2018年9月 3日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) II

車掌氏からもらった火山急行 Vulkan-Express の沿線案内は続く("Tour-Info on Brohltalbahn" 英語版を和訳、内容一部略)。

「私たちの旅は、標高67mのブロールBEで始まります。ここに鉄道の本部があり、絵のような小さな駅舎、側線、機関庫、修理工場があります。ここで機関車と客車は保守され、修理されています。

駅を勾配で離れると、すぐに線路はブロールバッハの谷へ左折し、続く12kmの間それに沿って走ります。少し行くと、初めて主要道を横断し、すぐに鉄橋でブロールバッハ Brohlbach を渡ります。線路は主要道と並行しており、時速20kmで安定して走るので、追い越していく多くのドライバーに手を振るチャンスがあります。機関車の警笛がドライバーに、踏切で停止するよう促すでしょう。」

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整備工場の前の蒸気機関車 11sm
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ブロールバッハの谷を行く火山急行(帰路撮影)

「もう少し上り、小川を渡ると、近くの城の名にちなんだシュヴェッペンブルク Schweppenburg 停留所(下注)に着きます。続いて、今でもトウモロコシを粉に挽くのに水力を使用する数少ない製粉所の一つ、モーゼンミューレ Mosenmühle があります。テーニスシュタイン鉱泉 Tönissteiner Sprudel の看板は、ローマ人が既に2千年前に使っていたドイツ最古の鉱泉の一つへ行く道を示しています。」

*注 正式名はシュヴェッペンブルク・ハイルブルンネン Schweppenburg-Heilbrunnen。リクエストストップにつき、実際には通過することが多い。後述のヴァイラー Weiler とブレンク Brenk も同じ。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

「ここで谷が狭まり、勾配が1:40(25‰)に高まります。エンジン音からそれが聞き取れ、速度の低下に気づくはずです。約1km進んだ後、谷の高みにある次の停留場バート・テーニスシュタイン Bad Tönisstein で停まります。小さな緑色のブリキ小屋が、列車を待つ旅人に休む場所を提供します。谷の反対側に、柔らかい凝灰岩に掘られたいくつかの洞穴が見えますが、この地質は、ラーハ湖火山 Laacher See Vulkan の激しい噴火の後(下注1)、谷を巻き下りてきた火山灰がとどまってここに堆積したものです。柔らかい石は最初ローマ人が建築用の石に用いましたが、粉砕すれば、水中で硬化するコンクリートとして使えます(下注2)。」

*注1 爆発により火山は陥没し、カルデラ湖である現在のラーハ湖 Laacher See が生じた。ブルクブロールの南5kmに位置するこの湖は、面積3.3平方kmでアイフェル最大。
*注2 トラス Trass と呼ばれる特産の凝灰岩で、特にオランダで干拓事業に用いられた。

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(左)バート・テーニスシュタイン停留所の緑色の待合所
(右)テーニスシュタイン高架橋を渡る

「カーブを回り、着実に上るとすぐ、長さ120m、高さ12mの『テーニスシュタイン高架橋 Tönisstein Viadukt』で再び谷を渡り、いったん長さ95mのトンネルに潜ります(下注)。さらに少し上ると、標高145mのブルクブロール Burgbrohl 駅に着きます。駅舎は、地元産の石材とハーフティンバーの塔部から造られ、一部にスレートを葺いた、路線で最も美しいものです。

短時間停車した後、また上り、谷のへりに沿って家並みの裏手を進むと、向こう側に古城のそびえるブルクブロールの村を見渡すことができます。」

*注 テーニスシュタイン高架橋は路線で最大規模の高架橋で、蒸気列車の撮影ポイントでもある。また、テーニスシュタイントンネルは路線で唯一のもの。

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(左)テーニスシュタイン高架橋、列車の最後尾から撮影
(右)渡り終えると路線唯一のテーニスシュタイントンネル

「次はヴァイラー Weiler に停車します。ここにある側線は、巨大なヘルヘンベルク Herchenberg の採石場が使っていたかつて非常に多忙だった積み出し駅の唯一の忘れ形見です。ここから谷が広がり、遠方にもう火山起源のアイフェル山地の丸い山頂が見えています。A61号線を載せる巨大な道路橋の下を通ります。」

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(左)見栄えのするブルクブロール駅舎 (右)A61号線の高架橋の下を通る

「右手、その隣に高さ340mのバウゼンベルク Bausenberg のクレーターがあります。約14万年前のもので、ヨーロッパで最もよく保存された馬蹄形の火口です。ニーダーツィッセン Niederzissen(下注)を通り、しばらく主要道と小川に沿ってオーバーツィッセン Oberzissen へ進んでいくと、アイフェルの高い山々に囲まれた畑や牧草地や小さな森のある美しい田園風景が楽しめます。」

*注 ニーダーツィッセンは往路の休憩地で、時刻表では7分停車。通常施錠されている駅のトイレがこのときだけ開放される。

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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

「オーバーツィッセン駅を発車後、この路線が山岳鉄道と呼ばれる理由を実感することができるでしょう。というのは、鋭い左カーブで谷を離れ、美しい3径間のアーチ橋で通りをまたぎ、最後の、そして最も壮大な旅の区間にさしかかるからです。勾配は、続く5.5kmの大部分で 1:20(50‰)と険しくなります。1934年までここはラック鉄道でしたが、より強力なエンジンによってラックなしで上れるようになりました(下注)。」

*注 開通時はアプト式(2枚レール)ラック区間だったが、マレー式機関車や旅客輸送用の気動車の導入により、ラックレールは1934年に撤去された。

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(左)ニーダーツィッセンは往路の休憩地
(右)オーバーツィッセンの町を後にして、50‰の急勾配に挑む

「それが見えるとともに、エンジンが必死に働いているのが聞こえてきます。速度は徒歩並みに落ちますが、これは、ほかにはないアイフェルの田舎、畑や牧草地や森がゆっくりと客車の窓を通り過ぎるのを眺める時間を与えてくれます。列車の騒音で鹿がたいてい逃げていく一方で、線路のそばに放たれている馬はそれに慣れています。

右手には、古い火山の丘の上にオールブリュック城 Burg Olbrück が見えます。それは975年に遡り、何度か増築されました。フォン・ヴィート伯爵 Graf von Wied によって建てられたこの城は、1689年にフランス人によって破壊され、その後は地元民が石採り場として使っていました。2000年に城の欠損部が復元されて、今では巨大な塔に登り、上から壮大な景色を楽しむことができます。晴れた日には約50km離れたケルン大聖堂が見えるのです!!」

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古火山に立つオールブリュック城と麓の村ハイン Hain

「列車は3km上った後、ブレンク Brenk で側線と採石場の建物を通過します(下注)。ここではフォノライトが採掘されています。火山岩は粉砕されて細粒となり、コンテナでガラス工場に出荷されて、高品質のガラスの生産に使われます。利点の一つは融点を下げることで、コスト削減に役立ちます。採石場は、路線上の定期貨物輸送で唯一残っている顧客です。

*注 ブレンクの採石場はシェルコプフ Schellkopf という火山をまるごと採掘しており、すでに山の形を成していない。乱開発を防止するため、他の火山群は自然保護区に指定されている。

もうひと踏ん張りです! 美しい森の中を少し上り、それから高い築堤で谷を渡り、木々が列をなす切通しを抜けて再び開けた土地へ出ていきます。警笛の爆音が、17.5kmの旅を終えて標高465mの終着駅エンゲルン Engeln に到着したことを伝えてくれます。」

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(左)複線に見えるのはブレンク貨物駅の側線
(右)木々が列をなす切通しを抜ける。終点まであと少し

「ここが路線の終点ですが、かつてはケンペニッヒ Kempenich の村まであと5km(下注)走っていました。残念ながら、その区間の線路は1974年に撤去されました。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、エンゲルン~ケンペニッヒ間は6.32km、廃止日が1974年10月1日で、撤去は1976年としている。

エンゲルンからは、バスで旅を続けるか、標識の整ったハイキングルートを歩くか、あるいは駅のビュッフェで短い休憩と軽食をとった後、起点のブロール駅に列車で戻りましょう。」

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エンゲルン駅 (左)乗客は火山食堂で休憩 (右)すぐに機回し作業が始まる
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折返しの発車準備完了

そのエンゲルンでは折返しの発車まで30分の待ち時間があり、その間に機回し作業が行われる。駅舎は1997年に改築された木造の平屋で、ブルカーンシュトゥーベ(火山食堂) Vulkanstube と名付けられた軽食堂が開いている。乗客はここで休憩をとることができる。

駅の周囲は緩やかにうねる農地が広がり、人家は、西へ少し行った丘の麓にあるエンゲルンの小さな集落だけだ。地形的には高原の分水界で、なぜここが終点なのか、不思議に思う人もいるだろう。ケンペニッヒへの末端区間が廃止されたとき、ここに線路が残されたのは、一つ手前のブレンクでフォノライト(響岩)の貨物扱いが継続中だったからだ。ブレンクは急勾配区間に挟まれて手狭なため、坂を上り切ったエンゲルンを折返し駅にしたようだ。

線路に沿ってケンペニッヒ方へ少し歩いてみる。線路は駅舎から200mほどで途絶え、跡地はいったん畑に取り込まれた後、農道に姿を変えて続いていた。北を望むと、火山起源ののっぺりとした緑の丘(エンゲルナー・コプフ Engelner Kopf)を背景に、菜の花が満開で畑を黄色に染めている。のどかな春の景色に心が和んだ。

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エンゲルン駅周辺、火山起源の丘を前にして黄色に染まる菜種畑

復路では、予定通りオーバーツィッセンで蒸気機関車 11sm に引き継がれて、ブロールに着いた。一仕事終えた蒸機は、側線を伝ってエンゲルン方にある修理工場の前まで行き、石炭と水の補給を受ける。工場の扉は開放されていて、見学が可能だ。4軸ボギーの大型ディーゼル機関車 D5 や、改修中の気動車 VT30 がこの中にいた。

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ブロール駅構内で、石炭の補給を受ける蒸気機関車 11sm
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ブロール駅の整備工場
(左)大型ディーゼル機関車 D5 (右)気動車 VT30 は改修中

工場の手前から、ライン河港へ行く支線が右へ急カーブしていく。このいわゆる港線 Hafenstercke は、河畔まで実質500mほどの間に、DB線、連邦道と、難しい障害物をまるで軽業師のようにクリアしていくのがおもしろい。ブロールタール鉄道探訪の最後に、鉄道模型顔負けのこのユニークな軌跡を歩いて追ってみた。

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ブロール付近の1:25,000地形図(基図は GeoBasisViewer RLP から取得)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

まず線路はS字カーブを切りながら、高架に上がった連邦道412号線と平面交差する。次に、その高度を維持したまま、駅前通り Bahnhofstraße とDB線を乗り越える。高架橋の橋台には鉄道名の立体文字板が誇らしげに掲げられ、DB線を走る列車からも一瞬見える。かつてこれは、仕込まれたネオン管で光っていたらしい。

DB線に並行して下り勾配を下りたところが、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof のヤードだ。標準軌のDB線と接続しているので、線路は大部分3線軌条化されている。構内北端にはブロールタール鉄道の機関庫の建物も残っているが、もはや使われていない。

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(左)工場の手前で右へ分かれていく港線
(右)連邦道412号線と平面交差(ブロール方を望む)
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(左)右上写真の反対側を望む。下路トラス橋はDB線を越えている
(右)左写真のトラス橋を412号線の跨線橋から望む
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(左)トラス橋の橋台にある鉄道名の立体文字板
(右)ブロール積替駅、構内はほとんど3線軌条

港へ向かう線路は、構内の北東で分岐する。ここでもS字を切りながら、通行量の多いライン左岸の主要道、連邦道9号線を大胆にも平面で横断し、河畔に出る。岸辺のビアガーデンの前に低いプラットホームがあり、「ブロール・ラインアンラーゲン(ライン埠頭)Brohl-Rheinanlagen」と記された駅名標が立っていた。毎週火曜日になると、ここに火山急行の特別列車が停まり、ライン川の観光船から降りてきた客を迎えるのだ。訪れた日曜日はビアガーデンが大賑わいで、ホームはすっかり客用駐車場にされていたが…。

3線軌条は、港の護岸に沿ってなおも北へ延び、ブロール・ハーフェン(港)Brohl Hafen の貨物駅に達する。粉塵の飛散を防ぐため、鉄道が運ぶフォノライトはコンテナ方式に移り、ブロール積替駅でトラックに引き継がれるようになった。それ以来、港の駅は仕事を失い、吹き通るラインの川風が、静かな水面にさざ波を立てるばかりだ。

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(左)港へ向かう3線軌条、連邦道9号線と平面交差
(右)ライン河畔を走る
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ラインアンラーゲン(ライン埠頭)停留所
(左)プラットホームと駅名標(画面左端)
(右)河岸には、火山急行のロゴを掲げたライン川観光船の船着き場が
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(左)3線軌条は河港へ延びる (右)静まりかえるブロール・ハーフェン(ライン河港)

■参考サイト
火山急行 http://vulkan-express.de/

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2018年8月27日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) I

本線(谷線 Talstrecke) ブロール Brohl BE ~エンゲルン Engeln 間17.51km
 軌間1000mm、非電化、最急勾配50‰、1901年開通

支線(港線 Hafenstrecke) ブロール~ブロール・ハーフェン Brohl Hafen 間1.95km
 軌間1000m、標準軌との3線軌条区間あり、1904年開通

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ブロールBE駅の火山急行、先頭に立つのは蒸気機関車 11sm

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DB(ドイツ鉄道)ライン左岸線の、普通列車しか停まらない小駅から、その狭軌鉄道は出発する。ブロールバッハ Brohlbach という川が流れる谷を遡っていくので、路線名はブロールタール鉄道 Brohltalbahn だが、列車のブランドは「ヴルカーン・エクスプレス Vulkan-Express」、直訳すると火山急行だ。

イタリアではなくて、ドイツにも火山がある? と訝しく思う人がいるかもしれない。実はこのライン川からベルギー、ルクセンブルク国境にかけてのアイフェル Eifel 地方は、第三紀の5000万年前から火山活動が続いていて、地表はその噴出物で覆われている。地形図をざっと眺めるだけで、火山起源の円錐丘やマールの湖(下注)が至るところに見つかる。マール Maar という地理用語自体、アイフェル方言で湖を指す言葉(標準ドイツ語では Meer)から採られたものだ。

*注 マールは、爆発的噴火により生じた、周囲に環状丘を持たない円形火口をいう。水を湛えるマールは、伊豆半島の一碧湖や男鹿半島の一ノ目潟などわが国にも見られる。

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火山起源の円錐丘に建つ城(オールブリュック城)を背景に走る火山急行
Photo by Simeon Langenbahn from http://vulkan-express.de/

