2017年11月 4日 (土)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。

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モファット・ロードの絵葉書、ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め
Image from The New York Public Library
https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99

*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。

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ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図
USGS 1:24,000地形図 East Portal
1958年版に加筆

目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の10711(フィート)と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。

■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja

ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。

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ロリンズ峠越え旧線全体図
USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆

旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。

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旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間
USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆

ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。

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デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617

間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。

しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。

*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。

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ライフルサイト・ノッチのスパイラル
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634

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旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆

この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。

モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。

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モファット・ロードの絵葉書、アロー駅
Image from wikimedia.

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旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆

旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。

ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。

モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。

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ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車
Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg.

さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。

*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。

それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグCraigまでが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。

*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。

実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。

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モファット線とドットセロ短絡線

その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。

その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。

*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。

モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。

*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。

ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。

ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。

(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車、右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)、
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)、
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望。中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む(当時の絵葉書)
image from wikimedia

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車、2006年撮影
(左)278号機関車 (右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で利点と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine  http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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2017年10月10日 (火)

ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート

銀の都レッドヴィル Leadville に、サンタフェとの鉄道戦争を決着させたリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)が到達したのは1880年のことだ。ところが、リオグランデは狙い通りに町の輸送需要を独占することはできなかった。なぜなら、次のライバルが別の方向からすでに姿を現していたからだ。

ライバルの名は、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P、下注)。以下「サウスパーク」と呼ぶが、リオグランデがロイヤル峡谷の戦いでもたついている間に、着々とコロラドの山中へ駒を進めていた。パシフィック(太平洋)という名が示すとおり、これも西を目指そうとした鉄道だが、軌間は、リオグランデと同じ3フィート(914mm)の狭軌だった。

*注 1872年10月設立時点の社名は Denver, South Park and Pacific Railway。1873年に増資の上、Railway を Railroad に改名して新たに設立された。

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サウスパークを走った機関車
(コロラド州フェアプレー Fairplay, CO のサウスパーク市立博物館 South Park City Museum に展示)
Photo from www.loc.gov http://www.loc.gov/pictures/resource/highsm.33658/

リオグランデが、路線をデンヴァー Denver から南へ延ばすつもりだったことは前々回述べたとおりだ。それでレッドヴィルへ向かう路線も、開通済みのプエブロ Puebloで分岐してアーカンザス川 Arkansas River 沿いに北上するルートをとった。しかしこれをデンヴァー起点で見ると、かなりの遠回りになる。それに対してサウスパークは、デンヴァーから目的地に直行するという点を売りにした(下図参照)。サウスパーク South Park という名称は、途中で横断する高原地帯の名に由来する。

会社設立は1872年という早い時期だ。この時点ではまだシルヴァーブーム(1878年~)が起きてはおらず、したがってレッドヴィルの町も小さかった。例のパイクスピーク・ゴールドラッシュのさなか、1859~60年に礎が築かれたレッドヴィルは、一時はオロ・シティ Oro City(黄金都市の意)と持て囃されながら、砂金が枯渇するとたちまち人口が激減していた。標高3,100mの高地で気候が厳しいこともあって、有望な鉱物資源がない限り、鉄道資本家の興味を引く場所ではなかったのだ。

それでサウスパークの本線は、レッドヴィルに立ち寄ることなく、まっすぐ西へ向かい、まだ見ぬパシフィックをめざそうとした。しかし、1873~76年というのは金本位制のもとで、西部が不況に喘いでいた時代だ。鉄道会社も資金繰りが苦しく、延伸工事はいっこうに捗らなかった。

1878年にいよいよシルヴァーブームが到来すると、コロラド各地で銀の採掘地へ向けた鉄道の建設ラッシュも始まった。その年の初めにはまだデンヴァーから20マイル(32km)のプラット峡谷 Platte Canyon 入口で足踏みしていたサウスパークも、みるみる路線を延ばしていった。鉄道輸送は活気を呈しており、1日当り480ドルの費用で1,200ドルの収入があった。収支係数40の超優良線だったのだ。鉄道は1879年6月にサウスパークの一角にあるコモ Como に達した後、標高2,892mのトラウトクリーク峠 Trout Creek Pass を越え、リオグランデが縄張りとするアーカンザス川の谷へ降りていった。

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デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道の路線概略図
赤線がサウスパーク、青線がリオグランデ(主要線のみ)

こうなると、銀の都へのルートを巡って、両者の間で新たな鉄道戦争が勃発する、と先読みしたいところだが、実際はそうならなかった。なんと両者は手を携えて、レッドヴィルに入ったのだ。サウスパークのレッドヴィル開業は1880年7月2日、リオグランデは7月20日とされ、前者がタッチの差で早いらしいのだが、ターミナルは別でも、そこに至る線路は共同で使っていた。なぜそうなったのか。

実は裏で画策した男がいた。「泥棒男爵」ジェイ・グールド Jay Gould。ロイヤル峡谷戦争に介入し、リオグランデの側に立って、サンタフェの戦意を喪失させたあの男だ(前々回参照)。彼はすでにサウスパークの物言う株主でもあったため、二者が並行路線を持つのは無駄だと考えた。それで、両者がレッドヴィルに到達する1年前の1879年10月に、共同運行協定を結ばせていたのだ。そこにはこう記されている。「調和と相互利益を目的として、リオグランデは、ブエナビスタ Buena Vista からレッドヴィル鉱山地区へ線路を敷設し、サウスパークは同等の運行権を共有する。同様に、サウスパークは、チョーククリーク Chalk Creek 経由ガニソン Gunnison 地内への敷設権が与えられ、リオグランデには同等の運行権が与えられる。」

平たく言えば、両者がそれぞれ相手の路線に乗り入れる権利を有するということだ。サウスパークはこの協定に基づいて、リオグランデの敷いた線路でレッドヴィルに乗入れることができ、同時に、サウスパークが敷く予定の西側区間がガニソンまで共用となる。しかし、これはお互いに不満の残る協定だった。というのも、当該区間で上がる収入も、かかる維持費も両者が折半することになっていたからだ。取扱量の多いリオグランデとしてはドル箱路線の利益をみすみす他者に渡すことになる一方、サウスパークは列車数が少ない割に維持費の負担が重かった。

案の定、協定は開業から4年足らず、1884年2月に破棄されてしまう。それを見越してサウスパークは、レッドヴィルに通じる独自路線の建設を進めていた(下注)。コモで本線から分岐して北上するルートだ。

*注 ジェイ・グールドの支配下にあったサウスパークは、1881年からユニオン・パシフィック鉄道(UP)のサウスパーク線区 South Park Division として扱われるようになったが、本稿では混乱を避けるために前歴と区別せずに記述している。

線路はボレアズ峠 Boreas Pass を越え、ブレッケンリッジ Breckenridge からいったんブルー川 Blue River の谷を下る。その後反転南下して、テンマイルクリーク Tenmile Creek を遡り、フリーモント峠 Fremont Pass 経由でレッドヴィルに至る。「ハイライン High Line(高地線)」と呼ばれたように、標高3500m近い大陸分水嶺を二度も越える名うての山岳路線だった(下注)。この開通によって、レッドヴィルからデンヴァーまでの距離は、リオグランデの446km(277マイル)に対し、243km(151マイル)と著しく短縮された。

*注 ボレアズ峠は標高3,499m(11,481フィート)、フリーモント峠は標高3,450m(11,318フィート)。

ところで、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道を語るなら、本来の設立目的であった西部連絡線のことも外すわけにはいかない。ハイラインの大胆なルート選択にも驚くが、西方ではさらに挑戦的な土木工事が実行に移されていたからだ。

西をめざすサウスパークの当面の目標は、大陸分水嶺を越えた先にあるガニソンの谷だった。その周辺では石炭、石灰石、鉄や貴金属を産出する鉱山が開発を待っていた。峠道にはいくつかの選択肢がある。最も標高が低いのは一番南にあるマーシャル峠 Marshall Pass だが、すでにリオグランデの最初の本線が敷かれていた。次に低い峠はモナーク峠 Monarch Pass で、現在、連邦道50号線が通っている。サウスパークはそのいずれでもなく、ブエナビスタから距離は最短だが、標高はさらに高い峰筋を越えようとした。

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アルパイントンネルを中心とした鉄道路線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

残念ながらその時代に分水嶺付近の地形図は作られなかったので、1980年代の地形図でルートを確認しておこう。右上のデンヴァー側からPACK TRAIL(登山道)の注記のある小道が左に延びている。これが廃線跡だ。線路は最急40‰の険しい勾配で、サミットをめざしていた。トンネル沢 Tunnel Gulch の南斜面に、標高11,600フィートの注記を伴ってトンネル北口がある。本来の峠道は一つ東にあるウィリアムズ峠 Williams Pass なのだが、鉄道はそれよりも尾根がくびれて、掘削距離が短くて済むこの場所を選んだ。

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アルパイントンネル周辺
USGS 1:24,000地形図 Saint Elmo 1982年版、Cumberland Pass 1982年版、Whitepine 1982年版、Garfield 1982年版に加筆

アルパイントンネル Alpine Tunnel(アルプストンネルの意)と命名されたこのトンネルは、コロラドの大陸分水嶺に穿たれた最初のものだ。標高3,539m(11,612フィート、下注)は、鉄道用としては北アメリカで最も高く、その記録は未だに破られていない。長さはたかだか540m(1,772フィート)と見積もられたので、建設会社は6か月で貫通させるつもりだった。ところが、掘削中に花崗岩の破砕帯に遭遇し、アカスギの支持枠で全長の8割を補強するなど、予期しない難工事となった。結局、完成までに2年近くを要し、1881年12月にようやく開通した。地形図にはトンネルの位置が明瞭に描かれているが、現在はポータルが崩壊して、内部に入ることはできなくなっている。

*注 アルパイントンネルに関するウィキペディア英語版の記事では、トンネルの標高が11,523フィート(3,512m)とされているが、1:24,000地形図記載の標高値から見て、Narrowgauge.org が示す11,612フィートに妥当性がある。 http://narrowgauge.org/alpine-tunnel/html/auto_tour.html

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アルパイントンネル西口、1880年代撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1425

南口からは、地図上の廃線跡が車道の記号になる。もちろん車高の高い四輪駆動車でしか行けないようなオフロードだが。この狭い平底の谷間には、列車運行の中継基地が設けられた。アルパイン駅 Alpine Station と呼ばれて、機関庫、給水タンク、転車台、鉄道員宿舎などが備わっていたが、1906年に火災に遭い、主要な建物は焼失してしまった。最近になって愛好家たちの手で、駅併設の電報局舎や37m(120フィート)の線路、転車台などが復元され、かつての雰囲気が蘇っている。

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現地に復元されたアルパインステーションの施設
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

