2018年11月30日 (金)

ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル

延長438m(及び中間部待避線70m)、高度差83m、軌間1000mm
ウォーターバラスト方式で運行、リッゲンバッハ式ラックレールをブレーキに使用
最急勾配260‰、平均勾配195‰
1888年開通

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高架橋を上るネロベルク鉄道のケーブルカー

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ドイツ中西部ヘッセン州の州都ヴィースバーデン Wiesbaden は、ローマ時代から続く典雅な温泉保養都市だ。その市街の北郊に、長さ500m足らずのささやかな鋼索鉄道(ケーブルカー)がある。

上る山の名から「ネロベルク鉄道 Nerobergbahn」と呼ばれるこの路線は、ウォーターバラスト(水の重り)を積み、重力を利用して動く古典ケーブルだ。電気での運行制御が可能になる以前、どこのケーブルカーもこうした素朴な仕掛けで坂を上り下りしていた。しかし、今やドイツではここにしか残っておらず、19世紀の先進技術を伝える貴重な存在になっている。

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ヴィースバーデン市街周辺の1:50,000地形図に加筆
(L5914 Wiesbaden 1990年版)
© Hessisches Landesamt für Bodenmanagement und Geoinformation, 2018

5月の晴れた日の朝、ヴィースバーデン中央駅前のB乗り場から、1系統ネロタール Nerotal 行きのバスに乗った。この系統は終点がケーブルカーの駅前なので、土地不案内な者にはありがたい。中心街を経由した後、バスは、緑の中に石造りの瀟洒なヴィラが列をなす静かな通りを進み、ロータリーを回って停まった。

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(左)ヴィースバーデン中央駅
(右)市内バス1系統の終点、ネロタール停留所が鉄道の最寄り

目の前に、ネロタールをまたぐケーブルカーの高架橋が架かっている。長さ97.3m、5個のアーチを連ねたルネサンス風の優美な造りで、鉄道のもつ雰囲気によく似合う。高架橋が降りていく先に、山麓駅の駅舎があった。高架橋と同じ煉瓦素材を使い、木組みの装飾を施した、小ぶりながら趣のある建物だ。

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(左)山麓駅の入口 (右)駅舎は小ぶりながら趣のある建物

鉄道は夏のシーズン中(4月~10月)、毎日9時から20時まで15分おきに運行している(下注1)。バスと同じく、市が出資するESWE交通(下注2)の路線だが、市内の運賃ゾーンには含まれない。窓口で乗車券(大人片道4ユーロ、往復5ユーロ)とともに、絵葉書や解説書を買い込んで、ホームに出た。まだ朝早いので、客は私一人だ。

*注1 冬季(11月~3月)は、需要が少なく、水が凍結する可能性もあるため、全面運休になる。
*注2 ESWE(エスヴェー、SWと同じ発音)の名は、Stadt Wiesbaden(ヴィースバーデン市)の頭文字を採ったもの。

切妻屋根の下、鮮やかな黄色の地に青で模様を描いた車両が据え付けられている。片側4扉、内部はコンパートメントで、木製ベンチが枕木方向に並ぶ。車端のデッキにも乗車できるが、収容人数は全部で上り(山上方向)40名、下り50名限りで、定員を満たした時点で、次の便を待たなければならない。

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山麓駅ホームで客待ちする古典車両
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(左)山側の車端デッキは広め (右)内部は木製ベンチのコンパートメント

上限が定められているのは、駆動機構に関係がある。実際、ウォーターバラスト方式とは、どのようなものだろうか。

2台の車両はちょうど井戸の釣瓶のように、山上駅にある固定滑車を介してケーブルで接続されている。車両の床下、車軸と車軸の間に水タンクが備わっている。運行にあたって、山上駅にいる車両のタンクに水を注ぎ、山麓駅の車両からは水を抜く。この状態でブレーキを解除すると、質量差から重力が作用し、山上駅の車両は勾配線路を下り始める。同時に、ケーブルでつながれた山麓駅の車両は引き上げられる。これが基本的な原理だ。

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鉄道の模式図、左上には焼失して現存しない山上ホテルも
これは駅舎の案内板を撮影したものだが、原図は山麓駅の鉄道博物館(後述)に展示

しかし、実際の運行では様々な条件が加わる。たとえば、必要なバラスト水は、車両とケーブルの自重に加えて、乗客数にも依存するので、山麓駅からも人数の報告を受けて、山上駅で注入する水量を毎回調節しなければならない。タンクの容量は7立方m(7キロリットル)あり、側面の水位計に、80リットルを1単位(1人分)と換算して目盛りが刻んである。

また、線路勾配は一定ではないし、走るにつれて滑車から車両までのケーブルの長さ、すなわち自重も変化していく。それで、許容速度を超過しないよう、適切なブレーキ操作が要求される。2本の走行レールの中間に、梯子状のリッゲンバッハ式ラックレール(歯竿)が設置されているのはそのためで、車両の前後の車軸に取り付けられたピニオン(歯車)がこれと常に噛み合っている。

デッキに立つ乗務員(制動手)がハンドブレーキを操作すると、下側のピニオンに軸ブレーキがかかる。さらに速度が3割超過した場合、上側のピニオンが遠心ブレーキでブロックされる。ケーブルに緩みや断裂が発生したときも、これが作用して確実に停止できる仕組みになっている。

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ハンドブレーキで速度を調節しながら下る

19世紀の作りとはいえ、水の重りで動く鉄道は、理想的なエコシステムだ。しかし実際に山上で、15分ごとに最大7キロリットルの水を確保するのは容易ではない。それで、山麓駅に到着した車両から排出された水は、電気ポンプで山上駅の貯水槽に戻され、再利用されており、そこだけは電力に頼らざるを得ない。ちなみに、1916年までは蒸気機関でポンプを動かしていたので、古い写真では、高架橋のたもとに、そのための高い煙突が写っている。

1888年の開通以来、ネロベルク鉄道はこのスタイルで130年を生き永らえてきた(下注)。その間に、同じ方式を採用していた他の鉄道は、大半が電気駆動に転換された。確かに水の調達は安価だが、反面、冬季は凍結するため運行が困難で、注水・排水にかかる時間や水量調節の手間を考えると頻繁運転には向いていない。さらに、水を積むことで軸重(車軸にかかる重量)が重くなり、軌道が傷みやすく保守費用がかかる点も不利だった。

*注 ウォーターバラスト方式で、ブレーキにリッゲンバッハ式ラックレールを使う鋼索鉄道の先駆けは、スイス、ブリエンツ湖畔にあるギースバッハ鉄道 Giessbachbahn(1879年開通、1948年電気に転換)とされる。ドイツでは、バート・エムス Bad Ems のマールベルク鉄道 Malbergbahn(1886年開通、1979年廃止)が最も早い。

実際にネロベルク鉄道でも、公営化された後の1939年に、市が大型車両の導入に合わせて電気運転への転換工事を発注している。ところが、折悪しく第二次世界大戦が勃発し、作業は中断された。戦後は逆に希少性が評価されて、積極的な保存策が講じられてきた。老朽化した車両や施設の更新が、原形を尊重しながら行われ、1988年には州の工学文化財にも認定されている。

さて、話を山麓駅のホームに戻そう。結局、他に客は現れなかった。乗務員氏がトランシーバーで山上駅と連絡をとり、9時15分、ケーブルカーは静かにホームを離れた。まずは、会社のシンボルカラーである青と橙の旗がはためく高架橋区間だ。渡り終えると、周りは森に包まれ、勾配も険しくなる。

改めて観察すると、走行レールは3本しかない。中央のレールは、上下車両が共用しているのだ。と思う間もなく、中央レールが二手に分かれ、中間部の行き違い区間に入った。下っていく車両を見送ると、進行方向右側の視界が急に開け、生垣越しにヴィースバーデン市街が望める。しかし、すぐにまた森が復活し、そのまま山上駅のホームに到着した。乗車時間はわずか3分半だ。

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(左)高架橋を渡る。走行レール3本の間にラックレールが並ぶ
(右)中間部で山麓行きと行き違い
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生垣越しにヴィースバーデン市街の眺望
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(左)森の中の山上駅 (右)山上駅入口、右の道を行けば歩いて麓へ降りられる

すかさず始まった注水の音を聞きながら、駅を後にした。石畳道が、芝生の広がる山上公園 Bergpark に通じている。ここにはかつて、1881年築の立派なホテルがあったのだが、1986年に火災で損壊してしまった。中央にあった塔の煉瓦部分のみが保存され、現在ガーデンレストランに使用されている。一方、古典庭園の点景に使われるような古代様式のモノプテロス Monopteros(下注)も目を引く。周りの木々が大きくなかった頃は、麓からの目印だったのだろう。

*注 モノプテロスは、壁がなく、巡らせた列柱で天井を支える構造の神殿建築。円形神殿。

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山上公園 (左)旧 ホテルの塔を利用したガーデンレストラン (右)モノプテロス

ところで、ネロベルクの名を聞くと、ローマ期に遡る町の歴史からの連想で、つい皇帝ネロ Nero を想像してしまう。だが、実際には何の関係もないそうだ。16世紀の古文書に、(町の)後ろの山という意味で Ersberg、Mersberg の地名が記されており、それが、Nersberg、Neroberg と転訛したに過ぎないという。

モノプテロスから見える森の切れ間を少し下ると、レーヴェンテラッセ Löwenterrasse(ライオンテラスの意)に出る。名のとおり、2基のライオン像が睨みを利かせる展望台だ。ここからは、斜面を駆け降りる葡萄畑と、その先に、緑の多い北東部の高級住宅地やヴィースバーデンの中心街が一望になる。

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展望台レーヴェンテラッセ

眺めを楽しんだら、後は歩いて下山することにしよう。駅の脇から明瞭な道がついているので、山中とはいえ迷うことなく降りられる。途中で、さっき車窓から見えた眺望区間に立ち寄ってみたが、線路の両側に金網が張り巡らされていた。高い脚立でもあればともかく、網の間からぎこちなく撮るしか方法がない。

山麓駅に戻ったときには、10時15分発の便が発車するところだった。1時間前の空きっぷりが嘘のように、車内は満席で、デッキに立つ人もいる。なるほど、これなら15分間隔で運行する意味がある。盛況ぶりに納得しながら、朝の陽を浴びて滑るように高架橋を上っていく古典車両を見送った。

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賑わう10時台の山上行き

なお、山麓駅舎のすぐそばに残る旧 化粧室小屋 Toilettenhäuschen が、小さな鉄道博物館になっている。車両の模型と設計図、当時の写真や備品などが展示してあり、ネロベルク鉄道のことをより深く知るために、訪れることをお勧めしたい。

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旧 化粧室を改装した鉄道博物館
(左)外観 (右)内部展示。車両模型の下にあるのはブレーキシュー

本稿は、Klaus Kopp "Die Nerobergbahn - Wiesbadens Drahtseil-Zahnstangenbahn aus dem Dreikaiserjahr 1888" 2. aktualisierte und ergänzte Auflage, Thorsten Reiß Verlag, 2013 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ネロベルク鉄道(公式サイト) http://www.eswe-verkehr.de/nerobergbahn

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 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

2018年8月21日 (火)

ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

ケーニヒスヴィンター Königswinter(下注)~ドラッヘンフェルス Drachenfels 間1.52km
軌間1000mm、750V直流電化、リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配200‰
1883年開通、1953年電化

*注 同名のDB駅と区別するために、正式駅名はケーニヒスヴィンター・ドラッヘンフェルス鉄道 Königswinter Drachenfelsbahn という。

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ドラッヘンフェルス鉄道の中間駅シュロス・ドラッヘンブルク

ビンゲン Bingen から130km続くライン川中流 Mittelrhein の長い渓谷が終わろうとする東岸に、最後の砦のようにドラッヘンフェルスの岩山が聳えている。標高321m、川からの高さはおよそ270m。ジーベンゲビルゲ Siebengebirge と呼ばれる火山起源の山地の中で、これだけが河岸に面している。数値以上の威圧感があるのはそのためだ。

ドラッヘンフェルス Drachenfels は、ドイツ語で竜の岩を意味する。ワグナーの楽劇の題材にもなった中世の叙事詩ニーベルンゲンの歌 Nibelungenlied で、英雄ジーフリト Sîfrit(現代語ではジークフリート Siegfried)が山の洞穴に棲んでいた竜を退治し、その血を浴びて不死身になったことが語られる。その舞台がここだという。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、竜伝説は後付けで、ドラッヘンの語源は Trachyt(トラカイト、粗面岩)だとしている。粗面岩は昔からこの山で採掘されており、ケルン大聖堂の築造にも用いられた。

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ライン川から見たドラッヘンフェルス山頂の廃墟(右)とドラッヘンブルク城(左)

山はラインの流れを見下ろす要害の地で、中世に築かれた古城がうらぶれた姿を曝している。19世紀、ロマン主義が一世を風靡した時代に、この風光が旅人の心の琴線に触れた。バイロン卿がチャイルド・ハロルドの巡礼 Childe Harold's Pilgrimage に表し、画家ターナーが水彩の筆を揮った。それらをきっかけにして、岩山は国際的に知られるようになる。

*注 ターナーが描いたドラッヘンフェルスの水彩画は以下のサイトで見られる。TW0496とTW0606は対岸(左岸)上流から見た構図。TW0606では手前の岩山の上に有名な廃墟ローランツボーゲン Rolandsbogen も描かれている。それに対して、TW1311は対岸やや下流からの構図。
TW0496 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-drachenfels-tw0496
TW0606 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-drachenfels-tw0606
TW1311 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-drachenfels-from-the-rhine-tw1311

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早くも1883年に、この岩山の上まで登山鉄道が通じた。山の名を採ってドラッヘンフェルス鉄道 Drachenfelsbahn と呼ばれるこの鉄道の出現は、フィッツナウ・リギ鉄道全通の10年後だ。ドイツではかなり早い時期で、当地での観光需要の高まりが実感される。果せるかな、鉄道が開通するとたちまち人気が沸騰し、夏のシーズン3か月で6万人以上の客を運んだという。

1913年にオーデコロンの代表ブランド4711のオーナーが経営権を握り、ドラッヘンフェルス鉄道は、同じ方式で隣の山に上っていたペータースベルク鉄道 Petersbergbahn(下注)と合併して「ジーベンゲビルゲ登山鉄道株式会社 Bergbahnen im Siebengebirge AG」となった。電化は1953年で、70年以上走り続けた蒸気機関車は1960年までにすべて引退した。その後、ペータースベルク鉄道は経営不振で廃止されてしまったため、現在この会社は、社名の「登山鉄道」は複数形のまま、ドラッヘンフェルス鉄道だけを運行する。

*注 ペータースベルクは、ケーニヒスヴィンターの東にあるジーベンゲビルゲの山の一つ。登山鉄道は1889年開通、1958年廃止。1000mm軌間のリッゲンバッハ式で、ドラッヘンフェルスと双子のような鉄道だった。

ドイツ国内のラック鉄道は他に、シュトゥットガルト市内と、バイエルンアルプスのツークシュピッツェ Zugspitze、同 ヴェンデルシュタイン Wendelstein(下注)に残っているが、その中でドラッヘンフェルス鉄道は最古の存在になっている。

