2018年7月20日 (金)

北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

(旧)シュピーカーオーク島鉄道 Spiekerooger Inselbahn
 駅 Bahnhof ~埠頭 Anleger 3.5km
 非電化、軌間 1000mm
 開業 1885年(馬車鉄道)、ディーゼル化 1949年、廃止1981年

(現)保存馬車鉄道 Museumspferdebahn
 延長1.0km、軌間 1000mm、開業 1981年

「緑の島 grüne Insel」。大きく育った樹木が村の家並みを覆うシュピーカーオーク Spiekeroog は、好んでそう呼ばれてきた。島は、ランゲオークとヴァンガーオーゲの間に位置する。面積は18平方kmで、ランゲオークよりやや小さいだけだが、人口は800人に満たない(2016年)。年間旅行者数も東フリジアの有人7島中、バルトルムに次いで少なく(2016年、94,055人)、それが、静けさを求める人にとって至高の場所とされるゆえんだ。

Blog_insel_spieker1
緑に包まれるシュピーカーオーク村の中心部。右奥の建物は村役場 Rathaus

その環境を守るために、島では徹底した交通政策がとられている。カーフリー(下注1)はいうまでもない。自転車にすら制限が課されていて、村(下注2)の中心や北岸のビーチに通じる一部の道は走行禁止だ。旅行者向けのレンタサイクルは存在せず、本土から持込む場合は30.90ユーロが徴収される。居住圏はせいぜい2km四方なので、島内の移動は歩きが前提になっている。

*注1 カーフリーのどの島もそうだが、業務用電動車は走っている。
*注2 小さな自治体 Gemeinde なので、本稿では「村」の語を使用する。

Blog_insel_spieker_map1

Blog_insel_spieker_map2
シュピーカーオーク島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

そのような島にも、ほんの30年前までディーゼル動力の列車が走っていた。他の島と同じように、フェリーが着く旧埠頭と村の入口との間3.5kmを結んでいたのだ。さらに驚くことに、鉄道が導入されたのは1885年で、東フリジア諸島ではボルクムに次いで早かった。もとよりそれは馬車鉄道で、村の中心部からヴェストエント Westend(西端の意)に開設された紳士用ビーチ Herrenbadestrand(下注)まで長さ1.6km、1000mm軌間の鉄道だった。その上を、馬に牽かれた華奢な客車がころころと走った。目的からして、夏の間だけの運行だった。

*注 当時、紳士用ビーチとは長さ500mの緩衝地帯を隔てて婦人用ビーチ Damenbadestrand があり、そこへ向かうダーメンパート Damenpad(婦人の小道の意)の入口にも、馬車鉄道の停留所が設けられた。

1891年、南の干潟に新しい桟橋が開かれると、上記路線の途中で分岐してそこに達する支線が、翌92年に開通する。これが航路接続の始まりだ。初期の線路は干潟の上に直接敷かれており、船が着く満潮時には、馬は胴体まで、車両はしばしば車輪の上まで、水に漬かっていた。

一方、村では1907~08年に正式の駅舎が建てられたが、狭い街路の併用軌道は通行の妨げになった。それで1924年にルートを短縮し、起点が村の西端に移された。その後、ヴェストエントのビーチが海岸浸食を受けて村の北側に移転したため、ビーチ列車は1931年に運行を取り止めたが、桟橋との連絡は継続された。いつしかシュピーカーオーク島鉄道は、ドイツで定期運行する最後の馬車鉄道になっていた。

しかし、第二次世界大戦後は増加する訪問客をさばききれなくなり、1949年、新しい埠頭の建設を機にエンジン駆動に転換される。現在ハルレジール Harlesiel の港で静態展示されている小型ディーゼル機関車(下注1)は、このときの導入機だ。同時にルートも変更され、当初の終点ヴェストエントの手前で分岐して、西側の砂丘沿いに南下するようになった。干潟では、初めて線路が杭桁 Pfahljoch(下注2)の上に置かれ、列車は桟橋に直接乗り入れた。

*注1 「北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編」で言及している。
*注2 直訳で「杭桁」としたが、干潟に打ち込んだ木杭の上に梁を渡した構築物のこと。

1960年代に入ると、「赤列車 roten Zug」「緑列車 grünen Zug」と呼ばれた編成が、旅客輸送を担った。腰に赤色をまとうヴィスマール車両製造所製の中古気動車に、付随客車3両と長物車1両がつくのが「赤列車」だ。ふだんはこの列車で往復するのだが、多客期には、シェーマ社製の小型機関車が、緑色を巻いた2軸客車を牽いて応援に入った。

Blog_insel_spieker2
(左)赤列車 roten Zug。桟橋で気動車を「機回し」中
Photo by Anton aubers at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)緑列車 grünen Zug
Photo by Drehscheibexxx at wikimedia. License: CC0 1.0

残念なことに、この島でディーゼル運行が行われたのは32年間に過ぎない。そのころ、常時波に洗われる桟橋や杭桁軌道は、全面改修が必要な時期に来ていた。村議会は港湾施設を同じ場所で改築するのではなく、より村に近い位置に新たに建設することを決めた。待望の新港は1981年に完成し、村の中心へ歩いて7~8分で到達できるようになった。これに伴い、鉄道は仕事を失い、同年5月29日に正式に廃止された。

Blog_insel_spieker3
(左)本土との間を結ぶフェリー (右)島の新港。訪問客は徒歩で村へ向かう
Blog_insel_spieker4
(左)目抜き通りノールダーローク Noorderloog は最初の馬車鉄道ルート
(右)移転後の駅へ通じるヴェスターローク Westerloog。左側の道が馬車鉄道跡

しかし、シュピーカーオークの鉄道史にはまだ続きがあった。というのも、廃止を見越して、馬車鉄道を復活させる準備作業が進んでいたからだ。プフォルツハイム Pforzheim 出身で元教師のハンス・ロール Hans Roll 氏のリーダーシップにより、その計画は実現する。

車両は、シュトゥットガルト路面電車博物館協会 Verein Straßenbahnmuseum Stuttgart から16人乗りのオープン車両が調達された。線路は旧線のうち、村の駅からヴェストエントまで約1kmの区間が再利用されることになった。そして牽き馬の通路にするため、線路沿いの溝が埋められた。

*注 利用されなかった区間の軌道は撤去された。旧桟橋は長く残っていたが、最終的に2009年に撤去された。

車庫は当初、旧 貨物倉庫が使われたが、後に新築された駅舎棟に引込線と専用のスペースが設けられた。ちなみにこの貨物倉庫は、その続きで線路の北側にあった旧駅舎とともに現在、ピザレストラン「デア・バーンホーフ Der Bahnhof(駅の意)」になっている。

Blog_insel_spieker5
(左)保存馬車鉄道の駅。右側にホームと線路がある
(右)本日の時刻表。当駅発15時と16時、帰着は15時50分と16時50分のみ

島内鉄道の黎明期を彷彿とさせるユニークな保存馬車鉄道はこうしてスタートした。しかしその歩みは常に順調とはいかず、車両を所有する協会が解散して、1997~98年の2年間、休止をやむなくされたことがある。幸い1999年に復活し、隣のランゲオーク島鉄道の改修で出た中古の資材を使って、2005~06年の冬に線路の更新も実施された。今や運行年数はディーゼル運行のそれに匹敵するまでになり、すっかり島の名物として定着している。

シュピーカーオーク観光局のサイトによれば、運行期間は4月中旬から10月中旬までだ。列車は村の駅を毎日12時、13時、14時、15時、16時ちょうどに出発し、45分後に戻ってくる。片道15分程度かかるので、たとえば12時発の列車なら、西の終端(ヴェストエント)に着くのは12時15分ごろ、折り返しの出発が12時30分ごろ、村の駅への帰着は12時45分ごろになる(現地の案内板には12:50着と記載)。もちろん片道だけの乗車も可能だ。

ただし、「風と天候次第で変更がありうる」と注意書きされているように、必ずしも全便が運行されるとは限らない。実際、私が訪れた日は、上天気だったにもかかわらず、15時と16時発の列車しか設定されていなかった。12時前に勇んで駅へ行ったものの、駅舎のドアは閉ざされて、人の気配が感じられない。このまま列車を待つと本土へ帰る船に間に合わなくなってしまうため、空の線路と、囲い場でくつろぐ2頭の牽き馬を写真に収めただけで、その場を立ち去らざるを得なかった。

Blog_insel_spieker6
かつて側線が張り巡らされていた旧駅構内。右の2頭の馬が交替で馬車を牽く
Blog_insel_spieker7
防潮堤の外側の草原を直進する線路

運行状況についてウェブサイトやSNSで告知は行われておらず(下注)、島の観光パンフレットの記述も「実際の運行時刻は、駅の掲示板でご確認ください」とそっけない。考えてみれば、島の訪問者の平均滞在日数は6.43日(2016年)だ。長期滞在客の気晴らしが目的の運行なら、乗る側もそのつもりでのんびり構えるしかないのだ。

*注 ここには挙げないが、駅の掲示には、連絡先のメールアドレスと電話番号が書かれていた。

主役のいない線路の写真ばかりではつまらないので、別の日にシュピーカーオークを訪れて、運よく乗車と撮影に成功したT氏の作品をお借りした。草原を貫くか細げな線路の上を、愛らしい牽き馬に連れられて華奢なオープン客車がのどかに転がる光景を、じっくりご覧いただきたい。

Blog_insel_spieker8
(左)出発を待つ「列車」。エンジンは1馬力、名前はタンメ Tamme、これはフリジア語で、英語なら Tommy とのこと
(右)車内は4人掛けベンチが背中合わせに並ぶ
Blog_insel_spieker9
(左)ヴェストエントに向けて出発。右の線路は車庫への引込線
(右)馭者と車掌と案内人を兼ねるクリスツィアン・ロール Christian Roll 氏。創設者の息子で、馬車鉄道の運行を引き継いだ。ベルリン在住だが、シーズン中はシュピーカーオークで過ごす
Blog_insel_spieker10
陸閘 Deichschart を越えようとする「列車」
Blog_insel_spieker11
(左)陸閘の上は恰好のお立ち台 (右)乗客に島の自然を案内していく
Blog_insel_spieker12
(左)唯一のカーブを曲がれば終点は近い
(右)板張りのささやかなホームがあるヴェストエントに到着

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
spiekeroog.de  https://www.spiekeroog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編

 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道
 開拓の村の馬車鉄道

2018年7月 8日 (日)

北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編

東フリジア諸島の地形を縦断面で見れば、北が高く、南が低い。砂を運んでくる海流に面した北側に、砂丘が発達するからだ。対する南側は陸化が進まず、潮位が高い時に海水が入り込む草地や沼地、いわゆる塩性湿地 Salzmarschen が広がっている。それは沖に向かうにつれ、徐々に泥の干潟に移行していく。

Blog_insel_wanger21
防波堤のベンチは、塩性湿地とそれに続く干潟の展望台

鉄道は、沖合に設置された島の船着き場まで、陸と海のあいまいな境目をしばらく走らなければならない。最初のころは、地面に直接か、そうでなくても干潟に打ち込んだ木杭の上に、線路が置かれた。大潮ではしばしば冠水し、列車が水を掻き分けながら走る光景が古い写真に残されている。

しかし現在、ボルクム Borkum でもランゲオーク Langeoog でも、湿地や干潟の上を行くという感覚はほとんどない。前者は道路と並行する頑丈な築堤の上を走っているし、後者は港の駅の直後に防潮堤の内側に入ってしまうからだ。ところが、ヴァンガーオーゲ島鉄道 Wangerooger Inselbahn は違う。港と町を結ぶ最短ルートとして、今でも線路は、防潮堤の外側の広大な塩性湿地を貫いていく。

この湿地は、何千羽もの海鳥たちの繁殖地だ。世界遺産でもあるニーダーザクセン・ワッデン海国立公園 Nationalpark Niedersächsisches Wattenmeer の一級保護区域(ルーエツォーネ Ruhezone)で、指定通路以外の立入りは厳しく規制されている。ふつうは目にし得ない風景の中を、列車は時速20kmでそろそろと横断していく。ヴァンガーオーゲ駅まで約15分、乗客だけに許されるユニークで貴重な体験だ。

Blog_insel_wanger22
特別保護区域の案内板

Blog_insel_wanger_map3
ヴァンガーオーゲ島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

14時20分、先頭についたシェーマ・ロコに牽かれ、列車は西埠頭 Westanleger 駅を離れた。埠頭の敷地が保護区域に隣接しているので、いきなり大自然の中に放り出された気分になる。丈の低い草や苔で覆い尽くされた湿地が目の届く限り広がり、その間を自由に縫う澪筋は、強風に煽られてさざ波立っている。機関車のエンジン音に驚いて、草むらからカモメたちがばらばらと飛び立つが、慣れてしまったのか、反応しない鳥のほうがずっと多い。

Blog_insel_wanger23
塩性湿地の横断は列車だけに許される特権
Blog_insel_wanger24
広大な湿地は野鳥の繁殖地に

寒さを我慢して、デッキに出てみた。足元を、PC枕木で強化された軌道が流れていく。1995年から10年間かけて改良工事が実施された結果だ。流失を防ぐために、路肩に大きな割石も撒かれているが、線路はわずかな盛り土とバラストの厚みの分、周囲より高いだけだ。潮位が上がれば今でも水に浸かるらしい。列車は、湿地の中心の、澪が集まるヴェストラグーネ Westlagune(西の潟湖の意)の上を、いくつかの小橋でまたいでいく。

Blog_insel_wanger25
(左)ヴェストラグーネを渡る (右)潮が満ちると海中を走るような感覚

右へ大きくカーブするところで、左側から別の線路が合流してくるのが見える。ここはザリーネ分岐 Abzweigung Saline といい、1832年から1854年まで、近くでザリーネ Saline、すなわち製塩所が操業していた。分かれる線路は、島の西端ヴェステン Westen に向かう支線だ。定期列車は走っておらず、林間学校へ行く子供たちを乗せて、臨時列車が運行されるに過ぎない。

緑の低い堤防とワッデン海の間を少し走った後、陸閘にさしかかる。ここでも左後方へ、ごみ処理施設 Müllpressstation への短い引込み線がある。堤防の内側に入れば、早くも駅の構内側線が展開し始める。車両がいくつか留め置かれている中、列車はゆるゆるとヴァンガーオーゲの駅に滑り込んだ。

Blog_insel_wanger26
陸閘から湿地を横断してきた線路を望む
右に分岐するのはごみ処理施設への引込み線

デッキから地表のホームに降り立つ。列車は折り返しで使われるらしく、入れ替わりに待っていた客がまた乗り込んだ。ホームの後部に立てられた柵の向こうでは、フォークリフトがせわしなく動き、長物車から貨物を降ろしている。

Blog_insel_wanger27
(左)ヴァンガーオーゲ駅に到着 (右)ホームの後部では貨物を降ろす作業中

駅舎は、片側に塔を従えた煉瓦壁、寄棟屋根の2階建てで、どこかメルヘンチックな気配が漂う。建てられたのは1906年、ユーゲントシュティール Jugentstil(青春様式)が建築界をも席捲していた時代だ。ファサードに用いられた複雑な曲線や2階窓枠の上下に見られるシンプルな矩形の装飾が、その風潮を反映している。正面の時計の上にはフラクトゥール(ドイツ文字)で「Kehre wieder(帰っておいでの意)」と記され、列車で本土へ旅立つ人の心に何かを訴えかける。

駅舎も、2003年に大規模な改修が施された。外観の歴史的景観を復元する一方で、内部では、観光局とDBの窓口に機能的なオープンカウンターが導入された。ショーウィンドーに飾られた客車の鉄道模型も一旅行者の心に強く訴えかけるものがあるが、そこはぐっとこらえて絵葉書の購入で代えることにした。

Blog_insel_wanger28
ヴァンガーオーゲ駅舎
(左)正面 (右)玄関上部には Kehre wieder の文字と鷲のレリーフ
Blog_insel_wanger29
(左)駅舎の反対側に機関庫がある
(右)踏切から東望。線路はかつて東桟橋まで続いていた
Blog_insel_wanger30
鉄道グッズのショーウィンドー

ヴァンガーオーゲは、有人島として東フリジア諸島の最も東に位置する。そのため、歴史的な位置づけも他の島々と異にしてきた。他がプロイセン領(1866年の普墺戦争以前はハノーファー王国 Königreich Hannover 領)だったのに対し、この島だけはオルデンブルク大公国 Großherzogtum Oldenburg に属していたのだ。この国も1871年からプロイセンが主導するドイツ帝国の一員となったとはいえ、行政上の区分は残された(下注)。

*注 連邦制のドイツ帝国のもとで、オルデンブルク大公国は、君主制が廃止される1918年まで存続した。

Blog_insel_wanger_map21
赤の縁取りがオルデンブルク領。東フリジア諸島でヴァンガーオーゲだけが含まれる
「オルデンブルク及び北海のドイツ湾口 Oldenburg und die Deutschen Strommündungen der Nordsee, 1:850,000」図より
from vol. 12 of Meyers Konversations-Lexikon (4th ed.)