火山急行は、そのようなヴルカーンアイフェル(アイフェル火山帯)Vulkaneifel の高みへと上っていく列車だ。命名はスイスの有名な観光列車、氷河急行 Glacier Express に倣ったのだが、急行と言いながら曲線と勾配のきつい狭軌線をのんびり走るところは、本家のそれに似ていないでもない。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

火山急行の舞台となるブロールタール鉄道は、メーターゲージ、非電化の小鉄道だ。ライン河畔の村ブロールを起点に、谷を遡る本線(谷線 Talstrecke)と、河港へ行く支線(港線 Hafenstrecke)から構成される。

本線は、ブロールから終点のエンゲルン Engeln まで17.5kmを結び、1901年に先行開通した。最奥部のオーバーツィッセン Oberzissen とエンゲルンの間は、50‰の急勾配が5.5kmもの間続く難所だ。開通当初はアプト式(2枚レール)のラック区間とされ、1934年から粘着式運転に切り替えられた。また、1902年にはエンゲルンから先、ケンペニッヒ Kempenich まで6.3kmが延長されたが、残念ながら利用の低迷により、1974年に廃止されて今は無い。

一方、支線はブロールからブロール・ハーフェン(ブロール港)Brohl Hafen に通じる1.95kmの短い路線で、1904年に開通している。中間部には、国鉄(のちDB)との間で貨物を積み替えるヤード、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof が造られた。標準軌貨車を直通させるための3線軌条が1933年に積替駅と港の間に設置され、今も残っている(下注)。

*注 ブロールタール鉄道の本線方面に標準軌貨車を直通させるために、他の狭軌鉄道と同様、ロールボック(1928年まで)やロールワーゲン(1978年まで)も使われていた。

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火山急行を牽いてテーニスシュタイン高架橋を渡る蒸機
Photo by Walter Brück from http://vulkan-express.de/

ブロールタール鉄道の敷設目的は貨物輸送で、沿線で採掘された石材を運び出し、国鉄やラインの川船に引き渡すことだった。開通以来、トラス Trass(特産の凝灰岩)の切石やモルタルに使う細骨材、あるいはガラス生産の添加剤として使われるフォノライト(響岩)など、有用資源が鉄道を通して出荷されてきた。

他方、旅客輸送は、人口の少ない山間地域のため、当初から細々としたもので、その後の経済不況や戦争の間に、休止と再開を繰り返した。そして車両の老朽化などを理由に1961年9月に一般旅客列車は廃止され、バスに置き換えられた。

その後、鉄道に残っていた客車を使って、1977年から観光客向けの列車が運行されるようになる。これが火山急行の始まりだ。この間も貨物輸送は続いていたが、道路輸送への転換や他国産との競合による操業中止などで輸送量が減少し、残る顧客はフォノライトだけになっていた。

鉄道は1987年に廃止の危機に瀕した。このときは持ちこたえたものの、1991年に会社は再度廃止方針を表明する。だが最終的に、観光資源としての可能性を評価する地元自治体から新たな出資を得て、存続が決まった。

1995年には裁判所から、粉塵公害を理由に河港での積替え作業を禁止する裁定が出たことで、フォノライト輸送が中断する事態も起きた。これはコンテナ方式に変更し、ブロールでトラックに積み替える方法をとることで、4年後の1999年に再開された。

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ブロール港の静かな水面。堤防の右はライン川

現在、鉄道は上下分離方式で運営され、インフラはブロールタール連合自治体 Verbandsgemeinde Brohltal が、運行事業はボランティアベースの利益共同体が設立した運行会社(ブロールタール狭軌鉄道運行会社 Brohltal-Schmalspureisenbahn Betriebs-GmbH)が、それぞれ責任を負うことになっている。

ドイツにも保存鉄道は相当数あるが、月1回とか日曜祝日のみなど、運行日が限定されているものが多い。その中で火山急行はシーズン中、特定曜日を除き毎日運行していて、旅行者にとって比較的訪問日程が取りやすい鉄道と言えるだろう。ただし、運行本数は少なく、最大でも一日3往復しかない(下注)。所要時間は、往路が一方的な上り坂のため90分、復路は下りで72分だ。

*注 ダイヤは日ごとに変化するので、公式サイトで前もって調べておく必要がある。

列車を牽くのは基本的にディーゼル機関車だが、2018年のダイヤでは、シーズン中の一部の土・日曜に、鉄道の虎の子的存在であるマレー式蒸気機関車 11sm(下注)が登場する。11sm は1906年製で、1960年代までこの路線で定期列車を牽いていたオリジナル機だ。1966年の引退後、ドイツ鉄道史協会DGEGに引き取られ、長らく博物館で静態展示されていたが、買い戻されて長期にわたる解体修理の上、2015年に現役に復帰した。

*注 マレー式蒸気機関車は、動輪群を前後2組配置し、後部はボイラーに固定、前部は関節でつないで可動式にしたもので、牽引力が高く、急勾配・急曲線に適応する。なお、車両番号の sm は重量マレー schwere Mallet の略。

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マレー式蒸気機関車 11sm

蒸気機関車は、負担の大きい急勾配区間には入らず、ブロール~オーバーツィッセン間を往復している。たとえば午前中の便では、ブロール10時30分発の二番列車を牽いてオーバーツィッセンまで行く(11時27分着)。そこへ、ディーゼル牽引の一番列車がエンゲルンから戻ってくる(11時34分)ので、その客車を自らの列車の後ろに併結する。こうして長い編成となった列車を従え、11時55分、蒸気機関車はブロールへ向け帰っていくのだ。ちなみに、列車を蒸機に託してフリーになったディーゼル機関車は、エンゲルン行き二番列車(12時00分発)を牽いて、再び急坂を引き返していく。

一方、港線は基本的に貨物専用だが、火曜日に限りブロール・ライン埠頭 Brohl Rheinanlagen の停留所まで旅客列車が運行され、ライン川の観光船と連絡している。

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オーバーツィッセンでの交換風景
(左)復路の一番列車が駅に到着したとき、すでに蒸機は帰り支度を整えていた
(右)ディーゼルが解結され、この後蒸機が転線して併結作業に入る
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長い編成でブロールに戻る火山急行。復路の蒸機は後退運転

2018年5月の旅行中、日曜日に時間が空いたので、火山急行に乗りに出かけた。朝9時10分発の一番列車に間に合うように、ライン左岸線のブロールでRB(普通列車)を降りる。DB駅前の狭い広場から数十段の階段を上ったところが、ブロールタール鉄道の起点駅だ。DBと区別するために、ブロールタール鉄道(会社)Brohltal-Eisenbahn(-Gesellschaft)  の頭文字を採って、ブロールBE駅と書かれる。

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ブロールBE 駅 (左)DB駅前からBE構内へ上る階段 (右)駅舎のチケットカウンター

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(左)エンゲルン往復の乗車券
 (右)蒸機追加料金券

発車時刻が迫っているので、さっそく駅舎に入って切符を買い求めた。2等往復13ユーロだが、先述のとおり、復路が蒸機列車になるため、その追加料金3ユーロが必要だ。

ホームには、乗るべき列車がすでに待機している。急勾配に備えてディーゼル機関車は重連編成だ。このD1とD2は、1965年オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製の50歳を超えた古参機だが、まだ頑張っている。港線で標準軌貨車と連結できるように、先頭のバッファーの位置を狭軌線路の中心線からずらしてあるのが特徴だ。

機関車の次は、自転車その他の手荷物が積み込まれた有蓋貨車、その後に客車が3両つながっている。1両目はスイスのBOB(ベルナー・オーバーラント鉄道)の旧車で、内部は1等室と2等室に分かれ、窓下のテーブルにBOBの路線図がそのまま残る。2両目は食堂車(といっても軽食と飲み物)、3両目は車長の短いベンチシートの2軸客車、いずれも、車端のデッキから乗降する形式の古典車両だ。

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ディーゼル機関車D1、バッファーの位置が中心線からずれている
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(左)有蓋貨車は主として自転車運搬用 (右)BOBの旧型客車、右1/3は1等室
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(左)BOB客車の1等室 (右)窓下テーブルに路線図が残る
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2軸客車はレトロなベンチシート

観光バスからの客が乗り込んだので、BOB車は賑わっていたが、後ろの車両はガラガラで、週末旅行で来たというオランダ人の鉄道ファンと、地元の親子連れが1組だけだ。車掌が巡回してきた。どこから来たのかを聞きとると、日本語版がないのは残念だが、と言いながら、英語で書かれた沿線案内をくれた。

「乗客のみなさま、1901年に正式開業した『火山急行』にご乗車ありがとうございます! ドイツに残る数少ないメーターゲージ列車の一つで、おそらく最も急勾配の列車の旅をお楽しみください。

乗車中にご体験いただけるとおり、『ブロールタール鉄道』は本物の山岳鉄道です! 興味深いことに、あなたは『火山公園 Vulkan Park(下注)』の一部を通って旅しています。アイフェル山地のこの地域では、鉱泉のような『熱い過去 hot past』の多くの遺物や火山活動のあらゆる種類の痕跡を見つけることができます…。」

注:正式名は、アイフェル火山帯自然公園 Naturpark Vulkaneifel。

読んでみるとけっこう充実した内容で、車窓風景の理解に役立った。次回は、この沿線案内を参照しながら、エンゲルンまで旅することにしよう。

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一番列車まもなく出発

■参考サイト
火山急行(公式サイト) http://vulkan-express.de/

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2018年8月14日 (火)

ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

貸切運行のモ161で阪堺線の終点、浜寺駅前に降り立った一行は、20分の休憩の間、車内を撮影したり、近くにある南海本線の駅舎を覗いたりして過ごした。

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浜寺駅前に停車中のモ161(以下、特記ないものは2014年4月撮影)

浜寺は、古くから白砂清松の海岸として知られた場所だ。沖合に埋立地が造成される以前は、海水浴場にさまざまなレジャー施設が併設された行楽の人気スポットだった。戦前、大阪市内からここまで、南海本線、阪堺線(阪堺電気軌道、1915年から南海鉄道阪堺線)、新阪堺(正式名称は阪堺電鉄、下注)と3本の鉄道が通じていたことからも、その賑わいぶりが想像できる。

*注 阪堺電軌とは別会社で、1944年に大阪市電へ吸収される際に、堺市街から浜寺までの末端区間は廃止された。

南海本線の駅名は浜寺公園といい、1907(明治40)年に建てられた私鉄最古級の木造駅舎が最近まで使われていた。惜しいことに、鉄道の高架化工事に伴って2016年1月に駅舎としての役割を終え、現在は、曳家により高架工事に支障しない位置に移設保存されている。一方の阪堺線の電停名は浜寺駅前、つまり南海の駅前という意味だ。控えめな名称に合わせるように、駅舎も切妻屋根のささやかなものだ。たいていホームに次の電車が停まっているから、待合室を設ける必要もないのだろう。

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瀟洒なデザインが特徴的な南海本線浜寺公園駅の旧駅舎(2010年4月撮影)
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浜寺駅前電停は南海の駅(右奥)から公園へ通じる通り沿いにある(2010年4月撮影)

そろそろ折返しの出発時刻になる。13時20分に出た定期列車の後を追って、モ161もホームを離れた。復路では、我孫子道車庫に寄り道した後、上町線の起点、天王寺駅前まで行くことになっている。

先行車が各電停で客を拾っていくので、こちらは徐行したり、ときには停止したり、車間距離を見計らいながらの運行だ。その間、車内ではサイレントタイムの指示があった。おしゃべりは控えて、吊り掛け駆動の懐かしいうなり音を鑑賞する。意識はおのずと車外の動く景色に向くから、数分おきにすれ違う対向列車が気になる。

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モ161の復路 (左)大道筋で先行車の後を追う (右)まもなく我孫子道電停

大和川を渡り、大阪市域に入って最初の停留場が、我孫子道(あびこみち)だ。南側のホームの前まで進んだ後、バックでゆっくりと車庫の構内に入っていった。東端の側線で停車、ここでも20分間の休憩がある。業務の支障にならないよう行動範囲を限定した上で、車庫見学が許された。

ここは阪堺電車の運行拠点なので、街路で見かけるさまざまな車両が休んでいる。堺トラム第2編成の紫おんがいるかと思えば、目立つ塗色のモ601形、その陰に隠れるように橙帯の旧 京都市電の姿も確認できた。モ161の前で全員が記念写真に収まった後、再び車内へ戻る。

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我孫子道車庫のモ161
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我孫子道車庫に憩う車両群。堺トラム、モ601形、旧 京都市電

我孫子道を14時07分に出発した。少し進めば、住吉大社前の併用軌道だ。住吉電停の先で、右へ分岐する渡り線を経由して、いよいよ上町線の専用軌道に進入する。

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専用軌道上にある住吉電停の下りホーム
浜寺駅前直通運転開始直後の2009年9月撮影

阪堺電気軌道のサイト等によれば、上町線のルーツは軌間1067mmの馬車鉄道だ。1900(明治33)年に、まず天王寺西門前~東天下茶屋間が開通している。1909年に会社が南海鉄道に合併された後、1910年に住吉神社前(現 住吉)への延伸と電化・改軌工事が完成した。南海線の駅に隣接する住吉公園(下注)まで全通したのは1913(大正2)年のことだ。その後1921年に、天王寺駅前以北の区間が大阪市電に譲渡されて、上町線の営業区間が固まった。

*注 当時は南海線の駅名も住吉公園(1912年開業)で、上町線の駅名はそれに合わせたもの。

出自が異なる阪堺線と上町線だが、旧 阪堺電気軌道が南海と合併した1915年以来、もう100年以上も姉妹線のように扱われている。南海時代には、1980年に廃止された平野線(今池~平野)とともに、大阪軌道線と総称されていた。

旅客流動は、恵美須町よりも交通の結節点であり商業の中心地である天王寺/阿倍野に向いているため、上町線と阪堺線をつなぐ系統の利用者が多い。2009年に上町線天王寺駅前と阪堺線浜寺駅前を結ぶ直通運転が復活した(下注)。代わりに阪堺線恵美須町発の電車が我孫子道止まりになり、堺市域からも天王寺へ直結させるという会社の戦略意図が明確になっている。

*注 浜寺駅前への直通運転は1955(昭和30)年に始まったが、1973年から我孫子道止まりに短縮されていた。

前回も触れたが、貸切乗車のときはまだ上町線の末端区間、住吉~住吉公園間200mが残っていた。ただ、ひと月ほど前(2014年3月)のダイヤ改正で、住吉公園の発着が大幅に減便され、朝の7~8時台の5往復(土休日4往復)だけになっていた。乗り合わせた人たちと、きっとこれは廃止の前触れに違いないと話していたのを覚えている。

