になっている模様だ。

機能しなくなった天井川は、やがて取崩される運命にある。それと同時に、通行のネックになっている百瀬川隧道も、子トンネルもろとも撤去されてしまうに違いない。車を回すために戻ってくださった相澤さんと外山さんを待つ間、私たちは湖北に残った天井川トンネルの最後の姿を、しっかりと目に焼き付けた。

■参考サイト
百瀬川扇状地&マキノ夢の森 http://www.eonet.ne.jp/~otto/
 地元の方が書かれた百瀬川と扇状地に関する情報サイト
地理B問題解答解説
http://blog.goo.ne.jp/morinoizumi22/
 「百瀬川の天井川」「百瀬川の扇状地」と題するページに地理的な解説がある
旧道倶楽部-百瀬川隧道
http://www.kyudou.org/KDC/kokoku/momosegawa_00.html

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図海津(平成25年11月調製および昭和50年修正測量)、駄口(昭和51年修正測量)、熊川(昭和50年修正測量)、三方(昭和53年修正測量)、5万分の1地形図竹生島(昭和47年編集)、熊川(昭和47年編集)、西津(昭和50年編集)、敦賀(昭和50年編集)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡
 コンターサークル地図の旅-四十曲峠旧国道
 コンターサークル地図の旅-柏峠隧道

2012年1月19日 (木)

モーゼル渓谷を遡る鉄道 II

図1
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モーゼル線のルート
© Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2012

モーゼル線 Moselstrecke の後半、ブライ Bullay 駅を出るところから話を再開しよう。

列車はホームを離れると、右に大きくカーブしながらモーゼル川の横断にかかる。モーゼルを渡るのはこれで3度目だが、この鉄橋は他にはない特徴がある。アルフ=ブライ二層橋 Doppelstockbrücke Alf-Bullay と呼ばれるとおり、上部を鉄道、下部を道路が使うダブルデッキの重厚なトラス橋なのだ。全長314m、船の通行に支障しないよう最長径間は72mとってある。当初の計画は鉄道専用だったのだが、周辺自治体の負担で道路との併用橋が実現した。ブライから対岸のアルフ Alf へ渡るには、渡船が近道だが、車ならこの橋を使うことになる。橋は第2次大戦中、反攻する連合軍の爆撃を受けて破壊されたため、1947年に再建された。

■参考サイト
アルフ=ブライ二層橋の写真(Wikimedia)
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Doppelstockbr%C3%BCcke_Alf-Bullay_2010.jpg

図2
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コッヘム、ブライ付近拡大図
© Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2012

橋の先に長さ458mのプリンツェンコプフトンネル Prinzenkopftunnel が待ち構える。プリンツェンコプフ(皇太子の頂)というのは、トンネルが貫いている山の頂の名前だ。ここはツェルのモーゼル湾曲 Zeller Moselschleife と呼ばれる大蛇行の付け根に当たり、谷を巡るモーゼル川が左右両側に迫ってくる景勝地として知られる。1818年、プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)がアルフの町に行啓してここを訪れたことから、山名がついた。頂には展望台(標高233m)がある。また、川に挟まれた細い尾根の先は、マリエンブルク Marienburg という聖アウグスチノ会女子修道院跡で、16世紀に廃絶してからは堡塁に利用されていた。現在は司教区の青少年研修センターになっている。

■参考サイト
マリエンブルクの眺め(Wikimedia)
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Mosel_Marienburg_Umgebung.jpg

プリンツェンコプフトンネルを出ると、モーゼルの流れが再び左側に移るが、それは次のトンネルに入るまでのわずかな間に過ぎない。ここで注目したいのは、列車が走っているのが地面の上ではなく、ぶどう畑が広がる斜面に半分浮くように築かれた高架橋の上だということだ。距離がけっこう長く、全体が左に緩くカーブ(半径700m)しているので、列車の窓からも観察できる。これはピュンダリッヒ斜面高架橋 Pündericher Hangviadukt と呼ばれ、モーゼル線きっての撮影名所になっている。長さは786mもあり、7.2m幅の支間をもつアーチが92個整然と連なる。橋脚を立てるために礫層に覆われた急斜面を掘削するのは、かなりの難工事だったという。

■参考サイト
ピュンダリッヒ斜面高架橋(Wikimedia)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Hangviadukt_Puenderich_2005-09-25.jpg

図3
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ピュンダリッヒ付近詳細図(1:50,000)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz, 2012

高架橋の南のたもとに、かつてピュンダリッヒ Pünderich 駅があった。駅名のもととなった村は対岸の滑走斜面に立地しているが、橋がないため駅の利用者が少なく、廃止されてしまった。モーゼル線は右にカーブしながら、長さ503mのライラーハルストンネル Reilerhalstunnel に突っ込んでいく。地図でわかるように、線路はここで蛇行を繰り返すモーゼル河谷を離れ、アイフェル山地Eifelとの間に広がるヴィットリッヒ盆地 Wittlicher Senke を駆け抜ける。次にモーゼル川と出会うのはプファルツェル Pfalzel で渡る鉄橋だが、46kmも先だ。