*注 ヴェンデルシュタイン鉄道については、本ブログ「ヴェンデルシュタイン鉄道でバイエルンの展望台へ」で詳述。上記のほか、ヴィースバーデンのネロベルク鉄道 Nerobergbahn では、ラックレールがブレーキのために使用される。

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ドラッヘンフェルス鉄道の行程(山麓駅の案内板を撮影)

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ドラッヘンフェルス鉄道周辺の1:25,000地形図(5309 Königswinter 2012年)
© Land Nordrhein-Westfalen 2012

2018年5月のある日、コブレンツ中央駅 Koblenz Hbf の109番線(下注)から、ボン・ボイエル Bonn-Beuel 行きのRE(レギオエクスプレス、快速列車に相当)に乗った。最初、南へ向かうのでとまどうが、すぐにライン川を渡り、トンネルで方向を変えて、ライン右岸線 Rechte Rheinstrecke の北行き線に合流する。川沿いに走り続け、50分ほどでケーニヒスヴィンター駅に着いた。

*注 109という大きな数字に一瞬驚くが、9番線ホームの南端にある切り欠きホームのこと。コブレンツ中央駅には同じように104、105番線もある。

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(左)コブレンツ駅109番線に停車中の右岸線RE
(右)ライン川にモーゼル川が合流するドイチェス・エック Deutsches Eck を対岸に見て

ケーニヒスヴィンター Königswinter の町はボンの南東10km、ドラッヘンフェルスのお膝元で発展したライン河畔のリゾートだ。ケーニヒ König は王という意味だが、ヴィンター Winter は冬ではなく、ラテン語の Vinetum(葡萄畑)が転訛したもので、一説にはここにカール大帝の葡萄畑の御料地があったという。ひっそりとしたDB駅から線路に沿って南へ歩き、踏切を渡ると、登山鉄道の山麓駅が見えてきた。

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ケーニヒスヴィンター (左)河畔のプロムナード (右)市街地の落ち着いた街並み

ドラッヘンフェルス鉄道は、ケーニヒスヴィンターにある山麓駅とドラッヘンフェルスの山上駅を結んでいるリッゲンバッハ式のラック鉄道だ。長さ1520m、高度差220m、片道の所要時間は8分。夏のシーズン(5~9月)中は9時から19時まで、30分毎に山麓駅を発車し(多客時は増発あり)、復路はその15分後に山上駅を出る。他のシーズンは営業時間が短縮され、11月後半から12月にかけては運休になる。

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ケーニヒスヴィンター・ドラッヘンフェルス鉄道駅(山麓駅)

まずは、駅前に置かれている蒸気機関車を見ておきたい。かつてこの鉄道で使われていたラック機関車2号機だ。文化財として1968年からここに静態保存されている。プレートには、エスリンゲン機械工場1927年製とあった。

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かつて活躍した蒸気機関車2号機の屋外展示

駅舎は2005年に改築された現代的な2階建ての建物で、ドラッヘンフェルス観光駅 Drachenfels Tourismus-Bahnhof と呼ばれている。19世紀からある鉄道にしては、山麓駅だけでなく、クラシックな外観の施設が見当たらない。首都移転に伴う補償協定(下注)によって地元に交付される資金を一部充当し、近年精力的に整備が進められたからだ。

*注 1994年のベルリン/ボン法に基づき、西ドイツの首都であったボンからベルリンに政府機能を移すにあたり、ボン地域の振興資金として、1995年から2004年の間に14億3,700万ユーロを支出する「ボン地域の補償措置に関する協定 Vereinbarung über die Ausgleichsmaßnahmen für die Region Bonn」が結ばれた。

1階(日本で言う2階)にはチケットオフィスやグッズショップがあり、ガラス戸の向こうは乗り場になっている。階段を上がると、鉄道の舞台である山域全体を模型にしたレイアウトがあった。古い時代を表しているらしく、玄関前にいるのと同形の蒸機が2両の客車を押している。

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山麓駅1階、奥に出札兼案内所、階段を上るとレイアウト展示がある
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ドラッヘンフェルス鉄道の模型レイアウト
(左)手前はDB右岸線、中央に山麓駅舎、右奥にドラッヘンフェルスがそびえる
(右)手前の建物はニーベルンゲンハレ Niebelungenhalle で、その位置からかつての中間駅は現在より下手にあったことがわかる

構内では、ラック式の電動車が客待ちをしている。両運転台車で、ドアは片側(山に向かって右側)にしかない。磨かれ艶光りしているが、実は1955~60年の製造だ。1999~2001年に全面更新を受けているものの、内装はなつかしいレールバスのそれを思わせる。

電車は、混雑度に応じて単行または2両連結で運転される。最後尾に車掌が乗っているが、戸閉めの後でチンチンとベルを鳴らすくらいで、手持無沙汰の様子だ。中間駅や山上駅は無人なので、そこでの出改札が主な仕事なのだろう。

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(左)山麓駅構内に停車中の電車、1950年代後半の製造
(右)内装はレールバスを思わせる

山麓駅を出発すると、電車はいきなり上向きになり、ぐんぐん高度を上げていく。線路の周りは森で、残念ながら見通しはあまり利かない。勾配は決して一本調子ではなく、いくらか行ったところで緩やかになる。

森が開け、石造アーチの跨線橋をくぐって停車した。中間駅のシュロス・ドラッヘンブルク Schloss Drachenburg(ドラッヘンブルク城)だ。2011年に改装された駅で、LRTの停留所と間違えそうなモダンな造りに驚く。2線に分かれ、列車交換が可能だが、多客期以外は対向列車がないので、上下列車とも山上に向かって右側のホームに停まる。

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(左)山麓駅を出発 (右)少し上ると緩勾配に
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中間駅 (左)城に通じる石橋をくぐって中間駅に接近
(右)ベンチの風防に竜のシルエットが

ここはドラッヘンブルク城の最寄り駅だ。城といっても、1884年に株式仲買人で銀行家だったシュテファン・フォン・ザルター男爵 Baron Stephan von Sarter が建てた邸宅で、19世紀後半、グリュンダーツァイト Gründerzeit の古典主義的傾向を反映した壮麗な建物だ。

前城 Vorburg と呼ばれる玄関建物を抜けると、斜面を覆って整えられた庭園が広がり、その先に堂々たる本館がある。室内の豪華な調度品は見ごたえがあるし、贅沢にも各部屋からライン渓谷が望める。螺旋階段で北の塔の屋上に登ると、ジーベンゲビルゲやボン市街など北側の眺望がよかった。

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壮麗さを誇るドラッヘンブルク城
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城の北塔からの眺め
(左)南望。ライン川の中州ノンネンヴェルトが見える
(右)北望。右奥の山はペータースベルク、左端にケーニヒスヴィンター市街

それはさておき登山鉄道に戻ろう。中間駅を再び発車すると、電車は8径間の石造アーチ橋を渡って、再び森に入る。跨線橋をくぐったところから200‰の最大勾配になる。高い切通しに沿って右にカーブしていくと、まもなく終点ドラッヘンフェルスだ。駅は簡素な造りで、出札窓口があるものの、ふだんは人がいない。切符の必要な人には、折返しの列車が到着した後、車掌が改札で手売りしてくれる。

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(左)中間駅の山上側 (右)8径間の石造アーチ橋を渡る
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(左)山頂直下の跨線橋から (右)跨線橋の下で始まる200‰の最急勾配
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山上駅 (左)1面1線の簡素な構造 (右)駅舎

駅前には、広い展望広場とレストラン施設がある。一部が階段状になった広場からは、ライン渓谷の上流側(南側)が一望になる。フランシスコ修道院のあるノンネンヴェルト Nonnenwerth の中州がアクセントとなって、単調な流路に変化が加わるのがおもしろい。

この広場もごく最近整備されたものだ。ドラッヘンフェルスはオランダ人観光客に特に人気があり、ライン川を遡ると最初に目に入る高い山なので、「オランダで一番高い山」というあだ名さえあった。その人出を受け入れるために、1970年代、ここに展望台やレストランを備えた大規模な観光施設が造られた。しかしその後、観光客が減り、麓からの景観を損ねているという理由もあって、2011年から撤去工事が始まり、2013年に展望広場に生まれ変わったのだ。

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展望広場と、眼下に広がるライン渓谷のパノラマ
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岩山の直下に葡萄畑とライン川。貨物列車が右岸線を通過中

レストランの裏の道を少し上ると真の山頂で、麓からも見えていた古城の廃墟がある。もとは南の護りを固めるために1138年にケルンのアルノルト1世大司教 Erzbischof Arnold I が建てさせたものだが、30年戦争中の1633年に破壊され、以来再建されなかった。今は自然公園の中で保護され、ライン川を見下す静かな展望台の一つになっている。

足元はるか下の川面を、大型客船がゆっくりと下っていくのが見える。それと交差するように貨物列車が岸辺を駆けていく。後でケーニヒスヴィンターに降りたら、このライン川を横断するフェリーで、対岸のメーレム Mehlem に渡るつもりだ。ターナーが描いたように岩山を少し距離を置いて眺め、ドラッヘンフェルスの半日観光を締めくくりたいと思う。

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ドラッヘンフェルス山頂に立つ古城の廃墟

■参考サイト
ドラッヘンフェルス鉄道 http://www.drachenfelsbahn.de/
ドラッヘンブルク城 https://www.schloss-drachenburg.de/

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2017年7月30日 (日)

リムタカ・インクライン II-ルートを追って

新線が開通すると、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline を含むワイララパ線 Wairarapa Line 旧線区間では、施設の撤去作業が行われ、ほぼ更地化した。平野部では多くが農地や道路に転用されてしまったが、峠越えのカイトケ Kaitoke ~クロス・クリーク Cross Creek 間は公有地で残された。

一方、フェル式蒸気機関車の中で唯一解体を免れたH 199号機は、リムタカの東にあるフェザーストン Featherston の町に寄贈され、公園で屋外展示された。子どもたちの遊び場になったのはいいが、その後風雨に晒され、心無い破壊行為もあって、状態は悪化の一途をたどる。20年が経過したとき、旧線時代を振り返る書物の刊行をきっかけにして、保存運動が始まった。その結果、フェザーストンに今もあるフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum が1984年に建てられ、機関車は改めて館内で公開されるようになった。

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IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)によるリムタカ・インクラインの銘板
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

忘れられていた廃線跡にも、人々の関心が向けられた。ニュージーランド林務局 New Zealand Forest Service は、博物館開館と同じ年に、クロス・クリーク駅跡へ通じるアクセス道とインクライン跡の整備を実施した。崩壊した築堤には迂回路が設けられ、土砂崩れで冠水していたサミットトンネル Summit Tunnel も排水されて、サミット駅跡まで到達できるようになった。

その発展形が、ウェリントン地方議会 Wellington Regional Council と自然保護局 Department of Conservation が共同で計画した、廃線跡を利用するトレール(自然歩道)の設置だ。1987年11月に、メイモーン Maymorn ~クロス・クリーク間 22kmが「開通」し、「リムタカ・レールトレール Rimutaka Rail Trail」と命名された。H形機の舞台は今や、自転車や徒歩で追体験することが可能だ。

それは、いったいどのようなところを走っていたのか。トレールにならなかった区間も含めて、新旧の地形図でそのルートを追ってみよう。

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リムタカ・インクラインを含むワイララパ旧線のルート
3つの枠は下の詳細図の範囲を示す
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

アッパー・ハット Upper Hut ~カイトケ Kaitoke 間

付け替え区間は、アッパー・ハット駅を出て間もなく始まる。ハット谷 Hutt Valley より一段高いマンガロア谷 Mangaroa Valley に出るために、旧線は、境を成す尾根筋に取りつき、ぐいぐいと上っていく。短距離ながら急曲線(半径5チェーン=100.6m)と急勾配(1:35=28.6‰)が続く、リムタカの本番を控えた前哨戦のような区間だ。廃線跡は森に埋もれてしまい、現行地形図では、尾根を抜ける長さ120mのトンネル(Old tunnel の注記あり)しか手がかりがない。しかし、等高線の描き方から谷を渡っていた築堤の存在が推定できる。

トンネルを抜けるとマンガロア谷だ。北に緩やかに傾斜する広い谷の中を、旧線はほぼ直線で縦断し、途中にマンガロア駅があった。地形図でも、断続的な道路と防風林(緑の帯の記号)のパターンがその跡を伝える。

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マンガロア駅跡
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現 メイモーン駅の東方から、旧線跡はリムタカ・レールトレールとして、明瞭な形をとり始める。周辺はトンネル・ガリー保養地 Tunnel Gully Reareation Area で、地形図では破線で描かれる小道が錯綜しているが、その中で、車が通れる小道 Vehicle track を表す少し長めの破線記号が、本題のトレールだ。こう見えても、勾配は1:40(25‰)前後ある。

長さ221m、直線のマンガロアトンネル Mangaroa Tunnel で、プラトー山 Mount Plateau の尾根を抜ける。大きく育った松林の間を進むうちに、一つ北側のカイトケ谷 Kaitoke Valley に移っている。旧カイトケ駅構内は私有地になったため、トレールはそれを避けて大きく西へ迂回しており、駅跡の先で本来の旧線跡に復帰する。

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アッパー・ハット~カイトケ間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP32 Paraparaumu, BP33 Featherston. Crown Copyright Reserved.
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同 旧線時代の1マイル1インチ地図(1957年版)
鉄道記号の横のT字の記号は電信線 Telephone lines、
橋梁に添えられた S は鋼橋 Steel または吊橋 Suspension、W は木橋 Wooden を表す
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

カイトケ~サミット Summit 間

サミットに至る峠の西側約12kmのうち、初めの約2kmは一般車も通れる道だ。車止めのゲートを越えると専用林道で、開けたカイトケ谷のへりに沿いながら、パクラタヒ川 Pakuratahi River が流れる谷へ入っていく。

まもなく谷幅は狭まり、渓谷の風情となる。小川を横切っていたミューニションズ・ベンド橋梁 Munitions Bend bridge は1960年代に流失した。以来、林道は川をじかに渡っていた(=渡渉地 Ford)が、2003年、傍らに徒橋 Foot bridge と線路のレプリカが渡された(下注)。長さ73mのパクラタヒトンネル Pakuratahi Tunnel を抜けると、森の陰に新線リムタカトンネルの換気立坑がある。新線はこの直下117mの地中を通っているのだ。

*注 ウェリントン地方議会のサイトでは、徒橋の設置を2003年としているが、現地の案内標識には2004年と記されている。

少し行くと、長さ28m、木造ハウトラス Howe truss のパクラタヒ橋梁 Pakuratahi Bridge で本流を渡る。ニュージーランド最初のトラス橋だったが、火災で損傷したため、1910年に再建されたもので、2001年にも修復を受けている。

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木造ハウトラスのパクラタヒ橋梁
Photo by Pseudopanax at wikimedia

谷間がやや開け、右カーブしながら、長さ70mの桁橋レードル・ベンド・クリーク橋梁 Ladle Bend Creek bridge を渡る。比較的緩やかだった勾配は、ここから最急勾配1:40(25‰)と厳しくなる。直線で上っていくと、また谷が迫ってくる。高い斜面をトレースしながら、山襞を深い切通しで抜ける。