1890年代、大公国は他の島に倣って、ヴァンガーオーゲのリゾート開発に力を入れた。その施策の一つが交通路の整備で、すでに開通していた本土側の連絡鉄道(前回紹介した標準軌のイェーファー=ハルレ線 Bahnstrecke Jever–Harle)を邦有化するとともに、島の側では、桟橋から町までメーターゲージの蒸気鉄道を自ら建設した。これが現在のヴァンガーオーゲ島鉄道で、1897年7月のことだ(下注)。

*注 国鉄組織の改組により所有者は次のように変遷している。1897~1920年 オルデンブルク大公国邦有鉄道 Großherzoglich Oldenburgische Eisenbahn → 1920~1949年 ドイツ帝国鉄道 →1949~1993年 ドイツ連邦鉄道 → 1994年~ ドイツ鉄道グループ

ただし、今のルートとは、かなりの区間で異なっていた。まず、使われる桟橋が季節によって変わり、夏の桟橋 Sommeranleger は現在より約1km西の干潟の中に、海が荒れる冬場の桟橋 Winteranleger はより砂丘に近い位置に、それぞれ造られた。町の駅も今より約300m北に置かれ、現在のバラ公園 Rosengarten の場所にあった。

Blog_insel_wanger_map22
新旧路線の位置関係
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ヤーデ川 Jade 河口に位置するヴァンガーオーゲ島は、帝国海軍によって軍事拠点ともみなされた。島の西に要塞が建設されることになり、資材輸送のため、1901年にヴェステン支線が敷かれた。東の浜でも1904年に、軍港ヴィルヘルムスハーフェン Wilhelmshaven やブレーマーハーフェン Bremerhaven と航路で直結する東桟橋 Ostanleger(下注)が築かれ、鉄道(オステン支線)が延長された。

*注 和訳では桟橋(架設物)と埠頭(固定施設)を区別したが、原語はどちらも Anleger(船着き場の意)。

Blog_insel_wanger31
(左)建設当時の駅舎。ドームの右側は平屋だった(ヴァンガーオーゲ駅の展示を撮影)
(右)東桟橋に到着した列車
Photo by 60cent at wikimedia. License: CC0 1.0

こうして町なかの頭端駅に、西と東から線路が集中する形になったが、あまりに手狭なため、1906年に現位置に、通り抜けが可能な新駅が造られた。旧駅に通じていた線路は、すぐに撤去されて跡形もない。

海軍はヴェステンの要塞に重砲を配置するため、1912年に冬桟橋の東方150mの位置に新しい桟橋(西桟橋)を設けた。そこへ向けて、ザリーネ分岐から干潟を横断する新しい線路が延ばされた。これは1917年から民生輸送に開放され、それまでの季節替わりの桟橋の機能を代替した。これが現在の軽便鉄道のルートになる。

第二次世界大戦中の1945年、軍事拠点のヴァンガーオーゲは連合軍の総攻撃に遭い、焦土化されてしまう。しかし戦後、同じ北海のリゾートであったヘルゴラント島 Helgoland がイギリスの占領下に置かれたため、ヴァンガーオーゲが代替地として脚光を浴びた。島の復興は、この俄か景気によって促進されることになった。

東桟橋からも多数の旅行者が上陸したが、1952年のヘルゴラントのドイツ返還後は利用が激減する。加えて砂が絶えず堆積する場所だったため、1959年をもって廃止され、オステン支線も運命を共にした。それ以降、ヴァンガーオーゲ島鉄道の運行は、西側の2線だけになっている。

宿に荷物を置いて、歩きに出た。すっかり叢林と化した海岸砂丘を縫う小道をたどり、島の南岸に築かれた堤防に上ってみる。外側にはさっき列車で通った塩性湿地が見渡す限り広がっていて、2本のレールだけが例外的な人工物だ。南面は遠浅で海岸浸食のおそれがないので、堤防は高潮による浸水を防ぐのが主目的だ。そのため、見かけは草に覆われた土堤に過ぎず、湿地との境も不分明なくらい、自然に溶け込んでいる。

少しでも風当たりの少ない場所を探して堤防の内側斜面をうろうろしながら、ヴァンガーオーゲ駅行きの列車が来るのをしばらく待った。なにしろ視界を遮るものが何もないから、西埠頭を出発するところから、ずっと姿を追うことができる。17時ごろ、埠頭の高床建物の横から今日の最終列車が動き出した。干潟の向こうをじりじりと移動し、西塔 Westturm を背にして、大カーブを回ってくる。そして、目の前に延びる草原の直線路をゆっくりと通過していった。

Blog_insel_wanger32
西塔を背景に、列車が湿地内の大カーブを回ってくる
手前の線路はヴェステン支線
Blog_insel_wanger33
ワッデン海の前を町の駅へ向かう

堤防道をそのまま進めば、西塔のあるエリアに行き着く。島の風景写真にしばしば登場する西塔だが、実はユースホステルの建物だ。高さは56mあり、1932年に建てられた。デザインは、17世紀初めに造られ、第一次世界大戦前まであった教会の塔にちなんでいる。この先代の西塔は長らくヴェーザー川に入る船の目標とされていたのだが、激しい海岸浸食を受けて海に没してしまった。以来、この新しい西塔が、島のシンボルを継承しているのだ。

*注 14~16世紀には、現在の西岸からさらに約5km西(現在は海の中)に教会塔があった。17世紀の塔はそれを継ぐもので、その意味で現在の西塔は三代目になる。

Blog_insel_wanger34
西塔は島のシンボル

この付近にはユースホステルや林間学校施設がいくつか立地し、滞在している子どもたちが、町との間を自転車や徒歩で行き来するのを見かける。支線の終点駅ヴェステンも、その一角にひっそりとある。線路はそこからさらに続き、水路・航路局  Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理する資材ヤードに引き込まれていく。

Blog_insel_wanger35
ヴェステン駅
(左)左側がホーム。「34」の標石はオルデンブルク時代に設置された100m単位の距離標 Hektometerstein
(右)駅の先は水路・航路局の資材ヤードに引き込まれる

翌朝少し早起きして、町の中を散策してみた。今日もスマートフォンの天気予報は横風マークで、強風が吹き抜けて肌寒い。通りで出会う人とは「モイン Moin !」と声を掛け合う。一日中使える北ドイツの挨拶ことばだ。手押し車やリアカーに朝の荷物を積んで、人が行き交う。前かごが巨大化した自転車も目撃した。

Blog_insel_wanger36
ヴァンガーオーゲの街路
(左)駅前のツェーデリウス通り (右)前かごが巨大化した自転車、リアカーつき

駅を覗くと、客車はホームに据え付けられているものの、人影はなく、構内はまだ静まり返っている。今日の始発は10時だ。駅前のツェーデリウス通り Zedeliusstraße を戻る途中、保存されている旧灯台 Alter Leuchtturm の敷地に、古い蒸気機関車を見つけた。1929年ヘンシェル Henschel 製の99 211号機だ。蒸気時代の主力機だったが、1957年にディーゼル機関車にバトンを渡して引退した後、1968年から町の文化財として静態保存されている。ボルクム号のように修復され、また走れる日が来ることを祈りたい。

Blog_insel_wanger37
(左)静態保存の99 211号機
(右)カッセルのヘンシェル・ウント・ゾーン株式会社の銘板

宿で帰り支度を整えて、再び駅へ向かった。朝の車内はすいていたが、ガラス越しでない景色を見たくて、最後尾のデッキに移った。列車は陸閘から堤防の外へ出て、あの野鳥の楽園を横断していく。

この島でも、ユーストやシュピーカーオーク島の例に倣って、町に近い港をもつべきだという議論が、過去繰り返されてきた。そうすれば到達時間が一気に短縮され、物流が効率化され、鉄道の維持費も不要になる。しかし、ヴァンガーオーゲはその道を選ばなかった。2012年11月、町議会は最終的に、新しい港湾建設の計画を否決したのだ。

列車は右にカーブしていき、並行して走る澪の先に、西埠頭駅の高床に載った建物が見えてくる。町は新港を造る代わりに、この埠頭の近代化を進める予定で、ホーム扛上によるバリアフリー化や貨物の積替え設備の改良などの計画が発表されている。鉄道が今後も存続するのは確実だが、懐かしい島の軽便のイメージは何年後かに塗り替えられてしまうのかもしれない。

Blog_insel_wanger38
帰路、西埠頭駅へ進入する

次回は、保存馬車鉄道のあるシュピーカーオーク島を訪ねる。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
DB Schifffahrt und Inselbahn Wangerooge  https://www.siw-wangerooge.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年7月 3日 (火)

北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編

ヴァンガーオーゲ Wangerooge ~西埠頭 Westanleger 3.4km
支線(不定期運行):ザリーネ分岐 Abzweigung Saline ~ヴェステン Westen 2.0km
非電化、軌間 1000mm、開業 1897年

東フリジア諸島の東の端で、ようやくイメージどおりの島の軽便に巡り合えた気がした。ヴァンガーオーゲ島鉄道 Wangerooger Inselbahn は、非電化、1000mm軌間の鉄道路線だ。ヴァンガーオーゲ Wangerooge ~西埠頭 Westanleger 間3.4kmを結ぶ本線と、途中のザリーネ分岐 Abzweigung Saline~ヴェステン Westen(下注)間2.0kmの支線があるが、一般の旅客列車が運行されるのは本線のみだ。

*注 ヴェステン Westen は(町の)西を意味するが、地名化しているので原語読みで記す。

Blog_insel_wanger1
ヴァンガーオーゲ島の塩性湿地を横断する列車

この島内鉄道には、二つの際立った特徴がある。その一つは、航路とともにドイツ鉄道 Deutsche Bahn (DB) グループによって運営されていることだ。もともと19世紀末にオルデンブルク大公国邦有鉄道 Großherzoglich Oldenburgische Eisenbahn が開通させ、戦前のドイツ帝国鉄道 Deutsche Reichsbahn を経て、DB(ドイツ連邦鉄道→ドイツ鉄道)に引き継がれた(下注)。これまで見てきた民営のボルクムや公営のランゲオークに対して、生粋の国鉄路線であり、DBとして今や唯一のナローゲージでもある。

*注 現在は、DB長距離輸送株式会社 DB Fernverkehr AG が運行する。

Blog_insel_wanger2
ヴァンガーオーゲの駅名標もDB仕様

二つ目は、運行ダイヤが毎日違うという点だ。本土と島の間の航路が浅いため、船は潮位が高いときしか航行できない。そのため、接続する列車の発着時刻も日替わりになる。DBサイトには、ザンデ Sande 発着の本土側の連絡バスを含めた1年間のダイヤが一覧表で掲載されている。旅行計画を立てるときは要注意だ。

*注 島への航路が潮汐に依存するのはヴァンガーオーゲのほか、ユースト Juist、バルトルム Baltrum、シュピーカーオーク Spiekeroog だが、これらの島には島内鉄道がない。

Blog_insel_wanger3
日替わりの時刻表(一部)。ab は発時刻 Abfahrtszeit の意

ヴァンガーオーゲ島行きの船が出る本土の港は、ワッデン海に面したハルレジール Harlesiel だ。ノルデン Norden から路線バス K1系統で向かった。今日の船は13時発なので、空き時間を使って、2km内陸にある旧港カロリーネンジール Carolinensiel を見に行こうと思う。ハルレジールは船の大型化に伴って1890年に築かれた新港で、それまではカロリーネンジールがこの役を果たしていたのだ。

Blog_insel_wanger4
カロリーネンジール旧港

Blog_insel_wanger_map1

Blog_insel_wanger_map2
カロリーネンジール~ハルレジール付近の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)。なお、描かれている鉄道はイェーファー=ハルレ線だが、すでに廃止されている(詳細は後述)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

北海の島のナロー I-概要」でも記したが、北海沿岸では、内陸の水が干潟に出ていく位置に、高波を防ぐ水門を構えたジール港 Sielhafen が多数造られた。それは島へ渡る船の乗り場であると同時に、漁港であり、貨物港でもあった。周りに宿屋が建ち並び、物資の交易で賑わった。その後、干拓の沖合への進行や、船舶の大型化などで港の機能は失われたが、昔の情景が残され、観光地化しているところも多い。

カロリーネンジールもその一つで、ワッデン海に通じるハルレ川が拡幅され、そこが船溜まりになっている(下注)。堤に沿って歩いてみると、係留中の帆船と、それを取り囲む赤屋根の家並みの組み合わせが絵になる。その一角で、外輪蒸気船 Raddampfer と大書した案内プレートに目が留まった。観光用にハルレジールのヨットハーバー Yachthafen との間を往復しているらしい。連日の快晴から打って変わって、きょうは雲が空を覆い、強い風にときどき雨粒も混じる。ハルレジールまで歩く予定をあっさり変更して、これに乗っていくことにした。

*注 訪れる時間がなかったが、ここにはジール港に関する博物館 Sielhafenmuseum もある。

Blog_insel_wanger5
(左)外輪蒸気船の案内板 (右)蒸気船コンコルディア2世号が到着

コンコルディア2世号 Concordia II は、舷側に水車(外輪)をもつ小型船だった。小型といっても、後で聞くとデッキとサロン室で100人乗れるそうで、見かけによらず輸送力がある。今のようなフェリーが就航する以前は、こうした船が本土と島を結んでいたのだ。

狭い水路に波を立てない配慮もあるのか、船はほとんど人が歩くくらいの速度で進んだ。途中、跳ね橋のかかるフリードリヒ水門 Friedrichsschleuse を通過する。これが外海の高波からジールを護る水門で、1765年に初めて造られた。今でこそ内陸だが、昔はここが河口だったのだ。その外側は川幅が一気に広がり、停泊するヨットの群れの先に、近代的だが不愛想な雰囲気の水門が見えてきた。途中1か所、桟橋に寄港したとはいえ、外輪船は約2kmの水路を、実に40分かけてその水門前に到着した。

Blog_insel_wanger6
(左)狭いフリードリヒ水門を通過
(右)帆船が通れるよう跳ね橋になっている(通過後撮影)
Blog_insel_wanger7
(左)ハルレジール・ヨットハーバー。ハルレジール水門が正面に
(右)40分の小旅行を終えて下船

堤防を越えて、東埠頭のフェリーターミナル Fährhaus へ歩いていくと、ヴァンガーオーゲで使われていたと思しき旧型車両が静態展示されていた。長物車、普通客車が1両ずつと、その奥に少し離れて2軸のディーゼル機関車だ。軌間の違いを示す解説プレートがあるだけで、車両については何ら言及がない(下注)。

