2019年3月 4日 (月)

ペストリングベルクの登山トラム II-ルートを追って

リンツ中央駅 Linz Hbf の地下ホームを出発した市内トラムは、すぐに地表に上がり、目抜き通りのラントシュトラーセ Landstraße(ラント通り)を軽やかに走り続けた。リンツのトラムは、4本ある市内系統のすべてが中央駅で束になり、ドナウ川を渡った先のルードルフシュトラーセ Rudolfstraße で再び分離するまで、ルートを共用している。この間は系統番号を気にせずに乗れるので便利だ。

繁華街のタウベンマルクト Taubenmarkt から、その昔、旧市街の南門があった狭い街路(シュミットトーアシュトラーセ Schmidtorstraße)をゆっくり通り抜けると、街の中心ハウプトプラッツ Hauptplatz(中央広場)の広い空間に出た。50系統を名乗るペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn のトラムは、ここが始発になる。

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ハウプトプラッツにペストリングベルク鉄道のトラム(改造旧車)が到着
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リンツの市内トラムはすべてボンバルディア製シティーランナー Cityrunner
(左)第一世代 (右)第二世代
 

オーストリアで最も大きな都市広場に数えられるハウプトプラッツは、それを取り囲む建物の透明感のあるたたずまいが印象的だ。北側がドナウ河畔へ開いていることもあって、街の名を冠したモーツァルトの交響曲第35番の、気高さと明るさが融合した曲想にふさわしい。もっともあの標題はリンツ滞在中に作曲されたことにちなむだけで、音楽で直接、街の雰囲気を描写しているわけではないのだが。

中心に立つシンボリックな聖三位一体柱を背にして、トラムの停留所(以下、電停)がある。市内1~4系統は東側の相対式ホームに発着し、ペストリングベルク鉄道は西側に専用のホームと折り返し線を与えられている。

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(左)ペストリングベルク鉄道の専用ホーム
(右)山に向けて出発するトラム(夕刻撮影)
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リンツ周辺の地形図に主な鉄軌道ルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

8時30分発の便は、504号車だった。平日朝の郊外行きとあって、まばらな客を乗せてほぼ定刻に出発する。まずは、1~4系統の走る本線に入り、長さ250m、幅30mの道路併用橋、ニーベルンゲン橋 Nibelungenbrücke でドナウ川を渡った。広い通りはルードルフシュトラーセ Rudolfstraße との交差点までだ。1・2系統の軌道を右に分けた後は、道幅が狭まり、すぐに急角度で左折する。

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ドナウ川を渡る橋の上から、
朝日に輝くペストリングベルク巡礼教会が見えた
 

次はミュールクライスバーンホーフ Mühlkreisbahnhof(ミュールクライス駅)で、ÖBBミュールクライス線 Mühlkreisbahn のターミナル前になる。ドナウ左岸(北側)の山中に分け入るこの標準軌ローカル線は、ÖBBの珍しい孤立線で、事実上、市内トラムが中央駅との連絡機能を果たしている(下注)。なお、電停の名はこの駅の昔からの通称で、正式駅名はリンツ・ウーアファール Linz Urfahr という。

*注 以前は右岸の西部本線 Westbahn に接続する貨物線(リンツ連絡線 Linzer Verbindungsbahn または港線 Hafenbahn と呼ばれた)が存在したが、2015年12月に一部区間が廃止され、翌年、ドナウを渡っていた道路併用橋とともに撤去された結果、ミュールクライス線は完全に孤立線となった。

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ミュールクライス線の列車
機関車牽引のほか、新型気動車(ジーメンス製デジロ Desiro)も導入
 

気動車が留め置かれたミュールクライス線の構内を右手に眺めながら、ラントグートシュトラーセ Landgutstraße に到着する。ここが市内トラム(3・4系統)の終点だ。狭いホームの左側がその折返し用で、軌道は終端ループにつながっている。右側がペストリングベルク行きだ。ちなみに、反対方向、ハウプトプラッツ行きホームは前方のラントグート通りを渡った先で、少し距離がある。

いうまでもなく、この電停は2008年までペストリングベルク鉄道との乗換場所だった。市内トラムが終点にしているのもそのためだ。前方の踏切の先に、2本の小塔をもつレトロな旧駅舎(ウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr)が、ペストリングベルク鉄道博物館 Pöstlingbergbahn-Museum として、当時と変わらぬ姿で残されている。

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ラントグートシュトラーセ電停で発車を待つ(夕刻撮影)
 

少しすると踏切の警報器が鳴り出し、山を下ってきた対向トラムが建物の陰から現れた。ここはもともとミュールクライス鉄道の踏切だが、直通化に際して、ペストリングベルクのトラム横断にも連動するように改修されたのだ。

この列車と交換する形で発車した。ここから軌道は単線になる。ミュールクライス線と平面交差する直前でいったん停止する。そして、ひときわ幅広に見える標準軌線をさしたる衝撃もなしに横断し、旧駅から出てきた軌道(旧 本線)に合流した。

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(左)対向トラムが現れた
(右)標準軌のミュールクライス線と平面交差
 

同じようにペストリングベルクをめざす道路、ハーゲンシュトラーセ Hagenstraße を渡った後は、いよいよ本格的な坂道にかかる。前面展望を楽しもうとかぶりつきに立っていたが、急勾配が始まると、足が地面に強く押し付けられるように感じられた。

トラムは、緑の濃い住宅街の間を縫うようにして上っていく。乗降客のない電停は停まらないから、最近(2009年)開設のシュパーツガッセ Spazgasse は静かに通過した。どこのトラムもそうだが、途中駅で降りたいときは、ドアの取っ手についている降車ボタンを押して知らせる決まりだ。

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ハーゲンシュトラーセを横断すると坂道が始まる
写真はハウプトプラッツ行き
 

ホーエ・シュトラーセ Hohe Straße に名を変えた車道を再び横切ると、ブルックナーウニヴェルジテート Bruckneruniversität(ブルックナー大学)に停車した。登山鉄道区間に3か所ある列車交換場所の一つ目で、近くにアントーン・ブルックナー私立大学 Anton Bruckner Privatuniversität がある。リンツゆかりの作曲家の名を冠したこの大学が2015年に移転してくるまで、電停はメルクールジードルング Merkursiedlung という名だった。

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森に溶け込むようなブルックナーウニヴェルジテート電停
 

ブルックナーもさることながら、ここでは、鉄道のクラシカルな雰囲気を強調する小道具の数々に注目したい。一つはホームの待合室だ。頭上を覆う森に溶け込むようなピーコックグリーンの濃淡で塗り分けられ、切妻の板張りはユニークな放射模様を描いている。駅名標はそれと対比をなすキャロットオレンジで、スクロール装飾の凝った額縁に、フラクトゥール文字で名が記される。照明灯もまた、19世紀のガス灯を思わせるデザインだ。

同じ小道具が他の電停にも見られるが、両側のホームに存在するのはここだけで、加えて山上方面のホームには、105‰の勾配標(下注)も初めて現れる。

*注 105‰は設計図上の、いわば平均勾配で、実際は微妙な増減がある。

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電停の愛すべき小道具たち
(左)駅名標と待合室 (右)ガス灯風の照明
 

リンツ動物園 Zoo Linz 最寄りのティーアガルテン Tiergarten(動物園)電停まではわずかに180mの距離しかない。その後少しの間は、斜面に開かれた畑の中をうねるように上っていく。森や家並みに遮られることなく、山頂の巡礼教会と走行中のトラムが一つの構図に収まる撮影適地なのだが、用地が生垣に囲まれているので、車体の下半分が隠されてしまうのが残念だ。

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トラムと巡礼教会が一つの構図に収まる
(ティーアガルテン~シャブレーダー間)
 

シャブレーダー Schableder は登山区間のほぼ中間にある電停で、列車交換が可能だ。周辺は坂道が少し落ち着く踊り場のような場所なので、宅地が広がり、どことなく開放的な雰囲気がある。

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(左)開放的な雰囲気のシャブレーダー電停
(右)105‰が582m続くことを示す勾配標が建つ
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シャブレーダー電停を後に105‰(平均)の坂を上り始めるトラム
 

電停を出たところで、再び105‰の勾配標を見つけた。582m続くとあるからまさに胸突き八丁で、トラムはゆらゆらと蛇行しながら高度を稼いでいく。大きく右にカーブしていく築堤のところで、左手にドナウ川の深い渓谷が一瞬見えた。直後に通過するホーアー・ダム Hoher Damm という電停名は、高い堤という一般名詞から来ている。

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ホーアー・ダム電停付近の急坂
遠くにドナウ対岸の山が見える
 

珍しく直線ルートの切通しを抜けると、その名もアインシュニット Einschnitt(切通し)電停だ。下手に105‰の終点を示す勾配標があったが、その後も100‰などという表示が無造作に現れるから、坂が緩むという感覚はほとんどない。オーバーシャブレーダー Oberschableder が、最後の列車交換場所になる。木々の間から今度は右の車窓が少し開けて、朝もやに霞むドナウ左岸の新市街が望めた。下界との標高差はすでに200mほどになっている。

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最後の列車交換場所、オーバーシャプレーダー電停
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朝もやに煙るリンツ新市街
 

再び坂道になり、森の斜面を上っていく。ペストリングベルク・シュレッスル Pöstlingberg Schlössl は同名の山上ホテル兼レストランの最寄り電停だが、知らない間に通過していた。

トラムが大きく左にカーブすると、前方に石組みの二重アーチが見えてくる。終点のペストリングベルク駅(下注)だ。2線2面の構内は、標高が519mに達する。軌道は、1830年代に築かれた軍事要塞の第4塔を貫き、反対側で止まっている。トラムがくぐった二つのアーチは、いったん壊した周壁の位置にわざわざ造り足されたものだ。待合室やトイレも、塔内部の部屋割りを利用しているのがおもしろい。

*注 終点につき駅と記したが、施設は無人で、正式には Haltestelle(停留所)の扱い。

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このカーブを曲がれば終点が見えてくる
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要塞の塔を改造したユニークな造りのペストリングベルク駅
 

さて、山頂は鉄道開通に合わせて行楽地に開発されている。駅の出入口から左へ進むと、第5塔の天蓋を利用したリンツ市街を一望する展望台、右に進むと、1906年開業のグロッテンバーン Grottenbahn(洞窟鉄道)という子ども向けの遊覧鉄道がある(下注)。最後に山上にそびえる巡礼教会の扉を開けて、敬虔なひと時に浸ることができれば、ペストリングベルク小旅行の目的は十分に果たされる。

*注 本物の洞窟ではなく、要塞の第2塔に造られた小さな遊園地。

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 ペストリングベルクの登山トラム I-概要

2019年2月27日 (水)

ペストリングベルクの登山トラム I-概要

ペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn

1898年開通、2009年5月 改軌およびハウプトプラッツへの延長

(2008年3月まで)
ウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr ~ペストリングベルク Pöstlingberg 間 2.9km
軌間1000mm、直流600V電化、最急勾配116‰、高度差255m

(2009年5月から)
ハウプトプラッツ Hauptplatz ~ペストリングベルク Pöstlingberg 間 4.14km
軌間900mm、直流600V電化

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かつての始発駅(右奥)の前を通過する
ペストリングベルク鉄道のトラム(改造旧車)
 
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市内を走るトラムが、登山鉄道に変身する。高台の住宅地へ上っていく程度のものなら他の都市でも見られるが、このトラムはそれとは違う。本気で山上の展望台をめざし、最大116‰というとてつもない急勾配を力強く上っていくのだ。しかも登山鉄道なら半ば常識の、ラックレールとピニオン(歯車)の助けを借りることはない。オリジナル区間が2.9kmと小規模ながら、ペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn は、他にはないプロフィールを備えた路線だ。

舞台は、オーストリア第3の都市リンツ Linz。工業都市のイメージが強いが、ドナウ川の右岸(南側)に沿って気品漂う旧市街がある。川は街の西を限る山地に渓谷を刻んだ後、この前に出てくる。河岸のテラスに立ち、川向こうに目をやると、ひときわ高いピークと、そこに2つの尖塔をもつバロック様式の教会がそびえている。ペストリングベルク巡礼教会 Wallfahrtskirche Pöstlingberg だ。鉄道は、旧市街のハウプトプラッツ Hauptplatz(中央広場)からドナウを渡り、山を上ってその教会のすぐ下まで通じている。

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ドナウ川越しに望むペストリングベルク
山頂に巡礼教会がそびえる
 

今でこそ市内トラムの路線網に組み込まれて50系統を名乗っているが、鉄道は10年ほど前(2008年)まで独立した路線だった。なぜなら、市内トラムの900mm軌間に対して、若干広いメーターゲージ(1000mm軌間)を採用したため、乗入れが不可能だったのだ。山を上るには強力な電動機を搭載する必要があり、そのスペースを台車に確保するために、敢えて軌間を別にしたのだという(下注)。

*注 世界的に見れば逆に、1000mm軌間は一般的で、トラムの900mmのほうが珍しい。この軌間は現在リンツと、ポルトガルのリスボン市電にしか残っていない。

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リンツ周辺の地形図に主な鉄軌道ルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

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ペストリングベルク巡礼教会
 

そもそも、なぜここに鉄道が造られたのだろうか。しかもラック鉄道でなく、レールと車輪の摩擦力だけで走る粘着式鉄道として。

ペストリングベルクは、18世紀前半から巡礼者が訪れる聖なる山だった。当時は一帯が深い森に覆われていて、頂上に眺望の利く場所はなかった。ところが、1809年のフランスとの戦い(オーストリア戦役)で、オーストリアに侵攻したナポレオン軍は山頂に陣地を設営し、見通しを妨げる樹木を伐り払った。さらに1830年代にはオーストリア帝国の要塞が築かれ、より広いエリアが伐採された。それらをきっかけに眺望を楽しむ人々が上るようになり、山は行楽地の性格を強めていく。

そこに商機を見出したある技師が、1891年に山頂まで蒸気動力のラック鉄道を建設する構想を発表した。ルート設計が完成し、ウィーンの建設会社リッチュル Ritschl & Co. が参画したことで、構想は実現に向かうかと思われた。ところが、リッチュル社は一方で、リンツで電力業を興す事業組合にも名を連ねていた。その設立目的は発電所を造るだけでなく、生成した電力の一部を利用して市内にトラムを走らせるというもので、ペストリングベルク線も併記されていた。