やがて道は、はるかに広いU字谷の中腹に踊り出る。谷底からの高さは約300m(1,000フィート)ある。車窓には、登山鉄道も顔負けの雄大な山岳風景が開けて、列車の客を魅了したに違いない。降りていく途中にあるザ・パリセーズ The Palisades(絶壁の意)は、そそり立つ断崖の下に石組みで通路を確保した難所で、沿線の名所にもなっていた。谷底に達すると、線路は急曲線のシャーロッドループ Sherrod Loop で方向転換する。現在の車道はループを短絡しており、外側に膨らんだ小道が本来の線路跡だ。また、すぐ下方にあるウッドストック Woodstock 駅は、1884年早春の雪崩で宿舎が壊滅して、13人が命を失うという大きな被害に見舞われた現場になる。

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往時のザ・パリセーズ、1900~1920年撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1373
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現在のザ・パリセーズ(上写真の逆方向を見る)、2006年撮影
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この後は、ミドルクウォーツクリーク Middle Quartz Creek の右岸の谷壁に沿って、淡々と下っていく。地形図で、山から滑り落ちる谷川を渡る地点にある "Water Tank" の注記は、機関車に補給する水を貯える水槽だ。張り出し尾根を大きく回り込むと、ようやく峠の西麓クォーツ Quartz(すでに廃村)に降り立つことができる。

このアルパイントンネルとアプローチ区間20.9km(13マイル)は、近年「アルパイントンネル歴史地区 Alpine Tunnel Historic District」として保存と復元が進められ、1996年に国の登録歴史地区 National Register of Historic Places に指定されている。

さて、最大の難所の完成で工事は山場を越え、1882年9月にサウスパークの最初の列車がガニソンに到着した。ガニソンからさらに北方のボールドウィン鉱山へ支線が敷かれ、鉱石輸送も始まった。しかし、アルパイントンネルを挟んだ険しい山岳区間は冬場、しばしば猛吹雪に曝され、列車の運行は困難を極めた。年表には、トンネルの一時閉鎖をはじめ、脱線、衝突など、心細げな狭軌鉄道の苦闘の歴史が連綿と綴られている。

サウスパークは、ガニソンを拠点に、オハイオ峠 Ohio Pass を越えて西進するルートの開拓や、西南部のサンファン San Juan 地方への進出を画策するが、新天地はすでにリオグランデに押さえられていて、手の出しようがなかった。全通6年後の1888年、不況のために会社は早くも資金繰りに窮し、ユニオン・パシフィックの管理下で別会社(下注)に引継がれた。さらに1899年には、コロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railway (C&S) に再編される。

*注 デンヴァー・レッドヴィル・アンド・ガニソン鉄道 Denver, Leadville and Gunnison Railway。社名からわかるように、破綻したサウスパークの受け皿会社だった。

1910年11月、トンネルの一部が崩壊してまたも運休となったが、運営会社はもはや復旧する意欲を失っていた。そのままアルパイントンネルを含むブエナビスタ~ガニソン間は、廃止されてしまう。自動車交通が発達すると残る東部区間でも輸送量も漸減していき、1937年ついにほぼ全線が廃止となった。例外的に残された、もとハイライン(高地線)のレッドヴィル~クライマクス Climax 間は1943年に標準軌に改軌され、なおも使われたが、現在は保存鉄道「レッドヴィル・コロラド・アンド・サザン鉄道 Leadville Colorado & Southern Railroad」の観光列車が走るだけになっている。

リオグランデが創始し、サウスパークなどが後を追って、確立されたコロラドの3フィート狭軌王国。次回は、そこに標準軌という新しい風を吹き込んだ挑戦者の話をしたい。

(2007年1月25日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-アルパイントンネル」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Leadville Colorado & Southern Railroad  http://www.leadville-train.com/

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2017年9月24日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道

デンヴァー Denver に拠点を置く鉄道会社として、デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG) 、あるいはデンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW、下注) の名はいまだになじみがある。名称が長いので、以下単に「リオグランデ」と呼ぶことにするが、1870年の創設以来、1988年まで実に100年以上も山岳地帯の鉄道輸送で中心的な役割を果たしてきた。

*注 D&RGが経営悪化で政府の管理下に置かれた後、1920年に新たに受け皿会社としてD&RGWが設立され、1921年にD&RGを統合した。

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D&RGW 483号機、ニューメキシコ州アズテック Aztec, NM 駅にて、1967年
Photo by Drew Jacksich at wikimedia. License: CC BY 2.0

そのリオグランデが先駆者のデンヴァー・パシフィック Denver Pacific と異なるのは、3フィート(914mm)の狭軌で建設されたという点だ。1830年代から鉄道の建設が始まっていた東部では、当初さまざまな軌間が用いられた。しかし、路線が延長され相互に連絡する段階になると、イギリスと同じように、車両が直通できないという難点が強く認識されていった。大陸横断鉄道の軌間が4フィート8インチ半(1435mm)と法律で明示されたのも、これを教訓にしている(下注)。この軌間はすでに東部で多数派になっていたとはいえ、法制化されたことが事実上の標準軌として全米に普及する契機となった。

*注 いわゆる太平洋鉄道法 Pacific Railroad Acts で、1862年に大陸横断鉄道の建設を促進するために制定。軌間の規定は1863年に追加された条文にある。

大陸横断鉄道と直通することを主目的に挙げるデンヴァー・パシフィックは、当然同じ規格を採用したが、リオグランデはそれを選ばなかった。なぜだろうか。

リオグランデの共同経営者だったハワード・スカイラー Howard Schuyler は、鉱山経営を視察するためにイギリスのウェールズ地方へ行ったことがある。そこで見たのが、スレートを採掘場から港まで運んでいたフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway だ。約2フィート(正確には1フィート11インチ半、597mm)とたいへん狭い軌間ながら、何ら問題なく使われていた(下注)。

*注 フェスティニオグ鉄道については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I」で詳述している。

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フェスティニオグ鉄道タン・ア・ブルフ(タナブルフ)Tan-y-bwlch 駅、1890~1905年ごろ
Photo from wikimedia

狭軌鉄道は線路用地だけでなく曲線半径も小さくできるので、山間のような険しい地形に適している。また、車両や設備がコンパクトな分、比較的安価に導入できる。スカイラーはこうした利点を評価し、標準軌にこだわらず、むしろ最初にこれを採用することで地域の標準規格にすることができると考えた。

ただし、フェスティニオグ鉄道はたかだか20km程度の路線に過ぎない。コロラドでは100km単位の長距離となり、かつ取り扱う貨物量も多くなることが見込まれたため、3フィートに拡げて設計したと言われている。それでも、大陸の人々は狭軌鉄道を実見したことがなく、こんな鉄道では役に立つはずがないと反対したので、準備は見切り発車で進められた。

リオグランデは、その後、コロラドから西のユタ準州にかけての中央山岳地帯に自社路線を張り巡らせていく。しかし不思議なことに、鉄道の名称であるリオグランデは、デンヴァーから1,000kmも南のメキシコ国境へ流れていく川の名で、路線網と流域が重なるのは南部を走る一部の支線に限られる。そう、確かに最初の計画は、現 インターステート25号線に沿うルートでひたすら南下して、リオグランデ川に達するというものだった。最終的には国境を越えて、メキシコシティ Mexico City をめざしていた。だが、遠大な構想が実現することはついになかったのだ。

なぜ、リオグランデはリオグランデに行かなかったのか。その理由は、大きく二つ挙げられる。一つは行く手を阻むライバルが出現したからであり、もう一つは南へ行くよりもっと収益が上がる目標を見つけたからだ。

そのライバルというのは、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway (AT&SF、下注)。これも名称が長いので「サンタフェ」と略することにするが、カンザス州アッチソン Atchison を起点に、西へ向けて建設が進められてきた路線だ。同じように南部の開発利益を狙っていて、早晩利害の対立が表面化するのは明白だった。

*注 アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は1859年設立。サンタフェ Santa Fe はニューメキシコ州の州都だが、路線は最終的に西海岸のロサンゼルス Los Angeles やサンフランシスコ San Francisco に達し、南回りの大陸横断鉄道を実現した。1995年にバーリントン・ノーザン鉄道 Burlington Northern Railroad と合併し、現在はBNSF鉄道 BNSF Railway になっている。

アメリカ19世紀の交通史には、「鉄道戦争 Railroad Wars」という用語がしばしば登場する。連邦政府や州政府の援助を得てはいてもすべて私設鉄道として計画されるため、ときにルートが競合して争いになる。通常は訴訟が起こされ、法廷闘争のなかで決着を見るのだが、中にはこじれて本物の武力抗争に発展することがあった。というのも19世紀後半の西部は、映画のジャンルで一世を風靡したあの西部劇の舞台であり、たとえば「荒野の決闘」に出てくるような保安官やならず者が実際に生きていた時代なのだ。

リオグランデとサンタフェがぶつかったのは、コロラドとニューメキシコの州境に位置するラトン峠 Raton Pass(下注)だった。両者ともすでに峠の北麓のトリニダード Trinidad まで路線を延ばしてきており、さらに南へ進出するにはどうしてもこの峠を越える必要があった。

*注 ラトン峠は標高2,388m、西部開拓ルートのサンタフェ・トレール Santa Fe Trail が通る。ラトン Ratón はスペイン語で鼠を意味する。

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同じ南部の開発を狙うリオグランデ(図の赤線)とサンタフェ(黒線)のルートがラトン峠 Raton Passでぶつかる
image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

1878年12月、双方が拳銃使いや保安官を雇って激しくにらみ合った。サンタフェの社長W・B・ストロング W. B. Strong は、リオグランデのW・J・パーマー W. J. Palmer 将軍に対し、峠の上でこう言い放ったとされる。「最初にここに着いたのはわれわれだ。この仕事の邪魔をする奴は誰でも、眉間に弾丸(たま)を受けるのを覚悟しろ!」

結局この争いは、資本規模で劣るリオグランデが引き下がったため、サンタフェがラトン峠を獲ることに成功した。しかし戦争はそれで終わらなかった。リオグランデが南へ行かなかったもう一つの理由、収益の期待できる目標が絡んできたからだ。

前年(1877年)、コロラド山中のレッドヴィル Leadville で有望な銀の鉱脈が発見されていた。さらに、1878年2月にブランド=アリソン法 Bland-Allison Act が施行され(下注)、金本位制に替えて金と銀の複本位制が復活した。これは、連邦政府が一定量の銀を買上げ、ドル銀貨に鋳造して流通させる制度で、政府による銀の買い支えだ。たちまち銀価格が吊り上がり、ゴールドラッシュならぬ銀の採掘ブーム、いわゆるシルヴァーブーム Silver boom が巻き起こる。一旗揚げようとする男たちが我先にレッドヴィルへ殺到し、膨れ上がる人口で小さな入植地は、数年のうちにデンヴァーに次ぐ大きな町になった。