予測は、わずか2年後に現実となった。2016年1月31日付でこの区間が廃止され、利用者は近くの住吉鳥居前電停に回らざるを得なくなった。屋根があり風雨をしのげる住吉公園に比べて、鳥居前は道路上で、吹きさらしの狭い安全地帯だ。快適度にはかなりの落差があるが、運用効率のほうが優先されてしまった。

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住吉公園電停ありし頃(4点とも2009年9月撮影)
(左)住吉電停前の平面交差 (右)住吉公園駅にさしかかるモ602
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(左)2線3面のささやかなホーム (右)駅舎正面。左の高架は南海本線

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住吉大社周辺の1:10,000地形図(1985(昭和60)年編集)
南海本線、阪堺電軌阪堺線、上町線と各駅・停留場の位置関係がわかる

住吉を出ると、電車は住宅街の中をくねりながら上っていき、サミットで南海高野線とオーバークロスする。坂道は30.3‰という異例の急勾配で、舞台は、低平な海岸平野から高燥な洪積台地に移る。以後、上町線はその名のとおり、終始この上町台地を伝っていく。

帝塚山四丁目電停の北側で併用軌道が始まるが、通るのは軌道の両側に1車線とれるかどうかの狭い道だ。それにもかかわらず路上駐車は日常茶飯事で、電停では朝夕その1車線が客の待ち合わせ場所にされる。それで車は、軌道の上を電車と前後しながら走らざるを得ない。

また、別のあるとき、姫松だったか、電停前の商店のガラス戸越しに、店の人と話している女性客が見えた。到着した電車に気づくと挨拶を交わし、悠々と表に出て、その足で乗り込んできた。生活密着型の鉄道ならではの光景がここにはある。

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(左)上町台地に上り、南海高野線を越える急勾配区間
(右)生活道路の併用軌道、姫松電停にて(いずれも2009年9月撮影)

北畠電停の先で左にそれて、いったん専用軌道に戻る。しかしそれは少しの間に過ぎない。松虫電停を出た後、電車は体をくねらせながら、車が溢れるあべの(阿倍野)筋の大通りに割り込んでいく。阿倍野交差点から北側は、再開発事業に伴う道路の拡幅工事の最中で、軌道の周りは雑然としている。ビルの谷間にこもる都会の喧噪を掻き分けるようにして、14時28分、モ161は終点、天王寺駅前に到着した。

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専用軌道からあべの筋に割り込む(車内から後方を撮影)
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天王寺駅前の旧ターミナル(2009年9月撮影)

あべの筋の併用軌道は、その後2016年12月3日に、拡幅が完了した道路の中央に切り替えられた。新線では、センターポールの架線柱が建ち並び、芝生を植え込んだ緑化軌道が延びる。阿倍野電停は拡幅されて上屋がつき、天王寺駅前電停も、2面1線の窮屈な構造はそのままながら、改築されて面目を一新した。ここに堺トラムが現れたら、LRTの新設路線と何ら変わらない。

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切り替えられた併用軌道
(左)阿倍野交差点から北望 (右)阿倍野電停(いずれも2017年9月撮影)
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改築された天王寺駅前電停(2017年9月撮影)

今改めて周囲を見渡せば、天を突くあべのハルカスをはじめ、キューズモール、新しい駅前歩道橋と、いつのまにか阿倍野一帯が近未来的な風景に転換されている。阪堺電車もとうとうその進化に追いついたわけだ。とはいえ、屋外広告物条例などなんのその、質屋やパチンコ屋のド派手な広告を付けた車両もまだ素知らぬ顔で走ってくる。これもまた阪堺らしい姿だ。

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図住之江(昭和60年編集)を使用したものである。

■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/

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 ライトレールの風景-阪堺電気軌道阪堺線

2018年8月 7日 (火)

ライトレールの風景-阪堺電気軌道阪堺線

阪堺電気軌道、通称 阪堺電車が、手持ちのレトロ車両を使って貸切運行を行っている。もう4年前になるが、2014年4月の海外鉄道研究会のイベントでそれに乗る機会があった。

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恵美須町で発車を待つモ161(以下、特記ないものは2014年4月撮影)

阪堺電気軌道は、阪堺線(恵美須町~浜寺駅前14.1km)と上町線(天王寺駅前~住吉4.4km、下注)の2路線から成る。コースは、まず往路が恵美須町(えびすちょう)を出発して、阪堺線を一気に浜寺駅前まで走り通す。復路では我孫子道(あびこみち)の車庫を見学し、住吉から上町(うえまち)線に入って、天王寺駅前で降りるというものだ。

*注 ただし当時は住吉~住吉公園間0.2kmもまだ運行しており、朝の時間帯だけ発着があった。この区間は2016年1月31日付で廃止。

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阪堺電車の路線図

少し早めの昼食をとって、地下鉄堺筋線で集合場所へ向かった。恵美須町は、路線が1911(明治44)年に開業したときからのターミナルだ。堺筋が国道25号と交わる恵比須交差点の南西角で、通天閣が聳える繁華街「新世界」とは道を隔てて隣り合っている。しかし、駅(停留場)は平屋根の入口に電車のりばを示す小さな看板があるだけで、うっかりしていたら通り過ごしてしまいそうだ。

喫茶店の前の薄暗い通路を入っていくと、改札口はなく、あっけなくホームに出た。車内精算の路面電車だから当然なのだが、屋根を架けた3面2線のターミナルらしい造りの構内だけに、けっこう意外感がある。参加者は30名あまり、着いては出ていく定期列車の写真を撮りながら、賑やかに時間待ちをしていた。

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恵美須町電停
(左)のりばを示す小さなプレートがあるだけの入口(2010年4月撮影)
(右)3面2線の立派な頭端式ホーム

12時過ぎ、吊り掛けモーターのモ161がホームに入ってきた。1928(昭和3)年製の車両で、開業100周年を記念して昭和40年代の状態に復元されたのだそうだ。外装はダークグリーンだが、屋根は赤(鉛丹色)、ドアと窓枠はニス塗りでいいアクセントになっている。阪堺線ではど派手なボディー広告の車両を見慣れているので、このシックないでたちは新鮮だ。

車内に入ると、目の覚めるようなブルーのモケットシートが目を引く。腰を下ろすと感じる堅めの反発力が懐かしい。鎧戸の日除けやアールヌーボー風の装飾金具、「禁煙」のプレートでさえ、レトロ感を盛り上げる立派な小道具だ。

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モ161 (左)中央扉は両開き、ニスの赤茶が美しい
(右)艶やかなブルーのモケットシートが目を引く
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(左)さりげない装飾金具もポイント (右)運転台

12時15分、電車は恵美須町を出発した。しばらくは建物の間の専用軌道を走っていく。信号に従うほかは停まらない特別列車だが、先行車を追い抜けないので急行運転とは言いがたい。大阪環状線の下をくぐり、それと並行する大通りを横断し、旧南海天王寺支線をまたいでいた築堤を上り下りする。

路面電車というイメージが定着しているにもかかわらず、車と並んで走る併用軌道区間はそれほど多くない。開業当時、住吉大社前や堺の旧市街地を除いて、町裏や都市化が及んでいない郊外に線路を敷いたからだ。だからこそ高度成長期、いたずらにクルマの目の敵にされることなく、生き残ることができたのかもしれない。

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恵美須町を出発

気が付くと緩い右カーブに差し掛かっている。天神ノ森の大きなクスノキが視界をかすめた。まもなく電車は、南海高野線のガードをくぐって紀州街道に出ていく。約2kmの間続く最初の併用軌道の始まりだ。

その北半分は、軌道の位置が道路の西側(進行方向右側)に偏っているため、対向するクルマが軌道上を堂々と走ってくる。この間にある東玉出と塚西の北行き電停は、路面に白線で描かれた安全地帯があるだけだ。そこに立ったままでは不注意なクルマに撥ねられかねず、利用者は道路際の軒先で待たなければならない。前方を見ていると、右折車や、時には通行人まで直前を横切る。電車の速度が勘で分かっていると見えて、慌てるそぶりもない。

上町線との分岐がある住吉電停の前でいったん停車した。軌道は複雑に交差していて、左後方へ行くのは天王寺駅前方面、右前方は住吉公園へ向かうひげ線(下注)だ。阪堺線浜寺公園方面と上町線天王寺駅前方面相互間の渡り線もある。

*注 このひげ線は、上述のとおりすでに廃止されている。

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住吉の渡り線を行く旧塗装のモ161(2010年4月撮影)
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住吉鳥居前の併用軌道

初詣客数では関西で一二を争う住吉大社の門前(停留場名は住吉鳥居前)を通過すると、電車は急カーブで右にそれて、再び住宅地の中の専用軌道を走り出す。ほどなく阪堺電車の運行拠点である我孫子道で停車した。ここは阪堺線と上町線の乗換え指定駅であり、大阪市内最南端のため、運賃が変わる境界駅でもある(下注)。

*注 後述するとおり、現在普通運賃は全線均一になっている。

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大和川に架かる華奢なガーダー橋(2010年4月撮影)

大阪と堺の市境をなす大和川(やまとがわ)を、華奢なガーダー橋で渡っていく。もちろん阪堺線では最も長い橋梁だ。阪神高速と少しの間並行した後、減速して急なカーブを回り込むと、堺の旧市街を南北に貫く大道筋(だいどうすじ)が見えてくる。

幅50mあるという大通りに設けられた一直線のセンターリザベーション軌道が、電車の通り道だ。座席に腰を下ろしていると気づきにくいが、両側の車道との間は、季節の花が溢れる花壇やつつじの植え込みで仕切られていて、トラムが走る環境としては特筆すべきものだ。この区間は約2.5kmも続き、けっこう乗り甲斐がある。

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大道筋のセンターリザベーション軌道
(左)老朽化していた軌道(2010年4月撮影) (右)PCまくらぎ化で乗り心地が改善

旧市街の南端で、もと環濠の土居川を渡ると、三たび専用軌道が復活する。そしてまた、胸のすくような直線路だ。大阪市内に比べて住宅の密集度が緩和されたせいか、全開の窓から吹き込んでくる初夏の風が心地よい。

また築堤を上っていき、南海電鉄本線を斜めにまたぎ越すあたりで、電車は速度を緩めた。右の車窓に浜寺公園の松林が広がっている。13時ごろ、終点の手前の乗降場所で停止。参加者を全員降ろしてから、電車はおもむろに1面1線の浜寺駅前のホームに入っていった。ここでは折返しの発車まで、20分の休憩がある。

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(左)南海本線を乗り越して海側へ (右)浜寺駅前ではホームの手前で客を降ろす
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浜寺駅前電停
(左)出札 (右)自販機が林立する正面入口(いずれも2017年9月撮影)

1912(明治45/大正元)年に全通した阪堺線だが、1915年からは南海電鉄の一路線として運行されていた。利用者減少による採算悪化を受けて1980年に分社化され、今の形になった。しかし、その後も状況は改善せず、新会社発足以来約30年間で、輸送人員は7割も減ったという。

減少傾向は、大阪市内に比べて堺市内がより顕著だった。ほぼ並行して走る3本の鉄道(南海本線、南海高野線、JR阪和線)に、所要時間でも運賃の点でも及ばず、利用者の逸走を招いたのだ。2000年決算で、会社は最初の債務超過に陥った。人員削減で合理化を進める傍ら、2003年堺市に対して、堺市内区間の存廃を含めた協議を申し入れている。

その中で2007年ごろから、東西鉄軌道事業の構想が持ち上がった。従来の鉄道がすべて南北方向に走っているのに対して、それを連絡する東西軸としてLRTを建設するというものだ。それに合わせて阪堺線は公有化(上下分離)する方針だった。ところが、役所主導で検討が進められたため、LRTのルートとなる沿線住民の強烈な反対運動を引き起こしてしまう。2009年の市長選で争点になり、計画中止を公約に掲げる現市長が当選した結果、事業はあえなく白紙撤回された。

しかし、現実に走っている阪堺線まで見捨てるわけにはいかなかった。翌2010年に市は、阪堺線に対する支援策を発表し、2011年から10年間をめどに総額50億円の財政支援を行うとともに、公有化の協議を続行することとしたのだ。

支援項目で利用者にインパクトがあったのは、経費補助による運賃値下げだ。阪堺電車の運賃体系は、大阪市内または堺市内が200円、市境を越えると290円に跳ね上がって、並行路線より高くなっていたが、これを全線200円の均一運賃にした(消費税率改定に合わせて現在は210円)。さらに満65歳以上の堺市民は専用カード持参で100円になる。住民向けだけでなく、観光客誘致のためのフリー乗車券もいろいろと用意された。

また、車両の更新も話題となった。2013年から15年にかけて調達された3編成の新型LRV「堺トラム」だ。富山地鉄のサントラムや札幌市電のポラリスと同形の3車体連接車(下注)だが、車体塗装を敢えて抑えたトーンにしているのが特徴だ。原色がはじける従来車との違いは歴然で、外観との相乗効果で沿道に高級感を振りまいている。

*注 富山地鉄のサントラムは「新線試乗記-富山地方鉄道環状線」、札幌市電は「新線試乗記-札幌市電ループ化」の項で触れている。

実はこの日、朝早いうちに住吉鳥居前の電停でそれを待っていたのだが、同じ目的の親子連れがそばにいた。坊やは先発する従来車には目もくれない。「トラムに乗りたい!」と叫んで、次にやって来た堺トラムにいそいそと乗り込んだ。1時間に1本の割合で来る堺トラムは明らかに混んでいて、大人でもこれを選んで乗る人がいる、と後で聞いた。

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堺トラム第1編成「茶ちゃ」

多方面にわたる財政支援は、堺市民の阪堺線に対する認識に変化を与えたようだ。上町線の起点あべの界隈で、キューズモールやハルカスなど大規模商業施設が相次いで開業したこともあって、利用者数はそれ以来、上向きに転じている。

次回は、モ161の帰り道を上町線天王寺駅前までたどる。

■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/
堺市公式サイト-阪堺線への支援の取組について
http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/toshikotsu/hankaisen/

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 ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

2018年8月 1日 (水)

ライトレールの風景-福井鉄道福武線

5年後に予定される北陸新幹線の延伸を先取りするかのように、福井駅西口の風景は一変していた。駅ビルが刷新されただけでなく、広場に巨大な動く恐竜のモニュメントが据え付けられ、よそ者の度肝を抜く。それとともに、傍らに新設された福井鉄道(以下、福鉄)の電車乗り場も新鮮だ。事情を知らなければ、福井にもいよいよトラムが走るようになったのか、と驚く人もいるだろう。

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風景が一変した福井駅前を発車する福井鉄道770形

もちろん、福鉄の駅前乗入れは今に始まったわけではない。1933(昭和8)年に開通して以来、85年の長い歴史をもっている。ただこれまで福井駅前の電停は、JR駅から200mほど先の、昔ながらの商店街に挟まれた通称「電車通り」の真ん中に置かれていた。JRの駅前からは建物の陰に隠れて見えず、地元の人のみぞ知る存在だったと言ってよい。