*注 深緑色の小型ディーゼル機関車は、ドイツ Deutz 社 OMZ 122 F、1941年製。シュピーカーオーク島で1965年に廃車となり、1969年にドイツ鉄道協会 DEV に引き取られていたが、2000年当地に設置。ヴァンガーオーゲにもごく短期間いたことがある。客車はヴァイヤー Weyer 社1913年製で、ヴァンガーオーゲ島で1992年まで使われていた。1997年設置。

Blog_insel_wanger8
ハルレ旧駅の保存車両
3線軌条は展示用に後補したもの。軌間の違いを説明するパネルも設置

ただし、昔を知る人にとっては、車両が問題ではなく、この場所が保存されていることに意義を認めるはずだ。というのも、ここはかつてDB線の終着駅ハルレ Harle だったからだ(上の地形図参照)。イェーファー=ハルレ線 Bahnstrecke Jever–Harle と呼ばれるその支線は、オルデンブルク大公国時代の1890年にハルレまで開業し、1957年に港の拡張に伴って、現位置へ延長された。航路に接続するティーデツーク Tidezug(潮汐列車の意、下注)がここに発着し、本土での連絡手段となっていた。

*注 潮汐に依存する船の発着に合わせて、ダイヤは毎日変動するため、この名がある。一方、固定ダイヤで走る列車はカロリーネンジール止まりだった。

しかし自動車の普及で、利用者数は減少の一途をたどる。1987年に定期旅客列車が消え、2年後の1989年には貨物列車も廃止となった(下注)。その後、ハルレ駅舎は航路専用になり、線路は構内の今ある部分だけが残された。現役時代は普通の標準軌だったが、メーターゲージ車両を展示するためにレールを1本追加し、3線軌条にしてあるのだ。

*注 列車廃止に伴ってDBの代行バス(ティーデブス Tidebus)が、今もザンデ~ハルレジール間を走り、航路に接続する。

Blog_insel_wanger9
「ティーデブス Tidebus」の表示を掲げた代行バス。ザンデ駅前にて

その駅舎ならぬフェリーターミナルの窓口で、島に渡る往復券(35.10ユーロ)を求める。DBが日帰り専用の時刻表 Tagesfahrpläne を作成しているくらいだから、割安の1日券(26.70ユーロ)もあるのだが、運航が1日2~3便きりなので、日程がうまく組めなかった。今日はキャリーバッグを引いて、島に泊ることにしている。

ここも紙の切符ではなく、ランゲオークと同じく、使い回しの「ヴァンガーオーゲカード WangeroogeCard」を渡された。改札機は本土側にのみ設置されているので、帰路この埠頭に戻ってきたときにカードが回収される。

Blog_insel_wanger10
(左)旧駅は今、フェリーターミナル専用に (右)ヴァンガーオーゲカード

接岸していたのは760人乗りのヴァンガーオーゲ号、この航路の主力船だ。タラップから乗り込み、すぐにデッキに上がってみるものの、昨日までとは大違いでほとんど誰もいない。なにしろ気温は12度、ベンチは雨で濡れている。5月中旬の北ドイツだからと持参したダウンベストが、ここでようやく役に立った。

ちなみにグーグルマップでは、ヴァンガーオーゲ航路が水路の西側の埠頭から出るように描かれている。まったくの誤りではないが、西から出る便はごく少数で、DB日帰り時刻表にしか掲載されていない。ターミナルと主要埠頭は東側で、路線バスの停留所もそちらにある。

Blog_insel_wanger11
(左)ヴァンガーオーゲ号に乗船 (右)あいにくの天気で乗客はみな客室に避難

フェリーは、13時定刻を少し遅れて出航した。例の不愛想な水門と埠頭の施設群が後方に遠ざかると、視界は一面、泥を巻き込んだような土色の海原になった。潮位が上がるタイミングで出たのだから、当然のことだ。船は、航路を示す杭の間をまっすぐ進んでいく。島まで1時間ほどかかるので、いったん暖かい船室に避難する。

Blog_insel_wanger12
ハルレジール港を出航

Blog_insel_wanger_map3
ヴァンガーオーゲ島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

次にデッキに上がったときには、もう島の砂浜に近づいていた。遠く曇り空を背景に、島のシンボルになっている西塔 Westturm と灯台がそびえる。まもなく埠頭(正式には西埠頭 Westanleger)も見えてきた。すぐそばに乗換え客を待つ客車が6両、忘れられたように停まっている。次の本土行きの船にはまだ早いので、ほとんど人影もなくうら寂しい雰囲気だ。

Blog_insel_wanger13
ヴァンガーオーゲ西埠頭に到着。軽便鉄道の客車が待機していた
Blog_insel_wanger14
(左)乗客はフード付きの防寒ジャケットを着込む
(右)貨物の積替作業が手際よく進んでいく

埠頭に降り立ち、強風に飛ばされそうになりながら、そそくさと客車のほうへ向かった。車端のデッキを上って車内に入り、一息つく。

この客車、一見古典的だが、実は1992~93年の新造だ。外装のコバルトブルーとクリームのツートンカラーは、そのころ本土の幹線を疾駆していたインターレギオ Interregio(地域間急行)を連想させる。ブランデンブルク州ヴィッテンベルゲにある旧東独国鉄の修理工場 Reichsbahnausbesserungswerk Wittenberge から計14両が納入され、それによって旧型車が島から一掃された(下注)。

*注 ハルレジールに置かれていた車両もその一部。

しかし、シートや照明その他の内装は、1990年代とは思えない無粋さだ。想像するに、ドイツ再統一前に確保されていた部材も使って安価に仕上げたのではないか。ただ、今ではそれが、離島の旅情を掻き立てる舞台装置の一つになっている。

Blog_insel_wanger15
(左)コバルトブルーとクリームに塗り分けた客車
(右)安っぽい内装がかえって旅情を掻き立てる
Blog_insel_wanger16
機関車が付くのを静かに待つ

機関車はまだ来ない。さっき下船したときは、埠頭の先端で長物車を3両牽いて、船からの積替作業をしていた。この島では、貨物輸送もまだ鉄道が担っている。使われているのはシェーマ Schöma 社の1999年製小型ディーゼル機関車CFL150形で、2両が在籍する(車両番号399 107および108)。すでに他の島でおなじみの顔だが、側面につけたDBのロゴがちょっと誇らしげだ。ほかに、やや無骨な風貌をしたルーマニアのファウル Faur 社製機関車も2両いる(1990年製造、399 105および106)。

エンジンの唸り音で気がつくと、シェーマ・ロコの赤い車体が車窓を横切っていく。埠頭の作業が完了したようだ。機回しされて列車の先頭に付けば、間もなく出発の合図が聞こえてくるはずだ。

Blog_insel_wanger17
(左)DBのロゴを付けたシェーマ・ロコ
(右)機回し線を通って客車の先頭へ移動していった

続きは次回に。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
DB Schifffahrt und Inselbahn Wangerooge  https://www.siw-wangerooge.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月24日 (日)

北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道

ランゲオーク Langeoog ~埠頭 Anleger (Anlegestelle) 間 2.6km
非電化、軌間 1000mm
開業 1901年(馬車鉄道)、1937年 ディーゼル化

ランゲオーク Langeoog は、文字どおり長い(lange)島(oog)だ。地図で見ればユーストやノルダーナイのほうがより長いのだが、ワッデン海の沖に砂丘がどこまでも伸びるさまを見て、昔の人が素直に名付けたのだろう。ところが地名とは対照的に、ランゲオーク島鉄道 Inselbahn Langeoog は、3島の鉄道の中で最も短い。ランゲオーク駅と埠頭 Anleger (Anlegestelle) 駅の間 2.6km、ゆっくり走っても7分で着いてしまう。

Blog_insel_lange1
ランゲオーク島鉄道のカラフルな旅客列車

宿泊していたエムデン Emden から朝、ランゲオーク島をめざした。まずは船が出る本土側の港までたどり着かなければならない。東フリジアの各島の港と本土の港は、ほぼ1対1で対応している。この島に渡るにはこの港からというのが決まっているのだ。ボルクム島であればエムデン、ノルダーナイ島はノルトダイヒ・モーレ Norddeich Mole、そしてランゲオーク島の場合はベンザージール Bensersiel になる(下の地図参照)。

エムデンやノルトダイヒ・モーレへは本土の鉄道網が通じているが、その他の港はもはや鉄道では行けない。実際、旅行者の多くが自家用車で直接港まで来てしまうので、需要が細っているのだ。その分、港の周辺には大規模な駐車場が用意され、テーマパークの前かと思うほど車が並んでいる。

しかし感心するのは、片や公共交通機関のネットワークもしっかり維持されていることだ。各港を一つ一つ回っていくバス路線があり、列車も船もそれに連絡するようにダイヤが組まれている。ノルデン Norden からは、K1系統が日中1時間毎に、エーゼンス Esens を経由して、最終的に最東端ヴァンガーオーゲ島への港であるハルレジール Harlesiel まで行く。

blog_inselbahnen_map3
東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

エムデン中央駅から、7時42分発のノルトダイヒ・モーレ行き列車に乗った。ブレーメン Bremen からやって来たダブルデッカーのIC(インターシティ)だが、案の定、車内はガラガラだ。ノルデン Norden で下車し、駅北側のターミナルで8時15分発のバスに乗り継ぐ。ベンザージールまで1時間近くかかる。

バスは数えるほどの客を乗せて、広大な平野をひた走った。一帯は干潟や塩性湿地が長い時間かけて干拓され、見渡す限り緑の農地に姿を変えている。エーゼンスでは駅前に入り、ヴィルヘルムスハーフェン Wilhelmshaven から来る列車(下注)の到着を待った。

*注 ノルトヴェスト鉄道 Nordwestbahn が連接気動車を運行している。ブレーメン Bremen やオルデンブルク Oldenburg 方面からはこのルートが近い。

Blog_insel_lange2
(左)島への港を回っていくバスK1系統 (右)緑の平野をひた走る

改めて北へ進んだバスは、高い防波堤を乗り越えて、ベンザージール港の旅客ターミナルの前で停まった。見ると、切符を求める人の列が玄関からはみ出している。出航は9時30分。あと20分しかないので少々焦る。しかし、中に入ると窓口が3つ開いていて、思ったより早く順番が回ってきた。

島内鉄道込みで大人往復25.20ユーロ(リゾート税 Kurtaxe 別)。日帰り券 Tagesrückfahrkarte は22.50ユーロだ。ただ、渡されるのは皆同じICチップの入ったランゲオークカード LangeoogCard で、レシートを見ないと何の切符かわからない。しかもこれは使い回しなので、帰りの船に乗る際、ターミナルの改札機で回収されてしまう。

Blog_insel_lange3
(左)ベンザージール港の旅客ターミナルには切符を買う人の列
(右)ランゲオークカード

ランゲオーク島の年間訪問者数は約21万人(2016年)で、ノルダーナイ、ボルクムに次いで諸島で3番目に多い。それで夏季(5~10月)は、本土との間を船が6~7往復しており、比較的自由に旅程が組める。この港からランゲオークの町まで、船と列車を介して約1時間というのも手軽でいい。

平日というのに、乗り込むとすでにデッキのベンチにも客があふれていて、人気ぶりが窺える。後部デッキの端に陣取って、海を眺めた。ちょうど干潮のタイミングらしく、周りは泥の干潟だ。船は防波堤の間の長い水路をたどり、十分沖合まで出たところでようやく速度を上げた。行く手にはすでに島の白い帯が見えていて、次第に輪郭がはっきりしてくる。30分もすればもう、島の港の突堤に迎えられる。

Blog_insel_lange4
(左)船はデッキまで満員 (右)長い水路を進む。防波堤の外側は干潟が広がる
Blog_insel_lange5
ランゲオークの埠頭
中央やや左、ランプウェーの陰に赤色の機関車が見える(帰路撮影)

Blog_insel_lange_map1

Blog_insel_lange_map2
ランゲオーク島の1:50,000地形図(L2310 Esens 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ランゲオーク島は、港、鉄道、市街を含めて全体がボルクムのミニ版という印象だ。規模は小さくても、公共交通機関がスムーズに相互接続している点は同じだし、ましてやカーフリーの島なので、それなしでは移動もままならない。

埠頭に建つ、本土側と同じデザインの旅客施設を通り抜けると、駅のプラットホームに直結している。だだっ広い島式ホームはかさ上げされ、車両との段差が小さい。トラムのようだったボルクムの軽便に比べて、いくぶん普通鉄道の雰囲気がある。ここも機関車が列車の両端に付くプッシュプル運転なので、町に向かって左側の発着線には機回し用の側線もなかった。

Blog_insel_lange6
(左)埠頭駅の島式ホーム (右)ホームの両側に列車が停車中

ホームの両側に列車が停まっている。右の列車は客車5両のみの編成、左は客車6両とその後ろに、託送手荷物の小型コンテナを載せる長物車が連結されている。小ぶりの客車はデッキ付きで、内部は2人掛けクロスシートの木製ベンチが並ぶ。また、中央の車両はバリアフリーの特別仕様だ。ホームとの空隙を埋める踏み板が出て、座席も1人掛けで通路が広く取られている。塗装は1両ごとに色が違い、紺、青、赤、黄、緑とカラフルだ。それに赤いディーゼル機関車(シェーマ・ロコ Schöma-Lok)が付くと、軌間1000mmでも遊園地の列車のように見える。

Blog_insel_lange7
(左)シェーマ・ロコ CFL 250形
(右)託送手荷物を積む長物車(ランゲオーク駅で撮影)
Blog_insel_lange8
(左)客車はデッキ付き (右)車内は2人掛けのクロスシート
Blog_insel_lange9
(左)バリアフリー車両は中央に両開き扉、踏み板つき
(右)1人掛け席で通路を広げている

船を降りた客のほとんどが右側の列車に乗り込んでいくので、それに従った。出発すると、右にカーブしながら、フリントヘルン防潮堤 Flinthörndeich の陸閘を通過する。それから堤防前地 Deichvorland に広がる牧草地の中を走っていく。緑の波に無数のタンポポが揺れる。その中で馬が悠々と草をはみ、野鳥の群れが羽を休めている。実にのどかな景色だ。

踏切を渡って、ハーフェンシュトラーセ(港通り)Hafenstraße 沿いに進む。右の車窓に、セスナ機が駐機している滑走路が見えた、と思う間に側線が左右に分かれ、ランゲオーク駅のホームが近づく。実際乗ってみても、遊覧列車並みの感覚だった。

Blog_insel_lange10
(左)列車は牧草地の中を行く (右)ハーフェンシュトラーセ(港通り)を横断
Blog_insel_lange11
(左)堤防前地の広大な牧場 (右)島の飛行場を右に見る

鉄道の規模に比べて、駅はかなり大きい。列車は1面1線のホームのどん詰まり(町側)に停車するが、後方(港側)にも広いスペースがあり、倉庫のような建物が続いている。ここでは2008年まで鉄道貨物の受け渡しが行われていたのだ。取扱いが廃止されて以降、貨物輸送は、本土側で仕立てたコンテナトレーラーを船に載せ、島に着いたら電動カートでそれを目的地まで牽いていくロールオン・ロールオフ方式が取られている。駅で扱うのはもはや託送手荷物だけなので、広い作業場は遊休化している。

Blog_insel_lange12
ランゲオーク駅に到着
Blog_insel_lange13
(左)駅舎内部。出札窓口の右側は託送荷物の受付
(右)駅前にある手荷物運搬用のリヤカー置き場
Blog_insel_lange14
島の道を行く車両は馬車と電動車