再び視界が開けると、レールトレールは左から右へ大きく回り込みながら、均されたサミット駅跡に達する。現役時代から、集落はおろかアクセス道路すらない山中の駅だったので、運転関係の施設のほかに鉄道員宿舎が5戸あるのみだった。今は跡地の一角に蒸機の残骸のオブジェが置かれているが、H形のものではないそうだ。

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サミット駅跡
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

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カイトケ~クロス・クリーク間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

サミット~クロス・クリーク Cross Creek 間

峠の東西で線路勾配は大きく異なる。あたかも信越本線の碓氷峠に似て、西側は25‰で上りきれるが、東側は66.7‰の急勾配を必要とした。それを克服する方法が、碓氷峠のアプト式に対して、リムタカではフェル式(下注)だ。この急坂区間をリムタカ・インクライン Rimutaka Incline と呼んだ。

*注 フェル式については、前回の記事参照。

文献では長さ3マイル(メートル換算で4.8km)と書かれることが多いが、これは両駅間の距離を指している。サミット駅を出ると間もなく、旧線は長さ576m(1,890フィート)のサミットトンネルに入るが、トンネル内の西方約460mは、下り1~3.3‰とわずかな排水勾配がつけられているだけだ。残り約100mの間に勾配は徐々に険しくなり、トンネルの東口で下り1:15(66.7‰)に達していた(下注)。このことから推測すれば、フェル式レールの起点は東口近くに置かれていたはずだ。

*注 トンネルは地形の関係で南北に向いているが、ここではサミット駅方を西、クロス・クリーク駅方を東と表現する。

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サミットトンネル東口
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

トンネルを抜けると、旧線跡は分水嶺の中腹に躍り出る。眼下の谷、向かいの山並み、これから下っていくルートまで眺望できる展望地だ。左に回り込んで、長さ121mのシベリアトンネル Siberia tunnel を抜けたところに、半径100m(5チェーン)の急曲線で谷を渡る高さ27mの大築堤があった。谷は築堤の形状にちなんでホースシュー・ガリー Horseshoe Gully(馬蹄形カーブの峡谷の意)と呼ばれたが、冬は激しい北西風に晒されるため、シベリア・ガリー Siberia Gully の異名もあった。1880年に突風による列車の転落事故が発生した後、築堤上に防風柵が設けられている。

しかし、その大築堤も今はない。廃線後の1967年、暴風雨のさなかに、下を抜けていた水路が土砂で詰まり、溢れた水が築堤を押し流してしまったからだ。そのため現在、レールトレールの利用者は谷底まで急坂で下り、川を渡渉するという回り道を余儀なくされる。谷から突っ立っている異様なコンクリートの塔は、縦方向の水路が剥き出しになったものだという。

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(左)ホースシュー・ガリーを渡っていた大築堤に、防風柵が見える
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ
(右)築堤が流失したため、現在、レールトレールは谷底まで降りて川を渡る
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

次のプライシズトンネル Price’s Tunnel は、長さ98m(322フィート)でS字に曲がっている。しばらくこうして斜面を下っていくうちに、平坦地に到達する。登録史跡にもなっているクロス・クリーク駅跡だ。フェル式車両の基地があったので、構内はかなり広いが、今はトレール整備で造られた待合室のような小屋があるばかりだ。

なお、旧版地形図には、マンガロアとクロス・クリークを結んで "Surveyed Line or Proposed Rly. Tunnel" と注記された点線が描かれている。これは当初構想のあった約8kmの新トンネルだ。結局、リムタカトンネルはこのルートでは実現せず、クロス・クリークは廃駅となってしまった。

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1955年10月29日、H 199号機が先導する最終列車がクロスクリーク駅を出発
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

クロス・クリーク~フェザーストン Featherston 間

クロス・クリークから東は、1:40(25‰)以内の勾配で降りていく。残念ながら大部分が私有地となり、旧線跡の多くは牧草地の中に埋もれている。そのため、レールトレールは小川(クロス・クリーク)を渡って対岸に移る。地形図で下端に見える水面は、北島第3の湖、ワイララパ湖 Lake Wairarapa だ。平原に出ると、旧線はフェザーストンの町まで一直線に進んでいた。途中、小駅ピジョン・ブッシュ Pigeon Bush があったはずだが、周辺にぽつんと残る鉄道員宿舎の暖炉煙突2基を除いて、跡形もない。

リムタカトンネルを抜けてきた新線が接近する地点に、スピーディーズ・クロッシング Speedy's Crossing と呼ばれる踏切がある。1955年11月3日、ここで新線の開通式が執り行われた。39kmに及ぶ旧線跡の終点はまた、新旧の交替というエポックを象徴する場所でもあった。

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クロス・クリーク~フェザーストン間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

■参考サイト
Tracks.org.nz  http://tracks.org.nz/
Cycle Rimutaka - New photos of the Rimutaka Cycle Trail!
http://www.cyclerimutaka.com/news/2015/10/28/new-photos-of-the-rimutaka-cycle-trail
Mountain Biking Travels - Rimutaka Rail Trail - Wairarapa
http://mountainbiking-travels.blogspot.jp/2015/06/rimutaka-rail-trail-wairarapa.html

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶
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 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 I
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 II

2017年7月23日 (日)

リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶

急勾配の線路を上り下りするために、2本の走行レールに加えて第3のレールを用いて、推進力や制動力を高める鉄道がある。その大部分は、地上に固定した歯竿(ラック)レールと、車体に装備した歯車(ピニオン)を噛ませるラック・アンド・ピニオン方式、略してラック式と呼ばれるものだ。代名詞的存在のアプト式をはじめ、いくつかのバリエーションが創られた。

しかし、フェル式 Fell system はそれに該当しない。なぜなら、中央に敷かれた第3のレールはラックではなく、平滑な双頭レールを横置きしたものに過ぎないからだ。坂を上るときは、このセンターレールの両側を車体の底に取り付けた水平駆動輪ではさむことで、推進力を補う。また、下るときは同じように制輪子(ブレーキシュー)を押し付けて制動力を得る。

■参考サイト
レール断面図
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/history/fell-centre-rail-system

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線路工夫が見守る中、フェル式区間を上る貨物列車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

この方式は、イギリスの技師ジョン・バラクロー・フェル John Barraclough Fell が設計し、特許を取得したものだ。ラック式ほど険しい勾配には向かないものの、レールの調達コストはラック式に比べて安くて済む。1863~64年に試験運行に成功したフェルの方式は、1868年に開通したアルプス越えのモン・スニ鉄道 Chemin de fer du Mont-Cenis で使われた。フレジュストンネル Tunnel du Fréjus が開通するまで、わずか3年間の暫定運行だったが、宣伝効果は高く、これを機に、フェル式は世界各地へもたらされることになる(下注)。

*注 現存しているのは、マン島のスネーフェル登山鉄道(本ブログ「マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道」参照)が唯一だが、中央レールは非常制動用にしか使われない。

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ニュージーランドの植民地政府もまた、この効用に注目した。当時、北島南端のウェリントン Wellington からマスタートン Masterton 方面へ通じる鉄道(現 ワイララパ線 Wairarapa Line)の建設が準備段階に入り、中間に横たわるリムタカ山脈 Rimutaka Range をどのように越えるかが主要な課題になっていた。

ルート調査の結果、カイトケ Kaitoke(当時の綴りは Kaitoki)からパクラタヒ川 Pakuratahi River の谷を経由するという大筋の案が決まった。峠の西側の勾配は最大1:40(25‰)に収まり、蒸機が粘着力で対応できるため、問題はない。しかし、東側は谷がはるかに急で、なんらかの工夫が必要だった。勾配を抑えるために山を巻きながら下る案は、あまりの急曲線と土工量の多さから退けられ、最終的に、平均1:15勾配(66.7‰、下注)で一気に下降する案が採用された。

*注 縦断面図では1:16(62.5‰)~1:14(71.4‰)とされている。

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ワイララパ旧線とリムタカ・インクライン
フェル式を採用したインクライン(図では梯子状記号で表示)は、サミットトンネル Summit Tunnel 東口~クロス・クリーク Cross Creek 駅間のみで、それ以外は粘着式で運行された
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この長さ3マイル(4.8km)のインクライン(勾配鉄道、下注)に導入されたのが、フェル式だ。特殊な構造の機関車が必要となるものの、客車や貨車は直通でき、実用性もモン・スニで実証済みだというのが、推奨の理由だった。当時、山脈を長大トンネルで貫く構想もすでにあり、インクラインは暫定的な手段と考えられたのだが、実際には、フェル式を推進と制動の両方に使用するものでは77年間と、最も寿命の長い適用例になった。

*注 このインクライン区間の呼称については、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline のほか、「リムタカ・インクライン鉄道 Rimutaka Incline Railway」や「リムタカ鉄道 Rimutaka Railway」も見受けられる。ただし、下記参考資料では「リムタカ鉄道」を、ワイララパ旧線全体を表現する用語として使用している。

建設工事は1874年に始まり、予定より遅れたものの1878年10月に完成した。これでウェリントンからフェザーストン Featherston まで、山脈を越えて列車が直通できるようになった。

フェル式区間のあるサミット Summit ~クロス・クリーク Cross Creek 間(下注)には、イギリス製の専用機関車NZR H形(軸配置0-4-2)が投入された。開通時に1875年製が4両(199~202号機)、1886年にも2両(203、204号機)が追加配備されている。また、下り坂に備えて列車には、強力なハンドブレーキを備えた緩急車(ブレーキバン)が連結された。これら特殊車両の基地は、峠下のクロス・クリーク駅にあった。通常の整備はここで実施され、全般検査のときだけ、ウェリントン近郊のペトーニ Petone にある整備工場へ送られたという。

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唯一残るフェル式機関車(フェル機関車博物館蔵 H 199号機)
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.
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床下に潜れば、センターレールとそれをはさむブレーキシューが見える
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.

当初インクラインを通行する列車は、機関車1両で扱える重量までとされた。制限は徐々に緩和され、1903年の貫通ブレーキ導入後は、最大5両の機関車で牽くことも可能になった。しかし、機関車ごとに乗員2名、列車には車掌、さらに増結する緩急車でブレーキ扱いをする要員と、1列車に10数名が携わることになり、運行コストに大きく影響した。また、インクラインでの制限速度は、上り坂が時速6マイル(9.7km)、下り坂が同10マイル(16km)で、機関車の付け替え作業と合わせ、この区間の通過にはかなりの時間を費やした。

ワイララパ線は、1897年にウッドヴィル・ジャンクション Woodville Junction(後のウッドヴィル)までの全線が完成している。ギズボーン Gisborne 方面の路線と接続されたことで輸送量が増え、20世紀に入ると、H形機関車の年間走行距離は最初期の10倍にもなった。

1936年、鉄道近代化策の一環で、ウェリントン~マスタートン間に軽量気動車6両 RM 4~9 が導入された。センターレールに支障しないよう、通常の台車より床を12インチ(305mm)高くした特別仕様車で、速度の向上が期待されたが、実際には時速10~12マイル(16~19km)にとどまった。

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カイトケ駅に到着する軽量気動車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

リムタカのボトルネックを解消する抜本策が、バイパストンネルの建設であることは自明の話だった。1898年に詳細な調査が実施され、マンガロア Mangaroa ~クロス・クリーク間を直線で結ぶ約5マイル(8km)のトンネル計画が練られた。1920年代にも再び実現可能性の調査が、30年代には詳細な測量が行われたが、それ以上前に進まなかった。

懸案への対処が先送りされ続けた結果、第二次世界大戦が終わる頃には、リムタカの改良は待ったなしの状況になっていた。機関車もインクラインの線路も、長年酷使されて老朽化が進行していたからだ。1947年に決定された最終ルートは、当初案のクロス・クリーク経由ではなく、一つ北のルセナズ・クリーク Lucena's Creek(地形図では Owhanga Stream)の谷に抜けるものになった。1948年、ついにトンネルを含む新線が着工され、7年の工期を経て、1955年に竣工した。

これに伴い、旧線の運行は1955年10月29日限りとされた。最終日には、稼働可能なH形機関車全5両を連結した記念列車がインクラインで力走を見せ、多くの人が別れを惜しんだ。切替え工事を経て、新線の開通式が挙行されたのは同年11月3日だった。

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インクライン運行最終日に坂を下るH形4重連
Norman Cameron "Rimutaka Railway" 表紙写真

リムタカ迂回線 Rimutaka Deviation は、延長39.0kmあった旧線区間を14.4kmも短縮するとともに、最急勾配は1:70(14.3‰)、曲線半径も400mまでに抑えた画期的な新線だ。その結果、旅客列車で70分かかっていたアッパー・ハット~フェザーストン間がわずか22分になった。貨物列車も所要時間の短縮に加え、長編成化が可能になって、輸送能力が格段に向上した。

新線は全線単線で、トンネルをはさんで西口のメイモーン Maymorn 駅と東口のリムタカ信号場 Rimutaka Loop にそれぞれ待避線が設置されている。リムタカトンネル Rimutaka Tunnel は長さ 8,798mと、当時ニュージーランドでは最長を誇った(下注)。

*注 1978年に東海岸本線 East Coast Main Trunk Line の短絡線として、長さ8,850mのカイマイトンネル Kaimai Tunnel が完成するまで、最長の地位を守った。

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リムタカトンネル開通式
ブックレット表紙
Photo by Archives New Zealand at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

トンネルには、ほぼ中間地点に換気立坑 ventilation shaft があり、旧線が通るパクラタヒ谷の地表面に達している。実はこれは、トンネル完成後に追加された工事だ。この区間はもともと架空線方式の電化が想定されていたが、経済的な理由で非電化のままになった。ディーゼル機関車の試験走行を行ったところ、自然換気だけでは排気が十分でないことが判明し、急遽対策がとられたのだ。

新線への切替え後、列車の往来が途絶えた旧線では、すぐさま施設の撤去が始まった。H形機関車は、長年走り続けた線路の撤去作業を自ら務めた。それが終わると、ハット整備工場へ牽かれていき、そこでしばらく留置された。そして翌年除籍され、フェザーストンの町に寄贈された1両を残して、あえなく解体されてしまった。

まだ使用可能だったフェルレールと緩急車は、再利用するために南島のレワヌイ支線 Rewanui Branch(下注)へ移送された。こうして、リムタカ・インクラインの77年の歴史は幕を閉じたのだった。

*注 ニュージーランドにはリムタカのほかにも、フェル式が使われた路線がある。南島北西部の鉱山支線であった上記のレワヌイ・インクライン Rewanui Incline(使用期間 1914~66年)とロア・インクライン Roa Incline(同 1909~60年)、ウェリントン ケーブルカー Wellington Cable Car(同 1902~78年)、カイコライ・ケーブルカー Kaikorai Cable Car(ダニーディン Dunedin 市内、期間不明)だが、いずれも制動のみの使用だった。

では、旧線はどのようなところを走っていたのか。次回は、インクラインを含む旧線のルートを地形図で追ってみたい。

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン II-ルートを追って
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道
 ニュージーランドの鉄道地図

 マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道

2017年2月11日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-アベリストウィス・クリフ鉄道

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コンスティテューション・ヒルを上る
アベリストウィス・クリフ鉄道