それが2016年3月27日、西口広場の整備に伴って線路が143m延長され、本当の駅前に新しい乗り場が開かれたのだ。停留場名だけは「駅前」からもう一歩踏み込んで、ずばり「福井駅」だ。路線バスのターミナルも中央大通りから広場内に集約されたことで、西口はすっかり公共交通の結節点として再生された感がある。

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西口広場に新設された「福井駅」停留場

福井駅電停は、3面2線の頭端型ホームだ。建物内にホームがある高岡や富山のターミナルとは違って、冬場の季節風に曝されるものの、屋根の下を選べば、少なくとも雨に濡れずにJRの駅舎までたどり着ける。棒線だった旧電停に比べて、列車の留め置きが可能なのも、ダイヤが乱れたときに効果を発揮しそうだ。

ただ問題は、整備されたインフラがまだ十分に活用されていないことだろう。それはこの停留所の発車時刻表を見ればわかる。なんと朝の越前武生方面は1時間に1本程度(8時台は休日運休!)、田原町方面に至っては8時36分が始発で、9時台でも1本しかない。日中も各方面30分間隔の発車だ。本来、通勤通学で最も混雑するはずの時間帯にほとんど列車が設定されていないのは、このルートにその需要がないことを端的に示している。

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駅前通りを通過する線路。以前はここに終点があった

実はこの通称 駅前線は、短い支線に過ぎない。福鉄の路線図を見ると、越前武生(えちぜんたけふ)~田原町(たわらまち)間20.9kmが本線格で、駅前線0.6kmはそこから盲腸のようにちょろんと飛び出た恰好だ(下注)。

*注 歴史的にはこちらが本線で、旧 本町通り~田原町間は、駅前線から17年遅れて1950(昭和25)年に開通した。正式にはどちらも福武(ふくぶ)線。

列車の運行も、今や市街を貫くフェニックス通り(旧 国道8号)上の南北ルートに重きが置かれている。朝の普通列車や日中の急行列車は、福井駅に寄り道することなく、フェニックス通りを駆け抜けてしまう(下注)。そのほうが、市外から市内の高校や大学に通う学生生徒たちにとっては、おそらくずっとありがたいのだ。

*注 日中は、福井城址大名町で反対方面の急行に乗り換えることが可能。駅の案内板にそのことが記載されている。

そんなわけで日中、福井駅に発着するのは各駅停車に限られる。後述するように福鉄にも新型トラム(LRV)が導入されているが、運がいいのか悪いのか、その界隈にいた間、やってきたのは名鉄から譲り受けた1980年代の小型車両ばかりだった。車両の見栄えといい、列車の運行間隔といい、衆目を集める場所だけにちょっと寂しい。

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えちぜん鉄道・福井鉄道の路線図(一部)
左上の田原町~鷲塚針原間が福鉄(緑のライン)の乗入れ区間

さて、西口広場進出とともに、福鉄には大きな変化がもう一つある。同じ日に開始されたえちぜん鉄道(以下、えち鉄)三国芦原線との相互直通(相直)運転、名付けて「フェニックス田原町ライン」だ。同線は一般的な高床の電車で運行されているので、低床トラムの乗り入れに当たって、専用ホームの新設など地上設備にも改良が施された。その様子を見に、えち鉄福井駅(下注)からアテンダントが添乗する列車に乗って、鷲塚針原(わしづかはりばら)駅へ移動する。

*注 ちなみに訪れたのは2018年6月半ばで、同駅はまだ新幹線高架上に設けられた仮駅だった。

九頭竜川を立派なトラス橋で渡り、一面緑の田園地帯をしばらく走ったところに、その駅があった。周りは集落だが、建て込んではおらず、のどかな雰囲気だ。小さな木造の駅舎に、さりげなく登録有形文化財のプレートが貼り付けてある。ここはもともと高床ホーム1面2線の駅だったが、東側に福井方から新たに1線が引き出され、片面の低床ホームが新設された(下注)。

*注 高床ホームの高さは880mm、低床は320mm。

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鷲塚針原駅
(左)既存2線(左と中央)の隣に折返し線(LRV停車中)を新設
(右)登録有形文化財の木造駅舎
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鷲塚針原駅に揃うえち鉄の高床車両と福鉄の低床LRVフクラム

イエローグリーンをまとう3車体連接のLRVが、折り返し待ちで停車している。2013年から16年にかけて導入された福鉄のF1000形、愛称フクラムだ。色違いで現在4編成が稼働している。対するえち鉄も、自前のLRV(ただし2車体連接)L形2編成を用意して、相直運転に投入した。こちらの愛称はki-bo(キーボ)で、F1000形と合わせて、きぼうふくらむ、と読ませるらしい。

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(左)3車体連接のF1000形フクラム (右)L形ki-boは中間車のない編成
いずれも福武線水落~西山公園間で撮影

列車は私ともう一人の乗客を乗せて、鷲塚針原のホームを定刻に発車した。本線に入ると速度を上げていき、直線区間では速度計の針が70kmを指した。急行の扱いだが、えち鉄線内6kmのうち、通過するのは九頭竜川橋梁の北詰にある中角(なかつの)だけだ。川を渡って福井市街地に入ると、田原町まで各駅に停車していく。

かぶりつきで観察していると、低床ホームの設置方法には、駅によってバリエーションがある。最初の新田塚(にったづか)は列車交換駅で、島式ホーム(高床)の両側にある線路を、さらに新設の低床ホームが挟み込むサンドイッチ型だ。一方、八ツ島と日華化学前は棒線駅なので、高床と低床を直列に並べ、その間は階段やスロープでつないでいる(下注)。商業ビルに半分潜り込むような形の福大前西福井も、列車交換駅だが相対式ホームなので、やはり直列型だ。

*注 両駅は2007年開設の新駅で、将来のLRT化を見込んで、高床ホームを撤去が容易な木造にしてあったそうだ。

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(左)新田塚は中央に高床、左右に低床ホームを配置
(右)日華化学前は高床と低床を直列に配置

行く手に、両鉄道が接続する田原町駅が見えてきた。えち鉄が直進するのに対し、福鉄に入る相直便は手前で右に分岐して、一見相対式の専用ホームに到着する。一見という訳は、ホームが行先別ではなく、相直便は両方面とも、越前武生に向かって左側のホームを使うからだ。対する右側のホームは当駅折返しの列車用で、線路はえち鉄につながっていない。「お乗りまちがいにご注意ください」と書かれた掲示が利用者の困惑を物語る。

駅舎は、相直運転に合わせて、木目調の小ざっぱりした建物に建て替えられた。以前は薄暗い納屋のような駅(失礼!)だったように記憶するが、その面影はどこにもない。東側にあったはずのコンビニも撤去されて、フェニックス通りまで見通せる広場になった。とはいえ、日中の駅は閑散としたものだ。

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田原町駅
(左)えち鉄線から右へ分岐して福鉄の構内へ
(右)反対側から福鉄構内を撮影。左の線路は折返し用で、えち鉄にはつながっていない

えち鉄は、ここから旧市街を迂回してJR線の外側に出てしまう。それで、乗換えなしに中心部へ直行できる相直便は利用価値が高いのだが、列車本数は意外に少なく、1日11往復きりだ。朝に2本(福大前西福井で折返し)と日中1時間ごとで、夜は走らない。多くの時間帯は、従来どおり田原町乗り換えになる。

それでも施策は当たったようで、相直運転開始の前後を比較すると、利用者数は年間ベースで2~3%増加したのだそうだ。たとえば、福鉄を利用して福井大学に通う学生たちは、これまで田原町で降りて歩いていたが、相直便ができて、最寄りのえち鉄福大前西福井まで行くようになった(下注)。フェニックス通りに目ぼしい商業施設がなく、交通需要が通勤通学の時間帯に集中するのが辛いところだが、こうした開通効果が持続し、じわじわと拡大していくならうれしいことだ。

*注 運賃の乗継割引(最大25%)も行われている。

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田原町駅
(左)会社が変わるため運転を引継ぎ (右)手前が福鉄、奥がえち鉄の出札窓口

せっかくここまできたので、福鉄全線を乗り通してから帰りたい。福鉄の運転士に引き継がれたフクラムは、しずしずとフェニックス通りの中央に出ていく。併用軌道上の停留場も改築されていた。以前は、人一人立てるだけの、柵もない危険な「安全」地帯だったが、拡幅され、屋根と風防もついて、電車待ちの環境がずいぶん改良されている。

駅前線が分岐する福井城址大名町(ふくいじょうしだいみょうまち)は、相直運転と同じタイミングで、「市役所前」から改称されたばかりだ。その目的は観光振興だそうだが、実際には城跡より市役所のほうが手前にあるし、日常使うには名前が長すぎていただけない。設備投資に県から多額の補助が出ているから、福井城址に陣取る県庁(下注)の意向を汲んだのかと勘繰ってしまう。

*注 福井城には見事な堀と石垣が残っているが、本丸に県庁ビルが聳えている。

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フクラム青編成が、田原町駅からフェニックス通りの併用軌道へ出ていく
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(左)併用軌道上の駅も改築。仁愛女子高校停留場
(右)福井城址大名町の駅前線分岐

足羽川を渡り、商工会議所前(旧 木田四ツ辻)を出ると右へそれて、専用軌道に入る。どこか1か所で途中下車しようと思っていたので、普通列車に乗換えて、西山公園駅で下車した。西山公園というのは、鯖江市民の憩いの場になっている広い緑地で、地元では桜やつつじの名所として知られている。谷あいにある北の庭では、ちょうど花菖蒲が見ごろを迎えていた。福鉄は、並行するJRに比べて駅間距離が短いので、すぐ行ける普段使いの気安さがある。

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西山公園の嚮陽庭園
(左)北の庭では花菖蒲が見ごろ
(右)上段の庭は、山頂にもかかわらず池泉回遊式庭園!

日野川を横断し、北府(きたご)の古い木造駅舎の前をかすめるように急カーブしていくと、まもなく終点の越前武生だ。この列車が到着すると、2面3線のホームは、フクラムと880形ですべて埋まった。古びた駅ビルは、駅名を武生新(たけふしん)と言っていた頃から、大して変わっていない。そしてこれも最初からだが、JRの武生駅とは徒歩連絡で、約300m離れている。間に居座るアル・プラザの中を突き抜けて、トラムがJRの駅前広場に粛然と現れる図をつい想像してしまうのだが…。

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越前武生駅に到着。線路は新旧車両で埋まった
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越前武生駅 (左)古びた駅ビル内の改札 (右)正面

■参考サイト
福井鉄道 https://www.fukutetsu.jp/

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2018年7月20日 (金)

北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

(旧)シュピーカーオーク島鉄道 Spiekerooger Inselbahn
 駅 Bahnhof ~埠頭 Anleger 3.5km
 非電化、軌間 1000mm
 1885年開通(馬車鉄道)、1949年ディーゼル化、1981年廃止

(現)保存馬車鉄道 Museumspferdebahn
 延長1.0km、軌間 1000mm、1981年開通

「緑の島 grüne Insel」。大きく育った樹木が村の家並みを覆うシュピーカーオーク Spiekeroog は、好んでそう呼ばれてきた。島は、ランゲオークとヴァンガーオーゲの間に位置する。面積は18平方kmで、ランゲオークよりやや小さいだけだが、人口は800人に満たない(2016年)。年間旅行者数も東フリジアの有人7島中、バルトルムに次いで少なく(2016年、94,055人)、それが、静けさを求める人にとって至高の場所とされるゆえんだ。

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緑に包まれるシュピーカーオーク村の中心部。右奥の建物は村役場 Rathaus

その環境を守るために、島では徹底した交通政策がとられている。カーフリー(下注1)はいうまでもない。自転車にすら制限が課されていて、村(下注2)の中心や北岸のビーチに通じる一部の道は走行禁止だ。旅行者向けのレンタサイクルは存在せず、本土から持込む場合は30.90ユーロが徴収される。居住圏はせいぜい2km四方なので、島内の移動は歩きが前提になっている。

*注1 カーフリーのどの島もそうだが、業務用電動車は走っている。
*注2 小さな自治体 Gemeinde なので、本稿では「村」の語を使用する。

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シュピーカーオーク島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

そのような島にも、ほんの30年前までディーゼル動力の列車が走っていた。他の島と同じように、フェリーが着く旧埠頭と村の入口との間3.5kmを結んでいたのだ。さらに驚くことに、鉄道が導入されたのは1885年で、東フリジア諸島ではボルクムに次いで早かった。もとよりそれは馬車鉄道で、村の中心部からヴェストエント Westend(西端の意)に開設された紳士用ビーチ Herrenbadestrand(下注)まで長さ1.6km、1000mm軌間の鉄道だった。その上を、馬に牽かれた華奢な客車がころころと走った。目的からして、夏の間だけの運行だった。

*注 当時、紳士用ビーチとは長さ500mの緩衝地帯を隔てて婦人用ビーチ Damenbadestrand があり、そこへ向かうダーメンパート Damenpad(婦人の小道の意)の入口にも、馬車鉄道の停留所が設けられた。

1891年、南の干潟に新しい桟橋が開かれると、上記路線の途中で分岐してそこに達する支線が、翌92年に開通する。これが航路接続の始まりだ。初期の線路は干潟の上に直接敷かれており、船が着く満潮時には、馬は胴体まで、車両はしばしば車輪の上まで、水に漬かっていた。

一方、村では1907~08年に正式の駅舎が建てられたが、狭い街路の併用軌道は通行の妨げになった。それで1924年にルートを短縮し、起点が村の西端に移された。その後、ヴェストエントのビーチが海岸浸食を受けて村の北側に移転したため、ビーチ列車は1931年に運行を取り止めたが、桟橋との連絡は継続された。いつしかシュピーカーオーク島鉄道は、ドイツで定期運行する最後の馬車鉄道になっていた。

第二次世界大戦後はさすがに増加する訪問客をさばききれなくなり、1949年、新しい埠頭の建設に合わせて、ついにエンジン駆動に転換される。現在ハルレジール Harlesiel の港で静態展示されている小型ディーゼル機関車(下注1)は、このときの導入機だ。同時にルートも変更され、当初の終点ヴェストエントの手前で分岐して、西側の砂丘沿いに南下するようになった。干潟では、初めて線路が杭桁 Pfahljoch(下注2)の上に置かれ、列車は桟橋に直接乗り入れた。

*注1 「北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編」で言及している。
*注2 直訳で「杭桁」としたが、干潟に打ち込んだ木杭の上に梁を渡した構築物のこと。