全体の採算性では、後者のほうが手堅いのは自明のことだ。また、電動車ならラックレールに頼らずに上れる。こうして技師の構想を一部借用しながらも、電気トラムの登山鉄道が建設されることになった。事業を推進するために、リンツAGリーニエン Linz AG Linien(リンツ株式会社公共交通部門、現在の運行組織)の前身であるリンツ=ウーアファール軌道・電力会社 Tramway- und Elektrizitäts-Gesellschaft Linz-Urfahr (TEG) が設立された。

山頂には1830年代の要塞施設が放置されていたが、会社はそれを買収し、望楼跡に、鉄道駅とともに展望台、ホテル・レストランなど観光施設を整備した。約10か月の工事期間を経て、ペストリングベルク鉄道は1898年5月に開業式を迎えた。

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かつての要塞を改造したペストリングベルク駅
 

後に高級住宅街となるペストリングベルク山麓も、当時はまだ開発が進んでおらず、会社は行楽客の需要しか見込んでいなかった。それで車両も、オープンタイプのいわゆる「夏電車 Sommertriebwagen」6両のみでスタートしている。しかし、初年の運行が12月まで続いたことから、オープンデッキつきの密閉型車両が2両追加で調達されて、1900年から通年運行に移行した。

クリーム色をまとう2軸の古典電車は、特徴的な機構を備えていた。一つは、トロリーポールの集電装置だ。先端部分は最初ホイールだったが、第一次世界大戦後、スライダーシュー(摺り板)に交換されている。

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(左)トロリーポールで集電していた旧車
   (1999年8月、ウーアファール登山鉄道駅で撮影)
(右)開通当初はポールの先端がホイールだった
   (鉄道博物館の展示品を撮影)
 

もう一つは制動装置で、ケーブルカーに見られるような非常ブレーキを装備していた。レール圧着ブレーキ(ドイツ語ではツァンゲンブレムゼ Zangenbremse(プライヤーブレーキの意))といい、ブレーキシューをプライヤーのようにレールの頭部側面に押し付ける仕組みだ。レールの断面もそれに適応した楔形をしていた(下の写真と図参照)。また、踏切などでは、これが通過できるようにレールの両側に溝が掘られている。

問題はレールの分岐部で、トングレールを用いる通常の分岐器が使えないため、レール片を水平移動させる特殊な分岐器(シュレップヴァイヒェ Schleppweiche、引き摺り分岐器の意)が設置された。同じ理由で、レールが交差するフログ(轍叉)の部分は回転構造になっている(ヘルツシュレップ Herzschlepp)。

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非常時に楔形レールに作用するレール圧着ブレーキ
(鉄道博物館の展示品を撮影)
右はその図解
Photo by Dralon at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
 
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特殊な分岐器シュレップヴァイヒェを設置
踏切ではレールの両側に溝が切ってあった(1999年8月、車内から撮影)
右はその図解
 

鉄道は、常識を超えるような急勾配を上っていく。1983年には、世界で最も険しい粘着式鉄道としてギネスブックに登録されたこともあるほどだ(下注1)。しかし、これを上回るリスボン市電網のデータ(下注2)が知られるようになり、現在の公式サイトは、「今もなお世界で最も険しい粘着式鉄道に数えられている」と、控えめな表現になっている。

*注1 ペストリングベルク鉄道の公式パンフレット(2015年3月版、リンツAGリーニエン発行)による。
*注2 Railserve.com の鉄道世界記録のリストによると、最急勾配はリスボン市電網の13.8%(138‰)とされている(28E系統のサンフランシスコ舗道 Calçada de São Francisco の併用軌道に存在)。
https://www.railserve.com/stats_records/highest_steepest_railroads.html

その勾配の最大値は、長い間105‰(水平距離1000m当たりの高低差が105m)と言われてきた。設計図上はそのとおりで、現地に建っている勾配標も105を超えるものはない。しかし近年の精密測量で、それが平均値に過ぎず、実際にはホーアー・ダム Hoher Damm 付近で116‰に達することが明らかになった。現在、これが公式の最急勾配とされている。

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(左)105‰の勾配標
   "388"はその勾配が続く距離(388m)を示す
(右)ホーアー・ダム付近の急勾配を降りてくるトラム
 

110年間不変のスタイルで走り続けてきたペストリングベルク鉄道が、敢えて長期に運休してまで大改造されることになったきっかけは、2005年1月24日にシャプレーダー停留所 Haltestelle Schableder 付近で発生した脱線事故だった。古いシステムの安全性が議論の焦点となり、その結果、鉄道近代化のための計画が練られた。

目的は運行の安全性を確保し、保守作業の効率性を高めることだが、同時に、リンツの新しい観光需要の発掘も期待された。旧式の運行は2008年3月24日に終了し、続く14か月の工事期間を経て、開通111周年の2009年5月29日に新たな運行が開始された。

では、従来と何がどう変わったのだろうか。最大の改良点は、軌道を市内トラムと同じ900mmに改軌して、市内中心部への直通を可能にすることだった。旧市街のハウプトプラッツ(中央広場)にある停留所が新しいターミナルとされ、ペストリングベルク鉄道のトラムはここから山頂へ直通する。

市内軌道網と接続するために、山麓の旧 起点駅であるウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr は廃止された。そして駅直前の地点から、最寄りのトラム停留所であるラントグートシュトラーセ Landgutstraße(下注1)まで、新たに軌道が延ばされた。このルートは、標準軌のÖBBミュールクライス線 Mühlkreisbahn を横断する必要があり、そこに異軌間同士の平面交差が設けられている(下注2)。また、ハウプトプラッツには、ホームを兼ねた専用の折返し線が設けられた。

*注1 市内トラム3系統(2016年から4系統も)の起終点。
*注2 実はペストリングベルク鉄道開業当初もトラムとの乗換の便を考慮して、ミュールクライス線をまたいだ南側に、山麓駅が設けられていた。しかし、ミュールクライス線との交差部に設置した特殊な可動式ポイントの操作が煩雑過ぎたため、翌年、この交差を廃止して北側にウーアファール登山鉄道駅を造ったいきさつがある。

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ÖBB ミュールクライス線との平面交差
ペストリングベルク鉄道のトラムは、左手前から右に折れて、平面交差を渡り、右奥へ進む
左奥の建物はもとの始発駅であるウーアファール登山鉄道駅
右奥の、気動車が多数見える構内は ミュールクライス線の起点、リンツ・ウーアファール Linz Urfahr 駅
 

改軌によって、車両の調達または改修も必要になった。新車としてボンバルディア社のマウンテンランナー形(下注)が発注され、2009年に501~503号車の3編成、2011年に追加の1編成(504号車)が就役した。これは100%低床の3連節車で、定員は座席33+立席55と、旧車(22+16)に比べて2.3倍の輸送力を擁する。また、旧車についても1940~50年代製のVIII、X、XI号車が、台車交換による改軌や集電装置のパンタグラフ化を含め、必要な改修を受けて再デビューした。

*注 ボンバルディアのウィーン工場(もとローナー・ヴェルケ Lohner-Werke)製。

軌間の統一で、レールや分岐器も一般的な形状になったため、これらの車両には、非常ブレーキとして電磁吸着ブレーキが設置されている。

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(左)ペストリングベルク鉄道の新車
   504号車は2011年に就役した追加編成
(右)バリアフリーに対応した100%低床の車内
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(左)土・日・祝日には、改造された旧車(写真はXI、VIII号車)も2両連結で走る
(右)デッキ付きで、寒冷期には新車より快適かもしれない
 

直通化の開始で、対の小塔と外壁のハーフティンバーが印象的なウーアファール登山鉄道駅は、本来の役割を失った。嬉しいことに建物と構内は原形のまま保存され、2008年5月にペストリングベルク鉄道博物館 Pöstlingbergbahn-Museum として再生されている。

2面2線の頭端型線路は、片方が900mmに改軌され、本線に接続された。もう片方は1000mmのままで、車庫につながっている。車庫には、改造の対象から外れた旧車のうち、開業当初から在籍する「夏電車」I号車(1898年製)と、閉鎖形のXII号車(1950年製)が動態保存されており、構内に新旧2種の軌間の車両を並列して展示することも可能になっている。博物館は、冬季を除く土・日・祝日のみ開館する。

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ペストリングベルク鉄道博物館を訪問
(左)旧 ウーアファール登山鉄道駅を転用した施設
(右)2面2線のホームも健在
   左がもとの1000mm軌間、右は改軌されて 900mmに

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駅舎と向かい合う車庫を見学させてもらう
左2線には900mm軌間の改造車(日曜につき出払っていた)、
右1線には1000mmの非改造旧車が休む

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美しく保たれた非改造旧車だが、もう山に上ることはできない
(左)開業当初からの最古参「夏電車」I号車
(右)閉鎖形XII号車
  前面のフックは自転車を吊り下げるためのもの、900mm改造車では撤去されてしまった
 

さて、ペストリングベルク鉄道の現在の運行状況はどうなっているだろうか。列車は30分間隔で運行されている。ただし、土・日・祝日の10~17時の間は、上述の改軌された旧車が2両連結で間に投入されるため、つごう15分間隔となる。そのほか、沿線のアントン・ブルックナー私立大学 Anton Bruckner Privatuniversität の開講日は朝7時30分~9時の間、ハウプトプラッツ~ブルックナー大学間の区間便が運行されている。全線の所要時間は、山上方面21分、山麓方面19分だ。

ちなみに運賃は、従来どおり他の系統とは別建てなので注意を要する。停留所にある券売機やオンラインショップで、片道券または往復券が買える。リンツ中央駅から出発する場合は、ペストリングベルク鉄道往復と市内中心ゾーン24時間乗車が可能な「エアレープニス(体験)チケット Erlebnisticket(旧名 ペストリングベルク鉄道コンビチケット Pöstlingbergbahn-Kombiticket)」を買っておくと便利だ。また、リンツ・カード Linz-Card の3日券には、ペストリングベルクを往復できる特典がある(1日券は不可)。

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リンツ市内トラム路線図の一部
太線がトラムのルート
50系統ペストリングベルク鉄道は緑で示されている
© 2019 LINZ AG
 

次回は、ハウプトプラッツから山頂まで、登山鉄道が走っていく風景を追ってみよう。

■参考サイト
ペストリングベルク鉄道(リンツAG公式サイト)
https://www.linzag.at/portal/de/privatkunden/freizeit/grottenbahnpoestlingberg/poestlingberg/#

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2019年2月17日 (日)

シュネーベルク鉄道再訪記

ウィーン滞在中、良く晴れた日を狙って、標高2076mのシュネーベルク Schneeberg へ出かけた。山はウィーンの南西65kmにあり、2000mを越えるピークとしてはアルプス山脈の東の端に位置する。麓の村からその山を上っていくシュネーベルク鉄道 Schneebergbahn というラックレールの登山鉄道に乗ることが、遠出の目的だ。

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ÖBBの気動車(左)からの客を受けて、山上へ向かう列車(右)
背景はシュネーベルク山
プフベルク駅にて
 

実は19年前に一度、この鉄道に乗ったことがある。しかし、あいにく天候に恵まれず、列車は上っていく途中で濃霧に包まれてしまった。むろん山上からの見通しはまったくきかなくて、真夏というのにめっぽう寒かったことを覚えている。それで、再訪するなら好天でなければ意味がなかった。

鉄道の沿革等については、旧稿「オーストリアのラック鉄道-シュネーベルク鉄道」を参照していただくとして、今回は旅の一部始終を記していこう。

朝のウィーン中央駅から、7時58分発のEC(ユーロシティ)エモナ Emona 号に乗り込む。リュブリャーナ行きのエモナは以前も使った列車だが、まだ健在で、前方の数両はスロベニア国鉄のコンパートメント車両が使われている。ウィーン・マイドリング Wien Meidling で大勢の客を拾った後、葡萄畑の中を滑るように走ると、次の停車駅はもうウィーナー・ノイシュタット Wiener Neustadt だ。列車を乗換えなくてはならない。

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ウィーン中央駅のエモナ号
水色帯の車両はスロベニア国鉄のもの
 

この先は、プフベルク線 Puchberger Bahn と呼ばれるÖBB(オーストリア連邦鉄道、いわゆる国鉄)のローカル線になる。2両連接の気動車が、登山鉄道の待つプフベルク・アム・シュネーベルク Puchberg am Schneeberg 駅(以下、プフベルク駅と記す)との間をつないでいる。緑の平野が尽きると、小さな峠を、軽便鉄道のような急カーブ急勾配の線路で越えていく。のどかな風景のまま、9時24分、終点に到着した。

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(左)ウィーナー・ノイシュタット駅でプフベルク線の連接気動車に乗換え
(右)車内
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シュネーベルク鉄道周辺図
 

プフベルク駅はすっかり新しくなっていた。2015年に完成した増築駅舎の1階に、スーベニアショップを兼ねたチケットカウンターが置かれ、上階は小さな鉄道ミュージアムになっている。構内を見回すと、左手に建つ旧来の木造車庫とは別に、右奥に新建材で造られた車庫兼修理工場がある。稼働中の車両はこちらに移され、木造車庫は主に使われていない機関車や客車の置き場になっているという。

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プフベルク・アム・シュネーベルク駅
(左)左が新しい増築駅舎、右の旧駅舎は管理棟に
(右)増築駅舎1階のチケットカウンターに並ぶ人の列
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プフベルク駅構内
正面奥が新しい車庫兼修理工場
 

登山鉄道の切符は、ÖBBとは別だ。昔なら出札窓口に駆け込むところだが、いまどきの乗車券はネット予約ができるから、あらかじめ購入し、印刷してある。公式サイトには、始発9時00分の次が10時30分発と書かれていたので、それに乗るつもりだ。

ところがカウンターのモニターを見ると、30分間隔の発車になっている。しかも直近の9時30分発はもとより、次発、次々発と2本先まですでに満席だ。今買おうとすれば、11時発しか空いていない。ÖBBの気動車から降りたのは30人に満たなかったので、この盛況ぶりは意外だった。国際的な観光地ではないものの、シュネーベルクは相変わらず地元の人気スポットなのだ。実際、駅の周辺にはクルマがずらりと駐車してあり、客の多くが自家用車やマイクロバスでここまで来ている。

予約した10時30分発を待つ間、近くの公園に置かれている小型蒸機を見に行った。標準軌の小型機関車(92.2220、1898年製)で、かつてプフベルク線を走り、22号機「クラウス Klaus」と呼ばれていたものだ。それから駅に戻って、2階ミュージアムを見学する。当時の写真や資料類が展示されていて、床続きのテラスにも出られる。そこから標準軌とラックレールが並ぶ駅構内や、青空に映えるシュネーベルクを眺めているうち、改札開始のアナウンスが流れた。