*注 1873年から金本位制が採用されていたが、それに伴う銀価格の下落で打撃を受けた西部の採鉱関係者は議会での巻き返しを図っていた。ブランド=アリソン法の成立はその成果だった。

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1882年のレッドヴィル鳥瞰図、鉱脈発見から5年で大きな町に
Image from www.loc.gov https://www.loc.gov/resource/g4314l.pm000720/

当然、大きな需要が生じるのを見越して、鉄道を敷こうという動きが出てくる。レッドヴィルはアーカンザス川 Arkansas River(下注1)の最上流、標高10,152フィート(3,094m)の高地に位置している。当時、リオグランデの路線は180km下流のキャノンシティ Canon City(下注2)に、サンタフェはさらに下流50kmのプエブロ Pueblo に達していた。

*注1 アーカンザス川は、レッドヴィル近くの大陸分水嶺に源をもち、本流というべきミズーリ川 Missouri River を別とすると、ミシシッピ川 Mississippi River の最も長い支流。
*注2 市名は1994年に、スペイン語に由来するキャニョンシティ Cañon City に変更されたが、本稿ではそれ以前の旧称を使用する。

両者揃って並行路線を敷ければ何の問題もなかったのだが、キャノンシティの西には、ロイヤル峡谷 Royal Gorge という稀に見る難所が横たわっている。川が花崗岩の高原を切り刻み、最高380mもある断崖が長さ16kmにわたって続く大峡谷だ(下注)。谷底の最狭部は15mほどの幅しかないクレバスのような隘路で、到底、鉄道を2本も建設する余地はない。

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ロイヤル峡谷の最狭部を
通過するリオグランデの線路
© Denver Public Library 2017, Digital Collections P-448

サンタフェは1878年4月に、この難所で線路敷設のための測量調査を始めた。連絡もなしに自分の縄張りに杭を打たれたリオグランデが黙っているはずがない。すぐに現場へ駆けつけるものの、サンタフェ側の妨害に遭って撤退させられてしまう。ラトン峠でぶつかる以前に、もう一つの鉄道戦争、いわゆるロイヤル峡谷戦争 Royal Gorge War の種がすでに蒔かれていたのだ。

サンタフェは裁判所にリオグランデを訴えた。主張が通って、リオグランデに対して妨害行為の差止め命令が出されたが、それに耳を貸すようなリオグランデではない。現場に岩を落としたり、測量器具を川に捨てたりと、なおも作業を妨害し続けたため、サンタフェは警備のために強力な助っ人を雇う。

呼び寄せられたのは、フォード郡の保安官だったバット・マスターソン Bat Masterson 。彼は、ドク・ホリデイ Doc Holliday の力を借りて人を集め、リオグランデの駅施設を次々に襲って、占拠する。リオグランデも反撃に出た。ガンマンの一団を雇って駅に付属する電報局の裏窓から奇襲攻撃をかけ、州政府の兵器庫から借りた大砲で威嚇して、機関庫の奪回に成功する。

*注 蛇足ながら、ドク・ホリデイといえば、保安官ワイアット・アープ Wyatt Earp とともに「OK牧場の決闘」で闘った命知らずのガンマン。他にも、「汚れた」デーヴ・ラダボー "Dirty" Dave Rudabaugh、「謎の」デーヴ・マザー "Mysterious" Dave Matherといった派手な名を持つ拳銃使いがいた。

並行して進めていた法廷闘争では、1879年4月、リオグランデに峡谷に鉄道を建設する権利を認める決定が下された。こうしてリオグランデはとりあえず戦争に勝利したのだが、二者の抗争はその後泥沼化していく。サンタフェは豊富な資金力にものを言わせて、リオグランデの既存路線と競合する路線を造ると発表した。これに怖れをなしたのがリオグランデに出資していた資本家たちで、会社を潰されては元も子もないと、サンタフェに通行権を与えるよう圧力をかけた。

思惑通りに30年間の通行権を得たサンタフェは、すぐさま次の手を打った。カンザス州の荷主を優遇して、運賃のダンピングを始めたのだ。これはサンタフェと、その支持者であるデンヴァーの商人にとって、大きな打撃となった。リオグランデが法廷に申し立てた通行権契約の破棄が認められると、堰を切ったように双方の抗争が再燃する。実弾が飛び交い、駅や機関庫が襲われ、ついに死者も出た。

不毛の闘いに終止符が打たれたのは、連邦裁判所の介入と、大資本家ジェイ・グールド Jay Gould(下注)がリオグランデに加担したことによる。彼はあくどい手口で鉄道を買収していくので「泥棒男爵 robber baron」の一人とされる人物だが、すでにリオグランデの大株主になっていて、手を引かなければサンタフェの競合路線を造ると脅しをかけた。サンタフェは、これで最終的に諦めた。

*注 ジェイ(ジェイソン)・グールドはアメリカ鉄道王の一人で、1880年に全米の鉄道路線の1/9に当たる1万マイル(16,000km)を支配下に収めていた。

1880年3月に、すべての訴訟に決着をつけるボストン協定 Treaty of Boston が結ばれた。それによれば、リオグランデは、ニューメキシコのエスパニョーラ Española(下注)から南に鉄道を建設せず、サンタフェは今後10年間、リオグランデの本拠地であるデンヴァー、レッドヴィルのいずれにも鉄道を延ばさない。また、サンタフェがすでにロイヤル峡谷に建設を進めていた線路は、リオグランデが180万ドルで買い取ることとされた。これが、リオグランデがリオグランデに行かず、西に路線網を張り巡らすことになった決定的な理由だ。

*注 エスパニョーラは、同州サンタフェ市の北40kmにある町。サンタフェ鉄道はラトン峠経由で、サンタフェ市以南にすでに路線を持っていた。

アメリカ鉄道史に残るロイヤル峡谷戦争は、こうして幕を閉じた。リオグランデは協定どおりロイヤル峡谷の線路を獲得し、1880年5月にサライダ Salida、同年7月に念願のレッドヴィルに到達した。

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ロイヤル峡谷を行く保存観光列車(ロイヤル峡谷ルート鉄道)
Photo by Markgreksa at wikimedia.

さてその後、ロイヤル峡谷はどうなったのだろうか。まずはリオグランデが思い描いたとおりの華やかな幹線時代が始まるのだが、しかしそれは永遠に続くものではなかった。次回は、峡谷ルートの盛衰とその後の展開を追ってみたい。

(2007年3月8日付「ロイヤル峡谷の鉄道 I」、同3月15日付「ロイヤル峡谷の鉄道 II」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
New Mexico History Museum  http://www.nmhistorymuseum.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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2017年9月 3日 (日)

ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

中欧スロベニアの南西部からアドリア海の間には、石灰岩やドロマイトなど水溶性の岩石が造り出す複雑怪奇な地形が横たわる。カルスト地形というよく知られた用語は、スロベニア語でクラス Kras と呼ばれるこの地方のドイツ語名称を借りたものだ(下注)。

*注 クラスはドイツ語でカルスト Karst、イタリア語ではカルソ Carso になる。

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トロッコ列車が地中の「コンサートホール」を駆け抜ける
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首都リュブリャーナ Ljubljana から西へ向かう列車は、このカルストの波打つ高原を越えていかなければならない。たどるルートは、ローマ時代からあるパンノニア平原(現 ハンガリーとその周辺)と北イタリアを結ぶ交易路だ。標高610mの峠道は回廊状になっていて、ポストイナ門 Postojnska vrata と呼ばれる。近現代に至るまで戦略的に重要な場所で、今も幹線鉄道と高速道路が並走している。

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ポストイナというのは、峠道から下りたところにある小さな町の名だ。しかしその名は門よりも、鍾乳洞(下注)の存在によって世界に知られている。カルスト地形では珍しくない鍾乳洞だが、ポストイナの裏山の地下に横たわるそれは総延長が約24kmあり、同国でも一二を争う規模を誇る。その一部、往復5kmが観光用に公開されており、1日数回行われるガイド付きツアーで見学することができる。

*注 公式名称はスロベニア語で Postojnska jama(ポストイナの洞穴)、英語でも Postojna Cave だが、日本ではこの種の洞穴を鍾乳洞と呼ぶので、本稿では「ポストイナ鍾乳洞」とした。

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ポストイナ鍾乳洞の管理棟(鍾乳洞宮殿 Jamski Dvorec)、左奥が洞口
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ポストイナ鍾乳洞のユニークさは、規模の大きさにとどまらない。ここにはおそらく世界でも類のない、鍾乳洞の中を走るトロッコ列車があるのだ。ツアー参加者は、洞内に入るとまず、このミニ列車に乗って、地中の奥深くへ運ばれていく。約10分乗車した後、ガイドに従って、徒歩で鍾乳洞の最も見ごたえのある区間を巡る。そして、コンサートホール Koncertna dvorana と呼ばれる大空間から、再び列車で入口まで戻ってくる。全行程の所要時間は約1時間半だ。

洞内軌道は620mm軌間で、上下別線になっている(見かけは複線)。終端はループ化されており、周回線路の総延長は3.7kmに及ぶ。また、降車ホームと乗車ホームは分離され、両者の間は回送運転になる(下図参照。図中、departure platform が乗車ホーム、arrival platform が降車ホームの位置)。列車は、蓄電池式機関車が牽引し、2人掛け×4列の簡素な2軸客車を多数連結している。それでも押し寄せる訪問客をさばくために、繁忙期は60分ごとに続行で運行されるのだ。

■参考サイト
YouTube ポストイナ洞内軌道の乗車映像(4K解像度)
 往路と復路が逆に編集されているので注意。全20分のうち、前半は「復路」の後方、後半は「往路」の前方の映像になっている
https://www.youtube.com/watch?v=u3CE6hzDE0A

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線路は上下別線
photo by fish tsoi at flickr.com, CC BY 2.0
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洞内の終点(降車ホーム)、ここから徒歩ツアーが出発する
image from www.slovenia.info

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地形図で見るポストイナ鍾乳洞
赤の鉄道記号が洞内軌道のルート、青線が徒歩ツアーのルート

公式サイトから取得した洞内平面図を、1:25,000地形図に重ねた。位置照合は、Geodetski zavod Slovenije 発行の観光地図 "Karst of Notranjska" を参考にした
(c) Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

観光用の軽鉄道とはいえ、鍾乳洞の公式サイトによれば140年もの歴史があるという。ポストイナ鍾乳洞は、未知の通路が発見された1818年以降、人々に知られるようになった。ウィーン~トリエステ間のオーストリア南部鉄道 Österreichische Südbahn がポストイナを経由した19世紀中期には、すでに洞内に鉄道を敷く構想があったが、実現はしなかった。