ボルクムの経験から、埠頭に残っていたもう1本の列車が続行してくると予想し、カメラを手に構内の南にある踏切で待った。線路を横切るのは馬車か、電動車が牽くトレーラーだ。カーフリーの島ならではだが、肝心の列車はいっこうに現れなかった。さんざん待たされた挙句、見送ったのは埠頭から来る列車ではなく、ランゲオーク11時30分発の埠頭行きだった。とすると埠頭にいたあの列車は、次の船を待っていたのだろうか…。

Blog_insel_lange15
埠頭行き列車を見送る

駅前の幅広の通りを西へ向かった。中央通り Hauptstraße の名のとおり、町を貫くちょっとしたショッピング街だ。滞在客もそぞろ歩いていて、明るく開放的なリゾートの雰囲気が漂う。突き当りの坂の上にレトロな意匠の給水塔 Wasserturm があり、見晴らしが利く。起伏の多い海岸砂丘(カープ砂丘 Kaapdünen の名がある)はすっかり植生に覆われていて、その間を縫っていく遊歩道の先に、海も望めた。

Blog_insel_lange16
(左)給水塔から見下す市街地
(右)かつて馬車軌道が通ったバルクハウゼン通り Barkhausenstraße
Blog_insel_lange17
(左)町のはずれの給水塔 (右)給水塔から海岸砂丘と海を望む

ここランゲオーク島でも、最初に造られたのは馬車鉄道だ。渡船を運営していたエーゼンス=ランゲオーク航運 Reederei Esens-Langeoog の子会社により、1901年6月に開通した。諸島では最も遅い登場になる。当時の桟橋は今の位置ではなく、やや北東にあった。そこから軌道は干潟と湿地を横断して現駅付近で中央通りに入り(併用軌道)、さらに角を曲がってバルクハウゼン通り Barkhausenstraße を北上し、ロックム修道院の宿泊所 Hospiz des Klosters Loccum(下注)に達していた。延長3.62kmのルートだった。

*注 ニーダーザクセン州レーブルク=ロックム Rehburg-Loccum にある修道院が建てた宿泊施設で、現在も残っている。

Blog_insel_lange18
波に洗われる桟橋と馬車軌道(ランゲオーク駅舎の展示写真)

当初は冬場運休するなど、細々と走っていたが、1909年に本土の港ベンザージールに1000mm軌間の軽便鉄道(下注)が開通すると、急増した旅行者で運行も安定していった。1925年には他の島のような機関車の導入が計画されたが、町民の反対にあった。騒音に対する懸念も一つの理由にされたが、それより彼らは、船賃が高く旅行者が他の島に流れていると、会社の方針に不満を抱いていたのだ。結局、1927年に町は航路と馬車鉄道を一括で買収することで、公営化に踏み切った。ただ、懸案の動力転換は資金不足のために先送りされた。

*注 レーア=アウリッヒ=ヴィットムント軽便鉄道 Kleinbahn Leer-Aurich-Wittmund のオーゲンバルゲン Ogenbargen ~ベンザージール Bensersiel 間の支線。途中エーゼンス Esens で国鉄に接続した。1967年廃止。

1936年10月、嵐が二度も襲来し、桟橋へ通じる線路は高波をかぶって完全に流失してしまう。復旧に当たって、町は動力化を決断する。その際、町なかの併用軌道は廃止され(下注)、町の南口、すなわち現在位置に駅が設置されることになった。1937年7月15日が馬車鉄道の運行最終日で、ついにランゲオーク島に、ディーゼル機関車が列車を牽く時代が訪れた。

*注 一説では、中央通りからバルクハウゼン通りへの急カーブを列車が曲がれないことも理由にされた。

新しい線路は馬車軌道に並行して敷かれたが、ルートはその後二度変遷する。最初のそれは同じ年、空軍が島に飛行場を設置すると決めたことが原因だ。水害から飛行場を護るために防潮堤が築かれ、資材を陸揚げする新港の建設が始まった。工事は1939年に完成し、同時に鉄道も全面的に移設され、その埠頭に向かうようになった。

この軍用埠頭は戦後、民間開放されてしばらく使われたが、1951年、約400m西に新たな埠頭が建設され、線路も再び移動した。港通りの踏切の手前でカーブする今のルートは、このとき使われ始めたものだ。

Blog_insel_lange19
埠頭駅に揃う客船と列車

この間、機関車はドイツ Deutz 社やシェーマ Schöma 社製新車のほか、廃止された近隣の鉄道(シュピーカーオーク、ユーストを含む)からの譲渡でも調達されてきた。1960年代から気動車が運用されたが、現在の主力はシェーマ・ロコ CFL 250形5両だ。これは1994年に州の財政支援を受けた整備の一環で、同時に客車10両、長物車1両も新造された。さらに2005年にバリアフリー車両2両が追加された。

並行して施設の整備も実施されている。1995年にランゲオーク駅舎が今ある姿に改築され、線路配置も変更された。埠頭駅の拡張は2000年で、片面ホームから現在の島式2線になり、多客時の混雑緩和が可能になった。

こうしてランゲオーク島鉄道は、近年見違えるように近代化された。その一方で、長く島の鉄道を記録してきたサイト Inselbahn.de は、「その際、この島だけに残っていた軽便鉄道らしさ Kleinbahn-Flair の多くが失われた」と言って、惜しむ気持ちを隠さない。古典車両を走らせて観光鉄道の側面も強化するボルクムに比べて、こちらは見かけはともかく、中身は機能的で実用本位だ。往年のファンは、理解しつつもそこに一抹の寂しさを感じてしまうのだろう。

Blog_insel_lange20
ランゲオーク駅舎

次回は、最東端のヴァンガーオーゲ島鉄道を訪ねる。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
Langeoog Tourismus Service  https://www.langeoog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月20日 (水)

北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編

埠頭を後にして、ボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn の列車は一直線の長い築堤の上を走っていく。周りに低木が育っているし、道路も並行しているので、干潟の景色はとぎれとぎれだ。最高時速は50km、並行道路を飛ばす車には抜かれるものの、それなりに速い。発車して5~6分ほど経った頃、ようやく堤防と交差する陸閘 Deichtor(ボルクム駅起点 3.8km)を通過して、島の本体に入った。

blog_insel_borkum21
保存蒸機「ボルクム3世」号が牽く回顧列車

反対方向の列車とすれ違い、この鉄道が全線複線だったことに改めて気づく。列車が片道10本もないミニ路線に過剰設備では? そういう疑問を抱く人がいても不思議ではない。途中に信号所を設けて、列車交換させれば済むことではないかと…。

実際、1980年代に線路の強化工事を行った際、経費節約のために、整備対象外の一部区間(下注)を閉鎖して単線運行にしたことがある。ところが、船の到着が遅れて列車のダイヤに乱れが生じると、単線ゆえにそれが増幅し、出航する船にも波及した。それでその区間を復活させることになり、単線化の実験は4年(1989~93年)で終わった。船の発着に合わせて遅滞なく訪問客を送迎するには、複線設備が必要なことが証明されたのだ。

*注 単線区間はボルクム駅起点 2.7km~6.9km区間、およそ町のへりから埠頭の手前までだった。

blog_insel_borkum22
重軌条化された複線が陸閘を通り抜ける

それに、時刻表に記載されていない列車も走っている。フェリーの収容人数は最大1200人、カタマランやオランダからの便もあるので、1本の列車には乗せきれないということが当然起こりうる。また帰りの客が一列車に集中すると、乗換えに時間を要し、船の出航が遅れる可能性もある。それで状況に応じて臨時列車 Entlastungszug(混雑緩和列車の意)を出しているのだ。

私が本土に戻ろうと、ボルクム駅で列車を待っていたときもそうだった。定刻は15時30分発なのに、15分も前に早々と出発の合図が鳴った。時刻変更かと訝しみながら、慌てて飛び乗ったのだが(下注)、桟橋に着き、船のデッキから見ていると、もう1本時刻どおりの列車が入ってきた。結局、この船のために2本の列車が前後して走り、船はその到着を待っておもむろに出航した。

*注 私が見逃しただけであって、増発列車があることは駅の電光掲示板に表示される。

blog_insel_borkum23
レーデ駅に時刻通り現れた2本目の連絡列車

車窓風景に話を戻そう。列車が陸閘を過ぎ、林の中をさらに進むと、木の間越しに赤屋根の家並みがちらちらと見えてくる。ここで減速し、唯一の中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク Jakob-van-Dyken-Weg に停車した。この周囲にも貸別荘があるようすで、スーツケースを引きながら何組かが下車した。

blog_insel_borkum24
中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク

再び動き出すと、また道路と並走するようになり、辺りが町の様相を帯びてくる。やがて右に鋭くカーブし、多くの人が待つボルクム駅 Borkum Bahnhof のホームへ滑り込んだ。煉瓦建ての駅舎ではカフェやアイスクリーム屋が店を出し、ホームも線路面も煉瓦張りで、街路のような造りだ。普通鉄道の駅というよりむしろ、トラムのターミナルというのがふさわしい。

町のど真ん中なので、周りにはホテル、土産物屋、ブティック、レストラン、スーパーマーケット、ついでにカジノと、何でもある。考えてみれば、エムデンからここまで他人の後ろについて乗り継いできただけで、迷うどころか、長く歩かされることさえなかった。離島でも船と鉄道の連携によって、最小限の移動ストレスで済む公共交通システムが構築されているのはすばらしい。

blog_insel_borkum25
列車がボルクム駅に滑り込む

任務を終えた列車はどうなるのか、と見ていると、女性車掌が踏切の先にある重い転轍てこを倒して、線路を切替えた。それから列車は、推進運転で手前にある車庫の側線へ移動する。車庫は5両程度の奥行きらしく、機関車はまず半分を庫内に納めた後、残りを連れて、隣の線路に転線した。車庫入れ作業はちょっと面倒そうだ。

blog_insel_borkum26
推進運転で車庫入れ作業
blog_insel_borkum27
別の列車の機回し作業
blog_insel_borkum28
作業を終え、レーデ駅に向けて出発

ボルクム駅を含む町なか約1km区間の歴史は、軽便鉄道の開通よりさらに古い。なぜなら、1879年に造られた 900mm軌間の馬車軌道の一部だったからだ。旧灯台が火災で使えなくなり、新しい灯台が急遽必要となったため、島の東の入江からその建設現場まで、資材輸送用の軌道が敷かれた。ちなみに、このとき造られた新灯台 Neuer Leuchtturm は今も駅裏の丘に立ち、町を見下ろしている。

blog_insel_borkum29
馬車鉄道が建設資材を運んだ新灯台
(左)駅舎の裏に新灯台が頭を出す
(右)灯高(平均海面から灯火までの高さ)は63m

一方これとは別に、潮位の影響を受けない固定の埠頭を、堤外4kmの干潟の先端に建設するという計画が、1883年に動き出した。建設と運営を請け負ったのは、馬車軌道を走らせていたハービッヒ・ウント・ゴート社 Habich & Goth だ。同社は堤防から埠頭まで線路を敷くための築堤を造成し、先述のとおり馬車軌道も一部転用して、1888年、町と埠頭を結ぶ蒸気鉄道を開通させた。今のボルクム軽便鉄道だ。

たった今体験したとおり、これは本土との往来を劇的に改善する効果を生んだ。しかし、高波で築堤が何度も流されるなど、路線の維持は民間会社の手に余るものだった。そこで公共企業「エムス社 AG Ems」の子会社「ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH」が設立され、1903年に事業を継承した。

1902年にボルクム島は海軍要塞とされ、各所に軍用施設が造られていく。それに合わせて1908年、軽便鉄道に並行して資材を輸送する軍の専用線が敷かれた。当初2本の線路は別々に使われていたが、1912年ごろから混用されるようになり、軽便鉄道の複線運行が始まった。

本線から分岐する支線や側線、引込み線も多数造られた。すでに1888年にボルクム駅から北の海岸に沿って、防波堤工事の資材を運ぶシュトラント(海浜)線 Strandbahn が造られていた。1912年には島の東側へ向けて、オストラント線 Ostlandbahn が敷設された(下注)。

*注 工事終了後、1929年からシュトラント線では保養客のために旅客輸送も行われたが、1953年に休止。1968年に最後の記念運行が行われた後、線路は撤去された。一方、オストラント線は一般旅客輸送を行うことなく、1947年に撤去されている。

blog_insel_borkum30
(左)オストラント線はボルクム駅から北へ続いていた
(右)構内線路の先に道路となった線路跡が延びる

戦争の足音が再び近づいた1938年、埠頭に隣接して新しく軍港が建設されることになった。現在、フェリーが着岸する埠頭は旧港であって、西側の大きく掘り込まれた貨物港がそれだ。埠頭へ通じる築堤も拡幅され、複線の横にさらに軍用道路が通された。戦後1946年にこの道路は民間に開放され、港と町を結ぶルートとして機能するようになる。

しかし、このことは道路交通との競合を生じ、鉄道の経営に悪影響を及ぼした。前々回述べたように、1960年にはバス転換も視野に入れて、調査が実施されている。結論は鉄道の役割を肯定するものだったが、片や1962年に高波で鉄道が不通になり、その際のバス調達がきっかけで路線バスの運行が始まった(下注)。さらに1968年からは鉄道の運行期間が短縮され、冬季はバス代行となった。貨物輸送もまた1967年に廃止され、トラックに移された。

*注 路線バスはボルクム軽便鉄道・汽船会社が現在も運行しており、埠頭から町の中心部を経由して鉄道のない東部まで足を延ばす。

こうした低迷期は1970年代を通して続いた。潜在的な危機を脱したのは、1979年に積極的なインフラ投資計画が決定してからだ。それに基づき、線路の重軌条化や整備工場の改築、ボルクム駅舎の拡張、車両更新などさまざまな施策が進められた。旅客数が増えたことで、冬季運休は1994年に解除された。2000年代以降も機関車の増備や線路の再更新が続けられ、ボルクム軽便鉄道は順調に走り続けている。

blog_insel_borkum31
新灯台から南望
左奥に港へ延びる築堤がある。その右にかすかに見える発電用風車が新港の位置

鉄道の重要性はさておき、この島の旅行者にとって次に必要な交通手段は、自転車だそうだ。駅にレンタサイクル Fahrradverleih があるので、借りるべく駅舎南端の受付へ行った。そこには駐輪場かと思うほど、膨大な数の黒い自転車が整然と並んでいる。現地の人の体格に合う大型で頑丈そうな自転車だ。悲しいかな、私はサドルを一番下にしてもらって、ようやく地面に爪先がついた。料金は1日8ユーロ。

後輪用のブレーキレバーはなく、ペダルを少し逆転させると効くコースターブレーキだ。使ったことがない私には難しかった。走り始めのケンケン乗りはできない。発進時にペダルが真上/真下にあっても漕ぎ出せない(少しバックさせてから乗る)。走行中も無意識にペダルを逆回しして、ブレーキがかかる経験を何度かした。ただ、このレンタサイクルは軽便鉄道の直営なので、フレームに鉄道のロゴがついている。できるものなら土産に買って帰りたいところだ。

blog_insel_borkum32
ボルクム軽便鉄道のロゴ入り自転車。左のブレーキレバーはない

昼食の後、さっそく風を切って、海岸プロムナードを南へ走る。レストランの先は砂浜が広がり、シュトラントコルプ Strandkorb と呼ばれる優雅なビーチチェアがたくさん並んでいた。

灌木の中の気持ちのいい小道を走り、堤防の陸閘のところで踏切を渡って、一般道に出た。陸閘の壁面に何やらモザイクで描かれている。初めは抽象画かと思ったが、よく見るとボルクム島の地図で、1974~77年に建設されたこの堤防の位置を示しているのだった。縮尺まで添えてあるところが憎い。

blog_insel_borkum33
(左)色とりどりのシュトラントコルプが並ぶ砂浜
(右)管理小屋、扉の上に書かれた Vermietung はレンタルの意
blog_insel_borkum34
(左)陸閘のモザイク壁画は島の地図 (右)赤丸が現在位置、堤防は黒の太線

築堤道路をさらに進む。今日はよく晴れて、まだ5月というのに暑いくらいだ。埠頭に着いて、何か飲み物をと探したが、カフェどころか、売店すらない。もちろん船内に入ればあるのだが、地上は単なる通過地点とみなされているらしい。列車を1本撮影して、元来た道を戻った。

築堤道路を無心に漕いでいたとき、またレーデ行きの列車と行き違った。しかし、牽いていたのはいつものシェーマ・ロコではない。蒸気機関車だ! 