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(左)近くの公園に置かれていた標準軌の小型蒸機
(右)駅構内の記念碑「1895~1897年に造られたラック鉄道の製作者レオ・アルノルディを記念して」
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開通120周年を記念する駅舎2階ミュージアムの展示
 

団体客に交じってぞろぞろとホームに出ると、ラックレールに対応した連接気動車「ザラマンダー Salamander」が入ってきた。前回乗りに来た時はまだ導入されたばかりで、地域に生息するサンショウウオを模したという濃緑地に黄斑の大胆な塗装には衝撃を受けたものだ。先頭には、山上へ貨物を届けるための小さなトレーラーを伴っている。ザラマンダーの鼻先にいつもくっついて走るので、その名も「ザラマンダー・ベイビー Salamander-baby」だ。気動車が3編成揃ったことで、かつて活躍した蒸気機関車は完全に脇役に退いてしまった。5両あるうち、動けるのはもはや2両で、7~8月の日・祝日に懐古列車 Nostalgiezug として使われるだけになっている。

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(左)ホームに列車が入線
(右)貨物を運ぶザラマンダー・ベイビー
 

ザラマンダーの車内は、通路をはさんで3人掛けと2人掛けのシートが向い合せに並んでいる。予約は定員管理をしているだけで、席は決まっていない。ほとんどの区間で、進行方向左側に眺望が開けるのだが、南向きなので陽光をまともに浴びることになる。一般客は眩しさを敬遠するようで、難なく左端の席をとることができた。

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車内(帰路の撮影につき座席には余裕がある)
 

やがて汽笛が短く鳴り、シュネーベルクに向けて発車した。列車はプフベルクの村里を縫った後、ヘングスト Hengst というシュネーベルクの前山に取りつき、その山腹をおもむろに上っていく。ブナや針葉樹の森が延々と続く。時刻表にはヘングストタール Hengsttal(起点から1.160km)とヘングストヒュッテ Hengsthütte(同 4.523km)という停留所が記されているが、どちらもリクエストストップらしく、列車は停まらなかった。

それに対して、シュネーベルクの山塊を目前にしたバウムガルトナー Baumgartner(同 7.360km)では、すべての列車が停車する。蒸機ならここで給水するのだが、その必要がないザラマンダーにも5分の休憩時間が与えられる。この間に乗客は列車から降りて、休憩所で売られているブフテルン Buchteln という、パン生地にジャムなどを混ぜて焼いた菓子を買い求めるというのが、お決まりの行事だ。しかし、おやつの時間には中途半端なのか、この列車では名物を手に入れた人は少なかった。

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(左)プフベルクの盆地から山中へ
(右)バウムガルトナー停留所、正面に山上の教会が見える
(いずれも帰路撮影)
 

停留所を後にして、鞍部に築かれたホーエ・マウアー Hohe Mauer(高い石垣の意)を渡る。俄然勾配が急になり、後ろにつく動力車のエンジン音がひときわ高まる。それとともに視界が大きく開け、ヘレンタール Höllental の谷を隔てて、隣に横たわるラックス Rax 山塊も姿を現した。2本のトンネルを介したS字ループをじりじりと回り切れば、もう山上の台地だ。

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(左)終盤は隣のラックス山塊が姿を現す
(右)トンネル出口の雪囲い、線路はこの中に
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最後のカーブを回って山上の台地に出る
 

かつて山上の終点は、エリーザベト教会 Elisabethkirche の前だった。終点といっても嵩上げされたホームも屋根もなく、あるのは乗員が待機するための小屋だけだった。2009年に山の家 Berghaus の前に新しいホームが完成し、これに伴い線路は、山の家への引込み線を利用して133m延長された。

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エリーザベト教会の前を通過
 

一方、貨物の受け渡し所だけは、旧駅跡に残されている。列車はそこでいったん停車し、ザラマンダー・ベイビーから手早く荷物の積み下ろしが行われた。そして教会の前を通過し、おもむろに新駅に入っていく。11時10分着、所要40分の列車旅だった(下山する列車は38分)。ホームは、アーチ形の屋根とアクリルのパネル壁に覆われ、悪天候のときでも乗降に支障がない。出札など駅の機能は、山の家の中に設けられている。

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山上旧駅跡
(左)配線は残存するが片方は使われていない
(右)ザラマンダー・ベイビーから貨物の積み下ろし
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山上新駅
(左)車庫のような新駅、右奥は従来からある山の家
(右)新駅は全天候型ホーム
 

しばらく山上を散歩した。エリーザベト教会は修復工事中で入れないが、麓から山の目印になっているだけに、裏庭に回ると下界の眺望がみごとに開ける。波打つ山地に囲まれて明るい緑の横縞を描く牧野に、集落の屋根が点々と浮かんでいる。ひときわ密集しているのがプフベルクの村で、登山鉄道の始発駅も見える。遠方はかすんでいるものの、シュタインフェルト Steinfeld と呼ばれるウィーン盆地南部の広がりが感じられる。

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ヴァックスリーガーから東を望む
右端がプフベルクの村
 

眺望が利く東側に対して、西側はヴァックスリーガー Waxrieger というコブ山が目の前に立ちはだかり、シュネーベルクの主峰を隠してしまう。ここまで来たからにはその稜線を拝みたいので、ヴァックスリーガーへの山道を上った。駅との比高は80m、さほど時間はかからない。十字架のそびえる頂に立つと、抜けるような青空のもと、期待通りホッホシュネーベルクの大パノラマが展開した。

左のクロスターヴァッペン Klosterwappen(標高2076m)から右のカイザーシュタイン Kaiserstein(同 2061m)まで、長く続く灰白の稜線がシュネーベルクのピークだ。駅から延びる登山道は、左から山小屋ダムベックハウス Damböckhaus の前を通過し、ハイマツの群落が散らばる山腹をジグザグを描きながら上っていく。数人ずつ、稜線に載る山小屋フィッシャーヒュッテ Fischerhütte をめざして歩いていくのが見える。山頂までは3km程度で、みな比較的軽装備だ。

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ヴァックスリーガーから西を望む
正面右がシュネーベルクの主峰、クロスターヴァッペンからカイザーシュタインにかけての稜線。左手前から延びる登山道がジグザグに上っていく
左後ろの蒼い山塊はラックス山
 

帰りの列車も予約してあるのだが、あまりにいい天気なので、一つ下のバウムガルトナーまで歩いて降りようと思う。山上駅との標高差は400mほどだ。道標に1時間とあったので高を括っていたが、急坂なうえに小石の転がるザレ場が随所にあり、歩きにくい山道だった。かなり下ったところで踏切を渡り、後はホーエ・マウアーに沿って林道を降りる。

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山上から見下ろすバウムガルトナー停留所では、列車の交換中
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山上からバウムガルトナーへ降りる登山道
(左)随所にザレ場があり、足を取られる
(右)目的地がはるか右下に
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(左)ラックレールの踏切を渡る
(右)ホーエ・マウアー区間に設置された、突風による脱線転落を防ぐ護輪軌条
 

それでもバウムガルトナーでは、発車時刻まで20分ほど余裕があった。当然、名物のシュネーベルク・ブフテルン Schneeberg-Buchteln を試さなければならない。フィリングは、マーリレ Marille(アプリコットジャム)とポヴィドル Powidl(スモモのムース)の2種から選べる。マーリレとビールを注文して、テーブル席でいただく。けっこう歩いたので、ビールの炭酸がことさら喉にしみる。甘酸っぱいジャムの味を楽しみながら、ブフテルンにかかっている粉砂糖がシュネーベルクの雪を表していたことに改めて気づいた。

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バウムガルトナー停留所にて
(左)ホームに隣接するテーブル席
(右)雪を表す粉砂糖のかかった名物ブフテルン
 

そろそろ列車がやって来る頃だ。先に到着したのは、麓から上ってきたザラマンダーだった。まもなく山上からの列車が向かいの山腹に現れ、その姿がじわじわと大きくなってくる。シュネーベルクを背景に直線のホーエ・マウアーを降りてくる列車風景は、シュネーベルク鉄道の写真の定番だ。これがヴィンテージ蒸機だったら、なお絵になるのだが。

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ホーエ・マウアーを降りてくるザラマンダー
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バウムガルトナーでの列車交換
 

■参考サイト
シュネーベルク鉄道(公式サイト) http://www.schneebergbahn.at/

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2019年2月 9日 (土)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 II-現況

ウィーン中央駅の東口からヌスドルフ Nussdorf まで、市電D系統のトラムが乗り換えなしで連れていってくれる。時間は45分ほどかかるが、どのみち降りるのは終点なので、リング通り Ringstraße に建ち並ぶ豪壮な建物群を眺めながら、観光気分でのんびり乗っていればいい。

ほとんど数字に置き換えられてしまったウィーン市電の系統名のなかで、D系統は頑なに昔の英字名を残している。まるで登山鉄道へのアクセスルートとして造られた由緒を誇るかのようだ。国鉄(オーストリア連邦鉄道 ÖBB)のヌスドルフ駅前で左折し、町なかの狭い坂道を少し上ると、終点のベートーヴェンガング Beethovengang(下注)が見えてくる。トラムは終端ループを一回りしてから、停留所の前に停まる。

*注 この地名を忠実に転写すれば「ベートホーフェンガング」になるが、後述のように作曲家ベートーヴェンにちなんだ名称なので慣用読みに従う。

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終点ベートーヴェンガングに停車中のD系統トラム
 
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ヌスドルフ~グリンツィング間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
数字は各写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

このループに囲まれたレモン色の塗り壁の建物こそ、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の起点だったヌスドルフ旧駅舎だ。他の駅舎がすべて取り壊されたなか、今はなき登山鉄道を記念する建造物として、唯一完全な形で遺されている。現在は、アインケーア・ツア・ツァーンラートバーン Einkehr zur Zahnradbahn というレストラン(下注)が入居している。午前中でまだ食事には早かったが、主人らしき人に中を見たいと言うと、快く応じてくれた。

*注 店の名は、御休み処「ラック鉄道館」といった意味。

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[1] ヌスドルフ旧駅舎の正面玄関
 

ホールにはテーブルが並んでいて駅の面影はないが、壁に、ラック鉄道のルート図や機関士の肖像写真などが掲げてある。突き当りの扉の外はホームだったはずだが、テラス席が占領していた。生垣の向こうは市電のループ線で、ラック列車が来なくなった後も、トラムが代役を務めてくれているようだ(下注)。

*注 登山鉄道が稼働していた当時は、路面軌道は駅前で行き止まりになっており、終端ループはなかった。

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(左)旧駅舎のホーム側、今はレストランのテラス席に
(右)レストランの看板は当時の写真をあしらう
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(左)旧駅舎内部
(右)最終列車に乗車した機関士の肖像写真、右の壁には制帽が掛かる
 

駅舎を辞して、周囲を観察する。東側の、かつて機関庫があった場所は、集合住宅が建っている。一方、市電線路を挟んで西側には、一見あずまや風の施設がある。男子小用の公衆トイレなのだが、これは当時からあるものだそうだ。個別便器のない掛け流し(?)方式で、確かに古そうに見える。ちょうどループを回ってきたトラムがその前で停まったと思ったら、乗務員氏が降りてきて中に駆け込んだ。

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(左)当時の公衆トイレが今も現役
(右)トラムも臨時停車!
 

駅前の道から山手に向かって、インターロッキングが施された廃線跡がまっすぐ延びている。その名もツァーンラートバーンシュトラーセ Zahnradbahnstraße(ラック鉄道通りの意)なので嬉しい。機関車になったつもりで、緩い坂を上っていく。もとは複線が敷かれていたから用地幅は広いのだが、すぐにシュトラーセとは名ばかりの遊歩道になり、周りは雑草が生い茂る。

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(左)[2] ラック鉄道通りが山手へ延びる
(右)[3] 遊歩道は将来、並木道になるのだろう
 

最初に横切る車道は、エロイカガッセ Eroicagasse(英雄小路の意)だ。道の西側は、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタット Heiligenstadt 地内なので、通りの名が交響曲第3番の標題から来ていることは容易に想像がつく。ちなみに、すぐ右手を流れる小川、シュライバーバッハ Schreiberbach に沿って、市電の停留所名にもなったベートーヴェンガング Beethovengang(ベートーヴェンの小径)が延びている。交響曲第6番「田園」の曲想が練られたという名所だ。行ってみると、ナイチンゲールもカッコウも鳴いていなかったが、木の枝に茶色のリスがいて、一心に木の実をかじっていた。

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(左)[4] 小川に沿うベートーヴェンの小径
(右)[4] 小川に接する築堤の擁壁は鉄道時代のものか?
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一心に木の実をかじるリスを目撃
 

この小径とエロイカガッセとの交差点の標識を写真に撮る人は多いのだが、すぐ近くにあるラック鉄道通りとエロイカガッセの交差点標識に気づく人はいるのだろうか。ともかく、英雄の冒頭主題を口ずさみながら、廃線跡をさらに上流へ歩いていく。右手の広場に、列車を象った木製遊具が置かれていた。ベートーヴェン公園 Beethovenpark の一角なのだが、子どもたちにとっては花より団子、楽聖より汽車ポッポだろう。

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(左)[5] ベートーヴェンの小径とエロイカガッセの交差点は観光名所
  (語頭の 19. はウィーン19区を意味する)
(右)[6] ラック鉄道通りとの交差点もすぐ近くに
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[7] ベートーヴェン公園の一角にある列車形の木製遊具
 

ここで線路は、カーレンベルガー通り Kahlenbergerstraße を乗り越していた。かつての跨道橋は、煉瓦積みの橋台だけが残っている。複線を支えていたので、幅広の構造物だ。橋桁は撤去されて渡れないため、いったん築堤から降りて、通りを平面横断する。見通しが悪いから、クルマには要注意だ。

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[8] カーレンベルガー通りの跨道橋橋台
(左)北側から (右)南側から
 

すぐに廃線跡に戻るも、周りの森がますます茂ってきて、上空を覆ってしまう。100年も経てば空地が自然に還ってしまうのも当然だが、一人で歩くのはいささか心細い。と思っていたら、いくらも行かないうちに突然森が開け、住宅地の中へ飛び出した。廃線跡は、それを貫く道路として完全に再生されてしまっている。道路名も変わって、ウンタラー・シュライバーヴェーク Unterer Schreiberweg(下シュライバー道の意)だ。勾配はすでにけっこうきつく、7~8%(70~80‰、下注)あったようだ。

*注 以下の文中で示す線路勾配は、ヌスドルフ旧駅舎内に掲げられている地図に記載の数値(%表示)による。

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(左)[9] 廃線跡は森の小道に
(右)[10] 突然開けて住宅街へ
 