1960年代に入ると、「赤列車 roten Zug」「緑列車 grünen Zug」と呼ばれた編成が、旅客輸送を担った。腰に赤色をまとうヴィスマール車両製造所製の中古気動車に、付随客車3両と長物車1両がつくのが「赤列車」だ。ふだんはこの列車で往復するのだが、多客期には、シェーマ社製の小型機関車が、緑色を巻いた2軸客車を牽いて応援に入った。

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(左)赤列車 roten Zug。桟橋で気動車を「機回し」中
Photo by Anton aubers at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)緑列車 grünen Zug
Photo by Drehscheibexxx at wikimedia. License: CC0 1.0

残念なことに、この島でディーゼル運行が行われたのは32年間に過ぎない。そのころ、常時波に洗われる桟橋や杭桁軌道は、全面改修が必要な時期に来ていた。村議会は港湾施設を同じ場所で改築するのではなく、より村に近い位置に新たに建設することを決めた。待望の新港は1981年に完成し、村の中心へ歩いて7~8分で到達できるようになった。これに伴い、鉄道は仕事を失い、同年5月29日に正式に廃止された。

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(左)本土との間を結ぶフェリー (右)島の新港。訪問客は徒歩で村へ向かう
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(左)目抜き通りノールダーローク Noorderloog は最初の馬車鉄道ルート
(右)移転後の駅へ通じるヴェスターローク Westerloog。左側の道が馬車鉄道跡

しかし、シュピーカーオークの鉄道史にはまだ続きがある。というのも、廃止を見越して、馬車鉄道を復活させる準備作業が進んでいたからだ。プフォルツハイム Pforzheim 出身で元教師のハンス・ロール Hans Roll 氏のリーダーシップにより、その計画は実現する。

車両は、シュトゥットガルト路面電車博物館協会 Verein Straßenbahnmuseum Stuttgart から16人乗りのオープン車両が調達された。線路は旧線のうち、村の駅からヴェストエントまで約1kmの区間が再利用されることになった。そして牽き馬の通路にするため、線路沿いの溝が埋められた。

*注 利用されなかった区間の軌道は撤去された。旧桟橋は長く残っていたが、最終的に2009年に撤去された。

車庫は当初、旧 貨物倉庫が使われたが、後に新築された駅舎棟に引込線と専用のスペースが設けられた。ちなみにこの貨物倉庫は、その続きで線路の北側にあった旧駅舎とともに現在、ピザレストラン「デア・バーンホーフ Der Bahnhof(駅の意)」になっている。

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(左)保存馬車鉄道の駅。右側にささやかなホームと線路がある
(右)本日の時刻表。当駅発15時と16時、帰着は15時50分と16時50分のみ

島内鉄道の黎明期を彷彿とさせるユニークな保存馬車鉄道はこうしてスタートした。しかしその歩みは常に順調とはいかず、車両を所有する協会が解散して、1997~98年の2年間、休止をやむなくされたことがある。幸い1999年に復活し、隣のランゲオーク島鉄道の改修で出た中古の資材を使って、2005~06年の冬に線路の更新も実施された。今や運行年数はディーゼル運行のそれに匹敵するまでになり、すっかり島の名物として定着している。

シュピーカーオーク観光局その他のサイトの情報を総合すれば、運行期間は4月中旬から10月中旬までだ。列車は村の駅を毎日13時、14時、15時、16時ちょうどに出発し、45分後に戻ってくる。片道12~15分程度かかるので、たとえば13時発の列車なら、西の終端(ヴェストエント)に着くのは13時15分ごろ、折り返しの出発が13時30分ごろ、村の駅への帰着は13時45分ごろになる(下注)。もちろん片道だけの乗車も可能だ。

*注 現地の案内板では、村の駅への帰着時刻を50分後と記載しており、生き物のことなので多少の時間的余裕を見込んでいるようだ。

ただし、「風と天候次第で変更がありうる」と注意書きされているように、必ずしも全便が運行されるとは限らない。実際、私が訪れた日は、上天気だったにもかかわらず、15時と16時発の列車しか設定されていなかった。13時前に勇んで駅へ行ったものの、駅舎のドアは閉ざされて、人の気配が感じられない。このまま列車を待つと本土へ帰る船に間に合わなくなってしまうため、空の線路と、囲い場でくつろぐ2頭の牽き馬を写真に収めただけで、その場を立ち去らざるを得なかった。

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かつて側線が張り巡らされていた旧駅構内。右の2頭の馬が交替で馬車を牽く
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防潮堤の外側の草原を直進する線路

運行状況についてウェブサイトやSNSで告知は行われておらず(下注)、島の観光パンフレットの記述も「実際の運行時刻は、駅の掲示板でご確認ください」とそっけない。考えてみれば、島の訪問者の平均滞在日数は6.43日(2016年)だ。長期滞在客の気晴らしが目的の運行なら、乗る側もそのつもりでのんびり構えるしかないのだ。

*注 ここには挙げないが、駅の掲示には、連絡先のメールアドレスと電話番号が書かれていた。

主役のいない線路の写真ばかりではつまらないので、別の日にシュピーカーオークを訪れて、運よく乗車と撮影に成功したT氏の作品をお借りした。草原を貫くか細げな線路の上を、愛らしい牽き馬に連れられて華奢なオープン客車がのどかに転がる光景を、じっくりご覧いただきたい。

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(左)出発を待つ「列車」。エンジンは1馬力、名前はタンメ Tamme、これはフリジア語で、英語なら Tommy とのこと
(右)車内は4人掛けベンチが背中合わせに並ぶ
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(左)ヴェストエントに向けて出発。右の線路は車庫への引込線
(右)馭者と車掌と案内人を兼ねるクリスツィアン・ロール Christian Roll 氏。創設者の息子で、馬車鉄道の運行を引き継いだ
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陸閘 Deichschart を越えようとする「列車」
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(左)陸閘の上は恰好のお立ち台 (右)乗客に島の自然を案内していく
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(左)唯一のカーブを曲がれば終点は近い
(右)板張りのささやかなホームがあるヴェストエントに到着

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
spiekeroog.de  https://www.spiekeroog.de/
シュピーカーオーク博物館協会 Museumsverein Spiekeroog
http://www.inselmuseum-spiekeroog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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2018年7月 8日 (日)

北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編

東フリジア諸島の地形を縦断面で見れば、北が高く、南が低い。砂を運んでくる海流に面した北側に、砂丘が発達するからだ。対する南側は陸化が進まず、潮位が高い時に海水が入り込む草地や沼地、いわゆる塩性湿地 Salzmarschen が広がっている。それは沖に向かうにつれ、徐々に泥の干潟に移行していく。

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防波堤のベンチは、塩性湿地とそれに続く干潟の展望台

鉄道は、沖合に設置された島の船着き場まで、陸と海のあいまいな境目をしばらく走らなければならない。最初のころは、地面に直接か、そうでなくても干潟に打ち込んだ木杭の上に、線路が置かれた。大潮ではしばしば冠水し、列車が水を掻き分けながら走る光景が古い写真に残されている。

しかし現在、ボルクム Borkum でもランゲオーク Langeoog でも、湿地や干潟の上を行くという感覚はほとんどない。前者は道路と並行する頑丈な築堤の上を走っているし、後者は港の駅の直後に防潮堤の内側に入ってしまうからだ。ところが、ヴァンガーオーゲ島鉄道 Wangerooger Inselbahn は違う。港と町を結ぶ最短ルートとして、今でも線路は、防潮堤の外側の広大な塩性湿地を貫いていく。

この湿地は、何千羽もの海鳥たちの繁殖地だ。世界遺産でもあるニーダーザクセン・ワッデン海国立公園 Nationalpark Niedersächsisches Wattenmeer の一級保護区域(ルーエツォーネ Ruhezone)で、指定通路以外の立入りは厳しく規制されている。ふつうは目にし得ない風景の中を、列車は時速20kmでそろそろと横断していく。ヴァンガーオーゲ駅まで約15分、乗客だけに許されるユニークで貴重な体験だ。

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特別保護区域の案内板

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ヴァンガーオーゲ島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

14時20分、先頭についたシェーマ・ロコに牽かれ、列車は西埠頭 Westanleger 駅を離れた。埠頭の敷地が保護区域に隣接しているので、いきなり大自然の中に放り出された気分になる。丈の低い草や苔で覆い尽くされた湿地が目の届く限り広がり、その間を自由に縫う澪筋は、強風に煽られてさざ波立っている。機関車のエンジン音に驚いて、草むらからカモメたちがばらばらと飛び立つが、慣れてしまったのか、反応しない鳥のほうがずっと多い。

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塩性湿地の横断は列車だけに許される特権
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広大な湿地は野鳥の繁殖地に

寒さを我慢して、デッキに出てみた。足元を、PC枕木で強化された軌道が流れていく。1995年から10年間かけて改良工事が実施された結果だ。流失を防ぐために、路肩に大きな割石も撒かれているが、線路はわずかな盛り土とバラストの厚みの分、周囲より高いだけだ。潮位が上がれば今でも水に浸かるらしい。列車は、湿地の中心の、澪が集まるヴェストラグーネ Westlagune(西の潟湖の意)の上を、いくつかの小橋でまたいでいく。

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(左)ヴェストラグーネを渡る (右)潮が満ちると海中を走るような感覚

右へ大きくカーブするところで、左側から別の線路が合流してくるのが見える。ここはザリーネ分岐 Abzweigung Saline といい、1832年から1854年まで、近くでザリーネ Saline、すなわち製塩所が操業していた。分かれる線路は、島の西端ヴェステン Westen に向かう支線だ。定期列車は走っておらず、林間学校へ行く子供たちを乗せて、臨時列車が運行されるに過ぎない。

緑の低い堤防とワッデン海の間を少し走った後、陸閘にさしかかる。ここでも左後方へ、ごみ処理施設 Müllpressstation への短い引込み線がある。堤防の内側に入れば、早くも駅の構内側線が展開し始める。車両がいくつか留め置かれている中、列車はゆるゆるとヴァンガーオーゲの駅に滑り込んだ。

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陸閘から湿地を横断してきた線路を望む
右に分岐するのはごみ処理施設への引込み線

デッキから地表のホームに降り立つ。列車は折り返しで使われるらしく、入れ替わりに待っていた客がまた乗り込んだ。ホームの後部に立てられた柵の向こうでは、フォークリフトがせわしなく動き、長物車から貨物を降ろしている。

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(左)ヴァンガーオーゲ駅に到着 (右)ホームの後部では貨物を降ろす作業中

駅舎は、片側に塔を従えた煉瓦壁、寄棟屋根の2階建てで、どこかメルヘンチックな気配が漂う。建てられたのは1906年、ユーゲントシュティール Jugentstil(青春様式)が建築界をも席捲していた時代だ。ファサードに用いられた複雑な曲線や2階窓枠の上下に見られるシンプルな矩形の装飾が、その風潮を反映している。正面の時計の上にはフラクトゥール(ドイツ文字)で「Kehre wieder(帰っておいでの意)」と記され、列車で本土へ旅立つ人の心に何かを訴えかける。

駅舎も、2003年に大規模な改修が施された。外観の歴史的景観を復元する一方で、内部では、観光局とDBの窓口に機能的なオープンカウンターが導入された。ショーウィンドーに飾られた客車の鉄道模型も一旅行者の心に強く訴えかけるものがあるが、そこはぐっとこらえて絵葉書の購入で代えることにした。

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ヴァンガーオーゲ駅舎
(左)正面 (右)玄関上部には Kehre wieder の文字と鷲のレリーフ
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(左)駅舎の反対側に機関庫がある
(右)踏切から東望。線路はかつて東桟橋まで続いていた
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鉄道グッズのショーウィンドー

ヴァンガーオーゲは、有人島として東フリジア諸島の最も東に位置する。そのため、歴史的な位置づけも他の島々と異にしてきた。他がプロイセン領(1866年の普墺戦争以前はハノーファー王国 Königreich Hannover 領)だったのに対し、この島だけはオルデンブルク大公国 Großherzogtum Oldenburg に属していたのだ。この国も1871年からプロイセンが主導するドイツ帝国の一員となったとはいえ、行政上の区分は残された(下注)。

*注 連邦制のドイツ帝国のもとで、オルデンブルク大公国は、君主制が廃止される1918年まで存続した。

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赤の縁取りがオルデンブルク領。東フリジア諸島でヴァンガーオーゲだけが含まれる
「オルデンブルク及び北海のドイツ湾口 Oldenburg und die Deutschen Strommündungen der Nordsee, 1:850,000」図より
from vol. 12 of Meyers Konversations-Lexikon (4th ed.)

1890年代、大公国は他の島に倣って、ヴァンガーオーゲのリゾート開発に力を入れた。その施策の一つが交通路の整備で、すでに開通していた本土側の連絡鉄道(前回紹介した標準軌のイェーファー=ハルレ線 Bahnstrecke Jever–Harle)を邦有化するとともに、島の側では、桟橋から町までメーターゲージの蒸気鉄道を自ら建設した。これが現在のヴァンガーオーゲ島鉄道で、1897年7月のことだ(下注)。

*注 国鉄組織の改組により所有者は次のように変遷している。1897~1920年 オルデンブルク大公国邦有鉄道 Großherzoglich Oldenburgische Eisenbahn → 1920~1949年 ドイツ帝国鉄道 →1949~1993年 ドイツ連邦鉄道 → 1994年~ ドイツ鉄道グループ

ただし、今のルートとは、かなりの区間で異なっていた。まず、使われる桟橋が季節によって変わり、夏の桟橋 Sommeranleger は現在より約1km西の干潟の中に、海が荒れる冬場の桟橋 Winteranleger はより砂丘に近い位置に、それぞれ造られた。町の駅も今より約300m北に置かれ、現在のバラ公園 Rosengarten の場所にあった。

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新旧路線の位置関係
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ヤーデ川 Jade 河口に位置するヴァンガーオーゲ島は、帝国海軍によって軍事拠点ともみなされた。島の西に要塞が建設されることになり、資材輸送のため、1901年にヴェステン支線が敷かれた。東の浜でも1904年に、軍港ヴィルヘルムスハーフェン Wilhelmshaven やブレーマーハーフェン Bremerhaven と航路で直結する東桟橋 Ostanleger(下注)が築かれ、鉄道(オステン支線)が延長された。

*注 和訳では桟橋(架設物)と埠頭(固定施設)を区別したが、原語はどちらも Anleger(船着き場の意)。

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(左)建設当時の駅舎。ドームの右側は平屋だった(ヴァンガーオーゲ駅の展示を撮影)
(右)東桟橋に到着した列車
Photo by 60cent at wikimedia. License: CC0 1.0

こうして町なかの頭端駅に、西と東から線路が集中する形になったが、あまりに手狭なため、1906年に現位置に、通り抜けが可能な新駅が造られた。旧駅に通じていた線路は、すぐに撤去されて跡形もない。