初めて洞内にレールが敷かれるのは1872年だ。入口から洞内のカルバリ Kalvarija(下注1)と名付けられた地点まで、1,534mの長さの人車軌道だった。ルートにほとんど坂道がない(下注2)ので、案内人一人で、二人乗りの小さな客車を押して走らせていたという。しかし、訪問者が増加すると、人力に頼る運行形態には限界が来る。

*注1 カルバリはいうまでもなくキリスト受難の丘のことだが、現在は「大きな山」 Velike gore / Great Mountain と呼ばれる。
*注2 実際、軌道が走る周囲の床面は平坦化されており、人工的に整備したのは間違いない。

1914年に、モンタニア Montania と呼ばれるガソリンエンジンで走る機関車と4人乗り客車が、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社に発注された。モンタニアは鉱山や林業で使われていた小型機関車だ。しかし、第一次世界大戦が勃発したため、納入は延び延びになり、予定の運行が可能になったのは、線路の改修が完了した1924年だった。

当初、1日4便が運行され、初年度は15,588人がそれを利用して鍾乳洞を巡った。翌25年には3軸の、より強力な新型モンタニアが6人乗りの新しい客車とともに導入された。1928年には、鍾乳洞の入口に、レストランや待合室がある今の管理棟がオープンし、プラットホームも整備された。ただし、今と違って、列車を利用せずに徒歩だけで巡ることもまだ可能だった。徒歩ツアーは1963年まで維持されていた。

第二次世界大戦後、鍾乳洞の訪問者数はますます増加したが、引き続きガソリン車が使われたため、洞内の空気汚染が深刻化していった。1957年にようやく、蓄電池で動くエマム Emam 機関車2両が配備されてモンタニアを置き換え、完全無煙化を達成した。エマムは1959年と1964年にも各1両が増備された。

一方、線路も改良の必要に迫られていた。単線で、中間の信号所が2か所しかなく、同時に3本運行するのが限度だったからだ。1959年から複線化の検討が始まり、第一段階として、鍾乳洞入口のループと2本目の線路が1964年6月20日に開通した。このとき、洞内の終点はまだ頭端構造だったが、1967年に第二段階の、人工トンネルを介したループが最奥部で開通し、現在の周回線が完成した。

1978年には蓄電池式機関車は12両を数えるまでになったが、1988年に新型6両が調達されて、8両の旧型車を置き換えている。来年(2018年)は鍾乳洞発見200周年に当たり、これを機に管理会社では、輸送システムのさらなる更新を計画しているそうだ。

本稿の最後に、1999年8月に筆者が訪れたときの簡単なレポートを記しておこう。

リュブリャーナ8時10分発のプーラ Pula 行き列車で、霧の中をゆるゆると走って、ポストイナ着9時02分、ホームに降り立ったのは数人だった。貨物駅かと思うほど駅前にも何もなく、地図帳を紛失して土地不案内の私たちは、道なりに進んでなんとか町の中心部に出た。案内所があったので地図を所望するも、窓口氏は「not exist」とにべもない。

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(左)ポストイナ駅に到着。構内は広いが貨物駅のよう (右)鍾乳洞の平面図

道路標識を頼りに歩くこと10分ほどで、鍾乳洞の施設が見えてきた。訪問者はみなマイカー利用のようで、なるほどこれでは公共交通が成立しないはずだ(下注)。毎時00分にツアーが出るとパンフレットにあったので、急いで入場券の窓口に並んだ。平日でもかなりの人出だ。

*注 2017年現在、リュブリャーナからポストイナ鍾乳洞行きのバスが平日3本、休日1本設定されている。なお、鍾乳洞には立ち寄らないものの、ポストイナ市街を通る路線バスは多数走っている。

エントランスを入っていくと、トロッコ列車が待機している。遊園地のジェットコースターのような短いオープン客車が10両ほども連なっている。ドアもシートベルトもないのだが、走り出したらやたらと飛ばす。それも本物の鍾乳洞の中なので、鍾乳石の垂れ下がる大広間があるかと思えば、頭をこすりそうな素掘りのトンネルをくぐる。通路幅が狭くなると上り線と下り線が離れていき、また近づいてくる。スリリングな場面展開は、造り物のアトラクションの比ではなかった。

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(左)乗降客で混雑する入口駅 (右)鍾乳石の垂れ下がる洞内を行く
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第2次大戦中、ナチスドイツが洞内を火薬庫に使用していた。パルチザンが火をつけたため、洞内に煙が充満した。黒い鍾乳石はその名残

これだけでも十分楽しめたのだが、列車を降りた後、ガイドによる洞内ツアーがある。私たちは「English」の立札のもとに集合したが、ガイド氏の話は率直なところよくわからない。一応ついていきながらも、半分勝手に行動したので、いつのまにか後ろの「イタリアーノ」組に追いつかれてしまった。

鍾乳石は見事に保存されていて、スパゲティと呼ばれる細い糸のような石や、削り節をくねらせたような石のように、繊細な造形がそのまま見られる。かなり奥深いところなので、荒らされる前に保護の網をかぶせることができたのだろう。洞穴はピウカ川 Pivka River が造ったはずだが、水流が全く見られないのは、別の場所を通っているからだという(下注)。

*注 ピウカ川は、上の地図でライトブルーに塗った洞穴を流れている。なお、入口の降車ホーム付近だけは、川が流れる洞穴に設けられているため、水音がする。

ツアーが終わる直前、類人魚なる生き物が入れられた水槽の前を通過した。ライトを当てられっ放しだが、闇の中で生きてきた類人魚は大丈夫なのだろうか。徒歩による鍾乳洞見学は1時間ほどで終わる。予想に反して、ガイド氏はチップを要求することもなく、帰りの列車の時刻だけ告げて、どこかへ消えてしまった。

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徒歩ツアーで巡る鍾乳洞、「スパゲティ」が天井を覆う

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/

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2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6人になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが適切で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
破線が、米軍撮影空中写真を参考にして描いた軌道のルート
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆
軌道関係の痕跡は、韮山の崖記号と花渕浜西方の直線路のみ

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。昭和8年図にはこの道はないものの、同じ位置に田んぼの中を一直線に延びる小道(地図記号としては、道幅1m以上の町村道)が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図、右図参照)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

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【追記 2017.5.28】
先日発売された、今尾恵介 責任編集「地図と鉄道」(洋泉社、2017年6月)の114ページ以下で、石井さんがこの築港軌道について的確な記事を書いている。軌道跡が明瞭に写る米軍撮影の空中写真や、高山の西の切通し(記事では小豆浜公園近くの切通し)の撤去前の写真なども見られる。ご参考までに。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。
参考にした米軍撮影空中写真は、国土地理院所蔵のUSA-M201-56(1947年4月12日撮影)、USA-M174-228, 232(1952年10月31日撮影)。

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2017年3月20日 (月)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV

商業鉄道だった旧ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway がすべての運行を停止したのは、第二次世界大戦前の1937年だった。それから74年の歳月を経て、2011年に保存鉄道として全線再開されるまでのいきさつは、ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建 Welsh Highland Railway restoration」の項(下記参考サイト)に詳しい。約13,000語に及ぶ長文の資料から、関係する諸集団の思惑が複雑に絡み合った鉄道再建の険しい道のりが明らかになる。以下、その骨子を書き出してみた。

■参考サイト ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建」
https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Highland_Railway_restoration

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ベンチの脚を飾るレッド・ドラゴン(ベズゲレルト駅にて)

旧線路用地の帰趨

旧WHRの運営企業は、正式名をウェルシュ・ハイランド鉄道(軽便鉄道)会社 The Welsh Highland Railway (Light Railway) Company(以下、旧WHR社)といった。同社は、1896年軽便鉄道法に基づく軽便鉄道令 Light Railway Order (LRO) によって、1922年に設立が認可されている。会社は、社債を発行して鉄道の建設資金を調達したが、その3/4を引き受けたのは国と地元自治体だった。ところが開通後まもなく経営不振に陥り、利子払いが滞ったため、会社に対して1944年に清算令が下された。ここまでは前回述べたとおりだ。

指名を受けた清算人は、債権者に債務弁済するにあたって、線路用地は入札にかけ、最高額の札を入れた者に売却することで資金を回収しようとしていた。ただし軽便鉄道令によって、線路用地の所有権は旧WHR社のみにあり、かつ鉄道目的にしか使えない。そこで、用地を縛りから解き放つには法的な手続きが必要となり、それには2つの選択肢があった。

一つは、旧WHR社を廃止する「廃止令 Abandonment Order」を得ることだ。ただしこれを申請する者に法律上の費用負担が生じる。二つ目は「譲渡令 Transfer Order」で、これを得た者は旧WHR社から譲渡を受けられるが、その土地の使用は引き続き鉄道目的に限定される。

清算人としては土地の換金が可能になる廃止令が望ましいが、その前提となる費用を工面する当てがなかった。旧WHR社の残余資産はすでに債権者に分配済みで、使い勝手の悪い線状の土地を取得するために気前よく資金を差し出す者が現れるとは思えなかったからだ。

1961年7月に、保存鉄道に関心のあるシュルーズベリーの実業家の声掛けで、鉄道再開の可能性を議論する会合が開かれた。その場に招かれた清算人は、交渉次第ではあるが土地は750ポンドで売却する用意があると述べた。そこで、話をさらに具体化するために同年10月、ウェルシュ・ハイランド鉄道協会 Welsh Highland Railway Society(以下、WHR協会)が設立された。

協会の創設者に名を連ねたうちの数名は、近隣の保存鉄道フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)にも関与していた。フェスティニオグ鉄道も1946年に運行を休止したが、復活を望む人々によって1951年に鉄道協会が設立され、協会が過半数の株式を取得する形で、休眠状態の鉄道会社が再建された。そして1950年代の終わりまでに、ポースマドッグ Porthmadog(下注)から全線のほぼ中間地点にあたるタン・ア・ブルフ Tan-y-Bwlch まで運行が再開されていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から現在の Porthmadog に変更されたが、本稿では表記をポースマドッグに統一している。

鉄道再建の実績を持つ人々の参加はWHR協会の大きな支えになった。その一方で、FRの支持者の間ではWHRの再建に対して複雑な反応があり、歓迎する者もいれば、公然と敵意を示す者もいた。理由はおいおい明らかになるが、このことが、後日のFRの行動に少なからぬ影響を及ぼすことになる。

さて、路線を復元するには、まず再測量のために線路用地への立入り許可が必要だ。清算人はWHR協会に好意的で、ほどなく協会を実行力のある想定売却先と認めるようになった。協会は、清算人との間で用地購入に関して、行政当局とは計画認可に関して、それぞれ交渉に着手した。ポースマドッグが属するメリオネスシャー州 Merionethshire からは、ルート南端の計画に対して認可が下りた。しかし、カーナーヴォンのあるカーナーヴォンシャー州 Caernarfonshire の議会は、鉄道より並行道路の改良に関心が向いており、協会の計画には非協力的だった。