一方、ピュンダリッヒ旧駅から分岐する支線がある。正式には起終点の駅名をとってピュンダリッヒ=トラーベン・トラールバッハ線 Bahnstrecke Pünderich - Traben-Trarbach(以下、トラーベン線)というのだが、近年は観光客向けにモーゼルワイン鉄道 Moselweinbahn という愛称を掲げるようになった。運行は毎時1本の気動車で、ブライで本線列車と接続する。名称から、モーゼル川沿いのワイン産地を縫って走るモーゼルワイン街道 Moselweinstraße(下注)のような大規模なものと混同してはならない。こちらは、モーゼル河畔のトラーベン・トラールバッハ Traben-Trarbach へ行く延長10.4kmの短いローカル線だ。

この路線はモーゼル線のわずか4年後、1883年に早くも開通している。この地域がつとに知られたモーゼルワインの主要集散地だったからだろう。1900年ごろ、町はフランスのボルドーに次ぐワイン取引量を誇っていたといい、当時流行のユーゲントシュティール(ドイツのアールヌーボー様式)をまとう建造物に繁栄の証しが窺える。駅には貨物用の側線が設けられ、農産物を載せた貨車とともにワインを詰めたタンク車が各地に送り出されていたそうだ。

*注 モーゼルワイン街道は、ロマンティック街道 Romantische Straße などと同様、観光用ルート(休暇街道 Ferienstraße)の一つ。コブレンツからフランス国境まで242kmある。

■参考サイト
トラーベン線の歴史
http://www.kbs621.hochwaldbahn.info/reload.html?moselweinbahn.html
 トラーベン・トラールバッハ駅の配線図や当時の時刻表がある。
ドイツワイン研究所 Deutsches Weininstitut
http://www.deutscheweine.de/

しかし、盲腸線の悲哀はいずこも変わらず、利用者減少で1980年代には休止が検討されるに至った。町の少し上流に、同じくワイン取引で栄えたベルンカステル・クース Bernkastel-Kues がある。ここにもモーゼル線の支線があり(下注)、同じ1883年に開通したトラーベン線の姉妹のような線区だったが、整理対象となり、1985年に旅客輸送、1989年に貨物輸送も止められて、自転車道に転換されてしまった。

*注 正式名称はヴェンゲローア=ベルンカステル・クース線 Bahnstrecke Wengerohr – Bernkastel-Kues といい、モーゼル線のヴェンゲローア Wengerohr(現在のヴィットリッヒ中央駅 Wittlich Hbf)とベルンカステル・クース Bernkastel-Kues を結んだ長さ15.1kmの支線。廃線跡は、マーレ=モーゼル自転車道 Maare-Mosel-Radweg の一部になっている。

■参考サイト
ヴェンゲローア=ベルンカステル・クース鉄道線 資料集
http://www.kbs622.hunsrueckquerbahn.de/
 ベルンカステル・クース駅の写真や当時の時刻表がある。

ところが、トラーベン線は運命を共にしなかった。観光開発の可能性を見込まれて、1時間間隔の運行と新型車両の導入が図られ、その結果、息を吹き返すことができたのだ。この運行形態は今も続いている。ただ、貨物のほうは廃止されたため、ホームが200mほど手前に移築された。歴史的な価値のある駅舎はもとの場所に保存されているが、不要となった旧構内はバスターミナルに改装されて跡をとどめない。

図4
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ヴィットリッヒ周辺
© Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2012

さて、モーゼル線のほうに話を戻そう。ライラーハルストンネルを抜けると、車窓は一変し、狭い谷間から農地の広がる緩い起伏の土地へと移る。沿線の町には目もくれず目的の西部国境をめざして平原を直進していくさまは、戦略的鉄道の使命を思い起こさせる。盆地の中心都市ヴィットリッヒ Wittlich もしかり。インターシティ(IC)も停車する中央駅 Hauptbahnhof(Hbfと略す)は、市街から南に4kmも離れた場所にある。

もともと市街地近くにはモーゼル線の支線であるヴェンゲローア=ダウン線 Bahnstrecke Wengerohr - Daun(以下、ダウン線)の駅があった。そちらが本来のヴィットリッヒ駅であり、現中央駅のほうは所在する村の名であるヴェンゲローア Wengerohr を名乗っていたのだ。しかし、閑散ローカル線だったダウン線の旅客輸送が休止される1年前、1987年9月にヴェンゲローアがヴィットリッヒ中央駅に、本来のヴィットリッヒはヴィットリッヒ市駅 Wittlich (Stadt) に改称された。2001年のダウン線廃止に伴い、市駅は消え、中央駅だけが残っている。市内に駅が一つしかないのに中央駅を名乗る珍しい例だ。