起点で西へ向けて出発したルートは、いくつかの曲がり角を経て、今は北西、ウィーンの森の方向に針路を変えている。勾配はさらに険しくなり、10%に達する。アキレス腱に堪える坂道を、ジョギング姿の若者が軽々と追い抜いていった。右手の家並みがとぎれると、カーレンベルクの裾野を埋め尽くした葡萄畑が見え始める。グリンツィング Grinzing のホイリゲで出されるワインの葡萄も、ここで栽培されているのだ。

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(左)[11] グリンツィング駅跡を振り返る
(右)[12] 勾配路の周囲は敷地の広い高級住宅地
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[13] カーレンベルクの裾野を埋め尽くす葡萄畑
その先に山上の送信塔やホテルが見える
 
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グリンツィング~カーレンベルク間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

 

田舎道と斜めに交わる位置の手前に、グリンツィング駅があったはずだが、それらしき痕跡はなかった。急坂はこのあと6%まで緩む。次のクラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl 駅との間は短く、約700mしかない。全線の中間に位置するこの駅では、山を上る機関車に水が補給された。駅舎は第二次大戦後に取り壊され、現在は市民プール(クラプフェンヴァルドルバート Krapfenwaldlbad、略してクラーヴァ Krawa)の駐車場に利用されている。

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[14] クラプフェンヴァルドル駅跡は市民プールの駐車場に
 

さて、麓から廃線跡をたどってきた人は、おそらくここで道を間違える。というのも、駐車場の上手から、車道に並行して一見線路敷のようなインターロッキングの小道が延びているからだ。しかし、ほんとうの廃線跡は、車道から右45度の方向に離れていく。地図でなら一目瞭然だが、現地ではいくつもの分かれ道が見え、しかも真のルートは茂みに埋もれかけている。道が途中で行き止まりにならず、山手へまっすぐ続いていたら選択は正しい。

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(左上)[15] 駐車場上手の分かれ道、矢印が廃線跡
(左下)[16] さらにY字路あり
(右)[17] 踏み分け道になった廃線跡
 

山にとりつく区間のため、勾配は再び10%に高まる。茂みの合間から、緑の縞模様を描く葡萄畑越しに、目指すカーレンベルクの教会やホテルの建物が見えた。右後ろには、遠くドナウ本流とノイエ・ドナウ Neue Donau の2本の帯が光り、それをはさんで高層ビルが2棟、背比べをしている(下注)。いつのまにか、かなりの高さまで上ってきたことに気づく瞬間だ。

*注 川の右がミレニアムタワー Millennium Tower 、左がドナウシティのDCタワー DC Tower。

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[17] ドナウ川とウィーン新市街の高層ビル群を望む
 

踏み分け道の緩い左カーブはいかにも線路跡で、800mほど行けば、2車線道のヘーエンシュトラーセ Höhenstraße(高地通りの意)と合流する。今上がってきた小道は可動柵で通せんぼされているが、これはクルマの進入を防ぐためのもので、徒歩であれば問題ない。実際、犬の散歩をしている人に会ったし、山岳スポーツ情報のサイト「ベルクフェックス Bergfex」にも、廃線跡歩きのルートとして描かれている(下注)。

*注 https://www.bergfex.com/
"Auf den Spuren der Zahnradbahn auf den Kahlenberg" を検索。(検索語句は「ラック鉄道跡をカーレンベルクへ上る」の意)"

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[18] ヘーエンシュトラーセとの合流地点
(左)小道側には車止めの柵がある
(右)反対側から見たところ
 

この先の廃線跡は、勾配が3~4%と緩むこともあり、残念ながら2車線道に上書きされてしまった。歩道がないし、カーブも多いので、歩くのは危険だ。「ベルクフェックス」の地図に従い、車道の山側に別途設けられた小道に退避する。

小道は、広葉樹の森を縫う気持ちのいい散策路だった。車道とほぼ並行しており、かつ多くの区間でそれより高みを通っているので、廃線跡の観察も可能だ。さっきの踏み分け道から打って変わって、気持ちに余裕が出てきたのか、ウィンナワルツ「ウィーンの森の物語」でツィターが奏でる、あの鄙びた響きのメロディーが口をつく。

2車線道が、線路跡らしい緩いカーブで東へ方向転回し始めたところで、小川を渡った。他でもない、ベートーヴェンガングのリスの木の下を流れていたシュライバーバッハの源流だ。道路下は溝渠で、側面に上塗りしたモルタルが剥がされ、鉄道時代の煉瓦積みを露出させてあった。

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(左)[19] ウィーンの森の散策路
(右)[20] 溝渠に鉄道の煉瓦積みが露出
 

ズルツヴィーゼ Sulzwiese のバス停を通過し、散策路はなおも蛇行しながら上る廃線跡の車道についていく。やがて車道の反対側に、駐車場のような細長い空地が現れる。これが最初のカーレンベルク駅跡だ。前回記したとおり、登山鉄道が1874年に開業したとき、ライバル会社が山頂を押さえていたため、ここに仮の終点を置かざるを得なかった。この会社を買収するまで、たった2年の暫定措置だった(下注)ので、痕跡は何もなさそうだ。

*注 駅廃止後も、複線から単線になる信号所としての機能は残っていた。

車道が左へそれていく一方、直進している舗装道が廃線跡だ。旧駅から先は単線だったので、車1台が通れる程度の幅しかない。ちなみにこの道は、山頂に送信施設をもつオーストリア放送協会 ORF の私道で、入口に立つ標識には「当分の間任意通行を許可します。ただし事情を問わず利用は自己責任です(下注)」と記されている。

*注 原文は以下のとおり。 "Bis auf Widerruf freiwillig gestatteter Durchgang. Die Benützung erfolgt jedoch in allen Fallen auf eigene Gefahr."

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(左)[21] 蛇行しながら上る車道が廃線跡
(右)[22] 旧駅跡の空地から、直進する廃線跡を望む
 

森の中を緩いカーブで上っていくうち、赤白に塗り分けた送信塔が見えてきた。道を直進すると、金網で閉ざされた送信施設の専用区域だ。ここが終点カーレンベルク駅の跡なのだが、立ち入ることはできない。左手に進むと、送信塔と並んで、ラック鉄道会社が客寄せのために造ったシュテファニー展望塔 Stefaniewarte が建っている。今日は平日なので、塔の周りには人影もなかった(下注)。

*注 展望塔入口のプレートによれば、開館は5月から10月の、土曜12~18時と日・祝日10~18時(ただし好天時のみ、また10月は17時まで)。

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[23] ひと気のないカーレンベルク山頂
送信塔の後ろにシュテファニー展望塔が立つ
 

小道を下ると、カーレンベルク山上広場に出る。正面に聖ヨセフ教会、右手に私立ウィーン・モジュール大学 Modul University Vienna の施設、その奥はホテルで、大学との間に展望テラスが広がる。少し遠目ではあるが、ドナウの両岸に拡がるウィーン市街地が一望になる。目を凝らすと、フンデルトヴァッサーのデザインした有名なシュピッテラウの清掃工場の煙突の奥に、旧市街のシンボル、シュテファン大聖堂の尖塔も見えた。

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[24] テラスからのウィーン市街展望
 

ところで、山上まで来たからには、テラスの手前に置かれているラック鉄道の記念物を忘れてはならない。幅広のずんぐりした車体に華奢な車輪、妻面にカーレンベルク・ラック鉄道 Zahnradbahn Kahlenberg と書かれているとおり、かつて走っていた客車のレプリカだ。スイスのリギ山によく似た形の車両があるが、カーレンベルクも、同じニクラウス・リッゲンバッハの設計だから偶然ではない。

レプリカが据え付けられた当初は、車内が鉄道写真の展示室になっていたそうだが、今や荒れ放題で、天井がつっかえ棒に支えられているのも痛々しい。ともかく、山上でラック鉄道の面影を偲べるものは、これが唯一だ。

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[25] カーレンベルク山上広場に展示(というか放置)された客車のレプリカ
 

山上広場をテラスと反対側へ進むと、広い駐車場と、その片隅に下界へ降りるバスの乗り場がある。大学施設があるおかげで、38A 系統のバスがわりと頻繁に出ている。途中グリンツィングで降りれば38系統のトラムで、終点ハイリゲンシュタット駅前まで乗ればUバーン(地下鉄)で、それぞれ旧市街に戻ることができる。

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2019年2月 4日 (月)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要

カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn

ヌスドルフ Nussdorf ~カーレンベルク Kahlenberg 間5.5km
軌間1435mm(標準軌)、複線(下注)・非電化
リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配100‰、高度差314m
1874年開通、1922年廃止

*注 カーレンベルク旧駅~カーレンベルク新駅間0.6km(1876年の延長区間)のみ単線

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グリンツィング駅から、ヌスドルフへ下るルートを望む
(1910年ごろ)
Photo at de.wikipedia
 
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今回は、オーストリアの首都ウィーンの郊外に昔あった登山鉄道、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の話をしたい。それは、19世紀後半に各地に出現した同種の観光鉄道のなかでも、草分け的存在だったという点で特筆される。ヨーロッパで初めてラック式の登山列車が走り出したのは、1871年5月、スイス中部のリギ山に上るフィッツナウ・リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn(下注)だが、その3年後、1874年3月にこの鉄道は開業している。現存するブダペストのラック鉄道(1874年6月開業)よりわずかに早く、ハプスブルクの帝都が呼び込んだ斬新なアトラクションは、好奇心旺盛な市民の耳目を引いたに違いない。

*注 フィッツナウ・リギ鉄道については本ブログ「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」参照。また、ブダペストのラック鉄道については同「ブダペストの登山鉄道と子供鉄道」で言及している。

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ウィーン周辺の1:200,000地形図
(BEV 1:200,000 48/16 Wien 1982年)
茶色の枠は下図1:50,000の範囲を示す
© BEV, 2018
 

まず、鉄道があった場所を確認しておこう。上図はウィーン市周辺を描いた1:200,000地形図だ。市街の西から北にかけてウィーンの森 Wienerwald と呼ばれる山地(下注)が広がっている。それがドナウ川 Donau に落ち込むところに、肩を並べる二つのピークがある。東側がレオポルツベルク Leopoldsberg、西側がカーレンベルク Kahlenberg で、いずれもウィーン市街やドナウの流れを展望する景勝地として知られたところだ。鉄道はそのカーレンベルクの山頂へ上っていた。

*注 「ウィーンの森」という語の響きから、森林公園のようなものをつい想像してしまうが、実際は長さ45km、幅20~30kmの広がりがある山地の名称。

鉄道の起点は、南麓のヌスドルフ Nussdorf(下注)にあった。ルートはまず西へ進み、シュライバーバッハ川 Schreiberbach とネッセルバッハ川 Nesselbach の間の葡萄畑が広がる山脚にとりつく。少しずつ北へ針路を修正しながら上り続け、グリンツィング Grinzing、クラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl を経て、森の尾根筋に接近する。その後、ズルツヴィーゼ Sulzwiese 付近で180度向きを転じて、尾根伝いにカーレンベルクに至った。

*注 ヌスドルフは1999年まで Nußdorf と綴った(小文字の場合)が、新正書法に従い、現在は Nussdorf が正式表記。

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カーレンベルク鉄道と斜路リフトのルート
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ではなぜ、ここにいち早く登山鉄道が造られたのだろうか。歴史をひも解くと、きっかけは1873年に開催されたウィーン万国博覧会だ。来客向けの呼び物にするために、当時スイスで実用化されたばかりのラック鉄道に白羽の矢が立ったのだ。1872年3月に、発明者のニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が加わったコンソーシアムから帝国商務省に、事業計画が提出されている。同年8月に認可が下り、着工に向けて準備が始まった。

しかし通常の鉄道とは認可条件が異なり、政府の優遇措置、とりわけ土地収用の特権が受けられなかった。そのため、地主に売却を渋られたり、土地転がしに遭うなど買収交渉が難航した。資金不足のために、再調達さえ必要になった。結局、着工は1873年5月までずれ込み、工事を急いだものの、万博の会期中には間に合わなかった。開業できたのは1874年3月7日で、博覧会が終了して5か月後だった。

*注 ちなみにこの1873年ウィーン万博(和暦では明治6年)は、明治維新後の日本が初めて公式参加した国際博覧会で、岩倉使節団が見学に訪れている。

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旧ヌスドルフ駅前のラック鉄道記念の木彫りレリーフ
ただし実物ではなく写真パネルが嵌めてあった
 

さらに、山上には一足早く到達したライバルがいた。ドナウ河岸からレオポルツベルクの北斜面を上ってくる斜路リフト Schrägaufzug、すなわちケーブルカー(下注)で、ラック鉄道の工事がもたもたしている間に、1873年7月、オーストリア登山鉄道会社 Österreichische Bergbahngesellschaft がさっさと開通させたものだ。同社はさらにカーレンベルクの眺めのいい一等地も買い占め、万博の客を当て込んでホテルを建てた。そのため、遅れてきたラック鉄道は山頂まで入ることができず、駅をその手前600mの位置に設けなければならなかった。

*注 斜路リフトは長さ725m、勾配34%。レオポルツベルクへのケーブルカー Drahtseilbahn auf den Leopoldsberg とも呼ばれた。

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レオポルツベルクへの斜路リフト全景(1873年)
Photo at wikimedia
 

しかし成功裡に終わった万博の熱気が冷めるとホテルの客足が落ち、オーストリア登山鉄道会社は経営難に陥る。機に乗じて、カーレンベルク鉄道会社は1876年、同社を買収した。そして競合する斜路リフトを廃止し、その代わりにラック鉄道を標高484mの山頂まで延長した。これでようやく5.5km全線が完成し、ラック蒸機が推す登山列車が、上りは30分、下りは25分で山麓との間を結んだのだ。

線路は麓からカーレンベルク旧駅まで複線で敷かれていたが、延長区間は単線とされた。開通当初はまだラック鉄道用の分岐器(ポイント)が開発されておらず、遷車台(トラバーサー)を設置して車両の入換を行った。

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グリンツィング駅に停車中の列車
背景はカーレンベルク山頂(1875年)
Photo at wikimedia
 

機関車は6両在籍していた。同種の多くの鉄道のように、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)から納入された蒸機だった。一方、客車は18両が用意され、一部は革張りシートを設置した1等コンパートメントを備えていた。夏は側窓なしの形で運行され、冬はガラス窓が嵌め込まれた。機関車は客車を最大3両連れて山を上り下りした。ラック式特有の揺れと衝撃が激しく、試乗したウィーンっ子の間で、さっそく「ガックン列車 Ruckerlbahn」とあだ名がついたという。