鉄道の運営責任を引き受けるには法人格が必要なため、WHR協会は1964年初めに、ウェルシュ・ハイランド軽便鉄道(1964)有限会社 Welsh Highland Light Railway (1964) Limited を設立した。巷では「64年会社 The 64 Company」と呼ばれたので、以下ではそれに倣おう。

運の悪いことに、行政との認可交渉をしている間に清算人が体調を壊し、用地の売却交渉をまとめることなく亡くなった。清算業務は管財人が自ら引き継いだが、彼は64年会社への売却を良しとせず、土地を競売に出すという当初の方針を貫いた。協会側は、積み上げてきた交渉を突然打ち切られ、同時に用地への立入り権も失ってしまった。

管財人は、競売への参加者に対し、旧WHR社の債務を引き受けるに足る資産の証明と、廃止令への出資を条件に加えた。64年会社も参加した競売で最高額を投じたのは、カンブリア州 Cumbria の資産家J・R・グリーン J. R. Green という男だった。グリーンは他の保存鉄道を支援している理解者であり、信頼のおける保存団体に管理を委ねるつもりだった。64年会社は彼にWHR復元と運行の支援を要請され、同意した。

ところがその後グリーンは、一時的に資金難に陥った。先行きを不安視した管財人は1969年に売却を撤回してしまい、64年会社は再び挫折を経験することになった。

その後、64年会社は1973年後半に、ポースマドッグでベズゲレルト側線 Beddgelert Siding と近接の土地を購入している。側線は、クロイソル軌道 Croesor Tramway が山から運び下ろしたスレート貨物をカンブリア鉄道 Cambrian Railways(後の国鉄カンブリア線)に受け渡すために造られたもので、戦後は使われていなかった。この廃線跡の上にポースマドッグからペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction まで短距離の狭軌線が敷かれ、1980年に保存鉄道として開業することになる。

64年会社と全線派

1974年に自治体の再編が実施された。メリオネスシャー州とカーナーヴォンシャー州は統合されて、グウィネズ Gwynedd 州になった。それに伴い、かつて保存鉄道に無関心だったカーナーヴォンでも、鉄道への風向きが変わり始めた。観光客の減少を食い止めるために、新たな観光資源に結び付ける動きが出てきたのだ。このとき、1972年に廃止されて以来、州の所有になっていた標準軌線跡を使って、狭軌保存鉄道を町まで引き込む構想が初めて提案された。一時は64年会社の拠点を、ポースマドッグからカーナーヴォンに移す話さえあったほどだ。

1970年代の半ばに、グウィネズ州は旧WHRの線路用地の取得に乗り出した。線路用地の査定価格は州に対して旧WHR社が負う債務と相殺されるので、名目の金額だけで用地を取得できるはずだ、と州は主張した。しかし、これでは最高額の入札者に売却したことにならないと、管財人は売却を貫徹するための承認を法廷の裁定に求めた。

1980年代の初めには、州と64年会社が用地を共同管理し、カーナーヴォンから「ベズゲレルト Beddgelert とリード・ジー Rhyd Ddu の間の手ごろな地点」まで鉄道再建を段階的に進めるという計画案ができていた。そのために、州はとりあえず費用を支払って、旧WHRの廃止令を得るつもりだった。

しかしこれが、その後巻き起こった激しい意見対立の、まさに引き金となった。すなわち廃止令によって線路用地の法的保護がなくなれば、再建の対象にならなかった区間は、鉄道以外のフットパス(自然歩道)や道路の新設・改修に使われてしまうのではないか。64年会社の内部に、そうした懸念をもつグループ、いわゆる「全線派」がいた。彼らはあくまで全線再開を目標にするべきで、それにはフェスティニオグ鉄道のように、旧WHR社の過半数の株式を取得して線路用地の管理権を得なければならないと考えた。

全線派は、自前の資金で旧WHRの株式と債券を探し当てて、購入し始めた。1983年初めに取締役会で彼らが表明したこの方針は、他の取締役を大いに驚かせた。州との取引を推進するという従来の会社の方針に逆行するように見えたからだ。ともかくも4月の取締役会では、取得済みの株式と債券を所有する財団の設立が合意された。全線派は調査を続けてよいが、その結果は取締役会に定期的に報告することとされた。

ところがその後、全線派はさらに踏み込み、資金集めの発起書を刷って社員や一般会員に配布した。これは取締役会の決議内容を越えるものだったため、9月の取締役会は紛糾した。会社の方針に従わなかったとして、全線派は買い集めた株式と債券を無償で会社に引き渡すよう求められた。彼らが拒否すると、業を煮やした取締役会は、全線派の取締役辞任を勧告した。

内部騒動の間も64年会社は、州との交渉を継続していた。州議会の小委員会は1983年4月に、管財人からペン・ア・モイント~ポント・クロイソル Pont Croesor 間の用地を取得して、64年会社にリースするよう勧告することを決定した。1980年に開業した区間の延長に道筋をつけるものだった。会社は同年11月に臨時総会を開き、そこで州との取引を進めることが承認された。

片や全線派も活動を進めていた。線路用地の買収を目的にした「線路用地統合会社 Trackbed Consolidation Ltd(以下、TCL)」を密かに立ち上げて、管財人に用地売却を働きかけた。これはすぐに取締役会の知るところとなり、1983年12月に、TCLに関係している全線派社員5名に対する会員活動の停止が決議された。彼らは年次総会への出席すら拒まれたため、双方ともに深い遺恨を抱くもととなった。

全線派はTCLを使って、株式と社債の買収を進めた。社債の75%の所有者による賛成票が、旧WHR社の財政再建計画に同意を与える法律的要件だったからだ。64年会社には全線派のほかにも同様の考えを持つグループがあり、彼らは西部借款団 West Consortium の名で、1985年1月に国が保有していた社債を購入した。

TCLと新たな盟友となった西部借款団の確保した社債を合わせると、全体の65%に達した。残りは3つの地方自治体が所有していた。その一つ、ドゥイヴォル Dwyfor 郡(下注)は当初全線派の考えを支持しており、それを足せば78%になる見通しだった。ところが1986年1月に再招集された債権者会議で、ドゥイヴォル郡は州議会などの説得に応じ、反対側に立った。全線派のめざす財政再建の試みは、土壇場で中断を余儀なくされた。そして管財人は、引き続き土地を州に売却する意思を持ち続けたのだ。

*注 ドゥイヴォル郡は1974~1996年に存在した自治体で、ポースマドッグやベズゲレルトを郡域に含む。

フェスティニオグ鉄道の思惑

64年会社が州と組もうとしたのは、弱い資金力をカバーするため、建設に際して公的な財政支援を期待したからだ。一方、州政府にとってWHRは、あくまでカーナーヴォン周辺の観光開発のためのツールでしかない。ポースマドッグまで線路が延伸される見込みは薄く、使われなかった用地は処分されるか転用され、全線再開は永遠に不可能になるだろう。全線派はそう考えて、あくまで自力でWHRを復興させようと考えた。

管財人が所与の権限で用地を州政府に売り渡そうとしているのに対抗して、彼らは旧WHR社を再興することで、本来会社にある用地の所有権を掌握しようとした。64年会社と州政府、それと対立する全線派(TCL)や西部借款団、いずれもWHRの再開という目指す方向は一致しており、最終目標とそのために取るべき手段が異なっただけだ。

ところが、ここでもう一者、まったく別の思惑でこの問題に介入しようとした集団があった。フェスティニオグ鉄道(FR)だ。FRはすでに1982年に自社全線の再開を完了していたが、ジアスト Dduallt からの水没区間で迂回線を建設するために、資金の借入れを行っていた(下注)。そのうえ再開後の乗客数が伸び悩み、収益性に問題を抱えていた。

*注 揚水式発電所建設に伴う調整池の建設で、旧線が水没したため、復活にあたってはスパイラルを含む迂回線の建設が必要となった(本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照)。

そのようなFRにとって、64年会社と州政府が進めているWHR復活計画は、決して他人事ではなかった。というのも、同じポースマドッグの町から出る潜在的な競争相手は、州の財政支援を受け、沿線にブライナイ・フェスティニオグよりも魅力的な観光地ベズゲレルトを擁している。ポースマドッグからベズゲレルトまでは平坦なルートで、運行経費が安価なため運賃を低く設定することも可能だ。FRは、現在の利用者の半数近くがWHRに流れると見積もり、借金の返済計画にも影響が及ぶことを懸念した。

WHRの再建は阻止しなければならない。そのための最良の方法は、自らWHRの線路用地を取得することだと、FRは考えた。これは後に「買って封じる Buy to Shut」政策と呼ばれることになる。

1987年9~10月に、他のいかなる入札者にも勝る16,000ポンドの入札が匿名でなされた。しかし、管財人が州に売却する方針を曲げなかったため、この策は成功しなかった。そこでFRは1988年9月に、州への直接の説得を試みた。州政府に線路用地の入札を辞退することを勧め、代わりに自分たちが入札に成功したら、鉄道目的「以外」に使うという条件で州に用地を寄託する用意があると伝えたのだ。

1989年に64年会社と州は協力関係を再確認し、管財人から線路用地を購入するために高等裁判所で売却の認可を受ける準備を始めた。裁判所の尋問ではすべての利害関係者を宣言するので、匿名の入札者の正体も明らかにされることになる。

FRは先手を打って、州政府と再協議の機会を持った。そこでは態度を180度転換して、「自分たちは鉄道保存の事業者であり、維持発展が可能ないかなる鉄道の休止も求めない」ことを表明した。そして、FRが用地を取得して、64年会社にリースすると提案した。そこで州は、両者の話し合いによる解決を促すことにした。

1989年のクリスマスに両者の代表が会合を持ち、FRは入札者の正体を開示したうえで、自らの考えを話した。しかし64年会社は、先に州から1988年9月にFRと行った会合のメモを入手していた。WHRの再開を望んでいなかった会社が、わずか1年後に再建を手助けしたいと申し出ている。64年会社は、FRの動機を非常に怪しんだ。

すでにこのとき、64年会社はペン・ア・モイントからポント・クロイソルまでの延長計画に認可を得て、州と共同で軽便鉄道令の案を提出していた。会合の後、64年会社はこの件に干渉するFRを非難する声明を発表し、FRに入札から撤退するよう求めた。秘密の入札者の正体も、一般会員の知るところとなった。

このニュースはすぐに広まり、イギリスの鉄道保存団体に属する多くの人々に衝撃を与えた。FRは、64年会社の地主となって彼らを援助したかった、64年会社と州の協力関係のもとでは全線復元の機会が失われたはずだと弁明したが、世間は納得しなかった。鉄道専門誌も反発し、「これは保存の精神ではない」という論説を掲載した。FRの支援者さえも非難の声を上げた。