延長237m、高度差130m、1896年開通

ポースマドッグ滞在中で一番の長旅をして、南60kmにあるアベリストウィス Aberystwyth を訪れた。往きはカンブリア線を使ったのだが、ポースマドッグ方面からアベリストウィスへの直通列車はなく、途中で乗換えが必要だ。しかし、乗換駅ダヴィー・ジャンクション Dovey Junction は、寂しい原野のまん中の、常に風に吹き曝される場所にある。ここで20分近くも待つのはつまらないと思った。

実際、上下列車の交換は次のマハンレス Machynlleth で行われる。ダヴィー川沿いでは一番大きな町の玄関口だ。定時運転されているようなので、そこまで乗って折り返すことにした。時刻表ではわずか3分の接続だったが、問題なく乗り継ぐことができてほっとする。

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立派な駅舎が残るマハンレス駅での列車交換

カンブリア線は、アベリストウィス方面が実質的な本線だ。それを反映して、列車本数もいくらか多い。ダヴィー・ジャンクションから先は、まずダヴィー川 Dovey River (Afon Dyfi) の三角江の左岸に沿って海岸近くまで走る。ポースマドッグ方面への線路が川を渡る古い鉄道橋が、しばらく見えている。対岸のアベルダヴィー(アバダヴィー)Aberdovey の町を見届けた後、ボルス Borth を経て内陸に入っていく。波打つ丘陵地を越える切通しが終わると、左からヴェイル・オブ・レイドル鉄道 Vale of Rheidol Railway の狭軌線が寄り沿ってきて、いっしょに終着駅へ滑り込む。

*注 カンブリア線については本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」も参照。

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ダヴィー川を渡る鉄橋(ポースマドッグ方面の路線)が見え続ける
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(左)ヴェイル・オブ・レイドル鉄道の狭軌線が寄り沿う (右)アベリストウィス駅に到着

アベリストウィスは、カンブリア山地から流れ出るレイドル川 Afon Rheidol とイストウィス(アストウィス)川 Afon Ystwyth が合流する河口近くに位置する町だ。地名もイストゥイス川の河口(Aber + Ystwyth)から来ている(下注)。人口は1万数千人だが、中部ウェールズでは最大規模で、商業の中心地であり、1872年創立の大学を擁する教育センターの一面も持っている。

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アベリストウィス・クリフ鉄道(星印の位置)と周辺の鉄道網

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アベリストウィス市街周辺の地形図
1:25,000地形図 SN68 1954年版 に加筆

行止りの線路の正面に建つ駅舎を出ると、目の前が市街地だ。北ウェールズの町に比べて都会的な雰囲気があるのは、通りの建物が黒い石積みではなく、煉瓦や漆喰の色壁だからだろう。駅前からテラス・ロード Terrace Road を直進し、目抜き通りを横断した先に、海が見えてくる。

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アベリストウィスの市街地 (左)テラス・ロード (右)ノース・パレード North Parade

カーディガン湾に臨むこの浜辺には、スランディドノで見たような弧状のプロムナード Promenade(海岸遊歩道)が延びる。なにしろ、鉄道が開通した当時、「ウェールズのビアリッツ Biarritz of Wales」(下注)と謳われて評判になったという町だ。高さの揃ったパステルカラーの建物やロイヤル・ピア Royal Peer のドーム屋根が、当時の面影を伝えている。だが、残念なことに今朝は曇り空で、リゾート気分に浸ろうにも、人影がほとんど見られない。

*注 いうまでもなくビアリッツは、フランス南西部ビスケー湾に面した高級リゾート。

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プロムナードを遠望。右端がロイヤル・ピア Royal Peer

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アベリストウィス・クリフ鉄道のリーフレット

アベリストウィスに来た主目的は、さっきの駅を起点とするヴェイル・オブ・レイドル鉄道という蒸気鉄道だが、その前に、近くの丘に上っていく別の鉄道に乗ろうと思っている。プロムナードの北端、コンスティテューション・ヒル Constitution Hill(ウェールズ語:クライグ・グライス Craig Glais)にあるアベリストウィス・クリフ鉄道 Aberystwyth Cliff Railway という鋼索鉄道(ケーブルカー)だ。

鉄道は、市街地と丘の上の公園を結んで1896年に開業した。こうした丘や崖の、麓と頂の間を行き来する鋼索鉄道は、その時代盛んに建設されていて、設計の第一人者がマークス卿 The Lord Marks と呼ばれたジョージ・クロイドン・マークス George Croydon Marks だった。

彼が手掛けた鋼索鉄道はイギリス各地に今も残っている。ノースヨークシャーのソルトバーン・クリフ・リフト Saltburn Cliff Lift(1884年開業)、ブリストル海峡に面したリントン・アンド・リンマス・クリフ鉄道 Lynton and Lynmouth Cliff Railway(1890年開業)、あるいはセヴァーン川 Severn 沿いのブリッジノース・クリフ鉄道 Bridgnorth Cliff Railway(1892年開業)などがそうだ。

*注 その他、廃止されたものでは、ブリストル Bristol のクリフトン・ロックス鉄道 Clifton Rocks Railway(1893年開業、1934年廃止)、スウォンジーのコンスティテューション・ヒル斜行鉄道 Swansea Constitution Hill Incline Tramway(1898年開業、1901年廃止)などがある。

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プロムナードから見たコンスティテューション・ヒル
Photo by Lesbardd from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

アベリストウィスの鋼索鉄道も、彼の主要な業績に数えられてきた。なぜなら、2001年12月にスコットランドのケアンゴーム登山鉄道  Cairngorm Mountain Railway が開通するまで、イギリス諸島における最長の鋼索鉄道だったからだ。

開通当時はウォーターバランスといって、上の駅で車両に設けたタンクに水を注ぎ入れ、その重みで斜面を下りる方式で運行されていた。下の駅にいる車両は水を抜かれて軽くなっているので、連動しているケーブルで引き上げられる。上の駅で必要とされる大量の水は、近くの泉や井戸から引いていた。地形図でも、上の駅の東方に "W"(井戸 Well の略)や "Spring" の注記が数か所見つかる。しかし、鉄道は1921年に電気動力に転換され、今に至っている。

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上の駅(サミット駅)の東方に井戸や泉の注記(青の円内)がある
1:25,000地形図 SN68 1954年版 に加筆

現在の運行は4月から10月の毎日で、始発が10時、最終は17時だ。その始発時刻が近づいてきたので、山麓駅(プロムナード駅)のほうに足を向けた。市街地の北端、プロムナードから右に折れて少し上っていくと、"RHEILFFORDD Y GRAIG / CLIFF RAILWAY" とウェールズ語と英語で書かれた古めかしい煉瓦壁の建物が見つかる。これが乗り場だ。中の出札で4ポンドの往復乗車券を買い、階段ホームへ出ると、日曜大工で拵えたような飾り気のない車両が待っていた。

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山麓(プロムナード)駅 (左)煉瓦造りの外観 (右)飾り気のない車両が発車を待つ

定員は30名だが、初回の乗客は私のほかに、女性が一人のみ。景色には目もくれずスマホをいじっていた彼女は、山上のレストランの従業員だった。発車の合図があったかどうかもわからないうちに、車両は動き出した。時速は4マイル(6.4km)、ケーブルの動く音がするだけで、静かに上っていく。線路は全線複線で、車両がすれ違う区間だけ、線路の間隔を拡げてある。

延長778フィート(237m)のルートの大半が、掘割の中だ。しかし、麓側の窓から、アベリストウィスの市街地と弧を描く海岸線が見えている。それを写真に撮ろうとするのだが、上空を木柵の跨線橋が何本も横断しているので、そのたびに視界が途切れる。実は、線路設計に際して、以前からあった丘を巡るフットパスを切断しないように、わざわざ線路を切通しにして跨線橋を渡したのだそうだ。そのために、工事では12,000トンもの岩を切り出す必要があった。

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(左)山麓駅を後にする (右)海岸線の眺望はしばしば跨線橋で遮られる

正味の乗車時間は5分程度だろう。麓の駅に比べて、サミット駅は掘っ立て小屋のような簡素な造りだ。駅の外にはコンスティテューション・ヒルの高台が広がっている。遊戯施設やレストランが立ち並び、ちょっとした遊園地の雰囲気がある。朝早いので、どこもまだ稼働していないが、それでも続行便で、カップルや家族連れが何組か上がってきた。

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(左)山上(サミット)駅に到着 (右)山麓駅に比べて簡易な造り

この丘は、地形的に見れば、東のカンブリア山地から延びてきた丘陵が海に没する先端部に当たる。上からは見えないが、足元の海岸には高さ数十mの波蝕崖が連なっているはずだ。それだけに展望は抜群で、市街地とプロムナード、その南端の古城がある岬や、市街の背後に横たわる丘陵地まで一望になる。風のない穏やかな日で、陸上は靄でかすんでいるが、滞在中に少しずつ晴れ間が広がってきた。

ケーブルカーを前に置いてこの風景が眺められる場所を探し回った。上ってくる車内では疎ましく思ったのに、最適のお立ち台になってくれたのは、あの跨線橋だった。

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コンスティテューション・ヒルからの眺め (左)南方向 (右)北方向
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アベリストウィス市街のパノラマ

次回は、ヴェイル・オブ・レイドル鉄道の蒸機列車に乗る。

■参考サイト
アベリストウィス・クリフ鉄道(公式サイト)
http://www.aberystwythcliffrailway.co.uk/
アベリストウィス観光サイト https://www.aberystwyth.org.uk/

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ヴェイル・オブ・レイドル鉄道
 ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道

2017年1月21日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道

下部区間:ヴィクトリア Victoria ~ハーフウェー Halfway 間 800m、1902年開通
上部区間:ハーフウェー~サミット Summit 間 750m、1903年開通
軌間 3フィート6インチ(1,067mm)

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グレート・オーム軌道の古典トラムが急坂を行く

アイリッシュ海に臨むスランディドノ Llandudno は人気のある海岸保養地だ。白い瀟洒な建物が建ち並ぶプロムナード Promenade(海岸遊歩道)が、休暇を過ごす多くの人で賑わう。その町の西側を、灰色の高い崖が限っている。草地の間にドロマイト(苦灰岩)が層状に露出して、まるでミルフィーユのような容貌のこの崖は、グレート・オーム Great Orme と呼ばれる台地の側面だ(下注)。

*注 ちなみに、グレート・オームに対するリトル・オーム Little Orme が、スランディドノ市街の東側にある。これらの岬は、船乗りたちにとって格好の目印だった。

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スランディドノの市街地の背後を、ミルフィーユのようなグレート・オームの崖が限る

東西3.5km、南北2km、標高207mのグレート・オームは、地形的に見ると、スランディドノの市街地が載る砂州によって陸地とつながれた島(=陸繫島)だ。海に突き出して、眺めがいいので、昔からスランディドノの滞在客に手近な気晴らしの場を提供してきた。これから乗るグレート・オーム軌道 Great Orme Tramway も、そこへ上る足として親しまれているケーブルトラム(トラム車両のケーブルカー)だ。

軌道は下部区間と上部区間に分かれている。それぞれ独立して運転され、乗客は両区間が接続するハーフウェー駅 Halfway Station で車両を乗換える。開業したのは、下部区間が1902年、上部区間が1年遅れて1903年のことだ。1932年に下部区間で車両がケーブルから外れて脱線する事故を起こし、2年間運休となった以外は、2度の大戦中も含めて110年以上走り続けてきた。その間に運行権は、1949年に民間会社からスランディドノ市に移り、その後の自治体再編によって、現在はコンウィ特別市 Conwy County Borough が運営主体となっている。

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グレート・オーム軌道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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グレート・オーム周辺の地形図
1:25,000地形図 SH78, SH88 いずれも1956年版 に加筆。高度はフィート単位。

乗り場のヴィクトリア駅 Victoria Station は、町を南北に貫くグローザイス通り Gloddaeth Street から300mほど山手へ上った、台地の麓にある。駅名は、この敷地にかつて建っていたヴィクトリアというホテルが由来だという。主要道路から引っ込んでいて場所がわかりにくそうに思ったが、心配は無用だった。青い大きな看板のかかる乗り場の前の歩道に、すでに次のブロックまで達する長い行列ができていたからだ。

案内板によると、4~9月は始発10時、最終便が18時で、通常20分毎、繁忙時は10分毎に運行されている(下注)。真っ青な空が広がった今日は、もちろん10分間隔でフル稼働していたが、定員48名の小さな車両なので、並んでいる間も列は解消するどころか、次々と加わる人で長くなる一方だった。

*注 3月と10月は10~17時の運行で、冬場は全面運休となる。

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ヴィクトリア駅の前には長蛇の列が

車両が発着する様子を眺めながら1時間近く待って、ようやく大屋根の下の切符売り場までたどり着いた。ここまで来れば、あと1~2便で乗れる。たまたま前の便が私たちの直前で満席になったので、次に来た車両には先頭で乗込めた。できるならこの手の乗り物は、上るにつれて眼下の景色が開けていく最後尾の席を取りたい。

車両は開業時からいるオープンデッキ付き側窓なしのボギー車で、コバルトブルーの外壁に、クリーム色でクラシックな装飾や文字が描かれている。車内は通路の両側に、2人掛けの狭い木製ベンチが向かい合わせに並ぶ。乗り込んだ客が全員着席すると、すぐに発車した。

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開業時からの古典車両
(左)オープンデッキ付き側窓なし (右)2人掛けの木製ベンチが並ぶ

ヴィクトリアからハーフウェー Halfway までの下部区間は、長さが800m、最急勾配1:3.7(270‰)で、標高差123mを6分で上りきる。大部分が道路との併用軌道で、車両を引き上げるケーブルは、路面に埋められたZレールの溝の中に敷かれている。そのため、地表では車輪が走行する2本のレールと、その間にZレールの平たい頂部が見えるばかりだ。教えられなければ、ケーブルカーとは気づかないだろう。

見かけは有名なサンフランシスコ市内のケーブルカーに似ているが、あちらは、動いているケーブルを車両側の専用装置で掴むことにより移動する循環式だ。対して、こちらは車両がケーブルに固定され、ケーブルとともに移動する。普通のケーブルカーと同じ交走式と呼ばれる仕組みだが、併用軌道で残存しているのはイギリス唯一で、世界でも貴重な存在だそうだ(下注)。

*注 同じ方式がポルトガルのリスボン市内で3路線稼働している。

ところでこの車両、屋根の上にトロリーポールが載っている。見た目の違和感はないのだが、よく考えてみれば車両は動力装置を持っていないはずだ。何のためのポールだろうか。調べてみると、かつて線路の上空には、駅の運転要員と車両の乗務員が連絡を取り合う通信線が張られており、ポールはそれに接触させるものだった。無線機の導入によってすっかり用済みになり、今は固定されたままだ。

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駆動システム図解。動力装置はハーフウェー駅で集中管理されているため、左の下部区間と右の上部区間で方式が異なる

線路は、駅を出るとすぐにオールド・ロード Old Road と呼ばれる家並に囲まれた坂道に入り、そのまま急勾配で上っていく。歩く人でさえ、車両が通るときは石積みの側壁に身を寄せてやり過ごさなければならないほどの狭い道だ。クルマとの対向はとうてい不可能なので、運行時間帯は沿線の住宅への出入りを除いて、車両通行が禁止されている。