海軍はヴェステンの要塞に重砲を配置するため、1912年に冬桟橋の東方150mの位置に新しい桟橋(西桟橋)を設けた。そこへ向けて、ザリーネ分岐から干潟を横断する新しい線路が延ばされた。これは1917年から民生輸送に開放され、それまでの季節替わりの桟橋の機能を代替した。これが現在の軽便鉄道のルートになる。

第二次世界大戦中の1945年、軍事拠点のヴァンガーオーゲは連合軍の総攻撃に遭い、焦土化されてしまう。しかし戦後、同じ北海のリゾートであったヘルゴラント島 Helgoland がイギリスの占領下に置かれたため、ヴァンガーオーゲが代替地として脚光を浴びた。島の復興は、この俄か景気によって促進されることになった。

東桟橋からも多数の旅行者が上陸したが、1952年のヘルゴラントのドイツ返還後は利用が激減する。加えて砂が絶えず堆積する場所だったため、1959年をもって廃止され、オステン支線も運命を共にした。それ以降、ヴァンガーオーゲ島鉄道の運行は、西側の2線だけになっている。

宿に荷物を置いて、歩きに出た。すっかり叢林と化した海岸砂丘を縫う小道をたどり、島の南岸に築かれた堤防に上ってみる。外側にはさっき列車で通った塩性湿地が見渡す限り広がっていて、2本のレールだけが例外的な人工物だ。南面は遠浅で海岸浸食のおそれがないので、堤防は高潮による浸水を防ぐのが主目的だ。そのため、見かけは草に覆われた土堤に過ぎず、湿地との境も不分明なくらい、自然に溶け込んでいる。

少しでも風当たりの少ない場所を探して堤防の内側斜面をうろうろしながら、ヴァンガーオーゲ駅行きの列車が来るのをしばらく待った。なにしろ視界を遮るものが何もないから、西埠頭を出発するところから、ずっと姿を追うことができる。17時ごろ、埠頭の高床建物の横から今日の最終列車が動き出した。干潟の向こうをじりじりと移動し、西塔 Westturm を背にして、大カーブを回ってくる。そして、目の前に延びる草原の直線路をゆっくりと通過していった。

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西塔を背景に、列車が湿地内の大カーブを回ってくる
手前の線路はヴェステン支線
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ワッデン海の前を町の駅へ向かう

堤防道をそのまま進めば、西塔のあるエリアに行き着く。島の風景写真にしばしば登場する西塔だが、実はユースホステルの建物だ。高さは56mあり、1932年に建てられた。デザインは、17世紀初めに造られ、第一次世界大戦前まであった教会の塔にちなんでいる。この先代の西塔は長らくヴェーザー川に入る船の目標とされていたのだが、激しい海岸浸食を受けて海に没してしまった。以来、この新しい西塔が、島のシンボルを継承しているのだ。

*注 14~16世紀には、現在の西岸からさらに約5km西(現在は海の中)に教会塔があった。17世紀の塔はそれを継ぐもので、その意味で現在の西塔は三代目になる。

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西塔は島のシンボル

この付近にはユースホステルや林間学校施設がいくつか立地し、滞在している子どもたちが、町との間を自転車や徒歩で行き来するのを見かける。支線の終点駅ヴェステンも、その一角にひっそりとある。線路はそこからさらに続き、水路・航路局  Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理する資材ヤードに引き込まれていく。

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ヴェステン駅
(左)左側がホーム。「34」の標石はオルデンブルク時代に設置された100m単位の距離標 Hektometerstein
(右)駅の先は水路・航路局の資材ヤードに引き込まれる

翌朝少し早起きして、町の中を散策してみた。今日もスマートフォンの天気予報は横風マークで、強風が吹き抜けて肌寒い。通りで出会う人とは「モイン Moin !」と声を掛け合う。一日中使える北ドイツの挨拶ことばだ。手押し車やリアカーに朝の荷物を積んで、人が行き交う。前かごが巨大化した自転車も目撃した。

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ヴァンガーオーゲの街路
(左)駅前のツェーデリウス通り (右)前かごが巨大化した自転車、リアカーつき

駅を覗くと、客車はホームに据え付けられているものの、人影はなく、構内はまだ静まり返っている。今日の始発は10時だ。駅前のツェーデリウス通り Zedeliusstraße を戻る途中、保存されている旧灯台 Alter Leuchtturm の敷地に、古い蒸気機関車を見つけた。1929年ヘンシェル Henschel 製の99 211号機だ。蒸気時代の主力機だったが、1957年にディーゼル機関車にバトンを渡して引退した後、1968年から町の文化財として静態保存されている。ボルクム号のように修復され、また走れる日が来ることを祈りたい。

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(左)静態保存の99 211号機
(右)カッセルのヘンシェル・ウント・ゾーン株式会社の銘板

宿で帰り支度を整えて、再び駅へ向かった。朝の車内はすいていたが、ガラス越しでない景色を見たくて、最後尾のデッキに移った。列車は陸閘から堤防の外へ出て、あの野鳥の楽園を横断していく。

この島でも、ユーストやシュピーカーオーク島の例に倣って、町に近い港をもつべきだという議論が、過去繰り返されてきた。そうすれば到達時間が一気に短縮され、物流が効率化され、鉄道の維持費も不要になる。しかし、ヴァンガーオーゲはその道を選ばなかった。2012年11月、町議会は最終的に、新しい港湾建設の計画を否決したのだ。

列車は右にカーブしていき、並行して走る澪の先に、西埠頭駅の高床に載った建物が見えてくる。町は新港を造る代わりに、この埠頭の近代化を進める予定で、ホーム扛上によるバリアフリー化や貨物の積替え設備の改良などの計画が発表されている。鉄道が今後も存続するのは確実だが、懐かしい島の軽便のイメージは何年後かに塗り替えられてしまうのかもしれない。

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帰路、西埠頭駅へ進入する

次回は、保存馬車鉄道のあるシュピーカーオーク島を訪ねる。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
DB Schifffahrt und Inselbahn Wangerooge  https://www.siw-wangerooge.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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2018年7月 3日 (火)

北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編

ヴァンガーオーゲ Wangerooge ~西埠頭 Westanleger 3.4km
支線(不定期運行):ザリーネ分岐 Abzweigung Saline ~ヴェステン Westen 2.0km
非電化、軌間 1000mm、1897年開通

東フリジア諸島の東の端で、ようやくイメージどおりの島の軽便に巡り合えた気がした。ヴァンガーオーゲ島鉄道 Wangerooger Inselbahn は、非電化、1000mm軌間の鉄道路線だ。ヴァンガーオーゲ Wangerooge ~西埠頭 Westanleger 間3.4kmを結ぶ本線と、途中のザリーネ分岐 Abzweigung Saline~ヴェステン Westen(下注)間2.0kmの支線があるが、一般の旅客列車が運行されるのは本線のみだ。

*注 ヴェステン Westen は(町の)西を意味するが、地名化しているので原語読みで記す。

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ヴァンガーオーゲ島の塩性湿地を横断する列車

この島内鉄道には、二つの際立った特徴がある。その一つは、航路とともにドイツ鉄道 Deutsche Bahn (DB) グループによって運営されていることだ。もともと19世紀末にオルデンブルク大公国邦有鉄道 Großherzoglich Oldenburgische Eisenbahn が開通させ、戦前のドイツ帝国鉄道 Deutsche Reichsbahn を経て、DB(ドイツ連邦鉄道→ドイツ鉄道)に引き継がれた(下注)。これまで見てきた民営のボルクムや公営のランゲオークに対して、生粋の国鉄路線であり、DBとして今や唯一のナローゲージでもある。

*注 現在は、DB長距離輸送株式会社 DB Fernverkehr AG が運行する。

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ヴァンガーオーゲの駅名標もDB仕様

二つ目は、運行ダイヤが毎日違うという点だ。本土と島の間の航路が浅いため、船は潮位が高いときしか航行できない。そのため、接続する列車の発着時刻も日替わりになる。DBサイトには、ザンデ Sande 発着の本土側の連絡バスを含めた1年間のダイヤが一覧表で掲載されている。旅行計画を立てるときは要注意だ。

*注 島への航路が潮汐に依存するのはヴァンガーオーゲのほか、ユースト Juist、バルトルム Baltrum、シュピーカーオーク Spiekeroog だが、これらの島には島内鉄道がない。

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日替わりの時刻表(一部)。ab は発時刻 Abfahrtszeit の意

ヴァンガーオーゲ島行きの船が出る本土の港は、ワッデン海に面したハルレジール Harlesiel だ。ノルデン Norden から路線バス K1系統で向かった。今日の船は13時発なので、空き時間を使って、2km内陸にある旧港カロリーネンジール Carolinensiel を見に行こうと思う。ハルレジールは船の大型化に伴って1890年に築かれた新港で、それまではカロリーネンジールがこの役を果たしていたのだ。

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カロリーネンジール旧港

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カロリーネンジール~ハルレジール付近の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)。なお、描かれている鉄道はイェーファー=ハルレ線だが、すでに廃止されている(詳細は後述)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

北海の島のナロー I-概要」でも記したが、北海沿岸では、内陸の水が干潟に出ていく位置に、高波を防ぐ水門を構えたジール港 Sielhafen が多数造られた。それは島へ渡る船の乗り場であると同時に、漁港であり、貨物港でもあった。周りに宿屋が建ち並び、物資の交易で賑わった。その後、干拓の沖合への進行や、船舶の大型化などで港の機能は失われたが、昔の情景が残され、観光地化しているところも多い。

カロリーネンジールもその一つで、ワッデン海に通じるハルレ川が拡幅され、そこが船溜まりになっている(下注)。堤に沿って歩いてみると、係留中の帆船と、それを取り囲む赤屋根の家並みの組み合わせが絵になる。その一角で、外輪蒸気船 Raddampfer と大書した案内プレートに目が留まった。観光用にハルレジールのヨットハーバー Yachthafen との間を往復しているらしい。連日の快晴から打って変わって、きょうは雲が空を覆い、強い風にときどき雨粒も混じる。ハルレジールまで歩く予定をあっさり変更して、これに乗っていくことにした。

*注 訪れる時間がなかったが、ここにはジール港に関する博物館 Sielhafenmuseum もある。

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(左)外輪蒸気船の案内板 (右)蒸気船コンコルディア2世号が到着

コンコルディア2世号 Concordia II は、舷側に水車(外輪)をもつ小型船だった。小型といっても、後で聞くとデッキとサロン室で100人乗れるそうで、見かけによらず輸送力がある。今のようなフェリーが就航する以前は、こうした船が本土と島を結んでいたのだ。

狭い水路に波を立てない配慮もあるのか、船はほとんど人が歩くくらいの速度で進んだ。途中、跳ね橋のかかるフリードリヒ水門 Friedrichsschleuse を通過する。これが外海の高波からジールを護る水門で、1765年に初めて造られた。今でこそ内陸だが、昔はここが河口だったのだ。その外側は川幅が一気に広がり、停泊するヨットの群れの先に、近代的だが不愛想な雰囲気の水門が見えてきた。途中1か所、桟橋に寄港したとはいえ、外輪船は約2kmの水路を、実に40分かけてその水門前に到着した。

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(左)狭いフリードリヒ水門を通過
(右)帆船が通れるよう跳ね橋になっている(通過後撮影)
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(左)ハルレジール・ヨットハーバー。ハルレジール水門が正面に
(右)40分の小旅行を終えて下船

堤防を越えて、東埠頭のフェリーターミナル Fährhaus へ歩いていくと、ヴァンガーオーゲで使われていたと思しき旧型車両が静態展示されていた。長物車、普通客車が1両ずつと、その奥に少し離れて2軸のディーゼル機関車だ。軌間の違いを示す解説プレートがあるだけで、車両については何ら言及がない(下注)。

*注 深緑色の小型ディーゼル機関車は、ドイツ Deutz 社 OMZ 122 F、1941年製。シュピーカーオーク島で1965年に廃車となり、1969年にドイツ鉄道協会 DEV に引き取られていたが、2000年当地に設置。ヴァンガーオーゲにもごく短期間いたことがある。客車はヴァイヤー Weyer 社1913年製で、ヴァンガーオーゲ島で1992年まで使われていた。1997年設置。

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ハルレ旧駅の保存車両
3線軌条は展示用に後補したもの。軌間の違いを説明するパネルも設置

ただし、昔を知る人にとっては、車両が問題ではなく、この場所が保存されていることに意義を認めるはずだ。というのも、ここはかつてDB線の終着駅ハルレ Harle だったからだ(上の地形図参照)。イェーファー=ハルレ線 Bahnstrecke Jever–Harle と呼ばれるその支線は、オルデンブルク大公国時代の1890年にハルレまで開業し、1957年に港の拡張に伴って、現位置へ延長された。航路に接続するティーデツーク Tidezug(潮汐列車の意、下注)がここに発着し、本土での連絡手段となっていた。

*注 潮汐に依存する船の発着に合わせて、ダイヤは毎日変動するため、この名がある。一方、固定ダイヤで走る列車はカロリーネンジール止まりだった。

しかし自動車の普及で、利用者数は減少の一途をたどる。1987年に定期旅客列車が消え、2年後の1989年には貨物列車も廃止となった(下注)。その後、ハルレ駅舎は航路専用になり、線路は構内の今ある部分だけが残された。現役時代は普通の標準軌だったが、メーターゲージ車両を展示するためにレールを1本追加し、3線軌条にしてあるのだ。

*注 列車廃止に伴ってDBの代行バス(ティーデブス Tidebus)が、今もザンデ~ハルレジール間を走り、航路に接続する。

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「ティーデブス Tidebus」の表示を掲げた代行バス。ザンデ駅前にて

その駅舎ならぬフェリーターミナルの窓口で、島に渡る往復券(35.10ユーロ)を求める。DBが日帰り専用の時刻表 Tagesfahrpläne を作成しているくらいだから、割安の1日券(26.70ユーロ)もあるのだが、運航が1日2~3便きりなので、日程がうまく組めなかった。今日はキャリーバッグを引いて、島に泊ることにしている。

ここも紙の切符ではなく、ランゲオークと同じく、使い回しの「ヴァンガーオーゲカード WangeroogeCard」を渡された。改札機は本土側にのみ設置されているので、帰路この埠頭に戻ってきたときにカードが回収される。

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(左)旧駅は今、フェリーターミナル専用に (右)ヴァンガーオーゲカード

接岸していたのは760人乗りのヴァンガーオーゲ号、この航路の主力船だ。タラップから乗り込み、すぐにデッキに上がってみるものの、昨日までとは大違いでほとんど誰もいない。なにしろ気温は12度、ベンチは雨で濡れている。5月中旬の北ドイツだからと持参したダウンベストが、ここでようやく役に立った。

ちなみにグーグルマップでは、ヴァンガーオーゲ航路が水路の西側の埠頭から出るように描かれている。まったくの誤りではないが、西から出る便はごく少数で、DB日帰り時刻表にしか掲載されていない。ターミナルと主要埠頭は東側で、路線バスの停留所もそちらにある。