この蒸機は1940年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製で、1941年から1962年までこの島で「ドラルト Dollart」の名で稼働した後、島内で静態展示されていた。それが、鉄道を観光資源にする取組みのもと、解体修理で軽油焚きに改造され、「ボルクム3世 Borkum III」号として1996年に再デビューした。

きょう日曜日は、木曜とともにその運行日なのだが、何時に走るのか情報がなかったこともあり、すっかり忘れていた。特別運行の回顧列車 Nostalgiezug で、蒸機はヴァイヤー様式の古典客車を伴っていた。私はカメラを取り出す暇もなかったので、すばやく撮影に成功した同行のT氏の作品をお借りする(冒頭写真)。

鉄道には、このほか「豚の鼻面 Schweinschnäuzchen」または「オオアリクイ Ameisenbär」の異名をもつボンネットエンジンのヴィスマール・レールバス Wismarer Schienenbus T1形も1両保存されている。こちらの運行は原則火曜日だ(下注)。

*注 いずれも乗車には特別料金が必要。正確な運行日は鉄道の公式サイトに記載されている。

blog_insel_borkum35
(左)保存蒸気「ボルクム3世」号が通過
(右)車庫にいたヴィスマール・レールバス T1形、別称「豚の鼻面」

撮り逃がしたままにしてはおけないと、ボルクム3世が埠頭から折り返してくるのを、さっきの陸閘の上で待ち構えた。今度こそ撮れたのはよかったが、残念なことに機関車はバック運転だった。転車台はどこにもないから、そうなることはわかっていたのだが…。

blog_insel_borkum36
戻ってきた蒸機はバック運転

次回はランゲオーク島鉄道を訪れる。

■参考サイト
AG Ems  https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn  http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月16日 (土)

北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編

ボルクム Borkum~レーデ Reede 間 7.44km
非電化、軌間 900mm、全線複線、開業 1888年

東フリジア諸島の西端、ボルクム島 Borkum へ渡る船は、エムデン Emden の港から出航する。私は朝9時に出る便を予約したので、市内の宿に前泊していた。エムデンは、エムス川 Ems の河口近くにある古くからの港町だ。港に面して市庁舎が建ち(下注)、人々が集まる広場があり、片隅に起源が1635年に遡るハーフェントーア(港の門)Hafentor という市門も残っている。保存帆船が係留された風景は、どこか対岸のオランダの港町を思わせる。

*注 第二次世界大戦中の空襲で町の8割が焼けたため、市庁舎も戦後の再建になる。

blog_insel_borkum1
エムデン中心部の旧港
blog_insel_borkum2
(左)旧港に面して建つ市庁舎 (右)ハーフェントーア(港の門)

blog_insel_borkum_map2
エムデンの1:50,000地形図
(L2708 Emden 1997年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ただし、この港は保存された旧港だ。船が大型化するにつれ、港は沖へ拡張されていった。ボルクム航路は現在、旧市街から3km先の外港(アウセンハーフェン Außenhafen)にあるボルクム埠頭 Borkumanleger に発着する。

そのため鉄道も、エムデン中央駅 Emden Hbf との間に連絡支線を持っている。中央駅から埠頭最寄りのエムデン・アウセンハーフェン Emden Außenhafen 駅まで、ごろごろと低速で走る列車でも6分あれば着く(下注1)。また、中央駅前のターミナル(ZOB)からは、市バスも1時間ごとに出ている(下注2)。ボルクム桟橋では駅とバス停が目の前に並び、船との乗継ぎはいたって便利だ。

*注1 ヴェストファーレン鉄道 Westfalenbahn のRE15系統と、若干のIC(インターシティ)が乗り入れてくる。
*注2 Stadtverkehr Emden (SVE) 502系統、埠頭の最寄りは Außenhafen-Borkumanleger 停留所。なお、土曜は本数が減り、日曜は運休のため、要注意。

blog_insel_borkum3
(左)エムデン中央駅
(右)駅前広場に置かれた静態保存の蒸機。右奥は古い給水塔、手前の線路は模型走行用
blog_insel_borkum4
エムデン外港
(左)アウセンハーフェン駅 (右)左奥の建物がフェリーターミナル Fährhaus。駅に直結している

ボルクムは、東西二手に分かれるエムス河口の間に位置し、諸島の中では本土から最も遠い島だ。それにもかかわらず、旅行者数はノルダーナイ島に次いで多く(下注)、人気とともにそれに見合う受入れ体制を備えている。

*注 2016年の旅行者数 ボルクム 290,875、ユースト 135,284、ノルダーナイ 537,641、バルトルム 76,567、ランゲオーク 217,161、シュピーカーオーク 94,055、ヴァンガーオーゲ 123,036。 Industrie- und Handelskammer für Ostfriesland und Papenburg (IHK), "Tourismus auf den Ostfriesischen Inseln" による。

航路が水深のあるエムス川を通るので、他の島のように運行が潮位に左右されないのも有利だ。それでハイシーズンには、フェリー(貨客船)とカタマラン(双胴船)が1日3往復ずつ、計6往復の設定がある。フェリーは島まで2時間から2時間半かかるが、最高速度38ノット(70km/h)のカタマランなら、それを1時間に短縮できる。

blog_insel_borkum5
ボルクム航路の船団
(左)客船ヴェストファーレン号 (右)カタマラン(双胴船)ノルトリヒト号

ちなみにボルクムまで、大人普通運賃は片道19.60ユーロ、往復37.20ユーロだ。ほかに週末往復や日帰り往復(片道運賃と同額!)の割引切符もある。島に着いたら軽便鉄道の列車で町まで行くので、これらはすべて鉄道込みの運賃だ(下注)。

*注 島内の利用者のために、軽便鉄道のみの運賃の設定もある(大人片道2.60ユーロ)。蒸機等の特別列車は追加料金が必要。

他方、カタマランは、乗船1回につき11ユーロの追加が必要になる。さらにパンフレットには予約推奨と書いてある。9時発はこれで運行されるので、私は大事をとって、ネット予約しておいた。ところが、乗船してみると、船内はみごとに閑古鳥が鳴いていて、帰りに乗ったフェリーのほうがはるかに混雑していた。

上記IHK資料によれば、島の訪問者の平均滞在日数は8.43日で、日本人の感覚からするとかなり長い。時間に余裕のある滞在客にとって、乗船時間を1時間節約したところで大した意味はないのだろう。もちろん、満席にならない限り、予約なしで窓口へ行ってもカタマランの切符は買える。

エムデン中央駅から埠頭までバスで行った。到着が出航5分前という際どい接続だが、昨日下見に来ていたこともあって、難なく予定のカタマラン、ノルトリヒト Nordlicht 号(オーロラの意)に乗船できた。定刻9時、船は静かに港を離れる。積込みを待つ新車が整然と並んだ港内をゆっくり進み(下注)、川というより湾に見えるエムスの広い水面に出たところで、猛然と速度を上げた。

*注 エムデンにはフォルクスワーゲンの主力工場の一つがある。

ホバークラフトとは違い、カタマランは2階のデッキに出られる。高みから観察していると、航路は初め、緑の野に発電用風車が林立する右岸に沿う。やがてそれが右奥へ去るや、今度は左岸、すなわちオランダ側の陸地が接近してくる。こちらも発電用風車が回っているが殺風景で、造成された工業地区のようだ。スマホを定額のローミングサービスにしていたら、知らぬ間にオランダの電話会社につながっていた。

blog_insel_borkum6
(左)エムデンを出航 (右)右岸はドイツ領。緑の野に発電用風車が林立
blog_insel_borkum7
(左)エムス河口を猛然と走る (右)ボルクム島の砂浜に沿って

やがてボルクムの白く扁平な島影が見えてきたころ、針路は北西から右回転して東に転じる。そして、砂浜に沿うようにして、島の埠頭へ接近していく。朝というのに、埠頭にはたくさんの人影と車の列があった。後で知ったが、オランダのエームスハーフェン Eemshaven 行きのフェリーを待っているのだった。確かにボルクムは、ドイツ本土よりオランダのほうがずっと近い。

blog_insel_borkum8
ボルクム埠頭で船を待つ多くの人影
中央が軽便鉄道のホーム

タラップを伝って、ボルクム埠頭に降り立った。ボルクムといっても、ここはまだ干潟の先端に造られた人工の小島だ。島本体とは長さ2km以上ある築堤でつながっている。岸壁に並行して狭軌の線路が2本延び、屋根付きの低いプラットホームがそれに接する。フェリーにマイカーを載せてきた人は別として、大部分の訪問者はここで軽便鉄道の列車に乗り継ぐことになる。

blog_insel_borkum_map1

blog_insel_borkum_map3
ボルクム島の1:50,000地形図(L2406 Borkum 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

そのボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn は、ここレーデ Reede から町なかのボルクム駅 Borkum Bahnhof まで、7.4kmを運行する非電化、900mm軌間の鉄道だ。エムス株式会社 AG Ems の子会社、ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH が、航路と一体で運営している。ミニ路線ではあるものの、全線複線化されており、鉄道が残る3島の中で最も規模が大きい。

レーデとは投錨地、停泊地を意味する言葉だ。埠頭は一般にアンレーガー Anleger(接岸場所の意)と呼ばれるのだが、ボルクムでは港が整備される以前の呼称を残している。なお、同鉄道の時刻表では駅名を、Reede ではなく Fährhafen(フェリー港の意)と記載しているので注意。

blog_insel_borkum9
埠頭のレーデ駅
(左)列車が入線
(右)電光掲示板は各方面のボルクム駅出発時刻(船の出航時刻ではない)を示す

待つことしばし、昔のバスかトラックのような余韻のない警笛を合図に、真っ赤な小型機関車が列車を牽いて、ゆるゆると入ってきた。ホームの前に停車するや、降りる人と乗り込む人が交錯する。特大のスーツケースが行き来し、毛並みのいい飼い犬も尻尾を振りながらついていく。

赤を装う機関車は、運行の主力を担うシェーマ社(下注)製の2軸ディーゼル CFL150形だ。側面のプレートによれば、これは「ハノーファー Hannover」号。鉄道には同型車があと3両、「ベルリン Berlin」「ミュンスター Münster」「アウリッヒ Aurich」が在籍している。いずれも赤塗装だが、機関室前面の排気筒の色が識別のポイントだ。このほか、より古いシェーマ・ロコ CFL200形「エムデン Emden」も、繁忙期に出番がある。

*注 ドイツのディープホルツ Diepholz に本拠を置くクリストフ・シェットラー機械製造会社 Christoph Schöttler Maschinenfabrik GmbH、通称シェーマ SCHÖMA は、簡易軌道やトンネル建設現場で使われるこうした小型ディーゼル機関車の専門メーカー。

blog_insel_borkum10
シェーマ製ディーゼル機関車。排気筒の色でも識別可能
(左)ハノーファー号、1993年製 (右)アウリッヒ号、2007年製

機関車の後ろにつく黄色づくめの車両は、コンパートメント兼荷物車だ。さらに、側面が色違いの4軸客車が8両連なっている。小型とはいえ全部で10両、堂々たる編成だ。客車は1993~94年の製造で比較的新しいが、デッキつき、ダブルルーフの古典仕様は、かつて活躍していたヴァイヤー式客車 Weyer-Wagen(下注)に基づく。乗車時間が短いので、座席は木製ベンチだ。車内の片側が対面式クロスシート、もう片側がロングシートで、狭いスペースに効率よく配置されている。

*注 カール・ヴァイヤー社 Carl Weyer & Cie. (後のデュッセルドルフ鉄道需要 Düsseldorfer Eisenbahnbedarf)は、デュッセルドルフに本拠のあった車両メーカー。軽便鉄道が所有する旧型客車は改修を受けて、今なお回顧列車 Nostalgiezug の運行に使われている。

blog_insel_borkum11
現行4軸客車。内部は片側クロスシート、片側ロングシート
blog_insel_borkum12
回顧列車で使われる古典客車

乗客が乗り込んでいる間に、外では機回し作業が行われた。文献には、列車の両端に機関車を連結して(下注)、そのまま折り返し運転ができる、と書かれているが、この日はどの列車も機関車は1両だった。残りの機関車は、検査か整備に出ているのだろうか。

*注 2両の機関車が客車を挟む形のプッシュプル運転 Wendezugbetrieb は、 CFL150形を1両増備(「アウリッヒ」号)して、2007年に始まった。

時刻表によれば、この列車の出発時刻は「およそ」10時15分。船の遅延も見込んで、幅を持たせてあるのだろう。ホームから人影が消えれば、発車の準備が整う。前のほうで例のそっけない警笛が響き、列車はそろりと動き出した。車窓を、ランプウェーの口をぽっかり開けたフェリーの影が遠ざかる。ボルクム駅までは17分の旅だ。

blog_insel_borkum13
回顧列車がレーデ駅を出発、ボルクム駅に向かう
先頭は1970年製のシェーマ・ロコ、エムデン号

続きは次回に。

■参考サイト
AG Ems https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月11日 (月)

北海の島のナロー I-概要

ヨーロッパ大陸とイギリス諸島の間に、北海が横たわる。ドイツやオランダもこの海に接しているが、より大縮尺の地図を見ると、本土と北海本体の間には小さな島が鎖状に連なり、オランダ沿岸からユトランド半島にまで延びている。これらをフリジア諸島 Frisian Islands / Friesische Inseln と呼ぶ(下注)。そのうち、ドイツ領のエムス Ems 河口からヤーデ Jade、ヴェーザー Weser 河口までが、東フリジア諸島 East Frisian Islands / Ostfriesische Inseln だ。

*注 フリジア Frisia は英語由来の呼称で、ドイツ語ではフリースラント Friesland という。上で併記した原語は左が英語、右がドイツ語。

blog_inselbahnen_map2
東フリジアの地図
沖合に島が鎖状に連なる。本土との間の海がワッデン海
ドイツ官製1:500,000地形図 Nordwest を使用 © Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2018

なぜこのような形に島が並ぶのだろうか。その成因は主として海流による。このあたりは、最終氷期(約7万年前~1万年前まで)に海面が現在より約60m低く、砂礫やモレーンから成る平たく乾燥した土地が広がっていた。その後、氷床が融けて海面が上昇すると、海流に乗って砂が西から東へ移動していく。また、北海に注ぐ川が内陸から多量の砂泥を海に押し流し、これも海流によって運ばれた。

北海沿岸の潮汐力は大きい。満ち潮は速くて勢いがあるが、引き潮の速さはその85%にとどまる。そのため、沖合から満ち潮に乗ってきた砂は、引き潮で戻されずにいくらかはそこに残る。高潮や強風がそれを上へと堆積させる。やがて沿岸には長さ500kmにもなる砂丘の列ができた。実は、今あるフリジアの島々は、こうした砂丘が嵐の際の高波などで寸断された姿だ(下注)。