*注 ヴェンゲローア=ダウン線 Bahnstrecke Wengerohr - Daun は延長40.8km、1885~1909年開通。1981~1988年旅客輸送休止、2001年廃止。

図5
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トリーア周辺
© Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2012

やがて、アイフェル線 Eifelstrecke が右手の谷間から出てきて合流する。エーラング Ehrang の貨物駅の横をすり抜け、4度目となるモーゼル川を渡って、線路はいよいよトリーア Trier 市街に入っていく。

古都トリーアの見どころはガイドブックに任せるとして、この町でのモーゼル線(下注)の歴史に触れておこう。同線が開通した1879年、すでにトリーアは鉄道の要衝だった。1860年に南のザールブリュッケン Saarbrücken からザール線 Saarstrecke が、1861年に西のルクセンブルク Luxembourg からモーゼル=ジューアタール線 Mosel-Syrtal-Strecke が、1871年に北のケルン Köln 方面からアイフェル線 Eifelstrecke がこの町に到達していたからだ。しかし、当時のトリーア駅は現在の中央駅ではなく、市街地からモーゼル川を渡った対岸に設置されていた。

*注 ここでは、同時に開通したトリーア以西のオーバーモーゼル線 Obermoselstrecke(上モーゼル線の意)と呼ばれる区間を含めて、モーゼル線と記述する。

これに対して新参のモーゼル線は、市街の東側を通るまったく独自のルートを採用した。その理由はおそらく、市街に近づけるという営業上の理由よりも、輸送路のバイパス機能を重視したからだと考えられる。既存3線のジャンクションは、南西8kmにあるコンツ・モーゼル鉄橋 Konzer Moselbrücke の北詰めにあった。モーゼル線もこの鉄橋を経由させれば経済的なのは明らかだが、列車が多方向から集中して運行上のボトルネックになる。カッセル Kassel やギーセン Gießen の例で見てきたように、戦略的鉄道は往々にして、列車が輻輳する市街地やジャンクションを避けようとした。新ルートが選定されるのは必然だった。

モーゼル線に設けられたトリーア中央駅 Trier Hbf は、川向うの旧駅から市の代表駅の座を奪った。旧駅はトリーア西駅 Trier-West と改称され、路線もトリーア西線 Trierer Weststrecke と言われるようになった。その後1983年の旅客列車廃止で、西駅は事実上廃駅となり、同線は現在、貨物だけが運行されている。

ベルリン~メス間805kmの大砲鉄道計画では、全線の約6割にあたる511kmの新線が建設されたが、その中で今も幹線の機能を担っているのは、ほぼこのモーゼル線に尽きる。ここまで見てきたように、モーゼル川という天然の通商路に沿い、都市間交通を担えるルート設定だったことが、路線の利用可能性を拡張した。戦争目的で計画された鉄道が、地域の発展にも貢献することができた幸福な例といえるだろう。大砲鉄道そのものは、終点メス Metz までまだ100kmばかり続いているが、跡をたどる旅はこの辺で幕としたい。

モーゼル川の旅に携行する旅行地図としては、ラインラント・プファルツ州測量局が刊行する1:50,000休暇地図 Freizeitkarte「モーゼル体験ルート Mosel.Erlebnis.Route」(下写真の左側)がお薦めだ。1:50,000官製地形図上に、ハイキングやサイクリングルート、観光関連施設等を表したもので、コブレンツからトリーアを経てペルル Perl まで、ドイツ国内のモーゼル川周辺を1枚(両面刷り)でカバーしている。

もっと詳しい地図が必要なら、同じ出版元から出ている1:25,000休暇地図「モーゼル山道 Moselsteig」(同 右側)がある。こちらは3点(基本はばら売りだが、セット販売もある)で上記のエリアをカバーする。これらの旅行地図は、日本のアマゾンや紀伊國屋書店のウェブサイトでも扱っている。"Topographische Freizeitkarte Mosel" あるいは "Moselsteig" などで検索するとよい。

Blog_germany_freizeitkarte4

本稿は、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipediaドイツ語版の記事(Moselstrecke, Doppelstockbrücke Alf-Bullay, Marienburg (Mosel), Bahnstrecke Pünderich–Traben-Trarbach, Bahnstrecke Wengerohr–Bernkastel-Kues, Eifelstrecke, Trierer Weststrecke, Mosel-Syrtal-Strecke)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:500,000 Blatt Südwest(1986年版)、同1:200,000 CC6302 Trier(1984年版)、ラインラント・プファルツ州1:50,000 L5908 Cochem(1989年版)を用いた。

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