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(左)ヴァンガーオーゲ号に乗船 (右)あいにくの天気で乗客はみな客室に避難

フェリーは、13時定刻を少し遅れて出航した。例の不愛想な水門と埠頭の施設群が後方に遠ざかると、視界は一面、泥を巻き込んだような土色の海原になった。潮位が上がるタイミングで出たのだから、当然のことだ。船は、航路を示す杭の間をまっすぐ進んでいく。島まで1時間ほどかかるので、いったん暖かい船室に避難する。

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ハルレジール港を出航

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ヴァンガーオーゲ島の1:50,000地形図(L2312 Wangerland 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

次にデッキに上がったときには、もう島の砂浜に近づいていた。遠く曇り空を背景に、島のシンボルになっている西塔 Westturm と灯台がそびえる。まもなく埠頭(正式には西埠頭 Westanleger)も見えてきた。すぐそばに乗換え客を待つ客車が6両、忘れられたように停まっている。次の本土行きの船にはまだ早いので、ほとんど人影もなくうら寂しい雰囲気だ。

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ヴァンガーオーゲ西埠頭に到着。軽便鉄道の客車が待機していた
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(左)乗客はフード付きの防寒ジャケットを着込む
(右)貨物の積替作業が手際よく進んでいく

埠頭に降り立ち、強風に飛ばされそうになりながら、そそくさと客車のほうへ向かった。車端のデッキを上って車内に入り、一息つく。

この客車、一見古典的だが、実は1992~93年の新造だ。外装のコバルトブルーとクリームのツートンカラーは、そのころ本土の幹線を疾駆していたインターレギオ Interregio(地域間急行)を連想させる。ブランデンブルク州ヴィッテンベルゲにある旧東独国鉄の修理工場 Reichsbahnausbesserungswerk Wittenberge から計14両が納入され、それによって旧型車が島から一掃された(下注)。

*注 ハルレジールに置かれていた車両もその一部。

しかし、シートや照明その他の内装は、1990年代とは思えない無粋さだ。想像するに、ドイツ再統一前に確保されていた部材も使って安価に仕上げたのではないか。ただ、今ではそれが、離島の旅情を掻き立てる舞台装置の一つになっている。

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(左)コバルトブルーとクリームに塗り分けた客車
(右)安っぽい内装がかえって旅情を掻き立てる
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機関車が付くのを静かに待つ

機関車はまだ来ない。さっき下船したときは、埠頭の先端で長物車を3両牽いて、船からの積替作業をしていた。この島では、貨物輸送もまだ鉄道が担っている。使われているのはシェーマ Schöma 社の1999年製小型ディーゼル機関車CFL150形で、2両が在籍する(車両番号399 107および108)。すでに他の島でおなじみの顔だが、側面につけたDBのロゴがちょっと誇らしげだ。ほかに、やや無骨な風貌をしたルーマニアのファウル Faur 社製機関車も2両いる(1990年製造、399 105および106)。

エンジンの唸り音で気がつくと、シェーマ・ロコの赤い車体が車窓を横切っていく。埠頭の作業が完了したようだ。機回しされて列車の先頭に付けば、間もなく出発の合図が聞こえてくるはずだ。

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(左)DBのロゴを付けたシェーマ・ロコ
(右)機回し線を通って客車の先頭へ移動していった

続きは次回に。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
DB Schifffahrt und Inselbahn Wangerooge  https://www.siw-wangerooge.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 北海の島のナロー I-概要
 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月24日 (日)

北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道

ランゲオーク Langeoog ~埠頭 Anleger (Anlegestelle) 間 2.6km
非電化、軌間 1000mm
1901年開通(馬車鉄道)、1937年ディーゼル化

ランゲオーク Langeoog は、文字どおり長い(lange)島(oog)だ。地図で見ればユーストやノルダーナイのほうがより長いのだが、ワッデン海の沖に砂丘がどこまでも伸びるさまを見て、昔の人が素直に名付けたのだろう。ところが地名とは対照的に、ランゲオーク島鉄道 Inselbahn Langeoog は、3島の鉄道の中で最も短い。ランゲオーク駅と埠頭 Anleger (Anlegestelle) 駅の間 2.6km、ゆっくり走っても7分で着いてしまう。

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ランゲオーク島鉄道のカラフルな旅客列車

宿泊していたエムデン Emden から朝、ランゲオーク島をめざした。まずは船が出る本土側の港までたどり着かなければならない。東フリジアの各島の港と本土の港は、ほぼ1対1で対応している。この島に渡るにはこの港からというのが決まっているのだ。ボルクム島であればエムデン、ノルダーナイ島はノルトダイヒ・モーレ Norddeich Mole、そしてランゲオーク島の場合はベンザージール Bensersiel になる(下の地図参照)。

エムデンやノルトダイヒ・モーレへは本土の鉄道網が通じているが、その他の港はもはや鉄道では行けない。実際、旅行者の多くが自家用車で直接港まで来てしまうので、需要が細っているのだ。その分、港の周辺には大規模な駐車場が用意され、テーマパークの前かと思うほど車が並んでいる。

しかし感心するのは、片や公共交通機関のネットワークもしっかり維持されていることだ。各港を一つ一つ回っていくバス路線があり、列車も船もそれに連絡するようにダイヤが組まれている。ノルデン Norden からは、K1系統が日中1時間毎に、エーゼンス Esens を経由して、最終的に最東端ヴァンガーオーゲ島への港であるハルレジール Harlesiel まで行く。

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東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

エムデン中央駅から、7時42分発のノルトダイヒ・モーレ行き列車に乗った。ブレーメン Bremen からやって来たダブルデッカーのIC(インターシティ)だが、案の定、車内はガラガラだ。ノルデン Norden で下車し、駅北側のターミナルで8時15分発のバスに乗り継ぐ。ベンザージールまで1時間近くかかる。

バスは数えるほどの客を乗せて、広大な平野をひた走った。一帯は干潟や塩性湿地が長い時間かけて干拓され、見渡す限り緑の農地に姿を変えている。エーゼンスでは駅前に入り、ヴィルヘルムスハーフェン Wilhelmshaven から来る列車(下注)の到着を待った。

*注 ノルトヴェスト鉄道 Nordwestbahn が連接気動車を運行している。ブレーメン Bremen やオルデンブルク Oldenburg 方面からはこのルートが近い。

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(左)島への港を回っていくバスK1系統 (右)緑の平野をひた走る

改めて北へ進んだバスは、高い防波堤を乗り越えて、ベンザージール港の旅客ターミナルの前で停まった。見ると、切符を求める人の列が玄関からはみ出している。出航は9時30分。あと20分しかないので少々焦る。しかし、中に入ると窓口が3つ開いていて、思ったより早く順番が回ってきた。

島内鉄道込みで大人往復25.20ユーロ(リゾート税 Kurtaxe 別)。日帰り券 Tagesrückfahrkarte は22.50ユーロだ。ただ、渡されるのは皆同じICチップの入ったランゲオークカード LangeoogCard で、レシートを見ないと何の切符かわからない。しかもこれは使い回しなので、帰りの船に乗る際、ターミナルの改札機で回収されてしまう。

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(左)ベンザージール港の旅客ターミナルには切符を買う人の列
(右)ランゲオークカード

ランゲオーク島の年間訪問者数は約21万人(2016年)で、ノルダーナイ、ボルクムに次いで諸島で3番目に多い。それで夏季(5~10月)は、本土との間を船が6~7往復しており、比較的自由に旅程が組める。この港からランゲオークの町まで、船と列車を介して約1時間というのも手軽でいい。

平日というのに、乗り込むとすでにデッキのベンチにも客があふれていて、人気ぶりが窺える。後部デッキの端に陣取って、海を眺めた。ちょうど干潮のタイミングらしく、周りは泥の干潟だ。船は防波堤の間の長い水路をたどり、十分沖合まで出たところでようやく速度を上げた。行く手にはすでに島の白い帯が見えていて、次第に輪郭がはっきりしてくる。30分もすればもう、島の港の突堤に迎えられる。

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(左)船はデッキまで満員 (右)長い水路を進む。防波堤の外側は干潟が広がる
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ランゲオークの埠頭
中央やや左、ランプウェーの陰に赤色の機関車が見える(帰路撮影)

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ランゲオーク島の1:50,000地形図(L2310 Esens 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ランゲオーク島は、港、鉄道、市街を含めて全体がボルクムのミニ版という印象だ。規模は小さくても、公共交通機関がスムーズに相互接続している点は同じだし、ましてやカーフリーの島なので、それなしでは移動もままならない。

埠頭に建つ、本土側と同じデザインの旅客施設を通り抜けると、駅のプラットホームに直結している。だだっ広い島式ホームはかさ上げされ、車両との段差が小さい。トラムのようだったボルクムの軽便に比べて、いくぶん普通鉄道の雰囲気がある。ここも機関車が列車の両端に付くプッシュプル運転なので、町に向かって左側の発着線には機回し用の側線もなかった。

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(左)埠頭駅の島式ホーム (右)ホームの両側に列車が停車中

ホームの両側に列車が停まっている。右の列車は客車5両のみの編成、左は客車6両とその後ろに、託送手荷物の小型コンテナを載せる長物車が連結されている。小ぶりの客車はデッキ付きで、内部は2人掛けクロスシートの木製ベンチが並ぶ。また、中央の車両はバリアフリーの特別仕様だ。ホームとの空隙を埋める踏み板が出て、座席も1人掛けで通路が広く取られている。塗装は1両ごとに色が違い、紺、青、赤、黄、緑とカラフルだ。それに赤いディーゼル機関車(シェーマ・ロコ Schöma-Lok)が付くと、軌間1000mmでも遊園地の列車のように見える。

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(左)シェーマ・ロコ CFL 250形
(右)託送手荷物を積む長物車(ランゲオーク駅で撮影)
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(左)客車はデッキ付き (右)車内は2人掛けのクロスシート
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(左)バリアフリー車両は中央に両開き扉、踏み板つき
(右)1人掛け席で通路を広げている

船を降りた客のほとんどが右側の列車に乗り込んでいくので、それに従った。出発すると、右にカーブしながら、フリントヘルン防潮堤 Flinthörndeich の陸閘を通過する。それから堤防前地 Deichvorland に広がる牧草地の中を走っていく。緑の波に無数のタンポポが揺れる。その中で馬が悠々と草をはみ、野鳥の群れが羽を休めている。実にのどかな景色だ。

踏切を渡って、ハーフェンシュトラーセ(港通り)Hafenstraße 沿いに進む。右の車窓に、セスナ機が駐機している滑走路が見えた、と思う間に側線が左右に分かれ、ランゲオーク駅のホームが近づく。実際乗ってみても、遊覧列車並みの感覚だった。

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(左)列車は牧草地の中を行く (右)ハーフェンシュトラーセ(港通り)を横断
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(左)堤防前地の広大な牧場 (右)島の飛行場を右に見る

鉄道の規模に比べて、駅はかなり大きい。列車は1面1線のホームのどん詰まり(町側)に停車するが、後方(港側)にも広いスペースがあり、倉庫のような建物が続いている。ここでは2008年まで鉄道貨物の受け渡しが行われていたのだ。取扱いが廃止されて以降、貨物輸送は、本土側で仕立てたコンテナトレーラーを船に載せ、島に着いたら電動カートでそれを目的地まで牽いていくロールオン・ロールオフ方式が取られている。駅で扱うのはもはや託送手荷物だけなので、広い作業場は遊休化している。

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ランゲオーク駅に到着
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(左)駅舎内部。出札窓口の右側は託送荷物の受付
(右)駅前にある手荷物運搬用のリヤカー置き場
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島の道を行く車両は馬車と電動車

ボルクムの経験から、埠頭に残っていたもう1本の列車が続行してくると予想し、カメラを手に構内の南にある踏切で待った。線路を横切るのは馬車か、電動車が牽くトレーラーだ。カーフリーの島ならではだが、肝心の列車はいっこうに現れなかった。さんざん待たされた挙句、見送ったのは埠頭から来る列車ではなく、ランゲオーク11時30分発の埠頭行きだった。とすると埠頭にいたあの列車は、次の船を待っていたのだろうか…。

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埠頭行き列車を見送る

駅前の幅広の通りを西へ向かった。中央通り Hauptstraße の名のとおり、町を貫くちょっとしたショッピング街だ。滞在客もそぞろ歩いていて、明るく開放的なリゾートの雰囲気が漂う。突き当りの坂の上にレトロな意匠の給水塔 Wasserturm があり、見晴らしが利く。起伏の多い海岸砂丘(カープ砂丘 Kaapdünen の名がある)はすっかり植生に覆われていて、その間を縫っていく遊歩道の先に、海も望めた。

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(左)給水塔から見下す市街地
(右)かつて馬車軌道が通ったバルクハウゼン通り Barkhausenstraße
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(左)町のはずれの給水塔 (右)給水塔から海岸砂丘と海を望む

ここランゲオーク島でも、最初に造られたのは馬車鉄道だ。渡船を運営していたエーゼンス=ランゲオーク航運 Reederei Esens-Langeoog の子会社により、1901年6月に開通した。諸島では最も遅い登場になる。当時の桟橋は今の位置ではなく、やや北東にあった。そこから軌道は干潟と湿地を横断して現駅付近で中央通りに入り(併用軌道)、さらに角を曲がってバルクハウゼン通り Barkhausenstraße を北上し、ロックム修道院の宿泊所 Hospiz des Klosters Loccum(下注)に達していた。延長3.62kmのルートだった。

*注 ニーダーザクセン州レーブルク=ロックム Rehburg-Loccum にある修道院が建てた宿泊施設で、現在も残っている。

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波に洗われる桟橋と馬車軌道(ランゲオーク駅舎の展示写真)

当初は冬場運休するなど、細々と走っていたが、1909年に本土の港ベンザージールに1000mm軌間の軽便鉄道(下注)が開通すると、急増した旅行者で運行も安定していった。1925年には他の島のような機関車の導入が計画されたが、町民の反対にあった。騒音に対する懸念も一つの理由にされたが、それより彼らは、船賃が高く旅行者が他の島に流れていると、会社の方針に不満を抱いていたのだ。結局、1927年に町は航路と馬車鉄道を一括で買収することで、公営化に踏み切った。ただ、懸案の動力転換は資金不足のために先送りされた。

*注 レーア=アウリッヒ=ヴィットムント軽便鉄道 Kleinbahn Leer-Aurich-Wittmund のオーゲンバルゲン Ogenbargen ~ベンザージール Bensersiel 間の支線。途中エーゼンス Esens で国鉄に接続した。1967年廃止。