*注 なお、ユトランド半島西岸の島々は北フリジア諸島と呼ばれ、成因が異なる。

一方、氷圧から解放されたスカンジナビア半島の隆起で、相対的に北海南部が沈下したため、海面水位は上昇し続けている。そのため、島と本土との間は完全に陸地化することなく、干潟や遠浅の海、ワッデン海 Wattenmeer(下注)として姿をとどめた。

*注 オランダ語の Waddenzee に基づきワッデン海と呼ぶが、本来、干潟(Watt)の海(Meer)という意味の普通名詞でもある。

東フリジア諸島に有人島は7つある。西から順に、ボルクム Borkum、ユースト Juist、ノルダーナイ Norderney、バルトルム Baltrum、ランゲオーク Langeoog、シュピーカーオーク Spiekeroog、そしてヴァンガーオーゲ Wangerooge だ(下注)。

*注 島名の語尾に付く oog、ooge は、現地のフリジア語で島を意味する。

Blog_inselbahnen1
遠浅が続くワッデン海の眺め
シュピーカーオーク島西岸にて

一番大きいのは西端のボルクム島だが、それでも面積は31平方km、日本でいえば厳島(宮島、30平方km)にほぼ等しい。一方、バルトルムとヴァンガーオーゲは10平方kmにも満たない小島だ。人口も、最も多いノルダーナイ島で約6000人、バルトルムやシュピーカーオークは1000人を割り込む。

そのようなささやかな島々にもかかわらず、このうち5島にかつて一般旅客や貨物を運ぶ軽便鉄道が存在した。そして今日でもなお、3つの島で列車の走る姿が見られる。しかも細々と動いているどころか元気で、島にとっても不可欠の存在になっているのだ。

Blog_inselbahnen2
賑わうボルクム軽便鉄道
(左)レーデ Reede 駅で船と接続 (右)終点は町の中心

なぜ、島の鉄道 Inselbahn が21世紀まで生き残り、それぞれに活路を見出し得たのだろうか。その理由を知るために、少し歴史を遡ろう。

かつて東フリジアの島の生業は、漁業と少しばかりの農業だった。島に別の収入をもたらす道を開いたのは、19世紀、本土からやってきた保養客だ。彼らは泳ぎに来たわけではない。当時、海辺の新鮮な空気が呼吸器疾患その他さまざまな病状の改善に有効だと考えられており、療養のために滞在したのだ。

Blog_inselbahnen3
砂浜を埋め尽くすシュトラントコルプ(屋根付きビーチチェア)Strandkorb
ヴァンガーオーゲ島にて

1797年にノルダーナイ島が、プロイセン王から最初のノルトゼーバート(北海保養地)Nordseebad に認定された。本土から隔絶した島という希少性や神秘性が、上流階級の人気に拍車をかけた。しかし、それは、交通の便が悪いことと同義だった。

島へ向かう舟は、本土のジール港 Sielhafen から出航する。ジールはフリジア語で、堤防で囲まれた水門のある水路のことだ。水路は河川とつながっており、内陸の水が水路を通って海に排出されるときに、干潟に深い溝、いわゆる澪(みお)を刻む。浅海では、これが唯一安全な航路になった(下注)。

*注 グレートジール Greetsiel、ベンザージール Bensersiel、ハルレジール Harlesiel など、島へ渡る港(干拓が進んで内陸に取り残された旧港を含む)の多くが今も「ジール」のついた地名をもっている。

Blog_inselbahnen4
ジール港の眺め
カロリーネンジール Carolinensiel にて

潮が満ちてくれば、舟が出せる。だが、島との往来に使われたのは、シャルペ Schaluppe と呼ばれる1本マストの小さな帆掛け舟だ。慣れない本土の客は、これでたいてい船酔いの洗礼を受けた。さらに島の側には港と言えるものはなく、正確に言えば沖合の投錨地だった。桟橋を造っても、当時の技術では嵐が来るたびに、波で簡単に壊されてしまうからだ。

それで客は潮位が下がるのを待ち、干潟を歩いて上陸した。急ぐ者には、有料の干潟馬車 Wattwagen という選択肢もあった。満ち潮でも濡れないように車高を上げた馬車で、2頭の馬が波を蹴立てて牽く。馬はひどいときには頸まで水に浸かるため、病気になることも多かった。

シャルペに代わって蒸気船が就航すると、所要時間が短縮され、船酔いも軽減された。しかし喫水が深いため、投錨地はさらに沖合に遠ざかり、干潟馬車まで小舟でつながなくてはならなかった。乗り換えのときに、不注意な客が泥の海に落ちることもしばしばあったという。

Blog_inselbahnen5
(左)1900年代の干潟馬車、座席は高さ1.7m。カリフォルニア・オークランド博物館所蔵
Photo by Daderot at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)現代の観光用干潟馬車。ノイヴェルク島 Neuwerk にて
Photo by Simaron at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0

時代が下り、19世紀後半になると、いよいよ北海の島々にも鉄道敷設の構想が現れる。まず、本土との距離が最も近いノルダーナイ島で、ワッデン海を築堤で横断し、その上に本土直通の鉄道を走らせるという計画が発表された。しかし、ヒンデンブルクダム Hindenburgdamm(下注)に半世紀先立つ大胆な提案は、技術的な困難さからすぐに立ち消えとなった。

*注 ヒンデンブルクダムは、北フリジア諸島のジルト島 Sylt と本土をつなぐ長さ11kmの築堤。1927年に完成し、その上を標準軌鉄道が通る。

実現した鉄道としては、1879年にボルクム島に導入された900mm軌間の馬車鉄道が最初だ。ただしこれは船との接続ではなく、火災に遭い改築が必要となった灯台の工事現場に建設資材を輸送するものだった。1885年にはシュピーカーオーク島に旅客用の馬車鉄道が登場するが、これも港ではなく、西海岸に設けられたビーチと村の間を往復した。

港と島の中心集落との連絡機能を担う最初の鉄道は、1888年にボルクム島で開通した蒸気鉄道だ(下注)。固定の桟橋が、潮位に影響されないように防波堤の沖4kmに建設され、そこへ向けて延長された築堤の上に線路が敷かれた。蒸気船を降りた客は、桟橋に横付けされた列車に乗り換えて、町まで運ばれる。上陸までの煩わしい行程を過去のものにする画期的な方式で、この後、島への訪問客が急増するのは当然のことだった。

*注 ジルトでも同年、ムンクマルシュ Munkmarsch の旧港から主邑ヴェスターラント Westerland までメーターゲージの蒸気鉄道が開通している。ボルクムのわずか3週間後だった。

Blog_inselbahnen6
列車が埠頭に横付けされ、乗継ぎは実にスムーズ
ボルクム・レーデ駅にて

ボルクムの成功を見て、1890年代は島々の間で、桟橋の整備とともに鉄道敷設が一種のブームとなった。1891年にはシュピーカーオークで馬車鉄道が、1897年にはヴァンガーオーゲでメーターゲージの蒸気鉄道が、1898年にユースト(下注)、1901年にランゲオークでもそれぞれ馬車鉄道が開業し、港で客を迎える体制が整えられている。

*注 ユーストの馬車鉄道は開通後まもなく、高波の被害を被った。それを機に線路を杭桁 Pfahljoch の上に載せ、内燃動力に切り替えたので、馬車鉄道の運行は1シーズンのみで終わった。

鉄道の近代化のスピードは、島によって事情がかなり異なる。初めから蒸気鉄道であったボルクム、ヴァンガーオーゲでは、1950年代に、徴用解除された本土の中古ディーゼル機関車や気動車により「無煙化」された。内燃式のユーストも同時期に気動車を導入している。

それに対して、馬車鉄道のランゲオークとシュピーカーオークは、歩みが遅かった。前者は1937年に内燃動力に転換したが、後者はドイツ最後の馬車鉄道と言われた時代を経て、戦後の1949年にようやく転換された。

さて、こうした旅客や生活必需物資の輸送は、島の鉄道の重要な任務だが、他にも期待された役割があった。その一つは海岸保全工事のための資材輸送だ。

北海の嵐に伴う高波はしばしば島に大きな被害をもたらし、「ブランカー・ハンス Blanker Hans(下注)」と恐れられてきた。堤防や桟橋が破壊されるだけでなく、海岸が、ときには屋敷や畑も含めて持っていかれる。風向きの関係で西岸が常にハンスの攻撃に曝されており、逆に東岸には未固結の砂州が長く延びている。島の主要集落が西側に偏っているのは、侵食作用で追い詰められた結果に他ならない。

*注 ブランカー・ハンスは、白く光るハンス(ハンスは一般的な人名)の意で、波のしぶきを見立てたもの。

そのため、防波堤の建設と拡張が19世紀半ばから継続的に行われ、工事用の軌道や側線が、鉄道の本線から分岐する形で設けられた。ボルクム、ユースト、シュピーカーオーク、ヴァンガーオーゲ、どの島もそうだ。バルトルム島にも工事軌道はあり、州の水路・航路局 Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理していた。しかし、こうした軌道は、工事が完成すれば不要となる定めだ。今も残っているのは、ヴァンガーオーゲにあるWSA保全拠点への引込み線が唯一とされる。

Blog_inselbahnen7
(左)「堤防は島を護る。立入らないでください」の立札
(右)防波堤と交差する線路には閘門を設置。いずれもヴァンガーオーゲ島にて

それに加えてもう一つの役割は、軍事貢献だった。とりわけボルクムとヴァンガーオーゲは、エムス、ヴェーザーの河口を扼する位置にあるため、二度の世界大戦で要塞地帯とされた。兵舎、弾薬庫、砲座など軍用施設には、たいてい鉄道の引込み線がつながっていた。

初期の挫折以来、鉄道に縁がないノルダーナイ島でも、軍用鉄道だけは造られた。第一次世界大戦中の1915年に何と標準軌で敷設され、第二次大戦でも使用された。だが戦後は、民生用に転換されることもなく、1947年までに姿を消した。

戦後、本土(特に西ドイツ)では1950~60年代までに、ほぼすべての軽便鉄道が自動車との競争に敗れ、廃止されてしまうが、島の鉄道はどうなったのだろうか。

分類すると、東フリジア諸島で現在、軽便鉄道が存続しているのは、ボルクム、ランゲオーク、ヴァンガーオーゲの3島だ。ユーストとシュピーカーオークのそれは1980年代前半に廃止され、残るノルダーナイとバルトルムでは、先述の通り一般用の鉄道が稼働したことは一度もない(下注)。

*注 シュピーカーオークでは廃止とほぼ同時に、馬車鉄道が保存運行で復活し、2年の中断期間があったものの、現在も続けられている。ちなみに、北フリジアのジルトの軽便鉄道も1970年に廃止された。

blog_inselbahnen_map3
東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

ではなぜ、ある者は生き残り、ある者は失われたのか。まず存続したほうの要因は、いまだに需要があるというに尽きる。

ボルクムでは戦後、桟橋へ通じる軍用道路が市民に開放され、車で直接桟橋に行くことが可能になった。競合による鉄道の経営悪化を受けて、1960年に初めてバスへの転換を視野に入れた調査が行われた。しかし、町まで 7kmの距離があり、船で到着した客を一度に運ぶには相当な台数が必要となるため、バス輸送は現実的でなかった。大量輸送できる鉄道の特性を認めた結論だった。

また、ランゲオークとヴァンガーオーゲでは、島全体がカーフリー化されており(下注)、旅客輸送はもっぱら鉄道に任されている。

*注 自動車の全面禁止ではなく、スイスのツェルマット Zermat やヴェンゲン Wengen などと同様、貨物を運ぶ電動車は走っている。

Blog_inselbahnen8
ヴァンガーオーゲの広大な塩性湿地を行く

一方、鉄道が廃止されたユーストとシュピーカーオークもカーフリーの島なので、原因を作ったのは車ではない。実は、中心集落に近い場所に新港が造られたため、鉄道で間をつなぐ必要がなくなったのだ。かつては、ある程度水深のある沖合でないと、桟橋を設けることができなかった。しかし、浚渫技術の進歩で、干潟の奥まで水路を掘る工事が可能になり、両島はそちらを選択した。

とはいえ、今なお東フリジアの3つの島に軽便鉄道があり、積極的に活用されているというのは貴重だ。今年(2018年)5月、実際に島を訪れる機会を得たので、次回からその活動状況や沿線風景を順にレポートしていこう。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年4月12日 (木)

プロヴァンス鉄道 II-ルートを追って

コート・ダジュール Côte d'Azur の中心都市ニース Nice、その山手の一角からプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence の列車は出発する。ターミナルの名はニースCP駅、CP はもちろんプロヴァンス鉄道の頭文字だ。やや無機質な雰囲気を放つ近代的駅舎の奥に、トラス屋根を架けた2面3線の頭端式ホームが横たわる。

Blog_provence11
ニースCP駅 発着ホーム
Blog_provence12
同 正面玄関
Blog_provence13
同 (左)エントランスの床で路線図がエスコート (右)出札ホール

CP駅が開業したのは1991年12月のことだ。SNCF(フランス国鉄)の中央駅であるニース・ヴィル Nice-Ville とは距離があり、直線距離で約500m、道なりに歩けば10分以上かかる。かつては今より東の、マロッセナ大通り Avenue Malausséna に面して開通時からのターミナルがあり、南駅 Gare du Sud と称していた。中央駅より北に位置するのに南(シュド)駅と呼ぶのは、前回述べたように、この鉄道の最初の運営会社の名がシュド・フランス Sud France、正式名フランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France だったからだ。

Blog_provence_map12
(左)ニース南駅があった時代の1:25,000地形図(3743 ouest 1982年版に加筆)
(右)現在の同じエリア。南駅跡は更地でファサードだけが描かれている。
© 2018 IGN

Blog_provence14
トラムのリベラシオン Libération 停留所に隣接する旧 南駅(写真左奥)

南駅には、テラコッタ色でアクセントを施した壮麗な石造りのファサード部に続いて、1889年パリ万国博のパビリオンを移設したという幅23m、高さ18m、長さ87mの鉄骨ドームで覆われたプラットホームがあった。現在CP駅がある辺りは側線が何本も並ぶ広いヤードで、ニース・ヴィルの貨物駅に通じる線路も延びていた。

しかし、施設の老朽化に加えて経営立て直しのために資産処分することが決まり、1991年にターミナルは141m後退した現在のCP駅に移転した。南駅跡地はその後2000年に、国からニース市に売却された。市は更地にしたうえで再開発を目論んでいたのだが、それに対して市民や専門家から強い抗議の声が湧き上がった。国も反対の意思を示したため、市はとうとう原案の撤回に追い込まれた。

2002年にはファサード部が、2005年にはドームが国の文化財に登録され、市はこれらの建築遺産を保存しながら活用する再開発案を発表した。ファサード部は全面改修を受けて、すでに2014年1月から図書館(名称はラウル・ミル図書館 Bibliothèque Raoul Mille)として使われている。ドームや周囲のヤードも、近々商業施設やスポーツ施設に生まれ変わる予定だという(一部は供用済み)。

Blog_provence15
壮麗な旧 南駅ファサード。改修で図書館として再生された
Blog_provence16
(左)トップにはめ込まれたパネルには「フランス南部鉄道」の文字
(右)ホームを収容していた鉄骨ドームはまだ修復中

Blog_provence_map11
プロヴァンス鉄道路線図 (IGN 1:1,000,000フランス全図に加筆)
© 2018 IGN

現在のターミナルに話を戻そう。列車はCP駅を出ると、少しの間、市街地を曲がりくねりながら進む。停留所は短い間隔で設置されているが、多くはリクエストストップ(乗降客があるときのみ停車)だ。最初のトンネルを抜け、緑に囲まれた住宅地の間を上り、北から張り出す尾根をさらに2本のトンネルで通過する。市内にありながら谷間の鄙びた駅ラ・マドレーヌ La Madeleine は列車交換が可能で、古い駅舎も残っている。