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下部区間は4号車と5号車が担当。最初は狭いオールド・ロードを行く
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上るにつれ、スランディドノのプロムナード(海岸遊歩道)が見えてくる

高度が上がるにつれて、弓なりになったプロムナードと波打ち寄せる海岸線が視界に入ってくる。くねくねと曲がったあと、ようやく2車線のティー・グウィンロード Tŷ Gwyn Road(Tŷ Gwyn は白い家の意)に躍り出た。ここでは道路の中央ではなく進行方向右端を走るので、最初に車道を横切らなければならない。その間、警報機が鳴り、道路側の赤信号が灯って、クルマの通行は遮断される。

帰りはここを歩いて降りたのだが、警報機が鳴り出すより前に、地面からガラガラと賑やかな音が響き始めた。ケーブルが溝の中で移動し、滑車が回転する音だ。そしてしばらくしてから車両が現れる。ドライバーはともかく歩行者にとっては、この音が車両の接近を知らせる一番の合図になった。

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ティー・グウィンロードに出る。警報機が鳴り、クルマは停止

まもなく下部区間の中間地点だ。線路が複線に分かれ、降りてきた車両とゆっくりすれ違う。交換所の先は、線路が一種のガントレット(単複線)になるのがおもしろい。走行レールのうち内側2本は近接し、かつ位置が逆転(左車線のレールが右側にある)している。さらに、内側の車輪のフランジが通る溝は、左右車線で共用する形だ。

確かに、中間地点より上半分は2本のケーブルが互いに逆方向に動くから、干渉を避けるにはZレールを分ける、すなわち線路を複線化する必要がある。しかしここは、用地に余裕のない道路上のため、こうした珍しい形状が採用されたようだ。

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道路わきの列車交換所を通過
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(左)交換所より下は単線 (右)交換所より上はガントレットに
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スランディドノ湾が大きく広がる。湾の先の断崖がある山がリトル・オーム

道路とともに右へ大きく曲がると、勾配は輪をかけて急になった。道端の建物が坂上側へ傾いて見える。トラムが涼しい顔で上る隣を、クルマがローギアでエンジンを唸らせながらやっとのことで追い抜いていく。そんなに気張らなくても、と思わず同情したくなる。後ろに開けていたスランディドノ湾の眺望は、いつしか山かげに隠れた。

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カーブを曲がると目に見えて急勾配に。左写真は坂上から、右写真は坂下から撮影

今度は左へカーブする。公園のゲートがあり、並行道路が線路から離れていった。まもなく、ケーブルカーも、ハーフウェー駅の切妻屋根の下へ半分吸い込まれ、そこで停車した。ハーフウェーは文字どおり道の中途なので、山頂へ行く乗客はここで上部区間の車両に乗り換えなくてはいけない。

駅舎は2001年の改築で、見かけはまだ新しい。半円の屋内通路の壁には、軌道の歴史や構造を説明したパネルがかかり、ガラス張りの内壁からケーブルを巻き上げたドラムも間近に見える。それはそれで興味深いのだが、接続する便に乗りたければ、残念ながらじっくり見ている時間はない。

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(左)ハーフウェー駅到着 (右)停車位置の先にある車両検査ピット
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(左)ガラス越しにケーブルの巻上げ機が見える (右)隣接する上部区間の発着場

ハーフウェーからサミット Summit までの上部区間は、750mの長さがある。最急勾配1:9.3(107.5‰)で、標高差44mを4分半で上ってしまう。すでに台地の上に出ているので、勾配は比較的緩く、速度も若干速めだ。下部区間とは違って終始単線(交換所を除く)の専用軌道で、ケーブルも露出している。

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上部区間 (左)ハーフウェー駅を発車 (右)終始専用区間のため、ケーブルが露出

駅を出ると、聖ティドノ教会(下注1)へ降りる道路と交差した後、ヒースが淡い彩りを添える緑の草原をそろそろと上っていく。海側を小さな空中ゴンドラが行き来しているのが見える。スランディドノ・ケーブルカー Llandudno Cable Car という名称のため紛らわしいが、グレート・オームへ上るもう一つの公共交通機関だ(下注2)。後で乗ろうとしたのだが、乗り場に山麓で見たのと同じような長蛇の列ができていたので諦めた。

*注1 ちなみに、聖ティドノ St. Tudno はスランディドノの守護聖人で、町の名の由来でもある。
*注2 公共交通機関としては、スランディドノの市内循環バス(26系統)も山頂まで1時間毎に走っている(日祝日を除く)。

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上部区間の列車交換所で6号車と7号車が交換。背後は空中ゴンドラ
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交換所のあとは少し急な勾配で山頂までひと上り

中間地点を過ぎると、交換した下り車両が、日差し降り注ぐのどかな景色の中を遠ざかっていく。線路には柵がないので、群れからはぐれた羊や牛が入り込むこともままあるそうだ。線路は左右にカーブを切りながら、短い切通しで起伏を乗り越えた。今度は左手に青いコンウィ湾が見えてきて、乗客の視線がそちらに注がれる、と思う間に早くも終点だった。

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(左)左手にコンウィ湾が開ける (右)サミット駅に到着

標高198mのサミット駅は、呼び名にたがわず山頂直下にある。右手の小道を少したどれば、ビジターセンターやショップ、レストランのある山頂の休憩施設だ。しかし、天気のいい日は何よりもまず、遮るもののない陸と海の眺望を楽しみたい。

南側は弧をなすコンウィ湾の後ろになだらかなスノードニアの山並みが続き、西はアングルシーの島影が長く尾を引く。北は、羊が放たれた山上牧場の向こうに、アイリッシュ海の大海原が目の届く限り広がり、そのまま明るい空に溶け込んでいる。こんな気晴らしの場所がすぐ近くにあるスランディドノの滞在客は幸せだと、心から思った。

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山頂から、コンウィ湾とスノードニアの山々を遠望
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(左)山上の台地はのびやかな放牧地 (右)カモメの楽園でもある

次回は南に転じて、鉱山軌道だったタリスリン鉄道に乗る。

本稿は、Keith Turner "The Great Orme Tramway - Over a Century of Service" Gwasg Carreg Gwalch, 2002および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
グレート・オーム軌道(公式サイト) http://www.greatormetramway.co.uk/

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2015年9月 5日 (土)

ハルツ狭軌鉄道 II-ブロッケン線

1日目は天気予報が晴れを告げていたので、ブロッケン Brocken の山頂へ上る計画を立てた。列車のヴェルニゲローデ Wernigerode 始発は8時55分と遅いのだが(下注)、8時過ぎには駅へ着いていた。時差ぼけのせいで早く目が覚めてしまう。

*注 ヴェルニゲローデ駅の始発は7時25分だが、これはハルツ横断線の単行気動車で、ブロッケンには行かない。

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HSBの主力機関車99.23-24形、ヴェルニゲローデ駅構内にて

駅舎の裏にあるHSB(ハルツ狭軌鉄道 Harzer Schmalspurbahnen)のホームは頭端式で、連ねた客車を受け入れるために有効長をかなりとっている。右端の31番ホーム Gleis 31 には、乗るべき車両がすでに据え付けられていた。構成は、オープンデッキの古典ボギー客車6両と、その前に緩急車1両。機関車はまだ入線していないが、待ち時間も退屈することはない。プラットホームの脇に、出入り自由の展望台があるからだ。駅構内とともに、機関庫や転車台や給炭クレーンのある車両基地全体が見渡せ、しかも遠景にはブロッケン山とあれば、シチュエーションに文句のつけようがない。

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ヴェルニゲローデ駅のホーム(別の日に撮影)
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ヴェルニゲローデ駅 (左)乗降設備、奥は駅舎 (右)構内が見渡せる展望台
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展望台から (左)転車台 (右)機関庫

ブロッケン方面の列車はすべて蒸気機関車が牽引する。主力になっているのは軸配置2-10-2のDR99.23-24形蒸気機関車で、1954~56年にかけて当時のドイツ国営鉄道 Deutsche Reichsbahn, DR(東ドイツ国鉄)が調達したいわゆる「新造機関車 Neubaulokomotive / Neubaulok」のグループに入る。全部で17両(231~247号機)製造されたうち、10両が改修を受けて現在も稼働している(下注)。

*注 車番231~247は1970年のコンピュータ化に際して7231~7247に改番され、その後油焚き改造で0231のように再改番された。ナンバープレートは3桁と4桁が混在している。

やがて、99 7247機が前に連結され、発車の準備が整った。間際になってもホームは割合閑散としていて、車内も比較的空席がある。いつでも座れる状況なので、まずは最後尾のデッキに陣取った。車掌の腕が上がり、軽い汽笛とともに列車は定刻に発車した。

■参考サイト
Wikimedia - DR99.23-24形の写真集
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:DR_Class_99.23-24

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(左)客車との連結作業 (右)出発を待つばかり

次のヴェルニゲローデ・ヴェステルントーア Wernigerode Westerntor まではわずか1kmだ。ヴェステルントーアというのは西門のことで、旧市街を囲む市壁にあった4つの門の一つだが、今はこれしか残っていない。門が近いということは旧市街の最寄り駅を意味しているので、帰りはここで下車して宿へ戻った。この駅で列車交換が行われることも多いし、鉄道の整備工場が隣接していて、留置中の車両が車窓からも見える。撮り鉄ならば見逃せないスポットだ。

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ヴェステルントーア駅

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ヴェルニゲローデ市街とその周辺、赤い円で囲んだ位置が撮影スポット1~3
官製1:25,000 4130 Wernigerode 1997年版に加筆
(c) Landesamt für Vermessung und Geoinformation Sachsen-Anhalt (LVermGeo) 2015

その他近辺にある撮影スポットも紹介しておこう。

1.駅のはずれの跨線橋(上図の1の円内、以下同じ)

DB線とHSB線をまたぐ自転車と歩行者専用の跨線橋で、ヴェルニゲローデの車両基地を遠望できる。本線の線路も跨線橋の前後でカーブしているので絵になる。ヴェルニゲローデ駅から跨線橋まで約500m。

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駅のはずれの跨線橋
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跨線橋から遠望した駅構内
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跨線橋からの眺め (左)ブロッケン山に向けて出発 (右)煙を残して去る

2.西門に通じる交差点

ここでは十字路になった道路に対して、線路がたすきがけに交わっている。列車通過時は、警報が鳴るとともに道路信号は全方向が赤になる(ただし、線路に支障しない右左折のみ通行可)。大名行列に遭遇したかのように車が一斉にひれ伏す中、蒸機がしずしずと交差点に進入してくる。ヴェステルントーア駅から南へ200m、市庁舎のあるマルクトから西へ300mにある。

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西門に通じる交差点 (左)背後の塔が西門 (右)交差点をたすきがけに横断

3.ホッホシューレ・ハルツ Hochschule Harz 停留所(下注)のすぐ西にある併用軌道

ごく短区間だが、1車線の生活道路に蒸機が堂々と割り込んでいく。ちょっとバート・ドベラーン Bad Doberan の「モリー Molli」を思わせる珍しい光景だ。

旧市街からは1.5kmほど離れているので、列車の便がないときは線路沿いの遊歩道を歩くか、並行する道路(上の地形図で黄色に塗られた道路)を走る市内バスHVB(1系統と4系統)を利用するとよい。最寄りのバス停はホッホシューレ・ハルツではなく、キルヒシュトラーセ Kirchstraße。

*注 鉄道のこの停留所はかつてヴェルニゲローデ・キルヒシュトラーセ Wernigerode Kirchstraße(教会通りの意)と称したが、近くにあるホッホシューレ・ハルツ(ハルツ大学)の名をとって改称された。

なお、機関車は基本的に、ヴェルニゲローデ発の列車では正面を向いているが、同駅着の列車は逆向き(後退運転)になるので注意のこと。

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(左)ホッホシューレ・ハルツ停留所から見た併用軌道
(右)通過する列車の最後尾から撮影
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(左)停留所を出発する列車 (右)生活道路を一時占有

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路線図
官製1:200,000 CC4726 Goslar (2010年版)に加筆
(c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

私を乗せた列車は、今ヴェルニゲローデを駅名に冠する最後の停留所ヴェルニゲローデ=ハッセローデ Wernigerode-Hasserode を出たところだ。ここから本格的な山登りが始まる。ハルツ山地は、西北西~東南東の方向に走る断層(北ハルツ境界断層)に沿って隆起したいわゆる地塁山地だ。ヴェルニゲローデは渓口集落の一つで、山地から流れ下るホルテンメ川 Holtemme が平地に出る場所に立地する。

HSBはこの谷を遡って山地の本体にとりつくのだが、今も隆起運動が継続しているため、谷は深くて急傾斜だ。ハッセローデ駅の標高280mに対してサミットの先にあるドライ・アンネン・ホーネ駅は543m、高度差が260m以上もある。これを規定の勾配に収めるには、2駅間の直線距離が6km足らずのところ、線路延長を9.8kmと1.6倍に引き延ばす必要があった。地形図でご覧いただけるように、山襞に忠実に沿う羊腸の軌跡がその答えになる(下の地形図参照)。

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ハッセローデ~
ドライ・アンネン・ホーネ
鉄道記号の矢羽根は
20‰以上の勾配区間を表す
旧東独官製1:50,000 M-32-10-C Braunlage 1988年版
M-32-10-D Wernigerode S 1988年版に加筆

具体的に見ていこう。ハッセローデを出ると、まず東北東~西北西の谷筋シュタイネルネ・レンネ Steinerne Renne(下注)に少し寄り道する。迂回して高度を稼ぐ目的もあるだろうが、ここは渓流が剥き出しの岩肌を無数の小さな滝となって流れ落ち、以前から景勝地として知られていた。狭い谷の中で線路が方向転換した先に同名の駅が設けられ、観光名所への足も確保されることになった。

*注 シュタイネルネ・レンネ Steinerne Renne は、石の多い渓谷の意。Renne は Rinne に同じ。

ちなみにこの方向転換は半径60mで、線内での最急曲線だ。ここまで私はずっと最後尾のデッキにとどまっていたのだが、それは、曲線に入った時に後ろから列車の全景を捉えようと狙っていたからだ。ところが、期待はあっさり裏切られてしまった。曲線があまりに急なために、先頭の機関車は周りの森に隠され、たなびく煙しか見えない。カメラのアングルに収めようとするなら、前から4~5両目までが限界だろう。過ぎたるは及ばざるがごとしと、ここで思い知った。

線路は1:30(33.3‰)の急勾配で上り続けている。谷奥への2つ目の迂回を過ごしたあと、短いトンネルに入るが、これが長さ58mのトゥムクーレンコプフトンネル Thumkuhlenkopftunnel だ。HSB全線でトンネルはこれ一つしかなく、たとえ短くても言及する価値がある。確かに、蒸機運転ではトンネルが少ないほうがありがたいが、これだけの山岳路線でトンネルを回避しようとすれば、どれほど厳しい線形が要求されたか、想像に余りある。