連携と逆転劇

このときまで別の方法で線路用地へのアクセスを試みていた全線派は、それが取得できれば64年会社にリースするか寄贈する意思を持っていた。しかし、64年会社の顧問弁護士は、1922年軽便鉄道令は再使用できないとアドバイスしていたため、同社は彼らとの協力を拒否し続けた。厳しい批判に晒されるFRと、交渉の糸口がつかめない全線派と西部借款団、ともに全線復活を目標にする三者が接近するのは当然のなりゆきだった。

全線派(TCL)と西部借款団は、FRが全線の開通と運行に最善の努力を払うことを条件に、集めた株式と債券をFRに引き渡すことで合意した。その受け皿として、子会社フェスティニオグ鉄道ホールディングズ有限会社 Festiniog Railway Holdings Ltd が設立された。

こうしてFRは、全線派たちが描いていた戦略を用いて、高等裁判所の聴聞で管財人の申請に異議を唱えることができる立場に立った。理事が交替したFRは、今や復元の当事者になろうとしており、膨大な資料作成のための資金も準備していた。

聴聞の場でFRは、旧WHRの財政再建を試みる時間を稼ぐために、州への売却時期の延期を申請した。しかし、裁判所は、旧WHRにもはや存命の取締役がおらず、会社はいわば瀕死の状態であるとして、認めなかった。64年会社の顧問弁護士が指摘していたとおりだった。FRの再建のケースでは、1946年の休止後まもなく保存運動が始まっており、取締役会の再招集が可能だったが、WHRには同じ手法が通用しなかったのだ。

裁判所はそのうえで、この問題の解決策は、両当事者のどちらかが1896年軽便鉄道法第24条にもとづき譲渡令を申請することであると裁定した。譲渡令を得れば、(管財人との間で)売却の合意が整った後、鉄道建設と運行の権限の譲渡を受けられる。裁判所は管財人の売却申請には裁定を下さず、譲渡令申請の時間を見込んで猶予を与えた。

両者はそれぞれ譲渡令を申請した。内容が競合するため、1993年11月に公聴会が開かれることになった。1988年9月のメモが証拠として提出されたこともあって、FRは本当に再建に取り組む気があるのかどうか、まだ疑念を抱かれていた。そこで公聴会の進行中にFRは、州政府との間で、譲渡令を得たら5年以内に工事を開始する、実行できなかったときは線路用地を州に明け渡すという趣旨の協定を結んで、自らの姿勢を明確にした。

しかし、独立検査官が調査の結果下した判断は、64年会社の申請を支持するというものだった。その理由として検査官は、州の関与によって高水準の公的支援が期待できること、64年会社がポースマドッグに既存設備を有していること、64年会社が目的をWHR再建に特化しているのに対し、FRは他にも多数のプロジェクトを手がけており、そちらが優先される可能性があること、商業組織であるFRより64年会社のほうが、再建に必要なボランティアの動員が容易であること、などを列挙した。

やはりFRの挑戦は無謀だったと、誰しも感じたことだろう。ところが公聴会を踏まえて1994年7月に運輸大臣ジョン・マグレガー John MacGregor が発表した報告書を読んだ人は、自分の目を疑った。決定内容が64年会社ではなく、FRの申請を是認していたからだ。

FRの構想には公共団体や公的支援が関係していないため、結果的に公的部門に対するリスクが削減されるというのが、付された理由だった。当時の保守党政府の政治観に適合する結論とはいえ、予想外の展開に対して、地元では激しい反発が巻き起こった。FRは国務大臣を買収したと非難された。最後の蹴りを入れられた形の64年会社は控訴を検討したが、それは成功の保証がない高価な選択肢だった。

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WHRの再建過程

対立を超えて

この後、FR財団は鉄道再建のための子会社を設立し、ついにカーナーヴォンを起点に再建のための工事が開始された。復活WHRの最初の区間となるカーナーヴォン~ディナス Dinas 間4.3kmは、1997年10月に開通した。

とはいえ、64年会社も大人しく引き下がったわけではない。FRに対抗して1996年に社名を「ウェルシュ・ハイランド鉄道有限会社 Welsh Highland Railway Ltd(名称が紛らわしいので以下、WHR(旧64年)社とする)」に変更し、「ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway」を名称登録した。自分たちがWHRの正当な後継者であると、会社はなおも主張していた。

区間開通に先立つ1997年3月に、FRはディナス以遠、ポースマドッグまでの工事令 Works Order(工事認可)を出願した。提案ルートに対するパブリックコメント(意見公募)で多数の反対意見が提出されたため、同年6月に公聴会が開かれた。

中でも焦点となったのは、ポースマドッグの町を通過する「クロス・タウン・リンク Cross Town Link」と呼ばれる区間だった。これには道路橋であるブリタニア橋の併用軌道が含まれており、ウェールズ政府道路局は、道路横断がハイストリート High Street(本通り)に交通渋滞をもたらすと異議を申し立てた(下注)。

*注 これは、町を迂回する道路バイパスの開通(2011年)によって最終的に解決が図られた。

WHR(旧64年)社も、反対意見を提出した。提案ルートの一部に自社所有地が含まれており、工事令が出れば強制的に買上げられてしまうからだ。

WHR(旧64年)社は、新路線を自社のペン・ア・モイント駅に接続させるという反対提案も用意していた。上述のように同社は1980年からペン・ア・モイント~ポースマドッグ間で保存列車を走らせており、ポースマドッグの駅は、FRのハーバー駅とは町をはさんで反対側、国鉄駅の向かいにある。このルートを使えばクロス・タウン・リンクが不要になって、本通りが渋滞する心配がない。両駅間を行き来する人が増えて、町の商店街への経済的効果も期待できるだろう。

しかし、FRにとればこの提案は、新路線と既存FR線を連絡させる機会が失われることを意味する。また、WHR(旧64年)社が南端区間の所有者になることで、通行保証のための協議が必要になり、両者間で争いが起これば通行妨害が起きるかもしれない。FRは、何とかしてWHR(旧64年)社が反対意見を撤回するよう説得すべきだと考えた。1997年8月に両者は交渉のテーブルについたが、9月後半に早くも決裂する。しかし公聴会が迫ってきたため、11月に交渉が再開され、ついに基本合意に達した。

合意内容は次のようなものだった。WHR(旧64年)社は、クロス・タウン・リンクに対する反対意見を取り下げる。その代わりにWHR(旧64年)社は、(新線と重なる)自社所有地のペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間で路線を建設できるものとし、FRもそれを全面支援する。つまり、FRは北から線路を延ばし、WHR(旧64年)社は南から線路を延ばす。合流地点をポント・クロイソルとするということだ。

加えて、北から来る新線の先端がポント・クロイソルに到達するまで、WHR(旧64年)社がペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間を自社で運行できる。また、WHR(旧64年)社の列車に対して新線全線の通行権を保証するとされた。

11月30日に取り交わされた覚書に基づき、1998年1月12日に協定が成立した。このいわゆる「1998年協定 The 1998 Agreement」で、新路線の北側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(カーナーヴォン)Welsh Highland Railway (Caernarfon)」、南側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(ポースマドッグ)Welsh Highland Railway (Porthmadog)」の名称で区別することも取り決められた。

その後、北側では、2000年8月にディナスからワインヴァウル Waunfawr まで、2003年にリード・ジー Rhyd Ddu まで線路が完成した。南側は、2006年にペン・ア・モイントからトライス・マウル Traeth Mawr の暫定ループ(信号所)まで700mが延長され、列車も走ったが、WHR(旧64年)社にはそれ以上延長工事を進める資金がなかった。

結局、北から来た線路は2010年4月にポント・クロイソルに到達し、WHR(旧64年)社が造れなかった区間を含めて、FRの手でポースマドッグまでの全線が建設され、2011年4月20日に晴れて開通の日を迎えた。それと同時に、1998年協定に従ってWHR(旧64年)社のトライス・マウルへの延長運転は中止され、ペン・ア・モイントで折り返す運行に戻った。名称も「ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR)」に変更されて今に至る。対立していたWHR(旧64年)社とFRの関係も、その後、共同行事の開催などを通じて、はるかに誠意のあるものに変わってきているという。

★本ブログ内の関連記事
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 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III
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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

 マン島の鉄道を訪ねて-序章

2017年3月12日 (日)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった
(中)1860年代に標準軌各線やクロイソル軌道 Croesor Tramway が開通
(右)1880年代にWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways が開通
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(左)1900年代に南北を連絡する PBSSR の工事が始まるも中断
(中)1920年代に旧WHRが全通
(右)1940年代までに旧WHR、フェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway とも休止
作図に当たっては、M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" Second Edition, Ian Allan Publishing, 2006 およびWikipedia英語版各鉄道の項を参照した。

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置
1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。

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ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置
1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆

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S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台(上図中央左の unused abutments)
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台(上図中央右の unused abutments)
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。

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ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係
1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通
(右)2011年に新WHRが全通

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2017年3月 4日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II

まるで難読地名のようなリード・ジー Rhyd Ddu(下注)は、ウェールズ語で黒い浅瀬を意味するそうだ。前身であるノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways の最終到達点であり、今のウェルシュ・ハイランド鉄道(以下、WHR)でも2003~09年の間、終着駅だった。

*注 日本語では「ジー」になってしまうが、Ddu の発音は [ðíː]。

現行ダイヤでは主としてここで列車交換が行われ、スノードン山頂をめざす登山客や、折返し乗車または観光バスに乗継ぐツアー客が乗降する。駅の周りは、旧駅跡を転用した駐車場と、下手の道端にB&Bが数軒あるだけの寂しい場所だが、列車が着くときだけ活気が蘇る。この列車からも、雨のホームに何人か降り立った。

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雨のリード・ジー駅で列車交換

右手は、線路と並行する道路の向こうに、スリン・ア・ガデル Llyn-y-Gader の水面と、青草が覆う茫漠とした湿地が広がっている。にわかに信じがたいが、この平たい土地がルート上のサミットだ。線路が右カーブして道路の下をくぐるとすぐ、線路の右脇に標高650フィート(198m)のサミットを示す標識が立っている(実物は見損ねたが)。ピッツ・ヘッド・サミット Pitt's Head Summit という名は、畑の中に鎮座している大岩が、19世紀初めのイギリスの首相の横顔に似ているからだそうだ。

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

分水界を越えると、長い下り坂になる。それも1:40(25‰)の勾配が6kmほど続く、ポースマドッグ方から来る機関車にとっては苦難の坂道だ。この急勾配でも直登はできず、高度を稼ぐために、途中に半径60mのS字ループ S-bend を2か所挟んでいる。