長さ950mのベレートンネル Tunnel de Bellet を抜けると坂を下り、ヴァール川 Var が流れる谷底平野に出る。ランゴスティエール Lingostière 駅は、ニース南駅の廃止に伴って車庫や整備工場が移設され、今や同線の運行拠点になっている。

Blog_provence17
ニースCP駅を出発すると、市街地を縫って西へ
Blog_provence18
(左)尾根を次々とトンネルで抜ける。サン・フィリップ Saint-Philippe 停留所
(右)運行拠点のランゴスティエール駅。背後は整備工場

ここからはヴァール川を延々と遡る旅だ。列車はしばらく、川と国道N202号線に挟まれて走る。ヴァール川を渡るラ・マンダ橋 Pont de la Manda の手前にコロマール=ラ・マンダ Colomars - La Manda 駅がある。シャトル便の多くがこの駅止まりで、川風が吹き通るホームで折り返していく。現駅は1968年に移転したもので、それ以前は約400m下流にあった。戦前はここで中央ヴァール線が分岐して、ラ・マンダ橋で川を渡っていたのだ。そのため、北線のルートも今とは違い、河岸を離れて山側に迂回していた(下図参照)。

Blog_provence_map13
(左)コロマール旧駅で分岐していた中央ヴァール線と北線
この図は中央ヴァール線の廃止後に作られているので、廃止線を示す断続的な鉄道記号で描かれている。1:50,000地形図(1950年代)を拡大
(右)現在の図。プロヴァンス鉄道(旧 北線)はヴァール川左岸に直線化され、駅も移転。旧線跡(北線のトンネルを含む)は道路として残っている。
画像はいずれもGéoportailより取得 © 2018 IGN

しばらく車窓に続いた平野が遠ざかり、川岸に山が迫ってくる。プラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var は、渓谷のとっかかりに位置している。起点(旧 ニース南駅)から24.9km、近郊列車はここが終点だ。この先は1日5往復(下注)の列車が走るだけの閑散区間になる。

*注 2018年4月現在、ニース発の長距離列車はディーニュ Digne 行きが4本、途中のアノー Annot 止まりが1本で、いずれも毎日運転。復路ニース着便は、ディーニュ発4本(毎日運転)とアノー発が1本(月~土と日祝日で運転時刻が異なる)。

Blog_provence19
プラン・デュ・ヴァール駅に停車中の連接気動車 AMP800形
駅名の前につくラ・ヴェジュビー la Vésubie はここで合流する支流の名

山間を走るプロヴァンス鉄道の中でも、おそらくティネー川 Tinée 合流点までの6kmあまりは、谷が最も狭まる通行の難所だ。ヴァール川 Var がヴィアル山 Mt Vial の山腹を激しく侵食し、昼なお暗き険崖を削り出している。デフィレ・ド・ショーダン Défilé de Chaudan(ショーダンの隘路の意)、さらにその上流側で垂直の崖が迫る一帯はメスクラ峡谷 Gorges de la Mescla と呼ばれる(下注)。鉄道はデフィレをすり抜けた後、川を渡り、長さ934mのラ・メスクラトンネルで蛇行する峡谷をショートカットする。

*注 mescla はプロヴァンス方言で川の合流点の意。ヴァール川に北からティネー川が合流する。

ちなみに、アルプ・マリティーム軌道 Tramways des Alpes-Maritimes(シュド・フランスが経営する簡易線)の1本が、メスクラからティネー川の谷をサン・ソヴール・シュル・ティネー Saint-Sauveur-sur-Tinée まで延びていた。トンネルを出てすぐ対岸に渡っている古い下路アーチ橋はその跡だ。

Blog_provence20
(左)デフィレ・ド・ショーダン(ショーダンの隘路)を通過
(右)踏切とマロッセーネトンネル Tunnel de Malaussène

谷の両側にはなおも比高数百mの山並みが続くものの、ヴィラール・シュル・ヴァール Villars-sur-Var、トゥエ・シュル・ヴァール Touët-sur-Var(下注)と遡るにしたがって、むしろ谷は明るく開けていくように感じる。起点から58.3kmのピュジェ・テニエ Puget-Théniers は、ニースから延ばされてきた鉄道が最初の終点を置いたところだ。人口1900人ほどの小さな町だが、これでもヴァール中流域では最大規模になる。

*注 シュル・ヴァール sur-Var は、ヴァール川沿いの、を意味する。他の同名の町と区別するための接尾辞。

この駅には対向設備があり、朝夕、列車交換が設定されている。だが、ふだんは人影もなく、時が止まったようだ。高床の貨物ホームや機関車のための給水タンクが残され、その脇に、廃車になった車両が野ざらしにされて哀れを誘う。年に十数日、こことアノー Annot(一部はル・フュジュレ Le Fugeret)の間で蒸気機関車による観光列車が運行される。そのときだけは駅にも活気が戻るのだろう。

Blog_provence21
ピュジェ・テニエ駅

久しぶりに谷底平野に出ると、進行方向の岩山の上に、周囲を睥睨するように立つ砦が見えてくる。アントルヴォー Entrevaux は、この比高約150mの城山の麓、曲流する川に面する中世の城塞都市で、県の「特色ある村や街 Villages et cités de caractère」にも指定されている。石橋を渡り、古い城門をくぐると、背の高い家並みの間を石畳の狭い路地が網の目のように縫う。駅は対岸(南側)にあり、川向うに砦と町がよく見える。列車は石橋のたもとの広場(駐車場に使われている)の下をトンネルで抜けていく。

Blog_provence23
行く手の岩山の上にアントルヴォーの砦
Blog_provence24
アントルヴォーの砦と町
Blog_provence25
アントルヴォー (左)城門 (中)石畳の狭い路地 (右)古い噴水のある広場
Blog_provence26
(左)アントルヴォー駅 (右)アントルヴォー第1トンネルで右岸の広場の下を抜ける

次の山脚が迫る所では、まるで城門のようなアーチが2か所で道路と鉄道をまたいでいる。これは水路橋 Pont-canal で、山から勢いよく流れ下る沢の水をヴァール川へ逃がすための施設だ。

Blog_provence27
2か所の水路橋が線路と道路をまたぐ

ポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan でヴァールの本流は右へ去り、線路は支流クーロン川 Coulomp の谷を進む。サン・ブノワ Saint-Benoît の停留所から先では、最急勾配30‰が現れるようになり、谷の斜面をひたすら登り続ける。途中、長さ123mのベイート高架橋 Viaduc de la Beîte でクーロン川の深い谷を渡る。ずっと付き添ってきたN202号線は、南の峠(トゥトゾール峠 Col de Toutes Aures)を越えるために、左の谷へ消えていく。

起点から73.0kmのアノー Annot が、ヴァール水系最後の町になる。ここも中心部に「特色ある村や街」の指定を受けた古い街並みが残されている。背後の山は砂岩の崖を巡らせたレ・グレ・ダノー Les Grés d'Annot で、ロッククライミングの名所だ。列車は町を遠巻きにしながら、険しい坂道をさらに上る。

Blog_provence28
クーロン川をまたぐ長さ123mのベイート高架橋
Blog_provence29
アノー駅 (左)ディーニュ方向を望む (右)SY形気動車が坂を降りてきた

次のル・フュジュレ Le Fugeret では、高度を稼ぐために同線唯一のS字ループを通過する。大きくカーブした2本のトンネルを経て、村の北斜面に出ると、左車窓にループの軌跡が俯瞰できる。その後はメアイユ Méailles の村が載る緩斜面の直下を、線路は上っていく。ちょうど停留所をはさんで、大規模なギヨーマス高架橋 Viaduc de la Guillaumasse(長さ121 m)とマウーナ高架橋 Viaduc de Maouna(長さ197 m)が架かっている。後者は左にカーブしていて、窓の開く車両ならぜひカメラを向けたいところだ。

Blog_provence_map14
ル・フュジュレ~メアイユ間の1:25,000地形図 
画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN

Blog_provence30
ル・フュジュレ駅
(左)今はリクエストストップに (右)「機関士に合図してください Faire signe au Conducteur」の表示
Blog_provence31
ル・フュジュレ駅北側
線路はS字ループで高度を稼ぐ。矢印がループの最上段、左側はトンネル
Blog_provence32
ギヨーマス高架橋
Blog_provence33
谷の肩に位置するメアイユの村
線路はその下の斜面を行く。右下はギヨーマス高架橋

緑の深い谷を少し遡ったところで、左に大きくカーブし、分水嶺を貫くラ・コル・サン・ミシェルトンネル Tunnel de la Colle-Saint-Michel、長さ3,457 mに突入する。長い闇を抜けるとヴェルドン川 Verdon を渡り、路線最高地点(標高1,023m)に達する。川に沿って降りたトラム・オート Thorame Haute の駅はまさに山中の列車交換所で、駅舎の隣に教会がぽつんと建っているほかに集落らしきものは見当たらない。

Blog_provence34
(左)コル・ド・サン・ミシェルトンネルの西口ですぐにヴェルドン川を渡る
(右)山中の列車交換所トラム・オート駅

いつのまにか広くなったヴェルドンの河原を渡って、サンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes に到着する。左の車窓を見ると、卓状のル・セール・グロ Le Serre Gros(標高1,777m)がどっしりと腰を据え、その右にひときわ尖った峰ピク・ド・シャマット Pic de Chamatte(同 1,879m)も見える。いずれもこの一帯に広がる褶曲山地の一部だ。

Blog_provence35
サンタンドレ・レザルプ駅
(左)左手にル・セール・グロがどっしりと腰を据える
(右)転車台、背景の尖った山がピク・ド・シャマット
Blog_provence36
線路に散り敷く松ぼっくり。モリエ Moriez 駅にて

N202号線と再会した後、列車は長さ1,195mのモリエトンネル Tunnel de Moriez で、コル・デ・ロビーヌ Col des Robines の鞍部を越えて、アス川 Asse の谷に出る。バレーム Barrême では、N85号線、通称ナポレオン街道 Route Napoléon に出会う。ナポレオン・ボナパルトが1815年に幽閉先のエルバ島からパリへ帰還する際に通ったルートだ。

*注 ナポレオン街道はコート・ダジュールのジュアン湾 Golfe Juan(道路としてはカンヌ Canne が起点)から、ディーニュ、ガップ Gap を経てグルノーブル Grenoble へ延びる。ちなみに別のメーターゲージ路線、ラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure も一部でこのルートに沿って走る。「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。

Blog_provence37
バレーム駅のAMP800形

石灰岩の崖が迫るシャブリエールの隘路 Clue de Chabrières をトンネルでかわすと、アス川の谷は急に広くなる。しかし、鉄道は右へそれて、最後の山越えにかかる。といっても風隙を通り抜けるので、珍しくトンネルがなく、峠の実感がないままに下りになる。山の向こうはのびやかな谷底平野だ。列車はなだらかな斜面をゆっくり降りていき、ブレオーヌ川 Bléone を渡る。左車窓に草むした標準軌の線路が寄り添うのに気が付けば、まもなく終点ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains(起点から150.0km)だ。列車は3時間を超える長旅を終えて、島式2線のささやかなホームに滑り込む。

Blog_provence38
ディーニュ・レ・バン駅
停車中の列車の後ろ、木の陰に駅舎がある。背景の尖峰はソメ・ド・クアール Sommet de Couard(1989m)

Blog_provence_map15
ディーニュ・レ・バン駅周辺。SNCF線は廃線として描かれている
画像はGéoportailより取得 © 2018 IGN

ホームの反対側はSNCFのサントーバン=ディーニュ線だが、メーターゲージの列車も入れるように一部3線軌条になった線路は錆びついたままだ。すでに1980年の時点で、定期旅客列車が全廃され、夏季運行のアルプアジュール AlpAzur 連絡便と細々とした貨物列車が発着するだけになっていた。その貨物列車も1987年、季節旅客列車は1989年にそれぞれ休止となり、1991年に正式に路線廃止の手続きが取られた。サントーバン(下注)で接続していたマルセイユ=ブリアンソン線 Ligne Marseille - Briançon へは、シストロン Sisteron 行きの路線バスが代行する形になる。

*注 正式名はシャトー・アルヌー・サントーバン Château-Arnoux-Saint-Auban。

ところが驚いたことにディーニュの駅舎では、プロヴァンス鉄道の窓口の隣にSNCFの窓口が開設され、昔と同じように全国路線網の切符を扱っている。この駅から標準軌列車の姿が消えて30年が経つ。にもかかわらず、そこだけ見れば、扉の向こうのホームへサントーバンからの列車が、「長らくお待たせしました」と言いながら今にも入ってきそうだ。

Blog_provence39
ディーニュ・レ・バン駅舎
(左)プロヴァンス鉄道出札窓口  (中)入口は別々 (右)SNCF出札窓口
Blog_provence40
同 ホーム
(左)ディーニュ、ニース方を望む。右の3線軌条がSNCF線
(右)反対側を望む。SNCF側のホームは駅舎前まで続いている

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/

★本ブログ内の関連記事
 プロヴァンス鉄道 I-トラン・デ・ピーニュの来歴

 フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う
 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

2018年4月 5日 (木)

プロヴァンス鉄道 I-トラン・デ・ピーニュの来歴

「トラン・デ・ピーニュ Train des Pignes」、地中海岸のニース Nice から山中へ分け入るプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence (CP) の列車につけられた愛称だ。ピーニュはプロヴァンス方言で松ぼっくりを意味する。蒸気機関車の時代、列車がのんびりやってくるので、駅で待つ客は落ち着いて松ぼっくりを拾う時間があったとか、石炭が足りなくなると、機関士は集めた松ぼっくりを罐(かま)にくべたなど、名前にまつわる逸話が伝わっている。

Blog_provence1
プロヴァンス鉄道の新型車両、2010年CFD社製のAMP800形連接気動車
プラン・デュ・ヴァール駅にて

しかしこの愛称、もとは別の線区を走る列車のものだった。現在、プロヴァンス鉄道と呼ばれるのは、ニース~ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains 間149.9kmの単一路線だが、過去には、同じメーターゲージ(1m軌間)で他に2本の主要路線とそれに接続する支線群があった(下の路線図参照)。主要路線の一つが、アルプス前面の丘陵地帯を貫く「中央ヴァール線 Ligne Central-Var」(ニース~メラルグ Meyrargues 間210km)で、沿線には数十kmにわたり松林が続く。冬になれば線路の周辺に、おびただしい数の松ぼっくりが転がっていたに違いない。

もう一つはトゥーロン Toulon ~サン・ラファエル Saint-Raphaël (Var) 間110kmの「ヴァール沿岸線 Ligne du littoral varois」で、地中海岸の町や村を結んでいた。これらの狭軌列車を総称してトラン・デ・ピーニュと言ったのだが、今やそれを受け継ぐのは、当時「北線 Ligne du nord」であったニース~ディーニュ間のみとなった。

北線は人口の少ない山間部を通り、3線区中輸送量が最も少なかった。にもかかわらず、なぜ生き残ったのだろうか。今回は、プロヴァンス鉄道の来歴をたどってみたい。

Blog_provence_map1

ニースを中心とする旧ニース伯爵領 Comté de Nice/ Contea di Nizza は、1860年にイタリアからフランスに帰属替えされた土地だ。パリ、リヨンからマルセイユに至る路線を造っていたパリ=リヨン=地中海鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée (PLM) は、さっそく地中海岸を東進する延長線の建設を開始し、1864年にニースに到達した。

「帝国の動脈 artère impériale」とされた幹線網が確立すると、次の目標は、支線の建設による地方の開発だった。1879年の公共事業計画、いわゆるフレシネ計画 Plan Freycinet(下注)には、この地方で「137号 ディーニュよりカステラーヌ Castellane を経てまたは近傍を通りドラギニャン Draguignan に至る路線」、「141号 ニースよりピュジェ・テニエ Puget-Théniers に至る路線」が挙げられた。