このあたりでは谷底との比高が70~80mに達するが、トウヒの大木が斜面をすっかり覆っていて、視界が開ける区間はほとんどない。次の駅との間は8.2kmも開いているので、途中に列車交換のためのドレンゲタール信号所 Drängetal Betriebsbahnhof がある。ドレンゲタール(ドレンゲ谷)は、今たどっている南北に切れ込んだ谷の名だ。やがて車窓下方に道路が見え隠れするようになると、前半の難路も終わりが近い。上りきったところはブロッケン山塊の東麓にあたり、標高500m前後の高地に広大な森が広がっている。

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(左)今はさびれたシュタイネルネ・レンネ駅 (右)ドレンゲタール信号所を通過

深い森を切り拓いたドライ・アンネン・ホーネ Drei Annen Hohne 駅に9時32分到着。ブロッケン線 Brockenbahn の本来の起点で3面3線を擁する立派な駅だが、それでもお昼前後のピーク時には3線とも満杯になる。というのも、麓の町から来る列車のほかに、当駅始発・終着となる便が設定されているからだ。ヴェルニゲローデ発の山頂行きは朝を除きおよそ90分間隔だが、ここで間に1本入って45分間隔になる。実は、山頂方面への道路は許可車両を除いて進入不可のため、歩いて登る元気がないなら列車に乗るしか方法がないのだ。そのために駅の南側に大きな駐車場が用意されていて、多くのマイカー客がここから列車を利用する。その点で、ドライ・アンネン・ホーネはブロッケン山への隠れた玄関口だ。この列車にもたくさん乗り込んで来て、空だったボックスもあらかた埋まった。

10分強停車して、9時45分定刻に発車。左手にハルツ横断線の線路を見送ったあと、列車はブロッケン線を上り始めた。すでにハルツ国立公園 Nationalpark Harz の域内だ。深い森がさっきと同じように続いているが、これからはブロッケン山塊の南斜面に沿っての上り道になる。気がつくと、デッキに出て写真を撮っている顔ぶれが交代している。さっき乗り込んできた人たちだろう。

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ドライ・アンネン・ホーネ駅
(左)ホームと駅舎 (右)この駅始発もあるので、帰りは3線とも列車で満杯

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ブロッケン線シールケ~ブロッケン
旧東独官製1:50,000  M-32-10-C Braunlage  1988年版に加筆

次のシールケ Schierke が、最後の旅客駅になる。標高は687m。地図を見ると、駅は森の中にぽつんとあり、シールケの村までは1.5kmほど離れている(下注)。ドイツが東西に分断されていた時代、国境に隣接する村は立入りが厳しく制限されていた。シールケまで1日2本だけ運行されていた旅客列車も、当局の特別通行証がないと乗れなかった。

*注 シールケ村から山手へは許可車両以外走行できないため、駅へのアプローチは徒歩のみ。しかし、このとき駅のそばに乗用車が何台も停まっているのを見かけたので、制限が緩和された可能性もある。

その先入観でうら寂しい無人駅を予想していたが、現実は全く違った。列車が着くと、見物なのか乗るつもりか定かでないが、わらわらとホームに上がってくる人たちがいる。駅舎では店も開いて繁盛しているようだ。シールケ村は戦前、夏は登山、冬はスキーのリゾートで「北のサン・モリッツ St. Moritz des Nordens」の異名をとっていた。再統一後はその復興が進んでいる。乗換え客主体のドライ・アンネン・ホーネと違って潜在需要があることが、駅頭の賑わいからも窺い知れた。

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シールケ駅
(左)昼間は必ず列車交換がある (右)乗降客と見物客で大賑わい(いずれも帰路写す)

さらに上っていくと、徐々に車窓が明るくなるのに気づくだろう。まだ森は森なのだが、木々の背丈が低くなってきているのだ。やがてゲーテヴェーク信号所 Goetheweg Betriebsbahnhof を通過。西方のトルフハウス Torfhaus から来る登山道「ゲーテの道」(下注)と交差するので、その名がある。1:30(33.3‰)の急勾配上のため通過式スイッチバックになっていて、帰りはここで列車交換が行われた。下山する列車が側線に入って、登ってくる列車を待避する。車窓からは、上ハルツ Oberharz の蒼く優美な山並みが視界いっぱいに広がるので、通過を待つ時間も苦にならなかった。

*注 ゲーテヴェーク(ゲーテの道)は、1777年にブロッケン山に登った文豪ゲーテがたどったとされるルートに沿う登山道。

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ゲーテヴェーク信号所
(左)登山者に見送られて
(右)勾配途中のためスイッチバック式。帰りはここで上ってくる列車を待った
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(左)対向列車通過 (右)観光客でデッキまで鈴なり(いずれも帰路写す)

いつのまにか山腹を南から西へ、そして北へと回り込んできた。ケーニヒスベルク Königsberg との間の鞍部からは、山頂の送信塔がよく見える。地形図では、線路がいよいよブロッケンの本体に取り付いて、反時計回りというか、「の」の字ロールの形に上っていくのがわかる(上図参照)。森林限界を越えたから視界を遮るものはほとんどなく、回転展望台に座っているようなものだが、1周以上も回ったとは意識しないうちに、早や山頂のブロッケン駅に着いてしまった。10時36分着、最後まで定時運行だった。機関車はすぐに切り離され、機回し線を通って、山麓側に付け直される。転車台は山麓のヴェルニゲローデにしかないので、帰りはどの列車も機関車は逆向きだ。テンダーを前にして走る機関車では絵にならないが、仕方がない。

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最後の区間 (左)山頂が指呼の間に (右)「の」の字の途中で登山道と交差
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ブロッケン駅到着(左写真はビデオからのキャプチャー)

予報どおりのいい天気で、視界はきわめて良好。目の前に展開する大パノラマには大いに感動するものの、吹きさらしの山頂は長袖シャツにパーカーを重ねても寒いくらいだ。周りを見ると、ジャンパー姿の人も多い。寒いとトイレが近くなるが、有料トイレも山頂価格で、1ユーロする(麓の相場は50セント)。札をくずそうと土産物屋へ行くと、箒にまたがった魔女人形が鈴なりになっていた。ゲーテ「ファウスト Faust」のヴァルプルギスの夜の段に描かれているように、ブロッケン山は魔女の集う山だ。言い伝えでは、4月30日の陽が沈むと世界中から魔女がこの山頂に飛んできて、一晩の饗宴が催されるらしい。魔女人形は麓の町でいくらも売っているが、集会の現場で見るとありがたみが増すような気がする。ただ、どれもけっこう怖い顔をしているので、土産にいいのかどうか躊躇するところだ。

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山頂から北望

駅から2~3分歩けば、真の山頂に到達する。広場中央の最高地点には、中央に花崗岩の自然石を使ったモニュメントが据え付けられている。記念写真を撮ろうとして銘板をよく見ると、BROCKEN 1142mとある。待てよ、私の地形図に記された標高は1140.7mだが...。

後で調べたところ、ドイツ再統一以前、ブロッケンの標高は1142mとされ、西側の地図にはそう記されていた(東側の地形図では1140.7mと記載)。しかし、1990年代初めの再測量で、新たに1141.1mの標高値が与えられた。モニュメントは1990年代半ばに設置されたものだが、小さな銘板に下向きの矢印で示されているのが旧標高1142mの位置なのだそうだ。経緯は分かったが、北ドイツの最高峰に造った記念碑にしては、えらく細かい辻褄合わせをしたものだ。

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(左)左からホテル・展望塔、送信塔、博物館 (右)山頂のモニュメント
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山頂を後にするハイカーの一団

次回はハルツ横断線に乗る。

本稿は、「ドイツ・ハルツ山地-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.11、コンターサークルs、2014に加筆し、写真、地図を追加したものである。

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2015年1月12日 (月)

MGBシェレネン線と悪魔の橋

ゲシェネン Göschenen ~アンデルマット Andermatt 間3.71km
軌間1000mm、11.5KV 16.7Hz交流電化、アプト式ラック鉄道(一部区間)、最急勾配181‰
1917年開通(1200V直流電化)、1941年交流化

アルプスの南へ行くSBB(スイス連邦鉄道)の優等列車に乗り、チューリッヒからだと1時間半もすれば、車窓はいよいよ深い山あいの風景に変わる。谷川を高い橋梁で渡り、スパイラルやジグザグループまで駆使して上り詰めたところが、ゲシェネン Göschenen の駅だ。目の前にアルプスを貫くゴットハルトトンネル Gotthardtunnel(下注)のポータルが2つ口を開けている。

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車窓から悪魔の橋を望む

*注 ゴットハルトトンネルは、1882年に開通した長さ15003mの鉄道トンネル。ゴッタルドと呼ばれることも多いが、これはイタリア語のGottardoから来ている。

SBBの列車はそのままこの長大トンネルに入ってしまうが、駅舎の外側では、アンデルマット Andermatt 方面へ行く列車が乗換え客を待っているだろう。今回のテーマは、この列車が挑むゲシェネン~アンデルマット間の鉄道路線の話だ。

路線は、マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB) に属している。しかし、この社名になったのは2003年と比較的新しく、それまではフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn (FO) と言った(下注)。筆者などは今でもその名に親しみを覚えるが、時代をさらに遡れば、FOの傘下に入ったのは1961年で、古くは「シェレネン鉄道 Schöllenenbahn」という独立した鉄道会社が運行していた。シェレネンというのは、鉄道が遡る谷の名だ。現在MGBでは個々の路線名をつけていないようだが、この稿では氷河急行が走る「FO本線」と区別するために、ゲシェネン~アンデルマット間を「シェレネン線」と呼ぶことにしたい。

*注 フルカ・オーバーアルプ鉄道とブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道 Brig-Visp-Zermatt-Bahn (BVZ) が2003年に合併してMGBが誕生した。

シェレネン線はメーターゲージ(軌間1000mm)で、交流11500V、16.7 Hzの電化路線だ。距離は短く、3.7kmしかない(下注1)。ところが、標高は起点ゲシェネンの1106mに対して、終点アンデルマットでは1436mもある。330mの高度差をこの距離で克服するには、アプト式ラックレールを使った最大181‰(下注2)という登山鉄道並みの急勾配が必要だった。MGBの路線群には随所にラックレール区間が見られるが、その中で最も急な坂道になる。

*注1 "Eisenbahnatlas Schweiz" Verlag Schweers+Wall, 2012による。なお、MGBの公式サイトではAndermatt–Göschenen 3.5kmとある。
*注2 Hans G. Wägli "Bahnprofil Schweiz CH+", 2010 およびMGBの公式サイトによる。

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MGBシェレネン線 周辺図
スイス官製1:50,000地形図 ズステン峠 Sustenpass 図葉の一部を使用

1882年に開通した標準軌のゴットハルト鉄道にも、今のルートの他に、アンデルマットまで上ってからトンネルを掘るという案があったらしい。しかし、通常のレール(粘着式)で達成するには、さらにいくつかの大ループを構える必要があっただろう。実際のところゴットハルト鉄道は、ロイス川の遡行をゲシェネンで諦めて、トンネルに潜り込んだ。川の上流を極めるという願いは、別の鉄道に託されることになる。

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シェレネン線の最初のプランはすでに1890年から発表されていたが、実現に向かったのは1903年に技師リヒャルト・チョッケ Richard Zschokke が提案したものだった。銀行のほか、電気機関車の製造元ブラウン・ボヴェリ社などからも出資を募って、1913年にようやく着工まで漕ぎつけた。当時、後のFO線であるフルカ鉄道 Furka-Bahn はまだ工事中だったが(下注)、アンデルマットで車両の乗入れができるように、仕様が調整された。ラックレールは同じアプト式とされ、アンデルマット駅の位置もFOの計画に則っている。唯一FOと異なるのは、最初から電気運転だったことで、直流1200Vが採用された。

*注 1914年オーバーヴァルト~グレッチャー間開業、1926年全線開業。

工事は、決して順調ではなかった。山間の悪天候に作業員不足が重なり、着手が遅れたところへ、翌1914年には第一次世界大戦が勃発して、もはや中断寸前にまで追い詰められた。しかし、ゴットハルトは要塞地域だったので、鉄道の戦略的重要性を認めた軍当局から支援を受けて、工事が続けられた。こうして、シェレネン鉄道は1917年7月に何とか開通を迎えたのだった。戦時中のため盛大な開通式典は許されず、ささやかな出発式だけが行われたそうだ。

運行は始まったものの、工事遅延に伴う大幅な予算超過が、会社の経営を圧迫していた。そのうえ戦争が終わると、軍事輸送が激減した。1919年は晩秋に大雪が降り、除雪に手元資金を使い尽くした会社は、12月に運行中止の決断を余儀なくされる。やむなく連邦郵政省が乗り出し、冬季の運行経費を肩代わりした。

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アンデルマット駅周辺の地形図
(左)シェレネン鉄道単独の時代。駅は現在と同じ位置にある(地図は1921年版)
(右)FO開通後(同 1965年版)
スイス官製1:50,000地形図アンデルマット Andermatt 図葉の一部(左)および1:25,000地形図ウルゼレン Urseren 図葉(右)の一部を使用

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シェレネン谷の地形図
スイス官製1:25,000地形図
ウルゼレン Urseren 図葉の一部を使用

事態が好転したのは、1926年に待望のFO線が開通してからだ。シェレネン鉄道は、SBBゴットハルト線とFOを結んで、予定していた連絡機能を果たせるようになった。1928年にはゲシェネンで、SBBとの間で貨物を受け渡す設備が完成している。再び世界大戦が始まると、燃料逼迫の憂慮から、蒸機運転のままだったFOの電化が推進された。電化方式は、直通するレーティッシェ鉄道の交流11500V 16,7 Hzに合わせることになった。それに伴い、シェレネン鉄道も、発注した電気機関車の納入を待って、1941年に直流から交流へ切替えられた。

戦争中はガソリン不足で好況を呈したものの、終戦により利用者数は再び落ち込んだ。代わりに台頭してきた自動車交通との競争に喘ぐようになるのは、小規模の鉄道路線が共通して受けた試練だ。シェレネン鉄道も収益が思うように上がらず、1956年から赤字に転落していく。そして1961年、苦境に陥った鉄道はついにFOと合併する道を選び、ほぼ50年の歴史を自ら閉じた。車両はすでに共通運用が進んでいたが、ブルーグレーとクリームの独自色だった車両は、FOの赤一色に塗り変えられた。それ以来、シェレネン線はFO(現 MGB)の一路線として運行されている。

SBBゲシェネン駅は、谷間に造られたにしては構内が広々としている。ホームに降り立って周囲を見回しても、乗換えるべきアンデルマット Andermatt 方面の列車はどこにもいない。それもそのはず、シェレネン線の乗り場は、駅舎の前(SBBホームから見ると裏側)にあるのだ。地下通路を渡って再び地上に上がると、駅舎の軒先を間借りしたような小さなホームで、小振りの赤い列車(下注)が待っているはずだ。

*注 乗車した2013年当時、シェレネン線の列車はアンデルマットからブリーク Brig、フィスプ Visp へ直通しており、ディゼンティスへ行く旧FO線よりも本線のように扱われていた。乗客の流動に沿った措置かと思われたが、2015年の新ダイヤではアンデルマット乗換えに戻ってしまった。

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(左)SBBゲシェネン駅、正面はゴットハルトトンネル
(右)駅舎の前にあるMGBシェレネン線のゲシェネン駅
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(左)簡素な車内 (右)ブリーク~ゲシェネン直通のサボ(帰路写す)