上のループは通称「ウェイルグロズ(牧草地)ループ Weirglodd S-bend」、下のループは「クーム・クロッホ(鐘谷)ループ Cwm Cloch S-bend」で、その中間に、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest(国有林)のキャンプ場最寄りとなるメイリオネン Meillionen の停留所がある。興味深い線形なので車窓を注目していたが、残念ながら、森の中を走るためにあまり視界がきかない。下のループのくびれの部分で、かろうじて後で通る線路を見つけることができた。

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(左)森のキャンプ場最寄りのメイリオネン停留所を通過
(右)下のループでは、後で通る線路が見えた

14時30分、ベズゲレルト Beddgelert で途中下車した。駅は、長坂を降り切る手前に位置する。カーブした島式ホームで、坂を上る機関車のために、給水設備も用意されている。美しいことで知られる村の玄関口だが、駅へのアクセスはフットパスと車椅子用の迂回路のみだ。村から行く場合、表通り(A498号線)の観光案内所前にあるバス停が目印になる。脇道の奥に駐車場があり、その一角の木柵を開けて小道を上ると、突然線路とホームが現れる。

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(左)ベズゲレルトで途中下車 (右)先を急ぐ列車を見送る
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村から駅へのアプローチ
(左)駐車場の一角にある木柵を開ける (右)未舗装の小道を上ると駅が現れる

なぜこれほど目立たないのだろうか。資料によると、リード・ジーから保存鉄道の延伸が計画されたとき、村民が駅の開設に強く反対したのが原因らしい。曰く、駅が大きくて風景を侵害する、居住地に近すぎる、村へ入る道路の交通量が増加する…。どうやら、鉄道によって静かな村に喧噪が持ち込まれることを懸念したようだ。スノードニア国立公園局も同調して、リード・ジーを除き国立公園内に暫定終点を置かないことを、建設の許可条件に盛り込んだ。そのため、2009年4月に駅が開業したものの、小さな待合所が置かれただけで、本格的な旅客用施設は未整備のままとなった。

しかし実際のところ、1日の列車が最大3往復では、目くじらを立てるような騒音被害は起こりそうにない。反対していた住民も肩透かしを食らった気分だろう。それどころか鉄道は、新たな効果をもたらした。鉄道が通じていなければ私たちは村を知らなかったし、この駅で下車した人は、他にも10人は下らなかったから。

幸運なことに、あれほど辺りを煙らせていた雨が、ここへ来て上がり、雲に覆われた空も明るさを取り戻しつつある。先を急ぐ列車を見送って、村に通じる小道を下りた。表通りに出ると、左手が灰茶色の石造りの家の建ち並ぶ村の中心部だ。歩いていくと、まもなくコルウィン川 Afon Colwyn に行き当たった。水音を立てながら流れ下る川を、古びた石橋が2連のアーチでまたいでいる。橋と、たもとに建つ宿屋との取り合わせは、素朴ながら凛とした雰囲気で人目を惹いた。

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コルウィン川の石橋と、たもとに建つ宿屋

橋のすぐ先でコルウィン川は、東から来るグラスリン川 Afon Glaslyn に合流する。家内たちが土産物屋を巡っている間に、私は通りから逸れて、川沿いの牧草地にある伝説の猟犬ゲレルトの墓(下注)を訪ねた。それから下流の鉄橋のところまで行き、谷を遡ってくる列車をカメラに収めた。村に戻った後は、ポースマドッグ行きの発車時刻までゆっくりティータイムを楽しむことができた。

*注 墓碑銘によると、ゲレルトの墓(ウェールズ語でベズ・ゲレルトBedd Gelert)にまつわる伝説は次のとおり。ゲレルトは、村に邸のあるスラウェリン王子の忠実な猟犬だった。ある日、留守から戻った王子は息子がいないことに狼狽する。ゲレルトも息子のベッドも血だらけなのを見て、彼は剣でゲレルトを手に掛けてしまう。そのとき息子の声がして、近くに狼の死骸を発見した彼は、自分が誤解していたことに気づく。王子はゲレルトをこの場所に葬り、その後二度と笑顔を見せることはなかった…。なお、この塚墓は伝説に則って18世紀後半に作られたものだそうだ。

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(左)グラスリン川沿いの散歩道 (右)村のセント・マリー教会
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猟犬ゲレルトの墓 (左)墓は突き当たりの独立樹の根元に (右)墓碑銘
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グラスリン川を渡るカーナーヴォン行き列車

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ベズゲレルト~ポースマドッグ・ハーバー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図116 Dolgellau 1953年版 に加筆

17時10分、ベズゲレルト駅から再びWHRの客となる。雨に襲われる心配がなくなったので、オープン客車に席を取った。短いゴートトンネル Goat Tunnel を抜けると、さっきロケを張った鉄橋を渡って、グラスリン川左岸に位置を移す。そこから約1kmの間はアベルグラスリン渓谷 Pass of Aberglaslyn で、沿線で唯一の瑞々しい渓谷風景が見られる。行く手を塞ぐように谷はどんどん深まっていき、列車は短いトンネル2本でしのいだ後、路線最長のアベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel(長さ 280m)で谷の最狭部をバイパスする。

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再びWHRの客に (左)グラスリン川に沿って下る (右)アベルグラスリン渓谷を縫う

闇を抜けると同時に、景色はがらりと変化する。ナントモル Nantmor の停留所を見送った後は、農地と湿地が混在する干拓地トライス・マウル Traeth Mawr の真っ只中に出ていく。右に90度向きを変えた地点が、旧クロイソル・ジャンクション Croesor Junction で、近傍のスレート鉱山へ向かうクロイソル軌道 Croesor Tramway との分岐点だったところだ。

軌道跡は線形がよく、わが機関車は帰りを急ぐかのように速度を上げる。羊の姿を隠すほど背丈の高い草の牧場をかすめていき、地方道と一緒に川幅が広がったグラスリン川を渡る。小さな待合室がぽつんとあるだけのポント・クロイソル Pont Croesor 停留所には停まらなかった。

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(左)クロイソル・ジャンクションへの90度カーブ (右)背丈の高い草が生える牧場
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(左)川幅が広がったグラスリン川を渡る (右)ポント・クロイソル停留所を通過

右の車窓に注目していると、側線が分岐し、並行するホームと複数の線路が現れた。ペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction / Cyffordd Pen-y-Mount だ。ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway(以下 WHHR)の走行線の終点になっている。

WHHRというのは、WHRやその運営者であるフェスティニオグ鉄道とは別の組織が運営する小さな保存鉄道だ。カンブリア線のポースマドッグ駅近くの拠点駅からここまで、約800m(下注1)の路線を有している。WHR側にはホームはなく、この列車も知らん顔で通過してしまうが、よく似た鉄道名や接近する線路を見れば、2つの鉄道が無関係でないことは誰でもわかる。実際、両者の間には、何十年にも及ぶ関わり、というより穏やかならぬ因縁がある(下注2)。

*注1 路線長は公称1マイル(1.6km)だが、実測では800m弱しかない。
*注2 この経緯は、「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV」で詳述している。

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ペン・ア・モイント ジャンクション
(左)側線(閉鎖中)が分岐する (右)看板の裏にWHHRのホームと線路
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WHHR(茶色破線)とWHR(右上から降りてくる破線)、カンブリア線(左右に走る破線)の位置関係

辺りが人里めいてきた。主要道のバイパスの下をくぐると、WHHRの「本線」は右へ緩いカーブを切って離れていくが、車庫や博物館のある雑然とした区画がまだ並行する。と突然、ガタガタと線路を渡る衝撃が襲った。標準軌のカンブリア線を横断するカイ・パウブ クロッシング Cae Pawb Crossing(下注)だ。

*注 かつては単にカンブリアン クロッシング Cambrian Crossing と呼ばれていた。

線路同士が平面で交差するのは珍しい。なかでも異軌間のそれは、国内でもここにしかない。歴史的には、クロイソル軌道のほうが開通時期が早く、標準軌線は遅れて敷かれている。なぜ立体交差にしなかったのか。想像するに、それまで軌道が運ぶスレート貨物は、ポースマドッグ港で船に積み込まれていた。しかし、標準軌線が開通すれば、貨物輸送はそちらに移行して(下注)、港線の往来は激減するだろう。それなら立体交差に費用をかけるまでもないという判断だったのではないか。最終的には港線ばかりか軌道全線が廃止されてしまったが、保存鉄道化に際して、昔のとおりに平面交差が復元された。

*注 先述のペン・ア・モイント ジャンクションはそのための積替え駅で、WHHRが使う1.6kmの路線は、元来ジャンクションへ通じる貨物側線(ベズゲレルト サイディング Beddgelert Siding)だった。

■参考サイト
Phase 4 - Completing the Welsh Highland Railway - Cae Pawb: The Cambrian Crossing
http://www.whrsoc.org.uk/WHRProject/phase4/cambrian.htm
カイ・パウブ クロッシングの再建過程を写真入りで詳細に紹介しているウェルシュ・ハイランド鉄道協会(愛好団体)のサイト

狭軌の旅のフィナーレは、ポースマドッグの市街地のへりを行く区間だ。計画時点では、ポースマドッグ・クロスタウンリンク Porthmadog cross town link と呼ばれた。旧線跡が商業施設に転用されてしまったため、ルートはその駐車場の東側に新設されている。カーブの多い線路をゆるゆると走った後、列車は一旦停止した。前方から警報機の唸る音が聞こえてくる。

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ポースマドッグ・クロスタウンリンク
(左)製粉工場スノードン・ミルの廃墟をかすめる
(右)駐車場の外側に新設された線路(いずれも別の日に撮影)

この先は、ポースマドッグ港に面するブリタニア橋 Britania Bridge という道路橋で、併用軌道になっている。信号で道路交通が遮断されると、列車は動き出し、橋上の道路に急カーブで進入する。ポースマドッグのハイ・ストリート High Street に、大柄なガーラット式機関車がゆっくりと割り込んでいくこのイベントは、今や町の名物の一つといっていい。列車はそのままポースマドッグ・ハーバー駅前をすり抜けて、新設された2番線へ滑り込む。時計を見ると17時50分、定刻の到着だった。

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ブリタニア橋の併用軌道へ急カーブで進入
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ブリタニア橋を一時占有する列車
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(左)列車通過の間、道路交通は完全遮断(別の日に撮影)
(右)ポースマドッグ・ハーバー駅新2番線に到着

カーナーヴォンからポースマドッグまで直通列車の走行を実現したWHRだが、長い路線の成立までには紆余曲折があった。次回はその経緯を追ってみたい。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト)
http://www.whrsoc.org.uk/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
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2017年2月25日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I

カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間 39.7km
軌間 1フィート11インチ半(597mm)
開業 1922年、休止 1936年(旅客)1937年(貨物)、保存鉄道開業 1997~2011年