1936年10月、嵐が二度も襲来し、桟橋へ通じる線路は高波をかぶって完全に流失してしまう。復旧に当たって、町は動力化を決断する。その際、町なかの併用軌道は廃止され(下注)、町の南口、すなわち現在位置に駅が設置されることになった。1937年7月15日が馬車鉄道の運行最終日で、ついにランゲオーク島に、ディーゼル機関車が列車を牽く時代が訪れた。

*注 一説では、中央通りからバルクハウゼン通りへの急カーブを列車が曲がれないことも理由にされた。

新しい線路は馬車軌道に並行して敷かれたが、ルートはその後二度変遷する。最初のそれは同じ年、空軍が島に飛行場を設置すると決めたことが原因だ。水害から飛行場を護るために防潮堤が築かれ、資材を陸揚げする新港の建設が始まった。工事は1939年に完成し、同時に鉄道も全面的に移設され、その埠頭に向かうようになった。

この軍用埠頭は戦後、民間開放されてしばらく使われたが、1951年、約400m西に新たな埠頭が建設され、線路も再び移動した。港通りの踏切の手前でカーブする今のルートは、このとき使われ始めたものだ。

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埠頭駅に揃う客船と列車

この間、機関車はドイツ Deutz 社やシェーマ Schöma 社製新車のほか、廃止された近隣の鉄道(シュピーカーオーク、ユーストを含む)からの譲渡でも調達されてきた。1960年代から気動車が運用されたが、現在の主力はシェーマ・ロコ CFL 250形5両だ。これは1994年に州の財政支援を受けた整備の一環で、同時に客車10両、長物車1両も新造された。さらに2005年にバリアフリー車両2両が追加された。

並行して施設の整備も実施されている。1995年にランゲオーク駅舎が今ある姿に改築され、線路配置も変更された。埠頭駅の拡張は2000年で、片面ホームから現在の島式2線になり、多客時の混雑緩和が可能になった。

こうしてランゲオーク島鉄道は、近年見違えるように近代化された。その一方で、長く島の鉄道を記録してきたサイト Inselbahn.de は、「その際、この島だけに残っていた軽便鉄道らしさ Kleinbahn-Flair の多くが失われた」と言って、惜しむ気持ちを隠さない。古典車両を走らせて観光鉄道の側面も強化するボルクムに比べて、こちらは見かけはともかく、中身は機能的で実用本位だ。往年のファンは、理解しつつもそこに一抹の寂しさを感じてしまうのだろう。

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ランゲオーク駅舎

次回は、最東端のヴァンガーオーゲ島鉄道を訪ねる。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
Langeoog Tourismus Service  https://www.langeoog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月20日 (水)

北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編

埠頭を後にして、ボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn の列車は一直線の長い築堤の上を走っていく。周りに低木が育っているし、道路も並行しているので、干潟の景色はとぎれとぎれだ。最高時速は50km、並行道路を飛ばす車には抜かれるものの、それなりに速い。発車して5~6分ほど経った頃、ようやく堤防と交差する陸閘 Deichtor(ボルクム駅起点 3.8km)を通過して、島の本体に入った。

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保存蒸機「ボルクム3世」号が牽く回顧列車

反対方向の列車とすれ違い、この鉄道が全線複線だったことに改めて気づく。列車が片道10本もないミニ路線に過剰設備では? そういう疑問を抱く人がいても不思議ではない。途中に信号所を設けて、列車交換させれば済むことではないかと…。

実際、1980年代に線路の強化工事を行った際、経費節約のために、整備対象外の一部区間(下注)を閉鎖して単線運行にしたことがある。ところが、船の到着が遅れて列車のダイヤに乱れが生じると、単線ゆえにそれが増幅し、出航する船にも波及した。それでその区間を復活させることになり、単線化の実験は4年(1989~93年)で終わった。船の発着に合わせて遅滞なく訪問客を送迎するには、複線設備が必要なことが証明されたのだ。

*注 単線区間はボルクム駅起点 2.7km~6.9km区間、およそ町のへりから埠頭の手前までだった。

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重軌条化された複線が陸閘を通り抜ける

それに、時刻表に記載されていない列車も走っている。フェリーの収容人数は最大1200人、カタマランやオランダからの便もあるので、1本の列車には乗せきれないということが当然起こりうる。また帰りの客が一列車に集中すると、乗換えに時間を要し、船の出航が遅れる可能性もある。それで状況に応じて臨時列車 Entlastungszug(混雑緩和列車の意)を出しているのだ。

私が本土に戻ろうと、ボルクム駅で列車を待っていたときもそうだった。定刻は15時30分発なのに、15分も前に早々と出発の合図が鳴った。時刻変更かと訝しみながら、慌てて飛び乗ったのだが(下注)、桟橋に着き、船のデッキから見ていると、もう1本時刻どおりの列車が入ってきた。結局、この船のために2本の列車が前後して走り、船はその到着を待っておもむろに出航した。

*注 私が見逃しただけであって、増発列車があることは駅の電光掲示板に表示される。

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レーデ駅に時刻通り現れた2本目の連絡列車

車窓風景に話を戻そう。列車が陸閘を過ぎ、林の中をさらに進むと、木の間越しに赤屋根の家並みがちらちらと見えてくる。ここで減速し、唯一の中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク Jakob-van-Dyken-Weg に停車した。この周囲にも貸別荘があるようすで、スーツケースを引きながら何組かが下車した。

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中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク

再び動き出すと、また道路と並走するようになり、辺りが町の様相を帯びてくる。やがて右に鋭くカーブし、多くの人が待つボルクム駅 Borkum Bahnhof のホームへ滑り込んだ。煉瓦建ての駅舎ではカフェやアイスクリーム屋が店を出し、ホームも線路面も煉瓦張りで、街路のような造りだ。普通鉄道の駅というよりむしろ、トラムのターミナルというのがふさわしい。

町のど真ん中なので、周りにはホテル、土産物屋、ブティック、レストラン、スーパーマーケット、ついでにカジノと、何でもある。考えてみれば、エムデンからここまで他人の後ろについて乗り継いできただけで、迷うどころか、長く歩かされることさえなかった。離島でも船と鉄道の連携によって、最小限の移動ストレスで済む公共交通システムが構築されているのはすばらしい。

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列車がボルクム駅に滑り込む

任務を終えた列車はどうなるのか、と見ていると、女性車掌が踏切の先にある重い転轍てこを倒して、線路を切替えた。それから列車は、推進運転で手前にある車庫の側線へ移動する。車庫は5両程度の奥行きらしく、機関車はまず半分を庫内に納めた後、残りを連れて、隣の線路に転線した。車庫入れ作業はちょっと面倒そうだ。

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推進運転で車庫入れ作業
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別の列車の機回し作業
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作業を終え、レーデ駅に向けて出発

ボルクム駅を含む町なか約1km区間の歴史は、軽便鉄道の開通よりさらに古い。なぜなら、1879年に造られた 900mm軌間の馬車軌道の一部だったからだ。旧灯台が火災で使えなくなり、新しい灯台が急遽必要となったため、島の東の入江からその建設現場まで、資材輸送用の軌道が敷かれた。ちなみに、このとき造られた新灯台 Neuer Leuchtturm は今も駅裏の丘に立ち、町を見下ろしている。

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馬車鉄道が建設資材を運んだ新灯台
(左)駅舎の裏に新灯台が頭を出す
(右)灯高(平均海面から灯火までの高さ)は63m

一方これとは別に、潮位の影響を受けない固定の埠頭を、堤外4kmの干潟の先端に建設するという計画が、1883年に動き出した。建設と運営を請け負ったのは、馬車軌道を走らせていたハービッヒ・ウント・ゴート社 Habich & Goth だ。同社は堤防から埠頭まで線路を敷くための築堤を造成し、先述のとおり馬車軌道も一部転用して、1888年、町と埠頭を結ぶ蒸気鉄道を開通させた。今のボルクム軽便鉄道だ。

たった今体験したとおり、これは本土との往来を劇的に改善する効果を生んだ。しかし、高波で築堤が何度も流されるなど、路線の維持は民間会社の手に余るものだった。そこで公共企業「エムス社 AG Ems」の子会社「ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH」が設立され、1903年に事業を継承した。

1902年にボルクム島は海軍要塞とされ、各所に軍用施設が造られていく。それに合わせて1908年、軽便鉄道に並行して資材を輸送する軍の専用線が敷かれた。当初2本の線路は別々に使われていたが、1912年ごろから混用されるようになり、軽便鉄道の複線運行が始まった。

本線から分岐する支線や側線、引込み線も多数造られた。すでに1888年にボルクム駅から北の海岸に沿って、防波堤工事の資材を運ぶシュトラント(海浜)線 Strandbahn が造られていた。1912年には島の東側へ向けて、オストラント線 Ostlandbahn が敷設された(下注)。

*注 工事終了後、1929年からシュトラント線では保養客のために旅客輸送も行われたが、1953年に休止。1968年に最後の記念運行が行われた後、線路は撤去された。一方、オストラント線は一般旅客輸送を行うことなく、1947年に撤去されている。

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(左)オストラント線はボルクム駅から北へ続いていた
(右)構内線路の先に道路となった線路跡が延びる

戦争の足音が再び近づいた1938年、埠頭に隣接して新しく軍港が建設されることになった。現在、フェリーが着岸する埠頭は旧港であって、西側の大きく掘り込まれた貨物港がそれだ。埠頭へ通じる築堤も拡幅され、複線の横にさらに軍用道路が通された。戦後1946年にこの道路は民間に開放され、港と町を結ぶルートとして機能するようになる。

しかし、このことは道路交通との競合を生じ、鉄道の経営に悪影響を及ぼした。前々回述べたように、1960年にはバス転換も視野に入れて、調査が実施されている。結論は鉄道の役割を肯定するものだったが、片や1962年に高波で鉄道が不通になり、その際のバス調達がきっかけで路線バスの運行が始まった(下注)。さらに1968年からは鉄道の運行期間が短縮され、冬季はバス代行となった。貨物輸送もまた1967年に廃止され、トラックに移された。

*注 路線バスはボルクム軽便鉄道・汽船会社が現在も運行しており、埠頭から町の中心部を経由して鉄道のない東部まで足を延ばす。

こうした低迷期は1970年代を通して続いた。潜在的な危機を脱したのは、1979年に積極的なインフラ投資計画が決定してからだ。それに基づき、線路の重軌条化や整備工場の改築、ボルクム駅舎の拡張、車両更新などさまざまな施策が進められた。旅客数が増えたことで、冬季運休は1994年に解除された。2000年代以降も機関車の増備や線路の再更新が続けられ、ボルクム軽便鉄道は順調に走り続けている。

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新灯台から南望
左奥に港へ延びる築堤がある。その右にかすかに見える発電用風車が新港の位置

鉄道の重要性はさておき、この島の旅行者にとって次に必要な交通手段は、自転車だそうだ。駅にレンタサイクル Fahrradverleih があるので、借りるべく駅舎南端の受付へ行った。そこには駐輪場かと思うほど、膨大な数の黒い自転車が整然と並んでいる。現地の人の体格に合う大型で頑丈そうな自転車だ。悲しいかな、私はサドルを一番下にしてもらって、ようやく地面に爪先がついた。料金は1日8ユーロ。

後輪用のブレーキレバーはなく、ペダルを少し逆転させると効くコースターブレーキだ。使ったことがない私には難しかった。走り始めのケンケン乗りはできない。発進時にペダルが真上/真下にあっても漕ぎ出せない(少しバックさせてから乗る)。走行中も無意識にペダルを逆回しして、ブレーキがかかる経験を何度かした。ただ、このレンタサイクルは軽便鉄道の直営なので、フレームに鉄道のロゴがついている。できるものなら土産に買って帰りたいところだ。

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ボルクム軽便鉄道のロゴ入り自転車。左のブレーキレバーはない

昼食の後、さっそく風を切って、海岸プロムナードを南へ走る。レストランの先は砂浜が広がり、シュトラントコルプ Strandkorb と呼ばれる優雅なビーチチェアがたくさん並んでいた。

灌木の中の気持ちのいい小道を走り、堤防の陸閘のところで踏切を渡って、一般道に出た。陸閘の壁面に何やらモザイクで描かれている。初めは抽象画かと思ったが、よく見るとボルクム島の地図で、1974~77年に建設されたこの堤防の位置を示しているのだった。縮尺まで添えてあるところが憎い。

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(左)色とりどりのシュトラントコルプが並ぶ砂浜
(右)管理小屋、扉の上に書かれた Vermietung はレンタルの意
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(左)陸閘のモザイク壁画は島の地図 (右)赤丸が現在位置、堤防は黒の太線

築堤道路をさらに進む。今日はよく晴れて、まだ5月というのに暑いくらいだ。埠頭に着いて、何か飲み物をと探したが、カフェどころか、売店すらない。もちろん船内に入ればあるのだが、地上は単なる通過地点とみなされているらしい。列車を1本撮影して、元来た道を戻った。

築堤道路を無心に漕いでいたとき、またレーデ行きの列車と行き違った。しかし、牽いていたのはいつものシェーマ・ロコではない。蒸気機関車だ! 

この蒸機は1940年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製で、1941年から1962年までこの島で「ドラルト Dollart」の名で稼働した後、島内で静態展示されていた。それが、鉄道を観光資源にする取組みのもと、解体修理で軽油焚きに改造され、「ボルクム3世 Borkum III」号として1996年に再デビューした。

きょう日曜日は、木曜とともにその運行日なのだが、何時に走るのか情報がなかったこともあり、すっかり忘れていた。特別運行の回顧列車 Nostalgiezug で、蒸機はヴァイヤー様式の古典客車を伴っていた。私はカメラを取り出す暇もなかったので、すばやく撮影に成功した同行のT氏の作品をお借りする(冒頭写真)。

鉄道には、このほか「豚の鼻面 Schweinschnäuzchen」または「オオアリクイ Ameisenbär」の異名をもつボンネットエンジンのヴィスマール・レールバス Wismarer Schienenbus T1形も1両保存されている。こちらの運行は原則火曜日だ(下注)。

*注 いずれも乗車には特別料金が必要。正確な運行日は鉄道の公式サイトに記載されている。

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(左)保存蒸気「ボルクム3世」号が通過
(右)車庫にいたヴィスマール・レールバス T1形、別称「豚の鼻面」

撮り逃がしたままにしてはおけないと、ボルクム3世が埠頭から折り返してくるのを、さっきの陸閘の上で待ち構えた。今度こそ撮れたのはよかったが、残念なことに機関車はバック運転だった。転車台はどこにもないから、そうなることはわかっていたのだが…。

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戻ってきた蒸機はバック運転

次回はランゲオーク島鉄道を訪れる。

■参考サイト
AG Ems  https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn  http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
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 北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編
 北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道
 北海の島のナロー V-ヴァンガーオーゲ島鉄道 前編
 北海の島のナロー VI-ヴァンガーオーゲ島鉄道 後編
 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

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