ゲシェネンを発車すると、すぐにラックレール区間が始まる。ゴロゴロと低い音を立てながら、SBBの広いヤードの脇をぐいぐい上っていくので、SBBの線路とはたちまち高低差がついてしまう。左に、ロイス川が現れる。青白い雪解け水が、河原に転がる白い大岩の間を勢いよく流れ落ちている。ゴットハルトトンネルのポータルを左に見送ると、列車は車輪をきしませながら右に転じて、いよいよシェレネン谷の遡行にとりかかる。谷壁は両側とも仰ぐ高さにまで切り立ち、岩肌が剥出しの荒々しい姿を見せている。これからの行路が尋常なものでないことは、誰もが感じるところだ。

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(左)発車するとたちまち急坂に (右)ゴットハルトトンネルのポータルを見送る
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ゲシェネン駅遠望

二つ目の橋を渡って再度川を左にすると、まもなく列車は、落石や雪崩を避けるシェッド(覆道)に入ってしまう。途中にあるシュタインレケーア Steinlekehr 信号所では、しばしば列車交換がある。しばらくシェッドとトンネルが続くが、その中で列車はゆっくりと、しかし着実に高度を上げていく。これがどれぐらいの急勾配かは、横を走る道路が追いつくためにヘアピンカーブを何度も重ねているのを見れば一目瞭然だ。最後の長い暗闇の間に、カメラを用意しておこう。闇を抜けた途端、車窓左側に有名な悪魔の橋が見えるからだ。

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(左)カーブと勾配の難路 (右)大岩が転がるロイス川
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(左)シェッド(覆道)が連続 (右)シュタインレケーア信号所で列車交換

垂直に切り立つ深い谷間に、みごとなアーチ橋が2本架かっている。これが悪魔の橋だ。そのうち上方にあるスパンの長いほうが3代目、1958年に建設された2車線の道路橋だ。下にあるのは2代目、1830年に造られた石造橋で、谷間に石垣を高く積んで足場を造り、高いアーチで谷川をまたぎ越している。とすると、初代の橋はどこにあるのか。

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(左)悪魔の橋、上が3代目、下が2代目。左下の遊歩道を行くと橋のたもとに出られる
(左)上流から望む

初代は1595年に、それまでの木橋に替えて造られたのだが、1888年の嵐で崩壊して、今は左岸に基礎だけがわずかに残っている。見るからに険しい渓谷に人の手で橋を架けるのは大変な困難を伴った。土地の伝説によると、ある日、村人の前に悪魔が現われてこう言ったそうだ。「橋を造ってやろう。その代り、最初に橋を渡った者の魂は俺がいただく」。彼らは取引を受け入れた。

3日後、できあがった橋の向こう側に悪魔が座り、報酬を待っていた。村人たちは一計を案じ、人間の代わりにヤギを一匹送り出した。「約束が違うぞ」。激怒した悪魔は、橋を壊そうと大岩に手を掛けた。そのとき小さな老女がやってきて、石に十字架を刻んだ。十字架を目にした悪魔は、とたんに投げる方向を見失った。岩はゲシェネンから遠くない谷間に落ち、それ以来そこにあるという。

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ゲシェネン付近の地形図。図上方に Teufelstein(悪魔石)の注記がある
スイス官製1:25,000地形図ウルゼレン Urseren 図葉の一部を使用

大岩は、実際にゲシェネンの高速道路の脇に存在し、悪魔の石 Teufelsstein と呼ばれている(下注)。もとはここから127m離れた場所にあったのだが、高速道路建設の用地と重なるため、1973年に現在地に移されたのだ。重さが2000トンもあり、曳家の要領で移動させるのに30万スイスフランもの費用がかかった。完成したゴットハルト道路トンネルで事故が多発したため、地元の人々は石を動かしたせいだ、と噂したそうだ。

*注 地形図には Teufelstein(悪魔石)とあるが、本稿では下記観光局のサイトに従い、Teufelsstein(悪魔の石)と表記する。

■参考サイト
アンデルマット=ウルゼレン谷観光局公式サイト-悪魔の橋(英語版)http://www.andermatt.ch/en/erlebnisse/schoellenen/Teufelsbruecke
 
初代悪魔の橋の絵
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Teufelsbrücke_UR.jpg
二代目悪魔の橋とシェレネン沿線の空撮(1934年)
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:2.Brücke_1934.jpg
移設前の悪魔の石
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Teufelsstein_alt.jpg
移設後の悪魔の石
http://www.panoramio.com/photo/9673154

悪魔の橋を後にして、列車は三たびロイス川を渡る。道路併用の大きなシェッドを出るところで、長く続いたラック区間がようやく終わる。右手車窓に、周囲を高い山に囲まれたウルゼレン Urseren の盆地が広がるようになれば、終点アンデルマットはまもなくだ。

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(左)ディゼンティスからの線路と合流 (右)アンデルマット駅

■参考サイト
マッターホルン・ゴットハルト鉄道(MGB)公式サイト
http://www.matterhorngotthardbahn.ch/
Die schmale Spur - Die Schöllenenbahn
http://www.schmalspur-europa.at/schmalsp_73.htm
Andermatt-Urserntal Tourismus http://www.andermatt.ch/

使用した地形図の著作権表示 (c) 2015 swisstopo.

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2014年12月31日 (水)

スイス ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道

・索道線
 ラウターブルンネン Lauterbrunnen ~グリュッチュアルプ Grütschalp 間1.43km
 2006年開通
(旧 鋼索鉄道線 1.42km
 軌間1000mm、1891年開通(リッゲンバッハ式ラック鉄道として)
 1902年電化、1949年鋼索鉄道化)
・鉄道線
 グリュッチュアルプ Grütschalp ~ミューレン Mürren 間4.27km
 軌間1000mm、560V直流電化、最急勾配50‰
 1891年開通

正式な分類ではないが、山上(さんじょう)鉄道と言われるものがある。高地にある村や観光地へ人や荷物を届けるという役割では登山鉄道などと変わらないのだが、山麓または谷底で他の鉄道路線と直接接続してはおらず、高地で孤立している路線のことだ。通常、下界との間は、ケーブルカーやロープウェーなど他の交通手段で連絡されている。

このタイプが採用されるのは、たとえば急斜面の上に比較的なだらかな高地が広がる地形の場合だ。登山鉄道のように斜面に線路を引き回すと建設費が高くつくので、困難な斜面は直登し、高地に出たら水平に進むというルートを採る。そのような場所に敷かれた山上鉄道は、概して車窓の景色がいい。ましてやスイス中部でも人気の観光地、ユングフラウ三山のそばを走るとなれば、絶景の展開を期待しないほうがおかしいだろう。

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メンリッヘンから見たラウターブルンネン谷
BLMの通過地点を加筆

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その鉄道の正式名称は、ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道 Bergbahn Lauterbrunnen–Mürren (BLM) という。名前の通り、ラウターブルンネン Lauterbrunnen とミューレン Mürren(下注)を結び、地元では略して「ミューレン鉄道 Mürrenbahn」と呼ばれている。

*注 Mürrenの第1母音は短母音なので「ミュレン」と書くべきだが、スイス政府観光局公式サイトですら「ミューレン」と表記しているのでそれに従う。

鉄道の舞台であるラウターブルンネン谷 Lauterbrunnental は、氷河が造り出した典型的なU字谷だ。谷底にあるラウターブルンネンと、谷のへりに載る山の村ミューレンとの標高差は、およそ840m。これを、ラウターブルンネン~グリュッチュアルプ Grütschalp 間がロープウェー、グリュッチュアルプ~ミューレン間が粘着式鉄道と、2種類のモードの連携で克服している。開通は1891年8月で、当初、前者はロープウェーではなく、ケーブルカーで建設された。少し歴史を追ってみよう。

*注 標高は、ラウターブルンネンBLM駅800m(ロープウェー起点の案内板による。797mとする文献もある)、グリュッチュアルプ駅1486m、ミューレン駅1639m。

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ラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道 周辺図
スイス官製1:100,000地形図ブリューニック峠 Brünigpass およびオーバーヴァリス Oberwallis 図葉の一部を使用

1880年代、ユングフラウ地域(リュッチーネ川 Lütschine 流域)では、鉄道の建設計画がある種のブームを呈していた。認可を受けた鉄道は次の10年間に続々と完成を見て、現在もある鉄道網がほぼこの時期にできあがった。そのうち最初に開通したのが1890年7月、インターラーケンからラウターブルンネンとグリンデルヴァルトへ延びるベルナー・オーバーラント鉄道 Berner Oberland-Bahnen (BOB) だ。これはリュッチーネ川の谷を遡る路線だが、これを足掛かりにして今度は山を這い上がる観光鉄道が造られていく。BLMもその一つだった。

BLMの第一走者だったケーブルカーは、BOBラウターブルンネン駅の山側にある山麓駅から、標高1486mのグリュッチュアルプまで直線的に上っていた。路線延長は1.42kmで、高度差690mあった。動力は、当時普及していたウォーターバラスト方式が採用された。ウォーターバラスト(水の重り)というのは、釣瓶のように、山上で水を積んだ車両がその重みで下降し、ケーブルにつながれた麓の車両を上昇させる仕組みだ。しかし、作業時間の短縮と車両の大型化に対応するために、1900年代初めに電気運転に切替えられている。

第二走者の山上鉄道は初めから電気運転で計画されたが、これは当時としては大胆な選択だった。先行するBOBはいうまでもなく、少し遅れて1893年に開通したシーニゲ・プラッテ鉄道 Schynige Platte-Bahn も、ヴェンゲルンアルプ鉄道 Wengernalpbahn も蒸気運転だ(下注)。しかし、山上鉄道の場合、蒸気機関車本体は分解して運び上げるとしても、燃料調達を日常的に麓から行うのは現実的でなかっただろう。

*注 ユングフラウ鉄道 Jungfraubahn だけは地中区間が長いため、最初から電気運転で建設されたが、地上区間(クライネ・シャイデック~アイガーグレッチャー)が開通したのはBLMの7年後の1898年、全通は1912年。

次に検討されたのは蓄電池式電車だ。しかし、当時の蓄電池は耐用年数が短いばかりか、重量で線路を傷めることが懸念されて、見送られた。最終的に架空線方式が採用されたのだが、スイス国内ではまだ珍しく、レマン湖畔ヴヴェーの路面軌道、バーゼル=ラント準州の路面軌道(下注)に次いで、実用化では3番目だった。両路線とも廃止されてしまったので、現在は、BLMが国内最古の粘着式電化鉄道になっている。

*注 前者は正式名ヴヴェー=モントルー=テリテ=シヨン路面軌道 Tramway Vevey—Montreux—Territet—Chillon (VMC) 、1888年5月開通、1952~58年段階的廃止。後者はジサッハ=ゲルターキンデン鉄道 Sissach—Gelterkinden-Bahn (SG)、1891年5月開通、1916年廃止。

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ラウターブルンネン村とシュタウプバッハ滝 Staubbachfall
(WABの車窓から撮影)

開通式は6月1日に予定されたものの、車両の送達が間に合わなかった。後でようやく届いたものの、試運転中に客車が脱線してひどく損壊し、その影響で別の客車も、運輸当局から安全性に疑念があるとして使用の差止めをくらうなど、さんざんなスタートとなった。とりあえず貨車を人が乗れるように改装して充当した、というのが8月14日開通当日の真相だ。その一方で鉄道の人気は高く、押し寄せる利用者をさばくのに苦労したという。機関車3両と客車が揃って、山上鉄道が完全な形で開通したのは翌1892年5月になってからだった。

ケーブルカーの敷設ルートは、谷の西側に連なる断崖がとぎれた場所をうまく選んでいる。100年以上もそうして運行されてきたが、設計者の誤算があったとすれば、それはこの斜面の一部が地滑り地帯だったことだ。建設以来、地盤が横方向に最大2.5m、下方向に同じく3m以上動いており、BLMはそのつど対策工事を迫られてきた。

ロープウェーなら、地質の安定した場所に支柱を立て、地すべりの恐れがある斜面をまたぎ越すことができる。運行の安全性を担保するために、連邦運輸省はケーブルカーの営業認可を2006年半ばまでとして、転換を促した。ルートは変更せず、駅施設も再利用することにしたため、ケーブルカーの運行は、着工に先立つ2006年4月23日限りで休止となった。工事が完成し、ロープウェーで運行が再開されたのは同年12月16日で、この間8か月あまり、BLMでは、山上鉄道だけが列車本数を削減した臨時ダイヤで動いていた。

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ラウターブルンネン~グリュッチュアルプ間の地形図
(上)ケーブルカー時代(地図は1998年版)
(下)ロープウェー転換後(同 2006年版)
スイス官製1:25,000地形図ラウターブルンネン Lauterbrunnen 図葉の一部を使用

筆者が初めてBLMに乗った1984年には、もちろんケーブルカーが健在だったが、昨年(2013年)8月に再訪したときは、ロープウェーに置き換わっていた。ケーブルカーの路盤はすでに撤去され、痕跡すら定かでなかった。新しいロープウェーのキャビンは、一度に100人を運べる大型のものだ。山麓駅の乗場にはけっこうな行列ができていたのだが、難なく全員が車内に収まった。

ケーブルカーのルートをなぞって斜面を這い上がるので、側窓の眺望は望み薄だろう。そう考えて谷側の窓のほうに寄っていたのだが、実際、針葉樹林が両側に迫ってくるため、視界は縦方向にしか広がらない。その狭いフレームのなかで、谷を隔てた山の中腹に広がるヴェンゲン Wengen の村が目の高さになり、そして眼下に沈んでいった。1台の搬器が往復しているだけですれ違いがないせいもあって、あれよと言う間に山上駅に到着する。ケーブルカーの時代は片道11分(当時の時刻表による)かかっていたが、ロープウェーならわずか4分だ。

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(左)ラウターブルンネンBLM駅舎 (右)ロープウェーの大型キャビン
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(左)ロープウェーの車窓から(2013年)
(右)旧ケーブルカーの車窓から(1984年)

グリュッチュアルプでの乗換はスムーズ、と言いたいところだが、夏のシーズン中で利用者が多い。山上鉄道のホームで待っていたのは、1967年製造(1997/98年改造)のBDe 4/4形単行電車。定員が座席56名+立席44名、計100名なので、数字上はロープウェーからの乗換客を収容できるはずだが、大きなバックパックを背負っている人のことは計算に入れているまい。案の定、車内はデッキを含めて、ぎっしり満員御礼の状況になり、運転席の右側の折畳み椅子も、臨時の敬老シートに転用された。予想外の混雑だが、終点までは所要14分なので、少しの辛抱だ。

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(左)グリュッチュアルプに到着 (右)山上鉄道に乗換え

粘着式鉄道は軌間1000mm、斜面を水平に移動しているように見えるが、実態は最急勾配50‰、最小曲線半径40mの、けっこうな山岳路線だ。全長わずか4.3kmの間に、高度150mを上っていく。車窓の眺望はミューレン行きの場合、一方的に左側に開ける。スイスの絶景鉄道は数々あるが、ユングフラウ三山をこれほど近くから良い並びで拝めるというのは、この路線だけが持つアドバンテージだ。