また、鉄道は水源の乏しい山上へ水の輸送も請け負っており、そのためのタンク車2両が常備されていた。

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ヌスドルフ駅構内(1875年)
Photo at wikimedia
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カーレンベルク山上広場に置かれているラック鉄道客車のレプリカ
 

全線開通後、鉄道会社は積極的な旅客誘致策を講じた。ヌスドルフはウィーン旧市街から北へ5km離れている。そこで、この間に連絡のための路面軌道を造ることにしたのだ。1885年1月に認可を得て、ショッテンリング Schottenring(リング北辺)からヌスドルフまでの路線が開通した。当時、市街地はまだ馬車軌道だったので、ショッテンリングから市境(現 リヒテンヴェルダープラッツ Lichtenwerderplatz)までは馬が牽き、そこで客車は路面用の蒸気機関車に引き継がれて、ヌスドルフまで走破した。ちなみに、このルートは現在もウィーン市電D系統の一部として残っている。

さらに、1887年には山頂に、皇太子妃シュテファニー・フォン・ベルギエンの寄贈により、シュテファニー展望塔 Stephaniewarte が建てられた。駅のすぐ横にそびえる高さ22mの塔の上からは、ウィーン盆地はもとより、晴れた日には南東のライタ山地 Leithagebirge、南西のシュネーベルク Schneeberg も見渡せた。これは話題となり、この年、ラック鉄道は26万人を超える利用者を呼び込むことに成功する。だがその後、記録が破られることは一度もなかった。

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山頂に建つシュテファニー展望塔
 

1911年に鉄道会社は再建計画を練り、鉄道を電化するとともに、資金捻出のために沿線の住宅地開発をもくろんだ。しかし後者は、森に悪影響を与えるとして市の同意を得られず、電化工事の認可も、1914年の第一次世界大戦勃発により実現しないままになった。

戦争中も運行は続けられたが、敗戦により事態は大きく変わった。中欧に君臨した帝国が解体され、オーストリアは人口650万人の小さな内陸国になってしまったのだ。産業基盤が失われ、食糧も自足できず、深刻な不況が国を襲った。蒸機に頼る鉄道は石炭不足で運行すら難しくなった。車両整備もままならず、故障が相次いだ。

軌道資材を他の必要な鉄道に回すことになり、まず複線の片方が撤去された。そして1919年9月をもって、定期運行は休止となった。水の輸送だけは1922年4月まで維持されたが、その時点で、48年間続いたラック鉄道の命運は尽きた。線路は1925年までに撤去され、車両も老朽化していたため、すべて廃車処分された。

さて、カーレンベルクから列車の走る姿が消えて、すでに100年近くが経過している。現在、その跡はどうなっているのだろうか。

起点のヌスドルフ駅舎は鉄道施設の中で唯一現存し、レストランが入居している。また、駅とウィーン市街との連絡のために造られた路面軌道も、市電D系統の一部として健在だ。それに対して、ラック鉄道の廃線跡は、多くが車の通る道路に転換されてしまい、橋台や溝渠が断片的に残存するに過ぎない。中間駅クラプフェンヴァルドルの跡は駐車場と化し、山上駅跡は、シュテファニー展望塔がひとり空しく護り続けている。

昨年(2018年)9月にウィーンを訪れる機会があったので、廃線跡を実際に歩いてみた。次回はその状況をレポートしよう。

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旧ヌスドルフ駅舎の前にさしかかるウィーン市電D系統のトラム
 

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2018年11月30日 (金)

ネロベルク鉄道-水の重りの古典ケーブル

延長438m(及び中間部待避線70m)、高度差83m、軌間1000mm
ウォーターバラスト方式で運行、リッゲンバッハ式ラックレールをブレーキに使用
最急勾配260‰、平均勾配195‰
1888年開通

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高架橋を上るネロベルク鉄道のケーブルカー

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ドイツ中西部ヘッセン州の州都ヴィースバーデン Wiesbaden は、ローマ時代から続く典雅な温泉保養都市だ。その市街の北郊に、長さ500m足らずのささやかな鋼索鉄道(ケーブルカー)がある。

上る山の名から「ネロベルク鉄道 Nerobergbahn」と呼ばれるこの路線は、ウォーターバラスト(水の重り)を積み、重力を利用して動く古典ケーブルだ。電気での運行制御が可能になる以前、どこのケーブルカーもこうした素朴な仕掛けで坂を上り下りしていた。しかし、今やドイツではここにしか残っておらず、19世紀の先進技術を伝える貴重な存在になっている。

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ヴィースバーデン市街周辺の1:50,000地形図に加筆
(L5914 Wiesbaden 1990年版)
© Hessisches Landesamt für Bodenmanagement und Geoinformation, 2018

5月の晴れた日の朝、ヴィースバーデン中央駅前のB乗り場から、1系統ネロタール Nerotal 行きのバスに乗った。この系統は終点がケーブルカーの駅前なので、土地不案内な者にはありがたい。中心街を経由した後、バスは、緑の中に石造りの瀟洒なヴィラが列をなす静かな通りを進み、ロータリーを回って停まった。

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(左)ヴィースバーデン中央駅
(右)市内バス1系統の終点、ネロタール停留所が鉄道の最寄り

目の前に、ネロタールをまたぐケーブルカーの高架橋が架かっている。長さ97.3m、5個のアーチを連ねたルネサンス風の優美な造りで、鉄道のもつ雰囲気によく似合う。高架橋が降りていく先に、山麓駅の駅舎があった。高架橋と同じ煉瓦素材を使い、木組みの装飾を施した、小ぶりながら趣のある建物だ。

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(左)山麓駅の入口 (右)駅舎は小ぶりながら趣のある建物

鉄道は夏のシーズン中(4月~10月)、毎日9時から20時まで15分おきに運行している(下注1)。バスと同じく、市が出資するESWE交通(下注2)の路線だが、市内の運賃ゾーンには含まれない。窓口で乗車券(大人片道4ユーロ、往復5ユーロ)とともに、絵葉書や解説書を買い込んで、ホームに出た。まだ朝早いので、客は私一人だ。

*注1 冬季(11月~3月)は、需要が少なく、水が凍結する可能性もあるため、全面運休になる。
*注2 ESWE(エスヴェー、SWと同じ発音)の名は、Stadt Wiesbaden(ヴィースバーデン市)の頭文字を採ったもの。

切妻屋根の下、鮮やかな黄色の地に青で模様を描いた車両が据え付けられている。片側4扉、内部はコンパートメントで、木製ベンチが枕木方向に並ぶ。車端のデッキにも乗車できるが、収容人数は全部で上り(山上方向)40名、下り50名限りで、定員を満たした時点で、次の便を待たなければならない。

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山麓駅ホームで客待ちする古典車両
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(左)山側の車端デッキは広め (右)内部は木製ベンチのコンパートメント

上限が定められているのは、駆動機構に関係がある。実際、ウォーターバラスト方式とは、どのようなものだろうか。

2台の車両はちょうど井戸の釣瓶のように、山上駅にある固定滑車を介してケーブルで接続されている。車両の床下、車軸と車軸の間に水タンクが備わっている。運行にあたって、山上駅にいる車両のタンクに水を注ぎ、山麓駅の車両からは水を抜く。この状態でブレーキを解除すると、質量差から重力が作用し、山上駅の車両は勾配線路を下り始める。同時に、ケーブルでつながれた山麓駅の車両は引き上げられる。これが基本的な原理だ。

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鉄道の模式図、左上には焼失して現存しない山上ホテルも
これは駅舎の案内板を撮影したものだが、原図は山麓駅の鉄道博物館(後述)に展示

しかし、実際の運行では様々な条件が加わる。たとえば、必要なバラスト水は、車両とケーブルの自重に加えて、乗客数にも依存するので、山麓駅からも人数の報告を受けて、山上駅で注入する水量を毎回調節しなければならない。タンクの容量は7立方m(7キロリットル)あり、側面の水位計に、80リットルを1単位(1人分)と換算して目盛りが刻んである。

また、線路勾配は一定ではないし、走るにつれて滑車から車両までのケーブルの長さ、すなわち自重も変化していく。それで、許容速度を超過しないよう、適切なブレーキ操作が要求される。2本の走行レールの中間に、梯子状のリッゲンバッハ式ラックレール(歯竿)が設置されているのはそのためで、車両の前後の車軸に取り付けられたピニオン(歯車)がこれと常に噛み合っている。

デッキに立つ乗務員(制動手)がハンドブレーキを操作すると、下側のピニオンに軸ブレーキがかかる。さらに速度が3割超過した場合、上側のピニオンが遠心ブレーキでブロックされる。ケーブルに緩みや断裂が発生したときも、これが作用して確実に停止できる仕組みになっている。

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ハンドブレーキで速度を調節しながら下る

19世紀の作りとはいえ、水の重りで動く鉄道は、理想的なエコシステムだ。しかし実際に山上で、15分ごとに最大7キロリットルの水を確保するのは容易ではない。それで、山麓駅に到着した車両から排出された水は、電気ポンプで山上駅の貯水槽に戻され、再利用されており、そこだけは電力に頼らざるを得ない。ちなみに、1916年までは蒸気機関でポンプを動かしていたので、古い写真では、高架橋のたもとに、そのための高い煙突が写っている。

1888年の開通以来、ネロベルク鉄道はこのスタイルで130年を生き永らえてきた(下注)。その間に、同じ方式を採用していた他の鉄道は、大半が電気駆動に転換された。確かに水の調達は安価だが、反面、冬季は凍結するため運行が困難で、注水・排水にかかる時間や水量調節の手間を考えると頻繁運転には向いていない。さらに、水を積むことで軸重(車軸にかかる重量)が重くなり、軌道が傷みやすく保守費用がかかる点も不利だった。

*注 ウォーターバラスト方式で、ブレーキにリッゲンバッハ式ラックレールを使う鋼索鉄道の先駆けは、スイス、ブリエンツ湖畔にあるギースバッハ鉄道 Giessbachbahn(1879年開通、1948年電気駆動に転換)とされる。ドイツでは、バート・エムス Bad Ems のマールベルク鉄道 Malbergbahn(1886年開通、1979年廃止)が最も早い。

実際にネロベルク鉄道でも、公営化された後の1939年に、市が大型車両の導入に合わせて電気運転への転換工事を発注している。ところが、折悪しく第二次世界大戦が勃発し、作業は中断された。戦後は逆に希少性が評価されて、積極的な保存策が講じられてきた。老朽化した車両や施設の更新が、原形を尊重しながら行われ、1988年には州の工学文化財にも認定されている。

さて、話を山麓駅のホームに戻そう。結局、他に客は現れなかった。乗務員氏がトランシーバーで山上駅と連絡をとり、9時15分、ケーブルカーは静かにホームを離れた。まずは、会社のシンボルカラーである青と橙の旗がはためく高架橋区間だ。渡り終えると、周りは森に包まれ、勾配も険しくなる。

改めて観察すると、走行レールは3本しかない。中央のレールは、上下車両が共用しているのだ。と思う間もなく、中央レールが二手に分かれ、中間部の行き違い区間に入った。下っていく車両を見送ると、進行方向右側の視界が急に開け、生垣越しにヴィースバーデン市街が望める。しかし、すぐにまた森が復活し、そのまま山上駅のホームに到着した。乗車時間はわずか3分半だ。

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(左)高架橋を渡る。走行レール3本の間にラックレールが並ぶ
(右)中間部で山麓行きと行き違い
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生垣越しにヴィースバーデン市街の眺望
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(左)森の中の山上駅 (右)山上駅入口、右の道を行けば歩いて麓へ降りられる

すかさず始まった注水の音を聞きながら、駅を後にした。石畳道が、芝生の広がる山上公園 Bergpark に通じている。ここにはかつて、1881年築の立派なホテルがあったのだが、1986年に火災で損壊してしまった。中央にあった塔の煉瓦部分のみが保存され、現在ガーデンレストランに使用されている。一方、古典庭園の点景に使われるような古代様式のモノプテロス Monopteros(下注)も目を引く。周りの木々が大きくなかった頃は、麓からの目印だったのだろう。

*注 モノプテロスは、壁がなく、巡らせた列柱で天井を支える構造の神殿建築。円形神殿。

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山上公園 (左)旧 ホテルの塔を利用したガーデンレストラン (右)モノプテロス

ところで、ネロベルクの名を聞くと、ローマ期に遡る町の歴史からの連想で、つい皇帝ネロ Nero を想像してしまう。だが、実際には何の関係もないそうだ。16世紀の古文書に、(町の)後ろの山という意味で Ersberg、Mersberg の地名が記されており、それが、Nersberg、Neroberg と転訛したに過ぎないという。

モノプテロスから見える森の切れ間を少し下ると、レーヴェンテラッセ Löwenterrasse(ライオンテラスの意)に出る。名のとおり、2基のライオン像が睨みを利かせる展望台だ。ここからは、斜面を駆け降りる葡萄畑と、その先に、緑の多い北東部の高級住宅地やヴィースバーデンの中心街が一望になる。

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展望台レーヴェンテラッセ

眺めを楽しんだら、後は歩いて下山することにしよう。駅の脇から明瞭な道がついているので、山中とはいえ迷うことなく降りられる。途中で、さっき車窓から見えた眺望区間に立ち寄ってみたが、線路の両側に金網が張り巡らされていた。高い脚立でもあればともかく、網の間からぎこちなく撮るしか方法がない。

山麓駅に戻ったときには、10時15分発の便が発車するところだった。1時間前の空きっぷりが嘘のように、車内は満席で、デッキに立つ人もいる。なるほど、これなら15分間隔で運行する意味がある。盛況ぶりに納得しながら、朝の陽を浴びて滑るように高架橋を上っていく古典車両を見送った。

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賑わう10時台の山上行き

なお、山麓駅舎のすぐそばに残る旧 化粧室小屋 Toilettenhäuschen が、小さな鉄道博物館になっている。車両の模型と設計図、当時の写真や備品などが展示してあり、ネロベルク鉄道のことをより深く知るために、訪れることをお勧めしたい。

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旧 化粧室を改装した鉄道博物館
(左)外観 (右)内部展示。車両模型の下にあるのはブレーキシュー

本稿は、Klaus Kopp "Die Nerobergbahn - Wiesbadens Drahtseil-Zahnstangenbahn aus dem Dreikaiserjahr 1888" 2. aktualisierte und ergänzte Auflage, Thorsten Reiß Verlag, 2013 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ネロベルク鉄道(公式サイト) http://www.eswe-verkehr.de/nerobergbahn

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 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

2018年8月21日 (火)

ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

ケーニヒスヴィンター Königswinter(下注)~ドラッヘンフェルス Drachenfels 間1.52km
軌間1000mm、750V直流電化、リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配200‰
1883年開通、1953年電化