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カーナーヴォン城の塔屋から東望
WHRカーナーヴォン駅は中央左寄り、市街擁壁と二車線道路の間にある。右はセイオント川

ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)の起点駅は、カーナーヴォン城の高い城壁の上からよく見える。北ウェールズをめぐる最終日は、メナイ海峡を扼する要衝カーナーヴォン Caernarfon(下注)まで足を延ばし、狭軌保存鉄道でポースマドッグへ戻るという旅程を立てた。昨晩から雨が続いている。朝もけっこうな降り方で、ホテルの斜め向かいにあるバス停へ行くのに、ウィンドブレーカーのフードではしのげず、傘を必要とした。路線バス1系統で野や丘を越えて、カーナーヴォンまでは45分ほどだ。

*注 カーナーヴォンはかつて Carnarvon と綴ったが、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。ウェールズ語の発音はカイルナルヴォン(ルは巻き舌)。

到着したバス停から南へ少し歩けば、カッスル・スクエア Castle Square という広場に出る。目の前にそびえるカーナーヴォン城は、コンウィ Conwy やボーマリス Beaumaris、ハーレフ Harlech の古城とともに、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服のために築いた要塞だ。4か所まとめて世界遺産に登録されている。中でもここは首都の居城で、敷地の広さは先日行ったコンウィ城のざっと2倍はあるだろうか。高塔の数も多くて立派だ。

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(左)カーナーヴォンのバスターミナル (右)カッスル・スクエア、右奥に城が見える
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メナイ海峡を扼する要衝の地カーナーヴォン城を東の塔から西望
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中庭の円壇でチャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズ戴冠式が行われた
右写真は当時の様子を伝えるパネル

城の見学を終えて、WHRの駅に通じる坂を下った。市街地を載せる段丘の下、セイオント川 Afon Seiont 沿いの低地の一角に、現在の駅はある。線路はプラットホームに接した本線と機回し線の2本きりで、出札兼売店のある建物も簡素な平屋のプレハブ仕立てだ。敷地に余裕がないので、運行基地はここではなく、途中のディナス Dinas に置かれている。

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WHRカーナーヴォン駅
(左)折返し運転に備えて機回しの最中 (右)線路2本きりの狭い構内

混まないうちにと、ポースマドッグまでの片道乗車券を買い求めた。途中のベズゲレルトに寄り道するつもりだが、同一日、同一方向なら途中下車は自由だと聞いた。正規運賃が大人25.60ポンドのところ、エクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass を見せたので半額になる。大人が同伴する15歳までの子ども1人はもともと無料だから、結果的に大人1人の正規運賃で家族4人が乗れるわけだ。しかし、あまり安いのも、なんだか悪いような気がする。

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WHRの片道乗車券

ちょうど折り返しとなる列車が到着したばかりで、降りた客が城や旧市街のほうへぞろぞろと移動するのが見える。駅の目の前に観光名所があるというのは、確かに大きなアドバンテージだ。しかし、WHRの魅力はそれにとどまらない。

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跨線橋から城の方角を望む。手前の赤茶色の建物が出札兼売店

カモメが飛び交うこの場所から、列車は内陸に入っていく。初めは牧場や林が現れては消え、中盤では、スノードニア国立公園の壮大な山岳風景が展開する。波静かな湖、清流の渓谷、天気がよければウェールズ最高峰スノードン山の雄姿も眺められる。後半は、農地が広がる沖積低地を走って、再び港の前に出る。景色はすこぶる変化に富んでいて、イギリス屈指の絶景路線といっても決して過言ではないのだ。

とはいえ、全線を乗り通すとなると、最速便でも2時間5分かかる。熱心な鉄道ファンでない限り、日帰りの往復乗車には少なからず忍耐が要求されよう。列車交換のある峠の駅リード・ジー Rhyd Ddu で折返すか、全線を走破するにしても、私たちのように片道は路線バスに任せるのが現実的だと思う(下注)。

*注 路線バス1系統はWHRのルートではなく、A487号線(旧国鉄アヴォンウェン線 Afonwen Line 沿い)を通るから、リード・ジーやベズゲレルトは経由しない。

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ウェルシュ・ハイランド鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

WHRの運行期間は2016年の場合、2月中旬から11月末の間だ。残念ながら列車本数は少なく、中間期は1日2往復、夏のピークシーズンでも3往復しかない。当初の運行計画は1時間間隔だったし、手元にある2007年の時刻表(当時はリード・ジーまでの部分開業)でも、繁忙期5往復、最繁忙期には6往復の設定がある。どうやらその後、大幅な見直しがかけられたようだ。思うように利用者が増えなかったのだろうか。本日のカーナーヴォン発は10時、13時、15時45分。私たちは13時発に乗るつもりだ。

ホームでは、その列車が折り返しの発車を待っている。牽引する蒸気機関車は、クリムソンレーキ(深紅色)をまとう1958年製の138号機。南アフリカで働いた後、WHRにやってきた。ボイラー部分が2つの台車にまたがって載る、ガーラット Garratt と呼ばれる連接式機関車だ。急曲線や勾配区間に適応しているので、線形の厳しいこの路線で第二の人生を送っていて、同僚機も数両在籍する。

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ガーラット式機関車138号機

客車は8両編成だが、さまざまな形式が混結されている。窓のないオープン形も1両挟まっているが、雨が吹き込んで、もはやシートはびしょ濡れだ。私たちはガラス窓のある3等車両に席を取った。貫通路をはさんで、2人掛けと1人掛けのボックス席が並ぶ。座席のモケットにはWHRとFR(フェスティニオグ鉄道)の図柄が織り込まれ、テーブルにも両線の略図が描かれている。2本の鉄道は今、一つの会社のもとで、姉妹鉄道のように運営されているのだ。

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(左)客車内。座席のモケットにはWHRとFRの図柄
(右)座席テーブルの路線図もWHRとFRを関連図示

あいにくの天気のせいか、乗客数はそれほど多くない。この車両も空席だらけだったが、発車間際に団体客がぞろぞろと入ってきて、急に賑やかになった。残念ながら窓は固定式で、撮影には向かない。結局、皮のベルトで窓の開閉を調節できるデッキドアの前にいる時間のほうが長かった。

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カーナーヴォン~スノードン・レーンジャー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 115 Pwllheli, 107 Snowdon いずれも1959年版 に加筆

カーナーヴォンを発車すると、初め、セイオント川の蛇行する谷に沿った後、鉄橋で対岸に渡る。それからしばらく、緑の牧場の中を行く。線路の右側(海側)をローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway(全国自転車道 National Cycle Route 8号線の一部)が並走している。それに気を取られて、途中のボントネウィズ停留所 Bontnewydd Halt の通過には、まったく気がつかなかった。リクエストストップなので、乗降客がいなければ停まらない。

約10分走り続けて、ディナスに着いた。かつてディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれた駅だ。狭軌線(下注)が運んできたスレート貨物を標準軌貨車に積替えていたので、構内は十分な広さを持っている。そこを買われて、駅は、カーナーヴォンの代わりに、保存鉄道の北の拠点に位置づけられた。機関庫や整備工場が整備され、側線は保存車両や工事車両のねぐらになった。ホームの端には石造りの小さな駅舎も見えるが、これは当時から残る建物を修復したのだという。

*注 商業鉄道時代のWHR、およびその前身のノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways。なお、現WHRのカーナーヴォン~ディナス間は標準軌の旧国鉄線だった。

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ディナス駅 (左)側線には工事用車両が留置 (右)ホーム先端の建物は復元駅舎
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ディナス駅の機関庫の前を通過

駅を出ると、列車は左に大きくカーブして、山手へと進んでいく。牛たちが寝そべる牧場があるかと思えば、こんもりとした森を境に、野の花が咲き乱れる草原が現れる。通過したトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction は、その名が示すように、旧線時代はブリングウィン Bryngwyn 支線を分岐していた。モイル・トラヴァン Moel Tryfan のスレート鉱山へ通じる路線で、今もパブリック・フットパスとして跡をたどれる。

左車窓に、グウィルヴァイ川 Afon Gwyrfai の流れが顔を見せるようになる。この後、峠までこの川が旅の友になるだろう。次のワインヴァウル Waunfawr 駅は、森に囲まれたひと気のない場所だが、跨線橋が架かる広い島式ホームで、機関車の給水タンクもある。保存鉄道の延伸過程で、2000~03年の間、列車の終点になっていた名残に違いない。しかし、この列車を乗り降りする人は一人もいなかった。

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(左)牧場で牛たちが寝そべる (右)付かず離れず流れるグウィルヴァイ川
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跨線橋の架かるワインヴァウル駅

川を何度か渡るうちに山が近づいてくるが、雨がひとしきり強くなり、降りてきた雲で稜線は隠されたままだ。プラース・ア・ナント Plas-y-Nant 停留所の手前では、谷が急に狭まってくる。川は早瀬に変わり、列車は急カーブに車輪をきしませながら、ゆるゆると通過した。

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プラース・ア・ナントの手前でいったん谷が狭まる

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

やがて右手にクエリン湖 Llyn Cwellyn の広い水面が広がって、乗客の目を奪う。水位安定のために人工の堰が造られているが、湖の出自は、氷河の置き土産であるモレーン(堆石)で堰き止められた、いわゆる氷河湖だ。浅いように見えても、水深は120フィート(37m)ある。線路は少しずつ坂を上っていくので、車窓から湖を俯瞰する形になるのがいい。

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(左)クエリン湖が見えてくる (右)霧雨に煙る牧場と湖面

湖面の際まで続く斜面の牧草地で、羊たちが草を食んでいるのが見える。のどかな景色を楽しみたいところだが、降りしきる雨のせいで湖面すら霞んできた。天気が良ければ進行方向にスノードン山頂が見えるのに、今はまったく霧の中だ。登山口の一つになっているスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger の停留所もあっけなく通り過ぎた。

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(左)クエリン湖が遠ざかる (右)スノードン山腹を流れ落ちるトレウェイニズ川 Afon Treweunydd

クエリン湖が次第に後方へ遠ざかる。列車は、山から下りてくる急流をカーブした石橋でまたぎ、なおも、岩が露出するスノードンの西斜面で高度を上げていく。山襞に沿って急曲線が連続するので、前を行く機関車もよく見える。クエリン湖は白く煙って谷を覆う霧とほとんど見分けがつかないが、間もなく見納めだ。ひときわ大きな岩山を左へ回り込んでいくとリード・ジー、全線のほぼ中間地点に到着する。

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スノードン山の西斜面で高度を上げていく
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(左)リード・ジー駅に到着 (右)待合室と機関車の給水施設
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雨の中、カーナーヴォン行き列車と交換

旅の続きは次回に。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト) http://www.whrsoc.org.uk/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 スノードン登山鉄道 I-歴史
 スノードン登山鉄道 II-クログウィン乗車記

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