グリュッチュアルプを出ると、まもなく草原が広がる区間があり、左手前方にくだんの雪山が見えてくる。中間地点のヴィンターエック Winteregg で、対向列車をかわした後、線路は張出し尾根を巻くためにU字谷のへりに最も近づいていく。運転席の後ろにかぶりついていると、まるで雪山に向かって突進しているように錯覚する。線路の左手には高さ700~800mもある大断崖がぱっくりと口を開けているのだが、目の前の雄大な風景に夢中で、足もとのことは誰も気に留めない。

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(左)運転台拝見 (右)かなたにヴェンゲンの村とメンリッヒェン
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(左)ヴィンターエックで列車交換(帰路写す)
(右)対向列車が下りてくる。右上の目のマークは、フロントガラスに貼られたワンマン運転(乗車券を車内で発売しない)の目印
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(左)雪山が車窓に迫る (右)遊歩道が線路に沿う

気がつくと、終点ミューレンが目の前に迫っている。大して乗った気がしないうちに、早やホームに到着だ。駅は村のはずれに位置している。駅前で二手に分かれる道を、左に行くのがメインストリートだ。

大きな木組みの家が立ち並ぶ村の中は、一般車の通行が禁止されている。ぶらぶら歩いて静かな村を通り抜けると、鉄道駅とは反対側のロープウェー乗場に着くだろう。ここから007の展望台シルトホルン Schilthorn に上るもよし、時間がなければ谷底のシュテッヘルベルク Stechelberg へ降り、バスでラウターブルンネンに戻るというコースもとれる。このロープウェーは1967年の全通以来、BLMのライバル的存在だが、BLMのロープウェー転換工事の際には、山上の村にとって貴重な代替交通手段になった。車の入らない村では、両者持ちつ持たれつの関係が成立しているのだ。

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(左)終点ミューレンに到着
(右)駅構内にはためくベルン州旗とミューレン村旗。なお、左にいるBe 4/4形31号機は、2011年1月に運用開始したBLMの新顔(ASmの中古車を改修)
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(左)ミューレン村の「大通り」、一般車は乗入れできない
(右)アルメントフーベル Allmendhubel の展望台に上るケーブルカー
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ミューレンの町裏からの眺望

■参考サイト
ユングフラウ鉄道公式サイト http://www.jungfrau.ch/

この記事は、Florian Inäbnit "Schweizer Bahnen, Berner Oberland" Prellbock Druck & Verlag, 2012、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

ご参考までに、その他の山上鉄道(筆者が思いつくもののみ)のリストを挙げておこう。

日本
・信貴山急行電鉄(大阪府、奈良県):粘着式の山上鉄道は廃止、ケーブルカーは近鉄西信貴鋼索線として残存
・住友別子鉱山鉄道(愛媛県):廃止

スイス
・エモッソン観光鉄道 Train Touristique d'Emosson :ケーブルカー+軌間600mmのトロッコ鉄道+小型ケーブルカー
・リギ・シャイデック鉄道 Rigi-Scheidegg Bahn :廃止(本ブログ「リギ山を巡る鉄道 V-リギ・シャイデック鉄道」で詳述)

ドイツ
・オーバーヴァイスバッハ登山鉄道 Oberweißbacher Bergbahn :ケーブルカー+標準軌鉄道

オーストリア
・ライセック登山鉄道 Reißeck-Bergbahnen :ケーブルカー+軌間600mmのトロッコ鉄道

フランス
・アルトゥスト小列車 Petit Train d'Artouste :ロープウェー+軌間500mmのトロッコ鉄道

イタリア
・リットナー(リッテン)鉄道 Rittnerbahn :ロープウェー+軌間1000mmの狭軌鉄道。ロープウェーは旧 ラック式鉄道を転換したもの

2014年11月16日 (日)

ブリエンツ・ロートホルン鉄道 II-ルートを追って

湖に面したブリューニック線ブリエンツ Brienz 駅から道路をはさんで山側に、伝統的なデザインが目を引くもう一つの駅舎が建っている。ブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz Rothorn Bahn (BRB) の起点駅だ。公式時刻表では、ブリューニック線の駅と区別するために、ブリエンツBRB と記されている。

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山頂ホテル付近から見たロートホルン・クルム駅

インターラーケンの宿を朝7時過ぎに出て、ブリューニック線の電車に乗ってここまでやってきた。夜が明ける頃は、まだ周りの山は雲のべールに閉ざされていたが、湖畔を走る間に、天気は予報のとおり見る見る回復していく。波穏やかな湖面に反射する朝の光がとてもまぶしい。

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(左)朝日が湖面に反射する (右)ブリエンツ駅に到着
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(左)開通当時の概観を残すブリエンツBRB 駅舎 (右)同 出札窓口

早い便で到着したので、出札窓口では並ぶどころか、切符を購入したのは筆者たちだけだった。スイスパスを提示すれば運賃は半額になり、往復で大人42フラン(2013年現在、下注)、同伴する15歳未満の子どもは2人まで無料だ。大人用の乗車券は、味気ないプリンタ出力のカードだが、子どもには赤地に蒸機のイラストが入った硬券(運賃無料なので整理券?)をくれる。

*注 筆者たちが乗った8時36分発(平日の1番列車)にはさらにディスカウントがあり、大人往復31フラン(復路はどの便にも乗れる)だった。

発車20分前には改札が始まった。ホームにはすでに、丸屋根の架かった客車2両と小ぶりの蒸気機関車が入線している。急坂を上るので、セオリーどおり機関車の位置は常に山麓側だ。1本後のブリューニック線列車が着くと、ぞろぞろとこちらの駅に客が流れてきたが、結果的に2両に全員が納まったので、続行便は出なかった。

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(左)カード状の大人用割引乗車券  (中)同 裏面  (右)子ども用硬券はイラスト入り
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(左)出発間近のホーム (右)枕木方向に簡易シートが並ぶ客車

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ブリエンツ・ロートホルン鉄道周辺図
スイス官製1:50,000地形図インターラーケン Interlaken 図葉の一部を使用

BRBは、ブリエンツBRB~ロートホルン・クルム(下注)間7.6kmの登山鉄道で、軌間は800 mm。最急勾配250‰、最小半径60mの険しいルートを全線アプト式ラックレールで上っていく。起点の標高566mに対して終点は標高2244mあり、高度差は1678mに及ぶ。所要時間は、山上方面が55~60分、山麓方面が60~70分だ。

*注 終点の駅名は、スイス公式時刻表の1989年版でブリエンツァー・ロートホルン・クルム Brienzer Rothorn Kulm、同 2013年版ではブリエンツァー・ロートホルン Brienzer Rothorn、現在のBRB公式サイトではロートホルン Rothorn とのみ表記され、一定していない。

甲高い汽笛を合図に、列車は山麓駅を定刻に出発した。山際に残っていた雲もほとんど消えて、頭上は一面の青空だ。列車からの眺めは、大きく2幕に分けることができるだろう。第1幕、すなわち前半はブリエンツの背後に迫る山裾を這い上がる区間で、湖面を見下ろしながら進む。後半第2幕はすり鉢状の谷間をひたすら遡るルートで、乗客の目はじりじりと近づいてくる稜線のほうに注がれる。ゲルトリート Geldried とオーバーシュターフェル Oberstafel の両信号所の前後を除けば、山上に向かって左手が谷で、視界が開ける。

ホームを後にした列車は、同僚機が休む車庫の脇をすり抜け、町裏の扇状地をのっけからぐいぐい上っていく。家並みはすぐに途切れ、湖に注ぐ小川を鉄橋(ヴェレンベルク橋梁 Wellenbergbrücke)で渡ると、斜面の牧場越しに湖面が広がった。左に緩くカーブし、山の斜面に取り付くあたりからは森に入っていく。

短いトンネル(シュヴァルツフルートンネル Schwarzfluhtunnel、長さ19m)をくぐり、右に大きくカーブする。森がいったん開けたところに、最初の信号所ゲルトリート(標高1024m、下注)があった。朝早い便なので対向列車はなく、そのまま通過したが、帰りはここでしばらく停車して、上ってくる列車を待ち合わせた。大樹が影を落とす線路際のベンチではハイキングに来たのか、カップルが1組腰を下ろして湖を眺めていた。乗降を扱わないのがもったいないような魅力的なスポットだ。

*注 地形図では、ゲルトリート信号所のある地点に1019mの標高点が打たれているが、本文では公式サイトの路線図記載の標高を採用した。急斜面なので、測定地点がずれれば5m程度の高低差が生じてもおかしくない。

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(左)左手に車庫を見送る (右)町の裏手を行く
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(左)ゲルトリート信号所へもう一登り (右)牧場越しに湖面が広がる
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(左)大樹が影を落とすゲルトリート信号所 (右)信号所を後にして

この先は、トンネルが断続する難所だ。まず左に向きを変える途中で、ヘルトトンネル Härdtunnel(長さ119 m)に突入する。続いて3本連続のプランアルプフルートンネル Planalpfluhtunnels(I~IV、計290m)で、切り立つ断崖を縫っていく。荒々しい素掘りの壁面にドラフト音がこだまする。トンネルの間で一瞬、下界のパノラマが見えるというので慌ててシャッターを切ったら、湖と集落と、さっき通ったゲルトリート信号所も写っていた。闇を抜けた後は、いよいよ山懐に吸い込まれていき、中間地点のプランアルプ Planalp 駅(標高1341m)が近づく。

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(左)ヘルトトンネルに突入 (右)轟音が耳をつんざく
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トンネルの間から一瞬下界のパノラマが見える

駅に着くと、前の客車から楽器のケースや何かを抱えた若者が何人か降りた。周辺にはベルクハウス(山小屋)をはじめ、コテージが点在しているので、乗降客があるのだ。その間に蒸機はたっぷりと給水を受けて、後半の走りに備える。隣の線路には、山頂から下りてきたばかりの1番列車が待避している。

2013年夏のダイヤ(6月1日~10月20日)では、毎日8往復が運行され、そのほかピーク時の日曜早朝に1往復、水曜に山上方面行き1本の設定がある。隣にいるのはこの早朝便に違いない。きょうは土曜日なのだが、登山鉄道の場合、臨時便はよくあることだ。客車の増結ができないので、利用者が集中すると、列車を続行させたり、間に増発して数をさばく。実際、筆者らが帰りに乗った11時49分発も、時刻表にはない便だった。

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(左)プランアルプ駅へ進入 (右)若者たちが列車を降りた

9時3分にプランアルプを発車、第2幕が始まった。線路は、一面青草に覆われた広く深い谷底を上っていく。牧場小屋で作業にいそしんでいる人がいる。彼も、麓との往復にこの列車を使っているのだろう。やがて築堤でミューリバッハ Mülibach の渓流を渡る。開通当時は橋梁で渡っていたのだが、1941~42年冬の雪崩で流失してしまった。その後しばらくは木組みの橋が架けられ、冬は雪害を避けるために撤去し、春に復元していた。現在の形に改修されたのは1963年のことだ。

S字状に斜面を這って高度を稼いだあとは、大きく右にカーブしたクーマートトンネル Kuhmadtunnel(長さ92m+後補のギャラリー部40m、下注)を抜ける。今しがた通ってきた線路を見下ろしながら、最後の信号所オーバーシュターフェル Oberstafel(標高1828m)を通過。

*注 トンネル名称は現地の標識に従ったが、公式サイトの路線図ではキューマットトンネル Kühmatttunnel、地形図の地名は Chüemad(筆者には読めない)とある。

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(左)急坂でも力強い足取り (右)今しがた上ってきた線路
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オーバーシュターフェル信号所(山上から遠望)

目の前にロートホルン直下の広い圏谷が立ちはだかっていて、線路は、大きく巻きながらじりじりと上り詰めていく。左手の山腹にこれから通る線路が見え、青空との接線には山頂の建物群を捉えることができる。あそこまで行くのか、と山を登っていることを実感する光景だ。進行方向が北西に変わるころ、竜の背びれを思わせるディレングリント山 Dirrengrind の後ろから、ブリエンツ湖が再び姿を見せ始めた。背後には白銀の山脈がくっきりと浮かび、乗客の興奮は最高潮に達する。

張り出す小尾根にうがたれた2連のショーネックトンネル Schoneggtunnel(37mと133m)で向きを戻すと、間もなく目的地だ。列車は9時31分、約1時間の旅を終えて、標高2244mの山上駅ロートホルン・クルムに到着した。周りにはシェルターのような駅舎と簡易な車庫しかなく、休憩できる山頂ホテルまでは少し距離がある。

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(左)いよいよ山頂が視界に (右)圏谷を大きく巻いていく
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(左)竜の背びれのような山の向こうに湖が (右)最後のトンネルで半回転
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(左)ロートホルン・クルムに到着 (右)シェルターのような駅舎

いささか殺風景な待合室に入ってみたら、わが国の大井川鉄道と結んだ姉妹鉄道の銘板が掲げてあった。1992年、BRB開通100周年を記念して作られたもののようだ。頭上には両国の国旗も並ぶ。前回記したブリエンツ村と(旧)金谷町の提携も、2つの鉄道が取り持つ縁で実現したものだ。日本人観光客が大挙してスイスを訪れた時代はほぼ過去のものになったが、今でもこうしてアルプスの一角に両国の深い関係が刻まれているのは喜ばしい。

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(左)山上駅にある姉妹鉄道の記念プレート (右)スイスと日本の国旗も

乗車中から気づいていたのだが、駅のすぐ西にある尾根の先に、シュタインボック Steinbock(英語ではアイベックス Ibex)の群れがいた。ヤギの仲間だが、アルペンホルンのような立派な2本の角をもっている。自治体の紋章のモチーフにも用いられるアルプスのシンボル的動物だ。餌付けされているのではなく、野生の群れがときどきこうして現れるのだという。列車を降りた人たちがカメラを構えて見守る間も、彼らは悠然と草をはみ続け、少し目を離しているうちに姿を消した。

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(左)人々が見つめる尾根の先に... (右)野生のシュタインボックの群れ

空はみごとに晴れ渡り、雨上がりのため視界も良好だ。足もとには緑のアルプ、その奥にブリエンツ湖の水面、目を上げればユングフラウ三山をはじめ、アルプス本体の山並みが広がる。道草しなければ、15分で山頂に到達するところ、立ち止まって写真を撮らずにはいられない。標高2350mの山頂に上りきると、それまで隠れていた東側を含め、遮るもののない360度の展望が開けた。この景色を多くの人に見てもらおうと、登山鉄道を守り続けた地域の人々のことをふと思い出した。

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(左)ロートホルン山頂
(右)ユングフラウ三山の眺め(左からアイガー、メンヒ、ユングフラウ)
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山頂ホテル前からのパノラマ。圏谷の先にブリエンツ湖、雪を戴くアルプス連峰

この記事は、Florian Inäbnit "Schweizer Bahnen, Berner Oberland" Prellbock Druck & Verlag, 2012、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

■参考サイト
BRB公式サイト http://www.brienz-rothorn-bahn.ch/
ブリエンツ自治体公式サイト http://www.brienz.ch/
狭軌鉄道ヨーロッパ(ファンサイト)http://www.schmalspur-europa.at/

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