*注 同名のDB駅と区別するために、正式駅名はケーニヒスヴィンター・ドラッヘンフェルス鉄道 Königswinter Drachenfelsbahn という。

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ドラッヘンフェルス鉄道の中間駅シュロス・ドラッヘンブルク

ビンゲン Bingen から130km続くライン川中流 Mittelrhein の長い渓谷が終わろうとする東岸に、最後の砦のようにドラッヘンフェルスの岩山が聳えている。標高321m、川からの高さはおよそ270m。ジーベンゲビルゲ Siebengebirge と呼ばれる火山起源の山地の中で、これだけが河岸に面している。数値以上の威圧感があるのはそのためだ。

ドラッヘンフェルス Drachenfels は、ドイツ語で竜の岩を意味する。ワグナーの楽劇の題材にもなった中世の叙事詩ニーベルンゲンの歌 Nibelungenlied で、英雄ジーフリト Sîfrit(現代語ではジークフリート Siegfried)が山の洞穴に棲んでいた竜を退治し、その血を浴びて不死身になったことが語られる。その舞台がここだという。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、竜伝説は後付けで、ドラッヘンの語源は Trachyt(トラカイト、粗面岩)だとしている。粗面岩は昔からこの山で採掘されており、ケルン大聖堂の築造にも用いられた。

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ライン川から見たドラッヘンフェルス山頂の廃墟(右)とドラッヘンブルク城(左)

山はラインの流れを見下ろす要害の地で、中世に築かれた古城がうらぶれた姿を曝している。19世紀、ロマン主義が一世を風靡した時代に、この風光が旅人の心の琴線に触れた。バイロン卿がチャイルド・ハロルドの巡礼 Childe Harold's Pilgrimage に表し、画家ターナーが水彩の筆を揮った。それらをきっかけにして、岩山は国際的に知られるようになる。

*注 ターナーが描いたドラッヘンフェルスの水彩画は以下のサイトで見られる。TW0496とTW0606は対岸(左岸)上流から見た構図。TW0606では手前の岩山の上に有名な廃墟ローランツボーゲン Rolandsbogen も描かれている。それに対して、TW1311は対岸やや下流からの構図。
TW0496 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-drachenfels-tw0496
TW0606 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-drachenfels-tw0606
TW1311 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-drachenfels-from-the-rhine-tw1311

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早くも1883年に、この岩山の上まで登山鉄道が通じた。山の名を採ってドラッヘンフェルス鉄道 Drachenfelsbahn と呼ばれるこの鉄道の出現は、フィッツナウ・リギ鉄道全通の10年後だ。ドイツではかなり早い時期で、当地での観光需要の高まりが実感される。果せるかな、鉄道が開通するとたちまち人気が沸騰し、夏のシーズン3か月で6万人以上の客を運んだという。

1913年にオーデコロンの代表ブランド4711のオーナーが経営権を握り、ドラッヘンフェルス鉄道は、同じ方式で隣の山に上っていたペータースベルク鉄道 Petersbergbahn(下注)と合併して「ジーベンゲビルゲ登山鉄道株式会社 Bergbahnen im Siebengebirge AG」となった。電化は1953年で、70年以上走り続けた蒸気機関車は1960年までにすべて引退した。その後、ペータースベルク鉄道は経営不振で廃止されてしまったため、現在この会社は、社名の「登山鉄道」は複数形のまま、ドラッヘンフェルス鉄道だけを運行する。

*注 ペータースベルクは、ケーニヒスヴィンターの東にあるジーベンゲビルゲの山の一つ。登山鉄道は1889年開通、1958年廃止。1000mm軌間のリッゲンバッハ式で、ドラッヘンフェルスと双子のような鉄道だった。

ドイツ国内のラック鉄道は他に、シュトゥットガルト市内と、バイエルンアルプスのツークシュピッツェ Zugspitze、同 ヴェンデルシュタイン Wendelstein(下注)に残っているが、その中でドラッヘンフェルス鉄道は最古の存在になっている。

*注 ヴェンデルシュタイン鉄道については、本ブログ「ヴェンデルシュタイン鉄道でバイエルンの展望台へ」で詳述。上記のほか、ヴィースバーデンのネロベルク鉄道 Nerobergbahn では、ラックレールがブレーキのために使用される。

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ドラッヘンフェルス鉄道の行程(山麓駅の案内板を撮影)

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ドラッヘンフェルス鉄道周辺の1:25,000地形図(5309 Königswinter 2012年)
© Land Nordrhein-Westfalen 2012

2018年5月のある日、コブレンツ中央駅 Koblenz Hbf の109番線(下注)から、ボン・ボイエル Bonn-Beuel 行きのRE(レギオエクスプレス、快速列車に相当)に乗った。最初、南へ向かうのでとまどうが、すぐにライン川を渡り、トンネルで方向を変えて、ライン右岸線 Rechte Rheinstrecke の北行き線に合流する。川沿いに走り続け、50分ほどでケーニヒスヴィンター駅に着いた。

*注 109という大きな数字に一瞬驚くが、9番線ホームの南端にある切り欠きホームのこと。コブレンツ中央駅には同じように104、105番線もある。

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(左)コブレンツ駅109番線に停車中の右岸線RE
(右)ライン川にモーゼル川が合流するドイチェス・エック Deutsches Eck を対岸に見て

ケーニヒスヴィンター Königswinter の町はボンの南東10km、ドラッヘンフェルスのお膝元で発展したライン河畔のリゾートだ。ケーニヒ König は王という意味だが、ヴィンター Winter は冬ではなく、ラテン語の Vinetum(葡萄畑)が転訛したもので、一説にはここにカール大帝の葡萄畑の御料地があったという。ひっそりとしたDB駅から線路に沿って南へ歩き、踏切を渡ると、登山鉄道の山麓駅が見えてきた。

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ケーニヒスヴィンター (左)河畔のプロムナード (右)市街地の落ち着いた街並み

ドラッヘンフェルス鉄道は、ケーニヒスヴィンターにある山麓駅とドラッヘンフェルスの山上駅を結んでいるリッゲンバッハ式のラック鉄道だ。長さ1520m、高度差220m、片道の所要時間は8分。夏のシーズン(5~9月)中は9時から19時まで、30分毎に山麓駅を発車し(多客時は増発あり)、復路はその15分後に山上駅を出る。他のシーズンは営業時間が短縮され、11月後半から12月にかけては運休になる。

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ケーニヒスヴィンター・ドラッヘンフェルス鉄道駅(山麓駅)

まずは、駅前に置かれている蒸気機関車を見ておきたい。かつてこの鉄道で使われていたラック機関車2号機だ。文化財として1968年からここに静態保存されている。プレートには、エスリンゲン機械工場1927年製とあった。

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かつて活躍した蒸気機関車2号機の屋外展示

駅舎は2005年に改築された現代的な2階建ての建物で、ドラッヘンフェルス観光駅 Drachenfels Tourismus-Bahnhof と呼ばれている。19世紀からある鉄道にしては、山麓駅だけでなく、クラシックな外観の施設が見当たらない。首都移転に伴う補償協定(下注)によって地元に交付される資金を一部充当し、近年精力的に整備が進められたからだ。

*注 1994年のベルリン/ボン法に基づき、西ドイツの首都であったボンからベルリンに政府機能を移すにあたり、ボン地域の振興資金として、1995年から2004年の間に14億3,700万ユーロを支出する「ボン地域の補償措置に関する協定 Vereinbarung über die Ausgleichsmaßnahmen für die Region Bonn」が結ばれた。

1階(日本で言う2階)にはチケットオフィスやグッズショップがあり、ガラス戸の向こうは乗り場になっている。階段を上がると、鉄道の舞台である山域全体を模型にしたレイアウトがあった。古い時代を表しているらしく、玄関前にいるのと同形の蒸機が2両の客車を押している。

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山麓駅1階、奥に出札兼案内所、階段を上るとレイアウト展示がある
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ドラッヘンフェルス鉄道の模型レイアウト
(左)手前はDB右岸線、中央に山麓駅舎、右奥にドラッヘンフェルスがそびえる
(右)手前の建物はニーベルンゲンハレ Niebelungenhalle で、その位置からかつての中間駅は現在より下手にあったことがわかる

構内では、ラック式の電動車が客待ちをしている。両運転台車で、ドアは片側(山に向かって右側)にしかない。磨かれ艶光りしているが、実は1955~60年の製造だ。1999~2001年に全面更新を受けているものの、内装はなつかしいレールバスのそれを思わせる。

電車は、混雑度に応じて単行または2両連結で運転される。最後尾に車掌が乗っているが、戸閉めの後でチンチンとベルを鳴らすくらいで、手持無沙汰の様子だ。中間駅や山上駅は無人なので、そこでの出改札が主な仕事なのだろう。

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(左)山麓駅構内に停車中の電車、1950年代後半の製造
(右)内装はレールバスを思わせる

山麓駅を出発すると、電車はいきなり上向きになり、ぐんぐん高度を上げていく。線路の周りは森で、残念ながら見通しはあまり利かない。勾配は決して一本調子ではなく、いくらか行ったところで緩やかになる。

森が開け、石造アーチの跨線橋をくぐって停車した。中間駅のシュロス・ドラッヘンブルク Schloss Drachenburg(ドラッヘンブルク城)だ。2011年に改装された駅で、LRTの停留所と間違えそうなモダンな造りに驚く。2線に分かれ、列車交換が可能だが、多客期以外は対向列車がないので、上下列車とも山上に向かって右側のホームに停まる。

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(左)山麓駅を出発 (右)少し上ると緩勾配に
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中間駅 (左)城に通じる石橋をくぐって中間駅に接近
(右)ベンチの風防に竜のシルエットが

ここはドラッヘンブルク城の最寄り駅だ。城といっても、1884年に株式仲買人で銀行家だったシュテファン・フォン・ザルター男爵 Baron Stephan von Sarter が建てた邸宅で、19世紀後半、グリュンダーツァイト Gründerzeit の古典主義的傾向を反映した壮麗な建物だ。

前城 Vorburg と呼ばれる玄関建物を抜けると、斜面を覆って整えられた庭園が広がり、その先に堂々たる本館がある。室内の豪華な調度品は見ごたえがあるし、贅沢にも各部屋からライン渓谷が望める。螺旋階段で北の塔の屋上に登ると、ジーベンゲビルゲやボン市街など北側の眺望がよかった。

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壮麗さを誇るドラッヘンブルク城
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城の北塔からの眺め
(左)南望。ライン川の中州ノンネンヴェルトが見える
(右)北望。右奥の山はペータースベルク、左端にケーニヒスヴィンター市街

それはさておき登山鉄道に戻ろう。中間駅を再び発車すると、電車は8径間の石造アーチ橋を渡って、再び森に入る。跨線橋をくぐったところから200‰の最大勾配になる。高い切通しに沿って右にカーブしていくと、まもなく終点ドラッヘンフェルスだ。駅は簡素な造りで、出札窓口があるものの、ふだんは人がいない。切符の必要な人には、折返しの列車が到着した後、車掌が改札で手売りしてくれる。

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(左)中間駅の山上側 (右)8径間の石造アーチ橋を渡る
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(左)山頂直下の跨線橋から (右)跨線橋の下で始まる200‰の最急勾配
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山上駅 (左)1面1線の簡素な構造 (右)駅舎

駅前には、広い展望広場とレストラン施設がある。一部が階段状になった広場からは、ライン渓谷の上流側(南側)が一望になる。フランシスコ修道院のあるノンネンヴェルト Nonnenwerth の中州がアクセントとなって、単調な流路に変化が加わるのがおもしろい。

この広場もごく最近整備されたものだ。ドラッヘンフェルスはオランダ人観光客に特に人気があり、ライン川を遡ると最初に目に入る高い山なので、「オランダで一番高い山」というあだ名さえあった。その人出を受け入れるために、1970年代、ここに展望台やレストランを備えた大規模な観光施設が造られた。しかしその後、観光客が減り、麓からの景観を損ねているという理由もあって、2011年から撤去工事が始まり、2013年に展望広場に生まれ変わったのだ。

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展望広場と、眼下に広がるライン渓谷のパノラマ
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岩山の直下に葡萄畑とライン川。貨物列車が右岸線を通過中

レストランの裏の道を少し上ると真の山頂で、麓からも見えていた古城の廃墟がある。もとは南の護りを固めるために1138年にケルンのアルノルト1世大司教 Erzbischof Arnold I が建てさせたものだが、30年戦争中の1633年に破壊され、以来再建されなかった。今は自然公園の中で保護され、ライン川を見下す静かな展望台の一つになっている。

足元はるか下の川面を、大型客船がゆっくりと下っていくのが見える。それと交差するように貨物列車が岸辺を駆けていく。後でケーニヒスヴィンターに降りたら、このライン川を横断するフェリーで、対岸のメーレム Mehlem に渡るつもりだ。ターナーが描いたように岩山を少し距離を置いて眺め、ドラッヘンフェルスの半日観光を締めくくりたいと思う。

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ドラッヘンフェルス山頂に立つ古城の廃墟

■参考サイト
ドラッヘンフェルス鉄道 http://www.drachenfelsbahn.de/
ドラッヘンブルク城 https://www.schloss-drachenburg.de/

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2017年7月30日 (日)

リムタカ・インクライン II-ルートを追って

新線が開通すると、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline を含むワイララパ線 Wairarapa Line 旧線区間では、施設の撤去作業が行われ、ほぼ更地化した。平野部では多くが農地や道路に転用されてしまったが、峠越えのカイトケ Kaitoke ~クロス・クリーク Cross Creek 間は公有地で残された。

一方、フェル式蒸気機関車の中で唯一解体を免れたH 199号機は、リムタカの東にあるフェザーストン Featherston の町に寄贈され、公園で屋外展示された。子どもたちの遊び場になったのはいいが、その後風雨に晒され、心無い破壊行為もあって、状態は悪化の一途をたどる。20年が経過したとき、旧線時代を振り返る書物の刊行をきっかけにして、保存運動が始まった。その結果、フェザーストンに今もあるフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum が1984年に建てられ、機関車は改めて館内で公開されるようになった。

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IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)によるリムタカ・インクラインの銘板
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

忘れられていた廃線跡にも、人々の関心が向けられた。ニュージーランド林務局 New Zealand Forest Service は、博物館開館と同じ年に、クロス・クリーク駅跡へ通じるアクセス道とインクライン跡の整備を実施した。崩壊した築堤には迂回路が設けられ、土砂崩れで冠水していたサミットトンネル Summit Tunnel も排水されて、サミット駅跡まで到達できるようになった。