*注 公共事業大臣シャルル・ド・フレシネ Charles de Freycinet が手掛けた野心的な国土開発計画。特に鉄道の整備に重点が置かれ、181の地方線(地方利益路線 voies ferrées d'intérêt local と呼ばれる)が指定された。日本の鉄道敷設法と同様の趣旨。

PLM社は、137号に含まれるディーニュ~サンタンドレ Saint-André 間の認可を得たが、山間部の路線のためメーターゲージの導入を迫られると、あっさり撤退してしまう。代わって名乗りを上げたのは、マルセイユ資本で設立されたフランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France いわゆるシュド・フランス Sud France だった。1885年に、141号を延長して137号のサンタンドレに接続する新たな路線の認可を取得した。これが北線の原型になる。

両端から工事が進められ、まず西側のディーニュ~メゼル Mézel 間が1891年8月に開通した。次いで1892年には、東側でニース~ピュジェ・テニエ間、西側でメゼル~サンタンドレ(下注)間が開通した。当時、イタリアとの間で政治的な緊張が高まっていたため、ニースから途中のサン・マルタン・デュ・ヴァール Saint-Martin-du-Var までは標準軌の軍用列車が通過できるよう3線軌条とされ、トンネル等の構造物も標準軌の建築限界が適用されている。

*注 開通当時の正式駅名はサンタンドレ・ド・メウイーユ Saint-André-de-Méouilles だったが、現在はサンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes と称する。

残るピュジェ・テニエとサンタンドレの間には、ヴァール Var、ヴェルドン Verdon 両水系の分水嶺が立ちはだかり、長大トンネルの掘削が必要だった。資金不足の同社は早々と建設を諦め、この区間の工事は国が肩代わりする形で進められた。

シュド・フランスは20世紀初めに延長600kmに及ぶ路線網を有した大規模な地方鉄道だったが、信用上の醜聞に振り回されて資金繰りに難渋し、北線は後回しにされた。15年後の1907年にようやくピュジェ・テニエからポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan、1908年にさらにアノー Annot まで延伸され、1911年8月、最後の峠越え区間(アノー~サンタンドレ間)の完成で、全線が開業した。

Blog_provence_map2
プロヴァンス鉄道と周辺の路線網(破線は廃線を示す)

初めこそ祝福を受けたものの、自動車の普及に加えて、洪水による線路の流失など、地方路線の経営は順調にはいかなかった。1925年、会社は国の支援を受けることになり、名称もプロヴァンス鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de la Provence に改められた。これが現在使われている名称の起こりだ。

状況はその後も改善しなかったため、同社は1933年に北部線と中央ヴァール線の運営を断念した。両路線は国の管理に移され、県土木局(ポンゼ・ショセー)Ponts et Chaussées が運行を引き継いだ。1935年からは蒸気機関車に換えてルノー社製の気動車が導入され、コストとともに所要時間の削減効果をもたらした。第二次世界大戦にかけて業績は好転する。

ところが、その戦争が事態を一変させた。大戦末期の1944年、ドイツ軍と連合軍の戦闘で、中央ヴァール線とヴァール沿岸線の主要な高架橋が破壊され、通行できなくなってしまったのだ。不通区間はバスで代行され、1948~50年に全線が正式に廃止された。こうして、旧 プロヴァンス鉄道の路線網で唯一残ったのが、皮肉にも重要性が低いとみなされていた北線だった(以下の記述では、北線を「プロヴァンス鉄道」と呼ぶ)。

Blog_provence2
蒸気列車の旅に誘う
トラン・デ・ピーニュのポスター
撮影地はベイート高架橋
Viaduc de la Beîte
(アノー~ル・フュジュレ間)

戦後、国はこうした地方路線の直営体制を見直すべく、沿線自治体に抜本的な対策の策定を促した。廃止を求める意見もあった中で、関係地方自治体による組合組織(下注1)が設立され、1972年に運営の移管が完了した。列車運行はCGEAグループ(後のヴェオリア・トランスポール Veolia Transport、現在はトランスデヴ Transdev)の子会社CFTA(下注2)に委託されてきたが、期間満了に伴い、2014年からこの地域の広域行政を担うプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 Région Provence-Alpes-Côte d'Azur の直営となっている(下注3)。

*注1 地中海・アルプス協同組合 Le Syndicat Mixte Méditerranée-Alpes (SYMA)。
*注2 CFTAは2005年に、歴史的な名称であるフランス南部鉄道会社 Compagnie ferroviaire du Sud de la France (CFSF) に改称され、その名のもとに2013年まで路線の運行を担っていた。
*注3 路線の所有権は依然国にあり、管理運営を州に相当する地域圏 Région が行う。

細々と続けられてきた貨物輸送が1977年に終了する一方、1980年からは、旅行者誘致のために蒸気列車の運行が開始された。これは保存団体のプロヴァンス鉄道研究グループ Groupe d’Étude pour les Chemins de fer de Provence によってピュジェ・テニエ~アノー(およびル・フュジュレ Le Fugeret)間で現在も続けられている。

■参考サイト
トラン・デ・ピーニュ・ア・ヴァプール(蒸気による松ぼっくり列車の意)Train des Pignes à vapeur
http://www.traindespignes.fr/

プロヴァンス鉄道はニース~ジュネーヴ Genève 間の最短ルートに当たるため、1959 年から季節限定で連絡輸送が実施されていた。1970年代には、グルノーブルとディーニュの2回乗換えで両都市間を移動することができた(下注)。1983年からはSNCFと連携して「アルプアジュール(アルパジュール) AlpAzur」の統一名称で改装車両が運行され、一時注目を浴びた。

*注 ルートは、ジュネーヴからSNCFでキュロズ Culoz、シャンベリー Chambéry、モンメリアン Montmélian、グルノーブル、ヴェーヌ Veynes、サントーバン Saint-Auban を経てディーニュ・レ・バンへ、そしてプロヴァンス鉄道でニース南駅に至る。

残念ながら、1989年にSNCFが幹線網に接続するサントーバン=ディーニュ線 Ligne de Saint-Auban à Digne の休止に踏み切ったことに伴い、ユニークな企画も終了した。同線は1991年5月に正式に廃止され、線路は残っているもの朽ちるままにされている。この時から、プロヴァンス鉄道は他に接続する鉄道を持たない孤立線となった。

Blog_provence3
ディーニュ・レ・バン駅。ホームの左側が廃線となったSNCF線
車両は1970年代CFD社製のSY形気動車(車両番号X301~)

同じころ、ニース市もまたプロヴァンス鉄道の山中を走る区間(全線の9割)を廃止して、近郊区間だけを存続させる再構築案の検討を始めていたが、後に撤回された。その代わりに、鉄道は1991年12月に歴史あるニース南駅を明け渡し、西へ140m後退した位置に新しいターミナルとしてニースCP駅を置くことになった。

現在、このCP駅から平日毎時2~3本の列車(下注)が出発していくが、多くは13km先のコロマール(ラ・マンダ)Colomars–La Manda を終点にしている。時間にして25分ほどのミニトリップだ。その先、ヴァール渓谷の入口に位置するプラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var(ニースから24.7km、40分)まで行くのが、平日11本。時刻表ではこの近郊区間をラ・ナヴェット la Navette(シャトル運転の意)と称して区別している。

*注 頻発区間でも、土・日・祝日は運休する便が多いので要注意。

さらに全線を完走して、ディーニュ・レ・バンに到達するのは1日わずか4本だ。所要3時間20分あまりの長旅で、こんなところによく鉄道を敷いたものだと感心するような山中をメーターゲージのか細いレールが延びている。いったいどのような景色の中を列車は走っていくのか、次回はそのルートを追ってみよう。

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/
 公式サイトは近郊区間(通勤者向け)urbain と旅行者向け tourisme に分かれている

★本ブログ内の関連記事
 プロヴァンス鉄道 II-ルートを追って

 フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う
 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

2018年3月19日 (月)

ラ・ミュール鉄道、2020年に一部再開

グルノーブル Grenoble の南、マテジーヌ高原 Matheysine Plateau へ、電気機関車に牽かれて観光列車が上っていく。高原で採掘される石炭を運び出していたラ・ミュール鉄道 Chemin de fer de la Mure は、本来の役割を終えて、1997年に観光鉄道に転換された。

*注 ラ・ミュール鉄道のプロフィールについては本ブログ「フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う」参照。

Blog_lamure21
被災前のラ・ミュール鉄道
Photo by Alain Gavillet at wikimedia. License: CC BY 2.0

しかし、年間最大7万人が訪れていたというプティ・トラン petit train(小列車の意)の旅は、2010年10月26日に突然終了する。この日発生した山崩れで、約3,000立方メートルという大量の岩や土砂が、トンネルの入口とモンテナール湖 Lac de Monteynard を見下ろす高架橋の上に落下し、線路が完全に埋まってしまったのだ。

現場は2本のトンネルの間の短い明かり区間で、目もくらむ 高さ250m(下注)の断崖に石積みの高架橋が架かっている。土砂の除去作業をしようにも現場に近づく道路はなく、不安定になった岩肌からは小さな崩落が続いていた。復旧の見通しが立たないことから、運行を受託していたヴェオリア・トランスポール Veolia Transport は、要員を解雇し、事業から完全に手を引いた。それ以来、ラ・ミュール鉄道は全線が不通のままだ。

*注 1962年に完成したモンテナール=アヴィニョネ ダム Barrage de Monteynard-Avignonet により湛水する前は、川底から400mもの高さがある荒れた急斜面だった。なお、湖の名も正式にはモンテナール=アヴィニョネ湖 Lac de Monteynard-Avignonet。

Blog_lamure22
崩壊現場を対岸より撮影
Photo by Guillaume BOSSANT at fr.wikipedia. License: CC BY-SA 1.0

鉄道が通るイゼール県 département de l'Isère は、事業再開を目指して、2012年に委託業務の最初の入札を行った。しかし、提示の条件を満たす事業者は現れなかった。その後も再入札や個別の交渉が繰り返されたが、いずれも途中で暗礁に乗り上げた。この間、線路施設は放置され、2013年11月には架線の一部が盗まれる被害も発生した。

ところが、運行中止から7年が経とうという2017年6月になって、新たな報道があった。フランスのマスコミサイト Franceinfo から、6月29日付記事を引用させていただく(フランス語原文を和訳)。

イゼール県のラ・ミュール小列車が新しい運行事業者を見つけて2020年に再開予定
Le petit train de la Mure en Isère a trouvé un nouvel exploitant et va redémarrer en 2020

それはイゼール県きっての観光地の一つである。2010年の山崩れの後中止されたラ・ミュール小列車の運行が再開されることになった。県議会は今朝、新しい事業者の名を発表した。2020年の再開に向けて2,600万ユーロの投資が必要となる。

良いニュースは何年も前から期待されていたが、イゼール県のラ・ミュール小列車が再び走ることになった。2010年10月、巨大な地すべりが列車の走るレールを遮断していた。この木曜日、2017年6月29日、イゼール県議会は小列車を運営する代表者の名を発表した。大規模で費用のかかる作業が必要になる。最初の観光客を迎えるのは2020年の見込みである。

複雑なインフラの管理を専門とする民間管理事業者エデス Edeis は、新しい「ラ・ミュール小列車」を運営するために選ばれた。イゼール県議会議長ジャン=ピエール・バルビエ Jean-Pierre Barbier が、今朝ラ・ミュールでの記者会見の席でその名を明らかにした。

「小列車」は2020年7月に再開される予定である。ラ・ミュールとモンテナールの展望台の間15kmの路線を走ることになる。最終的には、運行中止前の年間訪問者70,000人に対して120,000人に達することが目標である。

しかし、再開の前に大規模で費用のかかる作業がある。起工式は年末までに行われる予定である。必要となる投資総額は2,600万ユーロと見積もられ、うち600万ユーロは委託先のエデスが負担することになっている。県はそれに最大1,500万ユーロを投入する。ジャン=ピエール・バルビエにとって有用な投資であり、「そうすれば、経済的観点からうまくいくと信じているのです」。

イゼール県の観光の真の花冠「ラ・ミュール小列車」は、2010年10月の山崩れ以来、運行されていない。2本のトンネルの間の線路上に数千立方メートルの岩が崩れ落ちた。被害状況を地元の制作会社が撮影している。

記事にあるモンテナールの展望台というのは、グラン・バルコン Grand balcon(大バルコニーの意)付近に新たに設置するもので、レストランが併設されるという。そこは崩落個所より800mほどラ・ミュール寄りの高架橋上で、湖の眺望がすばらしく、以前から観光列車がフォトストップのサービスをしていた。列車はそこで折り返すことになるようだ。また、途中のラ・モット・ダヴェイヤン La Motte-d'Aveillans にある鉱山イメージ博物館 Musée de la mine image の前に新たに停留所を設けるともされている。

別の記事(Transportrail 2017年9月10日付)では、さらに具体的に「2020年夏のシーズン(4~10月)にこの区間で1日当たり9往復を運行させる計画」と書かれており、その日に向けて着々と準備が進められているのは間違いない(下注)。

*注 エデス社のサイトによれば、委託契約期間は30年で、初めの3年で整備工事を行い、その後27年間、インフラを維持管理するという。
https://www.edeis.com/train-de-mure-projet-emblematique-activites-dingenierie-dexploitation-dedeis/

Blog_lamure_map21
2020年の運行再開区間(赤線)。図中の LANDSLIDE が崩壊地点

ただ残念なのは、これが全線復活ではないことだ。計画では、上流側のラ・ミュール~グラン・バルコン間約15kmの運行が再開されるが、その一方で、本来の起点で、SNCFアルプス線 Ligne des Alpes との接続駅であるサン・ジョルジュ・ド・コミエ St-Georges-de-Commiers までの下流区間約15kmについては、少なくとも当面は放棄される。そのため、車両保守のための施設や留置線は、ラ・ミュールに集約されるという。

確かに、崩落現場にはまったく手が付けられておらず、土砂の撤去は、足場確保の困難さ、膨大な作業量、二次災害の危険性などから見ておそらく不可能だ。列車を通すには、現場の前後にある2本のトンネルをつなげる形で、当区間を迂回するトンネルを新たに掘るしかないだろう。しかし、巨額の費用を投じて全線再開を実現できたとしても、それがさらなる利用者増に結び付くかというと、そこは疑問だ。

ヨーロッパのどの観光鉄道もそうだが、客の大半は自家用車か観光バスで来る。SNCF線への接続が復活してもその傾向が変わることはないだろう。それに、沿線はおおむね木が茂り、見通しが利く区間は意外に少ない。展望台があり、丘陵を折り返しながら峠を越えていく上部区間に比べて、乗客を喜ばせる仕掛けに欠けている。さらに、エデス社にとってみれば、全線を往来する客は時間を惜しんで、せっかく整備したグラン・バルコンのレストランを素通りしてしまう恐れがある。

案の定、Franceinfo の続報によれば、サン・ジョルジュ・ド・コミエの町長が、計画はわが町のことを忘れている、と県に対して異議を申し立てたそうだ(2017年10月24日付記事)。駅前に駐車する観光バスが消え、列車運行に関する仕事がすべてなくなり、サン・ジョルジュ・ド・コミエは片道10本のSNCF気動車が停車するだけの静かな無人駅に零落してしまった。その状況がこの先いつまで続くのかは、誰にもわからない。

★本ブログ内の関連記事
 フランス ラ・ミュール鉄道を地図で追う
 ラ・ミュール鉄道、幻の延伸区間

より以前の記事一覧

2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

BLOG PARTS


無料ブログはココログ