その発展形が、ウェリントン地方議会 Wellington Regional Council と自然保護局 Department of Conservation が共同で計画した、廃線跡を利用するトレール(自然歩道)の設置だ。1987年11月に、メイモーン Maymorn ~クロス・クリーク間 22kmが「開通」し、「リムタカ・レールトレール Rimutaka Rail Trail」と命名された。H形機の舞台は今や、自転車や徒歩で追体験することが可能だ。

それは、いったいどのようなところを走っていたのか。トレールにならなかった区間も含めて、新旧の地形図でそのルートを追ってみよう。

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リムタカ・インクラインを含むワイララパ旧線のルート
3つの枠は下の詳細図の範囲を示す
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

アッパー・ハット Upper Hut ~カイトケ Kaitoke 間

付け替え区間は、アッパー・ハット駅を出て間もなく始まる。ハット谷 Hutt Valley より一段高いマンガロア谷 Mangaroa Valley に出るために、旧線は、境を成す尾根筋に取りつき、ぐいぐいと上っていく。短距離ながら急曲線(半径5チェーン=100.6m)と急勾配(1:35=28.6‰)が続く、リムタカの本番を控えた前哨戦のような区間だ。廃線跡は森に埋もれてしまい、現行地形図では、尾根を抜ける長さ120mのトンネル(Old tunnel の注記あり)しか手がかりがない。しかし、等高線の描き方から谷を渡っていた築堤の存在が推定できる。

トンネルを抜けるとマンガロア谷だ。北に緩やかに傾斜する広い谷の中を、旧線はほぼ直線で縦断し、途中にマンガロア駅があった。地形図でも、断続的な道路と防風林(緑の帯の記号)のパターンがその跡を伝える。

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マンガロア駅跡
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現 メイモーン駅の東方から、旧線跡はリムタカ・レールトレールとして、明瞭な形をとり始める。周辺はトンネル・ガリー保養地 Tunnel Gully Reareation Area で、地形図では破線で描かれる小道が錯綜しているが、その中で、車が通れる小道 Vehicle track を表す少し長めの破線記号が、本題のトレールだ。こう見えても、勾配は1:40(25‰)前後ある。

長さ221m、直線のマンガロアトンネル Mangaroa Tunnel で、プラトー山 Mount Plateau の尾根を抜ける。大きく育った松林の間を進むうちに、一つ北側のカイトケ谷 Kaitoke Valley に移っている。旧カイトケ駅構内は私有地になったため、トレールはそれを避けて大きく西へ迂回しており、駅跡の先で本来の旧線跡に復帰する。

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アッパー・ハット~カイトケ間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP32 Paraparaumu, BP33 Featherston. Crown Copyright Reserved.
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同 旧線時代の1マイル1インチ地図(1957年版)
鉄道記号の横のT字の記号は電信線 Telephone lines、
橋梁に添えられた S は鋼橋 Steel または吊橋 Suspension、W は木橋 Wooden を表す
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

カイトケ~サミット Summit 間

サミットに至る峠の西側約12kmのうち、初めの約2kmは一般車も通れる道だ。車止めのゲートを越えると専用林道で、開けたカイトケ谷のへりに沿いながら、パクラタヒ川 Pakuratahi River が流れる谷へ入っていく。

まもなく谷幅は狭まり、渓谷の風情となる。小川を横切っていたミューニションズ・ベンド橋梁 Munitions Bend bridge は1960年代に流失した。以来、林道は川をじかに渡っていた(=渡渉地 Ford)が、2003年、傍らに徒橋 Foot bridge と線路のレプリカが渡された(下注)。長さ73mのパクラタヒトンネル Pakuratahi Tunnel を抜けると、森の陰に新線リムタカトンネルの換気立坑がある。新線はこの直下117mの地中を通っているのだ。

*注 ウェリントン地方議会のサイトでは、徒橋の設置を2003年としているが、現地の案内標識には2004年と記されている。

少し行くと、長さ28m、木造ハウトラス Howe truss のパクラタヒ橋梁 Pakuratahi Bridge で本流を渡る。ニュージーランド最初のトラス橋だったが、火災で損傷したため、1910年に再建されたもので、2001年にも修復を受けている。

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木造ハウトラスのパクラタヒ橋梁
Photo by Pseudopanax at wikimedia

谷間がやや開け、右カーブしながら、長さ70mの桁橋レードル・ベンド・クリーク橋梁 Ladle Bend Creek bridge を渡る。比較的緩やかだった勾配は、ここから最急勾配1:40(25‰)と厳しくなる。直線で上っていくと、また谷が迫ってくる。高い斜面をトレースしながら、山襞を深い切通しで抜ける。

再び視界が開けると、レールトレールは左から右へ大きく回り込みながら、均されたサミット駅跡に達する。現役時代から、集落はおろかアクセス道路すらない山中の駅だったので、運転関係の施設のほかに鉄道員宿舎が5戸あるのみだった。今は跡地の一角に蒸機の残骸のオブジェが置かれているが、H形のものではないそうだ。

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サミット駅跡
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

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カイトケ~クロス・クリーク間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

サミット~クロス・クリーク Cross Creek 間

峠の東西で線路勾配は大きく異なる。あたかも信越本線の碓氷峠に似て、西側は25‰で上りきれるが、東側は66.7‰の急勾配を必要とした。それを克服する方法が、碓氷峠のアプト式に対して、リムタカではフェル式(下注)だ。この急坂区間をリムタカ・インクライン Rimutaka Incline と呼んだ。

*注 フェル式については、前回の記事参照。

文献では長さ3マイル(メートル換算で4.8km)と書かれることが多いが、これは両駅間の距離を指している。サミット駅を出ると間もなく、旧線は長さ576m(1,890フィート)のサミットトンネルに入るが、トンネル内の西方約460mは、下り1~3.3‰とわずかな排水勾配がつけられているだけだ。残り約100mの間に勾配は徐々に険しくなり、トンネルの東口で下り1:15(66.7‰)に達していた(下注)。このことから推測すれば、フェル式レールの起点は東口近くに置かれていたはずだ。

*注 トンネルは地形の関係で南北に向いているが、ここではサミット駅方を西、クロス・クリーク駅方を東と表現する。

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サミットトンネル東口
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

トンネルを抜けると、旧線跡は分水嶺の中腹に躍り出る。眼下の谷、向かいの山並み、これから下っていくルートまで眺望できる展望地だ。左に回り込んで、長さ121mのシベリアトンネル Siberia tunnel を抜けたところに、半径100m(5チェーン)の急曲線で谷を渡る高さ27mの大築堤があった。谷は築堤の形状にちなんでホースシュー・ガリー Horseshoe Gully(馬蹄形カーブの峡谷の意)と呼ばれたが、冬は激しい北西風に晒されるため、シベリア・ガリー Siberia Gully の異名もあった。1880年に突風による列車の転落事故が発生した後、築堤上に防風柵が設けられている。

しかし、その大築堤も今はない。廃線後の1967年、暴風雨のさなかに、下を抜けていた水路が土砂で詰まり、溢れた水が築堤を押し流してしまったからだ。そのため現在、レールトレールの利用者は谷底まで急坂で下り、川を渡渉するという回り道を余儀なくされる。谷から突っ立っている異様なコンクリートの塔は、縦方向の水路が剥き出しになったものだという。

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(左)ホースシュー・ガリーを渡っていた大築堤に、防風柵が見える
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ
(右)築堤が流失したため、現在、レールトレールは谷底まで降りて川を渡る
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

次のプライシズトンネル Price’s Tunnel は、長さ98m(322フィート)でS字に曲がっている。しばらくこうして斜面を下っていくうちに、平坦地に到達する。登録史跡にもなっているクロス・クリーク駅跡だ。フェル式車両の基地があったので、構内はかなり広いが、今はトレール整備で造られた待合室のような小屋があるばかりだ。

なお、旧版地形図には、マンガロアとクロス・クリークを結んで "Surveyed Line or Proposed Rly. Tunnel" と注記された点線が描かれている。これは当初構想のあった約8kmの新トンネルだ。結局、リムタカトンネルはこのルートでは実現せず、クロス・クリークは廃駅となってしまった。

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1955年10月29日、H 199号機が先導する最終列車がクロスクリーク駅を出発
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

クロス・クリーク~フェザーストン Featherston 間

クロス・クリークから東は、1:40(25‰)以内の勾配で降りていく。残念ながら大部分が私有地となり、旧線跡の多くは牧草地の中に埋もれている。そのため、レールトレールは小川(クロス・クリーク)を渡って対岸に移る。地形図で下端に見える水面は、北島第3の湖、ワイララパ湖 Lake Wairarapa だ。平原に出ると、旧線はフェザーストンの町まで一直線に進んでいた。途中、小駅ピジョン・ブッシュ Pigeon Bush があったはずだが、周辺にぽつんと残る鉄道員宿舎の暖炉煙突2基を除いて、跡形もない。

リムタカトンネルを抜けてきた新線が接近する地点に、スピーディーズ・クロッシング Speedy's Crossing と呼ばれる踏切がある。1955年11月3日、ここで新線の開通式が執り行われた。39kmに及ぶ旧線跡の終点はまた、新旧の交替というエポックを象徴する場所でもあった。

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クロス・クリーク~フェザーストン間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

■参考サイト
Tracks.org.nz  http://tracks.org.nz/
Cycle Rimutaka - New photos of the Rimutaka Cycle Trail!
http://www.cyclerimutaka.com/news/2015/10/28/new-photos-of-the-rimutaka-cycle-trail
Mountain Biking Travels - Rimutaka Rail Trail - Wairarapa
http://mountainbiking-travels.blogspot.jp/2015/06/rimutaka-rail-trail-wairarapa.html

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 I
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 II

2017年7月23日 (日)

リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶

急勾配の線路を上り下りするために、2本の走行レールに加えて第3のレールを用いて、推進力や制動力を高める鉄道がある。その大部分は、地上に固定した歯竿(ラック)レールと、車体に装備した歯車(ピニオン)を噛ませるラック・アンド・ピニオン方式、略してラック式と呼ばれるものだ。代名詞的存在のアプト式をはじめ、いくつかのバリエーションが創られた。

しかし、フェル式 Fell system はそれに該当しない。なぜなら、中央に敷かれた第3のレールはラックではなく、平滑な双頭レールを横置きしたものに過ぎないからだ。坂を上るときは、このセンターレールの両側を車体の底に取り付けた水平駆動輪ではさむことで、推進力を補う。また、下るときは同じように制輪子(ブレーキシュー)を押し付けて制動力を得る。

■参考サイト
レール断面図
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/history/fell-centre-rail-system

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線路工夫が見守る中、フェル式区間を上る貨物列車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

この方式は、イギリスの技師ジョン・バラクロー・フェル John Barraclough Fell が設計し、特許を取得したものだ。ラック式ほど険しい勾配には向かないものの、レールの調達コストはラック式に比べて安くて済む。1863~64年に試験運行に成功したフェルの方式は、1868年に開通したアルプス越えのモン・スニ鉄道 Chemin de fer du Mont-Cenis で使われた。フレジュストンネル Tunnel du Fréjus が開通するまで、わずか3年間の暫定運行だったが、宣伝効果は高く、これを機に、フェル式は世界各地へもたらされることになる(下注)。

*注 現存しているのは、マン島のスネーフェル登山鉄道(本ブログ「マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道」参照)が唯一だが、中央レールは非常制動用にしか使われない。

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ニュージーランドの植民地政府もまた、この効用に注目した。当時、北島南端のウェリントン Wellington からマスタートン Masterton 方面へ通じる鉄道(現 ワイララパ線 Wairarapa Line)の建設が準備段階に入り、中間に横たわるリムタカ山脈 Rimutaka Range をどのように越えるかが主要な課題になっていた。

ルート調査の結果、カイトケ Kaitoke(当時の綴りは Kaitoki)からパクラタヒ川 Pakuratahi River の谷を経由するという大筋の案が決まった。峠の西側の勾配は最大1:40(25‰)に収まり、蒸機が粘着力で対応できるため、問題はない。しかし、東側は谷がはるかに急で、なんらかの工夫が必要だった。勾配を抑えるために山を巻きながら下る案は、あまりの急曲線と土工量の多さから退けられ、最終的に、平均1:15勾配(66.7‰、下注)で一気に下降する案が採用された。

*注 縦断面図では1:16(62.5‰)~1:14(71.4‰)とされている。

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ワイララパ旧線とリムタカ・インクライン
フェル式を採用したインクライン(図では梯子状記号で表示)は、サミットトンネル Summit Tunnel 東口~クロス・クリーク Cross Creek 駅間のみで、それ以外は粘着式で運行された
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

この長さ3マイル(4.8km)のインクライン(勾配鉄道、下注)に導入されたのが、フェル式だ。特殊な構造の機関車が必要となるものの、客車や貨車は直通でき、実用性もモン・スニで実証済みだというのが、推奨の理由だった。当時、山脈を長大トンネルで貫く構想もすでにあり、インクラインは暫定的な手段と考えられたのだが、実際には、フェル式を推進と制動の両方に使用するものでは77年間と、最も寿命の長い適用例になった。

*注 このインクライン区間の呼称については、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline のほか、「リムタカ・インクライン鉄道 Rimutaka Incline Railway」や「リムタカ鉄道 Rimutaka Railway」も見受けられる。ただし、下記参考資料では「リムタカ鉄道」を、ワイララパ旧線全体を表現する用語として使用している。

建設工事は1874年に始まり、予定より遅れたものの1878年10月に完成した。これでウェリントンからフェザーストン Featherston まで、山脈を越えて列車が直通できるようになった。

フェル式区間のあるサミット Summit ~クロス・クリーク Cross Creek 間(下注)には、イギリス製の専用機関車NZR H形(軸配置0-4-2)が投入された。開通時に1875年製が4両(199~202号機)、1886年にも2両(203、204号機)が追加配備されている。また、下り坂に備えて列車には、強力なハンドブレーキを備えた緩急車(ブレーキバン)が連結された。これら特殊車両の基地は、峠下のクロス・クリーク駅にあった。通常の整備はここで実施され、全般検査のときだけ、ウェリントン近郊のペトーニ Petone にある整備工場へ送られたという。

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唯一残るフェル式機関車(フェル機関車博物館蔵 H 199号機)
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.
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床下に潜れば、センターレールとそれをはさむブレーキシューが見える
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.

当初インクラインを通行する列車は、機関車1両で扱える重量までとされた。制限は徐々に緩和され、1903年の貫通ブレーキ導入後は、最大5両の機関車で牽くことも可能になった。しかし、機関車ごとに乗員2名、列車には車掌、さらに増結する緩急車でブレーキ扱いをする要員と、1列車に10数名が携わることになり、運行コストに大きく影響した。また、インクラインでの制限速度は、上り坂が時速6マイル(9.7km)、下り坂が同10マイル(16km)で、機関車の付け替え作業と合わせ、この区間の通過にはかなりの時間を費やした。

ワイララパ線は、1897年にウッドヴィル・ジャンクション Woodville Junction(後のウッドヴィル)までの全線が完成している。ギズボーン Gisborne 方面の路線と接続されたことで輸送量が増え、20世紀に入ると、H形機関車の年間走行距離は最初期の10倍にもなった。

1936年、鉄道近代化策の一環で、ウェリントン~マスタートン間に軽量気動車6両 RM 4~9 が導入された。センターレールに支障しないよう、通常の台車より床を12インチ(305mm)高くした特別仕様車で、速度の向上が期待されたが、実際には時速10~12マイル(16~19km)にとどまった。

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カイトケ駅に到着する軽量気動車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

リムタカのボトルネックを解消する抜本策が、バイパストンネルの建設であることは自明の話だった。1898年に詳細な調査が実施され、マンガロア Mangaroa ~クロス・クリーク間を直線で結ぶ約5マイル(8km)のトンネル計画が練られた。1920年代にも再び実現可能性の調査が、30年代には詳細な測量が行われたが、それ以上前に進まなかった。

懸案への対処が先送りされ続けた結果、第二次世界大戦が終わる頃には、リムタカの改良は待ったなしの状況になっていた。機関車もインクラインの線路も、長年酷使されて老朽化が進行していたからだ。1947年に決定された最終ルートは、当初案のクロス・クリーク経由ではなく、一つ北のルセナズ・クリーク Lucena's Creek(地形図では Owhanga Stream)の谷に抜けるものになった。1948年、ついにトンネルを含む新線が着工され、7年の工期を経て、1955年に竣工した。

これに伴い、旧線の運行は1955年10月29日限りとされた。最終日には、稼働可能なH形機関車全5両を連結した記念列車がインクラインで力走を見せ、多くの人が別れを惜しんだ。切替え工事を経て、新線の開通式が挙行されたのは同年11月3日だった。

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インクライン運行最終日に坂を下るH形4重連
Norman Cameron "Rimutaka Railway" 表紙写真

リムタカ迂回線 Rimutaka Deviation は、延長39.0kmあった旧線区間を14.4kmも短縮するとともに、最急勾配は1:70(14.3‰)、曲線半径も400mまでに抑えた画期的な新線だ。その結果、旅客列車で70分かかっていたアッパー・ハット~フェザーストン間がわずか22分になった。貨物列車も所要時間の短縮に加え、長編成化が可能になって、輸送能力が格段に向上した。

新線は全線単線で、トンネルをはさんで西口のメイモーン Maymorn 駅と東口のリムタカ信号場 Rimutaka Loop にそれぞれ待避線が設置されている。リムタカトンネル Rimutaka Tunnel は長さ 8,798mと、当時ニュージーランドでは最長を誇った(下注)。

*注 1978年に東海岸本線 East Coast Main Trunk Line の短絡線として、長さ8,850mのカイマイトンネル Kaimai Tunnel が完成するまで、最長の地位を守った。

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リムタカトンネル開通式
ブックレット表紙
Photo by Archives New Zealand at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

トンネルには、ほぼ中間地点に換気立坑 ventilation shaft があり、旧線が通るパクラタヒ谷の地表面に達している。実はこれは、トンネル完成後に追加された工事だ。この区間はもともと架空線方式の電化が想定されていたが、経済的な理由で非電化のままになった。ディーゼル機関車の試験走行を行ったところ、自然換気だけでは排気が十分でないことが判明し、急遽対策がとられたのだ。

新線への切替え後、列車の往来が途絶えた旧線では、すぐさま施設の撤去が始まった。H形機関車は、長年走り続けた線路の撤去作業を自ら務めた。それが終わると、ハット整備工場へ牽かれていき、そこでしばらく留置された。そして翌年除籍され、フェザーストンの町に寄贈された1両を残して、あえなく解体されてしまった。

まだ使用可能だったフェルレールと緩急車は、再利用するために南島のレワヌイ支線 Rewanui Branch(下注)へ移送された。こうして、リムタカ・インクラインの77年の歴史は幕を閉じたのだった。

*注 ニュージーランドにはリムタカのほかにも、フェル式が使われた路線がある。南島北西部の鉱山支線であった上記のレワヌイ・インクライン Rewanui Incline(使用期間 1914~66年)とロア・インクライン Roa Incline(同 1909~60年)、ウェリントン ケーブルカー Wellington Cable Car(同 1902~78年)、カイコライ・ケーブルカー Kaikorai Cable Car(ダニーディン Dunedin 市内、期間不明)だが、いずれも制動のみの使用だった。

では、旧線はどのようなところを走っていたのか。次回は、インクラインを含む旧線のルートを地形図で追ってみたい。

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン II-ルートを追って
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道
 ニュージーランドの鉄道地図

 マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道

2017年2月11日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-アベリストウィス・クリフ鉄道

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コンスティテューション・ヒルを上る
アベリストウィス・クリフ鉄道

延長237m、高度差130m、1896年開通

ポースマドッグ滞在中で一番の長旅をして、南60kmにあるアベリストウィス Aberystwyth を訪れた。往きはカンブリア線を使ったのだが、ポースマドッグ方面からアベリストウィスへの直通列車はなく、途中で乗換えが必要だ。しかし、乗換駅ダヴィー・ジャンクション Dovey Junction は、寂しい原野のまん中の、常に風に吹き曝される場所にある。ここで20分近くも待つのはつまらないと思った。

実際、上下列車の交換は次のマハンレス Machynlleth で行われる。ダヴィー川沿いでは一番大きな町の玄関口だ。定時運転されているようなので、そこまで乗って折り返すことにした。時刻表ではわずか3分の接続だったが、問題なく乗り継ぐことができてほっとする。

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立派な駅舎が残るマハンレス駅での列車交換

カンブリア線は、アベリストウィス方面が実質的な本線だ。それを反映して、列車本数もいくらか多い。ダヴィー・ジャンクションから先は、まずダヴィー川 Dovey River (Afon Dyfi) の三角江の左岸に沿って海岸近くまで走る。ポースマドッグ方面への線路が川を渡る古い鉄道橋が、しばらく見えている。対岸のアベルダヴィー(アバダヴィー)Aberdovey の町を見届けた後、ボルス Borth を経て内陸に入っていく。波打つ丘陵地を越える切通しが終わると、左からヴェイル・オヴ・レイドル鉄道 Vale of Rheidol Railway の狭軌線が寄り沿ってきて、いっしょに終着駅へ滑り込む。

*注 カンブリア線については本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」も参照。

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ダヴィー川を渡る鉄橋(ポースマドッグ方面の路線)が見え続ける
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(左)ヴェイル・オヴ・レイドル鉄道の狭軌線が寄り沿う (右)アベリストウィス駅に到着

アベリストウィスは、カンブリア山地から流れ出るレイドル川 Afon Rheidol とイストウィス(アストウィス)川 Afon Ystwyth が合流する河口近くに位置する町だ。地名もイストゥイス川の河口(Aber + Ystwyth)から来ている(下注)。人口は1万数千人だが、中部ウェールズでは最大規模で、商業の中心地であり、1872年創立の大学を擁する教育センターの一面も持っている。

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アベリストウィス・クリフ鉄道(星印の位置)と周辺の鉄道網

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アベリストウィス市街周辺の地形図
1:25,000地形図 SN68 1954年版 に加筆

行止りの線路の正面に建つ駅舎を出ると、目の前が市街地だ。北ウェールズの町に比べて都会的な雰囲気があるのは、通りの建物が黒い石積みではなく、煉瓦や漆喰の色壁だからだろう。駅前からテラス・ロード Terrace Road を直進し、目抜き通りを横断した先に、海が見えてくる。

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アベリストウィスの市街地 (左)テラス・ロード (右)ノース・パレード North Parade

カーディガン湾に臨むこの浜辺には、スランディドノで見たような弧状のプロムナード Promenade(海岸遊歩道)が延びる。なにしろ、鉄道が開通した当時、「ウェールズのビアリッツ Biarritz of Wales」(下注)と謳われて評判になったという町だ。高さの揃ったパステルカラーの建物やロイヤル・ピア Royal Peer のドーム屋根が、当時の面影を伝えている。だが、残念なことに今朝は曇り空で、リゾート気分に浸ろうにも、人影がほとんど見られない。

*注 いうまでもなくビアリッツは、フランス南西部ビスケー湾に面した高級リゾート。

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プロムナードを遠望。右端がロイヤル・ピア Royal Peer

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アベリストウィス・クリフ鉄道のリーフレット

アベリストウィスに来た主目的は、さっきの駅を起点とするヴェイル・オヴ・レイドル鉄道という蒸気鉄道だが、その前に、近くの丘に上っていく別の鉄道に乗ろうと思っている。プロムナードの北端、コンスティテューション・ヒル Constitution Hill(ウェールズ語:クライグ・グライス Craig Glais)にあるアベリストウィス・クリフ鉄道 Aberystwyth Cliff Railway という鋼索鉄道(ケーブルカー)だ。

鉄道は、市街地と丘の上の公園を結んで1896年に開業した。こうした丘や崖の、麓と頂の間を行き来する鋼索鉄道は、その時代盛んに建設されていて、設計の第一人者がマークス卿 The Lord Marks と呼ばれたジョージ・クロイドン・マークス George Croydon Marks だった。

彼が手掛けた鋼索鉄道はイギリス各地に今も残っている。ノースヨークシャーのソルトバーン・クリフ・リフト Saltburn Cliff Lift(1884年開業)、ブリストル海峡に面したリントン・アンド・リンマス・クリフ鉄道 Lynton and Lynmouth Cliff Railway(1890年開業)、あるいはセヴァーン川 Severn 沿いのブリッジノース・クリフ鉄道 Bridgnorth Cliff Railway(1892年開業)などがそうだ。

*注 その他、廃止されたものでは、ブリストル Bristol のクリフトン・ロックス鉄道 Clifton Rocks Railway(1893年開業、1934年廃止)、スウォンジーのコンスティテューション・ヒル斜行鉄道 Swansea Constitution Hill Incline Tramway(1898年開業、1901年廃止)などがある。

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プロムナードから見たコンスティテューション・ヒル
Photo by Lesbardd from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

アベリストウィスの鋼索鉄道も、彼の主要な業績に数えられてきた。なぜなら、2001年12月にスコットランドのケアンゴーム登山鉄道  Cairngorm Mountain Railway が開通するまで、イギリス諸島における最長の鋼索鉄道だったからだ。

開通当時はウォーターバランスといって、上の駅で車両に設けたタンクに水を注ぎ入れ、その重みで斜面を下りる方式で運行されていた。下の駅にいる車両は水を抜かれて軽くなっているので、連動しているケーブルで引き上げられる。上の駅で必要とされる大量の水は、近くの泉や井戸から引いていた。地形図でも、上の駅の東方に "W"(井戸 Well の略)や "Spring" の注記が数か所見つかる。しかし、鉄道は1921年に電気動力に転換され、今に至っている。

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上の駅(サミット駅)の東方に井戸や泉の注記(青の円内)がある
1:25,000地形図 SN68 1954年版 に加筆

現在の運行は4月から10月の毎日で、始発が10時、最終は17時だ。その始発時刻が近づいてきたので、山麓駅(プロムナード駅)のほうに足を向けた。市街地の北端、プロムナードから右に折れて少し上っていくと、"RHEILFFORDD Y GRAIG / CLIFF RAILWAY" とウェールズ語と英語で書かれた古めかしい煉瓦壁の建物が見つかる。これが乗り場だ。中の出札で4ポンドの往復乗車券を買い、階段ホームへ出ると、日曜大工で拵えたような飾り気のない車両が待っていた。

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山麓(プロムナード)駅 (左)煉瓦造りの外観 (右)飾り気のない車両が発車を待つ

定員は30名だが、初回の乗客は私のほかに、女性が一人のみ。景色には目もくれずスマホをいじっていた彼女は、山上のレストランの従業員だった。発車の合図があったかどうかもわからないうちに、車両は動き出した。時速は4マイル(6.4km)、ケーブルの動く音がするだけで、静かに上っていく。線路は全線複線で、車両がすれ違う区間だけ、線路の間隔を拡げてある。

延長778フィート(237m)のルートの大半が、掘割の中だ。しかし、麓側の窓から、アベリストウィスの市街地と弧を描く海岸線が見えている。それを写真に撮ろうとするのだが、上空を木柵の跨線橋が何本も横断しているので、そのたびに視界が途切れる。実は、線路設計に際して、以前からあった丘を巡るフットパスを切断しないように、わざわざ線路を切通しにして跨線橋を渡したのだそうだ。そのために、工事では12,000トンもの岩を切り出す必要があった。

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(左)山麓駅を後にする (右)海岸線の眺望はしばしば跨線橋で遮られる

正味の乗車時間は5分程度だろう。麓の駅に比べて、サミット駅は掘っ立て小屋のような簡素な造りだ。駅の外にはコンスティテューション・ヒルの高台が広がっている。遊戯施設やレストランが立ち並び、ちょっとした遊園地の雰囲気がある。朝早いので、どこもまだ稼働していないが、それでも続行便で、カップルや家族連れが何組か上がってきた。

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(左)山上(サミット)駅に到着 (右)山麓駅に比べて簡易な造り

この丘は、地形的に見れば、東のカンブリア山地から延びてきた丘陵が海に没する先端部に当たる。上からは見えないが、足元の海岸には高さ数十mの波蝕崖が連なっているはずだ。それだけに展望は抜群で、市街地とプロムナード、その南端の古城がある岬や、市街の背後に横たわる丘陵地まで一望になる。風のない穏やかな日で、陸上は靄でかすんでいるが、滞在中に少しずつ晴れ間が広がってきた。

ケーブルカーを前に置いてこの風景が眺められる場所を探し回った。上ってくる車内では疎ましく思ったのに、最適のお立ち台になってくれたのは、あの跨線橋だった。

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コンスティテューション・ヒルからの眺め (左)南方向 (右)北方向
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アベリストウィス市街のパノラマ

次回は、ヴェイル・オヴ・レイドル鉄道の蒸機列車に乗る。

■参考サイト
アベリストウィス・クリフ鉄道(公式サイト)
http://www.aberystwythcliffrailway.co.uk/
アベリストウィス観光サイト https://www.aberystwyth.org.uk/

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